2003年9月の行い(Jacky)

 過去ログ  前の日記  次の日記  TOP





鼻水だらけのお仕事を終えて、ブックオフで何冊か本を求めたあと、
かかってきたお電話に希望を込めて冷ややかな対応をしつつ
立ち止まってプリンシェイクを購入した。
520円入れて120円のプリンシェイク。お釣りコーナーをまさぐったら百円玉が五枚入っていた。
都合20円でプリンシェイクを飲んだということであり、新記録。



 「女はみんな頭が悪い」と主張してやまない人がいる。これは男の意見で、女の人に言わせれば「男なんてみんなバカ」らしいのだが、僕はどっちの意見もなるほどなるほどと聞く。しかし前者の意見に関して反例が思いつくような人は少ないのではなかろうかとは思う。
 まあとにかく男の人の感性から見たら女の人の感性というのはそれだけで卑下すべきものなのかもしれぬ。
 【一般的な女の人の感性についてのイメージに対して相当数の男が抱く感想。】
 ところで件の文脈で、「バカ」ではない男というのは男としての魅力が全く欠落した男のことを指すのかもしれぬ。知れぬ。



 29日は授業始めの日。かわいい後輩にモーニングコールしてもらって爽やかに目覚める。が、逆に気持ちよくなりすぎてしばらく何も出来ぬ。時間通りに授業に赴くも先生がやって来ず自然休講。大好きな授業なので残念。戸坂潤でも読みながら教室に停滞するも日が照って来たので退散。数時間の空白。寂しい時間をしばらく過ごす。校舎の前で独り座っていたらまじめそうなにーちゃんが来て何だかよくわからないサークルに勧誘される。そういうのにすらすがってみようかと思うのは末期的な症状だ。一応興味のありそうな素振りをしておく。そんなに寂しいか。そんなに学内では手持ちぶさたか。こうなったら本当に藤子不二雄研究会に入ろうかしらん。とも思う。
 とにかく十日間ほど生身の人間と話をしていなくて孤独。松屋の店員に定食のオプションを訊ねられたときと新聞屋のおっちゃんが米を10キロ持ってきたとき、それと荷物が届いたとき以外はヤフーBBからの連絡等を含む数回の電話を除いて他人としゃべっていない。まあこれは「しゃべりまくる」ことが当たり前になっている人の基準なんだけど。
 その後は売店やら読書室やら図書館やらをうろうろ。図書館の中でようやっと自分の居場所を見つけた。藤子不二雄A『妻たおれ夫オロオロ日記』を発見したのである。読む。面白い。まえがきが興味深い。A先生は奥さんのことを「和代氏」と読んでいるそうだがそれは何故かというと手塚治虫先生に「安孫子氏」と呼ばれたことに起因するらしい。なるほど!藤子先生のまんがや文章に「氏」が頻繁に登場するのはそういう理由だったのか。聞けばトキワ荘の若い衆の間では「氏」をつけて呼び合うのが流行っていたのだそうだ。手塚先生に憧れる若い世代のまんが家たちがその大先生の口調を真似て楽しんでいる光景、なんてのは想像すると微笑ましくなってしまう。
 カウンターで『妻たおれ~』を借りる。必要以上に「ありがとうございました」を連発する僕。よほど飢えている。教育学の授業に。後期から担当が若い講師に変わったのだが割と面白い。今後に期待を持つ。
 古本街のワゴンをチェックして駅前へ。今日はクラスの飲み会があるようだから飢えている僕は参加。マニアックな人々とマニアックな話題で盛り上がったり酔っぱらった女の子に音楽のマニアックな話題で絡まれたり。フリッパーズ賛美から始まって、ああ、じゃがたらという単語を他人の口から聞いたのは初めてだ。福岡発の女の子の様子がめちゃくちゃ面白くて見とれる。僕は酔いたいので飲みまくる。ほろ酔い。そのあと駅前でひとしきり暴れまくって愛してますと言ったら割とまともに返されて叱られて驚いて、カラオケに朝まで。一発目は『勇者王誕生!』。女の子のいるうちはみんな爪を隠してJ-POPなど歌うわけなんだけれどもそれがいなくなるとアニソン。『宇宙戦艦ヤマト』→『FLYING IN THE SKY』で締める流れは美しかった。
 朝、店を出て自転車がなくなったと勘違いして歩いて帰る。カラオケでも酔っていたいためにサワーを飲みまくっていたのが仇か。10キロを2時間かけて帰る。着いたときはくたくた。一時間だけ寝て学校へ向かう。気持ちが悪いけどなんか食べなきゃと思ってらんぷ亭で納豆定食を頼むと、なんと発泡スチロールの容器に入ったスーパーマーケットなどでおなじみの納豆がそのまんま出てきた。テンションが下がった。味もよくはない。道理で全部食べきれずに屈辱。
 今日は2時間目のみ。中世日本文学史。後期から担当が変わっている。面白げ。期待。
 30分早く授業が終わってみんなとしゃべったりしてみる。予定をキャンセルしてまで教室にとどまる。3時間目が始まりそうなのでブックオフ高田馬場駅前店に逃げ込むと、『Fab gear』というコンピ、いや【コンスピレーション】アルバムが。即買い。その後店内をぐるぐると廻って帰宅。家の近くにある中古屋にも入って物色。午後四時帰宅。一時間だけ寝て予習をしてからお仕事へ。鼻水だらけ。ブックオフ。



「理系」の人々が数学を解くことに楽しみを覚えるのだとしたら、
「文系」の人々は難解な文章に意味を与えることを楽しむのではなかろうか、と
戸坂潤の著作を読み思う。



 ところで高田馬場から歩いて帰らざるを得なかった昨日の道すがら、僕は死にそうであったけれども家につくとそうでもない。誰かへの愚痴吐露は踏みとどまっておいて良かった。そうさ。感情なんていうものは時が来れば変わっていくものさ。ちょっと痛くてもその時を耐え抜けばなんでもない。感情に関する問題を抱えて他人によりかかるようなことはしてはいけないのだ。
 しかしだ。僕はそれが「もったいない」と思ってしまうようだ。感情には形がなくて、その感情が存在した証拠すらも事後には何も残らない。これは結構寂しいことだと思って、まあ「泣いている自分に陶酔」と似たようなもの。感情の証拠を文章として、或いは単なる愚痴として何かに、或いは誰かの心に留めおかせたい。と思ってしまうようだ。どうにもこうにも性格が悪い。ケチな奴。




ズボンは「履く」ものだし風船は「割る」ものである。着たり壊したりすると誤解される恐れがある。
そういうことと同じように愛は「崩れ去る」ものらしい。その他の表現では誤解される恐れがある。
どうも最近絶縁されたり電話ごと登録を抹消されたり百年の恋にも醒められたりする。
僕の人生のピークは17歳だ(と思うことにしている)から、そろそろ下降の兆候が見られるようだ。
ここんとこ出来るだけ包み隠さず自身の性格の悪さを露呈させるよう心がけていた。
保身の精神を排斥せねばならぬと思ったからでもある。
そうすると当たり前のようだが友達は減る。
これは困った。
というわけで人間関係は大切。もういちどI love you.






人間はたぶんみんな同じような道を通っているんだ
だから他人をみたらだいたいどのあたりにいるかわかるんだ
でも自分がそこにまだ行ったことがなければわかんない
そう信じることができなければ僕の日頃考えてること感じていることは全て否定されるんだ
だけど僕は、どうしてもそうだとは思えないんだな
だから葛藤なんだな





「私はみんなの人気者○○さんと寝ました」
ってほうぼうで「傷心を装い婉曲的に見せかけながら」言いふらして廻っている女の人
がいるとしたら僕はこのように思うだろう。
久々にすごい物をみた、という感想。
それで○○さんはどう思うのか
ってことを考えて彼女はどう思うんだろうか。
そういう自分の振るまいが結果的に多数の人を不愉快にさせるってことに気づかないなら危うい
自己顕示欲が強すぎる。
かつ手口が汚らしい上に露骨
頭も悪い。
不愉快くらいならいいけど確実にイメージダウン。
馬鹿だと思われるだけなのに。
あー僕は他の人がするであろうように暖かくも冷ややかに見つめ続けることなんてできない
「友達」は優しすぎるんだ。
だから女は頭悪い、なんて言われるんだ。男に。

薬物に頼ることがアイデンティティか

アイデンティティという言葉が俗っぽくて使いたくないから
わざわざレーゾンデートルなんて言葉を持ち出してくる
そういう人っているんじゃないか。
ついでにかっこつける

矛先はぐるんぐるん変わってます。





あなたと行ったパーティ あのころ
心若く ダメでした
からだは やりたい
壁のそば立って 誘うよ注意
そんな風に するうち
おとなしくしてちゃダメと わかったよ
燃えるように熟れてる その形 無駄にしてる
動き lady 踊ろう
腰のふり かわいい
ひとりぼっちはさみしいから
もの想い ちょっと好きだから
今夜party どうぞ
沈ませて あなたのあそこ
動いて 回って 突きあ 突きあおう
腰と腰一つに
美しい人ばかり 集まる日
女の子たち 遊ぶ
その瞳 どう見ても
やりたいの一色 我慢しても ほら
踊ろうよ ねえ その気なら
踊ろうよ 愛 その気なら
踊ろうよ ねえ その気なら
踊ろうよ 愛 その気なら
今夜party どうぞ
沈ませて あなたのあそこ





こんなに好きやのに
つれないな
なあー





よく、「その作品」を擁護する立場の人は、
「嫌なら見なきゃいい」とか「嫌いなら読まなきゃいい」とかアホなことを言うけど
だって僕は批評したいんだもん。馬鹿にしたいんだもん。
Webサイトとかで「馬鹿にするなら来ないで下さい」とか「つまらないと思うなら読まなきゃいいでしょう」
なんて喧嘩腰になっている管理者やその擁護者(身内)がいるけど
いやだって僕は批評したいんだもん。馬鹿にしたいんだもん。
あんたを優秀な反面教師と見込んで、の話。



僕に似ている人たちから、僕は代償としてネタとエナジーを搾取しているわけだから感謝している。

 たとえば名古屋発の「木曽路」というしゃぶしゃぶの店がある。
 僕は国道の片隅なんかに「木曽路」を見つけるとたいてい
 「あ、木曽路のくせに山の中にないぞ。」
 とか呟くんだけど、あんまりわかってもらえない。別に言うことで満足してるから良いんだけど、
 気づいてもらえたらそれはそれでかなり嬉しい。
 過去、これに気づいてくれた後輩が一人いたが、彼は別に島崎藤村の『夜明け前』を読んだわけではない
 高校の国語便覧に隅々まで目を通していただけである。「木曽路は全て山の中である。」くらいは常識の範囲内にある言葉だ(あるいは「だった」)と思うし、少なくとも僕の通っていた高校の生徒は全員がその文章に触れることのできる環境にあったのである。だって国語便覧に載ってるんだから。
 ちなみにその後輩はすごい。日常会話の中で突然「10日前と比べたら、まるで赤ん坊と兵隊だ」とか「あまり合わない背広を無理に着るとほころびる。喧嘩をしたり自殺をしたり騒動が起きるんだね」とか何の脈絡もなく挟み込んでくる。なんなんだあやつは。
 んで僕は随所に挟み込まれるそういったフレーズをアンテナに引っかけてはニヤニヤしてるんだけど、「こりゃ君ラテン語じゃないか」「ラテン語はわかってるが、なんと読むのだい」「だって君は平生ラテン語が読めると言っているじゃないか」「読めることは読めるが、こりゃ何だ」「読めることは読めるがこりゃなんだは手ひどいね」「何でもいいからちょっと英語に訳してみろ」「みろは烈しいね。まるで従卒のようだね」「従卒でもいいからなんだ」とか平気な顔して日常呟いている。ちなみに今調べてみたところ正しくは「何だって?Quid aliud est mulier nisi amicitiae inimica……こりゃ君羅甸語じゃないか」「羅甸語は分ってるが、何と読むのだい」「だって君は平生羅甸語が読めると云ってるじゃないか」と迷亭君も危険だと見て取って、ちょっと逃げた。「無論読めるさ。読める事は読めるが、こりゃ何だい」「読める事は読めるが、こりゃ何だは手ひどいね」「何でもいいからちょっと英語に訳して見ろ」「見ろは烈しいね。まるで従卒のようだね」「従卒でもいいから何だ」である。蓄積されているうちにほころびた記憶が、自分の言いやすいように少しずつ変わってきてしまっている。ちなみに地の文を抜かしているのは「迷亭君」という言葉を避けたためかと思われる。んーやっぱりそろそろ読み直すべきかな。『吾輩は猫である』。
 烈しい秋の日がかんかんしやしないか
 まあそういうマニアックな会話が秘密探偵の暗号みたいで僕らは非常に楽しいわけですね。この「文学」を共有していないものは排斥するみたいな姿勢は余り誉められるべきものではないけどやってる本人たちとしてはべらぼうに楽しい。シェイクスピアファンは英語で喋るときシェイクスピアのせりふを応用させて喋ることができて、それを聞いた別のシェイクスピアファンはにやりとすることができる。まあ微笑ましいファン心ですよ。「危険があぶない」というフレーズだけでドラえもんファンは飯が三杯食えるんだからね。
 で、まあ確かに読書をするということは大切だ。こういった露骨なケースはちょっとやりすぎだが、とにもかくにも言葉が蓄積されていくというのは良いことだ。無意識でも確実に言葉はその人の中に入ってきてるんだと思う。でも文学史だって馬鹿にできない。現に先に挙げた後輩などは『夜明け前』を読んでいないのに僕の言葉に反応をして暗号共有の楽しみを分かち合うことができたのだ。その場にいた他の人にとっては困惑するし不愉快なことだと思うけど。
 いや絶対、文学史は覚えておいたほうがいい。絶対に。作品なんか読まなくても別に構わない。文学史を覚えることで確実に有用な固有名詞が増えるからだ。ちょっとマニアックで常識の範囲を越えたかと思われる作家や作品であっても、相当数の受験生はそれを覚えるのだから無駄ではない。情報がマニアックであればマニアックであるほど共有の楽しみは膨らむ。
 「おれんちプロレタリアートだから。」とだけ言うのと、「おれんちプロレタリアートだから。小林多喜二の子孫だから。蟹工船造ってたから。」と言うのでは全然違う。どっちが良いとはいわんが。(後者のせりふはかなりうざったいからね)
 会話を豊かにするためには共通の情報が不可欠だと思う。言い換えれば共通の「言葉」だ。言語が違えば会話によるコミュニケーションは難しくなるし、相手が「レーゾンデートル」という言葉の意味を知らなければその言葉は使えない。言ってみれば「レーゾンデートル」という言葉はその会話において「死んだ言葉」になるわけである。使用できる語彙が制限されると言うことは、会話が広がりの可能性を失ってしまうということにも繋がるのだ。自分の持っている全ての言葉、情報をいかんなく発揮してこそ真に豊かで楽しい会話というのは生まれる。前述した奥井亜紀の『愛はかける』という曲を共有できた相手のことを僕が好いているのはそういう理由かもしれない。





君は僕のことが好きだから僕を肯定してくれるわけだ。
つまり贔屓目に見ているわけだ。
果たして僕は僕のことを贔屓目に見ているのか。
そこが問題。




自分が自分自身と対峙しているのと同じ土俵で、
自分が自分自身を見つめているときと同じ目線から、
他人に評価されてみたい。
要するに誉めてほしいわけかね。
簡単に言っちゃうとそういうこと。
でも僕から見た僕ってのが他人から見て誉められるようなもんじゃないとしたら
それはしょうがない、諦めもつくってもんだ。





どこまでがわかっててどこまでがわかってるつもりなのか。それだけわかればいいんだ。




まー。こんだけ言ったらちょっとくらいは。
醒めた人なら嘲笑。



 誤解されるのが嫌だってのが一番大きい。僕が基本的に文章でしかこういうことを吐かないのは、誤解されるのを恐れてのこと。文章だったら幾らでも保険がかけられるし、吐き逃げだから非常に楽だ。喋ったことは消せない。修正がきかないから、下手なことを口走ったらもう終わり。変に訂正すると相手を混乱させるだけだったりするし、なんか絶対出来ない。訂正なんて。絶対無理。うまくいえない。喋るのイヤ。普段はどうでもいいことを喋りまくってるだけだから楽。



 これも言ったかなあ。石野卓球がラップに歌詞をガンガン乗せてた頃の電気グルーヴを振り返ったインタビュー記事を読んだことがある。どうして当時はあんなに言葉が多かったのか、という話題になった時、卓球は「あの頃は“こんなに言ってるのに、どうして理解してくれないんだ!”っていう葛藤があった」と、確か語っていた。
 人が饒舌になれば空回りするというのは予定調和みたいなもんかもしれない。あらかじめ決められていること。いつだって神様はおしゃべりな人間のことが嫌いなのかも知れない。喋ることによって団結するからかな。今の時代って昔に比べたら言語の壁なんて殆ど無くなってきているんだと思うから、バベルの塔が再び崩壊するときが来るのだとしたら、そろそろかも。
 と、ライプニッツ的な知的さで攻めてみたけど本筋とは関係ない。
 電気グルーヴは《電気グルーヴ》を理解してもらうための「手段」として言葉を使った。(そしてやがてその「手段」は言葉よりも音そのもののほうに傾いていったのだと思う)。僕には音を使って何かを理解してもらうことなんてできやしなさそうだから、言葉に頼る以外に方法はない。電気グルーヴの見放した言葉というものに。(いや、見放されたのは「饒舌」だ。言葉のもっと上手な使い道を思いついちゃったんじゃないかと思う。饒舌になること以外のところに。)。
 そろそろ僕の饒舌も無意味なことのように思える。「饒舌」がストレス解消以外の役割を果たしていないんだ。誰かの暇つぶしにすらならないのだとしたら絶望だけど、たぶん誰かしらんは呆れながらも眺めてくれてる。感謝。
 ほんとーに、切に思う。僕の考えてることを理解して欲しい。僕が読みとって欲しいことを全て読みとって欲しい。でもきっと、それはものすごく文章の上手な人にだってものすごく難しいんだろうと思う。むしろ、文章の善し悪しなんてものは関係ないんじゃないか、とも。
 随分と昔の話になるけど、友人が芝居の台本を書いて、上演して、絶賛を浴びた。難解な芝居だったけど、たぶんその芝居について最も考えることができたのは確実に僕だっていう自負が当時からあった。少なくとも最も深く理解しているつもりになってたのは僕だろう。(今では当時理解しているつもりになってたことの幾つかは忘れてしまったんだけど)。僕はその友人を世界で何番目かにはよく知っているつもりにはなっていたし、本人から多少芝居に関する話を聞いたりもしたから、理解しやすい環境だったことは間違いない。僕は色々なお芝居を見たり、本を読んだりなんかしてたけど、これほど理解できた(つまり自分の中で色々と理屈をこじつけてあれこれと意味を説明できた)作品はない。それが作者の意図したものと合ってるかどうかは関係ない。要するにこじつけられたかどうかだ。有名なイプセンの逸話もある。「私は新聞の社会面を見て面白かったから芝居にしただけだ」ってやつ。モノの意味なんてものはあとから専門家が考えるものであって自分で説明するものではない(このことに関しては小沢健二のアルバム『犬は吠えるがキャラバンは進む』のセルフライナーノーツに面白い記述がある。この文章は検索エンジンにかけたらすぐ出てくる)。
 誰にだって大好きな作品とかってあるだろうな。中学生の僕は「ジェームズマシューバリの『ピーター・パン』に対する考察なら誰にも負けない」と自負していたんだけど、そういうふうに、「これに関する理解なら誰よりも深い」ってのが誰にでもあるはずだ。その対象が人間であってもいいんじゃないか?
 後輩の女の子や、大好きな先輩に、僕は「作品」だと言われたことがある。もちろん作者は僕だろう。これはたぶん嬉しいことだ。そういう人間ってなかなかいないはず。
 「作品」なのだとしたら誰かに研究してもらいたいって思う。誰か僕を研究してくれる人はいないのだろうか。ところで奇しくも僕の最も精通する分野は「僕」であり最も造詣の深いジャンルは「僕」である。専門として研究している作品は「僕」だ。でもこれって自分じゃないか。
 自分で自分を研究したってどうしようもない。何の説得力も持たない。ひとつの喜ばしい共有感も生まない。
 だから僕は何とかして他人に全てを理解してもらいたいと思うわけで。でも絶対無理なんだ。例えば夏目漱石の作品を研究する人で夏目漱石の作品が嫌いな人ってのはあんまりいないだろう。ドラえもんの研究者はドラえもんファンに決まっている。ということは僕の研究者は僕のことが大好きでなければいけない。悲しいかな僕は、僕以上に僕のことが好きな人を知らない。誰も僕以上の僕研究家にはなれないのだ。えへん。
 たとえ僕のことが相当好きで、研究しちゃうぜって人がいたとしても、その人が研究できるだけの能力を持っていなければ話にならない。意味がない。少なくとも僕よりは頭がよくなければいけない。(まあ夏目漱石の研究者は夏目漱石より頭よくないとダメかっていうとそんなわけはないが)。
 ああ、もうぐちゃぐちゃだな。要するに僕は絶望しているってことさ。「要するに」っていう言葉を僕が使うときは、投げやりになっているというか、結論を急いでいる時が多い。もう書きたくない、って時に使う。或いは保険をかけるときにも使うかも知れない。あと舌っ足らずだったとき。あ、なんだ結構用法あるじゃん。
 まあ本音を言えば別に誰も僕を研究してくれなくてもいいのだ。あとからあとから言葉が出てくるもんだからとりあえず書きまくってただけでさ。この気持ちもいつの日かかき消されてしまう。けれど紛れもなく今のこの僕が感じてる、今日この頃さ。
 オカピー。







 ひとつ下の文章においてのジャッキーさんの心理葛藤を矢印を用いてわかりやすく示せ。
解答①いや俺って絶対めっちゃ考えてると思うんだよ!→でもたぶん誰もそれを理解してくれてないんだよ!→それは僕の表現力が貧困なせいだ→ああああ僕なんて本当はダメな男なんだあああ(評価:◎ 冒頭と結びの一人称を変化させることによって心理の動きが見えやすくなっていますね。二重マルです。)
解答②いや俺って絶対めっちゃ考えてると思うんだよ!→でもたぶん誰もそれを理解してくれてないんだよ!→僕ってやっぱり大したことのない人間なんじゃないか?いっつも自分の中だけで勝手に盛り上がって、自分を高く見せることのためだけに他人をけなして、馬鹿にして見下して卑下して。本当に最悪な奴だ。→まあ落ち込んでても仕方ないからとりあえず冗談っぽく締めとこう。(評価:◎ 一人称を変えるのがちょっと早かったかな?最後の冗談を誤魔化しの意図と捉えたのは素敵ですね。二重マルです。)
解答③王様はロバ。(評価:× 答えになっていませんが先生の中では花マルです。)





 そろそろ「僕研究家」が出てきてもいいと思う。おごりで言ってるんじゃなくて、例えば僕は僕に対して割と深い考察が出来ると思う。それをまとめて「研究論文」を書いたらなかなか面白いはずだ。でもそういうのって自分がやるわけにはいかない。自分でやるとどうしても贔屓目になってしまったり、手前味噌になってしまったり、何らかの雑念が加わってきてしまう。それになんかめっちゃ自分大好き人間みたいで。実際そうなんだけどさ。だから、僕が僕に対して思っているようなことを書いてくれる人がいたらいいなあという願望です。絶対いないけど。
 だけど勘違いしてほしくないのは、「僕研究家」は決して僕にしかわからないような僕の内面を考察したりはしないってことだ。「僕研究家」は僕の書いた公の文章だけを元にして徹底的に僕を考察して論文を書く。だから僕以外の誰かでも可能なはずだ。僕が自分でそれをやるとどこかで文章に現れていない内面的なものが反映されてしまいそうなのだ。だから誰かめっちゃ僕を見て。食い入るように。解説して。解脱さして。ああやっぱ自分大好き。


「ここの一行はその前の段落に対するいわゆる保険なわけですね。ジャッキーさんって本当に臆病な男です」
みたいな論文を誰か書いてくれ。(※「狡猾な」は△)



ホント僕は同じこと何度も言わないと不安で不安で
たとえば
僕の文章の中でかなり頻繁に使われる「僕」という言葉、
自己顕示欲の強さをかなり端的に表しているんじゃないだろうか。

よく見ると「僕は」って付けなくても通じるのに使いまくっている
リズムをととのえるためだっていう言い訳もあるけど、にしてもあんまりだ
自分大好きなのであろう

とか、もう何回か言ったんだよ。でも不安だから言う。




同じことを何度も何度も繰り返していても、ディテールに凝ることによって面白さを保つ。
同じ発想で複数の面白い小説が書ける。それはすごい力だ。そういう作家は売れるものを書く。
マンネリの代名詞とも言われるタイムボカンシリーズだけど、あれはアニメーションで水戸黄門を実現させた画期的なシリーズだったと思う。
タイムボカンにあれだけ人気が集まったのはストーリーの大枠とは別のところにめちゃくちゃ面白みがあったからだ。
例えばキャラクターの魅力。特に三悪(例;お色気のムージョ天才のドボッケー力のドンジューロー)とかね。
水戸黄門だって「助さん」「格さん」をはじめ「八兵衛」「お銀」「弥七」「飛猿」などのサブキャラにあれだけインパクトを持たせたからこそ未だに続いていられるのだ。
暴れん坊将軍にしても「め組」や「お庭番」の存在は大きい。
そういったサブキャラや決め台詞(この桜吹雪がこの紋所が世の顔を見忘れたかなど)、小道具(印籠投げ銭入れ墨)などに魅力とインパクトがあったからこそ時代劇は誰が見ても面白いわけだ。ガキが見ても面白いはずである。
何よりも「お約束」の楽しさに支えられてるのは言うまでもないが。
タイムボカンシリーズにも共通して決め台詞(やっておしまいアラホラサッサーポチットナの類。シリーズによってヴァージョンが違う。例;ホイホイサー、イエスダーなど。コスットナとかもあったな)や「お約束」があったし小道具の代表選手はやはりおだてブタだろう。
あのどーでもよさがたまらん。「おろ株」とか、ああいうのね
ちなみにドラえもんはよくワンパターンだと言われるけどあれはちょっと違うと思う(こだわり)。
え?どう違うかって
いい質問だけど説明すると長くなるから
なるほど





発想が既に先人によって先取られたものであるなら
文章で勝負するしかないんじゃないでしょうか。
いわゆる文才。
発想が同じだろうがなんだろうが出来上がった文章が全く同じってことはない
だからこそ僕は文体ってのを愛おしく思っている。
使用する単語や言い回しなどは、{比較的}固有のものであるはずだからだ。
文章の雰囲気とでもいうのか。
簡単に他人が真似できてしまうようなら、その文体に価値はない。
きわだって特有の文体というものがなければ、その人は文章以外のところに魅力があるのだろう
それは発想力だったり「広告」であったりするのだろう。
「広告」。例えば芸能人のエッセイなど(本人が書いてるケースなんか少ないと思うけど)
文章に魅力が全くなくても売れるのだとすればそれは文章の魅力ではなくて本人の魅力、芸能人としての力。
持っていて当たり前の力。これが「広告」。
ところで僕は太田光の文章が好きだが彼は文体など表面的なところに何か大きな特徴があるわけではないと思う。ネタの発想力はすごすぎだけど。
実は「広告」に左右されている単なるミーハーなファンなのかもしれないな、僕は。
ひるがえって町田康などは文体に特徴がありすぎる。簡単に真似できそうだ。でもきっとなかなかできないんだろう。だから彼は芥川賞をとれるのだろう。
村上春樹も文体に特徴がありすぎる。胸焼けするほどに。でも真似はしづらい。理由の一つは比喩が卓越しているからだと思う。
だから彼は売れる。
もしも本当に全てのネタが出尽くしてしまっているとすれば表面的なところを磨かなければ一流の作品は生まれない
ただ売れるだけの作品なら「広告」次第で幾らでも作れるだろうけど
(「村上春樹」自体が既に「広告」なので『海辺のカフカ』があんなに売れたのかもしれない。僕は文系オタクに媚びてるだけみたいに見えたけど)
一応いっとくと僕は村上春樹のファンです。
さてまあ文体をコピる文体をコピると言ってもそう簡単にできるもんじゃないですよ。
小沢健二の詞をコピったテトラプルトラップさんの詞だって完璧にフリッパーズギターの詞ではない。
小沢健二が頻繁に使用した単語や言い回しをコラージュして武装しただけに過ぎない。
だからどうしても、どこかぎこちなくて陳腐に見えてしまう(フリッパーズを知ってる人にとってはね)
(いい加減この話題もしつこいんだけど、流用しやすくて便利。)

ああもうどうでもいいよこんな話!(away)

んーと要するにちょっとくらいは僕にだって自負はあるぞと。
わら一筋の。



 例えばね、最近よく講談社現代新書とか読むんだな。カッコつけたいなら中公新書か、せめて岩波くらい読めばいいんだけど、まあ講談社はライトだし僕の興味あるジャンルが充実してる。
 そうなんだよライトだからってことでよく読んでるんだけど、まあライトはいいんだ。確かにライトなんだけどつまらないんだ。あんなに文章がライトで、改行も割とあって、たった200ページぽっちの本がめちゃくちゃ苦痛なんだこれが。だって文章自体に魅力がないんだから。もうちょっと内容的にはヘビーでも石原千秋の本とかを読んだ方が楽しい。極論を言えば戸坂潤とか谷川徹三とかのほうが断然イイ。時間はかかるけど楽しいんだわね。
 たまには「当たり」に出会うっちゃ出会うけど大抵の新書って文章の素人が書くわけで。普段書いてる文章っていったらお堅い論文とかの人々だしね。そうでないとしたら平易で読みやすいだけの何も引きつけるものがない文章。楽しめない。新書はなかなか楽しめない。中学や高校の国語の先生とかで「新書を読みなさい」とか言う人が何人かいたけどそりゃ結構苦痛です。まあ確かに新書から入って好きになった作家や学者さんも少なくはない(ただし講談社に関してはゼロ)けどね。文章がダメダメなのはなんとかしてほしいところですよ。全く。
 というわけで文章、というより「文体」というのは非常に大切です。何かないと困る。たった200ページが超苦痛。早く終わらないかと思ってしまう。どうも頂けないですわ。文体だけでなく内容も面白くなかったりするともう思いっきりだるだるの読書になって200ページに4時間以上は確実にかかる。あれだけ平易な文章で!ああ時間の無駄。こういう愚痴






そら君がピチカートからとったなんて思わない
だってピチカートってナウいもん
ただ、深層意識とかを持ち出されると弱いところがあって嫌だね
僕は自転車に乗ってる時とかになんかフレーズがPONって浮かぶと勝手に曲をつけてのりのりで歌ったりするんだけど
そのメロディって確実にどっかで聴いたことあるの
なんの曲に似てるかはわかんないけど
きっと今までに聴いてきた何らかの曲のメロディが深層意識に蓄積されてたんだろう
もしかしたらなんの曲にも似てないかもしれないけど
それは恐らく蓄積されているうちに記憶が曖昧になって原型を留めなかっただけの話じゃないか
僕はこないだ「自堕落ライフ」っていう素晴らしいフレーズがパッとひらめいたんだけど
数秒後に気づいた。
あーこりゃちょっと前に○○さんのサイトで見たじゃん
深層意識の中に蓄積されてたモノを勝手に自分で思いついたモノだと勘違いしちゃうこともあるようだ
同じように
「お前は~するな」を連呼する文章を誰かが書いていたとして
その人の深層意識の中に中野重治が巣喰ってたとしても不思議ではない。
誰にも肯定できないし否定もできないってのが意地悪なところで
歯がゆいね、特に執筆した側にとっては。僕だったらそんなこと言われりゃとても不愉快。
でも否定できなくてたぶん
泣き寝入り。




誰か死にそうな人、いや既に得てる人、じゃない奇特な人。僕の日記を全て印刷してファイルに閉じてプレゼントしてくれ。昔チャレンジしたけど挫折した。ていうか絶対無理。やってくれたら紙代と印刷代と謝恩金はもちろん、何でも好きなものおごってあげる。松屋で。



余計なことすんなよハマーンさん
あーこれだからもうNPCは




キングオブ生物はゴルジ体。
ところでね
ぷれすて2をやりながらパソコンをいじってたらね
マウスカーソルを十字キーで動かそうとしてたね。やっきになってね。








あ、やべえ。ゴルジ体が一番面白いわ。




午前三時のオプに対して「加速する脳」という言葉を使った人がいる。言い得て妙。すごいと思った。
しかしすごいよ。終着駅のない詞だよ。手を抜いていない。逃げ込むスキマも与えない。常にどこかにトラップを仕掛けてある。正解にたどり着けそうになったとき、「ん?でも」と思わせる。すごすぎるね。歌い手が逃げ道を作りまくることによって聴き手の逃げ道をふさぐ。あーすげえ天才。松本隆の再来。次は誰だ?

松本隆ってだって名前の中に歌詞って入ってるもんね




 僕は人の悪口ばっか言う。いっつも心で思ってる。あの人のこういうところがいけないとか、今のは最悪、とか、そんなことばっかり感じてしまってまるで他人の心の声に押し潰されてるエスパーの心境。

 自慢じゃないが陰口を叩くことはまずない。あったとしたらそれは本気で思っているわけではないか、その人のことがよっぽど嫌いなんだろうな。悪口を言うときはWebに載せる。そして基本的にはこのページを見ている人の悪口しか言わないことにしている。有名人とかは別だけど。

 「僕たちの目は見えすぎて」、っていう何かの歌詞があるけど、まさにそう。僕の目は見えすぎる。他人の汚らしいところが見える。たとえそれが真実でなかったとしても。たとえそれが蜃気楼であったとしても、僕の目には汚らしいものがうつる。そこが困る。見えすぎている。真実でないところまで。勝手に汚らしいと思い込んで、卑下して、悪口を言う。最悪。

 「宗教のように絡まる」という言葉に答えを導き出せたのはごく最近のことだ。どんな答えだったのかはよく思い出せない。

 その悪口っていうのがまた、「いつでも僕の舌はいつも空回りして、言わなくていいことばかりがほらあふれ出す」、「蹴っ飛ばすためのブーツ履いて話そう!」とはよく言ったもので、まさにその通り。いやに攻撃的で、常に獲物を狙ってて、でもうまく言えなくて、言おうとすればするほど汚らしくて当たりの強い言葉になってしまう。

 「耳をいつも澄まして17歳の僕がいた!」、聞こえて来るんだね色々と。敏感になってしまって。言葉をいっつも聞き分けている。汚い言葉とそうでない言葉。汚いと思い込んだ「音」に対しては過剰反応を示す。それでまた嫌悪する。

 「花束をかきむしる、世界は僕のものなのに!」、花束というのは綺麗なものの象徴、だとして。それをかきむしる。そこには色んな意味が考えられるんだけど、僕が僕としてこの歌詞に向き合ったときにも色んな意味が浮かぶ。でもやっぱり花束は花束でしかないんだけどね。抽象的だけどそうとしか言えない。ほらやっぱり、うまくいえたことがない。

 客観的に綺麗だと言われているものなんて主観的に見たらどうだろう?主観的に綺麗だと思っているものなんて、客観的に見たらどのようなものなんだろう?誰かに贈られた綺麗な花束に対してでも、僕は懐疑的になるのかもしれない。

 やっぱりうまく言えない。

 「軽蔑と憧れをごらん、ほら崩れ出す」、軽蔑と憧れ、それこそが僕を支えている要素だと思う。でもそれっていうのは確実なものではない。この素晴らしい詞を一つの固定的なニュアンスで縛り付けたくはないし、僕の考えなんてのはそれこそ諸行無常の響きがあっちゃうから、言いたくはない。とりあえず一つだけ言っておくと僕は昔こんなものが好きだった。でも今はそうではない。軽蔑と憧れなんてものは紙一重なんだ。君は村上龍についてどう思う?村上春樹は?これは多くの人が通り抜ける道なんだ、きっと。

 今となっては宗田治が面白いなんて言えないな、なんて呟いたら友人は、「でもあれは通過点として必ず誰にでもある」と言った。

 「僕たちの目は見えすぎて、きっといつまでも死を告げることだろう」、死を告げているの主語はなんだろうね。「誰も聴かない声で叫ぶ」、いわゆるジャッキー語っていうのは誰も理解してくれない。

 どうも生々流転、僕の頭の中で『午前三時のオプ』に対する心っていうのは変わってきている。昔はわかりかけてたはずなのに、今じゃぜんぜんわからない。昔は「花束」の意味だって「宗教」という言葉の雰囲気だって掴めてた気になっていたのに。

 と、ここまで読んであなたはおそらくとても嫌な気持ちだろうな。経験的に予想しているんだけど。僕だったら、こんな文章を他人が書いているのを見たら確実にげんなりする。唾を吐く。あざ笑う。とにかく不愉快な気持ちになるね。偉そうにって。陶酔してんじゃねえよ馬鹿野郎って。と、ここまで書いて思うのは、やっぱり僕は言葉の保険会社にでも勤めるべきなんじゃないってことで。と、ここまでの意味がわかる人とは友達になりたい。


と、



まーなんというのか
人生において言葉は全て蛇足。
せめて上手に足を描こうよ。
ってこと。




デストロンのメカ全てこれで破壊





↓なんかこの文章書いたあとで重大な誤りを発見したので修正したら意味がわからなくなりました。
重ね重ねすみません。
修正後は僕がめちゃくちゃ悪者というか、性格悪い人になってしまった。
勘違いしてるのは僕のほうだった。
でも消さずに残す。
後輩がどうのというのは「ダシ」であって重要な部分ではない(逃)



あわわわ
今日はWeb日記の弊害を目撃してしまった
再三そういうことってあるけど今回はなんかやだなあ。
僕がいつも気にかけている後輩がいて、
その後輩さんはどうも僕に似てて
例えるならばフリッパーズギターとテトラプルトラップ、新井理恵と駒井悠、νガンダムと量産型νガンダム。
山田康雄と栗田貫一。
ココリコボンバーズとココリコ。
ライト兄弟とダウンタウン。
モストデンジャラスコンビとケンドー小林。
ジャリズムと山下しげのり。
ああもう。
どん・きほ~てとかつみ・さゆり
ホンコンと蔵野。
ごっつとやるやら。
マジカルバナナとマカフシギ。
坂本金八と武田鉄矢。
小山内美江子と城之内ミサ。


みたいな感じなんですけど、
で、その後輩はWeb日記をやっていて
余りに僕のコピーっぽいのと内容が時折アレなのとで
常々チクリチクリと説教したり批判したりしてるわけなんですけど
彼は僕が昨日書いた文章を自分に向けられたものと勘違いして
そのことについて日記でがしゃがしゃ言っているわけなんですけど
これどうしたらいいんでしょう
その僕が昨日書いた文章というのは「学校にいて…」で始まる長い文章ですけど
まあ最初の勉強うんぬんのところは確かに彼に対する説教ですわ。
でも終わりがけのほうは僕の中ではがらりと内容が変わってて
そこ書いてる時僕は全く違う人たちの素行を思い浮かべていて
そいつのことなど微塵にも頭になかったのです
こりゃあ知らずに悪いことをしたなあと思いつつ再び昨日の文章に眼を通していると
今度はそいつのことを頭に浮かべつつ読んでみると
まあ勘違いしてもしゃーない内容だったわ。ごめんわ。
明らかに一貫してるもんね、内容。
でもまあ、自意識過剰とは言わんまでも多少自意識過敏になっとるのかもよ。

Web日記の弊害ってのはこういうところで
けっこー読者は書いてる側と知り合いだったりとかするから
読者ってのは懐疑的にならざるを得ないわけで。
これって自分のことかも?って常に思っちゃうんだよね。
ドキドキしちゃうんだよね。
でもそれがWeb日記の原動力というか、集客力なんだよね。

どういうことかっつーと読者はそのドキドキを求めて日記を読みに来たりするわけだよ
なんかドキドキするでしょ?
ドキドキって気持ちがいいでしょ?
ライバルは問題ないでしょ?
やる気が問題なんでしょ?
スタートから見ててね
うんドキドキするのって気持ちがいいんだ、気持ちがいいから無意識的かもしらんけど
「あ、この日記けっこう面白い」とか思っちゃうんだろうなあ。
知り合いが書いてる文章ってのはそれだけで面白いし
たまに自分に関連することが書かれてたりするとうれしてしゃーないと。
んだから超下手糞な素人文章にも何とか客がつくちゅうことでね。

これって自分のことかも?
っていうのは「出来事」に関わらず
例えば「こういう人間ってイヤだ」みたいなことが書かれてたりすると
読者は自意識過剰にならざるを得ないわけね。
日常もしくはネット上で個人的なコンタクトのある読者は
「これって自分のことかも?」って思っちゃうんだよねえ

すると読者は日常でも懐疑的になる。
Web日記作者と会話をしているときでも
「こいつは自分のことどう思ってるんだろう」とか必要以上に感じて
「裏で何を考えているかわかったもんじゃない」とかって考えちゃって
無意義な摩擦が起こったりする。アンダー地面的に。

で、ついには今回のようなすれ違いが起きてしまうわけだ、勘違い劇場。
こまったもんだ。
Web日記ってやっぱり
Web日記ってやっぱり
Web日記ってやっぱり
Web日記ってやばい。

まあでもこりゃ圧倒的に僕が悪いな。矛先はどっから見ても一貫して同じ人に向けられてる匂いするもんな。ホント悪い。

前半の勉強トークがどうのっていうのはもちろん君に。
でもそのあとちょっと上のほうにに書いた「心を痛めている…」云々のところはこれっぽっちも君を想定してない。
ちなみに「最近とみに思うんだけど」という言い回しで検索すると僕のページがヒットする。
偶然は怖いな。
ちなみにこの言い回しは僕が友達のWeb日記を読んでて心に残ったから一度だけ使った
ので
かなりの出がらし。
チョコレートみたいにとろけちゃうようなキス♪
というのはピチカートファイヴの曲から。これで検索すると僕のページがヒットする。
似たようなことを考える人はいるものだ。有り触れた発想なのか、と思うとこっちがへこむ。
まったくもって凹む。
両極化うんぬんの話は、まあ普通のシンクロだね。率高いね。
クラスPRで優秀賞ってのも僕と同じだね。実況も僕と同じだね。
半日教室でとち狂うところとかね。ちょっと羨ましいところもあったりする。
胴上げは生まれてこのかたされたことがない。
雲がゆくのはが遂にハイパージョイに入ったから歌うように。
他人のことを見下して蔑む姿勢は一時期の僕を彷彿とさせるよ、本当に。
今はもう少し冷静になれてると自分では思ってるけど。
阪神ファンという武器はこの時期強いね。いいな。
巨人ファンが優勝に狂気してるとうざいけど阪神ファンは微笑ましいね。
友達の唄僕らも歌ったよ。やっぱ王道だ。
ダダダダービーに対抗してドドドドミノとはね。どうも運命的なものを感じるね。

やっぱねー僕は
こいつは自分と同じくらいの目線を持ってるな、と思える人と付き合っていきたいんだよね。
やっぱこれは同じ羽根の鳥は群れて集まるというか。
だから僕の眼に馬鹿としかうつらないような人と付き合いたくないですよ。
でもこれと人間の好き・嫌いってのは違って
好きな人が馬鹿、ってこともありえる。
そうなるととてももどかしい
二律背反という言葉を使えるねここで。
どうしていいのかと思うよ。好きな人が馬鹿だと、物凄く説教したくなる。
なんかアレだね、
時々僕は無理に君を僕の形にはめてしまいそうになるけれど
だね。
あとは岡林信康の「君を待っている」
みたいな心境。
好きな人が馬鹿だとどうしようもないな。どうにかしてあげたくなる。
でもそれって僕の主観でしかないから
よりもどかしい。
まるで思春期の少年のように。
まず僕は壊す。
こんな夜にお前に乗れないなんて、いえもんのふぉーしーずんずが聴きたくなる。
あめあがりのよーぞらにー
ばかでかいトラックから
とさかにきちゃう
チャボ
リスペクト清志郎。





だからこそ突撃!あのバスで
少女趣味なアノラックで
洒落たリズムで僕を待つ
アップテンポなslowly world
アールグレイでglory time!

technical cameo 「The bus will be bound to the TEA/バスに乗って紅茶を飲みに行こう」 from their 2nd album 『Of the tetrapod/謎めいたテトラポッド』




highな予感を感じてる


兼ねてから所望していたaztec cameraのhigh land, hard rainを遂に買ったよ
ブックオフの新品未開封な洋楽アルバム叩き売りコーナーで見つけたよ
定価の十分の一で買ったよ
いいだろ
この嬉しさを高校の後輩である小山田圭吾ラヴァーの女の子に伝えたくて携帯にてメールを送っていたときに
highという単語は携帯のボタン一つ、数字で言うと「4」だけで打てるんだなってことを発見したよ
どうでもいいことだけど大切なことだよ
highという単語に広がりが見えるよ。
無限のね
ああ
どっかで聴いたことのあるメロディー
まさしくgoodbye our pastel's badgeのイントロと同じ
これは面白い。
下の方に書いてあるテトラプルトラップの元となったフリッパーズギターの元となったバンドの一つなわけですわね、
あずてっくかめら。
イイ。
当時十代ってところが町田町蔵を彷彿とさせて






アトイチネン聴きたさにケムリのリトルプレイメイトを遂に買ったよ
やっぱ語呂わりい




9月23日は過ぎてしまったんですけれども。
去年、一昨年に会ってた人とは会いませんでしたね。
もう一人の藤子不二雄さんも健在ですし
今年は何にも起こらなかったね。

思っていることは去年と同じ。あんまり悼みすぎてもと思うよ。




心を痛めているらしいあなたへ。
どうしてそんなに自慢をするのが下手くそなんだ。
どうしてそんなに自分を誇示していたいんだ。
もっと上手にやってくれないと見ているこっちの気分が悪い。

自慢したいことを自慢することは恥ずかしい。
だから「自慢したいこと」を「傷ついた心」や「錯乱状態」に変換して伝える。
好きじゃない手口。
さりげなさも徹底できなければ醜さの極み。

みんなに知って欲しいことをみんなに伝えるときに
嬉しそうに話すとハシタナイんじゃないかって思って
わざと悲しげな顔をして
「言わないと心がモタナイ」なんて言い訳語り。

はいストレス解消。




 「生きていればまた必ずどこかで会える」、という言葉。によると、「会う」ためには「生きている」ことが必要である、ということか。
 いかんいまいちこの言葉が掴み切れていない。





 「ごめん、この話オチないよ」というのが立派な「オチ」の一種だと勘違いしている人がいる。たぶん天才明石家さんまさんがダンシングサンマパレスなどで「オチないの?」とか言いまくってそれがれっきとした笑いになって終わっているからであろう。あれは天才の編み出した最終兵器なのであって素人が軽はずみに使っていいものではない。自分で「オチないです」っていう時は最高のタイミングと天性の天然キャラが必要だということもわからず単純に「オチないです」と形骸化したせりふを呟けばそれでそのネタから逃げられると思い込んでいる人間がいるのだ。嘆かわしい。僕らにとって「オチないです」と言うこと、それは単に屈辱でしかない。って、僕らってなんだろう。僕「ら」て。誰だ。
 俺にシールを貼った奴は誰だ。





 「愛してる」の形骸化への懸念というのはまあ多くのカップルどもが経験してきたことだろう。確かに使いすぎると形骸化はするだろうな。男の子の自慰だって繰り返していくうちに形骸化していくはずだ。そして最後には義務になる。だが形骸化して惰性的になった、コシの抜けた麺のような「愛してる」や自慰だって、とりあえず有害ではないと思われる。だからと言ってそこで行き止まってはドッチラケ。ど白けじゃわ。そこより高みを目指そうとは思わないのか。言葉が形だけのものになって効力を失ったあとに残ったものこそが形而上学的な愛ではないのか。それを言葉によってしか実感できないことのほうが貧弱で陳腐だ。自慰にだってたぶん色んな可能性があるからためしてみろ。自転車乗りながらとか。飛び降りながらとか。玄関でとか。

 ところで「アベック」という言葉の定義は僕の中で「いちゃついているカップル」のことであり、「カップル」とは違った用法だという認識なんですがどうなんでしょうかね。
 まあ要するに「アベック」っていうのは男女が一緒にいる状態であって「カップル」というのは一緒にいなくても付き合ってればカップルなのでしょう。ということは「アベック」は別に相互に好意的感情がなくてもいちゃついてさえいれば「アベック」なのであろう。援助交際のおっさんと女子高生はアベックではあるけどカップルではありえないのか。まあどうでもいい。
 ホントに。



 学校にいて、勉強せねばならぬ環境にいるというのは重大な意味を持つ。特に我が後輩たちよ。名古屋市立向陽高等学校に通う者どもよ。君らの多くは多分遅かれ早かれ勉強せねばならぬ環境に身を投じさせられることになるだろうし、既にそうなっている者もいるだろう。君らは幸せだ。進学校(進学校なのに「世間では進学校と呼ばれている」とか「一応進学校らしい」とかって言葉を濁すのは逆にエリート意識の現れだともとられかねないのでやめる)に通う君たちは幸せなのだよ。向陽高校では殆どの生徒がそれなりに授業を聴いている。生物の授業では「クリステ」や「ミトコンドリア」などのおもしろ単語に魅了され、化学では元素記号のエッチな覚え方を考えるのに夜を徹して四苦八苦、友達に発表して人気者になれるし、世界史では完顔阿骨打(わんやんあくだ)や耶律阿保機(やりつあぼき)は見逃せない、国語は言わずもがな詩の暗誦や課題文への突っ込みや意見交換も行え、数学では助け合いの精神が育まれ友達も増える!小沢健二は言った、「学校の勉強は共通の話題づくりのためにある」、それをとことんまで利用してこそ学生だ。ネタにしてこそ学生だ。それぞれに好きな漫画やミュージシャンは違っても受けてる教科は似たようなものである。趣味や嗜好が全く違ったってとりあえず授業のネタにはみんなついてこられるし先生を馬鹿にしてればとりあえず笑えるじゃないか。
 だからね。
 勉強を馬鹿にするのはやめましょう。勉強トークができるのは素晴らしいぞ。僕も大学一年生(しかも受験勉強にたっぷり浸かった早大生)の今だからこそ同級生とそんな話もできるが、来年、再来年は誰も勉強トークについていけないだろう。分数の足し算ができない大人を馬鹿にしている君よ!ではお前は普段分数の計算を数学の授業以外でしているか?二十年後や三十年後の自分が、日常的に分数の計算をしていると思うか?誰も川島なお美を笑えまい。二十年も分数の計算から離れていれば油断もするさ、分数の計算ぐらいもしかしたら忘れているかもしれないじゃないか、坂本金八も引用していたじゃないか、「子ども叱るな来た道だもの、年寄り笑うな行く道だもの」、二十年後の自分にそれほど自信があるというのか、僕はないぞ。ひょっとしたら分数の足し算とかできないかもしれない。ああ。でも別に困らない。
 勝手なものだよ、「学校の勉強なんて役に立たないから要らない」とか言っておきながらも「最近の大学生は分数の計算もできない」なんて話には世も末だみたいな顔をして。世論は無限の広がりがあって苛つく。世論を唱えるのは一人の人間じゃないからだ。苛つく。
 ああ今一度高校に戻って勉強トークに花を咲かせてみたい。
 あと、町中アンケートとかで「最近のサラリーマン/学生はこんなに頭が悪い」みたいな調査をしたりして特集を組むのはたいていテレビか雑誌かいわゆるマスコミさんであって、やらせの匂いが強いし無批判に受け入れるのもどうかと思う。それに一億の人間がいたら途方もない馬鹿が一人や二人ではないだろう。日本で五本の指に入るほど頭の悪いサラリーマンが五人いたとして、その五人をスタジオに終結させて調査、「最近のサラリーマンはこんなに馬鹿です」なんて企画は素晴らしく笑えるだろうな。
 東大生だろうが早大生だろうが馬鹿は馬鹿だ。それは勉強だけをしてきたから馬鹿なのではなく、もともとが馬鹿なのだからしょうがない。もともとが馬鹿で、とりあえずやることといったら勉強しかないと、そういうことなんだからしょうがない。または、そういう家に生まれてきてしまったのだから仕方がない。石原千秋先生も言っているように東大生の親の平均年収は千数百万円超だと。ほとんどが医者、弁護士、官僚、代議士、大学教授。そのほとんどは東大京大早慶卒。要するに高学歴と高収入は輪廻転生するサークル。中小企業のサラリーマンが学歴低いのはそういうことである。金を持つためには学歴を得るしかないからプチブルの家庭はガキに勉強を強いるんだ。向陽高校だって割と金持ってるやつが多いに違いない。たぶん公務員あたりがとても多い。早稲田大学にも教授のガキとかはわんさかいる。僕自身公務員の息子で家はすこぶる貧乏だが収入は少なくないのでなんとも言えぬ。
 で、話を戻すともともと馬鹿な奴を馬鹿にしてお前らは恥ずかしくないのか。そうまでしないと自分のれーどんぞーてる(レーゾンデートルと言いたいようだ)を肯定できないのか。もっと頭の良い奴から弱点を見つけだして天才を一笑に付したいとは思わないのか。馬鹿を馬鹿にするのはかあいそうじゃないか。高みに昇りたかったら二流をけなすな。一流を誉めるな。二流を誉めて一流をけなせ。それが全てを理解するということなんだ。たぶん。
 つーわけで馬鹿を馬鹿にして自分は馬鹿じゃないぞアピールは手前より頭の良い連中にはあっさりとまあ見抜かれてしまうので気を付けろ。自分はそういうつもりじゃなくても奴らはそうだと思い込む。自分がそれを見抜いたと思いたいから、そうでなくてもそうであることにされてしまう。それが自称頭の切れる人間の手口だから気を付けろ。だから煙を立てずに埃を出さずに、奴ら頭の良い連中の裏をかくような生き方をしろ。でないと君も、彼らの手によってただの馬鹿者に降格せらるぞよ。
 あーそして僕以外の多数に次のようなエールを送る。




俺がνガンダムなら
お前は量産型νガンダムだ




自分だけが特別だと思うな!あの人が喜ぶものかよ!生き返るのかよ!

飛田展雄最高。
富野語最高。





愛がね 増えてくばかり
けずれるものなど ひとつもない
欲張りだと 気づいたの
あなたを愛し始めた日から


僕は奥井亜紀という歌手が好きだ。小学校四年生の時からずっと好きだ。
とりわけ好きなのは、ベタだけど『Wind Climbing ~風にあそばれて~』

18日に三人の人々と会いました。
その中の一人は僕の大好きな人です。
四人で会話をしていて、僕は正面に座っている女の子(僕の)にちょっかいを出していました
僕は彼女に精一杯の愛を投げたつもりでした
でも彼女は僕に愛を返してくれませんでした。
その時です。僕の隣に座っていた彼が突然
平気な顔して女の子にこう言いました。

「愛はね、待ってるだけじゃ、もらうばかりでは育たない」

僕は一瞬耳を疑いました。
そしてこの時ほど彼のことが愛おしく思えたことはありませんでした。
愛はかける…
やられた
弱点だ。
しまったスマッシュ!

僕はとっさに
「欲張りだと気づいたの。あなたを愛し始めた日から」
とつぶやきましたが、言ったあとで
「不器用でもこの両手はあなたの笑顔のもとさがしている」
が正しいと気づいてどぎまぎしました。すみませんまちがえました。
それにしても

なんてシンクロ率だっ!
この人は僕が投げたボールを落合以上の打率で打ち返してくれるからとても気持ちがいいのだ
たまに僕は見たこともないような魔球を投げてしまうけど
それを上手に流してファールにするのがとてもうまいのだ

しかしよりによって『Wind Climbing ~風にあそばれて~』のカップリング曲『愛はかける』の繰り返さないほうの(要するにマイナーなほうの)サビを日常会話の中にさりげなく(またはさりげなくはないにしろつじつまの合う形で)盛り込んでくるとは
この魔球を(ホームランにはならなかったにせよ)打ち返せるのは彼の交友関係広しと言えどもそうは居ないに違いない。
しかしなんて危険な賭けをするのか。僕が気づかなかったら世にも虚しいストライク音がロッテリア内に響き渡ったであろうのに、にも関わらず『愛はかける』か!関係ないけどこの「かける」という言葉には幾つの意味がかけられていることか!

無駄な知識のキャッチボール
大切なのは敵を知り己を知ること
打ちやすいところに打ちやすいたまを投げること
自分の守備範囲でないところには流し打ちをさせないこと

はは。楽しかったでかんわ。




私の優しさの数じゃ
まだまだ あなたに足りない

この部分が大好きでしゃーない。




いいじゃない小さな夢でも私が一番自由に笑っていられるのわざと退屈そうな顔してきっと幸せになってみせる




どうにもならない今日だけどの「今日だけど」と君と生きてく明日だからの「明日だから」の部分が
たぶん歌うのに難しい
CD聴きまくっててもうまくつかめない
僕に音感がないだけなのか
でもカラオケで誰かが歌ってるの聴いてても
誰ひとりしっくりくる歌い方をしてくれない
誰か上手に歌ってください
僕だけのために

っていうかカラオケで歌ってくれる人が周りにいるだけでよろこばしいことなのかも
知ってる人が周りにいるだけで。




例えばこないだ僕のおばあちゃんが死んじゃったんだけど。

生きてようが死んでようが、全ての人に平等に存在するものだ。
祖母というものは。
同じ「祖母」でも、僕の祖母と君の祖母は違うし、祖母にも祖母が存在するわけだし、
要するに祖母というものは無限にあるわけで。
良い祖母もいれば悪い祖母もいる。
孫から愛されている祖母もいれば、そうでない祖母もいらっしゃるでしょう。
ということは。
友達の祖母が死んだ=友達は悲しがっている
という図式は存在してはいけないわけで。

おばあちゃんのことが好きな人は、
友達のおばあちゃんが死んだ、という話を聞くと
その友達は悲しがってるんだろうなって思って
おばあちゃんのこと特に好きでもない人は
友達のおばあちゃんが死んだ、という話を聞いても
特にその友達が悲しがってるとは思わないんじゃないか。
ふと思う。
無断で他人を「悲しがってるコト」に仕立て上げるなんて
自分勝手だね。


お前は人の心が読めるのか、と


でも、人が死んだらとりあえず「悲しいことだ」って言えるのは美しいと思う。
僕にはそれがないようだ。
こないだ死んだのは父方のおばあちゃんなんだけど
僕の母方のおばあちゃん(「おばあちゃん」と呼んでもたぶん振り向かない。常に「ママさん」と呼ばれている。ちっさい、スナックみたいな喫茶店のママだから。)は、
お葬式でとっても泣いてた。
かっこよかった。

涙の価値は美しさで決まる
のか?

男が涙を流さないのは涙の本当の価値を知っているからだ。
とか思って僕はお通夜やお葬式ではがんばって涙をこらえた。
深い意味なんて考えないでそう思った。
涙の本当の価値ってなんだろう?

涙に価値があるから、そう簡単に涙を流さない、というわけじゃない。
ツベというバンドのヴォーカルが昔
「涙は流すもんじゃない グッとこらえてからあふれるエモーション」
などと唄っていたものだったがなんかそんな歌を思い出してた。

ロボットだから マシーンだから
なんて歌も流れてた
お通夜の最中に
寺院さんがとってもパワフルで面白かったのと合わせてにぎやかなお通夜だった

俺は涙を流さない ダダッダー
ロボットだから マシーンだから ダダッダー

ダッシュ! ダッシュ! ダンダンダダン
ダッシュ! ダッシュ! ダンダンダダン
ダッシュ! ダッシュ! ダンダンダダン
スクランブルダッシュ

俺は死んでも生き返る ダダッダー
ロボットだから マシーンだから ダダッダー
だけどわかるぜ 流れる血潮
君と僕との潤滑油
支援ロボット! ビューナスA
弱いお前は引退だ! マジンガーZ
助けに来たぜ
俺はグレート グレートマジンガー

そんな替え歌まで生まれる始末で。

で、涙の本当の価値ってなんだろう。
美しい涙は流されねばならない
美しくない涙はできるかぎりこらえなければならない
それでも流れてくる涙は
それなりには美しいたぶん

難しいことはもうわからん

V! V! V! ヴィクトリー!
Vモード 軸合わせ ハンガー・ブーツ 合体だ
大地にたたずむ白いモビルスーツ
機動戦士だ Vガンダム
メガビームライフル!
ビームトライデント!
ビームスマートガン!
見たかウッソのやけくその技
憤りを込めてカテジナさんを呼ぶぜ
(せりふ「カテジナさーん」)
我らの 我らの Vガンダム







「卒業できないかも知れない」みたいなことを口に出す奴は卒業するに違いない。
卒業できないのは危機感のない奴だ。
危機感のあるふりをしている奴じゃない。
ということは島本和彦氏の『逆境ナイン』に書かれている通り。
不屈と新屋敷は赤点ゼロだからね。
油断してると赤点ナインだぜ。




今の自分に含み笑いをアハハ 振り向いてピース


あのことで頭がいっぱいな夜は
ズブロッカでは消せない
蜂の巣にされた魂の束 君にあげたいな
人が海に戻ろうと流すのが涙なら




僕の中でのアクティブネス
成人と引き替えに崩壊
全ての冒険に終止符を
全ての特別にさよならを





いっそどこかへ逃げてしまえば?





 やっぱり文体ってのはわかるもんだ。言い回しとか使う単語とか。テトラプルトラップとフリッパーズギターを並べてみたらよくわかった。あと飯沢匡という劇作家が武者小路実篤とかの文体を真似して書いた文章を読んだけど、あれはまさしく武者小路実篤だった。
 フリッパーズギターというバンドは自分らの好きなバンドをパクりまくってたらしいけどそのフリッパーズギターが遂にパクられる時がやって来た。テトラプルトラップ。あれはもうフリッパーズギターそのもの。もしもこのテトラプルトラップがフリッパーズギター並の評価と人気を得たとしたら十年後くらいにテトラプルトラップのコピーが現れるのだろうか。楽しみ。
 僕は小学校のころ園田英樹という人が大好きだった。彼が森忠明という人に憧れて文筆の世界に入ってきたというのを知って、僕は卒業文集に「僕にとっての園田英樹」という作文を書いた。余りにも恥ずかしい内容であったため自身の手による散逸を免れず、実家を漁っても出てこないであろう幻のエッセイだ。概要は以下のよう。
 『僕は園田英樹を尊敬している。園田英樹は森忠明という童話作家に憧れて文筆業に身を投じることを決心したという。ここに森→園田→尾崎という連鎖が生じた。この連鎖を僕で止めていいものだろうか。いや、よくないのだ。僕はきっと将来他の誰かに尊敬されるような大きい人間になってやる。そしてこの連鎖を永遠のものとするのだ。園田英樹にとっての森忠明は、僕にとっての園田英樹と同じで、そして僕は将来、一世代あとに生まれる誰かにとっての尾崎になるんだ。ウオー。』
 みたいな作文であった。今思い出すと更に恥ずかしくて顔から血が出そうだ。しかし「卒業」という二文字のプレッシャーによって極限まで高められた僕のテンションは当時でも十分恥ずかしかった以上のような文章を世に出すことを決心させたのであった。
 が、ボツ。時の担任中村氏によって却下。
 「ダメダメ。もっと小学校の卒業文集にふさわしい、学校の行事や友達とかに関連したことを書かなきゃ」
 彼は短気でセクハラ大好きな贔屓気味の教師であったが根はいい奴だった。が、さすがにその時こそは憤慨した。そして僕は書き直した。内容は覚えていないが学校行事と無関係のことを書いた。提出。
 「ダメダメ。もっと小学校の卒業文集にふさわしい、学校の行事や友達とかに関連したことを書きなさい」
 再び却下。その後も再三の書き直しを命ぜらたが僕は屈せず反小学校的な作文を書き続けた。だが最後には僕が妥協して修学旅行の出来事をおもしろおかしく書き立てることによってこの僕の中だけの小さな戦争は終結した。
 やはり小学生は弱い。
 ちなみに上の作文の論理にはどうやら元ネタがあるらしい。島本和彦氏の漫画『逆境ナイン』である。僕は小学校六年生の時(つまり担任が中村氏の時だが)『逆境ナイン』で読書感想文を書き危うく入選しかけたという経歴を持っているのだから、卒業文集執筆時に『逆境ナイン』を読んでいたことは明らかである。王貞治に憧れ、身なりや格好を真似ている亀谷万年という少年が、主人公不屈闘志の決死の説得によって王の「生きざま」を追って「王二世」になることを決意、そして将来的には亀谷の「生きざま」を見て亀谷を目指す少年「王三世」が現れることを夢見るのだっ。というエピソードがある。たぶんこっからパクったんだろうなあ。昔からこういうのには影響されやすいらしい。
 僕は高校のころ演劇部だったんだけれども愛してる先輩がいてその愛してる先輩は更に一つ上のある先輩のことを愛していてそのある先輩は更に上のある先輩のことを愛していてその更に上のある先輩というのはそれよりも上のとある先輩のことを愛している、という事実に気付いた時にこの論理を思い出して噛み締めた。ちなみに知っている限りのこの連鎖の頂点に立っている人と僕はおともだちである。あの人はいい人である。んでこの連鎖はどうやら僕の一個下くらいで止まっているっぽいので何とかしてほしいな。
 当たり前のようだけどこのようなアコガレの連鎖は大切なモノだ。そしてロマンティックである。
 散文的。
 情報が散逸している。



何がどうだっていうこともない。これだけ書くともう消すのがめんどい。ジャッキーさん的に文章を書かないとイライラしてくる。なんてことはない。書かない方が楽。手持ち無沙汰なので書きたい。
言いたいこともないので書かなくてもいいのだが書かないと怒る人がいる。余計なお世話だが有り難い。
最近僕は硬派である。最近僕は硬派なので身が固まっている。なので必然的に遊び相手が少なくなる。というわけで暇になる。暇だ。
他に言いたいこともないのだが書かないと怒る人がいるので書く。難儀だ。流れるプール的。だらだらだ。だめだめだ。惰性的。
昨日の夜の楕円軌道。ELLIPTIC ORBIT WE PICTURED LAST NIGHT

大曽根駅前で立てこもり事件、ビル爆発、炎上。どうもうちの近所も安全でない。

言いたいことは沢山あるけど恥ずかしいから言えなくて困る。
だって他人の悪口ばかりになる。





昔録画しまくった勇者シリーズのビデオを片っ端から見まくる会開催中!!

どうしたの、泣いているの?
あくびしただけさ
もしかして、ママに叱られたの?
オーノー 違うよ!
街中ピカピカのお祭り騒ぎ ジェットコースター
星が今夜集まるよ 水金地火木土天冥海
僕が傍にいるから ジグザグ気分早く忘れちゃえ
上を向いて歩こう 素敵な笑顔は君の忘れ物
空の彼方から眩しい光たちが 街を照らせば
溢れる勇気が輝く風に舞い上がり 時を越えていく
傷つくことも怖くはないさ 信じあう仲間が傍にいるから
BURNING HEART TO HEART J-DECKER
どんな時でも 胸に熱い明日抱き締めて
BURNING HEART TO HEART J-DECKER
さあ走り出せ 世界中の笑顔に出会える日まで

黄金勇者ゴルドランのオープニングはでらええ。
でらええでかんわ。
胸にズカンズカン来る。
踊りだしたくなっちゃいそうな。

風が空へ向かうように 僕もいつか飛び立つんだ
できるさ 信じてるよ
大人たちがなくしてる 力を今取り戻そう
君にも できるはずさ
ねえ 僕も一人じゃそんなに強いわけじゃないんだ
だけど君がもし 今すぐに力を貸してくれたら
WE CAN FLY この星は僕たちの大事な船さ
SAY ダ・ガーン 立ち上がれ 果てしない未来の光へ

襲いかかるバイオレンス
怒れ鋼のサイボーグ
冒険が始まる

けどまあ、真面目に見てたのはこの5作くらいか。(世代的にも)
俺たちだーぐおーん とかは最初のほうしか

平和守る名前さ

大事なことなんてダイヤモンドやお金じゃない僕たちが手をつないだエネルギーさ





カラオケに行ったら『炎の転校生』が入っていた
歌いたかったけど、勇気がなかった
それ以来、僕はカラオケでその曲を見ることがなくなった
あれは「試練」だったのだろうか…

燃えろファイヤー 闘え!
赤い炎を後に引き 熱気噴き出しやってくる
食いしばる歯が 火花を散らし
生まれた技は必殺だ
うなる うなるキックがうなる
当たる 当たるパンチがあ、当たる
あれは誰だ 誰だ 俺だ
俺は噂の転校生
うなれ うなれ滝沢キック
当たれ 当たれ国電パンチ
正義と悪との識別完了
俺が炎の転校生





東京に帰ったら消去予定のジャッキーさん日記。

やべえ。
『ざしきボーイ』がフィギュアになる。
現段階でGoogleに17件しかヒットしないあの作品が、あのキャラクターが
フィギュアに?
買うしかねえ!


九月八日。
早朝。目白まで自転車。
そっから自転車かついで電車に乗って→日暮里→荒川沖。
そっから自転車にまたがって北上。
途中松屋で並盛ジョニーを食って北上。
手打ちラーメン珍来の看板がやたら目につく。
筑波大学で関川くんと会う。
一時間目、「日本語と日本文化」に出席。
二時間目、一人で芝生に寝ていたら雨が降ってきたので屋根のあるところで寝なおす。
三・四時間目、休講。関川くんとプチサイクリング。世界で二つしかないという潰れたマクドナルドの跡地を見る。寮に帰る。
五時間目、サボり。関川くんの部屋でおえかきちょうを用いて「鉄拳ごっこ」にはげむ。
お題は「こんな一休さんはいやだ」。
例:
「なんか別のこと考えてる」
「まるはだかだ」
「足がしびれてきてる、しかもちょっと立ってる」
(首吊り)
「さよちゃんをなぐっちゃった」
「座禅組んでるフリして実は地下で立ってた」
「ポクポクポクかと思ったらボクボクボクだった」
「てるてる坊主つくってる」
「のかと思ったら違うことしてた」
「夜の修行もたいへんだ」
「そりのこしが目立つ」
「気にしなさすぎ」
「本物の一休さんは身体の中だ」
「一休さーん って呼んでるのに無視する」
「一休みしてるのに呼ばれてちょっと不機嫌だ」
「座禅しながらちょっと浮いてる」
「新しい宗教はじめちゃった」
「寺までが遠い」
「トランポリンを使う」
「手が届かない」

スケッチブックがなくなったので終了。なかなか有終の美だった。
なんか一個だけ思い出せないネタがあるので思い出したら書こう。
で、珍来(筑波大学内ではまずいと大評判で知らぬ者は居ないらしい)でまずいラーメンを食って筑波大学で銭湯みたいなお風呂(お金がかかる)に入って関川くんは飲み会で「鉄拳ごっこ」の成果を試しにいき、僕は家に帰る
のが面倒だったのでそのまま小田原に行きムーンライトながらで名古屋へ。
予定を一日分すっ飛ばしてしまった。どうも僕は最近根性がない。戒めなければ。

九月九日。
これからお通夜なので簡潔に。
朝。すみす。岡林。ネット。寝。出発。しゃきりりとバナナ×4。逢。制服。カラオケ。訃報。情緒不安定。星姦。帰宅。しゃきりり忘。バナナ余×3。炎の転校生。ええいままよ。

九月十日
通夜

九月十一日
尾崎家葬送の儀・告別式
絶望的前衛
僕は前なんか向いて生きたくない
僕は後ろを向いてしか生きられない
振り向かないで泣くのをやめて笑うことなんかしたくない
過ぎ去ったことと向かい合ってめそめそしたいんだ
それが僕にとって生きることなんだ
それは僕の後ろに未来を産み落としたいため
それが僕にとって生きることなんだ
それは僕の後ろに未来を産み落としたいため

九月十二日
たなとす。すみす。もってけ屋。

九月十三日
文化祭。(予定)

九月十四日
学校祭。(予定)


なんていうかまあ、岡林信康。ドッチラケ。
これは終わりなのか
これは始まりなのか
俺は死んでるのか
俺は生きてるのか
やることがない
とても退屈なドッチラケ
何度もさよならをして
何度もこんにちはをした
だんだん追い詰められて
とうとう行くところがない
ゆきどまりの
なんにもないドッチラケ
今は夜なのか
今は朝なのか
まだ明るくはないが
もう十分暗い
そろそろ何かが
見えてきてもいいはず
あー
そろそろ何かが
見えてきてもいいはず




つうわけでこれからしばらく旅に出たいと思います。兄の画像放置は辛いですが我慢してください。
8日は茨城に行ってつくば市で旧友と戯れます。
10日までに御坂峠等を自転車でまわって名古屋へ。
14日辺りに母校の学校祭があるのでそれまでは名古屋にいて
18切符の効力が切れるので自転車で帰ります。
矢崎くんはずっと東京にいる予定です。



はっきり言って僕は芸能人でもないのにWebサイトに自分の写真を載っけちゃう奴が大嫌いです。絶対奇跡的にかわいく/かっこよく写ってるやつしか載せないから。そういう輩は九割九分九銭九厘自分がかわ/かっこいいと思い込んでるんダッツ・ノー。更に自分が自分のことかわ/かっこいいと思ってるナンテ思われたくないもんだから(自分でもそう思いたくないから)堂々と表に載っけずに隠しページとかに置いてあるんだけど大抵の場合はわざとバレやすい所にリンク貼ってあったりするんだこれが。見て欲しいなら見て欲しいと言うが良いよ。うざったさの極み。




兄です。(長男)





クラックス・クランは
いつもどおりのかわいさでした。
かざらぬ姿勢に好感。
クロスボーン・バンガード(関係ないけど)



女の子の写真が欲しいと思ったら自分で撮っちゃダメだ。
お目当ての子に直接頼め。
したら絶対奇跡的に可愛く写ってるのが貰える(はず)だから。

というわけで期待してます。クー・クラックスさんv





これは一生モノだと
胸をジーンとさせる
それはきっと
愛なんじゃないかなあ





 思うに、普通の男女のデートというのは、ジーンズを着用することに類似していて、ジーンズを着用することがファッションに対する「逃げ」の姿勢である(と、石原千秋氏が言っていて、僕は非常に感銘を受けた)のと同じように、デートで映画館や遊園地や洒落たバー及び洋レストランなどに赴くのは、明らかなるデートからの「逃げ」である。逃避。公園や喫茶店やラブホテルも「逃げ」でしかない。六本木ヒルズに行くより中野ブロードウェイへ行け。お台場よりは波止場だ。渋谷なんかより神保町がナイスである。カラオケ行くなら「デート」の名を捨てて「カラオケ」に行け。ラブホテル行くならそれは「デート」ではなく「ラブホテル」だ。
 ジーンズを脱げ、貴様ら。




 町田康氏の日記のような日記が書けるほど僕は大人ではない。しみじみする。
 作家の書く文章は金になる。エッセイだって金になる。詩も。作家は文章を売った金で生きている。だからWeb日記なぞに上質な「文章らしい文章」を載せる訳にはいかない。Web日記は通常無料で閲覧できるからだ。ただで手に入るものが店頭にあって売れるわけがない。糸井重里氏も『ほぼ日』で同じことを言っていた。

 故に、僕は作家ではない。(別に上質でもないが)

 だから町田康氏の日記の文章はやたらとスマートなのだろうか。
 それだけじゃないじゃろう。何か理由があってスマートなのではなく、スマートにすること自体に目的意識があるのではないか。
 しかも四年近くも前からそのスタイルを崩していない、本当に尊敬する。
 町田康氏が大人かどうかは別にして、やはり僕は大人ではない。しみじみする。


9.7

1 つくば学園都市へ行く
2 名古屋に帰る
3 とにかく旅に出る
4 自宅で2次α
5 その他(            )

投票はメールか掲示板でお願いします。〆切:2003年6月末日



 矢崎隆雄くんの川を流れる一人の少年、一人の少女とランデブーはメモライズのカテゴリ内ではアダルト日記に分類されているためランダムジャンプをすると無数のエロ日記に辿り着くわけだ。するとだぞ。きたならしい文章と決してそうではない文章があることに気付くのだ。主観だが。それはつまりきたならしいテックトゥと決してそうではないテックトゥが存在するということだ。僕はきたならしいテックトゥを軽蔑する。故に自分を戒める。たぶん。でも一度くらいは山のようなきたならしいテックトゥに溺れてみたいとか思う。今の僕の部屋のように。人間は自分の住処をどこまできたならしくできるのか実験中。
 最近自分がどこまでも自堕落。喰う寝る2次α以外のことはしていない。読書すらしていない。たまに三つ目がとおるとか読む。これじゃらちがあかんからとりあえず旅に出ようかと思ってももう夜とかだから電車なくてアウト。自転車で出掛けようと思っても曇天模様で天気読み。とりあえず腐った豚肉は家の外に出す。そんな生活だからとっても出会い系サイトに興味がわく。などと言っているとなんだかもてない男みたいでイヤだが(アピールポイント)なんだか人生というフィールドで泥レスがしたいというかなんというか。どろどろの泥の中を楽しみながら暴れ回りたいというか。要するに日々がつまらん人間になってしまったわけである。渇を入れるため海外にでも高飛びしたいがパスポートを取る元気も無ければ実行する気もさらさらない。どうしたものかというところで筑波大学のお友達からメールがきた。茨城行き決定。


 なので僕は許嫁のもとへ帰ろうかと思う。明日の朝早く。



原因はわからんが大抵の文章はダメダメ。
なんとなくわかるんだけど解決策は見えない。



鷲、普通の女の子にもてない。普通の女の子が望むようなことに興味が湧かない。鷲、普通の女の子と相性が合わない。
普通の。

普通の=かわいい と置き換え可。



とほほ。


WWW入門



「ジーンズを脱げ」のようなことを言っているから、普通の≒かわいい女の子にもてないのだ。普通の女の子が行きたがるようなところ、したがるようなことに余り興味が湧かない。湧くとしたら、サムシングセクシュアル、何か性的なことに限られようぞ。



 近所のディスカウントスーパーで買った(49円)ティ・ソーダという紅茶を炭酸にした飲み物がすこぶる不味い。姉妹品のソプラノ・ピーチ(49円)、こちらは紅茶に桃エッセンスを加味したものであるが美味い。この違いは何かと言ったら名称にあって、前者は炭酸飲料だが後者は紅茶飲料。勝敗は明白。
 よく見るとティ・ソーダにはオレンジ果汁が入っている。なるほど。ここも敗因。
 でもやっぱライトサイダーが一番だ。


お前はライトサイダー全てを捨てたお前はライトサイダー遅れた顔面一口飲めばスカッと地獄全てを忘れてあんた最高お前はライトサイダー瓶詰めの怪傑映画の中の愛しの君コカコーラを叩き割った一口飲めばスカッと地獄全てを忘れてあんた最高

俺はお前を夢の中に引きずり込みたい現実の回帰から傷口を守る俺の歌を聞いてくれお前らみんな白痴のように夢の夢の夢の中


ハードロックバンドにはうんざり。


あとベッドのことをベットって表記するのもいい加減やめてくれ。知ってるぞ。
英語が出来んようにしか見えんよ(ヴォイス:池田秀一)。



ダムダム弾って何のことかやっとわかった。宮澤賢治の『飢餓陣営』にも出てきたしINUの『メシ喰うな』の4曲目はダムダム弾だしちょっと気になってたら何のことはないセポイの乱だったよ。






聞き取れねえってよ


地下鉄の中でめちゃくちゃ腹立つおっさんとおばはん後生大事に己の手足を愛おしげにヨタヨタいつまでたってもお前の頭が

写真屋のおっさんの石で刻み込まれたような皺俺はあなたが愛おしい糞まみれにしてくれ


曖昧な欲望しか持てず曖昧な欲望を持て余しいつもお前はテレビに釘付け疲れ果ててもやめられないお前の身体はフェイド・アウト綺麗に果てていくお前の身体をフェイド・アウト綺麗に果てていく今日は昨日の続きで明日は今日の続きが毎日どうでもいいことで忙しくって

聞き取れねえ




俺の存在を頭から打ち消してくれ俺の存在を頭から否定してくれあのふざけた中産階級のガキ共をぶちのめすために俺の存在を頭から否定してくれ街には色とりどりの花を持った貧乏そうな顔つきの国鉄の客人の海人の海人の海人の海人の海人の海人の海人の海人間人間人間人間人間人間人間人間俺の存在を頭から打ち消してくれ俺の存在を頭から否定してくれお前らは全く自分という名の空間に耐えられなくなるからといってメシばかり喰いやがってメシばかり喰いやがってメシ喰うなメシ喰うなメシ喰うなメシ喰うなメシ喰うなメシ喰うなメシ喰うなメシ喰うな俺の存在を頭から打ち消してくれ俺の存在を全く無いものとしてくれ


INU特集


鯔背なlocomotionナンテ古之事rock and rollに冷めやらぬguys and dolls踊れタモリ



ローファーのことをロンファーと表記している人がいてげらげら笑っていたのだけれども
ふと冷静になって
もしもロンファーという履き物が実在していたらとても恥ずかしいので
笑うのをやめて
とりあえず「ロンファー」で検索にかけてみたよ。



それから思いっきりばくしょうしてやったよ。

でもまだ一抹の不安が残るので
笑うのをやめた。
そして僕は笑うのをやめた。
戦うだけのマシン。かぷかぷ と殺人。


9.7

どうもデヴィッド伊東四郎時貞・ボウイです。ベーデンパウエルは中学校のとき友達の影響でファンになりました。そなえよつねに。

もうちょっと立派な生活がしたいものであります。

由貴子さん。あなたが泣いているのは僕のせいじゃない。へんな、こわい神様みたいなものが、そいつのせい。




次々とおそいかかってくるちり紙をちぎってはなげちぎってはなげ



次々とはえかわっていく鼻毛をちぎって鼻毛ちぎって鼻毛




ああああああああああああ
いいいいいいいいいいいい
しししししししししししし
てててててててててててて
るるるるるるるるるるるる
のののののののののののの
ひびきだけでつよくなれる
きききききききききききき
がががががががががががが
しししししししししししし
たたたたたたたたたたたた
よよよよよよよよよよよよ


大きな力で
空に
浮かべたら
ルララ
宇宙の
加勢大周
公認サイト
発見!



誕生日を迎える旅に出た。
何を祝うの加賀まり子。
ずっと謎めくあなたの愛を手に入れた時。
(中略)
踊るライト見つめて忘れないああ謎が解けた氷の中に恐竜がいたら玉乗りしこふんじゃった
ついにあたしも、しこふんじゃった
周防正行
ファンシィダンス
KFC
アヌスです。



9.6


やぶれかけたそらのかなたからまっすぐなひかりがあらわれたちすくむぼくといただすゆめとげんじつにゆれかことみらいからふくかぜにあおられたしかなものをうばいとれをーこんきぼうのうたをくちずさみながらくうきょのたにをきみとあるいてきたきょうまでもそしてあしたからも


 僕は我慢するということが大嫌いです。したい事が出来なかったりしたくない事をせねばならんかったりする時に、その状況を甘んじて受け入れること、即ち我慢するということが本当に嫌いです。寝たいときは寝たい。喰いたいときには喰いたい。テックトゥがしたい時にはテックトゥがしたい。でも我慢する。



 ところが、ここで耐えれば面白いとか、後でネタになるとか、自尊心が保たれるとか、そういうときにはプライドの高い僕のこと、人一倍我慢強くなるのだと思われます。余りにその状況を楽しみすぎてそれは既にもう我慢ではないとかそういうことも起こり得。

 僕がよく言うのは努力という言葉についてだけど、努力っていう言葉の定義はたぶん「やりたくないことをがんばってすること」なんじゃないかと思いますね。勉強の嫌いな人ががんばって勉強をすることは「努力」と言えるかもしれないけど勉強がすこぶる楽しいと思える人にとってはまったく「努力」でも何でもないのだと思う。痛いのが嫌いな人が痛いのをこらえるのは我慢だけど痛いのが好きな人が痛いのを享受してエヘヘっていうのはまったく我慢でも何でもない。と思われる。

 ということは前にも言ったんだけど僕は努力なんかしたことがないってことになる。小さな努力は節々にあったにしろ大きな努力をした経験がほとんどない。これも前にも言ったんだけど「ジャッキーが努力してるところを見たことがない」という言葉を数回聞いた。当たり前じゃボケ。



 我慢もあんまりしていない。しなくてもいいような状況になることが多いから。でもまったくしていないわけじゃない。物事が思うようにいかないこともよくある。今だってそうだ。ああ。ビバ。いざ。もう。




次々と言い寄ってくる女の子を契っては投げ契っては投げ





9.5

 自分より劣った人間は限りなく軽蔑する、と友人は言った。彼は上昇志向の人間らしい。ちょっと考え事してみる。
 自分より劣った人間、という表現をするためにはまず、「ある人間」を捕まえてそいつを「自分より劣った者」であると定義する必要がある。そしてそのように定義された人間たちを自分は冷ややかな眼で見つめていくわけなのだが、そうやって見つめているうちにもしもその「劣った人間たち」の中に【自分と共通するような要素】を見つけてしまったらどうするか。大変である。一天俄にかき曇る。さっきまで冷ややかに見つめていた自分も一転にわかに落ちぶれて、劣った人間へ成り下がる。あらま。

 馬鹿な奴が自分と同じことをやったり考えたりしてるのを見ると、ひょっとして自分も馬鹿なんじゃないかと考えてしまう。そういうのがだんだん複雑化していった感じ。「鏡を見ているよう」という表現は月並みだが具合がいい。あんなことしてあいつ馬鹿だなあ、と思うときってたいがい、「
あんなこと」を過去に自分がしていたり、考えたりしたことがあって、更にその後で少し痛い目を見たり、或いは「いやこの考えはあんまりあほらしいな」などと考え直したりした経験があるものだ。自分に覚えがあるからこそ他人の中にそれを見出すことができる。他人は自分をうつす鏡である。

 まあそういうことを考えて友人はああいうことを言うのであろう。そうだとしたら、それは非常によくわかる。自分が劣った人間であると思いたくはない。何故なら自分はもっと格好良く、素敵に生きなければいけないからだ。自分がその「劣った人間たち」と同じ類に属するなどということは、あってはならない。ではどうするか。劣った人間たちには徹底的に劣ってもらうしかないのだ。自分から見て「劣っていて欲しい人間たち」は完膚無きまでにこき下ろし、卑下し、自分にはとても手の届かないほど低く劣った次元におとしめる。それしかない。

 ところでその友人は、「自分より優れた人間は無条件に尊敬する」とも言っているのだが、それに関連してさっきの考え方をサポートする手段がある。自分は劣っていないという暗示をかけるための手段。

 自分が決して劣ってなどいないということを証明するには、自分がどの程度の位置にいるか、ということを把握しなければならないが、それは「こっからが自分より優れた人間だ」というボーダーラインを自分の中に設定することによって知ることができる。素敵な人を捕まえて、「この人より自分はちょっと下」などと思うことができたら、もう大丈夫。自分を計る物差しには2種類あって、劣度を計る物差しと、優度を計るそれであるが、後者の物差しを使えば、自分への評価がマイナスになることはあり得ない。ここではそれを手にすることができるわけだ。

 だいたいこういう手段によってニコニコと「俺は優秀だ!」みたいな錯覚に浸れるんだけど、こういうからくりに自分で気付いてしまうともうおしまい。むしろ苦しい。わかってるからこそ煩悶。輾転反側。恋っていいなあ。









岡林信康特集



申し訳ないが気分がいい


抜けるような空が痛い
風が髭に遊んでいく

申し訳ないが気分がいい
全てはここに尽きるはず

どうしてこんなに当たり前のことに
今まで気づかなかったのか

緑が瞳をえぐり出し
谷川と鳥たちの歌

申し訳ないが気分がいい
全てはここに尽きるはず

どうしてこんなに当たり前のことに
今まで気づかなかったのか

土と緑と動くものと
水と光とそして私

今はじめて彼らを知り
今はじめて私を知る

今このとき私は私を
人と 人と名付けるのだ



私たちの望むものは


私たちの望むものは生きる苦しみではなく
私たちの望むものは生きる喜びなのだ

私たちの望むものは社会のための私ではなく
私たちの望むものは私たちのための社会なのだ

私たちの望むものは与えられることではなく
私たちの望むものは奪い取ることなのだ

私たちの望むものはあなたを殺すことではなく
私たちの望むものはあなたと生きることなのだ

今ある不幸せにとどまってはならない
まだ見ぬ幸せに今飛び立つのだ


私たちの望むものは繰り返すことではなく
私たちの望むものは絶えず変わっていくことなのだ

私たちの望むものはけして私たちではなく
私たちの望むものは私であり続けることなのだ

今ある不幸せにとどまってはならない
まだ見ぬ幸せに今飛び立つのだ


私たちの望むものは生きる喜びではなく
私たちの望むものは生きる苦しみなのだ

私たちの望むものはあなたと生きることではなく
私たちの望むものはあなたを殺すことなのだ

今ある不幸せにとどまってはならない
まだ見ぬ幸せに今飛び立つのだ


私たちの望むものは
私たちの望むものは
私たちの望むものは
私たちの望むものは
私たちの望むものは



私たちの望むものは 狂い咲きver.


私たちの望むものは生きる苦しみではなく
私たちの望むものは生きる喜びなのだ

私たちの望むものは社会のための私ではなく
私たちの望むものは私たちのための社会なのだ

私たちの望むものは与えられることではなく
私たちの望むものは奪い取ることなのだ

私たちの望むものはあなたを殺すことではなく
私たちの望むものはあなたと生きることなのだ

今ある不幸せにとどまってはならない
まだ見ぬ幸せに今飛び立つのだ


私たちの望むものは繰り返すことではなく
私たちの望むものは絶えず変わっていくことなのだ

私たちの望むものはけして私たちではなく
私たちの望むものは私であり続けることなのだ

今ある不幸せにとどまってはならない
まだ見ぬ幸せに今飛び立つのだ


私たちの望むものは

私たちの望むものは!生きる、生きる、喜びではなく
私たちの望むものは!生きる、苦しみなのだ
私たちの望むものは!あなたと、あなたと生きることではなく
私たちの望むものは!あなたを、殺す、ことなのだ!

今ある幸せにとどまってはならない
まだ見ぬ不幸せに今飛び立つのだ


私たちの望むものは
私たちの望むものは
私たちの望むものは
私たちの望むものは

私たちの、私たちの望むものは
私たちの、私たちの、
私たちの望むものは

私たちの望むものは…!

私たちの望むものは
私たちの望むものは
私たちの望むものは
私たちの望むものは





改行ってのは「逃げ」ですよ。文章を書くことに対する。どう考えても。
楽なんだよね。
優しいし
だから甘えちゃうっていうのか

にしても文章書くのって疲れる。もうやめたし。




俺様のキスに戸惑っちゃってるドキドキシューターのベイビー?
ああ、そんなあの娘にイチコロレーザー。ステルスウィンクで爆裂ハートvvv
そこはフューチャーのマイホーム!
永遠さながら永久ラヴィニュー…
☆とこしえの愛撫はリ/ラヴィングルーム☆

《ホテルジャッキーリニューアルオープン》




だああ
東京ライフはむさ苦しい
扇風機すらない
女っ気がない
来年には結婚する予定だが
それまでどうしたらいいんだ

サンシャインよ吹き飛ばせこの熱気、この湿気
蒸発させてくれ
澱み濁った空間を滅却してくれ
疾風よ今は許す吹き荒れ狂え
ちり紙を一枚残らず粉砕したって構わない
臨界間近の放夏線を消せこん畜生

別にさまで暑いつーわけじゃないが
部屋は足の踏み場ないし
学校ないし家庭もないし
暇じゃないし
まあカーテンはあるけど
花を入れる花瓶もないし
イヤじゃないしかっこつかないし

掃除しなきゃな。
当面は2次α


9.5

おー風当たりが強くたまらないよ目標もなくやり過ごすてんしょんしょっくに慣れ五感が鈍ってそれでも僕らはうぃーごなていくおふやりたいことは沢山あるやれてることは一つもないけど誰かへいおー不安だけえすけいぷしてくれよあいわなえくすえる夏しか出せない愛があるなら今すぐ飛び出せ地球の果てまで打算も大切な思い出にしてわんつーすりーふぉーどんすていれつごー



灼熱魔法かけて





どうも。
ブルーシャイニンクイックスターです。
ラジオネーム

北区メルヘンうんこ


福井県
谷口雅人

埼玉県ロッドマン内田


国分寺市パリーボーイ
マリナは俺のもの
マリナは俺のもの
マリナは俺のもの




プレステ2を買ったのが運の尽き
毎日10~15時間の惰眠
覚醒時間の8割は第2次スーパーロボット大戦αに費やされる
一日一食
2割の時間を利用して駅前の松屋で牛めしを喰う
いっぺんブルジョア気分でカレ・ギュウを頼んだがアレはダメだ
味が濃い
カレーの中に牛を入れたのか牛の上からカレーをかけたのか
木村拓哉が工藤静香のパンツを下ろしたのか はたまた工藤静香が自分でパンツを下ろしたのか
そこはわかれへんとこやけどもな
さっきはさっきでゲームボーイを手にしてテトリス三昧
全てのものがテトリスに見える
家具が目の前で飛び回ってガッシャンガッシャン言わして
テトリス棒の到来を待っているわけだ
スーパーマリオランドは20分でクリアしたよ
裏面も20分でクリアしたよ
絶対無敵ライジンオーは10分足らずで終わった
ゴッドライジンオー強すぎ
ゲームやってたらアニメ見たくなった
LDだ
さあ見よう
いざ
ビバ鎌倉
カレギュウには何の工夫も見られない、美味しくしようとする気負いすら感じられない
なぜならばカレーと牛を混ぜ合わせただけだ
米の量は変わらないのに具の量だけが二倍になったら
そりゃあんた
カレーも牛もまだ半分残ってるのに米だけが一粒もなくなるという異例の事態
そんくらい予測せなならんよ
で、睡眠、2次α。惰眠、2次α。2次α。2次α。
Zガンダムフル改造
いつになったらνガンダムが出て来るんだ
量産型なんか信用しない
あんなのは伊達だ
オプションのキャラクター辞典でブライトに喋らせたら「ラー・カイラムでアクシズを押すんだよ!」とか言い出すし
シャアはシャアで「ブライトやるな」とか言い出すし
アムロは当然「エゴだよそれは!」「νガンダムは伊達じゃないっ」
量産型は伊達なんだよ
機動戦士ガンダム0080ポケットの中の戦争
のキャラや機体は出てこないらしいからオリジナル主人公にバーナード・ワイズマン愛称バーニィと名付ける
このファン心理、複雑
キンケドゥに戦わせて辻谷耕史の声を堪能




そんな生活はさすがにいかんと思い始めて
そろそろこっちのほうに

力うどん



継続は力うどん
って誰が言ってたんだっけ


暴力は力なり

改行が多くなるとページが重くなるから






 過去ログ  前の日記  次の日記  TOP