先日新宿某所で遊んでいたら、私が初めて雪国を出した方が偶然いらして色々お話しすることがありました。
私の方が先に店にいて、彼が入ってきた瞬間にもしかしてと思ってたんですが一歩踏み込むことができず。結局、彼が他の人と話してる時に夜学バーの名前が挙がってようやく聞けたといった感じでした。
そのあとは↑のようなちょっとずつ踏み込むことについてとか、どうすれば「質問」という暴力に頼らずに仲良くなっていくかとかを一緒に考えました。
その最中にサラッと「日報にも書いてありましたよね」と言っていただき日報ちゃんと読んでくれててウレシ〜〜状態に。やっぱり読みました報告って活力ですね。(6月以降の日報書いてなくてごめんなさい)
一歩目が中々踏み出せないのは、最初から相手のどこまで踏み込めるかの判断がまだできないからなんじゃないかということについて二人で話すことがあったのですが、逆にあれこれ考えすぎて動けなくなっているのではないかと指摘していただきました。それを聞いてから、ある程度までは考えてそこからは経験とかその場の空気感を掴んでいくのがいいのかなあと考えたわけですがジャッキーさん的にはこれについてどう考えますでしょうか。
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ジャッキー
さん
投稿日:2025年07月25日(金) 00時12分
「約束しなくても毎日会えた♪」って歌詞が川本真琴の『ひまわり』という曲にありますが、毎日とは言わなくても「約束しなくても誰かと顔を合わせる可能性の高い場所」、ってのはグッとくるものがあります。
「あれこれ考えすぎて動けなくなっているのではないか」それは本当にそうですよね。演劇部だった高校生の頃、演技について先輩に「とにかく思いついたことをやってみればいいんだよ」とか言われるのですが、それこそ考えすぎて、「思いついたこと」がたくさんあってそれぞれ一つ一つに検討を加えているだけで結局何もできない、みたいなことが多くありました。今なら先輩のアドバイス通り、いろいろやってみることができると思います。そのための度胸や胆力、あるいは取捨選択の力や思い切り、完璧でなくてもとりあえず出してみる諦め、といった様々な力がついてきたはずだからです。
とりわけ「完璧じゃない状態で提出する」ということが僕はなかなかできるようになりませんでした。「恥を捨てる」というより、「恥をかくことを重大事に思わない」という態度を身につけるまで。あるいは「本来の自分」「全力の自分」という発想をやめ、自分はなんであれ自分だと思い、かりに自分の能力の不足が露呈してもそんなのアタリマエのことなので気にしない、みたいな強さを持つまで。ここまでは自分の話です。
>ある程度までは考えてそこからは経験とかその場の空気感を掴んでいく
「考える」ということはもちろん必要ですが、「とりあえず何かする」ということのほうが大事でしょうね。なぜならば、何もしない状態では「考えるための材料」が足りないことが多いからです。とりあえず何でもいいから何かしらの働きかけをしてみて(僅かなこと、些細なことから始めます)、そこに起きた現象をもとに「考える」なり「経験を引き合いに出す」なりするわけです。
「その場の空気感」というものは、「自分の存在」が含まれていない限りさして意味がありません。「自分」が観察者としてそれを眺めて、「今はこういう状況だから……」と考えても、その観察対象の中に「自分」が不在だと、その考察はあんまり実用的ではありません(無駄だとは言っていません、当然するべきことではあります)。まずその中に自分が参与する、あるいは参与できうる状態にできるだけ近づくといったアプローチをかけて、その反応を見る。すると観察対象の中に自分が含まれ、やっと「コマ」が揃うので戦略が立てられるようになります。
意識すべきは「自分と世界(場)との関係」であって、「自分が眺めている場」ではありません。それでは他人事になってしまう。分析的態度の中には自分を常に含めておくように僕はしています。
話を「場」ではなく「人」に置き換えても同じです。「どこまで踏み込んでいいのだろうか」ではなく、とりあえず踏み込んでよさそうなところまでは踏み込むのです。その見極めは難しいかもしれませんが、とにかくほんの僅かなところから始めるしかありません。さざなみから。達人になってくると目線とか立ち位置とかで「わずかに踏み込む」ことさえできます。ジロジロ見るとかやたら近づくとかでなく、本当に小さな変化だけで場はゆらぎます。あるいは、わかりやすくリラックスした態度になってみる、とかいったのも「アプローチ」になります。そういう小さなことを無数にやってみて、空間のゆらぎをつかみ、乗るのです。
ファー意味わかんないかもしれないけど日々そういうことは考えております。