ひごろのおこない/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。
過去ログ
2025年6月
2025年7月
2025年8月
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2025.7.1(火) お金の向こうに人がいる
2025.7.2(水) 夜のハレとケ
2025.7.3(木) ナイナイとは何か
2025.7.4(金) 爆笑問題の天下
2025.7.5(土) ウンナンそしてタモリ(三部作おわり!)
2025.7.6(日) 示準化石(シャズナを例に)
2025.7.7(月) 示相化石(菜摘ます児)
2025.7.8(火) 発達が障害されてますから…
2025.7.9(水) 15歳の「はじめに」
2025.7.10(木) 25th 告知文など
2025.7.11(金) Ez25周年!
2025.7.12(土) 定食のコーヒーの値段
2025.7.13(日) 大阪 10年ぶりや7年ぶり
2025.7.14(月) 名古屋少しだけ
2025.7.15(火) そしたらベンジー投票済証で殴って
2025.7.16(水) 愚かさは許されている
2025.7.17(木) やがっしゅく 8/15-18
2025.7.18(金) 思想的プチ総集編
2025.7.19(土) 投票という信仰
2025.7.20(日) 選挙が他人事な理由(前)
2025.7.21(月) 選挙が他人事な理由(後)
2025.7.22(火) 続き 世を離る動機
2025.7.23(水) 閑古鳥の止まり木
2025.7.24(木) 「みなさんにお任せします」
2025.7.25(金) 転載と流し読み
2025.7.26(土) 常にすでに自分はその場の一員であると自覚すること
2025.7.27(日) 町中華が中華屋に戻りつつあった
2025.7.28(月) 左翼のギャグセン、右翼のギャグセン
2025.7.29(火) 続き ギャグセンの話
2025.7.30(水) ダンスマイノリティ
2025.7.31(木) そんなに金がほしいかよ
2025.7.1(火) お金の向こうに人がいる
僕は地球環境のことなんか二の次以下にしか考えていなくて、単純に「お金を使うということは、何かをさぼって他人任せにすることであって、“働く”ということを放棄するということである。だからお金はできるだけ使わずに、もっと“働く”ということに積極的に関わっていったほうがいい」という、数日前に思いついた信念に基づいて言っている。
(2008年9月8日の日記より)
理論的には、働けば働くほどお金がいらなくなるはずなので、お金を稼ぐ必要があまりなくなって、今までお金を稼いでいた時間を“働く”ことに費やせるようになるはずだと思うんだけど、どうやら世の中がまだそこまで進んでいないようだ。どこかでスイッチが切り替われば、そういう世の中もやってきそうな気がするんだけどねえ。
で、さて。要するに僕は「お金を稼ぐ」ということと「働く」ということを分けて考えている。ここで少々特殊な定義をすると、「働く」ということは、「自分でやる」ということだ。(ここから、とてもわかりにくくなります。)
そして、「お金を稼ぐ」とは、「誰かに何かをさぼらせて、代わりにやってあげる」ということで、「お金を使う」とは、「何かをさぼって、誰かに代わりにやってもらう」ということ。すべてを「自分でやる」ことはできないから、そのために「分業と協業」という考え方があって、世の中にはさまざまな職業がある。世の中は、「誰かの代わりに何かをやってあげて、その代わりに、誰かに何かをやってもらう」ことで成り立っている。
(同上)
17年前。前年の2007年には小沢健二&エリザベス・コール『おばさんたちが案内する未来の世界』を10回近く観ていて、小沢さんの『うさぎ!』シリーズを耽読していた頃。また橋本治さんの著作を浴びるほど読んでいた頃でもある。成城学園中学校の国語科教員だった。杉の森(そういう建物があるのだ)で『貧乏は正しい!』を読んでいる光景をなぜかよく覚えている。ともあれ小沢さんと橋本さんにかぶれ、考え方をインストールしまくっていた。上記の文章もその成果である。あの時期がなければ今の僕はない。今に続く良い出会いもたくさんあった。
先ごろ田内学『お金のむこうに人がいる』を読んだ。いい本だった。2021年発売で、たぶんけっこう売れたと思う。ほぼ同じテーマの近作『きみのお金は誰のため』は25万部以上売れたらしい。こっちも読んだが、『お金の向こうに』のほうが(本を読む習慣があるなら)オススメ。めっちゃ雑に言えば引用した文章のようなことを「しっかり」書いている。
お金を稼ぐということは「誰かがお金を払っている」ということで、お金を払うということは「誰かが代わりに働いている」ということ。お金の向こうに人がいる。この基本中の基本を自分で悟った23歳の僕はエライ! 自画自讃! もちろん小沢&橋本の薫陶あってだけど。
本の内容を少しだけ。大事なのは「誰が働いているか」という点に尽きる。金(数字)ではなく人に注目する。たとえば国内の人が働くか、国外の人が働くか。国外の人に働いてもらったら「借り」になる、国外の人のために国内の人が働いたら「貸し」になる。その貸し借りが金額で表される。
僕の過去の文章でいうと、「自分でやる」領域が増えれば「借り」は減る。「自分でやらない(サボる)」領域が増えれば「貸し」が増える。逆だったらごめんなさい、二項対立が苦手なので……(
昨日の日記参照)。
「自分でできることは自分でやる できないことは友達に相談する それでもダメならお金を使う」これも僕がその頃思いついたスローガン。正確な時期はわからないが2010/07/16の記事に見つかった。お金というのは肩代わりなのだ。ふだんは歩いて帰るけどしんどい日はタクシーに乗る、というような話。それがワークライフバランス、本来。
なんにせよ、そのような素朴な発想を柱にした本(と僕は思う)がしっかり売れている現状はそれなりに救いがある。17年前にはそんな言説聞いたことがなかった。寡聞にして。あったのかもしれないけど。少なくとも、リベラルな人たちの「自然回帰!」「所有は邪悪! 共産!」みたいなノリじゃなくて、それなりにプロフェッショナルな人による経済の入門書として世に出て売れたものはなかったのでは? もしすでに類書があれば教えてください。チーズはどこに消えた?とか金持ち父さん貧乏父さんとか、夢をかなえるゾウとかが実はそういう話だったりして。(←どれも一切読んでいない。)
2025.7.2(水) 夜のハレとケ
飲み屋で、「平日は24時まで、金土のみ朝5時まで」というお店が増えている、気がする。昔からそういうお店はそういうもんではあるのだろうが、ハッキリと明記するお店は多くなっているのではなかろうかと、これも印象論でしかないが感じている。
湯島(わが夜学バーのある街)で大先輩方(50代以上)のお話を聞くと、「とにかく飲む人が減っている」と誰もが言う。中堅(40代くらい)の方々は「ヒマだ、ヒマだ」とひたすらこぼす。若手(20~30代、ないしお店を開いて間もない人)はそもそも不景気しか知らないので「こんなもんか」と思いつつ、「飲食って儲からないなあ」とか「いつまで続けられるかなあ」と心配している、印象。
それでも週末はそれなりに盛り上がるお店は多く、「週末はともかく、平日はもう……」という愚痴もよく聞く。
夜の世界のハレとケがくっきりと分かれてきたのかもな、と直観的に思う。平日に遊ぶ人がだいぶ減ってるんじゃないかと。それは僕の嫌いな「イベント社会」の進行とリンクする。日常はつまんなくていいから、イベント事の時にドッカーンと盛り上がろう、的な。いやいや、日常生活も楽しいほうが絶対いいでしょ、と僕なんかは思うのだが、もともとの日本文化のあり方を考えればそのほうが自然なのかもしれない。ふだんおもんない(失礼)徳島人が阿波踊りの数日間だけ気が狂う、みたいな。
平日にお客が来ないから、平日は休みを増やして週末だけがんばろう、なんなら週末だけ店を開ければいいや、という発想は僕だってしたことがあるし、気持ちはわからんでもない。でもそれは悪循環というか、「週末は楽しく、平日は楽しくない」という気分を加速させてしまう気がする。僕は思想的に平日こそむしろ楽しくしていなければならないと思っていて、だから夜学バーもできる限り平日に休みをつくりたくない。休むとしたら日祝にしておきたい、せめて。本当は年中無休がいいのだ、曜日に差などない。日はすべて平等であるはずだ。
平日元気と勇気を出してフラッとチラッと、お店に遊びに来て頂けたらじつに幸いであります。
2025.7.3(木) ナイナイとは何か
ナインティナイン岡村隆史さん55歳の誕生日でありナインティナインのオールナイトニッポン放送日。1549回らしい。僕は97年からなのでそのうち1300~1400回は聴いていると思う。
これは確か次兄のY氏(勝氏のように距離をとる表現ではない)が言っていたと思うのだが、「ナイナイ自身が面白いわけではない、むしろナイナイは面白くない、面白いものを面白いと見抜くのが得意なだけだ」と。彼はもともと「吉本印天然素材」が好きで、オールナイトも当然僕より早く聴いていたし、もちろん僕らは『めちゃモテ』も観ている。(『とぶくすり』は名古屋でやっていなかったはず。『ピッカピカ天然素材』や『急性吉本炎』はやってた。)さすが識者で、核心をついた指摘といまだに感心する。
具体的には、もちろんこれはナイナイの力ばかりではないのだが、『めちゃイケ』からブレイクした芸人やタレントは数多い。「笑わず嫌い王決定戦」なんてまさに、埋もれていたクセのある芸人を「こういう見方をすると面白いんですよ」とわかりやすく教えてあげるような企画だった。スタッフの力が何より作用しているのは確かだろうが、その見せ方に関してはナイナイが秀でていた、というか適性があったのは間違いないと思う。彼らは面白いものの面白さを引き出したり、わかりやすい形で示したりすることが非常に上手なのだ。いわゆる「からみ」がわかりやすいし、彼ら自身が大して面白くない(Y氏曰く)ぶん、相手の面白さが際立つことにもなる。雨上がり決死隊やFUJIWARAなども『めちゃイケ』がなければ東京進出は成功していなかったかもしれない。
ラジオでも流行を真っ先に掴んだり(古い例だが、まだ流行りきる前からだんご三兄弟をジングルに使用していたり)、まだ(あるいはそれまでは)面白いと思われていなかったものにスポットを当てて(番組内で)バズらせることが得意である。そして、おそらくそれを聴いたメディア関係者などが実際にその人をテレビなどに呼ぶ、という流れもけっこうあったはずだ。
少なくともめちゃイケ終了(2018年)まで、ナイナイは芸能界のブローカーだかフィクサーみたいな側面を持っていた、というのが僕の持論である。その後も「ゴチになります」などでその性質は引き継がれているものの、さすがに『めちゃイケ』ほどではない。また細かいことを言えば新メンバーを入れてから(2010年~)はちょっと弱くなった気はする。
最近はあんまりそういう印象がない。若い人たちからしても「なぜかテレビに出ている昔の人」くらいの認識なのではないか。なんとなれば彼ら自身は大して面白くないのである。いや渡辺直美さんも言うように岡村さんが誰にでもわかる顔芸や動きで笑いを生み出してきたのはすごいし、矢部さんのわかりやすい単純なツッコミも評価すべきところではあると思うが、もう岡村さんがそれを披露する場は少なく、さすがに加齢の衰えもある。ダウンタウン(とそのフォロワーたち)のようにセンスやワードチョイスで笑わせるタイプではないので、トークの中で「面白い」と認識されることはあまりないだろう。
ただ、こないだ友人が岡村さんについて「ただ喋っているだけなのにあんなに面白い人はいない」と言っていて、これも芯を食っている。ナイナイのしゃべりの面白さに派手さはない。ドカン!と爆発させる笑いではない。これもダウンタウンと比較すると非常にわかりやすい。ナイナイは、ただ喋っているだけでなんとなくおかしみがあるのだ。それは単に人柄ということでもある。また大げさに、ファンとしての欲目も持って言えば話芸という領域でさえある。だからラジオが(あのオールナイトニッポンで、ほぼずっと「一部」で!)31年間も続いているのだろう。
先に語った「面白いものを見つけるのがうまい」ということに引きつけると、彼らは実のところ演者である前に享受者なのだと思う。芸能界に対してもお笑いに対しても、常に一歩退いて客観視しているところがある。「自分らとは本質的に関係がない」と。すべて他人事の感じがするのだ。ナイナイは基本的に視聴者やリスナーと同じ視座に立つ存在であり、それが身近さとなり、好感度に繋がっていった。そしてナイナイが面白いと思うものをまんまと我々も面白いと思わされてしまうのである。
ナイナイのラジオを聴いていると、リスナーはまるで友達と喋っているような気分になる。近年のオールナイトニッポン一部で長く覇権を握るオードリーも同じだろう。若林さんも「面白いものを見つけたり見抜いたりして、それをわかりやすく伝える」ことが得意な人であり、『激レアさん』や『しくじり先生』のMCはまさに適任。それは視点が我々「客」に近しいということである。
ダウンタウンは面白さを無から生み出す達人であり、後の多くの芸人たちはそれに倣った。ナイナイはそこから一歩退き、客観的に「面白いもの」を世の中から探し出す役割を担っている、というのが僕の見方なわけだ。彼らは根本的に「自分たちは大して面白くない」と思っているのだ。これ確か日記にも書いたと思うけど見つからないので記憶にのみ頼るが、岡村さんはかつてラジオで「僕らはもう面白くなりません、ナインティナインが今より面白くなることは絶対にありません」と宣言していた。凄まじい、まるで第一線で活躍する芸人の言葉ではない。彼らは当然わかっているのだ、自分たちの売れている理由が「(お笑いとして)面白いから」ではないことを。ただ「何が面白いか」を彼らはよく知っているし、だからこそ「自分たちはもう面白くならない」こともちゃんとわかってしまう。
もうこれ以上は絶対に面白くならない芸人、ナインティナイン。彼らの「これから」の存在意義はなんなのだろうか? ナイナイの、というより、ナイナイほど売れてしまった芸能人の役割というのはもう、「老いていく姿を見せる」ということに尽きるんだろうな、とこの55歳の誕生日の放送を聴いて思った。「みんなが知っている人」が少しずつ老いていくのを、みんなで見届ける。それが自分たちの老いに対する参考にもなるし、心の準備にもなる。この日の放送では「岡村は薄毛治療をいつやめるか」という話が出ていて、矢部さんは「(60歳では)やめへんやろ」と言っていて、岡村さんは「70になったらやめよかな」とか言っていた。こういう会話が「ただ話しているだけで面白い」なんだなと僕は思う。
普通なら、もう面白くならない老いていくだけの芸人はメディアから消えていくものだが、ナイナイがその「庶民的な視線」と「ただ話しているだけで面白い(話芸)」を持ち続ける限り、ずっとそこに居続けるのだろう。ファンとしてはそうなってもらえたらとても嬉しい。
2025.7.4(金) 爆笑問題の天下
2025.1.25(土) 爆笑問題の勝利の続き。先日「爆笑問題がピンとこない」という20代前半のお笑い好き女性でとお店でサシだったので一席打った。ずいぶん前にも似たようなことがあった。爆笑問題は何がすごくて、なぜ天下を取れてしまったのか? いったい爆笑問題とは何なのか? リンク先の記事である程度は書いているが改めて簡単にまとめてみる。
主として太田光さんについて書く。まず「優しい」ということ。とにかく視野を広く持ち、バランスを取ろうと努めている。たとえば統一教会問題について、「教団を責めることによって傷ついてしまう信者の心」を視聴率10%前後の全国生放送で強調したのはわかりやすい例。「統一教会擁護」と叩かれておりましたが、むろんそうでなく「広い視野を持って人を思いやる優しさ」というものである、あれは。
正直に言えば、僕の印象だと昔の太田さんは時に視野狭窄で、偏った意見を言うことも多かったような気がする。ひょっとしたら僕の読解力、理解力の問題でもあったかもしれないし、太田さんの表現力の問題かもしれないが、若き日の僕はそれで「ちょっとな……」と心が離れかけたこともある。しかし年を重ねるごとに太田さんの発言や文章は洗練されていき、最近の著作『芸人人語』シリーズは殊に素晴らしい。
個人的には! 太田さんの最大の長所は「成長し続ける」ということなのである。向上心と継続力がずば抜けている。また「新たな視点」をインストールしようという欲求も大きい。新作アニメを意外と観てることとかも含めて。要するに勉強家なのである。
ダウンタウンの最大の罪は、「人を笑わせること」がそのまま「優れていること」であるという幻想を人々に植え付けたことだと断言しておきたい。「笑わせる」という結果がすべてで、その源は「オレの発想」に尽きる。つまり「松本人志という一人の人間が無から笑いを生み出す」ということをそのまま「偉大である」ということにしてしまった。だからそれをみんなが真似した。「オレでもできそう」「アレならやってみたい」と。
対照的に爆笑問題は、無から笑いを生み出そうとはしない。昨日書いたナインティナインと少し似ているが、彼らも「自分は面白い」とはあんまり思っていないのだ。ハッキリ言って太田さんは、自分よりも世の中のほうが面白いと思っていて、それを笑い飛ばすことを芸にした人だと思う。「未来はいつも面白い」という座右の銘(小説『笑って人類』の帯にも使われた)はまさにそのことを表しているのだ。漫才も主として時事ネタを題材とし、ゼロから設定をつくって物語のように組み上げていくネタは少ない(たまにやるとめちゃくちゃ面白いし、コントライブ『O2T1』も非常に優れていた)。
松本さんが「無からの発想」を武器としたのと違い、太田さんは読書や勉強により「過去の知的遺産」を、また数多の先輩芸(能)人たちから「過去の芸術遺産」を受け継ぎ、それを自分なりに芸に落とし込んできたわけである。それは「自分よりも世の中のほうが面白い」とか「自分よりも先達のほうが面白い」という謙虚さから来ている。
それはもちろん「憧れ」というものの強さでもある。高校時代に一人旅で島崎藤村の墓参りに行ったり、ビートたけしや植木等、立川談志の芸に近づこうとしたり。喋りかたとボケかたはたけし、動きかたと笑いかたは等、生きかたと考えかたは談志、って感じか。たけし、ひとし、だんし。3C。
昨日の記事でナインティナインを「演者である前に享受者」と書いたが、爆笑問題も近いところがあって、「ボケである前にツッコミ」なのだと思う。すでに世の中がボケていて、それにツッコミを入れているのが太田光という構図が実はある。あるいはトリオ用語で言うなら、世の中が「小ボケ」、太田さんが「大ボケ」そして田中さんが「ツッコミ」という構成になる。僕の大好きな札幌テレビ『号外!爆笑大問題』も、リーダーこと渡辺正行さんの読み上げる小さなニュースに太田さんが茶々を入れ、田中さんが突っ込むという仕組みだった。
ナイナイも爆笑問題も、高度な客観性を持った傍観者という側面を持つ。その根底にあるのはコンプレックスや劣等感だと思うのだが、松本人志さんのそれとはまったく別方向に進んだのはなぜだろうか? それはやはり「憧れ」という「既存の上位概念に対して伸びていこうとする心」の強さだったのではなかろうか。ナイナイも、特に岡村さんは、かなりいろんなものに「憧れ」を強く持って生きてきた人だし、他人のネタをパクって(オマージュして、租借して)大きく売れた人でもある。「自分は面白くないのだが、自分が憧れているもの(面白いと思うもの)は間違いなく面白い」という確信は強い。
松本さんは自分一人だけで強くなろうとしすぎた。頭を丸め、金髪にして、筋肉をつけてしまった。「憧れ」の不在ないし弱さゆえと僕は勝手に分析する。
爆笑問題が天下を取れたのは、アリとキリギリスのようなものである。膨大な仕事をこなしながらもコツコツとネタをつくり、台詞を一字一句覚えるような異常な稽古(さすが演劇学科である)を重ねる。それをいまだにやっているのだ。加えて空いた時間では本を読んだり勉強をしたり、映画やアニメを観たり文章を書いたり、成長と洗練のための見えない努力をいつまでも続ける。
そして「多様性」の世の中に対応した柔軟性や優しさ、すなわち視野の広さをいつの間にか身につけてしまった。なんだかんだ『サンデー・ジャポン』が高視聴率番組として生き残っているのはひとえにそのバランス感覚ゆえと思う。太田さんは「変わっていく」ということができるのだ。田中は何も変わらない(讃美)。
2025.7.5(土) ウンナンそしてタモリ(三部作おわり!)
真の覇権はウッチャンナンチャンである。3日のナイナイ、4日の爆笑問題の記事はこれを語る前段にすぎない。僕のつくった格言で「剣の達人は剣を持たない」というのがある。剣の道を真に究めた者は、もう剣を使うまでもない。また世阿弥『花鏡』に「五十有余よりは、「せぬならでは手立てなし」といへり」とある。能においても、50歳を超えたら何もしないしかない、つまり余計なことをせずそれまでに積み上げてきた芸(まことの花)に委ねるべし、ってことだと僕は解釈している。
ウンナンはもうその域に達している、と思うのだ。特にナンチャンは素晴らしい。なぜ『ヒルナンデス!』が14年も続いているのか? ナンチャンが何もしていないからに他ならない。彼はもういるだけでいいのだ。しかし異様なことに、「ナンチャンがいてくれるだけでいい」と思っている視聴者などたぶんほとんどいない。そこがまったく凄まじい。良くも悪くも目立たない。しかしそこにいるし、実はそこにいなくてはならない。
ナンチャンは本当に何もしていないのか? むろん違う。彼はなんだってやっている。狂言もやるし落語もやるし、最近は「ヒルナンデスバンド」で作詞作曲、ギター、サックスを担当している。実はものすごく芸達者なのだ。
『めちゃイケ』の「オファーシリーズ」等で岡村さんは様々なこと(ダンスやフルマラソン、競馬のジョッキーなど)に挑戦してきたが、その先鞭はおそらくウンナンがつけている。『めちゃイケ』と『ウリナリ』とはほぼ同時期だし、ナイナイとウンナンの番組は実は制作スタッフがかなりかぶっている(片岡飛鳥さんなど)のでどっちが先かはどうでもいいのだが、「岡村さんってなんでもできてすごいよね」というイメージが僕の世代には少なくともある(と思う)のに引き換え、実はウンナンだってなんでもできるし、やってきたということはあまり知られて(覚えられて)いない気がする。それも彼らの「空気」感ゆえかもしれない。派手じゃないのだ、ウンナンは。
ポケビやブラビの楽曲や署名運動などがすごいのは言うまでもないが、ここでウンナンが楽器や作詞作曲に挑戦しているところに僕は特に注目したい。また社交ダンスと水泳(ドーバー海峡横断)はかなりのレベルまで高めていた。『ウリナリ』のWikipediaを読むととにかく色々やりまくっていたのがよくわかる。ウンナンとナイナイ(特に岡村さん)はストイックさにおいてかなり似ていて、とにかく彼らは練習をする。人が見ているところでも、どうやら見ていないところでも。
語ってきた、ナイナイ、爆笑問題、ウンナンという僕の大好きな三組に共通するのは「稽古、練習」を当たり前にストイックに積み重ねられるということであり、それは文化としての「芸能」やそれを育んできた先達に対する憧れが基盤にあろう。「届かないから努力しなければ」と。そういえば爆笑問題は日本大学芸術学部、ウンナンは横浜映画学校出身なのであった。芸能を文化として尊重する教養をそもそも持っている。
僕は、現代のテレビ界において最も文化的な覇権芸人はタモリ、爆笑問題、そしてウンナンだと思っている。タモリの凄さ(好きさ)はまた別で語りたいし、すでに語ったこともあるのだが今回は置いときます。そして僕の幸福は、彼らが「覇権」だということ。天下を獲って、それを手放していないということ。この点においてこんなに素晴らしい国はないと思う(急に愛国)。
僕は本当にダウンタウンととんねるずが腰を下ろしたことが嬉しいのだ。ついにテレビが教養の国になった(大げさ?)。ダウンタウンやとんねるずに教養や努力が一切ないと言いたいのではないが、やはり差はあると思う。ちなみに僕は明石家さんまさんも大好きだが、彼は無教養に見えて実はものすごく勉強家だし、「変わっていく」ということにも非常に貪欲である。だからあのまま続けていられる。25年以上さんまさんを観察し続けてきた身として自信を持って言うが、彼は番組のたびにトライ&エラー(エラーはほとんど出さないが)をくり返し、常に微調整を欠かさない。変化することとしないこととのバランスにものすごく気を遣っている。それは毎年『明石家サンタ』を見ているだけでもわかる。前年にハネたノリを工夫なく投げてくる参加者に対しては「それ、去年のやつやねん」と冷たく切って捨てたりする。彼はいつでも新しいものを求めている。それでいて「八木さんのファンですー」のような数十年変わらないノリも大好きで続けたりする。バランスの神なのだ、実は。
「教養の国になった」と同時に、タモリもウンナンも「空気」のような存在となり、ナイナイも(3日の記事のように)「なんかいるよね」という立ち位置におさまり、爆笑問題も「ただ叫んで暴れている人」となった。パブリックイメージとしては。それでいいのだ。剣の達人は剣を持たない。ただいるだけで世の中はよくなっていく。今度の参院選でも太田光さんは大活躍するらしい。偉くなったものだ。そしてタモリも、ウンナンも、ナイナイも、さんまさんもたぶん黙っている。それがいいのだ。多様性の世においては「黙っている立派な人」が最もエライ、と僕はおもいます! ウクライナ戦争特集の『タモリステーション』で1時間ずっと黙り続けたタモリさんのことを思い出そう!
太田さんだけは喋り続けるが、それは彼が言葉の人だから。言葉の力を信じようとしている。きっと彼だけは「話芸」の人なのだ。ファンの欲目かね?
2025.7.6(日) 示準化石(シャズナを例に)
SHAZNAのライブに行く日が来ると思わなかった。メジャー期間は1997年8月27日から2000年11月まで、しかしシングルがオリコン1桁だったのは1998年10月14日発売の7th『恋人/Virgin』までらしく「最盛期」は1年ほどしかない。1999年1月27日発売の『Pink』は一気に「最高15位」まで落ちるのだ。「SHAZNAの時代」はその前後を含めたせいぜい2年間くらいで、僕の中1から中2にかけて。
ボーカルのIZAMは美しい女装で、CDなどのアートワークも当時の僕からしたら「ケバい」ものが多かった。思春期の少年たる僕は正直やや敬遠していた。その後ヴィジュアル系を好んで聴くようになってSHAZNAがいわゆる「四天王」であることも知るのだが結局CDを買うようなことは一度もなかった。それでも「最盛期」のシングル曲ならほとんどサビを歌える、そのくらい売れていたのだ。デビュー曲からのオリコン最高位は2位、2位、1位、2位、4位、6位、6位。CDが最も売れたとされるあの時代(98年がピーク)に! GLAYやラルクだって「最盛期」なのですよ。
「シャズナって知ってますか?」とお客さんに無作為に聞いてみた。20代前半から30代半ばくらいの男女5人ほどのサンプルで「イエス」は0人。おおお、やはり「97年から98年という時代をリアルタイムに知っている人」でなければ知らないのだ。カラオケでもさして歌われず、テレビとかにもあんまり出てこない。「根強い人気」というような感じでもない。ある世代の人間にしかほとんど知られていない。
こういうのを理科で習う「示準化石」と僕は呼んでいる。たしかsoudaiくんが最初に言ったのかな? 違ったらごめんなさい。極力マルシーはつけたいので記しておきます。
とはいえ僕をライブに連れてってくれた人は20代で、初めは親の影響だったようだ。本当の示準化石は年代特定に役立つが、こっちは実際あてにならない。それでも意外に重要な考え方だと思っている。
「示準化石」という概念を導入することによって、閉鎖性が薄れる。たとえばある近しい年代の人たちが「SHAZNAって……」と語り合っている。他の年代の人たちは「SHAZNAって……?」と疎外感を得るだろう。そこで「あ、これって示準化石?」みたいな感覚を互いに持てれば、相対化できる。
「ごめんなさいこれは示準化石でした。ちなみにそちらの示準化石といえば?」みたいに問えば、「○○ですかね」と何か答えが返ってくるかもしれない。「知らない!」ということになれば、むしろ嬉しい。普通なら「知ってる」ほうが盛り上がるのだが、示準化石という話になると逆なのだ。むろん知ってたら知ってたでその話をしてもいいんだから隙がない。
ふつう、ある世代にしかわからない事柄は、他の世代を疎外してしまう。しかし「示準化石」という概念は、「おおっ、それって示準化石では!」という楽しささえもたらす。
僕は「世代じゃない」という言い回しがとても嫌いである。「世代じゃないのによく知ってるね」とか「世代じゃないから知りません」とか。「世代じゃないでしょ」はまさに分断の言葉。「示準化石」は似て非なる言葉だと思う。
中森明菜の『DESIRE』とかだったら、だいたいどんな世代でも知っていて当たり前である。テレビでもバンバンやってて、ネットでもよく見るしカバーも多いしカラオケでも歌われる。そんなもん知ってたからとて「世代じゃないでしょ」はトンチンカン。今やむしろ「世代」なのですし。そうじゃなくて、たとえばSHAZNAのようにデッカチャンくらいしかカバーしてないような「短期間に爆売れしたけどほぼ振り返られない」ものだったら「よく知ってるね」と言いたくはなる。ちなみにデッカチャンも僕は知らない(最近人から教えてもらった)ので、ひょっとしたらどっかの年代の示準化石なのかも?
つまり、「あなたの世代は知らないでしょ」という言い方は他者を疎外するが、「私らの世代しか知らないはずなのに?」は自身を疎外する言い方なのである。どっちが相手に優しいかは言うまでもないでしょう。世代論は人間を年代でスライスしてしまうが、示準化石論は特定のある年代にスポットライトを当てる機能しか持たない。
「世代じゃない」は誰かとの分断の言葉で、「示準化石」は誰かのことをより深く知るための言葉なのである。
2025.7.7(月) 示相化石(菜摘ます子)
この丘に菜摘ます子~♪←歌ってる
SHAZNAのIZAM(ほぼSHAZAM)はカルチャー・クラブのボーイ・ジョージを見て女装を始めたそうな。ライブのあと入ったお店に偶然カルチャー・クラブのレコードが飾られていた。店主はオカマで名前はジョージ。なんかすごい「引き」である。IZAMとジョージはたぶん同年代。
ちなみに僕はカルチャー・クラブを知らない。これも示準化石かもしれない(昨日の記事参照)。もしもゲイやオカマ、女装などの世界で世代を超えて有名なのだとしたら示相化石と言っていいだろう。示相化石は「地層の堆積した環境を示す化石」なので、上毛かるたとかがわかりやすい例だろうか。「伊香保温泉」と言ったら「日本の名湯」と返してくる人はだいたい群馬人であろう。
「剣道(部)あるある」とか「演劇(部)あるある」みたいなのも示相化石と言いたい。外郎売りをなんとなく言えちゃうのは演劇部か放送部でしょうナ。何らかの専門家ないしオタクだったら当然わかるような共通認識はすべて示相的。化石というには抽象的なものが多くなってはしまうけど。
冒頭の「この丘に菜摘ます子」って何のことかわかるでしょうか? これも示相ですね。国文学をやっていた人ならわかるはず。今日は
弟子の誕生日なので。もう師匠って呼んでくれないけどね。くすん、さみしいから晒した。
chappieの『七夕の夜、君に会いたい』は示準と示相がちょうど重なったようなところにある曲。当時でも特定の文化の人しか知らなかったと思うし、特定の文化の人でも今はあんまり知らないんじゃないかな。
それを言ったら「菜摘ます児」もそうか。
2025.7.8(火) 発達が障害されてますから…
自分のことをなんと表現したらいいかわからないのだが、いわゆる発達障害に該当することは確かであろう。「生きづらい」とまで言うつもりはないが、とにかく不便だし面倒だ。ADHD(注意欠陥多動性障害)というのが最も近そうなのだが、自分の欠陥や障害はそれだけではないし、完全に当てはまるものではない。レッテルに意味はない。治療や投薬の基準にすぎない。
日本語には「ドジ」とか「グズ」とか「バカ」とか「間抜け」とか良い言葉がいっぱいあって、まあそのへんが場合に応じて適用されよう。さっきコーヒーを入れていたらね、「蒸らす」って行為があるでしょう。お湯をひたして10秒だか1分だか待って、しかる後に本番のお湯を入れるのですね、従来型のドリップというものは。その最初の「ひたす」という工程が終わり、さあ豆が膨らみきるまで待つか、と思っていたらいつの間にかお布団に横になって調べ物とかしてて、あっという間に20分くらい経ってしまったのですね。すっかりお湯は冷めておりましたね、当然。そのまま入れて飲みましたけど。別に傷つきも落ち込みもしない。日常茶飯事、問題なし。
すぐ頭を打つとか、忘れっぽいとか、さすがにもう慣れた。「このまま認知症みたくなっていくのでは?」という恐怖もあるが、とりあえず静観するしかない。
野比のび太っていうキャラクターは本当に偉大だ。僕がドラえもんを好きな理由のいくらかはそこにもある。すでに言われ尽くされているだろうが彼は明らかに(今で言う)発達障害であって、しかもそのことをおおむね受け入れている。3巻「スケジュールどけい」を読み返していたら、こんなせりふがあった。
ポヤ~ン(註:のび太がぼんやりしている音。音?)
ドラえもん:いつも、ふしぎに思うんだがね。そうやって、なにもしないでぼやあっと、なにを考えてるの?
のび太:いろいろしなくちゃならないことが、たくさんあってさ。あれをしようか、それともこれをはじめようかと、考えてるうちに………時間がすぎちゃって、けっきょくなんにもできないの。
ドラえもん:時間のむだづかいは、もったいないよ。
どうでしょう? あるあるすぎませんか。ストラテラとかコンサータとか飲めばこういう状況が雲散霧消するんですよねきっと。憧れるなあ。ある仲良しの教え子が言っていた、「尾崎さんコンサータヤバいっすよ、あれ召喚魔法っすよ。おれ一日で確定申告終わらせましたもん。」
「あるある? なんの話をしているんだ……?」って人、この世にいるのでしょうか。いるんだろうな。僕には想像もつかない。のび太に対しては常に共感しかない。ひょっとしてドラえもん(特に原作)を面白いと思う人って「そういう」人が多いのでは?
10年くらい前、まだ今ほど発達障害がブーム(!)になっていなかった頃だと思うが、「いや~僕ADHDなんで~」とカジュアルに言っていたら、ある人が今にも涙を流さんばかりの顔で「お辛いでしょうね……、勇気ある告白ありがとうございます、どうか無理しないで……」みたいな感じのことを仰った。こっちからしたら「胃腸が弱いです」くらいのことを言っている感覚なのだが。その方はたぶんのび太にさほど共感しないだろう。「時間のむだづかいは、もったいないよ。」とばっさり言い切れるドラえもんも、のび太の感覚はおそらくよくわかっていない。
その後、僕は冗談でもADHDを自認するようなことをほぼやめた。大仰に捉えられても良いことはない。ただ「発達が障害されてますから…😺」というフレーズは猫先生こと浅羽通明先生が
レスバの中で(!)使っていてめっちゃ面白かったからたまに使う。
このツイートの中で「重い発達障害者は齢をとりません」とあるが本当にそう。僕がなんで40にもなってこんなに可愛くて、しかも「自分は可愛い」なんてことを厚顔無恥にも言い張っていられるのかといえば、重い発達障害者は齢をとらないという一点に尽きる。猫先生も66になったが僕から見たって可愛い(20年前は怖いと思ってたよ~~)し、彼のまわりに常に若い女の子がいるのも可愛いからに他ならない。そのうち何人かはもともと僕の友達なのだが、なぜそうなるかといえば僕と猫先生の可愛さが実は似ているからなのだ。それは重い発達障害者ゆえの齢をとらない可愛さ、とっちゃん坊やとしての可愛さでもあろう。
我々当事者(!!)からすると発達が障害されているというのは当たり前のことで、それを踏まえて生きていくしかない。幸いにも僕は不断の努力と不屈の精神力によって大学は出たし、自分ですべてを決められる仕事をメインに据えた。猫先生もそれは同じだろう。彼と僕との共通点は「22歳で早稲田を出た」ということで、もちろん優秀さには雲泥の差があるものの勉強だけは苦にならなかった。ハッキリ言ってあれほどの(これほどの)発達障害者でも22歳でそれなりの大学を出られるというのは希望である。もちろん、どの発達がどのように障害されているかによって適性は変わるので、その人の障害具合に合った道を選ぶことが最も大切。僕らは17~18歳時点である程度適切な判断ができていたと言っていい。
猫先生は「自分はどうせまともに働くことはできないが勉強だけは可能なので、とりあえず日本で一番難しい試験に通ろう、そしたらどうにかなるだろう」と旧司法試験に見事通り(すごすぎる)、ちゃんと一度も就職しないまま物書きや講師の仕事などで生き抜いてきたそうな。なんという冷静で的確な判断力なんだ! 僕も似たような感じで、中3の時も高3の時も「とりあえずいい学校に行かないと人生が詰む」と直観し、その勘に生涯助けられてきた。受験勉強は障害魔法「過集中」を駆使し短期間で仕上げた。
野比のび太と猫先生は僕にとって最も好ましいロールモデルである。めざすべき像というのではなく、単純に勇気づけられる。発達が障害されているなら、それを踏まえた生き方を探すほかない。不可能なものは不可能、無理は禁物……。
だってのび太って、別に改善しないものね。それを「どうなん?」と見る向きもあろうが、いやいや、改善は不可能なのよ。成長して補填するしかないんよ。可能なことを増やして伸ばして、不可能なことをカバーするしかない。言うは易く、うまくいくとも限らず、どこで人生の「詰み」が訪れるかわからないのだが、仕方ない。そういう星の下に生まれてしまったのだ。せいぜい堂々とやろう。
2025.7.9(水) 15歳の「はじめに」
宣言しておきますがこれは手抜きです。11日まで日記を進めるための。
ホームページ25周年をむかえるにあたって古いフォルダを漁っていたら、15歳のときに書いた「はじめに」が出てきた。実のところ正確な執筆時期はわからないのだが、2001年1月には存在していたので高校1年生なのは確か。
このサイトの便宜上の意義
ようこそ、Entertainment Zone(略してEz)へ。管理人のジャッキーです。
ここは、文字通り様々なジャンルの娯楽達が集まる場所です(メインは文学ですが)。
ですから、ここへやってくる人たちも十人十色の「趣味」を持っているはずです。
普通、一つの「娯楽」を極めようとすると、それだけに目を奪われて、
他の素晴らしいもの達が見えなくなってしまうことがあり、偏った人間ができあがってしまう可能性があります。
もっと視野を広く持つことが大切です。
自分の「城」の中だけで閉じこもっていては、自分がなぜその「城」にいるのか、わからなくなってしまうでしょう。
つまり、自分がその「娯楽」のどんなところが好きなのか、ということもわからなくなってくると思うんですね。
いろんな「娯楽」を持つ人たちのいろんな考えにふれて、一度自分の「娯楽」を見直してみて下さい。
なにか、変わると思うんですよね。ほんの少しだけでも、世界は広がると思います。
よく「趣味が合う人が好き」とか言いますが、確かにそれも一里あります。
でもそれは、「趣味が合う」から、好きなんですよね。
それよりも、「趣味が合わない人を好きになる」方が、ずっと素敵じゃありませんか。
それが、純粋に「好きになる」って事ですよ。
なにも男女の関係だけを言っているわけではないですし、
それによって、色々な娯楽にふれあうことだってできて、さらに素敵です。
ちょっと話がそれましたが、要するにいろんな人とふれあいなさい、ということです。
たとえば、ある「娯楽」専門のホームページに行けば、それ専門のチャットや、BBSがあるでしょう。
そこは、みんなが「同じ趣味」という大前提があって、無条件で楽しむことができるはずです。
でも、ちょっと足を止めて考えてみて下さい。
自分の趣味を同じ趣味の人たちと満足するまで語り合う。
それほど素敵な事ってないですね。
それは、絶対に精神的にも利があると思います。
だから、存分に楽しんで下さい。
でも、こういうことも覚えていてほしいのです。
そういうところでは、気ままに自分の考えを発表できます。
同じ趣味の人たちが集まるのですから、同じ考えを持っていて当然です。
ですから、たいていの意見は、受け入れられるでしょう。
たとえそこで意見の食い違いが起こったとしても、その「娯楽」を愛するもの同士なのですから、
有意義なディスカッションへと発展するでしょう。
しかし、社会では、殊にこの日本では、そうはいきません。
色々な考えの人たちがいて、色々な意見が常に対立しています。
それが社会です。
一つの国単位の社会に同じ考えの人たちだけが集まる、ということはまずあり得ません。
現代では、民族宗教を持つ国々がそれに近い形を取っていますが。
そういった社会的な対立などにうまく対処するためには、普段から色々な人々の意見を聞いて、
様々な考えを分析する力を身につけることが大切です。
「Ez mixed BBS」や、「Ez mixed Chat」などは、
そういう趣旨のもとに作られた情報交換の場なのです。
「ふれあい広場」などという言い方をしてもかまいません。
ネットの利点は、相手の性別・年齢・社会的地位などを考えないで様々な人々とふれあえることです。
そういった特性を生かして、このサイトを大いに利用してもらって、
日々、「社会勉強」に精を出しましょう!
このサイトの本当の意義
心の寂しいこのジャッキーを、みんなでわいわいやって、癒してやってください。
皆さんからの書き込みやメールが、僕の心の支えとなっております。
楽しめるだけ楽しんでやってください!
それが、今の僕の幸せです。
どうでしょう? 文章は拙いし不足もありますが、ともあれこのスタンスのブレなさ。25年間ずっと「こう」思ってやってきたのであります。いろんな人が集まってバランスを調整し合う、というのはまさに夜学バーでいま実践していること。結局僕はインターネットが大好きで、それをオフラインでもやりたいだけの人なのです。
特に泣けるのは最後の数行ですよね。結局、さみしいのです。さみしいから書き込みやメールがほしいのです。ずっと言ってます。ただそれだけなのです。「便宜上の意義」と「本当の意義」を分けて語るところに、15歳ながらやっぱりジャッキーさんの冷徹な凄みが見えます。偉そうなことを言っても最終的には「だってさみしいんだもん!」が常に勝つわけで、そのことについて自覚的でありかつ自嘲的でもあるようなところが、まったくかわいいじゃないですか、ずっと。
そのうち、今の「はじめに」のどこかに転載しようと思っております。
2025.7.10(木) 25th 告知文など
下記は25周年の前日から翌日(12日)にかけてトップページに置いていた文章です。(手抜き)
4時間だけ電話番号晒しておりました。そういうのも含め懐かしい感じがしたものです。年末だけ年賀状用に住所載せたりしてたな……恐ろしい。
【翌日】
BBSに書き込みお願いします。僕が生きるか死ぬか、このホームページが続くか終わるか、みたいなことがこういうささいなことで左右されます。思っている以上に、これを見てくださっているみなさまの背負っているものは大きいので、よろしくお願い申し上げます。冗談で言っているのではありません、「死ぬぞ?」っていう脅しに近いものです。BBSへの書き込みをお願いいたします。文字通り捉えてください。無料で僕を幸せにできて、向こう5年間のやる気になります。30周年までこういうことは二度とないので。どうして僕を喜ばせてくれないのですか? 後生ですからよろこばせてください。なんでもいいのです。自分に置き換えて考えてください。想像力を全開に。僕を容易く幸福にさせて!みたいなことが15歳のときに書いたホームページの「はじめに」にすでに書いてあってめっちゃ面白かったです。ずっと変わってない。たぶんそのうち公開するんでお待ちください。とにかく掲示板(BBS)に書き込みをお願いします。なんでもいいので。
【当日】
当日です。よくわからん人は電話ください。0900000000(時間切れダミー)
くれぐれも、BBSへの書き込みをお忘れなきよう!!!
【追記】現在、2025/07/11の午前0時21分でございます。お店には3名の男性がおられます。がんばります。みなさまにおかれましては、なんとかがんばって来てください。いつでもいいです。よろしくお願いいたします。
さていよいよ明日7月11日(金)は25周年です。会場はここで、不忍池の南側の公園内を歩いているとわかるはず。19時から23時くらいまでいます。雨でもいます。ランタンに火をともしていると思います。でなければなんとなく座り込んでいる集団(ないし僕一人)を探してください。その前後は夜学バーにいます。木と土も夜学にいますので三日間いつでも。詳しくはリンク先!↑
いま開設当初の「はじめに」「更新履歴」「キリ番」などを印刷しました。そしてかの伝説の「裏Ez」のデータを見つけ、指が震えて未だ開けずにいます。当時二人くらいにしか教えていなかった裏ページ。15~16歳の頃の自分は本当にどうにもならないことで悩みに悩んでいたのです。いま思えば本当にくだらないことなのですが、あの時間があったからこそ後の「恋愛などない」に象徴される冷徹さや寛容さが育っていったと思うので、ある意味では原点となるものです。これはオフ会本番の金19~23時にしか公開しません。お楽しみに。
恥ずかしいから副読本(解説)もつけると思います。
2025.7.11(金) Ez25周年!
アチィー。名古屋にいます。現在15日。だいぶサボりましたね。しかし25周年を迎えてまず僕そしてEzの生まれ故郷である聖地に舞い戻るというのは結構美しい動きではないでしょうか? 今は亀島の「富士」という喫茶店におります。夕方に「ぷらっとこだま」で東京に戻り、お店に出ます。←えらい
7/11はEz(このホームページ)のおたんじょうび。2000年開設なので25年です。00時00分きっかりに「ドラえもんの世界」掲示板に告知して、待ち構えていた友達たちが即座に書き込んでくれたのを覚えております。
いつしか「10年ごとにオフ会をやる」と勝手に決めて、2010年7月11日は新宿御苑→サイゼリヤで開催。10人以上は来てくれたと思う。それこそ初期、2000年7月からの読者も複数名いた。第2回の2020年7月11日はコロナ禍真っ盛り、2回目の緊急事態宣言(8月3日〜)の直前に当たり感染者数が増加傾向にあった頃。
7月上旬: 50人以下で推移していた新規感染者数が、徐々に増加傾向に転じ始めました。
7月中旬: 200人を超える日が頻発し始めました。
7月10日:243人(当時の東京都最多を更新)
7月18日:290人
とのこと(Gemini調べ)。なんと20周年オフ会の前日(発表は当日!)に感染者数が「東京都最多を更新」していたのですね。そりゃ誰も来んわ。この頃の状況は
このあたりにまとまってるんで、よかったら読んでね。冊子にしたのがお店にもあるよ。
一応、上野公園でオフ会を実施し、そのあとは夜学バーの営業もしたのですが、当然ながら参加者は僅少、それでも来てくれた何名かの方には今でも本当に心から感謝しています。行けなかった上に当時何も言えなかったという人は、今からでいいです「20周年おめでとう、会いに行けないことを歯痒く、悔しく思っています」みたいなことをぜひお伝えください。5年前の寂しさが成仏します。
それで、オリンピックだって1年延期したんだからオフ会を5年越しにモッカイやったっていいだろう!と企画されたのが本日というわけです。
今回も上野公園、金曜日で雨降らず、気温はむしろ肌寒いくらいの好条件。19時から23時までに11名の参加者(うち読者は10名)に恵まれ、掲示板には23時50分時点までに2件もの書き込みがありました。
ん? 10名? 2件? わかってますよ! ありがたいんだから。ありがたく思って、とにかくありがとうとだけ言うベキなのだ。数の問題じゃないのだ。一人でも愛して、気にかけて、時間や労力や少しのお金を使ってくれる人がいるというだけで、いかに幸せであることか! そんなのわかってます(高橋みなみのスピーチ口調)。しかしその、参加者10名はともかく(実にありがたいことです)、書き込み2件ってなんぞ? 僕は確かにこう書いたのです。
こないだね、「夜職(水商売)においてバースデーは通信簿のようなもの」ってツイートが流れてきてね。わかるなーって思うんですよ。1年間がんばってきた成果がバースデーにすべて出る。それは(少なくとも僕の場合は)売上ではなく人数だし、その顔の一つ一つ。今回は1年どころか25周年で、しかも20周年の振り替え的なものですらある。2010年から「次回は2020年!」って言ってたら緊急事態宣言(直前)で、じつにじつに小規模な会になってしまったので、イレギュラーな25周年。それも恥ずかしいことなんですけど、お許しください。
さまざまな事情で「行けない」ってことはあると思いますが、そういう場合は必ず!掲示板に何か書いてください。無料ですし、家から出ないで可能なこと。お願いです。後生です。僕にセーセキをください。これから先の25年をがんばれるように……。あと、今回ばかりは僕にわかるように身分を明かして書いてください。僕と世の中のために照れながら。
わかるんでね、気恥ずかしくて腰が重いとか。そういう人のためにインターネットってあるので。書き込みをぜひ。「こいつはほっといても頑張るから大丈夫」なんて思ってたら僕は静かに自殺します(脅し)。←申し訳ないですがこうでも言わないとわかってもらえない気がするので、すなわち怯えているので。希死念慮くらいあるわ、ダセーから言わないが。
6月20日の日記の、26日追記分。しっかりと「6.26追記」と書いて、トップページに半月間リンクを貼りつけていたのですが、文章というのはこんなにも「読まれない」ものだったのですね。そりゃそもそも、このホームページを実際に何人が読んでるかっていうのはわからないし、過去の日記の追記なんか読みにいくやついねーよって言われたらそれまでなのですが、「それまで」であるということそのものがじつに辛いではありませんか。
「お前がひとりで勝手に思い入れてるアニバーサリー如きになんで振り回されなきゃいけないんだ? 悪いが御免だ、俺は部屋に戻らせてもらう!」みたいな話なんでしょうかね。よくわかりますよ。でも僕はその気分の存在を当然わかっていて、「どうかそれでもなにとぞよろしくお願いいたします、後生ですから」と必死に頼み込んでいたわけなのです。え? 後生が多い? 何度後生があるんだって? それについては返す言葉はございません。お許しください……。後生です……。後生って言葉が大好きなので、つい。
2件はさすがに傷つくな、と思って23時50分ごろに「営業」を開始、その時お店にいたお客さんも1〜2件即座に書き込んでくださり、悲しみの連続トゥイートを見てと思われるものも数件ありまして、11日終了時点での書き込み数は5件。フゥー。その後も狂ったようにホームページやトゥイタにおいて「営業」を続け、12日終了時点までに25件、現在(15日)までに総計26件(レスは除く)の書き込みをいただきました。嬉しい! かねてより僕が主張する「自分の読者はだいたい常時30人」という推計にも近い。ホッといたしました。みなさん本当にありがとう。
ハッキリ言ってみんな、「やれと言われたらやらない」なんですよね。だけど「やれと何度も言われたらやる」なんですよね。それは「理屈よりも雰囲気」であり「質よりも量」ということで、わかるんだけど、分かりたくない。
チームみらいっていう政治団体があって、代表の安野さんとは彼が高校生の時にちょっと関わりがあって、「あの安野くんがネエ〜」とか思いながら画像フォルダ漁ったら二人が同時に写っている写真(ツーショではない)発掘して「懐かしい〜〜」とかなってたんですが、それはまあただの自慢として、彼らの課題ってのはまさにここにある、ってような話をネットで見かけました。
なんとなれば、彼らの政策提言は「選挙向きではない」ってところ。もっとわかりやすく、キャッチーで、(頭のいい人たちが言うところの)「バカでもわかる」言い方をしなければ選挙には勝てないんだと。チームみらいの主張は「ちゃんと文章を読んで、理解する」ってことを経なければまず飲み込めないもので、それは短期間で、短いフレーズで勝負することになる現行の選挙では勝ち目が薄くなる、っていう話。
アー! まさにじゃないですか? 現代にあらゆるところで起こっている。「それ」が得意な人はいいが、僕のように(あるいはひょっとしたら安野くんのように?)テッテ的に苦手なバヤイはどないしたらよかんべか?
わかりやすくやらなきゃ、ってわかってるし、やろうとしないでもないんだけど、どうしても浮かばないというか、そっちのほうに意識が向いていかない。苦手なのか、わざと拒絶しているのかわからないが、本当に向いていない。オフ会に人を集めたいなら、書き込みをたくさん欲しいなら相応の伝え方がある。11日の23時50分以降にウキーってTxitterとかに書いた内容とかはたぶんまあまあわかりやすかったってことなんだろう。ってことはやっぱ肝心の事前告知が下手過ぎたのだ。潜在的には「いた」んだから。あと20人以上が。
僕のワガママというのは、「この伝え方で伝わんなかったらいやだ」っていうところにかなり強く拘泥してしまうところ。「そんな伝え方で伝えたところで、伝わったことになるのか?」とか考えてしまう。現実には「伝わらないより多少の誤解を含んだとしても伝わったほうがいい」ことがほとんどなのに。そこまではわかっているのだが、まだ幼い。これを契機に少しくらいは柔らかくなっていきたい。
「理屈よりも雰囲気」であり「質よりも量」、なんて身も蓋もないことを書いてしまったが、参政党が伸びてるのはこういうことでありましょう。あるいは在りし日のNHK党や石丸伸二。批判でも誤解でもなんでもいい、SNSや報道で人目に触れれば触れるほど支持率は伸びていく。「わかっている。でもそれでいいのか?」という葛藤は、安野くんにもあるんじゃないかと勝手に僕は思っちゃうわけです。親近感と共感を持って。
僕はもうね、ドラえもん6巻収録の「ネッシーがくる」という回が本当にトラウマで。「衆愚」というものをあれほど鮮やかに簡明に描いた作品がほかにあるだろうか。僕が「説得力」だの「納得」だのということが基本的に嫌いなのはあの回に由来する。
「説得力」というものは無根拠に人を動かすために工夫された手口の結果で、「納得」とはその無根拠さに対する言い訳。「自分は騙されていない、無根拠だが納得したのだ」と。考えてみてほしい、「説得力がある」というのは、「よくわからんがまあなんとなくそんな気がするなあ」の言い換えでしかない。まったく議論とは関係がない。「納得した」というのも、「よくわからんがまあなんとなくそんな気がするなあ」の言い換えでしかない。その通りだったら「その通りだ」と言えばいいのに、「納得した」という心の問題に落とし込むのは、特にそれを肯定する自信も、根拠もないからである。
何に怒ってるんだろう、僕は。
繰り返すぞ。その通りだったら「その通りだ」と言えばいいのに、「説得力がある」とか「納得した」という「心の問題」に落とし込むのは、自信も根拠もないからである。
「その通りだ」と思って行動する人は実は少ない。「説得力がある」とか「納得した」で動く。「その通りだ」というのは、「整合性がある」ということで、論理とか理屈の世界だから、よっぽど精緻にものを考えていなければ言えないし、自分はそれができているという自信や確信を持つのはかなり大変なことだ。ほとんどの人は無意識に「その通りだ」という感覚を避けているだろう。なぜならば、それは間違いやすいから。
参政党でもなんでもいいが、あれに対して「説得力がある」とか「納得した」とか思っているうちはまだ傷が浅い。「その通りだ」と思い始めたら、自身の誤りをかなり疑うべきである。前者は熟考せずに肯定しているが、後者は熟考した、あるいはそう思い込んだ結果だからである。もう引き返すことは難しい。
石丸さんが人気なくなってきてる(らしい)のは、彼の支持者に前者(「説得力がある」勢)が多かったことの証左ではないかな。ネッシーがいるかいないかを雰囲気と「説得力」で瞬時に切り替える愚民どもと同じ。尻軽に、あちらこちらへ支持を変えることができる。実のところそっちのほうが日本の風土には合っている。柔軟性こそ取り柄なれ。トリエンナーレ。
少なくとも日本において、私見だが、「その通りだ」をやるのはよほど理屈に支配された人間かカルトで、「納得した」をやるのが最大多数派である。ただし最大多数派が愚かなるは表層に過ぎず、実際は冷静に、「その通りだ」をやって失敗するのを恐れる賢さが基底にある。日和見主義でおれたちはやってきた。これからも基本的にはそれでいいんだと思う。中根千枝『タテ社会の力学』などはその話をしているんだと僕は理解している。
ただ、僕はそれが本当に苦手みたいなんだよなあ〜。それであっても10人という人がオフ会に駆けつけてくれたんだから、むしろすごいことなんでしょう。普通こんな理屈っぽいブツブツした人間がそんなに人を集められませんよ。頑張った結果だし、人柄です(自分で言う!)。すこぶる健全なカルトとも言えよう。そういうわけで(どういうわけだ)←いにしえの自分ツッコミ、25周年を具体的に祝ってくださったすべての人に、心から感謝を捧げます。
最後に、これだけ復唱いたします。掲示板への書き込みにはすべてお返事しましたが、誰かわからない人に対しては「どこのどなたか存じませぬが」と前置きをし、だいたいわかったけど確信がない相手に対してはそのような書き方をしています。また、僕が人違いをしている場合もあるかもしれません。みなさま、ぜひもう一度ご確認のうえ、僕に誰だかわかるように(個人特定させろと言うのではなく、たとえば「お初です」とか「以前にお店にお邪魔したことがあります」的な関係を示す言葉があると嬉しいです)お願いします。できない、したくない場合はその旨ご記載ください。僕は本気で言っています。言葉が言葉として伝わるように、しつこくネチネチ繰り返します。
さまざまな事情で「行けない」ってことはあると思いますが、そういう場合は必ず!掲示板に何か書いてください。無料ですし、家から出ないで可能なこと。お願いです。後生です。僕にセーセキをください。これから先の25年をがんばれるように……。あと、今回ばかりは僕にわかるように身分を明かして書いてください。僕と世の中のために照れながら。
わかるんでね、気恥ずかしくて腰が重いとか。そういう人のためにインターネットってあるので。書き込みをぜひ。「こいつはほっといても頑張るから大丈夫」なんて思ってたら僕は静かに自殺します(脅し)。←申し訳ないですがこうでも言わないとわかってもらえない気がするので、すなわち怯えているので。希死念慮くらいあるわ、ダセーから言わないが。
この件についてはTxitterでもこのように書きました。
《BBSに通常アカウントはなく、名前は自己申告でしかないので 本人という確証のないまま相手を「〇〇さん」と信じ込んで話さねばならない だからこそ、「私は〇〇です」という宣言は重い 名乗ることの重要性が際立つ それをしなくて良い気軽さが2ちゃんねるにはあったが ウチは2ちゃんねるではない》
募金とか投票もいいけど真っ直ぐに僕を褒めるのも大切だと僕は思っております。当たり前だけど。そしたら僕、頑張れるんだし。そうじゃなかったら頑張れないのです。一切、「自分とは関係ない」とは思わないでいただきたい。政治への無関心なんかより、「自分はこの人の心の健康とは一切関係がない」と他人との関係を勝手に遮断する手抜きのほうが邪悪だと僕は強く思っております。それはもちろん僕に対してだけでなく(ってかこれは例題なのです)すべての好きな人、憎からぬ人、嫌いではない人に対して意識されるべきことだと僕は強く強く思います。それをみんなが努めるだけでどんだけ楽しくて優しい世の中になることか!と。
2025.7.12(土) 定食のコーヒーの値段
アジフライ定食650円、コーヒーをつけると900円。昨日の記事を書いた喫茶店にて。
コーヒー単品は400円。コーヒーが150円割引になったと考えることもできるし、実質アジフライ定食が500円で食べられると思うこともできる。
そもそもアジフライ定食650円は安い。安すぎる。最初から900円でもいいくらいだ。チーズの混じったアジフライ2尾に、揚げた大葉が3枚、生の大葉が1枚、その上にトマトが乗り、隣にキャベツ、ナポリタンが添えられた。お味噌汁はわかめ、茄子、豆腐がふんだんに浸かり、ライスには梅干しと福神漬け。なんだこれ。650円なわけがない。コーヒーは実質無料。
そんなことを言いたいのではない。「定食につくコーヒー」から、喫茶店における値打ちの内訳を考えてみたいのである。
数年前までは「コーヒー付きランチ650円」みたいなお店も多かったが、コーヒー豆やお米の値段がずっと安かったので工夫できていたに過ぎない。持ち物件で家族が働いているようなお店でも上記の「650円+250円」というような形がギリギリだろう。個人的には「750円+150円」がちょうどいいラインだと思うが、このお店はたぶんランチを安くしたいのだ。ランチだけ食べてサッと出ていくサラリーマンや学生、あるいはお金のない年金生活者などを意識しているのではないか。
それを踏まえてコーヒーの値段について考える。単品400円で定食につけると+250円ということは、コーヒーそのものの値段は250円で、いわゆる「席料」のようなものが150円と見ることができる。単品400円の背景には「席料150円+コーヒー代250円」という見えない内訳があるのだ。
となると、アジフライ定食に席料が150円含まれていることになって、アジフライ定食の本当の値段は500円ということになる。すごい!
ただし、なんとなく「アジフライ定食を食べ終わってから水飲みながら30分ほど新聞読んでタバコ吸って帰る」という行為が当たり前にできる人は少ない。普通は食べたらすぐ帰るか、飲み物を注文する。アジフライ定食とコーヒーとでは、席料の質が違うのだ。研究を進めたい。
コーヒーなどドリンクを頼む人は一杯で1時間でも2時間でも居ていいことになっている(喫茶店法第14条)。しかしフードメニューのみの場合は原則として食後すぐに退店せねばならない(同第2項)。そうするとアジフライ定食に含まれる「席料」はコーヒーの場合と違い、せいぜい50円程度ではないかと仮定できる。しかし、席料にサービス料等が含まれるとすれば、配膳や洗い物の手間、割り箸などの消耗品費を考えれば合算で結局は150円くらいに揃うのかもしれない。そう考えると楽なのでそう考えることにしよう。
ここで僕の好きな某喫茶店について考える。モーニング営業のみで、価格は400円。コーヒーに豆菓子(ハーフタイム)、ゆで卵、マーガリントースト1枚がつく。仮に席料を同じく150円と考え、ハーフタイム10円、ゆで卵50円、マーガリントーストを90円とでもしてみるか。コーヒーの値段は……ジャジャーン!100円である。安い!
そして驚くことにこのお店、ついこの間まで350円、その前は300円、さらにその前は280円だった。すなわち! コーヒーの値段は「-20円」だったわけである(僕調べ)! すごい!
だからなんなのか? 意味などない。
2025.7.13(日) 大阪 10年ぶりや7年ぶり
大阪にいた。東京都区内→新大阪→名古屋という一筆書ききっぷをつくった。11000円。ふつうに東京→大阪(8910円)+大阪→名古屋(3410円)と分けて買うより1320円やすい。ただし帰りは関西本線を使うので時間がある人限定。その代わり奈良などで途中下車ができる。
行きの新幹線は自由席(4960円)。ゆったり行きたいので「ひかり」新大阪行きにした。
新大阪からは御堂筋線で、心斎橋で下車。宿にチェックイン。今日で一時引退する人のお店で二杯だけ飲む。夕飯は鴫野の「まわり寿し どらえもん」でと思ったが、閉まっていた。金土日のみ営業とのことだがこれまで四度行って三度閉まっていた。一度しか入れたことがない。
鴫野駅でぼんやりインスタを見ていたら梅田近辺でお店をやっている女子校時代の教え子が「臨時で開けます」というので急遽そちらへ。10年ぶり(先方曰く)に会った。
彼女は僕の教え子でもありつつ、未来食堂のまかないさんでもあった。お店には「我々っぽい」システムが実装されていて感極まった。こうして魂は受け継がれていく。僕と未来食堂店主は非て似なる志を持つ昔なじみ(2005~)なのだ。
三杯くらいグビグビと飲み、茄子のつけものと冷や汁をいただいてお暇。「また10年後」とか言われた。冷たい。
最初のお店に戻る。最後の夜だからとみなさん大いに盛り上がり倒れる人も出た。介抱を手伝うなどする。善。会計に漏れがあったので唇を噛んで申告した。善々。あとからDMが来て(マメですな)「新しいお店を開いたらぜひ来てね」と。物語よ続いていけ~。
25時くらいにスッキリ終わったのでミッテラ会館「ISOKO」へ。7年ぶりである。7年前にもらったTシャツに着替えて入店。完璧に覚えてもらえていた。嬉しい。また行こう。そのTシャツには『21エモン』のゴンスケ(のバッタモン)があしらわれている。その時お店が21周年だったのだ。そのTシャツの張り紙かなんかに反応して、ほぼ会員制みたいなお店なのに勇気出して当時ドアを開けたのである。
大阪の夜はそこで終わり。泥の如く寝る。
2025.7.14(月) 名古屋少しだけ
14時過ぎ名古屋に。翌夕方には「ぷらっとこだま」で東京に戻る。8710円、1ドリンク引換券でサッポロクラシックもらった。一人で酒を飲むことはほぼないので、今度お店で飲む。
最近できた名駅エスカのスガキヤ行った。いきなり専門用語が3つも……。普通のラーメンなのにチャーシューが2枚も入っていた。いったい何が起こっているんだ。
久々に女子大の「陽陽」にも行けたし、スガキヤの姉妹店「たこ寿」のたこ焼きも食べることができた。喫茶店は「すみれ」と「富士」。夜は某ダイニングバーと「触手」と、大曽根の「ニューカマーランド クッピー」。
酒と小麦の日々。米はスガキヤの五目ごはんくらいか。
故郷は歩くだけで泣けてくる。本当は古い友達みんなに会いたいが、時間があんまりない&だいたい急に決める&遠慮しちゃうため、今回も誰にも声をかけなかった。土日ならもうちょっと気楽なのだが。平日でもいいから声かけて!って人は教えてね。
時がすぎるごとに名古屋との距離が大きくなる気がする。リニアでたった50分の距離なのに。もっと気軽に名古屋で名古屋人と遊びたいよ~。リニアはやく~。リニアのフリーパスもはやく~。
2025.7.15(火) そしたらベンジー投票済証で殴って
ベンジーとは浅井健一さんのことで、ブランキー・ジェット・シティというバンドのボーカルとして名高い。名古屋市名東区出身。河村たかしを除けば最も名古屋弁の強い有名人だと思う。
――人、というところでは、名古屋弁は特徴ありますよね。浅井さんはずっと名古屋弁ですよね(笑)。
「もう東京に来て27年だけど、なくならんよね(笑)。鮎川誠さんっているじゃん。19ぐらいの時にライブを見て、その影響は意外とあるかも。鮎川さんって見た目は外国人みたいだけど、喋ると博多弁ですごい自然な感じで。無理に盛り上げるような感じもなかったし。言っている内容はすごくかっこいいし、素の感じがすごくよかったんだわ。地元の言葉で喋るのは当たり前のことだしね」
(SNUG CITY NAGOYA 2017.3.30より)
「地元の言葉で喋るのは当たり前」これがベンジーの思想の中核にある。折しも「参政党に投票する」と宣言して話題になっていたが、浅井健一という人物をこよなく愛する僕としては「なるほど」としか思わなかった。神谷宗幣の演説を聞いて「いいこと言っとるじゃん」と名古屋弁でつぶやくベンジーの姿は容易に想像できる。
そんなベンジーのインスタが今非常に面白い。
この投稿とリプ欄をご覧あれ。以下に一部引用。
あと、俺は参政党に入れる発言に対して色々心配してくれる方々は、ありがたいんだけど。攻撃してくる方々に一度だけ言っておくわ。
一人の人間が自分の心で感じて自由に決断してある政党に一票を入れる。これこそ国民主権、民主主義の根幹だよな。それによって選ばれた政党がこの国を仕切る。みんなの意思で選ばれたのだから、たとえ自分が好きではない政党が選ばれたとしても、自分はそれを認めた上で従う。もし仮にその政党の政策がダメダメだった場合は次の選挙でたぶん落とされる、それの繰り返し。
俺がどこに投票するかは、俺の自由。それに対して攻撃してくる人は間違いなく間違っている。おれは今回以降は相手にしない。たとえ思想が違っても尊重し合うのが大切。
参政党以外にも、素晴らしい人や政党が沢山出てきていると思っています。全ての人が自分の心で決めてその政党に想いを託す。シンプルな話でしょ。
ミュージシャン、アーティスト、芸能人で政治的な発言をする人は少ないよね。と言うかゼロに近い。理由はわかる、離れて行く人が少なからずいるからそれが怖いんだと思う。でも自分の本当の気持ちがわかっているのに、それを隠し続ける生き方は、俺は嫌なんです。いい社会になって欲しいと心から思ってます。
もし参政党が間違いなく間違っていたとしても、ベンジーは正しい。
《一人の人間が自分の心で感じて自由に決断してある政党に一票を入れる。これこそ国民主権、民主主義の根幹だよな。それによって選ばれた政党がこの国を仕切る。みんなの意思で選ばれたのだから、たとえ自分が好きではない政党が選ばれたとしても、自分はそれを認めた上で従う。》
《俺がどこに投票するかは、俺の自由。それに対して攻撃してくる人は間違いなく間違っている。》
《全ての人が自分の心で決めてその政党に想いを託す。シンプルな話でしょ。》
《自分の本当の気持ちがわかっているのに、それを隠し続ける生き方は、俺は嫌なんです。》
たとえばブランキー時代の歌詞と最近のベンジーの歌詞はやはり違う。どちらもブッ飛んでいて僕はどちらも好きだが、「昔のほうが良かった」と思う人もいるだろう。だが変化はあれどもブレてはいない。彼は30年以上ずっと、「自分の心」「俺の自由」「本当の気持ち」に殉じているだけだ。
「誰が好きだって…いいじゃないかァ…」とは武富健治『鈴木先生』におけるヒロイン小川蘇美の名台詞だが、「誰がどこに投票したって…いいじゃないかァ…」とベンジーは言っとるんだわ。おそらく浅井さん的には、それに対して反対意見を言われるのは構わないというか、当たり前のことなんだけど、それが「攻撃」のようになると「なんで?」ってなるんだと思う。
名古屋にブランキーファンのバーがあって、こないだ行ってきた。「浅井さんもまれに来てくれるんですけど、ほら政治の話が多いんですよ。トランプのことどう思う?とか従業員に聞いて。それで返事が、あんまり考えが深くない感じだとちょっと機嫌悪くなるっていうか」みたいな話を聞いた(意訳です)。ここでも僕は「なるほど」と思った。別に機嫌悪くなるってことはないと思うけど、たぶん浅井さんは同じ意見を持つ仲間を探しているのではなく、また違う意見の者を排したいのでもない。単純に「おまえの意見」が聞きたいのだ。トランプについておれはこう思う。お前は? そうなんだ、なるほど。それは知らんかった。おれもちょっと考え直してみるわ。みたいなやり取りをしたいんじゃないかと僕は勝手に考える。
「神様はいつも両方を作る」という凄まじいフレーズを彼は生み出した。浅井さんにとって「両方」が存在することは当たり前で、「おれはこう思うけどお前はそう思うんだな」というのは嘆くべきことではないし、決別のきっかけにもならない。それはすべての始まりでしかない。「おれはそうは思わんけど、面白いじゃん」みたいなことを素直に思える人なのだ、きっと。
2025.7.16(水) 愚かさは許されている
僕のものごとに対する基本的な態度は、けっこうベンジーのこの感じ(昨日の記事参照)と似ている。
前提として、僕は世の中に愚かな人がたくさんいると思っている。愚かな人は愚かな発想や選択をする。その愚かしさも当然「民意」とか「世論」とか「選挙の結果」といったものに反映される。それで「愚かな政治的判断」というものもひょっとしたら生まれるかもしれないし、愚かな人から見たら優れた政治的判断も愚かしく見えるかもしれない。ってかまあ完全に優れていたり完全に愚かであることはほとんどないので、どこかからはどうしても文句が出る。
愚かな人たちを多く含む集団による多数決なのだから、当然目に見えてうまくいくことばかりにはならない。そんなことは当たり前だ、ゆっくり地道にやっていこう、というのが現代日本の民主主義で、「それの繰り返し」とベンジーが言っているやつ。そして太田光さんが言うように、日本は少しずつだが良くなっている。(←これは僕の意見でもあります。)
愚かな人間にも愚かでない人間にも等しく一票が与えられる、ということは、その時点で「愚かさ」は差別されていない。愚かであることは許されている。愚かな人の一票も大切な一票として扱われる。このことを忘れてはいけない。愚かな人が得するような政策が存在したとしても、もしそれが「愚かな人の総意が愚かでない人の総意を数として上回った」ということであるなら、単純に文句は言えない。だいぶ複雑な文句になるはずだ。
たとえば仮にいまある価値観を措定して、参政党を支持する人は愚かだとしよう。それがたとえば投票する人の10%に達したとする。この10%は愚かな票なのだが、当然尊重されなければならない。「参政党は愚かだから無効だ!」とか「愚かな人間の一票は無効だ!」とか言うのは愚かさへの差別である。愚かな人たちにも等しく(彼らが求めるような形での)行政の恩恵がゆきわたるべきなのは当たり前だし、10%という無視できない民意はもちろん実際反映されるだろう。
しかし、もし参政党が本当に愚かだとしたら、いろんな力が働いて排斥されるなり縮小していくと僕は思う。そのような自浄力が日本はとりわけ強い。愚かな人たちはNHK党が流行ればNHK党に乗り、石丸がバズれば石丸に乗り、玉木氏の国民民主党がすごいとなればまたそれに乗るというような傾向を持つ(同一の人がそうしていると言いたいのではない)。しかしそれらは「波」でしかなく、定期的に人々は正気に戻る。そして「あれはなんだったんだ」という反省もないまま次の波にまた期待する。待ち焦がれる最大のビッグウェーブは進次郎波であろう。
それが悪いことだと僕はあえて言わない。むしろその柔軟性、腰の軽さ、節操の無さといったところに日本人の強さがある。それは「愚かさを許す」という前提に立脚している。ボンジョビもクイーンも日本のミーハーが発見したらしいじゃないですか。流行、流行、また流行! 大いに結構なのである。
そういうことを繰り返し、少しずつ少しずつ良くなっていく賢さを、日本の人は「総体として」持っているのだ。そこにどれだけ多くの愚かしさがあろうとも、長い目で見るとトータルでなんとなく良い感じになっていく。もちろんそこにはさまざまな種類の人のさまざまな不断の努力があるし、努力なんて一切しなくてもきっと何らかの貢献をしていたりするはずだ。全体のバランスとして。
「愚かさを許さない」のではなく、むしろ許すことによって、自由さと流動性が生まれる。そこに日本の底力が宿っているのだと僕は信じるものであり、それをスパッと語ったのが昨日引用したベンジーなのだ。
2025.7.17(木) やがっしゅく 8/15-18
やります。
やがっしゅくとは何であるか1&2参照。
1のほうが重要で、必読です。
「旅のしおり」こと特設ページ作ってありますが、どこからもリンクされないWebの孤島なので興味ある方はお問い合わせください、URL送ります。ちなみにベタ打ちしたテキストをGeminiにhtml化(同ファイル内にCSSを記述)してもらいました。リンクや見出しも(指定したら)ちゃんとやってくれて感涙……。
一部転用して、概要をここでもお知らせしておきます。
日程:8月15日(金)~18日(月)
場所:JR中央線「茅野」駅周辺
理念:
「いつ来てもいいし、いつ帰ってもいい。行動はすべて自由」の合宿です。
参加者は「すでに仲がいい顔見知り」同士のみではなく、必ず知らない人も含まれるはずです。また「やがっしゅく」は夜学バー主催ではなく、お店に来たことがない人もやってきうるものです。ゆえに参加者は広く募集するものではなく、直接の声かけやこのような闇文書によって集められます。いわゆる「信頼できる人」か、「信頼できる人が信頼できると思う人」、という「信頼の鎖」によって成り立つ集団ができあがります。失敗や齟齬、不具合があったとしても、がんばって信頼を維持させるための不断の努力が最も大切な持ち物です。今回もがんばりましょう。
飛び入り歓迎ですが、念のため参加予定が決まり次第ご連絡くださいませ。どの日に滞在するか、だけ教えてもらえれば大丈夫です。
費用:
15金:5000円/こども3000円(いずれも予価、飲み放題・食べ放題つき)
16土、17日/1泊3000円、貧乏大学生は2泊で5000円とか?応相談
(※17日の「総文祭」は会場費に9000円くらいかかりますが、余ったお金で僕が払う予定なので宿代など多めにもらってそうでも怒らないでください 余らなかったらそのぶん自腹=夜学経費で払います 寄付は大歓迎)
(※16~18の宿は「部屋貸し」で、各日10人くらいいないと赤が出ます。みなさんふるってご参加ください! 誰か連れてきたい人はご相談ください! 余裕ある人は多めに喜捨ください!)
詳細:
《15金》
この日は定宿が取れなかった(休み?)ので酒池肉林の「前夜祭」となります。
居酒屋の座敷泊。混沌が予想されるので近隣の別の宿をとっておくのもアリでしょう。駅前の某店を17時から翌昼くらいまでおさえてあります。一階と二階に座敷があり、眠る場合は雑魚寝となります。おそらく二階が寝る用になると思います。座布団や寝袋、毛布などはあった気がしますがちゃんとしたおふとんやきれいなシーツはありませんのでご理解のうえおいでください。お風呂は「ちのステーションホテル」(10~16時)や翌日の宿のシャワーなどで。いちおうお風呂はあるらしい(たぶん利用も可能)ので、洗面台は使えると思います。
料金は、食べ放題・飲み放題・宿泊込みで5000円程度になると思います。お酒飲めない年齢の人は3000円くらいにできると思います。(思いますばっかりですみませんが、そのくらい先方も僕も雑だということ、ご理解いただける方はぜひご参加を。)
店主は天才料理人なので、何でも美味しいです。しかもおそらく食べきれないくらいの量が出てきます。その点はご心配なく。
飛び入りOK(合宿の大前提)ですが、この日ばかりは最低でも何人来るか知りたいので参加希望の方はお知らせください。
《16土》
一応チェックイン15時です。不安な人は15時までの予定を組んでおくと良いでしょう。
《17日》
13-16時 カフェ「楚そっと」にて第2回総文祭(予定)、演し物大会です。演者完全未定、なにかやってもいいよ、という人はぜひお声がけください。去年は演奏、弾き語り、落語、朗読などいろいろありました。ギターは持って行く予定。会場予定地にはピアノもあります。
※参加、観覧は強制されません、宿で寝ててもOK
《18月》
チェックアウト10時。その後は三々五々。
以上抜粋のうえ一部修正。「どなたでも参加可能」とは言いません。しかし、このホームページをわざわざ見に来るような、ジャッキーさんフレンドリーの方はきっと歓迎できると思います。お気軽にお問い合わせください。メールフォームもあるので。(最近業者が増えてきたから閉じちゃうかもしれないが……。)
付録として「茅野駅アクセス」置いときます。
新宿駅から特急「あずさ」で2時間と数分、上諏訪駅の手前
特急券はえきねっとの「チケレス35%」がおすすめ ※お盆期間はすでに売り切れ傾向
乗車券は新宿→高尾/高尾→梁川/梁川→茅野と切符を三分割する(下車の必要はなし)と430円安くなる
各駅停車の場合は高尾まで京王線に乗ると安くなる場合が多い 4時間弱くらい
○具体的な数字
新宿→茅野 乗車券3410円+特急券2240円→5650円
チケレス35%だと特急券が1450円(ふつうのチケレスは2140円)
新宿⇒高尾580円/高尾⇒梁川420円/梁川⇒茅野1980 円→2980円
と、3分割すると430円安くなる
http://bunkatsu.info/cpg.cgi
京王線の新宿→高尾は409円 ゆえに各駅停車なら
409+420+1980→2809円 が最安
すなわちお金がない人は、京王線で高尾に行きあらかじめ買っておいた(えきねっとでヨヤク→駅の指定席券売機で発券)紙のきっぷ2枚で茅野まで、がおすすめです。
これらは新宿起点の話なので、別の駅から乗る場合はまた変わる これを基軸に各々研究してみてください jに聞くのも◎
ちなみに渋谷→高尾も409円です
jは電車好きなので電車の話しかしないが、バスもあります
https://www.alpico.co.jp/traffic/express/suwa_shinjuku/
8/15で調べたところバスタ新宿→茅野駅で3時間、3500円~ くらい
2025.7.18(金) 思想的プチ総集編
オンタイムに金曜の夜。石炭をば早や積み果てつ。お客がないので日記でも書こう。実は13~17の記事も今日、お店で書いた。その後2名来客あり、またテンカラ(こういう専門用語が夜の世界にはあるらしい)に。
オンタイムに今朝の東京新聞の一面、参院選とSNSというテーマであった。
SNSも信頼できる情報ばかりではないのでは。記者が問うと、佐藤さんはこう答えた。「自分のふに落ちればそれでいいのかなと思う」
これである。16日の記事でいう「愚かさ」だし、15日の記事でいう「自分の心」だし、11日の記事でいう「説得力」と「納得」。さらに言えば6月29日には「かなと思う」という言い回しについて語っている。まったくもってタイムリーにすべてを記述したものだ。偉い。僕。
SNSで流れてくる言説をほぼ無批判に信じて行動する愚かさ。それを「腑に落ちればいい」とするのは、すなわち理屈や客観性よりも「説得力」や「納得」を優先し、最終的には「自分の心」が決めればいいという独善。最後には「かなと思う」などという婉曲的な語尾で責任逃れを目論む。
ジャッキーさんとかいう人がものすごく現代的な問題を日々俎上に上げているということを天下の東京新聞様がお示しくださったというわけですね。ワーイ。僕は名古屋人だから東京新聞の親会社たる中日新聞で育っていますのでね、思想的なことはどうでもいいがそれで東京新聞をとっているのであります。
ベンジーによる「自分の心」に従えばいいという主張(15日参照)は、この佐藤さんのような態度をも肯定することになる。佐藤さんは、僕が16日に書いた「愚か」というのにたぶん当てはまる。絵に書いたような衆愚(の一部)だ。しかし、愚かだから悪いとは言わない。現代日本の民主主義システムにおいては愚かさも等しく尊重されるべきなのだ。個人的には誰しも愚かでないほうがいいと思うが、しかし現時点での愚かさを糾弾して「お前に投票する資格はない」みたいなことを言うのは間違いなく間違っている。ベンジーが言っているのはそういうことだ。
佐藤さんのような愚かさはいま日本中にはびこっていて、それは政治地図を少し変えるだろう。だが嘆くべきではない。たとえ愚かであっても「本当の気持ち」であるならば、その声が大きいのならばきっと一つの真実であり、何らかの是正に働く。愚かさはいつの時代も、どの地域にも必ずある。それを踏まえて人々は生きてきた。そのエネルギーとともに世の中は変わってきた。少しずつ一歩ずつでも良い方向へ。世界が滅ぶほうが早いかもしれないが、それこそが人類の叡智の限界なのだと思う。
2025.7.19(土) 投票という信仰
国民の義務として憲法には「教育、勤労、納税」がある。僕はすべてを果たしている。比重としては教育7、勤労2、納税1くらいかな……。納税の割合が高い人は納税によって世の中をよくしているわけだが、僕は主として教育によって世の中をよくしている(自己申告)わけである。ただし憲法上は「その保護する子女に普通教育を受けさせる義務」なので、その観点からは「教育0」なんだけどネ……。解釈改憲ということで。
憲法に参政(投票)の義務はない。法律等にもない。ただ権利があり、それを行使することができる。
「投票に行きましょう!」という言葉は、「あなたの持っている権利を行使しましょう!」ということで、決して「義務なんだからやれよ」というような強制力を伴った言い方ではない。「せっかく権利があるのに使わないのはもったいないよ!」という説法。なぜもったいないかといえば、おそらくその人は投票によって世の中がよくなると信じているからである。
投票によって世の中がよくなる(ないし自分にとって直接間接に利益がある)と信じない場合、投票する義理も理由もない。そこで世の中では「信じる」側の人たちが「信じない」側の人たちに信仰を迫る。「投票をすると世の中がよくなるんだよ! あるいはあなたの生活がよくなったり、悪くならない可能性を上げることができるんだよ!」と。
「そうなのか」と素直に思った人たちは投票をする。明日の参院選、僕は19日の段階で控えめに「57%」と投票率を予想したのだが、これを書いている今(20日18時45分)までの雰囲気を鑑みるに60%はいくかもしれない。参院選で60%超えというのは平成元年の61.20%以来一度もない、らしい。
れいわ新選組、NHK党、参政党、また国民民主党らは、見事に「寝た子を起こした」のだと思う。石丸サンとかもここに含めてよいだろう。安野氏も。
それがどういう結果を生むのかはわからない。直観的に面白いと思って見ている。他人事として。僕にとって選挙というものは常に他人事である。
なぜそうなのか、という話は長考になるので明日のぶんに回します。
2025.7.20(日) 選挙が他人事な理由(前)
参議院選挙の投開票日。投票率は58.51%だそうで、僕が昨日予想したのは57%、当日直前に予想したのは「60%はいくかも」だったが、ちょうどその真ん中くらい。参院選としては48.80(2019)→52.05(2022)→58.51(2025)と上昇している。90年代以降でこれより高いのは1998年の58.84、2007年の58.64のみ。前者は橋本龍太郎の自民党が大敗して小渕政権が生まれた回で、後者は安倍晋三(第一次)の自民党が大敗して小沢一郎の民主党が参院で第一党となった回。懐かしいネ。
すなわち単純に見れば、投票率が上がれば自民党が大敗する。自民党の調子が悪いと投票率が上がると言ってもいい。「お灸を据える」的なやつ。今回もそれで、自民党はしっかり負けた。
こういうことはちゃんとチェックしたり考えたりするものの、昨日書いたように僕にとって選挙は他人事。原則として参加はしない。どういうことか、というのをたぶん何度かに分けて書いていく。一息に書ける自信がない。
最もシンプルに言えば「御免」なの。免れたいのです。自分は世の中から離れていたい。政治から、あるいはあらゆる競争から。そして常識から。権利からすらも。
小学校低学年のときは机に座って授業を受けることができなかった。立ち歩いたり寝っ転がったり、椅子の上を飛び跳ねたり教室を抜け出したりしていたのを覚えている。言い分はただ一つ、「なんでいかんの?(名古屋弁)」
国民の義務について昨日書いたが、「教育を受けさせる義務」に対応して国民は「教育を受ける権利」を有す。それを行使することさえ当時の僕にはできなかったし、その後も高校3年生までほぼ放棄していたように思う。振り返れば授業妨害みたいなことも平気でしていて、他人の権利すら侵害していたわけだ。
高3になってようやく90%くらいは行使できるようになっていた。大学ではバリバリ行使した。少しずつ成長、成熟できてよかった、よっく反省して社会に恩返しします。
と言って「授業を受ける」が不可能だった幼い自分を叱る気持ちもない。権利というのは必ずしも行使すべきものではなくて当たり前に持っているものでしかない。持っている権利を行使できない(しない)ことについて責めてはならない。反省しているというのは、権利を捨てるやり方を知らず、結果として他人の権利や気分をも侵害してしまった点に尽きる。幼かったし、誰も教えてくれないから酌量の余地はあると思うけど。
そもそも僕は「権利を行使する」ということにそぐわないのだ。何度も言うが僕の性質のほとんどは家庭環境に起因する。生きれば生きるほどそうとしか思えない。男四人兄弟の末っ子に生まれ育ち豊潤な「権利」を与えられつつ、それを自由に行使することはできなかった。詳しくは想像してもらえばいい。暴力と理不尽が支配する世界で権利の有無はサイコロで決められるようなものだ。イカサマは常に横行するが、永遠の最下位たる僕だけがそれを許されない。
生まれた瞬間にもう世界はできあがっていて、自分が切り拓けるフロンティアはどこにもない。よく考えたらすべての人間がそうではないか。初めは誰もが新参で最年少、完全に無力。国家も政治もすでに存在していて、税金を徴収される未来を避けたくば自殺しかない。
僕はたまたま「最下位」のまま育ったから、希有にもそのことを早く悟った。お父さんもお母さんも末っ子で、従兄弟の中でも僕は最年少(同い年の子はいる)。近所にも年下の友達は一人もいなかった。「自分より下」という存在をやっと意識したのは小学校中学年くらいだと思う。
まわりがすべて自分より上で、最も身近な人たちが「絶対君主」たるような構造の中で、「権利を行使する」という発想が育まれるわけがない。「自分にはどうやら権利があるらしいが、それを行使するかどうかは別の問題だし、無邪気に行使すると手痛いしっぺ返しがありうる」というのが根本にあるので、あらゆることの実行にかなり慎重になる。具体的にいえば、自由に振る舞うと兄にいじめられる可能性があるから、基本的には何もしないほうが得策だと判断してきたわけ。ちなみに、いじめられるかかわいがられるかはその時の機嫌や気分による。法則はないし、あったとしても幼い「最下位」に見抜けはしない。(家族のために言っておきますが全体にはとても幸せな幼少時代でしたよ、本当に辛くなったのはだいぶあと。)
「国民の権利だから行使しましょう、こんないいことがありますよ!」と言われても、「だけど、悪いことだってあるんでしょう?」とまず疑う。本当にそんないいことばかりなわけがない。うまい話にはウラがある。
折しも今年『
投票の倫理学』という本が翻訳された。「投票するより別の方法で世の中をよくしていったほうがいい」ということを徹底的に論証した本、らしい。ただし「投票をしてはいけない」ということを言っているのではなくて「投票の意義はかなり限定的だし、効果的な投票は非常に難しい」といったところと思われる。明日には手に入るので読みます。とりあえずリンク先の序論と訳者解説は全部読み、書評にもいくらか目を通した。
僕はたぶん(読んでないくせに言うが)この著者ジェイソン・ブレナンという人とそれなりに意見が合う。「投票するより別の方法で世の中をよくしていったほうがいい」というのは実は僕がよく言っていることで、引用でもなんでもない。読んでみて全然違ったら訂正するが、たぶんそういうことを言いたいんだと勝手に読み取った。
そして「投票は無意味」とも僕は思っていない。もちろん意味はあるだろう。ただ、それを自分がするかは違う話で、僕はとにかく関わりたくないと思っている。その理由はまた複数ある。
そろそろ記事を分けたいのだが最後まで読まずに誤解されちゃうと嫌なので、ここまで読んだ方は必ず明日の記事もお読みください。続きます。
2025.7.21(月) 選挙が他人事な理由(後)
どうして選挙(投票)に関わりたくないのか、というと、一つには競争に加わりたくないから。また「自分の外部に乗っかる(加担する)ことによって自分の内面や他者との関係が濁ってしまうのが嫌だから」。
血液型占いの隆盛する日本では「A型だ」と意識したりされたりして育つといわゆる「A型っぽい」性質が伸びやすい、と僕は信じている。「自分は○○に投票した」と意識することは必ずその人の内面に影響するだろう。また「あの人は○○に投票した」と思われることも、必ず双方の内面や関係に影響する。
僕の場合、たとえば藤子不二雄先生とか岡田淳さん、橋本治さん、小沢健二さんといった「外部」にだいぶ乗っかって生きてきたのだが、それはもうダイレクトに僕の内面や他者との関係を濁しに濁してきたものたちで、「大好き」だからむしろよいのである。もっともっと濁りたい。でも特段好きでもない政党や政治家、政策、また政情といったもので自らをわざわざ濁す趣味はない。真面目な人は「なんて不真面目な!」と思うんだろうか。僕は「投票をすると世の中がよくなる」という信仰を持つものではないので至って真面目なつもりである。
この「自分を不本意に濁したくない」というのは、ただ自分の潔癖のためではない。そのほうが僕は僕なりに世の中をよくしうると考えるがゆえ。つまり、百歩譲って投票したほうが世の中をよくできる人がたくさんいるとしても、僕の場合は投票せずに「自分の好きな濁り方をする」をし続けたほうがトータルで世の中をよくできると信じるのである。信仰というのならこっちに僕は心を捧げている。「アーまあだいたい共産党に入れてますね~」とか言うジャッキーさんを誰が見たいだろうか?「ベンジー好きだから参政党に入れた」だの「政局を読んで選挙区は国民、比例はみらいにしたよ」だの、僕が言ってたって何も面白くない。アイドルはトイレに行かないしスターは投票に行かない。
スターってのは大げさっていうかマァギャグなんだけど、岡目八目と言うように、当事者には見えないものが傍観者にはよく見えたりする。僕はそういう「係」でいたい。夜学バーではたびたび政治的な話題にもなるけれども、論争や喧嘩になるようなことは一度もなかったはず。それは僕がノンポリで、どこにも投票しないからだろう。店主が当人の外部にある特定の思想を強く信じていたり、ある決まった政党を一所懸命支持していたり、「右」とか「左」とかに容易に分類できそうな考え方を持っていたりしたら(細かく言えば、それらを内面にとどめおかず折に触れて外に出してくるような人だったら)、どんな話だって安心してできない。どこに地雷があるかわからないし、なんか意見とか言われそうで。なんなら説教とかされそうで。「場」をつくりたいならノンポリ(non-political=非政治的)が一番、というのは僕の信念。「外部」に拠り所を持つと必ず排他的になる。
この日記の努力目標は「まだ誰も言ってないことを言う」で、そのためにゃ代議士になんか乗ってる場合じゃない。たとえ高校時代の先輩(演劇部つながり)である今枝宗一郎サンが自分の選挙区から出馬したって僕は投票しないでしょう。実際いちおう知己であった安野くんにも投票してない。友達が出馬して直接頼まれたら? 絶対入れます。友達には優しくするものじゃ!!!!!(宇宙の真理)←とよ田みのる『友達100人できるかな』最終話より
「まだ誰も言ってないことを言う」を僕はかなり優先している。それによって世の中をよくすることに貢献できると信じている。そのためには、「投票に行きましょう!」という凡庸な言葉の通りに「ハイ、投票に行きます!」なんてやってちゃいかんのです。「ただの逆張りじゃねえか」と思う人は思うかもしれませんが、この長い長い文章は「ただの逆張り」ではないと僕は信じております。これは信仰の問題でもあります。
投票という行為にはどんな意味があるのか。いろんな人がいろんなことを言っているが、おそらく「これが正しい」という言説はない。だったら僕だって正しいか正しくないかよくわからないことを言ったってよいだろうと、このように色々考えてみている。
とりあえずの最後に。「投票に行かなかったせいで自分が不幸になったっていいんですか?」という想定質問について考える。もちろん「不幸になるのはいやだ」と思う。しかし、投票に行ったから不幸になったのか行かなかったから不幸になったのかは誰にもわからない(と僕は信じる)。胸を張って自分の信じることをやるしかない。
同様に、かりに世の中が悪くなったとして、僕が投票に行ったからなのか、行かなかったからなのかはわからないだろう。「わかる」というのは思い込みか信仰にすぎない。世の中はあまりに複雑で答えなど見えず、各々は各々の信じる正義に従って生きるしかない。
そしてみんなの信じる「正しさ」の質がそれぞれに少しずつよくなっていけば、ほんの少しずつでも世の中はよくなっていくはずだ。そのために僕は様々なことをする。手を洗ったり辛い気持ちの人をねぎらったりする。この文章だってそのために書いたつもりである。
2025.7.22(火) 続き 世を離る動機
「世を離る」は「よをかる」と読む古語で「出家する」「隠遁する」という意味。僕は洞窟の隠者になりたい。秘法を備え、勇者が訪ねてくるのを静かに待つ。中二病の行き着く先はアレだと思う。「待っておったぞ……」とか言いたい。具体例としては『ドラゴンクエスト ダイの大冒険』の大魔導士マトリフ、マァ名作なので機会あれば。
僕は「現役を退いた人間が人道的事情により前線に復帰して戦う」というシチュエーションが大好きである。フェチと言っていい。このマトリフも隠遁して戦うのをやめているのだが、ラストバトルの時だけいつの間にか最前線に来てメドローアとかいう最強魔法をサラッと打ち魔王討伐に貢献するのですね。僕もそういう人になりたいわね。野球でいえば現役は退いて監督になってるんだけどこっそり選手登録してあってここぞという時「代打オレ!」でバチコーンと打っちゃうみたいな。これはこせきこうじ『ペナントレース やまだたいちの奇蹟』における三原監督であります。
なぜこんなどうでもいいことを書くのかというと核心部分を容易に読ませないため。たまにやる。イントロが長いのは昨今嫌われますからね。
昨日、一昨日の記事で「自分は世の中から離れていたい」と書いたが、それについてもう少し。
19日の記事では国民の義務について自分が果たしている比重を「教育7、勤労2、納税1」(正確には教育0)と説明した。全然納税していない。稼いでないんだから当たり前だ。あんまり納税しない(できない)ということは「世の中から離れている」ということである。主として経済的に。もちろん「無関係」と言うのではなく「平均よりはやや遠い」くらいのニュアンス。
2023.5.8(月) 本質的なマイノリティの感覚を取り戻す覚悟という記事に詳しいが僕はいわゆる新型コロナワクチンを一度も打っていない。いろいろ理由はあったが最大は「関わりたくない」「世の中から離れていたい」「可能な限り行政から距離を置きたい」といった動機であった。納税もあんまりしないし投票もしないのに、この予防接種だけをするのはアンバランスに思った。「公共の利益のために打つべき」という意見についてはかなり考えたが、考えれば考えるほど(調べたり学んだりすればするほど)投票と同じで「どちらがよいかはわからない」となった。引用先でも選挙と接種を並べて語っているのでご興味ある方はぜひ。
どうして接種しなかったかというと、これも理由はいろいろあって一つに定まることではないんだけど、「強制ではない」「罰則がない」がまずあって、では自分で考えればいいんだなということになる。すると僕はものぐさなので、「どっちでもいいなら何もしない」を原理とする。選挙もそうである。良い点と悪い点を秤にかけ、どちらとも決められない時は「何もしない」を選択する、基本的には。捨てるか捨てないか迷ったら捨てない、ということなので、こういう人の家の中はモノにあふれがちである。世に「優柔不断」と言われる。
このあとにはちゃんと「末っ子だからかもしれない」と書いてあって、20日の記事に繋がる。「したほうがいいかしないほうがいいかわからない」ならば動かない。動いて損をしたことがあまりに多いからで、幼少期に身についたクセである。このクセを抜いたほうがいいかどうかも僕にはわからないので、抜いていない。客観的常識的には「とっとと抜け」であるが、それに従うべきかの判断ができないし、やろうとしても困難をきわめる。いずれにせよこれは僕の人格的欠陥である。欠陥とは「非常識」という意味である。
僕は世の中とうまくやれないのだが、「離れていたい」と思うんだから当たり前だ。幼少期からまともに授業を受けられなくて、高校3年生からやっと勉強ができるようになったと思ったら今度は就活が一切できなかった。常にちょっとずつズレている。いつまでも9歳のような気分でいるのは年齢にふさわしい発達を遂げられなかったから。それでそのまま生き続けている。どこかで苦しくなってくる可能性が高いから、できるだけそうならないようにめちゃくちゃがんばっているつもりである。
世の中から離れていたい、と思うのは「世の中」とフィットできたことがないからである。何度も近づこうとして失敗してきた。そのうちに「なんにだって適切な距離というものがある」と悟った。世の中との距離の取り方も人それぞれ。僕にとっては今の感じが現状の最善であって、「もっと近づけよ」とかもし言われても「あなたに何がわかる」ということにしかならない。僕は僕で必死に、最も自分と世の中にとってよいであろう生き方を模索しているのだ。うまくできているとは言わないが一所懸命がんばっている。それを取り締まりたければ立法してくれ。
とにかく「うまくできない」という悲しみと徒労感があまりに巨大で、人並みに生きることができない。やってみたことがないではない。やろうとしてもうまくできない。だったら「比較的うまくできる」領域の中で最善手を探すほうがいいだろう。
夜学バーとかいうお店をやっていて、多くの人が褒めてくれたり共感してくれたりしてくれるのだが、この「世を離る」という感覚をともにする相手はあまりいない。人それぞれに世の中との距離があって、僕が設定している距離は遠すぎるのだと思う。寂しいが「洞窟の隠者」とはそういうものだから仕方ない。そういう係。せいぜい堂々とやろう。
2025.7.23(水) 閑古鳥の止まり木
パンパカパーン! 7月14日(月)から20日(日)までの七日間で、夜学バーを訪れたお客さんの数は延べ19名(ユニークユーザ18名)でした! ありがたい! おめでとう! みんな最高! 潰れる!
内訳は《月0、火2、水3、木2、金3、土5※、日4※》で、※は重複1名が生じた日。ここまで流行らない週は珍しく、さすが水商売だな~と感動します。本当は50人くらいにはなってほしいんですよね。目標ラインが「月に200人」というのは当初から変わらない。ハコのサイズも価格帯も一緒なので。
売上は今わからないけど1000~2000円台がほとんどで、たまに平均を上げてくれる人がいて50000円くらいだろうか。嬉しいですね。僕としてはこれをあんまり勤労だと思ってなくて、道ばたにゴザ敷いてカンカン置いてるような気持ちだから。いやもうちょっと働こうと思いました。
客単価が10000くらいだったらなんとかなるのだが、それをめざせば客数はさらに減るだろう。僕が女の子だったらネェ。
ともあれ、お客が少ないのは「何かが足りない」からである。嘆いているヒマなどない。このまま下降していけば死あるのみ。企業努力が必要だ。とりあえず本でも読もう(という態度だからいつまでも世の中との経済的距離が縮まらないのである)。
それにしても注目すべきは「延べ19名、ユニークユーザ18名」というところで、これぞ「常連などない」の証明。七日間で重複したのが1名のみというのはけっこうすごい。「常連型」のお店だとこの18人が平均2~3回ずつ来て「延べ50名」を実現させている。夜学バーのような「わざわざ型」のお店だとユニークユーザを数倍つくらねばならないし、安定しにくいから今週のように凹むときはとことん凹む。ギャンブル性が高い。そこがまあ楽しいところでもあるが、辛いことは辛い。がんばります。
2025.7.24(木) 「みなさんにお任せします」
選挙流行ってたらしい。お店で高2ふたりと話してたら、けっこう現在の政情みたいなの知ってるし「お昼休みに友達と3人で参院選の話をしていて」とも言ってた。たまたまでもあろうけど。政治のエンタメ化は進んでいる。太田光さんの影響もあるんじゃないでしょうか。直接にというよりは、彼が毎回のように選挙特番に立つことでカジュアルな雰囲気を持たせることに貢献している。サンジャポも手伝って。池上彰じゃイマイチ「まじめ」の域を出ない。
選挙ってのは競争であって賭けであって、スポーツのように代理戦争の側面も持つ。競馬にも野球にも似ている。集団ヒステリーのような熱狂を呼びやすい。いっぺんダービーの府中に行ったことあるけどみんな狂ってますからね。それこそ生活もかかっているし。
僕は体育祭や球技大会にもまったく感情移入できなかったしギャンブルもやらない。しかしスポーツもギャンブルも見たり知ること自体は好きだったりする。遠巻きに眺めるのが楽しい。四人兄弟の末っ子ですとファミコンは「見る」ものなんですよね。プレイさせてもらえない。ドラクエも「ぼうけんのしょ」(セーブデータ)が三つまでしか作れないので上三人が使い、僕は見てるか空いた時間に「ふっかつのじゅもん」(パスワード)方式の『ドラクエ2』をやるしかなかった。シリーズ史上最大難度の激ムズで幼い僕にはキツかったがそのぶん思い入れ深く、未だに一番好きなのは「2」である。
ドラクエ2みたいなもんをチマチマやりながら、みなさんが3とか4とか5とかやってるのを楽しく(しかし疎外感を持って)眺めて生きる、というのが通底する生き方なのだろう。国民の末っ子!
この「ホームページ」って形態がまさに「ドラクエ2」なんですよ。みんなSNSやらブログやらYouTubeやらで楽しそうで、疎外感もあるんだけど、ちょっと外側にいるのが心地よいと言いますかね。性分なのでしょうな。
基本的には「みなさんにお任せします」という態度なのだ。一方で僕はいわゆる「自己決定」を推奨している。自分でやることは自分で決めるべきだと。それなのに選挙ということになると「お任せします」になるのはなぜだろうか? 僕には投票を「自己決定」にする力がない、ということなんでしょう。「自己決定」と言うに足るほどの投票行動だと正しい手続きで主張できるのであれば僕だって投票に行くのだが、現状ではギャンブルのように票を投げることしかできない。そういう場合は「棄権する義務がある」とまで件のブレナンは『投票の倫理学』で言い切っている。
投票について僕が「自己決定」と言えるケースはどんなのだろうか。たとえば22日に書いたように「友達が出馬して、入れてくれと頼まれた」のなら行くし、「○○に投票してくれたら××円あげます」と買収されたとしたら白票くらいは投じるかもしれない。「当選したら成果報酬として追加で△△円あげます」と言われたら、投票先がある程度まともだと判断できるなら票を投じるだろう。友達にさえ働きかけるかもしれない。いやお金もらったら逮捕されちゃうか、金銭以外のインセンティブで逃げ切れそうなやつないかな。
こういうことをあれこれ考えたうえで、デメリットとメリットを秤にかけ、おそらく「しない」と判断するだろう。これは「自己決定」と言える。
ともあれ、「自己決定と言うに足る投票行動」が普通にできるまでに僕は達していないので、「みなさんにお任せします」と言うわけだ。この「みなさん」には賢い人も愚かな人も含まれる。棄権する人も含めた(すなわち僕自身をも含む)すべての「みなさん」である。すなわち「現状を受け入れます」だ。
現代日本に生まれてきた時点で、「現状を受け入れます」と言うしかない。赤ん坊は非力だから。そしてその与えられた「現状」を自分なりにカスタマイズさせていく過程が人生という時間である。しかし投票という行動が自分の人生と自分の住む世界を効果的に変えてくれるとは僕は信じていない。むしろ「効果的だよ」と言う人、そう信じる人たちを訝しんでさえいる。本当か?と。
少なくとも現状、選挙の結果とは「みんなのエゴの集積」である。「消費税なくしてほしいから○○党~」くらいにしか思っていない人たち、もっと思慮深く検討する人たち、面倒くさいし何も考えたくないから棄権する人たちなど、いろんな人たちの思惑が集まって「結果」が出る。僕は「(自分を含む)みなさんのエゴにお任せします、僕は僕で何もしないというエゴを通しますね」という姿勢でいる。その意味では立派に政治参加しているはずなのだ。で、日本の場合はそれでいいと思ってたりする。「なんとなくのみんなの総意」が柔軟に流動し続ける、それでなんとなくそれなりの成果を得る、ってのがこの国の強みであり歴史。と、いうのが僕の信仰あるいは思想である。
またこのように「そもそも選挙とは、投票とはどういうものなのか?」を考え、言葉にして公開することで、さらに深く広く考える人が増えてくれたらいいなと願い、それによって世の中がよくなってほしいと祈る。これも僕の政治参加だし、もっと日常的には「仲良しの発想」なるものを持って生き、その姿を誰かに見てもらうことが最大に重要な政治参加であり信仰的または思想的行動なのである。
2025.7.25(金) 転載と流し読み
掲示板への返答をRemixします。
不思議なことですが、以前よく見かけた「Txitterに書いた内容をそのままコピーした」形式のブログは、友達のものであってもなぜか読む気がしないんですよね。それらツイートを全部は(あるいは一部たりとも)読んでいなかったとしても。やはり情報というのは鮮度が命で、「なんだ引き写しか、鮮度が低いな」と判断されたら読ませる力はかなり下がってしまうのでしょう。あるいは「手抜きかよ、人に読んでもらおうってのに太い奴だ」という感覚もあると思います。そして何より、これが一番重要なのですが、「執筆時の想定と違う場所に置かれると、その言葉の力は十全に発揮されない」という事情です。
適切な抜粋、修正、そしてかなりの加筆をそれなりの手間暇かけて行う予定ですが、これから先の文章が「最初は掲示板に載せた内容」である以上、おそらく「読ませる力」はだいぶ下がります。読者に文句言ってるのではないのです。文章というものの霊力の問題です。それで僕はあんまり「転載」ということをしないし、過去記事の引用もほとんど読まれないだろうという認識のもとやっています。そもそも最新記事だって流し読みされていると思いますが、量が膨大なのだからそれでいいのです。僕も大人になって大概の本を流し読みできるようになりました。時間は有意義に使いましょう。お互い……。
ただし、現代の抱える巨大な問題の一つとして、「流し読みした内容を理解したと思いこんでしまう」というのがあって、それだけは困りもの。「この文章については流し読みしたので、自分はその内容を正確に理解してはいない」という自覚を持って流し読みしなければなりません。
という内容を書いておきたくて、以下の文章を載せるのですが、あえて記事を分けます。次の記事を先に読んで、あるいは読まずにこちらを読む人もいるかもしれないので。実験。
参考に、実際の返信(の一部)をそのまま貼っておく。これのRemixが明日の記事である。この引用部を読む必要はありません。「読む気にならないでしょ?」ってことが言いたいので。
>ある程度までは考えてそこからは経験とかその場の空気感を掴んでいく
「考える」ということはもちろん必要ですが、「とりあえず何かする」ということのほうが大事でしょうね。なぜならば、何もしない状態では「考えるための材料」が足りないことが多いからです。とりあえず何でもいいから何かしらの働きかけをしてみて(僅かなこと、些細なことから始めます)、そこに起きた現象をもとに「考える」なり「経験を引き合いに出す」なりするわけです。
「その場の空気感」というものは、「自分の存在」が含まれていない限りさして意味がありません。「自分」が観察者としてそれを眺めて、「今はこういう状況だから……」と考えても、その観察対象の中に「自分」が不在だと、その考察はあんまり実用的ではありません(無駄だとは言っていません、当然するべきことではあります)。まずその中に自分が参与する、あるいは参与できうる状態にできるだけ近づくといったアプローチをかけて、その反応を見る。すると観察対象の中に自分が含まれ、やっと「コマ」が揃うので戦略が立てられるようになります。
意識すべきは「自分と世界(場)との関係」であって、「自分が眺めている場」ではありません。それでは他人事になってしまう。分析的態度の中には自分を常に含めておくように僕はしています。
話を「場」ではなく「人」に置き換えても同じです。「どこまで踏み込んでいいのだろうか」ではなく、とりあえず踏み込んでよさそうなところまでは踏み込むのです。その見極めは難しいかもしれませんが、とにかくほんの僅かなところから始めるしかありません。さざなみから。達人になってくると目線とか立ち位置とかで「わずかに踏み込む」ことさえできます。ジロジロ見るとかやたら近づくとかでなく、本当に小さな変化だけで場はゆらぎます。あるいは、わかりやすくリラックスした態度になってみる、とかいったのも「アプローチ」になります。そういう小さなことを無数にやってみて、空間のゆらぎをつかみ、乗るのです。
2025.7.26(土) 常にすでに自分はその場の一員であると自覚すること
掲示板で夜学バー従業員から、下記のような書き込みをいただいた。
(前略)一歩目が中々踏み出せないのは、最初から相手のどこまで踏み込めるかの判断がまだできないからなんじゃないかということについて(略)、逆にあれこれ考えすぎて動けなくなっているのではないかと指摘していただきました。それを聞いてから、ある程度までは考えてそこからは経験とかその場の空気感を掴んでいくのがいいのかなあと考えたわけですがジャッキーさん的にはこれについてどう考えますでしょうか。
これは従業員としての接客についてとも読めるし、もっと広く人間関係全体に敷衍することもできる。いちおう両方を意識して僕は次のように返した。抜粋&修正&加筆のRemixバージョンでお送りします。
「考える」よりも「とりあえず何かする」ほうが大事な局面も多い。何もしない状態では「考えるための材料」が不足しがちである。何かしらの働きかけ(僅かなこと、些細なことでよい)をして「材料」を増やしたうえで「考える」と取れる行動の幅が広がる。
ここからは、相手が複数の場合と単数の場合とに分けて考える。
複数の人間がいる場に「入ろう」とする時、「すでにできあがった空気の中に入っていく」ことになる。「その場の空気感」という言葉はこのイメージから来ているのだと思う。しかし「その場の空気感」というものの中には原則としてすでに「自分の存在」も含まれている。これは「複数の人がいる部屋の中に扉を開けて入っていく」というシチュエーションでも変わらない。
「扉を開けて入っていく」時点で、その中にいる人たちに自分の存在は認知され、「同じ空間の中に存在する人」となる。ここを忘れてはいけない。もう他人事ではないのである。
すでに自分は参与観察の中にいる。眺めているのみでは決してない。観察対象は「自分を含めた我々のいるこの空間」である。もちろん自分を切り離した「彼ら」について分析することも必要ではあれど、「そこに自分もすでに関わっている」という意識もなくてはならない。
最もわかりやすくは「彼らはいま何で盛り上がっているのか」といった「閉じた彼ら」についてばかりを考えるのではなく、「自分について彼らはどのような態度をとっているか」という「開かれた彼ら」について積極的に意識するべきだということ。たとえその形が「無視」や「無関心」だったとしても、「彼らは自分に対して、無視や無関心という態度を開いている」とでも考える。自分の存在には一切気づいていないという場合を除いて、向こうからのアプローチがないという事実はそのような「開き方」を表していると考えたほうがいい。
自分という存在もその場において有力なファクターなのであり、戦略を立てる際の「コマ」である。これからしようとしているのは、遠くから手榴弾を投げ込むことでも、ドローンで爆撃することでもない。見知らぬ部族の集団に単身乗り込んで友好を結ぼうというのだ。敵を知り己を知り、その上で作戦を練る。
「その場の雰囲気を掴む」という言葉の中には、その含意がなくてはならない。「その場の雰囲気」にはすでに自分も参与しているということだ。友好を結ぶにはその「参与」の度合いを強くするか、強くなるような状態に誘い込むことが必要である。
参与の度合いを強くするとは、最もわかりやすく言えば「話しかける(会話に参加する)」ということだし、そのような状態に誘い込むとはたとえば「話しかけやすいような態度を取る」「隙をつくる」ということである。
「考えすぎて動けなくな」る裏側にはひょっとしたら「相手のことばかりを観察し考えてしまう」があるんじゃないかと。「輪の中に入る」という言葉があるが、自分はその輪の中にはもう入っていて、あとはどう振る舞うかにかかっている、というふうに考えたほうがいい。「入る」と考えるとむやみにハードルが上がってしまう。すでに自分は全体の一部なのだ。自分がどのように機能すればこの場はさらによく(楽しく)まわっていくだろうか?と、常にすでに自分は当事者であるという意識があると、そこにあるのはオンとオフだけのスイッチではなくかなり複雑なDJやPAの機材だということがわかってくる。
話を「場」ではなく「人と人との関係」に置き換えても変わらない。わかりやすく一対一という状況を想像しよう。関係はすでに成立している。あとはその関係をどのように育てていくか。
仲を深めたいのであればすべきは単純に「アプローチする」か「アプローチしやすい態度をとる」。隙をつくか隙をつくるか、と言ってもいいのかもしれない。ここで及び腰に「どこまで踏み込んでいいのだろうか」と考えると動けなくなる。とにかくなんでもいい、踏み込んでよさそうなところまでは踏み込むのだ。完全な見極めは不可能なので、とにかくほんの僅かなところから始める。さざなみから。達人になってくると目線とか立ち位置とかで「わずかに踏み込む」ことさえできるようになる。ジロジロ見るとかやたら近づくとかでなく、本当に小さな変化をつくるだけで場はゆらぐ。関係は刺激される。同時に「踏み込ませる」ということも意識させる。たとえば、何かをしている人間には話しかけにくいので、何もしないでいる。ただし休んではいけない。休んでいる、スイッチを切っている人間には話しかけづらい。「何もしていないがスイッチは入っている」という状態が「隙がある」のだと僕は思う。これは静的な話であるが、動的には「わかりやすくリラックスしてみる」というのもある。リラックスは状態としても動作としても可能なのである。そういうような小さなことからとりあえず色々やってみて、空間をゆらがせ、そのゆらぎを見極め、それに乗る。
関係が一対一よりも複雑になってきても、やるべきことはほぼ同じ。あとは応用にすぎない。こういうことはもう「夜学バー道」みたいなもんですね。
以上の文章に関しては、昨日の記事も参照してください。
2025.7.27(日) 町中華が中華屋に戻りつつあった
2023.4.25(火) 中華屋が町中華になった瞬間という記事。ずっと大好きなお店がバズりすぎて生態系を変え、何もかもまったく異なるお店になってしまったようでなんとなく足が遠のいてしまっているという内容だった。
実はそのあとも一度か二度は行ったのだが、やはり店主のおかあさん(そう呼ばれている)はおらず、店員も客層も味も何もかも違うものだった。妙に俗っぽくなったメニューも目についた。たぶんそれから1年以上は訪れていない。
それがつい先日、17時くらいにたまたま通りがかったら白髪パーマのおかあさんが鍋をふるっているのが見えた。ふだん厨房の中は道路から見えないのだが真夏ゆえに開け放っているのだろう。「ああ、いるんだ」と思って、その日は急いでたから入らなかったんだけど、花火大会の日にまた17時ごろ通ったらやっぱりいて、席も空いてそうだったので入ってみた。
座るなり「まだお店やってんの?」と言われて驚いた。はいと答えると「上野だったっけ?」と、もう80歳だってのにまったくハッキリしていて、鍋を振るう手にも衰えは見えない。以前よく頼んでいたメニューを注文すると、心なしかニヤッとしてくれたような気がした。
味はもちろんパーフェクトにおいしくて、前回や前々回はなんだったのか? レシピは同じなのだろうが、厨房を仕切る人が違えばまったく違ったものができあがるらしい。働いていたのはおかあさんと、おばさんがふたり。3オペだった。例の某地元チェーン居酒屋から出向してきたような品のない(失礼)男性は見かけなかった。心から安心した。おおむね数年前までの雰囲気が戻ってきているような気がした。
店内も静かだった。奥の座敷には酒盛りしている地元客らしき4人組と、独り飲みしているベテランらしいおじさん。カウンターには外国人観光客らしき3人組と若いカップルが一組。ギャージンさんたち(敬意)は僕と入れ替わりくらいに帰ったので、横並びにはたった3人。カップルもやがて店を出て一瞬僕だけとなった。奥の人たちもベテラン(とは)っぽいしとても懐かしい気持ちになれた。
バズが落ち着いたわけではない。あれから何度も何度もテレビに出て、ほんの数ヶ月前にも「町中華日本一」みたいな番組で優勝している。売れすぎてむしろ安定したということなのだろうか。なるほどミーハーたちはスタンプラリー脳だから一度行けば満足する、「そういう層」の来客は一周したのかもしれない。
ややあって30代くらいの男性が入店、一番バズったメニューを注文した。勝手に邪推して悪いがこの人は「一周め」なのかも。ある時期はみんながみんなそのメニューばかりを注文して、さすがにおかあさんも食傷気味のようで愚痴っぽい時もあった。今は「日本一」にまでなってたぶん誇らしさが勝つだろう。僕も素直におめでとうと思える。
それにしても僕が「M&A」(?)と思い込んでいた件はどうなったのだろうか? 単に善意で手伝いに来てただけ? その地元チェーン居酒屋の面影はほとんどなくなっていた。Txitterに「買い取られたらしい」と書いている人はいる(2023年12月)けど明確なソースはない。ひょっとしたら「味を継承したいのでそのために一時的にお店を手伝います」というだけの話か。それにしてはずいぶんお節介な変革をしたものだが。
いったん色々やらせてみたものの「やっぱりなんか違う」となった、って感じなんだろうか。このへんはまったくわからない。なんにせよ喜ばしいのはおかあさんの料理が食べられたことだ。例のツイート(2023年12月)でも「おばちゃんいないし、色々雰囲気変わってた」とある。年齢もあるし営業時間を変えたりスタッフを増やすのは自然なことだが、「いない」なんて以前は考えられなかった。まったく立っていなかったってことはないだろうけど、特にある時期はいないタイミングも多かったんだと思う。僕も通るたびに覗き込んでたけど、姿が見えた記憶はない(単に見えづらいのもある)。
今年で81歳になるとのことだから改めて通えるだけ通おう。何曜日の何時ごろいるものなのかはわからないけど、夕方にはいるんじゃないかな。ランチタイムは暑いし忙しすぎるだろうからむしろいないでほしい。
帰り際、「3年ぶりくらい?」と言われたけどさすがにそこまでではない。それに幾度かは来ていたのですよ、お会いできなかっただけで。本当にどれだけ嬉しかったことか。おかあさんも少しは嬉しかっただろう。こういうこともささやかに世の中をよくしていく。
2025.7.28(月) 左翼のギャグセン、右翼のギャグセン
「左翼のギャグセン(ス)」が低すぎる、というのはよく言われることだが(Txitterなどを検索してみてください)なぜそうなるのか。
左翼とは「思想的な正しさを根拠に」「変革をめざす」もので基本的に「少数派」となり、「比較的インテリが多い」。そうすると左翼のクラスタは「ある似通った考え方を持つ小さな集団」となりやすく、「内輪受け」に堕しやすいうえ「自分たちの主張する思想的正しさから外に出ない」貧困さを持つ。そこにきてインテリが多いとどうしても「頭で考える」ということに終始した笑いになりがちで、なんだかよくわからないが笑ってしまうようなイリュージョンが生じにくい。っていうようなことをAIが言ってた。僕のせいではない。
もう少し噛みくだいて大雑把に言うと、たぶん「発想が狭い」ってことだし、今で言うコンプラとかに配慮しまくるとダジャレくらいしか許される笑いの形式がない。すなわち「発想も形式も狭くなる」ってこと。これもAIが言ってた(関西人の言う「知らんけど」みたいな責任逃れ)。
それで「マスゴミ」とか「無理 サファリパーク」(by選挙ギャルズ、2022.8)くらいのギャグに収束していくのでしょう。
ひるがえって「右翼のギャグセン」ってことを考える。これは一言でいうと「多数派の余裕」ってやつで、吉本芸人を思い浮かべればいい。「イジる」みたいなことが許される。マイノリティをバカにする笑いも許容される。ブスとかチビとか女とか言って(!)ギャハハと笑うのが右翼のギャグである。恐ろしい。これもAIが言ってました。
「ひな壇」みたいなのも吉本的だと僕は見る。集団による「ノリ」の笑い。ホモソといいますか、ある一つの価値観のもとみんなで協力して笑いを作り出そうとする。新喜劇もそうですね。
左翼の笑いはこういうことを許さない。「どうしてそんなノリに参加する必要がある? 個人の自由でしょう」と。選挙ギャルズも「無理 サファリパーク」という文字を掲げていたのはたった一人である(最も有名なあの写真だと)。孤軍奮闘、彼女は「無理 サファリパーク」というギャグを飛ばした。デモのさいプラカードに書く内容は各自の自由に委ねられる。全体主義は絶対に許されない。
各人に自由が与えられながらも、デモはデモとして団結はする。さまざまな考えを持つ(はずの)人たちがその時だけは一つの目的に連なるから、あまり複雑なことをすると「私はそうは思いません」と内ゲバになる。その権利を許すのがリベラルである。ゆえに「アベ政治を許さない」的な単純なスローガンだけを共有し、それをひたすら叫ぶことになる。そうなるとギャグも「最大公約数的な」ものになる。「みんなが笑えるものじゃないとダメ。一人でも不快になってはいけない」という感覚があるから、「無理 サファリパーク」くらいのもの、すなわちダジャレに落ち着く。
吉本芸人、先日までその王様であった松本人志の笑いを思い浮かべていただきますと、彼は昔から「俺の笑いがわからんヤツはセンスがない」という態度で、まさに右翼の笑いの象徴である。これは「内輪受け」とは順序が違う。「仲間のみんながわかる最大公約数的な笑いを」というのが左翼の笑いで、「これがわからなかったら仲間ではない」というのが右翼の笑いである。前者をあえて「福祉的笑い」、後者を「教育的笑い」と振り分けてもいい。松本さんは「教育」に成功し、王国をつくった。
吉本星松本王国の笑いは「人を傷つける笑い」で、「傷つきたくなかったらこっちの世界にいろよ(来いよ)、一緒に笑おうぜ」である。「無理 サファリパーク」は明らかに「誰も傷つけない笑い」であって、「ここにいても大丈夫だよ」という優しさがある。
ただし、「無理 サファリパーク」というのは「思想的正しさを共有できないと笑えない」ものではある。ここが左翼の笑いの脆いところ。「与党のやっていることは無理!」という基本思想がないと笑えるわけがない。それが「内輪受け」ってことである。
ところで、「これがわからなかったら仲間ではない」というのを「教育的笑い」と措定したのは我ながら恐ろしい発想だ。確かに、学校教育というのはことごとく「これを是としなければあなたは間違っているということになります」という押しつけでしかない。たとえば「人間は猿から進化したのです」という内容を受け入れなければならない。でないと日本では非常識ということになる。左翼(リベラル)であれば「そう考えない自由」を守ろうとするはずだが、右翼は「いや、猿から進化したと考えてもらわないと困ります」という形で社会秩序を守ろうとする。
もちろんですね、左翼の雄たる共産党はマルクスだけは正しいと考えているように見えますし、なぜか学校教員には共産党員ないし支持者が多いような気がしますが、それはまた共産党の特異さだと思われます。共産党が日本の政党のなかでいかに特異かというのはまたどっかに書くかも。
2025.7.29(火) 続き ギャグセンの話
Groznyくん(読んでたら連絡せよ)という高校の友達がいて、彼は創価学会員なのだが、忘れられない名言がある。
故・西原夢路(「閑古鳥の止まり木」管理人)があるとき「お前らガカーイン(原声ママ)は聖教新聞しか読まないから偏ってるんだよ!」と彼を糾弾した。Groznyくんは憤慨して「おれはバランスをとるためにちゃんとほかの新聞も読んどるわ!(名古屋弁)」と反論。「どの新聞だよ、朝日か? 産経か? 言ってみろよ!」西原も負けない。
Groznyは堂々と答えた。「公明新聞!」
ぼくは、おもしろかったので「ウフフフフ。アハハ。」とわらって、ばくしょうしました。ぼくはばくしょうしたのです……。
これを笑えるかどうか、という話なんですね。昨日の記事にむりやり繋げると。
たぶんGroznyはまったく天然でこれを言ったのであって、ギャグとして狙ったわけではないだろう。しかし僕は完全にギャグとしてみなさんに紹介している。僕のこのギャグは右翼的だろうか、左翼的だろうか。
右翼的でしょうね。悪趣味だし。天然とはいえこの時のGroznyの言動は愚かであって、僕も西原も愚かさゆえに笑った。愚かなことを笑う、これは真面目なリベラルは絶対に許してはならないことである。ってのはリベラルへの偏見だろうか? ちょっとエーアイに聞いてくるね!(伝家の宝刀)
「弱者への配慮」「差別助長への懸念」「対話の重視」「権力への批判」という観点から、「一概には言えないが許容しにくいであろう」というお答えでした。Geminiサン。
ただ、おそらくだけれども、このやり取りが創価学会内で共有された場合にはまた違った受け取られ方をするのではなかろうか。
彼らにとっては「聖教新聞も公明新聞も同様に(少なくとも朝日や産経よりは)正しい」はずである。「朝日や産経なんか読んでたら偏っちゃうわよねえ、やっぱり聖教と公明が一番バランスがいいわよ」というのが熱心な信者の感覚なのではないかと僕は(Groznyはじめ複数の信者たちとの浅からぬ交流を踏まえて)思う。ゆえに「愚か」だとするなら西原のほうである。
もちろん「世の中にはいろんな考え方があって、我々の信じる正しさは一面的なものにすぎない、朝日や産経にも見るべきところはあるだろうし、少なくとも自分たちとは違う価値観を知ることには益がある、敵を知り己を知ればと言うし」みたいな感想を持つ人もいるだろう。これはインテリ・リベラルの考え方である。ゆえに受け取り方も若干左翼的になる。たぶんこの人はさっきのエピソードでほとんど笑わないだろう。「フム……」と考え込んでしまうかもしれない。
インテリでリベラルといえば知識は幅広く発想も柔軟であるような感じがする。しかし「笑い」ということになるとむしろ限定的になる。まじめ(思想的正しさに忠実)なのと、考えすぎてしまうのもあろう。もっとも最近はコンプラ等に存分に配慮できる頭のいい芸人でないとテレビなどでは活躍しづらくなっている気はする。高学歴芸人が増えていくのも時代の要請か。すなわち「笑い」というものは少しずつ左に傾いていっているのではないか、というのが僕の雑な仮説であり、いずれ「無理 サファリパーク」くらいのギャグしかテレビには存在できなくなる(さすがにそんなわけはないか)。ちなみに僕は令和ロマンの五〇〇〇〇〇〇〇〇倍はバッテリィズが好きです。
んま最もギャグセンたけーのはノンポリだと思う(我田引水!)。
2025.7.30(水) ダンスマイノリティ
「あの子たち踊れないじゃない」とメリー喜多川さんがSMAPに対して言ったとか言わないとか。踊れなくてもSMAPはトップスターだった。かつては「踊れる」ということが今ほど重要ではなかった。
中学校のダンス必修化は2012年からで、1999年度に生まれた子供からが対象となる。いわゆる「Z世代」とは別の区切りとしてこの「ダンス世代」は重要だと思う。TikTok当たり前世代というか。ちなみにプリキュアシリーズで初めてダンスが採り入れられたのは2006年(Splash Star後期)からで、そういえば『ハレ晴レユカイ』も2006年である。2008~11年くらいにK-POPがいったん最盛期を迎え、2017年くらいからまた爆発的に流行(BTSブーム)、2020年にはSnow ManとSixTONESが同時にデビューする。
おおむね現在の25歳前後くらいからは幼少期アニメ等でダンスにどっぷり浸かり、中学校ではダンスが授業にあって、アイドルたちのダンススキルもどんどん上がっていった。並行してラップやヒップホップも世の中を席巻していく。今やダンス&ボーカルグループでラップをやらないほうが珍しいようにさえ思える。
ようやくというか、リズム感というものが「あって当たり前」の世界になった。たぶんそういう世界において「踊れない」というのは一昔前の「音痴」に相当する存在なんじゃないか、と考えてみる。
錦糸町の河内音頭を見にいって、老いも若きも狂ったように踊り続けてエライもんだと思った。昨年までは僕も行けば多少は踊ってみていたのだが、今年はやめた。何年やっても踊れないのだ。「同じ阿呆なら踊らにゃソンソン」ってのはわかるし、下手でもなんでも参加することに意義があるってのも当然知っている。しかし肝心なことに、それをやっても僕はあんまり楽しくないのだ。「ああ、参加しているなあ、昔ながらの儀式に加わっているなあ」と頭で考えることが勝ってしまう。踊れないからだ。踊れないから踊ることが自動化されず常に必死で、忘我の域に達することができない。ちっともトランスできない。クラブ(デスコ)とかライブとかでも同じで、まったく没入できない。こんど「音楽が嫌い」(誤解恐れぬ大意)っていう話をたぶん書くのだが、そのこととかなり深く関係する。
歌はそれなりに上手いほうではあるしリズム感も悪くない、敏捷性も高く反復横跳びはクラスで一番だし足もそこそこ速くなった。ストイック根性野郎なので耐久性もかなりある。しかし脳がバグっていて踊れない。よく頭をぶつけるのと無関係ではないと思う。チームスポーツのすべてに向かない。球技などもってのほか。自転車を漕ぐくらいしか得意なことがない。
僕は「歌を歌う」ということはできるが、「踊りを踊る」ということができない。このままだとそのまま前の時代に取り残されてゆくだろう。「音痴である」という呪いは回避できたが「踊れない」という呪いにはかかった。ひょっとしたらこれからは「歌えない」よりも「踊れない」ほうが不便になる可能性がある。
クラブもライブも盆踊りも楽しめない。スポーツを楽しめなかった少年時代を思い出す。勝敗がないだけマシではあるが、自分が「全体」の一部となる構図は同じで、思いっきり苦手。僕は天理教のファン(信者ではない)だが、どれだけ見ても、習っても、あの手踊りができるようにならない。「そういう」ものを認識する脳の機能が極めて弱いのだと思う。
1時間も2時間も河内音頭を見つめていて、まったく何が起きているのかわからない。参加してみてもできるようにならない。しかし僕は偉いので、人間が成長することをちゃんと知っている。たぶん基礎からしっかり、ゆっくりじっくり練習すれば少しずつできるようになるだろう。墨田区議の人が足のステップからていねいに解説している動画を見つけたのでやってみようと思う。それでちょっとずつこの特殊な脳を直し、育てていきたい。偉いよね! ほんとに。絵も描けるようになりたいな。絵が描けないことと踊れないことはたぶん近しいところにある、たぶん僕の場合。
一直線のことしか今はまだできなくて、だから自転車と文章が好きなのだ。歌も「歌」と考えれば一直線である。ここ数年ギターの弾き語りで自作自演してみたりしているのだが、これもほぼ一直線だ。バンドをやろうとは思わない。やってみたくはあるのだが向いていないだろう。オーケストラとか吹奏楽も。「一直線」しかできないのだから。でもリハビリとしては合奏みたいなこともやってみたほうがいいんだろうな。この歪な神経をよくしたいのだ。協調性とも関わると思うし。
僕はよくロックとフォークの違いについて語るのだが、自分は完全にフォークである。フォークとはメッセージをメロディに乗せて一直線に言葉を伝えるもので、ロックとは協力して一つの音をつくるもの。ゆえに原則として「ロックの弾き語り」というのはありえない。それで僕はロックがあんまり好きではないし、小沢健二さんのことは「指揮者的なフォークシンガー」だと思っている。
ロックバンドってのはチームスポーツと同じようなもんだ、ってことが言いたいのですね。友達のいるやつがすること。だから人数の多い吹奏楽は体育会的になる。だいぶ話が逸れました。
ダンスが支配的な世の中は、スポーツが支配的な世の中よりもほんの少し平和で、文化的だとは思う。しかしそこにはスポーツマイノリティすなわち「運動音痴」と同様にダンスマイノリティも存在する。結局できる人とできない人が生まれて、できる人が評価されてできない人は評価されないということになる。評価されないどころか「参加できない」という話にもなる。学歴社会とも似ている。
それをどうこう言うつもりはなく、世の中はだんだんそっちのほうになっていくのだから、「おれはダンスマイノリティだから……」と腐るのではなく、少しでも踊れるようになりたいなと素朴に思う。音痴だけど歌がうまくなりたい!みたいな話だ。
僕はサッカーもバスケもド下手だが、自転車だけは上手いし速い。自転車が上手いってどういうこと?って思うかも知れないけど、あるんですよそういうのが明確に。乗りまくってるとわかるし実際記録も(素人の割には)出た。かの『弱虫ペダル』にも「体育いつもDなんだ」「そんなんに関係なく速よなんのが自転車やで」という小野田くんと鳴子くんの名場面がある。大好き。
踊りに関してもそういう分野があるかもしれない。河内音頭は無理だけど江州音頭は上手、とか。わかんないけど、とにかくやってみないと仕方ない。エライもんだ。本当に偉い……(自らを慰撫、そして鼓舞)。
2025.7.31(木) そんなに金がほしいかよ
アニメ『宇宙船サジタリウス』は1986年1月10日から1987年10月3日まで放映された。いわゆるバブル直前期に始まりそのまま浮かれた時代に突入していく、という時代背景で間違いないと思う。
1985年はプラザ合意だけでなく男女雇用機会均等法の制定(翌年施行)もあり、『サジタリウス』第1クールでアン教授が「学界で差別される自立した女」として描かれるのはそれを反映しているだろう。「こんなんじゃあたし、いつまで経ってもインディペンデントになれない!」は時代をうつす名台詞である。(正確な文言じゃなかったら申し訳ない。)
主人公は主として4人、トッピー、ラナ、ジラフ、シビップ。第一話時点でトッピーは30代で第一子の生まれる直前、ラナは40代で5人の子持ち、彼らは「宇宙便利舎」という便利屋の社員で宇宙船「サジタリウス号」のクルーである。ジラフは彼らに「単身でベガ第三星に向かった婚約者のアン教授を追ってほしい」と依頼する20代の若手研究者(院生?)、シビップはその星の原住民。
初期『サジタリウス』は「ビジネスと人情のあいだで揺れる会社員の悲哀」を描くが、ベガ第三星から帰った2クールめからは4人で「新宇宙便利舎」というベンチャー(?)を立ち上げ、最終話まで彼らは零細企業の社員として働き、やはり「金と人情の板挟み」に悩み続ける。そしてバブル経済の進展に従ってだんだんと「お金ってそんなに大事なのか?」というテーマに寄っていく。
時には金に目がくらみ、「これ(≒金)さえあれば~なんでもできる~♪」という名曲をみんなで歌うなどし(大好きな謎シーン)、裏切りや仲違いも経るものの、最後の最後には「やっぱり仲間が大切だ」と宝石や儲け話はフイになる。幼き僕は「あーもったいない」と思ったものだ。そりゃ友達のほうが大事だよな、と思いつつ、だけどちょっとくらい報われてほしいよ、いい人たちなんだから、と願った。
本放送は上記の通りだが名古屋では何度も再放送されていた。とりわけ1992年(10月29日-翌2月19日)は短期間でたぶんほぼ全話見たので印象深い。小学2年生、すでに「好きな人は手塚治虫」とか言っていた頃なので吸収力はすさまじく甚大な影響を僕に及ぼした。
僕はこの『サジタリウス』の価値観、ざっくりと言えば「金よりも友達が大事」というのを無条件に信じている。しかしこの作品の最も素晴らしい点は、「だけどそのためにはものすごく大きな代償を支払うことがある」と残酷なほど伝えているところである。「友達や仲間って大事だよね!」ということを綺麗事に終わらせず、「しかし貧乏の辛苦や軽蔑を覚悟しなければならない」とハッキリ描く。それゆえ絶妙にバズりきらず大した再評価もなされないのである。みんな貧乏にはなりたくないから。
その中で僕だけは(本当にほとんど僕だけなのである、少なくとも僕くらい好きな人には会ったことがない)『宇宙船サジタリウス』を何よりも愛し、「オールタイムベストアニメ」と宣言して憚らない。自分の価値観のど真ん中にあることはもちろんのこと、そのような価値観を描いた作品がほかに見当たらないからである。『サジタリウス』で描かれるのは「清貧」とは違う。清くなどない。貧乏とは苦しくて泥臭いものだ。「リブ(トッピーの第一子)のミルク代もバカにならないし」といったギャグ(?)は恐ろしくソリッドに市民感情をえぐる。子どものミルク代が脅かされるような状況に甘んじてまで友情や人情を優先するのか?という問いが本作には通底しているわけなのだ。
貧乏には覚悟が必要である。苦しむ覚悟。頑張る覚悟。野垂れ死にの可能性を常に抱え、ギリギリの生活のなか不断の努力と協力で乗り越えていく。その根性がおまえにあるのか? それを突きつけるのが『宇宙船サジタリウス』であって、そんなもんを好きな人間が現代日本にどんだけいるのか、といえば、「バブルで豊かだったから(生活に余裕があったから)他人事として見ることができ、多少の人気があった」ということにすぎず、今のように貧しい(とみんなが思い込んでいる)状況になると顧みられることはないだろう。ただし、僕はまったく逆に今こそ顧みられるべきだともちろん思うのだが!
政治に関する昨今の言説を眺めていると、みんな金の話しかしない。むろん今に始まったことではなかろう、ずっとみなさんは金の話しかしない。しかし金と言ったって減税と給付金の話ばっかりだ。大事なのは税金で何をするかだろう。そんなに金がほしいのか???
なーんて言ってますと「それはあなたが経済的に余裕があるから言えるのでしょう? 実際税金や物価高で苦しんでいる人はいるんですよ!」と言ってきそうだ。僕は実家も太くはないし自分もぜんぜん稼げていないが貧困とは程遠い。収入は少ないのにどうして苦しんでいないのか? いろいろ理由はあるが結局のところ「頭がいいから」「能力があるから」「モテるから」に尽きる。工夫ができるし我慢もできるし人からも(凸凹はあれど)好かれる。「ジャッキーさんは頭がいいし能力もあるしモテるからそんなことが言えるんですよ!」と言われたら何も反論はない。
金というものはセーフティネットなのであろう。金以外の「何か」を多く持っている人は金をあまり必要としないのだが、そういったものがない場合は金がないとどうしようもないのだ。金がないとどうしようもない人とは「金によってしかものごとを解決できない」人である。「金を使う以外の選択肢がない」と、金を手に入れても早晩消えてしまう。
ギャンブルで身を持ち崩す人のことを考えよう。ギャンブルとは「金を使うことによって金を得ようとする」行為。働かずにギャンブルばかりしている人は「金を使う以外の選択肢がない」のである。
ギャンブラーは極端な例だが、ちゃんと働いている人であっても「金を使う」という選択肢が常に中心にあるとお金は手元に残らなくなる。いつの間にかお金がなくなっていく。
工夫するとか我慢するとか代替案を考えるとか「今度でいいや」と先送りするとか、金を使わない方法はいくらでもある。しかし「金を使う」しか発想しない、あるいはそれが優先されがちな人は息をするように金を使う。それを「経済を回す」といった言い方で肯定するのが現代社会である。
そういう世の中で政治の第一課題、もっと言えば選挙の第一話題が「金」となるのは当たり前のことだ。しかし僕はそんな世界が好きではない。『宇宙船サジタリウス』のように、歯を食いしばって貧乏に耐える。その先にあるのは友達と仲間である。彼らと永遠に仲良くしていくために、僕は能力を育て、根性を鍛え、できるだけ人に嫌われないような肉体と立ち居振る舞いを備えてきたのでございます。
以上のことは来月書くと思われるオウム・アレフ関連の内容にかなり深く関わっていく、というか前提となる。乞うご期待。
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8/2の記事として書きました。「さまざまな事情で金がない」という境遇をなめているわけではないのです。僕には経済的な負債(借金等)がなかったし根性が機能した。そのあたりのことを書いておいたほうがいいと思いました。
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