少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。
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2023.1.1(日) 鮮やかれ/スタア意識
2023.1.2(月) 森ウス行/複線の時代、同時の時代
2023.1.3(火) 時間を停めるピーター
2023.1.4(水) 赤ん坊と老境
2023.1.10(火) 発見
2023.1.12(木) 性欲ファースト
2023.1.13(金) 理性ファースト
2023.1.18(水) 芸術ファースト、詩情ファースト
2023.1.19(木) 復習 プラトン『饗宴』
2023.1.25(水) 僕は女の子 でもある
2023.1.28(土) オレはオトコ でもある
2023.1.31(火) 理屈の使い途
2023.1.31(火) 理屈の使い途
1月はずいぶん文章を書いた。詩も書いた。いずれも個人的に気に入っているものばかりで幸先良い。適当に
おこづかいください。
僕はわりとりくつっぽいほうだと思うが、常にりくつっぽいわけではない。基本的には「戦う」時に発揮される。
「戦う」とは前回の記事で書いたような意味である。すなわち自分が社会の中にあって、何らか自分を侵食してこようとするものから防衛する局面において。僕にとって「人を笑わせる」ということも防衛の一環だ。
有名な話で小学4年生の時、クラス内での地位があまりに低いことに気づいた僕は、「このまま一生を終えるのか?」という恐怖と不安に苛まれた。「そんなのいやだ!」と強く思った。当時の僕は「いじめられっこ」の半歩手前で、いつそうなってもおかしくないような存在だった(おおむね松尾が悪い)。
それでいじめられないために、地位を高くするためには何が必要かを考えた。1に体力と運動神経だが、それは無理。2に勉強か?と思ったが勉強ができても軽んじられているやつはいる。3に偉そうな態度、松尾はまあこれだけど、親がヤンキーで空手やってて、みたいな背景もあるから僕には向かない。そして残ったのが「面白いやつ」という立ち位置であった。人を笑わせる人間はいじめられない。これだろう。「とりあえず明るくなろう」と思った。
僕はいつも冗談ばかり言っていて、人を笑わせるのがそれなりには得意である。もとを辿れば防衛のために身につけた処世術であった。今とても役に立っている。ありがたや。
ギャグとかジョークというのも、おおむねは理屈。こういう場面でこういうふうにこういうことを言えば(すれば)この人は笑ってくれるだろう、という計算を瞬時に、綿密に行う。独りよがりに思いついたことをただ言うだけでは他人は笑ってなんかくれない。つまんないギャグが平気で言えちゃう人ってのはさぞ幸せな人生を送ってきたのだろうとつい皮肉で思ってみたりする。防衛が必要なかったか、逃げたり耐えたりってことができたのだろうか。あるいはどんなつまんない話でも笑ってくれる人が常にいたのか。僕には戦うしかできなかった。
では、戦ってない時にはどうか? 完全に戦闘態勢を解除できる時。それは「仲良し」ということ。「気を許す」という言葉に近い。そんなとき、僕は理屈からようやく解放されるし、「笑わせる」という能動的な態度をとらなくなる。「面白い」よりも「楽しい」に重点がシフトする。
「楽しい」は共同作業である。「笑わせる」ではなく「笑っちゃう」になる。つくりあげてゆく。一緒にバカみたいにギャハハって笑う。はたから見れば「なんでそれがそんなにおもろいん?」ってくらいのもんでも、もうお腹痛くなるくらいずっと笑っちゃう。
理屈なんて不要。あってもいいけどスパイスに過ぎない。もちろん「笑う」ってことにとどまらない。あらゆるやり取りが、あらゆるコミュニケーションが、理屈から解放され、また意味からも解放される。
逆を言ってしまえば、理屈を持ちだして語る時、その場面が「仲良し」的であることは少ない。「別れよう」と言って「どうして?」と返した時点で、もうその関係は終わっている。それ以上は何を話しても無駄である。いやもちろん、あまりに唐突でビックリして「え、なんで?」と言っちゃうのはまた別で。うん、仲良しだったら、そんなイタズラみたいなことされたらむしろ口を突いて「は? なんで?」が出ちゃうだろうから、正直このたとえは微妙だな。そもそも別れ話してる時点で仲良しっぽくないし……。
もうちょっと本質に戻って僕っぽい言い方をすると、「別れる」ということが発生する時点で、「付き合ってる(ないし結婚してる)」ということでありますから、そこは理屈の世界なんですよね。だから戦いになるんです、そういう人たちは。
人が仲よくなるためには理屈って必要な時もある(大人になったら一層そう)んだけど、仲よくなっちゃったらもうあとは、いかに理屈から解放されるか、というところになると僕は、今の僕は、ごく個人的に思っている。ルールっていうのはいつかルールが必要じゃなくなるための暫定的な措置、みたいなことを橋本治さんが言っていた。これも『ぼくたちの近代史』。一昨日が命日でしたね。「子どものまま成熟する社会」っていうフレーズがその本にはある。大人(ルール)を経由することは今のところ仕方ないけど、いかにその力を借りて迅速に子どもに戻るか、っていうことが、僕は大切だと思っております。2020年代以降は徐々にそうなってゆきます。
「どうして?」というのは理由を求める言葉。因果関係というのは理屈、論理の本質と言っていいようなもの。これが必要になったらもう「仲良し」っていう子どもの状態はつくれない。大人という「ルール」の領域になってくる。
なんて書いている僕の幼少期、口癖は「なんでいかんの?」だったらしい。大人というものは「なんでいかんのか」を説明してくれる存在で、説明できなかったら「いかん」と言える正当性はない。そういうふうに考えるイヤな子どもだったんでしょう。「大人がルールを作るのはいいけど、そこに理屈ってのはあるんだよね? ないならそりゃ勝手ってもんだよね。まあ僕はそれに従うしかないから従うんだけど、インチキだとは思っちゃうよね」くらいの。
そういう態度はかわいくないし、およそ仲良しとは遠いものだろうから、現在のかわいいぼくはちゃんと、気を許せる相手にだったら絶対言わない。ワンとかニャーとかだけ言って。
2023.1.28(土) オレはオトコ でもある
「ぼく女の子なの」なんてしおらしく言ってチヤホヤ可愛がってもらおうなんて魂胆狡猾につきすでに僕のこと大好きな相手ならいいけどあんまりそうでない人からは「ハァ?? ぶってんじゃねーぞ」とお怒りを受ける可能性あるなと勝手にビビってるんでバランス取るために自分がちゃんとオトコであるような話もせんとかん。
うちのお店で働いてくれている方が、少し前に
こんなツイーートをしていた。
夜学バーは"バー"なんだけど喫茶店要素・スピリッツもふんだんに含まれたバーだと思ってはいます。でも夜学"バー"だね。店主であるジャッキーさんもごくたまに 飲み屋街のバーのマスター みたいな顔をギラッとすることがあります
同じ人が
件の記事について感想を送ってくれて、その中で「たまに私はジャッキーさんのことを『オトナの男性の顔をギラっとすることがある』と言ったりして」という一節があった。上記ツイートがまさにそれでありましょう。やっぱ「ギラっ」なんですね。24歳くらいの時、当時19歳の友達から「たまに獣のような目をしますよね」と言われたのも思い出す。
要するに僕はこの記事で「自分は(かわいいうえに)かっこいいんだぞ」と言いたいのである。
単純なナルシシズムではないということはこの日記を23年分読んでいただければお分かり頂けよう、かなり複雑なナルシシズム、現況の到達点であり、またどこかへと向かう経由地でもあろう。
藤子不二雄Ⓐ先生の『無名くん』という作品の単行本に「男の顔は一つじゃない!」というキャッチフレーズがある。男だか女だか知らないが人間の顔は一つじゃない。運命はいくつもある(関係ない)。同時。さまざまな顔が一つの顔の中に矛盾なく存在していて、その比率は時と場合により変わる。
ご存知の通り(?)僕は「関係」という概念を重んじる。拙い理解ながらお釈迦様は「定まったものはない、すべては関係によって成立する」みたいなことをおっしゃっているはず。確かそれを縁起とか言う。また拙い理解ながらお釈迦様は「対機説法」というスタイルでお話をされていたらしい。「定まった話し方などない、すべては関係によって成立するのであるから、相手との関係によって話し方も変わる」みたいなふうに理解している。つまり、相手や状況によって説法の仕方や内容を変えるというのである。たとえばAさんに対しては「酒なんて百害あって一利なしです、絶対に飲んではいけませんよ!」と説く一方で、Bさんには「お酒は百薬の長ですからね、飲み過ぎに気をつけて適度に楽しむのが良いでしょう」と説く。近代的な考え方だとこれは矛盾で、ダブルスタンダードで、インチキ野郎か詐欺師みたいなもんだが、たぶんお釈迦様は「効果ファースト」でものを考えているので筋は通る。
めちゃくちゃ当たり前のことなのだが人間誰だってそのようなことを少しはやっていて、両親に話すときと友達と話すときと先生と話すときって内容も声も顔も何もかも違いますよねって。でも一般の人間というのはだんだんそれが一種類ないしせいぜい何種類かにまとまって行くようなのです、省エネで。
幼い頃というのは「人格」が定まっておりませんから、あれこれいろんな顔をしている可能性がある。もしくは「何の顔もしていない」。自我がないと何の顔もしないまま時を過ごす。自我が芽生えてくるとシチュエーションごとにいろんな顔をするようになって、それがまるで自分が分裂しているかのように思えて葛藤したりする。それを経て「自分はこういう顔をする人間なのだ」ということがハッキリしてくると、やがてその顔ばかりをするようになって固着する。するとだいたい1〜3種類くらいの顔で落ち着くようになる。何の根拠もなくただ思うように書いておりますが、何となくそのようなことはありそうな気がしませんか。
たぶん僕はそのような成長の仕方をしていなくて、いまだ無数に分裂したまま。「自分」なる定まったイメージはほとんど持つことができない。だって「定まったものなどない、すべては関係によって成立する」のだ。目の前にいる人間がどういう人(たち)で、どういう環境条件がそこにあるか、といったことによって自分の在り方というものはその都度いくらでも変わる。言って仕舞えば僕は「たくさんの顔を持っている」のではなくて、「いまだ一つの顔も持っていない」のだと思う。
僕が女の子でもあり、男の子でもあって、かつ「ギラっ」としたオトナのオトコでもある、というのは、僕というものがなんらの定まった形状を持っていないからなのだろう。女の子と遊んでいる時は女の子になり、昔の同級生と話している時は男の子になる、時には自分のことを「オレ」と言ったりさえする。(大人になってから知り合った人にはそれで驚かれることが結構ある、「じゃ、ジャッキーさんがオレって言った!」とかって。)しかし「僕」と「オレ」との境界線がどこにあるかというのは難しい、稿を改めていずれ考えてみたい。
オトナのオトコになるのはどういう時かというと、思いつくのは「オトナのオトコ」的なものと対峙せざるを得ない時である。要するに、社会の中で戦わなければならない時。
防衛のためにそうする。進んでってことはあんまりない。イレギュラーな形態。「本当はこんな顔したくないんだけどなあ」と思いながら。
もちろん「オトコと戦う」だけでなく「オンナと戦う」とか、性別など関係なく「戦う」時というのは僕は自分の中で最強の顔をしているはずだ。あるいは「攻める」時もそう。「守る」時もそうかもな。だけど「受け入れる」とか「遊ぶ」時にはオトコの顔はたぶんしない。角度によって男の子だったり女の子だったりするだろう。
それで僕はあんまり争いというものを好みませんから(スポーツすら避けたい)、オトナのオトコ、みたいな顔はできるだけしたくないのだ。文明人(!)が真剣にやるもんとは思えない。相手を喜ばせたり、カッコつけたい時だけでいい。享楽として、娯楽として。
ところで僕の中でスポーツというのはオトコの領域に属すもので、男の子はスポーツなんてやりません。男の子ってのは、ボールを投げたり取ったり蹴ったりするだけで楽しいものなんです。
ルールなんざァないほうが躍動する。
2023.1.25(水) 僕は女の子 でもある
僕がはっきりと自分について「女の子だ」と書いたのは「
■根強いふぁん / 平成19年9月10日(月)」という日記が最初と思われる。20歳そこそこの頃の文章なんて恥ずかしくて読めたもんじゃないが、今がんばって読んでいる。みなさまは別に読まなくていいです、とりあえず。
「高校くらいまでは僕も可愛かったと思うが最近はもう劣化してきて駄目」とあるが、たぶんそんなことはなかった。醜形恐怖症であろうか? あるいは、一人暮らしを始めた当初は不健康な生活していたし、さして明るい毎日でもなかったから、ある種の質の劣化はあったのかもしれない。それに自信もなかった。ただ転機はこの時すでにきていたはずだ。平成19年の夏、僕は「このあとは余生」と決めたのだ。そのあたりから生活は比較的シャンとしてきた。この記事は、僕がいわゆる「快方」へと向かう過渡期に残った貴重な記録である。
ちなみに嶽本野ばらはいまに至るまで一冊も読んだことないです。映画の『下妻物語』は観たけど。
声はいまだにたまに良いと言われる。女子に。げへへへ。(←過去の自分へのオマージュです、お許しください。)この頃に比べればやっぱ少し低くなってたりするらしいけど、ある段階で止まっているような気はする。世の中には久保田洋司さんのように50代でも少年のような美しい声で歌える人だっているのだ。僕も気を抜かないようにしておこう。
体毛いまだに薄い。わきげはほぼない。足も膝より上には目に見えない産毛しかない。一方、ひげはちょっと生えるようになってきた。20代まではハサミでカットするので良かったが、近年は毎日剃っている。
ところでこの電話をかけてきた女の子が誰なのか、今の僕にはわからない。僕の記憶装置はいつでもそういうふうになっている。
「目が大きいと呑み込まれそうで直視できない」は何を思って言っているのか。そんなに自信がなかったのか。「パーツ小さい系いいね」も、今だったら絶対書かないな。全然そんなことはないし。でも当時はそのようにたぶん思っていたのだ。逆張りがしたかったのもあるだろう。「自分は一般的な美の基準には則ってません!」というアピール。いろいろ考えちゃうわ。でもちゃんと「実際のところ怖いか怖くないかは99%人格で決まります」と直後にエクスキューズがあって、やっぱりこの子は賢くて賢しい。
「それにしても三ツ矢サイダーはうまい。夜中に買いに出かけてしまう飲料現在のところナンバーワン。」という一文で、『芝浦慶一短編集1』収録の短篇漫画『夏』を思い浮かべた人は相当な僕マニア。気になったらお店にあるので読んでください。名作です。書いたのはもうちょい後だと思うので、この一文は作品の種のようなもの。前日の記事にもサイダー出てきます。
後半はだいぶエモいこと言ってる。「社会に出てしまったらこのサイトも閉鎖かな」と書いている。実際には今なお続いている。いろいろ葛藤はあったのだ。
この記事においては「自分が女の子である」ということについて、具体的な記述は体毛くらいしかない。もうちょっとちゃんとした言及は翌年の「
2008/12/11 少女「的」感性について」という記事を待つ。えらそうな断言調には目を瞑って、よかったら読んでみてください。ここが核心です。たった一年でずいぶん考えが進んでいる。この頃の僕は電光石火だった。
大島弓子『バナナブレッドのプディング』や吉田秋生『櫻の園』に触発されて書いたらしい。またこの頃には橋本治もけっこう読み込んでいた。もちろん小沢健二さんの『うさぎ!』やら『おばさんたちが案内する未来の世界』の影響も大きい。
結論(のようなもの)は以下。
「変わりたくない」は、少年も少女も持ちうる感性なのだが、少年はそのことに鈍感である場合が多く、逆に女性は敏感すぎる傾向にある。しかも「少女っぽい少年」のほうが敏感であるというのもありそうで、だからやっぱり「変わりたくない」は少女「的」な感性なのではないだろうかと思う。
「少年」「少女」「女性」というワードの使い分けが不可解であるが、そこがまた良いような気もする。こまけえことぁ置いといて、言いたいことを忖度しながら考えてみます。
性別と感性とは独立して在る。男性も女性も、少年の感性と少女の感性をどちらも持っている。男性は一般に少年の感性が発現しやすく、女性は一般に少女の感性が発現しやすい。それゆえ「少年」とか「少女」という言葉のイメージはだんだんできていった。
2008年の僕は、「自分には少女の感性がけっこう多めに出ていたんじゃないか?」と疑っている。その通りだろうと今の僕も思う。
知っている人は知っているのだが僕は女の子みたいなところがある。「女の子みたいだね」って何度言われたか。その度に僕は恥ずかしくなりつつ、どこか冷静に「やっぱりそうなのか」と噛み締めたりしていた。「この期に及んでそう言ってもらえるってことは(しかもそれでリピあるってことは)、別にそれでいいってことなんだよな」とも考えた。
男の子というものは、基本的に「女の子みたい」であることを嫌がる。嫌がるもんだと社会に躾けられる。僕もそうだったから、ぼろぼろになったうさぎのぬいぐるみを「捨てていい?」と言われた時、ウンと言ってしまった。そのことは永遠に後悔し続けるはずで、その経験が僕を「本当に男の子ぶってるのでいいのか?」という問いへと導いたんだと思う。
ただし僕は少年の感性というものをものすごく持っている。おじさんの感性はたぶんあんまりない(この辺りの考えは橋本治『ぼくたちの近代史』を参照)。僕は野山を駆けまわり虫をとることが大好きな男の子なのだ、何よりもまず。ゆえにこそ自分の中にある少女の感性というものには戸惑った。「これどうしたらいいの? 持ってたらまずいよね?」という感じ。たぶんけっこう、ゲイやトランス、女装などになる可能性が潜在していただろう。実際そういう岐路みたいなものは10代から20代にかけていくつかあった。でも僕には少年の感性が満点にあったし、かなり慎重で頑固な人だから、そういう振り切り方はしなかった。
小学生の時は成人男性にあとをつけられて追い回されたりしたし、中学生の時は同級生男子の家で襲われ(?)かけたし、高校生の時は街なかで何度もおじさんにナンパされ、大学に上がるとmixiを通じて仲良くなった人たちから「一緒に発展場行こうよ、観光気分でいいからさ。楽しいよ」「一度でいいから寝てみない? 寝てみないとわからないことってあるからさ」「売り専ってノンケも多いよ、単価なんて女の子より高いし稼げるよ」等々誘われた。ある程度可愛い男子ならどれも経験があるのでは?とも思うが、少ないほうではないと思う。今思えば、「あんた本当はこっちなんじゃない?」と思わせるようなものが当時の僕にはあったのかもしれない。いやほんとに、今思えばでしかないけど。
そういえば数年前でも、梅田のスーパー銭湯的なところで仮眠とってたら知らないおじさんに身体中をまさぐられて起きた、という経験をした。恐ろしすぎてすぐ逃げた。通報とかはしていない。できないし、意味ないと思っちゃうものなんですね……なんてことを思った。あと自意識過剰すぎると思うんだけど銭湯に行くとわりと裸をじろじろ見られます。今も。
念のため書いておきますが、「(男の)ゲイは少女の感性が強い」とかいう主張ではありません。そういうパターンもあるだろうなと思うだけ。少年の感性がほとんどを占めているゲイだってかなりいるはず。
僕が小沢健二さんの次くらいによく引用してきた橋本治という作家も、そういうジャンル分けでいえば同性愛者だった。同性愛にまつわる本もたくさん出している。22歳くらいから橋本さんの本を浴びるように読んで、それによってある種の決着がついたのだと思う。余生、って決めたくらいの頃とほぼ重なる。
僕は男の子で、女の子でもあって、ただそれだけ。シンプルな話。それで困ることってのはない。違うな。それで困ることのないような生き方を、ひたすら追求してきた。そういうところ、めちゃくちゃ努力家なの。
それでだんだん、かわいい男の子めちゃくちゃ好き、ってことも隠さなくてよくなった。もちろん世の中が変わったこともあるけど、僕のほうでも「それを言っていて問題ないような状態」であることに努め、「それを聞いて問題になるような人のそばには極力近づかない」ということを気をつけている。環境と心理。
Folderや子供向けアニメや児童書が大好きなこととかもこの日記で最近(自分なりには)完璧に正当化した。「僕は9歳だから」っていう理屈。本記事はそこに「僕は9歳の男の子であり、ちょっとくらいは女の子でもある」と補足するものである。女児と言うと嘘になるが、男児と言っても不十分なのだ。なぜだか。
もう身もふたもないような、変態的と思われかねない書き方をするが、やっぱり子供ってのは性別なんてないのです。分かれていない。いや、分かれてはいるんだけど、離れてない。すごく近くにいる。双子のように。一卵性双生児だって別の人間ではあるんだけど、幼いうちは本当に外見も内面も差があまりない。そのような意味で。
一つの道が二つに分かれていくY字路を想像する。しばらくは手を振り合えるくらい近くにいるが、だんだん離れてゆくだろう。男の子と女の子というのはそういうものなのかもしれない。その角度がよほど急であればすぐに離れてしまうが、ほとんど0に近いような角度であれば、いつまでも手を振っていられる。いや、手を繋いでいることさえできるかもしれない。
社会というものはその角度を規定する。それに従って僕はぬいぐるみを捨てた。本当は嫌だったし、今でも人生の最大の後悔と言っていいくらい気にしている。古い写真の片隅にうさぎは少しだけ写っている。
ここんとこは本当にありがたい、僕を可愛がってくれる人が増えた。それはでもこの5〜6年くらいの話。女子校に勤めたことと、長くずっと僕のことを「かわいい」と言い続けてくれている人のおかげ。「これでいいんだ」と少しずつ思えてきて、だんだん自然に笑えるようになってきた。本当にありがとう。
僕がどうして心を閉ざしていたのか、秘密はたぶんこのあたりにある。年齢も性別もわからなかったのだ。どんな顔をしていいか、どんな話をしていいか、何もわからなかった。がむしゃらに本を読み人と会い文章を書くしかなかった。たくさんの人に迷惑をかけてきた。ごめんなさい。まだ実は問題がいろいろあって、これからも迷惑はかけ続けるのかもしれない。個人的にはめちゃくちゃ面白いんだけど、他人からしたらたまったもんじゃない。そこでバランスをとる技術を、僕は最も努力して磨き続けているのだと思う。それでも上手くはできないんだけど。
さあだいぶ極まってきた。これはもちろんプラトンの『饗宴』という作品に関連している。どう関連しているかを説明するのはまだ至難である。少しずつ解きほぐしていくつもり。
ここまで書いて記事の題名を決めた。「僕は女の子 でもある」これは、すなわち「同時」。令和のテーマ。最近
この記事に書いたことですね。
これまでの世の中ってのは本当に二者択一で、「どっちか」を選ばなければならなかった。「いずれか」一つに絞る必要があった。だんだんそうではなくなる。「同時」ということが可能になる。マリウス葉がSexy Zoneとしての活動を辞めて別の道筋を歩みつつ、同時にSexy Zoneのメンバーでもある、というような話。量子論的なこと、って言っていいだろうと僕は思う。
だけど人の心ってのは急には変わんないから、難しいんだよね。自分で言うのも変だけど僕は、あまりに先端を生きすぎているのだ。
あなたは今 完璧な勝利者 でもある あなたは今 完全な笑顔(町田康『仏筋』)
2023.1.19(木) 復習 プラトン『饗宴』
プラトンの『饗宴』について考えるとき、必ずある女の子が思い出される。かつてその人に宿のない日、僕の家に来て朝まで語り合った。男女のなんかそういうようなものは一切なく、ただ清談に夜は明けた。その時に川端康成の『朝雲』と併せて、『饗宴』のことも教えてもらった。
その人はその日僕の顔を「美しい」と言った。そのことはすでにこの日記の中で自慢されている。真意はたぶん『饗宴』の中にある。『饗宴』は美について語る。その内容を彼女はたぶん念頭に置いていた。その上での「美しい」であったはずだ。
その人とはずっと仲良くしていたのだが、しばらく会っていない。近年少し優れなくなったようだ。連絡をする代わりにこんな文章を書いてみている。あなたのことを僕は好きである。こちらも美しいと思っている。何を誰かをざわつかせるようなことを書いとんねん! 悪い癖やぞ! と思うんだけどやっぱり、これを書かないといまいちこの先を書けない。内容に関わるというよりは、ただ正直に、気分として。
直接にも間接にも影響を受けている。いろいろな。それは単に「友達」というだけのことで、それ以上のことは何もない。友達がラルク好きだからラルク聴いてみたとか(初期読者しか分かりませんがボードバカくんのことです)その程度の話でしかない。だけどそれこそが友達ということで、友達以上のことなど何もない。好きな人の好きなものって気になるよね、好きになるよね、って。
『饗宴』についての僕の主たる関心事についてはたぶん
この日記(2022年4月22日)を読んでいただければいいし、日記一覧ページから検索していただいてもよいです。
この道を正しく進もうとする者は、次のようにしていかねばならぬ。まず、若いときに、美しい体に心を向かわせるところからはじめる。指導者が正しく導くなら、その者は、最初は一つの体を愛して、そこに美しい言葉を生み出す。ところが、その者はやがて次のように悟るのだ――一つ一つの美しい体が持つ美しさは、みな兄弟のようにうり二つであり、いやしくも姿における美を追い求めようとするならば、あらゆる体における美しさは同一なのだと考えなければ筋が通らぬのだとな。
ひとたびこのことに気づけば、その者は、すべての美しい体を愛する者となるであろう。そして、ひとつの体への執着から解放され、それを軽蔑してつまらぬこととみなすようになる。その後、彼は、心の美しさのほうが体の美しさよりも尊いと考えるようになる。だから、心の優れた者がいるなら、その体があまり美しくなかったとしても、彼はその人に満足し、その人を愛していつくしむようになる。そして、若い人たちをより優れたものにしてくれる言葉を生み出すのだ。その結果、彼は次に、人間のふるまいと社会のならわしの中にある美しさを観察する。そして、それらの美しさはすべて互いに密接につながり合っていることを見て取るはずだ。そして、体の美など些細なものにすぎぬと思うようになるのだ。
さて、彼は、人間のふるまいに続いて知識に心を向け、こんどは知識の美しさを見ることになる。彼はすでに十分に多くの美を見ている。だから彼はもう、ただ一つのものに、下僕のように仕えるようなまねはしない。すなわち、彼はもはや、一人の少年の美や、一人の人間の美や、一つのふるまいの美の奴隷になってしまうような、視野の狭い、つまらぬ人間ではないのだ。そうではなく、彼は美の大海原に漕ぎ出して、美を観察する。そして、知恵を求める果てしなき愛の中で、たくさんの美しく荘厳な言葉と思想を生み出すのだ。こうして、彼はよりたくましく成長していき、ついには、ある一つの知識を手にするに至る。それは美に関する知識なのだが、その美というのは次のようなものなのだ』
『できる限り心を集中させて聞け』と彼女は言った。『エロスの道の手ほどきを受け、この段階まで進んで来た者は、正しい手順と方法で美しいものを観察していくことにより、ついにエロスの道の終着点に到達する。その者は突如、ある驚くべき本性を持った美を目の当たりにするのだ。ソクラテスよ、それまでのすべての苦労は、その美のためになされて来たものなのだ。
第一に、その美は永遠であり、生じたり消えたりすることもなければ、増えたり減ったりすることもない。第二に、それは、ある見方では美しいが別の見方では醜いとか、あるときには美しいが別のときには醜いとか、あるものと比較すると美しいが別のものと比較すると醜いといったものではない。また、この地では美しいが、かの地では醜いーーすなわち、ある人々にとっては美しいが、別の人々にとっては醜いーーといったものでもない。
さらに言えば、その者には、この美は、顔や手といった身体の部分のようには見えないし、なんらかの言葉とか知識のようにも見えない。また彼には、この美が生物とか大地とか天空など、美とは異なるなにかの中に内在しているようにも見えない。むしろ、その美は、ほかのなにものにも依存することなく独立しており、常にただ一つの姿で存在しているものなのだ。これに対して、それ以外の美しいものはみな、この美をなんらかのしかたで分かち持つことによって美しい。そのため、それ以外の美しいものは、美しくなったり美しくなくなったりするのだが、この美は、より美しくなったり美しくなくなったりするようなことはなく、なにものからの影響も決して受けないのだ。
さて、正しい少年愛を通して、このような段階に至るとき、この美の姿が見えはじめる。そうなれば目的にたどり着いたも同然。エロスの道を正しく進むとか、誰かによって導かれるというのは、このようなことを指す。すなわち、さまざまな美しいものから出発し、かの美を目指して、たゆまぬ上昇をしていくということなのだ。その姿は、さながら梯子を使って登る者のようだ。すなわち、一つの美しい体から二つの美しい体へ、二つの美しい体からすべての美しい体へと進んでいき、次いで美しい体から美しいふるまいへ、そしてふるまいからさまざまな美しい知へ、そしてついには、さまざまな知からかの知へと到達するのだ。それはまさにかの美そのものの知であり、彼はついに美それ自体を知るに至るのである』
そして、マンティネイアからやってきた女性は、こう話を続けた。『ソクラテスよ、いやしくも人間の生が生きるに値するものになるとしたら、それは美そのものを見ているこの段階においてなのだ。もしおまえがいつの日か美そのものを見ることがあるなら、それは、黄金とか衣装とか、美しい少年や青年といったものと同じ次元にあるものではないと思うことだろう。いまのおまえは、ほかの多くの人たちと同じように、そんなものを見て驚嘆し、少年の姿を眺めて、いつも少年と一緒にいたいと熱心に願っている。もしできることなら、食事のことも忘れ、ひたすら少年を見つめて、一緒にいたいとな』
『では、われらはどう考えたらよいか』と彼女は言った。『もし誰かが美そのものを見ることができたとしよう。それは、純粋で、清らかで、混じりけなく、また人間の肉体とか肌の色のような、いずれは滅び去ってしまうたくさんのくだらぬものによって汚染されてもいない。もし、ただ一つの姿を持つそうした神聖なる美そのものを見ることができるとしたらどうであろうか』
そして、彼女は話を続けた。『人間がそちらのほうを見つめ、美そのものを、それを見るのに必要な力を使って眺め、そしてそれと共にあるとき、おまえはその生をつまらぬものだと思うか』
そして彼女は言った。『いや、むしろこうは思わぬか。ーーそのような生においてのみ、人間はしかるべき力を用いて美を見る。だから、そのような者が徳の幻影を生み出すようなことはない。なぜなら、彼が触れているのは、幻影ではないのだから。むしろ、彼は真実に触れているから、真実の徳を生み出すことができる。そして彼は、真実の徳を生み出して育むことにより、神に愛される者となり、また不死なる存在にすらなれるのだとーーもっとも、そんなことが人間に許されればの話だがな』
(光文社古典文庫、中澤務訳)
美というのは、そのように学んでいくものなのである。追い、少しずつ知り、わかっていく。
核心をのみ引用するなら「一つの美しい体から二つの美しい体へ、二つの美しい体からすべての美しい体へと進んでいき、次いで美しい体から美しいふるまいへ、そしてふるまいからさまざまな美しい知へ、そしてついには、さまざまな知からかの知へと到達するのだ。それはまさにかの美そのものの知であり、彼はついに美それ自体を知るに至るのである」ここだろう。
彼女が僕を「美しい」と言ったのは、このいずれかの段階での美をさすのだと思う。「かの知」「かの美」に至るために、彼女は誰かを、何かを、美しいと思ったのだ。
勝手だが、本当にその気持ちを絶対に忘れないでいてほしい。君は僕にこのことを教えてくれたのだから。とても辛いことがあって、とても苦しい時間があったとしても、美に向かう心だけは失わないでいて。こんな言い方を僕がすることはない。人に何かを要求したりなんて僕はしたくない。だけれども今日、ここでだけ言うことにする。
友情よ本当に長く続いていてほしい。なんとなく遠ざかってしまったいろんな人たちへ。死灰復燃なんて言葉を今知った。
書きたかったことは何も書けず、ただ祈りのような私信になってしまった。この引用部を前提とした何かを近く書くと思います。
2023.1.18(水) 芸術ファースト、詩情ファースト
芸術ファーストの世界観では常識が二の次となる。常識とは「そういうもんだ」という無思考。ゆえに最も効率が良い。芸術は効率の埒外にある。
僕は売れない芸術家で、常識から離れて生きている。売れる芸術家のほとんどは、「売れる」という点で常識と隣接している。芸術と常識とを行き来することによって「売れる芸術家」という矛盾した存在は成立する。
真の意味での「売れる芸術家」というのももちろんいて、そういう人は常識から完全に離れても、売れることができる。でもそれは100万人に一人とかそういうレベルだろう。日本に現在100人もいないんじゃないか。時々山から降りてきてササっと書いた色紙の一枚が5億円くらいする、みたいな。ただしそのほとんどは「伝説という付加価値」なわけで、本当に芸術と言っていいのかはよくわからない。いや、芸術ってのは実のところ伝説ってことなのかもしれない。「どう考えても常識外れのあり得ない話だが、確かにあったことらしい」というようなものが伝説と呼ばれるのだから。
常識的なものは芸術と呼ばれない。当たり前だ。常識というのは「誰もが知っている」もので、芸術とは「誰も知らない」ものを新たにつくり上げることを言うのだ、と僕は思っている。
本当に、僕と付き合いを持とうという人はよく覚悟してほしいのだが、僕には一切の常識がない。「売れる」という社会との接点すらない。世の中のことはいったんすべて切り離して、野生の野原を原点としてものを考える。
佐藤春夫について芥川龍之介が書いた文章が僕は好きなのだが、そこにこうある。
佐藤はその詩情を満足せしむる限り、乃木大将を崇拝する事を辞せざると同時に、大石内蔵助を撲殺するも顧る所にあらず。佐藤の一身、詩仏と詩魔とを併せ蔵すと云うも可なり。
(芥川龍之介『佐藤春夫氏の事』)
えー、念のため和訳(?)しますと、佐藤春夫は詩情ファーストでものを書くので、乃木大将への崇拝も大石内蔵助の撲殺もどっちも平気で書いてしまう。えーつまり、乃木大将も大石内蔵助も「主君への忠誠」という点で共通した思想的存在だが、佐藤春夫には思想とかないので、というより常に詩情が優先するので、乃木大将を崇拝したほうが詩的だと思えばそうするし、大石内蔵助を撲殺したほうが詩的だと思えばそうする。いわば詩の奴隷というか、詩情の前に思想が立つということは絶対にない。「詩仏と詩魔」を併せ持つというのは、「良いも悪いもリモコン次第」的にいうと、「良いも悪いも詩情しだい」ってやつ。ビューンと飛んでく詩人28号、なわけであります。
それが芸術の範囲だけに収まればいい。実際佐藤春夫は、太宰治とか坂口安吾とか織田作之助とかっていう無頼派連中に比べればずいぶん穏やかな長い生涯を送った、ように見える。でもそれは「見える」だけなんじゃないか? と僕は訝しんでいる。彼は詩情ファーストであって、無頼ファーストでも刺激ファーストでも自慢ファーストでも思想ファーストでも意味ファーストでもセンセーショナルファーストでもないから、「そういう作品」を(あまり)書かなかっただけなのではないか?と。
有名な谷崎潤一郎との「細君譲渡事件」はまさに常識外れで、そういうことが平気で(?)できる彼らは、やっぱ芸術家なのである。しかしそのセンセーショナルな事件を描いた『この三つのもの』がまったく有名でなく、評価もそんなに高くない(未完ゆえ仕方ないのだが)というのも、いやほんとそういうとこ、さすが佐藤先生は違いますなあ、と僕は心の底からこの大作家を愛おしく思う。
佐藤春夫は詩情で書いてしまうから売れていない。これがそれなりには売れていた存命中の時代を僕はこれまた愛おしく思います。詩ってのがまだ、詩の外にいて元気だった時。
そう、そもそも詩というものは、散文=意味とは離れて、独立した体系を持った、いや体系すら持たない存在なのである。言葉の芸術というものの基礎はやはりここにあるのだと僕は信ずる。
で、芸術家というものは、散文=意味=常識=世間=社会といったものから離れて存在するもので、幸か不幸か自分で言うのも変だけどおそらく僕はそういう者だ。そして離れ方が下手くそだから売れていない。もっと大きく離れるか、付かず離れずできていれば売れる可能性もあろうが、まだまだ臆病な僕は一定の距離を測りながらおずおずと世間の隣で指くわえて迷子してる。
しかもそういう自分が結構好きである。これは恨み言でない。呪詛でない。単に「自分はそういう系統の芸術家である」という自覚の話。で、「自分で芸術家とか言っちゃって何なのこいつ?」と思われないために「売れない」という枕詞をつけてみている。そういう保身が「一定の距離を測る」というやつで、振り切れていない部分。だけどね、そういう臆病で慎重なところが好きだよボク、末っ子だもんね。
だからこそこの時代を自由に生きられているんだよ。変に売れたら終わりの世界になっちゃってる気がする。太ったら水に浮くけど動きは鈍る。痩せて沈んで、だけど優雅に泳ぎたいのさ美しく。
静かに、水面下、誰にも気づかれないでキチガイやってる。詩仏と詩魔。「二匹の虫けら」育てている。(参考文献:hide『BREEDING』)
自分でも何やってんだかよくわからないことがある。常識をすり抜けるダンス。その動きはたまに滑稽だ。世間のほうでは合わせてなんかくれないから、くねくねと僕は僕の形を模索し続ける。
もともとは何もなかったのだ。それを文明が後付けでいろんな設定をつけた。それを考えると、もう全てが本当は自由なのだとしか思えなくなってくる。
去年人を殺したのかもしれないのだが、さして動じもしなかった。人を傷つけてまた泣かせても、何も感じ取れないのかもしれない。いつの間にだかそうなっちゃった。ただ、いっさいは過ぎていきます。
2023.1.13(金) 理性ファースト
昨日は性欲ファースト、享楽ファーストについて書きましたが、それと対置される概念として理性ファーストがあります。
こないだ友達から、「ジャッキーさんは性欲をこちらに向けている感じがしないから友達として付き合いやすい」的なこと(表現はアレンジしています)を言われました。繰り返しますが僕は健全な男の子ですから性欲というものをちゃんと持っていて、世の多くの男たちと同じく「宝くじを買うような」レベルでの下心というのは常にあります(正直でいいじゃないですか)。しかしどんなわずかな性欲であってもそれを相手に「向ける」ということをするのは暴力であって、それをしないよう調整する心が「理性」なのであります。
性欲は性別や性志向、性自認を問わず、「性欲がない」というセクシャリティを除いてどんな人にでもあるものと思っておりますが、その多寡は当人、また相手、場合によって様々だし、何よりそれを他人からわかるようにダダ漏れにさすかどうか、っていうのは理性ある人間ならば選択、操作(コントロール)できるはずですね。
「思っちゃんたんだからしょうがない」というのは爆笑問題カーボーイというラジオにかつてあったコーナー名(今は「今週の思っちゃった」)。うむ、思っちゃうところまでは仕方ないのである。そこまでの潔癖さを僕は持っているわけではない。そこまで綺麗な人間ならばこんなに長い文章を書くようになどならなかったと思う。
秘すれば花。秘めねばならん。人に理性がなければ醜いだけだ。いや、もともとが無であれば何も隠す必要はないが、内容が膨大であれば隠す必要が生じる。膨大で複雑な人間ならば、汚い膿も必ず出る。実のところそれでその膨大さを隠さずにいる人が「売れやすい」傾向にはあるんだが、この段階で僕の潔癖が出てくる。その膨大さをまずは隠したい。恥ずかしいから。みっともないから。だけどたとえばこの日記をよく読んでもらえればその膨大さはじわじわ伝わっていくはずである。そのために書いている。そこを覗いた人間は深みにはまってゆく。そういう惚れられ方、付き合い方を僕はしたいのである。水面下、密かに遊ぼう。
性欲は暴力という話をした。もっとわかりやすく「殴る」という暴力について考えてみる。何かムッとしたりカッとして、「殴りたい」と思うことは多くの人にあるだろう。少なくとも男ってェやつは生来暴力的なんで(差別発言です)、「ぶん殴ってやろうか」なんてすぐに思うもんなんですね。だけどほとんどの場合は殴らないし、「殴るぞ」とか「殴ってやろうか」という態度さえ表には出さないものです。出す人もいます。怖いですよね。理性ファーストでなく「本能ファースト」で生きているわけです。
理性ファーストの人間は、「腹が立つな。許されるならボコボコに殴ってやりたいわけだが、喧嘩になって勝てるとも限らないし、警察呼ばれたら逮捕されるし、後での報復も怖いし。いずれにせよ揉め事になっていいことってないからな」と考えて、殴りたい気持ちをおくびにも出さない。スカッとしたいなら「殴る」以外の方法で相手を苦しめる道を探りますね。いや冗談。自分にそれ以上不利益がもたらされないように工夫します、僕は。逆手にとって利益を得られないか、とか。前向きに。
おとなしそうな(おとなしそうだと思います)僕だって「殴りたいなあ」と考えることくらいあるのですが、「殴る」という行為に出たり、それを匂わせることはまずありません。「それをしてもトクはない」と理性が優しく教えてくれる。同様に、草食そうな僕だって「グヒヒ」と性欲を催すことがあるのかもしれません(あえて婉曲な書き方)。でもそれを表に出すのは「殴りてぇ〜〜!」と道端で叫ぶようなものです。
中学のとき、谷本くん(読んでたら連絡くれ)が、同級生のHくんが教室で座っているのを見て「ああ〜〜殴りてえ! なあオザキ、Hのこと見てるとなんかマジ殴りたくなんねえ?」とか言っていて、「なんねえよ」と思ったものですが、中学生男子というのは理性とかなくて本能ファースト、暴力ファーストですから、さらに言えば性欲ファーストで享楽ファーストなんで、もう殴りたくなったら「殴りたい!」と言うし、実際殴るやつもいました。
Tくんなんか授業中に教室で射精してたし、Mなんか外で遊んでて知ってる子が通りかかったら「ちょっと来い」って呼んで一発殴って「(殴らせてくれて)ありがと」とだけ言ってそのままバイバイするような意味のわからないやつだった。そのMは20歳の時に自殺した。他殺説もある。恐ろしいまち、上飯田。
高校は天下の向陽高校(古典のMYG先生がそう言ってたので永遠にこう呼んでいる)だったのでほとんどの人が理性ファーストで、劣悪な環境に順応しきっていた僕だけがむしろ本能ファーストの香りを漂わせていたのかもしれない。ゆえにかなり浮いていた。今思えば。
話は飛びますが思いついたので書きますと、僕が初めて完成させた長編小説は『たたかえっ!憲法9条ちゃん』(2009)で、これと最高傑作の呼び声高い中編『女の子のちんちんって、やわらかいと思う』(2010)の2本くらいが、僕の「理性ファースト」の真骨頂といいますか、僕の中にある超巨大な本能とか性欲とかみたいなものをそれ以上に強大なウルトラ理性でまるっとくるんで気のふれた名作に昇華した、みたいなやつなわけです。このあたりでたぶん、僕の本能や性欲はかなり落ち着いてきていて、ゆるやかに理性圧勝の世界へと進んでいったのだと思います。
性欲は暴力であり、本能は放っておけば簡単に暴力として表出する。それを抑えたり変換したり昇華したりってのが理性の役目。暴力ファーストではなく、調整ファーストっていうか。バランスファースト。
求心と遠心、ということにも大いに関係する。性欲ファースト側の考え方ってのは「目的を達成する」ということに第一義を置く求心的なあり方。「ヤリたい」とか「気持ちよくなりたい」という目的が最初にあるわけですね。理性ファースト側の考え方は、目の前にある環境、条件、材料などを見て、どのようなバランスでやっていくかを熟慮する。どこに行くかはわからない。その時次第。理性しだい。遠心的で、散歩的な感覚なのだ。
場合によっては「ヤラない」を選択するし、「気持ちよくならない」を選択することもありうる。全体のバランスを考えてそれが良いと判断すればそうする。で、当然「最終的にやっぱこっちのほうが気持ちよかった!」になることを期待する。急がば回れ。それが理性ファーストの欲望である。
よーするに、ガツガツしてっとモテねーぜ、ってことなんだが、表面的にはどうしても、性欲ファーストの人のほうが欲望をたくさん達成しているかに見える。つまりめっちゃセックスしてる。騙されてはならない。そういう「数値ではかれること」の大きい小さいに一喜一憂すること自体が、理性的でないのだ。自分にとって何が幸いであるか、ということだけが重要です。まだセックスで消耗してんの? っていう境地だってあるという話。
2023.1.12(木) 性欲ファースト
というタイトルをつけてみて、三河島の大好きな喫茶店にいるあと50分間で書けるだけ書いてみます。
〇〇ファースト、の代表はなんといっても「都民ファースト」と思うのですが、これは2016年夏の都知事選後に小池百合子さんが言い出したことのようですね。僕の持論は「2016年で世界は変わった」でして、意外と重要な言葉だったりするのかもしれません。
その前には実は小沢一郎さんが「国民の生活が第一」という珍妙な名称の党を作っておりますがこれは2012年。もしこれが「国民ファースト」とかいう党名だったら、ほんのちょっと風向きが変わっていた可能性はあると思います。小池さん上手いですね、なんてラシからぬ政治トークから性欲の話に入ってゆきます。
性欲ファーストというのは「自分の性欲が第一」という考え方のことで、たとえば「セックスしたい!」という気持ちが先に立ち、その達成を目指して行動を決めてゆくという求心的な発想を言います。
最近、僕の中で空前の「夜ブーム」が起きておりまして、深夜お店が終わってからなんとなくおうちに帰る気になれず、楽器の練習をしたり文章を書いたり詩を書いたり、どこかのお店にチラッと寄って(そしてチラッじゃ済まなくなったりして)みたり意味もなく歩き回ったりネットカフェに行ってみたり銭湯に寄ったり友達と喋ったり、なんだか色々しているんですね。夜じゃないとできないこと、起こらないことというのがあって、健全な昼の生活をしているとそういう感覚はすっかり忘れ、世界の半分が見えなくなってしまうから、割と定期的に「夜ブーム」は意識的に作っております。
それでもやりすぎると生活リズムが崩れ、昼の住人でもあるほうの自分が今度は死んでしまうから、うまくバランスをとっていこうとしているのが現在。できるだけ2時くらいには帰って3時には寝たいのですが、ブームのうちはどうしても4時〜5時くらいになっちゃう。意図しているわけではなく、「今日は早く帰るぞ」と思っていたはずなのに本当にいつの間にかそうなっている。病気。治療が必要。少しずつがんばります。
夜も昼もそう価値観に違いはないやろ〜、と思う人もいるかもしれませんが、本当の夜ってのは本当に昼とは異なっている。こないだあるお店で飲んでいたら、隣に座っていた若い男性が、「オレはセックスするために飲みに来てんじゃないんすよお! 楽しいが8〜9割、セックスは1〜2割っすね! 楽しく飲めたらいいんですよ、そんでセックスできたらラッキーだな! くらいに思ってるんす!」と豪語しておられた。僕のような健全な男の子は、「えっ……セックスが1〜2割もあるの? でかくない??」と驚いてしまったのでありました。
この方の主張はおそらく、「自分はセックス目的度が低いほうだが、他の人はもっと高い」ということと思われる。とすると、一般的には深夜、お酒を飲みにくる人というのは、3〜4割とか、5〜6割とか、ひょっとしたらもっと高い割合でセックスのことを考えているわけですよね。こういうのがたぶん性欲ファーストの世界。
いい子ぶってるわけでもカマトトぶってるわけでもなく、僕には本当にピンとこないのだが、だいぶ大人(30代とか)になってからわかったことに、みんな思ったよりセックスのことを考えていますよね。なんか大学生とかめちゃくちゃセックスしてますよね。本当にびっくりしたのです。自分の教え子の世代が大学生になって、「こないだ〇〇とやって……」みたいな話を聞くようになり、「は? セックスってそんなカジュアルにするもんなの?」とビックリしたのです。本当の夜の世界ってのも、僕なんかが思うよりずっとカジュアルにセックスをなさっているのですよね、きっと。それこそ「文化がちが〜う」というものだが、その文化を全く知らないのでは「世界の半分が見えなくなっている」ということにつながってゆくので、たまにそういう世界観の空間を覗くとめちゃくちゃ面白いのである。
昔なら合コンとかをやれば、何割か(何パーセントか?)の確率で「お持ち帰り」みたいなことになっていたわけですよね。僕は一度も合コンに誘われたことがないので知らないのですが。(厳密に言えば高1の時に名学の同級生に誘われて1回だけ公園で他校の女子生徒と会ったことがありますがなぜか瞬時に解散したためノーカンで。)今はマッチングアプリですね。ビビりますね。職業柄というかジャッキーさん柄、いろんな人の話を聞く機会があるのですが、みんなめちゃくちゃマッチングアプリやって、平気でカジュアルにセックスしてますよね。「みんな」というのはもちろん文字通りの「みんな」ではなくて、そう言いたくなるほどのかなり巨大な塊の集団がある、というようなニュアンスです。
そういうのを大きく括って僕は、「あー、性欲ファーストやってんな〜」と思います。いわゆる「女の子のいる飲み屋」というのは性欲ファーストであって、「セックスの可能性」をそれぞれがある程度の割合で握りしめてやってくるようなのだ。もちろんその場でそれが行われることはまずなくて、「期待」だけがある。女の子のほうでもそれをあの手この手で匂わせるだけ匂わせるのが商売で、お客はその「セックスの可能性」を買う感覚で、数時間の享楽に数万円を支払う。宝くじや競馬と似たようなものである。彼らはギャンブラーなのだ。僕はこのような、ダイレクトな性欲ではなくて、自分なりに工夫して予想くじを買うようなギャンブル的な性欲のあり方を「享楽ファースト」とでも名付けたいと思う。
ここでシャンパンを入れれば気に入ってもらえるんじゃないか? 気に入ってもらえればいつかはセックスにありつけるのではないか? そういう夢を買っているのだ。享楽ファースト。それは競馬新聞と赤エンピツを握りしめて安酒飲んでる錦糸町ダービー通りのおっちゃんたちとほぼ同じ。彼らも享楽ファーストでやっている。
本当に不思議なのである。ガールズバーってたとえばセット料金はけっこう安かったりして、30分1500円って言ったら本当にそのくらいで済んだりする。しかし性欲ファーストが発動しますと、「女の子に気に入られたい」「カッコ悪い姿は見せられない」的なスイッチが入り、いつの間にか5000円、10000円、20000円とお会計が膨らんでゆく。あまりその世界を知らない人にはまったくピンと来ないんだろうが、本当にそうなのだ。最近僕もようやくそういう感覚を肌で知ることができてきた。だって誰もガルバやキャバに僕を連れて行ってくれないんだもの……。本当に行ったことがないのです、まったく。
最近ちょっと準ガールズバーみたいなところに行く機会が(まんをじして!)あって、そこはかなり大人しい世界なんだけど、それでも「なるほどこれが享楽ファーストか」と思えるようなシーンが十分に見られた。僕も性欲のある普通の人間なので、よく理解できる。
その先に「セックスの可能性」を何パーセント見ているか、というのは本当にお客さんによって異なる。ある人は30%くらいを期待しているし、ある人は0.1%も期待していない。でもゼロではない。そこに夢があり、お金が支払われる。宝くじだって、誰もが「1億円当ててやるぞ!」と思って買うのではない。「まあプラスになったら儲けもんだよな」という人が大半だろう。しかし「でももし1億円当たったら……」とすべての人が考える。それが「夢を買う」ということであろう。
「オレはセックスなんて考えていないよ、ただキミのことを応援したいんだよ」と本気で思っている人でさえ、本当はどこかでセックスのことを考えている。本気で「セックスなんて考えていない」と思っているのに、しかし同時に「セックス!」と心が唱えているのである。なんとも珍妙なことに、人類とは、動物とは? そういうものであるらしい。(ほんまかいな、とは思うが、ここではそう言ってしまっておこう。)
アイドルとかでもなんでもそうですね。
で、僕という人間はそれを必ずしも不健全とは思わない。自分にもそういう心はある。ただ理性ファーストの世界で生きていると、そのセックス心をいかにコントロールするか、ということに腐心するので、性欲ファースト、享楽ファーストな振る舞いとはまったく「文化がちが〜う」なのである。
性欲ファーストの世界では、「いかにゴールを達成するか」というダイレクトで求心的な動きが基本形であるのに対して、理性ファーストの世界では、「いかにバランスをとっていくか」という多角的な見方をベースにした行動選択が基本形となる。
「セックスするにはどうしたらいいんだろう?」という素直で直接的な発想をする性欲ファーストと、「セックスはしたいが、あんまりお金や時間を使うのも考えものだし、そもそもセックスがそんなに重要だろうか? それよりも相手との信頼関係とかをまず考えたほうがいいのではないか。とりあえず達成しただけの心のないセックスよりも、愛し合ってするセックスのほうが素晴らしいのではないだろうか……」みたいな面倒臭いことをつい考えてしまう理性ファースト。んまあ、人間にはどっちも同時にあるので、そもそも「ファースト」にすることがおかしいんでしょうけども。最近はなんかそういうことを考えています。
時間切れ。荒削りですみません。推敲してないんで色々目を瞑ってくださいな。理性ファーストについてもうちょっと書きたい気がするので、続き書けたら書きます(そういう時は書かれないことが多いが、のちの文章のどこかに必ず散在するのでご安心を。)
2023.1.10(火) 発見
人は人を見つけたり、人に見つけられたりする。
見つけるために目を見張り、見つけられるために輝く。
それだけで生きているのが僕である。
仲良しの発想とはまずそこから始まるのかもしれない。
友達がいなくて道を歩くしかなかった。
見つけるために歩き、見つけられるために歩いた。
散歩というものはきっと何かを見つけるためにするものであろうが、実はそれでは不完全なのかもしれない。
散歩のうちに「誰か」から見つけられてこそ、その行為は完璧になるのではないか?
道を歩く自分さえも道の一部となるように、それがその景観を壊さぬように。
見る者が人であれ動物であれ、神であれ。
自分は常に見られているのだという気を持って。
少なくとも自分自身はそれを見ているだろう。
誰も見ていない自分を自分だけが見ている時、胸に湧き上がってくるものは。
孤独である。さみしさである。悲しみである。
希望かもしれない。美かもしれない。優しさや慈しみかもしれない。
散歩はいつだってそういう行為。
いつか誰かを見つけ、誰かに見つけてもらうための練習なのだ。
孤独のなかで友人を求め、手紙をビンに入れて流し、また流れてないかと眺めて回る。
歩くに限らない。あらゆること。
すべてが明日の仲良しに向ける種まきなのである。
美しさを知ることは見つけるためであり、美しくあることは見つけてもらうため。
逢える時が来る。
手抜きしなけりゃ。
それを同時に育めるのが散歩であって、文章を書くことであったりする。
いや、ただ生きているだけでいい。もちろん。
愛することと愛されることを、どちらもちゃんとやりましょうってだけ。
「愛されながら愛したい」じゃない? キンキはちょっと違って。Folderが正しいの。
その練習は一人でもできる。最初は一人なんだから、そうするしかない。
信じるしかない。
愛し愛されて生きるのさ、ってのを、たった一人でずっと、孤独に練習して、それでいつか君と僕とは出会うから!って。
ひたすら歩いたり書いたり、自転車乗って山こえて、人と会って話して、本とか読んで。
美しさを学び、美しさを磨く。
誰かの待つ歩道を歩いてく。
2023.1.4(水) 赤ん坊と老境
「君はある時何を見ても何をやっても 何事にも感激しなくなった自分に気がつくだろう そうさ君は無駄に年をとりすぎたのさ できることならずっと赤ん坊でいたかったと思うだろう そうさすべてのものがめずらしく 何を見ても何をやってもうれしいのさ そんなふうな赤ん坊を君はうらやましく思うだろう」(かまやつひろし『ゴロワーズを吸ったことがあるかい』より)
ピーター・パンのことをあまりご存じない人のために少し解説をしておく。ピーターが永遠に子供のまま生きる存在だということは有名だが、なぜ彼が年を取らないのかというと、「全てを忘れるから」である。極端なことを言えば数秒後に数秒前のことをもう忘れている。(僕もちょっとそういうところがある。)
彼はすべてのことをすぐに忘れるから、すべてのことが常に新鮮なのである。ゆえに彼の世界はいつも鮮やかなのだ。
10代の終わり、この日記のタイトルを「Two is the beginning of the end」としていた。カッコつけた気取った題だが、これは『ピーター・アンド・ウェンディ』という小説の冒頭に出てくるフレーズで、ピーター・パンには「2」という概念がない、というようなことを表している(僕の解釈)。詳しくは
2017年10月25日の日記でも読んでくださいな。
以下は、『Peter and Wendy』におけるピーターとフックの最終決戦から。フックがピーターに「貴様は誰だ、何者だ」と問いかけ、ピーターが答える。
Hitherto he had thought it was some fiend fighting him, but darker suspicions assailed him now.
'Pan, who and what art thou?' he cried huskily.
'I'm youth, I'm joy,' Peter answered at a venture, 'I'm a little bird that has broken out of the egg.'
This, of course, was nonsense; but it was proof to the unhappy Hook that Peter did not know in the least who or what he was, which is the very pinnacle of good form.
太字僕。「ぼくは若さだ、よろこびだ」すごいですねえ。
この場面が優れた文学となっている所以は、フックの問いの直前にある「darker suspicions」にある、と僕は思うのだが、その辺りは確か黒田誠先生(たぶんこの作品を本気で研究している唯一の?日本人研究者)がどこかで書いてくださっていたと思うし長くなるのでおいといて。
若さとは、よろこびとは、「2」ということがない、繰り返すことがない、ということなのである。繰り返す日々は老境である。
若さやよろこびに直面すると人は、時間を止めてしまう。繰り返すことによって、人の時間は動いてゆく。
たとえばウェンディが、自分も大人になるのだと知ったのは2歳の誕生日だった。誕生日が2度来れば、3度めも必ずやってくる。拙著『小学校には、バーくらいある』にある「2度めは、ずっと」というフレーズも、実はこのことが念頭にある。
僕は、止まっている時間も愛おしいと思うし、でも時間は進んでこそだとも思っている。「育まれる」という感覚が僕は好きだが、これは時が進んでいなければあり得ない。「再会」ということだって、「また会おうね」「また遊ぼう」という気持ちだって、時が進み、繰り返すからこそ。
カッコ良さとは、止まったり動いたりするところに生まれる。静と動。ダンスでもバーテンダーのシェイクでも。
歌舞伎を観に行ったとき、クライマックスの「にらみ」の場面で、「ああ、歌舞伎というものはすべてこの瞬間のためのお膳立てなのだな」と思った。その瞬間、すべての時は止まる。すべての物語は、すべての情報はそのひとときに集約され、劇場を出てゆく客の記憶にはほぼその画面だけが鮮烈に残っている。それでいい。写真のなかった時代、心へいかに写真のように焼き付けるかを徹底的に磨き抜いた芸術である。
止まっては動き、動いては止まる。ウェンディの時間はピーターによって一度は止まり、帰ってきてまた動き出した。そしておそらく、2度とまた止まることはなかった。そういうことを青春と言う。
長い人生の中で、ほんのちょっとだけ止まっていた時間。それを一生胸に秘めて人々は暮らす。歌舞伎の名場面のように鮮やかに永遠に残る。
けれどもスターみたいなもんは、常に動いたり止まったりして忙しない。老境の見地からそういう人を眺めると、「若い」とか「羨ましい」という感想になる。
だからなんだということもない。僕は全てを忘れてしまう。
本当に誕生するのはパパとママのほうで
少年と少女の存在はベイビーたちが続けてゆく
ベイビーたちが続けてゆくよ!
(小沢健二『涙は透明な血なのか?(サメが来ないうちに)』)
2023.1.3(火) 時間を停めるピーター
子供とスターは時間を停める。当人たちの時間は進んでいる。見ている人たちの時間が止まるのだ。今日のは詩です。
ピーター・パンと遊んでいる間、子供たちの時間は止まっている。そして勘違いされやすいのだが、ピーターは「変わらない」存在ではない。「変わり続ける」存在である。
もしあなたがお母さんに、小さい時にピーター・パンのこと知っていた? と聞いたなら、お母さんは言うでしょう、「あら、もちろんよ」って。それから、その頃ピーターはヤギに乗っていた? って聞いたら、お母さんはきっとこう言います、「なんてバカなこと聞くの、もちろん乗っていたわよ」って。今度はおばあさんに、子どもの頃にピーター・パンのこと知っていた? と聞くと、おばあさんも「ええ、もちろん知っていたわよ。」って答えるでしょう。でも、その頃ピーターはヤギに乗っていた? って聞いたなら、おばあさんは、「ピーターがヤギを飼っていたなんて聞いたことないわねぇ」、と言うでしょう。
(『ケンジントン公園のピーター・パン』望林堂完訳文庫)
止まっているのはピーターではなく、子供たちのほうだ。スターであるピーターは、子供たちの時間を止めてしまう。
また、子供たちもみんなの時間を止める。ピーターのもう一つの物語『ピーター・アンド・ウェンディ』において、ウェンディたちの両親や乳母(犬のナナ)、召使いライザらの時間は止まっている。彼らはずっと子供たちの帰りを待って、ただ「あの時」のことを悔やみ続ける。いつ帰ってきてもいいように、常に窓を開けながら。この開けっぱなしの窓がまさに、「止まっている時間」を象徴している。
もう少し現実的な見方からいっても、子供というのは「育てる」ということが必要なので、その間親たちはそれに集中するため、他の種の時間を停めるだろう。そのまま止まりっぱなしのこともあるだろう。
アイドルオタクの時間は止まる。ジャニオタもバンギャも時間を停めている。時間をふたたび動かすとき、彼らは「降りる」とか「上がる」ということをしてきた。
ただし昨日の記事を踏まえれば、これからは「同時」に進めていくことがよりやりやすくなる。『明日、私は誰かのカノジョ』という人気漫画のいわゆる「菜々美さん編」のラストには、アラフォーとなった主人公が若いころ追いかけていたバンド(カリガリ)のライブに友達と行くシーンがある。いろんなことが並行して同時に起きていて、それらを複線的に踏み続けてゆく、それで良いというのが、今の時代だと思う。
僕もいろんな人の時間を停めてきたのかもしれない。だからあるタイミングで離れてゆく人もいるのかもしれない。動かすために降りてゆく、あるいは上がってゆくのだ。それをさみしいと思い続けてきたのが僕の人生でもあるが、これからはたぶん、「停まりながら進み続ける」ということにすべてなる。僕だけがピーターなのではなく、みんなピーターになって仕舞えば良い。
そう綺麗にはいかないこともわかってはいる。だってスターじゃないとそういうことはなかなかできないよねっていうのが、これまでのずっとだったから。
ネバーランドで時間は動き続ける。その間、外の時間は止まったままである。夢というのはそういうもの。みんな夢を見ていたんだよ。だけどこれからは白昼夢。夢と現実は同時にあって、どちらも捨てられずに生きる。うつしよも夜の夢も、いずれもまこととなっていく。
「マンガの世界でこれからやっていくわけなんだけど。」
103の日、そんなことを考えました。15の魂は100まで続く。
2023.1.2(月) 森ウス行/複線の時代、同時の時代
新年最初の日記は自分についてだったが、二つ目は未来予測(というか現状把握)。
僕はSe
xy Zoneというジャニーズのグループが好きなのですが、その最年少メンバー、マリウス葉が昨年末をもって芸能界引退となりました。その発表の際に「卒業」という言葉が公式に使われ、ジャニオタ界は揺れたそうな。おおむねジャニーズタレントの脱退、退所、引退には前向きな雰囲気のことが少なく、「卒業」というよりは「退学」に近いものばかりなのです。
代表的なのは96年に引退したSMAPの森且行。「森などという人間は最初から(SMAPに)存在しない」とばかり、過去映像や再現映像から完全に抹消され、話題に出されることさえほぼなくなった。
森くんがなぜSMAPをやめたのかというと、「オートレーサーになる夢を叶えるため」で、本人としてはものすごく前向きな理由。さすが元SMAPで夢は叶い、いまだにレーサーとして大活躍している(現在は休場中ですが)。
マリウスは今回、このようなコメントを出した。
大学では、政治、哲学、法律、経済学や国際弁護の勉強をしています。まずは、無事に卒業することを目標にして、今の夢としては将来、これらの知識を活用し、世界中の困った人たちや国際社会の役に立てる人間に成長していきたいと思っています。
マリウスは22歳(23歳になる年度)で、「芸能人以外の進路」を選択するタイミングとしては適切というか、ちょっと前の社会だったら「ギリギリ」だと思う。ちなみに森くんの退所も22歳(23歳になる年度)。←すごくない?
マリウスは10歳で入所して11歳でデビューした。その幼き年齢で決心したことを、永遠に継続しなければならないとはもう誰も言えない。森くんの時は、そうでもなかったのかもしれない。
マリウスの引き際は注目に値する。カウコン(ジャニーズの年越しライブ)でみんなに祝福されながら卒業していった。有終の美そのものだ。また、卒業発表後すぐに開設されたSe
xy Zoneの公式Instagramにはこれまでの5人(マリウスを含む)の写真が大量にアップされ、幾度もインスタライブが行われ、それらはマリウスの卒業後も残ると明言された。
そして何より、マリウスが最後に歌って踊った『RUN』という曲は、年が明けてから生放送された。すなわち現状でのラストステージは「2023年1月1日」なのである。
卒業発表のコメントを注意深く読むと「2022年12月31日『ジャニーズカウントダウン2022−2023』への出演をもちまして」とある。これを見て「年越したあとはマリウス出ないのかな〜」と僕は思った。でも実際は、1月1日までバッチリ出演していた。
嵐は2020年12月31日をもって活動休止したが、その際は年越しをしなかったはず(もし年越し後も嵐としての活動をしていたとしたらぜひ教えてください)。配信ライブだったので通信のことを考えてあえてしなかったと言われているが、もし有観客ライブだったらどうなっていたのだろう?
あえてがんばってこじつけるのだが、2023年1月1日、『RUN』を踊った時のマリウス葉は、半分くらい「一般人」なのである。そういう見方もできる。してみましょう。そうなると僕の胸に浮かんでくる希望は、「いつかまた5人で共演する」である。
だってお正月、年が明けてから、半分くらい一般人であるマリウスはちゃんとみんなと歌って踊ったのだ。またそういうことがあったって不思議がない。少なくとも、「年を越したのでもうマリウスは出ません」という演出だった場合よりも、そういう可能性が高いように思えませんか? 僕は思います。
だんだん世の中はそういうふうに柔らかくなってきている。その一つの象徴としてジャニーズは観察できる。たとえばマリウスはもしかしたら、芸能界ではないところで暮らしながら、ごくたまにはSe
xy Zoneとしてちょっとくらい歌ったりするのかもしれない。夢かもしれない! でもその夢を見てるのは、僕一人じゃな〜い♪ ←歌ってる
あの森くんの有名な「『はだかの王様』までなら踊れるよ」という言葉をご存じだろうか?(『青いイナズマ』説も?)2001年にSMAPの稲垣吾郎さんが活動できなくなった時に、森くんが中居くんのもとに電話をかけてきて言ったのだそうだ。ソースははっきり知らないが中居くんがいつかそう語っていたらしい。つまり、「吾郎ちゃん出られないなら俺が出ようか?」なのである。もちろん実現はしていないが、マリウスなら可能性は高い。
「『NOT FOUND』までなら踊れるよ」である!!!
(※もうすぐ配信される東京ドーム無観客公演の演目次第では↑の曲が変わるかも?)
2018年は「副業元年」と言われる。平成30年。翌年5月から令和となった。令和とは副業の時代だ。いや、副業というのはふさわしくない。もっと正確には「単線から複線へ」という過渡期の時代。
森くんの時代はまだ「単線の時代」だったから、オートレーサーを選ぶならもうSMAPは選べなかった。SMAPを選ぶならオートレーサーは選べなかった。「どちらか」という選択を迫られる時代。今は違う。マリウスはもしかしたら、「Se
xy Zoneを卒業しつつ同時にSe
xy Zoneでもありうる」という存在になれるかもしれない。
ぼる塾という芸人グループは女性四人組であるが、酒寄さんというメンバーはずっと「産休・育休」ということでテレビなどには出ていない。しかしYouTubeには出てくるし、番組のタイトルコールをしたりエッセイを書いたりもする。世間の知っている、テレビに出ているぼる塾はだいたい三人の姿をしているが、しかし確かに四人なのである。
「育児か、芸人か」という単線的な択一の時代はもう終わって、「育児に集中しながら芸人でもありうる」という複線的なスタイルをぼる塾はとっている。
アイドルだって、ジャニーズだってそういうことがありうるのかもしれない。だとすると、大野くんを含めた「5人の嵐」というのだって、いつかまた見られる可能性はある。どんな形かはわからないけど。
僕の独自の未来予測(=現状把握)によると、これからは「同時」の時代。「いずれかを選ぶ」という貧困はなりを潜め、「すべてが同時にある」という豊かさのほうへ向かってゆくはずだ。そうであってこそ、「たった一つに絞る」ということも美しく輝くというもの。「絞らなきゃいけないから絞る」なんてのは、非礼極まりない。
2023.1.1(日) 鮮やかれ/スタア意識
晴れたれば、鮮やかれ。
文法的に考えると現代語訳は「晴れたので、鮮やかれであれ」というような感じなのかな。「晴れたればこそ、鮮やかれ」とすれば「晴れたので、鮮やかである」となるんだけど、「こそ」がないので已然形ではなく命令形か。
「晴れた」というのは「年が明けた」くらいの意味で、「年が明けたからには、鮮やかでなければいけないぞ!」というようなメッセージがあるのかもしれない。
鮮やかという言葉を僕は好きでして、「君の小さな体包んでる夢は痛みを飲み込み鮮やかになる」っていう歌詞(hide『Misery』)は何度も引用してきた。
くすんでいるより鮮やかでありたい、最終的には。色んなことが。
人は老いていくわけで、いつまでも若くはいられない。その中で僕らはどうやって鮮やかさを保っていったらいいのか?
最近どうもナルシシスト気味っぽくて恥ずかしいんだけど、それだけ自分というものを見つめる時期だってことだと思うんですね。だからってことであえて言いますと、最近の僕は可愛いですね。たぶん人生で一番可愛いんじゃないかな。しかもかっこいいね。もう何度も書いていることだけど新年だからちょいとまとめて、しばらくは言わないでいようと思うんですが、ひとえに、昔の自分は自分のことをあんまり「可愛い」とか「格好良い」と思えてなかったんでしょう。
自信てのは「自分についての確信」と捉えてるって暮れに書いた。自信がなかった20代までの僕は、「自分ってのはこれでいいのか?」とずっと迷っていた。今だって迷いのないわけではないが、「現状の自分」を疑うことはない。ここからの歩き方はまた考えるにしても、「現状」については「これが自分」と確信できる。
そういう確信がない状態の人間は、「自分ってどういうものなんだろう?」という不安げな顔をしている。それがまた憂いあってイケメン!みたいなパターンもあると思う(昔の僕はそうだったのかもね!)んだけど、それは不安定な証拠でもあって、モテるにしても歪んだモテ方になりがちかも。
僕が特徴的だと自分で思うのは、そういう不安で不安定な状態にあって、一度も「イメチェン」を考えなかったこと。「この体とこの色で生き抜いて」いこうとなぜか決めてた。髪を染めたこともなく、パーマもあてず、眉毛を整えたこともなく、美容院や床屋さんにすら行ったことがない。当然化粧もしん。「絶対にこの見た目のまま勝負してやる」と。んまあ、わけのわからない服着てた時期もちょっとはありましたけど!(参考文献:ゆず『シュビドゥバー』珍しく悠仁の曲。)ありがとう大須のViolet Blue。いまだにたまに行きます。
見た目をブレさせなかったことによって、迷走だけは避けられた。同じ方向性であり続けたから、今のところちょうど良い造形に落ち着いたのだとも思う。揺れ続けると着地点がわからなくなる。無理な整形をすると加齢で変化したときにバランスが保てなくなる。
ただそれも裏を返せば「やっぱり自信がない」ってことでもあって。「自分にはセンスがないのだから何をしても裏目に出るだろう」という気持ちがすごく強かった。「自然に任せていたほうがマシだろう」と。僕のいいところは、人工よりも自然のことをほぼ無条件で良しとしていることだったのかもしれない。矢田川育ちは伊達じゃない。
ただ、ただ、そんなことを言ってられるのも僕がまだ若いからでもある。まだ可愛いし格好いいから余裕がある。人工の力を借りたくなってくる時期も来るだろう。今んところは、「同じ素材を同じように磨いていたらだんだん綺麗になっていった」ってくらいのことで、「素材にガタが来たら」っていうことは考えられていない。その時にはまた違う「鮮やかさ」を求めなければならないはずだ。美とは均整のみにあらず。いよいよ常識を超えていかなければならない。近い将来その時はくる。だからせっかく人生で一番可愛くてかっこいい(と、自分が思っている)今の時期にこそ、そういうことをやたら深く長く考えている。
年を取ったらとにかく「いい顔」をしていなければならない。金子光晴の写真集を以前持っていた(紛失した)が、あれは良かった。老いてるし禿げてるんだが、貫禄があってやたらカッコイイ。そういうことを目指していかねばならない。いちばんの理想は楳図かずお先生と藤子不二雄Ⓐ先生。「鮮やか」なることそのものだ。
ここにきて僕はただ文章を書いて自転車に乗っているだけではなくて、できることはいろいろやっていこうと思い始めている。こないだのお誕生日(11月1日)にやった『うさぎとたぬきと柿』というひとり芝居もその一環だし、急にギターの弾き語りとか始めるのもそう。「それで売れよう」というわけではなくて、「そういうことで僕は僕として延命する」と予感するから。ビートたけしが年を取ってからピアノやタップを学び直したみたいなこと。芸を磨くってことでもあるし、自分ってものをもう一度見つめ直すってことでもある。「自分にこれはできるのか? できるとしたらどのような《できかた》をするのか?」ということをあれこれしていって、「ああ自分はこういう人間なのだな」とさらに確信を深めていく。その積み重ねが将来の鮮やかさを担保するはずなのだ。根拠はない。そういうものに決まっている。
最近鏡をみて「ふむ、いい顔をしとる」と思うことが多いし、人からもよく可愛がられる。格好よがられる。うんみんな甘やかしてくれてありがとう。そんくらいで腐るような人間ではないはずだからどんどんやってください。腐ったと思ったら離れていただいて。刺さないで。
そうやって自分からも他人からも「良いもの」と思われ続けることが絶対に健康に良いし、そうであり続けるため努力するモチベーションにもなる。可愛い顔をするためには、誰かから「可愛い」と思われていなければならない。「キモい」としか思われたことのない人は、絶対に可愛い顔はできない。「可愛い顔」とは、誰かに認定されて初めて生まれるものだから。ゆえにとにかくかわいこぶって(?)、「可愛い顔」を自分の中に殖やして、蓄えていかねばならない。僕なんか本当に、「かわいい」って言われて、「ほんと? ありがとう!(にっこり)」みたいなことを繰り返し毎日のようにしてたら、だんだんと顔が柔らかくなっていったように思う。本当に本当に、かわいさってのは積み重ねなのだ。
誰かから「かわいい」と言われたら、「ああそういうのがかわいいということなのか」と人は学習する。そして褒められたいからまたそういう顔をする。この行為を「あざとい」と言うのだが、それを繰り返してかわいい人は「常時かわいい」を獲得していく。
アルチストとはーーしたがってまた映画スターとは、自分自身に、売れるかもしれないところの肉体も、売れるかもしれないところの芸も、きれいさっぱりもちあわせのないということを、骨身に徹して自覚している人間のことをさすのである。
一言にしていえば、かれらは、かれら自身が完全なデクノボーだ、ということをちゃんと知っているのだ。身を売ったり、芸を売ったりしてスターの地位を買うとすれば、売り手と買い手とのあいだには、立派に、「ギヴ・エンド・テーク」の関係が成立する。しかし、スターというのは、法則のためにではなく、例外のためにつくられた人間なのだ。したがってかれらはなんにも売らないでーー売りたくても売るものがないのだから、自然そういうことになるが、もっぱら、「テーク・エンド・テーク」の道を突進する。その心意気がかれらをスターにするのである。
(花田清輝「スタア意識について」より、太字化僕)
んまーーこれはスタアの話なんで普通の人には無縁なのかもしれない。「テーク・エンド・テーク」ってのは普通に考えて無理がある。でもみんながみんな可愛かったら、みんながスタアであったなら、ギブのないテークばかりの世界もありうるのかもしれないぞとは思う。
むろん可愛いを悪用してはいけない。「可愛い人たち どうしてでしょう 性格めちゃくちゃに悪いよね つけ上がらせてる世の中のせい」(小沢健二『失敗がいっぱい』)
この詞で重要なのは「世の中のせい」の部分。そうなのだ。可愛いことが罪なのではない。可愛いからって「つけ上がらせ」ちゃいけないのだ。可愛い人は可愛がる、それで終わり。ワガママを聞いちゃいけません。主導権はちゃんと、可愛がる側にあるべきなのだ。
スタアはテークするだけで、主体性を持たない。そこが悲しいところでもあったりする。
スタアはギブを受け入れるだけ。「ギブしてください」だの「テークさせてください」だのとは言わない。言って来るやつは全て詐欺です。本当はね。
お年玉ください!(言っちゃった)
でもそれが限界。
お年玉といえば、もらいました。ドラえもんのポチ袋に入って。親族ではなく他人から。ありがたくテークさせていただきました。
僕はいつだか、「返報性の原理」は効かないぞ!みたいな主張をした。テークされたらギブを返すのが「法則」というものだが、スタアってのは「例外」に生きるもんだと、なんと花田清輝は1955年にもう書いていたのだ。驚いた。(つい最近読んだのである。)
で、スタアとは何かっていえば、鮮やかであることだと今は思う。
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