少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2008/09/30(火) 死んでもいい'08

 彼と繋がっているんだなと思うと嘘みたいで幸せだから死んでもいい。十年前も五年前も二年前でさえ一回も考えなかったから未だに身体が宙に浮いてる感覚のままだけどこうして知らない人と彼と話したことについて話したりすることができて死んでもいい。


 さて文芸部と演劇部は日本全国どこへ行っても、そして恐らく世代を問わず同じような人たちが集まっていて同じような雰囲気で同じようなノリのことをしているのである。ペンネームが恥ずかしいのは十五年前も今もまったく同じなのである。うむ。うむ!


 それで僕は人生の目的をほとんどすべて達成してしまって困っていた。何のために生きているかなんて考えたこともなかったけれども初めて思った。何のために生きたらいいのかと。


 とりあえず今は少しでも人間らしい生活をしようと心がけるのみだ。あー。迷っている。このままここにいるのか、それともプロボーガーを目指して旅立つか。

2008/09/28(日) 富士ロック

 昨日フジロック行ってきました。
 吐き気がしました。
 タイガーフェイクファだけ見て帰ってきました。
 あと、いちどだけ知り合いとすれ違いました。
 一生金利で食ってた人です。

2008/09/27(土) 赤い窓

 何も書ける気がしないのだが下のような駄文をトップ記事にしておくのは心が痛むので何かを書こう。そしてもうちょっと虚実の虚を強調していこう。


 今朝、お母さんに起こされた。「大変だよ!」窓を見ると確かにそれ的なものが張りついていた。「うひゃあ」と思って石を投げたら窓に当たった。「くそっ、窓に当たった」と僕は悔しく思った。
「むだだ! わたしは窓の向こう側にいるのだから」と、それ的なものは高らかに笑った。ずいぶんと親切な言い方だなあと思った。相手の身になってものを考えるという癖のない僕は少々赤面した。
 それ的なものは細長い口を窓ガラスに突き刺してちゅーちゅー吸いはじめた。テーブルにこぼしたジュースをストローで飲むときのようにガラスは次第に薄くなりやがて水滴をまばらに中空に残したまま消滅した。それ的なものはいよいよくっくっと笑い、「ふはは」と言った。僕はそばにあるものをとにかく投げつけた。水滴のように残ったガラスがぱりんパリンと断末魔の叫び声を上げ、雪の結晶のように庭の上に降り注いだ。しばらく歩けないと僕は悲しくなった。ジョニーもくつろげない。
 ちくしょう。何が目的なのだ。
 遂にそれ的なものは侵入し蝙蝠のように部屋の中を縦横無尽に飛び回った。超音波と、がし、がし、という彼が何かにぶつかる音がうるさくて、僕とお母さんは辟易した。そこで去年の夏に買ったまま台所に飾ってあったロケット花火をバルサンのように部屋の中央に置いて点火することにした。「これで」という確信があった。そしてそれはそうだった。
 ぱしゅう、と火花の軌跡を残し天井を突き抜けて宇宙を目指すロケットに、蝙蝠のようなそれ的なものは支柱に植物がツタを巻き付けるように馴れ馴れしくまとわりついて昇っていった。風がなく果たしてそれは真下に落ちてきた。それ的なものは頭から落下し、血を流して倒れた。
「お母さん、ストローを」と僕は言って、大きく深呼吸をした後にそれを吸ってみた。口いっぱいに含んで、部屋の中から庭に向かって吹きつけると、見えない壁にスプレーしたみたいに空中で平面を作って、やがて奇妙な水たまりができあがりそのうちに凝固した。
 我が家のいびつな赤い窓はそのときにできたのであって、それで四方のすき間からときおりあれ的なものが闖入してくるらしいのである。

2008/09/25(木) 夏休みなくせばいいじゃん

 夏休みってのは暑くて勉強に集中できないから夏休みなわけだから全教室にエアコン完備してる学校は夏休みなくせばいいじゃん。
「電気代がかさむじゃないか」と言うなら、そもそもエアコンを導入するのが間違っているではないか。
 夏休みがあるのならばエアコンはいらないではないか。
 だって夏の一番暑いうちは教室に誰もいないんだから。

 冬は厚着して膝掛けかけて、教室を暗幕で覆って(これは精神的にヤバイ気がするので冗談にしておくけど)、耐え難ければ灯油ストーブでもつけたら乗り切れる。
 そもそも寒さは暑さほどに集中力を削がないので特に問題はないはずだ。
 あんまり子どもを甘やかすと我慢も工夫も知らない大人ができあがるぞ!
 などと居酒屋教育論を振りかざしてみる。


 とかいうことを書いていると、「エアコン嫌いなんだよね、つけないほうがいい?」とか「君みたいな主張をしている人がエアコンをつけたらまずいだろう」とか言われる。
 僕は確かにエアコン嫌いなんだけど、それは「体質的に受け付けない」わけでもないし、「絶対に使うべきでない」と言っているわけでもない。「使わなくていい状況では使わなくていいんじゃない?」と思うだけ。部屋にエアコンがあるのなら、来客があったり家で飲み会やったりする時には使えばいいじゃない。窓開けてると近所に響くし。でも、自分一人しか家にいないなら、別に我慢すればいいんじゃないの? って思うだけ。
 東京の家庭にエアコンはいらない。設置する必要は感じない。しかしまあ、すでにあるんなら使うべき時には使えばいいんじゃないの。うちは、ないから使わないけど。だって扇風機で事足りるもん。たいていの場合は扇風機でいいよ。だけど、最近は「扇風機のない部屋」っていうのが増えてきてるようだ。どうやって夏を乗り切るんだ? と疑問に思うんだけど、ほとんど毎日エアコン入れているようだ。あーあ、納得。馬鹿じゃないの?
 って、思ってるんだけど。

 って、何回も書いてるんだけど、みんながみんな何回も読むわけじゃないので、つい書いてしまう。飽きてきた方、すみません。ネタがないんだなと思ってください。
 えーっと、見に来てくださっている方々、すみません。見つかってはならない人に見つかりそうになってしまいました。明日か明後日くらいから再開します。見に来てくださっている方がいるようなので、とりあえず過去ログ開放しておきますね。
 http://homepage2.nifty.com/ozakit/temp.html

 本当にすみません、すぐまた書くようになりますので。
 とりあえず今夜は無銘でドラえもん喫茶です。

 なんと言うのでしょうか、のっぴきならない事態が発生いたしました。
 ひとまず月曜までお待ちください。
 今日は何を書く勇気もありません。
 ご用の方はメールで!

2008/09/18(木) アストロースター

 肥え始めた友達が何人かいるんだけど、
 自転車に乗りまくれば太らないのだ!

 とは思うものの、自転車に乗るには暇と余裕が必要だったりする。
 僕はあまりにも暇だから自転車に乗れるのだし、名古屋も東京も「狭い」都市なので自転車で問題ないんだけど、そうでない地域は難しいだろうなあと思う。
 でも、逆に言えば、「東京(23区内)と名古屋(市内)だったら自転車だけでいける。」
 たびたび母親の話をするが、もう50過ぎてるのに地下鉄で4~5駅くらいだったら平気で自転車で行く。駅や仕事場までだったら、むしろ歩いていく。あと、自分で何でも作る。
 だから、たぶん僕の母親は“ボケ”ない。もしボケることがあるとしたら、誰かが彼女から「自転車に乗る」ことや「歩く」ことや「ものを作る」ということを取り上げた時だろう。だけどあの信念の強いかーちゃんがそういうことをやめるとは思えない。たぶん、足の動く限り歩き続け、手先の動く限りものを作り続けるだろう。おそらく死ぬ寸前まで、孫やひ孫のためにおもちゃや小物や日用品を作り続けて、できあがるたびに子どもみたいにはしゃいで僕に見せびらかしてくるんだろう。
 僕もボケないために、今のうちに「ものを作る」ということを覚えないといけないなあと思っている。がんばりたい。

 ところで、自転車に乗るのに最も必要なことはたぶん「根性」だと思う。実は僕だって往復30キロも40キロも自転車で走るのはだるい。元気な時は全然だるくないのだが、ちょっとでも疲れていたり気落ちしていたりすると死ぬほど面倒くさい。特にママチャリだと、安定感ゆえに緊張感がなく、非常に退屈だし、疲れる。そこをカバーするのはもう「根性」でしかないんだな。雨が降ったり風が吹いたりしていると心が折れるけれども、合羽を着てでも乗り続けるのは意地と根性以外の何でもない。僕だってだるいのだ。読書が好きな人でもたいていはつまらない本を読むのは苦痛であろうように、自転車が好きな僕でもさすがにつまらない道を長時間走り続けるのはつらいのだよ。
 自転車に乗って移動ができる、ということは、そういう根性が備わっているのだと僕は考えるので、「どこでも自転車で行く」という人を見ると無条件で「この人は根性があるんだな」と思う。自転車に乗らない人は「物好きだな」とか「お金がないのかな」とか「よっぽど自転車が好きなんだな」とか思うかもしれないが、僕は「根性があるんだな」と思う。
 ただ、中には本当に自転車に乗っているだけでエクスタシーを感じるような種類の人もいるので、わかんない。そういう人は根性が云々とかって問題じゃないね。残念ながら僕は自転車に乗っているだけでエクスタシーを感じるような種類の人間ではないので、自転車に乗り続けるのには根性と気合いが必要。で、たぶん多くの人がそうであって、自転車に乗らない人は、そのために根性と気合いを発揮させるのが面倒くさい人だと思うんだけど、どうなんでしょう。

 僕はその「面倒くささ」は人間として当然のことだと思っているので、「自転車に乗れ!」とはあまり言わない。乗ったほうがいいだろうなとは思うけど。

2008/09/17(水) アストロムササビ

 さーてまたお便りが来たので、お返事を。
 メールくると嬉しいですのでじゃんじゃんください。


 僕はかつて渋谷系と呼ばれていた音楽が好きなんだけど、その代表的なバンドにフリッパーズ・ギターという人たちがいて、彼らの曲に『バスルームで髪を切る100の方法』という名曲がある。よく考えてみると、この曲がなかったら僕は「自分で髪を切る」ということにここまで執着していなかったのではないかな。
 と、「わたしは髪の毛を自分で切るような男性が好きです」的なお便りを受け取って思った。
 恥ずかしい話だけど、本当にそうなのかもしれないなあ。
 だから「自分で髪を切る」という行為は「渋谷系的」であって、かつてはオシャレと言われていた(はずの)行為なのであるよ。たぶん、きっと。
 ま、それはそれとして。

 お便りをくれた彼女曰く、「日常を丁寧に生きているような感じが素敵」だそうで、おお! 僕はこういうことを言ってくださる方がいて本当に嬉しい。僕がここ最近の日記でずっと書き続けているのは、たぶんそういうことなんだろう。「日常を丁寧に生きる」ということ。僕が理想とする生活って、そういうことなんだな。
「考える」のをやめないこと。「動く」ということをさぼらないこと。何も考えず、軽はずみに「みんながやっていること」にそのまま倣うのではなくて、日常を「かけがえのない自分の生活」と捉えて、常に「自分はどうするか?」ということを忘れない。そういうふうに生きていたい。自分なりの判断で、「僕の髪の毛は専門家に切ってもらったほうがいいだろう」と思ったなら、そうすればいいのだし。
 ただ、「自分で切る」っていう選択肢を一度も真剣に考えたことがないのだとしたら、ちょっと「日常を雑に生きている」ということになるのかもしれないなあ。
 それと僕なりに思うには、「日常を丁寧に生きる」には、結局は「無駄にお金を使わないこと」になる。しつこいようだけど「お金を使う」ということは基本的に「何かをさぼって、誰かに代わりにやってもらう」ことでしかない場合がほとんどだから、お金をいっぱい使うってことは「日常を雑に生きる」になるんじゃないかなと。
 お金を使うってのは多かれ少なかれ「手抜き」で、どうしてもお金を使わなければならない状況っていうのは「その道の専門家に任せるべき領域」でなければいけない。で、さらにその領域を少しずつでも少なくしていくことが「日常を丁寧に生きる」ことに繋がっていくのではないか? なんて思ってみている。

 ところで女の子なんかだと、「前髪は伸びてきたら自分で切る」って子はけっこういる(と思う)。僕は割とそういう子は好き。最初はうまくできなくて「ぱっつん」になってしまうかもしれないけど、やってりゃ慣れるもんなんで、けっぱれ。
 僕は今日の昼間、前髪を切ったけど、わりと上手く切れたと思う。前髪は高校生の頃から自分で切っているので、キャリアは長い。だからそれはもうまったく特別なことじゃなくて、完全に日常。
 日常になれば、慣れてきて、上手になって、美容師さんにかかるよりも可愛くなれる場合だってある。そんな女の子がもしいたら、おー、つきあいたい。

2008/09/16(火) アストロ魂

 知恵熱を
 冷ます。

2008/09/15(月) 「自分でやれることは自分でやる」

「自分でやれることは自分でやる」というのを、しばらく僕の生活上の目標にしたい。料理とか、編み物とか、縫い物とか、そういうことが完璧にできるのが理想なんだけど、いきなりは難しいから、ぼちぼちやっていこうかと思う。60年計画で。

 僕は生まれてから一度も床屋に行ったことがない。むろん美容室もない。うんと小さかった頃は母親に髪を切ってもらっていて、少年時代は父親に切ってもらっていて、高校の途中から前髪くらいは自分で切るようになって、大学に入って独り暮らしを始めたら完全に自分で切るようになった。
 僕の髪の毛は恐ろしいほどに直毛でさらさらだから、余計な手を加えなければ誰がどう切っても時間が経てばほとんど同じ髪型になる。しかも、僕はその髪型を気に入っている。べつに格好悪くはない、と思っている。
 毎日料理をしていると、次第に野菜を切るのが上手になっていくように、年に何回か髪の毛を切っているだけで、髪の毛を切るのは多少なりとも上手くなる。で、そういうのがとても楽しかったりする。みそ汁に大根を入れたら火の通りが悪かったので、次は切り方を変えて、前より薄切りにしてみよう、とか、春菊を入れたら香りがきつかったので、次回はちゃんとあく抜きしてから入れよう、とか、そういうことが楽しいのと同じで。

「床屋に行かずに自分で切っている」ということを言うと、「引く」人が多い。女の子はけっこう、「そんな人とは付き合いたくない」と思っていると思う(どーせ思ってんだろ!)。美容師並みにオシャレな切り方ができるのなら別だが、僕の切り方は「ただ短くするだけ」という非常につまらないもので、素人ゆえ時々失敗したりもするから、きっと女の子は、「下手なくせに自分で髪を切る人なんかとは付き合いたくない、貧乏くさい」とか思うことであろう。きっと思うんだ、きっと。
「床屋にも美容院にも行かない」というのはたぶんものすごい珍しい人だから、きっとただ「珍しい」っていうだけで、「なんかやだ」とか思われてるんだろうな。とか思って僕はいつもブルーになる。だって、「自分で切ってるんですよ」と言って、へんな目で見られたこと、いくらでもある。だからわかるんだもん。みんな僕のこと、「異質なもの」を眺めるような目で見るんだもん。被害妄想かねえ?

 たぶん自分で髪を切るっていうのは「常識」から外れているから、それだけで僕は「非常識な人」になってしまう。「自分でやれることは自分でやろう」と思っているだけなのに、けっこうヘンな目で見られる。いや本当。「髪を自分で切っている」ということを明かして、「ふーん」とか「えらいねー」とか言われたことなんか、一度もない。たいていは「えーっ」とか「そんなにお金ないの?」である(せいぜい「すごいねー」だ)。それは僕が髪の毛を切るのがすごい下手で、よっぽどみっともない髪型をしていたからなのだろうか? だとしたら仕方ないけど、それだったらそうと、はっきり言ってほしい。
 そうでないのなら、やっぱり「非常識」だから、「ああ、この人は自分で髪が切れる人なんだな」という納得の仕方をしないで、「えーっ」とか「そんなにお金ないの?」になるんだろうな。
(ちなみに最近は少し上達してきたのか、「すごいねー」と言われることが増えた!)

 やがて僕が編み物とか裁縫とか始めて、自分の服を自分で作るようになって、料理も上手になって、どこに行くにも弁当と水筒を持ち歩くように「もしも」なったら、僕はもっともっと変人になって、会う人会う人に「そんなにお金ないの?」と言われることになりそうだ。
 まーもちろん、みんなでご飯食べようっていう時に、「ごめん俺弁当あるから」っていうのは、僕の感性で言えばやりたくないことなので、「どこへ行くにも」弁当を持ち歩くことはない。でも職場とか、サイクリングとかだったら、弁当作って持って行くと思う。上手に作れるのなら、デートに持って行ってもいい。それは変か? というと、変ではない。でも、弁当を作るのが下手くそで、見た目の汚い弁当しか作れなかったら、「なんで弁当を作るのが下手くそなのにわざわざ作るんだろう」「そんなにお金がないの?」と、絶対に思われてしまう。僕は「自分でやれることは自分でやろう」と思っているんだけど、もともと不器用で、絵も上手でなく、美術的な感性もさほどよくないから、きれいなお弁当を作るのは難しくて、どうしても汚くなる。そうすると、「変」になる。弁当を上手に作れれば「すごいねー」だが、下手くそにしか作れない場合は「そんなにお金がないの?」とか「ケチ」ということになる。

 髪の毛を切るのも服を作るのも弁当を作るのも、たぶん相当うまくやれなければ「この人は変だ」とか「みっともない」とかになる。もっと言えば「そんなにお金ないの?」である。僕は「自分でやれることは自分でやりたい」と思っているだけなのだが、もちろんプロ級にうまくできるわけはない(何年も何十年もやり続けたらわからないが)ので、それは「みっともない」し、「変」でしかない。確かにお金はないし。
 もうちょっと、不格好なものを認めてくれてもいいのにな…と、何をやっても下手くそで不器用な僕は思う。プロ級にうまくできなければ、「変だ」と思われてしまう(正直に言うと、僕も「変だ」と思ってしまう時もある)というのは、「自分でやれることは自分でやる」の障壁になる。野菜だって、形が悪ければ捨てられる。不格好な野菜だって、同じ味がするのに。下手でもいいからみんなが自分で髪の毛を切って、自分で料理を作って、自分で服を作ったり繕ったりすれば、きっと「無駄」はへるし、それはとても「個性的」だと思うんだけど。

 だけど世の中は「お金はじゃんじゃん使うべし」という考え方が支配的で、「自分でやれることを自分でやらず、お金を払って他人に任せよ。そして他人から『自分でやれること』を奪い、代わりにやってお金をもらえ」と言う。それが正しい社会の仕組みとして、ずっと流行っている。僕はそんな馬鹿馬鹿しいことをしたくなくて、他人任せにすることをできる限り減らしたいし、他人の仕事を奪うこともできる限りしたくない。野菜を作って売るのはお百姓さんと八百屋さんにお願いするけど、調理くらいは自分でしたい。そいで、時々自分では作れないような美味しいものにお金を払いたい。広告を作るとか、何の意味もない仕事(と、僕は言い切ってしまう)をしたくはなくて、できるならば野菜を作ったり、売ったりしたい。あるいは、ミシンを踏んだり、釘を打ったり、ノコを引いたりしたい。それでもらったお金で、野菜を買ってみそ汁に入れて食べたい。お金が余ったら本を買いたい。余らなかったら図書館に行きたい。

 そうするためにはどうしたらいいか? ということが何も思い浮かばないバカな僕だから、とりあえず茄子を育てたり、ぞうきんを縫ったり、お皿を洗ったり栗の皮をむいたりしてみている。

2008/09/14(日) 思いやりとは何なのか

 人は、自分勝手に傷つくものです。だから思いやりを持つというのは、難しいものなんですよ。好きな人の言葉には敏感になるのだから、恋人に対して「まったく傷つけることのない完全な思いやり」を行使することは、至難の業なのです。


 ロックフェスが好きで好きでたまらない人に「ロックフェスなんか嫌いだ」的なことを言ったら、言われた相手はきっと傷ついたり怒ったりするわけで、そういうことを軽はずみに言ってしまう人間のことを「思いやりがない」と言うのであろう。

 僕はかつて演劇をやっていて、どちらかと言えば演劇が好きで、教育における演劇の有用性を信じている。「演劇ができる奴は仕事もできるし、空気も読めるし、何よりも表現力に優れている、体力もそこそこつく」という「演劇部最強説」すら唱えるほどであって、「なぜ学校教育へ本格的に演劇を取り入れないのだ?」ということばかり考えている。
 そこへきて「演劇(部)とか興味ない。バンドやってる人が好き」ということを(好きな人から)言われれば、まるで自分の思想のすべてを否定されたような気がするので、傷ついたり怒ったりする。「バンドをやっている人間」というのは(僕が思うには)僕なんかとは完全に対極にいる存在であるので、これは「あなたとは正反対の人間が好きなのよ」と言われているのに等しいからだ。

 ロックフェスが好きな人に「ロックフェスなんか嫌いだ」と言い放つのも、僕に「演劇(部)とか興味ない。バンドやってる人が好き」と言ってのけるのも、同様に無神経であって、思いやりがない。でもさー、そんなもん、しょうがないんじゃない?
 ここでお互いが「思いやりをもつ」というのは、どういうことを意味するんだろう。たぶん、「何も言わず黙っている」か、「嘘をつく」ことが思いやりってことになる。本音を言わないことが思いやりになる。本音を言ってしまえば相手を傷つけるか怒らせてしまうから、そうしないために黙ったり嘘をついたりすることが求められる。それは“僕は”、あまり好きなあり方ではない。ストレスがたまるし、相手の思っていることがますますわからなくなるから。
 ではお互いにとっての具体的な「歩み寄り」といえば、「ロックフェスを好きになる」とか「演劇(部)に興味を持って、バンドをやってる人を好きでなくなる」ことなのだが、そうやって無理に自分を変えてまで他人(好きな人)に合わせることが“思いやり”であるとも思われない。それにそういうことをしていると、だいたいどこかでガタがくる。

 そうなると善策は、「相手に自分の趣味や思想を否定されても気にしない」ということくらいしか思いつかない。かりに「あなたのこういう趣味は嫌い」と言われても、「あ、そう。でも他のこういうところは好きなんだろ?」と言えるくらいの余裕をお互い持てばいいということだ。それはもちろん容易ではないが、それしかない。
 僕はかなりオタク気質で、それを「いや」だと言う女の子も多いと思う。もし「いや」と言われたら、僕はもう「あ、そう」と言うだろう。僕がオタクだというのは、「いつのまにかそうなってしまった」悲しき性のようなものなので、改める気もなければ、改められるとも思われない。
「いやかもしんないけど、そういうもんだよ」と、諭すように教えてあげるしかないし、言われたほうは、「オタクだけど、まあいいか」とか「オタクだから、付き合わない」とか「オタクだって、捨てたもんじゃない」のいずれかを選択せねばならない。

 僕はメンヘラの女の子が得意ではなくて、それ的なクスリを常用している子と付き合うのはできることならごめんこうむりたい。もしも事後「実は…」とそのことを打ち明けられたとしたら、僕も上記のような「だけど」「だから」「だって」のいずれかの選択を迫られる。

 大小あれ、そういう選択を強いられる状況というのがお互いに幾たびもあって、それを乗り越えられるかどうかが「そのカップルの相性の善し悪し」ということになる。相性というのは「重なるか、重ならないか」ということのみでは決まらない。「違いや対立を乗り越えられるか」で、最終的には決まる。


 人は、自分勝手に傷つくもので、それが故にトラブルが起きるのだが、そういう「自分勝手さ」をできるだけそぎ落として行けば、良好な関係を築くことができる。つまり大事なのは、「思いやりをもつ」とか「思いやりを要求する」ではなくて、「相手に思いやりを要求しない」ことなのであるよ。


 なんてことを本当に書いてしまう僕はなんて正直で、生きるのが下手くそなんだろうかと思うんだけど、それはしかし「そういうもんだ」と思ってもらえなければ、仕方ない。これは僕がオタクであることと同様に「いつのまにかそうなってしまった」悲しき性なのだ。

2008/09/13(土) なぜ僕はテレビを観なくなったのか

 僕がテレビを観ていたのは、「昔のことを知るため」だった。新しいことを知るのは簡単だが、古いことを知るのは容易ではない。
 僕は小学校低学年の頃から「年齢を誤魔化している」と言われていたが、それは顔が老けているとかいうことではなく(むしろ当時から童顔だった)、古いことをたくさん知っていたからだ。なぜ古いことをたくさん知っていたかというと、それはずばり、テレビばっか観てたからである。
 テレビばっか観てたという状況は高校生ぐらいまで続いて、特に「懐かしの」とか「昭和の」とか冠された番組はよく観ていた。とりわけ、アニメやお笑いや歌謡曲など、昔の映像を流してくれる番組を最も好んだ。
 で、高校を卒業する頃には、テレビで頻繁に放送される程度のレベルの「昔のこと」ならほとんど知っていて、あとはインターネットや書物によって補完するほうが効率が良いくらいになっていた。テレビを観る必要がなくなったわけである。もちろん気になる番組があればチェックするが、それも年々少なくなり、今では年に数えるほどだ。信じられないことだが、アニメも観なくなった。ここ数年でちゃんと観たアニメと言えば『おろしたてミュージカル 練馬大根ブラザーズ』と『がくえんゆーとぴあ まなびストレート!』くらいのもんである。『人造昆虫カブトボーグ』は、ニコニコ動画で観た。

 重要な最新情報はテレビで観なくても自然にどこかから入ってくるが、「昔のこと」を知るのは大変なことだ。それでインターネットのない時代、僕はテレビばっか観てたわけだが、今はもう、インターネットだけあればよくなってきた。それにだいたいの「常識」はもう頭の中に入っているのだから、もっと詳しいことや「テレビではやらないようなこと」が知りたければ、本を読んだ方が断然良い。
 逆に言うと「常識」がまだないうちは、やたらとインターネットばかりやったり本を読みまくったりするよりも、テレビばっか観ていたほうが良いのかもしれない、とも思う。テレビは、まんべんなく、平均的なことをたくさん教えてくれるから(そういえば、一時期ワイドショーばかり観ていた時期があったなあ)。
 だから「テレビばっか観てんじゃねーよ」と自分よりも若い世代の人に言うのは憚られる。

 問題は、「インターネットにどこまで『常識』を養う能力があるか」だ。現代の子どもたちがもしあまりテレビを観ないのだとしたら、きっとインターネットをやっているのであって、「テレビはまったく観ないけど、ネットは毎日やっている」という子だっているかもしれない。そういう子に対して、インターネットはどのように「教育」を施すのか。これは、「インターネットを子どもに開放すべきか規制すべきか」という問題にも関わる。
 もしも、テレビがクソで、ネットだってクソだということになったら、誰が子どもを教育するんだろうね?
 それはもちろん家庭だったり学校だったり社会だったりするんだけども、そいつらがまったく「手抜き」だから、テレビが幅をきかせてきたのかもしれなくて、さらにこれからはネットが幅をきかせるかもしれない。テレビが母親で、ネットが父親みたいな状況になってくる。
 本を読むだけですべての「常識」を知ろうと思ったら、何百冊、何千冊という読書量が必要だ。テレビでも、ネットでも同じ事かもしれないが、受動的に吸収できるぶん、テレビが最も効率的だと思う。でも、そんなんでええんか?
 喋れよ。

2008/09/12(金) 空気読み

 お手紙、読みました。お久しぶりです。あなたと別れてはやいくとせ。いかがお過ごしでしょう。
 今ではお互い地元を離れ、散り散りになってしまいましたが、元気でいますか。街には慣れましたか。友達出来ましたか。寂しくないですか。お金はありますか。今度いつ帰りますか。


 お返事。
 まず、誤解のないように確認。昨日の日記で僕は「空気を読め」という言葉に関しては何も言っていない。「空気を読む」という言葉の流行とそれを否定したがる人々の存在、それから「空気を読む」という能力についてを書いた。
 メールのタイトルが「『空気読め』論考について」になってたから、これは何か誤解があるのではないか、と思ってしまったよ。別に「論考」でもないし。
 ところで、「空気を読む」という言葉を否定したがる人々って、よく考えたらあんまりいないかもしれないね。「空気を読め」を否定する人はかなり多いけど。ここは「空気を読め」という言葉の流行について書くべきでしたな。誤解の原因は、ここだと思う。ごめん。


 で、最初に立場を明確にしておくと、僕は「空気を読む」という言葉が流行するのは肯定も否定もしないし、「空気を読む」という能力はなくてはならないと思う。が、「空気を読め」という言葉を実際に使うのは否定したい。
 個人的には、「空気を読め」という言葉を使っていいのは、それを言うことによって「笑い」が起きて、言われた本人も傷つかない場合においてのみ。要は、日常の中の何気ないコント(笑いのある寸劇)的なものにおいてそのやり取りが登場する分には楽しい場合もある、くらいの。ま、こういう種類の笑いはそんなに好きではないんだけど、誰かをいじって笑いにするのは楽だからねえ。ついついやってしまう。
 もっとも、そういう状況においても僕は「空気を読め」という言葉は使わない。ただ、それを言った人がいたとしても、上記の条件を満たしていればムッとはしない。コント的な雰囲気もないのに「空気読め」と言うのは、相当の無神経か、状況把握能力(空気を読む能力)が足りない。バーカ。
 ちなみに僕は「空気読め」はたぶん言わないけど、「お前は空気が読めない男だなあ…(だからモテないんだぞ!)」と、説教モードで使う時はあるかもしれない。「空気を読む力が足りない」というのは、人としてけっこう駄目だと思うので。

 きみのメールは主に「空気を読め」という言葉について書いてあるようだったので、以上のことを前置きとして表明しておく。


 で、「空気を読め」という言葉(を使うことに関して)は、僕は否定したい方なので、大筋、きみの書いていたことは納得できる、というか、「知っていた」。
 「その空気って本当に正しいの? 従う意義あるの?」と「空気」の正当性を問う立場の人には、「そんなもん自分で考えろ」。もし、「空気を読め」という人がいて、その「空気」なるものに正当性を感じられなかったら、そんな言葉に従う必要はない。暇だったら反駁して論破せよ。もし、何らかの事情や圧力があって従わざるを得ないのならば、それは「何らかの事情や圧力があって、それに従うべき状況だったのに、出来なかった」未熟な自分を恥じるべきである。そういう時は、何らかの事情や圧力にとりあえず従っておいて、心の中で軽蔑するしかないよ。それが大人。
 この「その場の空気に従わざるを得ない、何らかの事情や圧力」みたいなものを察知する能力が、大人としては必要だよね、っていう話。それを察知していながら、あえてアウェーへ走り抜く英雄が、僕らのすんたん。読める読めないと、従う従わないは別という好例。

 社会には「その場の空気に従わなければならない事情や圧力」ってもんがあって、それをうまくさばいていくのが社会人として最低限必要な能力なわけですよ。だから「空気を読む」ということを否定している人はあまりいないだろうし、もしいたらその人は途轍もないバカ野郎だと思うね。
 しかし、「空気を読め」という言葉は極悪だ。「その場にいた全員が同時に口を揃えて」言うのならともかく、「その場にいる誰か一人が独断で」口にする場合はね。
 なんでかっていうと、誰か一人が「空気を読め」と言ったら、その瞬間に、言った人の独断によって「空気」なるものが決定されちゃうから。
 本来「空気」っていうのは、「今はこういう空気です」という宣言はされず、その場にいる全員が暗黙のうちに、自然に、なんとなく作り上げていくもので、それは不安定で流動的でとらえどころがない。「空気」ってのはもともと読みにくいもんだから、「空気を読めない」人が出てくるのは仕方ないんだ。
 もし誰か一人が「空気から逸脱したこと」をしてしまったら、他の人たちはそれを踏まえて軌道を変えていく。暗黙のうちに、自然に、なんとなく、新しい「空気」を作り上げていく。簡単な言葉で言うと、「逸脱」をフォローしたり、「逸脱」に応じて話題を変えたり、「逸脱」を「空気」の中に取り込んだり、時には「許されざる逸脱であったのではないか」ということを指摘したりもする(もちろん、「空気を読め」などという陳腐で無意味で非生産的な言葉は用いない)。そうやって、「逸脱」によって「空気」は変わっていく。
 それが「空気」なんだと思うんよ。誰か一人が「今はこういう空気である」と決めることもできないし、「空気」ってのは流動的なもんだから、ある瞬間の空気を固定してしまうこともできない。ところが、「空気を読め」と言った瞬間に、独断による「空気」の決定が行われ、さらにそれが固定されてしまう。そうすると、その場にはもう「自由」はなくなる。「空気を読め」という言葉をファシズムと絡めて語る人もいるんだけど、確かにこれは、たった一人の独裁者によって自由が奪われる、というファシズムの図式と重なるって言えなくはない。

 「空気」っていうのは存在するし、それは読むべきものなんだけど、「空気を読め」なんて口にしてしまう人は、「空気」のなんたるかがまったくわかっていないおバカさんなわけ。
 「協調性がない」わけ。
 「人の気持ちを考えられない」わけ。
 だから僕は、「空気を読め」って言う人が、基本的に嫌いなんです。
 徹底的に頭悪いでしょ、だって。
 「そういう」バカって、嫌いなんだよ。

 ってとこで、とりあえずいいかなあ。
 ろくに返事になってないけど、「空気」についての所感でした。


 では、またお手紙ください。
 手紙が無理なら電話でもいい。
 「めしどこか たのむ」の一言でもいい。
 あなたの笑顔を待ちわびる
 僕に聴かせてやってくれ。


 最後に。愛してた&愛してる。あからはじまるあいことば。らぶ。

2008/09/11(木) 9.11

 徹夜明けの仕事を終えて、ぶらぶらとして、ドンキホーテで三枚298円の靴下と98円のタオルを買って、450円の銭湯へ行った。寝てない身体に湯船の洗礼。塩素の匂いがきつい、サウナ券50円の町の銭湯。老人と子どもしかいない。全身に染みた。
 渋谷に行ってラーメンを食べた。それからせまいクラブ的なところに行って少しお酒を飲みながら友人のラウンジ的なイベントを楽しんだ。


 「空気を読む」という言葉の流行を否定的に捉える向きが割と強いが、しかし「空気を読む」ことができるということは、「相手の気持ちを考える」ことができて、「その場で自分がどう在るべきかを把握する」ことができることでもある。それはできないよりもできたほうがよくて、それができる人を「よい大人」と呼んでしまってもいいのではないかと思う。

 せまい空間に大人がたくさんいて、そういうことを考えながらゆらゆらとお酒を飲んで、ぼんやりと音楽を聴く。
 それはだから、何をするでも何を話すでも何を考えるでもなくていい。

 その後、山家という、僕の大好きな「ももみづき」というラーメン屋があったところの下にある飲み屋で、焼き鳥とお酒をいただいた。「ボーナス出たから」と言う大人は、なんという格好良さなのだろう。金持ちだからおごるのではない。貧乏だけど、「ボーナス出たから」おごるのである。「ボーナスが出たら年下の奴らにおごってやるくらいの、決して裕福ではない大人」。

 19歳の娘に「まぁ、25くらいまでは大丈夫だよ」とか言われた。そういうことを言いたがる年下の人間(おもに女性)はかなり多いのだが、言ってやるぜ。25なんて、“そのままじゃ”あっという間だよ!

 で、渋谷から自転車で50分くらいかけて帰った。
 決して自転車から降りようとしない僕は、まだまだ貧乏な若者でしかない。

 今日はそういう日だった。

2008/09/10(水) ま、どうでもいい話なんですけどね

 いろんな面で自分と異なる人と話すことは良い
 そういうことをたくさんしていると
 本など一冊も読まないでも教養はつく
 そういうことがわかって収穫だった夜

 教養っつうのは知識があるっていうだけじゃなくて
 場と立場をわきまえた正しい行動ができるとか
 そういうことも含めての話

 本なんか読まない十代のキャバ嬢と話してても
 その人がどこかでそういう教養を身につけていたら
 本当に楽しくて面白い話ができたりするのだよな
 うん、なんで美術の教科書には西洋の作品ばっかり載っているんだ?
 日本の素晴らしい美は教えないでいいの?
 そんなことを考える時点で才能はあったんだけどね。たぶん

2008/09/09(火) Web日記と心の壁

 過去ログにコメントつけてアップする作業をしてるうちに、8年前の稲武(愛知県北東部、長野県との境にある町)への小旅行記をまだ書いてなかったことに気づいた。いや、実は何度も書いているのだが、アップする気にはなれなかったのだ。
 それはなぜかというと、理由はちゃんとある。「稲武へ行った動機」というのが恥ずかしすぎて書けなかったから。それを書かないと、どうしても文章としては面白くなくなる。だけど、恥ずかしいから書けない。このジレンマによって、あれほど鮮烈な体験だったにもかかわらず、「魂のこもっていない駄文」しか書けなかったのだ。だから公開できなかった。ここにきてようやく「恥ずかしさ」をあんまり気にすることなく書けるようになったが、気がつけばもう8年も経っていたのだった。
 そういうわけで、8年前のこととは思えないくらい鮮やかな記憶とともに、当時の感情を思いだしながら魂を込めて書きましたよ。こちら

 高校生の僕にとって、「Web日記を書く」というのは、「自分のありのままをさらけ出す」ということではなかった。中学生の頃に書いていた日記は、本当にありのままをさらけ出しすぎていて本当に誰にも見せられないのだが、高校生になって、ネット上に公開して書いた日記は、「ありのままをさらけ出す」ではなくて、「ジャッキーという人格で、自分を塗り固めて隠す」行為であったらしく、「ありのまま」が顔を出す文章、すなわち上にリンクしたような正直な文章は書けなかったのであるよ。今はもう、友達にもわりと心を開くようになっているのだが、当時の僕のバリアーっぷりは酷かったようだ。(だけど最近も、「ガード堅い」みたいなことを言われてしまった。)

 ところが、当の本人は「バリヤーしてる」なんて思っていたわけではなくて、「どうやら自分はバリヤーしてるらしいぞ」と思うようになったのは、大学生の頃からである。
 高校生の頃は、後輩の女の子から「先輩は芸術作品のようなもの(だから、アタシなんかにはもったいないわっ)」とか言われたり、友達から「自らを作品としてプロデュースする能力に長けている」と言われたりして喜んでいたのだが、それはつまり、「つくりもの」だったということなんですわ。
 で、大学生になって、「そうか、僕はつくりものだったのか」と気づいたら、なんと日記が書けなくなってしまった。「つくりものならば書けるはずだ」と思って小説風に三人称で書いてみたり、いろいろと足掻いたのだが、やはりだめだった。それで(高校生の頃は思ってもいなかったが)、このサイトにも長い長い空白が置かれることになったのである。

 だから、このように毎日日記が書けているのも奇蹟としか言いようがない。建前として「フィクションである」=「つくりものである」という逃げ場を用意してあるからなんとか書けているのだが、「ノンフィクションを前提とした、自分に関することや、自分の考え」なんて、今でも書けたものではない(それを公開できるような図太い神経はない!)。もともと「つくりもの」を何年も書き続けていた僕だ。恥ずかしいことは、8年経たないと告白できないような僕だ。
 実は、大学に入ってから付き合った女の子に「あなたは何も言ってくれない」的なことを言われたことがあって、それで「ああ、僕は何も言ってなかったのか」と気づいた。それで以前の婚約者のことを考えて、「あ、ごめん」と思った。「僕は何もかもを話していたつもりで、何も話していなかったんだな」と。それじゃ、不安になるのは当然で、そんなことで遠距離恋愛がもつわけがない。僕がそんなんだったから、他に男を作るんですね、わかります。


 大学二年の夏に「自転車I」という授業を取った。それは「岩手県で一週間合宿をするだけで、単位がもらえる」というもので、そこで過ごした濃密な時間は忘れられない。「自転車という乗り物は、こんなにも人間同士の距離を縮めてくれるのか!」と、感動した。
 初日のオリエンテーションで、コーチが「今、隣に立っている人と握手をしてください」と言った。僕らは隣にいた初対面の人同士で握手をした。「これと同じことを、最終日にもやってもらいます。でもその時の握手は、確実に今した握手とは“まったく違ったもの”になっています。自転車というのは、それくらいの力があります。そういうことを、これから君たちはするのです。」そして一週間後、本当にその通りになっていた。
 自転車を通じて、男女や学年の隔てなく急速に距離を縮めていった僕ら二十人は、ついに「飲酒」が解禁になった最後の夜には寝る間も惜しんで話をしていた。その時にたまたま女の子と二人きりになることがあって、その子がその時にぽつりと言った。「ジャッキーは大切なことは何も言ってくれないよね。」
 その時にはもうすでに、付き合っている女の子から同じせりふを言われた後だったので、「ああ、やっぱり」と思ってしまった。わずか一週間一緒にいただけなのに、そこまで見抜かれてしまうとは。「僕はやっぱり、バリアーしてたんだなあ」とようやく確信した。僕は初対面の相手にでも(話しかけられれば)けっこうべらべらと喋るほうで、もちろん合宿でもそうだったのだが、それは「木を隠すなら森の中」で、自分の本性を悟られないためにそうしていたようなのだった。もちろんいきなり自分の本性全開で話す人はあんまりいないが、僕はあまりにも「木を森の中に隠そう」と頑張ってしまうので、よりそれが際だってしまうのだと思う。本音で話している人なんてそうはいないとは思う(実際、どうなんだ?)のだが、僕はあまりにも「建前を話したがる」のだろう。実際、僕が言うのは嘘ばかりだ。(今ここに書いているエピソードも全部嘘なのだ。)

 そういった出来事が他にも幾つかあって、反省して、「うん、僕は素直になろう。なるべきだ」と思って頑張った。頑張った結果、ネット上の日記に「○○(女の子の名前)好きじゃぁああああああ」と、ラブコールばかりを書くようになって、恋愛上の悩みとかを子細にぼやくようになった。本人にもそのように接した。こうなるともう中学生以下である。そんなもんうまくいくわけがなくて、もちろん失敗するのであって、実際失敗した。「あ、素直ってそういうことじゃなかったんだ」と気づく頃には、破局である。
 それでやっと、「素直さっていうのは、余裕と謙虚さがないと維持できないんだなあ」というところにたどり着いた。なんでも吐露すりゃいいっていうのは「素直」とはちょっと違う。本音を言うべきタイミングをわきまえるってことが正しい「素直さ」なのである。そのために必要なものは、余裕と謙虚さ。これね。と思って、現在目下修行中なのである。


 さて、僕には大切な友達がいて、その友達は(数年間の引きこもり?を経験している故か)他人にバリアーを張るのが得意である。「○○さんはズリネタを聞いただけでマジギレするからなあ」とは、本日21歳の誕生日を迎えた某A君の言。おめでとう。「ズリネタを告白できないシャイさ」は、「他人にバリアーを張っている」とは必ずしも重ならないかもしれないが、「好きな女の人のタイプは?」とかにも答えられないし、「で、結局、お前人生どうする気なの?」と訊ねても、「働きたくない!」と裏声で叫ぶくらいのものであろう(すべて想像です)から、まああんまり本音で人と話すことに慣れていないというか、たぶんほとんどしたことはない。僕もそうだったのであるし、今でもけっこうそうである。
 僕も「で、結局、お前人生どうする気なの?」などと訊ねられたら、「そうっすねえ~」としか答えられない。「そうっすねえ~」と言いながら、何か面白い返事を考えて、うまく思いついたらそれを口にして、多少笑いをとって、「ところで…」と話題を転換する。思いつかなかったら、「働きたくない!」と裏声で叫ぶ。なんだ、同じじゃないか。ってなもんである。だから親近感があるのである。
 僕だって「ズリネタを告白する」なんてこと、実はできないのだ。まずズリネタという言葉を口に出せない(その点でA君は偉大!)。できないが、したほうが面白いから、適当にねつ造して話すのである。冗談に変えてしまうのである。結局本音は言いたくないから、笑い話にして誤魔化すのである。そういう「開き直り」が、十年間ほど修行した末、できるようになったのである。
 修行(クンフー)が足りないと、「開き直り」ができないのであるが、開き直って、「ズリネタっすか? 最近は『思春期愛好家』のかすみちゃんっすね!」とか言っちゃえば楽なのである。「小学校の卒業アルバム」とか「アフタヌーンのグラビア」とか「窓から外見ながらします」とか「妹のぱんつ」とか言えばいいのである。えーっと、かなり難易度高いでしょうか。そうでしょうか。

 まぁしかし、こんな「開き直り」など、できなくていい。できない人はカワイイ。それだけピュアだということであるから。僕は、自分が思うには、割と「バリアー張ってる」ほうの人間だし、冗談にしなければ何も言えないような恥ずかしがり屋であるので、「ズリネタを告白できない」「童貞であると宣言できない」というシャイさもわからんでもない。そういうのは「秘め事」であるのだからして、言えないほうが正しいのだとも思えないではない。しかし、「言えない」人に向かって、「言えよ、言えよ。フヒヒヒ」とか言うのは、何よりも楽しく、酒の肴に最適なのである。
 重要なのは、「言えよ」と迫る側は、「言ってほしい」わけではないのである。「こいつは言わないだろう。っていうか、言えないだろう。そこを責めるのが、楽しいのだ」という、サディズムなのである。迫られた側は、「これは、言わなくてはいけないのか?」などと焦る必要はない。「言わない」ことが、あなたに与えられた役割なのだから、無理にそこから脱することはない。「言わない」あなたに僕らは萌えるのだ。

 だいぶ話がずれたが、僕は「バリアー張ってる」人が嫌いではない。むしろ親近感がある。自分がかつてそうであり、今でも多少なりともそうである から。(先日お酒を飲んで、普段では絶対に言わないようなことを言っていたらしいが…)
 ズリネタを訊ねられて、ギャグで返せるのは「演出」という能力である。ずいぶん素直になってきたとは思うのだが、僕は基本的に、お酒を大量に飲んで記憶をぶっ飛ばしたとき以外は、「演出」を欠かさない。だって恥ずかしいじゃん。
 「嘘で塗り固められた人生」などという言い方があるが、僕の場合は「演出で塗り固められた人生」とでも言いたい。演劇経験者に相応しい表現でもある。自分自身にさほど魅力があるとは思えないので、演出で飾り付けなければならんのである。誰だって多少やっていることだ。もっとも、僕は「脚本・演出」が専門だから、見かけを演出する能力はない。そういうのは、美術監督か、総合的には舞台監督の仕事なのであるからして。だから僕はオシャレが苦手なのであります。誰か僕の舞台監督になってください。

 Web日記の話に絡めると、僕にとって日記というのは「演出」という名の「照れ隠し」が必要不可欠なのです。だから「フィクション」と銘打たないと何も書けない。日記を書くときの演出は日常の演出とは違うから、日常で日記の話をされると若干困る(ときがある)。8年前のことであれば演出は寡少で済むけれど、現在(またはそれに近い)の自分をありのまま出すということは、ちょっとできない。
 長々と書いてしまいましたが、要旨は「誰か僕の舞台監督になってください」です。
2008/09/08(月) ADSLと光

 8年分の過去ログを、余所に書いた分も含めて公開したいんだけど、さすがにそのままの形では出せないので、現在の視点から相対化したコメントを付してアップしよう、と思ってもうずいぶんと経つというのに、まだ2000年7月と8月の分だけしかその作業が終わっていなくて、いつになったら公開できることか。やり始めた頃は「僕は怠け者だから、1年くらいはかかるだろう」と思っていたけど、もう何ヶ月もほっときっぱなしだ。このままだと10年はかかる。誰かもうさ、本当に、お尻叩いてくださいよ、ねえ?


 最近、実感として「インターネットが速い」。転送速度がこれまでよりもぐっと高速化した気がする。数字の上では単純に、二倍か三倍になっている。これはインフラ上の問題なのか? NTTの中継所が近所に出来たとか? 僕のPCのスペックが上がったからなのか? あるいはルータを噛ませたのが影響したか? …まさか。こういう時、自分の無知が恥ずかしい。詳しい人、どうしてうちのADSLが速くなったのか、考え得る理由を教えてください。暇だったら。

 僕もずいぶんと暇なので、当たっているかどうかは全然わからないのだが、仮説としてちょっと考えてみた。
 ここ数年、「光回線にしませんか」的な勧誘が、電話ばかりでなく、戸別訪問も含めて頻繁に(それはもう頻繁に)ある。あまりにもしつこい上に、ちょっとありそうもない美味しげな話ばかりをちらつかせて来るので、怪しく思って契約してないんだけど、もしかしてADSL回線が速くなったのは、彼らのおかげなんじゃないだろうか? とか。
 彼ら(たいていはNTTの子会社だか下請けだかなんだか)の勧誘があまりにも激しくしつこいため、近所の人々はほとんど光回線に変えてしまって、その分ADSL回線に余裕が出て、僕の家の転送速度が上がったのではないか。なんか昔、ADSLは使っている人が多ければ多いほど遅くなる、みたいなことを聞いたので。近所の人がADSLから光に変えたらADSLが速くなる、という話は聞かないから、まったく自信のない仮説なんだけど。

 つまり、何だっていいもんに変えなければよくならないなんてこともなくてね、むしろ変えないことによってよくなることだってあるかもしれないっていう、そういう発想で。家電だってねえ、扇風機のほうがエアコンよりも電気代安い。捨てる時に手間もかからないし。って、これは例として妥当なんだろうか? 最近はまた暑いから、すぐにエアコンとかの話がしたくなっちゃって、よくない。

 光回線は確かに速いけれども、ADSL回線に不満があるかと言ったらそうでもない。地デジは画質を向上させるかもしらんが、アナログの画質に不満があるかと言ったらそうでもない。エアコンは確かに涼しいんだが、僕に言わせれば、扇風機さえあれば東京の夏は乗り切れる! というふうに僕の言うことはここ最近一貫している…というより、「人家にはエアコンいらね」系の話一辺倒なのである。そろそろ僕も、僕の友達も、僕のことをさまでは知らない読者の皆様も、飽き飽きしてきたことだろうけど、大事なことだから何度でも書く。


 その前に、少し言い訳を。
 「光いらね」「地デジいらね」「エアコンいらね」
 しかし僕はパソコンも携帯電話も電子辞書も使う。ここに葛藤がないかと言ったら嘘になって、「パソコンも携帯電話も電子辞書も本当は要らないけど、でもやっぱり使っちゃいますわあ」ってのが本音になってしまう。
 世の中には、「パソコンも携帯電話も電子辞書も要らないけれども、光回線と地デジとエアコンだけは譲れない」という人もいるかもしれない。そういう人に対して「光も地デジもエアコンもいらねーんだよ」と喝破したとして、どれだけの説得力を持ちうるだろうか。

 僕の言い分としては、「パソコンと携帯電話と電子辞書は“質”の問題だが、光と地デジとエアコンは“量”の問題である(ただし地デジは数年後“質”の問題に転化する)」というわけだが、見てのとおりほとんど苦し紛れである。

 結論としては、「半端者が偉そうなことを言うべきではない」なんだけども、しかし幸いにして僕の心には棚があり、「あらゆる事情を一旦はあっちの棚に置いといて好き勝手に何かを主張する」ということができる。上記の問題はそのうち(思いついたら)解決するとして、とりあえず僕は光と地デジとエアコンを糾弾するのである!


 で、目くそな僕は「パソコンも携帯電話も最新機種は要らない」という苦し紛れの主張を鼻くそに対して、する。本当に五十歩百歩な話なんだけど、「カメラ付き携帯電話を持っているなら、(写真が趣味というのでもなければ)デジカメなんか要らない!」とも言う。「エアコンよりも扇風機!」というのと同じで、「程度の問題」を主張し続ける。

 本当にそう、程度の問題だ。「際限」のない現代を生きる我々は、常に程度の問題を意識せねばならんのである。日本は今後、経済的な国力を落として貧乏になっていく「べき」だと僕は思うのだが、問題は「どこまで我慢できるか」という一点に尽きる。とりあえず夏の暑さはもっと我慢せい。冬の寒さも我慢せい。そいでみんな車も電車も(趣味でないのなら)やめて自転車に乗れ。アナログ放送終了を以てラジオ派に転向せよ!

 僕は地球環境のことなんか二の次以下にしか考えていなくて、単純に「お金を使うということは、何かをさぼって他人任せにすることであって、“働く”ということを放棄するということである。だからお金はできるだけ使わずに、もっと“働く”ということに積極的に関わっていったほうがいい」という、数日前に思いついた信念に基づいて言っている。

 「そんなこと言ったってねえ、お金を稼ぐのに忙しいんだから、“働く”なんてことに時間を割いていられないよ」という人がたぶん大量にいて、これが最も難しい問題だ。
 理論的には、働けば働くほどお金がいらなくなるはずなので、お金を稼ぐ必要があまりなくなって、今までお金を稼いでいた時間を“働く”ことに費やせるようになるはずだと思うんだけど、どうやら世の中がまだそこまで進んでいないようだ。どこかでスイッチが切り替われば、そういう世の中もやってきそうな気がするんだけどねえ。

 で、さて。要するに僕は「お金を稼ぐ」ということと「働く」ということを分けて考えている。ここで少々特殊な定義をすると、「働く」ということは、「自分でやる」ということだ。(ここから、とてもわかりにくくなります。)
 そして、「お金を稼ぐ」とは、「誰かに何かをさぼらせて、代わりにやってあげる」ということで、「お金を使う」とは、「何かをさぼって、誰かに代わりにやってもらう」ということ。すべてを「自分でやる」ことはできないから、そのために「分業と協業」という考え方があって、世の中にはさまざまな職業がある。世の中は、「誰かの代わりに何かをやってあげて、その代わりに、誰かに何かをやってもらう」ことで成り立っている。
 ところが、世の中には「無意味な職業」っていうのがいっぱいある。「無意味」っていうのはたとえば、光回線を押し売りしたり、アナログ放送を終了させたり、省エネのエアコンを開発したり、それらの大がかりな広告を作ったりする人たちのことである。「もう、そんなにハイテクなものは必要がない」のに、何を錯覚するのか人々はそれらが必要であると思い込んでしまい、「たくさんのお金を使う」。それがゆえに「たくさんのお金を稼ぐ」ということが必要になってきて、そうすると「働く=自分でやる」という時間がなくなってしまうから、また「たくさんのお金を使う」…という悪循環によって、人々は「働く=自分でやる」ということを忘れて、「お金を稼ぐ」ということに執心することになるのだが、彼らが何をやってお金を稼いでいるのかというと、「光回線を押し売りしたり、アナログ放送を終了させたり、省エネのエアコンを開発したり、それらの大がかりな広告を作ったりする」わけである。(おかしなことに、大根を育てたり、魚を捕ったり、うどんを作ったり、せんべいを売ったり、釘を打ったりする人たちは、あんまり「お金を稼ぐ」ことができないらしい)

 たくさんのお金を使うから、たくさんのお金を稼がなくてはならなくなって、そのために時間を遣うので、「働く=自分でやる」ということに手が回らなくなって、「他人任せにする=お金を使う」ことになる。それだから、またたくさんのお金を稼がなくてはならなくて…という、循環。

 ここから抜け出すためには、「働く」ということをもう一度考え直さなければならない。「お金を使う」と「お金を稼ぐ」は、額としてほとんどイコールであるべきなのは言うまでもないが、問題は、「働く」ということの「程度」の問題である。現代人は、どこまで「働く=自分でやる」べきか? 基本的に、「お金を使う-お金を稼ぐ」の規模(額)が小さければ小さいほど、「働く」比重は大きくなる。逆に言えば、働けば働くほど、「お金を使う-お金を稼ぐ」の規模(額)は小さくなる。エアコンを買わず、使わない生活を選べば、もちろん暑いので、いろいろと工夫(=働く)が必要になる。あるいは「我慢」でもいい。「我慢」をすると、「働く」もしなくていいので、「お金を使う-お金を稼ぐ」も「働く」も、どちらも小さくできる。うーん、忍耐最高! 我慢最高! である。

 僕が何を言いたいのかって、それはつまり、「働く=自分でやる」ことによって、「お金の必要な領域」を減らす、ということ。あるいは、「お金を介在させずに、“働く”を分けあう」というのもいい。相互扶助ってやつだ。「ウチはトラックを持っているから、おたくの息子さんの引越を手伝ってあげよう」「ありがとう! お礼にわたしの作ったセーターをあげるわ」ってなもんであるよ。(なんつう懐古主義的妄想! って思う?)
 「お金の必要な領域」を減らせば、その分「お金を稼ぐ」が不要になる。貧乏でも問題がなくなるわけだ。みんなが「お金を稼ぐ」をしなくなると、無駄にお金を使うこともなくなるから、無意味な商売もなくなる。光回線も地デジも要らないし、もちろんエアコンだってみんな買わない。耐え難いほど暑くなったら、図書館や喫茶店で涼む。あるいは汗だくになるまで「働く」をして、水風呂に入ってさっぱりする(その頃にはもう涼しい夕方だよ)。ユートピア! って僕は思うんだけど、どうなんでしょうか。


 ところで、少し前は「お金を稼ぐ」は男の仕事で、「働く」のは女の仕事、というふうに分業がされていたようだが、これからの時代にはそぐわない考え方だから、ちょっと見直して、「お互いがある程度お金を稼いで、ある程度働く」とか、「二人いたら、片方がお金を稼いで、片方が働く(たまに双方を手伝う)」っていう、しごく平和なところに腰を落ち着けるのも悪くないかも知れない。

2008/09/07(日) いつまでも中二

 昨日の日記なんか読むとわかるんだけどもういつまでも中二です。
 いつになったら大人になれるのかな
 恋のマジカルみくるんるん。
 キスってどんな味がするんだろう。

 急にお茶漬けの匂いがしたらそれは庭で粗相するぬこ。
 なんで毎晩こう、同じくらいの時間にやってきてうちの庭で粗相するのか。


 ノスタルジーというものは、どんな対象にも働いて
 ノスタルジーというものは、それを所有し続けるということである
 ノスタルジックな僕はすべてを所有し続けていたいのだ
 だから何かが自分の所有でないことが明らかになると
 その度に寂しくて切なくて
 捨てられた玩具を懐かしむような気持ちになる

 今のこの気持ちはだからノスタルジーなのだ
 きみを失って流す涙はノスタルジー
 来ない未来を描いて
 吐く溜息はノスタルジー
 誰のものでもなかったものが
 誰かに拾われたのを見て
 その所有が明らかになってしまう
 その瞬間はノスタルジック


 そのように僕は嫉妬している
 惹き合う引力のすべてのものへ
 点でバラバラに飛び交い続ける
 そういったものたちへ
 僕は腹が立って腹が立って仕方がないのです
 どうして僕はこれから一人きりであんなことをしたくならなければならないのでしょうか
2008/09/06(土) 「情のある生き方」主に食生活について

 八百屋さんに行ってきた。驚異的な安さ。恥ずかしながら今までスーパーで野菜を買っていたのだが悔い改めることにした。
 うちの近所には「へいよー兄ちゃん今日はカブ一束150円だけど100円でいいよー。最近よそじゃ一個70円80円なんてこと言ってるけどねー、今日は一束100円でいいよ100円ー。へいらっしゃいらっしゃいー。ほらそこのきゅうりなんて安いんじゃない見てってね見てってねーらっしゃいらっしゃい」とブタゴリラのお父さん的な呼び声上げて営業している八百屋さんがいるのだが、五年間この町に住んでいて一度も買い物をしたことがなかった。理由の一つは「売っている単位量が多すぎて独り暮らしでは使い切れない」ということだったのだが、この度まじまじと価格を見てみたら、それを考えたってあまりにも安すぎる。ぶなしめじ、スーパーだと今88円~なのだが、三つで150円とか、栗が一袋ぎっしり150円(これは神!)とか、とうもろこしが5~6本で200円とか、意味がわからない。オクラも二袋で100円。スーパーだと倍くらいするんだが。でっけぇだいこん一本80円とか。衝動買いしてしまったけど食べきれるだろうか。ふろふきだいこんにして献立いろいろみそつけて食おう。
 やっぱり朝早くに市場で競り落としてくる八百屋さんの強みってのはあるんだねえ。もう二度とスーパーなんぞで野菜買わないかも知れない。あと、近所には野菜の無人販売をやっている民家がけっこうあるので、そこも利用する。けっこう安いし、わりとうまいし、なんとなく情のある感じがする。

 今、本(橋本治『ああでもなくこうでもなく5 このストレスな社会!』)を読んでいたら「情のある生き方をしたい」的な言葉が目に止まった。情のある生き方ってのは人によって捉え方がまちまちだと思うが、僕にとっては、やはり野菜を食べることが情のある生き方の要素である。野菜なくして情のある生き方は語れない。そしてその野菜も、できる限り情のあるお店で買いたいと思う。百均よりはスーパー(西友とかじゃなくて主婦の店アルスとか)で買いたいし、スーパーよりは八百屋さんで買いたいわけである。あほらしいけど、ほとんど自己満足に近いけど本当にそれが僕にとっての「情のある生き方」であって、そして地域に生きるとはそういうことである。
 コンビニばかりで買い物をしていてはその地域に生きることにはならない。いくらファミリーマートが「地域に密着した、家族経営のお店のような存在」を目指していたとしても(目指してるのかどうか知らんけどね)、チェーン店で買い物や食事をしていたのではその土地に住んでいることにはならんのである。独り暮らしをしている人には是非わかってもらいたいのだが、チェーン店で買い物を済ませ、たまの外食もチェーン店、なんて暮らしをしていると、自分がどこに住んでいるかわからなくなりませんか? 僕は最近ようやく、「ああ、僕はこの町に住んでいるのだ」と思えるようになってきたことであるよ。長い長い引きこもり期間(ついついチェーン店に行ってしまう)を経て。

 僕が食品の買い物をする基準は第一に「安さ」であるからして、八百屋さんが高くてスーパーが安いのであれば強がらずにスーパーへ行くのだが、何でか知らんけど僕の近所の八百屋さんは魔法のように安い。世の中ってのはよくできていて、コンビニよりもスーパーのほうが安いし、野菜に限ってはスーパーよりも八百屋さんのほうが安いのである。
 ただ、安さだけにこだわっているわけでもない。そこはまあ、いろいろなかねあいがある。

 新宿に「たつや」という丼屋があって、そこでは牛丼が未だに280円(ちょっと前まで240円だった)、カツ丼が350円という破格で提供される。味もそこそこであって、松屋とか吉野家なんかよりはうまい(と思う)。その店を覚えてからというもの、「今日は豪遊して、駅前の松屋で豚めしでも」なんていう発想がなくなった。それよりは近所の「吉見うどん」に行って520円の手打ちうどん(普通盛りが大盛り並の量、具は確かわかめ、なっぱ、長ねぎ、かまぼこ、えのき、しいたけ、あぶらげ、かつおぶし…がどっさり。きゅうりとだいこんの漬物つき)を食べたほうが腹持ちもいいし身体にも良さそうだ。して、最近は豪遊したくなったらうどんを食っている。
 松屋の豚めしは330円なので、うどんを食べると190円も差額が出るのだが、量が多いとか、野菜がいっぱい入っているとか、あとはその、雰囲気とかね、自己満足的な部分とのかねあいによってうどんを選ぶのであるよ。少なくとも、松屋の豚生姜焼定食に580円も払うよりは、うどんでしょうよ!

 尊敬する藤子不二雄A先生は、肉も魚もほとんど食べないで生きてきて、七十過ぎても健康体である(今月のジャンプスクエアに二年続けて病院にかかったと書いてあったけど)。バーナード・ショーは、ベジタリアンを貫いて百歳近くまで生きた。曰く、「ビフテキの一つでも食えばひと思いに死ねるものを(ベジタリアンだからなかなか死ねなくて困ったなーげへへへ)」だそうである。
 F先生は62歳で亡くなったがA先生はまだまだ元気であるという事実を踏まえると、「うむ、やはり肉など食っていてはいけないのだ。野菜だ野菜」と思うのである。それで僕はここんとこずっと肉を買わない。買ったとしても鶏のむね肉が100g30円台の時だけである。魚はたまに食べる。野菜はいくらでも食う。
 肉はほぼ外食で。それも新宿に行った時にたまに「たつや」へ行く程度。

 僕は実は、野菜なんてあまり好きではなかったし、調理するのもおっくうだったのであるが、何のきっかけだったか、ある日「野菜になりたい」という言葉が口をついて出て、川本真琴の『桜』のメロディで、「野菜になりたいいっぱい♪」などと口ずさんでいるうちに、「これからは野菜だ!」というところまで来てしまったのである。真琴パワーおそるべしである。それまでは決まった種類の野菜(調理しやすい、メジャーなもの)ばかり食べていたのだが、ここ1,2年ほどは様々な野菜に着手している。食えるもんなら何でも食う。最近はモロヘイヤとかばりばり食べている。

 野菜を食べていると、「情のある生き方」を感じる。食べ方といったらせいぜい生で食うか、ゆでるか、炒めるか、みそ汁に何でもかんでもぶっ込むか、くらいなのだが、それでも充分情がある。これから少しずつおいしい野菜の調理法を覚えていきたい(漬物とかそろそろやらないと)ので詳しい人教えて。

 あと、恥ずかしながら僕は弁当を買って食うのが好きで、しかしこれをコンビニとかローソンストア100とかで買うのは情がない(つーか不味い)。近所にあるオリジン弁当は悪くはないが、のり弁に二品しか載っかってなくて300円というのは「もう一声」。と言ってそれよりも安い弁当屋はないのである。
 で、ある日中村橋(隣の駅)で、手作り弁当全品260円という驚異的なスーパーを見つけた。量も味もそれなりであった。
 それ以来、ほとんど弁当は買っていない。たまに隣の駅に用事がある時などに、豪遊のつもりで買うが、わざわざそのために隣の駅まで行くことはないし、近所の他の店で買う気にもならない。良いバランスだ。。

 それで結局野菜に戻ってくる。野菜いいよ野菜。なんか、野菜ってバリエーションがいっぱいあっていいね。肉なんて豚か牛か鶏くらいしか売ってない(豚や牛や鶏にもいっぱい種類があるらしいが、僕の舌は貧しいのでわからない)のだが、野菜はもう色とりどりですね八百屋さん。
 ええ、そうです。野菜はおいしいです。
 ですよねー

 「情のある生き方」については、他にもいろいろ言いたいことがある。車や電車に頼らずどこへ行くにも自転車で行ったり、エアコンを使わずにどうにか工夫するっていうのも僕にとって、都会で実践できるささやかなる「情のある生き方」。名古屋と東京でしか暮らしたことはないが、少なくともこの地域は、狭いし(これ重要)、雪が積もるわけでもないし、炬燵とストーブではどうにもならないほどとんでもなく寒いわけでもないので、(名古屋の暑ささえ我慢すれば)自転車中心、エアコンなしの生活は可能なのである。その他の地域については、知らん。でも工夫次第でどうにでもなるっしょう。たいていのところは。
 で、そういう工夫こそが情のある生き方に直結すると思うんですよ。
 手を動かし、身体を動かすことを基本として、自分でできることは自分でする。お金をつかうということは基本的に「何かをさぼって、他人任せにする」ことなので、あまりお金を使っている人は考え直さなければならない。働くというのは本来そういうことで、現代の人は本来の「働く」ではないことをしてお金をもらって、「働く」を放棄するためにお金をつかう。なんだかなあ、という感じだ。人間は働いている限りまずボケたりはしないと思うのだが、その「働く」とは「労働する」という意味ではない。で、世の中はお年寄りから、いや人間から「働く」ということを奪ってお金に換えようとするから、ボケ老人は増える。ボケた若者も増える。僕はボケたくないから、できる限り「働く」ということをしていたい。可能ならセーターを編むとか、ミシンで(手縫いにするべきか?)服を直したり作ったりとかいうとこまで行きたいけど、いかんせん器用さとセンスが足りないので、機会待ち。誰か教えてください。いや、母親に言えばいいのか。僕の母親は限りなくよく「働く」人ですので、僕もあのように働ける人になりたい。
 でも労働はしたくないのである!(結局はそこです)
2008/09/05(金) にゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃ

 心の平安は性的な達成の後にしかにゃいにゃ。
 性的な達成にゃくして心の平安には至れにゃいにゃ。
 だから童貞には心の平安は訪れにゃいにゃ。
 非童貞でも性的な達成に毎日到達できるようにゃ特異な状況下にでもにゃい限り心に平安はやってこにゃいのにゃ!
 それが若いってことにゃのにゃ。

 僕は若いにゃ。でも性的な達成に毎日到達できにゃいにゃ。だから心に平安はやってこにゃいのにゃ。こにゃにゃににゃ。


 「にゃ」消しscript 


 にゃてと。

 昨日の朝から寝てばかりいる。昨日の朝から数えて三十時間ばかり寝ている。僕は「寝てない自慢」をする輩が嫌いであるが、「寝た自慢」にはそれなりに好感が持てる。なぜだろうと考えてみるに「寝てない」は根性でどうにかなる問題だが「寝た」は根性だけではどうにもならんからである。根性でどうにかした問題を自慢されると鼻につくが、根性でどうにかした問題じゃないことを自慢されると素直に「すげー」と思える。ことが多い。そういうもんである。宝くじ当たったとかうらやますごい


 僕は二十歳まで自分の血液型を知らずに生きてきたので、血液型診断にはあまり当てはまらない。「俺は○○型の奴は嫌いなんだがお前は大丈夫」みたいなことを言われたこともある。
 しかし、二十歳で僕は自分の血液型を知ってしまったのである。それから僕の人生は変わった。できることなら一生自分の血液型を知らないままでいたかった。僕はこれから長い時間をかけて「○○型らしい性格」に変えられていくだろう。僕の血液型を知っている周囲の人たちによって。そして自分の血液型を知ってしまった自分自身によっても。


 血液型診断というのはそういうもので、小さい頃から「自分は○○型だからこうなのだ」と思いこんでいるうちに、そうなっていく場合がほとんどなのである。難しいことはよくわかんないので血液型による性格や気性の差異が全くないとは言わないが、おそらく、A型っぽい性質もB型っぽい性質もAB型っぽい性質もO型っぽい性質もすべての人の中に潜在していて、「自分は○○型である。だからこうである。」と思いこんでいるうちに「ある型の性質」だけが増幅されていって、そのうちに「典型的な○○型」と呼ばれるようになるのではないだろうか。
 だからたぶん、B型の人に「あなたはA型です」と教えて育てて、血液型診断の本とか読ませまくって、「あなたはA型だからちゃんとおそうじできるはずです」とか言って洗脳していれば、きっとそれなりにA型っぽい性格に育つはずなのである。「あれれー、僕はA型なのに(A型のある典型的な性質)にあてはまらないなー」とは思うかもしれないけど、「ムム、おかしい。僕はB型に違いない! おとーさんおかーさんは嘘をついている!」と思う人は、たぶんいない。だって、「(A型のある典型的な性質)にはあてはまらないけど、(A型の別の典型的な性質)には、あてはまっているなあ。やっぱりA型なのだなあ」と思うはずだからである。A型の典型的な性質のすべてにあてはまらない人間など、いないのである。


 で、本題に入ると、テキは血液型だけではないのである。星座占いでも姉妹型診断(畑田国男の本を読もう!)でもいいのだが、最近の僕のテキは、mixiのコミュニティなのである。

 僕は、「寂しがりやの一人好き」とかいうコミュニティに入っている人(十四万人弱)はとっとと死滅してほしいと願っている。この爆発的な自意識のエネルギーはどこからやってくるのか。「音楽が無いと生きていけない」(約二十五万人)もそうである。「一途・尽くし型・マメな恋愛感」(四万人超)もそうである。先日「かまって病.。.:*・?」なるコミュニティに八万人弱も参加しているのを見て卒倒しかけたが、そういう人種は即刻爆発してもらいたいのである。

 ああいうもんは、「アタシB型だからぁー」とか言う奴らよりさらにタチが悪い。自分の性格を自分で規定して固定化し、「アタシってこぉゆーヒトなワケェ~」とかってアピールするわけだが、誰にアピールするってそれは、もちろん自分にするわけである。
 「自分は○○型だからこういう性格なのである」と、自分で思いこんで生きていると本当にそういう性格になってしまうのと同じように、「かまって病」だと思い込んで生きていると本当にそういう病気になってしまうのである。「鬱病」という言葉が一般的でないころは鬱病なんてほとんどいなかった(ただ「最近、元気が出ないのよね」で済んだ)のと同じように、言葉を与えられた概念の求心力はすげえぞ。その言葉に向かって、バカが全速力で進んでくぞ。
 「寂しがりやの一人好き」とか主張している人間は、本当に寂しがりやの一人好きになっていくのである。そして寂しがりやの一人好きってのは、矛盾した、面倒くさい生物なのである。偉そうに主張することでもないのである。過剰な自意識が非常に気持ち悪い。
 うおおおおっ! とか言ってたら「寂しがりでひねくれ者で甘えんぼ」というコミュニティに六万五千人も入っているのを発見してしまった。世も末である。

 ちょっと何を言っているのかが自分でもわからなくなってきたががんばる。

 たとえば、「寂しがりでひねくれ者で甘えんぼ」というコミュニティに入っている人は、「寂しがりでひねくれ者で甘えんぼ」になりたい人か、あるいは、自分をそのように見てほしい人なのである。で、そういうコミュニティに入ってお墨付きをもらい(ここ重要)、「あたしはそういう人なんだ」と思って生きていくうちに、本当にそういう性格になっていくのである。つまり、精神的な整形手術なのである。
 鬱病(特に、入院を必要としない軽度なもの)になってしまう人も、ほとんどは鬱病になりたい人か、あるいはそう見られたい人なのである。で、病院に行ってお墨付きをもらい(ここ重要)、「あたしはそういう人なんだ」と思って生きていくうちに、本当に鬱病になっていって取り返しが付かなくなるのである。これは絶対に間違いのないことだから怒られても撤回しません。

 抽象的な、自分の性格を規定しようとするようなmixiコミュニティに好んで入っているような人は、精神的な整形手術をしたい人なんだと思って間違いがないです。だいたいは自分にコンプレックスを持っている人なはずです。ダメダメなはずの自分の性格を「寂しがりでひねくれ者で甘えんぼ」って柔らかく可愛らしく表現してもらえて、そこに六万五千人も仲間がいれば、安心しますね。本当はもっと醜悪な、どうしようもないダメダメな性格なのに、「寂しがりでひねくれ者で甘えんぼ」って言われると、しかも仲間が何万人もいるってなると「あ、それでもいいんだ」って思えますよね。で、「じゃあ、今の性格をちょっと前向きに捉え直して、寂しがりでひねくれ者で甘えんぼになっちゃおう」って思って、生きていきますね。で、本当にそうなりますね。
 それは別にいいことなんじゃ? って言われるかもしれないけど、ま、いいことなんじゃないですか? 僕は個人的に、とても嫌いだけど。

 それか、化粧みたいなもんで、「寂しがりでひねくれ者で甘えんぼ」だと思われたい、そういうふうに見られたい、っていう人もきっといますね。可愛いと思ってんだろうね、それが。うざいですね。

 ああいうコミュニティに入る動機は、「そうである」ではなくて、「そうなりたい」(整形)か「そういうふうに見られたい」(化粧)しかなくて、その裏にはコンプレックスがある。本当の自分を隠蔽して、ソフトでキュートでキャッチーなアイコンに変えてしまう。
 使う言葉やしゃべり方が、「ビミョー」とか「チョー」みたいなふうに、ボキャブラリーが貧困になっていって、均質化していって、個性がなくなる、みたいなのって昔から言われてるけど、ここにきてついに人間の性格までが均質化していくんだなあ。「寂しがりやの一人好き」なんて言葉で表せる性格の人がmixi内だけで十四万人もいるのだとしたら、これはすごいことですよ。


 さて本当に僕は何に対して怒っているんだかね。
 単に、自分のしていることがどういうことかわかっていない、頭の悪い人間が嫌いなんかね。歳をとって、他人のことを「頭が悪い」って、素直に思えるようになってきた。だって残念ながら、そうなんだもんね。昔はさあ、「いや、みんな僕より賢いはずなんだ、“みんなはバカ”とか思うのは思い上がりであって、僕の最低な性格の末路なんだ」なんつう、保身的で最悪なことを考えていましたけど、今は言えるね。バーカ、って。

2008/09/04(木) 

 僕の友達が「悩みがある」と言うので聞いてあげました。

 友達「僕は日ごろ、性的なことばかり考えていて、しかし相手がいないので、一人で性的なことばかりしているのです。彼女ですか? いますよ。でも毎日性的なことができるわけではないじゃないですか。たとえば週に一回しか性的なことができないのであれば週に六日は一人で性的なことをする必要があるわけじゃないですか。そういうことですよ。それから将来に怯えています。今は働いていますよ。しかし来年はわからないですね。給料もとても安いですし、ボーナスもないし保証もないし。あと二年くらいで親が定年なわけなんですけれどもそうしたらどうするんでしょうね。たぶん自殺するしかないと思うんですよ。彼女にもそのうち振られますから。当たり前ですよねこんな生活力もなくて何の魅力もない男じゃ。若くて顔がキモいわけではなくて頭がそれなりによく回るから多少はチヤホヤされるんだけども結局は金がない限り男ってだめなわけじゃないですか。二十五歳を越えてこんな感じじゃ決して幸せにはなれないですよね。特に努力とかそういう類のものもしていないわけですししたくないわけですし。死にたいですよね。だけどどれだけ死にたい死にたいと願っても、どうせ死ねないわけじゃないですか。どうせ死ねないのにどうやって死のうとかどのタイミングで死のうとかばっかり考えるのって馬鹿馬鹿しくて、ああ馬鹿馬鹿しいなって自分で思ってまた暗い気持ちになるんです。なるんだけど、どうしようもないんですよね。で、何が嫌かって、僕の悩みって結局これくらいのものなんですよ。金がない。だから生活していけないし、女にもモテなくなる。というだけ。くだらないですよね。だけど悩みとか不幸とかって相対的なものじゃなくって絶対的なものだと思うんですよ絶対に。僕が不幸だと思えば不幸だし悩みだと思えば悩みなわけですよ。どんな人だって死にたいと願う気持ちは等しいんですよ。だからなんだって思ったらまた嫌な気分になりますね。不幸や悩みが絶対的なものであるなら「不幸や悩みは絶対的だ、だから他人の不幸や悩みと自分の不幸や悩みは等しいのだ」というふうに相対的に考えるのって妙な話じゃないですか。考えれば考えるほど駄目になっていくんで、結局は性的なことばかり考えて、一日に何回も性的な行為を一人きりで繰り返すわけですよね。そうやって一日が終わって、また次の一日がやってきて、また次のって感じで歳を取っていって、僕たちってもう二十四になるわけじゃないですか。金はないし女にもこれからだんだんモテなくなっていくわけじゃないですか。死にたいじゃないですか。でもどうせ死ねないじゃないですか。辛くて辛くて僕はもう毎日泣いてばかりいますよ。胸が鉛のように重くなって頭部を外気に触れさせていることが耐えきれなくなって両腕で頭を抱えて布団をかぶってウーウーうなって泣いているんですよ。意味もなく携帯電話をパカパカパカパカ開けたり閉めたりしているわけなんですよ。シシカバブ。」
 僕「いやそのりくつはおかしい。そもそもデジカメの解像度はクッキーの登録を厳密に定義付けはしていないわけであって、喩えるならば歯槽膿漏のような張作霖爆殺事件をクイックルワイパーがケロッグ。コーンフロスティ。」
 友達「グレイト。そうですよね。先日彼女と花火行ったんですよ花火。そして僕は幸せでしたよ。それからですねお酒を飲み過ぎて記憶を失ったんですよ。なんというか真っ暗ですよ真っ暗。牛乳飲みたい。野菜って美味しいですよね。キャベツとかレタスとかってキングとクイーンみたいなもんですよ。今ビスケット食べてますけど美味しいです。それはそうと金と女。これですよね。これさえあれば悩みなんて何もないというのに、これがないから悩みばっかりがあるんですよね、世の中には。幸せそうにしているやつって、その両方が満ち足りているんですよ。もうなんか暗くなってきたんで切りますね」
 僕「うん。元気でね。ところで」

2008/09/03(水) ドラえもん

 今日はドラえもんの11歳の誕生日です。
 お祝いしましょう。バンザーイ。

2008/09/02(火) web1.0

 時間がないので手短に書くが僕はweb2.0が嫌いである。大嫌いである。
 なぜといえば単純にweb1.0のほうが好きだからである。
 他にもたくさん理由はあるが割愛する。


 キリ番(笑)バナー(笑)ホムペ(笑)ゲスブ(笑)ネチケット(笑)ウェブリング(笑)~同盟(笑)~のほ~むぺ~じ(笑)フレーム(笑)落ちます>ALL(笑)二窓(笑)頂き物(笑)相互リンク(笑)直リン禁止(笑)MEMORIZE(笑)ランダムジャンプ(笑)エンピツ(笑)ReadMe!(笑)先行者(笑)Sorry, Japanese only...(笑)


↑もっと足して改変しておもしろコピペにできないだろうか。

2008/09/01(月) ユニークアクセス総数7pt

 一日日記を書かなかっただけなのに翌日(31日)のユニークアクセス総数が7pt、つまり七人しかこのページに来ていない。カウンタが毎日100以上回ってた頃が懐かしいよ。DMCのまとめサイトやってた頃は300以上回ってたというのに。いったいどうしたら流行るんですかね? あ、もっと面白いことを書けと。おっしゃる通りですが無理です。

 でも昨日久しぶりに知らない人がメールフォームからメールくれたのでなんとかやっていこうと思います。


 虚実織り交ぜて、みたいな感じでやっていこうと思っているんだけど、上に書いたようなことも嘘だと思われる可能性があるということね。別に嘘だと思われても構わないようなことしか書いていないからいいんだけど、嘘という可能性があるっていうことは、相当ハードルが上がるんだよね。人は、そうとう面白くない限り嘘を尊ばないから。誰かが言ってた。怖い話だって、絶対に嘘ってわかってるんだけど、「これは本当の話なんだけどね」と語り始められると、なんだか怖くなってきてしまうって。
 本当のことが書いてあるのならば、「書き手はどういう人か」っていうのがわかりやすいから、キャラクターとしてその日記の書き手のことを好きになることもあるんだけど、本当か嘘かわからないっていうのは、そういうのが起こりにくいね。僕がここに「恋人募集中です」と書いたとしても、本当かどうかわからないし、「年収は一千万ぽっちです」って書いても「ドラえもんが好きです」って書いても本当かどうかわかんないから、それを根拠に僕という人間に興味を持ったり好きになったり愛の告白してみたりっていうことが起こりえない。
 前向きに考えれば、書き手の年収とか好き嫌いとかそういうのに拘らず純粋に文章だけを読んでもらえるっていうことなんだけど、その文章自体も別にさまで上手じゃないし面白いことの一つも書けないんだから処置なしだってんだよね。
 ま、でもしばらくはこれでいきます。来年あたりには「本当のことしか書かない日記」をやってるかもしれないし。
 今月もお願いします。今日はかなり疲れました。

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昨日僕は圭子と寝た
と昨日僕は日記に書いた
それが嘘か本当かは
僕にだってよく分からないのです
そう書いてみることが
僕の散歩の意味だというだけ

(谷川俊太郎「少年Aの散歩」-『メランコリーの川下り』所収、1988)
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