少年Aの散歩

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2018.9.20(木) 運命はいくつもある

 高校1年生、15歳の今日、始めて自転車旅行をした。そういうのは記念日としてしっかり覚えている。あの日にすべては始まったような気がする。そういう「あの日」をたくさん持っているから僕はこのような僕になった。そこからすべてが始まるような日は一つではない。ほんとにたくさん無数にあるのだ。運命はいくつもある。
 縦の糸はあなた、横の糸はわたし、なんて歌もあるけれども、すると事態は複雑だ。ある縦糸とある横糸が一つの平面を作るのならば、いくつもの平面が同時に織り成されているというわけだし、そういう三次元的なモノはまた同時に無数に存在するのだから、そのまま四次元、五次元ロクジゲン、延々と広がっていくような気さえする。
 ともあれたくさんの糸が同時に紡がれていく。
 そうやって繭のように僕はできあがったのであろう。
(これからもその厚みは増していく。)

 ところで僕はちゃんとモテるのです。「なんでジャッキーはモテるの?」とこないだ友人に問われてちょっと考え込んだら、「モテようとしているからだ」という答えがポンと出た。そうだ、モテようとすればモテるのだ。
 モテたいと思っているだけではモテるかどうかはわからないが、適切にモテようと努めて、それがうまくいっていれば実際にモテる可能性はかなり高い。
「モテようとする」というのは、「モテたいと思っている相手に色目を使う」みたいなようなことで、そういうセコいことを僕はしている、というわけです。あけすけに言えば。
 それは「狙ってる相手に色目を使う」では(必ずしも)ない。「こういうような人にモテたい」という時の「こういう人」のイメージを仮想モテ目標として、そういう人の目線に立って「どうすればそういう人たちにモテるか」ということを考えながら、生きていくというようなこと。
 僕は髪を染めたり立てたりしませんが、そういう自分であることによって、「そういう人」(=仮想モテ目標)にアピールしようとしている、という側面もあるわけです。モテようとする、というのはそういうことの無数の集積で、つまり「どういう自分であるか、ということを戦略的に決定する」というようなことでしょう。

 そんなふうに生きてきたと今現在主張している僕も、すでに30をすぎ、ここから急激にでも漸進的にでも、なんらかの身体的精神的な変化を迎えることは想像に難くありません。

 いったい、僕はこれからもそれでもそうやって、「モテようと」しつづけるのだろうか?
 わからないけども、そのへんについても自覚的ひいては戦略的であるだろう、ということはまず間違いがなくて、そのために自分の変化についてたぶんかなり敏感になっていくことでしょう。
 で、その変化に応じてやり方、あり方を考えていこうと思っているわけです。たとえば、「モテようとする」のではなくて、「愛されようとする」のかもしれない。「とにかく柔軟な人だと思われようとする」のかもしれない。「穏やかな気持ちを感じさせようとする」のかもしれない。ともあれそれは、ひとまず「(今の仮想モテ目標とは違うかもしれない)ある種の人たち」に向けてチューニングされ、自覚的、戦略的に行われていくのだろう、と、考えられる。

 しかし、いつかは完璧に自然に生きていくのかもしれない。
 自覚も戦略もなにもない状態になるのかもしれない。
 最終的にはそこにいてもいい。

2018.9.13(木) 上品とは、品があるとは

「夜学バーを卒論の対象にしたいので、調査させてください」と宣う殊勝な女子が現れた。僕がやっているそのお店に3週間ほど毎日常駐するらしい。先週の金曜日から「調査」を始めて、28日までいるらしい。その前もお客としてよく来てくれていたから、その後もきっと来てくれるのだろう。たぶん。そうでなければ嫌だな。
 で。自然、客がいない時間帯などにはその子と話す時間が多くなる。その子ももう一週間、開店から閉店までずっと店のことを見ているので、いろいろなことが見えてきているようである。
 水曜の閉店後、彼女と話したのは、「上品とは、品があるとは」というテーマだった。
 こういう話ができる時点で、夜学向きの人材、逸材であるなあと思わされる。以下は、彼女となんとなく話したことをもとに、僕が勝手に考えたことである。彼女の意見ではまったくない、ということは断っておく。しかしそれは彼女に文責を背負わせないために言うのであって、彼女がいなければ下記のような思考は生まれなかったのだから、我々(誰?)は大いに感謝せねばならない。

 品があるっていうのは、「周囲に適切に気を遣えているようす」をさすのではなかろうか。気を遣うというのは、とりあえずは「(他人に)不利益をもたらさないように振る舞う」ということだと思う。
 品がないっていうのは、それができていない、ということ。

 で、上品というのは、「品がある」ということが過剰になった状態なのではないか。
 そこでは「利益」が強調される。
 上品というのは、「こうしていたほうが利益があるでしょ?」というふうに主張をするものなのであろう、ということだ。
 だから下品というのも、同様に主張する。「こうしないことに利益を感じない」と。

 下品は、主張するのである。消極的な主張である。現状そうであるようなことに対して、「こうでないという状態にあえてすることに、おれは利益を感じないよ」というふうに、訴える。
 ファミレスで騒いでいる人たちは、ファミレスで騒ぎ続ける。
 つまり、下品というのは、現状維持なのであるが、いくつもある選択肢の中からあえて現状維持を選択しているのではなくて、ただ漫然と、現状維持なのである。そして、「こうでない状態に、おれは利益を感じないぜ」と主張する。

 品がない、という状態は、そこから「主張」を削ぎとったものだ。ただ漫然と、現状維持なのであるが、「利益」ということには意識が行っていない。たとえば下品には「だって楽しいじゃん?」が(暗に)あるけれども、「品がない」には、それがない。「楽しい」といった感情の自覚すら、おそらくない。ただ、自然なのだ。言い方を変えれば、野蛮なのである。

 乱暴なようだが、「自然=野蛮=品がない」なのだ。
「自然にしていても品がある」ような人は、もちろんいるが、こういうときの「自然」は「自然体」という意味で、「その人にとっては、それが当たり前」という話。「品」というものを内面化している(もう完全に自分のものにしちゃってる)ってことで、それはまずまちがいなく、学習によって身についたものである。本来的な「自然」ではない。
 人間はたぶん、生来(他の動物たちと似たようなふうに)野蛮で、学習によって少しずつそうではなくなっていく(すなわち、他人との触れ合い方や社会での振る舞い方を覚えていく)、と思う。そうだとしよう。
 そうだとすると、品というものは学習によって身についていくのである。

 品が身についていないというのは、「他人との触れ合い」や「社会での振る舞い」がへたくそ、すなわち「周囲に適切に気を遣う」が不得手である、ということであろう。

 下品とか品がないというのは、ただ漫然と現状維持なのである。何も考えていないと言ってもいい。上品とか品があるというのは、「こうすべきだ」とか「こっちのほうがよいだろう」という意志、判断があるということ。
 そういう意志や判断を当たり前に無意識にやってしまえる人は、「品が備わっている」とか「自然体で品がある」とかいうことになる。
 下品とか品がない人たちは、自分の振る舞いに対して、ほとんど意志や判断がない。と書いたら、そんなわけないだろ、意志や判断くらい誰にだってあるだろ、という声が(僕の脳内で)聞こえる。たしかに、誰にだって「こうしよう」くらいの意志はある。しかし下品とか品がない人のそれは「こうしたい」と同じなのである。「こうしよう」と「こうしたい」がスムーズに一致してしまっている、というのが、下品とか品がないということの別の側面でもある。意志=欲求で、判断=反射、という感じ。

 上品とか品がある人は、「こうしたい」と「こうしよう」が原則、分離している。「どうすべきか」「どうしたほうがいいだろうか」という検討を重ね、結果として「こうしたい」と「こうしよう」が合致した場合に、「わあ、たのしい」ということに(ようやく)なる。
 下品とか品がない人は、「こうしたい」と「こうしよう」が原則、一致している。だから原則、常に「たのしい」と思って生きている。しかし、だからこそひとたび「こうしたい」と「こうしよう」が分離する事態に直面すると、めちゃくちゃ不快になるのである。「ふざけんじゃねえよ!」と怒り出すのである。

 上品な人や品がある人は、怒らない。「こうしたい」と「こうしよう」がかけ離れていることは大前提だからだ。「こうしたいが、そうできない」がデフォルトで、「どうしよう」がすぐさま用意される。「どうしよう」とはもちろん、「現状」から脱するための自問である。

 とどのつまり。「上品とか品がある」と僕が言っているのは、「今よりよくしよう」という気持ちなのかもしれない。「今よりよくする方法はとりあえずない」と思ったときに限り、「現状維持」とか「何もしない」が選択される。

 だとすると、「肉くいてー」とかはどうなんだろう。
 肉を食えば、今よりよくなる、と思う。その気持ちは、「上品とか品がある」だろうか。
 そうなんだろうな。「今よりよくなる」と思って肉を欲するのならば。そのことが、周囲にも伝わっているのならば。
 下品とか品がない人は、ただ漫然と「肉くいてー」なのだ。



 と、ここまで書いてすぐ、「品ってのは、つまり客観性のことか」と真理を得た。
 考えてみれば、そりゃそうである。
 閉じた空間では問題がないことも、開かれた場でやれば「品」が問われる。「外からどう見えるか」ということを、意識して行動を調整できるというのが、すなわち「品がある」なのであろう。
 ファミレスや居酒屋でガッハッハと大騒ぎする人たちは、基本的には「品がない」とされると思うが、ほかに客がいなければ、あるいは、店員すらいなかったとしたら、それが「品がない」かどうかは、誰にも判定されない。
 親友と二人きりならば、どれだけ口汚く他人を罵ったって、下品だと思われることはない。
 家族の前でなら裸でゴロンと横になれる。
 一人でいるときになら、なんだってオッケーなわけだ。
「外からどう見えるか」が、問題なわけだから。

 そうすると、「品がある」というのはほぼすなわち「客観性がある」なんだけど、「客観性がある」というのが褒め言葉として機能するときには、当然上のほうに書いた「今よりよくしよう」という意識がその「客観」の目には宿っているはずだ。
 自らを客観的に見つめ、「よい」かどうかの判断をして、よくなければもっとよくするし、よい場合でももっとよくならないかを検討し、最悪でも現状維持に努める。
 これが「品がある」ということで、それがアピールを含むものになれば、「上品」と呼ばれるのではないか、という気がする。「ああいうやりかたは上品だな」と思うときは、「ああいうやりかたにはメリット(利益)があるな」と思う時であろうから。
「品があるね」というときは、もっと静的というか、おとなしい感じ。


 それにしても、「他人からどう見えるか」というのは、繊細なテーマである。「自分は他人からどう見えているか」という把握と、「自分は他人からどう見えていたいか」という欲求と、「自分は他人からどう見えているべきか」という判断と。すべてが一致すれば幸せだ。
 しかし、この「べき」の中に、常に「今よりよくしよう」の魂がなければ、「現状維持」という頽廃に身を委ねることになる。しかも「べき」の中にはさらに、「自分が他人から見られた結果、見たその他人にも利益がもたらされねばならない」という隠し文句も秘められている。いなければならない。
 たぶん、そういう使命感みたいなものが、「品がある」という世界を支えているのではなかろうか。(それは「かっこいい」という言葉でもよいのである。)
2018.9.11(火) シャカレベ

 自分にとって嫌なこと、不快なことは、起きる。そのとき、「イヤだなあ」「不快だなあ」と思う。それは自然なことだが、それで怒ったり、誰かを責めたりするのは不当だ、と冷血で乱心な僕は思うのである。
 イヤだ、不快だ、と思うのは自分の性質のせいで、自分の勝手なのに、相手にそれを押しつけてはいけないのではないか?
(2018年5月8日の日記より)

 と、書いているように、僕は原則として、「不快になる」とか「傷つく」とか「悲しい」とかいったことは、すべて自分の問題だ、と思っている。
 自分が勝手に、そうなっているのである。だから自分の「せい」なのだ。
 しかし。勘違いしてはいけない、これは「自分が悪い」という意味ではない。悪いのは常に、絶対に、不快に「させた」側なのだ。不快に「なった」側は、被害者である。「させた」側は、加害者だ。常に。絶対に。
 つまり。「なった」側がそう「なった」瞬間に、「させた」という事実が成立し、「させた」側=加害者が誕生するのである。
 すげー悪い言い方をしてしまえば、誰かが被害者ヅラをした瞬間に、自動的に加害者が発生するのである。
 自分が「不快になった」ということによって、自分は被害者となり、それをもって、「不快にさせた」者は、加害者となる。
 自分が不快にさえならなければ、加害者は生まれない。誰も悪者は生まれない。不快になるから、被害者も加害者も生まれる。悪者が生み出されてしまう。

 極端なことを申せば、殴られたって蹴られたって、切りつけられたって、「イヤだ」「不快だ」と思わなければ、やった相手はべつになーんにも悪くないわけですよ。でも、それじゃあんまりだっていうことで、刑法ってものがあるんでしょう。殴る蹴るレベルになれば、99%以上の人たちが不快に感じる。わずか1%に満たない人たちのために「不快じゃないかもしれない」という可能性を残してしまうと、抑止力が弱くなってしまい、99%以上の人たちが困る。だから一律でノーにしよう、と。
 すなわち、刑法がすぐさま反応せざるを得ないような範囲(傷害とか強姦とか)を除けば、(乱暴なりくつでまとめてしまうと)「不快じゃないかもしれない」として概ね構わないはずだ。不快かどうかは、客観的に決められるのではなくて、主観的に決めていい。だとすれば、どんなことでも原則不快に思わないほうが、全体にトクである。被害者も加害者も、生まれないのだから。不快に思ったほうが利があると判断したときだけ、不快になればいいのである。

 そういうわけで僕は、「不快になる」という事態は極力避けている。ちょっとやそっとのことでは不快にならないし、なったとして、表明はしない。表明せずに不快を解消する道をなんとか探し出そうとし、かつ、似たような不快を繰り返さないように反省する。
 これは、とってもエライやりかたであって、普通の人にはやれと言ったってすぐできることではない、らしい。どうやらシャカレベ(釈迦レベルの意、バンドではない)なのである。

 シャカレベに達している僕は、そういうふうにできるが、せいぜいボサレベ(菩薩レベル、まだ解脱できていない)にとどまっている人たちには、なかなか難しいそうな。
 怒ったっていいことなんてない。だからまあまず怒らない。シャカレベの僕はそのように、いつも柔和なおももちで暮らしている。(異論はあるでしょうが、ここはまあ方便ということで一旦そういうことにしましょう。)
 あんまり腹が立てば、シャカレベである自分はこっちの棚に置いといて(棚上げして)、いったんは鬼のごとく怒るかもしれない。でもそういう場合にしたって、たぶん僕は方便の一環として、けっこう冷静なまま怒ったように見せるんだろうな、と思う。かつてちょっとはそういうこともあった。今後はだいぶ少なくなりそうな予感。(といって、だから僕になにをしても怒られないんだヤッホーと思わないでくださいませ、極めて冷徹に、適切に復讐いたします。そういうふうにしておかないと、抑止力が働かないので。)

 いや。シャカレベって言葉を思いついたから使いたかっただけです。

2018.9.10(月) 「新しい」と「最先端」

「最先端」ってのは、「今んとこ最も新しい」ってことだと思うんだけど、「新しい」ってのは、べつに最先端ではない。
 最先端とはぜんぜん関係のないものをこそ「新しい」というのだ。
 だからより正確には、「最先端」=「いちばん最近に新しいとされたもの」となる。
 で、僕は「最先端」なんてのはイヤなのだ。「新しい」でなければ、だめ。
 よく提案されるんだ。「こういうのが、最先端なものとしてありますけど、採り入れては?」と。「最先端」となってしまった時点で、もうだいぶ古い。そういうものを採用したって、さしていいことはない。
「最先端」ってのは、「もう知れ渡ってしまったもの」のことをしか言わないので、そこにはもうすでにたくさんの人がいる。よって、「最先端」のことをすれば、まとまった人数の人たちを、呼び込むことができる。
 しかし、そこにくる人たちというのは、「最先端」ごときを魅力と思ってしまう人たちなのである。
 そういう人たちは、「新しい」には鈍感だ。
「新しい」をわかるためには「自分の判断」というものが必要なのだが、「最先端」をわかるためには、「他人の判断」がありさえすればいい。
 だから「最先端」のことを好きなのは、「他人の判断」をわかることに敏感な人たち。

 もちろん、「最先端」も「新しい」も両方わかる人もいる。
 でも、「最先端」と「新しい」を同時にやるというのは、かなり難しい。
 どっちにも見える、というくらいのものなら、なんとかなるかもしれない。

 旅行記を執筆中……というか、「書く機会をうかがっている」という感じです。なかなかまとまった時間がとれない。まとまってない時間はいくらでもとれるのに。まとめてやらないと何もできないので困ります。

 iPad Pro+Textasticで更新→成功。快適。これからiPadで更新できるぞ〜。
 新しい環境ができるといろいろ試すのだが、今回面白かったのは「全角スペースの出し方」。iOS系の環境だとスペースがデフォルトで半角になってしまうため、これまでiPhoneなどでは辞書登録で対応していたのだが、それよりも「電話帳に登録」という手が有用とわかった。連絡帳アプリに「 」という人間を登録し、その読みがなを「vv」とでもすると、「っv」で「 」と変換してくれる。これはかなり楽だ。辞書登録だと全角スペースは単独で登録できないため、「 あ」とかを登録して、あとから「あを消していたのである。それよりはずいぶんとよい。
 それからTextasticというアプリは、ctrl+hでバックスペース、ctrl+dでデリート、ctrl+mで改行、などが実装されている。これも非常に便利。今のところさして不便がない。ほんとはctrl+gでデリート、のほうがよかったけど。
 あとは、自分でショートカットキーをカスタマイズできたら言うことないんだけどな。PCでは変則ダイヤモンドカーソル(ctrlと特定のアルファベットキーに上下左右の矢印キーをあてる)を使っているので、それはぜひともほしいところ。

2018.8.27(月) 「私のことじゃない」

「自分のことじゃない」「自分はお呼びじゃない」とまず思うのは非常に失礼である。「自分のことかもしれない」「自分が行ったら喜ばれるかもしれない」とまず考えたほうが適っている。
 謙虚なように見えて、相手との関係を完璧に切って、何も考えないようにしたいだけなのだものな。

2018.8.26(日) 週刊誌

 噂話には困ったもんだ。
 個人の妄想と変わらない、膨らんでいく。根拠なく。みんなで仲良く、思い込み。
 高校生のとき、二個下の女の子を自転車の後ろに乗せて走っていたらクラスメイトに目撃されて翌日「ぞねちゃん(僕のこと)はOLとつきあっている」と噂されたことがある。
 OLという雑な決めつけは、なぜ行われたのだろう。

「昨日さ、ぞねちゃんが女の子と二人乗りしてて」「えー、どんな人?」「わかんないけど」「年上? 年下?」「年上じゃない? 年上好きそう」「えーなんかOLみたいな?」「OL!ウケゥ」的な、やり取りが行われたのに相違ない。ちまいない。

「OLであるかどうか」「つきあっているかどうか」「それは本当にぞねちゃん本人だったのか」という検証、確認は行われず、ただその場のノリと勢い、どちらに進めば面白いか、気持ちよいかという本能的直観で言葉は選ばれる。
 それはそれでいいが、その後に「ぞねちゃんってOLと」って僕本人に言ってきたり、そのノリの中にいなかった人にまで伝わってしまったらそれはもう。「ぞねちゃんはOLとつきあっている」という言葉が、意味になってしまう。それ以前は意味ではなかった。ただのリズムだったのに。

 リズムのうちはいい。身をまかせていれば気持ちがよい。咎めることもなかろうが。
 ただリズムは消えていくものだ。その場にだけあるものだ。それを言葉でもって維持、保管することは不可能である。しようとすれば嘘になる。
 そのような会話が交わされたことは事実であっても、そののち誰も口にしなければ、「そういうリズムがそこにあった」で終わるのだ。消えて、忘れていくものだ。
 僕の顔を見てたまに「OLと」とか思い出して、プって吹き出しそうになって、僕がきょとんと「どうしたの?」ってたずねたら「なんでもない」とか返して、「ところでさ、ぞねちゃんって」まで言ったら、「彼女いる?」でも「好きな人いるの?」でも「年上が好き? 年下が好き?」とでもふってみたらいいんだ。
 そんでそれを「ふうん」とか思って自分の内心に仕舞っておくようなら普通のことだけど、その結果を噂話メンバーで共有してウッシャシャッシャ笑ったりして。それがまた再びのリズムであるなら微笑ましくもある、けどそうやって再生産されたリズムは、残念ながら意味なるものをひっさげてしかやってこない。もう僕は彼(女)らの中で「OLとつきあっている」なのだ。あるいは「OLとは実はつきあっていなかった」なのだ。「かつてOLとつきあっていたかもしれない」かも、しれない。
 そうなってくると、「僕」は「OLと」とくっついてしまう。もう、そんなに迷惑なことはない。知らないうちに妙な色眼鏡ごしに見られてしまうということは。

 噂話がいろいろなところから聞こえてくる。お店をやったり、昔だったらこうしてHPをやったりしていると、そういうことがあるのは仕方ないというか、一定ある。それがリズムにとどまるものであったら楽しいだけなんだが、意味になってしまったら僕はイヤだな。拒否する権利も実行力もないんだけども。
 たき火を見てれば楽しいが、火を持って帰ることはできない。火傷をしたり火事になったり、騒動が起きるんだ。

 形のないものをそのまんま愛でたり、いろんなことを忘れたりすることが、実際とても大切、という話で。
「気にしない」ってこととか。
「だからなんだ?」って思うこととか。
 僕一人でそれをやってると、あんまり孤独で泣きたくなってくる。みんなで踊って、あー楽しかったって家に帰るような感じがいいな。
 写真くらいは撮ったらいいけど。

2018.8.25(土) 四谷三丁目のガールズバー

ガールズバーの人「ガールズバーでーす」
「えっ、ガールズバーですか」
ガールズバーの人「ガールズバーです」
「えー」
ガールズバーの人「よろしくお願いします~」
「ありがとうございます」
ガールズバーの人「ガールズバーでーす」

2018.8.21(火) 恋と観念

 恋愛などない、いいかえれば「恋は観念的なものでしかない」。
 観念的というのは「具体的事実に基づかずに頭の中で組み立てられただけで、現実に即していないさま。」(みんな大好きデジタル大辞泉)
 恋というのは観念でするもので、「観念に具体的事実が追いついてくれることを望み、そうなるように行動する」という形をとる。「好きです、つきあってください」の類はこれ。
 あるいは、「観念がこうなのだから、具体的事実としてもこうなっているはずだ(べきだ)」という形もとる。
 前者は「観念が先走っている」で、後者は「観念が一人歩きしている」である。

 人を好きになってしまって(恋をしてしまって)、その人にしばらく会えなかったり、連絡が取れなかったりすると、「別の人と恋愛または恋愛類似行為をしているのではないか」「自分のことを忘れ、軽んじ、嫌い、ないがしろにしているのではないか」などの疑念がわいてくる。そういった「具体的事実」の物的証拠は何もないのに、ただ状況証拠ばかりを(捏造してでも)並べ立て、「ああ、きっとそうだ」「絶対にそうだ」と思い込む。
「観念が一人歩きする」とは、たとえばそういうこと。

 観念は、時に暴走する。そのスイッチがオンになっている状態が、恋愛とか、信仰とか、洗脳といったものなのだろう。

 僕はべつに唯物論者でもないし、「恋愛などない」とは言っても「神などない」とは言わない。
 恋愛は、「あるといえばあるし、ないといえばない」というところにあって、それであえて「ない」と言い切ってみているのが僕なわけだが、神に関して考えると、「あるといえばあるし、ないといえばない」とは言えない。そう言えないからこそ、神なのだ。
 僕は、神は好きだが、恋愛は好きではない。


(あのときのあれは恋愛ではなくて神だったのかもしれない、というのなら、話はわかるのだ。)(この「神」ってのは、もうあらゆる神秘的なものを代表させているだけ。)

2018.8.6(月) 納得と理解(2)

 誰かに何かを言われたというわけでもないし、べつに当たり前のことを言うだけなんだけど、「納得と理解」と僕が書くとき、「納得」も「理解」も、とても独特の使われ方をしています。あなた(読んでくれゆう人)がそれらの言葉をどう使っているか、ということとは、直接的には関係がありません。「読んでくれゆう人」というのは、土佐弁です。
 間接的には、大いに関係があると思います。


 僕もこの「納得」と「理解」という二つの言葉については、探り探りというか、考えながら考えている(!)ので、明確にスッパリと、この二つを分けられるというわけではないです。ただ、「納得と理解」というふうに並べられて意義をもつような何かしらが、この二つの言葉には秘められているのではないかな、とは考えているのです。



 ともあれ、世の中には、「納得が得意だけど、理解が得意ではない」という人がいると思う。「理解が得意」な人は、「理解できた段階で納得するかどうかを検討し、理解できないことに対してはとりあえず納得しない」という人が多い、と思う。
「理解が得意」な人でも「理解できないけど、とりあえず納得だけしとくか」ということはあるだろうが、通常は「理解」が「納得」に先だつ。そして大抵はさらに「直観」が先だつ。「直観→理解→納得」というのが、「理解が得意」な人の思考ルートとしては一般的と思われる。

 さっきから「思う」「気がする」「であろう」「思われる」等々と、歯切れの悪い書き方をしているが、そのくらいこのことは、僕にもまだよくわかっていないのである。なのにそれを堂々と、とりあえず書いてみているのである。まさに、「直観」に導かれ、「理解」を求めてウロチョロしているような感じ。いつかの「納得」にたどり着くために。ただ、「納得よりも理解が得意」な人の中には、「納得はすることはするが、すぐに次の理解が納得をくつがえし、新たな納得によって塗りかえられる」というタイプもいる。そしてそのことは永遠にくり返される。きっと僕はそれである。
 僕にとって「納得」は一時的なものでしかない。現時点での落としどころというか、妥協点でしかない。新たな直観によって容易にゆらぎ、新たな理解によって容易にくつがえり、新たな納得によって容易に無効化される。そしてその新たな納得はまた……というやつである。

 そういうタイプとは違い、「まず納得がくる」「理解はしない」「直観もこない」という人もいる。あるいは、「直観がすなわち納得になる」という人もいる。直観と納得とをつなぐ、思考の部分がまったくないのだ。単純とか素直とか、スピリチュアルとか言われる。
「思考がない」人の思考(!?)というのは、大きくこの二種類なのではないか、とひとまずは乱暴に考えている。
 ところで今さらだが、たぶん前回から「理解」と書いているもののほとんどは、「思考」と置き換えてもあんまり変わらない。「理解」というのは思考を伴うものだ、と僕は考えているようだから。

A 直観→理解(思考)→納得
B 納得のみ
C 直観=納得

 なんだか、とりあえずいま僕の目の前には、この三パターンがあるらしい。

 BとCに共通するのは「思考がない」ということであるが、言い方を変えれば「疑わない」ということでもある。
 素直なのだ。

 女子校で教えていたとき、高校三年生のクラスで「《だろう》運転と《かもしれない》運転」という話をした。クルマを運転する時、「こんな田舎道に、歩行者はいない《だろう》」ではなく、「こんな田舎道だが、歩行者がいる《かもしれない》」と考えたほうが事故がふせげる、という考え方のことである。人生を運転する上でも、この考え方は非常に役に立つ。「かもしれない」と考えることがもし難しければ、「そうかなあ」というフレーズを覚えておくといい。何かあったとき、「そうなんだ」ではなくて「そうかなあ」と思うことを、自分に許すこと。慣れること。生徒の中には本当に純朴に素直に育ちすぎてしまった子がたまにいて、そういう子は「そうかなあ」と思うことが身についていない、ひどくすればそう思うのをよくないとどこかで思っていたりする。でも、「そうかなあ」と一度疑ってみることは、実に重要なのである。たとえあとで「なるほどそうだ」という「納得」がやってくるにしても、いちど「そうかなあ」と保留することで、リスクをずいぶん減らすことができる。思考の余地、判断する余裕を自分に与えることができる。
 ある卒業生は、「先生の授業でいま一番役立っているのは、かもしれない運転の話です」と言ってくれた。なんとうれしいこと。これぞ実学!

 思考というのは、あるいは理解というのは、必ずと言っていいほど「疑い」とワンセットなのである。
「疑い」によって足を止めることが、思考のファーストステップといっても過言ではない。「そうかなあ」がスタートラインなのだ。けっこうそうなのだ。
 誰かに何かを言われたとき、「ハイ」と即座に納得すれば、そこに思考は生まれない。理解だってすっ飛ばしている。「勉強しなさい」「ハイ」には「納得」しかなくて(あるいは「イヤだ=納得しない」しかなくて)、「なぜ勉強をするのか」「どのように勉強をするのか」といった内容は何もない。「勉強しなさい」「なんで?」「勉強をするべきだからです」「そうかなあ」というやり取りには、「疑い」があって、「そうかなあ」のあとには、あらゆる無限の思考が開かれている。「それではいったい?」がある。そこからどのように何を理解し、どう納得するかは、あるいはしないかは、本人に委ねられている。疑いは自由への扉だ、と言ってもバチはあたらない。(あてないで~。)
 毎度引用するが岡林信康さんの代表曲『自由への長い旅』には「信じたいために うたがいつづける 自由への長い旅を 一人」とある。すべてはここに尽きるはず。

「疑い」によって「自由」は開かれる。無限の思考が、判断が、選択が、目の前に広がる。そうすると、当然「悪いこと」が思いつく。
「勉強しなさい」「ハイ」で納得する人は、勉強するのである。「なんで?」とか「そうかなあ」が使える人は、「勉強しない」を選択肢としてとりうる。「ハイ」と答えるだけ答えて、実はまるっきりサボっている、というズルだってできる。自由は、善いほうへも悪いほうへも転がっていく。だから現状一般的な教育の場では、「疑う」ということが歓迎されないのだ。それは真っ直ぐと「悪さ」へと繋がってしまうから。
「悪いことをする」という可能性さえ、「疑い」は開いてしまうから。

 ずるがしこい、という言葉があるが、ズルい人というのはけっこう賢いし、賢い人というのは、ズルい場合が多いのである。僕もめちゃくちゃ賢いので、だいぶズルい。両親曰く、僕もほとんど記憶のないような幼少期、口癖だったのは「なんでいかんの?」というフレーズ(名古屋弁)だったという。疑いから生まれたような人間である。幼稚園でも小学校でも、みんなと同じ行動はとれなかった。「なんでいかんの?」「なんでしなかんの?」(訳:「どうしていけないの?」「どうしてしなければいけないの?」)と、三十年くらいずっと思い続け、いまだにみんなと同じ行動がとれないままである。

 きゅうに「賢い」という言葉が出てきてしまったが、ここではもちろん、思考とか理解とか、その源である疑いということが得意な人、というニュアンス。さっきのABCでいえばBとかCのタイプの人は、これがない。(別種の賢さは、あるかもしれないが。)
 ということは、BやCの人は、基本的にズルくないのである。Aの人はズルいし、悪い場合が多い。ただ、B(納得のみ)の場合で、どんなことにもなかなか納得しないような人とかは、わりかし「悪い」と言われても仕方ない場合が多そうな気がするし、BやCが善人と言いたいのではない。Aの人がみんな悪人ということでもない。ただ、まあ、ちょっとはなんか、そういうことはありそうではないですか。悪知恵(わるぢえ)とか狡賢(ずるがしこ)いとか、そういうアレが。
 あと、

D 直観のみ

 っていう人もたぶんいて、こういう人は八百屋さんが奥に引っ込んだときにキャベツとかを平気で盗むのである。が、これはあまり本文と関係ない。


 さて、とてもムズカシイ。頭がいい人は、悪い。善い人は、頭が悪い。もちろん、「悪い人は、頭がいい」にはならないし、「頭が悪い人は、善い」にもならない。「頭がいい→悪い人」「善い人→頭が悪い」と、矢印は片道になる。
 これはもちろん「原則」であるが、しかし僕は、かなり妥当性の高い話だと思う。

 ここで話をぐるっと転換させると、この「善い」「悪い」というのは、世間とか常識とかいったレベルでの話である。だから、「ある複数人の関係の中での話」ではない。
 頻繁に暴力沙汰をひきおこすヤンキーが仲間内ではすっげーイイ奴で慕われている、という現象にこれは近い。幼い弟たちを一人で育てる親のないお姉さんが実は殺し屋、とか。そういうふうに状況を限定させると、「頭がよくて、善い人」というのは成立しうる。汚職で逮捕された政治家が、地元ではいまだに信頼されている、とか。
 善悪というのはたぶんあるとしたらそのように複雑になっている。

「頭がいい人は、世間一般でいったら悪いと思われるようなことをたくさん思いつくが、ある特定の人間関係の中では善いこととして捉えられるものもその中にはある」である。
「世間でいったら善いとされるような人は、頭が悪いがゆえに、特定の人間関係の中では悪いと捉えられるようなことも平気でしてしまう」ともいえる。

 すなわち、恋愛的局面に際して言われる「いい人なんだけど……」という言葉は、「世間一般でいえば善い人なんだけど、私が悪いと思うようなことを平気でする。でもそれは世間一般でいえば善いことなのだから、あまり大声で文句は言えないので、『いい人なんだけど……』という言い方でお茶を濁すとしましょう」というくらいの意味をもつ、わけである。たぶん!
 善い人(→頭が悪い)は、「世間一般では善い人と言われる」だけで、「私にとって善い人」かどうか、あるいは「私の世間にとって善い人」かどうかは、また別の話、というわけだ。ズルいことができないから、うまくごまかしたり、柔軟に対応したり、できないのである。
「なんにでもすぐ納得してしまう」人は、まあ世間一般でいえば善いといわれるような人が多いのだろうとは思うが、「つまらない」とか「融通がきかない」とか「自主性がない」とか、いろいろな悪口を浴びせられてしまうことも、たぶんある。

 頭がいい悪人というのは、意外と行くところに行けば「いい人」だと思われていたりもする。つまり、「頭がよくていい人」だと思われている人が、実は悪人だったりすることもある。でもこの「悪人」という言葉は実に微妙で、ただ単純に頭がいいから悪いことがたくさん思いついて、ちょっとサイコパス気味だからそれを平気で実行できたりするだけなのかもしれない。だから、あるところでは完全に善人と思われているし、実際にも視点を限れば善人と見なして問題ないようなこともあるだろうと思う。働いて親の借金を返しながら幼い弟たちの世話をしている健気なお姉さんが、じつは料理に使う食材をほとんど万引きしていました、というのは一面では美談でもありうるわけなのだ。

 フィリピンで累計一万人をこえる女性と売買春していたどっかの校長は、悪い人なのか? 善い人なのか? それはわからない。ただ僕は、たぶん頭のいい人なんだろうと思うし、それなりに(昨今ちまたで使われる用法としての、いわゆる)サイコパスなんじゃないかと思う。ある面ではすごく善い人なんだろうと思うけど、ある面では……というか、法律や世間の倫理だとか、家族や学校関係者とかからしたらいい迷惑だ、というような観点からいえば、悪い人なのかもしれない。でも面白いのは、何十年もさして問題とされずにそれを続けることができた能力と知恵があるらしい、ということ。頭がいいってことなんじゃないのかなあ。
 頭がいい人って、善悪両面とものポテンシャルが高いっていう感じなのかも。

 ところで。「悪のポテンシャルだけがめちゃくちゃ高い人」はけっこういそうだけど、「善のポテンシャルだけがめちゃくちゃ高い人」ってどのくらいいるんだろう。頭がいいと両方のポテンシャルが上がりそうだし、頭が悪いと悪のポテンシャルだけが上がりそう。「カンボジアに学校を作るので寄付してください!」とか「世界平和のために一緒にこの宗教を信じましょう!」というのが善だとすれば、まあちょっと話は別だけど。ポテンシャル。ポテンシャル。

 注:僕は原則として「善悪中毒」という概念を支持する立場(善悪という二分法を、あまりよいものではないとする考え)なので、上に書いた善悪に関することは説明のための方便(もし善悪という悪しき?概念を用いるのだとしたら、こう説明できます、という感じ)だとご了承ください。


「納得する」というのは「それでいい」と思うことで、「納得しない」というのは「それでいいとは思わない」と思うこと。
「理解する」というのは「そのしくみやカラクリがわかる」ということで、「理解しない」というのは「そのしくみやカラクリがわからない」ということ。

「理解も納得もする」
「理解も納得もしない」
「理解しないけど納得する」
「理解するけど納得しない」



 いま辞書を引いたら、「納得」という言葉の意味のなかに「理解」ということが含まれているようです。その説明に拠るなら、「理解しただけでは納得とはいえず、納得するためには理解が必要だ」ということになります。
 そもそもこの話を僕が書こうと思ったのは、「こいつ納得してるような顔してるけど、本当にわかって納得してんのか?」といった平常の疑問がはじまりなのですが、「納得しているように見えている人で、理解をしていない人は、納得しているとはいえない」というのがとりあえずの回答かもしれません。
 ただ、それは「その辞書の説明に拠るなら」であって、実際に「納得した」「納得できた」という言葉が使われるとき、理解が伴っているとは到底思えない場面はけっこうあります。それを「納得しているとは言えない」と言ってのけるのは簡単ですが、しかし本人たちはおそらく納得しているつもりなのだし、客観的にも「納得」という言葉で片付けられている雰囲気もあるのです。それを「納得しているとは言えない」と言い切る根拠が、辞書の記述だけであるというのは、ちょっと弱いようには思うんですね。
 だからたぶん僕は、「納得」という言葉の辞書的な意味に対して、あるいは「納得」という言葉の実際の使われ方、捉えられ方(自分自身の使い方、捉え方も含めて)に対して、「理解するけど納得しない」なのでしょう。
 ややこしや。

2018.8.2(木) 納得と理解(1)

 人間の世の中には、「理解はしていないけれども納得はしている」という奇妙な状態が存在する。納得というのは「それでいい」ということで、「それ」の中身はとくに問題にされない。
「納得のいく説明をしてくれ」というときの「納得」というのはこれだ。その説明によって相手に何かを理解させる必要はない。話の内容が伝わらなくても「誠意」さえ伝われば「納得」はしてもらえる、という事態は珍しいことではない。

 標準的な親子の間で、これはよく行われているだろう。親は子供に「納得しなさい」と「納得させなさい」を両方言う。電車で騒がしくしている子供に、親は「静かにしなさい」と叱るが、なぜ静かにしなければならないのか、静かにするとどんな善いことがあるのか、といった「理解」を促しているようなケースは、あまり見かけない。これが「静かにしろといったら静かにするのだ、そのように納得しなさい」である。もちろん、「なぜ静かにしなければならないのか」なんてことは過去にもう説明しているのだろうから、何度も同じことを言わせるなという言い分も親のほうにはあるのかもしれない。だけど子がその「理解」にまだ到達していないのだとしたら、その都度それを説明しないということは、どこかで「理解させること」を諦めているのではないかと思う。だって、面倒だものな。
 納得は早い。「納得しなさい」「はい」でお仕舞いだ。その速度を目当てに親は「納得しなさい」を言うのであるが、子供がなかなか納得しないと、かえって遅くなってしまうから、イライラするのである。
 同じように、親は子供に「納得させなさい」も言う。「ごめんなさいは?」とかの類いである。「謝りさえすればわたし(親)は納得するのだから、早く謝りなさい」だ。子供はわけもわからず「ごめんなさい」を言い、親はそれで「納得」をする。「ごめんなさいが言えてえらいね」と褒める。「ありがとう」を言わせることだってそうである。子供はわけもわからずに「ありがとう」を言うのである。それで親は、納得するのである。「ありがとうが言えてえらいね」と。「理解」という手順はそこにない。

 本題は子育ての話ではなくて、もっと一般的なこと。世の中には「納得」だけがやたらと好きで得意で、納得がしたくてたまらなかったり、納得させたくてたまらない人がいる。ビジネスの真髄はたぶん「納得」である。モノが何であろうと、相手に「納得」してもらえさえすれば商談は成立する。「この石、すっげーイイんすよ。マジやべえっす。500円っす」「マジすか」「マジす。よそだと八億するっす」「買うっす」ということで、成り立ってしまうのが商売というものなのだ。
「好きッス。付き合ってくださいッス」と言って、オッケーよってしてもらえるかどうかは、相手の「納得」にのみ、かかっている。
 さかのぼれば、「好きだ、付き合いたい」という気持ちも、「うん、自分はこの人のことが好きで、付き合いたいと思っているのだな」という「納得」によって完成される。そこでは理解とか理性とか思考とかいったものは、いったん関係がない。「好きだ」「付き合いたい」というところで納得しているので、それ以外の要素はもう、関係がなくなる。「はい」と言ってオッケーした人のほうも、とりあえず「納得」というところに落ちついている。「自分は納得したからオッケーした。ということは、自分も相手のことが好きなのだ」というふうに「納得」が先にくる人も、少なからずいる。中高生とかはたぶんけっこうそうで、だから「好きかなって思ったんだけど」とか「好きになろうと努力してみたけど」なんて言葉も聞くことができる。
 もちろん、「わたしたちは十分に仲良くなってきて、たぶん好き合っている状態なので、もしここで付き合ってくださいという話がどちらかから出てきたら、もう一方はそれにオッケーをするのだろう」という空気とか雰囲気、あるいは予兆のようなものがなんとなくあって、それでどちらかが意を決してそれを言い出す、というのが大人の恋愛の一般的な流れだろう。「われわれの関係の、納得できる落としどころはこれだ、付き合うということだ」と、互いが(ほぼ)同時に思う、というような。
 ごく自然な話である。

 ところで、この記事は7月15日の「納得などない」という話と、7月28日の「台風と外出」の話に直接つながるし、過去に書いたほかのいろんな記事ともそれなりに連関している。

 われわれは「納得」によっていろんなことを決定しているが、しかし「納得」なんてものはめちゃくちゃ曖昧なもんで、存在していないようなものだ、と僕は考える。そして、恋愛と納得は実に密接にかかわっている。もちろん、宗教ともそのままつながってしまう。
「信じる」ということは「納得する」ということとかなり近いのである。「神を信じる」ということは、「神はいる、というふうに納得している」というわけ。誰かのことを「特別に好きだ」と思うのも、そういうふうに納得している、ということといえる。当たりまえと言えば当たりまえの話だけど。
 恋愛という気持ちイイ状態に飛んでいくには、「納得」しさえすればいい。だから納得しやすいための儀式が必要とされる。それが日本では(というか、これは徹頭徹尾日本文化の話である)「告白」であったりする。「一ヶ月記念」とか「これって運命」とか「ペアの指輪」とか。そういうのはある種の(時に密教的な)儀式なわけだ。
 信者であるか、信者でないか、というのは、本来は内面の問題でしかないはずなのだが、それだけでは「納得」できかねるような場合のために、洗礼とかイニシエーションみたいなものがある。結婚だってそうかもしれない。君が代だって割礼だって。ほんとにこのことは、万事にわたる。

 納得のための理由はなんでもいい。神秘的なことでも、奇想天外なことでもかまわない。人間は「納得」で動く。人間の心は「納得」と同時に動きはじめる。
(だから、あんまり納得ということをしない僕の心は、あんまり動かないのかもしれない。)

 僕はかねてから、「説得力」というものが好きではない。説得力ってのは、いつも理屈の外にあるからだ。「ああ、それは説得力があるね」というのは、「ああ、それは納得しやすいですね」というような意味である。
 どれだけ妥当な意見でも、説得力がなければ人を動かさない。どれだけムチャクチャな意見でも、説得力さえあれば人は動く。人は実のところ、「妥当かどうか」よりも「説得力」のほうを重視している。だから「何を言うか」より「誰が言うか」がより大きな力を持つのである。

「結果を出す」よりも「結果が出る(出ている)ように感じさせる」ほうが、ビジネスはうまくいく。ビジネスというのは「納得」の世界であり、「説得力」の世界なのだ。実際は。

 ビジネスも恋愛も信仰も、納得の世界である。それで僕はいったい、何が気に入らないというのか?

 たぶん、「それでいい」じゃなく「それがいい」がいい、という、話。
 納得上手な人は、「言われたことに対して納得する」ということがとっても得意である。あるいは、「置かれた状況に対して納得する」ということも。ところが、「どういうことをよいとするか」ということを積極的に考えることは、不向きな場合が多い。
 どうしたらそれが得意になるか、というと、たぶん「理解」を積みかさねることなのである。理屈をわかる、ということ。そうしているうちにやがて、自分でも理屈をつくることができるようになる。だけどそうすると、疑いが強くなる。

 それで、「悪いことをしたことがないと」とか「頭がいい人は疑り深い」という話になっていく。(たぶん次回。)

↓の文章の参考図書:http://ozakit.o.oo7.jp/diary/1711.html#2017/11/29
2018.7.28(土) 台風と外出

「台風がきています」と言われて、「あっ、台風がきてるんだ」と思う人と、「へえ、台風がきてるんだ」と思う人がいるとします。
 前者が「自分事」、後者が「他人事」というニュアンスの違いをあらわしている、とします。

 僕は完全に「へえ」の側で、台風がきているからといって、特段なんの意識もしません。他人事です。
「台風がきているから、外に出るときは気をつけなければ」というふうにも、別に考えません。
「台風がきているそうだから、天気予報をみておくか」くらいのことは考えるかもしれません。
 しかしこの場合、僕にとっての「本題」は「天気予報」であって、「台風」ではありません。「台風」という情報は、「天気予報を見るべきであるという可能性が高い」ということを伝えてくれたのにすぎないのです。
「ああ、しまった。天気予報を見ておけばよかった」と、あとで思わないように、「台風」という事前情報を、活用したという話です。

 え、そんなの普通のことじゃん、と思うかもしれませんが、たぶんそうでもありません。

 世の中には、「台風」という情報を、そのまま「台風」という情報として処理する人がけっこういます。
 その人たちは、「えっ、台風なの? そりゃヤバイ。外出は控えよう」というタイプの発想をします。
 これは、リスク回避としてはある程度正しいと思います。台風が来ている(自分のいる地域に接近しつつある)時は、来ていない時よりも外出に危険や面倒がある可能性が高いのです。どうせ外出するなら、危険や面倒のある可能性が低い時のほうがいいに決まっています。
「台風→ヤバイ→外出しない」という発想は、「ナイフを持っている人がこの町に近づいてくる→ヤバイ→外出しない」と同じように、理に適っています。
 ただ、ナイフを持っている人が100キロ以上向こうにいることがわかっていて、時速100キロでクルマを飛ばしても1時間以上はかかる、ということであれば、数分~数十分の外出は問題ない、という判断はできます。
 しかし、「100キロ以上向こうにいる」という情報が100%信頼できるかはわからないだろうし、時速300キロでスーパーカーを(すべて信号無視して)すっ飛ばせば20分くらいで着いてしまうかもしれないし、ナイフの長さが99キロくらいあるかもしれません。そういう不確定要素をいちいち検討して、外出してもよいかどうか(あるいは外出して、より遠くに逃げたほうが賢明なのか)を考えるのには、それなりの能力が必要になってきます。「判断力」というやつです。
 間違った判断をした場合、ナイフで刺されてしまうことも実際ありうるわけですから、だったら最初から「ナイフを持っている人がこの町に近づいてくる→ヤバイ→外出しない」というふうに、単純に決めてしまったほうが、まちがいがないだろう、というのです。とりわけ、判断力に乏しい人は。
「台風→ヤバイ→外出しない」という発想は、それに似ているだろう、と僕は思っています。
 そのつど判断力を発揮するよりは、法則に従って処理してしまったほうがよい、という発想。学校の先生なんかにもこの手のタイプは多いですね。

 ところで、「ナイフを持っている人」というのは、「ナイフを持っている」ということがわかっているだけで、それで人を刺そうとしているかどうかはわかりません。ナイフはナイフでもバターナイフかもしれません。めちゃくちゃ弱くて、時速1メートルくらいの速さでナイフを繰り出してくるので、お年寄りでも避けられるような相手もかもしれません。
「ナイフを持っている人」に関して、「ナイフを持っている」ということ以外何もわからなくて、その内実が不明である、という場合。「その内実」を調査して、「どうやら安全だ」ということになれば、用心をしつつ外出する、という判断は、ずいぶん妥当です。
 台風に関しても、「台風である」ということを問題視する必要は必ずしもありません。「その内実」を調査して、「どうやら安全だ」ということになれば、用心をしつつ外出する、という判断は、ずいぶん妥当でしょう。しかしその「調査」や「判断」がそもそも妥当なものかどうか、という問題はあります。「まあ、大丈夫だろ……」という浅はかな判断で命を落とす人があまりに多いから、「注意喚起」というものがあるのです。台風にせよ、熱中症にせよ。
 だから、「調査」や「判断」に自信や責任を持てないような場合、「台風→ヤバイ→外出しない」という公式に従ったほうが、ずっと賢明だったりもするわけです。「暑い→ヤバイ→外出しない」もそうです。

 幼い子供に言う「知らない人についていっちゃいけません」も、別にその人がなにも悪いことをもたらさないのなら、保護者と一緒にいるのと同程度の危険しかないことになるので、ついていったってさして問題はないように思われます。(何かあったときに責任を追及されたり、未成年者略取等の罪に問われたりもするので、むしろ「知らない人」を守るためには確かについていかないほうがいいのでしょうが。)
 しかしもし、この「知らない人」が極悪人だったら大変なので、やはり「知らない人についていっちゃいけません」と、ばっさり決めておいたほうが無難なのでしょう。子供にはそういう「判断力」はないことになっております。

 しかし世の中には、「いちいちそのつど自分で判断したい」という派閥も存在いたします。それはたとえば僕であり、もしかしたら子供ってのは本当はそういう存在なのかもしれないな、とも思います。
 だから、「あっ、台風がきてるんだ」ではなく、「へえ、台風がきてるんだ」なのです。台風はあくまで、判断材料を集めるための情報の一つでしかありません。(もちろん台風が来ているという情報自体も判断材料の一つではありえますが、さして大きな要素には通常、ならないと思います。それよりも台風の内実、具体的には雨風の強さや推移についての情報のほうが要素としては重要になるでしょう。)
 その台風がどういうもので、外出しても大丈夫なのか。外出するとしたら、どのタイミングで家を出るべきなのか。どのような備えや工夫、心構えが必要なのか。みたいなことを、いちいち判断して、出かけたり、出かけなかったりする。それが「判断趣味」の人の日常の楽しみなのです。
「台風が来てるから、基本線、出かけない」という考え方(そんな人が本当にいるのか、というと、たぶんけっこういるのです!)の人は、リスクを取らないかわりに、「判断」というものをしません。「判断」というものをしないかわりに、リスクを回避できています。
「台風が来てるけど、それはそれとしていろんな要素を検討して出かけるかどうかを決める」というタイプの人にとって、リスクは判断のための検討材料です。こういう人にとってリスクは回避するものではなくて、「織り込む」ものです。ギャンブラー的な性質なのだと思います。

 冒頭で「自分事」「他人事」という言葉を使いました。台風のみならず、何らかの情報や状況がそのまま「自分事」になる人は、「判断」というものをしません。というより、判断を自分以外の何かに委ねています。
「自己紹介をしてください」と言われた時に、「あっ、自己紹介が求められてるんだ」と思う人は、たぶん素直に、自己紹介らしい自己紹介をします。
「へえ、自己紹介を求められてるんだ」と思う人は、ひねくれていて、一般的にはあまり自己紹介っぽくないと思われるようなことを、するかもしれません。
「あっ」の人は「自己紹介っていうのは、アレのことだよな……」と思うのに対し、「へえ」の人は、「自己紹介ってのは、なんのことだ?」とまず思うのです。
「あっ」の人は、すでに知っていることの中から行動を選び、「へえ」の人は、すべてをこれから考えようとするのです。
「あっ」の人にとって、答えはすでに自分の中にあり、「へえ」の人にとって、答えは自分の中になどないのです。
 だから「自分事」「他人事」という表現になった、のだと思います。
 逆説的ですが、「すでに自分の中にあることによって判断する」というのは、「自分による判断」ではない、というふうに僕は考えるのです。「過去に自分が判断したこと」は、現在においてはもう「自分による判断」とは言えないだろう、というのです。
 それは「わたしは○○教の信者だからこう考える」というのと、同じだろうと思います。「わたしはわたしだからこう考える」です。
「わたしは過去にこういう判断をした、だから今のわたしもそのように判断をする」というのは、「○○教の信者だから」と、あまり変わることはないのでは? ということです。
 それは「自分の外部から答えを引っぱってくる」ということですが、もちろんその「自分の外部」というのは、自分の中に蓄積されているものです。だから、見た目には(というか、当人の意識においては)自分で判断しているように思えるのです。

「あっ、台風がきてるんだ」と思う人は、「台風」を自分の中に蓄積されたデータと照らし合わせているのです。「へえ、台風がきてるんだ」と思う人は、何もしていません。「あっ」の人が、すでに判断を探しているのに対して、「へえ」の人は、判断の必要をまだ感じていません。「他人事」だからです。
 なんでもかんでも「自分事」にしてしまう人は、「自分の中から答えを探す(判断を探す)」ということを真っ先にします。
 すべてがまずは「他人事」でしかないような人は、答えが自分の中から生まれてくることを知っているので、「探す」ことがないのです。


 この話は完璧に「恋愛などない」ということと対応しています。恋愛なんてものが便宜的な概念にすぎず、あるのは複数の人間と、そのあいだの「関係」のみであるのと同じように、「台風などない」のです。台風の正体は主として、雨と風です。すなわち、雨と風と我々と、そのあいだの「関係」だけがあるのです。
 自己紹介もありません。

 誤変換がありました、「介抱→快方」になおしました。読者さまのご指摘で気づきました。こういうのおしえてくれるのうれしいです。メールフォーム、掲示板などごかつようください……。(わるくちはNO)
2018.7.23(月) うつ様にならないように

 二十歳くらいの頃だと思う。不眠で薬を飲んでいた友達(当時とりわけ仲が良くて、よく家に行って遊んでいた)に、「ジャッキーは鬱の才能がないよね」と言われた。以来そう思い込んで生きている。
 僕も悩める少年だった(そのことはこのHPの過去ログが証明してくれるはずである)が、うつ様(うつよう……うつのような状態)になったことはない。少なくとも病院にかかったことも薬を飲んだこともない。
 先だって、さる知己より「ジャッキーさんは鬱にならない体質なんでしたっけ?」と訊ねられて、改めてこのあたりのことを考えているのだ。
 体質というのではないと思うが、才能は確かにない。

 十歳年下の友達が、ちょっと前にひどいうつ様(診断としては双極性障害だったりとかいろいろあるようだが、ここでは一様にうつ様と表現しよう)となったが、最近よくなってきた。一時は僕も「こいつとはもう友達として付き合うことは不可能かもしれない」と思ってしまったのだったが、それでも長い時間をともにし、多くの言葉を交わし合ううち、少しずつ快方に向かっていく様子があったので、こちらも根気強く、向き合っていくようにしたのである。その甲斐あってか、ここのところはほとんど以前と変わらないようなコミュニケーションが可能になっている。
 もちろん、別に僕は何もしていない。彼とはそれまでと変わらず、友達としてのみ接していた。いちばんひどかったときは「もう友達ではいられないかも」と思ったのだが、それはまさに、この期に及んでも僕が彼と友達として接していたからである。だから、態度が悪ければ冷たくもしたし、むだに譲歩して相手に合わせることもしなかった。
 彼はちゃんと彼自身の力で立ち直ったのである。あらゆる友人・知人と会い、話をして意見を聞き、それを自分の頭で咀嚼しなおして、ノートに書いたり人に語ったりした。また本もたくさん読んでいた。ネットも駆使した。それでまったく知らない人とも会っていた。
 彼には鬱になる才能があったと思うが、幸いにもそこから立ち直る才能も持ち合わせていた。すなわち、「自分でなんとかする」という才能である。(手前味噌だが、彼にその開化のさせかた、ないしノウハウを教えたのはある程度、僕であろうという自負はある。僕が教員になって最初の生徒なのだ。)
 鬱というのは基本的に、社会や他人との関係の中で発症するものだから、そこから抜け出すには「一人の中に閉じこもる」だけではだめである。もちろん「二人の関係(または特定の環境)に閉じる」も一時的なシェルターにしかならない。「自分でなんとかする」には、逆にどこへでも開いていくことが必要になってくる。
 鬱になってしまうような人間は、社会や他人との関係を持っていた、あるいは持っていたいと願っていた人間であろう。だから鬱から抜け出すには「社会や他人との関係を適切に持つ」ことが肝要と考えられる。そして、「社会や他人との関係を適切に持つ」というのは、「どんなものとの関係も適切に持てるような自分を持つ」ということによって可能になる。短くいえば「自分を持つ」という凡庸なワンフレーズに尽きる。

 自分を持つ、というのは、「どんな状況にも対応できるようにしておく」ということである。「ある状況」が与えられたときに、「自分はこうする」という選択・判断ができる、というのが、「自分を持つ」とか「自分がある」という状態なのである。
 うつ様になる、というのは、ほぼ「適切な判断が自分でできなくなる」ということだ。だから薬が必要で、お医者さんが必要で、依存する何かが必要なのだ。また、「依存する何かが必要」であるということが、「自分がない」ということと同義でもある。うつ様に陥っているとき、人は「自分」というものをなくしている。基本的に。
 僕が彼のことをただ一度だけ見捨てかけたとき、それは彼がほぼ完璧に「自分」を失いきっている、と感じた時だった。僕は「彼」と友達なのであって、「彼が依存している何か」と友人関係を結びたいのではない。彼のことは大好きだが、「自分」をなくした彼は、もう彼ではない。友人という不安定な関係は、そのくらいで平気で反故になってしまう。

 この流れでいえば、僕に鬱の才能がないのは、「自分がある」からである。「自分がない」という状態に雪崩れ落ちることができない。依存の才能がないのだ。
 もちろん、僕だって何かに依存することはある。中毒といったほうがいいかもしれない。ある女の子に対して中毒状態になったこともあるし、テトリスとか「2048」あるいはスーパーロボット大戦といったゲームに中毒したこともある。だけどその激しい症状の途切れるきっかけさえ訪れれば、「これはアカン」「このままでは自分がなくなる」という反省がすぐにきて、パッと執着がなくなる。「自分」が優先されるわけだ。悪そうな言葉でいえばこれは「自己中心的」ということでもある。「自己愛」かもしれない。僕は煙草を吸いはじめればあっという間に中毒する自信があるけど、「喫煙者である自分」のことを我が美意識は絶対に許さないので、そもそも吸おうともしないのである!
 僕は「自分がある」のみならず、「そんな自分が大好き」なのである。それが危ぶまれるようなことがあれば、その原因は除去されなければならない。
 もちろんのろんで、その「原因」というものが「恋人」的な立ち位置の人の強い要求・欲求、ということであれば、末っ子な僕は気を遣って、「そういうふうにしなきゃいけないんだろうなあ、でも、やだなあ」と、悩み、揺れる。そういうタイミングが、僕が最もうつ様に近い時だと思う。でもその葛藤を経て、結局は「自分」を優先する。そういう自分勝手さが最終的には勝つもんだから、ウーって悩んで破裂してうつ様になる、ということがないのだろう。
 仕事だって、イヤなことはポーンとやめちゃうから、長く悩むことがない。ちょっと仕事をやめたところですぐには死ぬことがないから、そういうことができる。すなわち「自分がある」「そんな自分が大好き」「自分優先で自分勝手」「お金はある程度、貯めておく」といったところか。(あとは「能力がある」とか「ミリョク的」ということなんだけど、これはこっそりとつぶやいておくぜ。)

 当時の親友(Nちゃん)が、僕に「鬱の才能がない」と言ったのは、たぶんそういうところを見抜いてのことなんじゃないかな、と今は思うのである。「お前はいいよな、勝手なやつで」と。
 鬱を高じさせて死んだ西原という友人も、晩年に電話(たぶんそれが最後の会話になった)で、「お前にはわかんねえんだよ」と一言、つぶやいた。それも同じような意味だったのかもしれない。

「ジャッキーさんは鬱にならない体質なんでしたっけ?」とたずねてきた若い知己は、おそらくうつ様の手前なんだと思う。だから僕が彼女に簡単にできるアドバイスは四つ。「自分を持て」「その自分を愛せ」「その自分を優先し、自分勝手になれ」「お金はある程度、貯めておけ」。しかし、これほどムズカシイこともないし、誰もがこうすべき、ということでもない。あくまでもこれは「簡単にできるアドバイス」なのだ。「複雑にできるアドバイス」というのは、……やはり、すぐにできるものではない。多くの時間と、言葉が必要で、そのすべてがアドバイスである。

2018.7.15(日) 人にはそれぞれ事情がある/納得などない

「説明する」ということが要求される局面が多い。なぜ、そんなに説明しなければならないのか?
「納得のいく説明を」と言われる。「私が納得する説明をしなさい、そうでなければ、私以外の誰もが納得するような説明をして、私をしぶしぶでも引き下がらせなさい」である。
 AさんがBさんに対して、ある欲求を持っている。その欲求がかなえられない場合、AさんはBさんに対して思う。「私の欲求がかなえられない理由はなんだろう? 納得のいく説明がほしい!」
「説明責任」という言葉さえある。説明が、そんなに必要なのだろうか。
 説明されて得られるものは「納得」である。それ以外はない。
「つきあってください」「できません」「なぜですか?」「とくに理由はありません」「それでは納得ができません」「そんなこといわれても」「納得のいく説明をしてください!」

 人にはそれぞれ事情がある。それでいいじゃないか。
 それなのに、「納得」のできる「説明」がもらえないと、人は不安になる。「説得力」のある言葉を求める、というのも、同種の不安によるものだろう。
 なぜ人は「説得力」を好むのかといえば、つまり「納得」したいわけだ。
「納得」という落としどころを見つければ、人は安心する。見つからない場合、出口を失って、鬱になったりする。
「病名がもらえて安心」なんてのも、これ。
 だが「納得」に実体はない。「納得などない」である。

 少なくとも納得なんてのは、自分でするもので、他人に手伝ってもらうものではない。納得なんて存在しない。あるとしたら、その人の心の動きというだけなので、勝手にやってしまえばいいのだ。人を巻き込まないことだ。
 他人を利用して「納得」することでしか心の平安を得られない、というのを、「自分がない」というのである。

2018.7.11(水) じゅうはっす

 今日でこのホームページもじゅうはっす。18周年です。
 だからといってなんということもありません。
 20周年の日にはオフ会をひらきます。きてください。
 オフ会はまだ一度しかやったことがありません。2010年7月11日、10周年の日でした。
 2020年7月11日は土曜日です。たぶん東京。みなさんふるってご参加ください。

 18年もやっていればいろんなことがあるもので、先日「高校生の頃から読んでいます」という社会人の方がお店にやってきました。うれしかったです。
 いるんですよ、意外と、読んでるひとが。

 このサイトの読者は常時30名、それ以上増えもしなければ減りもしません。
 それだけはわかっていて、しかし誰が見ているか、というのはまったくわかりません。
 なぜ「30人」とわかるのかといえば、僕がそう決めているからです。
 実際は、5人かもしれないし、100人かもしれません。
 でも僕は30人だと思うし、そう思って書いています。
 なぜそう思うのかというと、最初は「なんとなく」でした。
 なんとなく、まあそのくらいだろう、と。
 そのくらいが、気楽でいいなと。
 僕は何百人とか何千人、何万人という規模の人を相手にするような人間ではない。30人くらいがちょうどいいのだ。
 けっこう昔から、僕はそのように考えています。2009年9月には「全国30人(もうそんなにいないだろうけど)の当サイトの読者さんたち」という記述があるので、それよりは前でしょう。

 2009年といえば、僕が学校の先生になって二年目のこと。その頃に「30人」と言い始めたのだとしたら、非常におもしろい話です。
「30人」といえば、おおよそ学校の「1クラス」に相当するからです。
 僕はやはり、どこかで学校の先生なのかもしれません。だから、いちどに相手できるのは30人まで、という感覚があるのではないかと。
 じっさい30人を超えると授業はだいぶやりにくくなります。28人のクラスを受け持ったときは非常に快適でした。

 また、もう一つ。僕はお店をやっています。いまはバーという形式で、10人も入れば満席です。だから、一度に接客をするのは10人まで、という話にはなります。
 では30人という数字は、出てくるとしたらどこに出てくるのだろう? と考えると、もしかしたら「ある期間(たとえば一週間とか一月とか)のユニーク接客数」くらいになるのかもしれません。
 なるほど、それをこえると、ちょっと手一杯だな、という感じになりそうです。
 現状、一ヶ月のユニーク接客数(複数回くる場合は1と数える)はたぶん30をこえます。一週間だと、ふだんはまずこえないけどたまにこえる週もある、ということになると思います。いまは週に4~5日店にいてそんな感じですが、理想としては「週に3~4日店にいて、週間ユニーク接客数が30前後」くらいかしら。そのくらいに流行ってくれれば経営的にも成功といえるし、それ以上多くなるとおそらく店の雰囲気が変わってしまう。

 このHPに関していう「常時全国30人の読者」というのも、「ある期間(たとえば一週間とか一月とか)のユニーク訪問者数」をさします。いまはたぶん、数ヶ月に一度でも覗きにきてくれている人が、だいたい30人くらいはいるんじゃないかなあ、という気がする。ここんとこ更新をさぼりがちだからわかんないけど、隠れ読者もけっこういることを考えれば、なきにしもあらずか。そのくらいが、気楽です。

 だから、もし僕がまた演劇をやるとしたら、30人くらいの劇場でやるのがいいような気がします。楠美津香さんのひとり芝居って、けっこうそのくらいだし、『おばさんたちが案内する未来の世界』という小沢健二さんとエリザベス・コールさんの映画も、そのくらいの規模でやったときがいちばん僕は楽しかった。少なくても、多くてもちがう。音楽にたとえるならば、130bpmくらい? の、ちょうどいい感じ。

 ホームページも授業もお店も、たぶん演劇でもなんだって、なんだか僕は「30人」なのだ、と思う。そしてその「30人」は共通して、みんなぜんぜん違う人たちだ。それぞれはつながっていたり、いなかったりする。みんな好き勝手なタイミングでここを覗くし、授業中の生徒はそれぞれ別のことを考えている、お店にも人々はばらばらに来るし、演劇も見終われば散り散りになり、かつ感想もそれぞれに抱く。
 2020年にオフ会をやります、と僕は2010年から宣言していて、たぶん毎年かかさず告知もしていると思うんだけど、そこに集う人数はたぶん、いやまちがいなく、30人はこえない。こえたら嬉しいので「行き控え」はしないでもらえるとありがたいけど、でもなんか、そんな気がする。もしかしたら3人くらいしか来ないかもしれない。だって実際、たぶん今日(7月11日)もお店には10人もこないし、そのうちこのサイトの閲覧者はたぶん多くても3~4人じゃないかな。去年はほんとに、閑古鳥だった。
 来られる人は来てほしい、というのはあるけど、でもまあ、うーん。みんな「べつべつ」だからね。そのほうがいいのかもしれない。それぞれのタイミングで、それぞれにしたいようにしたいことをする、というようなことが、僕がずっと書き続けていることだと思うので、じっさいなんだっていいんだ。「さあ! みんなで一緒にこうしましょう!」ってのは、僕がいちばん嫌いなことなんだから。
 いちばん僕にとって理想的な事態は、こうやって僕がこの日を強調しつづけることによって、全国30人のみなみなさまが毎年この日には「あ、7月11日」と思うようになってくれて、で、べつに誰も何もしない、店にも来ない、でもそれぞれに、それぞれ別のことを思ってくれる、というようなことなのかもしれない。「あ、今日は7月11日か。ジャッキーさんがなんか書いてるかもしれないから、見に行こう」「あーまたなんか店に来いとか書いてるな。自分そういうの苦手だから、まあそういうのは得意な人にまかせよう」で、僕はさみしくひとりウィスキー片手にタモリさんの『惑星流し』とか聴いてるわけね。そういうことが、素敵に孤独で、最高だ。なにかがあっても、なにもなくても、どこかになにかがあるのだということは、知っている。そういう最も大事なことがちゃんとわかってるんだから、みんな褒めてくれたらいいなあ……ねえ。
 というわけで、なんだっていい。明日も来年も50年後も、たぶんここは更新され続けるのだ。それを見知らぬ無数の30人が見つづける。それがすべてで、何も特別なことはない。ただ僕はひたすらこの日を強調し続けよう。ほぼ、無意味に。2:42。おやすみなさい。

2018年7月11日(水曜日)で当HPは18周年をむかえます。つきましてはこの日17時より、我が夜学バーbratにおいて、ささやかに、僕の内心において祝宴をあげたいと思います。メイン会場は僕の内心となりますので、お店として特別なことは何もありません。ただ僕がいつものようにカウンターの中に立ち、いつものように飲みものをつくり、いつものように時を過ごすだけです。よかったらお越しください。お店なのでお金がかかりますが、1500円か1000円くらいのものです。僕の内心に対するカンショウは無料です。お酒だけでなくコーヒーや甘酒、ジュースなんかもあります。前夜10日も日付変わるまでお店にいますので、都合のあわない方はそちらへ。

2018.6.30(土) 死について(1)

 人が死ぬとはどういうことかと、昨日ずっと考えていた。
 僕はいわゆる「ちょいコパス」みたいな人間だから、近しい人が死んだからすなわちどうなる、ということはない。
 そういう人間の書く文章だから、ここから先に書かれることはたぶんものすごくつめたい。だけどわざわざここに書くからには、絶対に意味がある、意義があるのだと、僕は思っている。

 もしお父さんやお母さんが死んでしまったら、僕はものすごく困ってしまう。どこかのタイミングで、ものすごく悲しくなって、泣いてしまうと思う。いつ実家に帰ってもいないってことになるわけだし、本当に大変なときに頼ることができる巨大な存在が失われてしまう。そして何より、伝えたいことがあっても、伝えることができなくなってしまう。その返事を聞くことができなくなる。
 それを、僕はまず「困る」と思うのだ。それから、もし悲しくなるようなタイミングがあれば、悲しむこともあるだろう、と思う。

 客観的にみれば親友だった、と思われても仕方がないような男が2011年の頭に死んだ。過去ログを「西原」で検索してもらえば、生前のことも死後のこともたくさん出てくるだろう。知らせを受けて僕はまったく悲しくなかったし、今でもべつに悲しくはない。
 たぶん、彼の死によって僕が「困る」ということがほとんどないからだ。もう二度と、彼と酒を飲むことも、漫画の話をすることも、並んでラーメンを食べることもない。それだけのことだ。晩年の数年間、彼が心をほとんど壊してしまってからは、生きてはいてもそういったことはほぼともにしていない。だから、生きていようが死んでいようが、僕にとってはだいたい同じだった。ただ、その期間が未来永劫であることが死によって確定した、ということなのだ。それは寂しいし、もったいない気はする。でも「悲しい」とはちょっと違う。

「人が死んだら悲しい」というのは、(そういうことがもしあるとしたなら)たんなる思い込みなんじゃないだろうか。常識としてすり込まれているだけなんじゃないか。これまでに、肉親が数名、親友といって差し支えなかったような者が2名ないし3名(安否不明者1)、かなり親しかった人が数名、それなりに会話を交わしたことがあり、お互いに認知しあっている人が数名、僕のまわりでは死んでいる。祖父母と老教授を除けば、みな当時20代~せいぜい40代前半くらいまでの人たちだ。病気、事故、自殺など死因はさまざま。いずれも「死んだ」と聞いて、さしたる感傷はなかった。

 西原という男について、おびただしい量の文章を僕は書いている。死後7年半ほど経つが、この日記で西原の名が記されていない年はない。なんなら、年に何度も言及されている。過去ログを検索したのでまちがいない。命日ははっきりと知らないし、あまり興味もないから、その時期にだけ多いというわけでもない。ただ折に触れて思い出すし、引き合いに出す。

『ふたりはプリキュア』というアニメが僕は好きで、主人公のなぎさとほのかをまるで実在の人間のように感じることがある。放映当時は「生きていた」のだとすれば、放送が終了した現在のふたりは、ある意味でいえば「死んでいる」のかもしれない。映画へのゲスト出演などはあったけれども、原則として『Max Heart』の最終回で彼女たちの人生は止まっている。もし続編や姉妹編が描かれたとしても、あの時のあのスタッフ、あの時代状況、ということでなければ、やはりどうしてもちょっと違うものにはならざるをえない。ちょうど明日7月1日放送の『HUGっと!プリキュア』にふたりがゲスト登場するらしいが、それを見て僕はどういうふうに思うのだろう。「生前の写真が発掘された」みたいな感じだろうか。それは、僕の知らない(あの2年間のテレビや映画で見せることのなかった)ふたりの姿かもしれない。
 もちろん、中学を卒業したあともなぎさとほのかは生き続けているだろう。もしかしたら、何かのはずみでまたプリキュアをやるかもしれない。どんな生き方をするか、僕らにはまったくわからない。彼女たちは生きていくんだけれども、僕にとってははっきり言って、死んでしまったのと同じだ。
 それはちょっぴりさみしいけれども、悲しいわけではない。そもそも、2年間のあいだ、彼女たちと一緒に生きることができて、それがDVD-BOXという形で家の中に残っている、というだけで、ものすごく奇跡的なことだ。
 たとえば好きな老小説家がいて、晩年の2年間だけはリアルタイムで新刊を読むことができた。死んでしまったが、膨大な彼の著作が本棚にはある。それは読者として、とても幸福なことである。

『ふたりはプリキュア』についても、この日記にかぎらず僕はけっこうな量の文章を書いてきているし、いろんな人に話したりもしている。それはひょっとしたら、西原について書いてきたのと、実は同じことなんじゃないかな、という気がする。
 視聴者として見ていたアニメが終わったことと、客観的には親友だったとも思えるような相手が死んだこととが、同じだというのは、ものすごく乱暴で、つめたいことだと思われるかもしれない。ただ、たしかに重なる部分はある。
 それは「止まった」ということだ。そして、「止まった」ということ以外に、何も特別なことはないのだ。

 前にも書いたが、僕は西原が死んだとき、めずらしくお通夜に行った。僕はむかしから結婚式や葬式には原則として行かず、行ったほうがいい、と判断した時だけ行くようにしている。西原のときは、行ったほうがいい、と判断したのだ。
 西原が死んだと聞いて、ほとんど悲しみもなんにもなかったが、西原の両親と、妹さんふたりに会ったとき、これまでしたこともなかったような嗚咽をして、泣き崩れてしまった。それは「ようやく西原が死んだことを実感した」みたいな話ではない。実感なんか最初からしていたかもしれないし、今でもしていないかもしれない。そのへんはよく知らない。僕が泣いたのは、「僕とその家族との関係の中で」の話で、西原の死は、その原因となったというだけだった。
 僕は西原の母方の実家にも、父方の実家にも行ったことがある。そのときに、家族みんなと会っているし、僕のことを覚えていてくれていた。顔を見るなり「ジャッキーくん!」と驚いた声をあげて、みんな泣いた。僕も泣いた。西原のケータイに僕の連絡先がなくて、死のことも通夜のことも知らせることができなかった、来てくれてうれしい、というようなことを言われた。そのとき僕はその家族と過ごした時間、風景(妹がプレステでドラクエ5やってた感じとか)をすべて思い出して、「あーもう! こんなにいい人たちを泣かせやがって!」と、情けないやら申し訳ない(?)やら、あほくさいやら、いろんな感情がダダーッと出てきて、どうしようもなくなってしまった。
 そして、今思えばあれは「美しさへの感動」でもあった。家族四人が、美しかったのだ。だから泣いてしまったのだと。おそろしく大きなものを四人は持っていた。この感覚、うまく伝えられる自信がないが、僕にだって家族がいるし、家族をめちゃくちゃ愛しているので、わかることがあるのだ。だから「こんなにいい人たちを」に、なるわけだ。彼らは西原ごときを心から愛していたし、愛しながら、「どうしようもないやつだ」ということはもちろんわかっていた。そういうようなことを、四人から感じとっていたのだという気がする……。

 西原の人生は26で止まった。尾崎豊が死んだのと同じ年である。彼らはその26年間を、一生抱きしめて生きていくのだと思う。僕もそうだ。少なくとも出会ってからの8年間ぶんと、永遠にともに生き続ける。「ちょいコパス」たる僕は、それを『ふたりはプリキュア』の2年間を永遠に愛し続けるのと同じことだ、と思うのである。『まなびストレート!』全13話に描かれた数年間(わずか6時間の映像!)と、死んだ友達の人生を、だいたい同じようなものだと思う、少なくとも、かなり似ている部分がある、というのである。

 つい数日前、ある友達が亡くなっていた。それを僕らは昨夜知った。「ああ」とだけ思って、お店の営業を続けた。何人かの人が駆けつけて、それぞれの仕方でいた。
 僕は、精神的にはまったく平常だった。ただ、「しばらくは彼のことを考え続けるのだろう」と思った。
 誰もが知っている名前の、とても重い病気だった。一年くらい闘病していたと思う。その間何度か会って、あるとき「何年生存率が何%」と彼は顔色ひとつ変えずに言った。僕は、何があってもおかしくはない、という気分で、ずっといた。
 彼の人生も止まったのである。それ以外のことは特別ない。

いつもいつも君が恋しくて 泣きたくなるわけなんかないよ
思い出すたび何か胸につっかえてるだけ
それで何か思ってももう伝えられないだけ
(小沢健二『恋しくて』)

 お葬式っていうのに僕があまり行きたがらないのは、死生観が「こういうふう」だからだと思う。「いつもいつも君が恋しくて」だから。
 西原の葬式にだって、あの家族たちに一度も会ったことがなければ、たぶん行かなかった。
 このたび亡くなった彼のお葬式にも行くつもりはない。命日も覚えないだろう。
 僕にとって彼は「死んだ」ということ以外、とくに変わることはない。それは西原とも、ほかの死んでいった友人たちとも同じだ。
 そして、これから何も変わることはない。

 高校のころ、ある同級生のお父さんが亡くなって、その友達が大号泣していたことがある。彼がなぜ泣いていたのかというと、一つには「会ったことがあるから(知ってる人だから)」というのと、もう一つには「数日後に演劇の本番があるのに、彼が参加できなくなったら困ってしまう」ということで、時間が経つごとに後者の比重が高まっていったようだ。そしてそのことに、彼は自己嫌悪していた。
「困る」ってのはそういうことだ。
 誰かが死んだ時に悲しんでいる人は、自分の都合で悲しんでいることが多い。「もう会えない」とか「約束してたのに」とかも含めて。
「会いたい」「楽しみにしていた予定が消えた」「もう二度と、彼と楽しい時間を過ごすことができない」……すべて、自分の欲求が果たされないことへの悲しみだ。
 まさか、「死んでしまってかわいそう」なんて思って、泣いているわけじゃないだろう、と思いつつ、そういうこともあるかもしれないな、と思ったりもする。「まだ若いのに」とか「これからだってところで」とかは、この類いか。「他人事(ひとごと)」というもの。
 単純に、なんか知んないけど悲しくて、涙があふれてきてしまう。こういうこともよくあると思う。これについては、今は深い言及を避ける。一側面だけは、すでにちらっと書いた。
 もし、本当に「知ってる人が死んだから悲しい」「仲の良い人が死んだから悲しい」という人がいるならば、詳細を教えてほしい。なぜ、「死んだ」と「悲しい」が直結するのかを。
「彼が演劇に出られなくなったら困る」という理由で大号泣していた、あの友達はとても正直で、実際的だ。
 もっと単純に、『レヴァリアース』の終盤に描かれたような、「死そのものへの恐怖」というのならば、わかる気がする。
 あのときウリックは、激しく、すさまじい、おそろしく大きなものを感じていた。だから僕にも、ウリックの気持ちがわかったのだと思う。
 彼(彼女)はシオンが死んだとき、どんな気持ちになったのだろうか。

 そうだ、僕が初めて身近な人の死を体験したのは、シオンだった。もしかしたらふたたびプリキュアの話につながっていくのかもしれない。つづく。

2018.6.26(火) 詩が真実を語るという時のこと

 最近このHPにはまって(そういう人もいるのです!)、ときおりお店にも来てくださる方と、詩についてのお話をしたので、そういうことをちらりと書いてみる。

 詩ってなんだろうか、というのはすでにあれこれ書いてきたのだが、かんたんに僕の意見を言えば「言葉の意味以外の要素を珍重し」「散文(=ふつうの文章)ではあらわせないもの(=詩情)を表現したもの」。
 ほぼ佐藤春夫先生の受け売りだけど。

 意味が通じている必要はないし、本当にあったことを書く必要もない。
 僕の場合、「ああ、この気持ち!」と思ったときのことを、なんとか形にしたくて、書く。言葉ではとても表現できないような、モヤッとしたことを、なんとか言葉にしたくて、ふでをとる。
 たとえば8年前に書いたらしいこの詩は、たしか熱海あたりの坂道を自転車で登っているときの気分をあらわしたものだ。

寝静まる前の
遅い夕飯を作る音
そのほかに何も
細長い国道に車はない
おばあちゃんが電動自転車で
きつい坂を電灯も点けずに登り
シャッターの降りない暗い金物屋の二階には
まだ白熱灯が窓を照らす

 これらは全部、ウソである。熱海あたりで感じたことを書いた、というのは間違いないが、夕飯の音も、おばあちゃんも、金物屋も、すべて架空。ただ、なんとなくそういう言葉で表すにちょうどいい感覚だった、というだけ。クルマだって本当は走っていたのかもしれない。

 ここで宮沢賢治を持ち出してみる。『注文の多い料理店』という単行本の序文にこうある。

 これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらつてきたのです。
 ほんたうに、かしはばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかつたり、十一月の山の風のなかに、ふるへながら立つたりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたないといふことを、わたくしはそのとほり書いたまでです。

 宮沢賢治は、童話作家というか、小説家のようなものとして有名だけど、やはりその本質は詩人なのだと僕は思っている。佐藤春夫も寺下辰夫も、そしてこの僕も、まったくもって詩人でしかない。
 何を書いても詩になってしまう、ということなのだ。そのことは芥川龍之介の「佐藤春夫氏の事」という名文がみごと言い切っている。

 一、佐藤春夫は詩人なり、何よりも先に詩人なり。或は誰よりも先にと云えるかも知れず。

 二、されば作品の特色もその詩的なる点にあり。(略)

 三、佐藤の作品中、(略)、その思想を彩るものは常に一脈の詩情なり。故に佐藤はその詩情を満足せしむる限り、乃木大将を崇拝する事を辞せざると同時に、大石内蔵助を撲殺するも顧る所にあらず。佐藤の一身、詩仏と詩魔とを併せ蔵すと云うも可なり。

 四、佐藤の詩情は最も世に云う世紀末の詩情に近きが如し。(略)

「三」の「故に佐藤はその詩情を満足せしむる限り、乃木大将を崇拝する事を辞せざると同時に、大石内蔵助を撲殺するも顧る所にあらず。」というのは、たぶんこういうことだと思う。佐藤は詩情のためにどんなことでも自由に書く、思想だの信条だの、そういったものの一貫性だのはどうでもいい。常識も良識も、あるいは背徳も、詩情の前には意味を持たない。善悪をもこえて、詩情にのみ従う。だから「詩仏と詩魔」とを併せ持つ、というのである。
 モチーフだのストーリーだの、そんなことは二の次で、とにかく詩情。だから、佐藤春夫の小説に面白いものはない。誰が読んでも夢中になる名作、というのは一篇たりともない。それは佐藤が小説家ではなく、詩人だからだ。

 僕も、詩情にのみ従い、いくらでもウソを書く。ウソと言って悪ければ、架空と言って悪ければ、宮沢賢治の言葉を借りたい。「もうどうしてもこんな気がしてしかたない」ことを、「ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたない」ということを、そのとおりに書くのである。
 狸が狐が人を化かす、というのは、たぶんそういう種類のできごとなのだ。

 その時、たぶんおばあちゃんはいなかった。自転車も走っていなかった。金物屋もなかった。だけど、熱海あたりから帰って、あの時のあの感覚を思い出してみると、なんだかどうしても、そうだったような気がしてくるのである。そうでなければ、あの時のあの感覚を表現することができないのである。
 まぼろしだとか、起きてるうちに見る夢だとか、メルヘンの世界に迷い込む、といったようなことどもは、そういう気分が、詩情が見させる、連れていく、そういったようなものなんじゃないかと、思う。

点々と街灯
薄い星あかりと消えた月
瞬く自転車のライトが
シャッターを切り続け
焼き付かせる
この無音
その中の音
一瞬の暗闇とまた次の照明
たまにぶつかって虫が落ちてくるらしい
声はしないが何か飛んでいる
どんな町だかわからない
道はほとんど眠りに入り
たまに生き物が通っても
凍ったように動かない
だが歩道の両端から冷たい誰かの体温が
じわじわと伝わってくるようだ
人が住んでいる
人が住んでいる
死んだように生きている
人が住んでいる
知らない人ならどこでもそうだが
やはり恐ろしく
きっと優しく
人が住んでいる
この町の道を
住んでない僕が走るのが
降る雨のような
吹く風のような
夏のはかなく短い命が
知らず知らずに駆け抜けていくような
蝉がなきはじめた
馴染みの蝉が

 たぶん、蝉なんて鳴いていなかった。だけどそこでもしも蝉が鳴かなかったなら、僕は発狂していたのかもしれない、のだ。(これは柳田国男の文章として小林秀雄が紹介したものを太田光さんが紹介したエピソードと似ている。)
 このとき、本当は蝉なんて鳴いていなかった。もしくは、蝉はずっと鳴いていたのである。だけどもし、このタイミングで蝉が鳴き始めた、ということでないのならば、僕の「あの感覚」を言い表すのに、絶対に不十分なのである。
 もし、この詩からその部分が欠落していたならば、まったく別の感覚を表した詩になってしまう。それはひょっとしたら、「頭が完全に狂ってしまった時の感覚」なのかもしれない。

 13年前に書いたらしいこの詩も、実際にあったことでは全然ないけれども、僕が高校生とか大学生くらいのときに、川原だとかそのへんの道路だとかを、夜中に散歩していた時の深い気分のことを書いたもの、だと思う。そんなとき、実際に腕のない老人を見たことがあったかどうかは知れない。が、そうだったように思えて仕方がない、というか、そうでなければあの風景、あの気持ちは、絶対に成立しえないのである。
 ビー玉だって投げてない。でも、投げていないとおかしいのだ。

 それが、この世のあらゆる不思議なことと繋がっていると思う。そういうことは、女の子ならわかってくれると思うんだ!!
 ……こういうことを書くと、また「モテる人の文章だ!」と揶揄される(こないだされた)のだが、そこも含めてじつに本質的なことなのです。
 あと気軽に「女の子」なんて書くとやっぱり今どきミートゥーなんですかね?

2018.6.20(水) われわれに与えられたもの

 われわれは、生まれる環境を選べない。国を、時代を選べない。
 生まれたときから「システム」はある。そこに生まれたからには、そのシステムに則って暮らさなければならない。
 たとえば日本に生まれたとして、生まれた時にはもう、法律がある。人を殺したら罰される。
 生まれる前に、それを変えることはできない。
 生まれて一年が経ち、「一歳」と呼ばれる年齢になっても、それを変えることはできない。生まれたときから存在する、その法律を変えることはできない。
 二歳になっても、三歳になってもできない。
 では、何歳になったら、それを変えることができるのか?
 普通は、何歳になっても不可能である。

 われわれは、生まれてから何度も、「法律が変わる」または「新しくできる」ということを経験する。
 消費税ができる。はじめは3%だったのが、5%になる。8%になる。
 僕が生まれたときは消費税などなく、小学校に上がる前に3%になった。いまの大学生くらいなら、生まれたときから5%だし、2014年度以降に生まれた子供は、「生まれたときから8%」ということになる。
 いずれも、「いやだ」と言ってもそういうことなのだ。止めることはできない。自分の生まれる前から生きてきた大人たちが決めたことなのだ。子供は無力である。
 では、大人になって、「消費税をあげるな!」と声を出せば、上がらないものだろうか? 下げられるものだろうか?
 そういう問題でもない。
 そういうことを、個人の意志でどうにかできると思ったら、大間違いなのである。
 たくさんの人が、同時に同じ声を出せば、どうにかなるのだろうか?
 その「たくさん」の規模にもよるが、たいていは意味がない。
 デモをすれば、署名をすれば、何かが変わるか。私立の高校の校則とか、そのくらいの規模ならそういうこともあるだろうが、もう少し大きくなってくると、それだけではだめだ。
 会社組織のなかで、「給料を上げてくれるまでおれたちは働かない」と言って従業員の何割かが同時にストライキをすれば、たぶん意味はある。なぜ意味があるかといえば、それが「交渉」になっているからだ。
「俺たちが働かなかったら困るでしょ?」という理屈があるからだ。

 政府に対するデモでも、「俺たち、暴れますよ。人を殺しますよ?」という脅しをすれば、ひょっとしたら何かが変わらないものでもない。ただし、機動隊や自衛隊を総動員しても、おさまらないような規模であれば。今のところ、それはほぼ不可能である。

 たとえば法律というものは、あるいはそれを変えたり作ったりする構造というものは、われわれが生まれる前からできあがっていて、おいそれと変えることはできない。

 誰かが実際にえらい人を殺すか、国会中に議事堂を爆破したりすれば、ほんの少しは風向きが変わるかもしれない。最低でもそのくらいはしなければならない。

 われわれにあたえられたものは、身ひとつである。
 せいぜいまじめに生きるしかない。
「ひとりひとりがまじめに生きる」ということだけが、正攻法である。
 自分の思い通りにいかないことはいくらでもある。その中でも、もうまじめにいきるくらいしか、することはないのだ。突破口はそこにしかない。

「まじめに」というのは、言うまでもないが「他人の言いなりに」という意味ではない。「自分で」ということだ。
「法律を変えろ」と言うのは、そもそも、他人任せなのだ。そうではなくて、与えられた条件をうまく使って、自分なりに工夫してせいぜい生きていくしかない。もちろん、すこぶる悪い「条件」のもとに生まれてきてしまった人もいるかもしれない。そういう人は人一倍がんばるしかないのだし、そういう人を救いたかったら、「条件」のよい人が助けてあげるしかない。
 みんながまじめに生きるしかない。
 しかし現状、みんなはまじめに生きていない。考えるべき問題は、結局のところそこである。そこを無視して、「法律を変えろ」と叫んだところで、何の意味もない。

2018.6.11(月) 自由と場(2) ファミレスを例に

生きる・自由・死ぬ・自由
ウォォォォーッ ウォォォォーッ ウワァァァーッ ガァァァーッ
(BUCK-TICK/デタラメ野郎 作詞:桜井敦司 作曲:今井寿、桜井敦司)

 突然いみのわからない引用をしてしまった。名盤『Six/Nine』より。このトテチモナイ怪曲でも言われているように、「生きる自由」もあれば「死ぬ自由」もある。
 生きる自由、ということはよく叫ばれるが、死ぬ自由、ということが主張されることは少ない。この世の中にはどこか、「生きていることはそれ自体すばらしいことだ」という前提がある。それが個人の感想の平均なんだろうから構わないが、しかし「生きているべきだ」「死んではいけない」という話になると、ここで「自由」が登場する。「死ぬ自由」は保証されないのか?
 僕は、されるべきという立場である。死にたくて死のうとする人間を、引き止めるのは残酷だ。もちろん「引き止める自由」だってあるわけだが、どちらも同等の自由であろう。
 ところで、「人を殺す自由」というのがあるのか、というと、僕の立場からいえば、ある。ただし「犯罪」として取り締まられるので、「人を殺す自由は法的に制限されている」と言えると思う。対して自殺や自殺未遂は現代日本では犯罪ではないので、それ自体に法的な制限はない。にもかかわらず倫理的に常識的には制限されているような雰囲気を僕は感じていて、だから「それを制限する強制力を誰も持っていないはずなのに、なぜか世間では『いけない』ということになっている気がするなあ」と疑義を呈しているわけだ。

 でーさて、こんな高校生(のころの僕)が考えるようなことは本題ではない。これ以上この件について考えると、ずぶずぶと深いところまではまっていってしまう。それに、こんなことはけっこう多くの人たちが定期的に考えるようなことだと思うので、ここにわざわざ書くような意味はさほどない。

 いま僕が書いたような疑問の持ちかたは、「生きる・死ぬ」といったような大げさなことだけではなくて、あらゆる局面に応用できる、あるいは、されるべきではないか、というお話を、僕はしたいのである。

 たとえば、「盛り上がらない自由」「黙っている自由」「自己紹介をしない自由」「好きでもない男と寝る自由」「かつてアルコールで失敗した人間が酒を飲む自由」「健康に悪いことがわかっていながら煙草を吸う自由」などなど……。法的な制限はないが、なぜか「ダメだ」とされてしまう(場合が多い)ようなことたち。
 それによって「何かがうまくいかなくなってしまう」ような場合は、もちろん何らかの対応が必要だ。時とすればその自由を制限するべき場合だってある。

「ファミレスに行って大声で話す自由」を例にしてみる。これは、たぶん、客が自分たち以外にだれもいないとき、店の外にいる人にまで聞こえないくらいの音量で、店員たちの作業効率や精神状態をたいして損なわず、かつ、べつの客が入店してきた瞬間に「うるさい」と感じさせないのであれば、認められるはずだ。

 一。客がほかにいれば、いろいろと不都合が考えられるので、やめるべきであろう。
 二。店の外に漏れ聞こえると、「この店はうるさいからやめておこう」と引き返すような人がいるかもしれないし、通行人が店について悪いイメージを持ったり、近所からクレームがくるかもしれない。
 三。店員の作業の邪魔になったり、ストレスをためさせたりするようなら、控えたほうがよい。作業の邪魔というのは、声が大きすぎて店員同士の会話が聞こえないような場合、ということだ。声量は常識的に聞き取れるはずだと思う範囲内で調整すればよいが、もしも聴力の弱い店員がいたら、店員のほうから「すみません、うちは耳の悪い者がおりまして」と注意せねばならない。ストレスについては、どのような声に不快をもよおすかは人それぞれなので、ストレスに感じた店員がもしいたら、これもやはり店員のほうから「個人的に不快なので静かにしてください」と言わなければならない。重要なのは「個人的な不快感」でしかないことを、きちんと伝えることである。客の「大声で話したい自由」を制限する権利はこの店員にはない。だから、「個人的に不快であるからやめてほしい」と伝えることしかできない。「いや、僕たちは大きな声で話したいんです」と客に言われたら、その自由だって平等に尊重されるべきなので、説得してやめさせるか、店員が我慢するか、喧嘩するか、妥協点を探るしかない。妥協点というのは、たとえば「店長にかけあって、支払いを割引にしてもらうので、静かにしてくださいませんか」とか、「では、しばらく私は外に出ていたいと思います。恐れ入りますがお客さまのほうからも店長にその旨、お願いしていただけませんか」などと、双方が納得できそうな地点を提案するのである。
 四。あたらしい客が入店した場合。入店した瞬間にピタッとやめればいいのか、というと、ここが難しい。できれば客が入店する一瞬前にピタッとやめるか、音量を下げたほうがいい。新規入店を事前に察知するための「見張り役」を置くのが最良と思われる。

 以上四点(暫定。もっとあるかもしれない)を満たす範囲でならば、「ファミレスに行って大声で話す自由」は認められよう。
 しかし、はて。「認められない」と僕がいま決めたような条件下で、誰かがファミレスで騒いでいたら、どうなるのだろうか。どうもならないのである。やだと思う人が「やだなあ」と思うだけである。(もちろん、たまたま誰も「やだなあ」と思わない時だってある。)(ちなみに、「ファミレスで幼児が奇声を発して走り回る自由」は、また別の問題であって、ちがった考え方の導入が必要になると思われる。)

 せいぜい、心ある人が自主的に「すべてがうまくいきますように」という願いのもと、行儀良くするしかない。
 心ある人は、もちろん四条件を満たした振る舞いをする。しかし、ファミレスにはそれなりの高確率でうるさいグループはいる。労力を費やしてでも静かにしてもらいたかった場合、上記四点についての説明をしてみるのも、心ある人にできる対処の一つである。我慢したり、諦めて泣きながら帰るというのも、手の一つである。

 万事、これなのである。人生というのは、ほんと、万事、これなのだ。

「自由」は存在する。存在して、それが認められる状況と、認められない状況というのが、ある。ここまでは、そうだとしましょう。(そう僕は信じたい。)
 心ある人は、「認められる状況」に限定して、自由を行使する。できるだけ自由でいたい人(僕のことである)は、「状況」をつぶさに観察して、「認められる」のギリギリのところまで自由を謳歌する。時には状況を操作して、「認められる」の範囲を拡げていく。なんと、お行儀のよいことでしょう!
 心ある人は、「認められない状況」に直面したら、素直にあきらめるか、「認められる状況」にできるようがんばるか、譲歩する。譲歩して、「ここまでだったらいいでしょ?」というところで、落としどころを見つける。だめだったら、泣く。泣いて反省して、次に活かす。ああ、なんと人生熱心なことでしょう!?
 しかし「心ない人」は、お構いなしに「自由」をむさぼる。「認められる」か「認められない」かなんて、考えない。欲望のもと、やりたいようにやる。自分ルールをたくさんつくって、人に押しつける。その際、「他人にも自由がある」なんてことは、いっさい考えない。ファミレスで騒いでるれんじゅうは、このなかまである。

 むろん、むろん、はじめから「心ある」人などそうはいない。みんな「心ない」からスタートして、だんだん心を獲得していくのだ。それをみんなわかっているから、幼児はファミレスで奇声を発しても「許される」雰囲気があるのである。中学生とか高校生くらいは、まだ「心」が獲得できていない場合が多い(僕もそうだった!)から、「心ある人」が勇気を出して、労力も出して、例えば上記のファミレス四条件みたいなことを、教えてあげなければならない。

 ところが……大人になっても、いや大人になってますますいっそう、「心ない」ような人は、ものすごくたくさんいる。いいでしょうか、みなさま。「心ある」というのも、自由の一種なのだ。「心ある自由」もあれば、「心ない自由」もある。「心ある自由」と「心ない自由」が戦っても、決着はつかない。同等なのである。「心ある」側からしたら悲しいけれども、それは仕方ない。真理なのだ。
 つまり、「心ある人」が正しいわけではない。いや、もし正しかったとしたって、だからどうだということはない。「正しい」というシールが一枚、もらえるだけである。「心ある人」は「心ない人」に出会い、心が破壊され、泣く。「心ない人」は、心がないので、心が破壊されることもない。なんたる不公平! と「心ある人」は思うのだけれども、しかし実際、これが平等なのである。だって、「心ある人」は好きで「心ある人」をやっているのだ。「じゃあ、心なんてなくせばいいじゃん」である。「心ないほうがトクだって思うなら、お前もこっちこいよ。好き勝手やろうぜえ」なのである。
「心ある自由」を行使した結果、イヤな気分になるのなら、そんな自由は放棄して、「心ない自由」を謳歌しちゃったらいいじゃない、というのである。
 そしたら、ファミレスで思いきり大声で騒いだって、誰からも文句は言われない。もしも「出てけ」と言われたら、「食べログになんて書こうかなあ」とでも言えばいいのだ。そして「金なんかいらないから、出てってくれ!」と言われるのを待とう。みごとただ食いである。殴ったり暴れたりひどいことを言ったり、警察を呼ばれるようなことさえしなければ、何の問題もない。
 素晴らしきかな、心なき人生!
 そう、「心ある」ってのは自由の一種で、趣味の一種なのだ。べつに心なくたって、トクはしてもソンはしない。
 でも「心ある人」は、「心ある」をやりたいのだ。そっちのほうがその人にとっては、心地がいいのだ。「自分らしい」と思うのだ。
「自由」ってのは「自らに由(よ)る」と言うのであって、「自分らしく」ってことと、だいたい同じ意味なのである、と僕は思うのである。

 生きることが自分らしければ、生きればいいし、死ぬほうが自分らしければ、死ねばいい。それを自由と言うのだ。ファミレスで騒ぐような自分でいたければ、騒げばいい。そんだけの話なのである。

 この話は、前回の記事と完璧につながっている。「あなたにとっての正解はあなたの中にしかなく、他人にとっての正解はつねにその人の中にある。決してあなたの中にはない。絶対に」だ。
「ファミレスで騒ぐ」というのは、相手にとっては正解なのである。あなたにとっては間違いかもしれないが、そんなのは「心ある」あんたの勝手だ。あなたが勝手に「心ある」だけなのだ。心ない人の、心ない自由を損なおうというのは、戦争の火種である。
 そんな時に「常識」やなんかをタテにして、騒いでる人たちを叱ってしまう人がいるけど、だめ。そんなことをしたら戦争。そうじゃなくて、「騒ぐのはあなたたちの自由なので尊重したいのですが、私は不快なのです。どうか静かにしていただけませんか」と懇願するようにしましょう。それを拒絶されたら、「わかりました。では私は帰ります。しかし気分を損ない、食事もおいしく感じられず、予定していた読書もできませんでした。おそれいりますがお店の方に、私の支払いを少し割引するよう、あなたからも頼んでいただけませんか。あるいは、100円か200円くださいませんか」などと言ってみるのはどうでしょう。これはいいアイディアだ。しかし、相手はファミレスで騒ぐような人たちなので、面倒なことになるかもしれない。それがイヤだから、みんな黙って我慢して泣きながら帰るんである。
 なんせ相手は「心ない」のだから、敵にするのはたいへん危険、なのである。

 だからね、けっきょくは「その都度考える」しかないの、やっぱり。
 常識とか倫理とか、そういったもんたちはたいてい凝り固まって、流動性が低いから、使えないときはトコトン使えない。そういうのは「心ない」人が使うもんだと、僕は思う。心ある人は「心」っていう、宇宙で最も柔軟な流動体を身に秘めてるんだから。
 常識や倫理は、道徳は、凝り固まったあらゆるものは、心ない人たちの武器なのだ。武器だからカタいのだ。人を傷つけるのだ。心ある人は、心によってそれをかわし、自由に泳ぐのだ。飛ぶのだ。遊ぶのだ。
 それで僕たちは「楽しい」ということのなんたるかを知るわけだ。

「自由と場」というタイトルの(2)だもんだから、それっぽいことを最後に書いておく。
 どんな場にも、いる人それぞれに自由があって、どれも同じだけの力を持っている。ある場が「楽しい」という状態になるためには、「心ある自由」が謳歌されていることが必要で、そのためには「心ない自由」をできるだけ追い出すか、機能できないようにすることが、一手としてある。共存する手だってあると思う。いずれにしても、その方法を考えたり実践するのはいつだって「心ある人」の仕事なのだ。それを不公平とか、ずるいとか思ってはならない。相手はそういう自由を謳歌しているという点で、あなたと平等なのだから。
 できるだけのことをしよう。大変だけれども、「楽しい」ことは何よりだ。

2018.6.5(火) 自由と場(1) 「正解」はそのつど生まれる

 あなたにとっての正解はあなたの中にしかなく、他人にとっての正解はつねにその人の中にある。決してあなたの中にはない。絶対に。
 ある場に三人の人間がいれば、その場での「正解」は三人の中にある。三人それぞれの中に一つずつ、別の正解がある、というものではない。三人のあいだの「関係」の中に、一つだけある。
 そう、正解は一つしかない。しかしその「一つ」は、あらかじめ定まっているものではない。「正解!」ということになったら、その時に正解は生まれる。つまり、事前には正解になりうる選択肢がいつでも無数にあるわけだが、時間を巻き戻すことはできないので、一つの正解が定まれば「その正解」以外はもう、存在しえないのだ。たとえ質の悪い「正解」であろうと、それで確定してしまえば、やり直しはできない。もちろん、「不正解」だった場合も、それを撤回することはできない。せいぜいその後に正解をくり返して、なるたけ正答率を上げていくことだ。

 三人の場であれば、三人の暗黙の合意によって、「これをいまの我々の正解としましょう」という判断がなされる。合意した以上、文句を言うことはできない。
 しかし「私はそんなことに合意したつもりはない」ということになれば、「文句」となる。
「私にとっての正解は、それではなかった。しかしあなたたち二人は、そんな私を無視して、『二人だけの合意』で正解を決めた。」
 こういう話になってくると、「三人の場」はその時、健全に成立していなかったことになる。
 ここで、二つの道を考えたい。三人がふたたび「健全な場」の成立をめざして「合意」をやり直すか、誰かがその場を離脱するか、である。
 前者の場合、失敗を活かして「健全な場」を形成し直すことができるのならば、それで問題はない。だが、そのために誰かが過剰に我慢したり損したりするようならば、それはたぶん健全ではない。「三人の場を維持する」ことが自己目的化して、楽しいはずの時間が犠牲になってしまう。
 そういう時は、やはり、「少なくとも今は、この三人の場を健全に成立させることは難しい」ということだけに合意して、誰かが離脱することが好ましいように思える。

 人間関係の基本というのは、おそらくこのようなものである。
「あなたにとっての正解はあなたの中にしかなく、他人にとっての正解はつねにその人の中にある。決してあなたの中にはない。絶対に。」
 だから、
「場の正解は、場の中にある。場以外は決して正解を持たない。あなたがそれを持っているわけがない。」

 A氏が営業しているバーに、客としてB氏がやってきた。B氏はこう言う。「首相をSATSUGAIすべきだ。」
 A氏はこう返す。「とんでもない! どんな理由があるにせよ、人をSATSUGAIするのはよくないし、首相をSATSUGAIして世の中を変えようなんて、民主主義に反する。民主主義に反することは、とても悪いことだ!」
 この二人の言い分は、イーブンである。(むかし東海テレビで今田東野が司会の『年の差バトル! 言い分 vs Eぶん!!』という番組があったのだが、それはまた別の物語。)
 A氏とB氏が、どれだけ自分の正義を語り合っても、どちらかが正しいということはない。
 もしもどちらかが、「あなたは間違っている」という内容のことを言ってしまったら、それは言ったほうが悪い。上から目線で口にすれば、「説教」ということになる。
「二人の場」において、二人の意見が相違した場合、その意見のどちらも正解にはならない。もちろん、対話を尽くしたうえで、「なるほどあなたの言うことは一理ある」とか、「そうかそういう考え方もあるのか、持ち帰って熟考してみます」とかいうことになれば、それはかなり実りのある会話で、「質の良い場」だったことになるだろう。しかし、「私の言うことが正しい、あなたは間違っている」という一方的な言い分を互いにぶつけ合うだけでは、必ずや「質の悪い場」ということになるはずだ。
 大切なのは、「自分も相手も、正解など口にしてはいない」ということだ。正解は二人の間にあって、各人の中には絶対にない。

 世の中には、「自分とは明らかに違う意見を目の前で表明されると、自分が否定されたような気分になる」人がたくさんいる。そういう人に、「私はこう思う」を軽率に言ったら、それはその時点で、非難や説教として受け取られてしまう。
「首相をSATSUGAIすべきだ」とB氏が言うのに対して、「私はそうは思わない。首相をSATSUGAIしてはいけない」とA氏が言ってしまったら、そこで起こっている現象は、「A氏がB氏を否定した」になる。世間の常識や世界の正義がどう言おうと、その二人の場においては、そういうことにも余裕でなる。
 では、どうすれば「否定した」にならないのか?

B氏「首相をSATSUGAIすべきだ」
A氏「へえ、なぜそうお思いになるんで?」
B「あの首相が日本をダメにしている。あの首相さえいなければ、日本はよくなる。」
A「へえ、なぜそうお思いになるんで?」
B「あの首相のXという政策は、このまま行けば基本的人権を侵すことになる。」
A「そうですかい、お客さんは、基本的人権がお好きなんですねえ。」
B「はいそうです、基本的人権は、大切です。」
A「なぜ、基本的人権は、大切なんですかね?」
B「それが民主主義のコンカンをなすものだからです」
A「ああ、お客さん、民主主義のこともお好きなんですねえ。」
B「ええ、大好きです。」
A「しかしあれだねえ、首相をSATSUGAIするってのは、あんまり民主主義って感じじゃねえやなあ。基本的人権ってやつは、首相にもあるんでしょう。」
B「それは心得ております。しかし、あの首相の存在は公共の福祉に反するのです。公共の福祉に反するものだから、除かねばならんのです。だからSATSUGAIするべきなのです。」
A「おっかねえ話ですなあ。なるほどもしも彼の存在が、みんなの幸せをおびやかすのだとしたら、それはちょっと、困りものだねえ。」
B「そうでしょう。」
A「しかし、SATSUGAIしなきゃいけないのかね。幽閉くらいで、どうだろうねえ?」
B「それもありですね。とにかく政権から引きずり下ろせばいいのですから。」
A「SATSUGAIするってなると、誰が手を下すかって問題もありまさあ。実行犯はまちがいなく、重い実刑に処されます。そうすると、かなり長い間、かれの、人権っていうんですか? は、制限されることにならあね。そりゃあ、あんまり忍びないってもんじゃあないですか。幽閉くらいなら、せいぜい数年、よくすりゃあ執行猶予がついて万々歳、ってことには、なんないもんですかねえ。」
B「うーん、執行猶予は実際、難しいんじゃないでしょうか。それでもSATSUGAIよりずいぶん罪が軽いのは確かですね。でも、幽閉よりもSATSUGAIのほうが簡単なんですよ。幽閉は手間もお金もかかるし……何より成功率がひくい。警察や機動隊、ことによったら自衛隊が、首相を取り戻しにくるわけです。それを何年、あるいは何十年逃れ続けるのは至難のわざ。だいいち、生きているということは敵に希望を与えます。むしろ神格化されることだってありえるわけですよ。目的は幽閉ではなくて、政策の是正であって、そこが変わらなければ意味がないんです。今のナンバーツー、スリーが、現首相と似たような政策をとった場合、何人もさらって幽閉しなきゃならない、現実的ではないですよね。SATSUGAIなら一瞬ですみます。何人でもやれます。」
A「ああ、なるほどねえ。お客さん、なかなか考えているんだねえ。でもねえ、民主主義が好きってんなら選挙でなんとかするって発想には、なんないんですかい。」
B「選挙で世の中は変わらないですよ。」
A「そうかもしれないねえ。うーん、ほかにできることはないもんですかねえ……。」
B「そうですねえ……なんでしょうねえ……。私はSATSUGAIがいいと思うのですが……。あ、モスコミュールくざさい。」
A「アイ。」
B「よかったらマスターも一杯。」

 ↑二人の会話は、平行線である。双方が違う考えを持っていて、どちらの考えも変わってはいない。しかし、「考えが深まった」という可能性なら、多少ある。どちらも慎重に、相手を否定せず、慎重に言葉をつむぎ、慎重に相手の言葉と、自分の内心とを照らし合わせている。これをもって「無意味な会話」と僕は思わない。
 ちなみに、僕は民主主義も選挙も基本的人権も、もちろんSATSUGAIも好きではない。このA氏もB氏も、僕のふだん考えていることとはまったく一致しないことばかりを考えて生きていると思う。ただし、もしも僕のお店にB氏がやってきて、上記のような話を持ちかけてきたら、僕はA氏のように対応するかもしれない。「僕ら」にとっての正解はつねに、僕の中になどないからだ。
 上記の会話において、A氏は慎重に、自分の意見を隠している。B氏に「SATSUGAIすべきだ」と言われて、A氏は「すべきでない」と思ったのである。しかし決して、それを口にはしない。それは「A氏が一人でいるときの正解」であって、「A氏とB氏が二人でいる場での正解」ではない。それをわかっているのである。
 いま書いたような会話は、たぶん二人にとって、一つの正解ではあるだろう。

 場において大切なのは、「誰がどう思うか」ではなく、「この場はどういうふうにあるべき場なのか」である。それを考える材料としてのみ、場の参加者は存在する。
(「場」は「関係」と置き換えて、さしつかえない。)

 極端な例を出そう。ある男性は、内心で「レイプしたい」とか「セクハラしたい」とか「痴漢したい」とか思っている。
 これは彼にとっての「正解」である。「本音」だ、という意味で。
 しかし知人の女性とか、電車で居合わせた女性とかと「場」を共有しているときには、それは絶対に「正解」ではない。
 やってはいけないことである。(当たり前である。)

 ある男性は、ある女性について「さわりたい」と思っている。
 しかし、むやみにさわっていいというわけではない。
「さわる」ということは、彼の中では「正解」である。妄想の中でなら、それをしてとがめられることは(通常)ない。
 しかし、二人の場においては、「さわる」が必ずしも正解なわけではない。二人にとってそれが「正解」となるような関係やタイミングが存在している時にのみ、「さわる」は正解になる。
 かりにひとたび、二人のあいだで「さわる」ことが「正解」となったとしても、三人かそれ以上の人のいる「場」であるならば、それが「正解」かどうかはまた変わる。友人と遊んでいるときとか、教室とか、ファミレスや駅のホームとか。状況は無限に考え得るが、その状況ごとに何が正解であるか、というのは変わってくる。さわっていいときもあれば、よくないときもある。二人だけのときは二人で決められるが、三人以上になったら、二人だけで決めてはいけない。

「あなたにとっての正解はあなたの中にしかなく、あなたがたにとっての正解はあなたがたの中にしかない。だから、『わたしたち』にとっての正解は『わたしたち』の中にしかなくて、決して『あなたがた』の中になどない。絶対に。」
 なのである。

 スパッと言い切ってしまえば、当たり前のことでしかない。「正解は場の成員によってコロコロ変わる」である。これは「メンバーによって変わる」ということだけを意味するのではない。もっと正確にいえば「正解は場の成員それぞれのその瞬間の気分や思惑によってコロコロ変わる」だ。
「昨日はよかったけど、今日はそういう気分じゃない」という人が一人でもいたら、昨日の「正解」が今日は「不正解」になる、というのは、当たり前にあるのである。
 だからこそ、「今日はそういう気分じゃない」ということは、条件として場に提出することが(できる限り)必要になる。「ごめん、今日ちょっと体調悪くて」とか、そういった一言と、そこから色々と忖度しようとする場の成員の心遣いによって、「そんじゃ今日はこうしようか」という「昨日とは違った判断」が生まれる。「今日はそういう気分じゃない」の表明がなければ、忖度は難しい。もちろん、疲れていて表明する元気さえない、とか、そういう事情もあるものだ。そういうときは「まあ、表明していないんだから仕方ないよな」と思えるとかなり楽だし、そもそも人のいる場に行かないようにするというテクニックも、使えるときは使ってもよいと思う。
「察してよ!」というのは勝手である。「おれたちに察してもらえるように表明しろよ!」である。「だって○○さんたちは察してくれたよ!」と言われれば、「いやおれたちは○○さんたちじゃねえから!」である。

「正解は常にあなたたちの中にしかない。あなたたち以外の第三者を含んだものの中には決してない。絶対に。」  だ。

「あなたたち以外の第三者を含んだもの」というのは、たとえば「世間」である。
「常識」である。
 そんなところに答えはない。
 正解はない。

 誰かが口を挟んできたとしたら、「わたしたち+その誰か」のあいだでの正解が、新たに生まれるだけで、もともとの「わたしたち」にとっての正解は、また別に存在し続ける。

 正解は、あるとしたら、「この場においては」という条件付けのもと、一時的に生ずる。
 ずっと正解であるようなことはない。一定期間同じ正解が続いている、ということは、見かけにはありうるが、それは無数の正解を何度も何度も、延々と弾きだし続けているだけにすぎない。
「なかよし」というのは、そういう正答率が極めて高い状態が維持されていることをさすのだろう。たまには間違う。しかし、できるだけ「あてたい」と互いに(あるいは、みんなが)思うからこそ、なかよしでありつづけられる。

 いやしくも「場」(ないしは「関係」)というものにいる以上、「正解」をあなたが決めてしまうというような傲慢さを持っていてはならない。そう僕は主張したい。
「私は自分の意見を言っているだけで、正解を言っているつもりなんかない」と、ある種の「あなた」は思ってしまうだろう。しかし、「自分の意見を言う」というのは、多くの場合それだけで「正解を言う」ことになるのだ。そのことは知っていなくてはならない。
「自分の意見」なんてものは、本当は「自分の内心」においてのみしか、意味を持たない。それをわざわざ外に出すということは、「私はあなた(たち)と一緒に正解を生み出そうというつもりは毛頭ございません」という宣言にほかならぬ。恋愛関係において、「おれはこう思う」という主張はすべて無意味だ。「あなたはどう思う?」も意味がない。「わたしたちの間には何があるべきか」だけである。各人がどう思うか、というのは、それを考えるためのヒントになるかもしれないというときにだけ、そっと小声で差し出されるくらいでよい。

「人は一人で生きるわけではない」というのは、まさしくこういう意味だと思っている。

2018.6.2(土) 民主主義とSATSUGAI(と鳴き声)

 ある人(Aさんとする)は、国のトップ(Bさんとする)が嫌いである。
 その国は「民主主義」という考え方を標榜している。
 民主主義とは、この場合、18歳以上の全国民による投票によって、国の重大ごとを判断する代表者が決められるというしくみである。トップは国民が直接投票して決まるのではなく、「投票で選ばれた数百人の代表者たちがある程度近い考えの者どうしでグループをつくったとき、最も多数を占めるグループのリーダー」がそれに就任する。
 このしくみは「代表者」による合議によって変えられる。もっと根本的な変更も、「合議からの国民投票」という手続きによって可能となる。極端にいえば、あらゆる決まりごとをすべて廃止する(憲法や法律等の全項目を削除する)ことも理論上はできる。

 そういうことなので、このしくみ(システム)を採用する以上、「投票」が大きな意味を持つことになる。代表者になりたい人たちが立候補をして、得票数の多いものが代表者となる(このあたりについてはいろいろと複雑なルールがあるらしいが、ここではふかくたちいらない)のである。
 投票で選ばれた代表者たちがどのような集合をなすかによって、国の重大ごとは左右される、というわけだ。
「投票」は事実上任意、つまり強制ではない。
「18歳以上の全国民」と書いたが、実際のところ投票に参加するのはその半数程度である。
 その半数程度の票数を、立候補者たちは奪いあうことになる。

 さてAさんは、そのような手