ひごろのおこない/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

過去ログ  2025年3月  2025年4月  2025年5月  TOP
2025.4.1(火) 人それぞれやでぇ~
2025.4.8(火) テイカーOZ
2025.4.9(水) 味に無頓着
2025.4.11(金) 酒とバラの血筋
2025.4.14(月) スーパーこども列伝
2025.4.16(水) 若さってなんだ 可能性のことさ
2025.4.20(日) すべては光に弱いから
2025.4.23(水) 茶と夜学(序) すきやビル
2025.4.24(木) 情報の地層
2025.4.25(金) 岸田メルの想い出
2025.4.26(土) 「推しを散らす」IDOLY
2025.4.29(火) 性愛と力(りりちゃんと松永)

2025.4.1(火) 人それぞれやでぇ~

 3月22日に「学習の3つの型」というのを書いた。岡田尊司『愛着障害なのに発達障害と診断される人たち』からの引用であった。本書をこのたび最後まで読み終わった。いい本だった。
 こういう「人それぞれに適性がある」という本を読むと、というかあらゆる本を読んだり人と話したり何かを考えたりするにつけ、「やっぱり自分、てことだよな。」(from 小沢健二「意外な結論!」)という思いが新たになる。名倉潤さんが言ったとされる伝説の「(堀内)健、人それぞれやでぇ……」という言葉も浮かぶ。
 すべては人それぞれなのであり、当然僕のやり方がみんなに適するわけではない。勉強にせよ、接客にせよ、ありとあることが僕のオリジナルなのであり、他人がそれをなぞろうとしてもそのままうまくいく可能性は極めて低い。
 そうは言ってもやはり「師弟」というものの力強さはあって、僕自身いろんな人を勝手に師として(私淑して)「いいとこ取り」をしまくってきた。「まねぶ」ということ、もっと言えば「憧れる」ことの効用は巨大である。そもオタクたる僕の「オリジナル」とは方々からパクってきた鵺的な成果。
「教える」あるいは「手引きする」ことから逃げるべきではない。「ありとあらゆる種類の言葉を知って何も言えなくなる」愚に近い。優れた教育とは中途半端な洗脳を施すことだ、と誰かが言っていた。正しかろう。
 シャブ漬けの洗脳から抜け出した後、振り返って真の尊敬を返すことを理想と信じる。出藍の誉れという言葉があるが、青のほうだって藍を永遠に愛すがいい。「自分は師匠よりも色がいい」なんて自惚れている場合ではない。まずは「ありがとう」だ。
 ドラゴンボールが大好きなのでドラゴンボールでたとえますが、悟空がいつまでも亀仙人のことを師として尊重し続けることが本当に美しいですよね。道着もずっとアレだし。僕もいつまでもリンキューや野田教諭(ともに高校時代の恩師)に感謝し続ける。直接的には猫(浅羽通明)先生が最も師らしい師だと勝手に思っているのだが、岡田淳さんも小沢健二さんも橋本治さんも、家族たちも、ほか数え切れないほど多くの大好きないろいろの人たちも、僕の師匠は本当に無数にいて嬉しい。悟空にも亀仙人だけでなくカリン様、神様、界王様と生涯に多くの師を持っているし、メタモル星人やヤードラット星人など直接何かを教えてもらった人たちや、戦ってきた相手や仲間たちも当然広義に師のうちであろう。
 誰だって叩けばホコリは出るし、長く愛していれば瑕疵も目立つ。ただ一つのみに傾倒しすぎると欠点が肥大化して見えて憎しみすら生む。広く愛し、すべて自らが引き受けよう。そしてしっかりと自分の足で立つ。
 なんか教条的な?話になってしまった。訓示のような。でも最近そんなことを考えている。「人それぞれ」ということがいよいよ実感されてくると(これを現代に「多様性」と言う)、正しいことなど何もないというむなしさや無力感がこみ上げてくる。でも実は違う。「何もない」のではない。「人間や世中は思った以上に複雑で、何かをなすことはとても難しい」というだけなのだ。ゼロヒャクで絶望したり、楽観するべきでない。
 この難しさに直面した人間は、たいてい諦める。適当な「単純」のほうへ閉じこもる。それをしないぞ、というのが「エライ人」の要件だと僕は今思っている。
 いま倉本圭造さんの『論破という病 「分断の時代」の日本人の使命』という本を読み終わりそうなのだが、この本に書かれていること(というか、この方がずーーっと言ってきていること)はまさに、そういうことだろう。諦めて単純化して終わり、という態度の人たちが世の中に非常に多く見えるが、最近少しずつじわじわと、対立する単純と単純それぞれの事情をうまく混ぜ合わせて乗り越えようという人たちが増えている、らしい。難しいことを達成するのが智慧の役目なのでございますから、がんばってそこに多少なり貢献させていただきたく存じます。微力ながら。
 一つの単純に閉じこもるのではなくて、さまざまな単純を「同時に」愛することが、複雑な世の中を複雑に生きるということ。そっちのほうに幸福が見つかることはけっこう多いと思う。

2025.4.8(火) テイカーOZ

 僕はほとんどお金を稼いでいない。最近JRE BANKに口座開設したりビューカードを申し込んだりしたのだが年収を書く欄で指が止まった。ほとんど稼いでないんだが? 口座やカード作れるの? もし審査落ちたらご報告します。
 なぜJRE BANKとビューカードなのか? JR東日本による特典がほしいからである。口座にまとまった額をぶち込んだうえで半年に一度ビューカードから引き落とししたり給与受取したりすると、JR東日本のきっぷが特急料金含め4割引きになるクーポンが最大5枚、半年ごとに毎回もらえるそうなのだ。またSuicaグリーン券も年に最大4枚、どこかへビューン2000ポイント割引は年に最大12枚もらえる。
 ビューカード引き落としのみだと4割引券は半年に最大2枚にとどまり、「給与等の受取」をしてこそ5枚が得られる。僕のような自営業ですとかなり難しいことである。そこで、フルキャストなどの派遣会社に登録して単発バイトをすることによってこれを実現させようと考えている。回数や金額の指定はなく、ただ「給与」という名目(電信)で振り込まれればいいはずなので、半年に一度だけバイトすればOK。ハック!
 半年に一回働くだけで、5000円~10000円程度の給料をもらいつつ、たとえば青森までの新幹線きっぷなら7000円くらいおトクになる券が余計に3枚得られるわけなのだ。

 おわかりだろうが、「僕はほとんどお金を稼いでいない」という言葉の裏には、「僕はお金を使わないのがけっこう上手である」ということが隠れている。上記のJRE BANK+ビューカードハッキング(もちろん正規の手続きではあるのですが!)もその一環。
 とはいえ株式投資などの資産運用は一切(NISAすら)していないし、ポイ活もあまり真剣ではない。自分の性質(向き不向き)を考慮したうえで、労力等のコストを利益が上回るかどうか。今回のJR東日本ハックは明らかに該当した。

 いかにお金を使わないか。上記のようなハックや節約も大切だが、僕の場合は「施しを受ける」ということを恥じないことこそが最大の武器である。普通は恥じる。僕は(あんまり)恥じない。まったく恥じないわけではないし、生活と人生に直結するだけに感謝も巨大だと自分では思っている。
 お店をやっていることについても、本当にほとんど「仕事」だとは思っていない。ただ「みんなに養ってもらっている」という意識である。なぜ養ってもらえているのかというと、その人や世の中をよくするためにがんばっていて一定の成果も出ているからなのだが、それが世の中における仕事なるものとかなり性質として近いので、お金がもらえて、なんとか成り立っているわけだ。

 生きていることそのものが「みんなに養ってもらっている」ことによって成立している、という意識だからこそ、みなさまから恵んでいただいたお金を無駄なことには使えない。僕の支出のほとんどは経費として計上できるようなものばかりである。すなわち、お店の営業やこのホームページに書くようなこととかなり密接に関係している。たとえば本を読むことだったり、旅(常にかなり切り詰めた貧乏旅行であるが、新幹線には乗りたいのでJRE作戦が大事なのだ!)に出たり。僕が養ってもらえているのは面白い人間だからなので、みなさまから恵んでいただいたお金はまず面白い人間であるために使いたいのだ。これを性風俗やキャバクラなど放埒のために使っていたら、少なくともこのホームページに浮かび上がるような「ジャッキーさん像」とは関係がないものなので、それは良くないよねという話。もし僕がその手の放埒を売りにする「面白い人間」だったらば、それでもいいのかもしれないが。つい先だっても飛田新地の近くに二泊したが、一つのお店で1000円以上使ったことは一度もなかったはず。無論ちょんの間にも行っておらぬ。
 こないだエアマックスを衝動買いしたのだが、かなり安くなっていたもので、デザインもかわいい。これで歩きやすく歩き回ることは僕が「面白い人間」たるための活動に貢献する。おそらくその数千円は凌駕する。ほとんどいつも、僕はそのような計算をしてお金を使っている。どんな飲み屋に入るときでも、「なにがなんでも役立ててやる」という気合を持ち、研ぎ澄ませた状態で行く。

 タイトルを「テイカーOZ」とした。「OZ」の読みは「オズ」でも「お(ぉ)ズィー」でもかまいません。「おぢ」はいやづら。もちろん僕のことである。僕はギバーかテイカーで言ったらもう完璧にテイカーだと思うのだ、特に物質的には。いくらでも金やモノをもらって恥じない。いや、恥じたくない。本当はちょっとくらい恥じているけれども。
 ヘラヘラしながらテイクテイクテイクして、ありがとうごぜえます姫様旦那様と心底感謝しつつ、引き続き施しをいただけるような偉大さや可愛さを持ち続けるため精進しようと誓う。「そんなの何歳まで続ける気? 一生できると思ってるの?」っていうのは、たとえばガールズバーで働く若い女に「いつまでやるの?」と問いかけるのに似ている。しかし彼女たちは魅力さえあれば一生食える。客の絶えないおばあちゃんのスナックを見ヨ。僕も目指すはそこだなあ、というか、そこくらいしか食い延びる生業って思いつかない。
 客の絶えないスナックのママがギバーかテイカーかっていうと、そんなことを考えるのはたぶんあんま意味ない。タイトルにはテイカーと明記したが、もちろん実のところはそんな語を超えてみんな(自分含む)と世の中をただよくしていきたいものです。
 長くなったのでおわります。

2025.4.9(水) 味に無頓着

「おいしいもの食べたい」と思うことがない。思ったことがほぼない。オレには感情が、ナイ……。アイ……リカイフノウ……。
 いやほんとよく「おいしいもの食べてる時が幸せ」という人を見かけるし、「旅行=おいしいもの食べる」とか「デート=おいしいもの食べる」等式を前提に生きる人も多い。ま、それが普通ですわな。かたや俺は電子の砂漠でホームページを更新して、呟くんすわ。it'a true wolrd. 狂ってる?それ、褒め言葉ね。
 岩明均先生の名作『寄生獣』35話のタイトルは「名前に無頓着」。寄生生物(パラサイト)の特徴とされ、見た目は人間そっくりであっても明確に区別できるポイントである。文明を持った人類は名前に頓着するが、寄生生物は名前に無頓着。
 同様に、文明を持った人類は味に頓着するよな、というのが僕の率直な感想である。僕は味に頓着しないので実は寄生生物か何かなのかもしれない。気づいてないだけで実はアンドロイドだったりして。クッ……額が疼く……チャクラが開く……鎮まれオレの左腕……。邪王炎殺黒龍波……。
 マジメな話として、僕は本当に「おいしいもの食べたい」という欲求に乏しい。だいたいのものはおいしいし、おいしいと感じるかどうかは食べものそのものの味にばかり依存するものでもない。僕の味覚はたぶん脳ファーストで口内ファーストではない。鼻ファーストでもない。
 古びた喫茶店で300円の、雪平鍋で温め直されたアツアツのコーヒーを飲んでも、「これこれ。これなんだよな」と満足を得る。さすがにそれを「絶品!」とまで評することはないが、脳は完全に喜んでいる。「好きすぎる」とくらいは思う。しかしそれは口の中で感じる味の良し悪しで決められた感覚ではない。定量化できない味の質の違い、種類の違いと言ったほうが当たっている。

 これはもちろん昨日の記事に直結している。僕は自分の舌を満足させるために食事を選ぶことはほとんどない。

 みなさまから恵んでいただいたお金を無駄なことには使えない。僕の支出のほとんどは経費として計上できるようなものばかりである。すなわち、お店の営業やこのホームページに書くようなこととかなり密接に関係している。

 むろんうまいものを食って、それを人に教えたりすれば(このホームページに書いたりすれば)「経費」にもなるのかもしれないが、単純に向いていない。僕は性風俗店にまったく行かないのであるが、肉体的快楽を満たすためだけに支払うには料金とリスクが高すぎる。そういえば蛭子能収さんがかつて、「なんでみんな風俗とか行くんですかね、女房としたらタダなのに」と言っていた。蛭子さんはその金と時間で競艇とか麻雀とかやったほうが気持ち良い人なのだ。僕もその金と時間をほかのことに使いたい。
 いやもちろん、「そういうお店」に詳しくなって、それを人に教えたりすれば(このホームページに書いたりすれば「経費」にもなるのだろうが、それってちょっとアレだよね?
 乱暴にいえばグルメサイトと性風俗店のレビューサイトはだいたい同じモノであり、「肉体的快楽を満たすためのガイド」でしかない。そこにエネルギーを注ぐ選択を僕は今のところしていないのだ。(将来はわかりません! 急に目覚めたりして。グルメや性風俗に。)
 まあつまり、なんといいますか、「お金と引き換えに肉体的快楽を得る」ということに僕はあまりピンと来ていない。「お金と引き換えに健康な身体を作る」のほうがまだピンとくる。スーパーで納豆買うとかね。これは生き方と性格の問題ですな。

 バーテンダーとしても僕は、これは明確に欠陥でもあるのだが、「とにかくうまい酒をつくる」ということにあまり向かない。しかし「どこかの店で飲んだ味の再現」というのはそれなりにできていると思う。まずは「この材料で、こういうふうに作っていたな」と理屈で組み立てて、そのあとで細かな味を調整する。僕はいわゆる「味音痴」というのともちょっとたぶん違って、味の記憶力と合成力(何と何をどの比率で足したらどのような味になるか、を想像する力)はそれなりにある。「うまいものを作る」より「好きな味を再現する」のほうが何倍も得意なオタクなのだ。肉体的快楽に向かず、文化的快楽に向いていると言うこともできよう。そんなだから夜学バーは売れないという話でもある。

 僕にとって「おいしいもの」のもたらす肉体的快楽は、お金を払ってまで得るものではないし、快楽と言えるほど大きな快楽でもない。それよりも古びた喫茶店の300円の、レンジでチンして温め直した独特の臭みあるアツ過ぎるコーヒーの味こそが「おおおおお(昇天)」とさせてくれる。そういう変態(キチガイ)なのだ。
 ここでもし「いやー(貧乏人の)ジャッキーさんは本当においしいもの食べたことないんでしゅよ」と仰る方がいたら、よろしい、ぜひ食べさせてください。「本当においしい」ってなんだ? それはこの僕ですらひざまずかせるものなのか? 興味ある。
 普通に考えたら、誰かが「本当においしい」と思った瞬間に「本当においしい」ものは爆誕し、それをその人が「本当においしかった」と語り続けることによってしか「本当においしい」ものの存在は維持されない。それをほかの人が食べて「本当だ、本当においしい」と思うかどうかはわからない。「本当においしいもの」はそれを食べた人の思い出の中にだけ存在する。それをわかり合えたら幸せだという感覚はわかる。「本当においしかったっす!」とか言って。あるいは「本当においしいねえ!」と目を見合わせて。
 でもそれは、あくまでも僕の場合だが、わかり合えた相手との関係の中にだけ存在する「本当においしい」だろうと思う。雑誌で見かけたラーメン食って「本当においしい!」と感じる自分をまったく想像できない。
 改めて、僕にとって「おいしい」とは味の良し悪しではない。誰の作った、どのような味を、どこで、誰と、あるいはどのような前情報を持って食べたか、といったことが「おいしい」という言葉で表される快楽の決め手となる。スガキヤラーメンが大好きで、あれを僕は(また多くの名古屋人はおそらく)究極においしいと思うのだが、それはもう本当に想い出とか慣習とかアイデンティティとかのレベルで、「米がうまい」「みそ汁がうまい」みたいなことに近い。

 さすがに南魚沼の友達の家で食べたお米は本当においしいと思ったが、それも「友達の実家で」「そのおばあちゃんが作ってくれたなすみそをおかずに」「仲のいい友達たちと」食べたからなのだ。もちろん味も最高だっただろう。しかし僕がそれを「もう一度食べたい」と思うとき、その時のすべての条件が揃わなければ嫌である。でなければ「もう一度食べた」ことには絶対にならない。口の中に入ってくるものの味がたとえ完全に同じか、それよりおいしいものであったとしても。
 なんか当たり前のことを書いてしまったが、僕が「おいしいものを食べたい」と思うことがない、というのは以上のような話である。嘘ではない。高校時代は北海道に一人旅してもロッテリアとか食パンとか食べてたし、今だって「おいしい」というだけの基準で店を選ぶことはまったくない。あんまり共感されなさそうだが、僕のほうも「おいしいもの」を良しとする風潮にまったく共感ができない。オレには感情が、ナイ……。

2025.4.11(金) 酒とバラの血筋

 先日兄の展示会に行き、流れで夕飯を共にした。二人きりでごはん食べるのは何年ぶりだろうか。そして二人ともよく酒を飲む。血は争えぬ。
 母方の祖父はけっこうな酒浸りで昔は本当にいろいろ大変だったらしい。お母さんはたぶんそれを完全に反面教師として気高く生きている。お酒もかなり強いようだがあんまり飲んでいるところを見ない。でもこないだアキバのジョナサンで一緒にワイン飲んだ。良き付き合いに落ち着いたようだ。
 お父さんはかならず晩酌をするし僕も最近はたまに相伴する。ただしお母さんのほうがずっとお酒は強いらしい。飲んで暴れる系アル中の娘に生まれ、それが嫌で地元を飛び出した(という解釈は可能であろう)のに、毎晩かならず酒を飲む男と生涯を共にしている、不思議。しかしこれこそが我が「尾崎家」の愛すべき性質を象徴的に表している気もする。
 すなわち、酒を飲むことが悪いのではない。暴れたり周囲に迷惑をかけることが悪いのだ。このようにものごとを「切り分ける」冷静さこそが当家の美徳ではないか。そう思うと僕が夜学バーという「酒はあるが飲むことが必須ではなく、飲んだとしても飲まれたり溺れることは許されない」お店を経営していることも同じ文脈で語れよう。
 バー(酒場)だからとて酒を飲まねばならないわけではない。飲めるけど飲まないという選択もできる。飲んだとしても我をなくしたり人に負担をかけてはならない。「お酒はあくまでも快適に暮らす道具」ってか。
 世代が世代だから難しいことではあろうが、ウチのお母さんには「酒を飲まない男」と結婚する道だってあったはずだ。ウチのお父さんは酒は飲む煙草は吸う、稀に(本当に稀だろうが)パチンコだって行く(愛知県民だでね!)。おそらく天才的な理科系の興味と才覚を持ち、古き良き理系男子のあらゆる趣味をことごとくカバーしている。オーディオ、ジャズ、クラシックだけでなく無線、鉱石、昆虫採集、登山、釣り、カメラ、諸々、また楽器も多少なり。映画とかファッションにも一定以上明るい。最近は将棋とか見てる(現在最も偉大な愛知県民=藤井聡太先生の影響もあるのかねー。あと僕が将棋好きなのもあるかも)。ある側面から見ればこれ以上に男らしい男もおるまい。それは野蛮な男らしさではなく、文明的な男らしさであり、暴力性以外の「カッコよさ」をかなり多くの角度から見つめる目を持っているということだ。
 ま、それが生来のものか、教育の一環として以前以上に興味を持つようになった結果なのかはわからない。四人の男子を育てつつ、男子ばかりの工業高校に長年勤務し続けてきた身としての。いずれにせよ言えるのは、「カッコいい」ということや「楽しい」「面白い」「ワンダーである」といったことをものすごく長い間追究し続けてきた末に、現在の彼の「どう考えても多趣味すぎ」という姿があるのである、たぶん。
 そんな彼をお母さんは尊敬している。「酒を飲む=横暴」という野蛮な図式を生きるのではなく、「酒を飲む=男の美学」という(多少古くさいかもしれないが)「カッコよさ」とか「文化・文明」というものを基盤とした生き方をするウチのお父ちゃんを。静かに酒を飲み、目を閉じて音楽に聴き入る姿は間違いなく我ら兄弟の情操を善く育てた。(途中色々あったにしてもね、いろいろご迷惑をかけましたが本当にマジ親に感謝イェー。)
 夜学バーのあり方はまさに、「静かに酒を飲み、目を閉じて音楽に聴き入る」ような空間を複数人で創り上げるためのものである。「複数人で」というためには、もちろんそこに会話やコミュニケーションが介在する。互いに示し合う複数人の意思の総体が、かのように美しいシーンとなることをめざしておるわけだ。そういう意味で僕のしていることは親の生き方の継承でもあるのだと信じている。
 そこに言葉があろうがなかろうが、美しさの質は同じなのである。何も語られずに育った僕(ら)は、その静けさからすべてを勝手に読み取ってきた。ありし父の姿は常に饒舌な沈黙であった。(死んでないです。)

 寛容さ。フラットであること。すべてを受け入れながら、それとは別に(そのうちの一つとしての)自分の意志を強く持つこと。かなり性質の異なるような我が両親は子から見るとそのあたりの信念によって固く結ばれている。
 そう、すべてを認めるということは、その「すべて」のうちの一つであるところの「自分の気持ち」を、絶対に損なわせてはいけないということなのである。これが僕の考え方の中核にある。思えばそれは両親の態度に由来する。もちろん過程にはいろいろあったんではあろうが、奇跡的な夫婦もいたもんだ。子からは見えない部分を無視して語らせていただけるのならば、ほとんど悟りの境地に思える。「みんな」と「自分(たち)」とのバランスについて、半世紀近くも身をもって語り続けている。
 僕はなんでこんなに恥ずかしいことを書いているのだろうか? 僕には僕のアプローチがあるってだけだわね。人それぞれ生き方が違って、親孝行の仕方も違う。それでいい、というのを僕は教わってきたつもりなのだ。

2025.4.14(月) スーパーこども列伝

 アレがこうで コレがああで
 あっちがコレで こっちがアレで
 POPでCUTEな 欲張りガール
 超絶絶賛上昇中!! Yeah!!
(ちぇり→☆ボンボン『超絶絶賛上昇中!!』)

 2013年から2016年にかけて1721日活動した名古屋の進化形アイドルちぇり→☆ボンボンでございますが、アー、僕はたぶん2014年の秋くらいに知ってファンになりました。10年半くらい前ってことで、最年長メンバーも26歳となっております。当時は15歳でした。恐ろしいですね。
 何が恐ろしいかって、15歳の女の子を僕というウルトラ立派な成人男性が崇敬していたということなんですね。マー僕はとにかく「スーパーこども」が大好きなものでして。代表的なのはFolderの三浦大地(=三浦大知)くん、デビュー時9歳でした。初期ももちろんいいけど、12~13歳くらいの歌声も本当にすごい。『Everlasting Love』とか『Lady Butterfly』とか。ちなみに一番好きな曲は『Glory Glory』です。
 ただモー娘。とかAKB、坂道、ももクロとかにはほぼ興味がない。松浦亜弥にも。なんなら松田聖子も。その違いはいったいなんだろう。年齢(層)でもあるが、一言でいえば「マンガっぽさ」なんだよな。もう、身も蓋もなく言うと。
 Folderはマンガだったし、高知県観光特使のはちきんガールズもマンガだった。Moo.念平先生が実際にマンガ化するくらいマンガだった。
 アニメーションでいえば『魔神英雄伝ワタル』(1988)は小学4年生、『飛べ!イサミ』(1995)は5年生。このあたりも僕は(アニメだけど)「マンガ的」って思うし、「スーパーこども」が活躍する名作だと思っている。しかも彼らには特別な才能があるってわけじゃなくて、たまたまそういう能力や機会を得てしまったから、みんなで助け合ってなんとかしていくっていう流れ。ここも僕の好みなんだな。「普通の朝が遠くに消えてゆく」って歌がありましたが、これで大事なのは「普通の朝」ってのが最初、前提としてあるってことで、それがズレたり変わったりってことで物語が進んでいく。『ズッコケ三人組』とかもそうですわな。
 つまり僕の思う「マンガ的(な良さ)」ってのは、「何の変哲もなかった日常」というものの延長にある非日常、っていうことなのかもしれない。『ふたりはプリキュア』もそうで、チョコパフェとかイケメンとかマジに夢中になれる年頃(と日常)っていう前提があってこそ。
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』なんかもそういうものかなー。身近なところからスタートするから感情移入もしやすい。
 タイプロ(timelesz project)でいったら篠塚大輝くんはこの意味でマンガですよね。洗顔すらしてないフツーの大学生がアイドルに?みたいな。マンガってのはその、いろんなマンガがあるけど、ドラえもん1巻の最初の話「未来の国からはるばると」を思い返していただきますと、お正月に寝っ転がっておもち食べてるっていう、誰にでも想像できて、かつ経験もありそうなシーン(誰にもお正月は訪れる)から始まって、ドラえもんという非日常が現れるところが非常に面白いわけでして。オバQなら忍者ごっこから始まりますね。そういうものを僕は「マンガ的なものの基本」と考えているわけなのです。ドラゴンボールみたいに非日常から始まる例も無限にありますけれども、あれも無理にこじつければ「空腹→食事の準備(狩猟)」という日常をこなしていたらブルマという非日常が現れるって構図にはまあ、なっております。無茶をいえば主人公が少年って時点で(少年少女にとって)身近だってのもあるし。
 ところで、タイプロにおいて篠塚くんを身近に感じるのはおそらく多くが大卒(ないしそのようなルートを送る可能性の高い人)だろう、当たり前だけど。ケンティーとマリウスがいなくなって大卒枠が減った(菊地のみになった)ので補充したという見方もできると思う。(timelesz projectってのはtimeleszの新メンバーオーディションで、timeleszとはSexy Zone改名グループです、念のため。)
 で、僕は大卒でありますし今も大学生でございますから、やはり篠塚くんのことが気になって二次審査からかなり注目していたのであります。
 核心に迫れば僕にとって身近であるとは、まず何よりも「主人公が子どもである」ってことなのだ、未だに。ゆえちぇり→☆ボンボンにも惹かれたわけなのであるが、長くなったのでこの続きはまた次回に引き継がせていただきます。

2025.4.16(水) 若さってなんだ 可能性のことさ

無限の可能性 それを信じて歩き出せ
(ちぇり→☆ボンボン『ハジマルミライ』)

 若いということは想像以上に素晴らしい。素晴らしすぎるんだ。世界中の富を持ってきても釣り合わないだろう。(参考文献:藤子・F・不二雄『未来ドロボウ』)
 年寄りがつい「若いっていいな」的なことを思ったり言ったりしてしまうのは、やはり「可能性」の魅力ゆえだろう。「えー〇〇歳? なんでもできるじゃん!」とか言いがち(言われがち)だよね。しかし一方で若さというものは、自分の可能性を適切に信じることに長けてはいない。信じるだけ信じても行動に結びつけられない場合も多い。俺はまだ本気出してないだけ。
 引用した歌詞は「自分達には無限の可能性があるので→それを信じる強さを持って→行動に移しましょう」というメッセージなわけであります。前提→提案の美しい流れ。そこからハジマルミライ。
 実はこないだこのちぇり→⭐︎ボンボン不動のセンター「りころん」に会い、初めてまとまった時間話す機会を持てた。「ちぇりボンで一番好きな曲、せーので言おうよ〜」という超絶絶賛プロ接客を受けたのだが、それで同時に出た曲名がやはり『ハジマルミライ』であった。実際そうでもあるんだけどもちろん当てに行きましたね。どのライブのどこで歌われてたかを思い出せばわかりますよね……(オタク)。ま5曲しかないしね。「ここからハジマルミライ」で始まるとてもいい曲。タイプロ最終回、最後の場面の菊池風磨くんを思い出しますよね……(オタク)。
 引用部のメロディは「旅立つ時は来た ためらわず行け大丈夫さ」とも歌われる。ちぇり→⭐︎ボンボンはりころん高3の年末に解散したのだが、まさに部活の卒業公演って感じだった。未来を見つめて潔く舞台を去る。それもカッコいい、さすがだ!と僕は当時から思っていて、長く続くよりもむしろ嬉しかったかもしれない。終わり方もマンガチックだったわけだ。
 部活だから、すっきり終わることができる。もちろん僕は永遠に続くような部活だって好きなんだけど、それをやめてまったく新しいことをやっていても、たまにOBOGが集まって昔とった杵柄的なことをやるのはもっと好きかもしれない。「退役軍人活躍もの」みたいなの大好きだもん。90年代の『鉄人28号FX』は金田正太郎くんの息子世代の話なんだけど、FXがピンチになるとお父さんの正太郎(警視総監)が旧鉄人に乗って助けにきたりするのね。あのリモコン持って。そういうの好きすぎて。
 お客さんで昔ラグビーやってたって人が、もう60過ぎてるんだけど「こないだOB戦をやってきまして」なんて話をされるともう「そうそう!」って興奮しちゃうのです。
 現役というものは、退役してからも訪れるのだ。それは僕がずっと言ってる人生のテーマである「再会」ってこととほぼ同じである。「再開」ですねこっちは。YMOが年取ってから再結成したのとかも。
 りころん(とあやや)は、大学時代もちょこちょこ「名古屋嬢」というユニドルとして活動していた。これはもう大学のサークルですらないような集まりで、僕の好きな「部活感」に溢れていて最高だった。今年の頭にも昔のアイドル仲間と1日限りでステージに立ったらしい。行けなかった(というか終わるまで知らなかった)けど。
「これは終わりじゃない。始まりなんだ。すべては、これから、ここから始まる私たちの物語!」っていうのは21世紀最高のアニメ『がくえんゆーとぴあ まなびストレート!』のラストシーンにおけるみかんのセリフなのだが(オタク)、ほぼ「ここからハジマルミライ〜」ってことを言っているわけであります。僕は結局そういうのが好きなんですよね。
『まなび』は主人公たち5人の未来と、後輩たちが運営していく生徒会の素晴らしい未来を示唆して終わるわけなのです。ちぇり→⭐︎ボンボンが解散の時、「さようなら」ではなく「ここからハジマルミライ」と言って終わって行ったことと同じなわけですね。悲しいだけではなくて、目の前に可能性が広がっている喜びと幸せのほうが大きいのだと。
 それはもちろん年齢的に「若い」とされる人たちだけに限らない、というのは、藤子・F・不二雄先生の超名作『あのバカは荒野をめざす』をお読みいただければわかります。こういった短編はほぼ全て夜学バーで読めます。中公の愛蔵版が置いてあるので。
『あのバカ』では最後、老主人公が「何かをやってみたくなった」「なあに俺だってまだまだ……」と言って終わる。そういうことなんですよね。僕がPIERROTっていうバンドが大好きなのも彼らがけっこう「可能性」って言葉を使うからでもあるのです。
 可能性が閉じていった時、すなわち時分の花が閉じられたような時、まことの花が残るかどうかはそれまでの芸にかかっている。みたいなことを世阿弥が言っているのですが、僕がめざすのは相変わらずここですね。せいぜい可能性のあるうちにやれることはやっておきたい。
 りころんに会った話を書きたかっただけなのにひたすら長い自語りになっている。続く。

2025.4.20(日) すべては光に弱いから

 ちょっとお休み。書きたいことはけっこうあってメモだけはしてあるんだけど追いつかないですね。最近忙しい。本を読んだり勉強したり遊んだり。人と会う欲はお店で満たしてるつもりなんだけど自分でも飲みに行っちゃうし。
 こないだ諏訪大社を久々に訪れて、驚くほど視覚情報に感動しない自分に驚いた(同語反復)。逆に感動したのは音だった。
 僕は光に弱い。繊細サンデス。まぶしいのでサングラスを常用している。昼間だけでなく夜にコンビニや薬局に入るときにも必須。夜行性なんだと思う。夜が好きで夜のお店をやっているのは「昼間はまぶしいから」っていうのがたぶんある。
 目が光の刺激に弱いってことと、色彩に感動しないってことは似ているのかもしれない。ちなみに夢が白黒かカラーか、みたいな話あるけど、夢が白黒かカラーかなんてわからないんですけどみんなわかるの? 僕の夢って音楽なのかな。
 マンガも字の本も、白黒だから僕には心地いいんじゃないかな。色のついたマンガには格別惹かれない。映画もアニメもそんなに(マンガや本ほどには)好きじゃないのは、色が要らないってことなのかもな。自分としてはさみしいというか貧しい気がして嫌なんだけど、実際のコト。
 美術館にもほとんどいかない。景色のいいところにもさほど行きたいと思わない。なんと貧しい。闇の中で自転車を漕いでいることがいちばん好きかもしれない。夜はだいたい白黒になる。肉体と音が強調される。寝ることも好きだ。電気消してね。
 女の子の見た目にもそんなに興味ない。電気消したら残るのは肉体と音なのだから。
 髪の毛を染めたことがないのも色に無頓着ってことなんかも。色のついた服はむしろけっこう着るし、好きだけど。このへんは謎。せめてそのくらいはってことかね。
 こないだ僕はマンガを言語として読んでいるんだってこと書いた気がするけど、最近流行る多くのマンガは「違う言語」って感じがして読めない。鬼滅の刃は英語読んでるみたい。
 言語ってのはけっこう音だと思う。時間の前後が前提となるから。視覚について時間の存在は絶対ではナイ。僕は時間を愛しているってのもよく書いてるけど、ここも関係しそうです。
 音楽も好きは好きなんですけどやはり言語として捉えているところが大きくて、ライブやクラブは得意じゃない。そもそも大きい音が苦手だし。繊細さんなんで。四男だけど。
 昔の人は門構えに音と書いて闇を表現した。夜と闇と音と言語。僕の中ではかなり繋がっていて、それは光が苦手なこと、色彩に惹かれないことに通じているのではないかと。音楽に狂わないのは、音を言語としてしか認識していないから。でたぶんそれは大きな音や声が嫌いだから。
 でも風の音や川の音、虫の声や鳥の声、あれらをも僕は言語だと思ってるんだろうか?
 そうかもしれない。あわれで貧しい僕は、ものごとを意味でしか捉えられない。だから時折無心に自転車で夜通し山を越えるなどして、本能に挨拶しているのだ。ういろう持って。

 なんだろうね自己紹介。ちょっと日記ペースあげますたぶん。

2025.4.23(水) 茶と夜学(序) すきやビル

 高校時代はとにかく「毎日書く」ことが優先だったので内容は二の次だった。日記なのだからそのほうがいい。思ったことを自由に書こう。
 わが夜学バーの入っている建物は「池之端すきやビル」という。かつての町名「数寄屋町」の名残であろう。数寄屋とは茶室のことである。
 かねてより僕のやりたいことや好きなことは茶の湯に通ずると思っている。山田芳裕先生の名作『へうげもの』を読んで確信したものだ。最近またあれこれお茶に関する本を買いあさっているのだがなかなか読めないでいる。んまぼちぼちやります。
 茶の言葉に「一期一会」と「一座建立」がある。一期一会とは「この会、この時間を一度きりと思って大切にすべし」というような意味で、一座建立とは「主客がともに心を合わせ素晴らしい場(茶会の時間)をつくる」というようなこと。これだけ見れば立派に夜学バーは茶の湯なのである。
 店のサイズとしても茶室くらいのもんだし、内装や小物、道具に魂をこめコーヒー入れたりお酒をつくったりするのだ。いっそ扉も小さくしたいな。ちなみに客席からカウンターに通じる門はかなり小さく、かがまなければ入れない。
 1974年に竣工したすきやビルは、ひょっとしたらわざとそのようなカウンターの形にしたのではなかろうか? 数寄屋町の数寄屋として、茶室を思い描いてデザインされたスナックビルなのでは?
 たとえば旧夜学バー跡地である301号室は、真上の401号室と比べても窓の形がぜんぜん違う。茶室によって個性を変える洒落たデザイン。ほとんどすべての部屋に入室したことがあるが、それぞれ少しずつ違った意匠になっていて飽きさせない。遊び心のあるイカしたビルである。
 持ち主たる永谷って不動産屋は寄席を経営してたりもするんで、おそらくかなりの数寄者であろう。茶室を意識していたって可能性はまったくゼロとはいえまい。そんなこと考えながらすきやビルのお店に入ってみると面白いんでぜひ遊びに来てください。
 お茶についてまた何かわかったら書きます。

2025.4.24(木) 情報の地層

着火!ファイヤー!名古屋の星!
(ちぇり→☆ボンボン『ちぇり→BOM!!』)

 4月24日はあこたん(誰?)のお誕生日なのでとりあえず何か書こう。
 それにしても儚い。YouTubeの動画や公式ブログも残ってはいるのだが情報にも地層というものは確かにあって、10年も昔のことになると消えているものもやはり多いし、何より時間に埋もれていった各々の情報が有機的結びつきをほとんど失っている。
 たとえばこの『ちぇり→BOM!!』という曲の歌詞も、ほぼ動画から耳コピするしかない状態。もしかしたらどこかにはあるのかもしれないし、それこそウェブアーカイブなどを利用すれば誰かが書き起こしたものをサルベージできる可能性もある。しかし検索で簡単には出てこないのは間違いなく、それはこのインターネット社会において死んだも同然なのである。
 しかしなぜおじさま方が地下アイドルやジュニアアイドルを愛し、おねえさま方がジャニーズを愛するのかといえば、ひとえに「儚い」からである。儚いからこそ「今推さなければ」という気持ちがひとしお強くなる。儚さとは、若さのみに由来するのではない。時間は情報の上に情報を重ね、上書きし、埋もれさせ、一生日の目を見られないような奥底へと押しやっていく。それを知っているのである。

もっと見とけばよかった ちゃんと見とけばよかった
いつもこんな近くで いつも見られたのに
もっと笑えばよかった ちゃんと笑えばよかった
いつもこんな近くで いつも笑えたのに

未来に私が生きているなら
こんな思いはなるべくしたくないから
今ここにある景色を
ぎゅっと抱きしめるの
(3776『3.11』)

 これも10年前である。

2025.4.25(金) 岸田メルの想い出

2002.2.16(土) 修羅場ランバダ

修羅場穴場女子浮遊中部日本高等学校演劇連盟名古屋第1第2地区合同発表会第二回実行委員会及び講評委員会出席。
笑顔が大事。
人の上に立つ人は特に、笑顔が大事。
それはこーゆー場を取り仕切る総務部の方々とか
顧問の先生とか
そんな感じの人々なんだけど
ダメだよね。
笑顔じゃないと。
笑顔、笑顔、笑顔のゲンキ。
暗い話し合いはつまらない。
笑っていなさい。。。
器量が悪いんだからいつも笑ってなさい
不恰好なんだからいつもせっせと動いてなさい…ってこりゃ木島千草さんの詩ですよ。
雰囲気の悪いの嫌い。重い空気大嫌い。
だから今回の講評委員長さんはかなりの好感触。
小沢健二featuringスチャダラパー(スチャダラパーfeaturing小沢健二)
『今夜はブギー・バック』の話題が通じたのが嬉しくて
ダンスフロアーに華やかな光ってな具合にウアーッ、ウアーッ
wait wait wait wait ガッデームって俺って何にも言ってねーぐらいの勢いで。
しんみりとしますわなー。
あの曲。
ウサギのついたモチが食べたくて。

僕は普通に喋っているつもりでも
演劇部の方々って何故か爆笑してくださるんですよね。
それで会議に少しでも笑顔が加われば満足なんだけど
かと思うと完璧だと思った《狙い》がスコーンと外れるときもあって
難しいもんです。
相手と場によって笑いのジャンルを広く取り揃えるべき。

 と、思わず全文を引用してしまったがここに出てくる「今回の講評委員長さん」ってのがかの岸田メル(そういう人がいるのです)なのですね。
 初対面で好印象持ってるの面白い。出会いは23年前の2月16日、ってのが記録されてるの改めてすごい。スマホ・SNS時代なら当たり前のことなんだけど。
 ここから3月末の発表会まで、同じ「講評委員」を務めるわけです。これは夏と違って上に上がる大会ではないので緊張感も少なく、楽しくやれた覚えがある。夏の講評はやったことないけどたぶん相当ピリピリするんだろうな。
 ところで、このとき僕は高校2年生、そして彼は僕の記憶が正しければ3年生だったはずなんだけど、「来月卒業する3年生が講評委員に出てきて、しかも委員長ってなんやねん!」と、その時点で大したキチガイなんですよね。
 僕が高校を出てからはまったく会ってなくて「きしらくん何やってるんだろうな~」くらいにぼんやりずっと思っていたのだが、10年くらい前になんかのキッカケで岸田メルの顔を見たときに「これって……?」と思い、Wikipediaを見にいったらがっちり本名が書かれていた。そしていつの間にか夜学バーから1kmくらいのところでお店を始めており、こないだ来てくれた。僕も昨日(25日深夜のこと)行ってまた会ってきた。どちらの会でも高いバーボン一緒に飲んだ。お互いバーボン好きだってのがまた面白い共通点なのだが彼の詳しさはハッキリと舌を巻く。当たり前だがファッションにも造詣深くうちの兄ちゃん(天才デザイナー)のこともよく知っていて、「マジで? 兄弟なの?」といまさら驚いていた。
 しかし最も共感するのは店作りの考え方と、店にいるときのかいがいしさ。うまく説明できないが同郷で同時期に高校演劇をやっていた人という感じがすごくする。出会いは実行委員(講評委員)だしね。「動く」「動かす」「運営する」「演じる」といった能力と適性が高すぎる、というか、自然に(当たり前に)そういうふうにやってしまうんだろう。お店のシステムについても僕は非常に感心したのだが、長くなるので気が向いたらいつか書こう。
 そういえばきしらくんもこのホームページとか見てくれていたことがあるみたいで、こないだ本当に久々に会って話した時に「すごかったよね」「本当に変な人だった」みたいなことを言ってくれた。嬉しい。たまたま共通の知人ができたことなんかもあって夜学バーのことも知っていてくれたようだ。
 実に心強い。サイズ感はぜんぜん違えども、昔から知っている人が自分と矛盾しない世界観の中でがんばってくれていることは。タイトルを「想い出」としたが、想い出というものは僕にとって未来への足場になるようなもので、まったくありがたいことでございます。
 GWに急遽名古屋に行くことが決まって、高1の同級生何人かと同時に会う。楽しみだ。彼らとの想い出も僕の大きな足場だし、それはこれからもまだ増えていく。テレビ塔に登るんだ、たぶん。

追記
 ↑の日記に引用したのは「第二回実行委員会」の時の日記だから、厳密にはさらに前にも岸田メルと顔を合わせていることになる。参考として第一回の日の日記も引っ張ってきました。

2002.1.19(土) 惹起ー

中部日本高等学校演劇連盟名古屋第Ⅰ・第Ⅱ地区合同発表会第一回実行委員会(第一回講評委員会)参加。
わかりやすく言うと僕は今度の演劇発表会で講評委員という言わば審査員みたいなものをやるんです。
各参加校から一名ずつ出され、今回は全部で15人。
つまり自分の学校も審査対象になるわけだし、とかくぴりぴりした空気になりやすい。
発表会は大会と違って順位を付けたりとかそういう目的はないのでまだまし。
だから講評をやってみる気になったのら。
「場をほぐす」という点において僕の存在はそれなりに意味を成す。
みんなが気持ち良くなってくれるといいなあ。

 いいやつそう僕。「ぴりぴりした空気」が本当に嫌いだったんですよね。演劇ってゲージツなんだから、賞レースみたいな感じになってることに憤っていたのを覚えております。

2025.4.26(土) 「推しを散らす」IDOLY

 岸田メル氏(昨日の記事参照)のプロデュースする秋葉原のコンカフェ「IDOLY」では女の子からのキャストドリンクやシャンパンのおねだりはない(客から申し出て常に断られるかは不明、同ビル同オーナー同プロデューサーのneusickでは発生していたように見えた。またシャンパン自体はメニューから注文可能)。
 基本の料金システムは《最初の1時間がチャージ800円+ドリンク注文必須+アミューズメント(チェキや動画撮影など)注文必須、以降30分ごとにチャージ400円と1オーダー(アミューズメント可)、女性はチャージ半額、18歳以下チャージ無料。すべて税抜。》。
 つまり、入店したらまず880円のチャージと、880円~のお酒または660円のソフドリ、1100円~のアミューズメントがかかるので、最低料金は2860円(ノンアルなら2640円)。以降はたぶん330円~のフード注文でもOKなので、30分ごとに770円が最低、お酒を頼むなら1320円~、チェキとかなら1540円~となる。
 それが高いか安いかを考えたいのではないが、「キャスドリを頼まなくてよい」という時点でこの手のお店としては安い部類に入るだろう。名古屋人のケチケチ感覚がよく発揮された明朗さにまず好感が持てる。そういえば湯島(IDOLYから歩けます)の「気絶」というメイドの店もオーナーが愛知県民(豊田)なのだが、あちらもキャスドリ必須ではないし、シャンパンもたぶん廃止状態(嫌いと明言している)。この似て非なる二店の差異についてはたぶん後述する。もちろん夜学バーも愛知県民(名古屋)の店である。

 IDOLYについて何より注目したいのは「アミューズメント必須」という点。聞いた時は「ふーん」くらいにしか思っていなかったが、入店してすぐに気づいてしまった。「指名しなきゃいけないのか!」と。
 がんばっても15人くらいしか入れない小さなお店に、平日でもキャストが7~8人くらい出勤する。土日やイベント時は10名をゆうに超える。お客はその中から「選ぶ」わけである。ここが最大のポイントなのだが、重要なのは「いつ選ぶのか」なのだ。
 ドリンクを飲み始めてしばらく経って、「そーいやアミューズメント必須なんだよな、特に何も言われないけどいいのかな」とぼんやり思って、すぐにハッとした。「選べないじゃないか!」と。そう、初回来店時は女の子たちのことを(普通は)まったく知らないはずなので、誰とチェキを撮るか(ないし誰のチェキがほしいか)を決めることができない。ゆえ基本的には退店時にアミューズメントを選ぶことになる。それまでにお客は「誰を推すか」を選ばなければならないわけである。(もちろん僕がこんな当たり前のことを言いたいだけってわけがないので、もうちょい我慢して読み進めてね。)
 するとこれはホストの「送り」とかなり似た制度なのだが、コンカフェには「担当」という概念がない。ここ出ますテストに。
 ホストクラブの初回来店時、姫(客)は帰るまでに店内にいるホストの中からお気に入りを見つけ、その人に退店時に出口まで送ってもらう。基本的にはその人が「担当」となり、以後は他のホストを指名することがない(らしい。どのくらい例外があるのかはわからない)。言ってしまえばそのホストが姫を囲い込む形になるわけだ。姫は原則として担当にだけお金を払い続ける。有識者違ったら教えてください。
 しかしIDOLYにおいては、退店時に「選ぶ」というところまでは同じでも、その子を永遠に指名し続ける必要はないし、同じ日に複数の女の子を「選ぶ」こともできる。ここがすさまじいところなのである。
 男は、最低でも一人の女の子を強制的に選ばされる。しかし男というのは、特にコンカフェに来るような男ってのは、「一人だけ選んだら他の子がかわいそう」と思うものなのだ。一般に女の子は「選ばれない(選ばれなかった)」ということに敏感である。女の子のお店や地下アイドル等の文化に慣れていればいるほど、男はその感情の存在を深く知ってしまう。一人の女の子を選ぶとき、「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」と男は力強く心で唱える。なぜならば男は、基本的にどんな女の子のことだって(自分を肯定的に扱ってくれる限り)好きになってしまうし、たくさんの女の子を同時に愛せるし、自分はすべての女からモテうると勘違いしているものなのである。少なくとも女を金で買おうという人はたいていそうだと思うし、実のところ僕だって※これ以上のコメントは差し控えさせていただきます(政治家)。
 するとどういうことが起こるか? たった一人の「推し」だけを指名し続けるお客もいるだろうが、その日に話した女の子全員を指名する人だってたぶんいる。あるいは、その日はAちゃん、別の日はBちゃん、という形でバランスを取ろうとする人もいるだろう。わざわざAちゃんのいない日を狙って「こないだはAちゃんを指名しちゃってゴメン(絵文字)」みたいな形でBちゃんを指名しに来る人もいると思う。
 システムを復習すると、最初の1時間は1ドリンクと1アミューズメント(チェキ等)のオーダーが必須で、次の30分からはアミューズメントのみの注文でもOK。お酒をあんまり飲めなかったり飲みたくなかったり、あるいはお金をできるだけ節約したいという人にとって、ものすごく助かる仕組みなのである。1ドリンクのみで2タイ(ム)いられて、二人のチェキをゲットできる。3タイいるなら三人指名すればいい。これを名古屋人の経済感覚(ケチケチ根性)と断ずるのはさすがに乱暴だろうが、そういう突破口を残しているのはなんとも巧みだと(ケチケチな)僕は思う。
 お店としても、ドリンクよりチェキのほうが利益率は高いだろうし、「人気投票」の機能も果たす。またキャスドリは飲む量や速度に限界があるが、チェキならば青天井でいくらでも撮れる。配膳や洗い物などを考えるとオペレーションもかなり楽だし、ドリンクを作っている間にコミュニケーションが途切れることもなく、むしろ密になってお客さんたち「好き!」と叫び。ほとんどあらゆる方面から効率的。さすがきしらくんだよ! イヨッ名古屋人! 僕の持論では、名古屋人ってのは効率モンスターなんですよね。コスパ怪獣。
 チェキってのはお酒や水分の許容量と関係なく無限に撮れるので、「あの子は飲めるから売れてるんだ」という言い訳もできない。残酷に数値が突きつけられる。ナンバー(そんな概念はないかもしらんが)を上げるには可愛さを磨き、SNSをがんばって、出勤数を増やし、魅力的な接客をするしかない。女の子たちが自然に頑張るようになるシステム。飲まなくていいからむくんだりもしにくいしね……(お金を出してキャストにドリンクを飲んでもらうこと自体がありえないかは前述したように不明)。

 とこう褒めちぎったところで、まとめると、IDOLYが画期的なのは「推しを散らす」という現象を制度によって招き寄せているところなのではないか、と僕は初めて行った時に感じたのである。推しが散らされれば通う頻度も上がる。ポイントカードがえぐい(相当な来店回数が想定されている)のはそのためだろう。ワンタイでチェキだけ撮って帰っても3000円弱の売上にはなるので、薄利多売とはいえそれなりの利もある。
 個人的には!「誰にどのくらいアミューズメントを捧げるか」を考えるのはけっこうゲーム性高くて、さりげなくゲーミフィケーションみたいなこともされてるなと思う。「今月はAちゃんを10回、Bちゃんを6回、Cちゃんを5回指名した」みたいなことは手持ちのチェキを眺めればわかる(他のアミューズメントもすべて物理か電子で形に残るものである)。ああ、回数だけでなく「どのアミューズメントにするか」もゲーム性高いな。実在の女の子でゲームするようなもんだから、まあ楽しいでしょうね。女を金で買う人にとって……。(悪口ではナイ、多くの男がそうなのだ。)
 チェキ集めってカードゲームみたいなもんに近くて、だからオタクに長年愛されてるところもあるんだろうなとは昔から思っていた。

 腱鞘炎ぎみなのでやめる。

2025.4.29(火) 性愛と力(りりちゃんと松永)

 小野一光『完全ドキュメント 北九州監禁連続殺人事件』(文藝春秋)という本を読んでいる。腱鞘炎ゆえ整骨院に行ったら通電された。(言いたいだけ)
 この事件については豊田正義『消された一家』がよくできた傑作だが、こんどは600ページ近くに及ぶ大著で、読み応えがある。すばらしい。
 頂き女子として有名になったりりちゃんに僕が(なんと5年も前から!)注目していたのは、松永太(上記事件の主犯)の凄まじさに近いものを感じていたからでもある。松永は複数の人を死に至らしめたが、りりちゃんは今のところそういう話は聞かない。ただ松永だって34歳くらいまでは(発覚している限りは)殺人に手を染めてはいない。ちなみに木嶋佳苗さんが最初に人を殺したとされているのは32歳のときらしい。りりちゃんは逮捕当時25歳。
 松永が使ったのは「力」である。あえてこれを男の象徴と言いたい。暴力だけをさすのではない。松永はとにかく他人から「大人物」と思われることに長けていた。男も女も、「凄そう」な男についていくものなのである。
 対してりりちゃんが使ったのは「性愛」である。そのベースには「可愛さ」がある。可愛さは、上から下へと注がれる愛情を招き寄せる。これを使えば「かわいそう」「助けてあげたい」と思わせることが容易になる。
 松永とりりちゃんはまったく違う手口を用いたが、武器が違うというだけで「金を取る」という目的と結果については同じである。最終的に人が死んだかどうかというのも違うが、キャリアが違う。もしあのまま長く続けていれば、りりちゃんは松永(や木嶋)になり得たのだろうか? そう思うと早めに逮捕されたのは良かったのかもしれない(出所後はわからないが……)。
 ただ、僕はりりちゃんとそれなりの交友があった人間である。その立場、すなわち友人としてからのみ言えば、彼女には善なるところもあった。「女の子たちのために」という気持ちは本当だったと思う。もちろんそれは「自分のため」を考えることが彼女には難しかった結果だろう。そのくらいりりちゃんには辛い、辛すぎる経験があった。松永との最大の差異は、ここにあるんじゃないだろうか。
 知る限り松永は、りりちゃんとの比較の意味では実に恵まれていた。彼は「自分のため」とだけ思い、「力」を行使して詐欺に尽くした(そう、彼の本業は殺人ではなく「詐欺」である)。りりちゃんは極めて壮絶な環境に生まれ育ち、「自分のため」という発想を持つことができず、「担当のため」「女の子たちのため」ということだけを考え、それで数多の男性たちからお金を取った。男性たち、というのは、復讐の対象でもあったはずである。参考文献:夜回り先生こと水谷修先生の『約束』(「アイ」という少女の話)
 彼女が主たるターゲットとしたのは、女を金で買おうとする人間たちである。主要な頂き先がソープの客だったというのは象徴的なことだ。晩期はマッチングアプリなどの比率が高まっていたようだが、それは彼女の失敗だったと思う。(この件について詳しく書くにはホームページ幅が足りない。)
 一方松永のターゲット像は、はっきりしない。金を取れるなら誰でも良かったのではないかと思う。りりちゃんは、おそらく女性からはほぼ頂かなかったはずだし、僕のような出会い方をした男も積極的なターゲットではなかった。自分で言うのもなんだが、僕はりりちゃんに対して「客」や「男」のような接し方はまったくしなかったはずだし、りりちゃんが読んでくれたこのホームページの文章も、「こいつから頂こう」と思うような内容ではなかったのであろう。
 それをもって僕はある種「現代の義賊」みたいなふうにも思っていたわけだが、「素人」に手を出す率がたぶんだんだん高くなっていったのだとしたら、それは「義賊」から「単なる悪人」へのシフトでしかなかった。マニュアルにも「玄人(風俗で女を買うような人間)だけを狙おう」みたいなことは書いていなかったはずだ。そのバランスがいよいよ崩れた頃、愛知の「フォロワー」が下手を踏んで、捕まった。
 いろいろ考えて、僕はりりちゃんのことがものすごく好きである。最近明らかになった「X氏」まわりのことは心配でならないが、出所までにはまだ時間がある。願わくはその間に、彼女の善なる部分、魅力的な部分が表に出て、さらに磨かれますように。

過去ログ  2025年3月  2025年4月  2025年5月  TOP