少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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10月

 31日(金)
 数日間、本を読む時間が全く取れなかったが、橋本治『貧乏は正しい! ぼくらの最終戦争』読了○。95年の話が中心で賞味期限が危うかったが、「あのころ17歳だった人に向けて書いているのだな」と思うと面白かった。徒弟より借り受けた支倉凍砂『狼と香辛料』読了○。文章が下手なことを除けば文句なし。経済や歴史について学べるので中学生が読むには良いかもしれないが、文章が下手なので、「これが正しい文章だ」と思われてはかなわん。手放しで賞賛はできない。ヒロインのホロが可愛くて、主人公ロレンスとのやり取りが面白いというのは、世間で言われている通り。ニヤニヤ系ノベル。ニノベ。

 30日(木)
 学校。帰って寝まくる。

 29日(水)
 学校。大画面で『NG騎士ラムネ&40』の最終話を見て泣きそうになる。「隣町のサヨちゃんがイモ食ってブーだな」っていうダ・サイダーのせりふはなんか覚えてた。てぶくろを買いに新宿。のち無銘喫茶。大盛況。めずらしく深夜二時すぎに新貴様合わせて三名ほど来店し、久々SBYKに染まった。そのノリで、三時半ごろ店を閉めてカラオケへ。

 28日(火)
 学校。大画面で『NG騎士ラムネ&40』の第一話を見て感動。JPGで夕食。初すた丼。シークレットベースで酒を飲みながら、イロコイ。起きたら幕張全巻読破された形跡が。

 27日(月)
 学校。石原千秋『ケータイ小説は文学か』読了△。ケータイ小説論考としては今まで読んだ中で最もまともだけど、さすがに薄すぎる。
 VOXXX聴きながら部屋の中の本を整理。要らない新書・文庫等を隔離した。
 P来。

 26日(日)
 橋本治『橋本治が大辞林を使う』読了◎。国語学・国文学に関わる身として面白かった。勢いで精選版日本国語大辞典を収録している電子辞書を買ってしまったではないか。大辞林はgoo辞書で引けるからいいや、と思ったけどやっぱり紙の辞書も欲しいなあ。
 みうらじゅん『正しい保健体育』読了○。辛酸なめ子の『女子の国はいつも内戦』と同じ「よりみちパンセ」シリーズ。なめ子の本は半分くらいが「悪ふざけ」だったが、この本は全部が全部「悪ふざけ」。でも、中学生に読ませたいような気もしないではない。いいことも書いている。
 橋本治『最後の「ああでもなくこうでもなく」そして、時代は続いていく――』読了○。「時評」としては最後になるかもしれないそうだ。骨は折れたが面白かった。

 夜、髪の毛を切りながら「林原めぐみのTokyo Boogie Night」→「堀江由衣の天使のタマゴ」→「関智一・長沢美樹のラジオビッグバン」を聴く。たまに聴くと良いもんだ。だいたい切り始めから風呂入って片付けるまで一時間半くらいかかるようだが、ラジオ聴きながらできるし、これで一生分の床屋代が節約できるのだから良いではないか。そういえば今回は例の曲を聴かなかった。

 たかじんのそこまで言って委員会を見ながら、本を整理して、寝る。
 
 そういえば金曜、家で■に「読んでない本はどのくらいあるの?」と訊ねられた。「ほとんど読んでないよ。読みたい時に読めるのが重要なことだから」などと適当に返してしまったが、本当はこう言いたかった。「読むべきでない本は読んでないし、読むべき本はある程度読んでる」と。
 僕は、「単純に数値で表す」のが本当に嫌いなのだな、と改めて思った。

 25日(土)
 学校。家でペン入れ。アフタヌーン読了△。謎の彼女Xとあたらしい朝と爆音列島が休載なので物足りない。ヒストリエが向こう二ヶ月間休載とは、ふざけろ。ナチュン、百舌谷さん、からん、ベントラーあたりが面白い。るくるくがようやく動き出したか? 個人的には呪街とオクターヴ。ヴィンサガは安定して空気。おお振りは今回も西浦ほとんど登場せず。ACONYふざけんな。読み切りが三本あったが特になし。今月は薄い。

 24日(金)
 一日中書類作成。夜、■来る。吉見うどん食べる。ネットラジオやる。瞬間最大リスナー数17名、最高記録。眠かったのでいったん寝て、早朝起きて書類書く。読みかけの本がたまるのでメモしておくことにする。

 『お気に召すまま』W・シェイクスピア/小田島雄志(白泉社u)
 『最後のああでもなくこうでもなく』橋本治
 『橋本治が大辞林を使う』橋本治
 『うつうつひでお日記 その後』吾妻ひでお
 『だいにっほん おんたこめいわく史』笙野頼子
 『ケータイ小説は文学か』石原千秋
 他、もう忘れたもの多し。

 一冊一冊地道に消化していかなければならないのだが、明日は学校に行ったあとアシAが来る予定。しかもアフタヌーンの発売日だから本を読む余裕などはなさそうだ。

 23日(木)
 仮眠後、学校でずっと作業。帰ってひたすら寝る。

 22日(水)
 学校。営業朝まで。敬語の使えない中年泥棒男。「あたしのことが好きなの?」「そうかもしれない!」は秀逸だと思った。下書きまで。

 21日(火)
 学校。夜、タイニィアリスで楠美津香さんのひとりシェイクスピア『超訳 お気に召すまま』。

2008/10/17(金) 少年Aの散歩

 20
 本当に大切なことは何万年来不変です
 そしてどうでもいいことは
 もう言い尽くされていると思うんだけど
 (谷川俊太郎「少年Aの散歩」より)


 ラジオから流れてくるJ-POPを聴いていて思った。流行歌はどれも同じことしか言っていない。それこそまさに「もう言い尽くされて」しまった「どうでもいいこと」なのだろう。「何万年来不変」な「本当に大切なこと」とはそういうものではない。

 普遍的らしく見える「よく聞く言葉」は、たぶんどうでも良い。
 そういうのは実は、何らかの思想に裏打ちされた「流行」でしかないから。
 そんなことよりも何万年来変わらない、もっと大切なことが
 あるのかもしれない。

2008/10/17(金) 土手!

 河原に出て秋刀魚焼いて食ったり、焚き火したり、天体望遠鏡で星を見たりする会をこのごろ多摩川のほとりでやっている。参加者は概ね二十代後半~四十代まで。幾つになってもこういう素敵さを忘れずに生きていきたいと思う。
 僕も実家の真裏に大きな川が流れているので、帰ると今でも友達とテントを張ってキャンプしたり、意味もなく河原に出て桃を食べながら石を投げたりしている。川というのはすばらしい。ことに河川敷のある川。

 川っていうのは、学校の勉強で言うとほとんどすべての教科に関わってくる。大学の時の先生が「総合的な学習の時間では、近所の川を扱うべきである」と言っていたが、それは本当に正しい。国語も社会も理科も一度に教えられる。やろうと思えば音楽や家庭科や図工や体育などとも関連を持たせられるし、その過程で算数や数学だって使わないわけではなかろう。

 川というのは本当に豊かな存在だ。夜、河川敷があまりに明るいということはまずないので、星を見るにも適している。21日にオリオン座流星群が極大になるそうだから、見に行こう。ただ、近所に河川敷のあるような大きな川がないんだよね。
 23区内には大きな川がまずない。多摩川の北側くらいしかない。小さい川なら幾らでもあるが、人の手が入りすぎてしまっていて、川というより水路である。水に触れることなどまずできない。つまんねえなあ。
 実家の裏の川は、本当に遊びがいがあって、鯉はもちろん、金魚やめだかも泳いでいた。夜にはなまずが釣れた。名古屋の中心部まで自転車で十~十五分程度という場所にそんな大きい川が流れているんだから、改めて名古屋の狭さと、田舎さを思わされる。多摩川は新宿から自転車で一時間くらいかかる。隅田川は銀座からなら近いけれども、河川敷に降りて行って自然と戯れられるような雰囲気の川ではない。

 そういうわけで僕はどこに住もうか迷っているのであった。新宿から10km以内じゃないと、ちょっとつらいんだよなあ。BR>
2008/10/10(金) 旧・体育の日に想う

 スポーツには百害あって一利くらいしかない。廃止すべし。

 体育の日は東京オリンピックの開会式(10月10日)がもとになった、「スポーツにしたしみ、健康な心身をつちかう」ことを目的とした祝日らしい。オリンピックもスポーツも大嫌いな僕としては素直に祝えない。

 言い訳をするようだが僕は「スポーツはできないが、運動はまあできる」のだ。幼い頃はいわゆる「運動音痴」であった(だからこそさとうまきこの『ぼくのミステリー新聞』等に感情移入したのである)が、小学校高学年くらいから急激に身体能力が上がってきて、高校の時に自転車に乗ることを趣味とし始めてからは、走ったり跳んだりといった「運動」自体はかなりできるほうになったのである。スポーツテストでは「ソフトボール投げ」以外はかなりよくて(ボールがからむとだめなのである)、「二級」のカードとか貰ってた(ソフトボール投げが常によくないからという理由もあるが、とにかく「一級」じゃないところが僕なのである)。

 ということで、高校時代の僕は体力も身体能力もそこそこあった。だけど、授業や球技大会ではほとんど常に足手まといなのであった。ボールが絡むともう、本当にだめ。小さいころは体力もなく、友達がほとんどいなかったので、ボールを使って誰かと遊んだりした経験があまりなかったという事情が大きい。また小・中・高と一度も運動部に所属していなかったし、体育の授業にも積極的でなかったため、ボールの扱い方が皆目分からない。バスケットボールなんかはもう、一切できない。「できない」という自信のなさがまた、「できなさ」を助長して、どうしようもない。

 唯一球技で褒められたのはサッカーのゴールキーパーをやった時くらいだ。反射神経と運動能力自体は悪くもないから、ボールを止めること「だけ」はできるのである。しかも現役サッカー部のやつが驚くくらいに、きわどいシュートもけっこう止められるのである。しかし、「ボールの扱い方」を知らないので、「はじく」ことしかできない。シュートを「キャッチ」したり、持ったボールを投げたり蹴ったりってことができないのである。当然「ゴールキック」も下手くそ。その結果、「反応はめちゃくちゃいいのに、キャッチできないからリバウンドを取られる。しかもゴールキックはトンチンカンなところに飛ぶ」ということになって、評価もまあ、そんなもんなわけである。


 と、思い出話をしてしまったが、「運動」と「スポーツ」は切り離して考えるべきである。そして僕の思うに、「運動」は必要だが、「スポーツ」はまったく要らない。要らないどころか、むしろ子どもの教育に悪い。だから「スポーツ」は、少なくとも教育の場面からは全面的に廃止してしまうべきである。僕はかなり本気で、そういうことを考えている。
 「運動」は「スポーツ」と違って、「できるできない」では測りづらいものだ。「する」か「しない」かしかない。「運動」を無理やり「できるできない」の領域に移そうと、「数値化」と「評価」を行ったら、それは「スポーツ」に変わってしまう。たとえば「陸上」というやつだ。それも僕はあまり好まないのだが、それでも球技よりはずっとマシである。陸上は「リレー」や「団体戦」(という意味不明な制度)を除けば、ほぼ個人競技しかない。だから「集団心理」が発生しにくいし、「秩序だった上下関係」や「排除の原理」も比較的生まれにくい。
 僕の持論では、チーム人数の多いスポーツほど「悪い集団心理」が発生しやすいし、どういうわけか「頭の善くない人」も増える。だから陸上を始めとして、柔道や剣道や卓球やバドミントンなどは割と平和的な人が多い。(代わりに「孤高の変人」が多いのだが。)
 サッカー、野球、ラグビーあたりはそれはもうヤバいもんで、「頭の善くない人」の巣窟である。バスケはちょうど中間くらいの人数なので、両極に分かれる印象がある。(※これらはすべて僕の勝手なイメージです)

 先ほどから「集団心理」という言葉を使っているが、これをもっと詳しく言い換えると、「勝つことを至上の目的とする集団の成員が、その目的を達成するために抱く一律的な考え(方)や心理(状態)」である。
 スポーツをする人には二種類いて、頭をよく使うタイプと、使わないタイプである。頭を使わないタイプの人が日常的に上記のような思考を要求される状況だけを延々と経験し続け、パターンの中にはまりこんでしまうと、「勝つためにはどうしたらいいか→練習あるのみ」「勝つためにはどうしたらいいか→できないやつを排除すればよい」「勝つためにはどうしたらいいか→高価なシューズやウェアを買う」などの短絡的思考しかできなくなって、「ものごとを自分で考える」とか「複雑なことを深慮する」という練習をしないから、結果バカになるのである。そういう人は「練習あるのみ」というところで思考が止まるので、「どういう練習をしたらいいか」「自分に合っている練習とはどんなものか」などという高級なことを考えずにひたすら決められたメニューだけに没頭し、壁にぶつかって、結局よい選手には育たない。チーム制のスポーツをやる部活などに所属している人は、そういうことを意識した方がいい。(以上、運動部に所属したことのない人間の妄想であるが、僕は自分が間違ったことを言っているとは一切思わない。)結局、本を読め。人と話せ。何でも自分で考えろ。である。

 スポーツってのは、頭を使おうと思ったら使えるもんだが、使わずにやろうと思ってもできちまうもんである。テレビやら授業やら部活やらでスポーツばっかりを奨励した結果、頭を使わないバカ人間ばかりが量産されたのである。(僕は間違ったことを言っているとは思わない。)
 体育の授業でスポーツやるくらいなら、畑を耕させろ。そっちのほうがよっぽど生活に根ざしているし、頭も使わせやすい。グラウンドを廃して、畑にすべし。なんでそれをやらないかね?
 スポーツやりたいやつは、金払って、どっか場所借りてやれば良いよ。公教育で税金使ってまでやることではない。だって「教育」にならんのだもん。私立校でも、スポーツもやらずに真面目に読書している人間の払っている学費でスポーツをやる部活の予算を出すというのは妙である。全額寄付か、スポーツをやりたい生徒の親の金でやればよろしかろう! その代わり学級文庫なり、文芸部の冊子製作費なり、演劇部のサンプラー代(高校の時、これがあればどれほど重宝しただろう!)なり、文化的なことに予算を使ったほうがいいんである。運動部は、剣道・柔道・合気道あたりがあったらいいのだ。危ないって? 野蛮だって? だったらトマト部とかキュウリ部とか米部とかをつくって、体力の有り余っている連中にやらせろ! だいたい、長刀や合気道よりもラグビーのほうが危ないし野蛮だろ!

 スポーツ(特に集団でするもの)でしか養われない精神性とは、「(この集団が)試合に勝つためにはどうしたらいいか」を効率的に考えることだけである。戦争をしないことを前提としている国にはまったく必要のない考え方である。なんで日教組なり左翼新聞なりが「スポーツ」を叩かないんだ?
 そんなことよりは農業をやらせたり、格闘技の型でも習わせたほうがいいのではないか。僕は小学校の時に数ヶ月だけ中国武術をやったことがあって、もちろん型だけであったが、なかなか楽しかったし、身体にも良い刺激になった。もちろん格闘技が暴力の道具にならないようにするためにはどうしたらいいか、ということも考え合わせねばならんが、体育でスポーツをやっていても暴力的なやつは殴ってくるし、教室の後ろのほうではプロレスごっこが行われるんであまり関係ないのかもしれない。

 「古典って何の役に立つの?」とか「理科とか習っても意味ない」とか言うやつが必ずどの世代にもいるんだが、「じゃあ、サッカーやバスケは何の意味があるの? どう役に立つの?」という問いはどうだろう。それよりは古典や理科を知っていたほうが何かの役には立つかもしれないし、身体を動かすにしたって農作業をやって食べものがどうできるかを身体で知ったほうがいいだろうし、単純に走るだけのほうが実用性がある。

 子どものころからスポーツをやるっていうことは、「競争原理・記録原理・合理主義・ルール至上主義」を身体に叩き込んでしまうことでしかない。「勝ち負け」ばっかりを気にして、「無能なやつは排除したほうが集団の利益になる」ということを覚えて、「ルールとボールがないと何もできない」ソーゾー力のないマニュアル人間を育てることでしかない。「現状の日本社会」でうまくやるには、それらのことを内面化しておいたら得になることも多いのだろうが、僕は「現状の日本社会」を良いものだと思っていないので、スポーツには反対なのである。
 「現状の日本社会」をなんとかしたいと思うなら、教育を良くせねばならんと思うのは当たり前の発想だ。で、僕の思うに、教育をよくするには「スポーツ」を廃止して、「農業」と「演劇」を導入することが近道なんじゃないかね。民度を底上げするならもう、それしかない。

2008/10/04(土) ポエムる心

 プライベートを切り売りせずにWeb日記を続けていくためには頭で考えたことを晒さねばならんわけだがそれはそれでけっこう精神的な負担になる。

2008/10/02(水) 散文ディスコミュニケーション

 ある人とある人の間に特別な関係があるのだとしたら、その二人が直接交わす会話以外には意味のある言葉など何もない。そんな単純なことが誰もわからないらしい。かくいう僕も頭でわかっても身体でわからないので逃げてばかりいるわけだが…。

 わかっていることは数多く、しかし実践できることはほとんどない。わかってしまうのは容易くとも、信じることは難しい。頭でっかちにあれこれ考えるだけじゃ何にもならん。

 僕はホンワカしていて、いろんなことをどうでもいいと思っているがゆえに、きっちりとしたがったり将来を真剣に考えたりするタイプの人には「なんだこいつは」と思われてしまうのかもしれない。そのくらい僕は適当で、しかも考えることが極端だし、無根拠に偉そうなので、扱いづらく、面倒くさく、…いや、もう一言で言ってしまおう、「わからない」。



 僕がたくさんの材料でできているのだとして、誰かがそのうちの幾つかを取り出して、「ほうほう」って言って、好きになったり嫌いになったりすることは、とても自然なことだ。三つくらいを見て好きになったら、「いくつあるんだろう」とか「もっと見たい」とか思ったりするのが人の心で、「三つ目までは良かったけど、四つ目が駄目だった」と言って、「嫌い」になることもある。その逆もある。
 僕はそういうことが嫌いなんです。

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