2003年10月の行い(Jacky)

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ああ急激にへこんだ。
死ねと言われているようなものだ、生きているということは。





自分で書いといて何だけど矛盾性の高い歌詞だね、そこだけは評価できる。




 bloody bride
 
(美しく香る白い薔薇を纏う様に柔らかき肌は優しさと光りに映えて
 幸せは風のように唇が奪ってく 誰よりもアタシは貴女を愛している…)

 花束を抱くように 抱き締めたい心ごと 叶わぬ夢 棘 突き刺さる
 花のように香しい 何よりも美しい 咲き乱れた白い blossomy bride
 意味のないその飾り 脱ぎ捨てて 華になれ 紅い薔薇の似合う貴女なら
 白い薔薇 切り裂いて 美しく 血で染めて 生まれ変わる深紅のドレス

 白い薔薇を爪と棘で紅く染め上げて
 絹の様な柔らかな肌に針突き立てて
 身体ごと

 切り裂いて切り裂いて切り裂いて切り裂いて 酷く 強く 抱いて 血に染めて
 血に染めて血に染めて血に染めて血に染めて 紅く 深く 深紅のドレス
 切り裂いて切り裂いて切り裂いて切り裂いて 酷く 強く 抱いて bloody bride
 血に染めて血に染めて血に染めて血に染めて 紅く 深く 深紅のドレス
 抱き締めたい…




あー誕生日にやることない。せんかたなし。やらんかたなし。
育ってきた環境が違うからナア。
何を祝うのかがずっと謎だったし
祝われる環境にいることを祝ってもらっているのかもしれないな
幸せだっていうことだ
見えなくなってしまったものは二度と帰らないと知ったとき年をとることに後悔と一日が過ぎていく恐怖を感じた
それがおいらの小学四年生であって。



It's show time
主よ
種も仕掛けもないことをお許しください



私たちに神のご加護がありますように
アスカジュニアラヴ



村上龍が「才能の無い奴は才能に理由を求めたがる」と言っていた
“大学教授の息子だから”とかね
うちの父ちゃんは日本一で、一介の高校教師。しかも「化学工業科」の教員であって
僕の志す文学などというものとは全く似ていない
母ちゃんは保育園のパートをしており僕に対しても保育園児と接する時のテンションで絡んでくる
ちょっと困るけど若々しい母ちゃんだ。っていうか幼い。
我が家にあるのは絵本と児童書、それに数千枚のレコードとCDばかり。
たいがいはジャズとクラシック。あと南こうせつ。
というわけで僕がいつか何らかの才能を開花させることができたら
才能の無い奴は僕のどこに「理由」を見つけようとするだろう
そんじょそこらの文学者のガキには負けたくないですよ。



「オギャーと産まれた」という表現が嫌い。大嫌い。



生まれ落ちた瞬間に文化的背景が決定してしまうのが痛い
父ちゃん母ちゃんが読書をしない人で、生家に書物が無かりせば
ガキは本など読まずに育つわけで
父ちゃん母ちゃんがインテリジェンスとは程遠い種類の人間で
貧困な語彙によって貧困なカンヴァセイションだけを展開していくのなら
ガキは貧困な語彙による貧困なコミュニケイション以外不可能になってしまうわけで
父ちゃん母ちゃんの嗜好物がインテレクチュアルとは程遠い種類の物ばかりだったとすれば
ガキは…略。
これは本当に痛い。痛々しい。
僕の場合は「インテリゲンチャ」たるに在るべき要素を基準に考えるけど他の要素でも同じで
良識とか人間性とかって呼ばれるものも同様
自然体に良い環境のもとで子どもを育てたいのだったら
自分を磨く。
そのために自分を磨くってことは傍目に見たって割と美しいんじゃないの?
遺伝子云々の話じゃなくってさ



中学時代のYMO狂いというのは凄まじかった
お小遣いの殆どはYMOとライジンオーに消える
何でそんなにYMOに狂ったのかというと
植芝理一の『ディスコミュニケーション』のせいであって
変態気味なのも宗教好きなのもパクリ傾向にあるのも全部このマンガのせいであって
一昨日も細野晴臣と中沢新一の『観光』を学校の図書館で借りてきてしまったのであって
ていうかぶっちゃけ
早稲田に入ったのもディスコミのせいなのであってね…



藤子作品が遠ざかったあとのコロコロで最も好きだったのは『あまいぞ!男吾』で
次に好きだったのは『チエばーちゃんの知恵袋』
連載の期間も長かった。懐かしいなあ。
でも『スーパーマリオくん』なんかもっとずっと長くて、しかも連載初期から絵柄も作風も変わってない。脅威だ。
いつになったら連載終わるんだろう。
河合じゅんじさんもすごい。
ボンボンでマリオのマンガをずっと書いてた本山一城は歴史研究家やってるらしい。


あれはきっと北京ダック


明日10000円札を握りしめ飯島愛のまんがらりんを口ずさみながら高田馬場の「まんがの森」に行って
『あまいぞ!男吾』を購入したいと思います。
他のMoo.念平作品も買うつもりなのでおつりほとんど出ません。
前から買うつもりだったけど何故か全巻サイン本だったのでせっかくだからここで買います。
お兄ちゃんは持ってるんだけどね、てんコミで。

ドラえもんやなんかをどんだけ馬鹿にされたってまあ感性の問題ならば仕方ありません
島本和彦のマンガに血をたぎらせてくれなんて言わない
『ディスコミュニケーション』を読めなんて言えない
岡林信康に唾を吐きかけるのだって辛抱できる
仕方ない。
育ってきた環境が違うんだから仕方ない。

でももし僕の奥さんが『あまいぞ!男吾』を読んで
「何がおもしろいの?これ」
なんて言ってしまったとしましょう
間違いなく離婚です。



藤子不二雄A先生の『北京填鴨式』が細野晴臣の『北京ダック』に影響を与え(これは確か)、
細野晴臣の『北京ダック』が小沢健二の『大人になれば』に影響しているのだとしたら
すごいね、藤子不二雄とYMOとフリッパーズ・ギターが一本の線に繋がるじゃないですか。
小山田は大の藤子ファンなわけだし、高橋幸宏の隣でボーリングやったこともあるわけだし。
いやー『北京ダック』は名曲だ
個人的にはそんなに似てるとは思わないんだけどな


とてもいやらしい話をします。僕の住んでいるのは良い町だ。商店街の八百屋さんが古風で。
いらっしゃいの呼び声が途切れることなく。
止まることなく口を動かしながら同じ速度で手も動かしているという。
奥さんやガキ共とのコミュニケーションも密に
素晴らしい。
最近よく近所のヤマザキパン小売店でサンドイッチを買うのですが
おっちゃんの手作りだからコンビニの半分くらいの値段でしかも美味しく
変なもん入ってなさそう。
いやらしい話だ。


「などと供述している」をgoogleで検索すると5030件。
「等と供述している」だと15件。
この違いはなんだ。
ちなみに「抔と供述している」は0件。この文字って漱石が使うイメージがあるな、なんか。
むかし僕のhoneyがこの報道表現について疑問を抱いた論文を発表していたが
つまりこのことは「などと供述している」の「など」が「等」ではなく「なんか」のニュアンスで使われていることの一つの証明になる

まあかわいそうですよ、確かに。容疑者さん。


教員が学生に対して「面白い考え方」とか「非常に意欲的な」などと口にするとき
心の中では


しかし産経新聞は右翼だナアと思う
「ニッポン」大好きオーラがむんむん
読んでて気持ちが悪い

当たり前だけどあまりにフジテレビびいきなのも気になる
そんななかで日テレの視聴率操作記事が一面にめちゃでっかい見出しで報じられているのを見ると
やっぱなんかそういうものを感じてしまうな、どうしても

もう取るまい
サラリ君ファンの人ごめんなさい
8000回おめでとう



物語を語り出すだろうムーンライトストーリー



『秘密』


ショールで覆う僕の悲しさを
わけ知り顔、ピントはずれになぐさめればいい
間抜けな言葉で僕を取り囲む得意げな薄ら笑いに腹がたつのさ
思い切り胃を蹴り上げたら君はどんな顔をするのかと思う



なんで僕が君のことをこんなに好意的に思っているのかわかった。
だいたい僕は自分の書くのに似ていて、かつ尊敬できない文章っていうのがきらいなんだ。
君は僕にさまで似てはいないし尊敬、かどうかわからないけど、なかなか良い感じのする文章を書いてると思う。
だから好意的に見ているのかもしれない。
「君が僕に似ていない」という表現は自分中心的で失礼だね。
他に言いようも思いつかないけど。ぼきゃひん。
というわけだよ、お姉さん。



本を買う時間が惜しい。ああ気づくのが遅すぎるよ鷲。



 さてさて。まあね、演習があったわけだけど、誉められたところもないではないし、さまでへこんだということはない。
 それに単純に良かったこと、嬉しかったこともあったのです。
 その後の「近代文学と映画」の授業に内藤千珠子さんがゲストとしていらっしゃって、吉田喜重の『エロス+虐殺』や谷崎潤一郎『神と人との間』と絡めて天皇制とメディアの欲望について講義されました。質問する時間があったけど、まとまらなかったので、控えていたら、授業の終わった後に先生がいらっしゃって「質問するかと思ったのに。滅多にない機会ですから今でよければ是非質問やご意見など、内藤さんとお話してみたら」と仰ってくださいました。以前に星野智幸さんがいらっしゃったときに僕が質問していたことを覚えて下さっていたのでしょう。180人規模のクラスで、敬愛する先生に顔と名前を覚えていただけるということは、それだけでなんだか嬉しいわけで。先生は内藤さんに僕のことを「石原先生の授業を受けてるんですよ」などと紹介してくれた。内藤さんにもそれだけで通じたようで。千秋パワー恐るべし。それで幾つかの質問を中心にしばらく対話を交わして、とてもいい人だなあこの人は。というわけで、全体的に悪い気分ではなかったわけです。あんな夢を見るまでは。(なんだか謎を残す言い方だ)



 「たいへん右翼的な発表だったと思います」



 「たいへん意欲的な発表だったと思います」
 限りなく誉め言葉から遠い。うん。とてもへこんだ。
 そもそもの話、ほぼ例外なく、たとえば今回のような「演習発表」とか、とにかく他人の前に出て何かやる、ということが終わったあとの自分というのはいつも、「群衆の中の孤独」状態へと陥っていきます。
 他人の目にはそういうことが大好きで、しかも割と得意な人間であるかのように映るようです。
 それが最も辛い。
 そんなわけないのに。常に空回りするだけで終わるのに。
 確かに目立ちたがりな僕はそういうことが大好きだってのは否定できない、けど嫌だし、苦手だ。
 ああそうやって全てを避けていく。逃げる。どこかへ鬼太郎は、消えていく。



 改名します。シン・ダライー。
 僕は、シン・ダライー。
 実はとっくに知っていた。everything i say or doが(驕りと言われるかも知れないが)他の人なんかよりもずっと自己満足度が高い、いや高すぎるのだということは。簡単に言えば僕はおなにいが服着て歩いているようなものだってことで。
 ついさっき、こんな夢を見た。あまりよく覚えてはいないけど。

 そのような、今まで意識の深層のところでずっと思っていたことを全て、自分の身近な人間に暴かれたのです。
 文書という形で鮮明に。
 僕は自分で思っているだけじゃなくて他人からもそう思われていたようなのです。
 心当たりがあるものだから、数時間の間それを現実の出来事だと思い込んで、シン・ダライー。シン・ダライーと唱え続けました。
 つまり、現実に言われたことだと信じていたのです。「お前は、存在自体がおなにいだ」と。
 そういえばそう、心当たりがあります。みんな見て見ぬ振りをしているけれども、たぶんそう思っているのです。
 僕は仕方がなくて、僕なんか、シン・ダライー、と思って、自殺のことばかり考えています。
 と、こんなところでも太宰ネタを持ってくる所なんか、もう。ねえ。



僕の壁紙の女の子が世界一かわいい。



 「文学研究の方法」という授業は面白いよー思わず横光利一の『上海』を借りてきてしまったよー。「教育学」の先生はうるさいよー。さすが中等教員くずれ。でも今週の授業は面白かった。僕は早稲田なぞに入ってしまって、「教授法」の基礎なんかをまったく固めることのできないまま教員免許を取得してしまうんじゃないか。いた。ペダゴジー万歳。でその後(いつのまにかこの文章に時間的な「前提」がつくられていたらしい)三品というごはん屋さんで牛めしを食べ図書館に行って論文を漁り読んでコピーしてモスバーガーに行ってチーズバーガーを食べて残金が137円だ。久々に豪遊(まんが道用語)してみようと思ったわけだがしまった。僕はこのあと学校に泊まり込みで【履歴書】を書かねばならぬのである。あー137円で明日の夜まで保たせなくば。
 さて夜中に男二人で学校に居残り【履歴書】執筆にあたっていたわけですが夜中のテンションがそうさせたのかいつのまにか「谷崎潤一郎をミヒャエル・エンデで読む」という訳の分からない説がでっち上げられた。要するに、『秘密』が都市小説であることを論じるのは面白くも何ともないから「都市」は前提としてあるものとして「書物」という観点から見ていこうということでございます。
 ああほんでもって次の日授業出て図書館行ってまた論文見て帰って死んだように寝て夜起きてバイトに遅刻して
 ところで、「死んだように眠る」と「眠るように死ぬ」とを比較すると面白いですね。



永い間そうしてきたことによってそういう文章しか書けなくなってきている。
友人の中にも一様な文章しか書けない人がいるが
んー致命的



今まで僕は自分の文章のわかりにくさを「あえてやってること」だと思ってた。あるいは「不親切さ」とか「エゴ」だとか「独裁」だとかね。でも最近思う。いや実際はずいぶん前から気づいてたんだけど気にしないふりしてた。僕ってただ文章が下手くそなだけっすわ。喋るのもそう。いつだって僕が伝えた事なんてナイノサ。



 あなたの場合は自分の「ちょっとした思いつき」を導くとっかかりとして北朝鮮の収容所を「利用」しているわけです。
 まあなんていうか。僕には気持ち悪く感じられるんだな、苦しんでいる人を見て自分の幸せを実感するわけでしょう。最低じゃないか。もしそれだけのことを言っているのだとしたらさ。
 もちろん、そういうことが言いたいのではないと思うけど、表面的にはそのように。受け取られてしまうよ。
 えーなんなの。デカダンでダザイックなエゴイストとしての自分を演出してみたわけ。
 これ僕はこうやって意図的に譲歩して言うけど
 人によってはもう直感的に
 「あ、この人の考え方って最低。」って思ってしまうかもしれない。
 繰り返すけど、他人の不幸を見て自らの幸福の「裏付け」をするなんて
 もしそれだけのことだとしたら、本当に最低だ。生きていなくていい。
 もうちょっと、例えばニュースを見たという記述の後に、
 何か自分の本当の感情を裏打ちするような象徴的な行為や思惟を描出していたなら、
 したら少しくらいは文学的になったと思うんだけど。なんだ文学的って。
 文学目指してない奴に文学性を要求するなと。


もうちょっとわかりやすく。
「酷い目」に合ってる人を見て、「ああ自分はああでなくて良かった」って思うでしょ。
思うけど言ったらダメなんだよね。
「あえて」それをやってるなら「あえて」の香りをにおわせないと
誤解されてしまう
そういうことも踏まえた上で「あえて」読者を試しているのだろうか。
僕たまにやるすごいだろ。
あえてやるせなさを隠すことによって自己のひいては「個人」の無力感を表してるのかも知れないよ
けどどのみち自己中だってことは押さえておかないと多少困るかな。


ニュースでいわゆる「収容所」のようなものを見る。
するとやりきれない気持ちになる。
とても普通。
そのあと「日本に産まれて良かった」って思うのはアブソリュートなエゴ・ダンス。
たとえそう思っててもそんなこと書くべきでない。書くならわかりやすく保険をかけとくべし、だ。
なんて度胸のある。きっと実直な人。尊敬をする。
あわれんで見せたって一文にもならないってことを知ってるのなら
そりゃそれで偉いけどね。



うんうん。時には他人を楽しませるため、あるいは自分のために、本当は思ってもいないようなことも言わなくちゃならない。僕は結構そういうの連発する。全部ウソだったりするんだけど、思いついちゃったんだから、しょうがない。みたいな。
こういうのって盗作とか言うのか。インスパイア。愛故。



思春期専門家。シシュンキスト。シシュンキスト、シシュンキストシシュンキストシシュンキストシシュンキス杜子春kiss



 他人より自分が大事、と思いたい。他人のために、などと敬虔な基督者みたいなことを殊勝らしく考えてみても、何、他人よりも、この僕のほうが弱いのだ。少なくとも、僕の社会においては、そうである。まさか、自分が窮地に陥ったときに、他人に助けられ、世話になろうなどという図々しい虫のよい下心は、まったく持ち合わせてはいないけれども、僕は、この社会において、常に他人の機嫌ばかり伺っている。



あさって谷崎潤一郎の『秘密』について演習発表せねばならんのですが、昨日一晩東大「ご ひく いち」年生まで招いて秘密討論会を催していたというのに【履歴書】は一文字も進んでいない。まるで甲府に行って戻ってきたあとの太宰治みたい。さっきから何時間かかけて読み直してるんですけどなんか疲れてきたので文章を書いています。私の仕事は遅々として進まぬ。ふぅ。桜桃でも読もうか。



いやなんでそこで『冒険者たち』なんだよ!
って突っ込んで下さい。これから。
いいじゃないでちゅか好きなんだから。
ていうか語呂の問題。
本当は「岡田淳」って言いたかったんだけどね。



バランス感覚がいちばん重要だと思うんだよねー。



語彙がないとか言語化能力に乏しいとか言われるし、実にそうだと思う。
というわけで何とか言い逃れを考えてみる。

高級な語彙を緻密に構成・配置して創造される文学とは荘厳で華麗な芸術だろう。(ああ貧困)

だからってそれがすべてじゃなくて
ありふれている言葉を、フワフワした感覚に任せててきとうに吐き出してみたり
そんなんでもいいような気がする。わるくない。
でもだからってそれがすべてでもないわけだから
夏目漱石も、町田康も、斉藤敦夫も手放せない。


思春期専門家。


思春期だ、思春期だっつったってさ。
喋りだせなきゃ意味がないんだ。
空回りすらできないようじゃあダメなのよ。
少なくとも僕の描く、イデア的なシシュンキスト像は。




"Don't be afraid lose control...., and control is the name of our game."
                        ----Jack Tarr "Doctor Head's World Tower"


高校生よ、その死に方を尊敬する。


語彙のない小説を書きます。熟語が絶対に出てこないやつ。


死ね 死ね 死ね死ね死ね死ね死んじまえ
黄色い豚めをやっつけろ


久しぶりにアゼルバイジャンな気分だ。
ここまで駄目人間だったのか僕は。
ああ僕のアジールになってください、誰か。
堕落したら優しく叱って下さい。でも転向を強要しないで下さい。
僕から堕落を奪ったら、本当に何も残らなくなってしまう。



まあでも「愚」ってのは尊い徳であるわけだから。
なんか変態どもに囲まれて一晩過ごすと、↓こういう文章になるわけですな。


デッド・オア・ヘルスの二者択一。それ以外に選択肢の無い状態というのはすさまじい。もう死ね。地獄に堕ちろ。ゴートゥーヘル。ス。
だめだヘルスは形容詞じゃない。


世の中にはこんなに死ねばいい人々がいて、しかもわりと死ねばいいことを自覚している人が多いのにも関わらず、どうして今まで人口は増え続けてきたのだろうか。これからは少子化だなんだのといって若者が減り老人が増えていくらしいが、それはきっと若者は死んだほうがいいからだろう。



堕落を堕落だとも思わぬような、


明鏡止水。

どんだけ楽だ。


オレはザード、ガキ勇者。
本当死んだ方がいい奴が隣に座ってるんだけど、でも僕だってどちらかといえば死んだ方がいい。僕の友達には死んだ方がいい人が幾人かある。阿呆は阿呆を呼ぶというか。でも死なない方がいい友達だって多い。美しい。羨ましい。恥ずかしい。


精神的に向上心のないものは、馬鹿だ。
でも向上心しかなくて実が伴わないような奴は死ねばいい。
ああ自殺のことばかり考えています。dazaicだ。


僕の心はだんだん「ヘルス」などと云う手ぬるい淡い快感に満足できなくなって、もッと色彩の濃い、血だらけな歓楽を求めるように傾いていった。


 何、ギネス狙ってるの?日本人初のノーベル堕落賞は僕らの手の中にある。最低。鍋と酒を囲んでフェレイショウとかピーニーズとかミャンコをキュンニするとか、ちょう愚か。もうヘルス行くしかないという結論に達しました。ああなんてコンクルージョニックな結論だ。


 あうーフライパンの上で半熟の溶き卵がうまい棒を包んでいくように。
 柔らかさ。僕のアジールになってください。
 僕の精神世界を新宿に例えるなら、あなたは歌舞伎町。無意識の世界。欲望のインフィニティ。
 堕落した最低な僕、飲み干して溺れたい、余すところなく舐め尽くしたい。
 あなたのいる場所にまで身体を拡張させたい、あたかもマリオカートやりながらつい身体動かすがごとく。



それはオジンの論理だな
木だって枯れれば水を欲しがらないさ
別に自慢できることじゃない



 鍋にはキャパシティがある。余り多くの



手塚はすごい。藤子もすごい。植芝はヘンタイ。
F短編を久々に読んだ。天才。
処女を捨てよ、町へ出よう







愛する先輩を想う。僕は一生こうやって慕い続けていくのだと想う。
僕は別に、なにもしゃべらずあの人の横にいて、頬杖ついてぼけーっとしてたらそれで満足なんだ。



ちなみに文章を「作品(もっと枠の大きな、文章の集まり)」として構成する能力は、僕に最も欠けているところだと思う。



 うぬぼれている、という言葉は単純に、「自らに惚れている」という意味で使ったほうがいい。少なくとも僕はそうなのだ。僕は自惚れている。結果としてどうあろうが、僕は自分に対して不当に高い評価を与えているつもりはない。ただ、自惚れているだけなんだ。



 おぼろげな記憶から、復元。

「瞬間的な発想力、発想の瞬発力っていう面ではジャッキーのほうが上だけど、その発想を言語化するという点においては俺のほうが上だね。でもその言語化されたものを文章として構成する能力はジャッキーのほうが上なんだよ。」

 だとすれば、いちいち的を射ている。けど上とか下とかって。肝心なのは「斜め上」か「否」か。それ以外にはない。



〈授業料は返還すべし?~早稲田の場合~〉
N:入学金は地位を取得する対価だからOK(返還しなくてよし)で、
  授業料は入学後の教育の対価だからだめ(返還しなければならない)なんだって
J:授業料も「地位」を取得する対価だと思うのだが



 都市とは他者と出会う場所である。〈私〉が女装をして町を練り歩いたのはそこが「都市」だったからである。他者が強く意識されていたからこそ都市に出たのだ。そうでなければ鏡を見つめているだけでよい。


 早稲田の学生は皆一様に文章が書ける。驚くほど。しかし中身はスカスカである。実力はあるが勉強をしていないからだ。厳しい受験戦争を生き抜いてきた彼らにとっては「入学」こそがゴールだったのである。そのことが同校のブランド性に起源を発する「不要なプライド」と結びついて、腐敗する。誰も勉強しない。努力をしない。不要なプライドとそれを根拠とした意味のない過剰すぎる自意識。だから四年生になって卒論を書く段階になってもスカスカなものしか書けないのだ。みたいなことを若き教授が言っていた。


恵昂。それは具体化しちゃあいけない言葉なのかも知れないね、育子。baby i love


tactics

私たちは策略家であり珍しいウガンダ人である。育子。baby i love


 「自分は優秀だ」とか思い込んでいると、「だから自分が何とかしなければ」みたいな責任感が生まれる。それは独りよがりであると言える。全てを自分の力だけで解決させようとする。数人のグループに属していたとして、他のメンバーが自分よりも劣等であると判断してしまった場合、「では自分が頑張らなくては」などと思ったりする。最悪。



 文学評論の術を身に付けたい、と熱望する。どうしてかっていうと、あたかも夏目漱石の専門家が『こころ』を論じるような勢いで、僕は『ドラえもん』を論じてみたいわけだ。
 例えば今考えていることは、『坊つちゃん』という作品が読者に「無鉄砲な主人公の無鉄砲な物語」という枠組みを強要している(※1)ように、『ドラえもん』にも「強要された枠組み」があるのではないかと言うことだ。しかし『坊つちゃん』に関しては、読者が「親譲りの無鉄砲で」という書き出しから読み始めるのを前提として論じることができるのに対し、『ドラえもん』の「書き出し」は恣意的に決定される。
 『ドラえもん』という作品が余りにも広く世間に流布し、かつ、「一話完結のパラレル・ワールド的物語(※2)」という形態を取っているため、読者の『ドラえもん』とのファースト・コンタクトは非常に恣意的なものになる。つまり、読者は数多ある『ドラえもん』の各作品のうち、どの作品から読み始めるかわからないということである。
 んーだから要するにだねえ、『ドラえもん』に対して読者各々が抱く先入観こそが「強要された枠組み」であり、その先入観が作品の解釈や印象にどう影響してくるのか、みたいなことを考えてるんだけどね、うまく言えないんだね、だからテクニックを身に付けたいんですよね。もっとトリッキーでロリポップな読み方ができるんじゃないか。『ドラえもん』の可能性っていうのは無限にあると思うんだわさ。
 『ドラえもん』を古典たらしめたいと思うわけね。僕が『ドラえもん』の注釈書を書きたい、って思うのは「賞味期限(※3)」をなくしたいからなんだよ。古典化した物語には賞味期限はない。『源氏物語』を例に出そう。たとえ古典の単語や文法を完璧に理解している人でも、その文化的背景を知らなければ『源氏物語』はつまらない。しかし『源氏物語』を本当に面白い物語だと確信した研究者は幾らでもいて、何百年も前から「注釈書」を出し続けているのだ。テクストの書かれた時代にテクストを戻す(※4)ことが文学を面白くする。漫画も同じだ。「注釈」は古典のテクストを名作たらしめるために不可欠なのである。『ドラえもん』の賞味期限はもうそこまで迫ってきている。例えば『水戸黄門』の賞味期限が切れれば同時に「コーモンじょう」の賞味期限も切れるし、「嘘八百」という言葉が完全に死滅すれば「ウソエイトオーオー」という道具は意味をなくす。「サイオー馬」の元ネタがわかる若者が今どれだけいるのだろう?「建設巨人イエオン」の何が面白いのかお前らわかんねえだろ?「がんばれ元気」のパロディに気づけるか?ドラえもんの「運命なんてものはね、このナワのように…、」という言葉からは「禍福はあざなえる縄の如し」という言葉が連想できなければいけない。『ドラえもん』に込められた同時代的な情報量はおびただしいものがある。しかしそれは時間の経過に伴って風化していくものなのだ。時代が『ドラえもん』を浅薄にしている。
 もちろん、元ネタを解説することだけが『ドラえもん』を再びブラッシュアップするわけではない。真剣に研究されるべきだと言っているのだ。司馬遼太郎は単行本・文庫合わせて一億冊を売り上げていると言われるが、『ドラえもん』だってそのくらい売れているのである。てんとう虫コミックス版だけで一億冊だ。司馬遼太郎がなんぼのもんじゃい。文学より漫画が偉い、と思いたい。(※5)
 と、まあいつも通り文章と思想、散らかっているわけだけども、言いたいことは、子供よりも親が大事。



(※1) 石原千秋『反転する漱石』 1997 青土社
(※2) ジャッキー『反転するドラえもん』 2012 主夫の友社
(※3) 村上春樹・柴田元幸『反転する翻訳夜話』 2000 文芸春秋社
(※4) 前出『反転する漱石』
(※5) 太宰治『反転する桜桃』 筑摩書房の全集を用いた。






so i'll repeat some meaningless words
like a huge bunch of flowers that blocks your view
(意味のない言葉を繰り返すだろう
 向こうの見えない花束のよう)

舌ッ足らずな日本語はシステマティックなEnglishによって補完されるわけだ。
例えば、soやhugeといった言葉のニュアンスは日本語の詞に描出されていない。
こいつは大きなヒントになる。
そしてその逆も然り。
「向こうの見えない」とblocks your viewは対話を交わす
blocks your viewだから「向こう」が「見えない」のだ。

 だから僕は無意味な言葉を繰り返して言うんだ
 まるで巨大な花束を君の目の前に突きつけて、こちら側を覆い隠してしまうみたいにね

というふうに解釈することもできるわけ。
なんだってこともないけど。

ところで「まるで~みたいに」っていうのはモダリティだよね。
日本語はこういった不自由な「係り結び」に支配されている
文句言うつもりはないけど、たまにやりにくい。





未だに冠詞と単複が解らない。
全てJapaneseな言語感覚によるフィーリング




when words are written
a writer is there

when words are translated
a translator is there

without exception

therefore there are, always
two thoughts in a translated word
at least two kinds of thoughts in the translated words

the writer
the translator

we enjoy a mixture
unconsciously

by the way remember that when the two is the one: the words are translated by the writer.
then clues to understand the original meanings will double
how.
to understand K.O more we have to enjoy in Japanese
and in English too

this is because i ...
do.



Love and Dreams are back [by K.O]

trombones in a parade, dried fruit to shoot
our do-nut talk going round and round, we're so vain
grow your hair again and things are not the same
so i'll repeat some meaningless words
like a huge bunch of flowers that blocks your view
will that sweet and tender nihilism, sneer?
"...and love and dreams for all."

gloves, enameled shoes and star-collector in a department store
mixed up telephone line in mexico, endless romanticism
i don't care about the time, i just want to look at the inside of the clock
so i'll embrace some worn-out words
like a big bunch of flowers that blocks your view
recognizing it when it's gone to past
"...and love and dreams for all"

it's kinda funny, all we know is
that we never know who we're talking to

against the winter's gravity, boxing gloves of tricks and wits!
so maybe i'll repeat some meaningless words
like a big bunch of flowers that blocks your view
will that sweet and tender nihilism sneer?
"...and love and dreams for all."




マクドナルドでマックシェイクを二回飲んでお話をしていた、駄目だそんなことでは。

どんどんどんどん堕ちていくわけですよ。
ウラシマ型かも知れないが。
全体的に僕という小説の構造を分析するなら確実に退行型の物語と読める。

もう駄目だ自信がない僕はとても頭良いのだから頑張れば良いのだわかってはいるけど頑張るなんて面倒臭いから嫌なのだ


バカアやアホオではだめだ
バアナアドシヨオでなければ




自分がどれほどアホオでバカアなのかわかった。
このままではいけないと思うのでしばらくおとなしくしています。




人生はスリルとサスペンス。
これがなかったらきんさんぎんさん退屈で退屈でとても100まで生きられませんよ。
僕は修行の旅に出ますね。




とあるソフトを使ってこのHPを作ってるんだけど、バグっちゃって。
もうやめようかなあって思ってるんだよね。
だって過去のページがほとんど吹っ飛んだ。
いやハードディスクの中にはあるし、
リンク切れはしててもWeb上には残ってるんだよね。
でもHPをビルディングするシステムの中からは跡形もなく消えちゃって
直すのも面倒くさいから
どうしようかなって思うんだけど、なんかどうしたらいいか教えて神様。
リンカーン助けて。







頭よすぎるんだ。とにかく。僕もだけどさ。



ホールデン語スイッチを何度解除してもいつの間にか戻っている感じが下の幾つかの文章から伺える。さて、
これを最後に僕はこの話をやめる。



 で、じゃあホールデン君と尾崎豊の何が違うかって話になると、まあ、それは例の本を読んで貰った方がいいんじゃないかな。でもね。これは自慢として是非とも言っておかなければならないんだけど、だいたいの見解において僕は春ちゃんと意見が一致してる。後付けじゃなくてね。いいかい、後付けじゃないんだよ。もうちょっと深いんだ。何がどうだってよくわかんないけど、とにかくさ。わかるだろう?わかんないんだったら、後付けってことでもいいさ。とにかく僕は、春ちゃんの言ってることが隅から隅まで理解できちゃったんだな。もちろん、僕のキャパシティの範囲内でってことなんだけど。色盲だからね、僕。




 もうホント省略が過ぎるな。初期の尾崎豊の何が格好悪いかって?社会を敵に回しているからさ。少なくとも、尾崎豊が『15の夜』や『卒業』なんていう作品の中に描いていた少年は、そういう傾向にあったんだと思うよ。そうそう、もしもあれが過去でなく現在進行形で語られていたのだとしたら、それほど格好悪いものはない。でも、今にして思えばそっちのほうがいいような気がするね。逆に新鮮で。
 もうお気づきの通り、僕は昨日の夜、『翻訳夜話2』とかいう本を読んじゃったんだな、クラスメイトの女の子が村上春樹のファンでさ。僕も春ちゃんの小説は随分と読んだし、柴田元幸と小沢健二が師弟みたいな関係にあったってことも知ってたから、興味があった。で、貸して貰っちゃったってわけ。もちろん前作も読んださ。その娘から借りてね。証拠が欲しいってんなら昔の文章を探ってみるといいよ。「うねり」とか「リズム」とか書いてある箇所を見つけられたら、間違いない、完璧に影響受けちゃってるってところだからね。
 あー疲れた。言い訳をしておくと別に何かに似せようとして書いたのではない。影響受けてるだけだ。
 いやーしかしね。村上春樹って頭いいね。頭よすぎるよ。最近では糸井重里にも同じ感想を持ったな。あいつらどうしてあんなに頭がいいんだ?どうしたらあれほど頭がよくなれるんだろう?はは。確かに。君の言うとおりだよ。僕らはまだ、若さを言い訳にしてられる。
 なんつーかな。あの『翻訳夜話2』とかいう本はね、難しいよ。それはもう。すごい売れてる本だと思うんだけど、きっと、あれを買って読んだ人の半分以上はあの本の内容の半分以上も理解できてないんじゃないかな。使ってる言葉が高級だし、「アパセティック」なんて言葉を直感的に理解できる日本人がどれだけいると思ってるんだろうね。そんな言葉を平気で使っちゃえるのって、たぶん春ちゃんぐらいだと思うな。思想的、というか、彼らの「読み方」なんてのも高級だね。低脳な奴らには理解できるはずがないよ。かくいう僕も、規模で言うと、そうだな。「リズム」は完璧に理解できてるつもりなんだけど、「うねり」を把握し切れてないというかな。うん。難しいんだ、とにかく。
 あとは、あの二人の会話って共通の理解の賜みたいなところがあるからね。『翻訳夜話2』を読むには、『キャッチャー』もしくは『ライ麦』はもちろんのこと、『ハックルベリー・フィンの冒険』や『グレート・ギャツビー』を読んだことがなきゃ話にならないし、カート・ヴォネガットだとかカポーティだとかポーだとかいろいろ、そういう人々のことについてもよくわかってないといけない。究極的なところに話を進めちゃうと、読者は、村上春樹と柴田元幸との間にある《最大公約数的な》情報量を少なくとも有していなければいけないってことだ。それってかなり、僕らみたいな「若者」にとっては、難しいことだと思うんだけどね。
 まーなんつうの、あいつら頭よすぎるって事だよ。モノについても、言葉についてもすげぇよく知ってるし。たまらないね。僕は春ちゃんが訳した『キャッチャー』とやらをまだ読んでないんだけど、(例の女の子からまた貸して貰うつもりなんだけどね)、ホールデンに対するフィービーの「you」を春ちゃんが「あなた」と訳したってのを読んだ時に、僕は本当にすごいと思ったね。そういうとこ、理解できてるかい?君は。
 頭よすぎるんだよね。
 とまあここまで僕は自分てば頭いいんだぞアピールを続けてきたけど、ダメなのかな。もっと巧妙にやれたらいいんだ。ばれないように。
 でもだって実際思っているわけだしね、僕は自分が頭いいって。だけど確実に、村上春樹とか糸井重里とかの頭良さ加減には歯も立たないって事も承知してる。ジレンマだよね。泣き出したくなる。だからやっぱり、せいぜい努力して、勉強をして、研究家にでもなったらいいんだ。まあ、僕の辞書にそういった言葉を受容できるくらいのスペースがあったらって話だけどね。苛められるぜ、確実に。怠慢だとか、不真面目さだとかって古株がびっちり、脳味噌の中で蜘蛛の巣みたいに広がっている。



 ライ麦の読者層の本当の基盤となっているのは「無限に鋭敏で、精神的には孤独で、自分は才能があると思い込んでいる」人間だそうだ。そうなると僕なんてのはもう典型的に傾倒してしまう類だってこと。初期の尾崎豊ってのは相当格好悪いけど、ライ麦には魅力的なものが見える、そんな奴がいるのだとしたら、もう典型的にこういう類で。
 ところで僕は確かに、低脳な人間の醜悪な行動だけは絶対に許せない。アンテナってのがどうしても文学だとかそういうお洒落な方向に傾いてしまっているのだから、そういう、なんていうかな。低脳だとか醜悪だとかが滲み出てくる文章ってのはどうしても許せないものがある。
 そういう意味でこのWeb世界というのはどうにも居心地が悪いね。
 最近パソコンが調子悪くて。メモリが足りませんってさ。このページのデータもぶっ飛んだよ。何とか修復できたけど。これ以上続けてたら、でも、本当に跡形もなく消えっちまうんじゃないかってハラハラしてる。
 下の言葉は中学の時、同じクラスにいた洋楽狂いがよく口走ってたものだ。ジミヘンらしいが、よく知らない。本当かどうか。




「俺は進化し続ける。」




これが受け入れられないならオフで僕と付き合おうなどとは考えないことだ
実にそうだと思うんだけども
それだと友達は減りますね、まあ相思相愛主義だから良し。
そういえば今日はラーメンを6分の1おごってもらっちゃった。とても嬉しかった。
半ば強奪したと言ったほうが正直ではあるが。
クラスメイトが二人出演している芝居を見に行きました。
音楽は良かったです、音響とか選曲とかじゃなくて、音楽が。
僕は小説家になるよりも評論家向けらしいのですが
とりあえずここでは爪を隠します。脳あるタカヤは。






もうすぐ幸せが歩いてくるんだ
だからがんばる




つまりねえ見たことあったら絶対できないんだよ、確実に。




トリビアの泉が流行ってますよね
「へぇ~」って言いながら手をばたばたさせてる人をよく見かけます
あれ実は僕も結構やっちゃうんですよね
なんでかっていうと
僕トリビアの泉見たことないの




69ってライ麦のパクリだな
海辺のカフカも
ライ麦のパクリだ



現在、村上春樹を批判できる人はいないらしい。
どの会社とも繋がりを持っているから
叩く場がない
ってさ。


come on everybody, ninety nine, in the hearts






3日経ったら罪が消えるような世界で




噛み殺される
神コロさま




疾風のようにザブングルザブングル
ここは血の果て流されて 俺
今日もさすらい涙も枯れる
ブルーゲイル涙はらってブルーゲイルきらめく力
海をめざして翼をひらく鋼の機体野心を乗せて
風か嵐か青い閃光
疾風のようにザブングルザブングル疾風のようにザブングルザブングル



雪が溶けて僕たちは春を知る同じことただ繰り返す喋る笑う恋をする僕たちはさよならする
いやしかし授業が面白いよ。特に文学研究の方法と日本文学史と日本文学基礎講読と近代文学と映画と文学Ⅰと英語理解と、中国文学演習もまあ面白いかな。ああ教育学もまあまあ。教育臨床論もそこそこ。
すごい出てる授業のほとんどだ。
日本文法以外全部だ。
日本文法も嫌いじゃないんだけどねえ。
カメラトークが三周目に突入だ。


 これらは全て僕の私見なので先入観にしてほしくないんですが、
 さて彼らは外に情報が漏れるのを極度に嫌がるのでここに概略を記す。そういう予防的なカタコンベ信仰は好きではないから。閉鎖的な地下運動だけで世の中を変えようとするのも微妙な話。
 ある日早稲田大学の7号館の前に座って読書か物思いに耽っていると突然さえない兄ちゃんに声をかけられた。サークルの勧誘だった。ウッカリして電話番号なんか交換しちゃって、後期始まったばっかりのその頃は僕も暇だったし誰も相手してくれなくて寂しかったから、何か新しい刺激求めて心は彷徨い続けてた。それで先週の金曜日初めて部室に行って。部室っていってもなんかビルの一室を借り切ってて。音楽とか流して。ご飯とか出してくれてVIP待遇だったわけなんですが気になったことはみんな一様なしゃべり方をすること。みんな「いい人」で気持ちが悪い。今ではまあそれもある一つの幸福の形として完成に近いものだと思うんだけど。
 サークルの説明を簡単に受けて、どうも講義を受けるのが中心らしい。その時は神のかの字も出てこなかった。でもなんか宗教・哲学と科学を融合させて考えてみようって考え方は昔から自分の中にもあったから面白そうで、特に暇だからほんのちょっと迷った挙げ句その日の夜から二日間の合宿に入りました。この二日間の合宿が終わると六日間の本合宿があるらしい。もちろん僕は六日間もやってられるわけがないから行かないけど。茨城県土浦市というところに連れて行かれてファースト・イニシエーションを受けました。
 教化。洗脳。洗礼。儀式。通過儀礼。
 それからのスケジュール。金曜の夜。オリエンテーション。神という言葉を初めて耳にする。就寝。土曜。八時起床。ラジオ体操。インディアン相撲大会。朝ご飯。聖歌。講義。聖歌。講義。お祈り。啓発ソング。昼ご飯。サッカー。お風呂。聖歌。講義。聖歌。講義。お祈り。啓発ソング。夜ご飯。思想てんこ盛りの出し物大会。説得のためのお喋りタイム。就寝。日曜。八時起床。ラジオ体操。あっち向いてホイ大会。啓発ソング。朝ご飯。聖歌。講義。聖歌。講義。ゲーム大会。お喋りタイム。聖歌。講義。お祈り。お喋りタイム。夜ご飯。でも食べなかった。朝までお喋りタイム。帰る。電話かける。就寝。
 ちなみに東大とか慶応とかからも学生が来てるし、千葉とか埼玉とか新潟とかからも人が来ている。
 レクリエーション系の活動が多かったけどとても苦痛。全てが思想にくるまれている。
 その思想というのは宗教を科学的に分析して第一原因たる神の本質に迫ろうというものだった。で、世界の本質や宇宙の真理を説明してくれるんだけど、とても頭が悪い彼らはよくわからないことを言う。言いたいことはわかる。個人主義を廃絶し素敵な人間関係を築き世界平和を実現させましょうということだ。彼らは共産主義を否定していたがこれは精神的な共産主義だと僕は思う。今の世の中には完全に逆行している。
 ちなみに講義形式をとっているのにも理由があると思う。なぜ文章化しないのか。と色々な先輩に質問をしても言葉を濁されて終わる。とったノートと歌集はあとで回収される。要するに外に情報が漏れるのが嫌なわけだ。それに、文章化すると理論の穴が露骨に見えてしまうようになるし、教化するときには膨大な情報量を与えて混乱させて、洗礼していくうちに都合の良いところだけを残して疑問点を削ぎ落としていくというのが丁度良い。曖昧なまま次のステップに進めば、心に残るのは結論の部分だけになるし、自分で考えていくうちに自分なりな形に少しずつ変えていくことになるから、心にフィットしやすくなる。受け入れられやすくなる。よく考えられていると思う。
 理論のおかしなところを一部だけ紹介。僕にはおかしなところが多すぎて疑問点と突っ込みだけでB罫30枚のノートを二日で埋めた。
 まず宗教を科学的に分析すると言っておきながらキリスト教の神しか取り上げていない。聖歌歌ったりアーメンとか言ってみたりするのもおかしい。たまに他の宗教が出てくると例えば仏教とキリスト教はもともと同じものだったとか言い出す。その理由というのがサタン=魔だから。で、その根拠というのが「魔」という字の中に神様とエデンの園と完成されたアダムとイブを象徴する生命の木と善悪を知る木と鬼と化した蛇が描かれているから。頭悪い。旧約聖書の中にエジプト苦役が予言されているとか言う。当たり前だ旧約聖書が成立したのはバビロン補囚のあとだし十戒自体が出エジプトの際にモーセが賜ったんだし。ここで例えば「旧約聖書が具体化したのは後世になってからだが始めから予定はされていてその全てを神が操作していた(つまり原初からシナリオだけはあった)」とか言えばいいのに。言うと科学的じゃなくなっちゃうから言えないらしい。その一言があれば納得できるのに。ていうかまず聖書を単なる歴史的な書物と定義づけながらも聖書を論の拠り所とする根性がわからない。ペテロの人生を話している途中でユダのエピソードを挿入する。ペテロのエピソードとして。おかしい。言い間違えではない。知識の取り違えなら最低。駆け込み訴えを読め。アブラハムは三歳の雌牛と三歳の雌やぎと三歳の雄羊と山ばとと家ばとのひなを捧げたのに「3」という神聖な数字にこじつけたいがために「三つの捧げ物をした」と表現する。そしてそう考える過程は説明しない。ペテンじゃないかと思う。
 まあ例えばそんな感じの論理の穴が目立つ。言い訳は一貫して「二日間しかないから圧縮して説明している」だそうで。それにしたってちょっと雑すぎる。雑なのは論理だけじゃない。何の説明もなく財布と携帯を没収される。外界との交信を断つためと逃げ出せなくするためであろう。何か言い訳でもすればいいのに何も言わない。余計怪しさが増す。僕は途中でそれに気づいた。一応言えば出してきてくれるから、電話をかけようとしたら凄い勢いで止められる。我慢できなくてそれから自分で携帯は持ち続けていた。だいたいプライバシーの面から考えてもどうしてもおかしい。本人の目の前で鍵のかかる金庫の中にでも入れてその鍵を本人に持たせる、くらいしないと絶対にダメなのに。頭悪い。さすがは個人主義の廃絶を理念として掲げているだけはある。
 ちなみに論理の穴は僕が気づいただけでも数百個あって、いちいち質問してもいられないし、もともと質問は禁止されている。講義のペースを狂わされたくないからだそうだ。講義の時間以外でも、講師さんは次の講義の準備が忙しいから質問もできない。何か疑問点があれば先輩たちに聞くことができるが、誰もちゃんとした答えをくれない。「作品と作家の関係がどうして神と被造物との関係に結びつくんですか」という質問をしても、「六日間の本合宿に行けばわかるかもしれないよ」とか「それは頭だけで考えるんじゃなくて心でとらえなくちゃ」とか言われる。おいおい科学的に分析するんじゃないのかよ。誰に聞いてもこの二つしか言わない。具体的に教えてくれ。本当は誰も理解してないんじゃないか。結果的に自分たちが幸せで、真の愛とやらを理解したから、もう理論なんかどうでもいいんじゃないか。「最終的には全て理解するんだからとにかく洗脳しちゃえばいい」とか思ってるんじゃないか。結局は心の問題に行き着くわけだし。要するにこれは単なる自己啓発セミナーか、そうでなければ日本人が忌み嫌う宗教の「くさみ」を現代科学への信頼によって中和させてねじ伏せて納得させる、言ってみれば新型宗教、彼らは「21世紀型の新しい理念」だと言っているが、それを言うなら「21世紀型の新しい宗教」だろう。まあそこまで新しいものだとも思えないが。科学的であれなんであれ神の存在を信じているわけなんだから宗教とはどう違うのか説明して欲しいところだよ。
 で、そこまではいいんだ馬鹿だなあって思うから。でも彼らの凄いのはその強引さ。僕は六日間の本合宿なんて行きたくないのに朝まで説得されて、つまり夜に帰れるはずだったのに朝まで家に帰れなくて、しかも自分たちがちょっといい人なのをいいことに泣き落としをしたり僕の弱い心を突いてきたり。「このままじゃ尾崎くんは誰も信じられなくなっちゃうよ」とか「いい教師にはなれない」みたいなことを優しくオブラートに包まれた形で持ち出してくる。違う僕は文学がしたいんだ。あなた方のように一つの理想に一直線に、寄り道もせず既に敷かれたレールを他の人間にも無理矢理歩ませて。そこに発展はないんだ。一つの理想に向かっていくということはそこに達したらどうなるんだ。ただ幸せになっていくだけなんじゃないのか。発展性が見られないのなら嫌だ。
 「尾崎くんは本当に純粋な人だと思うしちゃんと物事を考える力を持っているんだから六日間の合宿に来たらきっともっともっと人間が大きくなって高まって深まっていくと思うよ」と、また同じことを繰り返す。違うじゃん。六日間の本合宿とやらに連れて行きたいだけじゃん。教化したいんでしょう。だいたい高まるとか深まるとか軽はずみに使うやつは本当は何も掴めちゃいないんだ。陶酔しているだけなんだ。それにそういうのは個人主義とは違うのかとも思う。
 そうやって僕を誉めてなんとか連れていこうとする。嫌なんだってば。新しい光は見たいけど、お前らなんかに見せてもらいたくはない。僕は僕の神様に言うんだ「見せてくれ」とか「連れてって」ってのは。
 なんてことを思ってるんだけど奴らが余りにも「いい人」なのと余りにもしつこいのとここで断ったら僕が悪い人間みたいな雰囲気が出てきてしまって、「断るわけにはいかない状況」、「ハイと言わざるを得ない状況」に追い込まれたので彼らの理論を完全に論破するためとか思って承諾してしまった。けど後から考えたらやっぱ行きたくない。本当に行きたくない。ああ。
 んで帰ってからのケアも凄い。二日間の合宿の翌日には僕だけのための歓迎会が開かれる。「行かざるを得ない」わけだ。僕だけのために祝日にみんな集まって歓迎会が催される。行かないわけにはいかないじゃないか。そして次の日も「一緒にお昼ご飯を食べよう」とか言われて呼び出される。んでその日の夜から合宿。要するに逃げられないようにしているわけだ。僕は行きたくないと思うあらゆる理由や実質的に失われるもの(授業やバイトなど)を挙げ、遂には捏造までして逃れようとしたけど最後には「いい人」オーラに屈してしまいそうになる。彼らはすごい。いい人のふりをして全てを自分らの都合の良いように仕向けようとする。例を挙げたらキリがないが、僕にはその魂胆が完璧にわかる。本当に彼らが僕のためを思って言ってくれているのだとは思うが、その中にやっぱり盲目的なところというか、僕の迷惑とか僕の気持ちとかは全く考慮に入れられていない。彼らには結果しか見えていないのだ。
 僕は合宿には行かないことにして、とりあえず彼らと連絡を断って、クラスメイトの女の子とずっとお喋りをして、「いかないで」って言われたからうん絶対に行かないことにして、強引に連れて行かれそうだったから連絡を断ってたのに、家にまで押し掛けてきて、バイトに行って帰ってきてもまだずっと待ってて、いやいい人なのはわかるよ、僕のことを考えてくれてるのもわかる。でも迷惑なんですよ。困るんです。僕がどれだけ弁舌の限りを尽くしても最後に出てくるのは「そのままじゃ君はダメになる」系の言葉!僕はそれに弱い。弱いんだけど、あなたらの姿勢はどうしても許せない、それを言っても、全て思っていることをぶちまけても、それでも僕を哀れむような眼で見て、「誰も信じられなくなっちゃうよ」とか「それは本当に生きてるんじゃないよ」とか「どうして君はそうやって何もかも独りで考えようとするんだい」とか言って、いやいや。あなたたちとは考えたくないんだ。クラスメイトの女の子といちゃいちゃしながら考えたいんだ。それが僕の行こうとする方向なんだ。そりゃあなたたちの言いたいこともわかるし、素晴らしいと思うし、結果的にいい人になっているから、尊敬はしているけど、でも僕がその境地に達するためにあなたたちは必要条件じゃない。他に何かある。ドラえもんを読んだり小沢健二を聴いたりしながらゆっくりと考えていきたい。わずか一週間ぽっちで洗脳されてたまるか。ていうか家まで来るな。門を叩くな。近所迷惑だ。
 優しい言葉をかけるな。いい人なのはわかるし、尊敬もしてるから。でも見えてないところがある。盲目的だ。
 現在の気持ちを考えずに将来ばかりを考えるからだ。全て結果しか見えていない。
 いい人なのはもうわかるから。
 尊敬してるから。
 でも僕には要らないから。
 家の前での話し合いも深夜に及びそうだったので僕は家に帰って鍵を閉めた。また戸がドンドンと鳴る。もう、ほら。僕に途轍もない罪悪感が生まれた。あんたらは本当にいい人だから、こうやってしたら、あなたたちの言葉で言えば「裏切った」ら、ひどく嫌な気持ちになる。それがあなたたちの手口だってこともわかる。意識しててもしてなくても、あなたたちの手口だってことくらいはわかる。
 僕はすぐにある人へ電話をかけて、適当な、言わなくてもいいような軽口を言って、すぐ切った。
 それが儀式。何事もなくて、パソコンを付けて、谷崎潤一郎の『秘密』について考え出す。とても冷静。本当は冷静なのに、メールやなんかではちょっと混乱してるふりなんかもしちゃって、あたたかい言葉を求めて。これじゃダメなのかな。
 ダメでもともと。だと思うけど。




キュートすぎる君だとかなんとか




宗教じゃないけど盲目的な奴らと宗教なんだけどよくものが見えてる奴らとでは
雲泥の差だろうな
そもそも僕はアマチュア啓発より宗教のほうが好きだ。



ウッカリしてお茶に砂糖入れたり
カッコつけてウラBTTBなんて聴いてみたり
大人じゃないよな子供じゃないよな
なんかしらんけど輝けるとき
誰かと恋をしたら損なときは胃痛いなあ




勝手に信じて、勝手に裏切られて
あんたが存在しもしないものを信じるから
僕は何もしなくてもあなたを裏切る結果になってしまうんだ
別に恋愛のことを言ってるんではない




心がこれ以上ないくらい傷ついているのでブラックタイダーの話でも見ようかな
お祝いも兼ねて!
いや第一話にするか
思い切って最終三話か
いや谷崎潤一郎の『秘密』を読んで(レポート書くか)




いやそんなことよりも絶対無敵ライジンオーのDVDが遂に出るってよ!
買えってことだろ!
DVDとLD両方持ってたらちょっと自慢できるな
するとでもビデオも買わないと、ああ!
まじ嬉しいっすねーどんくらい売れるんだろ
情報くれた友人に感謝です
そんな友達持ってるやついないだろー
「ライジンオーのDVDが遂に出ます!」なんてさ




結果なんかどうでもいい
河村隆一のジュリアが部屋の隅々まで這い蹲って行くわけで



そして僕は真夜中にSOPHIAの街を全開にして脳内の捨象活動に勤しみ続けたわけで
そうしていくしかなかったわけで
でも彼らが言うには僕の生き方はたぶん間違っているっていうわけでさ





「いけないの?」





いけないの。
どこにも。





考えるんじゃない、感じるんだ
ってのができないんだな、僕には。
それじゃいつまで経ってもダメなんだ。ちくしょう。



考えてみたら僕が尊敬してる人は美しい心を持っていると思う
心の美しい人が心の美しい人を志向するんだと思ってた、でも違う、たぶん。
心が美しくないものだからそれを誤魔化すために心の美しいものを志向する
贖罪にならないことくらいわかってる。だからこそ汚い。
僕は美しくない。『ドラえもん』はあんなにも美しいのに
『ドラえもん』を愛してるふりをすることで、心が美しいふりをしようとしてたんじゃないか
だから僕は本当にドラえもんを愛して
何もかもを愛して
そしてひとりの女性だけを特別に愛して。
今そんなことばかり考えてる
なぐさめてしまわずに

でも愛することだけが美しさを創るなんて
それにそれって
自分が美しくなりたいがために愛そうとするのだし
結局は自分勝手
だけどいけないの?




おすすめ料理みたいな言葉を軽蔑して
トルバドゥールを唱えたって仕方のないこと





僕は合宿という名の迷宮にバイトという名の風穴をぶち開けたことによって逃げ道を作った。
帰ってきたら僕は、全てをお仕舞いにしようと思っている。
僕にとって真理とは誰かに与えられることではなくて自分で見つけだして行きたいと思うし
それを手助けしてくれるのは、ドラえもんしかないって思っているから。


僕の望むものは与えられることではなく僕の望むものは奪い取ることなのだ。
精神的な共産世界に脳髄まで支配されてしまいそうになったとき
僕は岡林信康の歌を思い出そうと思う
それでも止められないのなら、たぶん僕は受け入れているんだと思う。それを。



バビディごときに負けるか!
僕が負けたいのは、FFFとかKOなんだから



正直な人だと思う。純粋、って言っちゃうとありふれているけど。



 だからさあ、大槻ケンヂなら「神様を信じる強さを僕に」タモリさんだったら「僕は思う この瞬間は続くと!いつまでも」。吉本ばななはラブリーとかのメロディをさ。感じられるってのは凄いと思うし、悔しいと思うんだよね。僕には何にもわからない。
 でもちょっとだけ掴めてきてる気がするんだよ。
 松本人志が「仔猫ちゃんたち」って言ったときに「僕そういうの大っ嫌い!」とか言ってたんだけど
 あいつめちゃくちゃかっこいいと思うよ。だからこそああいうことが嫌味なく言えちゃうんだよ。
 硬派だよ。ホントに。




友達の言っていたことがひどく心に残る。
「甘える」っていう行為は双方向的にはあり得ないから
甘えられていると甘えていくことができない。
優しさを持って接することが結果的に「甘やかし」という行為になるのなら
優しさは一方通行のままかえりみられない
それはキリスト教的な愛の形だからという人もいるかもしれない
でも、きっとこういうことだ
優しい人には辛いことなんか何もないんだって
辛い人はそう思っちゃうんだろうな。
辛がっている人は盲目だ。
自分に優しくしてくれる相手は神様だと思ってしまうんだ。
神様が、自分と同じように悩みを持っていて、
そして誰かにすがりつきたくて仕方がないんだってことを、わかってあげられない。




神様を信じる強さ。
やっとこの言葉までは辿り着いた。
ここからは何も、道しるべはない。

盲目なあいつらに屈服するつもりなんかないよ
天使たちのシーンという音楽を聴いて、
涙を捧げることすらできないような
そんな自分が嫌だってこと。




海原に乗り出そうかと思う。新しい愛。新しい灯り。心の中にある光。
美しさ。
でも「連れてって」なんて言わない。「見せてくれ」なんて言わない。お前らには。
もっと絶対的な説得力をもって迫ってくる芸術的価値を確実に付帯させた具体的なものであるはずだ。
夜中のコーヒーを濃いblackにしてとかそういう言葉。
強烈な音楽は、生の意味を知ったときに始めて本当に強烈な音楽になるのだと思う。
ただしそれを教えてくれるのはそういった音楽だとか、様々な色彩を持った、光だとか。
神様の存在を肯定するためには、「強さ」が必要なんだってこと。
神様を信じる強さ。
心はそこで安らぐのだろうか?
この「線路」を降りたら。
すべての時間が魔法みたいに見えるような、虹色の風景がそこにあるというのか。
例えば、サイケデリックでもいい。
魔法の中で、光の海に永遠を感じられるような、美しい日だって確信できるのだろうか。
優しさだけが心から溢れてくるような
そんな誰かがどこかに待ってて
僕の願いがカラフルに、あらゆる彩りで放たれるような
いつか心を震わせ、香水のような誘惑に
酔いしれて眠ることができるのか。
熱情とともに
敬虔な表情から本当の言葉を喋り出せるようになれるのか。
全てが宗教的で、敬虔で美しい。
しかし
神様を肯定するときにそれが慰めであってはいけない。
穴の空いた心を優しい言葉でふさぐより
僕はすべてと向かい合うため、ただ考えていくことだけを望む。
絶対的な神様にすべてを癒してもらうより、
ただただ静かに考える、そうして愛する人がいて、ただ考えていくことだけを幸せに思う。





下のたとえ話に関連して。ベジータは強すぎるから、強すぎるがゆえに、自分の強さの限界に気づくことができる。
頭の良すぎる人間は、頭が良すぎるから、良すぎるがゆえに、自分の頭脳の限界に気がつくことがあるのだろう。
悟空は限界を知らないし、
それよりも頭の良い人間は限界に気づいているほど暇ではない。
最強ではない、だが「強すぎる」人間にはどうしても、自分自身がその空間において、袋小路に陥っていることを知ることがある。
行き止まりの壁を目の当たりにして苦しむことがある。
それはバビディの術にかかっていくことで突破することができる。しかし
それはバビディの術にかかっていくことでしか突破することができないのであろうか。
僕は迷っている。
迷っているから、
眠り薬を吐き出してるんだ。





 僕はドラゴンボールという漫画が大好きだ。ドラゴンボールで一番好きなキャラはもちろんベジータだ。ブウと悟空との最終決戦で彼に涙を捧げない読者などいるものか。ドラゴンボールで最も男らしく人間味に溢れ、最高の生きざまを見せてくれるのは他ならぬベジータその人である。そして最も努力家だ。
 そして僕は一つのたとえ話を持ち出す。
 僕はこれから、バビディの術にかかろうかと思うのです。
 克つことができなければ、殺してほしいと願うのです。




なんか色々考えたけど思い出せない。ので書かない。ちょっと出掛けてきます。
冒険も夢見る情熱も夢見る
ゴールは遠いほどやる気になるよ

ホントのエナジーが動き出している



お子たちよ。







地下鉄のザジ。アルファベット26講。脳ミソを哲学する。引用句辞典の話。ガラスの仮面17巻。





 授業中に先生が投げかける質問に答えるのって勇気がいる。はきはきと答えすぎると反感を買うし小さく呟くのは「自分はこの質問の答えがわかっていますアピール」に見えてしまうのでダメ。頑張って答えてそれが間違ってでもいた日には目も当てられない。恥ずかしいことだ。でも自分が心の中で用意していた答えが当たっているのに他の人がそれを答えてしまったり先生自身が説明してしまったりすると損した気分になる。あああ今答えておけば自分はとても頭良いのですアピールができたのに。と。たぶんみんなこれと同じこと考えてるよね。考えてない人はプライドが高くて自己顕示欲も高くて頭の良過ぎる僕のような人間とは大きくかけ離れていると見られる。あ、あと僕には虚言癖がある。何でも大袈裟に話す。IQは50ほど上乗せして他人に話す。図々しくも言い訳を続ける。




 3限の「日本文学基礎講読」を終え、5限「近代文学と映画」への道すがら、デビリィ・アンド・デモニッシュかつエンジェラブルな彼女と少しだけお話をしていた。thanatosという単語を巡って。「死ぬということが生きるということを肯定する」というようなことを仰る。つまり死ぬことができるのは生きているからだという当たり前のこと。そういえば、いつか誰かが同じことを言っていた。僕だって考えたことがある。
 折しもその日の授業で二元論的な考え方について学んでいたのでぽやぽやと考える。
 あー実に当然のことだ。マイナスがなければプラスは存在しないということだ。至極当然。
 でも、ことにそれが「生と死」などということになると皮肉じみてくる。
 死にたいって言ってるやつは生きていることを確かめたいんだなんて理屈は、なんとなく反吐が出る。
 でもその通りかとも思う。
 どのみち、僕の歪んだ眼で見ると格好つけてるだけになっちゃうんだけど。どいつもこいつも。




薔薇憂鬱彦
俺みたいな馬藻異動期は
死んだらいいのさ
アングリな拳で
貫けピッコロの胃





本気と冗談の区別がつかない奴はダメだ
言う方も聞く方も。



んーやっぱり人間の容姿ってのは生まれつきなんだよね
多少なりとも遺伝による要因がそれを決定するのだとしたら
できるだけ配偶者は見目麗しう相手を選びたいものだ
なんてことを考えていると適齢期を逃す。確実に逃す。
老人になってからできた子どもは老人の遺伝子を受け継ぐので
老人づらの赤ん坊を愛さねばならぬ。



カラオケで唐突に「ガンバー体操歌おっか」とは何だ
危険な賭けだ



特にAMなんだけど、現代の深夜ラジオってのは何とも言えない一体感というか、共有感のようなものがある。
真夜中ってのは活動している人間が減って
音の絶対量も確実に少なくなっている
深夜放送以外に価値観の存在しない空間。
外はヌバタマの闇
視覚的には何らの変動もない独りきりの密室で
音だけが時間という概念の全てを握っているわけで
そういう空気。
孤独な空気。
閉鎖的な空間に一筋の刃、小さな穴が空いて
なんつうかもう、空気穴みたいに
そこだけが内部と外界を繋ぐ線というか
だからこそ
堅い絆であるわけで?

(帝国=もなか以外に価値観の存在しない空間)



んーやっぱり人間の容姿の善し悪しってのはどうしてもあるよなあ
生まれつきだから仕方ないって?
だけど人間の魅力というのはやはり獲得的なところが大きいんじゃないかな。
というわけで愛する人が不細工でもしょうがない。
しょうがないって。
うん。



んーやっぱり人間の脳味噌ってみんな同じにはできてないんだなあ。
それは生まれつきってのもあろうがもちろん獲得的なところが大きいんじゃないかな。
特に思考能力、記憶能力、言語能力。差は著しかろう。
どうしたらこのような差が生まれてしまうのか?
そういうことを追求しようとしすぎると、その人の子どもは不幸になってしまうのではないかと思う。
だから僕も忘れる。



「あんたの話オチがないのに長いのよ」とかいう曲がラジオから流れています
「君の話はレベル低すぎ だからナニ?やめてゲバゲバ」という曲を思い出します。
だけど君の好みと僕にしてみりゃよたっ話はバカにせずにはいられないよ。



○○さん
僕はあなたのためにがんばります
あなたのためだけに生きていきます
ああ
早くその日が来るといい
はやく
○○の中が
人の名前で埋まる日



うー○○さんのためにがんばりますなどという
言葉、心意気。
僕の場合だときっと
それは別に「○○さんを喜ばせるため」とか「○○さんを幸せにするため」とかいう
具体的な意味は全くなくて
まさに偶像というか
漠然と
抽象的に言っているだけのことであって
自分に頑張らせる理由を探していて行き着いた先が○○さん
要は自分が頑張るためのダシということで
別に○○さんがどうなるというわけでもない
○○さんのことを考えてあげてるわけでもない
それでも○○さんが喜んでくれるのならば
一石二鳥、悪人(あこうど)




僕のお嫁さんになる人は最低
絶対無敵ライジンオーと
ど根性ガエルと
飛べ!イサミだけは見ておかなければならない
あと宇宙船サジタリウスと未来少年コナンと
ママは小学4年生と

ごめん未来の奥さん
僕はいつの間にかあなたのことでなく
自分のことばかり考えていたよ



いやー実際薔薇憂鬱彦は(さよなら)



いやー実際内Pはいい芸人使ってるよ。
やっぱテレ朝だね。ナイナイナ。



いやー実際TVタックルはいい番組だよ。
政治を面白くしている唯一の番組。次に面白いのは国会中継か。

たけし「北朝鮮の、あの人たちの言ってることってさ、アレだな、すごい面白いんだ。日本人のほうが拳で頭殴られて文句言ってんだとしたらさ、あいつらは頭で拳を殴られたんだって主張してるようなもんなんだよな。」

あーたけしさんホント頭いい。どっかで使お。
日本は戦争を放棄しているが戦争は日本を放棄していないらしい。



いやー実際一番面白いのはダウンタウンだね
「ダウンタウン」の中には「own」という文字が二つもある。
久しぶりにガキの使い見たわー。
ネアンデルタール人はなんで絶滅したのですか松本さん教えてください





山田くんはある日、
自分が途方もない馬鹿だということに気づき、
自殺をした。



けして論理的ではないがある程度理論的ではある論理


ねえ

教えてよ
本当のこと
誰にも言わないから

君は世界で一番かわいい女の子なんだろう?



ああ俺恋しとらすわ
泣いてまうがね
セツノーナルでバレバレだて
会いてゃー!会いてゃーわ!
まじ頼むて夏の憧れ
おみゃーを探しとったんだがや

詞・曲:福山雅治
名古訳:ジャッキー3




アイツの彼女はデビリィ・アンド・デモニッシュ、かつエンジェラブル。
つい何日か前にやっとわかった。



学者の手によって九月と十月の境が決定されました。新学説は遠慮なく発表せい。



もう十月だということに今気がついた。そして、どこまでが九月の文章でどこからが十月の文章であるかもまったくわからなくなっている。どうしよう。こりゃあ日記でもなければ月記でもない。これはなんだ?でも徒然草とかってこういう風に成立した作品だったような気がする。ならいいや。






 夜。風邪気味だしやることいっぱいあるのに雨の中に呼び出されてノコノコと池袋まで自転車を駆ります。踊り明かし酒を喰らいキムチ鍋を囲まんが為。あー別にノコノコといっしょに池袋まで行ったわけではないです。んで指定された場所に着くと早稲田大学一年生の酔っぱらいがやってきて「ジャッキー!ジャッキー!」と叫ぶ。恥ずかしい奴だ。実にムダだ意味無い。東京大学来年五年生の方のお宅に入ると法政大学三年生の方と慶応大学二年生の方がいらっしゃった。後に物腰の非常に豊かな所帯のある紳士さまも合流いたします。恥ずかしい奴以外のみなさまとはわたくし初対面ではございましたが共通の敵=「恥ずかしい奴~実にムダだ意味無い~」を得ることによって即刻結束いたしました。酒を呑み肉を喰う。酒池肉林。そうこうしているうちに「恥ずかしい奴~実にムダだ意味無い~」が女の子にふられました。号泣しています。とてもみっともない。こうはなるまいと誰もが思う。僕は何だかカミーユ=ビダンに頬を撲たれたような心地して、「これが…若さか…」と何度か呟きます。池田秀一の声で。文体が丁寧なですます調を中心に散開を繰り広げているのは偶然です。いや必然。余り無様に大声を上げて号泣なさるものですからみんなで彼をいじめます。というか、その男がふられても仕方のないような愚行を繰り返しながらもそれに気づかずどう見ても必要に迫られているというのに我が赴くべきは頭蓋専門の療養所という普遍的真理を発想するためのウルトラミクロ脳細胞を欠片さえ持ち合わせてはいないような男ですので、理。僕が女の子だったら絶対に嫌だ。しかし何度説教しても意味がないことは明白であります。何故なら彼の頭の中では一般常識や相手の気持ちよりも自らへ与えられる精神的快楽の獲得を目的とした超自己中心的な恋心の方が圧倒的に優位にポジショニングしているからであります。さながら守備的なミッドフィルダー、ボランチ。いや違う。違うでござる。異なる。泣きじゃくっている彼を暖かくも冷ややかなまなこで見つめたくもないけど見つめながら決して快感の伴わない言葉責めを施します。僕は彼をふった女の子の写真を携帯のカメラで撮影して待ち受け画面に設定させていただきました。素敵。まあ今日だけよハニー。僕の蜜。その写真の萌える萌えない論争に勤しんでいるうちにだかどうだか定かにはわからず闇の中でございますがとにかく彼は眠りに落ちます。僕は彼らの書いた小説を読んだり夢の話をしたり聴かせて頂いたり。御高話を拝聴。日付けの変わるころ紳士はご帰宅なされます。そろそろ狙いの匂いが文体にぷんぷんしてきたのでやめ。
 いい加減夜中になってきた頃にお洒落な酒場に会場を移し様々の話。何処へ行ってもいちいち文学的な香り。機械的に振られ話を吐露し続ける彼に対して見たことも聞いたこともないおっさんが酔ってて。隣に座ってきて絡む。(分断される文章。)実にムダだ意味無い。おっさんが参加してくれたおかげで死ぬほど楽しかった。マスターもかなり当を得たことをぴしゃりと言ってくださる。亀の甲より年の功とはこれだ。まあ全体的に伝わりにくいけどめんどくさいから適当に書いています、というのが自分の文章力の無さに対するコンプレックスの現れであって常に言い訳続けているんだな君は、などと指摘されたいよ。さて帰ってちょっと寝てすぐ起きてみんな寝てるので寂しくなって帰宅。うおのめ文学賞。



今更だけど吉田拓郎の『人間なんて』は素晴らしい!
なんだか長渕みたいだ。
人間なんてやめてしまいたい
人間なんてララ~ラ~ララララ~ラ~
人間なんてララ~ラ~ララララ~ラ~



世の中の、無神論者と自称する人々は大抵、取り立てて何の論も有していないものじゃないか、と。
それが論なんだ。そうらしい。形骸化した言葉。これが言葉。
ニーチェを見ろ、ニーチェを。



ちいさな公園の、うす暗い明かりのしたで彼女は、僕の肩をまくらにしてまどろんでいた。
だんだんつめたくなっていく芝生のうえで、だんだん明るくなっていく空のことを、僕はだまっていた。
もうちょっとだけ、一緒にいたかった。



ちいさな公園の、うす暗い明かりのしたで彼女は、僕の肩をまくらにしてまどろんでいた。
だんだん明るくなっていく空のしたで、だんだんつめたくなっていく彼女のことを、僕はしらんぷりしてた。
もうちょっとだけ、一緒にいたかった。



当たり前だと思っていることをすっ飛ばして話すと誤解を生んでしまう。
死刑の是非を問う論争や軽率な文・理分けの定義に対して鳴らされる警鐘
堂々巡りに飽き飽きしたからあえて開き直った主張を振り翳す。
ところがその過程をすっ飛ばせば単なる傲慢と思われてしまうだろう。
あゝメビウスの輪の中から逃げ出せないままでいる人々の間では。

文字通り
逃げてるだけなんだけど。




とぷかぷ宮殿に陽は落ちて ドラスティックに目を回す
今日の帰りを待つだけの
色濃い憂鬱の風
野ざらし。




 なんかうるせえなと思って起きて、窓から地階を見下ろすと、おびただしい数の車。やがてそれらの多くが消防車やパトカーの類であることがわかる。最近地元の大曽根駅で人質立てこもり爆破事件(なんやようわからん)があったばかりなので、まあそういうこともあるか、と思う。それにしても事態は緊迫しているらしい。犯人らしき人は見えないけど、警官がいっぱいいるし、レスキュー隊のような格好をした人などはランチャー(?)を構えている。野次馬根性を丸出しにして寝ぼけ眼で降りていくと、なんかもう目の前で繰り広げられてる光景ってのが凄すぎて狂乱する。でも犯人がどこにいるのか、どんな事件なのか未だにわからない。怖いもの見たさに歩いてみる。通行禁止になっていないということは通っても良いということ、通っても良いということは安全だということだ。などと思ってずんずん歩いていくと眼前に犯人と人質らしき少年が飛び出す。…そうか!犯人が移動を続けている場合はたとえ規制が敷かれていない場所でも注意はせねばならんのだね。僕は一目散に警官のたくさんいるところに走って逃げた。婦人警官のお姉さんが僕をやさしく抱きしめてくれた。びびりながらも事件の行く末を見学していると、人質らしき少年が犯人の手をはじいた。なんて勇敢な少年だろうと感心する。犯人の手にしていた拳銃が地面に落ちる。地面に落ちた拳銃を少年が拾い、そのまま犯人の頭部にあてがって、発砲。すぐに少年のお父さんが飛び出してきて、少年の脳天を何度も何度も拳で打ち付ける。僕は婦人警官さんと電話番号を交換する。



ちょっと寂しがってただけなのに
酒入ってたのに
なんとなくなのに
流れ上進行の妨げになるかと判断しただけなのに
その時ばかりは僕やあの人が、ちゃらんぽらんな人種だということをあえて忘れて
舞い上がっちゃうのねガール
これも複数の人が胸に手を当てそうな文章ですがご心配なく。
あなたのことではないマイダーリン。スティーリーダン。ラジオからの。
あとで思い出したフリして悩ましげポーズ。
ちゅ~とはんぱやな~。



 後期の日本文学基礎講読は石原千秋氏です。これで氏の授業は週二回。というわけで『反転する漱石』と『漱石の記号学』と『大学受験のための小説講義』を借りて来ました。あと授業ですすめられた都市関連の本を何冊か。ところで早稲田青空古本市とかいう企画で漱石全集が2000円でした。これは買うべきな気がしますが、小説は全体の三分の一。決して漱石個人が太宰ほど大好きでない身分としては、残りの部分は確実に読まないでしょう。小説は殆ど文庫で持ってるし。ああでも随筆と評論は読みたいな。ああ買うかな。でも場所取るなあ。家に人が住めなくなってしまう。このままでは地球が寒くなって人が住めなくなってしまう。そういえば数ヶ月前に1000円で買った太宰全集が5500円でした。七色いんこが1500円でした。ロッキンオンジャパンが一冊300円で小沢特集が二冊あった。買おうかな。でも300円だったらどこにでも転がってるっつうの。大バーゲンと言っている割には安くない。バーゲンというのは売り出しのことであって安売りのことではないと見た。しかしそれでは「バーゲンセール」という言葉に疑念が湧く。売りだし売りだし。まあどうでもいいのだ。
 来週までに谷崎潤一郎『秘密』のレポートを書かねばならず3週間後には『秘密』の演習発表をせねばならぬ。ちなみに今日の五限「近代文学と映画」でも谷崎をやっており来週は『刺青』、そして再来週は『秘密』をやるそうです。今月は谷崎漬けというか『秘密』漬けというか。でも当面は明日の石原氏の授業でやる『金色夜叉』を読まねばならぬ。
 演習発表は梶井や乱歩の作品を合わせた7作品の中から好きなのを選んで研究(?)するのですが真っ先に『秘密』に飛びついたのはクラス一の変態小説書き。僕も絶対に谷崎にすると決めていたので不安を抱えながらも『秘密』を選択。二人で谷崎について変態的な視点から論じていると、あとから女の子が二人『秘密』に参加。かわいそうに。女の子二人が変態二人と『秘密』について語り合うなんて。ああでも女装して浅草を練り歩くのは男の仕事だ。憂鬱、でもないな。映画館には1000円で。
 ってかいきなりレポートはありえないよ。ああ。



まあ確かに「赤シヤツ」は押さえておくべきターム(学術専門用語)ではある。



あはーん うふーん あはっあはっ んふーん
あはーん うふーん あはっあはっ んふーん
とエンドレスに、ずーっと呟いてます。ちょうリズム良く。



どうでもいいけどヨーヨー=マとマ=クベが結婚したらもしかしたらマ=マ。



「尾崎向陽」の金色夜叉を朝までに読まねばならぬ。



ひどく僕好みの文章を書く人が発行しているメールマガジンで「超」を「ちょう」と表記してあるのを見て
青天の霹靂。
文体次第なんだけど、ああ!なんで今まで気づかなかったのか。
「ちょう」はいいです。ほれぼれします。



自慢話。風邪と熱と疲労と寝不足と二日酔いと生傷×3。そしていつもの傷心ぶった顔。
全部いっぺんに出てきて
同時に色々なところが痛む。
最近どうも他人に対して懐疑的になっている。
思春期ムード。






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