少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2023.2.3(金) 男ってやあね 尊敬が下手ね
2023.2.7(火) 努力について(努〜パミン 序章)
2023.2.13(月) リーダーヤンキー
2023.2.17(金) リーダーヤンキー2
2023.2.19(日) リーダーヤンキー3
2023.2.21(火) リーダーヤンキー4(終?)
2023.2.26(日) 短歌とラップ
2023.2.28(火) ブレーキ

2023.2.28(火) ブレーキ

 1月23日に予兆あり、2月13日くらいから本格的に始まった不良、21日の夕方にお医者さん行ってお薬をもらい、それから「やわらかくて栄養のあるもの」中心の食生活を送り、お酒も極力飲まず(多少は飲んだ)、カフェインも多く摂りすぎず(それなりに飲んでいる)、三度の服薬を欠かさないで、何よりよく寝ている。大きな症状はもうない。やや疲れやすいというか衰弱している感じはある。
 通常51〜54kgくらいを揺れ動く体重は21日時点で49.2、22日48.8、25日49.2(身長は昨年の検診で170.3cm、やせとる!)。かなり元気になったのに体重変わらないのでここ2、3日は少し多めにものを食べるようにしている。

 よく知る人も、あまり知らぬ人も、どのような生活を送る人物と僕について思っているであろうか? 健康な生活だと思っているだろうか? 不健康な生活だと思っているだろうか? 健康なこともあれば不健康なこともある、不安定な暮らしだと思っているだろうか? 最後のがまあ、自分としては合っているような気がするけど、どちらかというと健康寄りと思いたくはある。
 自分史的に辻褄が合うのは、2007〜8年に「あとは余生!」と決めた、その時あたりから健康志向に目覚めたという流れ。もともとお母さんがいろいろなことにそれなりに気をつかう人だし、お父さんもあれこれ理屈をつけて生活する人だから、素養はあったと思う。大学に通っていたころはそれなりに不摂生だったけど、卒業してぼんやりしだした頃くらいに、いろいろと考えることが増えていって、だんだん松屋ではなく吉見うどんやアイキッチンに通うようになっていった、と思う。
 正確な年がわからない(年表作らなきゃ!)が、遅くとも2013年度にはゆかりの地(あひる社)が四谷三丁目にあって、「私の隠れ家」に通い始めたのはたぶんその頃。毎日のように通って栄養滋養たっぷりの「隠れ家ごはん」を食べていたら、積年の懸案だった手指の荒れが治った。それからたびたび再発はしたかもしれないが近年はほぼ出ない。そのあたりからいよいよ本格的な「健康厨」となっていったように思う。
 食事に気をつける、よきものを食べ、よくないものを食べない、というだけではなく、毎日湯船に浸かるとか、日光をあびるとか、部屋を暗くして十分に眠るとか、およそ思いつく、あるいは知っている、日ごろやれることのすべて。ものを食べる順番とか、お酒の飲み方とかも。本格焼酎とウィスキーはOK、日本酒は純米なら飲む、みたいな時期さえあった。今はもうちょっと緩くしているが、あまりの安酒、具体的には居酒屋の二級酒や甲類焼酎はできるだけ避けている。

 一方で、「どうしても100%の摂生はできない」という事情がある。夜は遅くまで起きてしまうし、お酒も飲む。お店を開いた2017年度以降はとりわけそうだ。それまで飲酒頻度は週に1〜2日だったが、夜学バー開店以降は3〜5日くらいになっている。頻度としても酒量としても多いほうではないが、少ないとも言えない。生活リズムも安定しているとは言えず(めざしてはいる)、「健康へのマイナス要素」はどうしてもあるので、せめてできる限りのところで「プラス要素を増やし、マイナス要素を減らす」という努力が必要だというわけである。一応は先手を打っているわけだ。

 しかし、そうやっていて身体を壊してしまった、というのが今回。マックの女子高生ならぬヤガクの女子高生にも叱られて(?)しまった。上記のようなことだけでは不十分だというのである。「予防」ではなく「対策」をすべしというのがお話であった。
 やってますよ、と僕は思うのであるが、「十分にやっていますよ」とまでは言えない。予防にも対策にも、十分なんてことはないのだ。不十分だと思ったら増やさねばならない。それで素直に「はーい」と思った。

 予防面では労働量、というより活動量。休養の時間と質とリズム。飲み食いの内容とリズム。またストレス。このあたりだと思う。アドバイスがあったら嬉しいですが、細かな健康指南は不要です。こちらだって人並み以上に考えているつもりだし、ちゃんといろんな人に相談もしております。
 対策面。「何かが起きてからのケア、またそれを円滑に行うための前準備」ってことですよね。仕事面だと、思い切ってお店を休みにするとか、あるいは、休みにしなくてもいいような態勢を整えておくとか。頼れる、甘えられる存在をちゃんと考えておく、とか。
 一応、僕個人の、自分についての所感を申しますと、今現在はかなり甘えてるし頼ってるし、無理はしていないです。無理をしたから体調を崩した、というのは否定しませんが、体調を崩してからは無理をしているつもりないのです。「いやそれは無理してるよ」と言われてしまったら、まあそれはそうなのかもしれませんので、なんとか説得してほしいところです。
 僕に必要なのは「ヤバそうな時にブレーキをかける」ことだと思います。「まだいけるやろ」と思ってやってしまうところは確かにある。「そろそろ甘くブレーキを踏まねばならないな」という直観と決断力はまだ弱いかもしれない。これからモノを言ってくるのはそういうドライビングテクニックですね、たぶん。

 結局、今回は1日もお店を休まなかったのですが、それはもうなんといっても先ほど出てきた「ヤガクの女子高生」が先手取って頑張って働いてくれたからですね。僕をできるだけ動かさないように座敷童子のようにテキパキとやってくれた。外部からブレーキをかけてくれたわけです。心から感謝いたします。
 ブレーキっていうのは、「ゼロかヒャクか」じゃなくて「ゼロからヒャクまでを自在に操れる」というもので、ヒャクでやったら死んじゃいそうならニジューとかヨンジューとかで稼働すればいい。省エネ運転。
 熱暴走で落ちちゃうPCも、設定でCPU稼働率を下げると燃え尽きずに働いてくれる。タケコプターも連続運転するとバッテリーがあがっちゃうけど、少しずつ使ってちゃんと休ませれば「かなりもつね byドラえもん」なのである。人間だってそのようなもんだろう。今回はそのようなことを学んだ気がする。
「無理する」ってのは、立っていられないのに立っていてしまうようなことで、僕は「ごめんなさいちょっと疲れてるんで座りますね〜」が、実はできる。実はというのは、普段はしないのである。でも「今は無理したらダメだ」というモードになっていれば、そういうことは簡単にできる。「魅せ方」というのはモードごとにある。ポーカーフェースで立っているカッコよさと、ちょっと弱みを見せながらやるべきことを省エネでこなすカッコよさは、まったく違うもので、全然異なる能力や人格が必要なのであるが、どっちもできなきゃダメなのだ。僕は。
 で、あとはそのモードの切り替えとか、モードのグラデーションというものをさらに上手にすることなんじゃないかと思っている。省エネモードのオン・オフではなく、0から100までをアナログで調節していくような。七色でいつつ、無色でもカッコいいような境地とか。いろんなことを考えますな。

 予告。令和九年のことを今から考えています。ちょっとずつ進めていくので乞うご期待。というのは、このままのやり方はあと4〜5年だなと思っているから。体調を崩したからってことでもないが、なんかようやく飽きてきた気がするので、より新しいことを模索してみます。できそうだったら本当にやります。

 決めつけられることは常に不快である。その点についてはここにたぶん高1くらいからずっと書いてるんじゃないかな。物心ついた時分から思っていること。
 あなたは僕の何をわかっている? どこまでわかっている?「だろう運転」で推論を進めるのはやめてくれ。と、僕は延々言い続けている。
 悦に入りたいのはわかる、あなたは正しいことを言っているのだから。でも今あなたの言っていることは僕とは直接関係がない。それなのにあなたは僕のこととしてそれを言っている。この居心地の悪さ。そしてそれは、そう思い込まれている以上、永遠に続くのである。その悦な顔のまま。
 あなたの僕に対する「考察」は本当に正しいのか? 正しいかどうかを確定できないまま、それを前提に話を進めていって本当にいいのか? それを身勝手とか、独りよがりと言うのではないのか? と僕は本当にこの23年間書き続けていると思う。
 例の如く、特定のひとりの人やひとつの出来事について言っているのではなく、特定の複数の人と特定の複数の出来事について共通して思っていることを急いで書いた。
 (2023/02/27 01:52)

2023.2.26(日) 短歌とラップ

 短歌とラップは誰にでもできる。そこが最も美しいところ。『女中』という小説アンソロジーの中に、女中が短歌や俳句を勉強する場面を含むものが2本あった(林房雄『女中の青春』、小島政二郎『焼鳥屋』)。解説でも女中たちの「向学心」について触れられていた。
 女中には、いわゆる「学のない田舎者の少女」が多かったと思われる。それでも短歌や俳句であれば作ることができる。朝から晩まで他人の家で働き続けている少女たちが、さして多くないであろう時間と資金の中でやりくりする、ささやかな文化的活動。僕は短歌・俳句のそういう側面がけっこう好きだな、とこの本を読んで思った。

 ここからはものすごく傲慢なことを書くつもりである。短歌というのは僕の理想の中ではそのような、ささやかで謙虚なものなのだ。単に個人的にそう捉えている。ゆえに僕は、大袈裟で高慢ちきに短歌をやっている人間が(いたとしたら)まあまあ嫌いである。
「自分なんかでもできるささやかな創作活動」だからこそ、それをやっていることが嬉しくなって、ついSNSのプロフィオール欄に「短歌」とか「歌人」と書いてしまう。でもそれをしたら途端に「大袈裟」になるし、僕から見ると「高慢」でさえある。
 短歌なんて誰にでもできる、それこそ「学のない田舎者の少女」でも容易に参入できる、そこが良いところなのだ。それをちょっとやってみたからといって、「短歌やってます! ゆえに私は一段上の人間です!」みたいな顔をする人が、僕のような妄想癖の強い人間には、世の中にかなりたくさんいるように思えるのだ。
 短歌というものはただ文字数を合わせるだけで(何なら文字数が合ってなくても)「できる」のだから、それを「やっている(作っている)」ということはほとんど何の意味も持たない。それを言えば僕だって短歌をやっている。日常の中で57577をたくさん作っている。頭の中で。本当である。趣味でさえある。書き残すこともある。でも「短歌やってます」とは言わない。短歌なんて、別に誰でもできるのだ。通勤にママチャリ使ってるだけで「自転車やってます」とか言わない、普通は。
 短歌は誰にでもできる。誰にでもできることをただやっているだけ。

 ラップも同じ。誰にでもできる。ラッパーは、誰にでもできることをただやっているだけ。もちろん巧拙はある。でも下手でいいなら誰にだってできる。音楽の素養が全くなくても、アリモノのBGMに言葉を乗せるだけでラップになるし、メトロノームに乗せるのでもいいし、アカペラでも問題ない。その手軽さがラップとかヒップホップという分野の最大の魅力だと僕は思っている。ちなみに僕は2ちゃんねるニュー速VIP板の「ラップ作ろうぜwww」スレにおける初代MCである。一度もやったことないのに夜中にスレッドを見かけてノリで投稿した。めっちゃ盛り上がっていいスレになった。それでOKなのがラップの素晴らしさ。

 バーも同じ。誰にでもできる。コップに酒を注ぐだけである。僕は自分のことを「バーテンダー」とは思っていない。誰にでもできることをやっているだけなので、カウンター内にいるのはただの「僕」であり、他のなんらかの言葉で代替できるようなものではない。
 念のため書いておきますが僕は、一応自分なりにはこだわってお酒を作っていて、テキトーにやっているわけではない。本当に「コップに酒を注ぐだけ」ではなく、あれこれ考えながら最もおいしくて自分らしいお酒の作り方を日々探究している。ただそれをしているからといって自分が「バーテンダー」なのかというと、自分は自分でしかないなとしか思えないという話。
 日替わりバーとかにたまに立っている人が「たまにバーに立ってます」的なことを言う。「〇月〇日にこういうことやるんで来てください」ならわかるが、「たまにバーに立ってます」と言う(または書く)ことに何の意味があるのか? 自分というものを使わずに自分のことを説明しようという手抜きだとしか僕は思わない。

 誰にでもできることを、自分の肩書きとか属性に加えてしまうと、自分が誰なのかわかんなくならないか? 音楽聴くのが好きな人が「音楽を聴くのが好き!」とかプロフィールに書いちゃうと、その人は「自分」の一部を「音楽を聴くのが好き!」という属性に売り渡しているというふうに、僕には思える。そういう人はそのほうが楽なのである。自分というものと向き合うよりも、自分以外のもので自分について説明をしてそれで済ませてしまったほうが。

 短歌とか好きな音楽とか、なんてろバーとか、自分の外部にある名詞で自分を説明しようとする人は、自分というものがわからないし、わかろうともしたくない人なのだろう。「お前らは全く自分という名の空間に耐えられなくなるからと言ってメシばかり食いやがって」(INU『メシ喰うな』)の世界。空っぽな自分を誤魔化すために外部からメシ持ってきて取り込んでゆくのである。

 自分を疑いなさい、多角的に見なさい、そんなチャチなモノサシじゃ絶対にサバ読んじゃうもん。(by石井秀仁)

2023.2.21(火) リーダーヤンキー4(終?)

 何名かの熱烈な読者からご心配の声をいただきました。ありがとうございます、お騒がせしております。SNSには何も言わず、トップページの更新情報も「2/19」で止めていたのだが、思ったより多くの人が↓のメモ的更新をお読みくださっていたらしい。数日に一度は一応見にくる、という習慣の方は意外といらっしゃるようだ。あえて何も言わなかった方のほうが多いだろうこともちゃんと想像しております、本当に、いや、な、なんとおわびしてよいか……。(参考文献:『ドラえもん』2巻「ロボ子が愛してる」)

 ことの経過をおさらいしておきますと、1月23日くらいと2月13日くらいに著しく体調を崩し、いずれも1〜2日でよくなったものの「なんかやべえな〜」と思っていたら、三度目の正直で巨大なのがきました。19日(日)の23時半くらい、営業の終盤で異様に気持ち悪くなって、急いで帰って横になったがとても眠れる状態ではなく、嘔吐と瀉腹であっという間に脱水まっしぐら。と一言で書けば簡単なのですが、下のほうはともかく上のほうって技術的に難しいし、出していいのか悪いのかもよくわかんないし、自然に出るのを待つほうがいいような気もすれば無理に出そうとしないと永遠に出ないような気もするし。帰宅からの数時間がとにかく永遠に思えるほど長かった。朝まで悶え苦しんだ。
 寒いとき、寒い寒いと思ってブルブル震えてるよりも、いっそ何もないような顔して涼しげにしていたほうが意外と寒さを感じない、という技を僕はいつしか身につけているのだが、それと同じことを深夜途中からやってみた。このまま苦しい顔をしていたら苦しい顔がはっついちゃいそうだったから、苦行中の坊さんみたいに静かにしてみたら、やっぱり少しは落ち着いた。それでも顔に出るほどの辛さは何度か訪れたがなんのと乗り切った。
 月曜の朝方になってようやく出るものがすべて出たと思う。最後に時計を見たのがたしか9時台だったから9時間くらい布団でグイグイやっていたのだろう。その辺でようやくまとまって眠れた。昼過ぎに起床。まだ座って何かできる段階でない。熱が上がってきてだるくなってきた。旅行に出るつもりだったので土曜にPCR受けていたのだがそれは陰性。一日、とにかく寝た。火曜の昼くらいになってようやく動けるようになってきたので、夕方に内科へ。お薬をたらふくもらう。マッドサイエンティストみたいな最高の先生だった。「上着を脱いで靴を脱いで仰向けになって」と言い、目を閉じて僕の体の上で手をぶらぶらさせたあと、「ここが痛いでしょう?」といきなりお腹を押されて怖かった。確かに痛かった。面白かった。
 体調が悪いときは地獄のように思うが、よくなってくるとその時の感覚はだんだん薄れてゆく。二日酔いと同じである。「こんなこともう繰り返したくない!」と思っても、人はまた深酒をしてしまう。できるだけ覚えておきたいと思う。これからどんどん自分は弱り、衰えてゆくのである。これは弱音ではない。「かれらの勝利は、また私のあすの出発にも、光を与える。」←あんま関係ないけど思い出したフレーズ。戦闘、開始。ってことです。ここから始まるから、さあ歩き出そう。
 あす2月22日は小沢健二さんの『流動体について』発売日(2017年)で、その夜に僕は羽田空港に着陸する予定であった。「羽田沖〜♪ ←歌ってる」とかいって。世の中うまくはいかないもんです。動く休暇から動かない休暇へ。どっちが良かったのかはわからない。

 それにしても本さえ読めないものですな。山を見て途方に暮れている。今日は『女中』というアンソロジーを読んだ。小説は内容よりも文章の良さ。この日記も、内容とか考えず読んでもらえるほうが幸せかもしれない。いろいろ言いたいことはあるはずなのだが、弱っていると小難しいことは出てこない。そのほうがたぶん読みやすいだろう。なんなら売れるだろう。でもちょっと元気出たらまた誰にも意味のわからないことを言い出すはずである。そういえばこのシリーズの「2」に書いた内容は割と人気があります。みなさん良かったら良かったと思ったらこれ良かったと教えてください。お願いします。何とぞ。

 21日の6:39。立ったまま歯磨きが可能、でも座ってるほうが楽なのでいま座って磨いている。
 19日夜の果てしない脱水の後、だんだん熱が上がってきて、昨夜はそれとの戦いであった。ようやく下がった。頭痛はあり。いろいろ総合するとウィルスではない気がする。内側からこんな症状が定期的に生み出されているのだとしたら、あまりに恐ろしい。このひと月で3回、しかもだんだん重くなってきている。歩けるようになったら病院に行きます。行きたくないけど、行ったほうが良い気がするので(偉い)。

 23:48。再び座れない期間を経て、また座れるようになってきた。ところで昼ごろから一度もお手洗いに行っていない。水分補給は小まめにしているし、ものもいくらか食べたのだが。夜中にすべての水分を出し切ってしまっていたということだろう。すべての水分が身体のために使われて、一滴も外に出ていかない。
 コーヒーもなんとか入れてカップ半分だけ飲んだ。冷静。

 19:14。なんとか座ることはできるようになってきた。立っているのは厳しい。座ったまま歯磨きなどした。ちなみにこの文章はすべてスマホから更新している。便利である。
 カフェイン離脱が同時に来ているような気がするがコーヒーを入れる気にはなれない。粉の緑茶(寿司屋みたいなやつ)で手を打つこととしよう。

 すべての予定をキャンセルし、数万の損失。しかし仕方ない。昨夜は地獄のような苦しみ、朝になってようやく少し眠れた。現在12:56。症状は秘密だがやっぱり消化器系。上は洪水、下も洪水、これな〜んだ。しばらく安静にします。
 ちなみにまたも月曜日のリーダーヤンキー。今回は日曜の23:30くらいから始まった。だんだん早くなってきている?

 すごく苦しい。当てつけのようで申し訳ないがだいぶやばいやつだった。がんばります。03:02

 さらに追記 少し時間が経って、やはりどうも内臓(たぶん胃腸)が正常でないのではという気がしてきた。胃もたれ、胸焼けの類。疲労という言葉ではそぐわないかも。お酒は水曜を最後に飲んでいない。食べものは、まあ普通なのだが、もっと優しめなものを心がけるべきなのだろう。

 ↓の追記 いまお客がいなくなってお店閉めるところだけど、ものすごく疲労している。これが単純に「歳のせい」であるとは思えない。根に持ってる、というか、その程度のことで傷つくくらい弱っているということか。「歳のせいで若い頃よりも不調に陥りやすくなっている」とでも理解すればまあ。がんばりますので引き続き褒めてください、みなさま。

2023.2.19(日) リーダーヤンキー3

 この日記の読者の方が、来店するなり「体調はどうですか?」とお尋ねくださるので「まだ微妙です、今日自転車乗っててもいつもより疲れちゃうような感じがして」と返したら、「歳じゃないですか」と言われた。ハァ〜? それって「ジャッキーさん体調悪いとか言ってますけどそれってただ歳とっただけなんじゃないですかァ〜〜??」みたいな意味? ゆるせない! いたわるフリして揶揄で落とすのサイアク! でももしかしたら「ジャッキーさん深刻な病気を心配しておられるかもしれませんがきっと大丈夫ですよ、ただ歳をとっただけってこともありますから」という気遣いだったのかもしれない! 許した! 許せない!
 とりあえず胃腸の具合はよくなったと思う。もちろん熱とか風邪っぽい症状もない。春の健康診断をとりあえず待ちます。木金土とお酒を飲まなかったのも良かったかもしれない。ふだんそんなに飲むほうではないのだが年明けから週6くらいで飲んでいた気がする。週3くらいでいいのです。

 それが「歳(のせい)」であるかどうかって、果たして判断しうることなのでしょうか。しつこいですが。っていうか「歳」って何? 加齢による体力の低下、ってこと? 「加齢による」ってどういうこと? 僕は「加齢などない」って思ってますからね。「恋愛などない」と同じで。「老衰」という病気がないのと同じで、「加齢」という具体的な現象もないのです。加齢(=時間経過)に伴う種々の身体機能の低下、みたいなことがあるだけ。「歳じゃないですか」ではなく「加齢に伴って〇〇機能が低下してきているのではないですか?」と言われたなら、「そういうこともあるのかもしれない」と思えたかもしれない。え、同じこと? いや違う。面倒臭い人間ですみません。
 ともあれ、1週間くらい続く体調不良があって、それで自転車に乗ったら「なんだかいつもより疲れるな」と思ったとしたら、それは単に「一時的に体力が低下し、また運動不足にもなっているから」とかのほうが正解っぽくないかと思う。年齢を重ねて、何かが少しずつ変化してきているというのは、日々感じていることだし、できるだけ積極的に感じ取ろうともしている。この「疲れるな」がどっちかというのは、もうちょっと僕に考えさせて欲しいものだ。怒っているのではないです。念のため。
 老いを怖がらないために、今と向き合う。ゆえにこそ「歳」みたいな雑なことは考えたくない。きめ細かく、かつ視野広く見ていこう。自転車に乗って「いつもより疲れる」と感じたなら、それが「すぐに改善するか否か」をまず観察して、しないなら「どうしたら改善するか」を探究し、改善しないようなら「どう向き合うか、どう付き合っていくか、生き方のシフトをどう変えるか」といったことを考える。それだけの話で、歳がどうのというのはノイズでしかない。
 むろん「そこに重大な疾患が潜んでいる」とかの可能性も同時に考える。いいタイミングで病院にも行くだろう。ここで「病院なんか行く必要はない! わしはまだ若いんじゃ!」とか言い出したらまあ愚かであろう。若かろうがなんだろうが、不調があれば病院にかかるなり、なんらかの対策をめぐらすのが普通だから。本当にほとんどの場合、年齢というのは考えても素人にはほとんど意味がない、と今のところは思っている。専門的な知見があれば、「この年齢層にはこういう疾患が多いから」なんて考え方もできたりするんだろうけど。そう思うから「加齢に伴って〇〇機能が低下してきているのではないですか?」といった言い方には、ちゃんと耳を傾けようという気にもなるのだ。ただそれらにも確実性は別にない。統計的にとか、そういう疑いがあるとかいうレベル。とにかくちょっとずつ、見えるようにしていくしかないのであろう。地に足つけて。

 なんて言いながら、同時に、なんでも「歳だから」で済ますアッケラカンさとか、「これでも〇〇歳!」と胸を張る老人の無邪気さなんかはけっこう好きである。他人が言っている分には、特に。僕はとりあえずまだ言わないようにしている。

2023.2.17(金) リーダーヤンキー2

 この「リーダーヤンキー」というのは高1のとき同級生の関川くん(仮名)が言ってたくだらないギャグである。弱っているときはついくだらないギャグに取り憑かれてしまいますね。
 というわけで体調不良は続いております。某重大感染症の検査は何度でも陰性、熱もないし気管支まわりも一切異常ないが、ずっと胃腸はまともに働いていない。常に疲れていたり疲れやすかったりする。典型的な自律神経失調状態であろう。難病重病の類でなければよいが。いいタイミングで病院には行きますのでご安心を。(こういうこと書くと「病院に行け」と言ってくださる優しい方が必ずいらっしゃるので先手。)
 前回の記事でも書いたし、前々回のも近しいことに触れているが僕は精神力の人間ですので、お店に出ればシャキッとしますし、人に求められれば行きますし、どうしてもしたいことを諦めることもない。それでジリジリ「本当の体力」が削られていく。そのバランスをとるのも上手だから普段は一日寝るくらいで取り戻せるのだが、ごく稀に今回のような不調が来る。
 高校生のとき、東海高校演劇部との付き合いの中で飲酒することがたびたびあった(逆に言えば彼らとの付き合い以外では一切飲んでいないはず、タレコミ求む)が、そこで僕は「でかいボウル」と称されていた。お酒をよく飲める人を「ザル」と言うが、僕はでかいボウル、量は飲めるが閾値を超えると溢れ出すという意味である。言い得て妙、そして僕は何にしたって全部そうなのかもしれない。

 ところでこういう軽犯罪の告白は現今どのように見なされるのであろう? 思うに世の中はそろそろ炎上癖のピークにあって、ここからはだんだん下がっていく。もうあんまり怖がることもないだろう。僕は30年後に文部科学大臣になっている男なのであるが(参考文献:江川達也『BE FREE‼︎』)、その時には過去の未成年飲酒で更迭、みたいなことはなくなっている。最近話題になった兼近さんだって活動に別状ない。東京オリンピック2を頂上として、小山田くんと小林賢太郎を人柱に、もうそういう文化は徐々に滅んでゆくのである。たぶん……。
『戦闘メカ ザブングル』(1982年)という富野由悠季アニメの世界には、「何をやっても3日逃げ切れば無罪」というルールがある。だんだんそうなる。時効は復権する。過去がなんでもわかるようになってしまった現在では、逆に「過去は問わない」ということになってゆく。性転換して「現在は男」だと言ってしまえば、「過去は女だった」ことは問われない。「また女に戻りました」と言っても、「女として生まれ、いったん男になってからまた女になった」という過去は問われなくなる。今は「そこ」こそを問題としたがるおたんちんが多いのですけれども、だんだん減ってゆきます。これは予言です。
 ただし「リンチ(私刑)」はまだなくならない。ムラで行われていたのがネットになっただけの普遍的なこと。「3日逃げ切れば無罪」ということは、「3日以内に捕まったらアウツ」ということなのだ。がんばって3日、逃げ切らねばならない。こないだ「同性愛者は見るのも嫌だ」と言った人も、即日槍玉に挙げられたから逃げられなかったが、3年前の発言だったなら謝罪すればなんとか逃げ切れたのではあるまいか。根拠はナシ、これは占いでございます。
 素朴に考えて、小山田くんの件はやり過ぎなのである。みんな新型コロナウィールスと東京オリンピックで相当気が立っていて、何かに感情をぶつけたかった。そこへ「悪そうなやつ」が現れたから叩いた、それだけの話。コロナもオリンピックも倒せないけど、小山田くんなら倒せる。大衆のガス抜きのために生贄になった。そんだけじゃおさまんなかったから小林賢太郎もいじめた。布袋の頃にはみんなスカッとしてたしなんだかんだスポーツ大好きだし、布袋さん喧嘩強そうだから過去に不倫や暴力事件もあったのに誰もいじめなかった。本当に、それだけの話。小山田くんと小林賢太郎が喧嘩弱そうだったからいじめの的になった。本当にただそれだけの話。
 太田光さんも喧嘩弱そうだからいじめられる。松本人志はそれに早々に気がついて肉体改造をしたんじゃなかろうか? 思えば長渕剛だってそうだったのかもしれない。三島由紀夫も。みんないじめられたくないのである。賢ければ賢いほど、「(日本の)人は弱そうなやつをいじめる」ってことを知っているのだ。
 首相時代の小泉純一郎はいじめられていなかった、麻生さんも首相当時は民衆からそれなりの人気があった。2人ともけっこう強そうだからだと僕は思う。小渕さんはちょっとバカにされていた。安倍さん、菅さん、岸田さんはみんな弱そうであり、みなさまにとっては非常にいじめやすい。(またそれが自民党にとっては都合が良いのかもしれない。)
 森喜朗さんはそれなりに喧嘩強そうですが、嫌われはしても「いじめられる」までいかない。いじめようと思っても手応えがないのである。「負けた」という顔をしないし、しそうにないから。それで依然、一番偉いところを陣取ってる。喧嘩強そうだからだと思います。本当に。
 安倍さんのバランスが良かったのは、決して強そうではないのに、「負けた」という顔をしなかったところかと存じます。福田さんとかは弱そうで、かつ「負けた」みたいな顔をしちゃっていたのであります。これはもうほぼ顔つきの問題とも言える。
 兼近さんも「負けた」という顔をしない。そんなに強そうではないけど元アウトローなのでちょっとビビってる人もいると思う。だから仕事も失わない、くらいに僕は思っております。りゅうちぇるも喧嘩は弱そうですが「負けた」という顔はしない。安倍さんのように「うまく叩かれている」と言えるのかもしれない。空気抵抗で飛行機は高く飛べる、的な。

 僕もそういうことに学んでいこう。「負けた」顔を見せたらおしまいだ。喧嘩は強そうじゃないんでいついじめられるかわかんないし、実際変なメッセージくることもあるんだけど、絶対負けない精神で。なんていつも気を張ってるから疲れて、体調崩したりするのかもしれない。珍しく弱いところを見せている。いかんな、つけ込まれてしまう。でもたまには弱っているところを見せたほうが、可愛げが出るのかもしれないな、とも思ったり。
「でかいボウル」の話だった。僕の精神力も体力も無尽蔵ではない。疲労もストレスもザルのようには抜けていかない。でかいボウルに一時的に貯めて置くだけ。それをせっせとコップで掻き出していくのだ、家とかで。誰もいないところで。自分はそういう意味で本当に、一人の時間がないと絶対にダメだ。他人に癒してもらえる領域と、そうでない部分とが歴然とある。
 本当にまだまだ体調は不良。でもお店には出ます。遠慮せずに来てください。不良な時ほど人に会いたい。なぜなら「他人に癒してもらえる領域」というのも僕には膨大にあるから。それが前提にあってこそ、「孤独が癒す領域」が活きてくる。友愛と孤独とは、昼と夜のように、海と山のように手を繋いで別の場所にいる。

2023.2.13(月) リーダーヤンキー

 2月忙しすぎて不安だったがきっちり体調を崩した。中野坂上でカレー食べて歌舞伎町で紅茶飲んで荒木町で高品質珈琲と名曲〜という西側の優雅な休日を前夜までは目論んでいたが起きて「こりゃ無理だやめとこう」となって二度寝した。
 1月23日の月曜日にも体調が悪くなって、念のため抗原検査複数回したけどすべて陰性だった。火曜にはお店に行けていた。感覚的にはウィルスっぽい感じではなく疲労やストレスが原因な気がする。金土日はそれなりに忙しいことが多い。お店にいる時は気力で心身をコントロールできてしまうから平気だが、一応は非番である月曜日にすべての蓄積がバーっと襲いかかってくる。
 10、11、12の金土日は30時間営業して来客が合計で34名(昼の貸切含む)。ちょっと前だったら金土日で10名行くかどうかって感じだったので、世の中の意識は変わってきたんだなと実感する。先週の金土日は26名。その前は18名。1月以降の金土日は計15〜20名くらいで安定していたが、この2週はちょっと多い。

 最近はちょっと寝不足の日もあるが、その翌日は10時間くらい寝ている。そういうバランスの悪さも良くなかったのかもしれない。ご飯はちゃんと良いもの食べているが時間や回数は不規則だったしお酒もけっこう飲んだ。日月は休肝できた。
 こういうこと書いて気を遣われるのは嫌だ。ジャッキーさん大変そうだからお店に行くのやめよ〜みたいにされると売上がなくなりストレスにもなるし、そのぶん僕は別のところで頑張らなきゃって気持ちになってしまう。それもあって普段は体調が悪かったり疲れていたりしてもできるだけそれを隠している。まあなんにしてもみなさんお店に来てください、来られない人はお金をください。そういうことで生計を立てている人間なのだから。
 いまちょうど病みと病み上がりの中間くらいで、このまま良くなっていくんだろうなとは思いつつ、まだ頭は正常に働いていない。月曜日の夜中。明日の夕方までには元気になっているつもりである。(気力で元気になってしまうだけなのかもしれない。)
 やっぱりまだあまり内容のあることが書けないな。いろいろ考えていることはあるのに。

 この3年たぶん新型コロナウィルスにはかかっていないし、大きく体調を崩したこともほぼなかった。世の中の変化によるストレスはいろいろあったが、自転車で山を越えたり、毎日散歩したり喫茶店に行ったりしていたら解消されていた。時短営業の頃も時間だけはあったからなんだかんだゆったりはできた。何より、「やってやろうじゃねえか」という反骨精神とカッコつけが精神力の源になっていた。愚かな人々への怒り、憤り、呆れ、絶望、失望、そういったものに動かされていたところもある。特に同業者に対しての嫌悪は実のところ相当すごかった。あん時カッコも頭も悪かった人たちを永遠に忘れません。軽蔑なんかしたくないのにな。
 そういうのが今はない。僕が正しかったことはおおむね証明されている(そう僕は確信している)のでわだかまりは特にないが、だからこそやや気が抜けてきたことは否定できない。それなのに日々はどんどん忙しくなってゆく。世の中が動き始めたからだ。
 僕ったらば、年齢を重ねていくごとに魅力が増してしまい(自分で言う!)、体力的には老い衰えてゆく一方のはずなのに活動量は減らないどころかむしろ増えていきつつある。この3年は強制的に活動量を抑えられていたところもあったからまだ良かったが、だんだん動けるようになってゆくと動けるだけ動こうとしてしまう。「気ばかり若い」ってやつかもしれない。そういうのもあって短期間に二度も体調を崩しているのだろう。ここをうまくバランス取らんと10年後くらいに詰んでるかもしれない。徐々に考えてゆくつもりではある。
 単純に生活のリズムをできるだけ安定させて、良きものを食べ、たくさん眠り、美しい素敵な時間をたっぷりと過ごす。それだけで良いはずだ。今はちょっと身体がびっくりしているだけだろう。あまり心配はしていない。一応健康診断とかは受けておく。

 自分が自分らしくあることが世の中をよくしていくのだと信じられる、そのような自分とは一体なんだろうか?と常に自問する。その結果、他人からはまったく意味がわからないようなことをしてしまう。綺麗事が好きなわけではない。芸術というものは人を狂わせるという、ただそれだけで説明できるのかもしれない。
 人を傷つけるとか苦しめるということを最も悪いことだと規定すればモノを考えるのは随分と楽だ。しかしそうでもないと考え始めたらモノを考えることがめちゃくちゃ難しくなる。そういうふうに、突き崩すと思考の軸を失ってしまうようなものが常識である。芸術とは常識を抜き去った人工であり、実のところ人間の美しさとはそういうところに宿る。(この領域は考え出すとそれこそ狂ってしまいそうになるので、大人しく自然を愛でているほうがいいと思う。山を歩いたり、海を眺めたり。)
 優れた芸術が世の中をよくするのか? それはよくわからない。求める人はいるのだろう。意外とみんな、狂いたいから。人によっては芸術のように人を狂わせて生きていくし、人によっては誰も狂わせず常識に則って生きてゆく。で、たまに誰かに狂わされる。いずれの人々も。
 自然はそういうことと無関係にいつでも美しい。たぶん最後はそこである。

2023.2.7(火) 努力について(努〜パミン 序章)

「努力」については18歳のときにこう書いている。

 僕は我慢するということが大嫌いです。したい事が出来なかったりしたくない事をせねばならんかったりする時に、その状況を甘んじて受け入れること、即ち我慢するということが本当に嫌いです。寝たいときは寝たい。喰いたいときには喰いたい。テックトゥがしたい時にはテックトゥがしたい。でも我慢する。

 ところが、ここで耐えれば面白いとか、後でネタになるとか、自尊心が保たれるとか、そういうときにはプライドの高い僕のこと、人一倍我慢強くなるのだと思われます。余りにその状況を楽しみすぎてそれは既にもう我慢ではないとかそういうことも起こり得。

 僕がよく言うのは努力という言葉についてだけど、努力っていう言葉の定義はたぶん「やりたくないことをがんばってすること」なんじゃないかと思いますね。勉強の嫌いな人ががんばって勉強をすることは「努力」と言えるかもしれないけど勉強がすこぶる楽しいと思える人にとってはまったく「努力」でも何でもないのだと思う。痛いのが嫌いな人が痛いのをこらえるのは我慢だけど痛いのが好きな人が痛いのを享受してエヘヘっていうのはまったく我慢でも何でもない。と思われる。

 ということは前にも言ったんだけど僕は努力なんかしたことがないってことになる。小さな努力は節々にあったにしろ大きな努力をした経験がほとんどない。これも前にも言ったんだけど「ジャッキーが努力してるところを見たことがない」という言葉を数回聞いた。当たり前じゃボケ。

 我慢もあんまりしていない。しなくてもいいような状況になることが多いから。でもまったくしていないわけじゃない。物事が思うようにいかないこともよくある。今だってそうだ。ああ。ビバ。いざ。もう。

 同年7月のエジソンの言葉についてのくだりも面白いので興味ある方はぜひ。
 また19歳になったばかりの僕はこう書いている。

 「背伸び」は嫌いですよ。
 自分をわきまえなければ。
 憧れるのは良いが、まず鏡見れ。
 容姿の話じゃないぞ。

 格好良く生きようと思うこと。
 他人とは違うことをしようと思うこと。

 あるサイトの管理人さんが「彼らが天才なのではなく、我々が無能なだけだ」という主旨のことを言っていた。
 「天才の模倣」をするのではなく、まず、無能から脱することを考えるべきなのである。
 そもそも天才/凡人などという考え方がおかしいのだ。
 その管理人さんは、「なぜ自分を美化しようとするのか?」と問いかける。
 自分にはない能力を持っている人を「天才」として自分の住んでいる枠組から隔離することで、
 自らはあくまで、「凡人」=“普通の人”でいようとする。なぜ、自分が“無能の人”であることを自覚しないのだ?

 いわゆる「天才」と呼ばれている人たちが、“努力を積み重ねた普通のひと”なんだと思えば、
 自分たちは「努力を怠った無能なひと」でしかない。まずそれを分かろう。

 まあ、努力すれば何でもできるんなら苦労はせんのだが、姿勢の問題ね。


 無能な人が“普通”を模倣しようと思っても無駄だ。無能なんだからボロが出る。
 まず、その能力を会得するための下地がなければ。つまり、身長がなければ。
 背伸びしたまま歩いてたら転ぶ。

 努力しないまんま、才能だけに憧れを抱いていても無駄ということ。生まれつきの才能は、どうがんばったって模倣できない。
 努力は模倣できる。割とたやすく。


 わきまえを知れ。わきまえを。自分がチビなんだということを。高橋陽一の『CHI-BI』全六巻を読んで、出直してきなさい。
 等身大で、笑顔。これが大事。あと謙虚さ。

 言ってること今とほぼ変わっていないです。すごくない? みんな褒めてよ、ちゃんと。誰からも褒められてなかった10代の僕が、報われるためにも。(個人の当時の感想です、褒めてくれてた人はいた、本当にありがとう。)
 この直観を確信できたのは30過ぎてからなんだけど、それまでずっともがき苦しんで模索してたってこと、そのことが一番すごい。「10代の時にもうわかってたんだね!」じゃなくて、「こっからずっとこのことを手放さなかったんだね!」ってのがすごい。

 さらに遡って、16歳の僕の文章を見よう。

その不安・・・自分が人にどのように思われているか・・・というのは、誰もが思っていることです。僕だって常に考えていることです。(ただ僕の場合ある種の開き直りが見られるかも知れない)
不思議でもないし、悪い事でもない。人間誰しも思うこと。だが重要なのは明確な「自分」持って、その考えの中でも決して考えを曲げないことをひとつでもつくる。これは僕の考えでしかないけど、人が自分のことを好きになる時、その人はなるべく自分の本質を少なからず知っていなければいけない。例えば生活の中で本当の自分とは全く違う「仮の自分」をつくりあげたとして、その「仮の自分」が誰からも好かれる存在だったとしても、「仮の自分」が本当の自分とはかけ離れすぎたものであったなら、それほど虚しいことはない。自分の本質を好きにならない人を、自分が好きになることは、あまりないことだと僕は思っている。だから、ある程度譲れない「自分」を持って、さらけ出すことで、自分の好きな人たちを見つけられると思う。逆にそれをしなければ、一生ひとりぼっち。

 最後のところだけでも読んでほしい。

《自分の本質を好きにならない人を、自分が好きになることは、あまりないことだと僕は思っている。だから、ある程度譲れない「自分」を持って、さらけ出すことで、自分の好きな人たちを見つけられると思う。逆にそれをしなければ、一生ひとりぼっち。》

 本当の自分とか本質とか、もちろんわかりゃしないが、この16歳の少年が言うことは間違いなく正しい。
 そしてこの小さな男の子は、それから20年以上もずっとこのことだけをし続けているのである。それは彼にとって実に自然で当たり前のことで、同時にはたから見れば「たゆまぬ努力」と言えるようなものだろう。

 ところで、ちょっと進んで22歳の僕はなんて言っているだろう?(いつまでやるんだ、これ。)

 僕は昔から「努力」という言葉が嫌いだ。かつて「ジャッキーって努力とかしたことないでしょ!」と言われたことがあって、僕はとっさに「ないよ!」と言い切った。努力というのは「嫌なことをいやいやながら頑張ってやること」だと決めつけている。好きなことを好きなだけやるのは努力じゃない、というのが僕の考え方。大学受験の時も僕は努力なんてしていない。だって勉強は楽しかったもの。取りかかる瞬間には多少の努力が必要だった時もあったかもしれないけどさ。だけどどの教科もやってて死ぬほど楽しかった。あのプレッシャーさえなければ。
 楽しくなかったらやらん!と言うとまた「ガキだな」と言われるんだろうが、人生、やってみたら楽しいことばっかりだ。だから大抵のことは、やる。自転車で東京から名古屋まで走るのは絶対に努力ではない。授業を受けるのも楽しかったし、楽しくなかったら自分なりに楽しいことしてたし、それも努力とは思わない。逆に言えば、気持ちよくなければ据え膳も喰わずに寝る。セックスなんて努力してするもんじゃない!楽しみながら覚えるべし。
 僕にとっては、努力なんて言葉を使ってしまったら楽しいもんも楽しくなくなる。誰が気持ち良くないのにセックスをしますか。誰が楽しくないのに勉強なんてしますか。みんなしてるみたいだけど楽しまないと損だぜ。楽しめないならせんでいい。だけどと思うならそれを無理に強いる社会が悪いと思ってはみだせ!
 とまた極論。
 向いてないのに死にそうになって勉強して大学に行って大学で勉強できなくて困って社会に出てそれなりの会社に行ってまた困って鬱になってでも家庭あるから頑張って、って。
 そんなんより別の道があっただろう?って思うんだけどなあ。
 かつての教え子(けっこう良い大学に行った)がそうならんことを祈る。

 どうなってるだろうね、明治大学に進んだ彼。大学1年から2年にかけて2年間家庭教師をした。2歳しか離れていなかった。初めて会った時は日本語での意思疎通すら難しく、自分で言うのもなんだけど僕がいなかったらせいぜいいわゆる「Fラン」で終わっただろう。
 当時から僕は勉強を指導する際、できるだけ「努力」をさせないようにした。当人にとって苦でなく、可能な限り興味を持てるようなやり方を心がけた。そのために2時間の契約のところ5時間でも6時間でも付き合った。
 ちゃんと伝わって、苦でない人生を送ってくれていたら幸いだな。いつか再会したいものだ。


 いま振り返った16歳から22歳までの文章を乱暴かつ恣意的にまとめると、だいたい以下のようになろうか。

 16歳の僕が直観的に志向していたのは、まず「自分の本質」を育てること。そしてそれを好きになってくれる人を探すこと。孤独に生きるのが嫌ならば、それしかない。
 そのために「嫌なこと」をするのは悪手。「嫌なこと」をしていて「自分の本質」なるものが育つわけがない。「自分は何なら嫌じゃないんだろうか? 何なら楽しくやれるんだろうか?」を突き詰めることが、本質を追求することなのだ。
 嫌じゃないことをひたすらやると、他人はそれを「努力」だと思ってくれる。大学受験という目標がある時、Aのやり方は嫌だ、Bのやり方は嫌だ、という判断をきっちりと行い、排除する。Cのやり方が自分に合っていると思えば、それをひたすらやる。それを自分は努力とは思わない。楽しいから。だけど他人は「えらいね」と思ってくれる。結果も出る。最高である。

 努力とは思わない、けれども客観的にそれは努力だろうし、ゆえ自分を客観的に見つめ直した時、「ずいぶん努力したな」とは思う。
 僕は今でもよく本を読むが、それは習慣でもなければ好きでやっているわけでもない。読んだほうがいいと思うから読むだけ。自分が幸福になるために最も効率の良い手段の一つだと信じるから。なぜ効率が良いかというと、べつに苦ではないから。たまに楽しいと思えたりもする。
 本を買ったり借りたりして、「めんどくせえな」と思いながらもなんとか時間をつくって読書する。きっとそれは努力なのだろうな。べつにやりたくてやっているのでもないのだ。やらなきゃいけないのだ。「自分の本質」なるものを育てるために。
 もちろん、苦な本は読むのやめる。そこまでしてやるようなことではない。嫌々やるのは効率が悪すぎる。

 昨日は、今年初めて一歩も外に出ず、読みかけの本を2冊片付け、新しい本を開いた。お客さんに教えてもらったドーパミンに関する本。まさに「努力」ということについても記述されている。読み終わったらたぶんまたここに何か書くだろう。
 読書だけではなくて、僕の生活は「主観的には努力ではなく、客観的には努力である」ようなことばかりだ。僕がどうして太らないのか? 主観的には努力ではないし我慢でもないが、客観的には努力でしかないし我慢でしかないようなことを、あるいは人によっては苦行と思うようなことを、毎日当たり前にやっているからである。決して「生まれつき太らない体質だから」というようなことではないと思う。お母さんちょっと太ってるし。長兄も最近太ってるし。次兄も一時期今よりちょっとふっくらしてた。三兄はずっと肉体労働だからか太ったのを見たことない。お父さんもなぜか太らない、理由は不明。
 もし僕が太らない体質なのだとしたら、それは遺伝子のおかげというだけではなくて、長い時間をかけてそういう体質を作り上げた、または維持してきたからなのだとしか思えない。18歳から一人暮らしを初めて、自堕落にのみ生きてきたらもっと崩れた体型をしているはずだ。自分で言うのもなんだけど僕の肉体は今のところめちゃくちゃ美しいのである。みにきてね(どこに?)。
 顔だってそうだ。二十代までは自分の顔をそれほど良いものとは思わなかったけど、最近は「めっちゃいいじゃん」と思っている。なぜかといえば、「いい顔」をできる限り心がけて、それをし続けた結果、それがちゃんと顔に張り付いたからである。決して元々持っていた美しさではない。いや、そうだったとしても、それを維持するのは並大抵のことではない。自分ではそれを努力とは思わないが、客観的には恐ろしいほどストイックな努力なのかもしれない。

 また、自分はめちゃくちゃ頭がいいと自分で思っているが、それを育て、維持するのは本当に大変なことである。常に、あらゆる場面で頭を回し、きちんと新たなことを知り、ただ受け入れるのでなくしっかり自分で検討する。ある程度の年齢までいくと、思考の柔軟性を保ち続けることは非常に難しい。若い人にはわからないかもしれないし、僕も実のところピンと来ないのだが、周りの人々はどんどんそこから脱落していくので、たぶん難しいのだと思う。あるいは、だんだん柔軟であることに価値を感じなくなっていくのかもしれない。僕はまあ柔軟っていう「係(かかり)」で少なくともしばらくはやってゆく。柔軟の価値を依然信じているし、これから先の世界はそれがないとけっこうキツいだろうなとも思うから。今だってまだまだ柔軟性を捨てたほうが楽な時代だろうが、いつ過去になるかわからない。いやまあ、そんなことはどうでもいいとして、そのほうが性に合っているのだ。今んとこ。

 ちょっと怖いことを言うと、《そういったこと》のためには手段を選ばないところがある。たぶん脳の癖。それについて詳しくはもうちょっといろいろ勉強してから書くつもり。
《そういったこと》っていうのは、すなわち「努力」のことである。「主観的には努力ではないが、客観的には努力でしかない」ようなことを、僕はたぶん優先し過ぎている。その結果、僕のことを好きな人が好きであるような僕であるわけだから、誰にも文句は言わせないが、文句を言われるのは仕方ないとも思っている。そこのバランスの調整が、優先順位として次点にある。自分の本質を最優先しつつ、人々の世界と上手に生きていくには、バランス感覚が何よりも大切なのである。

2023.2.3(金) 男ってやあね 尊敬が下手ね

 男はいまいち「尊敬する」ということが下手くそだ。
「男は」という書き出して始まる話がそもそも聞きたくないというような人は、我慢してください。それなりの話をするつもりです。

 一般に、女は、「他の女よりも低い地位に置かれたくない」という強い思いを持っている。男は、「他の男よりも高い位置にいたい」という強い思いを持っている。この絶妙な差異が面白い。
 女にとっての脅威は、「自分を低くさせるような女の登場」であるが、そこには必ず「評価する第三者」の存在がある。一般に、女は「選ばれる」対象である(そういう期間が歴史的に長く、その習慣が現代にも引き続いている)から、「選ぶ」人間が存在するときに同性の戦いは始まる。
 一方、一般に、男の強さというものは殴り合えば決められるようなものであるから、第三者による判定は不要である。強いほうが強い、終了。勝ったか負けたかは自分で判断をつけるのであって、他人に「俺のほうが勝ってるよな?」と求めることは女々しい(!)行為である。
 したがって男は、男に対して真っ向から戦いを挑む。「自分のほうが勝っているという証拠」を、客観的な比較によって探し出そうとする。
 女同士の場合は、「○○くんはあの子よりも私のほうを見ている」とか「息子にとって母親である私のほうが嫁であるアイツよりも重要人物である」とかいうふうに、第三者の存在を反射させて自と他の勝ち負けを決定する傾向がわりに強い。えー、一般に。あくまで僕が「一般」と思っているだけですが。

 まあまあ乱暴なことを言っているような気はしますが、なんとなくそう思っておるのです。

 男は、直接対決を好む。ケンカしたらどっちが強いか、どっちの偏差値や学歴が上か、所得はどっちが多いか、どっちがモテるか、どっちのほうがたくさんセックスをしているか……。このとき女たちは単純に「数」へと変換されている。あるいは「どっちのオンナのほうが美人であるか」というのも、そのオンナの美の度合いを「パワー」に変換している。ポケモン化している。どっちのポケモンカードがレアで高い値段がつくか、というふうに。女たちの戦いとの違いは、判定するのが第三者ではなく自分、ないし相手、あるいは自分の所属するコミュニティや世間である、というところ。男たちは、「俺のほうがいい男だよな?」とたった一人の女に確かめて満足する、ということがあまりない。「俺のほうがいい男だ」という客観的な証拠をなんとか集めようとする。「俺のほうがたくさんの美女を抱いてるからいい男なのだ」みたいな感じに。いやですね~。それにしてもこれ本当か? 本当な気がするのです。

 あくまで、一般に、という話だし、女の中にも男のような心はあるし、男の中にも女のような心はある。ここで僕が言いたいのは、男はこう、女はこう、という単純な決めつけではなくて、男という概念はどうやらこういうものとして設定されていて、それは実際には男女どちらも持っている性質ではあるよね、でもやっぱり一般には、男という性別を持って生きている人の中には男という概念の示す性質が強めに発現しているよね、というような感じのこと。わかりますでしょうか。
 で、たとえば僕は、男として生きているのですが、比較的女の性質が強めに出ている気がする。詳しくは先月末にあれこれ書きましたのでご参照あれ。今日の話でいえば、僕は直接的な争いを好みませんので、「どっちが上か」を考えて接してくる男らしい男が苦手であります。

 女友達がお店に彼氏を連れてきたりすると、男のほうが僕を値踏みしてきたりする。「こいつと俺と、どっちが上なんだ?」と。隣にいる彼女に聞けよ、と思うのだが、どうしても客観的な証拠が欲しくなる。それが男である。
 勝てる要素をどこかに探す。見つからなければ、粗を探す。
 素直に尊敬すればいいだけの相手に対しても、「でも○○さんはこういうところあるから」みたいな形で、弱い部分をどうにか探したりする。そうやってプライドを守っていかないと健康な精神状態を保てないのが男というやつらしい。
 自分も男であるし、男としての心をそれなりに持っているので、心当たりがないわけではない。無意識にそういう気持ちになってしまうこともあるかもしれない。気をつけたいものだ。男の人を憎みたくない。ただ仲良く、尊敬していたい。勝ち負けなどどうでもいいのだ。巻き込まれたくない、本当に。

 男は尊敬することが苦手、というのは、女に対しても、男に対しても。女のことを素直に尊敬すればいいのに、なかなかできない。男のことも素直に尊敬すればいいのに、なかなかできない。僕は、立派な人のことは尊敬したほうがいいと思う。そいで色んな人のことをめちゃくちゃ素直に尊敬しているほうだ、と思う。瑕疵があるのは当たり前で、それで立派さが損なわれるわけでもないし、自分と比較して「瑕疵みっけ! この点では僕の勝ち!」みたいなんは、さもしい、みっともない、かっこ悪い。

 一般に、女は、尊敬することが男よりも得意であろう。なぜそうなっているのかはいろんな考え方がありそうだけど、男って尊敬するのが下手だから相対的にそう見えますよね、とここでは言っておきたい。単純にすごいものをすごいと言えない。男は基本的に、自分よりすごいものに対して脅威を感じる生き物だから。「すごいね、でも儲かってないよね」「すごいね、でもモテないでしょ」「まあなんか汚いことやってんだろうな」こういう発想が自然に出てきてしまう。「すご~い」で思考を止められない。足を引っ張りたがる。成功者を炎上させたがるヤツの発想。わからんでもない、でもみっともないからやめましょう。

 これらはみな一般に、ということなので、もちろん特殊に、尊敬することが得意な男の人もたくさんいる。僕はそういう人が大好きだ。とりわけ僕のことを素直に尊敬してくれる男の人はじつにありがたい。そういう人の声援を受けますと、僕のほうも「ああ、人を素直に尊敬することは本当にとうとい、僕もこれまで以上に素直にやっていこう」と思うことができる。みなさま素直に僕のことを尊敬してくださいませ、すると僕もこれまで以上に誰かのことを素直に尊敬することができるのです。

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