少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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■・ / 平成19年9月30日(日)

 亡霊のくせに。うるさい。
 
■ / 平成19年10月2日(火)

 一度くらいは死んでしまっても
 また生き返ってくることはできる
 僕は死ぬのが怖いから
 経験が足りない

 嘘をつきたい
 君を笑わせるような
 嘘をつきたい
 僕が僕をやめられるような
 
 ねえ 自分一人も欺けないで
 誰かを騙すことはできないよ
 ねえ いつか大切な人が
 どうか殺してくれるように 僕を

 君の前なら泣いてしまっても
 また笑いあってみることができる
 僕ら泣くのが得意だから
 すぐ水に流れる

 バカになりたい
 君に笑われるくらい
 バカになりたい
 僕が僕を嫌いになるくらい

 ねえ 自分一人も欺けないで
 誰かを騙すことはできないよ
 ねえ いつか大切な人が
 どうか殺してくれるように 僕を

 壊れやすかった頃に僕は壊せずに
 いつまでも本当のことばかり追い求めてた

 ねえ 自分一人も欺けないで
 誰かを騙すことはできないよ
 ねえ いつか大切な人が
 どうか殺してくれるように

 ねえ 自分一人も欺けないで
 誰かを騙すことはできないよ
 ねえ はやく大切な人が
 どうか殺してくれるように 僕を

 たまには切れないナワをつかったらどうだ。

 藤子・F・不二雄先生の短編『老雄大いに語る』を思い出した。ぜひ読んでほしいものだけど、僕はSF短編PERFECT版を誰にも貸し出すつもりはないので、どうぞ僕が寝てる間にそっと忍び込んで盗み見てください。鍵はあけておきます。

 ノイローゼになりそう。

■ / 平成19年10月1日(月)

 爆笑問題カーボーイというラジオに昔「川柳研究所」というコーナーがあった。「五七五以外の文字数で川柳を作ってみよう」という趣旨なのだが、「二四五」で募集していたときの作品の一つが今でも忘れられない。
 
 我を 貫く 頑固者
 
 非常に素晴らしい。なんで素晴らしいのかがまったくわからない。誰か教えて欲しい。どうしてこの川柳が僕の心をこんなにも打つのか。


 詩。
 
 
 
 
 とてもいろいろなことを思うけど
 何も書けない
 考えれば考えるほど何も書けないよ。
 どうしてなんだろう
 何も言えない
 言ったらいけないものね
 でも僕は全てが言いたい
 何もかも言葉にしなければ気が済まない
 でないと気持ち悪くて生きていけない
 だから詩を書かなくてはいけない
 
 だけど、本当は、詩なんか書かなくてすむくらいの、大きな男になりたい。

http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND14718/index.html

 いつも思っていたけど君と僕はきっと手と手を合わせたら光りだすだろうね
 怖くて怖くて言えなかったけど
 君と僕はきっと
 手と手を合わせたら光りだすんだと思う

 首を吊るための太いロープはここにはない
 あったとしたってどこから吊ったら死ねるんだろう
 カーテンレールじゃ弱すぎる
 初めからこの部屋はそういう仕組みになっているんだね
 ドアノブと首にタオルでも巻いて
 ウィスキーを飲んだら朝には逝けるけど

 週に何度かここにやって来る
 僕の大好きな女の子がいる
 二人は幸せに生きている
 バラ色に輝き愛し合っている
 
 誰も死なない 誰も生まれない 誰もしゃべらない
 国に行きたいな
 鬼がいたって 悪魔がいたって お化けが出たって
 かまわないから
 
 君を知るための強い心が僕にはない
 あったとしたってなにから話せば知れるんだろう
 この世の言葉じゃ弱すぎる
 初めから僕たちはそういう仕組みになっているんだね
 二人して首にマフラーを巻いて
 ストーブに照らされ朝まで話したけど

 死にたいんだっていつも思ってる
 愛し合いながら傷を確かめてる
 二人は幸せに生きている
 バラ色に輝き信じ合っている

 誰も死なない 誰も生まれない 誰もしゃべらない
 国に行きたいな
 鬼がいたって 悪魔がいたって お化けが出たって
 かまわないから

 顔も見たくない 声も聞きたくない 君を知りたくない 何もしたくない
 とても会いたい 二人でいたい 抱き合いたくはない 何もしたくない

 誰も死なない 誰も生まれない 誰もしゃべらない
 国に行きたいな
 鬼がいたって 悪魔がいたって お化けが出たって
 かまわないから

 誰も死なない 誰も生まれない 誰もしゃべらない
 国に行きたいな
 鬼がいたって 悪魔がいたって お化けが出たって
 かまわないから
 そんな国で生きたいんだ

■超高速手話 / 平成19年9月29日(土)

 六畳一間の部屋の中で不味いご飯作って食べてカーテン閉めきってるから窓の外も見えなくてどんよりとしたこもった空気を吸い込むたびに頭の中が枯れていくのがわかる。
 
 
 コンビニに行くようになって焼きたてのパンの匂いを忘れてしまった
 あさくあさくきずつけられつづけたけどきづいたのはついさっきだよ
 人生に勝者と敗者がいるのならお前は俺になんて言うのかな




 僕たちは知らないところで泣いている二人でいると手をつないでる

   ◎第四十三回ウーチャカ大放送のお知らせ◎

 2007/09/25(火) 24:00-25:00
 「アフタヌーン出たから謎の彼女X朗読スペシャル」
 http://219.17.92.49:8000/
 ↑Listenをクリックして再生or保存してから再生
 ツールはなんでもいいけど、Winampというのが評判いいみたいだよ
 わかんなかったらチャットでみんなに聞こう!(みんないるかな)

 ☆チャット新調したよ
 うまくいかなかったら旧チャット

 新チャットがあんまり重いようだったら旧チャットに戻すか、新しいの探します。

■もういちどI Love You / 平成19年9月25日(火)

 幾つか問い合わせがあったので答えますと、
 実は海遊館で出逢ったあの子と付き合うことになりました。
 あのとき勇気を出して本当に良かったです。
 一度で良いから海遊館に行ってみたいな。
 こないだ今の彼女と新江ノ島水族館には行ってきたんですけど。
 エイが格好良かったです。えい!
 もう自分でも意味がわからなくなってきた。
 
 スタンスとしては、日記を三人称で書いていた頃の感じが好きなんだよな。
 2004年の2月から半年くらい。


■別離のテーマ / 平成19年9月24日(月)
 
 幾つか問い合わせがあったので答えますと、
 実は恋人と別れました。
 大阪に行ってきたのは傷心旅行です。
 海遊館で一人、マンボウやサメを見ながら心を休ませていました。
 エイは良い。
 
 
 クラゲコーナーをぼんやり歩いていたら、××クラゲの水槽の前に大学生くらいの女の子がいた。ガラスに張りつくような感じで真剣に××クラゲを見て、時折小刻みにうなずいたり、小さくため息をついたりしている。髪が長くて、前髪は真ん中で分けている。特徴のない眼鏡をかけて、まじめっぽい。僕は××クラゲが近くで見たかったので、彼女がいなくなるまで待つことにした。ちょっと距離を置いて後ろから眺める。なかなか退かない。しびれを切らして××クラゲは諦めようかと思ったところで、彼女がハッとしてこちらを振り向いた。「あ、ごめんなさい」というふうに口を動かして素早く横にずれてくれたけど、視線はすぐにまた××クラゲのほうへ戻っていた。
 さすがに僕は呆れた、と同時に、興味が出てきた。なんでこの子は××クラゲにこうも執着しているのだろうかと。でも声をかけるのは憚られて、なんか話すきっかけでもないかなーと思いながら彼女の隣(といっても精神的にはかなりの距離だ)で××クラゲの動くのをずっと見ていた。
 ××クラゲは、というかたいていのクラゲはみんなそうなんだけど、本当にむだがない。全ての動作が「泳ぎ」に反映されている。生活。人生。あ、なんかまるで花火のようだな、と思った。××クラゲの透明な身体の中に黄色いホコリみたいなものが入っていて、ふらふら動いている。これはたぶん水族館の入れたクラゲのエサで、ずっと見ていると消化されて見えなくなるか、フンになるかするのだろう、たぶん。隣の女の子はひょっとして、それを見ているのかな。
 そう思いついたら、急になんだか勇気がわいてきた。「あのー」と間の抜けた声を発してみた。あまりに間延びした声だったので、女の子もそんなに驚いた感じはなく、視線をそのままに「はい」と小さく返事してくれた。僕のほうをまったく見なかったところからすると、彼女も僕のことを少なからず意識はしていたんだろう。もしかしたら「なんでこの男の人はこんなに××クラゲをずっと見ているんだろう」とか思って、話しかけるタイミングをうかがっていたのかもしれない。妄想が過ぎるか。
 「何を見ているんですか?」我ながらおかしな質問をした。何を見ているか?××クラゲの水槽の前でする質問じゃない。「えーっと、何っていうか、その、××クラゲのどのへんを」「動き」「ん」「です」「ああ」
 「好きですか?」「ええ」「よく来ます?」「東京から来たんですよ」「旅行ですか」「まあ」「私も」「東京?」「千葉」「へー」だんだん砕けた会話になってきた。「全国の水族館巡りしてるんですよ」「すごい!」「すごくはない。夏休みなので」「なるほど」「昨日名古屋港水族館というところに行ったんですよ」「実家が名古屋です」「そうなんですか!」「はい」「あそこの××クラゲ、知ってます」「あー、幼い頃に行ったきりなので」「全然違うんですよ」「え?」「ここと。ここの××クラゲと」「だからずっと見てたんだ」「うん」「よく覚えてるね名古屋港の××クラゲなんて」「××クラゲ、好きで」「すごいなー」「だからすごくはない。図鑑で見て惚れた」「あー昔図鑑好きだった」「私も。貝とか」「貝!まさに僕貝大好き」「ほんと?」「うん」「××貝ってわかるー」「えーっと、巻き貝?」「そそ」「知ってる。いい」「わー」
 どうでもいい会話が続いていくうちに、彼女は2,3回こっちを見た。見て、また水槽へ視線を戻すたびに、会話がしなやかになっていくのがわかる。むだな飾りが削り落とされて、軽快なリズムが生まれる。「貝とかって」「うん」「図鑑だと生きてないじゃん」「だね」「水族館来てもあんま見れない」「だね」「どこ行けば見れるのかな」「生きた貝?」「いろんな、生きた貝。あさりとかはまぐりだけじゃなくて」「博物館の貝って、ほとんど死んでる」「うん」「貝と貝がらは違う」「そ」「ね」「だ」吐息だけで「だ」と言った彼女の横顔は本当に残念そうに見えた。いくら会話が弾んできたからとはいえまさか「一緒に潮干狩りでも」なんて言えるわけもないし、困った。
 「あ、今何時」「えっと」「もう四時だ」僕がポケットから携帯電話をとりだすよりもはやく彼女は腕時計を見ていた。「そろそろ行かないと、京都のおばあちゃんち泊まってるんだ。夕ご飯までに」「そっか」「今度また会えたら貝の話とかもっとしよ」「復習しとく。昔とった杵柄だから」「きねづか?」
 僕はもう少し××クラゲを見ていくことにして、彼女と別れた。連絡先を交換したりはしなかった。いつも通りそれを悔やんで、ゆっくりと歩いていく後ろ姿を見送ってから、涙目で水槽を見た。
 ××クラゲがきらきらと輝いている。黄色いホコリのようなものは、目につく限りどのクラゲの中にもゆれていない。まったく、まるで花火のようだよ。と思って、出口のほうへ急いだ。

 どうにかなるとどうにもならんが交互に来る。町田康 And The Gloryのアルバム『どうにかなる』では『どうにかなる』の次の曲が『もうだめだ』である。『どうにかなる』の出だしは「どうにかなんとかなるだろ」で、『もうだめだ』の出だしは「もうだめだもうだめだ」である。『どうにかなる』は4分弱で終わるが『もうだめだ』は8分近くもある。しかもこの2曲がアルバムのほぼ最後に位置しているからたちが悪い。一枚聴き終える頃にはすっかり気分は「もうだめだ」である。もうだめだ。どうにかしたくて『どうにかなる』というアルバムを手に取ったのに気分が「もうだめだ」になるとは如何なる。もう。もうだめだ。「なんて絶望的な光景なんだ。なんて絶望的な風景なんだ。なんて絶望的な光景なんだ。もうだめだ。もうだめだ。私はもう、もうだめだ。もうだめだ。もうだめだ。私はもう、もうだめだ。」(『もうだめだ』より)

 どうにもならん。
 が、相変わらず好きな漫画、面白い漫画を読むと一時的に気分が昂揚する。
 くぼたまこと先生の『GO GO! ぷりん帝国』の新装版を買って久々に読み返したら最終回で泣いた。中学生の時にくぼたまこと先生に往復ハガキでファンレター出したら直筆で返してくれたのを思い出して二度泣いた。往復ハガキでファンレター送るという行為は思いやりと図々しさがほろ甘く共存していて我ながら素敵。その時にハガキでしたやり取りが「ヤリリンとクリリンの声はバカルディが担当しているらしいですよ!」「ヤリリンとクリリンがバカルディだとは知らなかったなあ」だった。確か。なんのこっちゃね。
 くぼたまこと作品は復刊ラッシュのようで、(僕の中で)最高傑作と誉れ高い『仮面レンジャー田中』がJIVEから復刊されていた。読んでみたらレンジャーが近所のお祭りでたこ焼きの屋台を出す話で休憩中にタバコ吸いながら小沢健二の『ドアをノックするのは誰だ?』らしき曲を歌っているシーンが修正されていてショック。全然違う曲を歌ってた。さらに「好きな歌…小沢健二『ラブリー』」とか書いてあった「これが仮面レンジャー田中だ」というおまけページも削除されていた。でも旧単行本持ってるからいいや。レア度が上がったということで。

 友達に勧められて読んだ『鈴木先生』が僕の「2007年に読んで面白かった漫画グランプリ」の優勝候補なのだが、その作者武富健治氏の短編集『掃除当番』を買って読んだらこれまたヒット。武富健治は死ぬまで漫画を書き続けて欲しい才能。時事ネタやセンセーショナルな題材を描くことを自らに禁じるなどのこだわりがいい。あまり衝撃的なネタをモチーフに使った作品は、実はあんまり好みではない。僕は日常フェチなのだ。

 さて練馬という惑星について考えるのに飽きたから今度は岡村靖幸の『聖書』のような状況について少し考えてみることにするか。



 本当に、考えれば考えるほど思ったことは誰にも言えなくなるな。正直にものを言って誰かに嫌われたほうがウソばかりついて嫌われるよりもずっとマシなんだろうとは思うがそんなに器用にはなれんので黙りこくるかもしくはどうでもいいことで口をすべらせた断片がはからずも誰かの心の敏感なところに突き刺さって凹ませたり怒らせたり。静かに胸の中にしまわれたり。
 最近思っているのは、何かをこうだと言った時にこぼれ落ちるものについて。みんな余りにもそれについて無頓着だなと。
 「みんな無頓着だな」というふうに「みんな」と言い切ってしまうと、頓着している人を無視した言い方になってしまう。こういうことがどうも、多いような気がするんだ。余りにも。僕を苦しくさせるくらい。

 適当で軽はずみなことを言っているのに、そうじゃないと思いこんでいる。言葉で何かを定義することに対して余りにも抵抗がなさすぎる。僕はというと、開き直って適当なことばかり言っている。これもよくない。「私は宇宙人です!」みたいな主張を平気で行う人がいる。多い。みんなそう。僕も気をつけているつもりではあるが「僕は宇宙人だよ」みたいなことをたまに冗談でなく本気で口走っている時がある。また冗談のつもりでもまったくそうは聞こえないような言い方をしてしまったり。
 かんたんな日本語の仕組みがわかってなかったりする。順接も逆接もうまく使えない。「ので」も「でも」も雰囲気でしかない。そこに論理が存在していない場合も多々ある。「私は地球人なので地球を守ります」というのは「なので」の使い方がおかしい。おかしいのだ。これはおかしいのだ。地球人であることと地球を守ることがどう繋がるのかがまったく不明だ。でもなんとなくわかるような気もしてくる。そういう雰囲気が今日本中にある。
 などと愚痴ばかり言っていても仕方ないな。もう少しでまとまりそうな気がするからもう少し考えてから書こう。え?考えながら書くなって?最初からまとめてから書けって?だからダメなんだって?あい。

 芥川龍之介の晩年の作品(遺稿と言われている)『闇中問答』を読んだ。僕もこのくらいものが言えるようになりたいな。

 頭の中は常に性的な
 欲望だらけ毎日ずっとずっと
 どうすればモテるか どうすれば儲かるか
 それがダメならSUICIDEさ
 (TVのシンガー)

■統合失調 / 平成19年9月22日(土)
 
 大阪から帰還しました。
 毎日違うことを考える僕は精神分裂病です。
 いいことのあった翌日に死にたくなり
 どうしようもないような出来事の次の日にはどうにか希望を探そうとします
 でもこんなようなことは過去に色んな人が言っているな
 何も読まずに生きてくればよかった。
 そうしたら心の底から何でも思える。

■言いたいことも言えないこんな世の中す / 平成19年9月20日(木)
 
 CHARCOAL FILTERというバンドの中にHARCOがいることを知ってショック。
 「だーめーな自分をー愛せやしないー」とか歌ってた人たち。
 
 これまで僕を好きだった人たちみんなを後悔させてやりたい。

 数日前、2003年7月ごろの日記(当時は日記ではなく月記だったが)を読み返した。なんたるエネルギーかとビックリしてしまった。偉そうで、自信満々で、カッコつけてて、常に逃げ道を用意しながら悪口ばかりを書き散らし、尖りに尖っていた頃。今とは結構考え方が違っていて、進歩主義というか、進化論を信じているというか、人間はみな同じレールの上を歩いているというふうに考えていたようだ。だけど2003年7月の途中で「認識の入れ子型構造論を更新した」とかなんとか言っている辺りを読むと、どうやらここで「人間とはもっと複雑な存在なのだ」ということに気づいたらしい。もちろん当時の僕だって本気で「人間はみな同じ道を辿る」とか「人間は『認識のレベル』でその価値を計ることができる」とか考えていたわけではないのだろうが、そのことをあえて否定はしていなかった気がする。「遅い」なんて言葉をあんなふうに使える神経は、今の僕からしたら信じられない。成長したというべきか、変化したというべきか。だが、基本的に「本音」では今の僕も当時と同じことを思っている。建前はもの凄い勢いで変化しているが、本音はさほど大きく変わってはいない。当時と今との違いがあるとすれば、成長があるとすれば、「上手になった」というだけのことだろうね。あー?今でも下手だけどさ。

 これを書くとまずいとか、こんなこと書いたら後でどんなことになるかわからんとか当時は全然考えてなかったと思う。キセルがどうとか書いただけで祭りになってしまうこの昨今。僕の過去日記とか全部掘り出されたら泉のように湧いて来るであろう悪行の数々。学校の先生になんか絶対になれん。
 昔は「日記に書いてあることが全て真実とは限らない」という信条でやっていたのを覚えている。半分フィクションのつもりであることないこと、わざと誤解されそうなことばかり書いていた。今でもそういうふうに書きたいとは思うが、書いてしまったらそれが真実だと思われて、叩かれて、悪ければ逮捕されてしまう。なんという時代。困ったもんだ。どっかに「この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。」とか書いておけば済むかなー。うん、いっぺんやってみましょうかこれ。

 そういうわけで明日から大阪に行きます。

2007/09/13

 今日から名古屋に行ってきます、たぶん1週間弱ていど。
 メルマガは極力出しますがウーチャカはわかりません。
 やれるかもしれないしやれないかもしれない
 火曜までに帰ってこれるかなといったところ
 家を空けている間は例の如く
 ↑のpoemってスペースで日記を書いていくかもしれないので
 恋しくなったらチェキってくだし。
 でh

 僕の脳味噌がどんだけ暴れたって
 頭は割れない

 みんな違う道のりを歩いているのに
 「まだそんなところにいるの」なんてナンセンスじゃないの
 道なんてねじくれくねってどうなってるのかようわからん
 インスタントラーメンの麺みたいな状態だというのに。

 僕は椎名高志のファンであり横島忠夫先生を尊敬している。
 だからみんな『㈲椎名百貨店』と『GS美神 極楽大作戦!!』だけは読んでくれ
 心うちふるわせる名言・箴言の数々に圧倒されることうけあい。
 圧倒されないのだったらきっとその人は真っ当な人なんだ。

■理想も現実色に染まる / 平成19年9月11日(火)
 
 夢を見る年齢じゃないけど、現実的な見方で夢を見られる年齢になってきたということなんだと解釈しよう。

 と、昨日書いたら
 「遅いよ。やっぱ男の子は時間の進み方が遅い。君は子どもだね」
 とふたつ年下の女の子から言われた。

 この言葉を否定する気はまったくない。全て正しいだろう。
 でもあの言葉に対してこの言葉が出てくるというのは非常に興味深いものがあった。
 ふだん僕の書いていることについて何か言ってくれる人はほとんどいないのでとても参考になる。

 はじめに種を明かすと、これは久々にやってしまった。引用というかオマージュというか。まぁ無意識に同じ表現を使っていたのに気づいておりながら放っておいたというのが正しいのだが、つまり結果的にほとんどパクリみたいになってしまっている。中村一義の『魔法を信じ続けるかい?』から「現実的な見方をもっても夢は見れる」。断りのない引用はできるだけすまいとしばらく前からなんとなく決めていたのだが(昔はそれを悪しき芸風として誇ってた)。あまりに好きだと出てしまうんだね。今日みたくあえてわざと使う時もあるんだが

 まぁそれはそれとしておいといて。

 女の子から「子どもだ」と言われるのは一度や二度ではない。目上の男性からは「若いから」と言われる。要するに僕は人格的にひどく未熟なようだ。ひとつも否定できない。
 僕に対して「時間の進み方が遅い」とか「子どもだ」とか言うのはなるほどわかる。だけど「男の子は」と一般的に言うと、まぁ僕も同意見ではあるがちょっと乱暴な気もする。ほんとにそうなんだろうからしょうがないけど。

 まぁそのことも別にいい。間違ってないと思うし。

 ただ、「夢を見る年齢じゃないけど、現実的な見方で夢を見られる年齢になってきたということなんだと解釈しよう。」という言葉からその感想が出てきたのが面白いと思うだけ。って、いかん。なんかりくつっぽくなってきたかな。まぁいいだろう。とことんだ。

 「現実的な見方で夢を見」るなんていうのは高校生か遅くとも大学生できれば中学生くらいまでに済ませておかなければならないということだよね。同感異議なし。
 進路を先延ばしにし続けて、とうとう大学を卒業してもそれが決まらないというのはひどい。そのうえこの期に及んで「ミュージシャンになりたい」「役者になりたい」「小説家になりたい」などとのたまう者がいてその99パーセントまでは身の程をわきまえぬワープア予備軍あるいはニート予備軍あるいはワープアやニートそのものだったりするんだな。
 中途半端に身の程をわきまえてただただ絶望だけをし続けるやつもいて、こうなるともう手に負えん。目も当てられん。紛う方無きダメヨダメダメダメ人間の代表。
 まぁ女の子でもそういう子はいると思うんだけどやっぱり男の子のほうがこれに陥りやすい気はする。よくわかる。本当にそうかは知らんが。

 そうだ思い出そう。極論はギャグにしかならん。

 ところで今さらだけど現実的な見方で夢を見るってのはどういうことなんだろう。意味がわからん。僕にもよくわからん。優しい読み手はわからんながらも自分なりに意味を考えて適当に理解してくれるか丁寧にスルーしてくれるので嬉しい。

 とりあえず考えられる解釈。
 「現実的な見方で夢を見る」とは

 【A】
 「現実の環境や自分の能力などを踏まえた上で妥当性の高い目標を設定する」
 【B】
 「理想とする目標について現実的な視点から検討し、それに向かって尽力する」
 
 結局は同じことなのかもしれんが、【A】は目標に対する妥協があるのに対し【B】はあくまでも目標のレベルを落とさない、という感じだろうか。
 まぁ【A】は最低でも大学3年生までには身につけておくべき力だよね。
 で、【B】は小学生くらいから身につけておきたい力だね。
 なんだこれ。
 
 
 【B'】
 僕は現実を見ているのではない。あくまで夢を見ている。
 現実を見るほど大人ではない。
 夢を見るために現実の力を借りようと。
 「現実的な見方で夢を見る」という言葉は
 たんに「夢を見る」ということを肯定し正当化したいだけの言葉である。
 「現実」に重きはない。
 夢を見たいんだ!僕は。
 
 おお、
 なんというモラトリアム。
 こども。
 大人にならんと。


 【C】
 夢を見たり、魔法を信じたり。
 石ころを浮かせようとしてみたり。
 神秘的なものを大切にする。一期一会。

 自分を信じる。
 (世の中に自分ほど信じれんもんはないと横島忠夫先生は言ったが)

 それで死ぬのなら構わない。
 それで好きな人が離れていくのなら受け入れる。
 ただ一つだけ使えそうな魔法があるとしたら唱え続けるしかない。
 それを愛してるなんて言葉で濁してしまいたくはないんだよ。


 夢みれば夢も夢じゃないと昔魔法少女プリティサミーのオープニングテーマで歌われていたがまぁ単純にそういうことなんじゃないのかなと今思ってここまでに書いてきたことが水泡に帰した感あり。これは小学生くらいから知識としては知っているけれども実感できるのは経験を積んで大人になってからなんだなと思った。もちろん実感する人もいればしない人もいるんだけど残念ながら僕はそれを知ってしまって現在非常に困っている。夢みなきゃ。


 僕は昔から「努力」という言葉が嫌いだ。かつて「ジャッキーって努力とかしたことないでしょ!」と言われたことがあって、僕はとっさに「ないよ!」と言い切った。努力というのは「嫌なことをいやいやながら頑張ってやること」だと決めつけている。好きなことを好きなだけやるのは努力じゃない、というのが僕の考え方。大学受験の時も僕は努力なんてしていない。だって勉強は楽しかったもの。取りかかる瞬間には多少の努力が必要だった時もあったかもしれないけどさ。だけどどの教科もやってて死ぬほど楽しかった。あのプレッシャーさえなければ。
 楽しくなかったらやらん!と言うとまた「ガキだな」と言われるんだろうが、人生、やってみたら楽しいことばっかりだ。だから大抵のことは、やる。自転車で東京から名古屋まで走るのは絶対に努力ではない。授業を受けるのも楽しかったし、楽しくなかったら自分なりに楽しいことしてたし、それも努力とは思わない。逆に言えば、気持ちよくなければ据え膳も喰わずに寝る。セックスなんて努力してするもんじゃない!楽しみながら覚えるべし。
 僕にとっては、努力なんて言葉を使ってしまったら楽しいもんも楽しくなくなる。誰が気持ち良くないのにセックスをしますか。誰が楽しくないのに勉強なんてしますか。みんなしてるみたいだけど楽しまないと損だぜ。楽しめないならせんでいい。だけどと思うならそれを無理に強いる社会が悪いと思ってはみだせ!
 とまた極論。
 向いてないのに死にそうになって勉強して大学に行って大学で勉強できなくて困って社会に出てそれなりの会社に行ってまた困って鬱になってでも家庭あるから頑張って、って。
 そんなんより別の道があっただろう?って思うんだけどなあ。
 かつての教え子(けっこう良い大学に行った)がそうならんことを祈る。


 じゃあ好きなことを好きなだけやるってなんなの?
 それが夢みるってことなんだろう。
 と、魔法少女プリティサミーのオープニングテーマで歌われていた夢みれば夢も夢じゃないという言葉を思い出して感じた。


 夢みる照れくささを必死に正当化しようと頑張ってたんだな
 今わかった。

 つーか、遅くてもいいだろう。
 せっかく夢みる気になったんだから
 起こさないでくれ。


 しつこいようだが、そしてあまりにも無駄でいつも以上に支離滅裂な長文だったが全てここにたどり着くまでの思考過程だったと考えて。公開ひとり討論だったってこと。ようするに「夢を見る年齢じゃないけど、現実的な見方で夢を見られる年齢になってきたということなんだと解釈しよう。」を翻訳すると
 
 「いい年して、夢を見ちゃったんだよね。恥ずかしいな。でもがんばるよ」
 
 
 
 
 わかるかなあ。わかんねえだろうなあ。
 で、ぐぐれ。

■根強いふぁん / 平成19年9月10日(月)
 
 日曜日の深夜だが。今し方突然電話がかかってきて出たら高校時代からの友人、というか僕のファン、というか追っかけからであった。なんだかべろんべろんに酔っ払っておってべらべらと僕の声やら文章やら演技やらをべたべたに褒めてくれた。まだそのような旧人類が生き残っておったのかと感動にむせび泣いていたら急に切れた。何だったのだろう。
 
 芝居の世界に戻らないの?とか言われたが戻るほどどっぷりと漬かっていたわけではない。なにぶんアマチュア演劇の経験しかないので。3年近く前にやった芝居の演技について「とても魅力的だったのに」とのことだがいやそれは君が僕のこと大好きだからでしょう。こと声が好きだからでしょう。声はそういえばたまに良いと言われる。女子に。げへへへ。

 「最近ジャッキーの昔書いてた文章を読み直してて」
 「エッそれはいつごろの?どんなやつ?」
 「よくわかんないんだけど…勝手に保存してたやつだから」
 「勝手に保存?」
 「うん」
 「どういうこと」
 「あのーきりばりして…」
 「まさか日記をコピペって『個人的ジャッキー集』を作っているのではないだろうな」
 「あーそんなかんじ」

 まさしく旧人類の生き残り!
 と、あまりに嬉しかったので自慢してみた次第であるよ。
 まだいたんだなあ、物好き。
 
 なんだかんだ言って女子受けがいいのだなと
 たまに届く知らない人からのメールなんか見てても思う。
 女子向けで可愛い思春期ボーイの萌え萌え一人称小説とか書いたら
 売れないかな。売れないな。いや売れるかもしれないけど、書けない。ああ。
 
 最近冗談で「僕は女の子だから!」なんてことを言っている
 非常に気持ち悪いジョークだが
 精神的にも身体的にも女の子っぽいところがあるなあと思う
 まず体毛が薄い。わき毛がとことん生えない。まったく生えてないんじゃなくてちょこっとだけ生えてきてるのが非常にきまずいのでたまにいらついてハサミでちょいちょいカットしているとここで告白。いっそ剃るか。
 顔は、高校くらいまでは僕も可愛かったと思うが最近はもう劣化してきて駄目。人前に出られない。引きこもってしまう。うう。嶽本のばらのように生きたい。
 こんな文章を読んで「安心する」とのたまう彼女はやはり頭がおかしいとしか思えない。しかし頭がおかしい人のセラピーになりうるのならそれはそれでまあ捨てたものでもないかな。元々思い詰める系ガールにモテるし。一般のかわいい女の子に好かれたい。でも美人は怖い。目が大きいと呑み込まれそうで直視できない。口も然り。あばばばば。パーツ小さい系いいね。

 日本全国のパーツ大きい系女子ごめんなさい。決して嫌いじゃないんです。実際のところ怖いか怖くないかは99%人格で決まります。アレ系とかアレ系は怖い。すくむ。
 それにしても三ツ矢サイダーはうまい。夜中に買いに出かけてしまう飲料現在のところナンバーワン。
 深夜なので筆がすべる。
 夢を見る年齢じゃないけど、現実的な見方で夢を見られる年齢になってきたということなんだと解釈しよう。
 一度輝いたものはもう色あせない。
 そう信じていくしか生きていく道はない。
 
 なんだか懐かしい人と話をして昔を思い出してしまった。
 もっと僕は正直に思春期なことを話したい。
 しかし社会に出てしまったらこのサイトも閉鎖かな。
 それが社会に出るっていうことなんだよな。
 だって社会人としてこれは、ねえ。特に教員だったら、生徒に見られたらもう、終わり。
 ある種のカリスマは勝ち取れるだろうが…。

 高校の頃、このサイトが先生の間で問題になって勝手にプリントされ職員室内で回覧されたことがある。教育実習の時にも担当の先生にしっかりチェックされていて、窘められた。親からも少し言われたことがある。もう、本当に、その都度死にたくなるよ。
 
■近況報告 / 平成19年9月9日(日)
 
 二人だけの世界には本も映画も音楽もあってはならない。きれいな海もディズニーランドも真夜中の公園もあってはならない。ジャラジャラうるさいアクセサリー、指輪、バッグ、携帯電話、家や自転車のカギ。そしていかなる言葉もそこにあってはならない。
 
 玉葱を刻んでシーチキンとマヨネーズでからめチーズとレタスを敷いたパンに乗せ3分焼いて食った。500ml缶の三ツ矢サイダーを100円で売っている交番の横の自動販売機でいつものように買い物を済ます。暑いので窓を開けてスピーカーの音量は絞らないでいる。柄にもなく仕事を探しているが多くのものを犠牲にしている割には何の結果も得られる見込みがない。

 2007夏のアフタヌーン四季賞をようやく読んだ。大賞がすばらしい。

 床にソノシートが散らばっている。人生をソノシートに喩えた人がいないかと思ってGoogleで検索してみたらナゴムレコード関連のページばっかり表示された。考えてみれば当たり前のことだけどちょっと笑った。

 結局、こうしてここで文字を打っている時だけが僕の幸せな瞬間なのだなと思う。それ以外のことでやりたいことなんて特にないんだということがようやくわかった。

 何でもいいから何か水道水以外のものが飲みたい。緑茶が飲みたい。静岡に行きたい。掛川駅近くの図書館にはタダでお茶が飲める休憩所があるからそこへ行きたい。青春18きっぷが明日までだけど少しずつ涼しくなってきているからあえて使わずに自転車で名古屋に帰ろうかと検討中。金曜日に母校の演劇部が公演をやるらしい。今年は新入部員がいっぱい入ってなんだか賑やかそうだから、練習も見に行ってあげたいなあ。

 とはいえ明日帰っても実家で特にやることがない。平日だし。穀潰しだし。昨日久々にVIPでラップしたメーン。リンカーンのメーン見て触発されたメーン。新曲はウーチャカで流すメーン。殺伐とした馴れ合いをしたいな。

 どんなものが好きだとかどんなものが嫌いだとか簡単に決められない。ジャンルやカテゴリに分けてわかったふうな顔はしたくない。なんか虫が入ってきてブルー。

■サザンの真髄 / 平成19年9月6日(木)
 
 三流ミュージシャンに何語らせてんの
 君の代弁者じゃ可哀想
 勝手に家庭教師、お出かけ先まで携帯で
 インスタント教義の同志は跳ねる
 黙り込んでいる相手を腹話術で喋らせることはできない
 饒舌なパフォーマーの後ろに立って音声OFFのボタンを押せばいい
 放った先から腐り落ちていく言の葉を拾い集めて
 肉でできた前衛的オブジェのようにグロテスクな物体を造り崇めてる
 それはそうとサザンオールスターズを嫌う奴らがいる
 古くさいとかワンパターンとか夏と海だろ的な
 とりあえずこれを見てからそういうことは言ってほしいわけだよ。
 
【ニコニコ動画】サザンオールスターズ / チャコの海岸物語(NHK紅白'82)
【ニコニコ動画】(PV)サザンオールスターズ ミス・ブランニューデイ

 ニコニコ見れない人ごめんなさい、Youtubeで探したら無かった。
 あとこれは僕の好きな曲

【ニコニコ動画】サザンオールスターズ 希望の轍

(おまけ、名演奏)

■王道と本物 / 平成19年9月5日(水)
 
 というタイトルの日記を、書いては消し、書いては消し。もう僕は何も言えなくなっちまった!大御所だから書かないんじゃなくて、書きたくても書けないっていう、深刻な問題。いや、書けないというよりは、書けるんだけど、納得いかない。あ、これが大御所ってことなのか。別に大でも御でもないんだけどねえ。所って感じか。ジョージに失礼。
 
 
 もうだからポエムになってしまう、どうしても。

■おめでとうドラえもん / 平成19年9月3日(月)
 
 お久しぶりです。
 最近はめっきりメールマガジン「( ・∀・)ノ<たまにはメールくれよ」とネットラジオ「ウーチャカ大放送」にかまけて、日記を書いていません。あっ、久しぶりなのでなぜかですます調になってしまいました。ええい。ウアー。
 7月いっぱい日記に力入れすぎて、軽い気持ちで書けなくなってしまったのが最大の原因。こっからはちょっと旧来の適当雑記に戻しますか。と言っても、適当に書いていると不適切な表現とかが出てきてしまいそうで怖い。
 
 最近自他共に認めるmixiツンデレで、2005年11月からmixi日記を書いていないことになっています。今日はドラえもんの誕生日だってことで、何か書かないとまずいだろうなと思って先ほど久々に書いてみましたが、あまりにも酷かったのですぐに消しました。もう普通の文章が書けなくなっています。


タイトル
<br>
本 文
現代に蘇りし中津川フォークジャンボリーすなわちフジロック
元ヴィジュアル系ロックバンドの演奏に狂喜乱舞する処女
下手ギターの投げたピックで乳首と言わず陰核と言わずかき鳴らす
夢見心地に舌なめずり
時計のない部屋を/鼓動が刻む/頭を抱え/沈み込む指/顔色一つ/進まない時間/痛みの鐘/暗闇に閃き/笑いながら食べる/眼を焦がす/進み出す時間/聞こえる音/鮮やかな色/焦げた匂い/煌めく雑音/真っ白な言葉/戸惑う笑顔/心中の約束/を交わす
人生なんて絶望するほど素晴らしいものでもない
愛する人は下手ギターのピックで乳首と言わず陰核と言わず
かき鳴らす
あらゆる本物には関税がかけられている
「しょうがない、雨の日はしょうがない」とラジオは言う
畳まれたままの蒲団に顔を押しつけ
固まったままの表情はまるで笑っているみたいだ
風の音と蝉の声が夏を警告する
台所の旧い冷蔵庫がそろそろ水浸しになる
酸性の汗に心も躰も融かされて
虫たちと夜が無遠慮に部屋の中に入り込む
夏に冬のことは考えられないし冬に夏のことは考えられない
「夜が!夜が燃えている!」などと喚いたって
冷たい夜しか知らないような奴らには届かない
凍えるような夜に震えている人と
鉄板の上で眠らされているような人とが
このように抱き合ってみたら何が起こるのだろう
僕たちはだめだね
熱くて熱くてもう何も考えられない
もうじき夜明けだが新しい朝はすぐに腐る
太陽に目が慣れたら文句の一つも出ない
希望と絶望を算数みたいに取引しているだけでまた一日が終わる
Oh Yeah ドラえもん、誕生日おめでとう
残り105年、僕たちはしっとりと生きながらえる予定
http://dora-world.com/index.html

 人間、色気を出すとろくなことがない。mixiみたく容易にレスポンスがもらえてしまうぬるま湯空間は文章をダメにします。↑みたいな素晴らしい(!)文章には絶対にレスがつかない。つくとしても最後の三行についてのレス。まー↑みたいなのはどこに発表しようがレスはつかんわけだが(されても困る)、人はどうやらレスを求める生き物らしくて、尖った文章にレスがつかんことがわかればレスがつくような文章を書こうと努める傾向にあるらしく、大抵は軟らかくわかりやすい文章にシフトしていく。僕好みの文章を書く人たちがmixiに入ると、だいたいそんな感じに日和っちまって下らない文章を書き出すか、あるいはまったく何も書かなくなってしまう。
 mixi日記が下らない文章になっていくのにはもっと色んな理由が思いつくけど、まぁまとまったら書くことにしよう。

 しかし最近あまりにmixiに対してツンデレすぎてみんな僕のことを「なんだあいつ死ねばいいのに」とくらい思っているのである。そうに違いない。「だってレスがないもの」。そう思いこませてしまうくらいmixiというのはすごい。みんながはまって抜け出せなくなっているのがよくわかる。かく言う僕も完全には抜け出せていないわけだし。色気を出したのは「ドラえもんの誕生日だから」っていう理由だけじゃあるまい。

 「なんだあいつ死ねばいいのに」は言い過ぎだとしても、みんなが僕に対して「形の上では」無関心になっているのは確実。「だってレスがないもの」。

 いつも思うけど僕の文章は拙すぎる。

 まぁ本来あるべき姿ってことだよ、「形の上で無関心」というのは。みんな「形の上で無関心」=「レスがないこと」を、「本来の意味で無関心」であると勘違いしてしまっている。勘違いさせてしまうだけのパワーがmixiにある。凄い。
 「形の上で関心がある」という状態がひとたび作り出されてしまうと、「形の上で無関心」という状態が際だつんだろう。
 
 そういえば江ノ島と鎌倉に行ってきた。それで今日はサザンオールスターズばっかり聴いている。『PARADISE』とか『イエローマン』とか、TSUNAMI直前の売らなかった(×売れなかった)シングルが大好き。
 
 江ノ電かっこいいわ。
 帰りに近所の飲み屋に行ってみたら、結構良かった。カウンターだともっとゆったりとできるんだろうか。こんど酒だけ呑みに行ってみようかな。マティーニうめえ。
 そのためには金が要る。こんなことをしている場合ではない。

 ではどうしたらいいのだろう。
 
 死にたいも雰囲気。憂鬱も方便。
 そう書いた。
 「死にたい」というのは「辛い」と同義語でまぁ間投詞みたいなもんだ。それは誰がどんな状況で使っていようが一緒。「死のう」とか「死なせてくれ」とは種類が違う。死にたいはいつでもリズミカル。

 死にたいと漏らせば漏らすほど憂鬱が増えるのは虫さされを掻きむしって余計痒くなるのと同じようなものだ。性器がむずむずするから弄くってみたらもっとむずむずする。そして虚しくなる。
 死にたいと呟けば必ず虚しくなる。貧乏で童貞で恋愛ニートなエロ男が「やりたい」と呟くのと同じくらい、絶望をクスリやファッションにしている人間が「死にたい」と呟くのは虚しい。せめて叫んで見せろと思う。mixiに日記なんて書いてないで。

 そろそろドラえもんの誕生日が終わるんで、このへんで。

JのHPに載ってるポエム
 
 
 死にたいも雰囲気。憂鬱も方便。神が知っていてくれたらそれでいい。僕は一人称の小説を書いて、それをただすらすらと読み上げているだけに過ぎない。饒舌、違う。台本がある。自動筆記の台本。それで君は精神鑑定をしようって。なるほど。
 
 誰にもわからない言葉で話すのは易しすぎて疲れる。しかし呑み込まれるのは怖い。音楽に言葉を乗せるのは限りなく卑怯だ。僕は彼らを羨ましく思う。
 
 ソニー・ロリンズの『サキソフォン・コロッサス』を聴いている。お父さんがよく聴いていた盤。扇風機に絡みついたサックスの音が裸の上半身を冷やす。緩やかに揺れ、脳を融かす。ジャズは染み渡る。そういう教育を受けてきた。
 
 演劇を構成する要素のうち脚本というのはほんの一部でしかない。劇場、役者、照明、音響、装置、衣装、メイク、受付、会場のBGM、ポスター、宣伝、お客さん…あらゆるものが演劇の一部。だが芝居を観る人の多くが脚本、特にストーリーに重点を置いてしまう傾向にある。悲しいことに、作り手の中にすらそういう人は少なからずいる。これは高校生の頃に友達が言っていたことだ。同じように、優れた小説はストーリーだけを問題にしないし、優れた音楽は歌詞だけを問題にしない。…そもそも、芝居や音楽に言葉がつきまとう必然はないんだけど。

 小学生くらいのころ、オーディオとジャズとクラシックに酔狂な父親に「指揮者によって何が変わるの」みたいなことを尋ねたことがある。オーケストラが同じなら、指揮者が誰であろうと変わらないだろうと思ったらしい。どんな返答があったかは覚えていないが、とにかく僕はその時に流れていた交響曲に耳を澄ませて、一つ一つの音を理解しようと思いながらひたすら聴いていた。「自分で曲を作らない歌手ってなんなの?」とかいう今思えば馬鹿丸出しの考えも、その時に消えた。

 キーボードで文章を書いていると、まるで楽器を引いているような感覚を得る。作曲してる感じ。酔っぱらったみたいになって、なんか脳からどばどばと出てくる。
 
 好きな女の子を呼び出して、思ったことを思ったままに話した。これは高校生のころの話。何も変わっていない。僕はもっぱらジャズ気取りで話した。彼女も僕の話すのを、まるでお父さんがジャズを聴く時みたいに真剣に聞いてくれた。僕は彼女の言葉をどんなふうに聞いていただろう。「理解しよう」と思わなければ何も聞こえてこない。音楽と同じだ。「理解とは何か」は、あとからついてくる。いつか彼女は僕から離れた。

 わかったふうになることが嫌い。何もわからないくせに、四つか五つかに分類してわかったような顔をするなんて、どう考えたってギャグじゃないか。笑えないB型批判には何の意味もない。

 忘れられないレコードがあって、ミュージシャンも題名も知らない。それもお父さんの愛聴盤だった。電話して、メロディを口ずさんで、これ何てレコード?って聴けばすぐにわかる。でもしない。中古屋に行ってきます。じゃあね。あとで寄るよ。


【重要】メルマガはじめます

 不定期メルマガ発行します。うまくいったらこっちをメインにするかも。
 初期Ezの精神(活字芸術など)に立ち返り、投稿or投書に重点を置いてやっていこうと思っています。僕は毎回何か書くつもりですが、購読している人たちも気軽に発言できる場が作れたらなあと。興味ある人はメールフォームから「メルマガくれ」と送信してください。アドレス添えて。悪用しません。
 
 なぜ今メルマガかって?いや、だって、もう友達からPCにメール来るとかってほとんどないじゃないですか。みんな携帯かmixiかメッセでコミュニケーションしちゃうから。でも、PCにメール来るとちょっと嬉しい感じがあると思うんですよね。なんでかわかんないんだけど。ブログにコメントもらうとか、携帯にメール来るとかっていう喜びとは少し異質なうれしさが。そういううれしさが届けられたらいいなあと思って。んで、一方的な僕の独り言というよりは、いろんな人がいろんなことを言えるような場が作れないかなあと。メルマガとメーリスが合体したみたいなのが理想。うまくいくか知らんけど、とりあえず試験的に。はじめはせいぜい僕と添え木くんがだらだらと何かを書くと思いますが、気が向いたら何でもいいんで送ってください。新聞の投書欄みたいなのとか、テーマ決めてコラム募集とか、書評とか、みんなで俳句を詠もうとか、やってみたいな。ふくらむ夢。スクラム組め。
 
 できれば次回のウーチャカ大放送の直前くらいに第一号が送れたらいいなと思ってます。ラジオしながらのチャットが非常に楽しいので、ウーチャカ大放送はしばらく続けます。せめて第50回くらいまでは。

 インターネットのコミュニケーションって、mixiと2chだけじゃないんですよ、と言いたい。知らない人とチャットしたり、メールを送り合ったりっていうような、20世紀的なネットコミュニケーションの復古を願って、ちょっといろいろやってみます。微力だけど。せめてEzを読んでくれている人たちの間で、ほんの僅かでも繋がりみたいなのが作れたらなあと本気で思っています。いつかオフ会するのが夢なんで…。
 だけどそのためには読者をもうちょっと増やさなきゃいけないなあ。そしてそのためには楽しいサイト作りをしなければいけないなあ。だけどもう、無理だなあ。かつての読者の方々はきっと愛想を尽かしてしまっているか、ここのことなんて忘れてしまっているのだろうなあ。ううむ。
 しかしでもまぁ、読んでくださっている方々も少なからずいるようなので、マイペースに頑張っていきたいと思っております次第であります。


 自分の価値観への誘導を行っている人が多い
 「自身の価値観への誘導」を批判する人ですらそれをする
 これはもう仕方のないことなのかもしれない
 ある人がその人として生きていくためには
 「自分」なるものを持たなくてはならないから

 孤独にならないためにみんなそうする
 自らを守るために
 でなければ空っぽの人間になってしまう?




 矛盾はある
 あって良い
 それなのにみんな自分に何か軸のようなものがあると錯覚する
 自己矛盾に気付かなければ幸せだが
 気付いてしまうと
 「人間として軸がぶれている」などと思い悩む

 自分で設定した軸に振りまわされてどうする
 「私はこういう人間だ」という設定に沿った行動、思考
 そればかりに縛られ、囚われ、本当のことを見失う。
 自分、自分、自分、自分。
 他人、他人、他人、他人。
 世の中を自分と他人の二つだけに分けることから、まず
 おかしいと思うんだけど。

 もっとごちゃごちゃしてていいと思うがな。
 ルールなんて娯楽以上であるものか。
 考える。分析する。理解する。理由を追究して息をつく。
 楽な生き方だ。



 ただ現実を冷静に観るというのは処世術として長けている
 リア充のために努力を惜しまない精神は肝要
 でなければ退廃的に生きざるを得なくなる
 したら死ぬしかなかろうが
 好きな人がいるなら一緒に幸せになろうと思うのが常考

 結局行き着くところはみな同じ。
 僕だってわかっている
 ただちょっと気になっているだけ
 世界はパズルじゃない
 そう思うだけ。

 緑の田んぼが工場にかき消され、人里の匂いを夕焼けが真っ黒に染めていく。電車は一日中走る。手を変え品を変えて走り続ける。魚の腹を包丁で捌いていくような東海道線。静岡県内を快速が走らないのは新幹線を売るためと、追い抜きの煩わしさか。始終ゆったりとした時間が続く。
 名古屋から新宿までと言ったら、新快速で浜松。そこから熱海行きに乗って、快速アクティー、平塚あたりから湘南新宿ラインで直に新宿へ。なんてのが理想的だが、どっかで崩れるようにできている。結局5回も6回も乗り換えなければならなくなったりする。
 

 ああ、海へ行きたい。もう人のいない頃に。サンダル履いて。歩いたり座ったりしながら、ぼんやりと話をしたい。水平線をじっと見つめて、夕陽の冷たさに戦慄したい。日が暮れてからまた電車に乗って、べたついた髪を撫であって黙り込む。
 塩を舐めたい。海の味の塩。波の音の塩。海面にキラキラと光る、あの色の塩。
 家に帰って、疲れた。なんて言いながらも、しっかりとやることやって、あとで首筋を舐めると、そういう味がする。そういう音が髪ごしに聞こえる。そういう色の体液がまた、つーっと流れる。そういうふうに男の子は、海に戻る。海に戻った女の子の中に還る。お互いにしょっぱい味を噛みしめて、口の中で共有する。
 それで彼女はさらっと涙を流す。舌で舐めとってみる。とても甘い。
 

 自分の想いを自分の言葉で語るのは簡単だが今の僕にはもう到底できない
 自分の想いを何かに仮託して語るのは難しいがどうにかできそうな気がする

 恥ずかしいからな。いい年して、すごいことを思っている。
 そんなことは言えない。書けない。
 だけど僕ではない誰かがそう言っているという「設定」で
 何かを語り出すのならば、それはそんなに大変なことではない
 ただ技術的な問題や、手間とか、面倒くさい手続きが幾らかあるだけ

 世の中は誤解に溢れている
 矛盾ばっかり
 理知的になろうとすればなろうとするほど
 誤った前提が深く深く穴を掘り、気付けばもう抜け出せない
 頭が悪いというよりは、頭がおかしい。

 いろんな人にいろんなふうに言われる
 すべて決めつけと思いこみ。
 信用できるものなんか何もない。
 他人を分析することは、それがギャグにならない限り、無礼の極み。
 僕が誰かにできることがあるとすれば、「不快だ」と言ってあげることだけ。
 不快だ。 

 たとえば恋人に自分よりも好きな人がいたとして、
 そのまま付き合っていくことなんてできるはずがない。
 そういうことに目をつぶって生きていけない僕は
 やっぱりどこまでも子どもなんだと思うよ。
 我が儘で、勝手で、嫉妬深くて、何も考えていない。
 力も持っていない。
 ナイフを手に入れることもできない。
 泣いていることしかできない。

8/7くらいまで旅に出ます

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