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何枚かのプリントをまとめたページです。

三学期の授業では夏目漱石の『こころ』を取り扱います。
 と、いうことを伝えるのがこのプリントの主眼で、それ以上の目的はありません。しかし折角だからもう少し。
『こころ』は教科書で読めますが、掲載されているのは「抜粋」です。つまり、一部分だけです。優れた作品だし、とても有名な話(戦前の文学作品の中で源氏物語と並んで最も人気が高い、と言ってもいいかも)なので、ぜひ全体を味わってください。というわけで夏目漱石『こころ』の全文を通読してくる、というのが、僕からの「冬休みの宿題」です。
 もちろん、学年末テストはないわけだし、これをやってこなかったところで退学になったり進学が取り消されることはありません。ただまあ、高校生活最後の「現代文」の授業を有終の美で飾りたい、という人は、読むことをオススメします。文庫本で数百円、ブックオフにもゴロゴロしてます。
 学校の先生はよく「本を読め」なんてことを言いますが、やはり僕も言いましょう。最近読んだある本にも書いてあったことですが、人間には「代理経験」が必要です。自分が経験したり、考えたりできることには限りがあるので、ほかの人がすでに経験したり、考えたりしたことをヒントにすることは非常に効率が良いのです。それはもちろん、人と話したり、テレビやネットを見ることでもいいのですが、未だに最も優れた方法は「読書」だと思います。マンガも含めて。
『こころ』は特に、日本文学の最高峰とも言われかねないもので、書かれた時代の割に読みやすく、そして、面白いです。人気があるのも頷けます。何でもとにかく「一流」のものに触れるのは悪いことではないので、この機会に。本当に。
 ちなみに、授業で『こころ』を取り扱うと、恋愛ものが好きな人や、腐女子がけっこう反応します。あるいは、哲学的なことを考えがちな人も、引っかかります。騙されたと思って一度、読んでみてください。「へー、これが日本で〈良い〉とされている文学なんだ」とでも思いながら。

 ここから先は読む必要がありませんが、最後に、せっかくなので僕が大学一年生(十八歳だか十九歳だか)の時に大学の課題で書いた「レポート」を紹介します。僕は国語国文学科というところにいたので、小説を読んでその解釈について書く、というレポートがよくあったのです。若い頃のものなので恥ずかしいですが、みなさんもあと数ヶ月もすれば、こういうことをやらされることになります(もちろん、テーマは人それぞれでしょうが)。小難しい書き方がされていて読みづらいと思いますが、大学のアカデミズム(学問)というものはそういうものらしいので、従ったのでした。ご参考に。
(論文略)

夏目漱石『こころ』準備プリントA

●進学にあたって(進学しない人にも、参考のために)
 大学・短大・専門学校 = 「高等教育機関」(中高は「中等教育機関」)
 何をするところか? → 「学ぶ」ところである。
 しばらくは「学ぶ」から逃れられない

●「学ぶ」とは何だろうか?――「教養」
 何のために学ぶか――
 就職のため、お金のため、親のため、見栄や世間体のため――そんなことはおいといて。
 たとえば「教養をつける」ためだとする。
 さて、教養とは何だろうか?

2ア 学問、幅広い知識、精神の修養などを通して得られる創造的活力や心の豊かさ、物事に対する理解力。また、その手段としての学問・芸術・宗教などの精神活動。
 イ 社会生活を営む上で必要な文化に関する広い知識。「高い―のある人」「―が深い」「―を積む」「一般―」
(デジタル大辞泉)

 一般的に使われるのはイの意味であろうが、ここではあえてアの側面から教養について考えてみたい。「心の豊かさ」である。
 心が豊かである、ということは、「いいやつ」ということだ。(僕による勝手な定義)
 いやなやつよりは、いいやつであったほうがいい。それを前提として、進める。
 僕が思うには、「学ぶ」というのは、「いいやつ」になるための一つの手段なのである。
 
●「学ぶ」とは何をすることか?――「憶える」
 思うに学ぶとは、結局は「憶える」ことではないだろうか。それはもちろん「暗記する」ということだけを言うのではない。だから「覚える」ではなくて「憶える」と、記憶の「憶」の字を使いたい。
 スポーツのように、頭ではなく身体が「憶える」こともある。それも「学ぶ」ということだし、「教養」だと思う。箸の持ち方や姿勢のよさも「教養」の一部だと考えてもいい、と思うからである。それも「心の豊かさ」なのかもしれない、と。

●「学ぶ」はどのように役に立つか?――「思い出す」
 憶えたものは、「思い出す」ことによって使える。役に立つ。箸の持ち方をいちど憶えれば、次に箸を持つときに使える。生きていくとは、様々なことを憶えて、思い出す――そのことの繰り返しだと言うこともできる、と思う。
 
●「学ぶ」の三つの形態
 ――「本を読む」「人と話す」「どこかへ行く」

●「本を読む」――なぜ「本を読む」ことがよいとされるのか。
 人間が、ひとりで考えられることは、そんなに多くない。だから人は、ほかの人の意見や考えを取り入れて、ものを考えることになる。ところが困るのは、自分が直接話を聞きに行ける相手というのは、ごく限られた種類の、ごく少ない数にすぎないのだ。政治家や、芸能人や、アスリートや、あるいは弁護士や税理士や裁判官や、自分の興味のある分野にとても詳しい誰かや――そういう人が都合よく、周りにいるとは限らない。だから世の中には「本」というものがあって、いろんな人の考え方や意見、人生などを封じ込めて保存し、書店や図書館に常備されているのである。
 人は「本」を読んで、その内容を憶える。暗記するのではない。そのほんの一部分をでも、心のどこかにとどめておく。言葉としてそのまま憶えるのではなく、たぶんなんとなくのイメージで置いておく。あるいはどろどろに溶かしたシチューのように、まったく原型をとどめないようなかたちで身にしみつかせておく。そして必要な時に、何かの形で思い出す。
 あるときはそれは直接に役立つだろう。そうでなくても、その憶えられた言葉たちは、しらないうちにきみの心を豊かにさせているかもしれない。少なくとも、そうであることを祈って、親や先生たちや、いろんな大人は、若い人たちに「本を読む」ことをすすめる。
 
●「本」との距離のとりかた――『二十面相の娘』

読書は勉強じゃないよ ただ 楽しむだけさ
人間には犬も豚もいるんだよチコ
本から学ぼうなどと思っては犬にされてしまう
本も読まないようでは豚になる
仲間達も色々な事を教えてくれるだろう







引用:小原愼司『二十面相の娘』第一巻 P176〜177より
   2003年9月、メディアファクトリー刊

 とにかく本を読めばいい、というわけではない。上のせりふは、実に深みのある警句だ。
 犬にも豚にもなりたくなければ、「本を読む」ということとの、適切な距離を保ち続けなければならない。
 本ばかり読んで人と話さず、家に引きこもってばかりいても、「心の豊かさ」というものはなかなか、育まれない。(やはり、僕はそう思ってしまう。)
 だから僕は「学ぶ」ということの形態として、「人と話す」「どこかへ行く」という二つのことを、付け加えたのだ。『二十面相の娘』のチコは、家を出て、二十面相や「仲間達」との暮らしのなかで、「色々な事」を教わり、憶えて、「心の豊かさ」を探していくのである。

●たくさんのことを憶えていると
 本を読み、人と話して、どこかへ行って、たくさんのことを憶えていく。これまでの僕の人生はそういうものだった。きっと種類は違えど、誰の人生もそういうものだと思う。本をたくさん読む人もいれば、あまり読まない人もいるが、誰もが人と話し、どこかに行って、何かを憶えて、生きていく。
 僕はたぶん人よりもたくさんのことを憶えてきて……いや、憶えようとしてきて、そのことを楽しいと思って生きてきた。これは単に僕の性格だから、それが正しいとも言わないし、べつに真似することもない。そういう人がいるのだ、ということだけを憶えていてくれれば、それはきっと何かを「学んだ」ということになる。はず。
 たくさんのことを憶えていると。
 僕の場合は、「たくさんの友達と、たくさんの楽しい時間を過ごすことができる」というメリットを強く、感じている。知識だけじゃなくて、友達との会話でも、日常のエピソードでも何でも、面白いと思ったことは「いつか思い出して使いたい」というふうに考えて、憶えようとする。(もちろん僕はただの人間なのでほとんどのことは一瞬で忘れるが。)
 たくさんのことを憶えていると、初対面の人とでも、何かしら「思い出せること」があって、それを口にすれば、話が盛り上がったりして、楽しい時間が過ごせる。たとえば、相手が○○というキーワードを口に出す。「あ、○○っていったらそういえば、こないだこんなことがあって」。そういうことが会話を作り、友達をつくっていく。

●年齢を超越するもの――「記憶の共有」
 二〇歳と七三歳の友達の話
 なぜ仲がよいのか? → 話が合う、気が合う → それは、なぜ?
 → 「同じものを憶えているから」、ではないか。
 話が合う、というのは、同じものを共有しているからだ。つきあいが長ければそれだけ共有する記憶も多いし、趣味が合えば知識は似通い、感性が近ければ似たような経験をたくさんしていることになる。(ふまじめなやつは先生にしかられた経験が多い、勉強が好きな人は「勉強あるある」で盛り上がれる、ドジな人は似た失敗をしたことがある、などなど。)
 それは年齢を超越する。性別も超越する。すべてを超越し、人間同士の「内面」つまり、心でつながることができる。それはもしかしたら、「心の豊かさ」と関係があるのかも。

●岡田淳さんの講演会で出会った女の子――「同じクラスだったとしか思えない!」
 岡田淳さんという児童文学作家の本を、小さい頃から愛読している。その方の講演会に行った時のこと。ぼろぼろの、みそ汁のしみまでついた『はじまりの樹の神話』という本を持参していた女の子を見かけた。その子は最前列に座り、メモ帳を用意して、ペンを構えて講演に臨んだが、僕のみた限り一度も筆を動かさなかった。ずっと真剣に、講演の声に耳を傾けていた。僕は思い切って講演後、声をかけてお茶に誘った。(誤解してほしくないのだが、このようにナンパじみた真似をすることは僕にとっても非常に珍しいことだ。)
 腰を落ち着かせ、話し始めて、驚いた。僕たちは小学校時代の、大切な想い出の本当に多くを、出会う前からすでに共有していたのだった。おたがい小学校の低学年からずっと、彼の本を読み続けていたのだ。まるで小学校の同級生と「あんな先生いたよね」「こんなこともあったよね」と語り合っているかのように、「スキッパーが……」とか「『二分間の冒険』でさあ……」と、話し続けた。共通の友達の名を呼ぶように、登場人物の名前を口にした。それで笑いあった。しまいに僕は口に出してしまった。「同じクラスだったとしか思えない!」もちろんそんなわけはない。年齢も五つくらいは離れていたし、生まれた場所もぜんぜん違う。でも、そうとしか思えない。彼女も同意した。そんな出会いがあるのだ。ただ「同じ本が好きだった」というだけで、想い出を共有して、それを幸せに思い出すことができる。まったく知らないうちに、知らないところで、美しさは育まれていたのだ。

●再び、「学ぶ」とは?――なんだってそうってことでいいじゃん
 学ぶ、という堅苦しいことばを使ってはみたが、「なんだってそうだってことでいいじゃん?」ってのが、最終的には僕の言いたいこと。
 華麗な言い方をすれば、心のなかに宝箱があって、そこに何を詰めていくか、というのが、学ぶとか憶えるっていうことなんじゃないか、と思う。あるいは何を、身体にしみこませていくか、とか。それは「学校の勉強」なんかじゃなくていい。自分にとってすてきな何かだ。僕にとってそれは漫画や本を読むことだったり、誰かと仲良くなることだったり、自転車で知らない町や山や海岸線を走ってみることだったりする。ある人にとってはセーターを編むことかもしれない。ある人にとっては動物と遊ぶことかもしれない。ネイルを塗ることかもしれない。すばらしい、すてきだと思えることをたくわえて、心のなかを豊かに満たしていくことで、そいつは内側から「いいやつ」になっていく、そんな感じなんだと思う。で、その途中にあるいろんなことはなんでもぜんぶ、「学ぶ」ってことにしちゃっても、いいんじゃないかな? と、わけのわからない結論を出してしまう。
「学ぶ」ってのは、ちょっとカタい。「まなぶ」と書けば、やわらかい。
 心のなかをすてきなまなびで満たしていくことが、まあ、学ぶってことの本当かもしれない。そんなことを言っている人が、なんか、いるんだなってくらいに、思ってもらえればけっこうなのだ。

●ぜんぜん意味がわからなくても
 きっと、ここに書いてあることのほとんどは意味がわからないことだと思う。それでいい。それでも人は、何かを憶える。イメージとして。シチューのように溶かし。自分にあわせ、こころにあわせて、自由にゆっくり消化していく。それだけを祈ってこの授業をしている。
(なーに酔ってんだよ、なんてくだらない茶化し方をしてると、「いいやつ」からは遠くなりまっせ!)
 
●さて、夏目漱石の『こころ』ですが……
 この作品は、とても面白い。僕もそう思うし、一般的にもそう思われている。だから教科書にしぶとく載って、こんなタイミングで登場してくる。しかし問題は、たぶんきみたちのほとんどがこの小説を読もうとして、「うげっ、なにいってるかわかんねえっ!」ってなっちゃうことだ。それはもう、百年以上前に書かれたものだから仕方ない。でも、逆に考えると、百年前に書かれたものがなんとか読めて、しかも面白い(そう信じられている)ということは、すごいといえばすごい。だからできれば、少しでいいから、読んでみてほしい。できれば全文、むりなら教科書に載っている分だけでも。
 怖がることはない、人は、どんなものでも憶えてしまうのだから。べつに、読書感想文を求められたりもしない(はずだ)し、すべてを理解しろと迫られるわけでもない。読んでみて、少しでもこころに何かが残ったら、読んだ意味は絶対にあるし、何も残らないなんてことは、何を読んでもありえない。人は必ず、何かを憶える。たとえそれが「くっそつまんね」という感想とともにであっても。そして絶対に、どこかで何かを思い出す。多くの場合は、それとまったく気づかずに。

夏目漱石『こころ』準備プリントB

【夏目漱石】
・一八六七年二月九日(慶応三年一月五日)〜一九一六年(大正五年)一二月九日
・現在の早稲田駅周辺に生まれ、満四九歳没。「明治」の四五年間を通して生きた。
・一九〇五年、『吾輩は猫である』を発表し、約十一年間で多数の作品を発表。
 代表作:吾輩は猫である、坊っちゃん、草枕、二百十日、野分、虞美人草、坑夫、三四郎、それから、門、彼岸過迄、行人、こゝろ、道草、明暗 など
・帝国大学(現・東京大学)卒。
・東京専門学校(現・早稲田大学)、東京高等師範学校(現・筑波大学)、松山・熊本の高等学校、東京帝国大学(現・東京大学)、明治大学などで英語などを教えたのち、朝日新聞に入社。以後小説を「朝日新聞」に連載し続ける。
  →ものすごいインテリエリート

●本の読み方
『草枕』より――「筋」を読むのではなく、開いたところを漫然と読む
 たった数行、あるいはワンフレーズでも、本を読むことは楽しめる。
 例:『吾輩は猫である』の一節から、『ドラえもん』『21エモン』を連想

●『こころ』(一九一四年、「朝日新聞」に発表)
     上 先生と私(全三六章)
     中 両親と私(全一八章)
     下 先生と遺書(全五六章)
 このような構成となっているが、教科書に載っているのは、「下」のうちのほんの一部分。
 →「一部分だけ読む」を、文部科学省も高校生にやらせている

●「明治」と「近代」
・新潮文庫の裏表紙から
《孤独な明治の知識人の内面を描いた作品》
・本文から
《すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは必竟時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました。》 
《私は妻に向ってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだと答えました。》

殉死……主君が死亡したときに、臣下があとを追って自殺すること。(デジタル大辞泉)

「明治の精神」とは何か?
 それを理解するには、「近代」という概念を知る必要がある。
 そしてそのためには、日本の歴史を知っておかなければならない。



●日本の歴史
・縄文時代
・弥生時代
・古墳時代

・《    》時代 592〜
・《    》時代 710〜
・《    》時代 794〜
・《    》時代 1185(1192)〜
  ※建武の新政(1334〜)→南北朝時代(〜1392)
・《    》時代 1338〜
  ※戦国時代……応仁の乱(1467〜)以降?
・安土桃山時代 1568(1573)〜
・《    》時代 1603〜

・明治 1868〜
・大正 1912〜
・昭和 1926〜
・平成 1989〜
    1995 阪神・淡路大震災、オウム真理教地下鉄サリン事件など
    2011 東日本大震災

●各時代の朝廷と幕府の位置を確認しよう
朝廷……《    》のいるところ
幕府……《    》のいるところ

●政治形態からみる日本史の変遷
 無秩序
 →天皇&貴族社会(朝廷が中心)=《    》
 →将軍&武家社会(幕府が中心)=《    》
 →国民&民主主義社会=《    》

●近代とは……
「自由と独立と己れとに充ちた現代」(『こころ』上・十四)
 ――ここでいう「現代」とは明治=近代のこと
 ルネサンス・市民革命・産業革命などを経て
「人間主義」「個人主義」「民主主義」「自由主義」「平等主義」「資本主義」「国家主義」
 という考え方が当たり前になってきた時代のこと――それまではそうでなかった

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