ひごろのおこない/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。
過去ログ
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2025.7.1(火) お金の向こうに人がいる
2025.7.2(水) 夜のハレとケ
2025.7.3(木) ナイナイとは何か
2025.7.4(金) 爆笑問題の天下
2025.7.5(土) ウンナンそしてタモリ(三部作おわり!)
2025.7.6(日) 示準化石(シャズナを例に)
2025.7.7(月) 示相化石(菜摘ます児)
2025.7.8(火) 発達が障害されてますから…
2025.7.9(水) 15歳の「はじめに」
2025.7.10(木) 25th 告知文など
2025.7.11(金) Ez25周年!
2025.7.12(土) 定食のコーヒーの値段
2025.7.13(日) 大阪 10年ぶりや7年ぶり
2025.7.14(月) 名古屋少しだけ
2025.7.15(火) そしたらベンジー投票済証で殴って
2025.7.16(水) 愚かさは許されている
2025.7.17(木) やがっしゅく 8/15-18
2025.7.18(金) 思想的プチ総集編
2025.7.1(火) お金の向こうに人がいる
僕は地球環境のことなんか二の次以下にしか考えていなくて、単純に「お金を使うということは、何かをさぼって他人任せにすることであって、“働く”ということを放棄するということである。だからお金はできるだけ使わずに、もっと“働く”ということに積極的に関わっていったほうがいい」という、数日前に思いついた信念に基づいて言っている。
(2008年9月8日の日記より)
理論的には、働けば働くほどお金がいらなくなるはずなので、お金を稼ぐ必要があまりなくなって、今までお金を稼いでいた時間を“働く”ことに費やせるようになるはずだと思うんだけど、どうやら世の中がまだそこまで進んでいないようだ。どこかでスイッチが切り替われば、そういう世の中もやってきそうな気がするんだけどねえ。
で、さて。要するに僕は「お金を稼ぐ」ということと「働く」ということを分けて考えている。ここで少々特殊な定義をすると、「働く」ということは、「自分でやる」ということだ。(ここから、とてもわかりにくくなります。)
そして、「お金を稼ぐ」とは、「誰かに何かをさぼらせて、代わりにやってあげる」ということで、「お金を使う」とは、「何かをさぼって、誰かに代わりにやってもらう」ということ。すべてを「自分でやる」ことはできないから、そのために「分業と協業」という考え方があって、世の中にはさまざまな職業がある。世の中は、「誰かの代わりに何かをやってあげて、その代わりに、誰かに何かをやってもらう」ことで成り立っている。
(同上)
17年前。前年の2007年には小沢健二&エリザベス・コール『おばさんたちが案内する未来の世界』を10回近く観ていて、小沢さんの『うさぎ!』シリーズを耽読していた頃。また橋本治さんの著作を浴びるほど読んでいた頃でもある。成城学園中学校の国語科教員だった。杉の森(そういう建物があるのだ)で『貧乏は正しい!』を読んでいる光景をなぜかよく覚えている。ともあれ小沢さんと橋本さんにかぶれ、考え方をインストールしまくっていた。上記の文章もその成果である。あの時期がなければ今の僕はない。今に続く良い出会いもたくさんあった。
先ごろ田内学『お金のむこうに人がいる』を読んだ。いい本だった。2021年発売で、たぶんけっこう売れたと思う。ほぼ同じテーマの近作『きみのお金は誰のため』は25万部以上売れたらしい。こっちも読んだが、『お金の向こうに』のほうが(本を読む習慣があるなら)オススメ。めっちゃ雑に言えば引用した文章のようなことを「しっかり」書いている。
お金を稼ぐということは「誰かがお金を払っている」ということで、お金を払うということは「誰かが代わりに働いている」ということ。お金の向こうに人がいる。この基本中の基本を自分で悟った23歳の僕はエライ! 自画自讃! もちろん小沢&橋本の薫陶あってだけど。
本の内容を少しだけ。大事なのは「誰が働いているか」という点に尽きる。金(数字)ではなく人に注目する。たとえば国内の人が働くか、国外の人が働くか。国外の人に働いてもらったら「借り」になる、国外の人のために国内の人が働いたら「貸し」になる。その貸し借りが金額で表される。
僕の過去の文章でいうと、「自分でやる」領域が増えれば「借り」は減る。「自分でやらない(サボる)」領域が増えれば「貸し」が増える。逆だったらごめんなさい、二項対立が苦手なので……(
昨日の日記参照)。
「自分でできることは自分でやる できないことは友達に相談する それでもダメならお金を使う」これも僕がその頃思いついたスローガン。正確な時期はわからないが2010/07/16の記事に見つかった。お金というのは肩代わりなのだ。ふだんは歩いて帰るけどしんどい日はタクシーに乗る、というような話。それがワークライフバランス、本来。
なんにせよ、そのような素朴な発想を柱にした本(と僕は思う)がしっかり売れている現状はそれなりに救いがある。17年前にはそんな言説聞いたことがなかった。寡聞にして。あったのかもしれないけど。少なくとも、リベラルな人たちの「自然回帰!」「所有は邪悪! 共産!」みたいなノリじゃなくて、それなりにプロフェッショナルな人による経済の入門書として世に出て売れたものはなかったのでは? もしすでに類書があれば教えてください。チーズはどこに消えた?とか金持ち父さん貧乏父さんとか、夢をかなえるゾウとかが実はそういう話だったりして。(←どれも一切読んでいない。)
2025.7.2(水) 夜のハレとケ
飲み屋で、「平日は24時まで、金土のみ朝5時まで」というお店が増えている、気がする。昔からそういうお店はそういうもんではあるのだろうが、ハッキリと明記するお店は多くなっているのではなかろうかと、これも印象論でしかないが感じている。
湯島(わが夜学バーのある街)で大先輩方(50代以上)のお話を聞くと、「とにかく飲む人が減っている」と誰もが言う。中堅(40代くらい)の方々は「ヒマだ、ヒマだ」とひたすらこぼす。若手(20~30代、ないしお店を開いて間もない人)はそもそも不景気しか知らないので「こんなもんか」と思いつつ、「飲食って儲からないなあ」とか「いつまで続けられるかなあ」と心配している、印象。
それでも週末はそれなりに盛り上がるお店は多く、「週末はともかく、平日はもう……」という愚痴もよく聞く。
夜の世界のハレとケがくっきりと分かれてきたのかもな、と直観的に思う。平日に遊ぶ人がだいぶ減ってるんじゃないかと。それは僕の嫌いな「イベント社会」の進行とリンクする。日常はつまんなくていいから、イベント事の時にドッカーンと盛り上がろう、的な。いやいや、日常生活も楽しいほうが絶対いいでしょ、と僕なんかは思うのだが、もともとの日本文化のあり方を考えればそのほうが自然なのかもしれない。ふだんおもんない(失礼)徳島人が阿波踊りの数日間だけ気が狂う、みたいな。
平日にお客が来ないから、平日は休みを増やして週末だけがんばろう、なんなら週末だけ店を開ければいいや、という発想は僕だってしたことがあるし、気持ちはわからんでもない。でもそれは悪循環というか、「週末は楽しく、平日は楽しくない」という気分を加速させてしまう気がする。僕は思想的に平日こそむしろ楽しくしていなければならないと思っていて、だから夜学バーもできる限り平日に休みをつくりたくない。休むとしたら日祝にしておきたい、せめて。本当は年中無休がいいのだ、曜日に差などない。日はすべて平等であるはずだ。
平日元気と勇気を出してフラッとチラッと、お店に遊びに来て頂けたらじつに幸いであります。
2025.7.3(木) ナイナイとは何か
ナインティナイン岡村隆史さん55歳の誕生日でありナインティナインのオールナイトニッポン放送日。1549回らしい。僕は97年からなのでそのうち1300~1400回は聴いていると思う。
これは確か次兄のY氏(勝氏のように距離をとる表現ではない)が言っていたと思うのだが、「ナイナイ自身が面白いわけではない、むしろナイナイは面白くない、面白いものを面白いと見抜くのが得意なだけだ」と。彼はもともと「吉本印天然素材」が好きで、オールナイトも当然僕より早く聴いていたし、もちろん僕らは『めちゃモテ』も観ている。(『とぶくすり』は名古屋でやっていなかったはず。『ピッカピカ天然素材』や『急性吉本炎』はやってた。)さすが識者で、核心をついた指摘といまだに感心する。
具体的には、もちろんこれはナイナイの力ばかりではないのだが、『めちゃイケ』からブレイクした芸人やタレントは数多い。「笑わず嫌い王決定戦」なんてまさに、埋もれていたクセのある芸人を「こういう見方をすると面白いんですよ」とわかりやすく教えてあげるような企画だった。スタッフの力が何より作用しているのは確かだろうが、その見せ方に関してはナイナイが秀でていた、というか適性があったのは間違いないと思う。彼らは面白いものの面白さを引き出したり、わかりやすい形で示したりすることが非常に上手なのだ。いわゆる「からみ」がわかりやすいし、彼ら自身が大して面白くない(Y氏曰く)ぶん、相手の面白さが際立つことにもなる。雨上がり決死隊やFUJIWARAなども『めちゃイケ』がなければ東京進出は成功していなかったかもしれない。
ラジオでも流行を真っ先に掴んだり(古い例だが、まだ流行りきる前からだんご三兄弟をジングルに使用していたり)、まだ(あるいはそれまでは)面白いと思われていなかったものにスポットを当てて(番組内で)バズらせることが得意である。そして、おそらくそれを聴いたメディア関係者などが実際にその人をテレビなどに呼ぶ、という流れもけっこうあったはずだ。
少なくともめちゃイケ終了(2018年)まで、ナイナイは芸能界のブローカーだかフィクサーみたいな側面を持っていた、というのが僕の持論である。その後も「ゴチになります」などでその性質は引き継がれているものの、さすがに『めちゃイケ』ほどではない。また細かいことを言えば新メンバーを入れてから(2010年~)はちょっと弱くなった気はする。
最近はあんまりそういう印象がない。若い人たちからしても「なぜかテレビに出ている昔の人」くらいの認識なのではないか。なんとなれば彼ら自身は大して面白くないのである。いや渡辺直美さんも言うように岡村さんが誰にでもわかる顔芸や動きで笑いを生み出してきたのはすごいし、矢部さんのわかりやすい単純なツッコミも評価すべきところではあると思うが、もう岡村さんがそれを披露する場は少なく、さすがに加齢の衰えもある。ダウンタウン(とそのフォロワーたち)のようにセンスやワードチョイスで笑わせるタイプではないので、トークの中で「面白い」と認識されることはあまりないだろう。
ただ、こないだ友人が岡村さんについて「ただ喋っているだけなのにあんなに面白い人はいない」と言っていて、これも芯を食っている。ナイナイのしゃべりの面白さに派手さはない。ドカン!と爆発させる笑いではない。これもダウンタウンと比較すると非常にわかりやすい。ナイナイは、ただ喋っているだけでなんとなくおかしみがあるのだ。それは単に人柄ということでもある。また大げさに、ファンとしての欲目も持って言えば話芸という領域でさえある。だからラジオが(あのオールナイトニッポンで、ほぼずっと「一部」で!)31年間も続いているのだろう。
先に語った「面白いものを見つけるのがうまい」ということに引きつけると、彼らは実のところ演者である前に享受者なのだと思う。芸能界に対してもお笑いに対しても、常に一歩退いて客観視しているところがある。「自分らとは本質的に関係がない」と。すべて他人事の感じがするのだ。ナイナイは基本的に視聴者やリスナーと同じ視座に立つ存在であり、それが身近さとなり、好感度に繋がっていった。そしてナイナイが面白いと思うものをまんまと我々も面白いと思わされてしまうのである。
ナイナイのラジオを聴いていると、リスナーはまるで友達と喋っているような気分になる。近年のオールナイトニッポン一部で長く覇権を握るオードリーも同じだろう。若林さんも「面白いものを見つけたり見抜いたりして、それをわかりやすく伝える」ことが得意な人であり、『激レアさん』や『しくじり先生』のMCはまさに適任。それは視点が我々「客」に近しいということである。
ダウンタウンは面白さを無から生み出す達人であり、後の多くの芸人たちはそれに倣った。ナイナイはそこから一歩退き、客観的に「面白いもの」を世の中から探し出す役割を担っている、というのが僕の見方なわけだ。彼らは根本的に「自分たちは大して面白くない」と思っているのだ。これ確か日記にも書いたと思うけど見つからないので記憶にのみ頼るが、岡村さんはかつてラジオで「僕らはもう面白くなりません、ナインティナインが今より面白くなることは絶対にありません」と宣言していた。凄まじい、まるで第一線で活躍する芸人の言葉ではない。彼らは当然わかっているのだ、自分たちの売れている理由が「(お笑いとして)面白いから」ではないことを。ただ「何が面白いか」を彼らはよく知っているし、だからこそ「自分たちはもう面白くならない」こともちゃんとわかってしまう。
もうこれ以上は絶対に面白くならない芸人、ナインティナイン。彼らの「これから」の存在意義はなんなのだろうか? ナイナイの、というより、ナイナイほど売れてしまった芸能人の役割というのはもう、「老いていく姿を見せる」ということに尽きるんだろうな、とこの55歳の誕生日の放送を聴いて思った。「みんなが知っている人」が少しずつ老いていくのを、みんなで見届ける。それが自分たちの老いに対する参考にもなるし、心の準備にもなる。この日の放送では「岡村は薄毛治療をいつやめるか」という話が出ていて、矢部さんは「(60歳では)やめへんやろ」と言っていて、岡村さんは「70になったらやめよかな」とか言っていた。こういう会話が「ただ話しているだけで面白い」なんだなと僕は思う。
普通なら、もう面白くならない老いていくだけの芸人はメディアから消えていくものだが、ナイナイがその「庶民的な視線」と「ただ話しているだけで面白い(話芸)」を持ち続ける限り、ずっとそこに居続けるのだろう。ファンとしてはそうなってもらえたらとても嬉しい。
2025.7.4(金) 爆笑問題の天下
2025.1.25(土) 爆笑問題の勝利の続き。先日「爆笑問題がピンとこない」という20代前半のお笑い好き女性でとお店でサシだったので一席打った。ずいぶん前にも似たようなことがあった。爆笑問題は何がすごくて、なぜ天下を取れてしまったのか? いったい爆笑問題とは何なのか? リンク先の記事である程度は書いているが改めて簡単にまとめてみる。
主として太田光さんについて書く。まず「優しい」ということ。とにかく視野を広く持ち、バランスを取ろうと努めている。たとえば統一教会問題について、「教団を責めることによって傷ついてしまう信者の心」を視聴率10%前後の全国生放送で強調したのはわかりやすい例。「統一教会擁護」と叩かれておりましたが、むろんそうでなく「広い視野を持って人を思いやる優しさ」というものである、あれは。
正直に言えば、僕の印象だと昔の太田さんは時に視野狭窄で、偏った意見を言うことも多かったような気がする。ひょっとしたら僕の読解力、理解力の問題でもあったかもしれないし、太田さんの表現力の問題かもしれないが、若き日の僕はそれで「ちょっとな……」と心が離れかけたこともある。しかし年を重ねるごとに太田さんの発言や文章は洗練されていき、最近の著作『芸人人語』シリーズは殊に素晴らしい。
個人的には! 太田さんの最大の長所は「成長し続ける」ということなのである。向上心と継続力がずば抜けている。また「新たな視点」をインストールしようという欲求も大きい。新作アニメを意外と観てることとかも含めて。要するに勉強家なのである。
ダウンタウンの最大の罪は、「人を笑わせること」がそのまま「優れていること」であるという幻想を人々に植え付けたことだと断言しておきたい。「笑わせる」という結果がすべてで、その源は「オレの発想」に尽きる。つまり「松本人志という一人の人間が無から笑いを生み出す」ということをそのまま「偉大である」ということにしてしまった。だからそれをみんなが真似した。「オレでもできそう」「アレならやってみたい」と。
対照的に爆笑問題は、無から笑いを生み出そうとはしない。昨日書いたナインティナインと少し似ているが、彼らも「自分は面白い」とはあんまり思っていないのだ。ハッキリ言って太田さんは、自分よりも世の中のほうが面白いと思っていて、それを笑い飛ばすことを芸にした人だと思う。「未来はいつも面白い」という座右の銘(小説『笑って人類』の帯にも使われた)はまさにそのことを表しているのだ。漫才も主として時事ネタを題材とし、ゼロから設定をつくって物語のように組み上げていくネタは少ない(たまにやるとめちゃくちゃ面白いし、コントライブ『O2T1』も非常に優れていた)。
松本さんが「無からの発想」を武器としたのと違い、太田さんは読書や勉強により「過去の知的遺産」を、また数多の先輩芸(能)人たちから「過去の芸術遺産」を受け継ぎ、それを自分なりに芸に落とし込んできたわけである。それは「自分よりも世の中のほうが面白い」とか「自分よりも先達のほうが面白い」という謙虚さから来ている。
それはもちろん「憧れ」というものの強さでもある。高校時代に一人旅で島崎藤村の墓参りに行ったり、ビートたけしや植木等、立川談志の芸に近づこうとしたり。喋りかたとボケかたはたけし、動きかたと笑いかたは等、生きかたと考えかたは談志、って感じか。たけし、ひとし、だんし。3C。
昨日の記事でナインティナインを「演者である前に享受者」と書いたが、爆笑問題も近いところがあって、「ボケである前にツッコミ」なのだと思う。すでに世の中がボケていて、それにツッコミを入れているのが太田光という構図が実はある。あるいはトリオ用語で言うなら、世の中が「小ボケ」、太田さんが「大ボケ」そして田中さんが「ツッコミ」という構成になる。僕の大好きな札幌テレビ『号外!爆笑大問題』も、リーダーこと渡辺正行さんの読み上げる小さなニュースに太田さんが茶々を入れ、田中さんが突っ込むという仕組みだった。
ナイナイも爆笑問題も、高度な客観性を持った傍観者という側面を持つ。その根底にあるのはコンプレックスや劣等感だと思うのだが、松本人志さんのそれとはまったく別方向に進んだのはなぜだろうか? それはやはり「憧れ」という「既存の上位概念に対して伸びていこうとする心」の強さだったのではなかろうか。ナイナイも、特に岡村さんは、かなりいろんなものに「憧れ」を強く持って生きてきた人だし、他人のネタをパクって(オマージュして、租借して)大きく売れた人でもある。「自分は面白くないのだが、自分が憧れているもの(面白いと思うもの)は間違いなく面白い」という確信は強い。
松本さんは自分一人だけで強くなろうとしすぎた。頭を丸め、金髪にして、筋肉をつけてしまった。「憧れ」の不在ないし弱さゆえと僕は勝手に分析する。
爆笑問題が天下を取れたのは、アリとキリギリスのようなものである。膨大な仕事をこなしながらもコツコツとネタをつくり、台詞を一字一句覚えるような異常な稽古(さすが演劇学科である)を重ねる。それをいまだにやっているのだ。加えて空いた時間では本を読んだり勉強をしたり、映画やアニメを観たり文章を書いたり、成長と洗練のための見えない努力をいつまでも続ける。
そして「多様性」の世の中に対応した柔軟性や優しさ、すなわち視野の広さをいつの間にか身につけてしまった。なんだかんだ『サンデー・ジャポン』が高視聴率番組として生き残っているのはひとえにそのバランス感覚ゆえと思う。太田さんは「変わっていく」ということができるのだ。田中は何も変わらない(讃美)。
2025.7.5(土) ウンナンそしてタモリ(三部作おわり!)
真の覇権はウッチャンナンチャンである。3日のナイナイ、4日の爆笑問題の記事はこれを語る前段にすぎない。僕のつくった格言で「剣の達人は剣を持たない」というのがある。剣の道を真に究めた者は、もう剣を使うまでもない。また世阿弥『花鏡』に「五十有余よりは、「せぬならでは手立てなし」といへり」とある。能においても、50歳を超えたら何もしないしかない、つまり余計なことをせずそれまでに積み上げてきた芸(まことの花)に委ねるべし、ってことだと僕は解釈している。
ウンナンはもうその域に達している、と思うのだ。特にナンチャンは素晴らしい。なぜ『ヒルナンデス!』が14年も続いているのか? ナンチャンが何もしていないからに他ならない。彼はもういるだけでいいのだ。しかし異様なことに、「ナンチャンがいてくれるだけでいい」と思っている視聴者などたぶんほとんどいない。そこがまったく凄まじい。良くも悪くも目立たない。しかしそこにいるし、実はそこにいなくてはならない。
ナンチャンは本当に何もしていないのか? むろん違う。彼はなんだってやっている。狂言もやるし落語もやるし、最近は「ヒルナンデスバンド」で作詞作曲、ギター、サックスを担当している。実はものすごく芸達者なのだ。
『めちゃイケ』の「オファーシリーズ」等で岡村さんは様々なこと(ダンスやフルマラソン、競馬のジョッキーなど)に挑戦してきたが、その先鞭はおそらくウンナンがつけている。『めちゃイケ』と『ウリナリ』とはほぼ同時期だし、ナイナイとウンナンの番組は実は制作スタッフがかなりかぶっている(片岡飛鳥さんなど)のでどっちが先かはどうでもいいのだが、「岡村さんってなんでもできてすごいよね」というイメージが僕の世代には少なくともある(と思う)のに引き換え、実はウンナンだってなんでもできるし、やってきたということはあまり知られて(覚えられて)いない気がする。それも彼らの「空気」感ゆえかもしれない。派手じゃないのだ、ウンナンは。
ポケビやブラビの楽曲や署名運動などがすごいのは言うまでもないが、ここでウンナンが楽器や作詞作曲に挑戦しているところに僕は特に注目したい。また社交ダンスと水泳(ドーバー海峡横断)はかなりのレベルまで高めていた。『ウリナリ』のWikipediaを読むととにかく色々やりまくっていたのがよくわかる。ウンナンとナイナイ(特に岡村さん)はストイックさにおいてかなり似ていて、とにかく彼らは練習をする。人が見ているところでも、どうやら見ていないところでも。
語ってきた、ナイナイ、爆笑問題、ウンナンという僕の大好きな三組に共通するのは「稽古、練習」を当たり前にストイックに積み重ねられるということであり、それは文化としての「芸能」やそれを育んできた先達に対する憧れが基盤にあろう。「届かないから努力しなければ」と。そういえば爆笑問題は日本大学芸術学部、ウンナンは横浜映画学校出身なのであった。芸能を文化として尊重する教養をそもそも持っている。
僕は、現代のテレビ界において最も文化的な覇権芸人はタモリ、爆笑問題、そしてウンナンだと思っている。タモリの凄さ(好きさ)はまた別で語りたいし、すでに語ったこともあるのだが今回は置いときます。そして僕の幸福は、彼らが「覇権」だということ。天下を獲って、それを手放していないということ。この点においてこんなに素晴らしい国はないと思う(急に愛国)。
僕は本当にダウンタウンととんねるずが腰を下ろしたことが嬉しいのだ。ついにテレビが教養の国になった(大げさ?)。ダウンタウンやとんねるずに教養や努力が一切ないと言いたいのではないが、やはり差はあると思う。ちなみに僕は明石家さんまさんも大好きだが、彼は無教養に見えて実はものすごく勉強家だし、「変わっていく」ということにも非常に貪欲である。だからあのまま続けていられる。25年以上さんまさんを観察し続けてきた身として自信を持って言うが、彼は番組のたびにトライ&エラー(エラーはほとんど出さないが)をくり返し、常に微調整を欠かさない。変化することとしないこととのバランスにものすごく気を遣っている。それは毎年『明石家サンタ』を見ているだけでもわかる。前年にハネたノリを工夫なく投げてくる参加者に対しては「それ、去年のやつやねん」と冷たく切って捨てたりする。彼はいつでも新しいものを求めている。それでいて「八木さんのファンですー」のような数十年変わらないノリも大好きで続けたりする。バランスの神なのだ、実は。
「教養の国になった」と同時に、タモリもウンナンも「空気」のような存在となり、ナイナイも(3日の記事のように)「なんかいるよね」という立ち位置におさまり、爆笑問題も「ただ叫んで暴れている人」となった。パブリックイメージとしては。それでいいのだ。剣の達人は剣を持たない。ただいるだけで世の中はよくなっていく。今度の参院選でも太田光さんは大活躍するらしい。偉くなったものだ。そしてタモリも、ウンナンも、ナイナイも、さんまさんもたぶん黙っている。それがいいのだ。多様性の世においては「黙っている立派な人」が最もエライ、と僕はおもいます! ウクライナ戦争特集の『タモリステーション』で1時間ずっと黙り続けたタモリさんのことを思い出そう!
太田さんだけは喋り続けるが、それは彼が言葉の人だから。言葉の力を信じようとしている。きっと彼だけは「話芸」の人なのだ。ファンの欲目かね?
2025.7.6(日) 示準化石(シャズナを例に)
SHAZNAのライブに行く日が来ると思わなかった。メジャー期間は1997年8月27日から2000年11月まで、しかしシングルがオリコン1桁だったのは1998年10月14日発売の7th『恋人/Virgin』までらしく「最盛期」は1年ほどしかない。1999年1月27日発売の『Pink』は一気に「最高15位」まで落ちるのだ。「SHAZNAの時代」はその前後を含めたせいぜい2年間くらいで、僕の中1から中2にかけて。
ボーカルのIZAMは美しい女装で、CDなどのアートワークも当時の僕からしたら「ケバい」ものが多かった。思春期の少年たる僕は正直やや敬遠していた。その後ヴィジュアル系を好んで聴くようになってSHAZNAがいわゆる「四天王」であることも知るのだが結局CDを買うようなことは一度もなかった。それでも「最盛期」のシングル曲ならほとんどサビを歌える、そのくらい売れていたのだ。デビュー曲からのオリコン最高位は2位、2位、1位、2位、4位、6位、6位。CDが最も売れたとされるあの時代(98年がピーク)に! GLAYやラルクだって「最盛期」なのですよ。
「シャズナって知ってますか?」とお客さんに無作為に聞いてみた。20代前半から30代半ばくらいの男女5人ほどのサンプルで「イエス」は0人。おおお、やはり「97年から98年という時代をリアルタイムに知っている人」でなければ知らないのだ。カラオケでもさして歌われず、テレビとかにもあんまり出てこない。「根強い人気」というような感じでもない。ある世代の人間にしかほとんど知られていない。
こういうのを理科で習う「示準化石」と僕は呼んでいる。たしかsoudaiくんが最初に言ったのかな? 違ったらごめんなさい。極力マルシーはつけたいので記しておきます。
とはいえ僕をライブに連れてってくれた人は20代で、初めは親の影響だったようだ。本当の示準化石は年代特定に役立つが、こっちは実際あてにならない。それでも意外に重要な考え方だと思っている。
「示準化石」という概念を導入することによって、閉鎖性が薄れる。たとえばある近しい年代の人たちが「SHAZNAって……」と語り合っている。他の年代の人たちは「SHAZNAって……?」と疎外感を得るだろう。そこで「あ、これって示準化石?」みたいな感覚を互いに持てれば、相対化できる。
「ごめんなさいこれは示準化石でした。ちなみにそちらの示準化石といえば?」みたいに問えば、「○○ですかね」と何か答えが返ってくるかもしれない。「知らない!」ということになれば、むしろ嬉しい。普通なら「知ってる」ほうが盛り上がるのだが、示準化石という話になると逆なのだ。むろん知ってたら知ってたでその話をしてもいいんだから隙がない。
ふつう、ある世代にしかわからない事柄は、他の世代を疎外してしまう。しかし「示準化石」という概念は、「おおっ、それって示準化石では!」という楽しささえもたらす。
僕は「世代じゃない」という言い回しがとても嫌いである。「世代じゃないのによく知ってるね」とか「世代じゃないから知りません」とか。「世代じゃないでしょ」はまさに分断の言葉。「示準化石」は似て非なる言葉だと思う。
中森明菜の『DESIRE』とかだったら、だいたいどんな世代でも知っていて当たり前である。テレビでもバンバンやってて、ネットでもよく見るしカバーも多いしカラオケでも歌われる。そんなもん知ってたからとて「世代じゃないでしょ」はトンチンカン。今やむしろ「世代」なのですし。そうじゃなくて、たとえばSHAZNAのようにデッカチャンくらいしかカバーしてないような「短期間に爆売れしたけどほぼ振り返られない」ものだったら「よく知ってるね」と言いたくはなる。ちなみにデッカチャンも僕は知らない(最近人から教えてもらった)ので、ひょっとしたらどっかの年代の示準化石なのかも?
つまり、「あなたの世代は知らないでしょ」という言い方は他者を疎外するが、「私らの世代しか知らないはずなのに?」は自身を疎外する言い方なのである。どっちが相手に優しいかは言うまでもないでしょう。世代論は人間を年代でスライスしてしまうが、示準化石論は特定のある年代にスポットライトを当てる機能しか持たない。
「世代じゃない」は誰かとの分断の言葉で、「示準化石」は誰かのことをより深く知るための言葉なのである。
2025.7.7(月) 示相化石(菜摘ます子)
この丘に菜摘ます子~♪←歌ってる
SHAZNAのIZAM(ほぼSHAZAM)はカルチャー・クラブのボーイ・ジョージを見て女装を始めたそうな。ライブのあと入ったお店に偶然カルチャー・クラブのレコードが飾られていた。店主はオカマで名前はジョージ。なんかすごい「引き」である。IZAMとジョージはたぶん同年代。
ちなみに僕はカルチャー・クラブを知らない。これも示準化石かもしれない(昨日の記事参照)。もしもゲイやオカマ、女装などの世界で世代を超えて有名なのだとしたら示相化石と言っていいだろう。示相化石は「地層の堆積した環境を示す化石」なので、上毛かるたとかがわかりやすい例だろうか。「伊香保温泉」と言ったら「日本の名湯」と返してくる人はだいたい群馬人であろう。
「剣道(部)あるある」とか「演劇(部)あるある」みたいなのも示相化石と言いたい。外郎売りをなんとなく言えちゃうのは演劇部か放送部でしょうナ。何らかの専門家ないしオタクだったら当然わかるような共通認識はすべて示相的。化石というには抽象的なものが多くなってはしまうけど。
冒頭の「この丘に菜摘ます子」って何のことかわかるでしょうか? これも示相ですね。国文学をやっていた人ならわかるはず。今日は
弟子の誕生日なので。もう師匠って呼んでくれないけどね。くすん、さみしいから晒した。
chappieの『七夕の夜、君に会いたい』は示準と示相がちょうど重なったようなところにある曲。当時でも特定の文化の人しか知らなかったと思うし、特定の文化の人でも今はあんまり知らないんじゃないかな。
それを言ったら「菜摘ます児」もそうか。
2025.7.8(火) 発達が障害されてますから…
自分のことをなんと表現したらいいかわからないのだが、いわゆる発達障害に該当することは確かであろう。「生きづらい」とまで言うつもりはないが、とにかく不便だし面倒だ。ADHD(注意欠陥多動性障害)というのが最も近そうなのだが、自分の欠陥や障害はそれだけではないし、完全に当てはまるものではない。レッテルに意味はない。治療や投薬の基準にすぎない。
日本語には「ドジ」とか「グズ」とか「バカ」とか「間抜け」とか良い言葉がいっぱいあって、まあそのへんが場合に応じて適用されよう。さっきコーヒーを入れていたらね、「蒸らす」って行為があるでしょう。お湯をひたして10秒だか1分だか待って、しかる後に本番のお湯を入れるのですね、従来型のドリップというものは。その最初の「ひたす」という工程が終わり、さあ豆が膨らみきるまで待つか、と思っていたらいつの間にかお布団に横になって調べ物とかしてて、あっという間に20分くらい経ってしまったのですね。すっかりお湯は冷めておりましたね、当然。そのまま入れて飲みましたけど。別に傷つきも落ち込みもしない。日常茶飯事、問題なし。
すぐ頭を打つとか、忘れっぽいとか、さすがにもう慣れた。「このまま認知症みたくなっていくのでは?」という恐怖もあるが、とりあえず静観するしかない。
野比のび太っていうキャラクターは本当に偉大だ。僕がドラえもんを好きな理由のいくらかはそこにもある。すでに言われ尽くされているだろうが彼は明らかに(今で言う)発達障害であって、しかもそのことをおおむね受け入れている。3巻「スケジュールどけい」を読み返していたら、こんなせりふがあった。
ポヤ~ン(註:のび太がぼんやりしている音。音?)
ドラえもん:いつも、ふしぎに思うんだがね。そうやって、なにもしないでぼやあっと、なにを考えてるの?
のび太:いろいろしなくちゃならないことが、たくさんあってさ。あれをしようか、それともこれをはじめようかと、考えてるうちに………時間がすぎちゃって、けっきょくなんにもできないの。
ドラえもん:時間のむだづかいは、もったいないよ。
どうでしょう? あるあるすぎませんか。ストラテラとかコンサータとか飲めばこういう状況が雲散霧消するんですよねきっと。憧れるなあ。ある仲良しの教え子が言っていた、「尾崎さんコンサータヤバいっすよ、あれ召喚魔法っすよ。おれ一日で確定申告終わらせましたもん。」
「あるある? なんの話をしているんだ……?」って人、この世にいるのでしょうか。いるんだろうな。僕には想像もつかない。のび太に対しては常に共感しかない。ひょっとしてドラえもん(特に原作)を面白いと思う人って「そういう」人が多いのでは?
10年くらい前、まだ今ほど発達障害がブーム(!)になっていなかった頃だと思うが、「いや~僕ADHDなんで~」とカジュアルに言っていたら、ある人が今にも涙を流さんばかりの顔で「お辛いでしょうね……、勇気ある告白ありがとうございます、どうか無理しないで……」みたいな感じのことを仰った。こっちからしたら「胃腸が弱いです」くらいのことを言っている感覚なのだが。その方はたぶんのび太にさほど共感しないだろう。「時間のむだづかいは、もったいないよ。」とばっさり言い切れるドラえもんも、のび太の感覚はおそらくよくわかっていない。
その後、僕は冗談でもADHDを自認するようなことをほぼやめた。大仰に捉えられても良いことはない。ただ「発達が障害されてますから…😺」というフレーズは猫先生こと浅羽通明先生が
レスバの中で(!)使っていてめっちゃ面白かったからたまに使う。
このツイートの中で「重い発達障害者は齢をとりません」とあるが本当にそう。僕がなんで40にもなってこんなに可愛くて、しかも「自分は可愛い」なんてことを厚顔無恥にも言い張っていられるのかといえば、重い発達障害者は齢をとらないという一点に尽きる。猫先生も66になったが僕から見たって可愛い(20年前は怖いと思ってたよ~~)し、彼のまわりに常に若い女の子がいるのも可愛いからに他ならない。そのうち何人かはもともと僕の友達なのだが、なぜそうなるかといえば僕と猫先生の可愛さが実は似ているからなのだ。それは重い発達障害者ゆえの齢をとらない可愛さ、とっちゃん坊やとしての可愛さでもあろう。
我々当事者(!!)からすると発達が障害されているというのは当たり前のことで、それを踏まえて生きていくしかない。幸いにも僕は不断の努力と不屈の精神力によって大学は出たし、自分ですべてを決められる仕事をメインに据えた。猫先生もそれは同じだろう。彼と僕との共通点は「22歳で早稲田を出た」ということで、もちろん優秀さには雲泥の差があるものの勉強だけは苦にならなかった。ハッキリ言ってあれほどの(これほどの)発達障害者でも22歳でそれなりの大学を出られるというのは希望である。もちろん、どの発達がどのように障害されているかによって適性は変わるので、その人の障害具合に合った道を選ぶことが最も大切。僕らは17~18歳時点である程度適切な判断ができていたと言っていい。
猫先生は「自分はどうせまともに働くことはできないが勉強だけは可能なので、とりあえず日本で一番難しい試験に通ろう、そしたらどうにかなるだろう」と旧司法試験に見事通り(すごすぎる)、ちゃんと一度も就職しないまま物書きや講師の仕事などで生き抜いてきたそうな。なんという冷静で的確な判断力なんだ! 僕も似たような感じで、中3の時も高3の時も「とりあえずいい学校に行かないと人生が詰む」と直観し、その勘に生涯助けられてきた。受験勉強は障害魔法「過集中」を駆使し短期間で仕上げた。
野比のび太と猫先生は僕にとって最も好ましいロールモデルである。めざすべき像というのではなく、単純に勇気づけられる。発達が障害されているなら、それを踏まえた生き方を探すほかない。不可能なものは不可能、無理は禁物……。
だってのび太って、別に改善しないものね。それを「どうなん?」と見る向きもあろうが、いやいや、改善は不可能なのよ。成長して補填するしかないんよ。可能なことを増やして伸ばして、不可能なことをカバーするしかない。言うは易く、うまくいくとも限らず、どこで人生の「詰み」が訪れるかわからないのだが、仕方ない。そういう星の下に生まれてしまったのだ。せいぜい堂々とやろう。
2025.7.9(水) 15歳の「はじめに」
宣言しておきますがこれは手抜きです。11日まで日記を進めるための。
ホームページ25周年をむかえるにあたって古いフォルダを漁っていたら、15歳のときに書いた「はじめに」が出てきた。実のところ正確な執筆時期はわからないのだが、2001年1月には存在していたので高校1年生なのは確か。
このサイトの便宜上の意義
ようこそ、Entertainment Zone(略してEz)へ。管理人のジャッキーです。
ここは、文字通り様々なジャンルの娯楽達が集まる場所です(メインは文学ですが)。
ですから、ここへやってくる人たちも十人十色の「趣味」を持っているはずです。
普通、一つの「娯楽」を極めようとすると、それだけに目を奪われて、
他の素晴らしいもの達が見えなくなってしまうことがあり、偏った人間ができあがってしまう可能性があります。
もっと視野を広く持つことが大切です。
自分の「城」の中だけで閉じこもっていては、自分がなぜその「城」にいるのか、わからなくなってしまうでしょう。
つまり、自分がその「娯楽」のどんなところが好きなのか、ということもわからなくなってくると思うんですね。
いろんな「娯楽」を持つ人たちのいろんな考えにふれて、一度自分の「娯楽」を見直してみて下さい。
なにか、変わると思うんですよね。ほんの少しだけでも、世界は広がると思います。
よく「趣味が合う人が好き」とか言いますが、確かにそれも一里あります。
でもそれは、「趣味が合う」から、好きなんですよね。
それよりも、「趣味が合わない人を好きになる」方が、ずっと素敵じゃありませんか。
それが、純粋に「好きになる」って事ですよ。
なにも男女の関係だけを言っているわけではないですし、
それによって、色々な娯楽にふれあうことだってできて、さらに素敵です。
ちょっと話がそれましたが、要するにいろんな人とふれあいなさい、ということです。
たとえば、ある「娯楽」専門のホームページに行けば、それ専門のチャットや、BBSがあるでしょう。
そこは、みんなが「同じ趣味」という大前提があって、無条件で楽しむことができるはずです。
でも、ちょっと足を止めて考えてみて下さい。
自分の趣味を同じ趣味の人たちと満足するまで語り合う。
それほど素敵な事ってないですね。
それは、絶対に精神的にも利があると思います。
だから、存分に楽しんで下さい。
でも、こういうことも覚えていてほしいのです。
そういうところでは、気ままに自分の考えを発表できます。
同じ趣味の人たちが集まるのですから、同じ考えを持っていて当然です。
ですから、たいていの意見は、受け入れられるでしょう。
たとえそこで意見の食い違いが起こったとしても、その「娯楽」を愛するもの同士なのですから、
有意義なディスカッションへと発展するでしょう。
しかし、社会では、殊にこの日本では、そうはいきません。
色々な考えの人たちがいて、色々な意見が常に対立しています。
それが社会です。
一つの国単位の社会に同じ考えの人たちだけが集まる、ということはまずあり得ません。
現代では、民族宗教を持つ国々がそれに近い形を取っていますが。
そういった社会的な対立などにうまく対処するためには、普段から色々な人々の意見を聞いて、
様々な考えを分析する力を身につけることが大切です。
「Ez mixed BBS」や、「Ez mixed Chat」などは、
そういう趣旨のもとに作られた情報交換の場なのです。
「ふれあい広場」などという言い方をしてもかまいません。
ネットの利点は、相手の性別・年齢・社会的地位などを考えないで様々な人々とふれあえることです。
そういった特性を生かして、このサイトを大いに利用してもらって、
日々、「社会勉強」に精を出しましょう!
このサイトの本当の意義
心の寂しいこのジャッキーを、みんなでわいわいやって、癒してやってください。
皆さんからの書き込みやメールが、僕の心の支えとなっております。
楽しめるだけ楽しんでやってください!
それが、今の僕の幸せです。
どうでしょう? 文章は拙いし不足もありますが、ともあれこのスタンスのブレなさ。25年間ずっと「こう」思ってやってきたのであります。いろんな人が集まってバランスを調整し合う、というのはまさに夜学バーでいま実践していること。結局僕はインターネットが大好きで、それをオフラインでもやりたいだけの人なのです。
特に泣けるのは最後の数行ですよね。結局、さみしいのです。さみしいから書き込みやメールがほしいのです。ずっと言ってます。ただそれだけなのです。「便宜上の意義」と「本当の意義」を分けて語るところに、15歳ながらやっぱりジャッキーさんの冷徹な凄みが見えます。偉そうなことを言っても最終的には「だってさみしいんだもん!」が常に勝つわけで、そのことについて自覚的でありかつ自嘲的でもあるようなところが、まったくかわいいじゃないですか、ずっと。
そのうち、今の「はじめに」のどこかに転載しようと思っております。
2025.7.10(木) 25th 告知文など
下記は25周年の前日から翌日(12日)にかけてトップページに置いていた文章です。(手抜き)
4時間だけ電話番号晒しておりました。そういうのも含め懐かしい感じがしたものです。年末だけ年賀状用に住所載せたりしてたな……恐ろしい。
【翌日】
BBSに書き込みお願いします。僕が生きるか死ぬか、このホームページが続くか終わるか、みたいなことがこういうささいなことで左右されます。思っている以上に、これを見てくださっているみなさまの背負っているものは大きいので、よろしくお願い申し上げます。冗談で言っているのではありません、「死ぬぞ?」っていう脅しに近いものです。BBSへの書き込みをお願いいたします。文字通り捉えてください。無料で僕を幸せにできて、向こう5年間のやる気になります。30周年までこういうことは二度とないので。どうして僕を喜ばせてくれないのですか? 後生ですからよろこばせてください。なんでもいいのです。自分に置き換えて考えてください。想像力を全開に。僕を容易く幸福にさせて!みたいなことが15歳のときに書いたホームページの「はじめに」にすでに書いてあってめっちゃ面白かったです。ずっと変わってない。たぶんそのうち公開するんでお待ちください。とにかく掲示板(BBS)に書き込みをお願いします。なんでもいいので。
【当日】
当日です。よくわからん人は電話ください。0900000000(時間切れダミー)
くれぐれも、BBSへの書き込みをお忘れなきよう!!!
【追記】現在、2025/07/11の午前0時21分でございます。お店には3名の男性がおられます。がんばります。みなさまにおかれましては、なんとかがんばって来てください。いつでもいいです。よろしくお願いいたします。
さていよいよ明日7月11日(金)は25周年です。会場はここで、不忍池の南側の公園内を歩いているとわかるはず。19時から23時くらいまでいます。雨でもいます。ランタンに火をともしていると思います。でなければなんとなく座り込んでいる集団(ないし僕一人)を探してください。その前後は夜学バーにいます。木と土も夜学にいますので三日間いつでも。詳しくはリンク先!↑
いま開設当初の「はじめに」「更新履歴」「キリ番」などを印刷しました。そしてかの伝説の「裏Ez」のデータを見つけ、指が震えて未だ開けずにいます。当時二人くらいにしか教えていなかった裏ページ。15~16歳の頃の自分は本当にどうにもならないことで悩みに悩んでいたのです。いま思えば本当にくだらないことなのですが、あの時間があったからこそ後の「恋愛などない」に象徴される冷徹さや寛容さが育っていったと思うので、ある意味では原点となるものです。これはオフ会本番の金19~23時にしか公開しません。お楽しみに。
恥ずかしいから副読本(解説)もつけると思います。
2025.7.11(金) Ez25周年!
アチィー。名古屋にいます。現在15日。だいぶサボりましたね。しかし25周年を迎えてまず僕そしてEzの生まれ故郷である聖地に舞い戻るというのは結構美しい動きではないでしょうか? 今は亀島の「富士」という喫茶店におります。夕方に「ぷらっとこだま」で東京に戻り、お店に出ます。←えらい
7/11はEz(このホームページ)のおたんじょうび。2000年開設なので25年です。00時00分きっかりに「ドラえもんの世界」掲示板に告知して、待ち構えていた友達たちが即座に書き込んでくれたのを覚えております。
いつしか「10年ごとにオフ会をやる」と勝手に決めて、2010年7月11日は新宿御苑→サイゼリヤで開催。10人以上は来てくれたと思う。それこそ初期、2000年7月からの読者も複数名いた。第2回の2020年7月11日はコロナ禍真っ盛り、2回目の緊急事態宣言(8月3日〜)の直前に当たり感染者数が増加傾向にあった頃。
7月上旬: 50人以下で推移していた新規感染者数が、徐々に増加傾向に転じ始めました。
7月中旬: 200人を超える日が頻発し始めました。
7月10日:243人(当時の東京都最多を更新)
7月18日:290人
とのこと(Gemini調べ)。なんと20周年オフ会の前日(発表は当日!)に感染者数が「東京都最多を更新」していたのですね。そりゃ誰も来んわ。この頃の状況は
このあたりにまとまってるんで、よかったら読んでね。冊子にしたのがお店にもあるよ。
一応、上野公園でオフ会を実施し、そのあとは夜学バーの営業もしたのですが、当然ながら参加者は僅少、それでも来てくれた何名かの方には今でも本当に心から感謝しています。行けなかった上に当時何も言えなかったという人は、今からでいいです「20周年おめでとう、会いに行けないことを歯痒く、悔しく思っています」みたいなことをぜひお伝えください。5年前の寂しさが成仏します。
それで、オリンピックだって1年延期したんだからオフ会を5年越しにモッカイやったっていいだろう!と企画されたのが本日というわけです。
今回も上野公園、金曜日で雨降らず、気温はむしろ肌寒いくらいの好条件。19時から23時までに11名の参加者(うち読者は10名)に恵まれ、掲示板には23時50分時点までに2件もの書き込みがありました。
ん? 10名? 2件? わかってますよ! ありがたいんだから。ありがたく思って、とにかくありがとうとだけ言うベキなのだ。数の問題じゃないのだ。一人でも愛して、気にかけて、時間や労力や少しのお金を使ってくれる人がいるというだけで、いかに幸せであることか! そんなのわかってます(高橋みなみのスピーチ口調)。しかしその、参加者10名はともかく(実にありがたいことです)、書き込み2件ってなんぞ? 僕は確かにこう書いたのです。
こないだね、「夜職(水商売)においてバースデーは通信簿のようなもの」ってツイートが流れてきてね。わかるなーって思うんですよ。1年間がんばってきた成果がバースデーにすべて出る。それは(少なくとも僕の場合は)売上ではなく人数だし、その顔の一つ一つ。今回は1年どころか25周年で、しかも20周年の振り替え的なものですらある。2010年から「次回は2020年!」って言ってたら緊急事態宣言(直前)で、じつにじつに小規模な会になってしまったので、イレギュラーな25周年。それも恥ずかしいことなんですけど、お許しください。
さまざまな事情で「行けない」ってことはあると思いますが、そういう場合は必ず!掲示板に何か書いてください。無料ですし、家から出ないで可能なこと。お願いです。後生です。僕にセーセキをください。これから先の25年をがんばれるように……。あと、今回ばかりは僕にわかるように身分を明かして書いてください。僕と世の中のために照れながら。
わかるんでね、気恥ずかしくて腰が重いとか。そういう人のためにインターネットってあるので。書き込みをぜひ。「こいつはほっといても頑張るから大丈夫」なんて思ってたら僕は静かに自殺します(脅し)。←申し訳ないですがこうでも言わないとわかってもらえない気がするので、すなわち怯えているので。希死念慮くらいあるわ、ダセーから言わないが。
6月20日の日記の、26日追記分。しっかりと「6.26追記」と書いて、トップページに半月間リンクを貼りつけていたのですが、文章というのはこんなにも「読まれない」ものだったのですね。そりゃそもそも、このホームページを実際に何人が読んでるかっていうのはわからないし、過去の日記の追記なんか読みにいくやついねーよって言われたらそれまでなのですが、「それまで」であるということそのものがじつに辛いではありませんか。
「お前がひとりで勝手に思い入れてるアニバーサリー如きになんで振り回されなきゃいけないんだ? 悪いが御免だ、俺は部屋に戻らせてもらう!」みたいな話なんでしょうかね。よくわかりますよ。でも僕はその気分の存在を当然わかっていて、「どうかそれでもなにとぞよろしくお願いいたします、後生ですから」と必死に頼み込んでいたわけなのです。え? 後生が多い? 何度後生があるんだって? それについては返す言葉はございません。お許しください……。後生です……。後生って言葉が大好きなので、つい。
2件はさすがに傷つくな、と思って23時50分ごろに「営業」を開始、その時お店にいたお客さんも1〜2件即座に書き込んでくださり、悲しみの連続トゥイートを見てと思われるものも数件ありまして、11日終了時点での書き込み数は5件。フゥー。その後も狂ったようにホームページやトゥイタにおいて「営業」を続け、12日終了時点までに25件、現在(15日)までに総計26件(レスは除く)の書き込みをいただきました。嬉しい! かねてより僕が主張する「自分の読者はだいたい常時30人」という推計にも近い。ホッといたしました。みなさん本当にありがとう。
ハッキリ言ってみんな、「やれと言われたらやらない」なんですよね。だけど「やれと何度も言われたらやる」なんですよね。それは「理屈よりも雰囲気」であり「質よりも量」ということで、わかるんだけど、分かりたくない。
チームみらいっていう政治団体があって、代表の安野さんとは彼が高校生の時にちょっと関わりがあって、「あの安野くんがネエ〜」とか思いながら画像フォルダ漁ったら二人が同時に写っている写真(ツーショではない)発掘して「懐かしい〜〜」とかなってたんですが、それはまあただの自慢として、彼らの課題ってのはまさにここにある、ってような話をネットで見かけました。
なんとなれば、彼らの政策提言は「選挙向きではない」ってところ。もっとわかりやすく、キャッチーで、(頭のいい人たちが言うところの)「バカでもわかる」言い方をしなければ選挙には勝てないんだと。チームみらいの主張は「ちゃんと文章を読んで、理解する」ってことを経なければまず飲み込めないもので、それは短期間で、短いフレーズで勝負することになる現行の選挙では勝ち目が薄くなる、っていう話。
アー! まさにじゃないですか? 現代にあらゆるところで起こっている。「それ」が得意な人はいいが、僕のように(あるいはひょっとしたら安野くんのように?)テッテ的に苦手なバヤイはどないしたらよかんべか?
わかりやすくやらなきゃ、ってわかってるし、やろうとしないでもないんだけど、どうしても浮かばないというか、そっちのほうに意識が向いていかない。苦手なのか、わざと拒絶しているのかわからないが、本当に向いていない。オフ会に人を集めたいなら、書き込みをたくさん欲しいなら相応の伝え方がある。11日の23時50分以降にウキーってTxitterとかに書いた内容とかはたぶんまあまあわかりやすかったってことなんだろう。ってことはやっぱ肝心の事前告知が下手過ぎたのだ。潜在的には「いた」んだから。あと20人以上が。
僕のワガママというのは、「この伝え方で伝わんなかったらいやだ」っていうところにかなり強く拘泥してしまうところ。「そんな伝え方で伝えたところで、伝わったことになるのか?」とか考えてしまう。現実には「伝わらないより多少の誤解を含んだとしても伝わったほうがいい」ことがほとんどなのに。そこまではわかっているのだが、まだ幼い。これを契機に少しくらいは柔らかくなっていきたい。
「理屈よりも雰囲気」であり「質よりも量」、なんて身も蓋もないことを書いてしまったが、参政党が伸びてるのはこういうことでありましょう。あるいは在りし日のNHK党や石丸伸二。批判でも誤解でもなんでもいい、SNSや報道で人目に触れれば触れるほど支持率は伸びていく。「わかっている。でもそれでいいのか?」という葛藤は、安野くんにもあるんじゃないかと勝手に僕は思っちゃうわけです。親近感と共感を持って。
僕はもうね、ドラえもん6巻収録の「ネッシーがくる」という回が本当にトラウマで。「衆愚」というものをあれほど鮮やかに簡明に描いた作品がほかにあるだろうか。僕が「説得力」だの「納得」だのということが基本的に嫌いなのはあの回に由来する。
「説得力」というものは無根拠に人を動かすために工夫された手口の結果で、「納得」とはその無根拠さに対する言い訳。「自分は騙されていない、無根拠だが納得したのだ」と。考えてみてほしい、「説得力がある」というのは、「よくわからんがまあなんとなくそんな気がするなあ」の言い換えでしかない。まったく議論とは関係がない。「納得した」というのも、「よくわからんがまあなんとなくそんな気がするなあ」の言い換えでしかない。その通りだったら「その通りだ」と言えばいいのに、「納得した」という心の問題に落とし込むのは、特にそれを肯定する自信も、根拠もないからである。
何に怒ってるんだろう、僕は。
繰り返すぞ。その通りだったら「その通りだ」と言えばいいのに、「説得力がある」とか「納得した」という「心の問題」に落とし込むのは、自信も根拠もないからである。
「その通りだ」と思って行動する人は実は少ない。「説得力がある」とか「納得した」で動く。「その通りだ」というのは、「整合性がある」ということで、論理とか理屈の世界だから、よっぽど精緻にものを考えていなければ言えないし、自分はそれができているという自信や確信を持つのはかなり大変なことだ。ほとんどの人は無意識に「その通りだ」という感覚を避けているだろう。なぜならば、それは間違いやすいから。
参政党でもなんでもいいが、あれに対して「説得力がある」とか「納得した」とか思っているうちはまだ傷が浅い。「その通りだ」と思い始めたら、自身の誤りをかなり疑うべきである。前者は熟考せずに肯定しているが、後者は熟考した、あるいはそう思い込んだ結果だからである。もう引き返すことは難しい。
石丸さんが人気なくなってきてる(らしい)のは、彼の支持者に前者(「説得力がある」勢)が多かったことの証左ではないかな。ネッシーがいるかいないかを雰囲気と「説得力」で瞬時に切り替える愚民どもと同じ。尻軽に、あちらこちらへ支持を変えることができる。実のところそっちのほうが日本の風土には合っている。柔軟性こそ取り柄なれ。トリエンナーレ。
少なくとも日本において、私見だが、「その通りだ」をやるのはよほど理屈に支配された人間かカルトで、「納得した」をやるのが最大多数派である。ただし最大多数派が愚かなるは表層に過ぎず、実際は冷静に、「その通りだ」をやって失敗するのを恐れる賢さが基底にある。日和見主義でおれたちはやってきた。これからも基本的にはそれでいいんだと思う。中根千枝『タテ社会の力学』などはその話をしているんだと僕は理解している。
ただ、僕はそれが本当に苦手みたいなんだよなあ〜。それであっても10人という人がオフ会に駆けつけてくれたんだから、むしろすごいことなんでしょう。普通こんな理屈っぽいブツブツした人間がそんなに人を集められませんよ。頑張った結果だし、人柄です(自分で言う!)。すこぶる健全なカルトとも言えよう。そういうわけで(どういうわけだ)←いにしえの自分ツッコミ、25周年を具体的に祝ってくださったすべての人に、心から感謝を捧げます。
最後に、これだけ復唱いたします。掲示板への書き込みにはすべてお返事しましたが、誰かわからない人に対しては「どこのどなたか存じませぬが」と前置きをし、だいたいわかったけど確信がない相手に対してはそのような書き方をしています。また、僕が人違いをしている場合もあるかもしれません。みなさま、ぜひもう一度ご確認のうえ、僕に誰だかわかるように(個人特定させろと言うのではなく、たとえば「お初です」とか「以前にお店にお邪魔したことがあります」的な関係を示す言葉があると嬉しいです)お願いします。できない、したくない場合はその旨ご記載ください。僕は本気で言っています。言葉が言葉として伝わるように、しつこくネチネチ繰り返します。
さまざまな事情で「行けない」ってことはあると思いますが、そういう場合は必ず!掲示板に何か書いてください。無料ですし、家から出ないで可能なこと。お願いです。後生です。僕にセーセキをください。これから先の25年をがんばれるように……。あと、今回ばかりは僕にわかるように身分を明かして書いてください。僕と世の中のために照れながら。
わかるんでね、気恥ずかしくて腰が重いとか。そういう人のためにインターネットってあるので。書き込みをぜひ。「こいつはほっといても頑張るから大丈夫」なんて思ってたら僕は静かに自殺します(脅し)。←申し訳ないですがこうでも言わないとわかってもらえない気がするので、すなわち怯えているので。希死念慮くらいあるわ、ダセーから言わないが。
この件についてはTxitterでもこのように書きました。
《BBSに通常アカウントはなく、名前は自己申告でしかないので 本人という確証のないまま相手を「〇〇さん」と信じ込んで話さねばならない だからこそ、「私は〇〇です」という宣言は重い 名乗ることの重要性が際立つ それをしなくて良い気軽さが2ちゃんねるにはあったが ウチは2ちゃんねるではない》
募金とか投票もいいけど真っ直ぐに僕を褒めるのも大切だと僕は思っております。当たり前だけど。そしたら僕、頑張れるんだし。そうじゃなかったら頑張れないのです。一切、「自分とは関係ない」とは思わないでいただきたい。政治への無関心なんかより、「自分はこの人の心の健康とは一切関係がない」と他人との関係を勝手に遮断する手抜きのほうが邪悪だと僕は強く思っております。それはもちろん僕に対してだけでなく(ってかこれは例題なのです)すべての好きな人、憎からぬ人、嫌いではない人に対して意識されるべきことだと僕は強く強く思います。それをみんなが努めるだけでどんだけ楽しくて優しい世の中になることか!と。
2025.7.12(土) 定食のコーヒーの値段
アジフライ定食650円、コーヒーをつけると900円。昨日の記事を書いた喫茶店にて。
コーヒー単品は400円。コーヒーが150円割引になったと考えることもできるし、実質アジフライ定食が500円で食べられると思うこともできる。
そもそもアジフライ定食650円は安い。安すぎる。最初から900円でもいいくらいだ。チーズの混じったアジフライ2尾に、揚げた大葉が3枚、生の大葉が1枚、その上にトマトが乗り、隣にキャベツ、ナポリタンが添えられた。お味噌汁はわかめ、茄子、豆腐がふんだんに浸かり、ライスには梅干しと福神漬け。なんだこれ。650円なわけがない。コーヒーは実質無料。
そんなことを言いたいのではない。「定食につくコーヒー」から、喫茶店における値打ちの内訳を考えてみたいのである。
数年前までは「コーヒー付きランチ650円」みたいなお店も多かったが、コーヒー豆やお米の値段がずっと安かったので工夫できていたに過ぎない。持ち物件で家族が働いているようなお店でも上記の「650円+250円」というような形がギリギリだろう。個人的には「750円+150円」がちょうどいいラインだと思うが、このお店はたぶんランチを安くしたいのだ。ランチだけ食べてサッと出ていくサラリーマンや学生、あるいはお金のない年金生活者などを意識しているのではないか。
それを踏まえてコーヒーの値段について考える。単品400円で定食につけると+250円ということは、コーヒーそのものの値段は250円で、いわゆる「席料」のようなものが150円と見ることができる。単品400円の背景には「席料150円+コーヒー代250円」という見えない内訳があるのだ。
となると、アジフライ定食に席料が150円含まれていることになって、アジフライ定食の本当の値段は500円ということになる。すごい!
ただし、なんとなく「アジフライ定食を食べ終わってから水飲みながら30分ほど新聞読んでタバコ吸って帰る」という行為が当たり前にできる人は少ない。普通は食べたらすぐ帰るか、飲み物を注文する。アジフライ定食とコーヒーとでは、席料の質が違うのだ。研究を進めたい。
コーヒーなどドリンクを頼む人は一杯で1時間でも2時間でも居ていいことになっている(喫茶店法第14条)。しかしフードメニューのみの場合は原則として食後すぐに退店せねばならない(同第2項)。そうするとアジフライ定食に含まれる「席料」はコーヒーの場合と違い、せいぜい50円程度ではないかと仮定できる。しかし、席料にサービス料等が含まれるとすれば、配膳や洗い物の手間、割り箸などの消耗品費を考えれば合算で結局は150円くらいに揃うのかもしれない。そう考えると楽なのでそう考えることにしよう。
ここで僕の好きな某喫茶店について考える。モーニング営業のみで、価格は400円。コーヒーに豆菓子(ハーフタイム)、ゆで卵、マーガリントースト1枚がつく。仮に席料を同じく150円と考え、ハーフタイム10円、ゆで卵50円、マーガリントーストを90円とでもしてみるか。コーヒーの値段は……ジャジャーン!100円である。安い!
そして驚くことにこのお店、ついこの間まで350円、その前は300円、さらにその前は280円だった。すなわち! コーヒーの値段は「-20円」だったわけである(僕調べ)! すごい!
だからなんなのか? 意味などない。
2025.7.13(日) 大阪 10年ぶりや7年ぶり
大阪にいた。東京都区内→新大阪→名古屋という一筆書ききっぷをつくった。11000円。ふつうに東京→大阪(8910円)+大阪→名古屋(3410円)と分けて買うより1320円やすい。ただし帰りは関西本線を使うので時間がある人限定。その代わり奈良などで途中下車ができる。
行きの新幹線は自由席(4960円)。ゆったり行きたいので「ひかり」新大阪行きにした。
新大阪からは御堂筋線で、心斎橋で下車。宿にチェックイン。今日で一時引退する人のお店で二杯だけ飲む。夕飯は鴫野の「まわり寿し どらえもん」でと思ったが、閉まっていた。金土日のみ営業とのことだがこれまで四度行って三度閉まっていた。一度しか入れたことがない。
鴫野駅でぼんやりインスタを見ていたら梅田近辺でお店をやっている女子校時代の教え子が「臨時で開けます」というので急遽そちらへ。10年ぶり(先方曰く)に会った。
彼女は僕の教え子でもありつつ、未来食堂のまかないさんでもあった。お店には「我々っぽい」システムが実装されていて感極まった。こうして魂は受け継がれていく。僕と未来食堂店主は非て似なる志を持つ昔なじみ(2005~)なのだ。
三杯くらいグビグビと飲み、茄子のつけものと冷や汁をいただいてお暇。「また10年後」とか言われた。冷たい。
最初のお店に戻る。最後の夜だからとみなさん大いに盛り上がり倒れる人も出た。介抱を手伝うなどする。善。会計に漏れがあったので唇を噛んで申告した。善々。あとからDMが来て(マメですな)「新しいお店を開いたらぜひ来てね」と。物語よ続いていけ~。
25時くらいにスッキリ終わったのでミッテラ会館「ISOKO」へ。7年ぶりである。7年前にもらったTシャツに着替えて入店。完璧に覚えてもらえていた。嬉しい。また行こう。そのTシャツには『21エモン』のゴンスケ(のバッタモン)があしらわれている。その時お店が21周年だったのだ。そのTシャツの張り紙かなんかに反応して、ほぼ会員制みたいなお店なのに勇気出して当時ドアを開けたのである。
大阪の夜はそこで終わり。泥の如く寝る。
2025.7.14(月) 名古屋少しだけ
14時過ぎ名古屋に。翌夕方には「ぷらっとこだま」で東京に戻る。8710円、1ドリンク引換券でサッポロクラシックもらった。一人で酒を飲むことはほぼないので、今度お店で飲む。
最近できた名駅エスカのスガキヤ行った。いきなり専門用語が3つも……。普通のラーメンなのにチャーシューが2枚も入っていた。いったい何が起こっているんだ。
久々に女子大の「陽陽」にも行けたし、スガキヤの姉妹店「たこ寿」のたこ焼きも食べることができた。喫茶店は「すみれ」と「富士」。夜は某ダイニングバーと「触手」と、大曽根の「ニューカマーランド クッピー」。
酒と小麦の日々。米はスガキヤの五目ごはんくらいか。
故郷は歩くだけで泣けてくる。本当は古い友達みんなに会いたいが、時間があんまりない&だいたい急に決める&遠慮しちゃうため、今回も誰にも声をかけなかった。土日ならもうちょっと気楽なのだが。平日でもいいから声かけて!って人は教えてね。
時がすぎるごとに名古屋との距離が大きくなる気がする。リニアでたった50分の距離なのに。もっと気軽に名古屋で名古屋人と遊びたいよ~。リニアはやく~。リニアのフリーパスもはやく~。
2025.7.15(火) そしたらベンジー投票済証で殴って
ベンジーとは浅井健一さんのことで、ブランキー・ジェット・シティというバンドのボーカルとして名高い。名古屋市名東区出身。河村たかしを除けば最も名古屋弁の強い有名人だと思う。
――人、というところでは、名古屋弁は特徴ありますよね。浅井さんはずっと名古屋弁ですよね(笑)。
「もう東京に来て27年だけど、なくならんよね(笑)。鮎川誠さんっているじゃん。19ぐらいの時にライブを見て、その影響は意外とあるかも。鮎川さんって見た目は外国人みたいだけど、喋ると博多弁ですごい自然な感じで。無理に盛り上げるような感じもなかったし。言っている内容はすごくかっこいいし、素の感じがすごくよかったんだわ。地元の言葉で喋るのは当たり前のことだしね」
(SNUG CITY NAGOYA 2017.3.30より)
「地元の言葉で喋るのは当たり前」これがベンジーの思想の中核にある。折しも「参政党に投票する」と宣言して話題になっていたが、浅井健一という人物をこよなく愛する僕としては「なるほど」としか思わなかった。神谷宗幣の演説を聞いて「いいこと言っとるじゃん」と名古屋弁でつぶやくベンジーの姿は容易に想像できる。
そんなベンジーのインスタが今非常に面白い。
この投稿とリプ欄をご覧あれ。以下に一部引用。
あと、俺は参政党に入れる発言に対して色々心配してくれる方々は、ありがたいんだけど。攻撃してくる方々に一度だけ言っておくわ。
一人の人間が自分の心で感じて自由に決断してある政党に一票を入れる。これこそ国民主権、民主主義の根幹だよな。それによって選ばれた政党がこの国を仕切る。みんなの意思で選ばれたのだから、たとえ自分が好きではない政党が選ばれたとしても、自分はそれを認めた上で従う。もし仮にその政党の政策がダメダメだった場合は次の選挙でたぶん落とされる、それの繰り返し。
俺がどこに投票するかは、俺の自由。それに対して攻撃してくる人は間違いなく間違っている。おれは今回以降は相手にしない。たとえ思想が違っても尊重し合うのが大切。
参政党以外にも、素晴らしい人や政党が沢山出てきていると思っています。全ての人が自分の心で決めてその政党に想いを託す。シンプルな話でしょ。
ミュージシャン、アーティスト、芸能人で政治的な発言をする人は少ないよね。と言うかゼロに近い。理由はわかる、離れて行く人が少なからずいるからそれが怖いんだと思う。でも自分の本当の気持ちがわかっているのに、それを隠し続ける生き方は、俺は嫌なんです。いい社会になって欲しいと心から思ってます。
もし参政党が間違いなく間違っていたとしても、ベンジーは正しい。
《一人の人間が自分の心で感じて自由に決断してある政党に一票を入れる。これこそ国民主権、民主主義の根幹だよな。それによって選ばれた政党がこの国を仕切る。みんなの意思で選ばれたのだから、たとえ自分が好きではない政党が選ばれたとしても、自分はそれを認めた上で従う。》
《俺がどこに投票するかは、俺の自由。それに対して攻撃してくる人は間違いなく間違っている。》
《全ての人が自分の心で決めてその政党に想いを託す。シンプルな話でしょ。》
《自分の本当の気持ちがわかっているのに、それを隠し続ける生き方は、俺は嫌なんです。》
たとえばブランキー時代の歌詞と最近のベンジーの歌詞はやはり違う。どちらもブッ飛んでいて僕はどちらも好きだが、「昔のほうが良かった」と思う人もいるだろう。だが変化はあれどもブレてはいない。彼は30年以上ずっと、「自分の心」「俺の自由」「本当の気持ち」に殉じているだけだ。
「誰が好きだって…いいじゃないかァ…」とは武富健治『鈴木先生』におけるヒロイン小川蘇美の名台詞だが、「誰がどこに投票したって…いいじゃないかァ…」とベンジーは言っとるんだわ。おそらく浅井さん的には、それに対して反対意見を言われるのは構わないというか、当たり前のことなんだけど、それが「攻撃」のようになると「なんで?」ってなるんだと思う。
名古屋にブランキーファンのバーがあって、こないだ行ってきた。「浅井さんもまれに来てくれるんですけど、ほら政治の話が多いんですよ。トランプのことどう思う?とか従業員に聞いて。それで返事が、あんまり考えが深くない感じだとちょっと機嫌悪くなるっていうか」みたいな話を聞いた(意訳です)。ここでも僕は「なるほど」と思った。別に機嫌悪くなるってことはないと思うけど、たぶん浅井さんは同じ意見を持つ仲間を探しているのではなく、また違う意見の者を排したいのでもない。単純に「おまえの意見」が聞きたいのだ。トランプについておれはこう思う。お前は? そうなんだ、なるほど。それは知らんかった。おれもちょっと考え直してみるわ。みたいなやり取りをしたいんじゃないかと僕は勝手に考える。
「神様はいつも両方を作る」という凄まじいフレーズを彼は生み出した。浅井さんにとって「両方」が存在することは当たり前で、「おれはこう思うけどお前はそう思うんだな」というのは嘆くべきことではないし、決別のきっかけにもならない。それはすべての始まりでしかない。「おれはそうは思わんけど、面白いじゃん」みたいなことを素直に思える人なのだ、きっと。
2025.7.16(水) 愚かさは許されている
僕のものごとに対する基本的な態度は、けっこうベンジーのこの感じ(昨日の記事参照)と似ている。
前提として、僕は世の中に愚かな人がたくさんいると思っている。愚かな人は愚かな発想や選択をする。その愚かしさも当然「民意」とか「世論」とか「選挙の結果」といったものに反映される。それで「愚かな政治的判断」というものもひょっとしたら生まれるかもしれないし、愚かな人から見たら優れた政治的判断も愚かしく見えるかもしれない。ってかまあ完全に優れていたり完全に愚かであることはほとんどないので、どこかからはどうしても文句が出る。
愚かな人たちを多く含む集団による多数決なのだから、当然目に見えてうまくいくことばかりにはならない。そんなことは当たり前だ、ゆっくり地道にやっていこう、というのが現代日本の民主主義で、「それの繰り返し」とベンジーが言っているやつ。そして太田光さんが言うように、日本は少しずつだが良くなっている。(←これは僕の意見でもあります。)
愚かな人間にも愚かでない人間にも等しく一票が与えられる、ということは、その時点で「愚かさ」は差別されていない。愚かであることは許されている。愚かな人の一票も大切な一票として扱われる。このことを忘れてはいけない。愚かな人が得するような政策が存在したとしても、もしそれが「愚かな人の総意が愚かでない人の総意を数として上回った」ということであるなら、単純に文句は言えない。だいぶ複雑な文句になるはずだ。
たとえば仮にいまある価値観を措定して、参政党を支持する人は愚かだとしよう。それがたとえば投票する人の10%に達したとする。この10%は愚かな票なのだが、当然尊重されなければならない。「参政党は愚かだから無効だ!」とか「愚かな人間の一票は無効だ!」とか言うのは愚かさへの差別である。愚かな人たちにも等しく(彼らが求めるような形での)行政の恩恵がゆきわたるべきなのは当たり前だし、10%という無視できない民意はもちろん実際反映されるだろう。
しかし、もし参政党が本当に愚かだとしたら、いろんな力が働いて排斥されるなり縮小していくと僕は思う。そのような自浄力が日本はとりわけ強い。愚かな人たちはNHK党が流行ればNHK党に乗り、石丸がバズれば石丸に乗り、玉木氏の国民民主党がすごいとなればまたそれに乗るというような傾向を持つ(同一の人がそうしていると言いたいのではない)。しかしそれらは「波」でしかなく、定期的に人々は正気に戻る。そして「あれはなんだったんだ」という反省もないまま次の波にまた期待する。待ち焦がれる最大のビッグウェーブは進次郎波であろう。
それが悪いことだと僕はあえて言わない。むしろその柔軟性、腰の軽さ、節操の無さといったところに日本人の強さがある。それは「愚かさを許す」という前提に立脚している。ボンジョビもクイーンも日本のミーハーが発見したらしいじゃないですか。流行、流行、また流行! 大いに結構なのである。
そういうことを繰り返し、少しずつ少しずつ良くなっていく賢さを、日本の人は「総体として」持っているのだ。そこにどれだけ多くの愚かしさがあろうとも、長い目で見るとトータルでなんとなく良い感じになっていく。もちろんそこにはさまざまな種類の人のさまざまな不断の努力があるし、努力なんて一切しなくてもきっと何らかの貢献をしていたりするはずだ。全体のバランスとして。
「愚かさを許さない」のではなく、むしろ許すことによって、自由さと流動性が生まれる。そこに日本の底力が宿っているのだと僕は信じるものであり、それをスパッと語ったのが昨日引用したベンジーなのだ。
2025.7.17(木) やがっしゅく 8/15-18
やります。
やがっしゅくとは何であるか1&2参照。
1のほうが重要で、必読です。
「旅のしおり」こと特設ページ作ってありますが、どこからもリンクされないWebの孤島なので興味ある方はお問い合わせください、URL送ります。ちなみにベタ打ちしたテキストをGeminiにhtml化(同ファイル内にCSSを記述)してもらいました。リンクや見出しも(指定したら)ちゃんとやってくれて感涙……。
一部転用して、概要をここでもお知らせしておきます。
日程:8月15日(金)~18日(月)
場所:JR中央線「茅野」駅周辺
理念:
「いつ来てもいいし、いつ帰ってもいい。行動はすべて自由」の合宿です。
参加者は「すでに仲がいい顔見知り」同士のみではなく、必ず知らない人も含まれるはずです。また「やがっしゅく」は夜学バー主催ではなく、お店に来たことがない人もやってきうるものです。ゆえに参加者は広く募集するものではなく、直接の声かけやこのような闇文書によって集められます。いわゆる「信頼できる人」か、「信頼できる人が信頼できると思う人」、という「信頼の鎖」によって成り立つ集団ができあがります。失敗や齟齬、不具合があったとしても、がんばって信頼を維持させるための不断の努力が最も大切な持ち物です。今回もがんばりましょう。
飛び入り歓迎ですが、念のため参加予定が決まり次第ご連絡くださいませ。どの日に滞在するか、だけ教えてもらえれば大丈夫です。
費用:
15金:5000円/こども3000円(いずれも予価、飲み放題・食べ放題つき)
16土、17日/1泊3000円、貧乏大学生は2泊で5000円とか?応相談
(※17日の「総文祭」は会場費に9000円くらいかかりますが、余ったお金で僕が払う予定なので宿代など多めにもらってそうでも怒らないでください 余らなかったらそのぶん自腹=夜学経費で払います 寄付は大歓迎)
(※16~18の宿は「部屋貸し」で、各日10人くらいいないと赤が出ます。みなさんふるってご参加ください! 誰か連れてきたい人はご相談ください! 余裕ある人は多めに喜捨ください!)
詳細:
《15金》
この日は定宿が取れなかった(休み?)ので酒池肉林の「前夜祭」となります。
居酒屋の座敷泊。混沌が予想されるので近隣の別の宿をとっておくのもアリでしょう。駅前の某店を17時から翌昼くらいまでおさえてあります。一階と二階に座敷があり、眠る場合は雑魚寝となります。おそらく二階が寝る用になると思います。座布団や寝袋、毛布などはあった気がしますがちゃんとしたおふとんやきれいなシーツはありませんのでご理解のうえおいでください。お風呂は「ちのステーションホテル」(10~16時)や翌日の宿のシャワーなどで。いちおうお風呂はあるらしい(たぶん利用も可能)ので、洗面台は使えると思います。
料金は、食べ放題・飲み放題・宿泊込みで5000円程度になると思います。お酒飲めない年齢の人は3000円くらいにできると思います。(思いますばっかりですみませんが、そのくらい先方も僕も雑だということ、ご理解いただける方はぜひご参加を。)
店主は天才料理人なので、何でも美味しいです。しかもおそらく食べきれないくらいの量が出てきます。その点はご心配なく。
飛び入りOK(合宿の大前提)ですが、この日ばかりは最低でも何人来るか知りたいので参加希望の方はお知らせください。
《16土》
一応チェックイン15時です。不安な人は15時までの予定を組んでおくと良いでしょう。
《17日》
13-16時 カフェ「楚そっと」にて第2回総文祭(予定)、演し物大会です。演者完全未定、なにかやってもいいよ、という人はぜひお声がけください。去年は演奏、弾き語り、落語、朗読などいろいろありました。ギターは持って行く予定。会場予定地にはピアノもあります。
※参加、観覧は強制されません、宿で寝ててもOK
《18月》
チェックアウト10時。その後は三々五々。
以上抜粋のうえ一部修正。「どなたでも参加可能」とは言いません。しかし、このホームページをわざわざ見に来るような、ジャッキーさんフレンドリーの方はきっと歓迎できると思います。お気軽にお問い合わせください。メールフォームもあるので。(最近業者が増えてきたから閉じちゃうかもしれないが……。)
付録として「茅野駅アクセス」置いときます。
新宿駅から特急「あずさ」で2時間と数分、上諏訪駅の手前
特急券はえきねっとの「チケレス35%」がおすすめ ※お盆期間はすでに売り切れ傾向
乗車券は新宿→高尾/高尾→梁川/梁川→茅野と切符を三分割する(下車の必要はなし)と430円安くなる
各駅停車の場合は高尾まで京王線に乗ると安くなる場合が多い 4時間弱くらい
○具体的な数字
新宿→茅野 乗車券3410円+特急券2240円→5650円
チケレス35%だと特急券が1450円(ふつうのチケレスは2140円)
新宿⇒高尾580円/高尾⇒梁川420円/梁川⇒茅野1980 円→2980円
と、3分割すると430円安くなる
http://bunkatsu.info/cpg.cgi
京王線の新宿→高尾は409円 ゆえに各駅停車なら
409+420+1980→2809円 が最安
すなわちお金がない人は、京王線で高尾に行きあらかじめ買っておいた(えきねっとでヨヤク→駅の指定席券売機で発券)紙のきっぷ2枚で茅野まで、がおすすめです。
これらは新宿起点の話なので、別の駅から乗る場合はまた変わる これを基軸に各々研究してみてください jに聞くのも◎
ちなみに渋谷→高尾も409円です
jは電車好きなので電車の話しかしないが、バスもあります
https://www.alpico.co.jp/traffic/express/suwa_shinjuku/
8/15で調べたところバスタ新宿→茅野駅で3時間、3500円~ くらい
2025.7.18(金) 思想的プチ総集編
オンタイムに金曜の夜。石炭をば早や積み果てつ。お客がないので日記でも書こう。実は13~17の記事も今日、お店で書いた。その後2名来客あり、またテンカラ(こういう専門用語が夜の世界にはあるらしい)に。
オンタイムに今朝の東京新聞の一面、参院選とSNSというテーマであった。
SNSも信頼できる情報ばかりではないのでは。記者が問うと、佐藤さんはこう答えた。「自分のふに落ちればそれでいいのかなと思う」
これである。16日の記事でいう「愚かさ」だし、15日の記事でいう「自分の心」だし、11日の記事でいう「説得力」と「納得」。さらに言えば6月29日には「かなと思う」という言い回しについて語っている。まったくもってタイムリーにすべてを記述したものだ。偉い。僕。
SNSで流れてくる言説をほぼ無批判に信じて行動する愚かさ。それを「腑に落ちればいい」とするのは、すなわち理屈や客観性よりも「説得力」や「納得」を優先し、最終的には「自分の心」が決めればいいという独善。最後には「かなと思う」などという婉曲的な語尾で責任逃れを目論む。
ジャッキーさんとかいう人がものすごく現代的な問題を日々俎上に上げているということを天下の東京新聞様がお示しくださったというわけですね。ワーイ。僕は名古屋人だから東京新聞の親会社たる中日新聞で育っていますのでね、思想的なことはどうでもいいがそれで東京新聞をとっているのであります。
ベンジーによる「自分の心」に従えばいいという主張(15日参照)は、この佐藤さんのような態度をも肯定することになる。佐藤さんは、僕が16日に書いた「愚か」というのにたぶん当てはまる。絵に書いたような衆愚(の一部)だ。しかし、愚かだから悪いとは言わない。現代日本の民主主義システムにおいては愚かさも等しく尊重されるべきなのだ。個人的には誰しも愚かでないほうがいいと思うが、しかし現時点での愚かさを糾弾して「お前に投票する資格はない」みたいなことを言うのは間違いなく間違っている。ベンジーが言っているのはそういうことだ。
佐藤さんのような愚かさはいま日本中にはびこっていて、それは政治地図を少し変えるだろう。だが嘆くべきではない。たとえ愚かであっても「本当の気持ち」であるならば、その声が大きいのならばきっと一つの真実であり、何らかの是正に働く。愚かさはいつの時代も、どの地域にも必ずある。それを踏まえて人々は生きてきた。そのエネルギーとともに世の中は変わってきた。少しずつ一歩ずつでも良い方向へ。世界が滅ぶほうが早いかもしれないが、それこそが人類の叡智の限界なのだと思う。
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