少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2008/08/29(金) 恋人の日記を読んでしまうことについて

 好きな人の言葉っていうのは一つ一つが重たいので、気にしちゃうのは仕方ない。ってのはあるんだが…。

 恋人の言葉なんて、自分に向けられたものだけを聞いていればいい。
 たとえ恋人がブログ的なものをやっていても、それを見る必要はない。

 言葉っていうのは、本来、「伝える相手」を想定していて、「この相手にだったらこう言えばこう伝わるだろう」というのを考えた上で、適切な内容を適切な言い方に変換して使うもんだよね。恋人同士ってのは特別な関係なんだから「特別な言い方」ってのがあって、恋人同士という関係の中では基本的に「特別な言い方」でしか会話しないもんなんだ。
 だけど不特定多数に向けられた文章っていうのは「伝える相手」を想定していないか、想定していたとしても想定された人だけが読むわけではないから、常に誤解はつきまとう。Aさんが「Bさんに伝えようとする言い方」をして、それをCさんが「私に向けて言っているのだ」と勘違いして受け取ってしまったら、「あれ?」って思うのは自然で、結果「この人のことがわからない」になるのは当たり前のことなんだ。あるいは、「本当はこの人は私のことどう思っているんだろう」とか、「じつは私のことを全然理解してくれてないのかな」、とか「私のことが好きじゃなくなっちゃったの?」とかね。
 そういう誤解ってのがインターネットにはもう十年以上も前から恐らくずっとあって、それで様々の個人的な問題を生んできたと思う。「あんた、ネットにあんなこと書いてたけど、どういうことなの?」ってね。おちおち冗談も書けないわけね。ある詩を引用して「昨日僕は圭子と寝た」なんて 書こうもんなら、「圭子ってだれ?」ってなる人がいるっていうね。そりゃもう当たり前で仕方のないことなんで、だったらもう何も書くべきではないっていうのが唯一正しい答えだと思うんだけど、「でも書きたい」っていうのが、これまた唯一の問題点なわけね。

 誰かがインターネットに書いている文章っていうのは、本当にその「誰か」の考えていることの一部のそれまたごく一部なわけであって、しかも「本音」であるのか「建前」であるのか、「本当」であるのか「嘘」であるのかもわからない。文章力次第では誤解されて伝わることのほうが多かったりもする。だけど恋する少年少女は好きな人がインターネットに書いた文章を読んで一喜一憂するってことが日常的にあって、しかも「私の前では表さない彼(彼女)の本心」とか思って読んだりもするわけね。
 二股をかけてる男が女ごとに携帯電話を使い分けるっていう話がたまにあるけど、ブログやSNSのIDを使い分けてる男ってのもかなりいるんだろうね。AのブログではAちゃんが喜ぶようなことばっかり書いて、BのブログではBちゃんの喜ぶようなことばっか書いてれば、AちゃんもBちゃんも見事に勘違いして「公の場でこう言っているんだから、この人には私しかいないんだ」って思ってくれるんでね。特に、ネット上にしか真実はないと思いこんでいる頭の狂った種族は。「ネットにないものは存在しない」とまで錯覚してしまっている人は、大人であっても今時けっこう多いもんだよ。もっと行くと「Wikipedia至上主義」みたいになっちゃってねえ。
 余談だけどWikipediaを上手に利用するコツは、「書いてあることの真偽」を気にするよりも、「書いてないことが無数にあって、しかもそれはどんな内容でも有り得る」ことを常に念頭において読むことだろうね。
 それは恋人の日記でも同じ。

 それで僕は恋人がいたとしてもmixiのIDとか教える気にならないし、向こうのIDもべつに知りたくない。偶然見つけてしまったらとりあえずアク禁…。なんてことを本当にやったらまた「あたしのことが嫌いなの?」ってなるから、できないんだけど。
 お互いが「お互いに向けていない言葉」なんかを読み合ったって仕方がない。それが「今朝ホットケーキ食べた。おいしかった。また食べたいな」くらいの文章だったらいいんだけど、「恋人について」なんて内容だったら、目もあてられない。
 恋人同士がインターネット上でお互いの書いたものを読み合うことのデメリットは「誤解」(当然ほかにもある)、メリットは「監視」(ほかにあるのか?)っていうことになると思うんだけど、「監視」ってのは「信頼」の反対語なんだからさあ。それをやり始めちゃったらもう、ストーカーみたいになるしかないんじゃないの? 部屋の中で何やってるかだってわかんないわけなんだから、そういうのはもう信頼するしかないわけでしょ? どうしてインターネットだけを監視して、それである程度の満足を得られてしまったりするんだろう。ストレスと抜け穴を提供しているようなもんじゃないかとすら思うけどね。
 相手のことを知りたかったらネットを見るより顔見て話す。あるいは文通メール通。
 それが基本です。

2008/08/28(木) 空いてるスペース埋めるように恋に落ちたい

 昨日の続き。(ご意見は本気で募集しています。)
 結論として、寂しさを紛らわせるためだけならやはり熱帯魚ではないだろうかとは思う。猫まで行くと行きすぎだけど。
 だけど実際水槽や熱帯魚を買うお金などないし、茄子は育ったら食べられるけど、熱帯魚は基本的に食べられないもんね。僕が茄子を育てるのは、黒田硫黄の『茄子』という漫画が好きだからってのと、やっぱり植物を育てるのは楽しいし、ペットとしても可愛いから。それと、茄子を育ててるとなんかいろいろ考えるんだよね。考えたことは、もしまとまったら書くけど。でも、やっぱ「食べられる」ってのが大きい。野菜好きだし。茄子うまいし。野菜になりたい。
 とはいえ、茄子を育てるためにかかった費用のほうが鉢植えで茄子を栽培したことによって得られる利益の何倍も大きいので、「自給」という意味では無意味であるばかりか、正直言って「エコロジー」的な考え方には反してさえいると思う。ま、単なる「趣味」であって、決して「主張」や「思想」にはできない。してはいけない。もっと大規模にやれば別だけど、鉢植え三つくらいじゃね。
 でも、植物を育てるっていうのは良いことだし、全国民が何らかの形で植物を育てたり、眺めたり、愛でたりするべきだとは本気で思っている。植物への尊敬や愛情をなくしてしまったら、人間は終わりだ。だって植物のない生活って、とっても貧しいよなあ。

 茄子を育てたことは、僕としては「生活が変わった」という点では非常に意味があった。窓際にあったもの(具体的にはパソコンの置いてあったちゃぶ台)を移動させたというのは昨日も書いたけど、これは実は茄子に水をやりに行くための通路を大きくしたってことね。じょうろに水を入れて部屋の中を突っ切るわけだから、パソコンの置いてあるちゃぶ台なんかが窓際にあって、もし水がかかったりしたら終わりだから。で、そのことによって風通しが非常によくなった。いや、これまでそうしなかったのが不思議ってか馬鹿っつうことなんだが。風通しがよくなると精神的にもすっきりするね。あまり鬱屈としない。庭(+茄子)が見えるようになったというのも、精神的にかなり和む。窓を開けていると季節や風や夜の音が入ってきて、それだけで人は安らぐものなのであるよ。

 生活が変わったといえば、茄子と関係あるかは知らんが、パソコンをつけている時間がかなり減った。これまでパソコンをつけすぎていたというのがあったのだが、使わない時は消すっていうのが普通になった。なんでかっていうと、あまりパソコンで音楽を聴かなくなったからかもしれない。この調子でパソコンや携帯電話をできるだけ使わないようにしたいなあ。恥ずかしながら僕も、そういう悩みを抱えているのであるよ。ああ。

 余談だけど「音楽がないと生きて行けない」とか主張している人がけっこう多いけど、あまり説得力を感じない。「音楽がないと生きて行けない」とか言っている人は、「寂しがり屋の一人好き」とか言ってる人の次くらいに、うさんくさい。なんでかっていうのはよくわかんないんだけど。あと「活字中毒」とか言ってる人も。「音楽がないと生きて行けない」とか「活字中毒」なんてのが本当だったら、病院に行け! そういう人がいないとは言い切れないけど、本当にそうである人は、どのみちかなり少数でしょう。

 mixiのコミュニティについては今度また書こう。あれは、血液型診断と似たようなもんで、ろくでもないんだ本当。

 で。なんか煙草を吸わなくても寂しくならない方法ってないかなあ? 非喫煙者が禁煙方法を相談するっていうのはなんだか妙だけども。
 茄子のトゲが刺さって痛い。

2008/08/27(水) 煙草と熱帯魚

 僕は煙草を吸わないから、手すさびにパソコンや携帯電話をいじくりまわしていることが多かった。でもそうやって暮らすことは悲しくて虚しいことでしかないから、どうにかしたいなとずっと思っていた。
 家にいるときの僕は、たいてい何かしら本を読んでいる。本を読んでいるとすぐに寂しくなってしまうから、意味もなく携帯電話を開いたり閉じたりする。だけどそういうことって、心の底から悲しくて虚しくて、本当は絶対にやりたくないこと。だけど仕方ない。煙草を吸う人が煙草を吸うように、僕は携帯電話を開いたり閉じたりしていた。
 それは僕の思い描く理想の生活とはまったくかけ離れたものなんだけど、独り暮らしを始めてからずっと僕は本当のところそういう生活をしてしまっている。それがもう嫌で嫌で仕方がなくて、いつも悩んでいた。

 で、いろいろ考えると、この「寂しい」っていうのは、「誰かに会いたくて寂しい」とか、そういう種類じゃないんだね。「寂しい」っていうのは要するに「手持ちぶさたである」というだけの意味しかない。要は、みんなそれだから煙草を吸うわけでしょう? 「口寂しい」ときにチョコレートを食べるように。煙草っていうのは手と口の「寂しさ」を同時に解消することができて、しかも気分転換にまでなるんだから。
 「でも、煙草を吸わない僕は、じゃあどうしたら、この寂しさを解消できるわけ?」寂しいなんて思うな! っていうのが最も明快な答えなんだけど、そう簡単にいったら苦労はない。「だったら煙草を吸えよ」というのも正しいんだけど、僕はどういうわけだか、とにかく煙草を吸いたくない。そういうワガママな男なのだ。

 僕は、家にいるときに、本を読みながら、携帯電話を開いたり閉じたりしなくても済むような、「煙草を吸う」ということに代えられるような何かを考えなければならなかった。それでひとまず家具の配置を変えてみた。窓際に置いてあったものをすべてとっぱらって、ちゃぶ台と座椅子を置き、そこで本を読みながらちょっと横を向くと、庭が見えるというふうにした。ところがうちの庭には何もない。雑草は生い茂るのだが、伸びるだけ伸びると業者がやってきて刈ってしまう。雑草でも様々な花を咲かせるし、虫や小動物がたくさん寄ってきて楽しいのだが、いったん刈られると荒れ地になってしまって途端につまらない。
 そこで僕は植木鉢と茄子の苗を買ってきて育てているというわけだ。毎日水をやって、本を読みながら寂しくなったらふと横を向いて茄子を眺める。日に日にぷくぷくと育つ茄子の実を見て、ほんわかする。可愛い可愛いペットです。
 それだけで僕の生活はずいぶんと変わった。寂しくなったら、携帯電話を開いたり閉じたりする前に茄子を見る。ぼんやり見ていると心が和んで、また読書に戻れる。ところが、茄子ってのはやっぱり植物だから、あまりにも動きがない。もちろん植物だって生きているのだから緩やかに動いていて、よくよく観察するとそれがわかる。葉っぱの上に小さな虫が歩いていたりして。しかし、夏は基本的に網戸を閉めているからよく見えない。寂しくなるごとに戸を開けて庭に降りて行かなくてはならない。ちょっと開けただけで蚊とか蜂とかが入ってくるというのに。それに冬はどうしたらいいのだろう。冬は冬で冬に育つ植物を育てればいいのかもしれないが、どのみち冬は窓を開けているということがないので、同じことなのだ。結局、僕はまた寂しくなって、携帯電話を開いたり閉じたりしてしまう。
 「ああ!」僕は思った。「熱帯魚っていうのは、そういうことなんだ」
 僕はすぐに熱帯魚と水槽一式を買ってきてちゃぶ台のそばに置いた。熱帯魚は、当たり前だけど、常に動いている。僕はこれまで、「熱帯魚なぞにお金をかけるなんてどうかしている」とでも思っていたのだが、なるほど。そういうことだったのか。別にそれが熱帯魚である必要なんて何もなくて、「家の中で育てられる、動きのある生物」であれば何でもいいのだ。と思ったのだが、熱帯魚は何をしてもほとんど反応がないのでつまらない。そこで僕は今度はうちの庭にたまに来る野良猫を保護して飼うことにした。
 あれ? と僕は思った。

 そういうことじゃないはずだった。
 僕は熱帯魚と猫を向かいの一軒家に住んでいる幸せそうな家族に譲った。
 かといって僕は煙草を吸うわけにはいかないし、携帯電話を開いたり閉じたりすることは悲しくて虚しいことでしかない。そして庭や茄子を眺めることは完璧ではない。いったいどうしたらいいんだろう。
 ご意見お待ちしております…。

2008/08/26(火) Peter and Wendyを読む会

 昨日の補足をしなければならないとしたら、しばkには恋人などいない、ということである。
 さてしばkには恵美という妹がいて、僕はこれを溺愛している。
 女性の影と言えばそれ以上もそれ以下もない。


 蚊取り線香を焚いてみた。飛んでいた虫がポトポトと落ちてきた。
 雨だけど蒲団を干してみた。

 日曜日に、「Peter and Wendyを読む会」というのを催した。たった五名によるささやかな座談会であったが、僕なりには実りのあるものだった。それというのも、ようやく『Peter and Wendy』という作品から解放されたような気がしたから。やっと相対化することができたというか。小学生とかの頃に好きになってしまったものに対して冷静になるということは難しいもので、僕はこの年になるまでそれができていなかったかもしれない。他人の意見を聞くことで自分の考えが絶対ではないということを実感できるから客観的になれて、そうするとこれまでわからなかったこともわかるようになってくる。同時に、これまでわかったつもりになっていたことにも、実はぜんぜんわかっていなかったのではないかという疑いを持てたりする。
 そういうわけで個人的にとてもためになった。今度は違う作品でもやってみたい。バーナード・ショーの『人と超人』なんかやりたいのだが、たぶん誰も読まないだろうな。語り合うのも難しそうだし、だいいち僕にもよくわかっていない。面白い作品なのかどうかもわからない。大好きなんだけどねえ。どんなに男がえらくても、女の乳房にゃかなわない、っつうか。
 ま、太宰治とか坂口安吾とか、夏目漱石とか谷崎潤一郎とか、そういうところが良いのかも。あるいはもっとマイナーな作家。漫画でもいい。何にせよ、「BS漫画夜話」みたいなノリは楽しい。ということがわかったのが今回最大の収穫だったかもしれない。とりとめもなく、結論もない。それが「BS漫画夜話」なのだからね。誰にでもできるのであるよ。


 kさんはあまりに自分勝手なことばかり考えてしまって困る。自分が好意を寄せていない人間が幸せになることが許せない。心の底から憎んでいる。「嫌いな人間が」ではない。「自分が好きな人以外の人間が」ということである。なんということか。頭が狂っているとしか思えない。まったくもう。kさんときたらしば。ばkさときたらしん。しばkときたらさん。はあ。

2008/08/25(月) 恋愛と結婚は絶対別! でも一致してたらそれにこしたことはない

 僕は、恋人が輩(カスケードとかペニシリンとかジャニーズジュニアとか)のコンサートに行く姿を「見て見ぬふり」していますし、そのほかにも、恋人が同人誌を出版していたり、恋人が昔の恋人のことを密かに思ったり(それを、僕の知らないところで語っていて、それがなぜか僕の耳に入ってくるのだ)、恋人が僕に理解できないドラマやマンガに熱狂していたり、恋人がどっか知らん外国のブランドのエコバッグを手に入れるための行列に加わっていたり、恋人が唐突に僕以外の誰かに向けて何かを語ろうとして話が破綻していたりする姿を「見て見ぬふり」しています。恋人も、僕がしている様々の恥ずかしいことどもを、「見て見ぬふり」しているだろうと思うのです。つまり「自分には理解できないこと」や「自分が感覚的に許せないこと」を、無視して生きているわけです。
 それをある人は、「お互いの重ならない部分に触れないように、おっかなびっくり暮らしていく」みたいに表現していました。



 さて恋人というものを考えてみる。

 数学で習った「集合」のベン図を思い描くと、「僕かつ恋人」というゾーンでのみ僕らは愛し合っていられて、その欠けた月のような半端な部屋から一歩でも外に出ると、僕たちはお互いに異世界の住人と見なしあって、ぎこちなくなったり、喧嘩したりする。ひどい場合は別れてしまう。

 解決方法は、「完全に重なり合えるように、分かり合おうとする」か「永遠に見て見ぬふりを続ける」か。前者はほとんど不可能で、「欠けた月」が「満月」になることは普通、ない。一時的にそう見えることはあるかもしれないが、それも時間の問題ですぐに再び欠け始める。後者はおそらく多くのカップルが実践している方法であるが、それは次第に「無関心」ということに移ろっていく。この「無関心」が「諦め」ということとイコールになるとき、彼らの関係はほぼ永続的なものになる。

 寂しい感じがするので別のパターン。そもそも「重なる」必要なんてない、と開き直ることだ。これもおそらく多くのカップルが実践していることだと思う。「理解できる、できない」とか「許せる、許せない」とかでなく、「そういうものだ」と考えること。これを俗に「お互いのすべてを受け入れる」「ありのままを愛す」などという言い方をする。
 そう、「重なる=理解する、許す」=「すべてを受け入れる」ではないのである。「理解する、許す」というのは、「相手を自分の物差しの中に位置づけ、それをよしとする」ことであるから、まったく自分本位な考え方で、「自分の物差しではかることができなければ無視する」ということである。「すべてを受け入れる」というのは、わけがわからなくても、許せなくても、「まあ、そういうもんだ」と納得することなのである。「見て見ぬふり」と違うのは、もちろん「見ているか、否か」である。見た上で、嫌だとも思わずに、「ふむ」と思って、受け入れる。そういう境地である。
 で、そのためには、「恋人は自分の所有物である」という考え方を捨てなければならない。恋人が自分の「所有物」、または「一部」であるとするなら、「自分には理解できないこと」や「感覚的に許せないこと」が、恋人の中に要素として含まれていていいはずがない。だから破綻するのだ。破綻しないためにはどうするかというと、「重なること=お互いがお互いを所有しあうこと」を否定すればよい。なんてことはない、恋人を他人だと思えばいいのだ。そしてそのためには、そこに「愛」が介在してはいけない。「愛」とは所有を前提とするからだ。
 若い時は大概、「愛」を求め、相手を所有したいと願う。実はそういう関係は、どう考えても結婚とかっていう「長い付き合い」を前提としていない。肉欲のことしか考えていないから、「愛=所有」という考え方が出てくるのである。で、僕は若いから、もちろん愛とかいうものに憧れるし、できることならば相手を完全に所有していたいと思う。それでいて、「できることならば永遠にこの人と…」なんていう都合の良いことを考えるわけである。で、そういうことにかけては大抵女のほうも同じように、都合の良いことを考えているのである。だから、恋愛は常に博打のようなものであり、先が見えなくなってくるのだ。
 もしも結婚のような長い付き合いを前提として異性と付き合うのならば、「愛」ではない、「所有しあうこと」ではない関係を目指したほうが良い。それを「必要」という言葉で表す人もいる。「この人が必要だ」と言うとき、その必要にまつわらない要素は無視できる(たいてい、相手の趣味とか感性などは)。その「必要」が、「愛」などというわけのわからないものから生まれてくるものでないのなら。では、「愛」以外から生まれる「必要」とは何か? それはもう、単純に、こういうことだ。

 「私は働くから、あなたは家事をしてください。いいですか。じゃあ結婚しましょう」
 「私は働くよりも家事のほうが得意だから、あなた働いてください。いいですか。じゃあ結婚しましょう」
 「私は子どもが三人ほしいのですが、あなたは何人ほしいですか。ああ、三人ですか。奇遇ですね。結婚しましょう」
 「私は子どもを東大に入れたいので、東大出身の人と結婚したいんです。あ、東大ですか。結婚しましょう」  「私は毎晩ビールを飲みまくるので、それに文句を言わない、あるいは一緒に飲んでくれる人がいいのですが。あ、いいですか。結婚しましょう。」
 「私は電車の車両が好きで、大量の模型を持っていますが、それを走らせるレールやジオラマにはあまり興味がありません。あったらあったで楽しいのでしょうが、そこまで手間をかけられないのが現状です。え、あなたはレールやジオラマは趣味だけど、車両は一台も持っていないんですって。結婚しましょう」

 えー。これはギャグではない! こういう男女関係も有り得るではないか、という話。少なくとも、愛だの恋だのといった抽象的な話よりもずっと、「結婚の動機」としては筋が通っている気がするけど。特に三番目とか四番目の例なんかは、実際にこれを結婚相手に望む人もいる。もっと露骨な例は

 「私は金持ちの家に生まれ育ったから、結婚後もその生活レベルを落としたくない。だから最低でも年収1000万円以上の人としか結婚したくないのですが。あ、年収800万円ですか。帰ってください。えっ、年収2000万円ですって? 結婚しましょう」
 「私は女好きだしモテるので、浮気しても文句言わない人がいいです。あなたそんなカンジですね。結婚しましょう」

 こうやって言うと、「必要」という言葉の意味がわかりやすくなる。「打算」と言ってもいいな。実は、「恋愛と結婚は別」と言っている人って、「愛」なんかよりも「必要」のほうが「結婚などの長い付き合い」のためには重要だということがわかっているのかもしれない。そういうふうに賢く相手を選んで結婚してうまくいっている人も、けっこういるんである。で、女の子って「恋愛大好き!」ってカンジの子が多いんだけど、実はほとんどの子がこのことを完全にわかっていて、「恋愛と結婚は絶対別! でも、一致してたらそれにこしたことはない」とくらいに思っているのだ(なんと合理的な)。それで、「恋愛対象の人」が「結婚(必要)対象」から外れると、楽しむだけ楽しんだ後で容赦なく別れを切り出してくる。で、「結婚と恋愛が一致する」ような相手を新たに探す。それが女子のリアリズムってもんである。

 と、まあ99%は想像と思いこみなので女子から怒られたりするかも知れないがそれもよかろう。しっかし、長々と書いてみたが結局「男性は理想主義、女性は現実主義」みたいな一般論に落ち着くのであるなあ。
 僕は若いので、もちろん「愛」を求めるし、男性は、若くなくても「愛」を求め続ける傾向にあると思う。だけど女性はそういう悠長な生き方はしない(その原因には、女は賞味期限が短い、という、非常にばかばかしい誤解があるのだ)のであって、時がくれば平気で「必要」のない男を切り捨てるのである(矢部浩之の元彼女、ひとみちゃんを見よ)。「好きだけど、別れたほうがお互いのため」という言葉は、そういう時に使われるのだ。とほほ。全く悲しいことである。むろんね、そんなもん「人による」んだけど、そういうことを思いついて、考えて、それなりに理屈がついてしまうと、「ほんとにそうなんだろうなあ」と思って、へこむのである。「僕は、恋愛(愛)対象でもあり、結婚(必要)対象でもある男にならなければ!」などとも一瞬思うのだが、そんなことが簡単にできるようなら苦労はしないわけである。それで今日も不安一杯に眠るのである。

2008/08/24(日) 邪悪(笑)

 どうもしばkです。
 嘘を吐くのに疲れました。
 昨日、友人たちより、僕が「ある嗜好」を有しているのではないかとの嫌疑がかけられるという、きわめて邪悪な事件が発生いたしました。僕は、もちろん件の嗜好などは持たないのであって、あからさまに潔白なのですけれども、「否定しておきながら、本当はその嗜好があるのではと疑われても仕方ないような言動をする」ことによって、その場が盛り上がるので、僕としても楽だから、ついついそのような態度を取ってしまい、さらに誤解を深めていくという悪循環を自ら作り出し、泥沼にはまってしまったことを、家に帰ってへこみがてら、反省しているのであります。これは冗談で言っているのでも、暗に「本当はそういう嗜好があるのを誤魔化そうとしているのだ」と言いたいわけでもなくて、本当に自分にはそのような特殊な嗜好はなく、いたってノーマルなのであって、そのように疑われるというのは、疑う側の、邪悪さの為すところであって、すなわち、僕を疑う人は、邪悪なのです。

そういうわけで、今日からこのページは私しばkが運営することになりました
( ´∀`)< ヨロシクナー
2008/08/23(土) ⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

 ↑の注意書きにあるように、このページに書かれているのは「作品」であり、すべてフィクションです。だから、昨日の日記を読んで「オフ会行ってきたの?」などと現実世界において僕に尋ねるという愚を誰も犯してはならない。
 そもそも、僕は昔から現実とインターネットをできるだけ分けておきたいのである。昔はインターネット自体が一般的でなかったので、インターネットに関する話を現実ですることは憚られていたし、逆にインターネット上では、現実で接点のある友人などいないのが普通だったから、現実の具体的な話はほとんどしなかった。日記などでいくらかしたとしても、かなり抽象化(一般化)して、誰が読んでもある程度は面白くなるように心がけて書いた。してもわからないような話はしないのが普通だし、礼儀でもある。
 そういう状態に慣れていた僕には、今のように「現実でインターネットの話をして、インターネットで現実の話をするのが普通である」という状態には激しく違和感があるのである。インターネットでの発言を現実でたしなめられるとか、ホント御免なのよ。

 僕は今でも、自分がインターネットに書いたことは、「現実の人は誰一人として読んでない、知らない」という前提で話したいと思っている。「相手が自分の日記を読んでいる」という前提で話すのは傲慢な気がするし、「日記にも書いたけど」という言い方も、好きじゃない。不要だから。ついついしてしまうんだけど。

 そういうわけで、オフ会に行ってきたことはフィクションである。だから、それを「現実世界でも起きていたこと」と錯覚してはいけない。可能な限り、ネットと現実はそれぞれに閉じさせていたいのである。mixiのように現実の付き合いを前提としているコミュニティ内であればその限りではないが、せめてワールドワイドな、フィクションと銘打ってあるエリアについては、聖域にしておきたいのである。
 このHPに書いてあることは、架空の「ジャッキーさん」という人物が体験したり、思ったりしたことが書かれているわけで、現実に生きている「ジャッキーさん」とは違うのである。なので、ここに書かれている内容に関して何か思うことがあったら、現実のジャッキーさんに言うのではなく、掲示板とか、メールフォームから架空のジャッキーさんに向けて発信してほしいのです(なんつうか、ハンドルネームとあだ名が同じっていうのがまずいのかもな。管理権をしばkに委譲しようかな)。
 それで、このサイトの内容について現実で口にするのは、できるだけよしてほしいのです。まあ、できるだけ。
 できるだけっていうのは、状況次第ってことで、そういう話をすべき時、したほうがわかりやすい時っていうのはあって、そういうところが非常に難しい。たとえば、これまでネットでしか接点のなかった人と話す時には、インターネットの話をしなければ始まらないし、オタクについての話を僕としていたら、昨日の日記の話題を「君はこう言っていたけど」というふうに持ち出してくることは自然だと思う。
 都合良い話だろうか? 僕がワガママなだけなんだろうか? そうかもしらんけど。とにかくこのHPに書いてあることはすべてフィクションなのである。正直に言うと、実話をもとにしたこともかなり多いのだが、本当に嘘しか書いていない日もある。嘘を本当と思いこんでしまうよりも、すべて嘘だと思っていたほうが誤解がなくて良いのであるよ。そうやって予防線を張っておかないと、今のご時世、何も書けなくなってしまうのよ。すぐに炎上したり、現実で問題になったりするんだから。

 昨日一人で調布の花火大会行って屋台でホットケーキ買って食べました。おいしかったです。

2008/08/22(金) 

 ↓で偉そうなこと言ってましたがぼんやりしてて全く更新できませんでした。死にたいです。

 余所で書いた文章を改正して載せます。


 昔、オタクは迫害されていた
 今だって差別されているといえば差別されているが
 一昔前に比べたらなんと市民権を得ていることか。

 迫害されていたが故に、オタクは知識を蓄え、オタク的教養で武装した。
 オタクとは、馬鹿にされ、迫害される身の上なのだから、せめてその道を徹底的に究めていなければいけないという恐怖というか、強迫観念を持っていたのである。「俺はオタクだけど、オタクであることにかけては誰にも負けないぜ」という矜恃が、彼らの精神的な支柱となっていたのである。そうでなければ、彼らには何も誇れるものがなかったのである。

 オタク的教養だけでなく、一般的な教養をも身につけようとするオタクもいた。「俺はオタクだけど、オタク的教養は誰にも負けないし、一般教養だってあんたたちなんかよりずっとあるぜ。俺は歴史を知っているし、科学も文学も哲学も知っているし、正しい作法すら知っている。それでもお前らは俺を馬鹿にできるのか?」ってなわけだ。オタクが胸を張って生きていくためには、知識や教養による武装は不可欠だったわけであって、それゆえにオタクとは、「得体がしれなくて気持ち悪いけど、好きなものにかける情熱や知識はものすごい」という存在だったのである。「教室の隅のほうにいるのだが、孤高にして独特の存在感を持っており、使用言語にはどことなく格式がある」というようなもんだったわけである。ひるがえって今のオタクは、どうか。

 彼らは知識も教養も持とうとしない。どんな情報だってインターネットですぐに手に入ってしまうということもあって、「誰よりも深く知っている」ということが価値を持たなくなった。オタクの条件は、「そういうものが好きである」ということだけであって、「そういうものを誰よりも深く知っている」ということではなくなった。オタクへの風当たりが弱まったがゆえに、「誰よりも深く知っている」という武器を持たなくても、馬鹿にされることがないからである。
 かつてオタクは、たとえば漫画が好きであれば、少なくとも手塚以降の漫画史の流れを体系的に把握し、有名作家の代表作くらいは一通り読んでいたはずである。それが漫画オタクの最低限の教養であって、それを持っていない者はオタク仲間から馬鹿にされたであろうし、本人も「オタクである」ということに自信を持てなかったであろう。周りの人も、「あの人は漫画が好きらしいけど、特に詳しいというわけではないらしいから、ちょっとおかしな普通の人であろう(とりあえず関わり合いにはなりたくないな)」と判断するに違いない。「好きだけど、特に詳しくもない」という状態では、オタクでも一般人でもない、宙ぶらりんな存在になってしまうのである。
 漫画なんて何十年も前から、非オタクの大人でも読む人はたくさんいたのであるから、「読んでいる」「好きだ」というだけで「オタク」にはならないのである。それは「ちょっと変わった趣味の大人」であって、非常に宙ぶらりんであり、ともすれば一般人から差別もされるし、かといってオタク集団にも加われない。
 漫画オタクであるためには、ドカベンが好きなだけではダメなのである。あらゆる野球漫画を読んでおり、それらとドカベンとの違いを説明できて、その上でドカベンは素晴らしいと主張できる人間でなければ、オタクではなかったのである。

 しかし今、オタクとは完全に記号化している。ファッション化している。女の子でジャンプを毎週買っていればオタクだと言われてしまうし、男の子で電撃大王を買っていればそれだけでオタクである。昔だってそうだった、と言われるかもしれないが、かつては「何を」の他に、「どのくらい深く」とか「どのくらい広く」とかいう基準もあった。今はオタクである基準というのが、「何を」と「どこで」くらいしかないのである。
 たとえばコンビニや一般書店で漫画を買ってもおそらくオタクとは言われないが、秋葉原のお店に行って買うと、同じ漫画を買ったのだとしてもオタクだと言われるかもしれない。ほとんどファッションと同じである。近所のブティックで買うか、原宿に行って買うかでなんとなくオシャレ度が違う気がするでしょう? するんです。

 現代のオタクは、秋葉原に行って、萌え系の漫画を買って、家に帰ってニコニコ動画を見ていれば、オタクになれるのである。決して何かに詳しかったりする必要はない。何か好きなアニメやマンガやゲームを適当に見つけて、「好きである」と公言すれば、その人はその時からオタクである。楽なもんである。

 オタクはもう、教養がなくても馬鹿にされないのだが、その代わり「よくわかんないけどなんかすごい」と一目置かれることもなくなった。馬鹿にされないのだから、誇りを持つ必要がなくなって、それが故に、誇りが持てなくなった。誇りを持たず、必死にもならず、ただ時間と金を消費する。
 アフタヌーンKC、篠房六郎『百舌谷さん逆上する』第一巻のおまけマンガ(『げんしけん』第九巻特装版にも収録)をぜひ読んでほしい。篠房世代のオタクと、げんしけん世代のオタクとの感性の乖離が切なく描かれている。篠房氏が母校の漫研を訪ねてジェネレーション?ギャップに苦しむのである。「オタクって言うといじめられるんですか!? マジすかそんな」「ええ!? いじめらんないの!?」をはじめとして、極めつけはコレ。


 篠房「自分の好きなものなんでしょ? いろいろ調べて誰よりも詳しくなろうとするじゃない アタシも昔は好きなもんを見るためにレンタルビデオ屋とか古本屋とかでっかい本屋とか単館上映の映画館とかかけずり回ったりなんかして」  後輩たち「…………」
 篠房「あれ 何なのこの空気」
 後輩「あの 僕達 今忙しくてそんなのいろいろ見てるヒマとかないんですけど 篠房さんは何でそんなに 必死なカンジ ――――だったんですか」


 これだぜ? 切なすぎて僕は泣いた。昔は確実に自分がオタクであるなんて言えない空気だったのである。僕の世代ですらまだそうだった。オタクであるということを知られた場合、それこそ「誰よりも深く知っている」という自信がなければ、周囲からの差別的・侮蔑的な眼差しに押し潰されて発狂してしまうようなものだったのである。「俺は誰よりも深く、そして広く知っている。語ることもできる。だから俺は特別なんだ! 差別されたり侮蔑されたりするような人間じゃないんだ!」という心の叫びが、わら一筋の自負だったのであることよ!

 げんしけん世代のオタクにとってアニメやマンガは単に消費する対象であり、暇つぶしや性欲処理の道具でしかないらしい。必死に情熱をつぎ込んで、各話の作画監督の名前と特徴を覚えて、セル画を見ただけで作画監督の名前と話数とを言えるようになる必要はないのである。『絶対無敵ライジンオー』に関しては、中学時代の僕には、ほぼ完璧にこれができたと思う。放映時は小学一年生だったが。

 あえて言うぞ。今のオタクどもは、軟弱である。お遊びである。まことに下らない。もちろん、硬派なオタクというか、びっくりするくらいの知識と情熱と教養を持ったオタクもたくさんいるのだが、秋葉原やニコニコ動画にいる有象無象のほとんどは、びっくりするくらいアニメやマンガについて何も知らないのである。何も知らなくても、問題ないと思っているのである。ひぐらしが好きだったらひぐらしを好きと言う。それだけでオタクの条件を満たしていると思っているし、事実、たぶん満たしているのである。で、自分で「僕オタクなんすよ」とかぬかすのである。

 エヴァとハルヒくらいしかアニメを観てなくて、エロゲを何本かやった程度の人間がオタクとかぬかすな!(実際にいるんだよこういうやつが山ほど)と僕のような旧型は思うのだが、世の中はどうやら、それでオタクの証明書を渡してしまうらしいのである。エヴァが好きならオタク、ということになっているようである。サザエさんが好き、と言っても、基本的にはオタクとは言われないと思うのだが、どういうわけか、エヴァが好き、と宣言するだけで、オタクとして認められるらしいのだ。

 オタクがオタクたるためには、「オタクっぽいもの」に対して「好きだ」と宣言すれば良い。かつて、ラムちゃんが好きだと宣言していた人間が全員オタクと言われていたかというと、そうではない。明石家さんまだってラムちゃんが好きだと豪語していた(オタクという言葉が一般化した後にも言っていた)が、彼がオタクだと呼ばれたと時代は一度もなかろう。カラオケでラムのラブソングを歌う女がみんなオタクかといえばそうではない。自分のことをカワイイと思っている女はたいていラムのラブソングを歌うものである(偏見)。本当のオタク女子はわぴこ元気予報をアニメ声で歌うのだ。

 「めちゃくちゃ好きで、詳しい」場合でなくても、「好きと宣言する」だけでオタクになれてしまい、しかもオタクであっても迫害されることはない。だからオタクとしても、特に必死に知識を蓄えて「めちゃくちゃ好きで、詳しい」という状態を目指す必要もない。今はインターネットがあるので、「情報」についてはそこでほぼ全て補完できるし、それどころか、インターネット上にない情報は、基本的に「補完する必要のない情報」なのである。オタクたちは2ちゃんねるやニコニコ動画をはじめとするインターネット上の情報だけを等しく均しく共有し、そこから外れた情報や知識は不要のもの、自分たちとは関係のないものとして排除する。
 今のオタクたちは、「他人とは違う」オタクになろうとする傾向はあまりないようだし、また「他人とは違う」オタクには価値がないらしい。インターネット上にない情報は存在しないのだから、そんなものを知っていても意味はないし、主流が「キャラ萌え」である以上、作品論とか作家論とかそういうものともほとんど無縁である。

 オタクは、オタクであることに誇りを持つ必要はないし、また、持つことも困難になってきた。
 オタクであることに誇りを持てないオタクたちは、じゃあ何に誇りを持って自分の心の支えにしているのかというと、たいていの場合、特に何もないわけである。自分を表してくれるただ一つの言葉が「オタク」であって、それすらも「特に詳しい訳じゃない」のである。だから現代のオタクは、せめて自分がオタクであると宣言したがる。特に何も秀でるもののないやつは、オタクという称号を自らに付与することで、どうにか自分が何者かであるという安心を得るのである。そのために、とらのあなやコミケに行って、金を使うのである。
 なぜ彼らはあんなにも同人誌を買うのだろう? 同人誌を買う前に、もっと買うべきものがあるはずなのに(DVDとかムックとか)。同人誌の世界にどっぷりつかった「同人誌オタク」というのなら話はわかるが、そうでない人が、快楽天を買ったほうが安上がりであるというのに、なぜエロ同人を買うのか。好きなアニメキャラで抜きたいから、というのも大きな理由だが、それだけではない。同人誌を買うことがオタクとしてのステイタスだからである。さらに言うと、そういうイメージを『げんしけん』などが宣伝してしまったからである。秋葉やコミケに行って同人誌を買って、アニメキャラのエロ同人でオナニーすることが、オタクであるということをより確固として保証してくれる儀式なのである。

 などと勝手なことを書いていると、同人誌が好きな人から文句が来そうだが、続ける。同人誌を買っている自称オタクのほとんどは、本当は同人誌なんか要らないのである。ただ宙ぶらりんな自分にオタクの称号を与えたいがために同人誌を買うのである。本当はそれ以上の理由などないのである。
 そもそもだ、エロ同人を買うっていうことは、オタク的なものを単なる性欲のはけ口としてしか考えていないっていうことだ。作品としてどうとか、そういうことはまったく二の次なわけである。「性欲を満足させたい」と「オタクを名乗りたい」という二つの欲求以外には、同人誌を買う理由はないのである。

 こうしてオタクは、自らをオタクたらしめるためにガンガン金を使う。それでオタク産業が盛り上がる。非常によろしいことである。が、金が続くうちはよくても、そのうちに尽きてくる。あるいは、むなしさを感じてくる。オタクになるための装備を買い集め、「好きである」と宣言することによってオタクになった彼らは、その行為をやめたり、疑問を持ってしまった途端、自分が何者なのかわからなくなってしまう。それでどんどん鬱屈してくる。引きこもる。人を刺す。アムウェイを始める。

 オタクっていうのは、野球部やラグビー部やサッカー部の次くらいに、潜在的には犯罪者予備軍なのかもしれない。かつてはそうでもなかったのだが、オタクの分母が増え、上記のような理由で宙ぶらりんのまま鬱屈してしまうと、もしかしたらそういうことも目立ってくるかもしれない。幸い、今のところオタクにはレイプする度胸も腕力もない場合が多いし、同じ理由で殺人なども起こりにくい気がするが、自分に特に何もできることがなく、自分を表す言葉が何もないという「若者ならば当たり前」の状態に陥った時に、安易に「オタクになる」ことに逃げてしまった人間は、結局何もできないまま、オタクであるということすら中途半端なまま生きていくことになる。「オタクという称号を死守する」ことのほかに、自分ができることとかやりたいことを探そうとしないから、引きこもったり、ニートになったりしやすい。あえて言うが間違いない。

 「オタク」ということに誇りを持つために、(篠房先生のように)必死になった経験があれば、それを活かして何か仕事をすることもできるかもしれないが、そういうわけでもなく、ただ漫然とニコニコ動画を見て、世間のオタクとの最低限の共通了解だけを得て「よし、ニコニコ動画で流行っているものを全部押さえたから俺はオタクだ」などと胸をなで下ろしているようでは、どうしようもない。で、2ちゃんねるで悪態ばっかついてるんだったら、死んだほうがマシだ。

 うーん、いったい僕は何に怒りをぶつけているのだろう。自称オタクどもがカラオケで入れる歌のラインナップか。とらのあなにいる奴らの顔やしゃべり方か。
 実は先日、あまりにも暇だったので2chの腐女子&オタクカラオケオフに行ったのだが、奴らの歌う曲のほとんどがニコニコ動画で流行った曲だった。あとはせいぜい、JAMプロジェクトとか、エロゲの曲とかで、僕が『覚悟完了!』とか『勇気があれば』とか『スターダスト・ボーイズ』とか歌っても、一つも響かないのであった。二十代の「自称オタク」が五人もいて、80~90年代アニメの名曲をまったく知らないのである。正直言って絶望した!
 一度だけ、サイバーフォーミュラーの主題歌を入れた人がいて僕としては多少盛り上がったが、その他の人は知らないのであった。
 こういう状況を目の当たりにすると、上記のような鬱陶しい日記を書かざるを得ないのであるよ。二十代前半~後半の人なら、YAIBAの曲で盛り上がれる人が一人や二人はいるだろうと、僕としては「鉄板」だと思って『勇気があれば』を歌ったのであるが、盛り上がらないどころか、一人も「知らない」のである。JAMプロジェクトは歌うくせに、影山ヒロノブのアニメデビュー曲である『スターダスト・ボーイズ』は知らないのである。僕は、『疾風ザブングル』とか『炎のさだめ』とかを歌おうかと思ったけど、どうせ知らないだろうと思って、やめた。プリキュアとか歌ったけどキャラソンやイメージソングまでついてきてくれる人はいなかったし、まなびストレート!に至っては全員がタイトルすら知らなかった。もう、完全敗北であった。
 ちなみに『哀戦士』を歌っていたやつは『シャアが来る』を知らなかったし、「オタクカラオケ」つってんのに、『リライト』(アジカン)とか、『Tactics』(イエモン)とか歌うやつは、なんなの? それらは確かにアニメのOPやED曲として使われたかもしれないが、決してアニソンではないと僕は思うぞ? オタク的な要素はほぼ皆無だぞ? ああ、もう。ああああ。
2008/08/08(金)~2008/08/12(火) 一次帰省

 とりあえず帰省の予定。
 向こうで更新するかどうかはわからないが、できるだけがんばる。
 実家のFFFTPにデータが残ってたらやるかな。
 でもたぶん、はてなのほうに一時的に何か書くと思います。
 ↑の「diary」。よろしく。

 今日は暑いので家のエアコンを19℃にしちゃいました><
 エアコンのない生活ってもう考えられません!

2008/08/07(木) エアコンきちがい

 生まれてこの方、エアコンのない生活を続けている。五年住んでいるこのアパートにはエアコンがない。実家にはエアコンがあるにはあったが年に数回つけるかつけないかという程度で、しかもリビングにしかなかったので、生活の大半を自室で過ごしていた思春期までの僕にはほとんど無縁のものであった。たまにエアコンがついていると「どうしたの?」と両親に尋ねたくらいにそれは異例の出来事であって、よっぽど暑いか、来客があった時のみ使われた。エアコンがついていると、「夏なのに寒い! ふしぎ!」とイベントのようにはしゃいでいたものだ。
 ちなみに僕が十八まで生まれ育ったのは名古屋市という、東京よりも何℃か気温が高く、湿気も多くてじめじめした土地であった。試しにYahoo!天気で調べてみると、今週の東京の予想最高気温は30~33℃であるのに対し、名古屋は35~36℃となっていて、びっくりした。しかも、表示されている6日間のうち、5日が36℃の予想だった。お天気はほとんど変わらないのに、である。これに湿気がプラスされるから、夜などはとても寝られたものではない。
 名古屋で自室に扇風機がなかった時は、ほとんど数時間寝つかれないということがよくあった。東京ではむしろ、裸で寝ていると朝方には風邪を引いているような具合だから寝る時に扇風機はほとんどつけないし、寝つかれないということもまったくない。むしろ休日の昼間などは、起きているより寝ているほうが暑さをやり過ごせるというほどである。なんとなれば湿気がないからであろう。じめじめとして気持ち悪い、あの熱帯夜をもう五年以上経験していないので、名古屋で暑さにあえいでいた頃を思いだすと何か悪い夢でも見ていたかのように感じられる。
 都会にしてもそうで、名古屋の栄という繁華街に行くと夏場は局地的に40℃くらいまで上がる(よくニュースでやっていた)。名古屋人の派手好きな性格から、ろくに考えもせずにガラス張りなど光の反射させやすい建物を多く作ったからであろうか、広大な地下都市を冷やすための反動なのだろうかよくわからないが、それに引き替えると僕は新宿をとりわけ暑いと思ったことはない。
 別にネガティブなお国自慢をしたいというわけではなくて、「東京はそれほど暑くない」ということが言いたいのである。もっとも、雪国で育った人や東京にずっと住んでいる人にとっては、東京以上の暑さを知らないから「東京は暑い」と思うのかもしれない。長野県に行くと、名古屋人が蒲団を頭までかぶらないと眠れないくらい寒く感じる夜も、地元の人間はすっぱだか同然の恰好でないと眠れない。逆に長野人が夏に名古屋へ来ると、あまりの暑さに音を上げて予定よりも早めに切り上げて帰ってしまったりする。実際、うちのじいちゃんは名古屋にやってきた次の日に「暑い」と言ってとんぼ帰りしてしまったことがある。本当は3~4日滞在するはずだったのに。
 そういう事情があるので、「名古屋や京都はもっと暑いのだから、東京で暑いとか言うのはおかしい」とまでは言えない。とはいえ同じ人間なのだから、東京程度の暑さは辛抱できるはずであるし、してほしいものだ。
 長野人は長野県の気候に身体が慣れていて、名古屋人は名古屋市の気候に身体が慣れている。これは、一度そこで生まれ育ってしまったら変えられない体質なのだろうか。必ずしもそうではないのではないか。夏も中盤になると身体が暑さに慣れてくるように、その土地に何年か住めば身体がその土地の気候に慣れていくはずである。実際、うちの母親は高校まで長野県に住んでいたが、真夏にエアコンつけなくても文句一つ言わない。彼女の青春時代には部屋にエアコンなどなかったであろうが、今はあるのに、つけないのである。
 ところが、もしも彼女、つまり僕のお母さんが現代に青春を送っていて、自室はもちろんどこに行ってもエアコンがガンガンに効いているような生活をしていたとして、果たして名古屋の気候に身体を慣らすことができたであろうか。僕はこの点において、若干疑問があるのである。もちろん常にエアコンが効いた場所にいるわけではない(東京ではほとんどそういう生活もしている人も多いのだが)から、じわじわと名古屋の気候に慣れるということも考えられるが、しかし家でも職場でも移動中でも買い物の最中でもエアコンが効いている生活をしていたら、身体は混乱して、慣れるということはないのではなかろうか。「エアコンは身体に悪い」というのは、そういう意味なんじゃないか。
 不規則な生活をしていたら体内時計が狂っていくように、不規則な気温の中で、いや、むしろエアコンの作り出す奇妙に規則的な気温の中で暮らしていたら、気候に対する身体の適応能力は衰え、エアコンなしでは生きられない身体になってしまうのではなかろうか。精神面の話をすると、一度エアコンの涼しさに慣れてしまったら、なかなかそれのない生活に戻ることはできないというのもある。便利さによって人は怠惰になるのだ。身体も、心も。

 東京はそれほど暑くないのに、それでもこの土地において「エアコンなしには生きられない」人間が大繁殖しているのは、気合いが足らんのはもちろんのこと、エアコンに慣れすぎたために身体の能力が衰えてしまったからではないかと思う。あとは、涼しくなる工夫を忘れてしまったからでもある。つまり、身体が弱くなったのと、頭が弱くなったのである。
 エアコンは身体の機能も、頭の働きも停止させてしまうわけだ。便利さが思考停止をもたらすという好例であるよ。
 岡林信康が昔、人間の能力っていうのは本当はもっと凄いのに、便利さに頼っているうちにその能力を失い、忘れてしまうのだと言っていた。小沢健二さんも似たようなことを言っている。
 また母親の話になるが、僕のお母さんはよく、「岡林信康は、人間には自浄作用があるからと言って、セッケンで身体を洗わないんだよ。セッケンで身体を洗っていると、人間の持っている、身体をキレイにさせようという能力がなくなっていくんだってさ」と言っていた。そうはいえども、お母さんも僕もいちおうセッケンで身体を洗っていたのであるが、しかし身につまされる話ではある。そうやって失ってしまっている能力が本当はいっぱいあるんじゃなかろうか。で、今はさしあたって、エアコンである。
 人間が環境に適応しようとする能力は確実にエアコンによって奪われてしまうだろうと僕は信じる。それは身体的な側面もそうだし、「涼しくする工夫」をしなくなるという面でもそうである。さらに室外機から出る熱風やエアコンの製造および使用による資源とエネルギーの浪費によって気温が上がっていくのであれば、なんという悪循環であろうか。

 パソコンを使っている身としてもう一つ問題になってくるのが、「パソコンは暑さに弱い」とされている点である。橋本治がこのことについて『このストレスな社会!』の中で書いているのだが、彼はそもそもパソコンを使わない。ワープロもほとんど使わず、執筆は二十一世紀に入ってから完全に手書きのみにしたそうだ。橋本治は、面倒くさいのを我慢して「手でやんなさい」を実践できてしまう、「便利さ」や「情報」を全く価値としない人間なのだが、僕はさすがに、その境地には達せない。
 僕はけっこうパソコンを使うのであるが、夏場はさすがに、昼間はあんまり使わないことにしている。午前中とか夜とかの涼しい時間に使って、パソコンを冷やす必要があると感じたら扇風機を当てる。自分は、日中を除けば扇風機がなくても困ることはない。日中は自分に扇風機を当てて、涼しい時間帯はパソコンに当てる。相当エネルギーを使う作業をさせているのでなければ、扇風機をちょっとあてておくだけで冷却の用は足るのだから、これでいい。それに扇風機を回しておけば空気が循環するので、自分に直接風が来なくても充分涼しくなるのだ。

 だから、自宅にいるぶんには、東京でエアコンを使う必要というのは、ほぼない。どうしても夏場日中に自宅でパソコンを使って長時間仕事をしなくてはならないという職業についている人はほとんどいないので、東京の普通の家において、エアコンを使う必要というのは、皆無と言っていい。僕はそう断言する。だから、僕は東京で日常的にエアコンを使っている人をただそれだけで軽蔑するのである。エアコンは、来客時とかにイベント的に使うのならまだわかるが、日常的に使う必要はないし、むしろ大局的にみれば使わないほうがいいかもしれない。年に数回使う程度であれば、最新式の省エネ機を買う必要はなくて、10年前の型で充分だ。
 お店とかオフィスとかではまた事情がちょっと違って、僕も考えがよくまとまっていない。むしろ、図書館とか公民館とか喫茶店なんかが冷房入れていたらどうしようもなく暑い時の避難所になるので、地域の活性化や経済面にもプラスがあるかもしれない。ので今回はその点について糾弾も擁護もしないのだが、少なくとも一般の家庭において日常的にエアコンを使用するというのは、ほとんど狂気である。

2008/08/06(水) 告解

 ひょんなことから口論になり、ついカッとなって
 持っていた安全ピンで心臓をグサリ!
 「あ、あなた…どうして…ぐふっ」
 僕は血まみれの安全ピンを手に立ちつくしていました。
 足下には血まみれの彼女の亡骸が転がっています。
 ところで太ももが蚊に刺されまくってかゆいです。
 いつもは我慢できるのに、なぜか今回はできません。
 かいかいします。
 どうやら蚊じゃないような気がします。
 ブヨか何かでしょうか。
 それはともかくどうしましょう。
 世の中は優しくないし
 僕は世の中と気が合わないので
 怖いです。
 ところでA教に入信しました。
 ワッペンもらいました。
 歓迎のキャンプファイヤーをしてもらいました。
 泣きました。
 おねしょしました。
 そして彼女に振られました。
 「無宗教なあなたが好きだったの。さよなら」
 晴れて自由の身です。
 そういうわけで恋人を募集します。
 求む、A教信者女子。

2008/08/05(火) ある宗教のパンフレットに

 恋人が載っていました。
 四六時中そのことばかり考えています。
 三日三晩考えて悟りました。
 主義主張などというものは下らないと。
 彼女がその教団に寄せる想いも下らなければ
 僕がその教団に何の想いも寄せないということも非常に下らない。
 彼女を愛しているならば思い切って電話しておたくの宗教に入れてくれと懇願すべきではなかろうか、だって主義主張などというものは下らないのだから。

 それで僕は彼女に言った。
 「あのさあ、僕、君のあの宗教に、僕も入ることにしたよ。詳しいことを教えて」
 「えっ、それはA教のことかしら」
 「そう、A教だ」
 「あたし、もう飽きちゃってA教」
 「なんだって」
 「今はB教のとりこなのよ。教祖Bさまったら、かっこよくて」
 「だって君は以前、教祖Aさまのことを誰よりもと」
 「以前は以前、今は今よ」

 「うわああああああああああああ」
 がばっ。僕は跳ね起きた。はぁはぁ。夢か。
 僕は寂しくて切なくて苦しくて彼女に電話をかけた。
 「なあにこんな夜更けに」
 「君、君はA教の信者だよね」
 「そうよ。何を言っているの。当たり前じゃないの」
 「よかった」
 「教祖Aさまのことを誰よりも愛しているの」
 「だ、誰よりもかい」
 「そうよ」
 「僕よりもかい」
 「ごめんなさい」
 「いや、いいんだ。それより、よかった」
 「アハハ。おかしなひと」
 「アハハ」
 「アハハ」

2008/08/04(月) 宗教

 A教に入信しようか迷っている。

2008/08/03(日) ブラジルに行きました

 緑でした。
 宇宙のような
 地球でした。
 ひし形でした。

 恋人がよくわからない宗教にはまってしまったとき
 どうしたらいいでしょう。
 あるいはよくわからない宗教にはまっているひとを
 好きになってしまったらどうしたらよいのでしょうね。

 僕は
 持っている宗教をできるだけ捨てて
 身軽になって
 その人をおぶって
 にっこり笑います。

 ちっとも重くなんかないよ
 という顔をして
 汗をにじませて
 ゆったりと歩き
 そしてよく笑います。

 その人が許すなら
 反対に
 僕をおぶってもらいます。
 その時にその人はきっと何かに気がつくはずです。
 気づかないようなら
 背中からおろしてもらって
 ごめんねと言います。
 本当にごめんねと言って
 たぶん泣きます。

 そういうことしかできません。

2008/08/02(土) 桃を食べました

 いっぱい、いっぱいたべました。
 ジューシーでした。
 空を飛びました。

2008/08/01(金) あん時言ったろ

 起きたらなんか7時だったけどアナログだったので本気で朝か夜かわからなかった。二段ベッドと押入を足したような本棚の中にずらりと並んだ漫画を女の子と二人で探していた。
 全、体、的、に、大好き、です。
 全、体、的、に、大好き、です。
 全、体、的、に、大好き、です。
 全、体、的、に、大好き、です。
 ここが俺のセクシャル。
 全体的に大好き。です。

 インターネット等について、さらに。
 先日、梅田望夫さん、斎藤孝さんとお酒を飲んだ。
 と、いう言い方は適切ではない。
 のに、こういう、まったく適切ではない言い方をする人が非常に多くて、そのせいで現実は歪まされていく。
 他には誰もいなかったのか?
 ということである。
 いたのである。
 あと4人いて、ほとんど全員、公人みたいなもんだから、ほとんど全員、名前を明かしても構わないのかもしれないのだが、おそらく大抵の人は、遠慮してなのか、あるいは、「有名ではないから」なのか、梅田・斎藤両氏の名前は出しても、その他の人の名前は出さない。
 ゆるやかな差別である。
 それは有名人に対する差別でもあり、非有名人に対する差別でもある。

 有名人だからというだけの理由で、プライベートを明かされる。これは巷では「有名税」とか呼ばれているらしいが、そんな税、なければないほうがいいのである。もちろん、その支払いを気にしない有名人もいるだろうし、有名税こそが快感、有名であることの醍醐味、とさえ思っている人もいるだろうから、僕のような非有名人がどうこう言えることではない。しかし、あらゆる場合において「有名税」という言葉で片付けてしまうのには疑問を感じる。
 インターネットの発達した現代では、ちょっとマイナーなテレビに出ているだけの、一般の人は顔も名前もまず知らない、素人同然の女の子にも、多少かわいければ2ちゃんねるにスレが立ち、写真、プロフィール、プライベートまでを暴露され、「すげえブス」「性格悪い」「昨日こいつで抜いた」などと好き勝手言われる。モラルのない有名税の請求は、このように醜い。
 筒井康隆の『美藝公』では、ちなみに、映画産業立国日本における、「モラルのある有名税の在り方」が描かれている。そしてまた、経済立国日本における、「モラルのない有名税の在り方」というものも語られている。ぜひご参考に。(というか、中央公論社にゆかりのある人は、文庫部に行って、この名作の復刊を訴えてほしい!)
 有名人への差別というのは、『美藝公』で語られているものがそのまま当てはまると思うので、あとは略。

 では非有名人への差別とは。
 他にも人がいたのに、まるでその場にはほかに誰もいなかったかのように、「~~さんと会った」という言い方をするのは、おそらく、ごく一般的な書き方だろう。が、しかし、そのような書き方について敏感に反応し、書いた本人の面前で激しく糾弾した著名な人物を僕は知っている。「あのときは○○さんもいたのに、××(書いた人)さんの頭の中には、○○さんの存在は吹き飛んでいる」と。それを聞いて初めて僕も、この問題に気づいたのであった。
 その、問題となった文章は、とある団体の機関誌に発表されたもので、その文章を書いた××さんも、そこに書かれなかった○○さんも、同じその団体に所属する人であった。糾弾した著名な人物は、団体のイベントにゲストとして招かれた、外部の人である。△△さんとでもしておく。△△さんは、著名な人物とはいえ、最近はおそらく意図的にメディアに露出することを避けているので、多額の有名税を支払う義務もまぁなかろうと、僕なんかは思う。

 まず、その文章では、△△さんの名前を出す必要は全くなかった。文章の主旨からして、「△△さんとどこどこに行った」という意味のことを書く必要はまったくない。ただ、多少××さんをフォローしておくと、それは××さんの喋ったことを文字起こしした箇所であって、彼の直接の筆によるものではない筆で書いたのと、口で言ったのとでは、全然違うし、編集側が気を遣えなかったということでもある。
 さて。なぜ××さんは、必要もないのに、△△さんの名前を出したのか。○○さんは件の団体に所属する人物で、そこで喋った内容はその機関誌に載るのだから、むしろ○○さんの名前を出したほうが自然ではないのか。
 おそらく、「有名な人と一緒にいた」ということをアピールすると、気持ちが良いからである。自分はぜんぜんすごくないのに、有名な、すごい人と一緒にいたことを口にすると、なんだか自分まですごい気になってくるのである。「オレ、(とても有名な人)と知り合いなんだよ~」とか「オレ、(とても有名な人)と会ったことあるぜ~」とか、やたら言いたがるやつが多いのは、そういうからくりである。誰しも、経験があると思う。
 そういう心理は仕方ないのかもしれない。悪く言うのはやめよう。しかし、そのせいで、○○さんは削られてしまうのである。△△さんのインパクトを強めるために、○○さんはノイズとして処理され、「見えないくん」「いなかったくん」にされてしまうのである。
 べつに、○○さんとしては、それで納得するだろうし、むしろ名前を出されたら、怒る人だっているかもしれない。「おれは一般人なんだぞ! なんで名前を出すんだ!」と(これもどうかと思うが)。ただ、有名な人は必要もないのに名前を出されて、有名でない人は必要があっても名前を出されない。名前どころか、存在していた事実すら消されてしまう。そしてそのことに対して、ほとんどの人は疑問を持っていない。

 たとえば上記の飲み会について参加者がインターネット等に何か文章を書くとすれば、ひょっとしたら僕を含めた数名が、「いなかった」かのように書かれてしまうかもしれない。べつにそれでもいいのだが、そういう些細な事実の書き換えが、実は大小さまざまな問題を生んでいるのではないかと。
 「okadaicと朝までBUCK-TICKの話をした」ということを書いた時に、その場にほかに人がいたということを書くか書かないかでは、起こりうるトラブルの質がまったく異なるわけである。二人きりで高級フランス料理店でオードブルをつつきながら「ねえねえ 君って何てチャーミング ねえねえ 君って何てキュート! 大 大好きさ 大好きなんだ 大 大好きさ 大嫌い!」とか言っていたかもしれんのであるから。それで「無銘喫茶で」という付け足しが必要になってくるわけだし、「無銘喫茶がどういうところか説明すれば」という但し書きもあったほうがいい。

 30日、おおひなたごう先生が主催するギャグ漫画家大喜利イベントに行ってきたわけであるが、その際にごう先生と少しだけお話しして、100sのTシャツにサインを頂いた。家宝である。この事実を、こうも言える。
 「昨日、おおひなたごうと会った」
 事実ではないとまでは言わないが、かなり歪んでいる。
 さらに、僕はイベントで酒を飲んでいたので、
 「昨日、おおひなたごうと会った。酒を飲んだ」
 とも言えるわけである。

 ものを書くっていうのは、真実を伝えることがひたすらに難しい。真実を伝えないだけならまだしも、真実でないことまで伝えてしまいかねない。つまり、喧嘩をしたり自殺をしたり、騒動が起きるんだね。だから軽率にものを書くってのは、あまりよくない。それで僕は、言い訳として、このサイトに書いてあることはすべてフィクション、ということにしてある(タイトルの横あたり参照)。そういうスタンスで、虚実織り交ぜて、時には100%の嘘を、書いている。そもそも、梅田望夫さんや斎藤孝さんに会ったなんて、嘘に決まってる。会う理由もないし、機会もないし、会いたくもないし(なんというひどい嘘!)

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