少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2008/07/31(木)2 価値

 現代詩文庫55 金井美恵子詩集
 これが畳の上に転がっているということの
 意味を
 知るものはいない

2008/07/31(木) 老醜態

 かわいいうちに成長を止めておくべきだった。
 刻一刻とその時は近づいているのだが、「その時」が来た頃には、「その時」は実はもっと遠くまで延びている。だから「その時」は、常に今から等しい距離にある。
 決断は早くとも遅くとも同じである。明日かと思ったらまた明日になるし、明後日かと思ったらまた明後日になる。それでまた明日を迎え明日に怯えるわけであって。

 『スーパーの女』を観ている。伊丹十三はすごいなあ。
 僕も金のオニギリをパクパク食べまくって死にたい。
 いま田嶋陽子さんがでてきた。
 精肉部。陰の使い方が凄すぎる。
 肉フェチ。

 スーパー。スーパー。

 かわいいうちに。ああ。
 スーパーだと!

2008/07/30(水) 美藝公

 筒井康隆の『美藝公』(参照)で言うところの、
 「わかちあたえよ、わかちあたえよ」という
 経済立国日本の法則が
 そのまんまインターネットにあてはまるんだよね。
 
 みんな欲張りすぎってのと
 世の中に秘密があってはいけない、
 自分は知らなくて、他の誰かが知っていることがあってはいけない、
 情報を、わかちあたえよ、わかちあたえよ、という
 餓鬼みてえな奴ら。

2008/07/29(火) ブログ死すべし

 昨日の続き。だからさ、「インターネット社会」っていうのはさ、「誰もが“手軽に”情報発信できる」のが理想なんじゃなくてさ、「情報を発信するための技術を誰もが“修得している”」ことを理想とすべきなんじゃないの? 「情報」なんつうわけのわからん科目を教育課程に組み込んだからには、そのくらいの気合いがなきゃ、いかんでしょ。簡単なプログラムとか、せめてhtmlくらいは全国民が打てるようになってこそ、インターネット社会と言えるんだと思うよ。
 今は、htmlでサイト作るなんつうよりも、ブログをやったほうが、検索にも引っかかりやすいし、サイト同士の繋がりも作りやすい。「相互リンク」などという煩雑な制度もなくなった。実際、このサイトを見に来るのは面倒だと思う。RSSもないし。
 しかし思うにね、簡単に作れる繋がりは簡単に切れるんだよね。そういう“手軽さ”がほしいわけ? 携帯のメモリ消したらその人との関係が断たれてしまうみたいな状況を、インターネット上でも作り出したいわけ?
 「インターネットで全世界と繋がれるぜキャッホー」とか言っている人たちは、その一方で、個々の人間がどんどんバラバラにされている状況をどう思うのか。手軽で無機質な繋がりで「つながった」気になってしまうことが、果たして良いことなのかどうか。つながりの糸の本数ばかりを増やしていくことが、そんなに好きか。

 「相互リンク」とか、「ネチケット」とかって煩わしいことに気をもんでいた時期の方が、ずっとインターネット上には自治性や自律性があった。個性もあった。ネットをやっている一人一人が、下の方からネット社会の在り方やルールを作っていこうとしていたように思う。今のように、金儲け団体がネット社会のルールまで主導する(ブログとかSNS)スタイルに変遷していったのは、人々が社会を作ろうとする動きが行き詰まったからなんだろうか。必ずしもそうとばかりは言えまい。便利で手軽な自己満足ツールが増えすぎて、インターネットについて何も考えない馬鹿なガキ共が大量に流入してきたからいかんのだと思うよ。あ、でもガキの次にタチが悪いのは30代くらいの人たちね。
 ブログのように規格(ルール)を統一したほうが効率が良いのだ、という意見もあるんだろうか。うーん、だったらいっそ全部はてなダイアリ方式にしてくれ。ブログサービスを提供している会社がすべて提携して同じ記法、同じルールを作ってくれ。ま、そしたら公開SNSみたくなっちゃうんだけどね。僕としては、そうやってブログ連中はSNSみたいに隔離して、Googleにも一切引っかからないようにしてほしいんだけど。

 「今は過渡期だから仕方ない」という言い方は、好かん。今が本当に「過渡期」で、最終的には良い結果をもたらすかどうかなんてわからんのだから、急がず焦らず少しずつ、人々のネットに対する理解や個人の技術が上がったところで「発言」を開放していったほうがいいに決まっている。アホでも同等の発言権を持つ今のインターネットの状況が良いとはまったく思わない。だからひろゆきの言う「無敵の人」が幅をきかすのだし、ブログはくだらんことで炎上するのだよ(燃える側も燃やす側もアホ)。

 他人の行動や言動を断りもなしにインターネット上で発表してしまうようなアホはROMっておれ。友達にまで「監視されている」と思って生きていなければならないのか。だとしたら、本音なんざ、言えませんなあ。どこにも。

 「僕の怒り」おわり  
2008/07/28(月) カルロス・雅ー史

 htmlも組めないような、インターネットに関して無知な輩が、インターネット上で発言するというのは、いかなるものか。
 僕は高校一年生の時、htmlを全く知らないままこのホームページを立ち上げて、好き勝手なことを書きまくった。インターネットについて何の考えも持っていなかったのに、書いてしまった。今考えると、なんという恐ろしい子どもだったのだろう。高校の時にこのホームページのことで何度も先生に呼び出されて怒られたが、当時は「何で怒られなきゃいけないんだ?」と、尖っていた。でも今ならその理由もわかる。
 今でも僕はhtmlすら、タグ一覧を見ながらおっつかっつ打っていく程度の能力しかない。ので、未だに無責任で適当で、ほとんど何の考えもないに等しい。

 え、インターネット上で発言することとhtmlを打てることって何か関係あるの? って思うかもしれない。まぁ、インターネットの技術を恐ろしく深く知っている人でも、無責任で適当で、ほとんど何の考えもないに等しい人だってたくさんいるだろうが、しかし、htmlというのは覚えるのも書くのも面倒くさいものなので、何か便利なソフトを使わない限りは軽率にものを書くことはできない。FTPなどを使ってアップロードする際も、通常はブログのようにワンクリック(確認含めてツークリック)で更新できるものではない。
 「面倒だ」ということはそれだけで歯止めになる。発言のためのプロセスが手軽であればあるほど、その発言に重みはなくなり、どんどん無責任になって、どんどん適当になって、どんどんものを考えなくなっていく。
 ブログやSNSの日記を書いている人で、文章の推敲を必ずするという人は何人くらいいるだろうか? 僕自身、mixiなどにどうでも良い文章を書く時は推敲なんてまずしない。でも、このサイトに書くときは、それがどんなに適当で意味のなさそうに見えるものであろうと、何度も何度も見直して推敲する。おかしなことに、書き直すのが面倒であればあるほど、なぜか推敲をしてしまうのである。
 それは単に、「僕に関しては」の、限定された話に過ぎないのかも知れないけど、ある程度真実を含んでいるような気はする。楽であればあるほど人は無責任で適当になって、面倒であることほど、どういうわけだか注意深くなる、場合が多いのではないかと、なんとなく思うわけであるよ。

 アパートを間借りするよりも、土地だけを借りてそこに自分で家を建てるほうが、面倒なのだが、ずっと達成感があって、愛着が湧いて、住居を大切にする気持ちも強くなるだろうと思う。しぜん、その土地(地元)のことにも関心が向きやすかったり、ご近所づきあいも多少はしてみようと思うのではないかな、と。

 「ブログ等が嫌いな理由を必死に探してみた」おわり

2008/07/27(日) 鐘がゴンと鳴りゃ烏が車

 また庭にアゲハが来ているなあ。机の位置を変えて、キッチンとの仕切りを取りはらい、これまで半分くらいまでしか開けていなかった縁側の窓を全開にしたら、風の通りがよくなると同時に庭への視界が断然開けた。
 七年半前のナインティナインのオールナイトニッポンのテープを発掘したので何気なく再生してみたらSOPHIAの『進化論』や、EE JUMPの宣伝が流れてきた。青天が朝の涼しさを押し込んで徐々に部屋へと侵入してくるのだが、あと一時間は大丈夫だろう。扇風機をつけると、さらさらした薫風。
 現実に生きていない限り時代は巡らないのである。ゆえに、自然とは現実にあらず。が、昨今はその自然すらも現実色に染まろうとしている。ここ練馬にはまだ、非現実がある。もう少し都心近くに引っ越そうかとも思うのだが、このことを考えると気が進まなくなる。
 
 古本屋で竹本泉の古い少女漫画、現代詩文庫の金井美恵子、創元文庫の柳田國男、教養文庫の将棋名言集、講談社文芸文庫の坂口安吾。と言うと本当に死ねって思う。
 紀伊国屋で見かけた長島有の新刊、文化部(図書部)の話らしい。やられた。読んでみよう。

 庭がもう百花繚乱というか百鬼夜行と言うか、カンブリア紀にも匹敵する生態系の大爆発を遂げて、一日ごとに新種の生物を見る。業者が来て植物をすべて刈り取って行ったら(必ず来るはずだ)、きっと寂しくなるね。かと言って放っておいたらどうなるんか知らん。

 ところで、経済ということは圧倒的に最優先すぎて、そのために他のことはすべて二の次になる。だから、僕らは経済に関する以外のことを主張してはいけない。経済以外のことは、誰にも聞こえないようにそっと、趣味としてつぶやくほかはない。
 どうやらそういう状況らしいので、経済以外のことを主張したい人は、相当の覚悟と勢いが必要になる。将棋がどうとか教育がどうとかっていうのを、経済を度外視して主張するのならば、かなり険しい道になるだろう。ただまあ、狂気の人々が直感とひらめき任せの勢いで道を切り拓けばその限りでなく、何かしら。
 経済は、無条件で最優先される。そういう常識をぶち壊したいのならば、頭狂ってキチガイになろうぞよ。

2008/07/26(土) サビローン一度

 ネットリテラシー的なものについて、書こうと思ったのだが、眠すぎるので、そのうち、どこかに、書く。

 眠いから保留だけどどこかにまとまったことを書くよメモ。青山。将棋と教育。
 書くことのスピードが遅すぎるぞー。誰も光速では書けないのかー。

 眠いので脳が正常でなくいろいろのことを思いだす。
 鶴舞図書館。盲目の人がやたら知識人。カルマ。初対面らしき聞き手はスーパーの肉屋でアルバイトしている。

 あの光景。そしてあのとき一緒にいた人。
 高校三年生だった。
 勉強が楽しかった頃。

 歌舞伎町で盛り上がる。
 カラオケのあるバー。
 COMPLEXとかBOφWYとか
 ミスチルとかビーズとかバンプオブチキンっていう攻勢に
 僕はもう耐え切れなくって
 でも日和る。
 ラルクとか歌う。

 楽しくても、楽しいだけであって
 まったく必要のないこと。
 それでも無意味ではないと言い聞かす。
 しばらくはもういいけどね。

 そう僕は恥ずかしながら教養厨だと思う。

 ただ、知識欲だなんだと
 固有名詞を座標上に並べていく作業で悦に浸るほど
 暇ではない。
 卒業したんで。(学校も)

 正直に好きだ嫌いだで済む話なのに
 どうして理由を求めるか。
 細かい設定でがんじがらめにするのか。

 そういうのは趣味でやることで
 主張にしてはいけない。と。
 よしこれで。


 さてパズル
 解いてください未来の僕

2008/07/25(金)2 卜部えええええええええ

 うわああああああああああああああああああああああ
 あああああああああああああああああ
 ああああああああああああああああああああああああああああ
 ああああああああ

 毎月25日が来るのが楽しみすぎる。アフタヌーンを(というか、謎の彼女Xを)読んでいるとさっき書いた日記のくだらなさに死にたくなるよ。
2008/07/25(金) フィックション

 たとえば、きゅうり三本とトマト三個、どちらが多いか? という問いに答えることは通常不可能のはずである。きゅうり三本ときゅうり四本とだったら、サイズの違い等他の条件をすべて無視すれば、個数としては四本のほうが多いとは言えるのだが、きゅうりとトマトとでは、純粋に個数の面から言っても比べることはできないのではと思うのである。人間の年齢と犬の年齢を比べるがごとき、数字上の戯れでしかないのである。

 たとえば規制緩和すべきか、規制強化すべきかという問題にも答えは出ないのである。「すべきか」で考えている以上は、絶対に答えが出ないのである。結局は、「このようにしたいのだが、そのためには規制は強いほうがいいか弱いほうがいいか」とか、「規制緩和をしたらこのような問題があるのだが、それをなんとかするにはどうしたらいいか。なんとかすることは可能なのか」といったことを細かく検討した上で決めていくしかないのであって、政治家ごときに決められる問題でもなければ、一人の経済学者によって答えを出せるものでもないのだろうと思う。
 と言っても、「このようにしたいのだが」の「このように」は通常千差万別 である。かりに国民がみな同じ「このように」を共有しているのでなければ、そもそも前提をなり立たせることができないため、論理的な議論を展開することははなはだ困難となる。考え得る限りの「このように」を想定し、それらの一つ一つを検証して総合的に判断できるような頭の良い人は、そうそういないのである。

 だから、政策とかそういったものは雰囲気で選ばれる運命なのだ。そうでなければ、何か一本、多くの人が納得するようなぶっとい柱を用意して、それにならってすすめていくしかない。
 かつてその柱とは(あったとすれば)何だったのか。今は(あるとすれば)何であるのか。未来、何にすべきか。
 僕にはよくわからないのだが、わかってしまう人もいるだろう。しかし、わかっていても、おそらくどうしようもないことだろう。
2008/07/24(木)2 ズックにロック的

 自分の終わってる加減に嫌気がさす。
 が、別に中二病から抜け出したいとも思わん。
 (立場上、削除)でいるやつを
 (立場上、削除)でいるという点に於いて軽蔑することも
 やめる気はない。
 が、(立場上、削除)でいるやつを
 (立場上、削除)でいるという点以外に於いて軽蔑することは
 何かしらの理由が別途存在しない限りしない。
 当たり前のことであるが、
 一度「ノー」と言われただけで全人格を否定されたかのように思いこんでしまう昨今の若者(ばかりではないが)にとっては
 当たり前のことではないんかも知らんよ。

 okadaicさんがはてなダイアリで僕の日記を取り上げてくれたよ。
 http://d.hatena.ne.jp/okadaic/20080723/p2
 自分で決めろ、っていうのはさ
 管理人さんに決めさせるなってことでもあるよね。
 きっとね。


 まったく、僕はブログもmixiもTwitterも嫌いだ。
 と言うと「じゃあやるな」と言われておしまい。
 こういうのを言論の斬鉄剣と言います。
 とすると、言論のこんにゃくというものを考えなければいけない。
 言論のこんにゃくってなんでしょうね。
 まぁしかし、こんにゃくも努力次第で斬れる。
 だからあまり意味のないことなのかもしらんね。

 ああ、意味のありそうなことを言うのは楽しい。
 が、こうやって自覚を誇示するのは楽しくない。
 つまり、楽しむためには、言い訳をしないことだ。
 それで誤解されたり、馬鹿にされたりすることもあるだろう。
 が、安いもんだと思う。楽しみたいのなら。
 で、たいていの人はそのへん、割り切って楽しんでいる。
 割り切れない僕は本当に間抜け。
 ↑言い訳くせえなあ←言い訳くせえなあ(以下略。高校生の頃から変わってないループなので、今後は無視する)

 それにしても僕はなぜブログやmixiやTwitterがそんなにも嫌いなのか。ノスタルジーなのか。流行り物が嫌いなだけなのか。ま、実際はそんなとこなんだろうけど、躍起になって「理由」を探そうとしてしまうんだよね。
 それが一番、あほくさいんだよね。
 嫌いは嫌いでいいんだ。
 理由を探したいなら趣味にするんだな。
 主張にしてはいけない。よしこれで。

2008/07/23(水) あえて個人的なこと。

 無銘喫茶での勤務(?)を終え、朝方知り合いのバーで飲んで、帰ってきたら千ちゃんからメールが来ていた。五年くらい会ってない気がする。

 なんというか、その、ここ一年くらい良いことばかり起きている。

 と、思える。なんてことないことなんだけども。
 このサイトのことを彼女が覚えていたらおもしれーなーと思って
 あえて書いてみる。

 「少年Aの散歩」なんつうふざけたタイトルつけてるのも、
 ハルキ文庫の俊太郎さんは今でも僕の座右の書ですよ。


 くだらんことだがおそらく一生忘れないのは
 いやー
 ほんとに
 いろいろと恥ずかしい。

2008/07/22(火) 野菜になりたい いっぱい

 労働とか金といった尊いものを二の次として、芸術や教養などという下らぬ、腹の足しにならぬものを優先させて生きていくと不都合がいろいろとある。しかし堕落した人の心はなぜかそちらの方へ流れていきがちである。ゆゆしき自体である。

 なぜかと考えてみる。
 労働は尊いと言われるが、全ての労働が尊いわけではない。尊い労働もあれば、尊くない労働もある。かりに「労働とは尊いものだ」という言葉によって労働を定義するなら、ほとんどの日本人は労働をしていないことになる。
 では尊い労働とは何で、尊くない労働とは何だろう。それは非常に曖昧で、自己申告制であるがゆえにどーだって言い訳がきく。
 けど言い訳の下手な人は、「コンビニのバイトって、労働じゃなくね?(尊くなくね?)」とか思うようになって、理性的な彼らは「尊くないことは、やらない」と宣言する。
 それがニートの心理である。たぶん。

 金を稼ぐことがそれ自体尊くはないということはもうバレているのだ。社会のため、他人のために働くことは尊いが、日本にある職業の半分以上は、おそらく「社会のため」でも「他人のため」でもないので、まったく尊くない。
 「いや、これは社会のため、他人のためになっているのだ」と信じ込める人は幸せだが、そう思えない人は不幸だ。特に、守るべき人、養うべき人がいない場合、「他人のため」と思うのは困難だし、自然破壊を進行させながら「社会のため」と思いこむのはかなり厳しい。広告を作りながら「世のため人のため」と思うのにも無理がある(そう思ってるきちがいも、いるみたいだけど)。
 それで結局は「自分のため」と言って、ありもしない欲望をねつ造しながら「金を稼ぐ理由」を捻出し、要らないものを買って、意味もなく高い酒飲んで、果ては「貯金のために働いている」などとわけのわからないことを言う。
 ところが、まじめで謙虚で正直な人は、「自分のため」なんて思えない。

 そういうわけで、まじめで賢明な人ほど、働く理由がわからなくなっているのであるよ。とりわけその中でも、家族をつくる予定も能力もない人は、とことん働く理由を見失っていると思う。
 「親の面倒を見なければ」という強迫観念によって働ける人はまだ幸せだというべきで、親に充分金があったり、他の兄弟が親の面倒を引き受けてくれるといった事情があると、なかなか働くというところに踏み出せない。
 使う予定のない金を必死に稼いで何の意味があるの? と、思ってしまったら最後。

 だからもうね、帰農すればいいんじゃないかと思うんだよ。だけど今、農業をすることのハードルってもの凄い高いわけでしょう。どうしたら農業をやれるのか、ある程度興味のある人でもわからないし、調べれば調べるほど、第一次産業の「大変さ」がわかってくる。それで、相当の覚悟と情熱のある人しか、それができない。
 農業のハードルを下げなければならない。誰にでも参入できるような素地を作らんくばならん。そしてみんなは、素人の作った多少出来の悪い作物でも、ありがたがって食べるという「くせ」をつける。農業による収入がほとんどなくても、なんとか暮らしていけるようなシステムがあればとてもよい。
 まぁ少なくとも、米や野菜を作るということは、化粧品を開発することよりは尊さが実感できると思うので、働く理由もそれなりには見つけやすいと思う。(それでも働く理由を見いだせないのなら、仕方ないのでみんなの残り物を食べさせてあげましょう。)

 いや、そんなん無理だろとみんな言うだろうけど、みんなが一斉にやれば絶対にうまくいく。みんなが会社やめて、コンクリート引っぺがして土をメンテナンスしてそこで野菜育てれば良いだけの話だ。
 だけど、誰もそれだけの覚悟がない。
 ので、無理。
 おわり。

2008/07/21(月) JCフルーツ

 小鳥が部屋にやってきてピー、パーとパンくずをつつく。僕も一緒につついた。白い羽根が胞子を散らすたび頭がぼやけて何もかもわからなくなる。世間話をしているうちに僕と小鳥はそれぞれに脱皮を果たし、透明なままからまりあってねじったゼリーみたくなった。
 大塚愛の「もう一回!」か、原由子の「もういっちょ~」か、それら的な加減で小鳥がピー、パーと鳴いた。
 暑かったので扇風機を強くした。
 僕らゼリーはぶるんと震えて少しだけシーツの上にその飛沫を落とした。
 いつまでも続けばと思うけど小鳥は既に飛べなくなっていた。
 羽根をなくして蛇のようにくねくねしていた。
 空に放すことはもうできない。
 それで僕は眠った。

2008/07/20(日) AGH(アーゲーハー)

 庭を埋め尽くしているヤブガラシが伸びに伸び、ついに網戸にからまりついてうすく開けておいた窓越しに素朴な花を覗かせている。その花の緑やオレンジのつぶつぶの周りを黄色いミツバチが飛び回っていて危なっかしい。茄子に水をやるにはこの網戸を開けて外に出なければならぬのだがミツバチが怖くてどうも億劫になり結局夜中や早朝にガラガラと水をやるのが常になる。
 今日も同じようにうすく開けておいた窓越しにヤブガラシの素朴な花を見つめているとフュッと飛んできたアゲハチョウがぴたりと止まり、ゆっくりと蜜を吸い、ゆらゆらと羽根を微動させている。
 網戸からわずかに数センチの距離、僕は近づいてそっと観察してみた。花の蜜を吸っているアゲハチョウをこんなに近くで観察したのは生まれて初めてかもしれない。捕まえて標本にしたりということは幼い頃にしていたけれども、こんなにも生活臭のあるチョウを間近で眺めるというのは。捕まえるという目的があると、じっと見つめて表情を読むなんてことまではとてもできない。
 少し前にはこの網戸にヤモリが這っていたのだった。箱庭のごとき小さな庭ではあるものの確かに生きている。伸びすぎたヤブガラシはまた例年の如く業者に刈り取られ、土のみの庭を再び眺めることになるのだろうが、そうしたら彼らはどこに行くのだろう。いや、待てよ。それよりも彼らは、いったいどこから来たのだろう。
 一時期は丸裸だったこの庭が、どういう経緯でこうなったのか。何種類もの雑草が咲き乱れ、ミツバチやアゲハやヤモリがやってくる。雨上がりにはカエルの跳ねていることすらある。どこから運ばれてきたのだ。
 網戸を開けてみた。ヤブガラシのツタがガラガラとスライドし、視界が開ける。茄子がてかてかと黒く、アゲハはすでにいない。ミツバチが飛んでいる。僕は水を撒いた。

 最近どうしてか、家の中によく虫がいる。網戸と窓の間から、うまいことすり抜けて入ってくるのであろうか、先日などは食事中の皿の上に図々しくも乗り込んできて仰天した。殺してしまうこともあるが、殺さなくても気にならないし、殺してもさほど気にならなくなった。
 昔、高校生くらいまでは、蚊を殺すことさえできなかった。マンションだったので虫は少なかったし、たまに入り込んできても家族の誰かが代わりに手を汚してくれた。潔癖とか、気持ち悪いとかよりも、例えば虫を潰すと、その手のひらに命がすり込まれて、暗闇で光るような、そんな感覚があったのである。
 しかし、網戸からわずか数センチのところにアゲハチョウが止まり、食事中の皿の上に虫が飛んでくるような生活を何年も続けていると、家と庭との境目がまったくぼやけてくる。
 あるいは僕の育てている茄子が、ヤブガラシと絡まり合って、溶け込むように庭に同化している。鉢植えという人工のものが、自然の庭と一体化して、境界線を失っているわけだ。僕はそれを見ていると、なんだかもうわけのわからない気分になってくる。
 僕の生活と、庭の生活に、確たる分かれ目のなくなってしまうような感覚があって、いわば、植物や虫の生き死になるものが、ひどく身近に感じられてくるのである。まるで自分が、庭の生態系の一部に取り込まれたかのように錯覚して、庭の生命が食い合いをする如くに、僕のことを食わんとする蚊を、防衛のために殺すということが、自然のうちに行われるようになった。そのうち畳のどこかから、何か緑の生物がニョキニョキと生えてくるんでないか。キノコくらいならば、家の中にも生えるとは聞いたことがあるが。

 夏は暑い。エアコンのないこの部屋は、窓を開けて、換気扇をぶんぶん回すことによって熱の拡散を行っている。そうすると空気は常に、窓から入ってきて、台所の換気扇から出て行くことになる。すべての空気は庭からやってきて、僕を通過して外へ出て行くのである。
 なるほど。

2008/07/19(土) ガストバガヴァッド・ギーター

 ちょっと人と接していないとすぐ寂しくて死ぬ死ぬ詐欺っちゃうというこの現代っ子的な気質。モダン的なアレコレをやたら批判したがる癖してひどい自家撞着であるよ。ちっさい共同体にマンセーしときつつそれでいて「一人が楽だ」とは傍ら痛い。直接会うのは億劫だがパソコンやケータイでならOKだなんてふ・ざ・け・る・な!

 ま、最近はなるべく人に会うようにしてるけど。

 mixiで「寂しがり屋の一人好き」なるコミュニティに所属してるやつらは即死せよ!

 っていつも思ってるしたまに実際口に出すんだけど、説得力のかけらもないわ。結局わらしもそこらんガキどもと同様パソコンやけいたいで寂しさを紛らわす毎日なのであるなあ。どうしたら寂しくなったりしないのでしょう。いつからこんなに寂しがり屋になってしまったのでしょう。人は。僕は。現代っ子は。ああ。


 コミュニティの話ですけど、「私ってこういう人なんです」と主張する系のコミュニティに入ってる奴らって、「私A型だから~」とか「B型って○○だよね~」とか平気で言えちゃう人なのである。そうなのである。実際、血液型によってある種の偏向が見られるのは実感として否定しないが、自分や他人をそんな狭い部屋の中に閉じこめて分析して楽しいか? 虫かごにセミ入れてじっと眺めてるようなもんだと思わんか?

 ま、そういう話はmixiでやれって話ですわな。さんせい。いぎなし。


 またガスト行ってきた。前に来たときもいた、やたらプロっぽい女の店員。たぶんまだ二十代だと思うんだけど、年輪を重ねた女性の獲得する最も醜悪な性質を、最も有効に活用し昇華している。若くして、完璧に使いこなしている。見ていると、吐きそうになったり、笑いそうになったり、大変だ。僕が。
 頑固そうなおっさんが、「おい、フォークがないんだが」的なクレームを、その店員に告げると、
 「ハァ~イ~! アーらごめんなさぁああーいねえええー。失礼しましたァ~。ごぉめんなさいねぇえー。すぅぐおぉもちしますからねぇ~。ハァー~イこぉちらですねぇええ~ん。ごぉうめんなさぁいねぇ~。しつれぇいしますぅうう~ん」
 などと寸分の隙間なく埋め尽くされた言葉の大津波に頑固そうなおっさんも圧倒されてたじたじ。このおっさん、表情と語気から察するにおそらくは言うべき文句や嫌味を十個も百個も腹の内に据えていたのであろうが、そこはもう、プロ店員のほうが一枚も二枚も上手だったわけですよ。


 あー寂しい。
 ラブラブなカップルフーリフリ、ラブラブでチュッチュッチュー。らら、ラブラブなカップルフーリフリラーブラーブチュー。

2008/07/18(金) 

 目をつぶって散歩してみる。
 真夜中。誰もいない道を
 記憶だよりに、壁に手をつきながら
 ただ一つある信号を慎重に渡り
 コンビニ的なところまでたどり着けた時には
 とてもほっとする。

 帰り道も同じく
 手探りでゆっくりと歩いていたら
 午前三時、
 「何してるんですか?」と
 問いかけられて慌てて目を開けると

 僕は僕の部屋でその娘の身体と溶けあっていた。

2008/07/17(木) きれぎれ

 実は今翌日である。
 理想的なのはピストルで脳を撃ち抜くことだろうか。
 昨日という日について、
 何かをしたという記憶はないが何もしていないという印象もない。
 どんな一日だったんだろう。
 確か午前三時だか四時だかに目がさめて
 そのまま夜中まで起きていた気がする
 「おお、今日はかなり充実した一日だったぞ」と
 感じた覚えはあるのだが。

 何もない一日をひたすら本ばっか読んで過ごしていると
 「これでいいのか?」と思うときがある。
 今日読んだ本の中には、睡眠薬を大量に服用し、
 機密性の高いプラスチックの袋で顔を覆うことが最良だと
 いうようなことが書かれていた。
 余暇は本読んで過ごすっていうのはもう十数年間変わらぬ
 僕の生活における「常識」なのだが
 それって本当は何もしていないのに等しいのではないか
 という疑念が今さらになって湧く。

 だけど別に何もしなくてたっていいじゃないか
 とも思う。

 向かいのアパートの通路の蛍光灯が切れかかっている。

 しかしいずれも簡単なことではない。
 いかなる確実な自殺方法が考案されたとしても

2008/07/16(水) トイレも牛乳パックも回収しない

 図書館でバーコード貼りのボランティアしてきた。
 黒いズボンに白いポロシャツ着てたら中一くらいの子に「おはようございます、先輩」と言われた。
 あとは
 アクエリアス飲んだ。
 お菓子もらった。
 大富豪やった。
 本屋に行った。
 ミルクレープ食べた。
 クロスワードやった。
 とだけ。

 「タオルが大人げない」と言われた。その他、諸々大人げなかった。


 自分のプライベートな部分というのは、「他人のプライベートな部分」に関係する場合が多い。僕が数年前からネットに日記を書くのを躊躇い始めた理由は概ねそこ。だから、今日の出来事なんかもどこまで書いて良いのかわからないし、わからない以上は書くべきでないと思う。折衷策として上記のごとく当たり障りのない書き方をしておこう。

 ネットで日記(ブログ)を書いてる人の中には、「他人のプライベートな部分」を、さも「自分のプライベートな部分の一部」だと思いこみ、恥ずかしげもなく(あるいは多少の恥じらいを見せながら)書き散らしている人がいる。やれやれと思ってしまう。実名さえ伏せれば、何を書いてもいいというのではないだろうに。
 と、言いつつ、僕も時折は書いてしまう(書かないと、どうしても日記が「日記」たる意味がなくなってしまう)。ただ書く上での自分ルールというのは多少あって、たとえば相手がインターネット上で自分の行動や内面について積極的に発言する類の人であれば、抵抗は少ない。梅田望夫さんやokadaicへの言及が比較的多いのはそのためである。
 彼らのようなネットジャンキーに関しては、「どこまでがネット上で発表して良い内容で、どこからがだめなのか」というのが把握しやすいのだ。要は、彼らがふだんネット上に書いているような種類のことであれば、書いても問題は起こりにくいと思うからだ。あるいは、彼らがネット上で、他人についてどのような書き方をしているのかを見れば、許容範囲もだいたいわかる。同じくらいのレベルで書けば文句は出なかろうと。
 「okadaicさんと無銘喫茶で朝までBUCK-TICKの話などで盛り上がった」と書くのは、何の問題もない(はずである)。ただ、仮にokadaicさんに口うるさい彼氏がいた場合、「ジャッキーとかいう若造がきみと朝まで語り合ったとか書いているのだがどういうことか」と言って拳の一つも振り上げることがあるかもしれない。が、まぁ、「無銘喫茶で」と書いてあるので、無銘喫茶がどういう場所かを説明すればわかってもらえると思う。それに、たぶんそういう人とは付き合わないでしょう(決めつけの美学)。
 あ、べつに最近そのような事実が実際にあったわけではないのでよろしゅう。わざわざネタにしてすみません。管理人さん不適切だったら削除してください。


 「管理人さん不適切だったら削除してください」という言い方を、ここ数年(mixiができてからだと思う)よく見かけるようになった。僕はこの言葉が数あるネット特有の表現の中でも、一二を争うくらい嫌いである。これは方々で言っているので「またか」と思う人もいるかもしれないけど、ここにも書いておこう。ほんなことはらんたつ。

 まず、「適切か不適切かくらい、自分で考えろ」である。mixiは18歳以上の「大人」しかいないはずなので、そのくらいの判断力はあるだろう(なかったらROMれ)。百歩譲って、「私は、人並みの判断能力が欠如した低脳で、これまであらゆる判断や責任を他人任せにして来て、これからも反省することなく水が低いほうへ流れるごとく楽に楽に生きていきたいと願っているクソ野郎なので、非常にお手数ではございますが管理人に適切か判断していただき、もし不適切であると感じましたら速やかに削除をお願いしたく存じます」とくらい書け。謙虚になれ。
 つまり「管理人さんに責任を押しつけるな」である。最近は、何でもかんでも「管理人さん」だ。たとえばmixiのコミュニティ内でいざこざがあると、「放置しておいた管理人にも責任があると思います」などと偉そうに言う輩が必ずいる。小学生か。「おまえ委員長だろー」とか「学級委員なんとかしろよー」とか言うのと同じ。レベルが低すぎる。
 管理人に再三削除要請を(メッセージなどで直接)していて、それでも応じなかった(無視した)というのならまだわかる。その時は管理人の管理能力を問うても良いかも知れない。しかし、「管理人は全ての書き込みをチェックして客観的に判断し、必要に応じて削除ならびに争い等の和解・調停を引き受けなくてはならない」と信じ込んでいるやつが少なからずいるのである。そんなもん誰が決めたんだよ! mixiの規定にもなければ、不文律であるとも思わないぞ。

 暴力、偏見、人種差別、わいせつを助長する表現、またコミュニティメンバー及びmixi利用者を中傷する内容が含まれるトピックや書き込みに対しては、管理人の権限で削除できるものとします。
――mixiヘルプ「コミュニティを管理するには」より

 削除「できる」ものとします。であって、削除「しなければならない」ではない。
 とりあえずmixi側はそう言っている。

 コミュニティ単位で考えたとしても、まず「管理人は絶対」であるか否か、つまり管理人の一存で全てを決めて良いのかどうかで考え方は分かれるだろうし、かりに管理人に絶対の権限を持たせたいのであれば、だったら「管理人の方針に従え」。管理人が絶対権限者であるとするなら、管理人が荒らしを無視することも納得すべきである。たかがいち参加者の分際で、自分の個人的尺度によって「適切か否か」を判断し、その実行と責任のみを管理人に押しつけ、それが為されなければ不平を言うとは。幼稚すぎないか?

 そこまでして保険をかけたいか?
 「管理人さん不適切だったら削除してください」という言葉からは、「保身」の意志しか感じられない。「私は、ちゃんと不適切かもしれないということはわかっていて、書き込んでいるんですよ。私は自覚しているんですよ。不適切だとしたら、削除しない管理人さんが悪いのであって、私は悪くないのですよ。ちゃんと丁寧に不適切だったら削除してくださいと言っているのだから、私は社会的良識を備えた立派な人間ですよ。不備はないですよ。無実ですよ。」という。あー気持ち悪い。この一文だけ書いておけば、何でも許されると思ってるのか?
 本人は、もしかしたら「謙虚」なつもりでそう書いているのかもしらんが、心のどっかで「責任逃れと保身」を意図しているのは明らかである(と断言)。ま、「心のどっかで」と言ってしまったら誰も反論できないので卑怯なんだが、僕はそう思うね。そうでなかったとしても、それは謙虚さではないか、間違った謙虚さであるよ。ちょっとでも不適切だと思ったら書き込まないほうが謙虚じゃないの?

 大人なんだから、適切かどうかくらい自分で判断しましょうよ。もし判断できなかったら書き込むな。どうしても書き込みたかったら、堂々とやれ。管理人さんの判断を仰ぎたいのなら、書き込み前にメッセージで問い合わせればいいだろう。「こういう書き込みをしたいんですが、大丈夫でしょうか」と。まぁ、管理人さんもそんなに暇じゃないと思うから、迷惑になると思うけど。


 だいたい一年に一回くらい、同じことが書きたくなる。だってさあ、何年経っても状況が変わらないんだもんね。こんな悪習はとっととすたれてしまってくれと思うのだが。なんか決まり文句みたいになってて嫌だよまったく。言い訳すんな。なんでも管理人任せにしやがって。じゃあなんだっきさまは………管理人が一流小学校をでて一流中学をでて一流高校をでて一流大学をでて一流企業にはいれといったら…ハイそうですかといわれたとおり生きるのかっ!? きさまには自分の考えというものがないのかっ!? 与えられた人生を歩んでそれで満足かっ!?(C)伊吹三郎

2008/07/15(火) 中野ブロードウェー

 やばい早速落とすところだった。
 中野ブロードウェー行ってきたよ。

 つーか、なんですか
 唐沢なをきの『カスミ伝』シリーズが文庫化?
 世も末だ!
 買っちゃったじゃないか!(コミックス持ってるのに)

 唐沢なをきを、ことに『カスミ伝』を読まない漫画好きはモグリ。


 『渋沢龍彦の時代』買って、山形浩生訳の『ふしぎの国のアリス』を立ち読みして、帰ってからググったら「プロジェクト杉田玄白」を発見して悶えた。神すぎだろあのページ! どうにか携帯から読めないものかなー。

2008/07/14(月) 武田邦彦

 昨日の話に関連してくるのだが、『環境問題はなぜウソがまかりとおるのか』の武田邦彦氏は、おそらく部分否定ができないというか、ものごとの「幅」を捉えることが苦手な人である。「思いこみが激しい」などとよく言われているが、それもその通りだ。実際、彼の温暖化についての論はかなり批判を受けている。恐ろしくわかりやすく、かつ真っ当な批判はここ。地球温暖化問題懐疑論反論コメントver.24.pdf

 ただ、基本的には僕は武田邦彦氏が好きである。かなり粗のある主張(特に専門外の、気温や気候のことになるとズタボロらしい)は多かろうが、見るべきところはあると思う。こと専門である資源だの材料だのといった分野については、さすがに参考にすべき内容はあるんじゃなかろうかと。たぶん。まぁこれも「部分否定」の成せる業である。
 武田邦彦という人間の言っていることすべてを否定するのではなくて、認めるところは認める。まぁダメダメなところ(素人が見てさえ「おいおい」と思うようなことも言っている)も多いが、とりあえず彼が言論界(?)に進出したことに意義はあったと思うし、温暖化や環境問題にまつわらない、基本的な考え方には共感するところも多い。人柄も(テレビで見る分には)良さそうだし、それでいてほどよい怪しさと危うさを持ち合わせているし、「日本人の誠」とかって精神論を振りかざすのも嫌いではないし、人生に対しての投げやりっぽい態度(たばこ吸って早死にしても幸せならそれでいいんじゃないか、とか)にも好感を持つ。何より彼は今、名古屋にいるのだ!
 しかしいくら好きと言っても、距離の取り方は考えなければならない。僕はいつも(部分否定のほとんどない)彼の文章を、「まぁた面白い極論を言っているなあ」などと思いながら読んでいる。「うそでなければ語れない真実もある(岡田淳『竜退治の騎士になる方法』)」と言うように、極論から見えてくる真実もあろう。なんつうか、僕にとって彼は学者というよりブロガーなので(彼はほぼ毎日サイトを更新する)、ブロガーがブログに間違ったことを書いていようが、面白ければいいのである。誤って信じ込みさえしなければ(ここが難しいんだけど)。

 と、僕も相当極端なことを言っているわけだが、武田マンセーとか武田ウゼーとかって一刀両断にしないということは、それなりに考えて書いてはいるのである。だからいろいろと、見逃してください。
 結論。僕は武田邦彦氏について、部分的には肯定的だが、部分的には否定的である。総合的に見ればちょっぴり好きである。
 これではほとんど何も言っていないに等しい。が、だけどしかしそうなのだ。
 白黒つけることもなかろう。


 ところで昨日の「定義」についての話なんだけど、それに関わりそうなことがさっき読んだ本に書いてあったのでなんとなく引用。

 (スタニスワフ・レムのSFを紹介して)つまり、単語の「意味」は人間の感情、意志、イメージ、ものの見方、他の単語、文、理論、などと億単位の複雑さでかかわっていると思います。
 だからこそ、私は「価値意味」を抽出するとき、理論的手続きを取らず、私と読者に共通の言語感覚に訴えるという手続きを取ったわけです。(P203)
――須原一秀『高学歴男性におくる弱腰矯正読本 男の解放と変性意識』(新評論、2000)

 単語の「意味」は複雑であるがゆえに、言葉によってそれを定義してしまうというのは危険である、ということだと思う。
 須原氏は、その複雑さを忌避し、理論的に、つまり言葉によってそれを語るのではなく、すでに読者に備わっている言語感覚を利用して「定義」を行ったわけだ。あざやか。
 僕もそのくらい親切にやれたらいいのだが。

2008/07/13(日) 部分否定

 人の言うことのほとんどは、「間違っている局面が存在する」と思う。
 時期や状況によってということ。
 普遍的な真理などというものがあるのか知らんが、
 それがもしないのならば全ての言葉は間違っている局面がある。

 だから基本的に何かを否定する時は部分否定でしかあり得なく
 何かを肯定する時は部分肯定でしかあり得ないと思う。

 それが前提としてあるので
 僕が何かを全面否定、または全面肯定する時というのは
 すべて「極論」であって、「冗談」であって、「適当」。
 逆に言うと、何かを譲歩していたり、部分否定、部分肯定している時は
 それなりに真剣に考えてものを言っている時だと思われる。

 「プリキュアを好きになれないやつは人でなし、死んだほうがいい」
 と言うとき、それは極論であって冗談であって適当である。

 「まなび(ストレート!)ファンに悪い人はいない」
 というのは冗談だが、
 「まなび(ストレート!)ファンにはいい人が多いと思う」
 などと言うときは、けっこう本気である。

 プリキュア(無印~Max Heart)をちゃんと見て、
 「駄作である」などという人がいたら
 ちょっと人間的に欠陥があるというか、
 僕は友達になれないかもしれないと
 本気で思う時もある。

 ↑の場合は、「かもしれない」「時もある」などとぼかしているので
 それなりに考えて書いている証拠、だと思う。
 (かもしれないと本気で思う、という表現は妙だが…)

 「初期プリキュアを駄作だと言うやつはキチガイだ!」
 と
 譲歩なし、条件抜きで言いきるのは、それこそキチガイであろう。
 よく言ってるけど。
 ちなみにスプラッシュスター以降はほとんど見ていません。



 そういうことに気をつけて物事を見ていくと
 怪しげなことを語る人というのは、たいていこの「部分否定」をしていない。
 「日蓮大上人に背く日本は必ず滅びる!」
 怪しいでしょう。

 しかし、見方を変えると
 「日蓮大上人に背く日本は必ず滅びる!」というのは
 これは「極論」であって、ゆえに本気ではないのかもしれない。
 多くの人の耳目を集めるために、あえて極論を言っているのかも知れない。
 広告的な誇張表現なのかもしれない。
 「さおだけ屋はなぜ潰れないのか」だってそうだ。
 潰れたさおだけ屋だってあるかもしれないではないか(知らんけど)。
 あえて極論を言って、「おや」と思わせようとしているわけであるね。
 「上司は思いつきでものを言う」もそう。
 思いつきでものを言わない上司だっていると思いたい。
 「日蓮大上人~」もそうなのだ。たぶん。だから怪しいと思ってはいけないのだ。いや、怪しすぎるほどに怪しいんだけど。
 でも、そう考えるのが謙虚さであり、寛容さだと思うわけである。


 僕は最近
 「スポーツを廃止せよ! スポーツが日本を悪くしている!」
 などと言ってみている。
 これはもちろん極論であり冗談であり適当(厳密ではない)である。
 しかし、こういうことを書くととりあえず聞く人は「おや」と思ってくれるらしい。
 で、「スポーツにも良いところはあるよ!」などと反論してくれる。
 だが忘れてはいけない、僕はかしこい子なのである。
 かしこい子なので、スポーツの良さくらいわかる。
 そこをあえて言っているわけですよ。


 梅田望夫さんという人は、「(ウェブに対して)楽観的すぎる!」とよく批判を受けるらしい。
 それに対して、彼は「わかってるよ、そんなもん」と言う。
 つまり、あのね、もっちー(愛称、okadaic提唱?)はかしこい子なんですよ。
 ウェブの持つ負の要素、負の側面くらいよくわかっていて
 それであえて楽観主義に立っている。これは『ウェブ時代をゆく』でも明言されていたと思うけど。
 ウェブの負の面とか、問題点とか、危険なところとか、いっぱいあるってことくらい、常識的に考えてわかるじゃない? それをもっちーほどの人がわざわざ言う必要ありますか? もっちーは「人と同じことがやれない」人なので、頼まれたって言わないと思う。そんなことを説明する時間があったらネットか将棋に費やすでしょう。
 『私塾のすすめ』で、「上を伸ばす」ことに興味があると言ってたけど、「楽観的すぎる!」などと的外れなことを言う人を「伸ばす」気なんて毛頭なくって、それでそういう批判はほっといているのかもしれない。以上たんなる邪推。


 僕も思う。スポーツにも正の側面がある? わかってるよ、そんなもん。
 そういう人にはあえて言う。「スポーツにも負の側面がある」と。
 その負の側面っていうのは、「できない子が困るから」などという、
 くだらない、ありふれた、単純な話ではない。
 あるいは「政治に利用されている」とか「経済に利用されている」とか
 そういうんでもない。(それもあるけど。)
 スポーツは日本人の精神を「少なくとも僕好みではない方向」にむしばんでいるのではないか?
 そう思って言うわけだ。

 さらに、僕は「運動」や「身体を動かすこと」を否定しているわけではない。
 問題にしたいのは「スポーツ」だ。
 「スポーツを学校の授業や行事でやらないほうがいい」と僕が言うと、
 僕が「体育」を否定しているのだと思って、
 「しかし現代社会では、学校が運動の機会を用意してあげないと」
 「体育によって精神の涵養を云々…」
 と言う人がいる。
 あるいは「スポーツ」をイコール「部活」だと思いこむ人もいる。
 ちょっと待った、スポーツってなんだ?

 なんでこういうことが起こるかと言うと、彼らが勝手に、自らの尺度と先入観によって「スポーツ」という言葉の意味を決めつけてしまっているからである。発話者(僕)がどういうつもりで「スポーツ」と言ったのか、考えようともしておらんわけであるよ。わかりにくい言い方をする僕が悪いんかね。
 「スポーツ」という言葉は、今や広く使われすぎていて、いろいろな幅の「定義」があると思う。そんなことはわかっている。たとえば「スポーツができない」と言った場合、「運動ができない(体力がない)」という意味に受け取られることが多い。ところが、「何かスポーツやってた?」と聞くなら、「競技」を答えなくてはならなくなる。「何かスポーツやってた?」と聞かれて「家で筋トレやってました」とか「いっぱいセックスしました」などと答えると、馬鹿だと思われる。また、「運動」と言った場合に「競技」のみを指したり(「何か運動やってた?」の類)、「競技」を含めた「身体を動かすこと」全般を指したり、政治的な活動を指したり、いろいろある。
 こういう「広がり」を持つ言葉は、使われた瞬間に受け手は「これはどういう意味で言っているのだ?」と推察しなければならない。はずである。で、僕は面倒くさがりなので、「そのくらいは察してくれや」と、「定義」の説明などしない。
 そうすると、「定義は?」などと聞いてくる人がいる。世の中には「定義厨」というのがいて、ちょっと多義的なもしくは「広がり」のある言葉が出てくると「定義は? 定義は?」とうるさい。それはそれで、慎重な議論ができるから良い場合もあるが、僕はあまり好きではない。何か特殊な定義を使って話すのでなければ、「いや普通の定義です」と答えるしかない。
 言葉が物事を正確に「定義」できるとは限らない。ともすれば言葉によって表現しきれなかった部分がこぼれ落ちて捨てられて、穴ぼこだらけの「定義」ができあがり、その後の展開も穴ぼこだらけになってしまう可能性がある。そういう危惧を僕は持っていて、必要がなければ「じゃあここで、『スポーツ』とは○○という意味だと考えましょう」なんてことはあまり言いたくない。のだが、これってどうなんでしょう。「スポーツ」などという一般的な言葉を問題提起者が一方的に(ことばによって)定義してしまうのは、傲慢だと思うし、話の幅も狭まってしまうのではないかと思ってしまうんだけど。

 それにしても、「議論」というのはなんだか好きになれない言葉だ。どうでもいいけど。


 で、これは「部分否定、部分肯定」という話に関わってくる。要は「幅を見極める」という話だ。「どこまでを否定している(すべき)か」「どこまでを肯定している(すべき)か」「どこまでを『スポーツ』の意味に含める(と発話者は考えている)か」というような、「幅」の問題。
 これがうまくできないと、トンチンカンな問答しかできない。
 これがうまくできる人は、「全面否定」や「全面肯定」を、(強調としての)極論や、冗談の手段、あるいは適当に言ってしまった時にしか使わない。かしこい人が、真剣な顔をして「全面否定」や「全面肯定」をすることはない!


 と、ここまで書いて、僕が昨日別サイトでレビューしたキングズリーの『水の子どもたち』に書かれていることと合致してしまった。どこかで影響されてしまったのだろうか。

 水の子どもなんて知らない、って? そう、きみはまだ、水の子どものことをきいたことがない。たぶん、ないだろう。だからこそ、この物語が書かれなくちゃならないのだ。(…略…)
 「でも、水の子どもなんて、いるはずがありません。自然に反します。」
 なるほど。でもね。きみも大きくなったらわかるようになるだろうけど、こういう問題を話すときは、そんな言い方をしてはいけないのだ。この偉大で、ふしぎに満ちた世の中のことを話すときは、「はずがない」とか「あり得ない」とか、そういう言葉を使ってはいけないのだ。(…略…)
 (…略…)ほんとうにかしこい人は、そういう言葉は使わないようにしている。「はずがない」と言っていいのは、数学的真理に反する(少なくとも現在はそう考えられている)ときだけなのだ。(…略…)人間は、かしこくなればなるほど「はずがない」などと言わなくなる。それは、ほんとうに軽率で、危険な言葉なのだから。(…略…)
 (…略…)だから、ほんとうにかしこい人ならば、水の子どもはいるはずがない、なんていいはるはずがない。

――チャールズ・キングズリー『水の子どもたち』(偕成社文庫、芹生一 訳)

2008/07/12(土) ガストで交尾

 最も読書がはかどるのは昔からファミレス。
 そういうわけで近所のガストで12時間ほど本を読んできた。
 とりあえず読んだ本メモ。

 ・須原一秀『自死という生き方 覚悟して逝った哲学者』(双葉社、2008)
 ・別冊宝島129『ザ・中学教師 子どもが変だ!』(宝島社、1991)
 ・富野由悠季『戦争と平和』(徳間書店、2002)
 ・筒井康隆『銀齢の果て』(新潮社、2006)
 ・朱川湊人『白い部屋で月の歌を』(角川ホラー文庫、2003)
 ・金子大栄 校注『歎異抄』(岩波文庫、1931)

 感想等はそのうち詳しくどこかに。


 ファミレスで読書する時にはメモ帳と付箋と筆記用具を持って行くのだが、あまりの暑さに頭がやられたのか今日はボールペン一本を除いてすべて家に忘れてきてしまった。気付いたのはすでにガストバーガーとドリンクバーとを注文した後だったし、そもそも烈しい夏の日がかんかんしているお外の世界へ再びふらふらと出て行こうなどとは微塵も思わなかった。こういう時は工夫が肝要である。
 まず付箋は紙ナプキンを細長く千切って代用。メモ帳は店の入り口付近に置かれていた求人情報誌を持ってきて、付属の履歴書を千切り、裏側の白い部分を利用した。情報誌は情報誌で、読書に疲れた時に箸休め的に眺めるので無駄がない。良さげなバイトがあったらやるし。夏休みだから。

 ところでファミレスとかそういうところは大抵の場合冷房が強い。特に今日のような気温の高い日は尚更だ。寒くしておけば涼みに来た客も長時間は居座れないので回転率が上がるという目論見なのだろうか。このガストも例外でなくギンギンに寒かった。ベテランの僕はそれを見越して上着を二枚も持って行ったのだが、それでも寒い。案内された席は冷房が直に当たるところだったのだ。
 日中、日差しのあるうちはそれでもまだ多少は暖かかったのだが、夜になってはいかんともしがたい。仕方ないので後半はメニューを立てて壁にしたり明らかに不自然な位置に座ってみたりとこれまた様々の工夫をして直風を防ごうと試みていたのだが、店員や他の客の目にはかなり異様に映ったことであろう。

 ファミレスにはいろんな人がやってきて人間観察(嫌いな言葉だが)の面でも面白い。高校生の男女が七人でやってきて夏物語なぞ演じやがって僕を非常に不快にさせた。ギャワーとかキャハーとかいかにも充実したわめき声(そういうふうに聞こえたのだ)をまき散らしながら3~4時間くらい居座っていた。ウウウー。
 微笑ましかったのは静かに向かい合って文庫本をテーブルに広げてくつろいでいた夫婦とおぼしき中年層の男女。こういうデートもありだなと本気で思った。

 いろんな人々がいろんなことをやっている光景をなんとなくぼんやり見ているとたまに思うのはファミレスとは劇場でありシュールな群像劇が常に上演されている場なのだということ。座って見ているだけで面白い。そして、これは今日知ったことなのだが、出演者は人間に限らない。

 店内をコバエくらいの小さな虫が飛び回っていて、広げっぱなしのメニューの上に止まった。何気なく目をやると何やらその虫はのそのそと歩いてメニューの上に先住していた同等の大きさの黒い点にぴったりとひっついた。顔を近づけてよく見ると、交尾している。先住していた黒い点はどうやらその虫のメスであって、飛んできたオスはその背後にまわり彼の余っているものを彼女の足りないところに刺して生命を生もうと画策しているわけである。つまりは公衆の面前でセックスしているのである。
 僕はもちろん目を見開いて凝視した。
 全長が2ミリにも満たない小さな虫の交尾を見ることは初めてだった。人間の交尾は何らかの形で目にすることはあるかもしれないが、虫の交尾を目にすることは現代にはもはやあまりない。名前もわからないようなマイナーな虫であればなおのこと。よーく観察してみたのだがどうもいわゆるハエやカの類ではなさそうに見えた。いったい何なんだろう。
 名もなき虫の交尾がどんなんだったかというと、人間のセックスとほとんど変わらない。後背位そのもの。シルエットを並べたらどっちが人間だか区別がつかないだろうとさえ思った。勃起こそしなかったものの確かなエロスを感じとり若干死にたくなった。
 オスは腰をガクガクと動かし、時に激しく、時に優しく、あるいはまったく停止したりして、かなりのテクニシャンであった。おそらく、単調なセックスしかできない、童貞に毛が生えたような無粋な淡泊男なんかよりもずっと、そのオスの動きは技術的であり、情熱的だった。ところがメスはマグロのようでほとんど微動だにしない。僕はちょっぴり虫のオスに同情した。努力が報われないのはそれだけで不幸であるが、性的なことに関すればその不幸は世界の終わりにも等しい奈落のどん底に突き落とされたのと同じである。
 5分も10分もオスは腰を動かし続け、その間メスはじっとしている。いつになったら果てるのだろうと興味津々で見ていると、彼らは突如奇妙な運動を始めた。メスを軸にして、挿入したままその場でぐるぐると回り始めたのである。『ピエールとカトリーヌ』という曲の「三回転して四つんばいになってもいいかしら 入れたままで」というフレーズを思い出す。よくすっぽ抜けないなあ、“返し”でもついているのか? と感心して見ていると、彼らはさらなるアクロバティックセックスを演出し始めた。彼らは結合したままメニューの上を所狭しと歩き回り、果てはそのまま羽ばたいて上昇し、戦闘機のように鮮やかな旋回を中空で実現して見せたのである。そして喫煙席のほうへと消えていった。もちろん結ばれたままで。
 真の「愛の逃避行」とはこういうものを言うのだろう、などと妙な感想を頭に浮かべながらバニラ・オレを一口。ひょっとしたらこれは、すごいものを見てしまったのかもしれない。都会に住んでいると「生命」というものを実感することがめっきりないわけだが、虫が交尾して、そのまま躍動的に飛んでいくというのは、これを擬人化してAVにしたらとんでもないものができる! とかそういう話ではなくて、生命、あるいは「生命力そのもの」ではないか!?
 台所でブーンと手元を舞うコバエをひねり潰すことにほとんど無感覚でいられる人は多いと思うのだが、さすがにガストのメニューの上で交尾している小さな虫をまとめてぶっ潰してしまえる人っていうのはそんなにいないんじゃないか。なんとなく生命とかそういうものに対する冒涜であるような気がしないだろーか。そりゃそいつらを放っておけばどっかにたくさん卵を産んで繁殖し、ガスト中が虫で溢れることになるかもしれないが、それでもなんかその、たとえば「後に兵隊となって自国を滅ぼそうとするであろう」という理由で敵国の子どもたちを無差別に惨殺できるかといったら、さすがに道徳や倫理観が疼くと思うのだよ。僕は、かりに自宅の台所でそれを目撃したとて、おそらく彼らを殺すことはできないだろう。なんとなく気が咎める。確実にあとで困ることになるし、繁殖したら無差別に殺してしまわねばならん、そういう残虐な未来が見えているにもかかわらず、僕にはたぶん交尾中の虫を殺めることができない。

 そういうことを10分間くらい考えていたら再び虫が飛んできて、今度は紙ナプキンを立ててある台に止まった。
 彼らは依然、結ばれたままだった。

 そういえばその向こうでは、中年の夫婦が顔をつきあわせて、それぞれに文庫本を読みふけっているのである。
2008/07/11(金) 世の中が悪くなっていく

 1999年の夏、中学三年生の時に初めて忌野清志郎を見た。
 豊田市でロックフェスがあって、偶然近所に住んでいた同級生がチケットを譲ってくれたのだった。清志郎はもちろん大トリ。
 隣にいた四十~五十くらいのおっさんが、大声で「キヨシロー!」と叫んだ。それで僕は「ああ」と思った。大人はそういうことをしないんだと思っていた。その時に僕は忌野清志郎のファンになった。

 その日は『明日なき世界』や『世の中が悪くなっていく』などの、いわゆるメッセージ性の強い曲が演奏された。後日、地元のテレビ局で深夜にその模様が放送され、僕はビデオを録画して何十回も繰り返し見た。テレビにカセットデッキを繋いでダビングして、部屋の中で何百回も聴いた。

 この世界には「明日」がないだなんて、「世の中が悪くなって」いただなんて、幼すぎて僕はまだ知らなかった。もちろん、なんとなく「そうなんだろう」と思ってはいたが、そのことに真剣に向きあってみたことなど一度もなかったのだった。

 そういういきさつで「世の中が悪くなって」いるということを僕は知った。しかしそのことを本当に理解できるようになるのはもっとずっと後のことだ。例えば僕はまだ、お金には「ものを買う」という以外の能力が備わっていることを知らなかった。そりゃ小説や漫画を読んでなんとなく感じてはいたけど、「はっきりと」それがわかったのは本当につい最近のことかもしれない。

 逆らいたいがために反抗し、主張したいがゆえに思想を持つ。
 そういう状態だったのかもしれない。

 二十歳を過ぎて知恵をつけ、情緒的にも落ち着いてきた。十代の頃に比べれば、もう少しだけ深く物事を考えられるようになったと思う。視野が広がり、思索が深まれば、多少なりとも、以前よりもたくさんのことがわかるようになる。



 トヨタが「エコ替え」なる言葉でコマーシャルを打っていることを最近知った。

 「あれはさすがに、消費者をばかにしているよ。新車に買い換えることが環境に良いだなんて、誰も思わない。あんなCMに騙されるやつなんていないさ。」

 などと、僕の周囲の人などは言うのだが、
 そうでもないだろうな。
 恐らく多くの人は、
 「ああ、そうだ。もっとエコな製品に買い換えなくては」
 と考える。
 分別のある(はずの)大人であっても、そう思う人は多いだろう。
 仮に、大人は騙されなかったとしても
 中学生くらいの子どもはコロリとやられる。

 最近、子どもと接する機会が多いのだが
 彼らは本当に純粋だ。
 大人の言うことを、彼らがいかに信じているか。
 テレビの言うことを、雑誌の語りかける言葉を、
 どれだけ素直に受け入れていることか。

 しかし彼らは
 親や先生や
 身近な大人の言うことにだけは
 疑うことを知っている。



 忌野清志郎率いるRCサクセションのデビュー曲は『宝くじは買わない』。

   宝くじは買わない だって僕は
   お金なんかいらないんだ

 結局これと同じメッセージをもう40年近くも歌い続けている。
 忌野清志郎ほどの大スターが、
 「お金なんかいらないんだ」とひたすら歌い続けていても
 世の中は、変わらないどころか
 どんどん「悪くなっていく」。
 音楽の力なんて所詮はそんな程度のものなのかもしれない。
 っていうか、忌野清志郎ほどの才能が声を枯らして歌っても
 セールス的にはまったくふるわない。
 音楽の力なんてそんなもんなんだと思わざるを得ない。もう、
 心の底から。
 歌い手が「お金なんかいらないんだ」と思っていても
 歌わせている人たちが「お金がほしい!」と思っていれば
 何も変わらない。
 それはつまり
 みんなが「エコしたい」的なことを思っていても
 “エコさせる側”が「エコとやらよりも金だ」と思っていれば
 何の意味もないのと同じこと。

 そう。どうやらこの世の中には
 「エコさせる側」と「エコする側」が存在するらしい。

 いらない知恵がついてきてそういうことを考えるようになると
 いよいよ「世の中が悪くなっていく」という言葉が真実味を帯びる。

   ナイフなんか持たなくても強くなれるさ
   今はこんなに弱くても いつかは変わるさ
   毛虫がやがて蝶になる まるでそんな感じ
   君はどこにも逃げられない 立ち向かうしかない

 さて。
 何をしよう。
 今日は何を。
 何をしよう。
 What shall I do?
 っていうのが長くつ下のピッピっていうアニメの主題歌だということに
 気がついた人は一人もいまい。

2008/07/11(金) Ez8周年

 Entertainment Zone開設から8年が経ちました。
 ここ数年はほとんど更新できていません。
 僕なんか死んだほうがいいんです。

 でも僕はここEzを愛しているので
 niftyが潰れるまでは閉鎖するつもりはないです。
 どうにか活用の仕方を考えていきたいものですが、
 日記サイトだったらブログを使えって話になるので
 それ以外の形でどうにかしたいなあ。

 あるいは、くだらない身辺雑記だけで埋めるとかもある。
 考えてはいるんだけどどうも、さすがにhtmlはもうめんどくさいぜ。
 あー。便利になるって嫌だねえ。
 理屈では「html最高!」って思ってるんだけど
 どうしてもコンスタントに更新していけないですわ。
 なんか、うまい使い方ないですかね?このサイトの。

 昔みたいに、毎日それなりの量を更新していきたいんだけど
 大人の事情ってのは嫌なもんだ。
 下手なこと書けない。
 時代です。
 好き勝手に書き散らしていられる時代は終わってしまった。
 何を書いても恥ずかしいし。
 一度書いてしまったら取り返しつかないし。
 大人になるというのは嫌なものだ。
 開設当時は15歳だったと考えると
 ただあなたの優しさが怖かった的な。

 はてな→書評、まとまった文章など
 ジュゲム→ポエム
 html→日記

 っていうのがいいような気がする。
 時間さえあれば、それでいこうかと思うけど
 もう役目を終えた感があるんだよなあ、Ez。
 だけど8周年ってことで若干やる気だそうかなとも思う。
 まぁ、月に一度くらい観に来ていただけたら。
 はてなアンテナとかに登録とかするのがオススメだけど。
 では、エッグプラント!

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