y671asz ひごろのおこない / Entertainment Zone 2025年2月
ひごろのおこない/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

過去ログ  2025年1月  2025年2月  2025年3月  TOP
2025.2.1(土) ゲームの名前はコントロール
2025.2.2(日) Amika/Natural Woman 言葉を伝える
2025.2.3(月) 新・鉄人兵団コーサツ
2025.2.4(火) ユニバーサラー
2025.2.5(水) 休日っていいな
2025.2.6(木) 教育学部の夜明け
2025.2.7(金) タイプロ(3) ジャニーズの本質は「コントロール不可能」
2025.2.8(土) 身体の硬さ
2025.2.9(日) 虫忌
2025.2.10(月) 酒日記(本とか読みたい)
2025.2.11(火) 重んじ合う関係(教室編)
2025.2.12(水) 夢のつづき
2025.2.13(木) えま
2025.2.14(金) 主は与え、主は奪う。
2025.2.15(土) (1)京都
2025.2.16(日) (2)京都→名古屋 トビアス/営業
2025.2.17(月) 純粋な声援
2025.2.18(火) (3)名古屋2 あえての宿
2025.2.19(水) (4)名古屋3 人と話すプロ
2025.2.20(木) (5)名古屋4 フィリピンと大曽根/名古屋という田舎
2025.2.21(金) 天才ガールズバーかしこ。
2025.2.22(土) ジャッキーの系譜
2025.2.23(日) (6)名古屋5 バーテンダーと理科
2025.2.24(月) (7)名古屋6 帰京
2025.2.25(火) 宝とは時間のこと
2025.2.26(水) 老眼と自転車
2025.2.27(木) WinSCP運用改善
2025.2.28(金) スズキさんの背広

2025.2.1(土) ゲームの名前はコントロール

”Don’t be afraid to lose control..., and control is the name of our game.”
(Jack Tarr『Doctor Head’s World Tower』)

 ルーズ・コントロールを恐れてはならない。コントロールとは我々のゲームの名だ。ヘッド博士による最も有名な台詞である。「ゲームの名前はコントロールと言って」(フリッパーズ・ギター『世界塔よ永遠に』)という歌詞の元ネタ。
 あえて主語デカで書くが、概して自己啓発は男性に受け、スピリチュアルは女性に受ける。前者は「コントロールは可能である」という思想のもとに、後者は「コントロールは不可能である」という実感のもとに立つ。
『人生は心の持ち方で変えられる?-<自己啓発文化>の深層を解く-』(光文社新書)という本を読んで、自己啓発というのは「人間の心や生活や人生はコントロール可能である」という考え方がもとにあって、それは「投薬によって心や生活や人生を好転させたり調整させることができる」というのと同じ根っこなのだと学んだ。ハッキリそう書いてあったかは忘れてしまったが。ともあれ現代には「コントロール可能」という思想が蔓延っている。
『なぜ男は孤独死するのか』という本では、男の孤独の原因の一つとして「俺の邪魔をするな」という態度が挙げられていて、その章には「コントロール」という単語が何度も出てくる。男は「(自他を)コントロールできる」という点に優越や愉楽を感じるものらしい。
 男は(相対的に女と比べて)テレビゲームが好きだと思う。右を押せば右に動き、Aボタンを押せばジャンプするスーパーマリオが大好きなのだ。これは「コントロール欲」の象徴だし、「ゲームがうまい」は「コントロールがうまい」でプライドが満たされる。むろん男性に限らず人類普遍の欲求だとは思う(教育ママは子どものコントロールに執心しますし)が、「マリオや格ゲーはやらないけどガチャはいくらでも回す」というのは女の人のほうが多いんじゃないだろうか。マリオはコントロール可能だが、ガチャは原則コントロール不可能なので性に合う。やや乱暴な論ではあるが、おおむねそのような傾向はある気がする。
 将棋は完全なるコントロールゲームだし、競馬や麻雀は「予測不可能性をいかにしてコントロールするか」に熱を上げるゲーム。ガチャのように完全にランダムなわけではない。ただ、もし欲するガチャの確率を高める工夫が存在するならば、それはパチ・スロにおいて「出る台を選ぶ」とか「設定の高い日を見抜く」みたいなコントロール性があり、男性はより熱中しやすくなる。この「コントロール性」とは「ゲーム性」と言い換えてもいいだろう。
 一方、スピリチュアルは「コントロール不可能」というのが前提としてある。たとえば占いは、「このことはあなたにはコントロール不可能です」と宣言されるものである。そのうえで「ただし、このようにすれば多少はその運命を変えられるかもしれません」として助言をもらい、ラッキーカラーを身につけたり石を買ったりして「運気」なるものをコントロールしようと努める。前述したような「ゲーム性」はかなり低く、ただ「対処法」が語られるだけなのでいわゆる「作業ゲー」に近いかもしれない。カルト教祖の言いなりで花瓶買うような。
 過ぎればどちらも愚か。コントロールに溺れてはいけないし、コントロールを諦めてもならない。バランスだよねバランス、という優等生的な態度をとっておこう。完全なコントロールなどできるわけがないし、ゆえ完全にコントロールされることもできない。コントロールも被コントロールも「万能間」「全能感」を与えてくれる麻薬のようなものだ。ゲームや趣味以上のものとしてしまうとまずい。
 コントロールしたいのは教祖で、コントロールされたいのが信者だとすると、その悲しい合致はあらゆる共依存的な関係に通ずる。自律とは「自分がコントロールすべき領域」を見定めることなのかもしれない。

2025.2.2(日) Amika/Natural Woman 言葉を伝える

 音楽のライブにはあまり行かないのだが(本当です)唯一すべて欠かさず通っているのがAmikaさん。全会場全日程行っている。と言って2017年以降8年間で4回(うちワンマンは3回)しか公に出ていないので皆勤は容易なのだ。そのくらい「供給」は少なく、新曲は2005年以来一曲もない。
 新曲がなさすぎて頭が狂っているため10月の記事では「ちょっと歌詞が変わってたから実質新曲!」みたいな素っ頓狂なことを書いた。今回もそういう意味での「実質新曲」がいくつかあったので記しておく。

 前回歌詞を変えて歌っていた2曲について。『90%』はオリジナルで歌っていた。『世界』は「二人がこのままでいられるよう祈る」と変えていたのが「二人がこのまま隣にいられるように」とまた別のバージョンになっていた。模索しているようだ。これだから皆勤は良い。前回は平日のスリーマン(一組欠席でツーマンになった)ということもありお客が少なめだったため、取れない人は取れない差分。
 アンコールの『How can I say』はサビのメロディがデモテープ版と同じで、歌詞はたぶんアルバム版とのハイブリッド。ほぼ新曲。
 それ以上に注目すべきはEmerson, Lake & Palmer『Trilogy』とCarole King『(You Make Me Feel Like) A Natural Woman』の日本語訳詞。これまで英語詞の曲をそのままカバーしたことはあったが、自身による日本語訳詞で歌ったのはたぶん初めてだと思う。はっきり言ってこれは新曲でありました。

 僕がそこまで入れ込むAmikaさんの魅力とは何か? このライブで確信したのだが「言葉を伝える」という一点に尽きる。どのような言葉をどのように伝えるか。詞の内容ももちろん素晴らしいのだが、言葉選びやメロディへの乗せかた、何よりそれをどのように表現するかという部分がAmikaさんの唯一性であって、心に完璧に刺さる。
 ゆえに英語詞を訳して歌う場合、元の詞を書いたのが誰であろうとAmikaさんの歌の魅力はほぼ損なわれない。まずAmikaさんがその詞に共感したり素晴らしいと思ったのであり、それを日本語に移し替える際には彼女なりの言葉選びをする(MCでは直訳ではないと仰っていて、インスタでは『A Natural Woman』について「新解釈」という言葉を使っていた)わけだし、それをどう歌うかというのは完全にAmikaさんのオリジナリティなわけだ。新曲です。これは新曲。20年ぶりの新曲。
 Amikaさんはとにかく「言葉を伝える」ということのスペシャリストで、そこに関しては究極に技術の人だと思う。もちろん豊かな感性と直観に裏打ちされ、そのうえに洗練された技術。「言葉を伝える」に関してこれほどすぐれた歌手を僕は知らない。YouTubeでもサブスクでも、探して聴いてみてください。願わくば次回のライブにぜひ。現在はさらに磨きがかかっているし、知っている人がいないと寂しいから。見かけたら声かけてください。
 とりあえず代表曲『世界』のMVでも貼っておきます。あと最近のライブ映像(『手を振る朝』『九月』)。

2025.2.3(月) 新・鉄人兵団コーサツ

 先日ドラえもんの映画を観にいった。2011年3月公開の『映画ドラえもん 新・のび太と鉄人兵団~はばたけ天使たち~』のリバイバル上映。天才漫画家の山猫スズメ先生が「推しが出てるから見ようよ! すごいかわいいショタだから!」的なことを仰るので、その小さな娘さんと、ドラえもんファン2人と(計5人)。そのあとバ~ミヤンに行った。やっぱりバ~ミヤンはいいな。4時間以上いたら夕飯どきになって「2時間制ですので」と言われてしまった。
 男の子は僕だけであったがドラえもん好きだしショタコンなので(?)たぶんあんまり違和感なく居られたと思う。でもみんながお菓子交換会(?)を始めたときはさすがに「バレンタイン近いのに手ぶらだなんて!」と男子たる自覚を深めた。ジャニオタには一部にお菓子交換文化があると聞くがどのジャンルに行ったって同じなのかもしれない。学校がそうだし。お菓子はすばらしいものだ。ありがとうございましたもらってばかりで。しばらく甘いものには困りません。
 さて『新鉄』でございますが非常によくできておりました。「のび太はこんなこと言わない!」とか「作劇の都合だけでジャイアンやスネ夫を安易に悪者にするなよ!」とか文句を言ってしまうのが嫌であんまり新ドラの映画は観ていないのですが、『新鉄』についてはそういう部分がまったくなかった。リルルのキャラデザもすばらしく、あれほど顔がまん丸なのにちゃんと大人っぽい美人のように見える。西岸良平先生くらいすごい。ピッポ(ジュド)も確かにめちゃくちゃショタでかわいかった。最高。バトルも良かったし褒めるところはいくらでもある。略。

 ラストのラスト、リルルとピッポが窓の外を飛ぶシーンは旧作を踏襲しているのだがなかなかこれがしっくりこない。のび太の幻覚なのだろうか。もし生まれ変わって地球に来たのならばなぜリルルは話しかけるわけでもなくどこかへ行ってしまうのだろう。そもそも3万年前のメカトピアでアムとイムのプログラムを変えたのだからリルルは生まれてこないと考えるほうが自然なのである。
 もちろん僕はこじつけ大好きな柔軟人間なので色々なことを考える。リルルが3万年後に自分が生まれてくるようなプログラムをしたというのが単純な言い方だが、事はもうちょっと複雑で神話的。新作ではリルルの心をアムとイムに組み込んでいるため、その子孫であるロボットたちが3万年後にリルルが地球に行くよう仕向けることは自然と言えば自然なのである。
 リルルはロボットたちをつくった神様の助手、という意味でも天使で、「3万年後に天使を復活させて地球という惑星に向かわせる」みたいな神話が3万年間語り継がれていた(プログラムとして受け継がれていった)と考えてみるのはどうか。
 この線で考えると、リルルとピッポがのび太を無視してどっか行ってしまう理由もわからんでもなくなる。たぶんこの時点で二人にはのび太に関する記憶がないのだろう。わけもわからずとりあえず(神話 or プログラム通り)地球に来てみただけなのかもしれない。とにかく野比のび太という人間が自分たちに関係あるらしい、とだけわかっている、とか。
 たぶんこのあと、リルルとのび太たちは何らかの方法で出会い、なんらかの方法で、あるいはキッカケでもって記憶を取り戻すのだと思う。なんか都合の良い道具を使うか、リルルやピッポの心がのび太たちに感応するなどして。それで全員泣く。僕らも泣く。そこまでが語られずとも組み込まれているのが『新鉄』である。なぜならば、「リルルの心をアムとイムに埋め込む」という(旧作にはない)場面がなければ上記のコーサツは成り立たない(こじつけがすぎる)ので。

 ところで、リルルは心の一部(三つある☆みたいなやつの一つ)をすでにピッポにあげていて、「リルルの心」は2/3しか残っていない。最後の一つは、しず(か)ちゃんの部屋にあったペンダントの☆であった。
 ……よくわかりませんよね。観ていない人のために書くつもりはなかったのだが、あとで読み返して意味がわかんなくなりそうなので自分のためにも書いておく。
 リルルが博士(メカトピアのロボットたちを作った神様)に代わってアムとイムの改造手術(?)をほどこす際、上記のように自分の胸の中にある「心(☆)」を取って彼らのプログラムに移植するのだが、本当は三つなければならない☆のうち一つはピッポにあげているから存在しない。三つめはしずちゃんの部屋にあったペンダントで代替するのである。おそらくただのプラスチックであろうと思われる無機物の☆を。
 本作屈指の名演出である。

『新鉄』は細かい部分でかなり雑な映画だ。突っ込みどころはいくらでもある。たとえばリルルを鳥かごに閉じ込めるとき、明らかに身体よりも格子の幅が大きい。逃げられるやんけ! とかドラえもんに脳波あんのかよ! とか家の電話に「総理大臣官邸」って文字が出るわけないだろ!とか。そういったことが「木を隠すなら森の中」的に働き、作品全体に「細けえこたぁいいんだよ」感を纏わせる。ドラえもん映画ってのはそうでないと「え、あそこ○○(任意の道具)使えばよくない?」「タイムパラドックス起きてるよね?」「3万年後とかの雑な指定でドンピシャにその瞬間に行けるの?(これについてはAIの進化かね~)」といった重要な突っ込みが思い浮かんでしまう。「そもそも雑なもの」という刷り込みを与えて視聴者をリラックスさせるため、どうでもいい突っ込みどころをたくさん蒔いているのであります!(そこそこ本気で言ってます。)
 件のシーンに対する「なんでただのプラスチックみたいなものがプログラムに関わるわけ?」という突っ込みも見事に無効化される。「細けえこたぁいいんだよ」と。しかし僕はここにこそ「細かくない」重要さを読み取るのだ。

 最も簡単な文学的解釈としては、「それはリルルとしずかたちとの関係の象徴だから」というもの。おおむねこれだけで片がつく話ではある。しかし意地悪な頭は「でもプラスチックじゃん」と突っ込みたがる。
 まず劇中歌『ピッポの歌』からヒントをもらおう。「一つめは愛 あなたと私はひとつ ふたつめに願い あなたはあなた 私は私 みっつめに思う あなたはなあに 私はなあに」
 ☆を入れる順番からして、緑の☆(しずちゃんのペンダント)がみっつめである。リルルには「愛」と「願い(自我=自他の境界)」はあるが、「アイデンティティ」はピッポにあげてしまって抜け落ちていたのだと解釈できる。今思うと旧作の主題歌が『わたしが不思議』ってのはよくできてるよなー。武田鉄矢すごい。それを『ピッポの歌』に置き換えた新作スタッフはたぶんもっとすごい。
 緑の☆がアイデンティティ(自己同一性)に相当するとして、なぜそれが無機質なプラスチックで通用してしまったのか。ここが肝である。これはしず(か)ちゃんがリルルに向けた名言がそのものズバリだと思う。「人間はときどき、理屈に合わないことをするのよ。」
 そーなのである。プラスチックの☆が心の代わりになるなんてのは理屈に合わない。その理屈に合わないことをしたからこそ、アムとイムの子孫たちも理屈に合わないことをするようになったのではないでしょうか?
「よくわかんないけど3万年後にリルルっていう美少女天使ロボットを作って地球とかいう惑星に送らなければならないらしい」なんて理屈に合わないことを3万年間信じ続ける(これは僕の勝手な説ですが)のは、「理屈に合わない」ことがプログラムされていないと不可能であろー。(A先生の日記口調)
 メカトピアのロボットたちはアイデンティティを明確に持ちすぎたのだと思う。だから「ああなった」のだ。リルルはそれを失ったからこそ人間に共感が可能になって祖国を裏切れたのかもしれない。ピッポについてはまあ、その、何度も壊れてるし、道具で生まれ変わってるし、なんか変異したんでしょう。もともと(メカトピアの価値観からすると)ポンコツだったぽいし。ジュドことピッポは最初から人間っぽい心を持っていたのかもわからんですね。
 ってとこまで考えたけど、じゃあ最初にリルルがピッポを助けた心はなんだったんだろうな。理屈に合わないっちゃ合わないのにな。リルルは人間に似せて作られたロボットだから、開発時にちょっと人間っぽい心を組み込んでしまっていたのかもしれませんね。それでしず(か)ちゃんの例の台詞にもピンとくることができたし、まさに理屈に合わない、プラスチック(らしきもの)をアムとイムに組み込むという決断もできた。うむ。

 ウー、結局ドラえもん映画を観ると考えすぎてしまう。どんだけ好きなんだ。
 最後にハッキリ書いておきますが、僕は原理主義者、いわゆる「原作厨」であって、そもそもドラえもんのアニメも映画も「まったくの別物」、極端にいえば「二次創作」のようなものと考えております。もちろん好きだし思い入れも人一倍あるが、アニメや映画がどうなろうと原作を侵すものではないというくらいの「距離感」は持っております。
『新鉄』を観ていても、原作のドラえもんとはまったく違う人物が動いて喋っているとしか認識していない。のび太や他の登場人物たちについてもそうである。違和感とかいう話ではなくて、まったく別の人たち。そしてその人たちも好きなので問題がない。あれはまったく『ドラえもん』ではないが、しかし確かに『ドラえもん』なのである。

2025.2.4(火) ユニバーサラー

 仮説 猪突猛進に専心できる人はその道の「肩書き」を得やすいが、悪くいえば「専門バカ」ともなりやすい。飲み屋で出会う「偉い人」はその場において大して面白くない場合が多いのだが、偉くなる過程で「ジェネラリスト」ないし「ユニバーサラー」(!)となる道を捨てた、あるいは諦めたのではなかろうか。
 そうであるならば「すごい肩書きの人たちが集まる店」では「ユニバーサルな」会話は生まれにくくなりそうだ。それぞれの分野がごく近い場合を除いて、「みなが心地よく遊べる原っぱ」を作る能力を持ち寄れない。結局、優れているはずの人々が寄り集まっても「他の客や近所の店の噂話」「土地と食い物と酒の話」「個人の事情や心情の吐露(たとえば恋バナ)」といったローカルな話題に落ち着く。
 もちろん「偉さ」と「ユニバーサル力(なんじゃそりゃ)」をバランスよく手に入れた優秀な人もたくさんいるはずで、そういう人たちが楽しく集うお店もどこかにあるのかもしれないが、僕のような庶民はなかなかめぐりあえない。せめて「偉いか偉くないかに関わらず、ユニバーサルな(後述)コミュニケーションが生まれやすいお店を作ろうというのが夜学バーなのである。

 ユニバーサルってなんやねん。「普遍的」「一般的」「万人の」「宇宙の」等と辞書にはある。僕がここで言いたいのは「みんなが共通してわかる、最大公約数的な」という幅を狭めるような意味ではなくって、むしろ反対に「なんでもアリ」ということである。限定されないこと。閉じていないこと。およそ誰にでもわかり「うる」こと。
 そこには「場」なるテーブルのようなものがあって、人々は言葉を置いていく。それを見てまた言葉を重ねる。誰にでも見えるように。誰にでもわかりうるような言葉で。各方面の専門家たちは特殊すぎる自身の知見をより普遍的な言葉に変換して慎重に出す。
 その中で、トランプでたとえると同じ数字でマークだけ違うようなカードを同時に出したりする。足したら21になって「わ、ブラックジャックだ」ってようなこともある。そういうことを楽しみたいわけだ。
 時に「スピード」のような応酬もあれば、「大富豪」のような穏やかに研ぎ澄まされる場面もある。しかしトランプと違って原則、勝ち負けはない。ただ楽しむ。終わりもない。意外な言葉がまた提出され、どこへでも行く。
 みたいな話。わかんねえかなあ。わかるだろうナ。(松鶴家千とせの逆)

2025.2.5(水) 休日っていいな

 ちょっと溜めちゃったんでしばらく短めに参ります。現在2/9。意を決して日曜日を夜学バーの定休日としたので週に一度は強制的に「何も考えなくてもいい日」がやってくる。自分は非番でもほかの人が立っていればどうしても気になるし緊急で動かなくてはならない事態もやってくるので休んでいるようであんまり休めていないのだ。
 正月にも「休みの効用」を書いた。定期的な休日なんてアメとムチのアメでしかなく、「休みのように毎日働く」のが僕にとっちゃ何よりなのであるが、今はそういう時期ではない。がんばるべき時期だからこそしっかり休みを作らなければならない。
 いま、我が夜学バーには従業員がたくさんいて、みんなとてもよくやってくれてる。年中無休でも回るはずなくらい人員はあるのだが、だからこそ僕は休まなければならないのではないかと思っている。僕はみんなにとって唯一の上司で、僕がバグったり潰れたりしたらすべては終わりなのだ。今週は僕が単独で店に立つのは金土だけで、端からは楽そうに見える面もあろうがだからこそ休みが必要と思われる。人を使っていることによってむしろ忙しくなる部分はある。心や神経。また新しいことを始めたり展開させていく時には「手持ちの材料や手法」だけでは不足な部分は多々ある。あえて暇をつくって余裕をもち、そこに新しいものが注ぎ込むようにしていかないと。そんな言い訳を用意してぼんやりしたり遊んだり。とにかく僕は日々を幸せにしておかなければならないのである。

2025.2.6(木) 教育学部の夜明け

 石炭をば早や積み果てつ。5、7、8、9と日記を書いて、6日に書くことがない。休ませてもらおうかな。いや何か書こう。どうしようね。本当は書くことなんて無限にあるのだ、思いつかないだけで。
 そういえば書いてなかった気がするけどわが早稲田大学教育学部の新校舎が2027年9月を目処に新築されるらしい。《国内最高レベルの「教育大学」としての環境を整えます》と公式に言っているので教育学部が使うと思って間違いないだろう。
 教育学部はどんどん学内の相対的偏差値が下がっているし、他の学部でカバーしている分野ばかりなので解体されてもおかしくないと危惧していた。しかしここにきて新校舎を作るということであれば、早稲田様は「教育」というものにまだまだ希望とか可能性を感じておられるということでありましょう。

 僕が入学する前年(2002年)の早稲田大学の偏差値は週刊ダイヤモンド調べで政経・法77、一文・商74、教育73、社学72、人科71、理工・スポ科68(さらにその下に二文がある)だそうである。教育は一文と商学部のちょい下で、僕の肌感覚とおおむね合致する。
 これが2024年だと社学・法80、文構・政経79、文・商78、国教76、教育75、人科74、理工71~72、スポ科70、ということになっている。まったく僕の知らない世界なんですけど?
 なぜ社会科学部、商学部、文学部(+新設された文化構想学部、国際教養学部)の偏差値が高くなっているのかというと、答えはたった一つである! 校舎が新しいからだ!(ドーン!)
 これは本当なんです、信じてください。仕事も含めていろんな大学や専門学校、あるいは中高などに行っているが、校舎を新しくすると人気が出るというのはもう業界では当たり前だし、常識的に考えても当たり前のこと。
 教育学部が相対的に下がるのはもちろん「教育という分野が流行らない」ということでもありましょうけれども、実のところ「校舎が古い」(しかもキャンパスの一番端っこにある)というのもかなり大きいはずなのだ。お金がかかっていないことと、流行んないことは同期する。逆にいえば、いま教育学部にお金をかけようとしているってことは、早稲田は「教育」という分野に勝機を感じているということなのでは?と希望的に思いたいわけ。ここはけっこう本気で言っております。
 子どもの数が減れば教育は流行らなくなる、のかといえばさにあらず、子が減ると「一人当たりにかける教育費が高くなる」という話だってあるわけだ。先端的な、たとえば早稲田に入るような層の親はより一層教育に力を入れる可能性は高い。
 これからは反動で教育ブームが来る、と僕は見ております。希望的にでもあるけど、そうじゃないとやっぱヤバいよねと思ってる人は多いんじゃないかな。学校教育にも改革や改善が必要だし、学校教育以外のところもどんどん研究を進めて、実践できる人間を育てていかないとまずい。そこに早稲田が先鞭を付けるのだとしたらOBたる僕も嬉しいのである。
 ってか改めて《国内最高レベルの「教育大学」としての環境を整えます》って悲しいよな。早稲田の教育が国内最高レベルに決まってるじゃないの。慶應に教育学部はないんだから、少なくとも私大ではナンバーワンであるはずだ。「国公立の名門には現状まったく勝てていない」と白状しているようなものだ。
 ちなみに上智にも理科大にもICUにも教育学部はない。GMARCHでも青学に「教育人間学部」というのがあるのみだ。教育分野ではどう考えても早稲田の一人勝ちなのでもっと誇っていただきたいものだが、「ライバル(競合)がいない」ってのがまた気を抜かせてしまったところもあるんだろうな。東大にも京大にも名大にも教育学部はありまして、むしろそっちと肩並べてがんばるべきなのに、「私大だったら一番だからいいか~」みたいにボンヤリしてるから学内での被差別地位に甘んじることになる。
 そこにようやく気がついたみたいなことだったらいいですよね。《国内最高レベルの「教育大学」としての環境を整えます》を本気で言ってるんだったら「東大京大名大筑波大と戦います」ってことなんだから。期待してます。とりあえずせいぜいオシャレな校舎を作って空虚な人気を勝ち取ろう! まずはそこから!

2025.2.7(金) タイプロ(3) ジャニーズの本質は「コントロール不可能」

一番は菊池風磨やNosuke先生が泣いてる場面ですかね……参加者に対して労力の投下を強制する構造がそもそもあって(応募時に企画の全貌は参加者に明かされない)、特に5次審査は期間も長く負担も大きかったにもかかわらず、泣きで綺麗に見せて終わり、という構成が無責任に見えちゃいました
(2月2日午前0:20にある男友達からもらったリプライ)

 タイプロ(timelesz project:Sexy Zone改名グループ新メンバーオーディション番組)について語るシリーズはここから始まり、この時点で僕は「タイプロ=パワハラ」の図式をメインに押し出している。
「参加者に対して労力の投下を強制する構造」ってのは僕もすでに書いた。「泣きで綺麗に見せて終わり」というのは演出上そう見えたということなので番組構成上の罪ではあろう。
 この友達が何にそんなに憤っているのかはわからないが、タイプロの問題ってのはパワハラにあって、タイプロの魅力もパワハラにあるよなっていうのが僕の態度なので、そことは矛盾しなさそう。

 別のツイートでは「(略)期待外れ感が大きかった ジャニーズを全く知らない(テレビをほぼ見ないで生きてきた)から的外れすぎるかも……」と言っているが、その通りだと思う。ジャニーズをけっこう好きでけっこう知ってる僕からすると「これこそがジャニーズ!」という感嘆しか出てこないのが今んとこタイプロなのである。
 また彼は主としてBMSGと比較して語っているのだが、他のオーディション番組(鯖番)とタイプロはたぶんまったく異質。タイプロは「ジャニーズという伝統芸能」の継承者を選ぶ企画である。そしてジャニーズとは「残酷さと不条理さ」の支配する世界であり、ファンもそれに慣れきっているし、振り回されることにある種の快感を覚えてさえいる。
 ジャニーさん(やメリーさんなどの偉い人)が決めたことが絶対であり、逆らうことはできない。かと思えばデビュー組やジュニアがジャニーさんに進言したことが「通る」ことだってある。そういう諸々の謎事情をギュッと詰めて「残酷さと不条理さ」と僕は表現した。だからこそジャニーズは女性に人気があるのだ。

 1日に書いたゲームの名前はコントロールという記事はこの伏線でもある。女の人は原則として「コントロールは不可能」だと思っていて、だから占いを筆頭としたスピリチュアルにハマりやすい。男は「コントロールは可能」だと思っているので、ジャニーズ文化のことがいまいちピンとこない。
 ジャニーズというのはそもそもジャニーさんとかいう誰にも(まあメリーさん以外には)コントロール不可能な異常天才の宣託によってすべてが決まるシステムで、その不条理さに女の子たちはスピリチュアルな刺激を受けてきたと僕は思っている。好きなジュニアが急に重用されたり逆に干されたりして一喜一憂する、わけのわからない感情の揺さぶられ方をマクロにもミクロにも毎日のように無限に提供されるからこそジャニーズは女の子たちの心を掴み続けてきた。
 他事務所のアイドルだとグッズがガチャみたいにブラインドになっていて推しが出るかは運次第という場合が多いらしい。そういうところで(女の子たちの(実は)好きな)「コントロール不可能性」を演出しているようだが、ジャニーズはこれをたぶんほとんどしてこなかった。好きな子のグッズが好きなだけ狙って買える。ジャニオタの日常はそもそも予測不可能性、コントロール不可能性に満ち満ちているから、グッズでくすぐる必要がなかったのだと僕は思う。それよりもジャニーさんの「チケットやグッズは子どもがおこづかいで買える値段じゃないと」という信念(ソースは知らないけど)のほうが優先されたのだろう。

 タイプロでは、たとえば山根くんという3次審査も4次審査も1位で通過した人が5次審査(定員8名)でいきなり落とされる、という展開があった。山根ファンからすると「だったら最初から1位にすんなよ!」ということなんだろうが、そういうもんなのだ。ジャニーズってのは。歌や踊りがどんだけできても、ジャニーさんに嫌われたら終わりなのである(たぶんね)。
 企画のテーマはそもそも「仲間探し」で、timeleszメンバーが主観で決める。最初からそれはわかっていたことだ。たとえそれまで高評価でも、別の視点から見て「合わないな」と思われたら落ちて当たり前なのだ。僕はいちおう男の中ではそれなりにジャニーズを見る能力がある(おかげさまで鍛えられました)と自負するが、山根くんについてはずっと「この人が1位なのはどうしてもおかしいのでたぶん落ちると思うが、もしtimeleszに入ってしまったら困るからできるだけ嫌いにならないようにがんばろう」とさえ思っていた。そしたらやっぱり然るべきタイミングで落ちた。『SWEET』というかわいい系の曲をやらせてみて、「やっぱ違うよな」とtimeleszの3人は思ったのだろう。言葉を選ばなければ「やっと山根くんを落とす理由ができた」という感じなんじゃないかとすら思う。完全な邪推として。
 選考も歌やダンスのみで行うのではない。ごはんを食べたり作ったり、ドライブしたり神社に参拝したり、共同生活をしたり、遊んだり、一緒にお風呂に入ったり、さまざまな視点から候補生たちは「見られる」。僕の最も信頼し尊敬するジャニオタが信頼する友達が「タイプロはサバ番の皮をかぶったバチェラー」と表現したそうだが、いや本当にそうですよね。生身の人間が主観で決めるんですよ。だからコンプライアンスとか関係ないんすよマジで。

「参加者に対して労力の投下を強制する構造」について、それは確かにあるんだけど、おそらく労力を投下しなくてもtimeleszのお三方(専門用語)にとって魅力的なら通ってしまうのがタイプロなのである。KAT-TUNの上田くんがチャンカパーナ踊らなかったみたいなことがあったけど、最終的にKAT-TUNに無傷で(?)残りそうなのは上田くんだもんな。すごいよな上田。上田だいすき。いや関係ないっすね……。
 歌もダンスもできないけど顔とガッツと人柄でファイナル審査まで残っている篠塚くんとかね。「もっと上手い人いるのに!」とか「教えてくれた人たちを犠牲にして自分だけ上に行くなんて!」とか言われてると思うけど、そんなのジャニーズという伝統芸能の世界では当たり前なんだもんね。それこそがみなさんに愛されてきた理由だし、タイプロは、というかtimeleszはそういうことも含めて「伝統と文化」(timeleszメンバーが何度も口にしている2単語)として続けていこうとしているんだよね。「ジャニーズ」とか「ジャニーさん」という単語を一度も(少なくとも番組内では)使わずに。
 最初に引用したツイートの語る問題点がもし「無責任」という一語に集約されるならば、ジャニーズというのはそういうもんだとしか言いようがない。「タイプロに集中するために仕事(or大学)を辞めました!」という候補生がいたとしても、そんなこととは関係なく落とされることもあろう。浅井乃我くん(17歳!)はこのためにアメリカから移住してきたようだが、そんなことも別に関係ない。無責任といえば無責任であるが、ジャニーズなんてもともとそういうもんで、辞めたジュニアが路頭に迷うなんてことはいくらでもあっただろう。その中にはジャニーさんか誰かから性被害を受けた人もいたはずで、無責任といえばこれほど無責任なことはないし、あまりにも不条理で残酷すぎる。だからここ数年は特に問題視されているわけだが、構造としてはそれに近いようなことをタイプロは「伝統と文化」という旗の下に続けようとしているとも言えて、まあいろんな意味で恐ろしいプロジェクトなわけですよ。みんなで風呂入ったり雑魚寝したり、それってジャニーさんが作った伝統と文化だよね? 篠塚はすぐ脱ぐし。よくやるよな。本当にすごい。問題は性加害にあって、風呂や雑魚寝や上裸にあるわけではないのだ。そこをしっかり分けることが現代の多くの人には苦手なんじゃないかなと思う。徹底的に僕はタイプロとtimeleszを褒めるのだが、主たる理由はここにある。

「裸の付き合い」に象徴される昭和的な触れ合い方も、実際今の人だってすごく好きなはずなんだよ。結局真っ向から叱ってもらったら嬉しいって人は多かろう。みんなスポ根が大好きだし、パワハラもスレスレまでは気持ち良い。殴ってくれる熱血教師に飢えている。だからタイプロは人気出たのだ。
 芸人の永野さんが「(今の若者は怒られたりすると)『かけがえのない僕』って顔になるじゃん」とよく言っているようだが、それって「かけがえのない僕」を確認する手段でもあるってことなんじゃないかしらね。

2025.2.8(土) 身体の硬さ

 10年前、20年前に仲良くなった友達とはやっぱり健康や病気の話になりがちである。先月鍼に行ってしばらく良かったのだが少しずつ戻るのを感じる。また下半身の柔軟性が低下していることもようやく自覚した。
 何度も引用する世阿弥の「初心忘るべからず」に込められた希望は「人生は新しいことの積み重ねであり、過去の経験が失われることはない」。その都度の初心を忘れなければ。
 歳を取れば歳を取ったなりの考え方や話題が増えてくるのだが、そのぶん過去が消し去られるわけではない。あくまでも積み重ね、「増える」ということでなければならない。幸いにもこのホームページはその証拠にもなる。もちろん「変わらないために変わる」ということも重要なので、執着はしないように、バランス良く。
 ちょうど太田光さんが『芸人人語』の最新回(「一冊の本」2月号)で、「肉体だけは歳を重ねたが私の中身は、一六~一七歳からおそらく一ミリも成長していない」と書いていた。彼は今年還暦を迎える。
 僕はといえば、十歳で「人格を自分で作る」ということに目覚め、一七歳までに今の自分の基礎がほぼできあがり、二三~二四歳で完成し、三二歳には「どうすればいいのか」がわかった。今はその実践に苦労している段階である。あえて内面ということでいえば太田さんと同じく一六~一七歳くらいから変わっていないように思う。多くは語らないが僕の今の最大の悩みは当時の悩みとほぼ変わらない。恐ろしい話だ。
 悩みを解決するために、若き日の自分は「悪手」を打った。今はそれが悪手であることだけはわかっていて、手をこまぬいている状態。もちろん待っていたってろくな結果はない。自分で打開するしかない。そのくらいまでは成長したのだが、まだまだ未熟であることが突きつけられるばかりで辛い。笑える。
 立位体前屈で指先がつくかつかないかというくらい硬くなっていてさすがに驚愕した。そりゃ肩も凝りますわね。もっとはしゃがないとな。逆上がりしたり。コウモリでぐるんぐるん回ったりってのも今の状態じゃ危なっかしい。若い頃にやれたことはすべてやれると思うのは愚かしい。そうではなくて、今の筋力や柔軟性、運動神経やリズム感などをしっかり把握して、それでできそうなことはだいたいできるはずというだけなのである。やりたいことがあるならまず、身体をその状態に持っていかなければ仕方ない。
 アンチエイジングという概念に興味はない。どういう状態が良いのかを個別に見極めるべきだし不可能ならば早々に諦めるほうがよかろう。「遊んでたい」「愛されたい」と望み、そのためによさそうなことをぼちぼちとやる。いつまでも本なんか読んでるのも単純にただそのためでしかない。文章を書くことだって。
 身体を柔らかくするためにはどうしたらいいだろう? かつて僕は立位体前屈で手のひらがつくくらいだったのだがその過去から逆算するのは愚かしそうだ。僕のやりたいことはなんだろう? たとえば逆上がりである。逆上がりを毎日100回やって柔らかくなるくらいの柔らかさでいいのである。それ以上は望まない。ただ逆上がりを毎日100回やるのは難しいから、たまに逆上がりを交えながら日々のなかでやりたいと思えることをやや大げさに実行していく。そういえば縄跳びも最近やっていないな。一緒にやってくれる人いないかな。
 男って友達が少ないんで、男が男の友達を作ろうと思っても「友達を必要としている男」ってもんの母数が少なすぎて難しいんですよね。せっかく孤独を回避しようと思っても叶わない。友達を必要とする人がもっと増えてくれるように、ちまちまと活動を続けていきます。男が孤独死する原因は孤独だっていう身も蓋もない本をこないだ読んだよ。結婚して安心してる人は先立たれた時のことをしっかり考えましょう。

2025.2.9(日) 虫忌

 手塚治虫が亡くなってから36年が経つ。僕が初めて「好きだ」と思った家族以外の人間であった。その頃すでにこの世にはなく、遺された漫画や伝記などを読んで「好き!」を深めていった。「好きな人いる?」と聞かれて「手塚治虫」と答えていた小学校低学年の自分は、けっこう素直にそう言っていたのである。本格的な初恋は中2の夏だったかね、夢に出てきた謎の少女。こっちのほうが100億倍恥ずかしい。
 幼少期からずっと好きなのは『来るべき世界』や『ロック冒険記』。今や古典中の古典である。短くて手軽に読めるからぜひ。なんでこの辺が好きなのかっていうとたぶん手塚先生自身が余計なことを考えずに書いてるからなんじゃないかな。いや余計っていうと失礼だし僕はもちろんその「余計」も含めて手塚先生のファンなんだけど、初期作品はより本質的だってのは思う。
 11月3日と2月9日は真っ先に手塚治虫のことを想う。これは単に30年以上続いている単純な惰性だ。しかしこういった惰性こそが人生を作っていく。「僕はまだ手塚治虫が好きなんだな」と毎年2回は確認する。そして「自分は手塚治虫のどこが好きなんだろうか?」と自問する。考えたり、読み返したりする。
 先月、爆笑問題がテレビ界の天下を取った(と僕は想っている)ことについて書いた。なぜそれが嬉しいのかと言えば、彼が文化と教養の人だからである。日本の漫画文化を創ったと言って過言ではない手塚治虫も、文化と教養の人であった。そのことが僕には何より愛おしく、感謝すべきことである。僕が文化と教養の人(自称)だからだ。僕がなんとか自己肯定できているのは、手塚治虫のおかげなのだ。

2025.2.10(月) 酒日記(本とか読みたい)

 台東区のとある超老舗喫茶店はマスターが亡くなり昼は下の娘さんとお母さんが、夜はバーとして上の娘さんが営業している。ハーパーソーダ、赤ワイン。歴史あるお店によくしていただくのは素直に言って誇らしい。たまに立ち寄ると「やっぱり来て良かったな」と思う。
 たぶん数年ぶりに東上野のBar Bookshelff。JBA(日本バーテンダー協会、現在はNBA)のカクテルブックを見せていただく。Webにほとんど情報がないのだがあるサイトによると1934年に出た本の改訂版で1964年発行(メモし忘れた)。フリマサイト等にはまったく見当たらない。ほしすぎる。いい本だったので。しかし「ギムレット」という項目がないのは意外だった。
 ジントニックとマティーニを飲み、ぱらぱら本を読んでいると隣に座っていた男女が、たまたま拙著『小学校には、バーくらいある』を手に取り「面白そう!」と読み始めたので、「それ僕が書いた本なんですよ」と伝えた。かなり気に入っていただき、その場で簡単な感想もくださった。「じつは盛岡でバーをやってまして」とのこと、「3月頭に東北に行くつもりなので寄ります」と宣言した。言ったからには行かなくてはならない。がんばる。
 それにしても僕は「持っている」のですよね。たまたま飲みに行ったら自分の本を手に取ってくれる人がいて、それが遠方のバーテンダー、しかも直近寄れうる土地だとは。
「きゅんパス」というJR東日本の一日乗車券で青森に行く予定で、この計画が難しい。ゲーム性が高すぎて何時間あっても答えが出ない。盛岡には寄れるとしたら昼間なのでお店の扉にお手紙差し込むくらいしかできないかもしれないが、できる限りのギリは果たしたい。

 それからどうしたんだっけな。そうだその近所のウォッカバーで一杯だけ、ニューアムステルダムというのをストレートで飲んだ。それからようやく夜学バーへ。20分くらいだけいて、「うなばら」で白梅とジンフィズを飲んだ。いったん夜学に戻ったあと近所の店でウイスキーをたくさん(覚えている限りだとターキーライ、デュワーズ8和、デュワーズ13、ジェムソン、あとなんかもう一杯か(なんだっけ)そしてまた別のお店でウイスキー1~2杯(覚えてない)とレミーマルタンXOを飲んだ。これをやめとけばよかったよね。おかげさまで次の夜まで使い物にならなかった。冷静に生きていきたい。本とか読みたい。

2025.2.11(火) 重んじ合う関係(教室編)

 使い物にならないまま夜学バーのカウンターに座って若手の仕事をじっと見つめていた。今日は「建国記念の日」なのだが「建国記念日」と覚えている人が思ったより多くて、ついハラスメントしてしまった(言葉のあやです)のだが「言葉について考える」というのはそういうところにも宿るものだ。
「タイプロ(Sexy Zone改名グループ新メンバーオーディション)」の二次審査でも菊池風磨くんがある候補生の履歴書について「timeleszの最初のtが大文字になっている」ことを鋭く指摘していた。timeleszはTimeleszでもtimelessでもない。

 ともかく学校の先生、わかりやすく教育実習生なんかを思い浮かべてもらいたいが、緊張していたり自信がなくてオドオドしていたら子どもたちはまったく話を聞いてくれないか、軽んじてくる。軽んじられたら向こうずっと主導権は生徒たちに握られることになる。バーの営業も同じ。お客に主導権を握らせるということは、お客に暴走を許すということである。そのくらいに考えておかないと小さなお店に「安心」は生まれない。
 もちろん独裁的な店主がよいわけではない。
 ただ胸を張ること。怯えないこと。常に研ぎ澄ませていること。
「すべてのスキマに狙い合わせてミクロな視点を研ぎ澄まし話すだろう」(Cornelius『太陽は僕の敵』)なんて歌もありましたわね。


 僕が最近ずっと言ってる「みんなの中には自分が含まれている」という箴言。これはマジで箴言なのさ。「場」というもの、すなわち「複数の人のいる空間」というものを考えるとき、常に、絶対に、「自分」というものを排除して考えてはいけない。
 なぜこんなことを僕が強調するのかといえば、もちろん、人は「みんな」ということを考えるとき「自分」を排除、度外視しがちだからである。ほんとなんです! 信じてください!
「観察」ということをする時に、「観察者」という存在を抜かしては考えられないのと同じ。「観察」する時、自分もまた「観察」されているのだということも大事。
 場において「どうすればいいんだろう」と考える時、必ず「自分を含めたその場全体」ということを考えねばならない。焦ると「自分を抜かした他人たち」のことばかり考えてしまう、もしくは「自分」だけを考えてしまう。大切なのは常に「自分を含めたみんなたちの関係」なのだ。
 抽象的なことばかりで恐縮だがめちゃくちゃ大切なことである。

 がんばって具体的なことを言ってみるか。
 また学校の先生を例に取ろう。授業中生徒たちがうるさくしてて、叱りつける必要を感じた時。「どうしてそんなにうるさいの!」「静かにしなさい!」「成績落とすよ!」「そんなんじゃ社会に出て困るよ!」というような言い方をしても、子どもたちには伝わらない。なぜならば、これぞまさに「自分を抜かした他人たち」の話でしかないからだ。それは「みんな」ではない。「なんでお前に言われなきゃいけないんだ、関係ねーのに」としか思えない。
 子どもたちに「自分ごと」と思ってもらうためには、「この空間にいる全員」が「みんな」であるという意識をもって語りかけねばならない。「全員」とは自分、つまり先生も含めて初めて「全員」である。多くの教員は「自分と生徒たち」というふうに完全に切り分けて、「この教室(授業)を成り立たせているみんな(生徒+教員)」という考え方をしない。だから生徒たちから人間扱いしてもらえない。
 叱る時でもなんでも、語りかける時には「自分(教員)を含めたみんな」という前提に立ってものを言わないと、なかなか言葉は届かない。あるベテラン教員は、「○○(その先生の名前)悲しい」という言い方をよくするのだそうだ。「ああ、○○先生は悲しいんだ。悲しませてるのは私たちか。悪いことしちゃったな」と生徒たちは思う。んま、容易くそう進むのはそこが女子校だったからだと思うけど、すごく単純にはそのような理屈。実際。
 ただし、「自分はお前らに傷つけられた!」と一方的な被害者として主張すると、生徒たちも「ハァ? お前が勝手に傷ついてるだけだろ」とシラけてしまう。これは「自分」しかないパターンである。
 僕はといえば、「君たちの気持ちもわかるがこっちにはこのような事情がある。よかったらこのような感じで手を打たないか」というような話し方をしていた。それが通用したのはそもそも「友達」のように接することで「この教室には僕を含めたみんながいるよね」という共存関係を作っておいたから。つまり、普段から「この教室には《みんな》というものがあって、それは座っている生徒たちと教員である僕とを合わせたものだよね」という認識を共有していたからなのだ、と思う。振り返れば「僕たちサァ」みたいな言い方もよくしていたかもしれない。上手いね。
「先生がかわいそうだからあんまりうるさくしないであげようよ」という発想は、「この場には先生と生徒の2種類の人間がいて、それぞれが気持ちよく過ごせるのがいいよね」という気持ちから生まれる。
 生徒たちが「ここには生徒しかいない」と思えばいくらでも先生は軽んじられるし、先生が「ここは自分が授業をする空間だ」とだけ思えば生徒たちは軽んじられ、当然うまくいかなくなる。
 両方を同時に考える、というよりは、両方が合わさって一つの空間ができあがっているという当たり前のことをしっかり意識することが大事。夜学バーをやっているとよく思う。

2025.2.12(水) 夢のつづき

 友達と銀座で飲んだ。1/18の続き。80歳くらいのマスターお店で、なぜか『グランメゾン東京』を3話くらいまで見た。なるほどドラマの王道を完璧にやっていて面白い。こういうのを好む価値観は少なくとも90年代から変わらないんじゃないだろうか。木村拓哉の演技もキャラクターも30年間ずっと一緒で、それが今でも人気であることに驚く。
 もうちょい銀座で飲むかーと思ったがイマイチ食指が動かず上野に移動。二人ともよくお世話になっている某店へ。前回は「兄妹みたい」と言われたが今回は「カップルみたい」と言われた。前回は還暦当日だったが今回はバレンタイン2日前ということでチョコレートをいただく。おいしかったです。毎度タイミングが完璧。運命。
 十数年前にママがブログで書いていたという自伝小説みたいなものの存在を教えていただく。あとから必死で探しましたら、見つかりました。こっそり、ゆっくり読みます。時はケータイ小説全盛、の直後くらいで、『恋空』映画化の数ヶ月後に始まっていた。そういえばママの「書く」というジェスチャーは明らかにガラケーの打ち方であった。時代!
 ほかにお客がなかったのもあってなんだかこの日はいろんな話をしていただけた。彼女はわりと「自分の話」をマシンガンのようにするタイプなのだが、それで全然嫌な気分にならないのは人柄と話術である。個人的には! 話すときに身振り手振りを多用するカウンタラー(バーテンダーに限らずカウンターに立って接客する人)はとても好きだ。っていうか、なぜ使わないのかと思う。そこは舞台なのに。
 話を聞いていると僕は「わかる、わかる」と深く思う。器用貧乏で飽き性、だけどエネルギーだけは人一倍で、なんでもできるしやりたくなる。ある程度のレベルに達するとすぐ次のものに興味が移る。僕がバ~ミヤン2ヶ月で辞めた理由も主としてはそこなのだ。
 夜学バーに移動。ここでは友達にごちそうしていただいた。「ジャッキーさんなんか一杯飲みますか」と。たぶんサシで飲むのはしばらくない。餞の酒。漢詩で言えば「勧君更尽一杯酒」であるな、旅立つのは向こうなので立場は逆だが。ありがたく頂戴した。
 ここでカウンターにいたsaku氏と3人で「旅立ちの前に合宿でもするか」というノリになり、3/24月~26水の2泊、すでに予約してしまった。場所は茅野。詳しくは後日。参加者募集、お問い合わせよろしく。
 別れ際、「来月会えたらいいね」と言ったら「会えますよ」と返ってきた。洒落てる、ってか、その通りだよね。有言実行できなきゃな。甘えずに。

2025.2.13(木) えま

「さすがに親友でしょ」っていう何気ない一言から我々は親友になった。こんなもん言葉だけの問題で親友と友達の差なんてあってないようなものなのだが、おそらく互いに照れくさくもそれを「それでいい」と思っているから成立している。渾名のようなものだと思う。きっかけがあるかどうかだけ。
 家出同然で、というか誘拐紛いに名古屋から出てきて18歳になった瞬間ブラックなバーの店長となり店に寝泊まりしていた。懐かしいな。今日で22歳だそうな。おめでとう。
 知り合ってちょうど4年ということだ。いろんなことがあった。最近は会う頻度もかなり減っているし、かつては毎日LINEしていたが今はそうでもない。「友達 もう一生分の絆を深めおえた相手のこと」って以前ツイートしたのだがいろんな古い友達と並んで彼女のことも思い浮かべていた。そしたらちゃんといいねが来た。
 うっかり死にかねない死に損ない(自称)だができれば永遠に生きていてほしい。いなくなったらつまんない。もちろんさみしいし悲しいのだろうが「つまんない」が一番大きい。友達はいてくれるだけで面白い。友達がいなくなったらつまんない。
 いかに好きか、書こうと思ったのだがもう十分かな。いつもがんばっていて本当にえらい。

2025.2.14(金) 主は与え、主は奪う。

 もらってばかりの人生である。奪われてばかりの人生でもある。与えた記憶はまるでない。お返しをする甲斐性もない。
「もらう」と「奪う」の境界は曖昧だ。「与える」と「奪われる」も見解の違いでしかない。奪われてばかりの人生は与えてばかりの人生と紙一重かもしれないし、もらってばかりの人生は奪ってばかりの人生と紙一重なのかもしれない。僕はもらっているつもりで奪い、奪われているつもりで与えているような気がする。
 もらい、奪われる人生か。
 奪い、与える人生か。
 これは案外重要な「ものの見方」ではなかろうか。

 僕は毎年チョコレートを強奪する。深く感謝します。不器用すぎて僕には何もお返しできない。誰にも何も与えることができない。
 無意識に、奪う奪われるという発想で生きているからなのではないか?
 きっとそのくらい恐ろしい少年時代だったのだ。
 与える立場になる方法を考える。たった一つしか道はない。
 そんなことが僕にできるのだろうか?
 できるか、の前に、すべきかをどうしても考えてしまうのに。
 まずは裸に戻るのだ。(思わせぶりに、終わる。)

2025.2.15(土) (1)京都 ファンファン40祭

 旅行記ばっかまとめたいので暇な人リストアップして送ってください。
(僕が一番暇なのかもしれないけど。)

 午前10時から配信の「タイプロ(Sexy Zone改名グループ新メンバーオーディション)」最終回を観ながら身支度。11時57分の「こだま」に乗る予定で、本編が1時間37分(ちょうど「のぞみ」で東京から名古屋までの時間)あることはわかっていたので、最後まで見られないことは確定していた。新メンバー発表の4人目、篠塚くんの名前が呼ばれたところで家を出た。折りたたみ自転車に乗って最寄り駅に着いたところで、スマホを家に置いてきたことに気づいた。やべー。
 予約した「ぷらっとこだま」は変更が一切効かず、乗り遅れたら10000円ちょいが全部パー。取りに戻る時間はもうない。スマホなしで旅行に出るのも面白いかな、とは思うものの、まず東京駅までの紙の切符を買い、さらにタブレットで(繋げられるWi-Fiを探して!)「ぷらっとこだま」の乗車券を表示させる必要がある。さらに自転車も畳まねばならない。頑張ったとて間に合うか絶妙なラインなのだ。
 冷静になろう。そもそもスマホなしで京都、名古屋、そして静岡を回るのは無理がある。取りに戻るしかない。しかし問題は「10000円超がパー」という点。泣くしかないのか。
 んま僕はなれてるからあわてないのだ。とりあえずタブレットを取り出す。さるお店のWi-Fiを発見。フリーではないがメルマガ的なものを登録すればOKっぽい。そのくらいは仕方ない。テキパキと繋げ「ぷらっとこだま キャンセル」とかで調べてみる。発車前なら取り消せるってよ。ウォース シャーアー
 取消料が50%(5000円ちょい)かかったが、前向きに考えれば5000円得したのだ。ところでさすがJRさんですね、取消の手順がわかりにくすぎる! 通常のEX予約のページからはたぶん無理(見つけられなかった)で、JR東海ツアーズのサイトからEXにログインし直したらできたがそれもかなり発見しづらいところにあった。まったくこすっからいことをしやがる。
 いったん帰り、タイプロの続きを見て、自転車に空気をしっかり入れて(かなり抜けてて焦った、小径車は空気ないとすぐパンクする印象)ふたたび出立。金券ショップに寄って京都までの自由席を730円引きで購入。指定席を定価で買うより1580円安い。しかも(ぷらっとこだまと違って)東京都区内発だから東京駅までの運賃も必要ない。……こういう細かいところが本当に僕って細かいよね。
 金券ショップのきっぷはみどりの窓口で日付変更する必要がある。混んでたら詰むなとは思ったがさっき最寄駅に行ったときの光景を海馬から(?)引っ張り出して「いける」と判断した。整理番号2番で瞬殺。その間に自転車を畳む。頭がいい……頭がいいんだ僕は……僕が一番うまくガンダムを……。ちなみに東京駅で日付変更しようと思ったら1時間くらい並ぶ可能性もあった。実際めっちゃ並んでてヒヤッとした。

「こだま」と「のぞみ」だと京都まで1時間半くらい差があるので、むしろ予定より早く着いてしまった。駅前の「ポコ」でオムライスとコーヒーをいただき、磔磔へと走る。偉いもんでちゃんと間に合った。
 今日は旧友(と言って差し支えなかろう)ファンファンの40歳記念ライブ。そのために来たのだ。かわしまバンド、TOMOVSKY、伊藤せい子、ドクロズ、小山田壮平(band)、思い出野郎Aチーム。ファンファンは出ずっぱりで4時間ずっとトランペット吹いたり歌ったりしてた。同い年なのだ、頼もしい。ちなみに小山田壮平さんや藤原寛さんらも同い年。1984最高〜。
 みなさま素晴らしかったのだが「かわしまバンド」が凄まじかった。楽器隊はファンファン、ファンファンの夫、夫の兄、夫の父、夫の母、ファンファンの母、だったかな(違ったらごめんなさい)。そしてボーカルはファンファンの息子。なんじゃそりゃ!
 僕はかねてから申し上げておりますように小学生くらいの子供が「活躍する」というのが好きで好きで仕方ないんですね。サンボマスターの『できっこないをやらなくちゃ』をですね、声変わり前の少年がまっすぐ前見て熱唱する様、これはもう大好物でした。ありがとうございます ありがとう
 最後の曲こと2曲目『デイドリーム・ビリーバー』もとても良かった。

 ライブ後はあちこち街を回ったのだが長くなるのでいったんここで。つづく。

2025.2.16(日) (2)京都→名古屋 トビアス/営業

 スペースネコ穴に行ったらまだ営業してなかったのでいったん都そばでカレーそばを食べる。河原町の良心。食後のコーヒーを飲みに「Jazz In ろくでなし」へ。
 去年の5月にここで知り合ったトビアスというドイツ人に「今夜木屋町で飲むよ」と連絡したらすぐに返信があった。「Hier schreibt Tobias Bruder. Tobias ist gestorben am 19. Januar.」これまで日本語でやりとりしてきたのに急にドイツ語で、嫌な予感がした。大学の第二外国語がドイツ語だったので意味もなんとなくわかってしまう。その後英語でほぼ同じ内容が送り直されてきた。「it's Tobias brother. Tobias has died. Tobias passed away at 19.01 in Kyoto.」
 まだ30代半ばくらい、京大で宗教哲学を研究していた。当時の日記にも確か書いたが、偶然隣り合って天理教や西田幾多郎などについての話を楽しんだ。
 マスターの横さんに仔細を訊ねると、脳梗塞とのこと。そのせいとばかりは言えないが彼は話しながらずっと煙草を手放さなかったし酒も相当飲んでいた。どちらも尋常じゃないペースだった。「ろくで」に通っていたのも酒が安くて煙草が吸えるからだろう。夜学バーに行きたいと言ってくれていたがもう少しだけ高いし煙草も吸えないから楽しめるだろうかと心配していた。4月から神戸女子大にポストが決まっていたらしい。これからというところで、本当に惜しい。
 まずはコーヒー(400円)をいただいたのだが、献杯にとサントリーオールドの水割り(600円)を注文した。左隣で本を読みながらコーヒーを飲んでいた若い女の子も、「もう一杯」とおかわりを申し出ていた。これは僕の直観でしかなく、妄想乙と言われたら恥ずかしいのだが、たぶんこの人は「話したい」んだなと感じた。「ろくで」にどのくらい通っているのかはわからないが、このお店では居合わせた人同士でざっくばらんな会話をするのが当たり前だというのは何分か座っていると誰でもわかる。僕も右隣の70代くらいの女性に話しかけていただき、あれこれ受け答えしていた。
 そうなると僕はそういうの「能力」ですから、これご本人がお読みになったらば恥ずかしいんだけど、実のところその女の子が声を出しやすくなるような工夫をいろいろ試みた。もちろんふつうにはそれとわからないほどさりげなく。それでぽつぽつと声を出すようになってきたところで、横さんがやってきてその女の子に「この人(僕)ね、本が好きだと思うよ。話してみたら面白いよ」と促した。ちょっと泣きそうになってしまった。僕とトビアスを結びつけた時とほとんど同じアプローチだった。
 京都に住んでいるが東京に行く機会がけっこうあるとのことで、夜学バーの名刺をさしあげた。お会いできたら嬉しいな。70代くらいと思しき方も、かつては東京に住んでいて娘は今も東京だと言う。ホスト遊びなんかも嗜まれていた(いる?)そうで、歌舞伎町の愛本店の話題などで盛り上がった(僕も行ったことがあるのだ!)。女の子が終電で帰り、僕もそろそろ行くかと思っていたところに、3人組のおじさんたちが左隣に座って、これもまた直観だがもう一杯飲むことにした。ズブロッカ(600円)をストレートで頼んだらズブロッカと書かれたショットグラスにダブル弱くらい注がれてきて、ちゃんと冷えていた。行く人! ズブおすすめだよ〜。
 3人組は大学時代の友人だそうで、2人は東京在住。「たまに浅草でDJをやっている」なんて話も出て、ここでも夜学バーを宣伝。すべて旅行は営業活動なのだ、ただ遊びに来ているのではない。
 また右隣の方のさらに右の席にも面白そうな男の人がいて、聞けばカートコバーンが死んだくらいの年だけどまだ京大理学部に在籍していて、住まいは東京。なんのこっちゃ。月に一度は東大病院(夜学から徒歩圏)に行くそうだ。宣伝! 宣伝!
 宣伝と言っても僕は能力者ですので、「実はバーやってるんで来てください!」なんてダサいやり方は最終手段。あくまで自然に会話する中で「えっ、東京でバーを? 行ってみたい」と思っていただくように努めております。この時は「京都の人?」「お仕事は何を?」といった無粋な(失礼)質問をしてくださる人が多かったので楽だった。
 酣のうちに抜け、ネコ穴へ。お客が4人いて、食べものはほぼなくなっていた。コタツ入って赤星飲みながら鍋の底の余りものをつつく(あとでうどんにしてくださった)。ここでもたまたま不動産関連の方々(雑にまとめてすみませんが説明が難しいので)といろいろ話して名刺交換。しかし実は彼らの名刺を名刺入れごとネコ穴に忘れていってしまった。記憶力がとても良いので断片を思い出してSNSをフォローするなどはできた。よかった。そして偉い。
 その2人が帰ってからは「コタツは良い」「昔のガラス瓶はよかった」みたいな話を。赤星2本めを飲み終えたところでお暇する。
 木屋町に戻りキャロル・キングへ。店主のトムさんはいつも通り酔っ払ってテーブルの皆さんと談笑していた。彼も昼間のライブにおいでだったので「かわしまバンド最高!」という意思疎通(大事)だけして、カウンターでニカミズを2杯飲んだ。店員のサヤカさんから「こないだネコ穴に行ったらちょうどタマさん(店主)がオザケンの武道館(LIFE再現ライブ)から帰ってきた直後で」と聞く。えっ、タマさん来てたの? 僕も行ってたし、なんなら先日ネコ穴を訪れたみつきちさん(夜学従業員)もいたんだけど。そういう話すればよかったな。わざわざ東京のライブ来るくらい強火(?)だったとは。次回忘れないようにしよう。
 ここでも、東京に長く住んでいた方や、4月から神奈川で就職するという方と同席する。ヤガバ営業しといた。あと「もしよかったらネコ穴で僕の名刺入れ回収しといてください」と無茶振りもしといた。たぶんしばらく行けないので。
 サヤカさんからすすめていただいた「ココボンゴ」で一杯だけ飲む。オールドクロウのソーダ割り。混んでいたのもあり僕はほぼ喋らなかったが帰り際、お客が少なくなってきたところで気になる話題が聞こえてきたので割り込んでしまった。神社(神道)と日本人の意識みたいな話。「こういう話ばっかするお店東京でやってるんでぜひ〜」みたいなザ・宣伝をしておきました。なんか京都は捗るな。うむ。
 宿をとっていないので24時間営業のマクドナルドで時間調整して始発の在来線で名古屋へ。

 名古屋着いた。8時過ぎ。よーし喫茶店行くぞ〜と思ったところでハッとした。日曜だから開いとる店は開いとるけど閉まっとる店は閉まっとるやんけ! とりあえず名鉄乗って本笠寺で降り、「にんじん」というお店でモーニング。最高だった。中日新聞読んだ。お水が異様においしかった。
 10時の開店凸で「街と珈琲」へ。夜学バーブレンドはここの焙煎です。2時間くらいちゃぶ台席でカタカタ、日記書くなど。ひと段落したところでカウンターに移動して世間話。13時前くらいに出て、あえて自転車引いて歩きながら詩を書いた。久々に更新されてるのでぜひ。
 今夜は実家ではなくあえてホテルに泊まる。15時にチェックイン。スガキヤ食べて、みたらしとお好み買って、それでもまだ時間が余っているので喫茶店を探すが、ほとんどお休みか閉業していて困った。「ジョーク」というお店に入る。名店! ミックスジュースを頼んだ。シロップ2種類、バナナ、牛乳。そういうのもあるのか。チト僕も研究してみるか。ガチで喫茶店代って経費なんだよね色んな意味で、僕にとって。ドストエフスキー『未成年』読み始める。面白いんだけどまだ読みづらい。海外文学の翻訳って作品ごとに独特の文法・語法があるから慣れてくるまでが辛いのだ、大体50〜100ページくらいのところで脳がついてくるようになる。
 宿に入る。昨夜寝てないからグッスリだ!と思ったら全然眠れない。ようやく入眠できても1時間半で目が覚めてしまった。えー。明日の早朝にこの近所の喫茶店に行きたいのと、着いてすぐ寝るんじゃ申し訳ないって理由で実家泊やめてホテルにしたんだけどな。しまったな。
 寝たり寝なかったり、あるいはスマーホンを眺めたりなどして時間を浪費。だんだん鬱っぽい気分になってくる。悩み多き年頃、いろいろ考えることがあるのだ、最近。早く東京に帰りたくなってきた。火曜の夜は静岡に宿をとっていたのだがキャンセルした。どうするかはあとで決める。
 お腹が空いてきたのでみたらしとお好み食べて、麦茶飲んで、大浴場が2時までなので重い腰あげて入ってきた。少し元気になってくる。「歩ける。行こう。」的な。走れメロスね。
 もうすぐ深夜4時なので、4時に開くはずの喫茶店に行ってきます。現存喫茶では一番好きかもな。このお店だっていつまであるかわからないし、あったとしてもいつでも行けるわけじゃない。噛み締めてくるよ。神宮前駅も再開発で人が増えちゃって、踏み荒らされないといいなあ。って、僕のモノじゃないんで偉そうには言えないけど、思うだけはいいよね。ここが俺らのサンクチュアリ!なんだから……。湘南乃風ね。

2025.2.17(月) 純粋な声援

 甲府へ行つて来て、二、三日、流石に私はぼんやりして、仕事する気も起らず、机のまへに坐つて、とりとめのない楽書をしながら、バットを七箱も八箱も吸ひ、また寝ころんで、金剛石も磨かずば、といふ唱歌を、繰り返し繰り返し歌つてみたりしてゐるばかりで、小説は、一枚も書きすすめることができなかつた。
「お客さん。甲府へ行つたら、わるくなつたわね。」
 朝、私が机に頬杖つき、目をつぶつて、さまざまのことを考へてゐたら、私の背後で、床の間ふきながら、十五の娘さんは、しんからいまいましさうに、多少、とげとげしい口調で、さう言つた。私は、振りむきもせず、
「さうかね。わるくなつたかね。」
 娘さんは、拭き掃除の手を休めず、
「ああ、わるくなつた。この二、三日、ちつとも勉強すすまないぢやないの。あたしは毎朝、お客さんの書き散らした原稿用紙、番号順にそろへるのが、とつても、たのしい。たくさんお書きになつて居れば、うれしい。ゆうべもあたし、二階へそつと様子を見に来たの、知つてる? お客さん、ふとん頭からかぶつて、寝てたぢやないか。」
 私は、ありがたい事だと思つた。大袈裟な言ひかたをすれば、これは人間の生き抜く努力に対しての、純粋な声援である。なんの報酬も考へてゐない。私は、娘さんを、美しいと思つた。

   太宰治『富嶽百景』における一等好きな場面である。「わるくなったわね」と言ってくれる相手はありがたい、というような言葉はよく聞くが、反対に誰かにそう言えることも非常に大切だ。
 慣れてくると手を抜くようになる。これには二重の意味がある。「慣れてくる→手を抜く→わるくなる」という流れと同時に、「慣れてくる→馴れ合いになる→わるくなっていることを指摘できなくなる」という堕落も生じるのである。
 日記や日報をサボりがちな僕であるが、これらは実際「人間の生き抜く努力」の一環なので、折に触れたみなさまからの「純粋な声援」が本当にありがたい。報酬はありませんが、生き抜く努力を続けていきたく存じます。
 この話は僕の問題にとどまらない。「わるくなっているな」と思う友達がいたら「わるくなったわね」と「しんからいまいましさうに、多少、とげとげしい口調で」でも言ってやるのは大切なことだ。純粋な声援は受けたぶん、同じような声援を誰かに送らねばならない。

「がんばれ がんばれ たのむ がんばれ がんばってくれ」(武田鉄矢『声援』)
「手を抜け 気を抜くな 時々怠けるな (略) 大成功するのは知っている 大活躍するのを待っている」(奥田民生『人の息子』)

 そんな歌歌が心を流れる。馴れ合っている暇はない。「誰も生き急げなんて言ってくれない」って『G戦場ヘヴンズドア』にあったけど、だからこそ「生き急げ! 生き急げ!」という筋肉少女帯の歌(『人生は大車輪』)が必要とされたのだろう。僕もあえて言う。「俺はお前に負けないが お前も俺に負けるなよ」(エレファントカシマシ『男は行く』)今日は引用ばっかりだ。
『鈴木先生』で小川が鈴木に言う「大人から見ていいなって思われる生徒をやるから、先生も嫌われ役や笑われ役に逃げないでください」というのもエレカシのこの歌詞と同様の気持ちだろう。ジミー大西のギャグ(?)「ジミーがんばれよ」「お前もがんばれよ」も思い出す。何を見ても何かを思い出す。
 かの小川の言葉も純粋な声援だ。『富嶽百景』における「十五の娘さん」(僕はもうこれ少女版『21エモン』だと思ってます!)も、ただ声援を送っているのではない。彼女は「原稿用紙を揃える」という仕事によって「私もそれをやるから」と言っているのでもある。あるいは「二階まで見にくる」ということによっても。私もそれをやるんだから、お客さんもやってよ!という、ある種の交換条件を持ち出しているのでさえある。
 俺はお前に負けないが、お前も俺に負けるなよ。読んでるか? 気抜くなよ。殻破れよ。オマエらしくススメ! 以上。参考文献:Sexy Zone『男 never give up』←なんちゅう曲名、って思うけど英文の文法通りに書いてるってことなんだろうか。男 never gives upにならないのは男が複数扱いってコト? Men never give up. 「男は諦めないものだ」と一般的な話として言うなら単数になりそうなもんだが、Men are beastsとかMen are menみたいな言い方なんかね。あー! どうでもいい!!

2025.2.18(火) (3)名古屋2 あえての宿

 石炭をば早や積み果てつ。20日、木曜日の午前0時を過ぎたところである。お客はないが庚申の日なので眠れないし帰れない。今しがた夜学バー日報を少し更新した。
 17日の日記は16日の深夜に書いているから丸三日サボったことになるのか? 信じられない。時がすぎるのが早すぎる。普段こんなこと言わない、弱っているのだ。(いつも弱ってないか? いつも弱ってるよ。15歳の時からずっと。)

 18日付だが17日の話から。本来は19日まで旅行するつもりだったのだがなんかトカトントンとやる気がなくなってしまい火曜に泊まるつもりだった宿(静岡)の予約を取り消した。キャンセル料発生の3分前だった。こういう臨機応変さも醍醐味だ。清々しかった。と言って僕も抜け目がないので、ちゃんとその日の同じ宿の予約がまだ余っていることを確認したうえでの決断である。泊まりたくなったら同じところを予約すればいい。僕もキャンセルするわけだから少なくとも二枠は余裕がある。
「やる気がなくなってしまい」と書いて、それはそれで本当だがもう一つは「東京にいるべきだと思った」からでもある。私を、待っている人があるのだ(走れメロス)。なんか太宰づいてるね。ちなみにここまでの本文の中に太宰治の作品名が一つ隠れているよ。

 ごめんよ、まだ僕には帰れるところがあるんだ。こんな嬉しいことはない。わかってくれるよね? ララァにはいつでも会いに行けるから……。

 さてようやっと17日の朝、4時に開く喫茶店に自転車でシュッと。数分で着く。最高の宿だ。お冷とともに「モーニングにホット?」と聞かれ「はい」と答えると間もなくコーヒーとハーフタイム(豆菓子)、ゆで卵が届く。ややあってマーガリンの塗られたトースト。新聞や本を読んで小一時間ほど過ごす。この季節だと夜明けは遠い。明るくなると寝れなくなる気がするので暗いうちに戻ることにした。8時まで3時間弱寝て、ホテルの朝食食べて、また1時間くらい寝た。当然寝た気はしない。はよ実家帰って転がりたい。ところがそうは問屋がおろさなかっただな。
 つづく

2025.2.19(水) (4)名古屋3 人と話すプロ

 昨日は中断してしまったのでつづきを改めて。23日の夕方になってしまった(日記とは?)。そしてこれから出かけるのでたぶん更新されるのはもっとあとだろう。
 宿から1~2kmほど離れた、とある喫茶店へ。Webの数少ないレビューでは「めちゃくちゃ汚いが猫が好きなら耐えられるかも」みたいなことが書いてあったが、猫などいなかった。でも猫がいそうなにおいはした。このにおいに耐えられるのは猫が好きじゃないと無理ってこと? あるいはちょっと前までは猫がいたか、たまたまいなかっただけか。
 コーヒー、トースト、ゆで卵、バナナ一本(!)で300円。未だにこんな店が残っているだな。ドラえもんのコンビニ本もたくさん並んでいて嬉しかった。心地よすぎて小一時間いたらお茶が出てきた。最高。また行く。また同じとこ泊まりたい。
 天気がよかったので自転車を片手で押して歩く。かつて演劇の練習に使っていた想い出の尾陽神社を参る。象徴たる「アベマキ」から保存樹の札が消えていた。保存されなくなったのか。保存とはなんだったのか。さようなら俺たちのアベマ(内輪ネタなのだがこれがわかる人はもう読者の中にはいないかな……さみしいな)。
「愛」とかが営業してるのを確認したうえで、意外と初めて「西アサヒ」に入って休憩。コーヒーだけ頼む。よく観察するとちょっとした部材、部品などが古いままで実に昂奮した。
 電車に乗ろうかとも思ったがゆっくりと自転車で実家方面へ。そういえば日月火しか開いていない古道具屋があったな。月曜だったので折角だからと入ったがお終い、2時間くらい溶けた。狭い店なので商品は30分もしないで見終わるのだが、その後店主と話し込んでしまった。というか、自慢の品を自慢されまくった。
 まず瀬戸のWood Village Inoueの木工品を見せていただく。売りつけるとか営業というのではなく「これは私物で、自慢するために置いています」とハッキリ仰る。なるほど技術もデザインも素晴らしい。確かにこれはほしくなる。
 それからあんまり大きな文字では書けないが武器コレクションをあれこれと。まず井上さんに作ってもらったというリグナムバイタ(世界一硬い木)製のナイフや槍を見せてもらう。「ステッキも発注しているのですが、あれって護身用の武器なんですよ」と嬉しそうに語る武器マニアの店主。僕が興味津々にそれっぽいコメントを入れながら聞いていると「武器お好きですか?」と目を輝かせるので「好きです」と言うと、「ちょっと待ってくださいね」と奥に引っ込み、コレクションを次から次へと。室町から江戸にかけての短刀、槍、馬上十手、ごっつい鉄の兜割など……。
 僕も人と話をするプロでありますので知っている限りの知識とその場で思いついたアイディアとを適宜投げ込む。「これは非常に合理的ですよね。武器には無駄がないというか、余計なものがなくてあらゆる意匠に機能がある感じがします」「そうなんですよ! 武器って道具の究極形なんですよ!」なるほど。武器は道具の究極形。この一言を引き出せたのは僕の手柄だと思う。こういうふうに人と接すると楽しいし、まあ夜学バーっていうのはそういうお店なのであります。どこでも夜学バーなのだ。とくに従業員諸君はよっく胸に刻んでくだちい。
「そうですよね、武器ってのは人間の生き死にや国の存亡がかかっている、道具の中でも最も大切なものだから、何よりも技術も心血も注ぎ込まれるものですよね」とかなんとか。
 出かけるので、つづく。

2025.2.20(木) (5)名古屋4 フィリピンと大曽根/名古屋という田舎

 まだ17日の話をしている。その日の僕は名古屋にいます。
 木工品、武器の次は食器。10000円ちょっとの買い物をして帰ろうとしたら「大倉ってわかりますか?」と。ノリタケの上位互換みたいなものらしい。そしてティーカップの飲み比べが始まる。4種類くらい試させてもらった。なるほど確かに大倉は味わいが違う。特に楕円形のカップ。「楕円にすることによって人がどこに口をつけて飲むかをコントロールできるし、香りも逃げにくいような気がしますね」とかなんとか。もっともらしいことをまた吐いておく。
 旧友の実家、谷口薬局を眺め、大曽根駅を経由して「つねかわ」へ。みそのたっぷりついたおでんと、もちチーズとねぎせんを食べる。ねぎせんねぎっ辛くてよろしい。相変わらず老若男女あらゆる人種が行き交っている。小学生男子がテーブル占領してゲームやってて、そこへ女の子たちが駄菓子買いに来て、カウンターでは母娘らしき二人がお好み焼きをつつき、おばあさんがテイクアウトのためにやってくる。僕はそれを眺めながら古参ヅラする。小学生から来てんねんぞ! んでもまあ、ほとんどみんなそうなんだろうな。遅いも早いもなく。みな魂に刻み込まれている。
 それにしても、行くたびにメニューが増えていて恐ろしい。「よく覚えられるね」と言ったら「たまに間違えるけどな」。おばちゃんは大曽根・上飯田エリアで一番の偉人だと思う。大阪の人だけど。
 実家に帰って、寝っ転がったりご飯を食べたり、ぼんやりする。21時くらいに飲みに出る。駅前をあちこち回ったが、狙った場所は定休日だったり、潰れていたり。大曽根は儲からんよね、特に僕が目をつけるようなちょっと特殊っぽいお店は。本当にすぐに撤退してしまう。どの街だって似たりよったりだろうが。
 ああ、もう秋葉原発のアニソンカラオケバーに行くしかないのだろうか……。いやそれくらいならもうちょっと冒険しよう。アニソンカラオケバーと同じビルにある「Republic」というフィリピンバーに行ってみた。扉の脇にテーブルがあって、映画『フィリピンパブ嬢の社会学』のチラシだとか、フィリピン版実写『ボルテスV』の新聞記事(号外)だのが置かれていて、「ワオ文化的」と思ったのであった。この程度で十分に文化的なのである。それが田舎というものだ。この「サイン」を見逃してはならない。お店からしたらそれは助けを求める叫び声なのだ。
 果たして良いお店であった。みなさんメモをお願いします。フィリピンの飲み物や料理、お菓子などが味わえるのはもちろん、「志がある」という点が一番。曰く「日本で最も(唯一?)フィリピン文化を広めようと頑張っているお店」とのこと。競合がいない、東京にすらいない、と。
 新潮新書の『フィリピンパブ嬢の社会学』(および『経済学』)はたまたま読んでいて、非常に面白かった。何度でも言いますが読書しか勝たんのですよ。これを読んでいたかいないか、その内容が身に沁みていたか否かでこの場での「話の早さ」がまるで違ったはずだ。
 本書の舞台は実は愛知県(主として春日井市や名古屋市)で、著者の中島弘象さんは勝川のあたりにお住まいだそうだ。Republicまで自転車の距離。そう大曽根あたりの小中学生はみな「カチボウ(勝川ボウリング)」までケッタ乗って行くもんなのである。JRでも2駅。それでこのお店にもよく遊びに来られるそうな。
 店主と中島さんはほぼ同じ境遇、日本人の客としてフィリピンパブに通ってたらいつの間にか嬢と付き合って結婚して子どもができて、気づいたら仕事までフィリピン関係になっていったと。彼らは「フィリピンは面白い! この文化を日本に広めたい!」と思っているようなのだが、なかなか難しいそうな。細かいことは間違えそうなので省くがタイやベトナムとは事情が違うらしいのである。
 話はフィリピンだけでなく大曽根にも及んだ。「フィリピン文化を盛り上げる」拠点を大曽根に置くのなら、大曽根そのものももうちょっと盛り上がってもらわないと困る。「交通の便」以外に誇れるものが何もないこの文化不毛の地を!
 それでもここ5年くらいはその「芽」みたいなものはいくつも観測できている。個性的なお店や試みがどんどん増えてはいる。でもなんかこう、名古屋という土地全体の問題でもあるのだが、個々には光るものがあるのに「土地として」「街として」魅力的になっていかないのは何故なんだろうか。

 名古屋は「大いなる田舎」と呼ばれて久しい。田舎というのはざっくり言えば「狭くて排他的な世間を生きる」という性質のことだ。そうなると東京だってよく見れば「無数の田舎の集合体」である。各飲み屋の「常連システム」を眺めれば頷けましょう。
 大都会たる東京は「無数の田舎の集合体」で、名古屋未満の地方都市は「いくつかの田舎の集合体」なわけだが、その中間たる名古屋は「それなりの数の田舎の集合体」。さてこれが何を意味するのか?
 東京くらいになると「どこかに自分を受け入れてくれる田舎がある」だし地方都市なら「この田舎以外に入れるところがない」なのだが、中途半端な名古屋は「なかなか田舎が見当たらなくて、ようやく探し当てても他へ行けと排除されやすい」みたいなことじゃないかと僕は勝手に思っている。
 名古屋にはたくさんの田舎があるが、東京ほど多くないので見つけにくいし多様性にも乏しい。なんとか選んで入ろうと思っても「よそがあるでしょ?」と弾かれてしまう。そんなイメージ。総合的に排他性が高い。
 田舎というのはもちろん「コミュニティ」の言い換えである。名古屋は人口が多いわりに(文化がないので)コミュニティはさほど多くはなく、人数は間に合ってしまう。景気もいいから困らない。だから新規参入者をそれほど望んでいなくて、「ああ、知らない人が来たね。まあどうしてもって言うなら入れてあげなくもないけど、よっぽどウチのコミュニティにマッチするんだよね?」という態度で来るわけだ。(悪口)
 東京だと「こんなにたくさんの中から選んでくれてありがとう」にもなるし、過当競争気味だから一人ひとりが貴重でもあるのだが、名古屋は人口に対してコミュニティが少ないのではないだろうか。すべて空想ですけれども。
 コミュニティが少ないと、コミュニティ同士の距離感も遠くなって、あまり連帯しない。物理的距離も遠かったりする。車社会だってのもあるかも。あまりにも少なければ「そこに集うしかない」になるのだが、それなりにあるので「まあ近場のあそこに集おう」と、それぞれが各コミュニティに閉じて終わりになる。
 一方、夜学バーってのは「都会(都市)」をやろうとしているのである。それがいかに難しいかってのは身に沁みている。そのへんまとめて本とかにしたい。日記なんか書いてる場合じゃないのだ。どうしよう。

 そのあと行ったオカマのバーの話も書きたいけど記事を改めます。

2025.2.21(金) 天才ガールズバーかしこ。
 お店が終わったあと301(元夜学バー)のガールズバーだかコンカフェだかよくわからないお店(店員さんたち談)へ。2月中に2人以上で行けばキンミヤかブラックニッカをサービス!とのこと。3人(+黒服?)でキンミヤは空になった。補充したい。誰か~。(こじき)
 お客さんと、その職場の後輩(部下)に連れて行っていただいた。たのしかた。その後輩の女の子というのがとにかくよく喋るし朝まで元気だしカラオケも歌いたがる。こういう人がスナックとかやると売れるんだよな~と直観する。高学歴だし見てくれも良い。引き抜いて「インテリガールズバーかしこ」の店員にしたい。

 インテリガールズバーかしこ。いやべつに高学歴だけを雇いたいわけではないし誤解を生むので「インテリ」の文字はいらんかな。「天才ガールズバーかしこ」。うーん。まあ天才ならどんな子でもエネルギーさえあれば通用するわな。「天才ガールズバー最高」。ちょっとバランスが悪いな。やっぱ「漢字→カタカナ→ひらがな」がいいな。「天才ガールズバーかしこ」かな。
 天才ガールズバーかしこ。「天才ガールズバーかしこ。」とマルをつけてもよかろう。賢さと礼儀正しさを兼ね備えてる(女子!)って感じで。「畏」ともかかってて良い。女の子とは畏れ多いものでございますからな。
 というわけで天才ガールズバーかしこ。(仮)をまず湯島で、次いで2号店を新宿か荒木町で開きたいと思いますのでよろしくお願い申し上げます。物件とか探してください。(人任せ~)

2025.2.22(土) ジャッキーの系譜

 この日報で言及した女の子の「生誕」に行ってきた。ってかこの子ですわね。22歳だそうな。
 彼女はいくつかのお店で働いているんだけど、そのうちコンカフェのほう。生誕は14日にもバーのほうであったんだけど翌日10時からタイプロ見てそのあと京都に飛ぶ予定があったのと、一緒に行こうって言ってた女の子が「コンカフェのほうでお金使ってあげたい」と言っていたので。その子は結局来なかったんだけどね。起きれなくて、というか、寝れなくて?
 僕はお店が終わってから自転車で新宿に行こうかと思っていたのだが、最後のお客さんが「一緒にタクシーで行きますか」と言ってくれた。深夜でも3400円くらいだったかな。意外と安いのだ。頂きぼくなので出していただいた。ありがとうございます、しっかり生きることですべての人へのすべての恩は返します。(滝沢昇的発想)
 生誕の子は売上100万を目標にして、見事達成したそうだ。我々は4000円くらいしか貢献しなかったが。「初めてタワーした」とのことで、席の後ろにシャンパングラスが積み重なっていた。白と水色でキュアホワイトカラーだった。すごいな。ちゃんと売れてるし、売れるためにものすごくがんばっているのも見ている。かわいいからって何もしなくても売れるわけじゃないし、何もしなくてかわいいわけでもない。日々本当に偉いと思う。そこを見てもらえているがゆえの100万だったはず。
 生誕の夜中まだ2時台、売上100万営業とは思えないほど店内は静かであった。キャストは女性オーナー含め5人くらいいたのに。やはりこれは「ジャッキーの系譜」だからであろう。間を取る接客(最初に引用した記事を参照)。主役がそうだと、店全体もそうなるんではないか。むろんタワーとかシャンパンとかやってた時間帯はもっとワーワーしてたんだろうけど、それでもこういうお店の平均よりはずっと静かだったんじゃないかと想像する。また女性オーナー(しかも元プレイヤー)ってのもあってか、店全体が落ち着いているのだろうなという気もした。もう一つ彼女がメインで入っているお店もオーナーは女性で現役プレイヤー。いや男だから女だからってよりその人の性格なんだろうし、そういうお店を彼女は選んで働いてる、巡りあえたってことなんだよねたぶん。
 つづくかも。

2025.2.23(日) (6)名古屋5 バーテンダーと理科

 まだこの話を続ける。現在3月4日、青森に居る。遅れを取り返すだけで終わりそうだなあ。やりたいことたくさんあるのに。飲み屋さんにも行かなきゃだしナ。まあ適当に、気軽にやる。

 時は2月17日なのであった。フィリピンバーでフィリピンビールを2本とフィリピンのジン飲んだあと、3年くらい前にできたらしいオカマバーへ。居酒屋とガールズバーひしめく大曽根では珍しい、カクテルをしっかり作ってくれるらしいお店で、インスタに毎日のように映え映えしいショートカクテルが載せられている。期待して行ってみた。チャージ1500円でショートカクテルほぼ500円。なるほど飲めば飲むほどおトクになるようなシステム。夜学っぽい。
 まずギムレットを注文。カクテルグラスに氷を入れ、そこへ常温の水を注ぎ、捨てたところへシェイクした液体が来る。
 これは理科の問題である。バーテンダーがカクテルグラスに氷を入れるのはグラスを冷やすためで、冷気は下のほうへ行くから放っておけばそのうちかなり冷える。しかし常温の水を注ぐと、むしろグラスは常温とほぼ等しくなり、そこからはほぼ冷えない。そして氷オンリーの場合と違って水を注ぐとかなりの量の水滴がグラスに残る。出来上がるカクテルはぬるく水っぽいものとなる。
 シェイクも「冷える」「混ざる」が十分であるとは思えない振り方だった。これも理科の問題。流体(ここでは液体+固体)は容器内で、どのように振るとどのように動くか。どのように動けば冷え、混ざるのか。やはりバーテンダーの仕事というのは理科である。中学くらいまでの理科がしっかり肉体に内面化(インストール)されているか否かがものすごく重要となる。
 結果、そのギムレットはまさに「500円」という代物であり、費用対効果として文句は一切ない。夜学バーではおおむね同じような原価の材料を使って1000円なのだが、その500円の差額は「理科代」なのだ。
 我が家は父と長兄が完全に理系(高校理科教員)で、次兄、三兄もどちらかといえば理系に属する仕事だと思う。僕は国語科教員でライターでバーテンダー(夜学バー経営者)なのでかなり文系っぽいのだが遺伝子と環境のおかげでいわゆる理系の素養を土台にできているのだと思う。
 たとえば形式論理(ごく簡単にいえば数学でやるような論理)のルールを逸脱することはたぶんめったにない。そこがベースにあるから大学受験も暗記や反復練習よりも「ルールの理解とその適用」で進めていけたわけだ。
 上京してから出会った理系の友達から「文系なのに論理的で驚いた」と褒められた(※根底に差別意識あり)のは一生忘れないし、認知科学を専門とする老教授からも「ジャッキーさんはかなり理科的な考え方をしていますよ」と太鼓判を押してもらえて嬉しかった。そのあたりを自信として理系ぶっていこう。
 というか、論理学を真ん中あたりに置けば、より抽象度の高い理系分野と、より具体性の高い文系分野というふうに見ることができて、いずれも学問たるものは「論理」で構成されているものなのである。だから英語や国語がよくできるのならば数学だってある程度までは同じノリでできる。逆もまた然り。「論理に従う」という一点を深く共有しているがゆえ。その「論理」というのがどういうものであるか(形式論理以外にはどのような論理があると言えるか)というのは、今読んでいる『論理的思考とは何か』という最近出た岩波新書がある程度解き明かしてくれそうに思う。楽しみだ。
 そのあとマティーニとジェムソンのソーダ割りを飲んだ。ジェムソンが一番美味しかった。
 誤解のないように言っておくがこのお店はめちゃくちゃいいお店だし、ママも素敵だし、実家に帰ったらまた行くと思う。カクテルについては上記のように捉えられたというだけ。このように「分けて考える」ことも僕なりの「論理」なるものだが、日本社会における文化的な論理(件の本にそういう概念が出てくる)とはたぶんズレる。普通は思っても言わないものだ。この空気読めなさも理系にありがち(※根底に差別意識あり)だよネ。詳しくはもうちょっと理解してから書くと思う。
 ちなみに入店すると、ちょうど僕よりちょっと年上らしいお姉さんがお会計をしているところだったが僕を見て開口一番「まあイケメン! 顔ちっちゃい!」と色めいて、もう一杯よぶんに飲んでいった。僕の売上への貢献。大曽根どんだけ顔レベル低いんだ。レッドウォーリアーズが好きで月曜しか来ないらしい。じぇい覚えとく。

2025.2.24(月) (7)名古屋6 帰京

 フィリピンバー、オカマバーを経て帰宅。お父さんが「酒飲むか?」と言ってくれたけど今日は遠慮した。申し訳ない。本当はご相伴にあずかりたかった。あと何度二人で飲み交わせるかわからないのだし。今度ね。また近く帰るね。
 起きてぼんやりして、結局16時くらいになったのだろうか。両親に別れを告げて家を出る。地元周辺をぶらぶらパトロールしてから「喫茶はじまり」という、ここ数年大曽根で間違いなく最もがんばってるお店に行ってみた。めっちゃがんばってた。すごかった。大曽根を文化的により豊かにさせる挑戦を、「商店街による町おこし」という文脈でマジメに、かなり泥臭くやろうとしている。「10年間は毎日違う小倉トーストを考案して出し続ける」と決めて始めたらしい。静かに狂っている。ここを中心に大曽根にも文化が育まれるといいな。
 大曽根のために自分に何ができるだろうか? 本当は、僕が何人かいるなら大曽根でも夜学バーがやりたいのだ。成り立つとは思えないが、でもお店ってのは開いていれば必ずお客は来る。あとは人柄と経営力だ。コンセプトなんて二の次というか、だんだん好きになってもらえるものだと思う。アー人間がほしい。
 17時すぎ、千種の「勝っちゃん」で串カツとおでん食べて飲む。いいお店なので通っているのだが、なんつうんだろな。たぶん近々「店と音楽」みたいな記事を書くから、そこで。スガキヤ食べて、肉買って、もう一軒音楽系の店で一杯だけ飲み、名駅から新幹線で帰宅。
 本当は静岡に泊まる予定だったし、その帰りには沼津とか寄りたかったのだが、思うところあって早めに帰った。最近思うところしかない。

2025.2.25(火) 宝とは時間のこと

 24日の夜は浅草にある80歳のおばあさんがやってるスナックに行った。たぶん60くらいのフィリピン人女性は35年くらい?ここで働いているらしい。横に座っていた70前のおじいさんはかつてこのお店で働いていて今はこの建物の上に住んでいるそうな。前に来たときは娘と孫がいて、今回は娘の旦那さんがいた。あとから娘さんも来た。
 料理が三品、乾き物とチョコ&チーズで合計五皿。飲み放題でビンビールもある。ハイボールは角だが来なくなったお客のキープボトルから注がれているように見える。定食や焼きそばも頼める。僕はすき焼きのおかわりと白米+大人のふりかけをいただいた。それで一律3000円というから「家賃がない」というのはすばらしいことだ。それでもフィリピン人女性には給料を払っているんだろうし、よくやっている。
 2度目で一月ぶりくらいの来店なのだがママはよく覚えてくれていて「岡崎さん?」と言われた。尾崎ですと答えた。名古屋の人というのも覚えていてくれて、そのため尾崎が岡崎になったのかもしれない。

 25日はこれまた浅草のおばあさんがやってる喫茶店に昼食を食べに行った。しばらくご無沙汰だったのだが「面白いものが出てきたからぜひ見に来て」と留守電があったのだ。おなかいっぱい食べさせてもらって、おそらく大正期(震災前)に出た「最新東京名所百景」なる写真集。いま調べてみると15000~22000円ほどで取引されているようだ。高いと見るか安いと見るか。インターネットは残酷で、「唯一」を「一般」へ一瞬に変えてしまう。
 実際忙しいのと、曜日や営業時間の関係でなかなかこのお店には伺えていなかった。いつでも寄ってね、開いてなかったら、ここに住んでるんだから電話くれればいいのよと言ってくださった。ありがたいことだ。ちなみにここは本当に隠れた僕の聖域で、暖簾も出しているし火曜日はランチの看板まで出しているのに、インターネットにはほぼ情報がない。Google Mapには登録なし、食べログに10年前のレビューが一件だけあるのみで、あとは無。インターネットを覗き込まない場所は、インターネットからも覗き込まれないのかもしれない。よく見つけたもんだ僕も。そういう場所ばかりを夢見て日夜散歩に励んでますからね。ちなみにこのお店に初めて行ったときの感動はこの記事に記されている。

 僕はそれらを「宝探し」になぞらえることがある。宝とは何か? 時間である。財宝は間違いなく古くから隠されてある。昨日今日埋められたならいくら価値があっても宝とは呼べない。そう思う んだよね。
 だから宝はいつも老人が守っている。大切に大切に。抱きしめて温めているのは時間そのものだ。その美しさを知りに僕は行くのだ。

2025.2.26(水) 老眼と自転車

 40歳か45歳くらいで老眼ってのは急にやってくる、とたびたび脅される。とりわけ目の良い人は早く来るとか。僕は視力がいまだに両目1.2~1.5ほどある。
 昔から目が悪くなるのが怖くて家のベランダから栄のテレビ塔を眺めたりよくしていた。矢田川の遙かに立つ山々を見たり。今のところ近眼も何も来ていないが、まあそのうち老眼がやってくるのだろう。せいぜいあらがいたいものだ。
 僕は自転車によく乗るのだが、だいぶスピードを出すせいか、かなり遠くを見て走る。遠くをたびたび見ることは老眼の予防にもよいと聞く。「もしかして自転車に乗る人って老眼が来にくいのでは?」と思いついたが、その理屈だと自動車に乗る人も老眼にならんやんけ、とすぐ引っ込めた。
 ただ、落ち着きのない僕は自転車に乗っているとき、あるいは歩いている時でも、あらゆるものを見ている。あれを見てはこれを見て、という回数が普通の人よりはかなり多いのではないかと思う。自転車でスピードを出す場合、危ないので、あらゆるものに常に注意をしなければならないのだが、その回数をできるだけ多くすればより安全だというふうにたぶん無意識に考えている。眼球は常にパッパと動きまくり、遠くのものを見ては近くのものを見て、また中間のものに注目し、そして遠くのものを……と無数のモノに常に注意を向け続けている。
 これが目によいことなのか悪いことなのかわからないが、パソコンやスマホや本ばっか見たり、狭いお店でバーテンダーしてるだけよりはたまに自転車に乗ったほうがいいような気はする。
 遠くを見る生活がしたい。文章を書くのに疲れてきた……。いやまあ、やりますが。

2025.2.27(木) WinSCP運用改善

 22日の日記8割がた書いたのに消えてしまった。お店のPCでhtmlを保存したのだがサーバにアップロードされる前にシャットダウンしてしまったようだ。この問題がなぜ起こるのかというとサーバ上のファイルに直接書き込んでいるからで、ローカルに保存→アップロードという一般的な手順を踏めば問題はない。しかしそれだと「面倒くさい→更新しない」という最悪最大の不利益が生じる。難しいところだ。
 データはお店のPCに残っている可能性もあるがあまり期待できない。TEMPフォルダに一時的に入るがWinSCP起動時に消去されるのがデフォルトのようだが、いま実験してみたら起動時ではなく終了時に消滅した。困る。

 同じ轍を踏まぬようWinSCP(FTPクライアント)側の設定でどうにかならないか検討する。ちょっと休止。
 帰還。長い戦いだったが一時ファイルを消去しない設定に変えることができた。いちいちWindowsのユーザフォルダまで行くのが面倒なのでホームページのデータが置いてあるフォルダと並列する階層に置くことにした。しばらくは経過観察。おわり。

 追伸 店に行って(念のためインターネット回線を切って)一時ファイルを見に行ったら残っていた。やった! 店用のPCも同じ設定にした。
 パソコン好きな人(通称:パソコンの先生)ってこういう記録するの好きだよね。風俗のレビューとかジャニオタ、ドルオタのブログと同じようなものなんだと思う。

2025.2.28(金) スズキさんの背広

 たまに昼食を食べに行く喫茶店に、60代くらいの男性が絶対にいる。スズキさんという。背広着て、たまに仕事や部下の話をしているので、たぶん近くの役所か会社の人なんだろうけど、いつもその喫茶店にいる。僕は14~15時くらいに行くことが多いのだが、その時間にはほぼ確実にいて、僕がごはん食べてコーヒー飲み終わって帰る頃になってもまだずっとカウンターでママやお客さんと喋っている。勤務時間の半分近くを喫茶店で過ごしているのではなかろうか。
 こないだ同じようにスズキさんの御高話を聞きながらごはん食べてたら、店内のピンクの電話がジリリリと鳴った。ママが受話器をとる。「ハイ、ハイ。スズキさんですね、ええ、いますよ。」スズキさん立ち上がり、歩いて行って受話器を受け取る。「ああ、その件ですね。来週になりそうなのですがよろしいでしょうか」と、どうやら仕事の話らしい。
 職場の人なのか取引先なのかわからないが、スズキさんは間違いなくこの喫茶店にいると周知されているわけだ。そういえばスズキさんがスマホやケータイを手にしているところを見たことがない。もしかして持っていないのか? スズキさんに連絡を取るためにはここに電話するしかないってことなのか?
 90年代まではよくあったことではあろうが、未だにこういう人がいるのだな。嬉しい。喋っている内容もほぼすべてコンプラギリギリアウト、セクハラパワハラすべて温存、「これじゃ何も言えなくなっちまうよお」みたいなことをナチュラルに言う。天然記念物レベルの稀少な存在、スズキさん。僕は彼のことが大好きであるが、話しかけられたことは一度もない。
 カウンターしかない、スナックのような喫茶店。5年くらいは通っているのでたぶん覚えられてはいるものの、会話らしい会話をしたことはほとんどない。誰とも。ママとでさえ「ごはんこのくらい?」「はい」くらいの会話しかない。
 営業は平日のみ。だからスズキさんも常に背広である。土日はどこで何をしているのだろう。退職したらもう来ないのだろうか。私服のスズキさんに会えることをこっそりと祈る。
 続編をお待ちください。

過去ログ  2025年1月  2025年2月  2025年3月  TOP