ひごろのおこない/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。
過去ログ
2024年12月
2025年1月
2025年2月
TOP
2025.1.1(水) 悟りメンバー
2025.1.2(木) 環境とは余白
2025.1.3(金) 偏執狂の詩
2025.1.4(土) 想像力はこわい
2025.1.5(日) 初琥珀
2025.1.6(月) 文字通りに読む(1)
2025.1.7(火) 文字通りに読む(2)座れない人たち
2025.1.8(水) 文字通りに読む(3)本を読め
2025.1.9(木) 推敲について
2025.1.10(金) タイプロ(1) パワハラ大好き!
2025.1.11(土) タイプロ(2) パワハラは大事!
2025.1.12(日) タイプロ(番外編) 北風と太陽
2025.1.13(月) 成雀式
2025.1.14(火) 鍼にいったよ
2025.1.15(水) 自転車を直したよ
2025.1.16(木) 子供はわかってくれない
2025.1.17(金) 敵は遠くにありて弱き者
2025.1.18(土) 夢をつづける
2025.1.19(日) 拡大しかない
2025.1.20(月) 自分と心中する覚悟
2025.1.21(火) 共感は現状維持
2025.1.22(水) 静かな刻
2025.1.23(木) 弘法も筆の誤り
2025.1.24(金) 文字禍期の終わり
2025.1.25(土) 爆笑問題の勝利
2025.1.26(日) 聖☆おじさんに俺はなる
2025.1.27(月) 疑わしきは罰せずの会
2025.1.28(火) よそゆきに飽きた
2025.1.29(水) 新宿か、湯島か
2025.1.30(木) 飲歩紀行
2025.1.31(金) 今月の日記 解題=目次(はじめに読んでもいいよ)
2025.1.1(水) 悟りメンバー
そこにはあるんだ、そう…ただの咲く花が~←歌ってる
晴れたれば、鮮やかれ。これは「晴れたれば」「ああ、鮮やかれ」みたいなコールアンドレスポンスでも使えるようです。ぜひ。
新年ということで抱負を語る。去年はけっこう暗かったので今年は明るくやりたいものです。無理はしないようにしつつも。パッと切り替わる瞬間がそのうち来る。今はまだ開き直れてないだけ。まだ人生を長いと思っているのだ。
悩みというものはたくさんあって、上から5つくらいはここにもいっさい書いていない。まったく25年前の最初期からそれはそう。いつでも余白だらけで意味がわからない。「公開される日記」というものの味はそこに出るし、ゆえに独特の読後感の悪さも生じる。
これからも歯にものが挟まったような文章を書いていく所存です。
今日きゅうに思い出したことがある。悟りについて。忘れてはならない。リメンバー悟り。よく考えたら(悟るくらい考えたら)すべてどうだっていいのである。苦しいとか悲しいということがあるだけだ。無責任とも言える。それじゃダメだとも思える。僕はこれからも人を殺していくだろう。実際に死ぬ人も出てくるだろう。そういえばmixiに「宇宙から見たらどうでもいいし」ってコミュニティがあったな。まだあるんかしら。ありました。
僕はとにかく「みんな自律すればよい」と思っているらしい。たとえば僕が自律するためには愛する人たちにも自律してもらわなければならない。そうでないと僕はその人たちを助けてしまって、自分が自律している場合ではなくなってしまう。他律に余裕を奪われてしまう。これは僕の心の弱さというよりは、一人では生きていけないこの世界ではそのように助け合わなければならない、どっちかっていうと経済上の弱さである。
理想をいえばみんながせめて僕と同じくらい(シャカレベ or ボサレベ)までは悟りを開いていただいて、悟りメンバーとなっていただけると良い。すべてはどうだっていいのである。悲しいとか苦しいということが、楽しいとか嬉しいということと同等にあるだけなのだ。でもたぶんほとんどの人はそのように思うことなく辛いことがあれば深いトラウマとなったりうつ病になったり喧嘩したり自殺したり騒動が起るんだね。吾輩は猫である。
僕はとりあえず心の中だけはそのような悟りをかなり育んでいる。これが厄介なのは、世の中ではそれじゃ通用しないということだ。反社会的な発想にしかならない。盗んでも殴っても別にいいじゃんって話になる。また著しく他人を傷つけてしまい、最悪の場合死に至らしめる。それらとの折り合いをどうつけていこうというのが僕の人生のほぼすべてであって、悩みのほぼすべてであって、努力のほぼすべてであろう。
僕は優しいとはどういうことかをよく知っているはずだが、その運用の幅は限られている。すべてに優しくあることは社会的ではない。うまく足したり引いたりして調整が必要だ。それが本当の優しさとも言われる。すなわち社会的な優しさか。
すべてがどうだっていいのだから社会的でなくたって別にいいのだが、すべてがどうだっていいのなら社会的であったって構わないはずでもある。どっちでもいいのに反社会的に偏ってしまうのは煩悩の存在する証拠。悟りと煩悩が「同時に」あるってコト? 単に「そういう人格だ」ってだけなんだろうね。そして修行は続く。
2025.1.2(木) 環境とは余白
わかったぞ!
最近よく「やる気などというものは存在しない」みたいなことを言いますな。その通りですわ。すべては環境。環境がととのっているかどうかなのだ。環境がととのうとはとどのつまり「余白がある」ってことなのだ。
マア少なくとも僕にとって。
2日の夕方くらいまでだらだらしたら急に覚醒して掃除を始めた。ものすごく捗った。そういうものなんだろうな実際。
30日のことはさっき掲示板に長々書いたので現代人は参照してください。未来人はがんばって探してください。1時くらいに帰って健康的に眠り、31日のことは31日の日記へ。
1日、昼ごろ起きるとsaku氏から「今から店(夜学バー)来ませんか?」と連絡が。どうも彼の中ではまだ31日の37時ごろで、なんとまだ営業中らしい。まさに「ジャッキーさんがいたらもっと面白いのに」の世界。これも31日の記事をご覧あれ。
今から上野に行ったら40時じゃ済まなくなるぞよ。僕は休むと決めているのだし大晦日は欠席すると高らかに宣言したではないか。絶対に行かない!と強い意志で思ったのだが「ここで行かなきゃ男じゃないわね」という古風な想いも僕にはある。13時の開店から37時まで24時間戦ってきた人間をねぎらわないのはどうかしてるぜ。間をとって僕の家からも近く彼も帰りやすいような場所を指定して呼び出した。お客さんと一緒に来てくれた。正月は飲まないつもりだったがビールとワインで初酒。このシチュエーションなら悪くない。40時すぎに解散。
その後は何もせず録画を見たりぼんやりとしたり。まさに「休む」ってこういうことだなと、意識の中で無数の「やるべきこと」を右から左に流しながら思った。
2日も昼ごろ起きて録画を見たり文章読んだり。夕方きゅうに働き出した。ずっと手つかずだったことが二つ三つ進んだ。こういうことなんだよな、環境がととのうというのは。島本和彦『燃えよペン』で言えば「あえて寝る」ことの大事さですよ。
よき環境とは余白である。とりわけ心身の余白。心に余裕があって体力もある時じゃないと「やるべきこと」なんてできないですよ。「やりたいこと」「やらねばならないこと」なら無理してやるけど。「やるべきこと」ってのは「やらなくても別にいいこと」ですからね。「やるといいことがあるよ」ってだけだから。でも余白があればそこにねじこめる。
やっぱ2日間くらいは休まないといけない。休むってのは「仕事をしない」ってことだけじゃなくて「家から出ない」とか「遊ばない」とかも大事だと思う。僕は遊んじゃうからな。「人と会わない」もね。何よりも孤独が心を休ませる。いつも孤独にいじめられてるみたいな顔してるけど、物理的孤独と精神的孤独はぜんぜん違うもので。
でもどうしても、2日間もこのように休むのは難しい。正月でさえ「あーあの店やってるな」「行きたいな」とかめっちゃ思うし。せっかくの余白を無理に埋めようとしちゃうわけだな。「やりたいこと」の呪い。快楽の呪いと言ってもいい。歯を食いしばって今日は一歩も外に出なかった。明日も出ないかもしれない。天気よかったら散歩くらいするかもしれんけど。4日は出る。決戦は金曜日。深い意味はない。
5日から10日の夜までは予定がない。思い出したり誘われたりしたけどやめておこう。旅行も帰省もしないと思う。
2025.1.3(金) 偏執狂の詩
103(高1のクラス)の同級生7人でつくったLINE3人しか発言してない。僕もあやうくスルーしちゃうところだった。今んとこ自分が最後の発言者で、このまま10月3日まで動かない可能性もある。どうなるものかな。25年も経てばそりゃスローになっていく。けどあと10年くらいしたらだんだんみんな身動きとるようになってくるんじゃないかね。またみんなで会いたいものだよ。
この正月、もし名古屋にいたら何人かには会ったかもな。そのグループの外でも103にはたまに会うような友達がまだ何人かいる。幸せなことである。
わざわざ日記には書かないでも毎年その日には103のことを考えている。高1という時期は自分にとってそれほど重大だったのだ。小学校で添え木氏と、中学校でたかゆき氏と出逢ったのもすこぶる巨大だが、高校では本当にいろいろな人と出会うことができた。川沿いの治安悪すぎ中学校からいちおう「名門」と言える環境に移ったのだから環境の違いは著しかった。みんな行儀良くて頭よさそうでビックリした。僕だけがガキだった。
インターネットに本格的に参入したのも高1だった。7月にこのホームページを開いた。思えば遠くへ来たもんだ、と言いたいところだが、どこへも行っていない。ずっとここにいる。頭がおかしいよね。頭がおかしいから「店」というものもずっと続けてしまっている。頭がおかしいというのはここでは「偏執狂」ということ。僕は偏執狂なのである。
水道の蛇口が大好きな偏執狂が「水道の蛇口はいいぞ」と主張するようなことを僕は25年また20年続けている。まあ誇らしいことだよ。だけどあんまり他人に「水道の蛇口はいいぞ」なんて言うもんじゃない。でも「水道の蛇口っていいですよね」と誰かに言われたら、そりゃ「そうなんだよ!」って早口になるじゃん。そのくらいは許してね、ってことで。
今日もお掃除などをした。ちょっとだけ散歩に出て、仲の良いお店に挨拶だけした。おせちは明朝なくなるだろう。
2025.1.4(土) 想像力はこわい
正月は休む!つもりだったのだがsaku者急病につき2日連続で働いてしまった。5日の営業中にこれを書いている。明日からは休みたい。けどいつゴミ捨てるんだ? しまったな。木曜の夜に出さなきゃいけないのに。16日にしちゃうと膨大な量になるしその日は終電のある女の子だしな(終電差別の男女差別)。ゴミ捨てるためだけに9日来るしかないか。
今日も体調は思わしくない。周りの人たちみんな崩れてる、って周りの人達がみんな言ってるし僕もそう思う。どうでもいい繰り言を書いてしまっている。何をする気力もない。
昨日(すなわちこの記事の日付、4日)はがんばった。たくさんしゃべった。いろいろ上向きになるとよいな。
なんにしたって想像力を持つことだ。なぜ人が想像力を発揮しようとしないかってのは僕はもう17年前に書いて中学生たちに配っていますね。想像力ってのは「こわい」からだって。想像すると自分に都合の悪いことが浮かんできちゃうから。やらなければならないこと、やるべきこと、やったほうがいいこと、やってはいけないこと、やるべきでないこと、やらないほうがいいこと、といったことがすべてわかってしまうから、人は「想像」ということをできるだけ避ける。想像しなければ何もしなくていいんだから。常に最も楽な道を歩いていられるんだから。
ここでいう想像ってのは可能な限り多数の「かもしれない」を同時に想定することであって、ただ一つの「だろう」を断定することではない。「だろう」に堕すのは想像していないのと同じである。決めつけなんだから。ただの。「あの人はこう思うだろうから大丈夫」ってのは、自分を守るための手抜きだし、それこそまさに不誠実なギャンブルってやつなのだ。勝てればいいよ? 全員がね。でもそういうことってまずないからな。
想像するのは恐ろしい。今僕は友達の連絡を一つ無視しちゃっているのだが、想像力を張り巡らすとけっこう僕はその人にメーワク、フタンをかけちゃっている。想像すればするほど「本当に申し訳ない!」という気持ちが強くなる。まだ傷の浅いうちに連絡して「ごめん」って伝えるべきなのに、それがなかなかできない。そういうことってあるよね! ほんとに。あるけど、あってはいけないんだよね。いやはや。これ書いたら連絡します(遅い)。
ってわけでいったん終わります(誠実)。
2025.1.5(日) 初琥珀
はい連絡してきたので再開します。現在5日の営業中です。本来休む予定だったんだけど急遽出勤することになった。こういうのは助け合いですからね。
年末からの体調不良がまだ続き今日は何もできる気がしないのでこのままお客がないならドラクエ3でも再開しよう。いまギアガの大穴に飛び込む直前。すなわちこれからアレフガルドです。専門用語。
昨夜はお客さんのご厚意で「琥珀」という湯島のバーで初めて飲ませていただいた。高い高いとよく聞くのでビビっていたのだが二人でカクテル6杯(ショート5ロング1)27200円というのは「相場(妥当)」という感じもする。僕も大人になったもんだ。一人で行ってカクテル2杯なら10000円くらいだろうからたまにはアリだ。勉強にもなるし。一杯ごとの酒が濃い(そして多い)ので十分に酔っ払ってしまえるし。
金の計算ばかりするのは名古屋人特有のドケチ根性、でもあるが趣味でもある。僕は鉄道に関しても「1円でも安くできると快感を覚える鉄」を標榜しており、最初は節約のためだったのだがいつの間にかそのゲーム性に魅了されるようになった。安くしたいなら18きっぷ(旧)のようなものを使えばいいのだが、それよりもよりゲーム性の高い「一筆書ききっぷ」とかのほうが性に合うようになっている。数字を使って考えることが好きなんでしょうね。偏執狂ですので。
ということで(?)琥珀の料金システムを割り出そうと先行研究もいろいろ調べてみた、が、わからなかった。チャージ1000円でサ―ビス料あり、という説は見かけた。いろいろ計算してみると「25%」と思ったが確信はない。たびたび通ってみて探ろう。いや、これは単なる趣味であります。一人でも行くと思うけどみなさまぜひ誘ってください。
高めのキャバクラだったら同じくらいの時間いて2~30000円くらいするんだろうから、それを考えると琥珀、安いのでは! 比べるもんでもないけど。もちろん。
ちなみに書くまでもないけど内装など視覚的要素も、空間の雰囲気も、味も、すべて素晴らしかった。いいお店です。
またいろいろ勉強にもなった。マスターの「ショットガン式シェイク」(僕が名づけた)の動きはだいたいラーニングした(おいしく作れるとは言っていない)し、ジントニックの製法も感服いたしました。考え方は僕と同じ方向性(普通に考えたら必然的にそうなるということなのだが)と思うものの、方式はずっとエレガントである。酔いながらも寝る前にしっかりメモに残したので今度やってみます。そ、僕って青魔導士なのじゃ。
マティーニは得意技といわれるだけあってすばらしかった。雪国もとにかくおいしかったな。僕は甲斐性がないので連れていきません。ふかわりょうが年始のラジオで似たようなこと言ってた。「末っ子だから」って。
日曜だし年始だし誰も来ないの。担当者変わったことはあえて告知していない。したほうが「誠実」なんだろうか? でもこれは実験でもある。とりあえずドラクエやろっと。ちゃんとファミコン(実機)で初代のをやっているんだよ。ぼうけんのしょ消えてないといいな。
2025.1.6(月) 文字通りに読む(1)
僕は欠陥だらけの人間であり、良いものではない。何か少しでも偉大なことをやっていたら「不良が犬を助けた」くらいに感動してほしい。
偉大な人間というのはちょっとでも悪いことをしたら「最低」扱いになる。もうそれが怖くて怖くて仕方ない。偉大な人間などではない。クズ人間が一所懸命がんばって偉大なことを為そうとしているだけなのだから「すごいね~」と単純に思ってほしいのである。
「ジャッキーさんを神格化している人が多い(それは問題ではないか)」と指摘されることがたまにある。僕は「そんなやつおれへんやろ」と思うのだが、よく考えてみるとなるほど「神格化」とまではいかないまでも「優秀である」と思われすぎているきらいはあるのかも。僕は優秀ではない。ただ偏執狂(最近気に入ってる表現)なだけ。そのせいでちょっと良さそうに見えることがあるし、もちろん良さそうに見えるように努力もしている。元来が良くないのだから精一杯に盛って見せているのである。かっこつけたり、かわいこぶったり。かしこぶったり。
「今までしてきた悪いことだけで僕があした有名になっても~」って始まる歌がありますね。悪事が明るみに出たら「化けの皮が剥がれた」と思われる。一所懸命はり付けた、そのことを褒めてほしい。「よくこんな綺麗に化けの皮をはれたもんだね!」と。「えらいよ!」「おつかれ!」と。
何度でも言うが僕に常識はない。社会性がない。当たり前であるはずのことを当たり前だと思えない。思想的立場に縛られないので倫理観も道徳心も独特だと思う。しかしどうにか生活を成り立たせなければならない。これが実に辛く苦しい。
佐藤の作品中、道徳を諷するものなきにあらず、哲学を寓するもの亦なきにあらざれど、その思想を彩るものは常に一脈の詩情なり。故に佐藤はその詩情を満足せしむる限り、乃木大将を崇拝する事を辞せざると同時に、大石内蔵助を撲殺するも顧る所にあらず。佐藤の一身、詩仏と詩魔とを併せ蔵すと云うも可なり。(芥川龍之介『佐藤春夫氏の事』)
佐藤春夫といえば谷崎潤一郎とのいわゆる「細君譲渡事件」が有名であり、二人ともこれを作品に残している。世間の人にはよく理解できないこと(非常識)だから文字にしないとわかり得ないということだろう。
僕は佐藤春夫という人物に強く惹かれるのだが、それは彼が「自身の非常識に対して正直である」からなのかもしれない。姑息さがない。「詩人」という2文字をのみ言い訳として、素直にやっている。羨ましい、そう思っているのかもしれない。僕は。
昨年10月のお芝居に関する詳細を僕がひたすら書きまくっていたことについてある読者様が「透明性」という言葉を使った。僕って自然主義文学の人だったのかもなあ。わたくし小説のようなぎりぎりの透明性。
佐藤春夫が細君譲渡事件まわりのことを書いた私小説的な作品に『この三つのもの』がある。これは未完に終わっているのだができる限り透明に描こうと努めたのだと見える。この未完を補うように『僕らの結婚』という少し長いエッセイがあって、講談社文芸文庫では同じ本に収められている(ぐっじょぶ)。この文章には副題らしきものがあり、「――文字通りに読めぬ人には恥あれ――」。そういうことなんだよ!
文字通りに読めぬ人には恥あれ。僕はもちろん大学受験の国語が得意だったのだが、あれはひたすら「文字通りに読む」ということだけをすれば解けるものであった。進学した「国語国文学科」もひたすら「文字通りに読む」をするだけの学科であった。本文に書いていないことを論拠にしてはならない。当たり前のことである。その当たり前のことを高3以降、大学を出るまでひたすら訓練し続けたわけだ。
この訓練をちゃんと積んだ人間には「文字通りに読む」という能力が身につく。僕はかなりその訓練をしっかりした人間だから論理的な問答にある程度耐えるし、文章の内容も平均よりはかなり精確に読み取れていると思う。書くときも「そういう人が読む」と無意識に規定しているだろう。
ひるがえってそういう訓練が不十分であるような人は、たいてい「文字通りに読む」ということができない。誤読したり、読み逃したりする。しかし訓練十分な僕は「文字通りに読まれる」ことを期待してものを書く。まさか誤読したり、読み逃したりする人がいるとは想定していない。
むろん読み飛ばしたり読み流す人がいることはわかっているが、そういう場合には「自分はこれを読み飛ばして(読み流して)いるのだから、精確に読み取れていない可能性が高い」と自覚しながら遠慮して腹に入れるのが本当なのだが、それもある種の訓練を積んだ人でなければできない。ことによれば読み飛ばしたり読み流している自覚すらない人もいるだろう。「ああ、そういうことか」と合点だけしたりする。ほとんど読み取ることなしに。いまさら何を、そんなこと当たり前だろ、って思わないでくださいね。精確に読もうとしてくれていないのでは?
佐藤春夫は、世間から非常識と思われるような題材を扱うに際し、「どうせこれは精確には読まれないんだろうな」と予見して(あるいはこれまでの経験を踏まえて)「文字通りに読めぬ人には恥あれ」と付したのだろう。「ちゃんと文字通りに読めよ、こっちは文字通りに読めばわかるように書いてんだから!」という文章家の自負心でもある。僕にもそういうところがある。
僕は文章でものを伝えようとすることが多い。心を込めて、論理的整合性にかなり気を遣って、できる限り精確に書こうと努めているのだが、読む側は「精確に読もう」となんて思っていない。僕は訓練によってそういう癖がついているのでかなり精確に読もうと心がけているほうだと思うが、国語の専門家でもなければそんな癖はまずない。
たとえば文書を先に送って「読んどいてね」と言ったあとに、「あの件なんだけど」と話し始めると、「えっ、そんなこと書いてありました?」とか言われることがある。相手が不誠実だというわけではない。読んでいないのだ。読めていない。読もうとしていない。ただ向こうからやってくる文字情報に対して受け身になっていて、無意識に選別、曲解していて、そのことに気づいていない。これを責めるのは酷だろう。僕がすべきことは「シンプルに伝える」で、もう一つだけ希望があるとすれば「他人が一所懸命書いた文章を精確に読む癖をつけたいのだったら、ひたすら本を読んだり文章を書くという訓練を積み重ねるしかないだろう」という真理の存在。
2025.1.7(火) 文字通りに読む(2)座れない人たち
夜学バーの8年を通じて最大の悩みというのは立って小用を足す男性の存在である。音が無理。飛散は意外と二の次で音。音が㍉。これは構造的欠陥といいますか、お手洗いの壁(ってかドア)が薄すぎるのでどうにもならない。特殊な音姫を設置しているのでフツーにしてれば大丈夫(ご安心ください)なのだが立たれると㍉。「立ってるな」とすぐわかる。㍉ for us ㍉㍉ for us。
最近は飲食店などでお手洗いに入ると「男性も座ってください」みたいな表示がよくあるが、彼ら(立ってする人たち)は見たことがないのだろうか? あるいはその表示がない場所では問題ないと思っているのだろうか?
ダメと言われればしないが、ダメと言われなければしてもいい。それはあまりに単純すぎる。ものを考えたことのない人の発想である。ダメかどうかは自分で判断するのだ。言われたかどうかは参考にすぎない。すべきことはするしすべきでないことはしないだけである。
本日おそば屋さんに行きまして、お手洗いに行こうと思ったら先にべつの男性が入ったのでちょっと待って、入れ替わりに入りましたらば、見事に便座が上がっていたのであります。トイレの扉には「男女兼用 男性の方も座ってご利用ください」とピクトグラム付きで貼っていたし、中に入っても用器(僕はこう呼んでいる)のタンク上に同じものが掲示されていた。その男性は日本に生まれ育った日本語話者と思われた。しかし彼はどうやら立って用を足したようなのである。
㍉ for us ㍉㍉ for us。
そういうことは至るところで起きているに相違ない。二つの可能性が想像される。
A 彼らは「読んでいない」
B 彼らは「読んだうえでやっている」
Bの場合、その人は「立ってしたほうがいい」と思っているのである。ここもいくつか枝分かれする。
B-1 座ってしてほしいという理屈もわかるが、立ってしたほうが楽だという自分の利益を優先したい
B-2 立ってしたほうが絶対に良いという理屈と信念がある
B-3 他人(とくに女や若者)に指図されたくない
B-3が多いんじゃないかと想像する。「なんで何十年も続けてきた習慣を変えなきゃいけないんだ」という中高年の意地ですね。「やめろ」と言われても「やめたくない」のだから「やめない」。人の迷惑顧みず、やってきましたデンセンマン! こういう人を動かすのはマジで難しい。どうしたらいいんですか?
B-2はほぼいないと思う。いたら教えてほしい。考えられるとしたら「知らない誰かが直に座ったところに直に座るのはいやだ」という潔癖さか。その為にシートペーパーというのが誕生したのだし。あとは単純に「冷たい」とか。しかしこれらを持って「絶対に」とまで強く言える人はいるのだろうか。「自分はおしりに伝染病を持っているので」といった特殊な事情はあるのかもしれない。それにしたって「座り方」や「仕方」を工夫することはできると思う。これについてはここでは詳しく触れないが、ズボンであれば「直接肌をつけずに座って用を足す」ということは十分に可能である。ファスナーがついている場合は余裕だし、ついていなくてもできる。「ズボンがつくのすらいやだ」という人のためには、空気椅子や中腰でする選択肢もある。ヒントをいえば、これはすでに夜学バーの「テキスト」にかつて書いたことだが、タンクに正面を向いて「逆座」に座るというものである。これでだいたいの問題は解決する。
B-1も当然多い。まあ人間らしいですよね。僕のお店では絶対にこういう考え方はやめていただきたいですが。
しかしBのほうは余談でして当然主眼はAとなります。「読んでいない(読めていない)」という人はどのくらいいるのだろうか?
よく「人は読みたいように読む」なんてことを言いますが、要するに自分に都合の悪い文言は見えないのですね。読んでないのに都合が悪いかどうかがなぜわかるかというと、「読むか読まないか」という絶妙な段階で直観が働くのでしょうかね、「アッこれは自分にとって都合が悪いから頭に入れないほうがいいぞ」と。それは「男性も座ってご利用ください」みたいな短文もそうだし、僕が書くような長い文章もそうだ。「これを読んで頭に入れてしまったら自分にとって都合の悪い事態が招かれるぞ」と思えば、人はその文字を意識から一掃し、もう二度と入ってこないようにできる生き物なのである。自分で盲点を作り出してしまえる。それが脳っちゅうもんのすさまじいところなのだ。
「アーまたなんかめんどくさい貼り紙があるわ、ま、読んでないことにしちゃえば問題ないわな」って感じ。邪悪ですな。まことに。
「読めない」とはどういうことかを再考したい。「読めない」とは「読解力がない」ということだけに起因するのではない。読める能力は十分にあるが、読めてしまったら都合が悪いから読まないことにする、読むのをやめる、あるいは、読まなかったことにして忘れる。そういう狡猾な理由もあるのだ。「読めない」の裏側には。
そしてまた、「読めない」にはB-3のような気分も隣接している。「読みましたけど、別に自分がそれに従う理由はありませんよね?」と。いやいや、あるんだよ。理由はあるの。あるけどあんたに都合が悪いから、理由を理解しないようにしているだけでしょ? フツーに考えたら、立ってされることのデメリットが想像できるはずでしょ? 前回書いた「想像力はこわい(自分に都合が悪い)」ってやつですわよね?
基本的には「掃除が大変」「不潔な感じがする」みたいなことがあるはずなのだ、そこには。「は? 掃除はテメーら(お店の人)の仕事だろ?」とか「何十年間、億の人間が立ってして、それで死んだって話は聞きませんけどお~?」みたいな反論(?)が想像されますわ。それらも一分の理はありますよ。でもあんたら、やなやつだよね。みんなと仲良くしようとしてないよね。僕はその一点を問題にしますね。
誰がやろうが掃除の手間や不快感ができるだけ少ないほうがいいじゃないの。立ってしたことによる不衛生さの健康被害の有無はたぶん証明できません(あるともないとも言えません)が、衛生的なほうが気分がいいのは間違いないと思いますよ。そしてキレイな環境のほうが治安がいいっていうのも確かだと思います。みんなで美しい世界を作っていきませんか? そういう気持ちがないんだって僕は判断しちゃうんですよね。相手がどんだけ年取っててもね。
もちろん僕も馬鹿じゃないので、なんらかの事情があって、肉体的に座ることが困難である、といった事情も想像しますよ……想像しますけれども、当店の話で言いますと4階まで階段で上がれて高い椅子に一人で座れるような人が、座って小用を足すことだけどうしてもできないとはなかなか想像しづらい。いないとは言いませんがものすごく数の少ない例でしょう。
だいたいは「ズボンを脱ぐのがめんどくさい」が勝ってるだけなんですよ。たぶんそれが座らない人の99%以上。楽さを取ってるだけ。
誰かと仲良くするためには、「読む」ってことがものすごく大事だと僕は思うんですよ。なんで日本の識字率がほぼ100%であり続けてきたのかって、社会が「読む」ということによって成り立ってるからに決まってます。日本社会は「読む」ということなしには成立しないんです。
たぶん日本は文字の社会なのですよ。だから識字率が高いのですよ。それは「アメリカ人は自分の主張をちゃんと言う」みたいなのと対照なわけだ。日本人は自分の主張をちゃんと言わないから、文字の力を借りてきたのでしょう。きっと。
夜学バーのお手洗いには、「最初に必ず読んでください」と書かれた冊子が置いてあって、それを開くと僕が日本全国のトイレから収集した「座ってください」写真コレクションが並んでるんですよ。僕はどうしても、自分のお店のお手洗いに「座ってください」なんて無粋な貼り紙をしたくないんで、苦肉の策でそうしているのです。「世の中にはこんなに多くのトイレで、男性に座って用を足してほしいと主張しているのですよ」と伝えることで、「そうなんだ」と改めてほしいのです。しかし!いまだに時折、立ってしている(としか思えない)人がいるのです。信じられない。読んでいないのか?「最初に必ず」と書いてあるんだぞ? 残念ながら「読んでいない」んでしょうな。
お客さんにいたずら心で「あれ読みましたか?」と質問してみたことがあります。「ああ、あれはきっとトラップだと思ってあえて読みませんでした。」ハァ~~? 文字通りに読めよ! 文字通りに読めぬ人には恥あれ!!!!!!!
その方はすぐに、「あっそうか、もしかして何かプラクティカルな(実用上の)ことが書いてあったのかもしれませんよね」と思い当たってくださったので、むしろ「え、頭よ」と思ったことを付記しておきます。次回ご利用の際はぜひお読みください。
「読めない」人たちに共通することをずばり言っちゃいますね。彼らは「言葉を信頼していない」んですよ。ただそれだけでしょうね。
2025.1.8(水) 文字通りに読む(3)本を読め
「本を読め」ってことをこないだ、1月4日、夜学バー従業者決起集会で言った。僕はこれまで他人に対してこんなにまっすぐ「本を読め」なんて言ったことないと思う。かならず留保があった。「本なんか読まなくてもいい」と思うようにしていたからだ。
セワシ理論(東京から大阪に行くのにどんな交通手段を使おうが得られる結果は同じである)を援用して、「本を読まなくても本を読んだのと同じ結果が得られれば問題ない」と僕は言い続けてきたわけです。中学の国語の先生になって後は、頭がよくなる(あるいはいいやつになる)方法として「①本を読む、②人と話す、③どこかに行って何かを見る」というのをよく挙げていた。すべてがやれればそれがいいし、どれか一つくらい欠けていても大丈夫だ。本を読まなくてもいろんな人とたくさん話すことによってそれと同等の成果は出る。これは確かにまあまあ正しいとは未だに思っているが、完璧に正しい言い方をするなら「全部やれ」でしかない。
僕はもう、本を読まないとダメだなと心から思えるようになった。僕の大好きなアレだ、最近引用してなかったな。
読書は勉強じゃないよ ただ 楽しむだけさ
人間には犬も豚もいるんだよチコ
本から学ぼうなどと思っては犬にされてしまう
本も読まないようでは豚になる
仲間達も色々な事を教えてくれるだろう
(小原愼司『二十面相の娘』第一巻)
女子高の教員時代に
こんなプリントを配っていたようですね。9年前。きゃー。
それよりさらに何年も前から僕はよくこの場面を引用していたわけですが、今なら素直に言える!
読書は勉強でもあるよ! 楽しみながらできたら最高だけど楽しくない読書も死ぬほどあるし、すべきだよ!
読書は勉強だって言い切っちゃっていいんだよ。ごまかしちゃいけない。
ってか、勉強だと思ってしたほうがいい読書も多いのだよ。
じゃないと「役に立たせる」ってことがしにくいから。
「この読書は完全に娯楽! 何の役にも立たない!」って思い込んで読むのはいいと思うけど、「読書を役に立たせる」ってことがいっぺん癖になった人間は「完全に娯楽!」って思ってても結局あとから役立たせちゃいますので、きっとそのほうが得だと思う。勉強だと思って読書をする癖をつけといたほうが。かしこくありたくば
本を読むってことは、「言葉を信頼する」ってことに直結すると僕は思う。そういう癖がつく。そして言葉を信頼している人間は、ことこの日本においては、いいやつになれやすい。
もちろん読書量の多いやつがいいやつになるっていうのではない。やなやつもたくさんいるよね。だから「本を読む」ということをあまり礼讃するのは気が進まない。
本をたくさん読んだからっていいやつになるとは限らないのはなぜだろうか? それは「何に役に立たせるか」のピントがずれてるからでありましょう。本を読むってのは、みんなと仲良くするためですからね。実のところ。そして言葉を信頼するというのも、みんなと仲良くするためですので。
この「みんな」というのは「全員」ではない。「自分が仲良くしたいと思う人」である。
で、「自分が仲良くしたい人が仲良くしたい人」というのを想像すると、かなり広範囲になるしぼやけもしますわね。ってことは、できるだけ他人を不快にさせずに生きたほうがいいよなって思うんじゃないでしょうかね。
「自分が仲良くしたい人以外には冷たくしてもいい」っていうのは考えが浅すぎる。「自分が仲良くしたいと思う人が仲良くしたい人」まで視界を広げてみると、「まあ誰にも冷たくしないほうが無難だわな」くらいには普通、なると思う。
そもそも「自分が仲良くしたいかどうか」を初手でわかることなんてなかなかないんで、「とりあえず初手は冷たくしないほうがいいわな」とかも、自然に思うんじゃないのでしょうか。
さて「何に役に立たせるか」が「自分が気持ちよくなるため」だけにフォーカスされている人間は、まあフツーに考えてやなやつでしょう。「みんながしあわせになるため」だったら、いいやつになりそうですよね。
本を読むときにはぜひ、「みんながしあわせになるため」みたいなことを考えながら読みましょうね。せめてそのくらいのことはしたほうがよいですよ。死にたいとか殺したいとかを同時に思いながらも。
ねむいんでおわります。
2025.1.9(木) 推敲について
誤解は恐れないが、減らしたい。そう思ってこの日記も書いてから何度も読み返しては微修正をくり返す癖がずっとあったのだが、毎日のように記事を更新しているとそんな余裕がなくなってくる。最近は推敲をあまりしていない。何日か経って読み返してみると「なんか偉そうな口調だな」とか思うことが多い。
良く言えば自然に書いている。推敲すると「客観的に見ればこのほうが穏当だろう」という書き方に寄せていくのだが、一気呵成に書き上げてそのままにしたものは僕の主観が強く出る。つまり人格が出る。それはそれで人間らしくていいし、そういうほうが売れる(読まれる)だろうとも思う。
ただ特に文末の助詞や助動詞って絶妙で、「ですよ」と書いた時の「よ」のニュアンスってのは読む人によって異なってしまう。偉そうと読む人もいれば優しいと読む人もいる。自立語はブレにくいけれども付属語は容易にブレる。推敲時にはけっこうその調整をしている。あとはリズムをよくしたり、論理的整合性を増させたりする。
僕のことを偉そうだと思っている(思いたい)人が読めば偉そうに読めてしまうし、僕のことを優しいと思っている(思いたい)人が読めば優しいように読める。そういうことを極力避けて、偉そうならば偉そう、優しいならば優しいと一意に定まるようにしておきたい。でもそれはあまりにも人の目を気にした書き方で、勢いがなくなるとまでは言わないがちょっと固くなってしまう感じはする。遊びがなくなるというか。
遊びがなくなれば広がりもなくなる。広がりこそが芸術でございますので、マアある程度は無責任に、書き散らすような書き方もアリかなと思ったりはする。
書いてる瞬間に脳内で再生されている言葉の音程と、気分が変わって読み返してみたときの音程はちょっと違ったりする。するとニュアンスも当然変わる。それを「まずいな」と思って、できるだけそのズレが少ないような文字に置き換えてみたりするのだが、読む人が違えば解釈も違うのは当たり前のことで、そのズレを少なくしたいというのは「誤解を避ける」という意味で正しいのだが、果たしてそれによって文章の質や魅力というのは向上するのか?というとわからない。最初の音程を信じたほうが美的に良いということはむしろ多かろうと思う。客観性よりも瞬間の主観に神は宿るはずという信仰に近い。
推敲の際には、それを変えることで何が生き、何が死ぬかを考えねばならん。「誤解を与えそうだけどまあいいや、その時はそう思った(その言葉が出た)んだし」と無責任に放り投げることも時には必要なのかもしれないな。最近の僕の文章はどうもそこが無意識にめざされているように思う。そのためにたくさん書いているのかもしれない。肩の力抜いて、素直に吐き出す。そろそろそういう局面だと身体が感じているのだろうか。
「文字通りに読んでもらえれば絶対に誤解が生まれないような書き方」にずっと努めてきたわけだが、「文字通りに読む」ということがそもそもかなりのレアケースであることを実感するに伴い、あんまりそこにばかりこだわっても不健康だよなと思うようになってきた。もちろん文字通りに読んでもらえればちゃんと伝わるようにはこれからも心がけていくと思うのだが、一つ一つの言葉が持つ意味や機能の領域をそれこそ偏執狂的にキチキチと整理して収めていくことに命賭けすぎると、なんだか病気になりそうだ。がんばりすぎなんだよ。
長々と書いたってむしろ伝わらなくなるんだからシンプルに物事を伝えたほうがいい。僕は狂っているので文章を精緻に書けば相応の伝わり方をするはずだと永遠に信じ続けていくんだろうけれども、世の中はそれでは渡っていけないらしい。辛く悲しい。だからこそここをわざわざ読みに来てくれる人たちには感謝しかない。必死の言葉を受け止めようとしてくれることそのものに大きな幸福を感じる。少なくとも30人くらいは常にそういう人たちがいるんだと思い込むことが僕の精神を平常に保たせ続けてるわけなので、どうぞ時々その証拠を見せてくださいませ。
2025年7月11日(金)は、緊急事態宣言かなんかでほとんど人が来なかった20周年オフ会の補填として臨時に25周年記念会を開催いたします。10年に一回しかやらないと豪語していたのに申し訳ないですがお許しください。場所はちょっと広めの所を借りたいなと思いますが、どういう場所でどういうことをしたらいいんだろうか。みんな結局「根本的に人と関わりたくなどない」んだろうから、「観客」として座っていられるような感じのほうがいいのかな。考えておきますので予定だけ空けておいてください。
2025.1.10(金) タイプロ(1) パワハラ大好き!
あっという間にいまは14日である。書いてない日を飛ばすか埋めるかいつも迷うのだが今は余裕が若干あるので埋めることにしよう。
金曜といえば最近は「タイプロ」ですね。timelesz project。これについてはまた詳しくいろいろ書きたいところだ。timelesz(タイムレス)とはSexy Zone改名グループの名で、タイプロと言うとその新メンバーオーディションを主として指す。Netflixでその模様が配信されている。いわゆるサバ番(サバイバル番組)で、少しずつ候補者が脱落して削られていく。最終的に残ったものがtimeleszの正式メンバーとなる流れ。
力(リキ)フォーアス、力力(リキリキ)フォーアス、というのは主題歌のサビ。
タイプロの話ができる識者(ジャニーズについて一家言持った女子)が4人くらい友達にいて、その視点や意見はとても参考になる。女の子たちからは教えられてばっかりだ。ある友達のおばあちゃんが「男はみんなそれまでに出会った女たちの作品」というような言い方をしていたという。僕もみなさまの作品の一つです。←これはタモリさんが赤塚不二夫先生の弔辞として述べた言葉のパロディ
僕がタイプロについて書くことはすべて自分だけで感じたり考えたことではなく、同じようにタイプロを見ている女の子たち(男性もいるかもしれないがごく少ない)との会話の中で自然にたどり着いたものばかり。すべてのみんなの名を挙げて©️を付けたいがそうもいかないので初めに記しておきます。もちろんTxitterや5chのスレッドとかも見て、参考にしている。みな共有財産です。
タイプロはパワハラ番組である。きっとサバ番はたいていそうだ。いま学校や一般企業で同じことはできない。「死ぬ気でやれ!」と先生や上司が口にしたらアウツ。でもタイプロでは許されている。地上波ではなく配信だからというのもあるだろうが、許される理由の最大は「目の前に夢がぶら下げられているから」だと僕は思う。
現代日本は「夢至上主義」である。ずいぶん前からそうである。自己実現と言い換えてもいい。定められた給与をもらうために「死ぬ気」を求められるのはノーであるが、自分がどうしても叶えたい夢のためなら「死ぬ気」も強要にならない。死ぬ気といえば『リボーン』だよね。いまこそ読みたいな。
タイプロではダンスの先生(NOSUKEさん)が「死ぬ気でやれ!」みたいなことを実際言う。さすがにtimeleszのメンバーは「死」ほどの言葉は使わない(少なくとも放送には乗っていない)が、もうちょっと柔らかい言葉で檄を飛ばすのは基本的に最年長の菊池風磨くんの仕事である。
どこに照準合わせてやってる?
オーディション受かること? そこじゃねえんだよな。
売れてえんじゃねえの?
俺は死ぬほど売れたい。
こんなんじゃ売れねえだろ。どこ見てやってんだよ。
がんばってるよ、めちゃくちゃがんばってる。すげえ刺激をもらってるし感動もしてる。泣けてくるよ。それぐらいがんばってるよ。
なんで殻破れねえんだよ、じゃあ。
「俺が俺が」でいいんだよ。
主役俺たち(timelesz)じゃねえんだって。みんななんだよ。お前らが一番カッコよくていいんだって。
殻破れよ。
終わっちまうぞそんなんじゃ。timelesz終わっちまうよ。
行儀良くなくていいんだよ。
俺らで売れようぜ。
こういう言葉にそれ自体問題があるわけではない。強い言葉は使っているが批判されるような語彙はどこにもなく、さすが風磨くんだ。ただ、このような熱い言葉や姿勢を受けて候補生たちはより一層「がんばる」ことに力を注ぐ。この言葉が出た合宿ではどうやら睡眠時間を極限まで削って練習に精を出した人もいたようであり、そういうことが努力の証として褒められたりさえする。つまりスポ根なのだ。「睡眠時間を削ってでもやれ」とはたぶん誰も言っていない。しかし「寝てる暇なんてないよね?」という暗黙の声はそこかしこで飛び交っていたと想像できる。そして寝ずにやった者が評価され成果も出す。そういう世界なのである。芸能界とは。いやジャニーズとは。
自分の手を一切下さず他人に何度も殺しをさせていたとされる松永太は、「殺せ」といった直接の言葉をどうも全く使わなかったらしい。人を集めて「あとは自分で考えろ」と言って消える。そして「つまり〇〇さんを殺せってことよね」という結論が当たり前に出る。そして殺す。実行も教唆もしていないが、殺したのは明らかに松永である。忖度殺人。きっちり彼は死刑確定している(未執行)。
タイプロと松永を一緒にするのは乱暴だし別に一緒にしているわけでもないが、ともかく忖度ってのはけっこう恐ろしいのだ。候補生の中には未成年(現在の最年少は17歳)もいる。彼らが「過酷な修行」を忖度強要(造語)されているのは明らかであって、それがなぜ問題にならないのかといえば「ネトフリだから」「夢のためだから」そして、「そういうの見てるのやっぱ面白いから」かね。
いやほんとタイプロ面白いのですよ。結局みんな(ここでは僕)スポ根が好きなのよね。ちばあきお先生の『キャプテン』という中学野球の漫画でも、あまりに過酷な合宿に耐えかねて数十人いた部員がどんどん帰宅していき、最終日に残っていたのは11人(たしか)という有名な場面がある。そういうのがやっぱりいまだに面白いのだ。「思い込んだら試練の道を」という『巨人の星』の価値観はまだ我々の中に生きているのである、元気に。
そんなパワハラ番組を面白がって見ることが僕の内心にどう影響したか、というのはまた記事を改めて。
2025.1.11(土) タイプロ(2) パワハラは大事!
坂東は英二!
「運動は大事 坂東は英二」というのはジョイマンのネタだが、「だいじ」と「えいじ」はもちろんのこと、「うんどう」と「ばんどう」で3/4の韻を踏んでいるところが本当にすばらしい。
「パワハラは大事」と書いたが、ほんまか? 前回「タイプロはパワハラ番組(パワ番?)」と書きそして「結局みんなパワハラみたいなこと好きだよね」と匂わせて終わった(つもりである)。
人間はパワハラでないと動かないので、潜在的に誰もがパワハラを愛している。「死ぬ気でやれよ!」とか「売れてえんじゃねえの?」といった恫喝じみた強い態度を全身に浴びなければ「ハッ」となんか誰もしないのである。ゆえにこのていどのパワハラは便利どころか必須。社会を成り立たせるためには現状不可欠なのだ。
じっさいタイプロでは前回引用した菊池氏の檄のあと「ハッとしました」的なことをやはり候補生は言うのである。そしてさらに気を引き締めて過酷な修行へと邁進していく。
僕の本音は、「パワハラ級に強く言われないと動けないなら今すぐ辞めちまえ!」である。同じ言葉なのに「言い方」で受け取られ方が変わってしまうなら、「言葉はなんのためにあるんだ!」というのである。(この「というのである」というのは橋本治さんの手癖。命日は29日。)
「言葉に対する信頼」は今月何度か書いているテーマだ。言葉をしっかりと受け止めていれば「檄を飛ばす」をしようがしよまいが同じモノが伝わる、はずなのである。
しかし現実には、言葉はあんまり信頼されていない。というか、言葉を信頼しあえるような関係は結ばれにくい。「檄を飛ばす」ような言い方、ここではまとめて「パワハラ」と呼んでしまうが、そのような方法を使わなければならないような状況はいくらでもある。
たとえば正当なクレームを伝えるとき、「お受けできません」とか「責任者が不在ですので」とかテキトーなことを言って誤魔化そうとする人はいる。そこで「いいから上司に繋げつってんだよ! お前より偉いやつを誰でもいいから呼んでこいよ!」と強く言ってみると、ようやくそこで「少々お待ちください」となったりするのだ。ある友達がかつて役所かなんかと揉めていて、「本当はそんなことしたくないんだけど、大きな声を出して凄まないと話が進まないことは往々にしてある」と疲れ切ったように言っていた。
強く言わないと人は動かない。それは悲しいかな無視できない現実である。夢を追ってtimelesz projectの四次審査まで残ったような人たちでさえ、あのように強く言われてようやく「ハッ」とするわけなのだから。
言葉への厚い信頼を持っていたい僕は絶対に「強く言う」なんてことをしたくないが、せざるを得ない状況を見極めるということは必要なのだろう。中学校で教えていたとき、何をどう言っても響かなかった生徒が、一度だけ「強く」そして「真剣そうに」、それこそ「お前のためを思って言ってるんだ」的な雰囲気で、熱血教師のフリをして(憑依させて)注意したら、初めて「先生ごめん」と素直に謝った。そのことが僕は嬉しくてとても悲しい。言葉の外側しか感じ取ってもらえないのだ。殴ってわからせるのと何が違うのだろう? NOSUKE先生は「死ぬ気でやれ!」と言うが、菊池風磨くんは「死」という言葉を使わずに檄を飛ばす、そのていどの違いしかないのではないか。
ひとまず僕は「せざるを得ない状況を見極める」ということをがんばってみる。するかどうかはわからないが、「する」という可能性から目を背けないようにしたい。そのくらい世の中では「言葉の外側にあるもの」の利用は必須なのだ。ようやくそう明らめた。
2025.1.12(日) タイプロ(番外編) 北風と太陽
タイプロではなくSexy Zone卒業生マリウス成龍葉さんの話である。金継ぎ哲学者稲木ジョージ(いなきじょーじ、島木譲二のなかま?)。と対談する動画をさっき見た。マリウス(敬意を込めてよびすてで呼んでみた)は北風と太陽のお話を知らなかったようで「おもしろいね!」と無邪気に応答していた。インテリ24歳が素直に面白がるのだからやはり北風と太陽は寓話としてすごい。
リーダーシップのとりかたとして「北風」はまさにパワハラのことである。厳しくビシバシ鍛え上げること。タイプロ(timelesz project)の面白さ(ウケる理由)はそこにあるというのが僕の主張だった。サバ番(サバイバル形式のオーディション番組)って僕はASAYANくらいしか見たことがないのだが、どうやら中年男性にもけっこう人気らしく、なるほどそろそろ中間管理職になって「リーダーシップ」とか「部下との付き合い方」に悩む時期には響きそうなのだ。僕もそういう時期なのである。
ところで、「北風と太陽」と「アメとムチ」は似ているようで違う。前者は「北風よりも太陽のほうが正しい」という話で、後者は「アメとムチをうまく使い分けよう」である。タイプロはもちろん「アメとムチ」だし、「馬の目の前にニンジンぶら下げて走らせる」でもある。
件の動画で「北風と太陽」はリーダーシップ論の比喩として語られた。太陽のしたような、相手が自分から行動を起こすような環境をつくるのがリーダーの務めだ、的な。うん。たしかに理想としてはそーだ。
ザード 魔物が滅んだ世界が本当の平和ではない 魔物と…すべての生きものと共に生きるコト…
シオン うん たしかに理屈ではそーだ でもムダだよザード 相反する者同士共存するなんてムリだ 夢にすぎないヨ 僕 ザード尊敬してるケド 夢と現実を一緒にしがちなトコロ嫌いだナ(ぶーー)
(夜麻みゆき『レヴァリアース』第26話)
何千回でもこすり続ける『レヴァリアース』そろそろみんな読んだカナ? いや読まなくていいんです、僕だけのためのモノなので……。
僕だけのためのモノを僕だけのためのモノとして永遠に食み続け、「これが僕だけのためのモノです」と見せびらかしているのが結局この日記であり僕の人生なのかもしれませんね……。
理屈では、あるいは理想としては太陽であることが正解なのだが、どうしても北風であらねばならず、さらに北風を円滑に運用するためには「アメとムチ」という工夫が必要になる。それが人間らしさでもあり基礎的な社会の力学でもある。
ザードは常に理想を語るが、周りにいる人たちはシオンにせよカイ(『刻の大地』に出てくる青年)にせよそれには懐疑的であり、「そんなことが可能なのだろうか?」と考えながら旅をしている。絶対に不可能に思われるが、それでも「あの」ザードが言うのだから、と。
このマンガは僕だけのためのモノであり続けているから、結局はいつもここに戻ってくる。「北風と太陽」というある種の綺麗事と、「実際人間ってパワハラみたいなことでしか動かないよね」という現実的な絶望。ザード(や十六夜)は「太陽」主義者であって、一方でたとえばカイは「太陽の大切さはわかるが、実際には北風を行使しなければならない」という現実を背負って、時に魔物を斬り捨てる。「大人」として。
人生の中で僕はザードになったりカイになったりしてきた。十六夜の純粋な無邪気さに心打たれ、それを信じて、原動力としながら。
思いつくから書いてしまうけれども、勇者ザードは「魔物との共生」をスローガンとしながら、魔物の親玉である邪神竜ディアボロスを(7歳にして!)殺した人物として名が高い。彼は本当にディアボロスを殺したのか?というのも物語を通じてのミステリーなのだ。魔物との調和と共生をうたいながら、その親玉は殺したとされる。その矛盾をどう考えるのか、事実はどうであったのか。
僕はずっと「ザードは殺してないだろ、イールズオーヴァがやったんじゃないの?」みたいに思っていたのだが、歳を取ってくると「殺してるかもなあ」と思ったりする。人間にはそういう多面性があるし、どうしても「せざるをえない」というタイミングや、当事者にしかわからない事情もある。太陽主義者が北風を吹かせることだってないとは言えない、それが人間であり、人生というものなのだ。
僕だけのためのモノたちは、いつでも僕のために正当化の材料として利用される。北風も太陽も一人の人間の中に両方あって、そのバランスも常に揺れ動いている。ここに悩み続けることが人間らしいということなのではあるまいか。
折しも中居正広さんの女性問題が取り沙汰されておりますが、「そんなやつだったんだ!」というのではなく「そういうことだってあるだろうよ」と僕は思う。好感度の高かったはずの人間が実は……というのは問題にならない。そういうもんだ。ザードが実はディアボロスを殺していた! 矛盾!みたいなのも、本当にどうでもいい。そういうことだってあるだろうよ。
白黒つけるというのではなく、白も黒も同時にあるじゃん、そういうもんじゃん。パワハラが世の中から放逐されそうなタイミングで、タイプロみたいなパワハラ番組がそれなりに人気出て、「パワハラだ!」という文句は聞かれない。僕くらいしか言ってないんじゃないか。なんでそういうふうにこっそりパワハラを楽しむ必要があるかといえば、実はそういうものはどこかで必要だからで、せめて娯楽の中にそっと隠しておいたほうがいいのである。映画の中で殺人がたくさん起こるようなものだ。
自分はいろんなところで矛盾した人間で、一貫性が本当にないので、毎日のようにそういうことを考える。
2025.1.13(月) 成雀式
今日は成人の日。最近ちょっとわかりにくくなりましたね、新成人は18歳ということになっているが、いわゆる成人式(はたちの集い)に出るのは20歳。僕はこれを「新新成人」と「新旧成人」というふうに呼び分けている。
僕は今年度40歳になりましたので、かつてで言う「二倍成人式」の代。しかし倍とか二倍とか言うと36歳なのか40歳なのかわからないし、すでに人口に膾炙した言葉を使うのは楽しくない。よって40歳を「成雀(せいじゃく)」と定め、それを祝う式をお店で執り行った。成雀式である。でっち上げにしっかり乗ってお祝いくださった皆様、ありがとうございました。静寂式にならずにすんだ。新新成人や新旧成人も来てくれてとても嬉しかった。
かつて「
シジュウカラ」と題したキジを書いたが、シジュウカラはキジではない。四十雀と書くスズメのなかま。成人はニジュウカラ、成雀はシジュウカラというダジャレである。種を明かせば。セイジャッキーともかかっている。人はジャッキーとして生まれるのではない。ジャッキーになるのだ。(『第二のJ』)
セイジャクはセイジュクの一歩手前で、まだ及ばない。そんなニュアンスもある。
ちなみに五十雀(ゴジュウカラ)という鳥もいるので50歳の時には「熟雀式」をやろうかな。ジュクジャクシキ。そういえば僕の落語家としての高座名は「天邪鬼儒雀(あまのじゃくじゅじゃく)」でありまして、やはりJ音が3つも入っていて、雀の字もある。ジャッキーは、雀だったのだ! チュンチュン、チュチュチュチュン!
この「チュンチュン、チュチュチュチュン」は小山ゆう先生のデビュー連載『おれは直角』アニメ版の主題歌『学問のスズメ』より。夜学バーの主題歌みたいなもんですね、これは。ススメられてスズメになっちゃった~←歌ってる
単純にスズメってかわいくて好きだチュン。チュンチュン。
チュンチュンワールド スズメの世界で
チュンチュンワールド
これからやっていくわけなんだけど
チュンチュンワールド スズメの世界も
本当は 楽じゃないぜ
2025.1.14(火) 鍼にいったよ
やはり東洋医学……東洋医学はすべてを解決する……。
かかりつけ医も漢方大好きの人だし今回の鍼もよかった。最近ブルーバックスでそっち系の本を数冊読んだのもあって勢いづいている。
その鍼灸院はなんというか「孤高系」なのだ。漢方大好きの内科医も孤高系。頼ってる歯科医も孤高系。
孤高系とは、説明が難しいのだが「ブログとかで治療方針や独自性ある医療論(?)を展開しがち」という傾向がまずある。宣伝や広報に金をかけず、イメージ戦略よりも自らの言葉や態度で価値観を表明することを好む。知る人ぞ知るで、自分のやり方を理解してくれる人を待つタイプ。患者を多く持ちすぎるとスタッフも増やさねばならず、多忙にもなり自分の理想からブレていく。それを嫌って比較的小規模にやっていることが多い。
そして言うまでもなく、とてつもなく能力がある。恐ろしいほど勉強している。まちがいなく名医である。独自路線を敷いて小規模にやっても外来が絶えず経営が成立しているというのはそういうことだ。手前味噌だが夜学バーも同じである。孤高系。あんな店でも続いているのは僕が名テンダーだからにほかならない。「イメージ戦略よりも自らの言葉や態度で価値観を表明することを好む」なんてことやってると売れないんだけど、持続するていどのファンはつくのです。
そういう意味で孤高系医療機関には「気が合う」「親近感がわく」というのもあるし、「勉強になる」というのもある。わけても鍼灸院は「民間の個人事業主」という雰囲気が強く、広報の仕方や人の育て方、ビジネスの広げ方など経営の工夫はわりあい飲食に似ている。
普通の鍼は刺したら刺しっぱなしが主流らしいが、そこは刺したあとグリュグリュと動かしまくる。これがよかった気がする。しばらく苦しめられてきた肩と首の痛みがだいたい取れた。「一回で治ったらそれが何より」とのことで、回数券を売りつけるビジネススタイルには疑義を呈していた。わかる~。さすが孤高系。
回数券ね。整体とか鍼灸ではそういう売り方がとても流行っているらしい。こないだ整体やってる教え子のモニターに行ってきたんだけどそこも回数券があって、「今日買えばこんなに安くなります、今日だけですよ!」というモデルだった。たしかにそんなに安くなるなら10回とか20回という券を買ってしまいたい、でもそれは「一生通い続ける必要があります」と言われているのに等しい。「メンテナンス」という便利な言葉で正当化され、「どうせ定期的に通うんなら回数券買っとくかあ」という気分にもなる。よくできている。
それがフツーとなりつつある業界にあって「一回で良くなって、もう二度と来ないでよいことが理想」と言い切れるのはすごい。むしろ「また来たいな」という気にさせられる。一昨日書いた「北風と太陽」みたいなことかもしれない。「半年に一度くらいにでも、もし気になることがあったら来てください」とは言われた。
夜学バーも、「毎日通ってくるような常連を量産する」という常識的な方針ではなく、「年に一度でもいいからたまに来てください、それがあなたのチューニングになるなら」というようなことを言っている。酒場なんてのは必要な時に行くものだ。そして僕は夜学バーのようなお店にたまに行くことを「誰にとっても必要」なことだと思っていて、その頻度は人によるというだけ。年に一度くらいは来てほしいけどね。できればやっぱ半年に一度とか。
「あとはいっぱい動かして今の状態を身体に慣れさせてください」とも言われたんだけど、しかしあんまり腕を上げる運動とかってしないな。フレア(バーテンディング)でもやろうかしら。あとバッティングセンターとか? 憧れるんだよね。野球やったことないから。
孤高系って古虎渓みたいだね。
2025.1.15(水) 自転車を直したよ
孤高系(昨日の記事参照)自転車屋にロバ(ロードバイク)を持ってった。旅行中に前輪がバーストしたのを何ヶ月もほっといていたのだが、墨田区プレミアムつき商品券の期限ぎりぎりに滑り込んだ。
70代くらいの夫婦が経営。孤高系は「独自路線」かつ「能力がめちゃくちゃ高い」の二点が最低要件であるが、まさに当てはまる。と言ってもまだママチャリ1回、ロード1回しか利用してないので独自性については言えることが少ないが、ともかく異様な雰囲気を持った店であるのは間違いない。特に移転前は怖すぎて避けていたくらいだ。
今回は「前輪のタイヤ、スポーク、チューブ交換」「後輪チューブ交換」「完全整備」を申し込んだ。9060円。安い! これがプレミアムつき商品券で約16.7%割引となるので7550円くらいか。サイクルベースあさひでは前輪外してスポーク交換するだけで工賃5610円(部品代は別)、後輪だと8910円(公式サイトより)。
完全整備は本当に完全整備で、めちゃくちゃ乗りやすくなった。「状態は良好、クランクのあたりが少しだけ弱ってきてるけどまだ問題のあるレベルではない、半年保証がきくので何かあったら持ってきてください、直します」とのこと。素晴らしいのう。ブレーキ、ギア、チェーンあたりはやっぱりプロに任せるのが一番だ。
いまはロバのほか、輸送力特化のステップクルーズ、そして小径車のキャリーミーを使っている。キャリーミーは8月の「やがっしゅく」で金属部分が折れてしまい眠っている。これを直すのが直近の目標である。
直すと言って金属が折れているのだから素人がテキトーに補修するわけにもいかない。走行中に再びボキッといって死ぬことさえありうる。しかし実は、ほぼ同じ型のキャリーミーをもう一台持っているのだ。壊れたので新しいのを買ったわけだが、部品取りのため捨てずにとっといたのである。つまり……。ブラックジャックできるというわけだ。
古いほう(白)のフレームを丸裸にして、新しいほう(ピンク)からパーツを剥がして取り付ければいい。そしてピンクのほうが新たな部品取り素材になる。
組み上がったら例の自転車屋に「完全整備」してもらいに行けばいいのではなかろうか。素人整備では不安というか、限界があるので。彼らも高齢だから今のうちに利用できるだけしておきたい。
孤高系のお店やクリニック等は使い倒すにしくはない。客数が多いわけではない場合も多いから、僕が利用する、その一票はけっこう大きい。経営的にもそうだが「やりがい」的にも大切なことだ。店をやっている人間としての感覚だが、小規模経営では儲かることよりも求められることのほうが嬉しいものだと思う。
前にどこかに書いたが、僕が古い小さな喫茶店にムリしてでも通っているのは、「(比較的)若い男性が物見遊山でなく日常的に実用的に使ってくれている」ということが「やりがい」「生きがい」に繋がっていくと信じるからである。そのことが多少なりとも店の存続にも影響するだろうし、サービスの質や「その店の良さ」が維持されることにも関わる。自分の持っている一票は意外と大きい。そのことはすべてのここの読者、そして夜学バーの顧客(潜在的な者も含む)に伝えたい。みなさまの一票は僕にとってあまりに大きい。清き一票を何卒。
2025.1.16(木) 子供はわかってくれない
『子どもは判ってくれない』という本があって、読んでいないのだが橋本治さんが解説を書いていたので文庫を買ってある。今その解説を読み返しているのだが、名文である。本文を読もうという気にもなる。読んでないけど。
ある十代の友達が僕のハッとするようなことをTxitterに書いていて、それは乱暴にまとめると「大人が若者にわかってもらおうと(わからせようと)するな」というような内容で、かつて流行した「大人はわかってくれない」という言葉(元はたぶん仏映画の題)になぞらえてこれは「子供はわかってくれない」だナア、とぼんやり思っていたら、はてそのような書名があったよなと浮かび、書棚に行ってみたらちゃんと並んでいた。スゲー! 読んでもないのに。これが「本を買う」ということの効用ですよね。自宅の図書館化。便利(開き直り)。
かつて「大人はわかってくれない」と嘆いていた青少年は、歳を取って大人となったら「大人がわかってくれなかった」というトラウマの裏返しとして「若者をわかってあげよう」という一大キャンペーンを始める。いまの若者は「物わかりのいい大人」に囲まれた世代である。締め付けられることがないから反抗の経験がなく、仕方もわからない。「俺は真空総理で、考え方がないんだから対立することはないんだよ。無なんだ。空なんだ」と述べた小渕恵三を思い出す。
反抗というのは抑圧があって初めて成立するのだ。反抗が共感を呼ぶ時代ではない。尾崎豊でも『卒業』や『15の夜』はあまり聴かれず『I LOVE YOU』だけが残った。あとはせいぜい『僕が僕であるために』とか『FORGET ME NOT』あたりがちょっと知られているくらいかと思う。
大人たちは「若者をわかってあげよう」という生温かい視点を持つのと同時に、「それはそうとわたしたちはかつて大人にわかってもらえなかったんで、ちょっくら若い方々のほうでわたしらをわかってくださいませんか?」という緩い期待を抱く。それで「対等」という標語を掲げて若者に近づいてゆく。「もう年齢なんかあんまり関係ない時代で、老いも若きも対等なんだから、お互いにわかりあっていこうよ」という提案を大人のほうがしてくるわけだ。大人というのはそのように勝手な生き物なのである。
しかし若者というのは自由を好む。大人から見れば勝手な生き物だ。「なんでわたしらがあんたらをわかってあげなきゃいけないわけ? こっちはあんたらにわかってくれって頼んだ覚えはないよ。むしろ気持ち悪いよ、こんな幼くて未熟な人間にわかるよ、わかるよ、だからこっちのこともわかってよ、ってすり寄ってくるのは。キモすぎる!」
よーするにこれは、「誰のおかげでメシが食えると思ってるんだ!」「べつに生んでくれって頼んだ覚えはないよ!」といった、昭和時代の親子げんかと構図としてあまり変わらない。
反抗が便利なのは、受動的に自分の行動や判断を決められることだ。抑圧があればその反対を行けばいいのだから何も考えなくてよくて楽である。ところが抑圧がないと、「なんでも自分で考えなさい」という形で放り投げられて、何をしていいのかまったくわからなくなる。自由とは手に入った瞬間に「これどうしたらいいの?」と困ってしまうようなものなのだ。
ゆえに堕落した人間はつねに「反抗」できるようなものを探す。インターネットであらゆるものに文句や批難を飛ばしている大人たちはこの段階にずっといるわけだ。「アベが悪い!」「岸田は辞めろ!」「石破をおろせ!」という声はすべて、能動的ではなく実は受動的に、向こうからやってくるものをただ否定しているにすぎない。
反抗は、「自分」なるものができあがるまでの基礎練習のようなものにすぎない。自分で考えることがまだできないから、他人の考えを否定することによって自分の考えというものを浮き彫りにしていく作業。それをできるだけ早いうちに概ね終わらせておかないと、永遠の反抗期として「アベが悪い!」を続けることになる。それがどれほどヤバいことかは言うまでもない。
さて僕を知る人間、すなわちここの読者であればおわかりだろうが、以上のことはかなり自分に関わる話である。なんたって僕は、ごく小さな頃から今にいたるまで、相手が大人だろうが子供だろうがずっと「わかってくれ、わかってくれ、わかってくれ、わかってくれ」とだけを呪うように祈り続けてきた人間なのだ。「わかってもらおうとするな」と言われたらかなりギクっとしてしまう。この日記だって「わかってほしい」というワガママを主たる原動力として25年続いているのだ。
さすがに「反抗」ということが必要なターンはほぼ終わったと思っているが、現象としては「対等」なる概念を掲げて若者どもと仲良くしているおじさんでございますから、その立場で「わかってくれよ!」と言い続けるのはだいぶヤバいってことにはなる。困るなあ。
だってわかってほしいからね。それだけは変わらないね。
ただ僕の言う「わかってほしい」ってのは「自分の都合の良いように動け」とか「私の内面を忖度して癒せ」といった類いのワガママではない。「言葉が伝わってほしい」という一点に尽きる。こっちとしては一応そのように思っている。特に最近。自分は9歳だと設定しているのも、「大人としての権威や権力勾配のようなものを排した状態で自分と関わってほしい」という願いでもある。もちろん現実として40歳なんだからムリは承知である。ただこの言葉がその通りに伝わってくれることを祈るのは僕の自由だということにさせてほしい。
ここでは若者の話をしているが、僕は実のところ年上の友達もものすごく多く、しかもかなり対等に付き合えている気がする。少なくとも「権威や権力勾配」というものは意識的に撤廃しようと努めている。相手が年上だから偉いということは一切考えない。僕が遠慮するときは単に距離感の問題で年齢は関係ない。お店でよく論戦のようなことをする年上の友人が数名いるが、彼らのことはそれができている時点でものすごく親しい(距離の近い)友達のように僕のほうは思っている。そしてあちらも当然「年下のくせになんだ!」とは決して言わず、ただこっちの発した言葉を冷静に受け止め、適確に言葉を返してくれる。言葉のおかげでわれわれは対等でいられる。言葉への信頼というのはこういうことでもある。それを持っている者同士だから、その外部の情報は不要なのである。
もうちょっとだけわかりやすくがんばる。「論戦」のようなことをしている時こそ相手への敬意というのが浮き彫りになるし大切にもなる。「ああ、この人は自分に敬意を払ってくれている、怒っているのでも不快なのでもなく、ただ議論の果てに自他の考えがアップデートされることをのみ楽しんでいるのだな」と互いに思い合えたら、かりに周囲がハラハラするような応酬があろうとも「おれとここまでやったやつは初めてだぜ」的な関係の深まり方をする。なんて考えるのは文系で漫画脳な僕のほうだけで相手はそんなこと考えていないのかも知れないけど、僕だけでもそのように考えていなければあのような関係は成立しないだろう。年下が全力で「いやそれは」と理屈を返してきたらフツーの大人は怒って帰るかニコニコしながら二度と来ないもの、らしいのである。あるいは年下である僕のほうだって表面上はニコニコしつつ「あの老いぼれウゼーんだよな、反論とかしてきて」「老害は黙ってろよな」と陰で吐き捨てることもできる。そうしないのは知性および言葉への信頼を共有できる人間をただそれだけで「友人」と思ってしまうくらい、僕が愛しているからなのだ。そう美しく考えている。
またこれもごく最近考えていることで、「わかる」ということが大切であるのと同時に当然、「わからない」という保留も非常に重要である。「わからない」は容易に「わかりたい!」「わからせろ!」に飛ぶ。「わかる」ということが大切だから必定そうなる。しかしそうは言っても何だってかんだってわかろうとしてすぐにわかるということはない。急いては事をし損じて、ストレスやトラブルになるばかりだ。「わからない」という状態でいったん置いといたほうがいいこともある。買ったけど書棚で眠っている本たちと同じだ。心の棚に仕舞っておく「わからない」がいくらあったって構わない。いつか引っ張り出される日を待っている。うー、まだかな。
2025.1.17(金) 敵は遠くにありて弱き者
金曜に休肝。一滴も酒を飲まぬまま帰宅できたので寝る前に書く。日報は1分で書いた。実働30分くらいだったがかなり心残りがある、あんまりうまくいかなかった。
知っているお店の前をあれこれ通りがかりながら帰ったが、どこも賑わっていそうだった。お客がいなければとうに閉まっているはずのお店でもしっかり看板や提灯に灯りが灯っていた。灯灯灯。やっぱりウチのお店は世間とは違う時間が流れている。そこがいいところだとは思うけどあすあさってはもうちょっと上向けばいいなあ。
昼間は自転車の修理に費やした。新しいの(ピンク)が壊れたので古いほう(白)にパーツを組み替えよう、と前に書いたがいざ作業してみると逆のほうがずっといいことがわかった。フレームがボキッと折れたのだから本体は全部オシャカと思っていたがよく見たら折れたパーツだけ分離して取り替えることができそうだったのだ。時間はかかったがほぼ問題ない形に組み上がった。近々試走してみよう。また旅行に連れて行けそうだ。
さっきも書いたがお客がほとんど来ず8時間以上暇があったのでお店の掃除や整理をし、確定申告を進め、疲れてきたところで読書。『こそあどの森のひみつの時間』『疲労とは何か』やっと読み切る。どちらも名品。あとゴー宣もちまちま読み返していて文庫6巻を終えたが、正直言ってバカ売れしてからはもうあまり面白くない。批判に答える「お手紙系」の回が増えてきて、これはリアルタイムじゃないと資料的価値にとどまってしまう。このへんからは飛ばし読みモードがいいかもしれない。
読み飛ばしといえば昨日言及した『子どもは判ってくれない』を読んでみたのだが、結局おふろの中で40分くらいで全部読んだ。「まえがき」だけを読むと面白そうなのだが本編はほぼWebに散発的に発表されたエッセイで統一された趣意のようなものを捉えながら読むのはかなり厳しい。橋本治さんはよくぞあんなにすぐれた解説を書けたものだ。
私は内田さんとは違って、「戦う」が好きな人間である。なんで好きかというと、私が「折り合う」ばかりをやっていて、それがほとんど自然な体質と化していて、「戦う」のシチュエイションになっても自然「折り合う」になってしまうからである。私が「戦う」を好きなのは、自分に起こりえない遠い世界にある「憧れるしかないこと」だからだろう。そして、「折り合う」の受容性を説いて、「折り合う」ばかりを繰り返していると書く内田さんの言い方に微妙な揶揄の名残りが感じられるのは、内田さんのいる世界が「戦う」を当然とする世界だからだろう。そう思うと私には、この本の「成り立ち」が分かるような気がする。
(橋本治さんによる解説より)
これには100%同意する。自分が橋本さんに勝手に重ねるのはこういうところだなあ。折り合うことしかできないから、「戦う」ということには憧れしかない。戦ったことなんて本当に全然ない。僕は。本当に。逃げることなら無数にしている。
橋本さんは「民間人」であり「戦場ってどこにあるの?」と思うような人で、内田樹という人は「大学的世界の人」で「戦場」にいる人だ。内田さんには当たり前に「敵」がいて、橋本さんや僕はできる限り「敵」から遠くに生きていようと努めている。
さすが橋本さんというのは、敵は遠ければ弱く、近ければ強いと措定したあとで、遠くにいる弱い敵と共存するということは異質なものをそのまま認めることだと書いている。ちなみに「弱い敵と共存する」とは内田さんが引用したオルテガの言葉。
なるほどな、僕もできるだけ敵を遠ざけたうえで、それの存在を認めるということをかなり意識的にやっている。たとえば「国(行政)」がそうだ。できるだけ関係を持たないようにしつつ、別段それをいやがらないで生きている。「アベが悪い!」と叫びながらデモや投票に行く人は、たぶん常に戦場にいたい人なのである。良し悪しは知らないが、僕はそれには向いていない。
2025.1.18(土) 夢をつづける
登学前に執筆RTA。夢の話でも書くか。
このような夢を見た。やけにリアルな夢だった。
「お店をやっていると意外と遊びに誘ってもらえない」と話していたら、「じゃあ行きましょう」と言ってくれた人がいた。小5の時に僕のお店に初めて来て、つかず離れず時が経ちちょうど成人となっていた、いいタイミング。まず彼女の行きつけの小さなバー(紹介したのは元を正せば僕だったはず?)で待ち合わせると、なんとその当日(1月15日)はママ(YKKさん)の満還暦当日であった。成人、成雀、還暦が揃ったことになる。奇跡や運命に愛されている。
「毎年生誕とかやらないし一切営業もかけないんだけど、今年だけはちょっとおねだりしたの。ウチは狭いから花束は受け付けてないんだけど、薔薇の花を一輪だけ持ってきてって。わたしが赤い服着るかわりにね。あまのじゃくだから自分はこうして青い服着てきちゃってんだけど。」
カウンターのワインクーラーにはふぞろいの薔薇が何本も活けられていた。
「今日は飲み歩くの?」とYKKさんが言うので、特にその気はなかった(昨夜飲み過ぎたせいもあってこのお店だけで帰るつもりだった)んだけど、「飲み歩く」という言葉がなんだか僕らにはヒットして「飲み歩きますか」という感覚に。
一回り街を散歩して、僕も彼女も行ったことのない老舗バーに入った。古くて格のあるお店なんだけど居酒屋みたいな雰囲気のお客さんばっかりだった。よく話を聞いてみるといちばんうるさかったのは東大の先生たちっぽかった。このへんで飲んでるならウチに来てくれたらいいのに、と思いつつ、いやでもこんなにうるさくされても困る。
僕はギムレットと雪国を飲んだ。この二つはとくに研究しているので頼むことが多い。架空の2年後を弄びながら色々の話をする。
それから最初のお店でチラッと話が出た友達のガールズバーに向かった。老舗のオーセンティックバーからのガルバ、という落差を楽しんでもらおうと思ったのだが、むしろ逆だった。ガルバのほうがずっと静かに、ゆっくり飲めた。客層は大事。板東は英二。
最後にわが夜学バーで締めた。じつはこの人は4月から遠いところに行ってしまうのである。その前にサシ飲みができてよかった、のだが、一晩話していると色々なお店の話が出て、こっちが「連れてってくださいよ!」と思うような場所がたくさんあちらの口から飛び出してくる。来月また遊ぶことになった。夢の続きがうまく見られることを祈る。
2025.1.19(日) 拡大しかない
1月19日は天才女性が生まれがち。調べてみてください。僕の友人夫婦の長女もたしかこの日。入籍がドラえもんの誕生日で式が103の日だったはず(個人情報)。よくこれだけ覚えているなというのは、本当に20歳くらいの頃によくお世話になった方々だからであります。
お世話されてばかりだった20代30代をすぎ分別もついて歳をとり、ついに他人をお世話する側に回り始めております。と言いつつ、教員だったこともあってそれなりにはお世話してきたような気もする。「いやージャッキーさんにはお世話になってばかりで」と今夜も言われたのだが、こちらとしてはけっこう本気で「こちらこそ」と思っているのだ。なんていいやつなんだ我。
「拡大しかないねん」と吉本さんは言った。僕に長年(それこそ20年)仕事をくださっている某社の社長で、かつてはバーを経営しており先の夫婦とはそのお店で出会った。その頃は彼も一人のフリーライターであったが2009年、30代の終わりに起業した。そして順調に拡大していっている。
彼は会うたびごとに「こういうことがやりたいねんな」と話す。それらのうち95%までは「言うだけ」に終わるのだが5%くらいは実現させている。最初はエアコンもないボロアパート(懐かしの第一静風荘!)の一室だったのが二室、三室と領域を広げていき、それからさらに二度の引っ越しを経て今では四谷四丁目のビルを4フロアも借りている。うち1フロアはイベントスペース、1フロアはDJバーである。最近はさらに別のところでギャラリー事業も始めているようだ。「ツテがあるのでガールズバーもやりたい」なんてこともずっと言ってたりする。
彼のすごいのはリスクを取れるところ、冒険ができるところ、そのために投資を惜しまないところだ。僕は苦手である。気がつけば彼が起業した年齢を過ぎてしまった。とはいえ完全に自分の名義のみで夜学バーを運営し始めたのが一昨年だったことを思えば、ほぼ同じくらいのタイミングとも言える。まあそういった時期なのだ。ここらで僕も、もうちょっとリスクってもんを意識してとってみるか。
「いろいろ考えてんけどな」というような前置きをして「結局、拡大しかないねん」と彼は言ったのである。この「いろいろ」には実に巨大な含みがある。彼の人生の紆余曲折を一通り聞いている身からするとかなり重たい一言なのだ。当時(4~5年くらい前?)は「拡大」ということにほとんどピンときていなかった僕も、「この人が言うからには本当にそうなのだろう」と思うことはできた。一般からすればものすごく波瀾万丈に富み、ありとある経験と思考を通り過ぎてきた(しかも僕なんかと気が合う)人間からしても「拡大しかない」という結論に達するのだから、それはこの世の真理のようなものだろう。僕からしても。なんせ我々はたぶんそれなりに「気が合う」のだから。
拡大といってもそれは「資本の拡大」とか「お金を増やす」とか「物理的に大きくなっていく」ということばかりを意味するのではないだろう。もっと抽象的なことも含む。それでいえば僕も基本的には「友達を増やす」ということをしたいわけで、これも一種の拡大だ。「知っていることを増やす」も「できることを増やす」も拡大なのだ。生きていくからには、どこかで何かが拡大していかなければならない。そんな上昇志向はつまんなさそうでもあるが、でも確かにそうだともちゃんと思える。だってそれは「楽しい」ことなんだから。ただ「何を拡大させていくか」ということの好みが人によって違うというだけのこと。
卑小なことでいえば数年ぶりにけん玉を練習している。一日一回くらいだがばかにならない。「日本一周」の成功率が今のところ1/10くらいなのだが、これを1/2くらいには引き上げたい。もちろん昔は1/100とかだった。こうやって何かが上達していくのも「拡大」の一種と言ってもいい。結局それしかないのだ。ギターも(まちくた氏のおかげで)弾き始めてしばらく経つが、片手間でやっててちっとも上手くはならないものの鼻歌にインチキなコードを載せて歌を作る、みたいなことはサラッと(やや堂々と)できるようになった。こないだ成雀式で「夜学バーの店歌」というものを作ってインスタに載せた。たぶん通算2時間くらいでできた。君が代より短い、がコンセプト。ストーリーズの「近影」からどうぞ。そのうちYouTubeにも載せます。恥ずかしげもなく。恥ずかしがらずにできるようになるのも拡大だ!(なんでもええやん)
けん玉といえばファンファン。2月15日の40歳記念ライブ(京都磔磔)に行くので今のうちに想い出話を記しておこう。2011年くらい、件の吉本さんから引き継いだバーになんの前触れもなく偶然に現れ、一緒に鍋をつついて、去り際になぜか安彦麻理絵の漫画をくれて、「京都でトランペット吹いてます、ファンファンっていう名前です」と言い残して帰っていった。へー、と思って「ファンファン トランペット」とかで検索してみたらちょうど「くるり加入」とか出てきてめっちゃビビった。あれから14年くらい経つのか。同い年の親近感もあってか、つかず離れず仲良くしている。と言って最後に会ったのは小沢健二さんが出たときのフジロックだから2017年か。時間って不思議だ。昨日みたいだ。来月には昨日が新しくなる。とても楽しみ。
初めて無銘喫茶に来てくれたときのことは確か当時ブログに書いてくれていた。まだ読めるのだろうか。探し出せた人教えてください。(がんばれウェイバックマシーン!)
拡大の話であった。つい友達のことを書いてしまう。好きすぎて好きで好きだから。いろいろ考えているのだ。抽象的な拡大だけでなく、もう少し具体的な拡大も。それについては書くとしたらまた記事を改めます。何も決まってはいないので。でも言うだけは言うか。5%くらいは実現すると思うから。
2025.1.20(月) 自分と心中する覚悟
なんてことを「成雀式」で口にした。翻訳すると「自分勝手に生きてやる」。もうちょっと柔らかくいえば「40歳とかになってこれから変わるってのは難しいから、今の自分を受け入れないとね」って意味なんだが、すでに疑問が浮かんできた。早い!
ちなみにこの記事は23日に書いていて、22日、21日、20日の順に書き進めてきた。そしてこのあと23日に取り掛かる。未来の僕にとって参考になるかもしれないから記す。
引っかかったのは「今の自分」という部分だ。「今の自分を受け入れる」よりも「半年前のポイントを復元」(Windowsのイメージね)したほうがいいのではないか?とも思うし、「今の自分をもうちょっとだけマシな状態にして、それを受け入れるべきでは?」とかいろいろ考える。もちろん「圧倒的な変化は望めないよね」というところでは間違いないのだが、「今のままでいい」という現状維持肯定のような決意表明にも見えるので、「そうじゃないよな?」と訝しんだわけ。
テイストをローディングするのだ、と呪文のようにつぶやいていた時期が何度かある。それはここに書く文章の文体についてだった。高校生の時の勢いはやっぱりすごい。まったくあれに戻ろうというのではないが、あの感覚もちょっとは持っていたほうがいい。世阿弥の初心忘るべからずというのはそういう意味なのだ。あれは「最初に思っていたことが大事」というよりも、「あらゆる時期の初心(初めて思ったこと)をすべて保存しておくべし」くらいの意味だと僕は捉えている。『花鏡』原文を読む限り。
やっぱり僕はすべてを愛するべきだと思うから、すべての時期の自分を愛したい。「今の自分」なんていう限定的なことではだめだ。「今までの自分」と改めたいし、それを踏まえて「これからの自分」もすべて受け入れていきたい。そのうえで、そのような自分と僕は「心中」してやろうと思う。あなたを愛する心も、ここを愛する心もすべて引き連れて。
2025.1.21(火) 共感は現状維持
共感というものにずっと懐疑的だ。なぜかわかった。共感は現状維持だからだ。現状維持の何が悪い?と思う人にとって共感は「それでいい」のである。
僕も共感することは無論ある。「そうだよね」「わかる」は素晴らしい。橋本治さんは『蓮と刀』で、仲良くなるってのは「“自分達は本質的に同じなんだ”ということを確認する」ことで可能になる、という意味のことを書いている。(そう読めるとここでは解釈しておきたい。)
しかし世間でいう共感にはそのように「そうだよね」「わかる」という会話形式ではなくて、「ああ、わかるナア」という独り言の共感が存在する。たとえば歌を聞いて、その歌詞に「わかるわかる」と思うようなとき。一方的に共感を「寄せる」というとき。
仲良しの一環として「わかるわかる」とお互いに言い合うようなとき、その「現状維持」は美しい。それが維持できなくなったときにどうするか、という問題があるにはあるが、仲良しならば「じゃあさあ、これはどう?」っていうふうに「わかる」の地点を探り合うことができる。このような「互いに仲良しであろうとする共感」は、「本質的には同じであるはずだ」ということを双方の意思によって維持しようとする過程にあって、それは他人が同じ世界で暮らしていくために必須の場面であろう。
一方で「意思疎通ができない相手」への一方的な共感は、果たして同じ「共感」と言ってよいのかというくらい違う。先ほどのありかたが「関係の現状維持」というような側面を持つのに対し、こちらは「自分の現状維持」ということになる。「今の自分はこれでいいのだ」と。
それが悪いとも言わないが、そのためには「共感を寄せる相手の現状」も維持されないと困る。わかりやすく言えば、「1stアルバムには共感できたが続く2ndアルバムには共感できない」という事態が訪れた場合。「わたしの現状はあんたによって担保されているわけなので、あんたに変化されるとわたしの現状が維持されなくなるんだが?」という話。まことに身勝手である。柔軟なファンは「それなら」とシンクロするように共に変化していって、「みんなついてきてくれてありがとう!」という関係がなんとなく結ばれるわけなのだが、そこで「おい待てよ、ついていけないよ」となると、「あいつは変わっちまった」とか「1stは名盤なんだけどね」という話になる。そういうのが僕はすごく嫌いなので、このタイプの「共感」というものには懐疑的という立場でずっといたのだろう。ようやくわかってきた。
勝手に誰かに共感して、それで自分の立ち位置を安定させようという人は、その「誰か」が揺るいだときにどうするのだろう? アイデンティティクライシス。そうならないように共感というものは「都度」「相互に」行われるべきである。僕が好きな作家やミュージシャンと会いたい、できることなら仲良くなりたいと願うのは、「共感」というものが可能な領域にいたいと根っから思うからなんだろう。またお店という物理的な場(空間)を手放さないのも、自分にとって健全な「共感」がそのたびごとに行えうるからなのだと思う。
2025.1.22(水) 静かな刻
時は静かに、静かに過ぎてゆく。
ずっと思っていたけれども言えなかった。僕には時を止める能力がある。他人の時を。また自分の時を。それは「その時」を愛しすぎるがゆえ。
思えば未来を愛したことが一度もなかった。過去の上にある今を抱きしめていた。「遠心的」なんてのもそこから出てきたわけだ。
刻む。楔を打つ。それがどうしても苦手だ。
時間とは地球のようなものだと思う。変化する球体。その上で草木が育ち、枯れる。繰り返す。
そう考え続けてしまって、それを止められないのが僕の狂ったところだ。
時間を一方通行のジェットコースターのように、ドラえもんが「時門」を使って可視化して見せたように、ゴウゴウと流れる風のように線のように考えることができたなら。
自分は思ったよりも異常で、他人は思ったよりも正常だったように思う。それであらゆるボタンは掛け違った。早くボタンなんてなくなればいいのに。しばらくはない。
ほがらかで、無邪気で、無鉄砲なだけであればよかった。
これからどっちへどのように歩いていくかはわからないのだが、一度立ち止まり、戻って、考え直したい。
本当の宗教がどこにあるのか。
そしてそれを信じるのかを。
2025.1.23(木) 弘法も筆の誤り
20分で書く。走り書きになるだろうが、もしかしたら二度三度同じ意志の文章をものすかもしれない。
整然と、当人にとっても「え、もしかして私のこと、だよね? これ? えー?」くらいになるような遠さで、詩のように書くつもりだったのだがすでにTxitterアカウントも長文記事も雲隠れしていたのでまあ適当にだらっと書く。なぜこれが「ので」で繋がるのかというと、少し急いだほうがいいと判断するからだ。
どうなろうが僕は君のことをたびたび思い、何かを書いたり人に話したりするだろう。死にそうなテンションの文章にわざわざ僕宛の念を込めてくださったからには、僕がそれを読むことを確信していたか祈っていたわけで、そういう人への愛を惜しむ理はない。
で、そうであるからには絶対に君はこの日記を読みに来るのだ。生きている限り。そういう確信が「互いに」あって、それをこそ信頼と僕は呼ぶ。だからこそ僕も君のことを友達だと思う。この「も」というのがちゃんとその文章を本気で読んだ証拠で、記事が消えていても覚えている証拠である。褒めてほしい。
仲良くした想い出が多いわけではないが、おそらく「互いに」相手のほんの些細な所作や言葉選びなんかを、自分の見聞きしてきたこと考えてきたことと突き合わせて心地よくなっていたのだろう。それは僕に言わせれば「もうすでに会ったことがある」のと同じであり、「もうずっと一緒に仲良くしてきた」のと同じなのだ。わかるだろうか。
初めて会う人は、必ずしも初めて会う人ではない。自分の人生の中にすでにその人がもう20年ぶんくらい生きている、なんてことはいくらでもある。そういう蓄えが膨大にある人同士が出会うと、容易に瞬間に「あっ」と思い合うことができてしまう。スピリチュアルな話ではなく、ただ理屈でそう思う。「こういうことだよな」と思っている人が「そういう人」に出会ったら「だよね!」ってなるに決まっている。その人はもういたのだ、自分の中に、あるいはこれまで出会った人たちの中に、すでに。お互いがそう思ったら別に時間なんていらないだろう。そういうところも含めて僕は「時間を愛している」と言う。決して数値だけで表せるようなチンケなもんではないのだ、時間は。その証明としてあなたは僕と仲良くなってくれた。非常に嬉しい。多く言葉など交わさなくとも、小さなことの積み重ね、その間合いの取り方、それで十分だ。
時間切れである。また会おう。
2025.1.24(金) 文字禍期の終わり
中島敦『文字禍』は文字による禍(わざわい)を訴えた老博士が文字の精霊に殺される話である。なんと美しい解釈的要約であろうか。アッシュール=バニパルのアッシリアを描いた昭和17年の作。
これを踏まえると少なくとも2600年以上この世界では「文字禍」が続いてきたことになる。文字に支配され、文字に操られ踊らされてきた。こんな文字だらけのホームページを25年も続けている僕はまさに呪われた代表格であろう。文字を信仰し文字と心中する。
しかし最近思うのだ。文字は急速に勢力を失ってきた。明らかに質が違う。文字の精霊も年を取るのであろう。確実に衰えている。
文字を書き、文字を読むことに対する信頼は地に落ちている。文字は大切にされなくなった。ある書類を友人に制作してもらったら、僕の名前と住所がどちらも間違っていた。こちらはメールで正しく文字を送り、身分証明書まで添付していたのだが。他の場面でも数値や言葉の間違い、文法がおかしくて読み取れなかったりといったことが頻発している。あるいはLINEやメッセージで打ち合わせのようなことをしていると、要領をえない言葉がまるで口語のように分散的に届くことが増えた。本当に誤解してほしくないのだが怒ってるとか責めたいとか詰めたいってわけではまったくない。危機感と恐怖感が込み上げてくるのだ。
「まるで口語のように」というのが一つのポイントだと思う。もう文字は文字であって文字でない。口語、しゃべり言葉がそのまま記述されるだけで、「文字」という独立した世界観は失われつつあるのではないか。
老いた文字の精霊たちはもう声を発すること能わず、人間の声に乗っ取られようとしている。論理も、文語(書き言葉)の論理ではなく口語の論理のみ生きている。文字の精霊の論理ではなく、下僕であったはずの人間の論理のみが。
文字の論理は冷徹で正確である。(それをあえて崩すのが詩である。)一方、口語の論理は曖昧で柔軟。間違えたら即座に言い直しや訂正ができるし、多少文法などが誤っていても表情や声色、アクセント、身振り手振りなど他の言語的要素によって聞き手が補完できる。書き言葉にそのような便利なオプションは付随しない。挿絵や図示がそれに相当するが例外的なものでしかない。ゆえに文字の論理は常に正確であることが求められる。
だがインターネットを介した(SNSの投稿やメッセージなどの)文字のやり取りは今、それらオプションを纏わぬままただ言葉だけが口語となっていて、正確であることはほとんど重視されない。書く側も、読む側もそうだ。
話している時は「今なんて言いました?」「それどういう意味?」と訊ねることができるし、時間が経つうちに「あ、さっきのはそういう意味だったんだ、誤解してた」とわかることもある。しかし「読む」という行為は一方通行であり一過性のもの。だからこそ「正確に読む」ということが必要となる。しかし今、誰も文章を正確に読もうなんて思っている人はいない。僕の文章だってあまり正確には読まれていないと思う。僕はどんな文章を書くときでも(よほどプライベートなやり取りを除けば)正確に「伝える」ということを意識しているのだが。
もちろん文章を読むときも「正確に読もう」と全力を尽くす。以前に書いたが「流し読み」「拾い読み」する時は別である。その代わり「いま自分は絶対に正確に読めてはいない」ということを強く意識する。それが文章に、文字に対する向き合い方として絶対に適確と信ずる。
ところが今、人は(主語がデカくてすみませんね~)「自分はこの文章を読んだのだから、正確に読めているはずである」と明確に誤解している。「読んだ=読めた」と無意識に捉えているとしか思えない。
お笑いコンビ「バッテリィズ」のネタで、寺家さんがちょっと難しいことを説明したあとにアホキャラのエースさんが「全部聞き取れたのに~!」と悔しがるくだりがある。最高に誠実だ。「聞き取れた=理解した」ではないのだ。ここでエースさんが偉いのは「聞き取れたことを中途半端に理解して次に進める」をしないところ。普通の人は「まあこういうことなんだろうな」とテキトーにだけ理解して流すし、それが口語のうまみ(便利さ)なのだが、エースさんはここでなぜか僕の言う「文語」をやっているのである。誠実に。わからないものはわからないで立ち止まる。それが文章を読む際の原則だ。小難しい本を読むと「全部読み取れたのに~」と思うこと、ありまさぁね。
余談だが僕が初めて見た彼らのネタは「エースさんが知ったかぶりをする」というものであり、上記とは違うパターン。めちゃくちゃおもしろかったのだがテレビでもYouTubeでもやっていない。去年9月に劇場で見たので古いからってわけでもない。たぶんこれをやってしまうとエースさんのキャラがブレるからってのと、次のM-1にとってあるってことなのかも。ただ個人的にはあのネタをファイナルでやってたら優勝もあったように思う。あそこでは傾向を変えたほうがよかった(評論家ヅラ)。
さて。本当に多くの人が(主語デカ~)「自分が理解した内容」を「相手が書いていること」とイコールで結ぶ。そんなに簡単に一致するわけがない。文章を読むとは、相手が正確に書こうと努めたものを、正確に読もうと努めて読むということだ。「自分が読み取っている内容は相手が書こうとしたことと一致しているだろうか?」と常に自問しなければならない。しかしそれをどれだけ互いに徹底しても完璧に伝えることなんてできない。だからこそ気を付けて書くし、気を付けて読む。そのような意識が、薄れているのではとおそれるのだ。
どうして正確に文字を書かないのか?と疑問に思うシーンが最近本当にたくさんある。どうしてもっと伝わりやすく、読みやすくなるように文章を書かないのだろうか?とか。プライベートな(口語的な)場面ならまだ良いが、かなり公的な「原稿」とか「書類」のようなものの中でも非常に多い。別に今に始まったことじゃなく僕がいまさら気づいたってことでもあるのかもしれないが、いずれにせよ僕はもっと「文字」というものについてよく考えて生きたほうが良いと思う。功利的には、そこで差がつくから。特に若い人だけど、いくつだろうとそこで信頼してもらえたほうが得だよね。
文字の精霊さんはもう年寄りだから頑張れないのよね。だからもう人間が頑張るしかないのよ。手抜いてる場合じゃないの。いよいよちゃんと本を読んで、ちゃんと誠実に文字を紡げる人だけが美しく言葉を操れる時代が来ましたよ。もう精霊は助けてくれませんから。
『大不況には本を読む』って本を橋本治さんが書いてたけど、いよいよ本当にそういうことなんだなと思っています。
2025.1.25(土) 爆笑問題の勝利
爆笑問題が長年MCを務める日曜朝の情報番組『サンデー・ジャポン』の裏番組『ワイドナショー』が3月で終了するそうな。これをもちまして令和7年度からはいよいよ爆笑問題の「天下」となります。長かった。こんな日が来るとは思ってなかった。
先に書いておくけれども盛者必衰ですから凋落もあるでしょう。急に売れなくなったり何らかの理由でテレビから去ったり。それが今からもう怖い。天下なんか取るもんじゃないよと思いつつ、それでも嬉しさを抑えられない。ずっと好きだったウンナンと爆笑問題だけが勝ち残った。僕はそのように見ている。
『ワイドナショー』はご存じ松本人志さんが始めた番組。2023年3月で降板し、ご存じの通り今は芸能活動を休んでいる。彼にはかつて爆笑問題を土下座させたという有名な話(アディダス事件)があって、僕はあれをおおむね事実だと思っているのだが、それを踏まえるとめちゃくちゃ胸が熱くなる。ダウンタウンが嫌いなわけではなくむしろ好きなほうだと思うのだが、それ以上に爆笑問題のことがとてつもなく好きなのだ。1998年に『号外!爆笑大問題』を初めて見た日から。
もう遅いんで(実は日曜の夜だ)簡潔にとどめるが、爆笑問題とりわけ太田光さんという人は「本を読む」人間なのだ。僕が嬉しいのはただそれだけの理由による。本を読む人が本を読まない(であろう)人に勝利した、僕にはそういう構図に見えているのだ。
昨日の記事では僕にとって非常に大切な問題意識を吐き出した。こういうことがずっと言いたかったんだとわかった。あれを読んでもらえればこの喜びがどのような種類のものか想像してもらえると思う。太田光さんは「読む」人であり「書く」人であり、「伝えよう」として喋る人であり、「わかろう」として聞く人なのだ。
近著『芸人人語』シリーズをぜひ読んでいただきたい。いかに太田さんが「正確に理解して正確に伝えよう」としているかがよくわかる。サンジャポの弁舌も常にそうだ。しっかりと「書き言葉で喋る」ということをやっている。言葉について考え、言葉を信じ、決死の覚悟で言葉に頼る人。そここそが僕の最も共感するところであり、また最も影響を受けたところなのかもしれない。
そういう人がいつの間にかテレビタレントのほぼトップに立ってしまった。『号外』の頃からずっと変わらず、言葉で遊び、言葉と戯れ、言葉で笑わせ続けながら。「ほぼトップ」なんて言い過ぎだろうか? 年末年始の漫才番組もほとんどトリなんだし別に大げさでもないだろう。
爆笑問題の素晴らしいところはもちろん漫才を続けていることだが、一方で芸能を点数化して評価するような権威的な世界とは距離を置いている。タイタンというもともとは自分たちの個人事務所であった小さなプロダクション所属であるのもすごい。権威からできるだけ離れつつ、しかし権威の支配する世界の中枢で「ほぼトップ」になってしまった。これがどういうことかは本当によくわからない。ジャニーさんにも会ってたし桜を見る会にも行くし色々うまくやっているんだろう。おそらく相当奇跡的なバランスで存在している。
それをあえて僕は知性の勝利と言いたいのだ。言葉を愛し信頼するすべての者にとって希望だ。爆笑問題の存在が、「文字禍期の終わり」という昏い予感を払拭してくれる。
「本を読む」芸人やタレントなど今となってはいくらでもいる。しかし僕が爆笑問題を好きになった1998年の段階ではたぶんあんまりいなかった。少なくとも目立ってはいなかった。80年代以前は知らないが僕の記憶にある90年代に関しては本当にそのような知性というものはテレビの中で眠りこけていたと思う。当時を覚えている人はぜひご自身の感覚を教えてほしい。
しかもここでいう「本」とは現代小説やエッセイの類いに限らない。「高校時代一人で島崎藤村の墓参りに行った」ような人物だ。
大好きだった『号外!爆笑大問題』はリニューアルを繰り返し『爆笑問題のススメ』と名を変える。これが毎週作家と対談する凄まじい番組で、民放(札幌テレビ制作!)で3年半も続いた。信じられないことである。2006年3月の最終回では太田さんが4冊の本を紹介している。太宰治『晩年』、宮沢賢治『銀河鉄道の夜』、サリンジャー『フラニーとゾーイ』、ヴォネガット『タイタンの妖女』。王道とはいえこのラインナップを19年前の民放(しつこい)で並べるのはやっぱりすごいと思うのです。ちなみに小説だけでなくそれなりにいろんなジャンルの本を読んでいるらしいのもラジオや著書などから察せられるし、NHKの『ニッポンの教養』『探検バクモン』などでも多岐にわたる知性に触れている。そういう人たちがテレビで今の地位にいるということが僕にはあまりにも巨大な希望。爆笑問題がテレビに出てるだけで死ぬほど嬉しいのである。
爆笑問題の、あるいは太田光という人のどのようなところが素晴らしかったり、好きであるのかというのは語り出せばキリがない。簡潔にと言ったのにすでにこんなに長くなってしまった。もうやめるが、一言でいえば「優しい」ということで、しかもその優しさは確実に知性に由来する。そしてその知性とは、言葉によって育まれてきたのである。主に「孤独に本を読む」つう営為によって。
2025.1.26(日) 聖☆おじさんに俺はなる
まったりムードを打ち破る 疲れ知らずのバイタリティー
いるといないじゃ大違い ツボだけおさえたマエストロ
聖(セイント)☆おじさん
今夜のパーティー 盛り上がりイマイチ
誰を呼ぶ? 聖☆おじさん
午前3時 なんか飲み足りない
誰を呼ぶ? 聖☆おじさん
(電気グルーヴとスチャダラパー『聖☆おじさん』)
なんだかんだ胸に響く。「いるといないじゃ大違い」そんな人間になりたいものだ。
まあみなさん気軽に呼び出してください。
CALL ME CALL ME
2025.1.27(月) 疑わしきは罰せずの会
今日は小山田圭吾さんのお誕生日である。ある古い友達も同日生まれだが「おめでとう」伝えるのはやめている。もうここを読みには来ないだろうか。「良かったら見に来てね」「うん、もう日課になっちゃってるからな」そんなやり取りを僕は一生覚えているのだろうが。
迷い苦しみが暴走を生み信頼は揺らぎ人生が完璧に分かれてゆく。仕方がなかった。二度と交わらなくとも「手を振るくらいは」と思いたい。気が向いたら書き込みでもください。
小山田くん(最敬称)は2021年に国民のいじめっ子として祭り上げられ血祭りに上がった。生贄のようなもので、定期的に人々は誰かをいじめたいのである。今はそれが松本人志、中居正広、フジテレビといったものへ向いている。そりゃ彼ら二人は小山田くんよりはクロっぽいけれども「疑わしきは罰せず(の会)」ってナインティナインの岡村隆史さんだけがずっと言ってるよ。数日前の木曜も言ってた。司法の原則。ンマ司法が届かない痒いところを衆愚が掻いてくれてるってことなんだからこれもまた「仕方ない」。そういう野蛮な世の中に我々は生きていて、野蛮でなく生きたいのなら知恵をつけるしかない。
疑わしいまま、問題が結局どこにあるのかわからないまま、バグった前提の上に暴走的に推論が積み重なってゆく。まず「中居くんは悪いので即座に厳しく罰するのが適当だった」というような前提が揺るぎなくあって、その上にすべてのものが覆い被さってゆくから、一番下にいる「中居くん」という存在はもう身動き取れない。それを少しでも引っ張りだそう、スポットを当てようと発言しているのは「野蛮でない」ごく一部の人(太田さんとか)だけで、だいたいはドラえもん6巻で「ネッシーはいる/いない」を叫び分けていた愚か者らと同じ。
前提が誤っていたらその上のものはすべて誤る。それは数学とかほんの少しでも勉強したことがあればわかるはずなのだが、相当賢い人でも「それはそれ」として世の中にはまったく別の理屈体系が存在するのだと切り替える。
言える人がみな「全部、言っちゃうね」しちゃったらより「前提」に近づくというか、暴走して積み上がった推論の瓦がだいぶ低くできると思うのだが、決してそんな「非常識」は起こらない。文字や論理に殉じようとするよりも曖昧さに寄り添っていったほうが愚かだが自然で、結果的には穏当に流れてゆく(と信じられている)。時間がすべてを解決し、時間稼ぎには生贄が必要だと裏ではみんな思っているのだ。そのようでないと不安だから。たくさんの小山田くんの亡骸の上にこの野蛮な世の中は成り立っている。そしてその恩恵を受けて誰もが生きている。僕は黙って祈りを捧げるしかできない。
もちろんみんな「自分を守る」ということをするわけだ。みんながそれぞれ自分自身を守りあった結果、全員が歯にものの挟まったような言い方をする。ジャニーさんに関してもそうやってなあなあになっていった。原理は結局万人の万人に対する防衛で、それを野蛮と僕は言っているのだが、しかしそれが最も人間らしく、あるいは生物らしいとも言えて、愛しいとまでは言わないがなるほど流石と思います。
2025.1.28(火) よそゆきに飽きた
日記の文体については時々ハッとして修正を試みるが、「よそゆきの顔や振る舞い」についてはあんまり調整というものをしていないなと気がついた。気がついてしまうと自分の顔や振る舞いに飽きてくる。
30代を通じて得たものは「素直な顔と振る舞い」だった。とりわけ女子高勤務で育まれた。「自分の顔」から出てくる「自分の言葉」でなければ彼女たちはまともに聞いてくれない。嘘は通じない。「よそゆき」が下手すぎたからでもあるだろう。上手な先生は嘘も上手いものだ。嘘の上手い大人は他人の下手な嘘にもあえて騙されてくれる。「よそゆきの顔」は職員室でして、一歩廊下に出たら「自分の顔」になっていた。
今に至るまで「よそゆき」が下手である。ぎこちないし、慣れていない。自分としてもあんまり面白くないし、相手もあんまり楽しくないだろう。ワンパターンで常識的で飽きてきた。もちろんそれは別の技術でカバーして、どこに行っても一定、気に入ってはもらえるのだが、小手先でやっているだけだし爆発的な突破の可能性も小さくなるからまったくつまらない。
「よそゆき」をやめるか、あるいは演出を変えるか。
小手先が発達しすぎると無難な逃げ方がいくらでもできてしまう。あえて失敗のほうへ踏み込んでいくような思い切りがたぶん必要なのだ。時間は限られているのだから瞬発力を発揮していったほうがいいのかもしれない。冷静に、慎重にこれまでやってきたのは訓練だったのだ。それを活かして直観で瞬間を踊るほうに少し挑戦していってもいいかもな。たとえば詩を書くように。
まずは表情をもうちょっと自然にしたいね。かっこつけすぎちゃうからな。あとはさらに素直に、ブレーキをあえて緩めるようなことがあってもいい。恥ずかしさの先取りで動けなくなるのは愚かだもんな。それで霞むような知性ではない。自信を持ってがんばろう。
夜学バーの日報なんか見てもらうとわかるが、いま僕はいつにも増して「後進を育てる」ということを意識している。彼らにそれをさせるからには、僕はもっと先に行かなければ追いつかれてしまう。彼らへの課題とはまったく別のほうへ、自分にとっての未知なる領域に進んでいく姿勢がなければ、人に言うことがすべて過去になってしまう。
2025.1.29(水) 新宿か、湯島か
とあるバーへ。いわゆる「文壇バー」のようなところで、もう20年近く営業しているという。Googleマップには写真もレビューもほとんどなく、ホームページはない、SNSもオーナーらしき人がごくまれに更新する個人的なインスタがあるくらいで、営業についての情報はどこにも見当たらない。何時に開き何時に終わり、その日に誰が立っているのかもわからない。
平日というのに盛況で、大学の先生やら女優やら編集者やら、芸術・芸能関係の会社のエライ人やらと客層は「文化的にハイソ」。よくぞここまで隠れたまま上質な客筋を広げてこられたものだ。いわゆる「見つかってない」状態。知らないだけでこういう場所はいくらでもあるのだろう。
勝因(あえて勝ち負けで語る)はまず立地。新宿ってやっぱりズルいよ。僕が新宿でお店出してたら歴史は変わっていますね。ただ後述するように僕のやり方ではどうしても「こう」はならないと思う。「こう」したければ「こう」するなりの方法ってもんがあるんだと実感した。
それから間違いなく、女性経営者が若い女性にアシスタントさせている、っていうのも大きい。僕は男だっていう時点で「こう」いうお店をやるためにはものすごいハンデを背負っているのです。実は。もちろん一方で男であるアドバンテージも大きいので、一長一短ではありますが。
インテリや業界人が集うと固有名詞など情報の交換がメインになってしまうし、肩書きや専門領域の近いものどうしが引っ付いて「濃い話」を閉じて行うことにもなりやすい。またお店の求心力を高めるにはある程度のコミュニティ化が必要で「ケンジが」「ユミが」という内輪のやり取りが増えていく(というかメインになる)。僕のような初回客が「ゲスト」から抜け出すには何度も何度も何度も何度も足を運ぶしかないと思う。
僕はもちろんこのお店を一発で気に入ってジェムソンソーダ、ホワイトホースソーダ、赤星、ジェムソンロックと四杯も飲んだ。一軒でこんだけ飲むのは割に珍しい。しかしやはり当然ここでは「ゲスト」だし、「細い糸口(小さな共通点)」を探してそこから会話を繋げたり広げていくという「定石」以外にほぼ話す方法が存在しない気がした。たとえば「土地の話」、旅行の話や住んでいる場所についてとか。
夜学バーのようなやり方は本当に難しい。店内がばらばらになり「すぎる」ことを原則として嫌う。本当にチャットルームのような感覚で作っている。すると書き切れないくらいいろんな問題が立ち上がる。ここでそれを正確に説明できるか不安だが、まず簡単にいえば「品が要求される」から、お客から見るとハードルが高くなりすぎる。
場の全体のバランスを皆が考え、「抽象」という共通性によって知性を刺激し合うのが夜学バーである(すごい表現だ)。となると、固有名詞などの情報、肩書き、コミュニティ成員の噂話などで空間を埋めることができなくなる。
コミュニティ化を許す飲み屋では、言葉を並べて親睦を深めることが何よりも大切となる。そういう場ではお酒のつくり方はテキトーになる。しっかりお酒をつくる時間がもったいないし、それをしている間に会話が一時的に止まりうる。何より「若い(女の)子」に仕事を覚えさせるのが大変で、そこをおざなりにすればママがつくるお酒の質とのギャップが広がりすぎて不満が出る。だから「酒の味の期待値」をあらかじめ下げたほうがいいということになる。スピード重視で、酔い重視。「酔いが主役」と言ってもいい。
僕も新宿でそういうお店をやっていれば流行ったかもしれないし、逆に新宿でやっていたらそういうお店に自然となっていたかもしれない。それはそれで幸せな人生だっただろうなと飲みながら考えていた。湯島という文化不毛の地(失礼)で、エレベータもない雑居ビルの3階の小さなお店だったからこそ「夜学バー」という単語がひねり出され、文章によって知性に訴えかけるスタイルを必死に続けてきたのである。新宿だったらそこまでする必要はない。そういう意味でも夜学バーは湯島だから生まれ、湯島だから学風も維持されているのである。
繰り返すがそのお店は名店であり、自分もこういう店がやりたかったなと思わせてくれた。しかしそれはパラレルワールド。僕はたぶん夜学バーのようなやり方と心中するのであろう。でももしも2店舗めを出すのであれば、新宿や荒木町で茶割りガチャガチャ作るようなコミュニティ系スナックをやるのかもしれない。それはそれで楽しそうなのだ。両方あったほうが。
ま湯島でやってもいいけどね。物件と人材があれば……。
2025.1.30(木) 飲歩紀行
感想くれ感想。15歳過ぎたら少しずつ「伝える」ほうに動かしていかないと永遠に誰にも何も伝わらない。感想文嫌がっていいのは小学生までだよねー。D・V・D‼ D・V・D‼ だって今んとこ30日間日記が埋まってるんだよ? 1月は空きナシでいけそうだ。僕はがんばっているのです。みんなもがんばろう! ファイト!! 愛と感謝を伝えよう!!!! 僕に。やる気なくなっちゃうからね。その一票は重いのです。何度でもいいますぞ。投票される重さも、投票されない重さも同等なので、投票したら二倍の効果があります。
「湯島といえば、互いにいいねを飛ばし合っていたお店があるんだけど、アカウントが変わったタイミングで切れてしまってお店の名前も思い出せない」と仰る。僕は非常にあたまがかしこいのでわずかなヒントで割り出せた。「女性が経営していて、目がぱっちりとした美人」というだけで一発だった。褒めてほしい。それで「ああ、○○ですね、明日にでも行って話してみますよ~」と安請け合いして、偉大な僕は実際に訪れた。自画自讃、本当に偉い。こういう口約束を果たせない大人が多すぎるよね。果たされないことなど大嫌いなのにね。いえ僕も果たせないことあります。ごめんなさい。果たそうとは思っているのです、いつも。でも無理な時は無理ってのもわかる。無理じゃないときはやる。
そのお店も含めて4軒飲んだ。へべれけである。以下簡単に内訳を語ろう。ABCDで。
A、看板が美しすぎて予定をすべて捨てて入った。浅草、これまたインターネットにほぼ情報がないお店。もとはも少し硬派なバーだったようだがマスターは亡くなって今は82歳のママが主役。お客も70~80代が多いようだった。35年務めているというフィリピン人のお姉さんと、娘さんと、お孫さんもいた。すさまじい。ハイボールはたぶん角。お通しは料理が3皿に、乾き物1皿、チョコとチーズが1皿の計5皿。豪華すぎて支払いはいくらになるのか戦々恐々としたが、隣にいたおじいさんがお会計の際にこちらを見てニヤリ。「見たか? これが基本だよ」とだけ告げる。なんと優しい方だろうか、緊張している僕のために、この店の支払いを暗に教えてくれたのだ。5000円払って2000円戻っていたので、3000円。彼はけっこう長い間飲んでいてボトルキープしている感じでもなかったので、普通に飲んでいればこれ以上高くなることはないということだ。
80前後のおじいさんたちのカラオケを聴いてめっちゃ心地よかった。そうか僕は80年代が気に食わないんだ。なんなら70年代も微妙だ。60年代くらいの曲がちょうどいい。練習しようと心に決めた。『霧の摩周湖』とか『ラブユー東京』とか66年だもんな。そういうのがスタンダードなお店。最高じゃないか。『硝子のジョニー』は62年。そういうの、そういうの。
途中から「#かわいいぼく」ぶりが発揮され「おにぎり食べる? お味噌汁もあるよ」とかわいがっていただく。加えてピザトーストまで。結局ハイボールは4杯も飲んで3000円であった。すげー。誰か一緒にいこうよ。60年代の曲を4曲くらい覚えといてね。
Bはよく行く居酒屋。ここも82歳のママ。実は最近、僕の成城学園中学校時代の教え子(資格取りまくり系アイドル)がテレビのロケでこのお店に来たらしいのだ。その噂を近所の喫茶店で耳にして、そりゃ放送前に行かなきゃと駆けつけたのである。ギリギリ間に合った。明後日放送です。その話はそこそこで、お互いの仕事の話とか、亡くなった大常連の想い出など話す。ウィハイと麦水飲む。兼ねてより僕は「どんなに縮小してもいいのでお店を続けてくださいね、ビールでも焼酎でもお客が勝手に出して飲めばいいんですから。ママはなんにもしなくていいから。お料理一品くらいあったらすごい嬉しいけど、何もなくてもいてくれるだけでいいから」と伝え続けている。それを覚えてくれていて、「こういうふうに言ってくれるのよ」とほかのお客さんに話してくれていた。まんざらでもないようだ。もちろんやれるならやれるだけのことをやってもらったほうが長続きするのはわかっているのだが、このお店のスタイルならこのママがどれだけオペレーションを縮小してもお客さんはビクともせずに受け入れるはずなので、僕の思う究極の形、店主は座っているだけであらゆることをお客さんが自然にセルフで行うような形であってもいいから、とにかく象徴としてこの場にずっと座っていてほしいなと本気で思う。
こんなことふだんほとんど言うことはない。このお店の、このママだから言うのである。店を続けるも続けないも、どんな形でやるもやらないもすべて店主の自由で、僕みたいなもんが口出しすることではない。でもここでだけは言う。それが通じるような相手だし、心底からそれが正しいと思うゆえ。
C、ここが件の、今日の目的。近所なのだがずいぶんご無沙汰していた。たまたま夜学バーにも通ってくださっているお客さんと居合わせ、当たり前だが世間の狭さを痛感。ワインを2杯いただく。「湯島と新宿はもっと仲良くするべきだ」という持論をぶち、新宿の例の店からの伝言を伝える。「3月○日に××さんがこのあたりに飲みに来るので、よろしければ(定休日だけど)お店を開けてください」と闇のフィクサー活動。大江戸線で15分なんだから「上野御徒町-東新宿」のラインはもっと活発にならなくては。みんなで定期買って共有しない? もう!ってくらい。
ちょうど23時くらいになったので自分のお店に寄ろうかと思ったが、あえてやめる。ちなみにCのお店にいたお客さんが「これから夜学に行きます」と言っていた。LINEに目を光らせつつそのへんぶらぶらすることにした。友人がバーを開こうとしている(現在審査中)ビルに入っている新しいバーに寄ってみる。いいお店だった。1年と3ヶ月だそうな。人の心配している場合ではないが、こういうお店って成り立つのか? 夜学バーくらい難しそうなんだが。「こういうお店」ってなんだっていうと、特別なコンセプトがなく、カラオケも女の子もダーツもなく、近所(水商売世間)のとの馴れ合いもそれほど熱心ではないオーセンティックバー。柚子のジントニックと66度くらいあるバーボンを飲んだ。原価から算出するにお値段は夜学バーよりもうちょい高い。これ以上は無理なので歯を食いしばって帰った。歯を食いしばらないと無限に飲んでしまう。
勉強と付き合いのためもあるとはいえずいぶん今日は飲んだな。10杯か。僕は弱いのですよ。アルコール摂取量が100gを超えないように本当はしたい。今日はたぶん150くらいいってる。寝ます。
2025.1.31(金) 今月の日記 解題=目次(はじめに読んでもいいよ)
1月は31本しっかり書いたので振り返ろうと思います。
2025.1.1(水) 悟りメンバー
「悟りについて思い出す」と「悟っている仲間(みんな悟れ)」をかけたダジャレ。僕はかなり悟りに近い部分もあるが、煩悩まみれの部分もある。悟りとは僕の理解で容易く乱暴に言うと「すべてが等価値(何もかもどうでもいい)」という境地で、だから中途半端だと「理想も煩悩も同時にある」になる。僕はまだここですね。
2025.1.2(木) 環境とは余白
正月休んだら力がみなぎってきた、という話。それを一般化して環境と余白という単語で説明している。
2025.1.3(金) 偏執狂の詩
『野球狂の詩』がタイトルのネタ。僕って偏執狂だよな~。「こだわりが強い」「過集中」というADHD的な?特性をギュッと一言で表すと偏執狂じゃん。と。
2025.1.4(土) 想像力はこわい
タイトルは23~24歳のとき成城学園中学校の2~3年生へ配ったプリントに書いた言葉。えらくない? 改めて「想像力」という言葉について語ってる。
2025.1.5(日) 初琥珀
湯島(わが夜学バーのある街)にある老舗バー「琥珀」に言った時の話。2杯飲むと2桁超えるような高級店。
2025.1.6(月) 文字通りに読む(1)
2025.1.7(火) 文字通りに読む(2)座れない人たち
2025.1.8(水) 文字通りに読む(3)本を読め
2025.1.9(木) 推敲について
24日の「文字禍期の終わり」につながる、1月最大の関心事。文字通りに読めない人って多いよね。ここだけでもぜひ読んでほしいです。2はお手洗いの話。
「推敲について」も続編なので、一つにまとめた。
2025.1.10(金) タイプロ(1) パワハラ大好き!
2025.1.11(土) タイプロ(2) パワハラは大事!
2025.1.12(日) タイプロ(番外編) 北風と太陽
タイプロとはtimelesz(Sexy Zone改名グループ)の新メンバーオーディション番組。1月の関心事第2位である「人を育てる」とか「組織をつくり動かす」ということに関わる、思った以上に重要な話なので是非。夜学バーってのをいまがんばって改めて育ててるんだけど、そこに繋がります。
2025.1.13(月) 成雀式
20歳を成人、40歳を成雀として式を行った、それについての所感。
2025.1.14(火) 鍼にいったよ
2025.1.15(水) 自転車を直したよ
首が痛すぎて鍼をさしにいった話と、朽ちかけた自転車(ロードレーサー)を修理に持ち込んだ話。あわせて「孤高系個人店」についての論考にもなっております。
2025.1.16(木) 子供はわかってくれない
非常に重要な名文。大人と子ども、わかるということ、反抗とは。
2025.1.17(金) 敵は遠くにありて弱き者
自転車(キャリーミーという小径車)を自力で「ブラックジャック」した話から、橋本治さんが「敵」ということについて書いたことへの感想へ。
2025.1.18(土) 夢をつづける
長くて若い友達と飲み歩いた夢の話。僕としてはエモい。
2025.1.19(日) 拡大しかない
最近とこれからの自分のテーマとして「拡大」というものがあるが、もちろん商売の話(だけ)ではない。拡大という概念の拡大、みたいなことか。
2025.1.20(月) 自分と心中する覚悟
「自分と心中する」ということは決して「このまま変わらないことを受け入れる」ということではない。「これまでの自分を冷静に見つめる」ということ。
2025.1.21(火) 共感は現状維持
ミュージシャンなどの「会えない他人」に心酔・共感する態度への警鐘、カナ。
2025.1.22(水) 静かな刻
詩ですが、実は今月で一番大事な文章だったりする。
2025.1.23(木) 弘法も筆の誤り
ある友達への私信。弘法。こうぼう。こーおーうーぼーうー。
私信とはいえ、ちゃんと普遍的な話にもなっている。わざわざ日記に書くのだから当然だ。「初めて会う人は、必ずしも初めて会う人ではない」。僕の人生観って一言でいえばこれなのかもしれない。
2025.1.24(金) 文字禍期の終わり
最重要。4回は読んでください。(文字通りに受け取ってください。)
2025.1.25(土) 爆笑問題の勝利
爆笑問題が天下を取っちゃった(とここではしておく)ということが、どうしてそんなに嬉しいのか。太田さんが「本を読む」人だからで、それが今の社会の最大の希望だと思ってる。
2025.1.26(日) 聖☆おじさんに俺はなる
短編。呼び出される人になりたい。呼び出して。
2025.1.27(月) 疑わしきは罰せずの会
松本、中居、フジテレビの話をさらっと。「疑わしきは罰せず」ってのも結局「文字をちゃんと読む」につながると思うんですよね。断定していない限り100%ではないのに、そういうことが文字(ないし言葉)に疎い人にはわからない。
2025.1.28(火) よそゆきに飽きた
もっと自然に生きたいな~というn回目の目覚め。自然な領域をさらに増やしていきたい。
2025.1.29(水) 新宿か、湯島か
2025.1.30(木) 飲歩紀行
飲み歩きエッセイ、かつ飲み屋論。新宿の文壇バーと、浅草のカラオケスナック。いろんな意味で両極端の店について。
で、今日。
過去ログ
2024年12月
2025年1月
2025年2月
TOP