ひごろのおこない/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2025.3.1(土) 閑筆宣言
2025.3.2(日) やがっしゅくとは何であるか2
2025.3.3(月) (1)青森→弘前→青森 音楽の店と未知の店

2025.3.1(土) 閑筆宣言

 チィーと筆をおろそかにしますな。できるだけ毎日書こうとは思うけど、あまり書くことに追われていたくはないので。日報もありますから。他にも書きたいもの書くべきもの、たくさんある。テキトーにやります。では。

2025.3.2(日) やがっしゅくとは何であるか2

 勢いでまた合宿することになった。参加したい人は教えてください。茅野駅すぐ。24月から26水まで、二泊。
 正式な「やがっしゅく」ではなくスピンオフのようなもの。いつものように「誰が来てもなんとかする」というスタンスではなく、事情によりちゃんと知ってる人のみ歓迎いたします。ただし閉鎖的には絶対にしたくない、誰にでも開いておきたいという気持ちはいつもと同じなので、現時点であんまりよく知らない人は24日までにちゃんと知ってる人になってください。メールフォームなどから個人的にご連絡頂ければと思います。単にセキュリティ上の問題で言っているだけなので。
 今回特に決まったアクティビティーーはありません。二泊だけだし平日だし、ただぼんやり過ごすと思います。リフレッシュ。
 なんでたびたびこのような「合宿」を行うのか。とりあえずこの「やがっしゅくとは何であるか」という記事をご参照していただいた上で、少しお話させていただきます。

・期間中いつ来ていつ帰ってもよい
・原則として自由行動

 やがっしゅくの決まりはこれだけ。また二年連続参加でほぼ主催者とも言えるまちくた氏は「マイペースのまま人と関わる場」と表現している。

 いつ来ていつ帰ってもよく、いる間もどこで何をしてても良い。自己紹介さえする必要がない。ただしそこには「同じ場を共有する」という現実だけが絶対にあって、誰のこともできる限り不快にしないよう努めるという前提がある。さらに言えば「みんな(自分含む)がより楽しくなるよう努める」というテーマも当然ある。
〈略〉
 これはじつのところ夜学バーの営業のあり方とほぼ同じである。
(「やがっしゅくとは何であるか」より)

 結局のところ僕がやりたいことはこれで、こすりにこすった尾崎豊のあの歌詞でいえば「すべてが奏でるハーモニー」「誰もが皆自由に生きていくことを許し合えれば」というやつ。橋本治さんのいう「原っぱの論理」にも近い。僕は幼少期の公園ジプシーによって、中学時代の夏休み生活(天邪鬼儒雀による古典上飯田落語「上飯田の夏」に詳しい)によって、また高校時代のドラえもんチャットや毎日の校内行脚ツアーによって、そして大学時代のゴールデン街通いによって、それをライフワークにすることが決定づけられた。
 それはある時には「お店」という形で、またある時には「合宿」という形で、あるいは何かまた別の形で、どんなふうにでも実践されうるし、されるべきである。それが誰にも当たり前になることが、世の中がよくなるということだと信じてやまない。
 ゆえ、そこに共感してくださる方の参加を拒むことはない。布団が足りなければ僕が板の上で寝たり、誰かが起きるまで起きていればいい。まるで火の番をするように。みんながそのように考えあえばいい。ただ楽しいってだけが合宿の主眼ではあるが、「楽しい」を成立させるために必要なものをみんなで持ち寄るという前提が当然ある。その実践が二年連続で叶ったというのは僕にとって本当に喜ばしいことだ。
 お申し込みお待ちしております。文字通りに捉えてください。一泊2500円以内で、あとは何人くるか。お金ある人はご支援よろしく。遠隔もぜひ!

2025.3.3(月) (1)青森→弘前→青森 音楽の店と未知の店

 1234新青森着、1253青森着。念願の「惣菜田中」で昼食。生姜焼き定食と大皿を軒並み。650円だけど600円でいいよと言われた。太陽まぶしく、雪がちらちら舞う。天気雪と言うのか。店の素晴らしさもあり卒倒しそうだ。美しすぎて。
 コーヒーをどうしよう? 隣も喫茶店なのだが折角なので探る。駅から自転車で向かえるところで一番情報のない喫茶店は「シドニー」である。一年前に行ってみたときは確かシャッターが降りていた。ストリートビューで確認しても同様の姿。もう営業していないのではないかと思ったが、念のため行ってみることにした。ここで「念のため」と思えるかどうか、徒労かもしれないところで踏み込めるかが幸福の鍵だ。これもささやかながら「リスクをとる」ということである。
 雪深く、ところどころツルツルに滑る。駅から離れれば離れるほど道路はボコボコになり雪の量も増えてゆく。喫茶店の入り口は雪に埋もれていて足跡もない。軒先の電灯もなく、扉にも「営業中」といった看板はない。窓の中も暗くて見えない。これはもう絶望ですね。とぼとぼと踵を返し、20メートルほど進んだところでハッとした。ん? 入り口? 扉? シャッターが開いてるってコト?
 どう考えても営業しているとは思えない面構えで、こういう場合は「営業はしていないが家族がごはん食べたりはしている」みたいなパターンもあって、ともすれば不法侵入になりかねない。それでもおそるおそる扉に近づき、さりげなくよく目を凝らしてみると、人間がいる! それがお客さんなのかお店の人なのかもわからなかったが、ダメだったら謝ればいいのだ。ままよ、と扉を開けますと、そこは天国でしたね。カウンターにママと高齢の女性が二人、テーブル席に背広着た高齢の男性が一人。賑やかに談笑しておられた。こぎれいで美しくてととのっていて、どう考えても「営業している」のである。これほど外と中のギャップが激しいお店も珍しい。昂奮を隠しつつホットコーヒーを注文。しばし本を読むなどして過ごす。窓から床へ、四角い日ざしが二つ落ちて輝いている。何から何まで完璧だった。あらゆる部分に神が宿るようなデザインと質感。そしてなぜだか『特攻の拓』とか全巻ある。お手洗いも隙がなくタイルはもちろん天井の模様までカッコいいのである。こうした文化財級のお店がインターネットから隠れてひっそりとお客を呼んでいるのは本当にロマンティックだ。メニューもしっかりしているし、ごはんもおいしそう。青森ではマスト。8時からモーニング、そのあとランチがあって15~16時くらいには閉店。
 あとから気づいたのだが、実は裏側にもう一つ入り口があった。本来は勝手口のはずだが3人のお客はみなそちらを通って帰って行った。ははあそちらに駐車場があって、みんなクルマでやってくるから通り沿いの入り口はほぼ使われないのだ。
 退店後、裏に回ってみるとなるほどこれは、知らなければわからないようなさりげない入り口で、駐車場の中にちょっと入らないと見えないようになっている。通りすがりに「あ、喫茶店」と気づくのはほぼ不可能だろう。近づいてみるとここには「営業中」の札があった。なるほどそれでほぼ知っている人だけが来ているわけだ。もしかしたらシャッターを開けず、裏口だけで営業していることも多いのでは。今日は天気がよいから日ざしを入れるために開けたのか? そう思うとこれほど誰にもバレていないことも、去年シャッターが閉まっていたことにも合点がいく。
 ホクホクしながら「アルプス」へ。前回は堤店に行って非常によかったので、今回は中央店に。こちらは輪をかけて最高だった。チェーンというよりは母屋と離れの関係に近いのかな。たぶん中央店のほうが古くて、手狭なのでもう一軒つくったという感じなのかもしれない。
 コーヒーなんて立て続けに何杯も飲むもんじゃないのだが、どうしても行きたいお店があったので向かう。「しもん」である。残念ながら閉まっていた。ゆっくり歩いて1556発の特急で弘前へ。

 とりあえず観光をと、太宰治の旧下宿、弘前大学(放送大学青森学習センター)を見て回り、弘前城へ向かう途中に「まわりみち文庫」という古本屋にぶつかった。2冊ほど買い「領収書作戦」で夜学バーの名刺を渡す。ちょっと話して、教えてもらった老舗文房具屋に向かい万年筆のインクなどを買った。そして「おしやれスナックMANSIKKA」なるお店に。もともとここには絶対に行くつもりだったのだがまわりみち文庫の店主も名を出したのでやはりと思った。しかし地方ってのは情報の偏りがすごい。インスタのアカウント以外には古いネット記事が一つあるだけで、あとはほとんど何もない。Google Mapにすら登録されていないのだ。「その筋」では相当有名で、弘前の文化を支えている存在であるはずなのに、「その筋」の外側からはまったく見ることができない。旅行者がGoogle Mapで「バー」やら「スナック」と入力してこのお店が表示される確率は現在のところ0%なわけだ。
 いいお店だった。前情報でも聞いていたが「最初はブックバーとして始めたが誰も本を手に取らないのでレコードバーに変えた」とのこと。個人的には悲しい。弘前にはかつて紀伊國屋もジュンク堂もあったのに消滅し、今では本屋らしい本屋が「品揃えの悪いTSUTAYA」くらいしかなく、あの小さな小さな「まわりみち文庫」が主要となっているらしい。総合大学だってあるのに。ゆゆしき問題だ。
 たとえ弘前大学の学生が「そういう場」を求めたとしても、普通の探し方ではMANSIKKAは発見できない。僕みたいに狂ったように検索すればいいのだが、大学生くらいだとそのノウハウやコツみたいなものはわからないと思うし、そもそも自分が何を求めているのかも知らないことがほとんどだろう。たまたま巡りあって「ああ、自分が求めていたのはこういう場なんだ!」と思うのが自然である。その「たまたま」の発生率をいかに上げるかがやるべきことなのだが、地方にはまずそういう体力も発想もない。いや違うか、都会の人だってだいたい体力も発想もない、「たまたま」の確率がそもそも高いから甘えているだけだ。
 同席した女性とも話弾み、「来月東京行くのでお店行きます~」と言っていただき(きっとだよ!)、店主ちゃっぴーさんに教えてもらった「ハルちゃん」というスナックへ。「何を飲まれますか?」といきなり問われてパニクったがとっさに角のソーダ割りにした。濃くておいしかった。大皿料理をあれこれいただき夕飯とす。麻婆豆腐、イカとカボチャの天ぷら、目玉焼き、りんご。
 同席したおじいさんが「バーチャルカラオケ」を立て続けに歌っていて、脳天打たれた。こんな文化があるのか。僕もやりたい。これは本当にすごい。本当にすごい。本当にすごい。バーチャルカラオケヤバすぎる。全国のおじいさんたちがこれやってるんなら、バーチャルってもんにはいくらでも可能性がある。バーチャルは若い人だけの文化ではないのだ。
 つい長居した。「旅行?」とも「誰かの紹介?」とも聞かれず、このタイプの地方スナックとしてはかなり珍しいだろう。ママなりの考えがあってのことなのかもしれない。こりゃいいお店だ。ちゃっぴーさんの紹介でと最後に伝えて、2500円。
 最後、「アサイラム」で一杯だけ飲む。猫が6匹いて匂いがすごかったが、寒いうちだけ野良猫をかくまってるとのこと。とても良い人だった。終電で青森まで戻らなければならないのでがんばって切り上げる。

 青森には24時間営業の「エンデバー」という喫茶店があるので最終的にはそこに行けばいいと思っていたのだが、念のため下見に行ってみたら「23時まで」と変わっていた。インターネットはあてにならない。地方だと情報の反映がかなり遅くなる。県庁所在地レベルでもそうなのだ。
「立ち吞 いいわけ」というお店へ。僕は本当に店の引きが強いというか、インターネットのわずかな情報と、実際に見た店構えとでだいたいのことがわかるようになってきた。東京に30年くらい住んでいたという店主が経営する、東北地方ではおそらくナンバーワンのラムバー。立ち飲みなのはスペインバルを意識しているのだろう、地面には青森のヒバが敷き詰められている。
 ACHや酎ハイ街道など「その筋の人」にしかわからない話題がドンドン飛び出る。話しながらもずーっとラムを飲み続けている。酒飲みが酒飲みすぎて酒の店酒飲みながら酒に飲まれる、なんて短歌を五秒で作ってみた。
 ここも「音楽の店」であった。なんつうか、世の中には「音楽の店」が多すぎる。みんな音楽に逃げてしまう。音楽というものは肉感的で、動物としての人間の本能にかなり近いところにある。最近読んだ『動物たちは何をしゃべっているのか?』(山極寿一、鈴木俊貴)という名著でもそのようなことが言われていた。まだちょっとしか読んでいないが『22世紀の資本主義』(成田悠輔)のコピーも「稼ぐより踊れ」だ。音と踊りが人類の原初的な姿を映し出すものであって、その点で「音楽の店」こそが正しい(?)というような考え方もできるのだが、でもよー、だったら文化とか文明ってなんなんだよお!「それ」しかねえのかよお!って僕は思ってしまう。
 踊るための音楽ならば打楽器だけでもよくて、複雑な音楽を愛でる必要はない。ましてや「○○の△△が名盤で」とかってオタク化する意味もなかろう。「この曲ちょーカッコいいよね~」という素直な反応はまだしもだが、それとてただ「気持ち良い」と言い合ってるだけで、なんだかな。「音楽の店」ってのにはそういう中途半端さがある。原初的という文脈でならレイブやクラブで狂ったように踊るほうが正しい(?)わけだし。
 いつかもうちょっと子細に語りたいが、「音楽の店」は欲求と快楽をしか問題にしない。好きな音楽かけて、好きな音楽について語れたら気持ちいい。そういうお店は僕だって嫌いではないが、あまりにも酒との相性がよすぎるのである。つまり「音楽の店」は欲求と快楽が主体なので、酒に酔って乱れることを許容、あるいは推奨さえする。
 一方でわが夜学バーは「酒を飲んだ自分をコントロールする」ことを何より大切にする。コントロールしたうえで、酒が入った状態ならではの面白い発想がもし出てくるのだとしたら、それは非常に素晴らしいよねという考え。シラフと酔いとのグラデーションを楽しみながら、理性のコントロールを鍛えること。そういうようなお店は本当に少ない。

 音楽以外にも文化とか文明とかあるわけだけど、たとえばそれが「本」とかって限定されてしまうと、これがまたほとんどの場合欲求と快楽をしか問題にしなくなる。読書会でもなんでも、そういう場において本とは「自分の欲求を叶え、快楽を与えてくれるもの」となりがちだ。限定する、テーマを設けるということは、「欲求と快楽の対象を定め、同好の士を集める」ということであって、つまり「これを使って一緒に気持ちよくなれる人募集~」でしかない。アニソンバーでもテキーラバーでもなんでもそうですね。  そこで、この日最後に行ったお店。喫茶まるめろという青森市ではたぶん最も気の触れたお店の一つであろう。ほとんど毎日朝までやっているが、扉には常に「準備中」の札がかかっていて「畑ニ居リマス。賢治」というアレも貼ってある。その状態でいつも営業している。
 店主はミュージシャンであり、音楽もずっとかかっているが「音楽の店」ではない。そのような限定が一切ない。そして彼は物静かに、慎重に、言葉を選んで話をする。僕と同じで、たぶん凡庸なことは極力避けている。「限定しない」ということは、「何が自分の欲求を叶え、快楽を与えてくれるかがわからない」ということで、その「わからなさ」をこそ魅力に思う人が好む方式なのである。
 世の中にはあらかじめどのように気持ち良くなれるかをわかっているほうが好きだって人のほうが圧倒的に多いので、かようなお店は流行らないのだが、僕のような好事家は「うおーよくやんなあ、スゲー」と思うのである。僕がもし何も知らずに夜学バーを訪れたら同じ感動をするだろう。「こんな答えのないことやってて怖くないのか」と。不安や恐怖は、未知なる面白さの代償である。お客としてもそうで、「鬼が出るか蛇が出るか」という気持ちで来店することを好む人だっている。僕はそうなのだ。
 というわけで3時間くらいお邪魔しただろうか。終始ほかにお客はなく、あまり遅くなっては申し訳ないので店を出た。始発までだいぶあるので、すき家で時間を潰すか浅虫温泉から乗るか迷った結果、後者にした。楽しかった。
 初日おわり。

2025.3.4(火) 


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