2001年5月後半の行い(Jacky)

 過去ログ  2001年5月前半  2001年5月後半  2001年6月前半  TOP
2001.5.31(木) 来月で4.6歳になります。

日本史Aと数学Bのテストではありました。
日本史は間違いなく平均以上・・・ 80点くらいはあるでしょうか。
数学Bは間違いなく平均以下・・・ っつーか赤点。2,3問しかわからんかった。
ま、テストと言えば早く終わるんですね、学校が。
残っていても仕方ないからみんな早く帰っちゃうんですけど、なんだか寂しいナリ。
2時間しかないと、しかも終わった後にみんなすぐ帰っちゃうから、誰とも顔を合わさない。
「あ~、今日はあの娘に会わなかったな・・・」
「あいつに言っとくことあったんだよな・・・」
「いや、誰か話し相手になってくれよ・・・」etc,etc...
なんとなく、顔を見ておきたい人というのはいるし、話したいことだってある。
けれども棟が違うなど、クラスが遠かったりして、ほとんど会うことがなかったりする。
我が心のオアシスと言うべき愛すべき友たちよ。
どことなく寂しいのだよ。誰のせいだそれはアレだ、ナツのセイ。

お弁当は難しいもんだ。今も昔も男も女も酒も泪も。
僕は基本的にみんなで喰うのは煩わしいと思っている。
どうしてもおもしろくない会話になりがちだから。
1人で喰ったり男女問わず大好きな人と喰ったりした方が良い。
去年は非常にウマの合う輩がいたので2人で弁当喰いながらネタ合戦をしていた。
今年は特にウマが合ったりネタがウマかったりする奴もいないのでピンで喰っちょる。
すると非常に早く喰い終わるので本読んだりどっかで遊んだりクラスで麻雀を見たりしちょる。
はっきり言ってね、男の子でも1人で喰っちょると体裁悪いもんだよ。
だが、楽だね。
自分よりおもしろい奴がいないんなら、自分といた方がおもしろい。(なんて理論だ)
僕は(黒宮くんにも言われたが)友人選抜型らしいので、要らぬ交際は避けているようだね。

さてさて男はさっぱり、女はどろどろ。
誰に聞いてもそう言うし、正しいと思う。
男ばっかりの政権が問題になっているがもしかしたらその方がよいのかも。
数々の婦人団体が良い例であるし、ご近所の噂を気にしすぎるやもしれぬ。

2001.5.30(水) 合唱コンクール略して合コン、じゃんじゃん歌って盛り上がれ。

最初に気休めを申そう。去年のクラスは僕の大好きなクラスだったが、初めのころ、女の子たちが一部の男の子の容姿などのことで悪口を言っているのを僕は聞いた。それはやっぱりあまりにも女の子たちのつながりが薄っぺらいものだったからじゃないかな、と思う。(無根拠)
慣れてきて、仲良くなってきたら(その中で集団できるのは仕方ないだろうし、2年生になると初めから仲良い奴等がいるのでなかなか難しいが)そんなのはなくなるかも知れない。容姿ってのは人間を計るときの最も簡単なものさしで、それ故話を合わせるには最も簡単なことで、しかも容姿というのはそれの善し悪しはとても判断がしやすく、それに意見の分裂も少ないでしょう。かっこわるい奴は誰が見てもかっこわるいし、その逆も言える。
要は、不安だからそういった話題をするんでしょうね。本質的な話題を見つけられないから、上っ面だけの、ひらべった~い会話になるわけだ。だからそのうちにうち解けて仲良くなっていったら、だんだんと本当の話が増えていくかもね。去年の僕のクラスみたいに。
と、ここまでが一応気休め。
しかし(特に女の子は、と聞く)、ことによると一年間ず~っとそんな状態が続くのかも知れない。現代の若者像を反映しているようだが、実際、そんなこともあると思う。ではそれをどう打破するかといったら、簡単に答えは出ないね。自分から動いてみろっていっても、仕方ないし。でも、やるべき事があるとすれば、極端な話たとえ献身的になってでも、自分からクラスの“間”を埋めていくことくらいかな。
僕はそんな努力をしていた奴を知っていて、ある意味少し尊敬する。

その不安・・・自分が人にどのように思われているか・・・というのは、誰もが思っていることです。僕だって常に考えていることです。(ただ僕の場合ある種の開き直りが見られるかも知れない)
不思議でもないし、悪い事でもない。人間誰しも思うこと。だが重要なのは明確な「自分」持って、その考えの中でも決して考えを曲げないことをひとつでもつくる。これは僕の考えでしかないけど、人が自分のことを好きになる時、その人はなるべく自分の本質を少なからず知っていなければいけない。例えば生活の中で本当の自分とは全く違う「仮の自分」をつくりあげたとして、その「仮の自分」が誰からも好かれる存在だったとしても、「仮の自分」が本当の自分とはかけ離れすぎたものであったなら、それほど虚しいことはない。自分の本質を好きにならない人を、自分が好きになることは、あまりないことだと僕は思っている。だから、ある程度譲れない「自分」を持って、さらけ出すことで、自分の好きな人たちを見つけられると思う。逆にそれをしなければ、一生ひとりぼっち。
自分を知った上で好きになってくれる人こそが友達とかって言えるんだと思うよ。
僕はばかなことばかり言っているけれど、それでも好きだと言ってくれる人がいるということは、本当に素晴らしいことだ。
相手がどう考えているかと言うことは重要なことだし、当たり前のことだけど、それでも譲れない何かをもって、半ば傲慢にでも、自分を出していく。もちろん悪いところをそのままさらけ出すのは良くない。悪いところがあれば、直すべき。(例えば他人を不快にさせることは悪いこと以外の何でもない・・・が、僕は嫌いな奴に嫌われたってかまうもんかというゴーマニストである)

本題。自分を信じなさい。(これほど難しいことはないので、できなければそれで仕方はない)
まず自分を客観的に見つめてみて、決定的に悪いところがあれば直そうと努力してみて、それで自分の思うところの「良い人間」にもしもなれたら、それを信じるべき。あなたがつくりあげた「あなた」はあなたの人格・感性の本質そのものなので、それを嫌う人がいれば、開き直ってしまってもいいくらいである。
なお、これはばかである僕の考え方でしかなく、数十億分の1の考え方でしかないので、ひとつ、「こんな考え方のばかもいるんだなぁ」と思って、聞き流すなり、莫迦にするなり、軽蔑するなり、メモをとるなりしてください。

2001.5.29(火) シュミーズ雅

テスト二日前ですが家での勉強時間0秒。これは驚異的ですねぇ。
いやはや僕は学校行くと元気になるくせに家に帰ると途端に心がしなびて来るんですな。

じゃあ今日はつれづれなるままに・・・
最初に言っておきますが今日のは読んでもなんの+にもならない超雑駄文です。
え? いつもそうじゃないかって・・・ それは言わない約束だよおっとさん。

僕はたくさんの人間に囲まれて生きていますね。
それは好きな人もいればあまり好きでもない人もいる。
現に、さっきまで僕の隣にいた尾崎家の三男坊は、人間の屑だと思っていて、好きではありません。
そして、大好きな人がいます。一期一会というのか、こいつらと会えただけでもこの高校に入って良かったとか、そこまで思えてしまう人間もいるんですなこれがまた。
ん~だがしかし。そいつらが何を思って生きているのか私は全く知らないわけだな。
誰だって本音を出すことはない、と我が後輩は言ったが、もしそうだとして、僕は奴等の本音をしらない。
じゃあ僕は何を見て彼ら彼女らを好きになったんでしょうねぇ。
恋に理由は伴わないとか、そういうことを言いますが・・・
また、母性愛など、理由を必要としない、いや、母子であることだけが理由であったりする。
例えば趣味が合うから好きだとかそういう理由だと考えてみよう。
これはなんだか気持ち悪くなる。相手が実は殺人鬼で既に3,4人殺しているかもしれない。
ドラえもんが好きなら好きなのか、と。そんなことはないが、そんなことがあったら、嫌かもしれない。
だが確かにそれは「好き」の一要素として数えられる。
同じものに興味を持つということは自分と似た性質を持っているわけです。つまり種の近似をそこに見るわけですね。
僕は怖くて虫を殺せないんだけど、人によってはいとも簡単に動物を殺してしまうんだよね。
なんでかな?って考えてみる。動物だから、とか、喋らないから、とか、賢くないから、とかじゃなくて、形が違うからじゃないかな。
例えば、言葉を喋って2足歩行する賢いブタと言葉を喋れなくて4足歩行するパーな人間だったら、どっちが殺しやすい?
断然、ブタのほうを選ぶんじゃない?「気持ち悪いから殺せない」ってのはあると思うけど、同じ姿をしていたらそれだけで、生理的に、本能的に、いろいろ的に、全身によって拒否するんじゃないかな。気持ち悪さでいったらどっちも変わらないしさ。
まぁ世の中には殺人鬼と呼ばれる人間がいて、そんなの簡単にぶっ殺せちゃう人だってたっくさんいるだろうけど。
どうして同種ではより簡単に深く愛することができるのだろう。では人間が犬を愛するのはどういうわけなんだろう。
僕にはわからないので、誰か専門家に任せよう。そんなわけで、人間は他人に自己の近似を求めるんだろうね。
だからといって納得は出来ない。僕はどうしてみんなのことが好きなんだろう?
趣味が合うっていうのは話題がつくりやすくて、互いが通じ合っているのを確かめるのに適当かもね。でも、それがなんだろう。いわれている言葉を使うなら、人間はもっと根底の、深層の中身で評価されるべきだ。
心底で思っていることが素晴らしくて、そこに惚れる。これは正しい「好き」と言えるのかな・・・そう仮定してみようか。
でも、人間が本音を出すことがない(つまり「本音」というのは存在し得ない)としたら、人間は「本音」のつくり出した建前の具象に惚れ込むわけで、僕はみんなのつくったみんなの具象に惚れたわけで・・・
みんながみんなクリエイター。みんながみんなをつくってる。なんだかフシギダネコリャ。
ここまで言ってしまうとね、全てが虚しく思えてくるよ。人間社会をつくるのは人間。その人間もまたつくられたものなんだってね。

 きみはきみというヒントを受け取り
 きみはきみをつくりあげた
 きみはぼくをみて笑顔を見せるけれど
 ぼくがほおをひっぱたいたら笑顔はブッ飛んだ
 けどそのしたにはぼくの思っていたようなモノはなくって
 すこしゆがんだ笑顔があったよ
 ぼくはじぶんのほおをひっぱたいてみた
 なんにもかわったりやしなかったってさ

僕のつくった僕ってのは同時にみんながつくりあげたわけよ。最初に僕に「ぼく」というヒントをくれたのはお父さんやお母さんでしょう。それから僕は色々なヒントをもらったんだと思うよ。みんなから。君からもね。
僕が昔と変わったとか、そういうことがあったら、新しいヒントが今までと全く違うものだったって事だね。
僕はキミタチが大好きなり。
でもみんなは僕のことが好きかい?こんなおかしなことを言う僕をだよ?
もし僕の好きな人たちが僕に向かって一斉に「嫌いだっ」って叫んだらさ。
僕は消えるかな。だってそこにいる価値がないってことだよ。
いやいや前向きに考えよう。嫌われることが必ずしもマイナスか?・・・マイナスだねぇ、少なくともこの場合。
だって好きな人がみんな嫌いって言うんだもの。
だけど、ごめん僕はさっきからみんなのことスキスキ言ってるけど君の何が好きかって言われたら答えられませんよ。
どうして好きかっていわれたら困るよ。きっとみんなもそうだと思う。
だから何か虚しくなるんだ。世の中は世の中のつくった決まりと、感情だけで動くじゃない。
真理なんてないんだ、たまたま今の世の中がこういう風だからこういう決まりがあって、それに従って僕らは動いているけれど、違う世の中だったら、決まりってのは全然違って、価値観も違って、真理と呼ばれるべきものは揺れ動く。
感情には理由がないです、たまたま「痛い=悲しい=泣く」っていう決まり(例外もたくさん)があるってだけで、それをあらかじめ決められちゃってるもんだから嬉しかったり悲しかったりするんでございますよ。
それはとても不安定で、不安になるんです。
僕にはあなたが何を考えているのかわからないから。
たとえば君はいつのまにか僕のことを嫌いになったかも知れないよね。
そうなんだそれがいつだって有り得るんだ。感情には理由がなくって不安定だからさ。
不幸はいつも自分の知らないところで大きくなって、ある時突然姿を見せるっていうよ。
僕がのほほんと暮らしてる間に、誰かが僕のことを好きになって(くれてると願いたいね)、嫌いになっていくじゃないか。
僕の周りでは常に僕に関する感情がぐるぐるぐるぐるまわってて。
で、僕は知らないわけだね、それを。当たり前だなぁ。
好きな人と対峙して話していても、その感情はわからないね。
好きな人が僕のことを好きかどうかわからないもの。それは不安だよ。
かといってそれを確かめる術もないからどうしようもない。堂々巡りでブーちゃんだね。
う~ん、一時間もかけてうだうだとしゃべくったもんだ。

一番悲しいのは、日記を書きながらそれが自分の本音かそうでないのかわからなくなってしまうことだ。
それと、言いたいことが溢れて溢れて、結局何も言えてなかったりすることだ。
僕はまた虚しくなって、眠って、何もかも辞めてしまいたいと思ってしまう。い・け・な・い ルージュマジック。

2001.5.28(月) アメ間寛平

家での勉強時間0秒。
予想はしていたがまさかここまでダメヨダメダメダメ人間になろうとは・・・
もうなんだか最近妄想ばかりで困っちゃう。
学校休学してどっか知らないところで農業でもやって暮らすとかなんかそういうこと。
今の生活から抜け出したいね。なんら不満があるというわけではないが。
どことなく、なんとなく・・・
ゆらやらとしている。どこかへ姿をくらませてしまいたい願望。
とにかく今のままのリズムではなんとなく嫌だな。
どうしようもないけどこんなことを思う。いよいよアホでしょうか。

本日、なんだか人を傷つけたような気がしてどうしても気分が優れない。
こういう時いちばんへこむ。好きでもない人を傷つけるのは別に気にならないと思うが・・・(ひでぇ)
自分が傷ついてるわけでもないから泣くに泣けず。
ただ眠るだけという。
睡眠時間8時間。頑張ったよ私は。

2001.5.27(日) サルティンポンコ

後ろ向きな日記ほど読むに耐えないものはない。
実際、僕は何度となく嫌な気持ちを得ている。
書く方はすっきりするかもしれないが読み手のことを考えると余りよろしくない。
しかし他に何を書けと言うんだろう! 今の僕に?

後ろ向きな日記を読みたい人っているんでしょうか。いるならいくらでも書きますが。

2001.5.26(土) 男のファッションは、ラーメンズノンノ  「特集:片桐ヘアーのつくりかた」

あなたほど素敵なひとはいません。
どうして逝ってしまったんでしょうか。
一度でいいからお話ししてみたかった。
尊敬という言葉はあなたのためにあるんだなあと思っている今日このごろ。
もし死ねばあなたに会えるのならば僕は頑張って生きます。
精一杯生きて、死んで、そしてあなたに初めて会ったとき、あなたが褒めてくれるような、そんな生き方がしたい。
それから、あなたと思いっきりお話ししてみたい。たぶん素敵な物語なんだろう。
もしかすると僕らに大事な話なんだよ。だって海は夕日にもえてまだ話している。ザブリンザバリンシューシィーオーシャン。
なにもかもあなたに教わりました。
僕の学校の成績が芳しいのも、あなたが素晴らしい知識と論理を与えてくれたおかげです。
僕はあなたみたいになりたい。あなたの人生全てにあやかりたい。せめてあなたの足下には及びたい。
だけど僕には無理みたいですね。いっそ名前を、足本タカヤとでも名乗りましょうか。
あなたが100をつくるのに、僕はたった1だけでもつくることができないのでしょうか。
それは「これから」が決めること。僕がどれだけ頑張れるか・・・
ていうか・・・
藤子不二雄全集出しやがれコンチクショウ。

2001.5.25(金) なんとなく、クリ×××(田中康夫長野県知事の失言)

どうして髪の毛を染めると怒られるんでしょう?
これは素朴な疑問です。
僕の高校では髪の毛を染めたりお化粧をしたりしていると怒られます。(結構みんなしてるけど)
ちなみに僕は髪の毛を染める気も化粧をする気もないので特に問題はないのですが、少しひっかかるのです。
髪の毛を染めることによって何かいけないことが起こるでしょうか?
ある先生はこう言ったそうです。「その人はいいが、他の人が真似するからいけない」
つまり、その人が染めるのはその人の自己責任で、勝手なことだが、それによって染髪が伝染していくのがいけない。
「あの人がやっているから」とつられて染めるからいけない、と。
でも、染めることがその人の勝手であるなら、つられて染める人だってその人の勝手じゃないか。
つられて染める人には全く自己責任がないのでしょうか。
それに、この理論は「どうして髪の毛を染めてはいけないか」への根本的な解答ではありません。
1人が染めるのは構わないのに、たくさんの人が染めるとなぜいけないのか。
果たして個人にどんな悪影響がでるのか、そう言うことを聞きたいのです。
ここで1人の人が染髪するのを肯定する意味がわからない。そして後の人たちをなぜ否定する?矛盾じゃないか。
これは正しい解答ではありません。部分点として2点あげます。
ある先生はこう言いました。
「やっぱり、清潔さだとか、そういうことが求められてるんじゃないか」
「先生、では化学の竹内先生は不潔なんですか」
こういうことになるわけですよ。
僕の一番の疑問は、なぜ先生が髪を染めているのか。
生徒の模範となるべき先生が染髪すると言うことはつまり、
①染髪が人に与える悪影響などない
②大人になれば悪影響がなくなる
きっとこのどちらかなんでしょう。だって先生は髪の毛を染めている人が多いし、化粧だってたくさんしている。
(煙草も喫えば酒も呑み、競馬パチンコ麻雀・・・ 法律で禁止されてなければなんでもやっています。
倫理的なことも完全無視です。教師だからといってお年寄りに席を譲るというわけではないのですが・・・)
染髪も化粧も、髪の毛や肌に悪いということは有名でしょう。
うちのお母さんは化粧などを一切しないため、今でもしわひとつないきれいな肌をしてらっしゃいます。
染髪をしない僕の髪の毛はさらさらです。(モウカンケイ)←無関係っちゅうことやね。
しかし先生たちはそれを知っていながら髪を染めます化粧をします。判断力無いんでしょうか。
コント・レオナルドの言葉を借りれば、
「あなたの娘さんはね、学校で煙草を喫ってたんですよ!」
「でも先生、二十歳から煙草を喫い出す奴なんていねえよ、みんなもっと前から喫ってんだ」
「そんなことありません、私はちゃんと成人式を過ぎてから喫い始めましたよ」
「え!?じゃああんた二十歳にもなって、煙草が身体に良いか悪いか判断力無かったの。…どうして教師になったの?」
熊さんはまたこうも言っています
「そりゃおめぇ俺が煙草をやめられねぇのに娘にやめろって言えるかよ」
髪の毛を染めている先生に怒られても説得力0なんですね。
そんなわけで、僕には髪の毛を染めていけない理由がわかりません。
僕は野田隆稔氏と同じナショナリストだから、染めないのが一番だと思っていますし、
女の子を見るときにしたって、生まれつきの色の方が印象が良いです、僕の中では。黒髪美人です。
「髪の毛を染めるな」という校則が宗教や或いはナショナリズムから来ていれば全く問題ないと思いますが、単に倫理的な視点からそれが論じられていると、僕は疑問を覚えずにはいられません。そもそも倫理的ではないのかもしれません。
誰か教えて下さいな、どうして髪の毛を染めると先生に怒られるんでしょう?

2001.5.24(木) 新発売・池畑慎之助パン

6時間目のHR、学校祭について色々決めることがありまして、
「フォークダンスでなにかやりたいひといませんか」フォークダンスDE成子坂
副室長の女の子が言いました。
【に】に【るこざ】を代入すると面白いことになると思いました。それなら是非やりたいものである。

音楽の授業で、ブラームスの曲を聴いています。
ただ聴くだけではつまらないので、僕は大抵、目をつぶって情景を心に浮かべながら聴き入ります。
そして、曲の終わる頃には1つの壮大なストーリーが完成していることもしばしば。
今回の舞台は中世で、自分の村を滅ぼす任務を与えられたとある国の兵士が、その村人達と共に新たなる国をつくるというストーリーでした。(かなり簡略化、本当は話のつくりも人間関係もかなり複雑でした)
曲の鑑賞になると、よく寝ている輩を見つけますが、こういう楽しみ方を知れば、少しは面白くなるんじゃないでしょ~か。

2001.5.23(水) たけしのバンブーソード

いったい勉強ができる、運動ができるとはいかなることであろうか。
人間というのはなぜ栄えたかということを考えると、
『大長編ドラえもん のび太のアニマル惑星』によれば、「二足歩行」と「ものをつかめる手」を得たからであるという。
両手が自由になり、道具を使えるようになった。それから火を起こし、言葉を操り、ヒトは賢くなっていったわけである。
それは現在も進行中だ。今なお人間は先人の歴史を栄養分とし、より賢くと進化を続けている。
「俺は進化し続ける」とジミヘンドリックスだか誰かが言ったそうだが、まさにその通りなのである。
さて、勉強ができる、ということは、それだけ進化の最先端に立っているということだ。
では、勉強ができない、ということは、進化していないのだろうか。そういう考え方をすれば、そういうことになる。
ここで、僕は「勉強」という言葉を使うが、要は賢いかどうかである。脳味噌がどれだけ発達しているかという問題。
ということは運動ができる、ということは、退化しているのだ。そういう考え方をすれば、そういうことになる。
しかし僕は発想の転換を試みる。運動ができるということは、貴重な存在である。
「こうである」という時代の流れに逆行しているわけだ。
たとえば『大長編ドラえもん のび太のブリキの迷宮』では、科学が進みすぎて機械任せににしていると、筋肉や運動能力が衰え、自分の足で歩くことすらおっくうになるという、我等人類の未来を暗示するような文明が存在した。
第一、進化するだけが素晴らしいことだとどうしていえようか。藤子・F・不二雄氏の短編『老年期の終わり』では、さながら二次関数グラフのごとき科学的発展を遂げ、いよいよ文明の頂点に達し栄華を極めた人類は老年期を迎え、衰退していった。
行くところまで行けば墜ちるほかないのだし、文明の発展はもしかしたら現在我々が抱える様々の問題・・・環境や戦争など・・・を完全に解決せられるかもしれない。だが、発展の過程において資源の枯渇や核戦争が起きないとどうして言えようか。
現在人類は、文明発祥以後最も豊かな生活をおくっていると言える。難民問題だの食糧問題だの、最近では爆笑すら問題になるくらい問題は山積みではあるが、確かに上向きになっていることは誰もが承知するところだろう。
しかし、それがこれからも続くという保証はない。『老年期の終わり』をモチーフにとれば、誰も今が地球の「青年期」であることを否定できないのだ。これから先、なんの科学的発見もなく、無駄な研究を続け、老年期を迎えるかも知れないのである。
随分と話は逸れたが、人間が運動をするのは、来るべき青年期に向けての対策なのかも知れない。
それにこんなデータもある。生物という大きなタタミの上で語れば、人間は他の生物よりも頭が抜きんでて優れており、それを伸ばすことは進化そのものであるが、もっと小さな、人間という生物の歴史上の物差しをもって見れば、人間の運動能力が低くなっているのだと一概には言えないのではないだろうか。
まず栄養などの問題。からだの基本的なつくり自体は、明らかに中・近世(これまた小さな物差しで申し訳ないが)よりもしっかりしているはずである。武士や農民(これでは現在農民が存在しないみたいであるし、農民差別みたいで嫌なのだが、現在は農民のことをあまり農民とは言わないので表記はこのまま)の頃、ヒトの運動神経や筋肉の強さがどうだったのか僕は知らないし、学者さんでもご存知無いかも知れない。
もしかしたら今の人間は昔よりもずっと運動ができて、人間は進化しているのかもしれない。青年期を迎える頃には(口を酸っぱくして言うが、今がその時かもしれない)、大熊を巴投げすることなんて日常茶飯事かもしれない。もし大熊が街中を闊歩していたらの話だが。
そうしたら人間ほど素晴らしい存在はなくなります。世界に怖いものなしです。すると、ほぼ確実に人類滅亡が早まると見ますね。最も、それはその時から数えて気の遠くなるほど後の話でしょうが。
大きな戦争や星の衝突でもない限り、人類は太田光の小説『終末のコメディ』のように、じわじわと滅んでいくと思います。それはもう、『クレオパトラだぞ』のラストシーンのような台詞も聞けるかも知れませんよ。
しかし極論を言えば、いくら運動が出来たって、なんになるんでしょう。文明は発展いたしませんし(もちろん、発展することは必ずしも吉でない)、力が強くなっても、小さな喧嘩で簡単に人が死ぬようになるだけかも知れませんから。(殴られるほうも強くなってるって? し~っ!)
ここまで長々と語ってきましたが、言いたいことはこれです。
勉強ができる、ということは文明の発展を見るわけで、人類の、いや地球の破滅を指をなめ回しながら見つめているようなもんです。
運動ができる、ということだって、ゴリラに腕立て伏せを覚えさせた方が早いし、特に意味もありません。
では何が勝つか、『ブラックジャック』において、ゲラは言いました。動物は泣くことはできるが笑うことはできない、と。
それと同じ様なもので、最も大切なのは、「心」ではないでしょうか。
いま僕はとてもありきたりで、月並みなことを話しています。
月並みだからこそ、誰もが考えるからこそ、これは本当に大切なことなのです。
人類全てが素晴らしい心(悲しいかな現在の我々の基準でしかないが)を持てば、戦争も差別も起こらない。ハマコーも怒らない。
人間だけに許された特権という意味では勉強の比ではないですし(脳味噌は誰でも持っているが、心を持っている動物は意外と少ないかもしれない)、これを持っていれば暴力は、いえ力は意味をなくします。
ここで僕は「心」という言葉を使うが、つまりは「人間らしい」(こう言うとあまり良くない意味も含まれがちであるが)だとか「人間味がある」(これでは少し弱いのだ)とか・・・うまく言葉が見つからないので新しい言葉を造ります、「ヒロ」。
だから僕はヒロを持っている人間が好きなのです。
(ヒロというのが人の心をつづめたものであることは、かっこわるいので黙っておきましょう)
それを持っていない人とは付き合いたくない。
だけどもしも君がそれを持っていたらぼくは差別しないOhつ・き・あ・い・た・い。
RCサクセションの言葉を借りればこのような感じになります。
いつの日か地球がヒロでいっぱいになると良いですね(ああなんて人間本意で自分勝手な言葉なんだろう!)。

2001.5.22(火) 底なしティッシュ

科学部の人々と名古屋の中央図書館へ赴く。
久々にピーター・パンを借りてみる。
帰ってから、少し読んでみると、やはり凄まじい。
こんな素敵に不思議な文章はどうしたら書けるのだろうか。
バリは天才です。言葉のイリュージョンが最高にうまい。

最近日記が短くてかなん。でもその分ちゅ~とはんぱに更新してるので許して。
なあに、来月になれば少しは暇に・・・ ならんわな。


そういえば。
科学部たちが図書館への道中、あまりにも面白い話をしたので、
(資格がどうとか、大会がどうとか)
僕も頑張ってみたくなりました。
3年になったら科学部に入ろうかしら。
放送部と囲碁(将棋)部にも入ろうかしら。


(借り)
ピーター・パンとウェンディ  J・M・バリー


2001.5.21(月) ジャニーズJr.(ジャニー社長のムスコ)

ちっちゃな躁鬱を胸に抱いて育まれるぼく
辛い辛いと泣き叫んでも
痛かろうが恥ずかしかろうが
泣きたかろうが


現代国語の授業で毎週、生徒がひとりでスピーチをするんですよ。
つまらないのなんの。
誰か僕を唸らせてくれよ。
その後に中島敦の『山月記』の感想を発表していた。
7人ほど発表をして、みんながあんまり面白い感想を言わなかったから僕は颯爽と手を挙げた。
(授業中挙手するなんて久しぶりだ)
ぺらぺらと思いつくままに喋ってみる。
「反論が聞きたいなぁ」と先生は言ったが、ちょうどキンコン式のカンコン葬祭、鐘がごーんと鳴りゃカラスがカーです。
「次の時間に」と、授業を潰したいだけの愚者が言った。
「じゃあ、尾崎くん次の時間にもう一回言ってくださいね」
めんどくさいから嫌だけどやらざるを得まいて。
好奇の視線好奇の視線余り好きではない。目立ちたがりだがこういうのは嫌である。


僕は、人格や感情が日によって一定でない人は好きではないです。
「今日はテンションが低い」それはどうもお気の毒に。
沈み込むのは構わんが人に影響を及ぼすようならやめていただきたい。
「どうかしたの?」と聞いて欲しいならともかく。
「なんでもない」と答えるのは自分の態度がいつもとは違うことを自覚していないのか?
そうすることにより得るものはあるだろうか。何を求めてそうしているのか。
自分勝手の極みではないかと思ってしまう。
自己の感受性が高いことや情緒不安定であることを主張したいわけでもないのでしょう。
何故そうするのか全くわからない。
わけがわからないから好きではないのです。
理由のわからないことほど怖く、避けたいことはない。

だから
自分の気持ちは素直に伝えましょう。
何につけても。

2001.5.20(日) 矢田根さんときたら嫌ですね

時間は過ぎる
知らないうちに
知ってるけれど知らないふりで
いつのまにかを実感してて
嫌がるならば動き出せよと
わかっているから奮起も出来ぬ
今週はこうして終わった
来週もこうして終わるのかなぁ

ところで、一週間って何曜日から始まるの?

2001.5.19(土) 松野明美>石原慎太郎(まばたきの回数)

ウィストップトトゥディスカスオンアワウェイホーム、インオーダートゥーシンクアバウトドラマクラブ。
バット・・・
ゼン、アイアンダーストゥッドザットウィシュドゥントディスカスウィズヒム。
ビコーズウィキャントストップエキサイティングアバウトアザーコンテンツ。
イットワズディフィカルトフォーミートゥワッチメチャイケ。
アイビケイムガッツマン、ノットカトクタイ。イッツミヤムー。(ディスイズベリーマニアック)
アイムハリードトゥマイホーム。
インリザルト、アイワズインタイムフォーメチャイケ。
アイワズハッピーノリピーマンモスウレピー。

2001.5.18(金) ブルーな青春これ当たり前

woo 学校をさぼって
日の当たらないところに いたんだよ
寝ころんでたのさ お布団で


ぼくにはもう何もできません
能力も意欲もありません
たった1つのわら一筋の自負であった
「自負」さえ
もうすでになくなってしまっています
自信がなくなってしまったそして
再び自分がばかであると言ってしまった
冗談であれその言葉を口にすれば
ぼくは考えることを止められません
考えが巡れば巡るほど
瞬間の動悸は激しくなります
その間隙も狭くなります
焦って焦って困れば困るほど
ぼくはとび撥ねたくなるのです
ああぼくはなにを求めているのであろうか
それは大きな樹だ
寄り添える大きな樹だ
どこにそれはあるのであろうか
いったいなにがそれなのであろうか
知らないようで知っている
わかっているようでわからない
それはあなたなのですかと
はたして訊けるであろうか
だけどぼくは知らない
あなたを知らないそれに
あなたをわからないそればかりではなく
それがわからないのです
それを知っているのかどうかわからないしかし
それがわからないことを知っている
ソクラテスはいったがそんな高貴なもんじゃない
だけどとりあえずぼくはしっているさ
樹はあなた
あなたは樹
あなたはだれですか
だれがぼくを大きな幹で包み込んでくれるでしょう
だれというのは人でしょうかそれとも樹でしょうかそれともα
ぼくは人を頼っているのか樹を頼っているのかそれともα
あなたはαなのですか
αは実数ですか虚数ですか
それ以前に複素数なのですか



だらだらと何書いてんだ
時間を潰したいならそう言え
しかし時間が過ぎて一番困るのはお前ではないのか

泥にまみれた子ですが
どうぞ愛してやってください愛してやってください

何度でも言います
キミタチ15歳
死ぬなんて言葉を使うな

だけどさぁ金八っつぁん
ぼくはあなたが好きですあなたを尊敬しています
あなたがぼくの先生だったら
どれだけいいだろうと思う
だけど武田鉄矢も小山内美江子も
ぼくのところには来てくれないでしょうよ

とりあえずぼくが今日
学校を休んだのはけして
体調不良だけじゃないそれに
病は気から
死にかけているけど
死にたいとは思わないよ金八っつぁん
(なんかサンタマリアみたいだな)
だから何がいいたいかっていうと
誰かそばにいてください
肩を貸してください胸を貸してください
涙で濡れるのは枕であっては嫌なんです

俗っぽく言えば
自分の証拠が欲しいのさ

2001.5.17(木) みんな同じでもあいこでしょ

1日HR(遠足)の後に、稲武へ行きました。
愛知県稲武町。かなりの山奥です。
毎年この時期、我が向陽高校の1年生は稲武にある「名古屋市稲武野外学習センター」に宿泊します。
キャンプファイヤーとか討論とかスポーツとかして遊ぶわけです。
目玉はもちろん夜の生活で、毎年イケナイコトも行われているとかいないとか。
というわけで、そんな稲武宿泊HRに潜入しようという企画です。
19:00頃、センター着。
ちょうどキャンプファイヤーが始まるときでした。
僕は黒ずくめの格好をして、暗闇を利用し深い茂みをかき分けて広場に近づきました。
そして誰にもばれないように裏側に回り込み、普通の服に着替えてから何食わぬ顔でファイヤーに参加。
「マイム・マイム」はすでに終わっていましたが、
「猛獣狩りゲーム」「ジェンカ」「○×ゲーム」などに参加し、火回しや火文字を懐かしみながら見学しました。
友達がたくさん出来ました。皆さん僕のことをもちろん1年生だと思いこんでおり、とても面白かったです。
「あはは、ジャッキーおもしろ~い。ねぇ、何組?」
「(2年)7組だよっ」
こんなやりとりが何度となくありました。いやあ童顔で良かった。(?)
ただ、知っている先生(僕の好きなおじさんも来ていた)に、話しかけたくても話しかけられない葛藤は大きかったです。
たまに顔を合わせたりして、いつばれるかとヒヤヒヤしていましたが、暗さのためわからなかったようです。
ばれたらきっと怒られるだろうな~と思ってました。
というわけで、この辺で潮時か・・・ということで、みんなが火文字に注目しているうちに茂みの中に隠れました。
しばらくして、生徒達は去っていき、キャンプファイヤー実行委員だけが残りました。
そして、おもむろにマイム・マイムを踊り始める。楽しそうである。自分たちだけで盛り上がっちゃってさ。
恐るべき盛り上がりを見せ、写真撮影は終わりを知らず、僕はその場を動けませんでした。
やがてとうとう人が少なくなると、僕はまた黒ずくめの格好に戻り、ロッジのある方へ逃げ込みました。
ロッジは全部で6つ、先生たちで1つ、あとは、6~10組までで1つずつ。1~5組は人足先に帰ってしまっています。
しかしロッジの方角へ抜けるには山を越えねばなりません。ただの山ではありません。道無き山です。
僕はいばらの道をのぼり始めました。もしも長袖に長ズボンに手袋までつけていなければ、全身血だらけだったでしょう。
ジャングルを抜けて、暗がりに走る。
真っ暗闇の中に、黒い鞄を置くと全くわからない。
そこに鞄を隠しておいて、タオルを持って、大浴場へ。
浴場の中から女の子登場。
J「お風呂ってまだ入れる?」
女の子「入れるよ~」
J「ありがと~」
僕は欲情・・・ じゃなかった浴場へ入りました。いえいえ男の子の方ですよ。
でも今思えば女の子のお風呂覗いてさっさと帰れば良かったかも。
男の浪漫だもん、女湯覗くの・・・あああああああ。後悔なり。来年は覗こう。
脱衣所には誰もいなかったので余裕で服脱いで中に入ると、10人弱の男の子たち。
普通~に会話して、普通~にお風呂を楽しみました。また友達が増える。
そして、外に出る。女の子たちがいる。軽く欲情。お盛んですな。
しばらくすると、誰もいなくなる。たまに知ってる先生が通って、怖い。
最後まで残ったのは僕と演劇部の後輩とその友達・・・たかはしくんだけでした。
たかはしくんは背が小さくて、舌足らずな、一見、可愛いタイプの子だ。、
彼はジュースを買って、こう言った。「くだらないキャンプファイヤーに乾杯」
へえ、くだらなかったかい。ああ、くだらないね。
たかはしくんはそれからしばらく沈黙した。
そういえばたかはしくんは、ひとり、ジェンカの列にも加わらず、僕らの横を歩いていたっけ。
突然、たかはしくんはこう言う。
「少々、堅苦しい話になるが、聞いてくれるかい?」
僕はその言葉に引き込まれてしまった。たかはしくんと、友達になりたいと思った。
「今日のキャンプファイヤーを見て、思ったんだけど・・・」
たかはしくんがその後に語ったのは、人間の心理についてのことだった。
彼は哲学的に持論を述べた。
話そのものは、それほど素晴らしいものではない。背伸びをしているようにも見える。だが・・・
たかはしくんは確かに格好良かった。僕は少し、彼に惚れ込んでしまった。
やがて時間が来て、僕らはそれぞれのロッジへ・・・と言っても、僕には帰るところなどない。
暗がりで、星を見ながら、たかはしくんの言ったことを反芻し、それから、色んな事を考えた。
消灯は22:00。これ以降にならないと、ロッジには潜入できない。
意外と時間というのは進まないもので、僕は意識をそこに残したまま眠った。
様々のことを考えながら、起きているのか、眠っているのかわからない状態が続いた。
いつのまにか、22:20。そろそろか・・・
まずは9組へ向かった。男の子と女の子が2つの部屋に完全に分離していた。
僕が1年生の時は、全くごちゃごちゃになっていて、1つの部屋にほぼ全員が入っていたものだが。
男共のテンションは高かった。だが、それほど僕に好意的ではなかった。
しかし、度々先生が見回りにくることと、その先生が知っている先生だったこと。
そして、外へ出ようとしたところをその先生にばれてしまったことなどが重なって、僕はしばらくそこにいざるを得なかった。
23:00前になって、ようやく9組を出、8・7組を回る。が、それほど好意的でない。もちろん男女は別々。
僕はすぐに6組へ行ってみた。
すると、これが面白かった。なかなか暖かかった。ただし男女は別々。
携帯電話の番号も交換して、いい雰囲気。
何より面白いことが・・・
Kくんという男の子には、同じクラスに好きな女の子がいるらしい。
それで、告白するしないで会議をしていたのだ!
いやはや純情なKくんと面白がってはやしたてる1年6組+J。
盛り上がって盛り上がって、その女の子に電話をしたりメールを入れたり。
していると、あるニュースが飛び込んでくる。
「おい先生いねぇぞ」
担任の先生が自分の部屋にいない。ということは、自由に遊べるということである。
もはや無法地帯である。女の子もそれを聞きつけて部屋から出てくる。
僕もテンションが上がって、廊下に出る。すると・・・
女の子が怪訝そうな目で僕を見る。なんだろう。
「なんだ貴様、俺様のことが好きなのかっ?」
という某芝居の台詞を思い浮かべる。
「演劇部の方ですよね?」
ばれてました。
「本当だ」
あら、なんか女の子はみんな知っているのね。
「そんなわけないじゃん」
男の子はばかである。
「上級生がどうやってここに来るんだよ」
正論です。
「いや、バスの荷物置き場に紛れてたのかも」
いおい。
わいわいがやがや。
僕はめんどくさかったので正体を明かしました。
みんな、驚きながらも大爆笑してくれました。
「じゃあ、おれ達がここでタメ口喋ってること自体おかしいな」
「いやいや、タメ口聞いてくださいよ」
「そっちが敬語でどうすんだよ」
どかーん。わはははは。
盛り上がる盛り上がる。
調子に乗って僕はしゃべりまくる。
「ジャッキー、面白れ~」
はっ、そうだろう、そうであろう!
しばらく盛り上がった後、ついに僕は帰ることに。
「では、あでゅー」
0:30。帰路に着き、
帰り道は真っ暗。街灯無し。三日月で月明かりも当てにならず。しかも凍えそうなくらい寒い。
おっかなびっくりゆっくりと自転車をこぎこぎ帰ると、4時過ぎ。
少し眠って、すぐ起きて、制服に着替えて、学校をサボりました。

2001.5.16(水) ノーベルダンディ賞


試写会に行ってきました。
部活の女の子が当たったので、誘ってくれました。
なんせ原作・手塚治虫、脚本・大友克洋、監督・りんたろうですから。
見ない手はないです。
本日部活終了後、でっかい劇場行って観ました。
見終わった後、2人とも席を立てなくて、
気が付いたら劇場の掃除が始まっていたので慌てて外に出ました。
それから後も興奮さめやらず、良かった良かった凄い凄いと言い合っておりました。
そして自転車を漕いで家に帰ってからも、まだまだ気持ちは昂揚しております。
今だって、ほれ。
こんなに凄いアニメ映画は観たことがない。
AKIRAもGOST IN THE SHELLも、
全ての面において及びません。
僕が手塚治虫や大友克洋にベタ惚れしているせいもあるだろうけど、
良かったことは確か。きっと海外でも売れます、これは。
今一番お薦めの映画です。
ところで腹が立ったこと。
スタッフロールが始まった瞬間大多数が立ち上がりやがった。
スタッフロールが始まった瞬間劇場が明るくなりやがった。
スタッフロールをなんだと思っているのか。
スタッフロール後のイラストだって大事なんじゃないのか。
家に帰るまでが遠足だって教えられたんじゃないのか。
全体的に、客のマナーが悪かった。
あと、劇場側、途中で電気つけんじゃね~よ!
メトロポリスはガキが騒ぎながら観る映画と違いますよ。
子供だろうが年寄りだろうが、静かにじっとして息を飲み込むんですよ。
自然とそうなるはずなんですよ。
子供が観たがってもないのに連れてくる親が一番悪い。悔い改めよ。
「これ、なに?映画なの?」わかってもないのに連れてくんなよ、親が観たいだけだろ。
案の定上映中に声出すし。
真剣に観ててついつい感想を口に出しちゃうならまだしも、どうでもいいこと口に出すなよ・・・
オトナが悪い。(?)
いやはや、とにかくメトロポリスは誰もが認める名画になり得るでしょう。
ただ、ロックがボタンを押す(ネタばれ)のが唐突すぎたりするなど、
もうちょっとなんとかできそうな感じはしました。まだまだかなり改訂の余地はあると思います。
もちっと頑張って完璧な映画に仕上げて欲しいと思います。
あと、ケン一の声がちょっと弱い。
ヒゲオヤジはもっとキャラを出せる。
柔道100段ネタが欲しかった(個人的)。
この映画は手塚作品を読みまくっていてるとなお楽しめます。
スターシステムには思わずニヤリだし、来るべき世界なんかを読んでいると、おや、と思うこと必至。
当たり前みたいだけど原作のメトロポリスとは結構変わっていたと思う・・・(根底は一緒だけど)
たまにハリウッド版のメトロポリスを彷彿とさせるような画も出てきて、映画好きもニヤリ。
でも、ティマの崩壊やメトロポリス倒壊後の画(またもネタばれ)とか、AKIRAに似すぎ。
監督はりんたろうなのに、大友克洋っぽさが蔓延してました。
でも全体的には物凄く良かった。また観たいものです。公開されたら誰か一緒に行きましょう。(笑)

 過去ログ  2001年5月前半  2001年5月後半  2001年6月前半  TOP