少年Aの散歩

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2020.2.25(火) ふるさとについて

 There's no place like home. とは映画『オズの魔法使』(1939)に出てくるフレーズで僕の観たバージョンでは「おうちほどいいところはない」と訳されていたと記憶する。しかしhome=おうちというのはもしかしたら「自宅」というだけの意味ではないのかもしれない。親そのものがhomeであるという人は多いだろうし僕にとっては矢田川という地元の川こそがhomeだったりする。それが許されるのならば愛しい風景はすべてhomeと言ってしまいたい。あの風景。あの気持ち。あの時間。あの甘い旋律。
 友達もhome。友達のいる場所、友達のつくっている場所はhome。homeのもとはラテン語の「homo=人」らしい。『オズの魔法使』ではかかとを三回鳴らしてThere's no place like home. と唱えたドロシーはカンザスの自宅ベッドで目を覚ます。たくさんの友達に顔を覗き込まれながら。

 ふるさとは心にある。そう思うことが大事だと思う。誰の心にもふるさとはある、とは言い切れないが、「あるはずだ」と思って生きることはとても大切だと。
 妖精が目に見えないとしたら、「見えるはずのものが見えない」というだけである。本当は見えるはずなのだ。だってそこにいるのだから。
 妖精はいて、本当は目にも見えるはずなのだ。しかしどうやら見えないらしい。たいていのことはそういうしくみである。
「自分はかわいくない」と思っている人は、自分の「かわいい」ところが、見えていないだけなのである。そう思っていて間違いは無いと思う。
 自分にhomeなんてない、と思っている人は、まず「自分にもhomeはあるはずだ」と思うところから始めなければならない。「ここが自分のhomeだと思い込む」ことはしてはいけない。そうではない。「homeはある」とだけ思うのだ。すると、ふとした瞬間にのみ、「あ、home?」と思うことができる。
 親を愛せない人が、「でもこの親が自分のhomeなんだ」と思い込むのは不健康かもしれない。「この親はhomeではない」と思うのもわびしい。ただ「自分にhomeはある」とだけ思うほうが健全だといま、僕は思っている。遠心的というやつである。
 恋人がいて、その人をhomeだと思うのは危険かもしれない。「この人はhomeではない」と思いながら付き合うのも妙なこと。ただ「自分にhomeはある」とだけ思う方がいいだろうと僕はいま、思う。
「今の自分はかわいい」といくら思っても、証してくれる根拠はない。「かわいくない」と思うことも同様。ただ「かわいいはずだ」と思うことしか、できない。「わたしはかわいい!」は誰も証明してくれないが、「かわいくいたいな」とは誰でも思える。
「ここがhomeである」を証明する方法はないが、「homeがあったらいいな」とか「homeがあるはずだ」とは誰でも思える。思っていい。思ったほうがたぶんいい。
 で、homeらしきものと出会ったら「homeなのかもな」とほんのり思う。そのくらいで人は十分に幸福だろう。
 妖精らしきものと出会ったら、「妖精かもな」と思えばいい。

 20歳のとき、当時35歳とか39歳くらいだった人と友達になって、未だに仲良くしている。会うと「homeかもな」と思う。今日会った。その時間は心地よく、まことにhomeじみていた。そういう人や場所がいくらかある。なんと素敵な人生だろう。苦しいことも辛いこともまだまだあるが、人生そのものは「素敵」という言葉から動かない。かかと三回鳴らして、帰る場所があるはずと思えるゆえ。(だから好きだ、ガンダムやザンボット3の最終回。)

2020.2.20(木) 白い飾り

 直観が通り過ぎて枯れたあと、覚えていることが散漫と広がっていく。
 完璧な瞬間からうっすらの幸福へ。

 湿った身体が風に冷やされてさみしくなった。
 幸せと寂寥は対になっていて、天秤のように傾く。たいがいはいくらか同時にある。
 体温と外気、寒い日に点のような赤い丸。
 暑い日にはとろけてしまう。
 手を繋いで歩くとき、寒暖で感覚が違って、どちらも想像できる。
 湿った手か乾いた手か。
 なんとなく湿っていて少し冷たかったり、乾いているのに妙に温かかったり。

 はじめはもっと巨大な直観があったんだけど、今はせいぜいその程度。

 熱情は想像に変わる。
 昂奮は幸福になる。
 うっすらと、平べったい心地よさ。
 想い出と想像はほとんど等しく、そういうものが豊かな人は幸せに暮らせるというわけだ。
 過去も未来もないということ。
 ただ想うということだけがある。
「愛しているだけで十分」って境地。
 さみしいけどね。さみしいってのは、熱情が消えてひらべったくなった状態を言うから。
 悟りというのは、それを「いやだ」とも思わないことなのかもしれない。
 僕はたまに捨てたいと思います。

 けどまあうっすらとしたミルフィーユみたいな愛も存外捨てたもんじゃない。
 幸福はうっすらと巻きついてくる。何重にも。
 その中心は外から見えない。
 こっそりとそこで可愛く生きるのだ。

 声明

 最近、福岡の人と文通したり夜学バーのジャーナル書いたりと、文章あれこれ書いているのでそちらもどうぞ。あと超なんかあったときとかに詩も書いてます。(こないだ3ヶ月ぶりくらいに更新した。)

2020.2.17(月) 追儺

 いろんなことを同時に考えていて、そのすべてが繋がっているから、なかなか文章にできない。とにかく一言で言ってしまえば前回書いた「第三者」ということだし、全体と個ということだし、自分と他人ということである。みんな、少なくとも僕の周りの人たちはそのあたりのことで悩んだり苦しんだりしている。裏を返せば、そのあたりのところをしっかり見据えておけば、うまく生きていけるということでもあるだろうと僕は直感しているので、このままそのあたりを考えていきたい。それは僕のずっと考えている場だのなんだのということにも関係が深いはずだし、まあなんというか普遍的なことなんだろう。ただ、それについてどう考えるか、どう言葉にするか、といったところはそんなに普遍的ではないから、いちいち時と場合にあわせて考えていかねばならない。

 ここまで書いて時は過ぎ、今20日の深夜なのですが、実は何度も書いては書けず(しばらく15日の日付だけUPして放置してしまった)、更新できずにおりました。大作を書けるだけの考えはたまっているのですが、なにぶん大作すぎて本一冊ぶんくらいになりそうなので今年中に本一冊にする予定です。
 なんかもそっとくだらないかっこいいこととかも書きたいものだ。

過去ログ

移転完了しました。ありがとうございます。ちなみに前URLは2016/11/10(木)に消滅しました……。

尾崎昂臣(@tkom_Jacky)