●はじめに

  サイトデータ
  サイトマップ
  サイト管理人
  サイト歴史




【データ】

 Entertainment Zone(エンターテインメント ゾネ)
 ※「- Sonne」「- Sohn」だった瞬間等あり
 http://ozakit.o.oo7.jp
 2000年7月11日(火)午前0時開設
 管理人:ジャッキー Jacky(尾崎昂臣、当時15歳)
 副管理人:添え木 Splint(特に何もしていません)
 原初のURL:http://homepage2.nifty.com/ozakit/




【マップ】

過去ログ
 2000年7月からの日記ログがすべてあります。

BBS
 掲示板です。cgiでつくっていたのですがスパムが多くなり泣く泣くレンタルに。どなたか直してください……。

Mail
 メールフォームです。できれば連絡先の明記を。忍者ツールズを利用していましたが2020年6月1日で使えなくなるそうなので困っています。


 2002年10月から詩を書き続けています。

夜学バー
 経営しているお店のHP。長い文章がたくさんあります。→Twitterテキスト

まなび文庫
 本をつくっています。通販もあり。昔の本に関してはお問い合わせください。

プリント
 学校の先生をやっていたとき、生徒たちに配っていたプリント群。まだまだたくさんあるのですがなかなか作業が進みません。「更新しろ」と言われたらやる気が出るのでぜひお願いいたします。

ランタンおざ研
 かつて作っていた「場」のホームページ跡地。おまけ:『場の本』(PDF)

存在への対価
 無料でこんなにいろいろ読める! すごい! と少しでも思ったらこちらの文章をお読みくださいませ。



【管理人】

 ジャッキー/Jacky/尾崎昂臣 またの名いくつか
 mixi:27425330
 Twitter:tkom_Jacky
 Facebook:Ozakit Jacky
 Instagram:oz_jacky
 LINE:要問い合わせ

 170cm 52〜4kgくらい 黒髪直毛
 サイトを始めたころは168〜9cmで48〜49kgくらいだった。たくさん自転車に乗るようになって筋肉がつき重くなったのだと思う。身長はおそらく姿勢をよくしようとがんばったため少しのびた。
 名古屋市出身→18で上京
 ゾネ中→向陽→早稲田大学教育学部国語国文学科・卒→放送大学(現在)
 練馬区富士見台(11年4ヶ月)→中野区中央(4年)→旧本所区(現在)
 場、文、教が生業。そのたいろんなバイトなど。
 自伝になってしまうのであとは略。↓サイト伝(ほぼ自伝!)を書きます。




【歴史】

 1998年ごろ、小学校低学年からの友人であるN氏と「同人誌をつくろう」という話が持ち上がり幻の雑誌「Abouted」の制作を始めるが頓挫。やがてN氏が「同人誌は古い、これからはホームページの時代だ」と言い出す。が、互いに別々の高校に通うようになって共同作業が困難になったのもあり尾崎が単独でホームページ制作を開始。「おれはほぼ何もしない、お前の添え木のような存在で良い」と言われ、「添え木」という言葉を知らなかった尾崎は面白くなり「じゃあおまえの名前は添え木ね」すぐさま辞書を引きSplintという英名も授与。

 当初のサイトデザインやコンセプトの多くは高校の先輩が運営する「SaToshi‘s Homepage」(中学時代からROMっていた)を大いに参考にした。ここが「黒地に白字」だったので、反転して「白地に黒字」にしたのである。「真っ白なキャンバスに自由に書き込んでいくのだ!」などと息巻いていたが、のちにそれとほぼ同じセリフが2007年1〜3月に放映された超名作アニメ『がくえんゆーとぴあ まなびストレート!』の第三話「月曜日じゃ遅すぎる」に登場し、とても喜んだ。
 日記を毎日書いたのもSaToshi先輩の影響が大きい。「自分もこんな高校生活を送るのだ!」と単純に思っていた。残念ながら当時のSaToshi先輩の日記は現在公開されていない(サイト自体は続いている)が、型破りな学校生活の描写や内省的な筆致(悩み事の吐露など)に魅力を感じていたのだ。中学時代に何度も読んだ『69 -sixty nine-』という小説の影響もあり、「ようし破天荒に生きるぞ」とやる気全開で新生活に臨んだものである。
 ちなみに高校に入ってすぐにクラスでつけられたあだ名が「ゾネ」、部活でつけられたあだ名が「ジャッキー」である。部活は演劇部で、二個上にSaToshi先輩がいた。

 話すと長いが重要なので書くことにする。
「父親の名前にちょっと似ている」という単純な理由で「向陽高校」を志望した。まあまあ難しい学校だった。
 中三になるまでほとんど勉強をしたことがなかったが、どうやらちゃんと勉強しないと入れないようだったのでまずは授業をまじめに受けることにした。すると「あの尾崎が改心した」という雰囲気が醸成されなんとなく成績が上がっていった。公立中学の評定など担当教員のさじ加減によるところ大なのである。(学校によって違うかもしれないけど。)
 それで正確な時期はまったく覚えていないしどうやってたどり着いたのかもわからないがたしか受験のちょっと前くらいにSaToshi‘s Homepageを発見した。
「おおお、たのしそうな高校生活!」「ようし向陽に入るぞ」とやる気が出た……のかどうかも覚えていない。ともあれ高校には受かった。
 受かったので3月下旬くらいに市内の小劇場で行われた高校演劇部の合同発表会に行ってみた。向陽高校や東海高校、椙山女学園などのお芝居を観た。向陽は『タテバシャクヤク』という創作劇で、めちゃくちゃ面白かった。「ようし演劇部に入るぞ!」とここで思ったのはほぼ間違いない。ちなみに東海や椙山の演劇部とはのちけっこう深く関わることになるがそれはまた別の話。東海はヤネンという宇宙人だかなんだかが出てくる創作、椙山は『トゥーランドット』をやっていた。(すごいよね。)これらに出ていた人たちとのちに仲良くなるのだから面白い。

 高校に入学し、クラスでついたあだ名が「ゾネ」、演劇部で入部二日目くらいに先輩からつけられたあだ名が「ジャッキー」だった。それまで苗字でしか呼ばれたことがなかったので、たいそううれしかったそうな。
 受験が終わったあとくらいからインターネットを覗く機会が増え、いつのまにか「ドラえもんの世界」というホームページのチャットに入り浸っていた。「ジャッキー」以外の名前で参加していた記憶がほとんどない(神奈川の「ヨッシー」と初めて話したのは違う名前だった気もする、という程度)ので、おそらく本格参入は高校入学後。
 とすると、それからほんの三ヶ月ほどで「ドラチャ」内にかなり濃密な人間関係をつくっていたということになる。サイト初期の閲覧者はおそらく半数以上がドラチャの友達だったのだ。

 7月11日深夜0時のサイト開設時は「ドラえもんの世界」掲示板にのみURLを貼った。当日の「Ez mixed BBS」には「オイ」「りょう」「くら」「メアリー」などのドラチャメンバーに加え、「いまちょ(たかゆき)」「グッチョ」など中学または高校の同級生でかつドラチャにも顔を出していた人たちの書き込みが見られる。
 夜になると高校の同級生(隣の隣のクラス)「はこっち」の書き込みがある、この子にはEメールで直接知らせたのだろう。翌日には件の「SaToshi」先輩、演劇部顧問であった「ほりいけ」氏、「わと」先輩、「とびたつな」先輩といった演劇部人脈が登場。13日以降に同じクラス(103)の面々が三名。以降はごっちゃごちゃに入り混じっている。この「ごっちゃごちゃ」が当時の(そして今もなお)僕の理想で、だから掲示板の名前にも「mixed」なんつうもんが含まれていたのであった。

 いま僕は「夜学バー」というお店を運営しているが、その志は原初のこのサイトとほぼ同じなのである。いろんな人がいろんなところを経由してやってきて、一つの「場」を共有する、ということ。僕の考え方の一つのぶれない芯なのだ。
 それはむろん「ドラチャ」もそうだった。しかしこのチャットは、インターネットユーザが爆発的に増加していくスピードに呑まれ(としか僕には言えない)、ほどなく消えた。僕がお店……というか「場」のようなものを続けているのは、もとをたどればドラチャの反省でしかない。「どうしたらドラチャのような楽しい空間が、消えずにずっと残っていけるのだろうか?」ということをテーマに、ひたすら執着しているのである。
 このホームページをずっと続けているのも、ドラチャが消えた悲しさを自分でなぞりたくないから。あのとき行き別れた人たちが、なんらかのきっかけでこのホームページを見つけてくれる可能性が、ゼロではないから。なのだ。


 高校一年生の夏にそのようにして開設された当サイトは、はじめ「活字芸術」という文芸投稿コーナーをメインコンテンツとしていた。いつのまにか消えて(消して)しまったが、もちろんデータは残してある。
 投稿してくれていたのは、ネットの友達や学校の友達。うまいぐあいに混ざり合っていた。小説や詩、脚本、その他冗談みたいなものまで、文字の芸術といえそうであればなんでも置いていた。あとは思い出せる限り、以下のようなコンテンツが初期はあった。

・ひごろのおこない:日記。詳しくは「過去ログ」参照。
・ENTER:僕が好きな本や映画などについて書くページ。わりとすぐ消失。
・流離い:旅行記。ほとんど僕だが同級生の関川氏によるものも少しあった。彼は僕に鉄道や旅の面白さを教えてくれた人であり、電気グルーヴの『イルボン2000』を貸してくれた人でもある。わりと長く存続。
・挨拶にかえて:添え木のコラム。ぜんぜん更新してくれなかった。
・リンク:2000年代初頭は友達がどんどこHPを作っていたので最初のうちは常に更新し続けているような状態だったが、だんだん閉鎖サイトが増えてきていつのまにかなくしていた。2010年前後くらいにふたたび作り直した気がするが、いつしかそれも格納。
・Ez mixed BBS:どっかから拾ってきたcgiをしばらく使ったのち不具合があったので添え木に作り直してもらったが、それもスパムが増えたのでその後は臨時のものを使ったり使わなかったり。
・Ez Chat:正式名称は忘れました。長く使ったのはミモラチャットとかだったかなあ。


 ここからはほぼ「日記」について書く。開設当初からずっと続いているのはこれだけなので、Ez=日記と言って差し支えない。

 最初期(2000年7月11日〜)は、読んでいただければわかるがなにも考えていない。もちろんたまにキラリと光る文章なんかはあるが、まだ芯のない感じ。「覚醒」が訪れるのは2001年1月2日。恥ずかしいのでリンクしないが、ここで僕は「今のままじゃだめだ!」と向上心を明確に表明するのである。
 その日記には、「僕はこの16年間、何をしてきたのだろうか。」とある。新年にありがちな反省文であるが、彼(むかしのぼく)は偉いことに、この気分をそれからずっと持続させていく。

 むかしのぼくの思考はこう。

《自分には素敵だと思っている人たちがいる→自分もそのように素敵になりたい→どうしたらそうなれるか、素敵な人たちが言っていることを参考にしよう→素敵な人たちはこんなふうにして生きてきたのか!→いまの自分の生き方では素敵になれないような気がする!→とりあえず素敵な人たちがやってきたらしいことをできるだけなぞろう》

 そして実際、狂ったように本を読んだり映画を観たり音楽を聴いたり、いろんなところに行き、いろんな人たちと会い、いろんなことをして、なんでもかんでも吸収してやれ経験してやれと躍起になった。
 青春18きっぷを使って春は東京に、夏は北海道に旅行にも出た。自転車でまた稲武に行ったり京都に行ったりした。そういう勢いで修学旅行の夜、岡山の旅館を抜け出して始発のフェリーで小豆島に渡り、大問題になって停学(正式には無期謹慎)になったりした。無敵だったし、強迫的な焦燥感もあった。
(ちなみにその前、2000年後半にも重要な旅行が三つばかりある。そういうのもいつかまとめられたらいいなー。)

 そんななかで学校、ネット、演劇部(愛知は他校との交流がとても深い)という三種の人間関係がそれぞれ広がり、時に重なったりしていく。刺激的な友人たち先輩たち後輩たちとの出会いが数えきれないほど訪れ、仲良くなる女の子もたくさんできた。そういう多角的な「関係」の中で、僕の日記はたった一つ。それがいろいろ、今思えば良かったり悪かったりすることを導いていくのだが、この先は自伝の領分。
 高校生のうちは「無敵」だし、それまでの勢いもあるからそのままで行くのだが、大学に入った2003年以降は、スタイルを変えざるを得なくなってしまった。その葛藤は2003年7月〜2007年3月までの迷走っぷりをご覧いただくとよくわかる。(「過去ログ」ページで一望するだけで「迷走してんなあ」と思えるはず。)
 mixiを始めたのが2005年1月で、それから2年ちょっとはとりわけホームページが手薄になっている。またこのころはまだ「恋愛」なんぞをしていて、そういう意味での心のブレが最も大きい不安定な時期。はっきり言って、ある意味で一番面白いのはこの辺であるが、あまり読んでほしくはない。

 2007年4月は大学を卒業して晴れてぷーたろーとなった時。あまりに暇で不安だったのと、前述の『まなびストレート!』を観てテンションが上がっていたのとで、日記にやたら力が入っている。同年7月から年末にかけておそろしく巨大な善き事件があり、それからだんだん僕の「芯」がまとまっていく。小沢健二さんの歌っていたことを分かりはじめ、岡田淳さんの本をあらためてよく咀嚼し直し、橋本治さんをいっそう読み込んでいった時期でもある。

 2008年1月8日〜7月10日までの記事が一切ないのは、自分でもどうしてかわからない。いったいなにがあったのだろう。1〜2月はすごくブラックな環境(広告制作会社)で働いていたので更新する余裕がなかったのだろうと思えるが、その後数ヶ月は「ただなんとなく」なんだろうか。仕事としては、たぶん大工とかをやっていた時期から、教員を始めた時期にかけてだと思う。
 この件についてはわかったら追記します。

 一つめの学校で中学国語科の教員として働くようになったのが2008年6月1日(〜2010年3月末日)。同じくらいの時期に「毎週バーに立つ」ということを始めたと思う。(そのちょっと前から月一くらいでやっていた。)この時期は本当に楽しかったし、考えることも多かった。いい具合にmixiがちょっと元気なくなっていったというか、若い世代が大量流入してきた時期でもある。Twitterはそろそろ始めていたはず。
 元気は元気だったと思うんだけど学校で配るための文章を書いたりもしていたし、バーでけっこう発散(アウトプット)していたし、教員という立場を慮ったのもあってか更新はやや不安定だったようだ。2010年4月、教員を退いて以降はほぼ安定しているが、何度か「書く・書かない」の葛藤に見舞われ、2014年の「よみがえるみどり」事件(?)で最高潮に達する。その後はもう開き直って「一生続ける」のスタンスを取り戻している。

「書く・書かない」の葛藤というのは、めっちゃ簡単に言ってしまえば「ネットに書いたら角が立つ」ということである。僕は角の立つようなことを書いてしまいがちな人間だったのだ。どうやってそこを通り抜けたのかといえば、「上手になった」ということだと思う。文章も、バランスの見極めも。あるいは生き方じたいも。覚悟がついたと言い換えても良いかも。
「これは書いてしまえ!」とか「これは書かないでおこう」というのが、すこしは巧みになったということ。下手くそだったから、あんなに苦しかったのだ。
 それからもう一つ大きいのは、「誰も個人サイトなんて見にいかない時代になった」ってこと。これは僕にとって本当にプラスに働いていると思う。Twitterに書けば角が立つけど、ホームページに書けば立たない。みんなSNSに忙しい。
 短文にはすぐ反応するクセがついているけど、「長文に反応するクセ」ってのはもう、ほとんどの人が持ってない(2020/04/03現在)。だからいまこのホームページにはぜんぜんリアクションがこない。幸いなことに僕は今もお店をやっているので、読んでくださっている方と二人きりになったりしたら「あの記事に書いてあったことなんですけど……」と話してくださる方もいる。幸福なことだ。でもここにはBBSもメールフォームもあるんだから、ネットを介して言葉をくれたっていいのよ! ほんとに、反応がないのは寂しい。罵詈雑言や非難中傷がくるよりは、なにも言わずに読んでもらったほうが何千倍も気が楽だけど。だからこんな感じでいいかな。

 とりあえずこんなところで公開してみます。




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