2003年11月の行い(Jacky)

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 僕、お医者さんになろか知らん。だってほら好きな女の子とか診察したいじゃん。むしろ他人にゃ診察させたくないっていうかね。



 最近もう当たり前のことばっかり言っているようだ。
 なんとかしなければ。
 僕もだんだん大人になり老けていくのだなあ。



 もうこんな愚な文章を書いて恥を増やすのもどうかと思ってるんだけど
 やめるのも怖いなあ
 保身的な奴。



 そういえば最近、僕は「言い訳」をよくするが、昔からずっと僕は「言い訳が大嫌い」と言い続けてきた。それは今でも変わらないわけで。ではなんで言い訳をするのか。それは自分を棚に上げているということだけではない。さすがにこればっかりは棚上げするのは男ではないし、嫌われそうだし、自分自身我慢ならん。
 そこで「自覚」うんぬんの話になるわけだけど、正々堂々と「これは言い訳だ!」「自分は今言い訳をしている」と自分でわかってて、さらに万人がそれとわかるように言い訳をするというのが言い訳するときの最低条件なのである。
 僕が嫌いなのは「さりげない言い訳」である。全然違うことを言ってるように聞こえるが、その実そのことによって「責任逃れ」をしていたり、「自分勝手に心を癒し」ていたりするのが、僕にとっては我慢ならん。さりげない言い訳ってのは最強に卑怯。愚劣で卑劣。
 例えば、

ごめんたとえ浮かばへん
こういうとこで自分のダメなとこが浮き彫りになって非常にへこむ

 ちなみにこの文章自体が「さりげない言い訳」になってるんじゃないかと言われれば、…ごめんなさい。そうかも。きっとそう。





 「ジャッキーさんは批判をする際に主観的な意見を織り交ぜて書くから批判者として限りなく卑怯だ」
 と、ある女の子から言われた。相変わらずなかなかの慧眼。
 実にその通りなんだよね、だって論理的にどうこうとか言うよりも先に、基本的に自分が気持ち悪いと思ったもの、気分を害せられたものに対して仕返しと戒めのつもりで悪口を言っているわけだからさ。まあ言い訳をしておこう。
 この言い訳は僕自身正しいとは思わないし、本心だなどと思われたくないが、思いついてしまったのだから書こう。
 客観というのは無数の主観が抽象された概念だと思われる。
 百人の主観が一つの客観を産み出すわけで。
 だから客観的に物事を書くナンテのは別に僕がしなくてもいいのだ。
 僕は自分の主観が客観の中に埋もれてしまわないようにしてるだけなのだ。
 つまり自分の主観を保護してるわけで。
 だいたい客観的に物事を書くなんてつまらないじゃないか。学者の方々はそのへん、うまいことやっている。
 でも主観的になりすぎるともっとつまらないので、できるだけオブラートに包むようにして、客観的っぽい地盤の中に主観的な意見を隠して、自身が批判されることから逃げようとする。それが「織り交ぜて書く」ことの「卑怯さ」に繋がるというわけ。



 『ピーター・パンとウェンディ』の冒頭場面に出てくる、
 Two is the beginning of the end.
 これを「どんなことだって二回くりかえせば、いきつく先が見えてくるものなのだ。」と訳した芹生一先生。
 私はあなたを尊敬します。
 他の人がみんな「二つはもののおわりのはじまりです」だとか「二歳はおとなになるはじめです」だとかやってたり、或いは完全にネグって訳さなかったりしている中で、ここまでやっちゃうってのはもう気持ちよいです。
 その前の、
 You always know after you are two.
 この文で年齢の話は決着がついているのであって、次のTwo is... というのはもっと普遍的なことを言って居るんだとわからねばならぬ。んだと思うな。たぶん。こういうのって村上春樹が「カーヴァーの言おうとしてることは僕が一番よくわかる」みたいなことを言ってるのと似てて。翻訳する側に最も要求される部分で、しかし一歩間違うと完全な誤訳になりかねない。もしその「愛」が単なる訳者の勘違いとかだったりしたら大変だ。

↑とか、まあこういうわかりにくい文章なんだけど、言い訳させて。だって、わかるように書こうと努めると、どうしてもこの数倍の長さになってしまって、疲れる。しかもあんまり気持ちの良い疲れではない。それではヲナニィとしての機能を果たせないわけで。だから僕は自分にだけわかるように書くわけで。お金もらえるとかだったらちょっとの親切心くらい出るんだろうけど、むしろ金払って見てもらうべき立場だからな。



 どうして僕はこんなにも人生を面白くしようと尽力しているんだろう。しかも小規模に。どうせならもっとドラスティックにやっちゃえばいいのに、小さなところからそういう作業をしていくっていうのは、やはり卑劣だな。結局は自慰に終わるわけですからねえ。
 ところで「自己満足」という意味で使うとき、「オナニー」「せんずり」「マスターベーション」「自慰」まあすぐに思いつくのはこのくらいなんだけど、いったいどれを採用したらいいんだ?どれもこれも余分なニュアンスが入ってきて僕は使いたくないんだけど、でも使わざるを得ないんだよね。まいったなあ。一番使いたくないのは「自己満足」なわけで、さらに不便。



 何年か前から半ば意識的に「読まなかった」小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』を久々に読み直しています。まあ何故読まないようにしていたかなんてのはだいたい見当つくと思うんですけど、まあそうも言ってられない。
 元来僕は小林よしのりの大ファンであるので、どうしても彼の言うことは贔屓目に見てしまう節がある。
 というわけで僕は今あえてこういう方針を打ち出した、

 「小林よしのりは天才であり彼の言うことは全て正しい」

 要するに思いっきり小林よしのりに感情移入して読んでみようということだが
 こんな信念を持ってゴーマニズム宣言を読むと気持ちいいったらない。
 もちろん、「今自分はこの信念を捏造した上で読んでいるのだ」という確固たる自覚は、まあ必要かな。

「才能と人間性は一致するものではない いかにわしが天才といえどもその人間性は“卑劣”この一言で言い尽くせるのだからだまされてはいけない 最近わしの漫画が面白すぎるもんだからわしをりっぱな人間と勘違いして近寄ってくる者が出始めたことは大いに憂慮すべき事態である」

 その通り!僕も空才(天まではいかない)だがちょう卑劣だ。
 だから僕をつおい人間だと勘違いしてはいけない。

「しかしわしはミスを恐れない ゴーマンに描いてみたからこそこーしてわかる真実が出てくるのだ この辺は正解があるはずだから正解を見つけるまでは行動しないという受験生的な気質がわしにないからやれることである わしはぶざまにミスをする天才じゃい おまえらはミスをおそれてカッコウよく立ちつくす単なるバカじゃい!」

 思えばちょうど二年前に高校で停学を喰らったのはこういうことだったのだ!
 というと言い過ぎかもしれないが、この言葉をすっごい曲解して自分に当てはめてみると、
 僕は間違ったことをたくさん言ったりしたりしているが、それは単に遠回りをしているだけであって、突き進んでいる先は途方もなく正しい。何かおかしな言動・行動を取ってしまったときなどは、あとで反省したりするのだ。うん。偉い。そして傲慢。

「語り言葉にしろ文章にしろよっぽど研ぎ澄ましてないとだれにもある差別心とかがポロリと入り込んじゃうものなんだ それを差別される当事者や国語力のある者は読み取ってしまう」

 ごめんなさい、そんなことばっかりな気がする。
 あんまり研ぎ澄ませてない。
 そのくせ他人の言葉に対しては国語力とやらを濫用して、耳をいつでも澄ましているのだ!

(引用は『ゴーマニズム宣言 差別論スペシャル』より)

 まあこんな感じで。いやあゴー宣は面白いなあ。
 なんて言うと、「あいつは危険だ」とか「洗脳されてる」とか「小林教の信者だ」とか「調子に乗ってる」とか思う人もいるかもな。
 特に「調子に乗ってる」だな、意味もなく。「背伸びしやがって」「かっこつけやがって」「考えてるふりすんな」
 とかね。いやだって僕は思ってたもん、小学校とか中学生とかの頃ね。
 教室で「おれゴーマニズム宣言読んでる」なんて恥ずかしくて言えないし、学校じゃ絶対読みたくない。
 けどまあ小学校の頃に読んですっごい衝撃受けたような気がするっすよ。
 一面的だが価値あることは確か。
 だって日本からゴーマニズム宣言とTVタックルがなくなったら
 知のない家庭ではどうやってそーゆー情報を仕入れたらいいのかと思うものね。
 マスコミってたいてい面白くない。



 わざとわかりにくく書いてるふりをして、「わかりやすく書くことができない」ことを隠蔽しようかってわけでね。



命の求婚よ
魂にさあ音を増やして。酒。花。花。花。花。花。花。花。花。花。




覇王樹を右腕に刺して
仙人掌を左腕に掲げて
戒めながら
白日昇天する
血だらけの指で愛撫をする

歯茎から滲み出た血に交じるザクトライオンのように

愛液に絡まった動脈
電流の走る指先
暴れる龍がガオーって
ぺたぺた音を立てて
ツール・ド・フランスに
朝焼けトワイライト



「渡なべ」でラーメンを食べた。たぶん「野だ」を意識した店名。


からたちぬ


サボテンの花が咲いたよ
白い白い花が咲いたよ
サボテンの棘は痛いよ
青い青い針の棘だよ
あの日に刺さった棘を抜かなきゃ
とりあえず未来はない



 今現在ここから10キロ離れたとある公園で、一人の女の子が酔っぱらっている。大学でサークルに所属する、ということは強制的に酔っぱらわねばならない状況が作り出されるということであって。「太陽の光は体にいいのよ。」とか言われてもこちとら困惑の様相を呈するわけであってね。


これはなあんてせいいしゅんん



松本大洋の戯曲らしきものを買った。まだ読んでない。



あー来週までに島崎藤村の『破水』を読まねば。
他に何百冊でも読むべき本はあるのだぞ。
よりによって『破水』とはどういうことだ。
大学の授業にあるまじき教材だぞ『破水』なぞ。



 星野智幸さんの文章は結構好きだけど、たまに「あなたはつきたての餅のような唇で笑って」とかあってちょっと困る。しかも単行本がなかなか手に入らない。ってか一冊も持ってない。なんとかしてけれ。
 あーでもつきたての餅っていうのはその後の「唇を貪り食べ」るという部分の伏線か。それにしても、…。


ミシェル・フーコー
春はなんか優しくて残酷。



   カルト宗教の勧誘活動について(注意!)
 最近、学生食堂、9号館カフェテリア、11号館ラウンジ等において、数名のグループが、主に一人で着席している学生に対して、親しげに声をかけ、様々な個人情報を聞き出し、しつこくカルト的な宗教活動へ勧誘するといった被害が多発しています。
 これらに共通するのは、初めは宗教には関係ないように振る舞いながら、だんだん親しくなり、最終的にはその宗教団体主催のセミナーや合宿に参加させるという手口です。
 このようなグループに声をかけられた場合は、
 絶対に個人情報(名前や電話番号など)を教えないこと!

 ↑こんな注意書きが、上智大学のキャンパス内にあちこち貼り巡らされていたわけで。
 やっぱカトリックの学校ともなるとこういうのが多いんだなーとね。
 早稲田にはこんなの一枚もないわけで。
 というわけで見事に引っかかっちゃったのよね。
 一人で着席してたら声かけられて。暇だったから個人情報売り渡して。
 何もかも好奇心が悪い。
 合宿にも連れて行かれましたよ。まあ弱い団体だったから魂までは取られませんでしたが(それでも半分逝ってた)
 だってやつらの【いい人具合】には参ってしまう。悪いやつなら唾吐いて帰ってくることもできたんだけど。
 そういう布教活動を【善行】と思い込んでやってるわけだからなあ…最強だ。
 まあみなさんも気を付けましょうね。ちなみに4000円だまし取られたまんまだ、ああ!取り返しに行こう。
 ミイラにならんようにせな。
 ただね、彼らも悪い人じゃないんですよ。全然。見えてないだけで。
 やっぱ違うものが見えてしまった人ってのは、普通のものが見えなくなるんだね。



ゴスロリの「ゴス」って「ゴート人」って意味だろう。



ゴシックって「ゴート人の」っていう意味なんだ。



 ずっと欲しかったガメラ
 真夜中の写真館で

頭の中で
絶望のはなあがあ
さあきいみいだあれえてえもーおおおおー
あーたらしーいー
なーにーかーがおれーのー

この曲が二つ下の女の子に通じなくて俄然ショック。



 ああ、いつか僕は『ピーター・パンとウェンディ』の新訳を出版したい。日本一の訳にする自信も(数十年後であれば)なくもない(だろうな)。しかし、問題はどこの出版社がいまさら『ピーター・パンとウェンディ』なんぞの新訳を出すか、ということである。この作品はファンタジーなので、村上春樹のいう「翻訳の賞味期限」なるものはかなり長いといっていい。しかも石井桃子さんが訳してたりしてるから始末が悪い。ライ麦の新訳が今まで出なかったのはもちろん翻訳権の問題もあるがやはり野崎孝の「名訳」があったからというのが大きく、今回の新訳だって「村上春樹だから」実現したわけである。つまり、すでに「名訳」の存在する作品の新訳を出す際に要求されるのは、訳者の実力と知名度だということである。
 要するに!僕が村上春樹くらいの実力と知名度を持たなければどだい無理な話ということであり、そのような実力と知名度を身に付けるのも、どだい無理な話ということであり。

 ここで僕の淡き光立つ俄夢は崩れ去ったかに見えた。

 しかしそんな僕に朗報!
 本日ブックオフにて『リアル鬼ごっこ』という小説を発見した。
 添え木氏(当サイト副管理人)に「へぼいから是非立ち読みせよ(絶対に買うな)と言われていたので手に取る。
 読む。
 ぶほー。こりゃなんだ確かに手ひどい。
 おもしろくなさすぎて店の中だというのに数分間笑いが収まらず。ひゃっひゃっひゃっひゃ。
 王様が佐藤て。
 ウシャシャシャシャシャシャ。
 西暦3000年て。
 ウシャシャシャシャシャシャ。

 しかも文章ちょう稚拙!意味がとれない!
 いや本当にすべてにおいて小学生レベル。
 これはすごい。
 いったい何百部くらい売れたのかしらん。

 え?

 今これが40~50万部くらい売れてんだって?

 …

 よし僕は小説家になります。
 そして100000万部を売り上げるほどの大作家になって『ピーター・パンとウェンディ』を翻訳します。
 『リアル鬼ごっこ』は、そんなすら与えてくれるほどの名著です。
 是非立ち読みしてください。(これ以上印税を与えないように。の意。)

 ところでこの40~50万部ってのは、まあよくわかりませんが、創価学会の会員数みたいなもんでしょう。
 つまりよくわかんないってことね。



 自分への解釈すらも流動的であるということですよ。
 どこまで喋ったらいいのかと思う。
 あ、もちろん「結果」→「過程」という読ませ方に問題がないわけじゃないですよ。大ありです。完全にそう読めるようにしてる(できてる)わけでもないし、言ってることの意味がより不明瞭になるだろうからね。けどそれもまあ、フワフワとしてていいじゃないですか。ふわふら。
 例えばこの文章を最初に読んだときに、何言ってんのかわかんないわけでしょう。それで下の文章を読んでいくとなんとなくわかってくるんだけど、わかりかけてきた頃には最初に読んだこの文章の内容なんて忘れちゃうのね。でも最初に戻って読み直すような労力は惜しまれるから、そのまんま、フワフワとしたまんまで終わっちゃう。まあそれでいいんだと思うよ。本質を読まれたら怖いしさ。分裂病のある症状の人ってのは、そういうのを隠したがるって言うし?



 要するに、「流動的な日記」を目指しているということです。(「現時点での」自己解釈によるとね)
 それによって「浮遊感」や「フワフワした感じ」が出てくるのなら、楽しいな。



 しかし僕の考え方というのは、島本和彦氏のいう「男」の定義からはだいぶ外れてしまっているんじゃないかと思う。だが「男」とは常に遠回りして、その回り道を通して「何か」を掴み取るものだと思う。『逆境ナイン』の主人公、不屈闘志という人は紛れもない「男」ではあるけれども、時には増長したり、女の誘惑に負けたり、男同士の勝負に「うしろめたさ」を背負って本気が出せなかったりする。しかし彼はそれらを克服していくことを通して、「本当の男とは何か」ということを確信していくのだ。僕はまだ「男のレベル3」くらいの人間なのであって、発展途上の身である。さて、これからどう転んでいくか。



 僕の日記って(まあWebサイト日記ってのはそうなっていることが多いんだけど)基本的に新しいのが上に来るから、普通に読んでると新しい日記を読んでからそれよりも古い日記を読むことになる。それは余りよくないんじゃないかと思われるかも知れないけど、「新しい」「古い」ということを考えてしまった時点でもう日記を同時代的に味わうことはできないわけだから、あえてそういうスタイルを一貫させている。
 現在の僕というのは過去にあった僕の総和なのであって、「結果」的存在である。
 つまり、僕の日記というのは決して物語ではないということだ。物語というのは普通、「過程」が先に提示されて、それから「結果」を導き出す。しかしこの日記を「上から下に読む」ということは、「結果を与えられてからその過程を知る」という仕組みであって、逆だ。
 それっていうのは結構楽しいもんだなって。ちょうど一年前くらい前、二元論についていっちょまえに考えてみようとしていた時期の日記を読み返していて思った。上から下に読む。現在から過去へ。結果から過程へ。そうか、このジャッキーという男がこの「結果」に辿り着いたのは、こういう「過程」が前提としてあったのか、という順序の楽しみ方。自分は全部わかっちゃってるもんだから、かなり楽しい。
 男の子と女の子の話がまず書いてあって、その前の日を見ると二元論の話がある。そうかなるほど、この男の子と女の子の話題は二元論とかいうものを想定して書かれたのかなとか思う。で、その二元論の話というのは過去に遡るにつれだんだんと原始的になっていって、最終的に(というか最初的に)「世の中には二種類の人間がいる。/俺と、/俺以外だ。」とか書いてあって、ああ、二元論云々っていう考え方をこの男がしようかと思いついた端緒っていうのはここにあるのかな、なんて思えたりする。
 最近の僕の書いてることも一年ぐらい後になったらそういう読み方ができるんだろうな。ここのところ、結構な速度で思想が更新されているから。僕はよく「言っていることがコロコロと変わる」などと批評される(し自分でもそう思う)が、それは「地盤」(例えば具体的な宗教や哲学など)が定まっていないために、いつもフラフラしているもので、思想の更新が著しいということだ。烈しい。だから過去の日記を先に読んだりしちゃうと、「現在の僕」は誤解されてしまうことになるだろう。
 「現在の僕」は過去の僕の総和ではあるけれども、だからといって性質を同じくするということはないのだ。

 ところで、「言っていることがコロコロと変わる」ということにも関連するんだけど。
 僕は伊吹三郎の「心に棚をつくれッ!!」という言葉を常に胸に抱いて生きている。
 漫画家の島本和彦氏曰く、これは「あえてそうであってはならないことを敵側のキャラクターにアンチテーゼとしてしゃべらせること」であるという。なるほど伊吹三郎はヒールである。ヒールが言えばいくらテーゼっぽく聞こえても本質的にはアンチテーゼでしかないわけだ。
 でもそういうことがわかっててあえて僕は、「心に棚をつく」る生き方を試みている。嫌われすぎない程度に。
 たとえば誰かが浮気をしていたとして、僕自身が浮気性だってことはこっちの棚に置いといて、浮気をしている人間を思いっきりなじる。
 「俺にはそんなこと言う資格なんて無いから…」なんて言ってたら、他人に説教の出来る人間はいなくなってしまう。自己中な奴がいなければ自己中な奴は自分の自己中に気がつけないのだ。
 僕が誰かに説教をしていて、「じゃあ、あんたはどうなのよ?」って言われたとしても涼しい顔をして「『それはそれ』!!『これはこれ』!!」と胸を張って言ってやる。というか、自分が「できてない」からこそ、他人が「できてない」ことに気が付けるのであって、それを自分が「できてない」から「言う資格がない」などといって他人に指摘することを憚るのは非建設的じゃない?
 「あんたが言っても説得力がないわ」なんて言われたって、言ってること自体は「いいこと」なのだとしたら、相手は僕の言っていることを受け容れるべきである。説得力がないからといってそれだけで他人の「正しい」意見を排斥していたらこれも非建設的。

 というように僕はこの自分勝手な生き方すらも正当化している。
 しかしもし他の人がこのような考えを持って生きていたら、たぶん僕はその人のことをとても嫌うでしょう。
 これこそが「心に棚をつくる」ということである。



 世の中はもう選挙ブームと言っていいよね。いつもこんなに盛り上がってたっけ?「たかだか」衆議院選挙で。テレ朝とフジとTBSと日テレとNHKとテレ東で9日の夜8時から10日の朝5時までの9時間の内に放送された選挙特番を全て合計するとなんと全部で40時間もあった。
 うーん。すごいなあ。色んなホームページなんかを見てても政治に関する話題を提供している高校生や大学生さんたちが多いし。日本という国は政治大国であるのだなあ。
 衆議院選挙って別に「たかだか」じゃないのかって一瞬でも思ってしまうほど。
 ちなみに僕は比例代表は新党さきがけ、選挙区では羽柴秀吉に投票しました。



僕をそっと包むような二人の恋はまるで積み重ねたハーモニー



『観光』。細野晴臣、中沢新一。ちくま文庫。1990。(※角川書店。1985。の改稿。)

 (P88)
細野 なるほど…今はね、意識しているしていないにかかわらず「もう時間がない」っていうのは、相当集合意識になってきていると思う。だから、言葉による誤解とかっていうのはもういいんじゃないかと思うんだ。「地蔵」って言うと「仏教」とか宗教的なものがまとわりついてるけど、それは、ほかに言葉がないんで言ってるにすぎないしね。わかる人は「なるほど」と思える時代になってきちゃってるはずなんですよ。例えば、糸井さんがアルバイト情報誌のCFでお地蔵さんを出したり、『萬流コピー塾』のマークを地蔵にしたりするのは、そんな共通した感覚の表現なんだと思う。


 この人たちの脳味噌はもう相当宗教的になっていて僕なんかにはついていけないところもあるんだけど、そんな中でもやっぱり僕にでもちゃんと理解できてるようなところもあって、興味深かったりする。
 文字を追うときに、必ずしも話し手の脳味噌の色を伺う必要はない。僕らは、《その文字》から美味しいところだけを盗み食いすればよくて、話し手が意識しているしていないにかかわらず自分の感じたことは全て利用していかないと勿体ないと思う。せっかく「自分はこう感じた」というのがあるのに、「でもこの人はこういう意味で言ってるわけじゃない」って思ってその考えを棄却してしまうのは、ばかげている。
 話し手側のバックグラウンドなんてどうでもよくて、話し手から与えられた文字列というのは《独立した意味》を持っていてもいいはずなのだから、そこに読み手の自分勝手な意味を見出したって別に構わない、もちろんいつでもそうあるべきではないんだけど、そういうことをしたほうが実になる場合だってあるわけだよ。そういうときは、そうしなきゃいけない。だって、時間がないんだから。


 (P95)
中沢 (省略)でも僕は基本的に山の民じゃなくて、降りて何かやる人間だと思ってるのね。行っちゃった人間ってのいうのはすごくうらやましいけど、僕にはできないのね。でもどちらにも務めがあると思う。
細野 あるね。
中沢 完全に山へ行っちゃってる人が時々里へ降りてきて音楽をやっていく、のではなくて、ほんとは里にいるはずなんだが、どういうわけか山へ入っちゃってて(笑)、スゴイものを見ちゃってこれを里に伝えるにはどうすればいいか、悩みはじめるんだよね。
細野 そうそう。
中沢 そのものになっちゃわない。「間(はざま)」なんだね。
細野 そう、「間」の務め。
中沢 確信はないし、迷ってるしね。むこう行っちゃうと楽だろうなと思うけどね。


 細野晴臣は「行っちゃうとおもしろい音楽はつくれない」とも言っている。個人的には、というより一般的見解としては、それでも細野さんは「行きすぎてる」とは思うんだけど、それでも完全に「行っちゃう」ことはない。どんなに辛くても「間」に居続けることを選ぶ。
 あんまり詳しくは言わないけど、この十行弱が僕にはとても共感というか、わかる気がした。
 完全に「行っちゃう」ことなしに、その「スゴイもの」の美味しいところだけを利用していくっていうスタンス。素敵。

 行っちゃう行っちゃわないの問題は置いといて、例えば手塚治虫の『火の鳥』なんかを考えてもらえるといいと思うんだけど、あれは完全に宗教なんだよね、モチーフ自体は。完全に仏教。でもその、宗教の泥臭さとか、胡散臭さみたいなものは一切表に出さないで、その美しさとか、物語的に、あるいは絵的に面白みの抽出できるエッセンスだけをうまく採り入れているからスゴイと思う。
 例えば輪廻転生の概念なんか完璧に宗教なんだけど、それが無ければ『火の鳥』という物語は全く成立しないわけだし、でもそこにいわゆる「宗教臭さ」はない。面白味のエッセンスだけを利用している。
 特に世界宗教の場合は、教義に物語的要素が多分に含まれるから面白いんだよね。旧約聖書なんていい例だと思う。ちなみに手塚治虫は旧約聖書をアニメ化したことでも知られている。彼は一方で『ブッダ』(仏教)を描きながら、一方で『聖書物語』(キリスト・ユダヤ教)を創っていたのだ。このような「宗教の物語的要素」を徹底して利用していく《貪欲さ》は、手塚治虫の創作活動における原動力の一つじゃないかと密かに思っている。
 利用していけるものは利用し尽くせ、特に聖書なんてのは世界中で共通して読まれる教養書だなんて考え方もあるくらいだから利用する価値は存分にある。もはや宗教的な世界観は僕らの中に内面化されてしまっているのだ。まあ、個人的にはそんなに聖書の肩なんか持ちたくはないんだけどね。でも例えば「ノアの箱船」とか「バベルの塔」とか、あるいは「神」の存在そのものだとか、創作の側として使い甲斐のあるネタが豊富に詰まっていることは誰もが認めるでしょう。
 僕らがガキの頃楽しんで泣きながら観た(または読んだ)『ドラえもん のび太の雲の王国』だって「ノア計画」の元ネタは聖書なわけで。でも誰があの作品を見てキリスト(あるいはユダヤ)教的だと感じるだろうか?感じる人がいるとしてもそれは一部の意地悪な批評家だけだと思う。芸術っていうのは、そういう力を持っている。

 あるいはラファエロやダヴィンチの絵。キリスト教の絵が多いんだけど、あれが宗教画だからって「胡散臭い」なんて思う人はいないでしょう?美しければいいんだ、大抵のものはそれで。
 太宰治の『駆け込み訴へ』だってそう。

 宗教の神秘性や物語的な要素っていうのは、喩え具体的な形でなくても、確実に芸術の中に取り込まれている。
 例えば文学研究をする際に、作者の《無意識》の中にあって《無意識的に》作品へ表出してくるような宗教的要素を探ってみるのも楽しいかも知れないななどと思う。国語国文学科生として。
 それは戸坂潤の思想を利用して作者の《無意識》の中にある道徳的観念を探ろうとする試みに似てるんじゃないかな。



 推理小説を最後からめくれるようなはずはない。傷のない別れなど、あるわきゃないし。
 あの娘のことは言えない。
 あの娘の影は見せない。

 「噂話だよ、そんな話は嘘さ」
 読み取れない意味を確かめられそうで。

 どんなに君の瞳が僕を疑っても、
 僕はこの瞳で嘘を吐く。



 帽子の頭文字から部屋番号を探し出してホテルの屋根を滑り降りた。シングルベッドで夢とお前抱いてた。It's a saturday, saturday night fever, もう戻れない。長い夜を追いかけていたいと思った。お前だけにこの愛を誓う。

 でもやっぱりそういうことをしていく中で、自分が本当に求めているものがなんなのかわかってくる。

 秘密結社、クー・クラックス・クラン。aiwo KKK e ta.o 愛をKKKへ。タカヤオザキ。
 太陽と埃の中でそういうことを考える。
 掴めないものばかり。

 このアナグラムが解かれてはまずいわけだが、そういう危険を冒している僕は成長しているといえるのかも。



 THANATOS氏から「ちゃげあすさいこー」というメールが来たので久々にスーパーベストIIというのを引っぱり出してきて聴いてみたら、うん。いいねちゃげあす。さいこー。
 ちなみに『Forest』という曲は誕生日プレゼントとして頂いたもので、彼女の作品の中でも相当好きな部類に入ります。ちょっとこのMIDIはバランスが妙かもしれないけど。
 プレゼントといえば、今日はサボテンをもらってしまいました。名前はもちろん「さくら」です。
 スヌーピーとウッドストックが「さくら」の傍らにほのぼのと座っております。
 クラスのスヌーピー少女(誕生日も『PEANUTS』と同じ)から頂いたのですよ。
 ここにスパイクがいないのは、恐らく僕にスパイクとしての役割を要求しているんだろうな。
 そうでなくても、話しかけちゃうんだろうけどさ。



 爺ちゃんの家に行くまでに坂道があり、坂道を降りたところに竹藪があった。昼でもおそがくて一人じゃ通れやせん。でも真ん中を突っ切れば、とっても便利。
 その日は山崎村のお祭りで、近所の人が集まって大ごちそう。早く行かねば、急がねば、僕の分のお寿司がなくなるぞ。度胸を決めて薄暗い竹藪に一歩、足を踏み入れた。
 こんな時に限って嫌な話思い出す。爺ちゃんがいつかこんなこと言っていた…
 「正之。ええか、あそこの竹藪にはナア、入っちゃあかんぞえ。あそこには昔から不思議な穴があってな。そこへ迷い込むと偉いことになるで。儂も小さい頃その穴の中に入り込んで、ほやー、おそがかったぞええ。」
 そんな話がぐるぐるぐる、頭を廻り、お寿司は諦めて遠回りしよう、そう決めて踵を返した瞬間、僕の目の前に穴があった。
 身体が固まって、動けない。これが世に言う金縛り。
 ぴきっ。
 意志とは別に身体だけ誘い込まれるように、穴の中へと入っていった。
 「真っ暗だ。洞窟みたいだナア…。いてっ、右足が、右足が、左足を踏んだ!」
 そのうちにだんだんと目が慣れてきて周りのものが少しずつ見えだした。
 「ギョッこれは骸骨だ。ウワッこれは刀だヒエッこれは鉄砲だっ」
 そんなこんなを見つけてるうちに怖さを忘れ、僕はずんずん奥の方へ進んでいった。
 急に何かにぶつかった、きっとここが行き止まり。
 よく見ると高く積まれた石垣だった。五段十段百段の石垣の上に、立派なお城が建っていた。はるかてっぺんに天守閣、「黒百合城」と書いてある。
 僕は石のスキマに、手をかけて、一段、一段慎重に登っていった。
 もうすぐ天守閣という時に一陣の突風が襲いかかってきた。
 ヒュー
 「負けるものかっ」
 ビュー!
 「負けるものか!」
 とうとう僕は、落っこちた。
 黒百合城が風車のようにまわって意識がなくなった。

 ※体験版はここで終わりです。続きを楽しみたいという方は、『あああがらがらどんどんどん』(山本正之)というCDを買いまくりましょう。(山本朝廷の布教につとめる模範的信者の図)
 ていうか『あああがらがらどんどんどん』を見つけた方は僕のために買っておいてください。小学校時代の僕を支えた超名盤。兄上、兄貴、兄さん、兄ちゃんの所有物なのでもう聞くことができなくて困っておるのです。
 さっき「信者」という言葉を使いましたが、山本正之のライヴに行くと「あーあーあーあーがらがらどんどんど~ん」という音楽に乗せて教祖にひれ伏し拝まなくてはなりません(最近はどうだか知らないけど昔は僕もひれ伏して拝まされたものである)。
 僕は小学校の頃からもしも「何か信じている宗教はありますか?」と聞かれたら「山本朝廷です」と答えることにしているのだが、そのような質問をされることは滅多にないのであんまり意味がない。


う う 運がいい あ あ あんたは
銀河無責任 銀河無責任 タイラーガー

打ち明けられない 言い出せない 飯田線のバラード




「大丈夫?息、白いよ。」

「…平気さ。」



kim i no it tsum okir is ugin omaeg am i no you nahen nakim ochid at ted ou nikan at teiku


 セクシーな女の人のセクシーな裸体は、書店やレンタルビデオ店に走れば容易に鑑賞することができる。しかしセクシーでない女の人のセクシーでない裸体(またはセクシーでない女の人のセクシーな裸体というのもあるかもしれない)を鑑賞することは簡単ではない。《それ》専門の書物やビデオもあるにはあるのであろうが、入手には多少の困難が予想される上、買ったり借りたりなどは恥ずかし過ぎるので実質的には不可能に近い。つまり、「セクシーでない女の人」の裸体は、セクシーな女の人のそれよりも希少であるということがいえる。
 「風俗」には、不細工な女性も多数存在し、そこでは客に裸体を晒すことが前提となっていることが多い。では「風俗」において「セクシーでない女の人」の裸体が垣間見られるのかと言えば、けしてそうではない。なぜならば、彼女らは「造られたセクシー」を纏っているからだ。「造られたセクシー」を纏うことにはある危険性が伴う。彼女らは(というより風俗店の経営者は)「ブスのくせにセクシーを気取る」ということに孕まれる問題点に全く気がついていない。もともとセクシーでない女性は「セクシー」を求めるべきではないのだ。「造られたセクシー」を纏うことによって彼女らはセクシーでないものだけに許された最大の魅力であるところの「ソボク」なるリーサル・ウェポンすら自ら破棄してしまうのである。
 まあなんというか僕はセクシーな女性よりもセクシーでない女性のほうが好きなのかも知れないということだ。セクシーな女性を欲するのならエロ本を買うか風俗に行けば良いのだ。見栄や自己満足のためだけにセクシーを求めるのは疲れるし無益だ。ブルフィンチの『中世騎士物語』にある「ガウェインの結婚」という話には、「醜い女は他人に奪われることがないから妻にするには良い」みたいなことが書かれている。何百年も、いやギリシア神話にまで遡れば何千年もの昔から「セクシー」とは争いの種であり、憎悪の母だった。なので僕は決して「セクシー」は求めない。けどやっぱかわいい女の子が好きだから「かわいさ」だけは追い求めさせてもらう。「セクシー」よりも花の恥じらいと、笑顔のゲンキ。恋もキスもセクシーも少し待って君と僕は。



ああ~だから~、さあ、グニュウ・ツールを♪(THE FLIPPER'S GUITAR『GUNIW TOOLS』)





 “イーハトーヴ研究所紀要第84号(2643年上半期)
   《言語、その神秘たるべきもの~ロマンスとしての「ごまっとう」~》より”



 我々は「ゴマットウ」という異形の記号が氾濫する巨細な情報の中に埋没しているのを見つけた。「ゴマットウ」というこの記号は、一体どのような意味を持つものなのであろうか。
 すべてはこの、たった一つの素朴過ぎた疑問符に端を発す…。

 三週間後。
 我々は子細なリサーチと入念な検証によって「ゴマットウ」が「後藤真希」という歴史的人物に関連する学術専門用語《テクニカル・ターム》であるという確証を得ることができた。(その経過については機密に関わるため、詳述を避ける。)
 「ゴマットウ」と「後藤真希」、両者にはどのような関係があるのであろうか。
 当研究所が世界に誇る最新鋭の言語互換システム【DSM-IV】を使用し、「ゴマットウ」「後藤真希」の音声的解析を試みた。
 コンピュータの弾き出した結果は以下のようである。

 「GOMATTOU」
 「GOTOUMAKI」


 両音声字列の関係性は世界最高水準のencycropedia【ICD-10】にも見出すことは出来ない。言語的な比較の見地からも分析を試みたが、多少の発音的類似性は見られるにせよ、それの意味するところの精確な把握は不可能であった。しかしその発声音的特徴から、20及び21世紀頃の「日本」という国で用いられていた「日本語」という言語に酷似しているということが明らかになった。
 そこで我々はひとつの試みとして、【DSM-IV】を使って「ゴマットウ」「後藤真希」の双方を当時「日本」において使用されていた汎用文字「ひらがな」へ変換した。
 そして本リサーチはここに風雲急を告げる。

 「ごまっとう」
 「ごとうまき」


 これによって我々は両者のうちに視覚的な類似性を確認することに成功したのだ。
 かくて仮説として、「ごまっとう」と「ごとうまき」との間にはアナグラムとしての相互関係があるのではないかと考える。

 共通する文字は「ご」、「ま」、「と」、「う」である。
 これは「後藤真希」という歴史的人物の姓が「ご」「と」「う」であることに何らかの関係があるだろう。
 しかし最も重要な問題は非共通項である「き」と「っ」の食い違い――不可解なノイズが何を意味するのかを明らかにすることである。
 両者がアナグラムの関係にあるのだとしたら、五つの文字は全てが共通していなければならない。

 リサーチによれば、「後藤真希」は通称「ゴマキ」と呼ばれることもあったという。「ゴマキ」を【DSM-IV】で「ひらがな」に変換すると、

 「ごまき」

 となる。
 「ご」、「ま」に加え、「き」の文字を我々はそこに見る、そしてこれは勿論偶然ではない。
 ここで「後藤真希」と「ゴマキ」との関係を見てみることにしよう。例によって「ひらがな」を用いる。

 「ごとうまき」
 「ごまき」


 「ごまき」は「ごとうまき」のうち「とう」の抜け落ちた形になっている。両者の語義が同一であることと、20~21世紀の日本における言語風俗の傾向から考えれば、「ごまき」は「ごとうまき」の短縮形、つまり、より素早く簡便に発音を行うために変化させられた形であるとするのが適当であろう。

 三つの言葉を「ごまっとう」を中心として並び替えた表を提示する。

 ごまっとう
 ごまきとう
 ごまき


 表から、「き」と「っ」の関係《だけ》がノイズになる。裏を返せば、この謎を解きさえすれば、「ゴマットウ」という言葉の本質へ近づくことができるはずである。
 関連する語句、「ごまき」と「ごとうまき」とに共通して「き」が見られることから、「ごまっとう」の「っ」とは本来「き」であるべきものだったのではないかと考えることも可能だ。
 だとすれば…何故そうなってしまったのか。
 残念ながら、「ゴマットウ」という文字を当該資料(2321年1月発行のもの)以外の文献等に見ることはできなかったので、検証の術は無きに等しい。非建設的な仮説と虚ろな空想だけが我々に許されたたったひとつの「術」なのかもしれない…

 数百年の《伝言ゲーム》がその表記を間違って伝えてしまったのだろうか。

 あるいは「音便化」と呼ばれる「日本語」に特有の現象が生じたのかもしれない。

 やや思考を飛躍させると、「っ」とは「う」という文字の「点」が何らかの理由によって消失した(または省略された)形であると考えることもできるが、それでは「き」の存在意味が不明瞭になってしまう。それに、「ごまうとう」という言葉が実在したか否かすら定かではないのだから、余りにも説得力に欠けた説である。

 リサーチは、ここで完全に行き詰まったかのように思われた…

 しかし【ICD-10】は、僅かな希望の光を我々に与えてくれたのである。その「確からしさ」は横に置いたとしても。
 「後藤真希」という歴史的人物の血縁に「ユウキ」と呼ばれる同じく歴史的な人物がある。こちらは不完全ながらもかなり詳細な自伝が遺されており、現代でも彼についてかなり多くの情報を得ることが可能になっている。「ユウキ」は「EE-JUMP」という音楽ユニットに在籍し芸能活動をしており、その短かった時代には、彼自身の音楽活動の中でも最大のヒット曲とされる『おっととっと夏だぜ!』という曲があった。

 「おっととっとなつだぜ×」(ひらがな変換不能記号含)

 なんと、「っ」という文字が曲名の中に二度も用いられているのだ!さらに「歌詞カード」と呼ばれる紙片には「っ」という文字が数十度にわたり印字されていることが確認された。このことが何を意味するのか今をもっては甚だ不明なところであるが、これは勿論偶然などではなく、何らかの繋がりがあることは自明である。詳細な研究については、後の研究を待つこととしたい。

                                文章博士 トルーマン・カポーティ二世







ここで。
僕の今まで喋ってきたことをすべて忘れてください。




個人言語がどうのとか言っていたけど、
「誤用」と言われてしまえばおしまいだね。

  近頃は「全然」が肯定文に用いられたり
  「確信犯的」という言葉が従来とは違う新しい意味で使われていたりする

そういう風潮に対して「美しい日本語」がどうのとか言って
保守的立場をとったり、またそういう立場を擁護するような人たちがいる。
《何らかの理由で》「変化」を受け容れることができない人々。

さて。そういう人々が使っている「誤用」という言葉の意味とは?



やるせない女心の未練にむせび泣く状況をフリッパーズ・ギターが歌ったりはしない。by柴田元幸(’91.11)
(「やるせない」という言葉が近年「歌の中でさえも」使われなくなっているらしいことに対して。)

 91年11月というと解散直前ですわね。
 さほど有名ではなかった、というよりどちらかといえばマイナーな部類に属していたフリッパーズ・ギターを何故ここで引き合いに出すのか。それは同時代的なコンテクストの中でかの二人組がどのように表象されていたかということを知る手がかりになるのではないか。
 略。
 そう、フリッパーズ・ギターは「現代」ことに「90年代」を象徴する存在だったわけである!
 しかし本当はただ単純にフリッパーズ・ギターという二人組の東大出てるほうが柴田元幸の教え子だったからなのだ!
 どっちにしろ乱暴な論だ!




いいんだ別に。どうしようもない。すべてシャットアウト。
気持ちいいこと何だってして、忘れたいです。何もかも。
好きなら好き、嫌いなら嫌いで。無視すればいいだけの話。
ティセラ。
香りが続くシャンプーっていい感じ。



 はぁ。何とか三年までにドイツ語終わらせたいっす。はぁ。はぁ。ふぅ。ひー。



 もうちょっと僕もユルユルのことがしたい。僕には「女子高生に中出ししたい」が口癖の友人がいるんだけど、ああ、あのくらいの境地に上り詰めたい。本当に羨ましい。たとえ思っていたとしてもなかなか言えたもんじゃない。いや真夜中に酒入っててとかでついつい口走ってしまうってのはまああり得ない話じゃないけども、口癖ってのは本当に尊敬に値。凄すぎる。僕にもそんくらいの度胸とか率直さがあればよいのになあ。手始めに何か。うう。無理です。だって僕普通の子だし。ふは。



 字面、という側面から、もう一つ。
 書物に親しんだり、誰かと話をしたりする際に重要なのは、「話し手の個人言語を把握する」ことである。「個人言語」という言葉はどっかの現代文参考書に書いてあって、便利だからよく使うんだけども、言葉を操るすべての人間は「個人言語」というものを持っている。
 具体的な言語の話から入れば、これも何かの参考書に書いてあったような気がするけど、日本人が思い描く「春」とイギリス人が思い描く「spring」とではまったくイメージが異なる。文化的背景が違うからだ。それと同じように、AくんとBくんとでは、その個人的体験が異なっているがゆえに、一つの言葉に対して抱くイメージというのは異なっているはずである。つまり、Aくんのイメージする「春」と、Bくんのイメージする「春」とでは、必ずどこかで食い違いが出てくる。
 そういう食い違いが、最も顕著な形として現れる言葉の一つに「宗教」がある。だから、宗教について僕が語るとき、聞き手の側と会話が食い違ってしまうことがよくあるのだ。
 あるいは、「殺気」という言葉もそうだった。僕は太宰治の魅力を「殺気」という言葉で表現したことがあるが、ある人には全く受け入れられなかった。その人は「殺気」という言葉を字面のまま、つまり「殺意」という意味でしか捉えらていなかったのかもしれない。太宰文学ではあまり殺人は起こらないから、「えっ、太宰の小説に殺気なんてあるの」と思ってしまうのではなかろうか。
 しかし僕の使う「殺気」という言葉は何も具体的な「人を殺そうとする意思」だけを意味するのではなく、例えばハングリーな精神であったり、無限に鋭敏な思春期の神経であったり、苦悩の果ての狂気であったり…そう、「狂気」という言葉が類義語として挙げられるかも知れぬ。
 そのような意味で僕は「殺気」という言葉を使うのであるが、その感性というのは万人に共通するものではない。「殺気」という言葉に対してそのような広範なイメージを持っているのは、むしろ僕だけなのかも知れないし、もしくは誰もが広範なイメージを抱いていて、しかしそれは千差万別、ひとりひとりほとんど異なったディテールを有しているのかも知れない。
 そういった話し手の「個人言語」、この人はこの言葉をどのようなニュアンスで使っているか、を把握することが大切だ。本を読むときに初めの何十ページかがどうしても退屈になりがちなのは、それが作者の「個人言語」を把握するための期間として消費されているからなのではないかと僕などは考える。友人や恋人とより深く長く付き合っていくためには、この「個人言語」の把握というものは欠かせない。しかも、「個人言語」は経験によってそのニュアンスが更新されていくものであるから、友人や恋人とは必ずコンスタントに対話を交わしていくことが要求されるだろう。そうでなくては、相手のことを本当に知ったことにはならないのである。たぶん。
 というわけでみなさん会話をしましょう、文章を書きましょう。あわよくば公開をして、全てをさらけ出してみてくだちゃい。


 read bitween the lines./行間を読む。
 小説家が実際に書くのは「文字」であるが、その文字列と文字列との間隙に何かしらの意味作用を潜ませること、すなわち「行間への書き込み」こそが小説家の本当の仕事である。そしてそれを補完すること、読みとることこそが読者の仕事であるわけで。
 僕はWebで日記や小説を公開している友人から「甘いんだよ。お前は見えてるものしか見えていない。行間を読め行間を」と言われたことが何度かある。つまり彼が言いたいのは「俺はあんなことを書いてはいるけど、本当に心で思っているのは違うことなんだ」ということだろう。
 彼は書き手として「行間を埋めた」気になっていて、それを発掘できない読者を「甘い」と言ってなじるわけだ。

 隠れん坊で最も優れた隠れ方というのは、「絶対に見つからない場所に隠れる」ことではなく、「いちばん最後に見つかるようなところに隠れる」、つまり「わかりにくいんだけど頑張れば見つけられるような場所に隠れる」ことである。でなければゲームが成立しない。

 「行間への書き込み」という仕事も、この隠れん坊と似たところがある。
 小説家の力量がどこで量られるのかというと、それは行間へ「わかりにくいんだけど頑張れば見つけられるようにして」意味を隠すこと、つまり読者に開かれた形として「行間」を提示することだ。
 しかしそのために重要なことは、読者をして「頑張らせしむ」だけの魅力ある言葉で小説を綴ることにある。そもそも面白くない小説の行間なんて、読んでもらえるわけがないのだ。日記然り。演劇然り。
 全ての芸術には行間があるが、それを読んでもらうにはある程度の魅力と面白味が必要なのである。
 「俺の文章の行間を読んでくれ」と読者に呼びかけるには、まずその「文章」が読むに足る、読み解くに値するだけの魅力を持っていなければならない。そしてその「行間」とやらをアプローチ可能な範囲内に隠していることが条件となる。
 要するに、つまらない上にただわかりにくいだけの文章を見せて、「さあ俺の本心を汲み取ってくれ」なんて言うのは、図々しいというかおこがましいというか、傲慢な作者である。さらにそれがわかってもらえないからといって読者に責任をなすりつけるなどということは言語道断だ。

 ここまで書いたことは、友人への進言でありながらも、自己に対する箴言でもある。僕が行間に意識的に(行間への書き込みが無意識的に行われることもままある)書き込もうとすることというのは、死ぬほどわかりにくいし、それがさまで面白い文章の中に隠せているというわけではない。だから僕は絶対に「僕のいわんとすることをわかってくれ!」なんて言わない。たぶん言ったこともない。もちろん時折は、「どうしてこんなに言ってるのにわかってくれないんだ!」などと嘆き叫ぶこともある。が、それは「言いたいことすら伝えられない自分の不甲斐なさ」に絶望しているのであって、「言いたいことも言えないこんな世の中じゃ、ポイズン」と失望しているのであって、何も読者の責任であるとは考えない。
 友人のために言っておくと、彼も別に読者に責任を押しつけているわけではないだろう。モチーフとして用いやすかったから彼の例を引き合いに出したわけで僕には彼をなじるつもりは特にないのだし。たぶん彼はいつも「行間を読め」などとほざいているわけではない。ではなぜそのようなことを僕に対して口にするのか。おそらく問題は、その「読者」が「僕」であったことにあるのではないかと思う。なぜならば僕は、彼の行間を読み解くだけの「可能性」を持っている数少ない人間だからなのだ。ふはははは。
 この何行かの「行間」に、ちょうわかりにくくてさして面白くもないメッセージを孕ませておるのだがね。それ故絶対に、わかってくれ、なんて言わないわけですよ。自分の力量くらいは把握しているのだから。



 僕らはロマンチック・ラブ・イデオロギーに毒され過ぎている。つまり、恋愛とセックスと結婚の三位一体性を至極当たり前のものとして認識している。だがそれは家制度に基づいた作られた道徳的観念に過ぎず、ただ近代社会に都合の良いように生きることを強いられているだけなのだ。
 というわけで僕はそのようなくだらないオブセッションに囚われず生きていかねばならぬ。手始めに、どうしよう。



長らくタブーとしていた言葉を吐きたいと思う。
もうどうでもいいや。



くそう誰だよドイツ語は単位取らなくても検定通ってれば卒業できるなんて言ったの
99%は本気で考えていただけに悲しくてやりきれない




↓すいません、真夜中のテンションで書いたもので行きすぎの感があります。
ホントはこんなこと微塵も考えておりません。
ゼロです。って、んなわけないね。
結構ホントに一神教とか、アニミズムとかそういうのを無視した論調に傾いている気がして
ちょともーもっと勉強せんとダメじゃないですか鷲。はあ。へこむっすよ。



実はまあ単純に、「お前らばっかり僕の知らない世界見てずるいぞ」ってことなんですが。

ホソノやオザワや田尾陽太さんが気づけてるんだから僕に気づけないはずないってことで。
まだまだ勉強をします。印度にも行きたい。チベットも。でも本当はあんまり行きたくない。ふ。
それにしてもこの下の文章は数々の誤解を産み出すであろうな。
一つ一つの宗教は恐らく、ほとんど完成されているものだと思うんですよ。
そういう宗教を僕は無条件で尊敬するし、解脱した人(仏教用語で失礼、悟った人ってこと)を羨ましくも思う。
でも、まあ僕の場合はね。宗教を中心に据えた説明をするので在れば、
芸術教を信奉してみようと思ったわけで。
ていうか宗教の定義すらも曖昧にしか捉えていない僕がこんなこというと誤解以前の問題ですわね。
中沢新一かレヴィ=ストロースくらい物事がわかるようになってからまた。


午前三時の結論:
やっぱ宗教ってのは才能のない人間がやること。芸術の向こうに光を見出せない奴等がすがりつくもの。

 心の中には「光」があって、それを求めるのは、宗教も芸術も同じことだ。
 例えば細野晴臣。
 彼は宗教を「利用」することに留め、あくまで音楽を媒介として「光」を見ようとした。
 小沢健二も「神様」などといった言葉を利用してはいたにしろ、それでも言葉と旋律の可能性を信じていた。
 少なくともある時期の小沢はそうだったと思う。(と、いうことにしといて。)
 彼らは「宗教」を媒介とすることなく「光」を見ることができたのだろうし、その存在を享受者に提示することもできた。
 彼らには才能があったのだ。
 しかし才能のない者はどうすればいいのだろうか。
 愚昧なる表現者は?鈍感な享受者は?
 また芸術を介しては日々の不安に打ち勝つことのできないすべての凡人らはどうしたらいいのか!
 そこはそれ、奴等は宗教に頼るしかないんですよ。
 あるいは一生を苦しんで生きるか。どっちか。

 僕は「宗教」を信じている。完全に信じ切っている。その向こう側にあるものを会得したいと真剣に思う。
 しかしそのためには何も「具体的なある宗教」の力を借りる必要はない。
 個々の宗教たちの業績というのは、「光」の存在を様々な仕方で立証してくれたことにあって、それ以上ではない。
 僕のヴェクトルは完全に芸術(もちろん、学問やセックスも含む)のほうへ向いている。
 僕にとって「人生をよりよく生きる」というのは、宗教家の引き合いに出すような意味での「享楽」や「安息」や「幸福」を求めることではない。
 そこには高級な芸術性が「確固たる意味」として存在していなくてはならないのだ。

 芸術的な(特に文学的な)感性に恵まれなかった人間は宗教をやればいい。
 日本で言ったら新興宗教が主な形になるだろう。(贔屓の宗教を直接叩きたくないので世界宗教はネグりますの意)
 しかし新興宗教というのはだいたいにおいて大乗仏教的な色彩を帯びているわけで。
 解脱者のお尻に金魚の糞みたくくっついてその恩恵に預かるみたいなね。
 そんな。
 芸術の場合は違う、芸術を志す者は芸術における「解脱者」の仕事を徹底的に利用しようとするのだ。
 僕ら国文学科の学生だって、ロラン・バルトやフロイトの力を借りて文学を読み解く。
 専門的な研究家も、先人達の築いた土台の上で新しい仕事を創ろうとする。
 それは単純に、創作する段においても同じことが言えるだろう。
 そういった点で文学を志す者は、他人の文学に接する際にも単なる「享受者」ではない。
 彼は「創造者」としても常にそこに存在しているのである。
 客体であり、同時に主体でもあるという二重性。これが文学を志す者にとって読書行為の醍醐味となる。
 「芸術」の醍醐味はここだ。貪欲な姿勢だ。

 僕は宗教を信じている。信じ切っている。
 その向こう側に人智を越えた「光」があるということも、よく知っている。
 しかしそれは神や仏やチンケな思想に支えられてのみ得られるものではないのだ。
 第一、そうして得られた「光」に創造性があるとは思えない。せいぜい自分が生きていく上で安楽になるということだけだろう。
 もっとね、文学的な、芸術的な「光」をね、見せてくれ、と思うわけですよ。連れてってくださいとね。
 したらいつか僕だって、そうした「光」を誰かに見せたり、誰かを連れていったりすることができるようになるかもしれない。
 もちろん、至極芸術的な形をもって。
 さて『観光』の続きを読もう。



僕が「ジャッキー」と名付けられたのは、勿論偶然ではない。

じゃっき【惹起】 事件・問題などをひきおこすこと。

ね。



 しかし弁護士の仕事というのはディベートに近い。
 自己の本心がどうあろうが、意志・主張を捏造し終始依頼人を弁護し続けねばならぬ。
 そういう意味で弁護士を英訳すると「ディベタリアン」となるのであろう。
 ところで新聞の投書というのは時折、嘔吐誘発剤の代替手段として用いることの可能なものがある。
 奴らには主観的な主張しかない。
 コンビニの前で飲み食いしている中学生を見て「場所をわきまえて欲しい」などと斬ってつらつらと愚痴を並べる40歳主婦。
 そこには「なぜコンビニの前で飲み食いすることが不道徳であるのか」という理由が明示されていない。
 気持ち悪い、最低。低脳な選考基準。だから右翼新聞は嫌なんだ。ニッポン万歳新聞は。フジテレビ新聞なぞ二度と取らぬわ。

 いろいろと、たまに中学生側の視点にも立ってみたりしていい人オーラを噴霧しておられますけども。
 根本的なところが抜けている。
 「ディベタリアン」に社会性が全く欠如していることは果たしてさまでに自明でありますか。
 常識というものはあなたの主観だけで生成してくれるものではないのですぞ、きっと。



毒樹の果実の理論。
あーれふ及びまいとれーやせいたいし(早大卒)のオフィシャルHPを見て、
「あ、かっこいい」って思ってしまうのは不健康ですか。
神秘さに憧れる年頃なんじゃないんですかねえ。

ところでじょうゆうさんはルックス良いので
おうむのイメージがなかりせばたぶん結構いい感じの団体になったんではないでしょうか
あーれふ。ビバ。ときめいて。
だって宗教やってる人ってルックスさえ良ければたいてい美しいよ。

やばい惚れそうだあーれふ。
神秘さに憧れる年頃なんだきっと。

なんちゅうの、これもう。ちょう神秘だて。
耳慣れず目慣れぬカタカナ・タームとか使われるとたまらんし
色彩的な統一性をもって迫ってくるこの何とも言えぬヴィジュアリティ溢るる質量感といい!
そういうお年頃。
ディスコミュニケーションに憧れる年頃なんだってば、ほんと。若いから。
神秘さに憧れる年頃なんじゃないかと思うよ。
ガキが必殺技大好きなのと同じで。
超断定的な逝ってる文章も割り切ってしまえば気持ちがいい。

戦略。



屋根裏から、路上の泥濘に檸檬を投げる。
D坂の殺人事件。



【what a cool we are! 名言集】

・加藤浩次名言集
  「お前は過保護の笑いに慣れすぎてる」

・明石家さんま名言集
  「もっと笑いに貪欲になれ」

《笑い》を他のものに置き換えても通用するようなヴァカリズム的箴言。



ベ ベジータ
カカロットのIQはいくつになった

8000以上だ



日記で術語を使うな、頭よく見せたいのか。
爪を隠せ、脳ある鷹や。
隠すもなにも、必死で見せようとしなきゃ、見えないってかね。
はぐらかしたいわけで。
フワフワとしていたいわけで。



努力の欠如が著しい。統合失調症の疑いアリ。ああ。我がidentityよ今いずこ。
schizophreniaだ恐るらく。
なんでかっていうと学校の授業で習ったり、そういう本を読んだりして
「まさか」
と思った訳なんですけどそういうのって単なる自意識過剰っていうんだよね。
でも過度の自意識過剰ってのはたぶんschizophreniaと呼ばれるわけで。
円環的構造
少なからずはschizoid。
エクレアってのは稲妻って意味で



↓こういうのって非常に虚しい。



IQ250でした。
天津飯並み。
クリリンは206でした。
ヤムチャは177
亀ちゃん139
…この数字きっと死ぬまで忘れないんだろうな



どうも、ジャッキーさんです。趣味は死ぬこと。



 本を読む際に。自己と書物との間に余程の「実力の差」か「信頼関係」の存しない場合、僕にとって最初の数十ページというのはいたく苦痛なものである。しかしその数十ページを越えると途端に面白くなってくるのは如何なることか知らん。今読んでいるレインとかやいう人の『ひき裂かれた自己』なる書籍も三十ページ読んだ段階で急激に内容がよくわかるようになった。読者は作者の「文章的世界観」(文体、使われている単語の微妙な個人的ニュアンス等を含む)に慣れるためにある種のモラトリアム的な猶予のネセシティが必要な訳である。というわけで文章を書く人は、最初の何十ページかをクダラナイックなどうでもいい話で埋め尽くすことをお勧めする。ところで、僕が三年間続けてきたこの日記も、いつの日かしたためられんとする明晰精緻で壮大かつ荘厳、システマチックにしてグレートリィにディグニティフルな至極の書物の序文にあたる初めの数十ページに過ぎないのだということを認知しておいて頂きたい。
 (人生と書物の間にはアレゴリックでアナロジカルなメタファー的暗喩が存在するということを踏まえた上で。)



 自己嫌悪と自己肯定は同じことである、という前提に立って。僕は自己を否定せんがため、自己嫌悪などという手ぬるい淡い快感に満足することはやめようと思う。



再三言ってることだけど、「詩作ごっこ」はうんざりだよ。
自分の吐き出したいことに、無駄な言葉付け加えて、排泄。
それが「詩」なのか。
ただ心で思っていればいいだけのことを、
わざわざわかりにくい暗号みたいにして表現するのが、「詩」なのか。
創作サークルの同人誌を見て想う。



 はっきりいって鷲ゃあ通俗的な精神ステイタスを背負いたくなどない。だからどんなにその宗教や思想が素晴らしいと感じたって、脳内に「画一的な何か」を与えられるのが、それだけで嫌なんだ。創価大学の体育館で『世界に一つだけの花』を大合唱していたが恐らくあの歌の中に何か創価学会的な解釈を滑り込ませておるのであろうなあ。
 世界に一つだけの花っていうのは本来たぶん、「一人一人が違う花を持つ」っていう意味だと思うんだけど、宗教ってのはふつう、「一人一人が同じ花を持つ」ことを理想とするわけで、つまり「世界に一つだけの花」=「創価学会という花」っていうことにならないとおかしいと思うんだね。さて彼らはどういう思いであの歌を歌っていたのか。
 鷲ゃあ他人と同じ花を持っていることに寛容な人間ではない。一つの芸術作品に対して、誰もが画一的な解釈をしなければならない、というのは、僕にとって耐えられるものではない。常に誰も飾らないような花を求める。細かい思想は抜きにして、僕の中では、「なんとなく」、そういうことになっている。


なんか今、ミョーに創価学会の歴史等についてちょっとした権威。
見るもの全てが創価学会に見える。
これは比喩でなく。


 真夜中に創価学会についてずーっとお話を聞いていました。
 ほー。やっぱ大手は違うね。こないだ僕を拉致していった団体は創価学会のパクリみたいなもんだな。でも大手には敵わないわけだな。あー創価学会最高。でも絶対入信しねえ。
 色々の面で偉いなと思うところはあるわけですよ。ホントかどうかわかんないけどたぶん本当なんだろうけど世界で1000万人創価学会員がいるわけでしょう。それってやっぱりエネルギーがあるからなんだよね。ナンミョウホウレンゲキョウ唱えてたら生命力がググンと高まるっていうのも説得力ない話ではないわけだし。尊敬はしますよ。
 トリニティアカデミーはたぶん創価学会系の企業なんだろうな。違ってたらごめんなさい。けどたぶん設立者は創価学会の人だ。
 ところで創価大学は略して「創大」というらしい。ソウダイ。ダイソー?違う。
 みなさんは「早大」のほうが歴史が古いから早稲田のほうが正統だと思うでしょう。でも考えてみたら早稲田大学は「ワセダイ」であって「ソウダイ」であろうはずがないんですよねえ。ああこりゃしまった。
 さて。創価学会を敵に回すということは日本人口の10人に1人を敵に回すということで。学校の先生なんかは結構意識的に創価学会のことを口にしないようにしていると思しい。ふは。おもろいね。
 あーでも振り返れば創価学会がいる、という言葉もあるように、なかなか凄まじいエネルギー体なんだよね。彼ら。

 さて何言いたいのかわかんなくなってきたぞ。

 まあおいらは創価学会なぞ入らぬ。
 ちなみに僕の友達で創価学会の人いたら色々お話聞かせて下さい。
 他の宗教でもオッケーです。
 ポスト中沢新一なんで、鷲。


 「おざわ」というのはそれを買ったお店の名前であって。


 愛車「おざわ」を駆って学校へ。向かう途中で新宿中央図書館で『七色いんこ』を読む。明日は文化の日なのでみんな手塚を読もう。読後、児童室の充実っぷりに驚嘆し、入口付近で某学術書の読解にあたっていると創価大学に通う友人から学校祭に来いというメールが届いたのでUターンして八王子へ。計、実に50キロを走る。幸いガス欠はなかった。

 山を登って、道に迷って、到着するや否や芝居を見せられる。その感想を『ドラえもん』ふうに表現するなら、「てんでようち」かつ「ていどひくい」。でもそれはそれとして割り切って見るとまあそれなりに面白かった。
 これで早稲田と上智と創価の芝居は見たことになるが、どれもこれも甚だつまらない。尤も早稲田や上智には多数の劇団があるようなので偶さか僕の観たのが外れだっただけかもしれないが。それにしたって程度が低すぎて泣けてくる。
 面白くない芝居をやってお金がもらえるなんて信じられない。面白くない芝居をつくってしまった、それは仕方ない。せっかく作ったのに上演しないわけにもいかない。そういう時はお金を払ってでも観てもらって、感想や批評を頂いて精進すべきじゃないですか、理想は。「カンパ制」と開き直っているのは、まだ潔い。せめて無料で公開したらいい。それが都合でできないのなら、つまらん芝居なんか作らなければいい。「うちは絶対に500円以上はとりません」と偉ぶっている学生劇団を目にしたことがあるが、それは「500円以上の価値がある芝居」をつくれるようになってから言って欲しいものだ。

 出版社が何百万もの赤字を出してまで「文芸誌」を刊行し続けるのはなんのためか。作家を失業させないためである。

 観劇というのは多くの場合、慈善事業である。演劇する人を「失業」させないために、たいていの場合その芝居に見合う以上の料金を「寄付」しなければならない。観劇をする人間の大部分が「演劇関係者」ないしは「演劇関係者の関係者」である以上、これはある種「相互扶助」的な色彩を持つ。
 僕は東京に来てから何十本か芝居を見たつもりだが(10本以上観れば僕の中でそれは「何十本」である)、「これでこの料金は安いだろ」と思ったのはシルバーシートヨコハイリーズ(フロム劇団インベーダーじじい)の“ラストシーンで巨大なちんこが舞台下からせり上がってくる芝居”だけであった。なんと500円。今度その劇団が1800円の芝居をやるが、前に観たものと同じかそれ以上のクオリティが約束されるなら、1800円でも十分に安い。
 アマチュアに毛が生えたようなふざけた劇団がちょっと人気出てきたからといって調子に乗って3000円だの4000円だのと取るのは暴挙に近いと思うが、それで客が集まるのだから、しょうがないよなあ。
 どんなへぼい芝居でも500円出して観る人がいる以上は、僕も文句言えないんだ、実は。需要があるのなら文句言えない。はは。そう、そうなのよ。観る奴がいるから、調子に乗るんだよ。阿呆劇団が。
 甘やかすからいけないのさ。
 でも芝居っていうのは実際観てみないと評価のしようがない。本やレコードなんかと違って立ち読みとか視聴ができるわけじゃないし。だから宝クジでも買うような気分でみんな500円玉をドブに捨てていくのよね。あとは、知り合いが出てるからとか。義理に近い形で。そうやって客を集めるわけなんだ。ここの芝居は面白いからっつって観に来る客は少ない。余程大手にならないといない。いたとしても僕に言わせたら単なるミーハー少女だったり、程度低い客が程度低い芝居に共鳴起こしてるだけだったりね。
 こういうのが結果的に甘やかすことになるわけで。つまんない芝居をやって、つまんない客を集めて、で、解散。あー楽しかった。で終わり。いいよな。青春だよな。おいらもやりたいよ。でも、へぼい芝居をやるくらいならやらないほうがましだ。演劇世界にゴミみたいなダミーが増えるだけじゃないか。絶対に御免。
 ちなみに演劇をやっている人、やろうとしている人は無理してでも観劇代は捻出しなければならない。おもしろかろうが、つまらなかろうが、勉強にはなるから。そこにつけ込んで高額な料金を請求することも、まあ可能。
 ここで言ってる「高い」とか「安い」っていうのは僕のクライテリアだから。そこに文句言われてもしらんですよ。

 まとめ。演劇が不当に高額な料金を「徴収」しているのは

①天然記念物である「演劇」を保護するため
②「授業料」として


 「500円だから」客が来るのかも知れない。お金を取るからこそ客が来るのかも知れない。無料だったら「あ、これきっとつまらないから無料なんだ」とか思われるかも知れない。でもさ。それ事実じゃん。



そっれっでっ♪



 あのね。「ドラえもんって最後どうなるの」ってな問い掛けは本当愚問だと思うんだよね、お前ら『草枕』を読んでいないのかと。お前らは過保護の漫画や小説に慣れすぎちまってンのさ。普遍性というものを認識する力がない。「初めから仕舞い迄」
 よくわからないのでもうやめます。どうせ前田愛



 かたつむりくれた人ありがとう。
 かたつむりじゃなくってもなんか「くれた」人みんなありがとう。
 メールしてくれた人も電話してくれた人もありがとう。
 今日という日に、僕に関してかけらでもなにか考えてくれた人ありがとう。
 いままで一度でも僕のことを思い出してくれたことがある人、ありがとう。
 誰にでもかならず、その人が生まれて来た日というのがあるんだってことを
 知っていてくれた人ありがとう。








ああ。

今日は僕の誕生日でした
全国から続々とバースデイ・プレゼントが届きました
その九割はかたつむりなわけですが



ジャッキーさんのかたつむり日記

午前11時ころ
 かたつむり三つ届く
  ・by A高に通う女子高生A
  ・by B高に通う女子高生B
  ・by 母校の化学科教員

午後2時ころ
 かたつむり三つ届く
  ・by 母校の後輩(男子)(おまけとしてCD-R添付)
  ・by C高に通う女子高生C(おまけとして世界一まずいジュース添付
  ・by 件の愛する先輩様

午後3時ころ
 かたつむり一つ届く
  ・by 京都在住の愛する先輩様

午後6時ころ
 かたつむり一つ届く(これだけなぜかフランス産)
  ・by X大学に通う女子大生X

午後7時ころ
 かたつむり一つ届く
  ・by 浪一点(男子、首謀)

同じく午後7時ころ
 羅漢果届く
  ・by Y大学に通う女子大生Y



かなり落ちにふさわしい…、かたつむりばかりで食傷気味の僕を最後の最後で救ってくれたとある女子大生さんありがとう


そう
別にかたつむりばかりではなかったわけで
こんなのも送られてきたわけで

うまい棒に埋もれる中国の貴重な秘果





中国の貴重な秘果

  羅 漢 果





中国の貴重な秘果 羅漢果





わーい。
なんだこれくえるのか。





さて最終的にこんな感じになりましたよ




かたつむりズ最終形態




さてこの後輩から送られてきましたCD-R
表紙がかたつむりですけど
中身はアクトレイザーのサントラです。


みんなありがとう。僕は本当に嬉しい。たぶん。



こうしている間にもかたつむりは続々と到着するわけで。
あとでみなさんにお礼状を書こう…
なんかここまでやられると本当泣きそうになりますよ




『あまいぞ!男吾』というマンガを読んでいたらこんなシーンが

「あたし、マドカ!か・ん・ざ・き・マ・ド・カ!
 円(えん)って書いて円(まどか)って読むのっ。」

…。
全然意識していなかったけどどうやら刷り込まれていたらしい…。


去年の様子

かてゃつむり

かとたもれ

ことともろ

きゃちゃちゅみゅりょ

かーたーつーもーる


あのな。
一言言っておくぞ。
お前らは喰ったことがないから
面白いネタだと思ってホクホクしてるかもしれんが
去年は三人がかりで死ぬ思いしてやっと平らげたんだ
天丼ならいいってもんじゃねえ!


《SNAILS ―natural―》





商品名:かたつむり缶詰

原材料:かたつむり、食塩

内容総量:425g

固形量:250g

原産地:インドネシア












かたちゅむり


×3


かたつむり



見たところ首謀者とおぼしき人間からは届いていない
しかも
「作戦参加者その12号の文字
てぇことは



まだまだ続々と届く勢い?




倍増。

とたてもろ





↓しかもなんだ、こりゃ正夢か



wormの夢を見た。
wormを食べる夢を見た。
最終的に虫さんの幼虫とかもばくばくと。



ところでねー
夕べはとても寂しかったよ。
寂しくて寂しくて。
電話をかけたのさ

「…プ、プ、プ、プー。午後、11時、59分、40秒をお知らせします、プ、プ、プ、プー。午後、11時、59分、50秒をお知らせします。プ、プ、プ、プー。」

おめでとう自分。

ガチャン。




 見ず知らずのおいらが生まれた日なんぞをだね、こんなに祝ってくれてありがとうです。感謝の念はたえないですよ。特に顔も知らないアット・ニフティスタッフ一同さん。わたしゃ幸せでごんす。にしても『あまいぞ!男吾』はおもしろいぞ。



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                               11月1日
 Dear ×× ××さん

           お誕生日おめでとうございます          


                       From アット・ニフティ
                            スタッフ一同

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日頃よりアット・ニフティをご利用いただきましてありがとうございます。

秋も深くなり、朝夕は肌寒さを感じるようになりました。
気温の差が激しいこの時期は、体調を崩してしまいがちですが、「食欲の秋」
だけにおいしいものをいっぱい食べて体力をつけ、頑張っていきましょう!

さて、今日は年に一度の×× ××様のお誕生日ですね!
感謝をこめて、スタッフ一同、心よりお祝い申し上げます。

       ★☆ Happy Birthday! ☆★






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