少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。
過去ログ
2007年6月a
2007年6月b、7月
2007年8月、9月
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■『間引き』と『寄生獣』(2007.07.27)
■『宇宙船サジタリウス』と『うさぎ!』(2007.07.19)
■インターネットについて。Ezにできること(2007.07.16)
■あらゆることへの答え(2007.07.15)
■「毎月の環境学会々報」第四号(2007.07.14)
■『人と超人』のラストを訳してみた(2007.07.09)
■小畑健『人間失格』~萌える!純文学~(2007.07.07)
■偏向報道と2chとWeb日記と保守主義の哲学(2007.07.04)
■飲酒としての読書、クスリとしての読書(2007.07.02)
■『ワッハマン』と『飛べ!イサミ』(2007.07.01)
■「ドラえもん裁判」と死刑(2007.06.30)
■『ドラえもん』の主人公はだれか?(2007.06.30)
■僕がHTMLにこだわる理由(2007.06.29)
■『間引き』と『寄生獣』 / 平成19年7月27日(金)
(ここの一文が2chで叩かれたのでカット!2016/06/13)
☆
ニュースを見ていると淫行と売春と強姦ばっかり。我慢しろよ、少しくらい。セックスをしたいのはわかるが、節度をわきまえなさい。なんのために風俗産業があるんだ。ソープ行って満足しろ。
などというのは2ちゃんねるで書くべきなのだろうか。この程度のことでも非匿名の場で書くのは非常に勇気が要る。何が叩かれるかわからん。
淫行、売春、強姦に加えて、親が子を殺す、子が親を殺す、生徒が教師を殺す、など、ごく親しいはずの関係の人を殺す事件の報道も目につく。
これですよ!!ぼくのいっていた、人間を動かしている巨大な力というのは。あの子を見てどう思います?母性愛がまったく失われていることを感じませんか?あの子だけじゃない。近ごろの一般的な社会現象から感じませんか?異性愛、肉親愛、隣人愛、友情……あらゆる愛情が、最近急速に、消滅しつつあることを感じませんか?実にあっさりと血を見るのが今日この頃です。長年絶対視されていた道徳の基盤がひっくり返りつつある!「生命の無差別的絶対尊重」という……。そう思ってみれば、この「愛」なんてものは種の存続のための機能のひとつにすぎないんだね。だから、これがじゃまになれば取っぱらってしまえということですよ。自然の摂理というか大いなる宇宙意志が介入してきたんですよ。今後ますます激しくなるでしょうな、憎み合い殺し合い……効率の良い「間引き」が行われて………。適当な人口にまで減った時、人類は再び愛をとりもどせるかもしれません。昔の人はみぬいていたんですね。「衣食足りて礼節を知る」ってね。
(藤子・F・不二雄『間引き』1974年)
『間引き』の発表は1974年。舞台設定は1980年で、世界の人口が45億に達する瞬間が描かれている。
現在の総人口を鑑みると、なんとも背筋の寒くなる話だ。「あらゆる愛情が、最近急速に、消滅しつつある」なんてことを33年も前に言っているのは、さすが。ちなみにこれと近い時期に藤子不二雄A先生は社会に適応できない引きこもりを描いた『明日は日曜日そしてまた明後日も』(1971年)という短編を発表しているが、こちらも超名作。両先生の社会を見つめる瞳の鋭さには感服の極みである。っていうか、日本って、何十年も同じような問題を抱え続けているのかね。
引用したのは、赤ん坊捨て場の現場となっているコインロッカーの管理人(主人公の初老男性)のもとへ取材に訪れた「週刊朝目」の記者のせりふ。記者はこうも言っている、「赤ン坊殺しというのは氷山の一角にすぎなくて、問題の根はもっと深いところにあると、陰で人間を動かしている巨大な存在があるのではないかと思うわけです」。人口爆発による食糧危機を察知した人間は、人口を調整するために効率的な「間引き」を行って、愛情を持たないようになる。誰かがそうしろと言ったのでも、みんなが自発的にそうすべきだと思ったわけでもなくて、もっと無意識的、本能的に、「種」の意志だとか、「自然の摂理」だとか、「大いなる宇宙意志」だとかいうものに動かされてそうなっている…。
地球上の誰かがふと思った
『人間の数が半分になったらいくつの森が焼かれずにすむだろうか……』
地球上の誰かがふと思った
『人間の数が100分の1になったらたれ流される毒も100分の1になるだろうか……』
誰かが ふと思った
『生物(みんな)の未来を守らねば…………………………』
(岩明均『寄生獣』第1話 1989年)
『間引き』と同じ発想を長編化して大成功を収めた作品が『寄生獣』である。
「えっ?」と思った人がもしいるとしたら、『寄生獣』にこんな台詞があるのを読み落としていないだろうか?無敵の寄生生物、後藤を倒した後にミギーが言う。
ヤツの体に充満する怒りの正体……
それは脳を奪わなかったわたしには存在しない感情だ
すなわち“この種を食い殺せ”
(第62話 1994年)
ミギーは他の寄生生物と違って人間(シンイチ)の脳を乗っ取ることに失敗したため、「この種を食い殺せ」という感情を持たない。つまり「この種を食い殺せ」とは寄生生物の意志ではなく人間の意志なのだ。第一話のナレーションにある「地球上の誰か」とは、人間あるいは人間を“含む”あらゆる生物のことを指す。
このことを勘違いして、「人間対寄生生物」「人間対地球」「人間対その他の生物」「人間対自然」という視点で『寄生獣』を評してしまったり、あるいは「人間=寄生獣」というレベルの認識にとどまっている人が割といるように思う。これらは作中の「広川市長」による主張と重なる。広川市長の言っていることは現実にもよくいる「いい人」たちの陥りがちな極端過ぎる発想であって(広川市長はすっげーいい人なんだと思う)、『寄生獣』という超名作が訴えていることでは決してない。
「この種を食い殺せ」という寄生生物たちの感情は、実は彼らの“ボディ”である人間たちが潜在的に持っていた感情である。寄生生物が地球や(人間以外の)自然の代弁者であるとかいう話ではない。広川市長はそのあたりを勘違いしていたのだろう。「地球上の誰かがふと思ったのだ………生物(みんな)の未来を守らねばと……」と彼は言うが、おそらく彼の言う「地球上の誰か」の中に人類は含まれていない。
第1話のナレーションで言われていた「地球上の誰か」の代表は、たぶん最終話でシンイチと対決する凶悪殺人犯の「浦上」だ。浦上は寄生生物に乗っ取られているわけではなく、ただの人間である。
寄生生物(バケモン)どもが人間を殺すなァわかりやすい、ただの食事だ…… でもこのおれァ何だと思う? いや……たぶんおまえにゃわかってるはずだ、おれこそが“人間”だとな。なんでおれ以外の人間(ヤツ)はこうガマン強いのかねえ。人間てなもともとお互いを殺したがってる生き物だろ? 大騒ぎしすぎなんだよ、みんな血に飢えてるくせしやがって。自分の正体もわからねえ人間(ヤツ)がおれに文句を言う…………でもおれはひと目で寄生生物(バケモン)と人間を識別できちまう。現代(いま)がどんだけ不自然な世の中かもわかる。寄生生物(バケモン)なんざ必要ねえのさ!人間はもともととも食いするようにできてるんだよ、何千年もそうしてきたんだ!それをいきなりやめようとするから50億にも60億にも増えちまう。このままじゃ世界がパンクしちまうぜ。みんなウソつきだがおめえは違うよな? おれみたく正直者になれよ。(最終話 1994年)
浦上という男は、おそらく広川市長以上に「人間」という生物に対する深い思慮を抱いていた人間だろう。人を襲い、食らうのは人間の意志、いや本能なのだ。「人間は寄生生物に寄生されると(乗っ取られて)凶暴化する」という現象は、「人間は寄生生物に寄生されると正直者になる」と言い換えることができないだろうか。「この種を食い殺せ」という感情は人間の持つものだ。現にミギーはシンイチの脳に寄生しなかったために「人間を襲う、食う」という発想をまったく持たない。もしも人間が「この種(人間)を食い殺せ」という感情を全く持っていなかったとしたら、おそらく人間と寄生生物は共生できる。寄生生物は必ずしも人間を食べる必要はないのだ。ミギーがそうだし、他の寄生生物たちも後藤が死んだあと人間を食べなくとも生きていけるように食生活を変えることができた。
浦上は人間の本音を語っているだけなのである。人間は誰しもが(少なくとも寄生生物に寄生されて人間を襲うようになる人たちは)心の中に浦上の言っているようなことを本音として持っている。「生物としての本音」「生態系の一部としての本音」と言ってもいいかもしれない。だが、『寄生獣』という作品は浦上を否定し、「生物としての人間」ではなく、「人間としての人間(人間らしさ)」に光を当てる。浦上の言う人間の「ウソつき」な部分こそが素晴らしい、というのである。そりゃそうだ、「正直者」である浦上の行為が正しくないなんてことは、「ウソつき」な僕らには難なく理解できる。
ある日道で……
道で出会って 知り合いになった生き物が ふと見ると死んでいた
そんな時なんで悲しくなるんだろう
そりゃ人間がそれだけヒマな動物だからさ
だがな それこそが人間の 最大の取り柄なんだ
心に余裕(ヒマ)がある生物 なんとすばらしい!!
だからなあ……
いつまでもメソメソしてるんじゃない 疲れるから自分で持ちな
(最終話 1994年)
最終話でのミギーのせりふ(引用部の後半)は、そのことを言っている。人間である広川市長や浦上が「人間の人間らしさ」を否定するのと対照的に、人間ではないミギーはそれを肯定する。なぜミギーは人間の肩を持つのか?それはおそらく、ミギーは人間であるシンイチと「友達」になったからだと思う。どう考えてもこいつら友達だよね。もしよかったら、前回「友達」について書いたのをあとで参照してほしい。
『寄生獣』は、自然も地球も寄生生物も描かない。描かれているのは、人間だけである。ミギーだけが特殊だが、彼に関しては「人間のような感情を持つようになる様」が描かれているので、結局はやはり、人間だけを描いているんだろう。人間を自然だの地球だの寄生生物だのと対置させて『寄生獣』を解釈し、環境がどうの共生がどうのと語るのはナンセンスだ、と僕は思う。とすると結論としては陳腐に、「『寄生獣』は人間を描いた作品だ」ということになってしまうが、まぁこれはいろいろな言い方のうちの一つでしかない、『寄生獣』はもっと可能性を秘めた作品だ。
余談。人間の脳に寄生していない純粋な寄生生物であるはずのミギーが、シンイチとの友情(絆と言ったほうがいいか)の中で人間に近しい感情を持ち、シンイチを友達として認めるようになる。これは少年漫画の超名作『うしおととら』(藤田和日郎)において、妖怪「とら」が少年うしおとの友情の中で人間に近い感情を持ち、いつしかうしおを親友として認めるようになる構造と全く同じである(以前そんなことをネットラジオで語ったなあ)。とらは、うしお(や真由子やその他の人々)とふれ合っていく中で、人間のために闘う理由や、人間を助ける理由を見つけていく。ミギーも然り。ちなみに『寄生獣』は第27回星雲賞コミック部門を受賞(1996年)しているが、なんとその翌年の第28回に『うしおととら』が同じ賞を受けている。これは偶然だろうか!(いや、偶然か)
ミギーは最終的に人間に寄り添い、人間の人間らしさを信じようとした。それはシンイチと友達として付き合っていく中で出した結論だった。「友情」はたぶん最も人間らしい感情の一つだ。友情の中でミギーは人間の素晴らしい点を見いだす。
『寄生獣』が重いテーマながらも物語として魅力を持つのはなぜかといえば、戦闘の鮮やかさとか絵や構図の斬新さもあるけれども、本当に心に訴えかけてくるのはやはりシンイチとミギーとの心の交流によるものだと思いたい。だから、僕は『うしおととら』で泣ける人間は必ず『寄生獣』でも泣けるはずだと信じている。というか、これらの作品を読んで感動しない、心を動かされないやつは人間ではない!とさえ。
少々話がズレたが、僕は「人間は悪である!」ということを前提とした上で「でも…」と人間の人間らしさを信じてみようみたいな提案をするような物語がとても好きである。『寄生獣』がまさにそうだし、『ドラえもん』の映画、たとえば『のび太と雲の王国』を代表として、『のび太とアニマル惑星』『のび太とブリキの迷宮』などもそんな匂いがする。他のドラ映画も似たような構造を持っているものが多い(『海底鬼岩城』『鉄人兵団』『竜の騎士』『創世日記』など…)。あるいは『無敵超人ザンボット3』も同じ。小沢健二の『うさぎ!』だってそうである。
「また『うさぎ!』か」とか思われるかもしれないけど、僕が『うさぎ!』をはじめとする小沢健二さんの活動を全力で支援していきたいと思っている理由はそこにある。「現代の人間(社会)はこんなにもダメだ!」と大声で叫びながらも、「でも…」という希望を残すことを忘れない。当たり前で、単純で、大切なことを尊重する。
『間引き』の話に戻ろう。ネタバレ入ります。主人公の初老の男は「世の中から愛情がなくなっている!」という事実に絶望するが、そこに「最近冷たくなったな」と思っていた妻が夜食を持って現れる。男は感動して泣きじゃくる。「ここにはまだ愛情があったんだ!」と思って感動したのだろう、ムシャムシャパリパリと妻の持ってきたおにぎりを涙いっぱいに頬張る。「おいしい?」「うん」ここでハッピーエンド、まだまだ世の中捨てたもんじゃない、希望はある、信じられるものはあるよ!という感じで終われば非常にキレイだが、青年誌の藤子・F・不二雄先生はそのような甘っちょろい終わり方はしない。
なんとそのおにぎりには青酸カリが仕込まれていて、男は即死。「今日あなたをカロリー保険に入れたのよ。だっておなかがすいてしようがなかったんだもの」と妻は涙一つ浮かべずにケロッと言い放ち、「うまくロッカーにはいるといいけど………」とつぶやいて遺体をズルズルと運んでいく。さらに最後のコマでは、「45億マイナス1…… プラス1プラス1プラス1…………」と、果てしない人口増加を暗示するようなナレーションが入る。壮絶なラスト。救いようがなさすぎる。このように愛のない「間引き」が横行している世の中にあっても人口増加を食い止めるには微力すぎるということが最後のコマで語られるわけだ。人口のバランスが「間引き」によって維持される頃には、いったいどのような社会になっているというのか。出会い頭に意味無く殺し合うぐらいの世界にならないと食い止められないほどに人口増加は巨大な問題だということだろうか。なんという絶望。
『ドラえもん』ではソフトに「でも…希望を持とう!」なんて感じに書いているが、大人向けの短編になるとこれだ。救いがない。『自分会議』にしろ『大予言』にしろ、まったく救いがない。読むたびに絶望。だがそれがいい。AFとも藤子先生の短編には凄まじいパンチ力がある。大人が読むにはこのくらいの衝撃がないと、誰も何にも変わりゃしないだろう。
だって、『寄生獣』読んだ人がみんなそーゆーこと考えているかつったら、違うもんね。何にも考えない人もいる。シンイチとミギーとの関係をみて何とも思わない人もいる(いないと思いたいが)。考えてるっぽい人もいるが、けっこう的外れだったりして、これまた絶望。読者に絶望。
あまりに救いのないF短編に慣れた身から見たら、『寄生獣』は希望に満ち溢れているよ。希望に満ち溢れているからこそ『寄生獣』は物語として傑作たり得た。『間引き』は短編だからいいが、長編であんなに救いのない物語を読まされたらたまったもんじゃない。どう考えたって売れる漫画にはならない。
同じ発想を持ちながら、『間引き』は救いようなくて『寄生獣』は希望に満ち溢れているのは、前者が短編で後者が長編だからじゃないかな、なんてことを思う。
☆
インターネットで『寄生獣』のレビュー記事を調べてみたら、広川市長や浦上をちょっとソフトにしたようなことしか言ってないじゃん、って思うようなのがたくさんあった。「人間は地球にとって善か悪か考えさせられた」とか言っている人もいたけど、「善か悪か」なんて考えてる時点で「ちゃんと読んでないんじゃないか」って訝しく思う。半分以上が「人間とは何か考えさせられた」「深く考えさせられる作品です」みたいなレビューで参った。それ、レビューの意味あんのか。
「この種を食い殺せ」は人間の感情である、という点に突っ込んでいるレビューを一つも発見できなかったので、僕のとらえ方が間違っていたのか?と自分の読み方を疑ったんだけど、どうなんだろう。広川市長や浦上のような考え方は特殊ではなくて、誰もが心の中でそう思っているからこそ「この種を食い殺せ」という願いが寄生生物によって実現されたわけで。人間はみんな罪悪感のようなものを抱えて生きている。人間が、個人が生きようとすることはそれ自体がエゴであることを誰もがわかっている。だがその感情は表には出ない。人間は「ウソつき」で、「人間の物差しを使って人間自身を蔑んでみたって意味がない(第63話)」ということも実はどこかでわかっているからだ。地球や宇宙や他の生物を愛すよりも先に、人間を愛し、家族を愛し、生まれた土地を愛する。それが人間のいいところなのかもしれない。道徳は人間だけが持つ。まぁ、なんにしろすべて人間が決めることだ。普遍的な答えなどない。
ところで、『寄生獣』のラストの前話で「犯罪は増えてますがね」と里美が言っているのは面白い。人を食らう寄生生物はいなくなったが、「この種を食い殺せ」という人間の感情がなくなったわけではない。ひょっとしたら寄生生物の代わりに、『間引き』のような世界が始まろうとしているのかもしれない。少しずつ道徳が失われていき、浦上のような殺人者がどんどん現れて、それによって人口の調整を……。『間引き』は『寄生獣』の続編という位置づけになるのかもしれない!という妄想。そして『間引き』は、まさに現代の日本の姿を描いているのかもしれない、という……これは妄想じゃないかもしれない。
『寄生獣』を読んだことのない人は、この機会に読んでください。読みなさい。読まないと心が通じ合えません。藤子・F・不二雄先生の短編も全部読んでください。でないと心が通じ合えません。あ、いやちょっと違うな。読んでくれると、心が通じ合えるかどうかがわかりやすくなる。くらいかな。
ちなみに、『寄生獣』は90年~95年にかけて連載された、とかWikipedia等に書いてあるけど、アフタヌーンの発売日で考えると正しくは89年~94年。
2016/06/14 ↑言葉選びが激しく、今よりも断定の調子が強いので恥ずかしいのだが、この文章を書いたことで何か、何かを語るにあたっての一つのスタイルを確立してしまった気がする。文体という面でも、思想という面でも。
第三十六回ウーチャカ大放送
2007/07/24 24:00~25:00 予定
初の出張放送なるか?
今日のアドレスは掲示板で発表するだす。
BBS
24時までは適当に何か垂れながします。予定
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【今日の面白かったコピペ】
2 名前:
名無しさん@八周年[sage] 投稿日:2007/07/24(火) 14:51:00 ID:gTgapY0T0
お前ら冷静に聞け!理論的に全く破綻したところがないよ。
精神的に幼い(12歳程度の)福田が、粘着テープとカッター持って
水道屋の作業服着てコスプレをしてピンポンダッシュして遊んでたところ
前から目をつけていた奥さんのところに偶然入り込んで
死んだ母ちゃんに似ている感じがしたから
母親の体内に回帰したいという、赤子のような心情が高まって
何やっても受け入れてくれるよねー、と思って押し倒して
そしたらなぜか抵抗しやがるから強く首を抱きしめたところ動かなくなって
じゃあ胸はだけたら恥ずかしがって起きるかなと思ってブラはずして
それでも起きないからいつ読んだかも買ったかも覚えていない小説に
精子を注入すれば生き返ると書いてあったからマムコにチンコ突っ込んだんだけど
途中赤ん坊が泣いて俺を嘲っているような感じだったので
あやそうと抱いたら2回ほど落っことして
それでも泣き止まないからちょうちょ結びしたら泣き止んで
それから生き返れと精子を注入して
一発抜いたらすっきりして、見渡すと赤ん坊も死んでいたので
押入れに入れればドラえもんがなんとかしてくれるだろう、と押入れに押し込んで
ようやくパニックになったから粘着テープと彼女の財布を間違えて持ってきてしまって
財布に入ってた地域振興券で遊んでいただけ。
http://news22.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1185256240/
キーボードがぶっ壊れているので長文を書く気になれない。
最近の関心事
・論理ってなに?
・みんな命を大事にし過ぎじゃね?
・ルービックキューブを一面しか揃えられていないのに、「よし完璧」とか思いこんじゃう精神ってなんなの?
■『宇宙船サジタリウス』と『うさぎ!』 / 平成19年7月19日(木)
『0080』による一年戦争の相対化や『逆襲のシャア』でのシャアの真意についてとか、映画ドラえもん(『雲の王国』など)と『うさぎ!』との比較とかを書こうと思ったけど死ぬほど長くなるので今度に回す。興味ある話題があったら言ってください、書きますう。
友達についてちょっと考えている。僕はよく怒られたり批判されたりするが、そんなとき友達はいつも、呆れながら、たしなめながらも僕と対話を続けようとしてくれる。一方的に「お前はバカだよ」と言わず、「ここは良かったけど、ここがまずかったなー」とかって、ちゃんと向き合ってちゃんと考えてくれる。
『宇宙船サジタリウス』というアニメで、…この作品はみんなに見てもらいたいのでネタバレは避けたいところなのだが、ネタバレしたからと言って価値が下がる作品でもないんで書こう。
だけど誤解は避けたいので、とりあえずこういうアニメだということは前提として知っておいてもらいたい。→
Wikipedia
OP『スターダスト・ボーイズ』影山ヒロノブ
(Youtube削除。2010/03/03)
ED『夢光年』影山ヒロノブ
(同上)
これは絶対に見なくてはならないアニメ。子どもが産まれたら見せたい。ドラえもんを読ませてサジタリウスを見せたら、きっと悪い子にはならない…と思う。反例はあるかもしれないけど。
このアニメは、トッピーという主人公に第一子が産まれるところから始まって、第二子が産まれるところで終わる。物語の初めと終わりが「子どもの誕生と名付け」で結ばれる構造になっていて、ここから作品全体のテーマを感じ取ることができると思う。
最初の女の子が生まれたあと、未来の子煩悩トッピーは宇宙船を操縦しながら一生懸命名前を考えていた(第2話)。「ラブリー(愛らしい)」「キューティー(かわいい)」「インディ(自立した)」なんて高望みした名前をいろいろと挙げ連ねるが、結局決められない。考えているうちにベガ第3星でトラブルに巻き込まれ、生命の危険に晒される。もうダメだ、と一度は思うが、シビップという現地の吟遊詩人の助けで命からがら逃げおおせた。トッピーはシビップに感謝の辞を述べる。「君のおかげで、ピート(奥さん)と赤ん坊に、生きて再会できるんだ。生きて会える…生きて…。!!」トッピーはハッとして、地球にいる奥さんと赤ん坊に「名前」を伝えるべく、宇宙船へ向かう。ジャングルの中を走り抜けながら、トッピーは叫ぶ。
何が“ラブリー”だ!何が“インディ”だ!
もっと大事なことを、すっかり忘れてたじゃないか!
何をするにしたって、生きていればこそ…
リブ… “リブ”だよ!!
本当に大切なのは「どのように生きているか」ではなく、「生きている(live)」ということそのもの。この当たり前な、だけど忘れてしまいがちなテーマが第2話で提示され、それから70話以上かけて、トッピーたちはさまざまな星でさまざまな冒険をする。そして物語が終わるとき、トッピーが二人目の子どもにつけた名前は何であったか。
終盤、トッピーは仲間たち(ラナとジラフ)から誤解を受け、信用を失墜させる(第75話)。ここまでの74話にわたって育まれてきた絆は脆くも壊れ、仲間たちはトッピーを見切り、離れていった。トッピーが立ち上げた「新宇宙便利舎」は経営困難に陥り、社員もトッピーとシビップの二人だけになってしまう。それでも二人は挫けずに、自力で宇宙船を直し、心機一転、再び宇宙に飛び出した。
「シビップ、このフライトがうまくいけば、これからすべてがうまくいくような気がするんだ」「うまくいくペポ!シビップがんばる」「そうさ、きっとうまくいくさ!さて、産まれてくる赤ん坊の名前、なんてつけようかなあ…」
トッピーは第2話でしたのと同じように、高望みして名前を考える。「一人でも立派に生きていけるような、男らしくて、強い名前がいいなあ」と。そのとき、宇宙船サジタリウス号に故障が発見され、トッピーは船外修理のために小型ポッドで宇宙空間に出る。そして操縦ミスによって、トッピーは宇宙の闇の中へ消えてしまう…。
トッピーのポッドはサジタリウス号からどんどん遠ざかっていく。通信のモニターと音声は乱れ始め、酸素も次第に失われていった。
「シビップ…、ピートと、リブを、たのむ…」
「トッピー!」
「それから…」
「それから…?」
「弟…リブの、弟…」
「トッピー!ペポ、トッピー!」
「リブの…弟の…名前……フェロー。フェローとつけてくれ…」
「フェロー…」
「友達、仲間、一人じゃ生きていけない…フェロー…。…酸素が!」
「トッピーしっかりする!きっと、もうすぐ救助船来るペポ!トッピー!」
「ひとりじゃ、いきていけない…」
「…ペポ!」
「フェロー…、なかま……。ラナ、ジラフ、シビップ。ピート、リブ。さようなら…」
「トッピー!トッピーしっかりする、トッピー!トッピー!トッピー!トッピー!
トッピー…。トッピー、ラナがいたら、ジラフが一緒だったら…トッピー!
トッピー…!」
このときのトッピーのせりふは、76話、77話(最終話)にわたって何度もくり返される。「友達、仲間、人は一人じゃ生きていけない…」
最近知人からイヴァン・イリッチという人の遺言のことを聞いた。彼はいまわの際に社会に対する絶望感を吐露し続けたらしいのだが、インタビュアーから「では、何か信じられるものはないのでしょうか」と問われた時に、しばし沈黙して考えに考えた挙げ句、ようやく「ともだち」とだけ答えたという。これは又聞きなので、そのテープがもしも手に入ったらまた確認したいと思うが、信頼できる知人から聞いた話だ。(「テープあげるよー」と言われたので、信じて待つ!)
この話を聞いたときに、真っ先にトッピーのことを思い出した。酸素欠乏のトッピーが、遠ざかる意識の中で最期に伝えようとしたのもイリッチと同じ「ともだち」という言葉だった。一方的に誤解をして、自分のことを罵倒しながら離れていったかつての友達の名前をつぶやき、それから家族の名前を呼んだトッピー…。
やばい、書いてるだけで涙が出てきた。
このあとの展開は、さすがに書けない。実際に見てくれ!絶対に損はさせない。損をしたと感じるようなヤツは腹を切って死ぬべきである!
ちなみにイリッチが没したのは2002年、サジタリウスの最終回は1987年。
『宇宙船サジタリウス』は、当たり前だけど忘れがちな「生きていることの大切さ」を提示した上で、70話以上をかけて友情を育ませ、最後に「友達」という言葉を投げかける。僕がこのアニメを「みんなに見せたい、子どもに見せたい」と思うのはここだ。サジタリウスの全77話は、本当にそのことしか言っていない。友達、仲間、一人じゃ生きていけない…。
サジタリウスのテーマについては、
このページにある『ソウル・ブラザー』や『LIVING IN THE LIFE』といった曲の歌詞を読んでくれればもうちょっとよくわかるかもしれない。「この頃個人主義という悪いビョーキが はやっているらしいけどかかっちゃないか」「知らない同士が知り合って キョーダイってえののどこが古いんだ」(『ソウル・ブラザー』)
そして、もう分かっていると思うんだけど、これってのはたぶん『うさぎ!』や小沢健二さんの活動とまったく同じテーマなんじゃないか。人々との繋がり、その最小単位としての友達とか仲間というもの。その連鎖が遠く遠く繋がれていって、愛すべき生まれて育ってくサークルになる的なそんな何か。
『ぼくたち地球人』堀江美都子(シビップの声)
(動画削除)
『あしたも♥ともだち』がYoutubeで見つからなかったのが悔やまれる。
そういうことを考えていたら、なんだか感極まってしまった。社会や他人や自分に対する絶望と、「友達」というもののすばらしさや希望がないまぜになって、なんだかもうようわからんようになってしまった。こんなに何もかも絶望的で、希望といったらそれしかなくて、けどもしもその希望すら僕の前から消えてしまったら…。二十歳越えた男がアニメのこと思い出してわーわー泣くとか、なんぞこれ。
ようやく2chでも真っ当な書き込みが出たよ。何度自分で書こうと思ったか。
例の学習会にいったモノです。
まず、俺は論文?取り寄せて読んだら、学会から今回の案内葉書が来て、
そこで申し込んだら、あたったってかんじ。
んで、小沢は現在インターネットを介しない活動、
つまりもっそいアナログな活動を目指しているみたい。
それが『うさぎ!』だったり、論文?だったり、寄り合いで集まって、話して、みたいなものだったり。
だから、ネット上で学集会の情報を知った人には、参加証がいかなかったのかも。
そして、その前置きがあったから、今回のこと、みんなネットで色々書くことに躊躇してしまったんだと思う。
でも同時に、行った人らの、つまんないプライド丸出しのかっこつけは気持ち悪い。
まあ、俺も含めて、かっこつけかもしんないし、閉鎖されてしまっていた以上、宗教と言われるかもしれんが。
>>111乙。まぁ妥当な線だろうなあ、これが。
元記事にリンクしないのはかなり卑怯だけど、あえて↑の部分だけを引用した意図を汲みとってもらいたい。この引用も、あとで消すかも(まだ消してない。2010/03/03)。
あとは副管理人の
擁護文でも読んでくださいな。
せっかくだからさっきの書き込みとこの記事とにつけ加えて言い訳をしておく。
僕は一応ながらかの会の会員であって、総会や運営委員会にも出席させていただいたことがあって、雑誌の編集のお手伝いもさせていただいています(テープ起こしとか)。それは間違いありません。で、今回の「学習会」にも会員として「お手伝い」に行ったわけです。人手が必要だからってことで。運営の方々はお年を召された方が多くて、机たたんだり椅子を片付けたりと力仕事がそれなりにあって、機械をいじったりもするので若い人がいたほうがいいだろうと。お手伝いの申し入れも学習会に参加することが確定してからしました。それで叩かれるんだったらもう僕には謝るしかないです。ごめんなさい。
あとくれぐれも宇宙船サジタリウスだけは観るように。
今日、最終回を思い出しただけで嗚咽して泣いた。
もう末期
みんな『宇宙船サジタリウス』を観たらいいと思う。それで通じ合える。じゃなかったら、本当に何も信じられるものなんてない。友達、仲間、人は一人では生きていけない…。
2016/06/14 当時、どういうわけか2chで叩かれていたのです。僕もまだ尖っていたから仕方ない部分はありますが、理不尽さを感じた。この頃の経験が今の僕の考え方を形成したところは大きいので、今にして思えばそれもありだったかな。イリイチについてはその後、『生きる希望 イヴァン・イリイチの遺言』という本を読みました。
第三十五回ウーチャカ大放送
2007/07/17 24:00~25:00
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ニートが来るみたい
24時までは適当に何か垂れながします。
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■インターネットについて。Ezにできること / 平成19年7月16日(月)
「環境月報」4号で僕は、作品を誤読することに対して批判した。書かれてもないことを、あたかもそこに書かれているかのように論を進めるのは、そもそも前提が間違っているのであって、救いようがない。
その例として、「小沢健二の『うさぎ!』は資本主義批判の作品である」という言い方は相応しくない、ってなようなことを書いた。『うさぎ!』にははっきりと「資本主義はダメだよ!」なんて直接的なことは書かれていない。そりゃ普通に読めば現代資本主義が批判的に捉えられているだろうことは読み取れる。だがそれは解釈の問題だ。「資本主義批判の作品である(資本主義批判がテーマである)」みたいな言い方は、そりゃ解釈が入りすぎている。「この物語は、資本主義を批判するために書かれました」と作中にあるんならまだわからんでもないが(書いてあっても覆される可能性はあるけど)、そうじゃないのに、まるで自明のように、「小沢健二は資本主義批判をしているんだ」と、小沢健二の主張が資本主義批判という一点にだけあるような言い方をするのはよくない。こういう言い方をすると、その奥にあるテーマが見えなくなってしまって、「資本主義批判」という点で思考が止まってしまう。そうしたら文学作品としては、もう死んだも同然だ。
載せた原稿では、できるだけ自分の解釈を出すのは抑えたいと思って、「その奥にあるテーマ」云々というのは書かなかったけど、僕が本当に言いたいのは、そっちのほう。
作品に書いてないことを書いてあるように言うことは作品に対する冒涜だし、人が言ってもいないことを言っていたかのように書くのはその人に対して失礼だ。人が思っているか思ってないかわからないようなことを、思っているように書くのも非礼に過ぎる。
小沢健二さんが出席した学習会が昨日あったんだけど(これも本当はあんまり書きたくないんだけど、もうみんな知ってるし、書く)、それのレポがネット上に少なく、薄いこと、そして僕なんかが「あとでレポするー」と書いておきながら「やっぱやめるー」みたいに言っていることに対して2ちゃんねるでは「内容の詳細を伝えることが小沢の願いでもあるのにな」という意見が出ていた。うーん。なんでこの人に「小沢の願い」なんてもんがわかるのかさっぱりだ。誰なんだろうこれ。やっぱりインターネットってのは、むちゃくちゃだなと思った。
内容の詳細を伝えたいだけならもっとメディアに出るんじゃないかね。そうしないのは、それなりに意図があるからじゃないかと思うんだが。その意図ってのが何かってのを精一杯考えた上で、僕はこういうかたちをとってみたわけで。
もっと言うと、「書かない」というのが「学習会」のレポート代わり。「学習会」の内容から僕なりに導いた結論が「書かない」ということだった、というだけのこと。なんて書いてるとまた、思わせぶりなことを書いて優越感に浸ってるみたいに思われるのかもしれないけど。聞きたいことがある人は直接連絡をください。まず、そこから。友達になりましょう。
本当にみんな、インターネットに毒されすぎている。「誰かの文章(日記)」というんじゃなくって、「情報」としか捉えてない。だから直接聞いてみるってことをせずに、文句だけ言う。「なぜ書かないんだ」と。うーむ。
実際に会って、話してみなければわからないことはたくさんある。インターネット上にあらゆる情報があるなんていうのは勘違いだ。そこにいる人の性格すら、インターネットは正しく伝えない。僕の部屋がどんな様子かってのも伝えない。小沢健二さんの情報だって、伝えない。当たり前のことじゃないか。世界中のあらゆることがインターネットでわかるわけなんてない。なのにどうして、「すべての情報はここにあるべきだ」なんていうふうに錯覚してしまうんだ。毒されてんなあ、って思う。それはテレビのニュースが伝えることだけが世界のすべてだと思ってしまうのと同じくらいに危なっかしい。まぁ、きょうびそこまでバカチンな人はあんまりいないと思うけど、無意識のうちにインターネットを過信していたり、「なぜこの情報がないんだ」って思ってしまったりするのは、誰にでもあると思う。僕にもある。今日なんかだと「なんで先週の太田総理がニコニコ動画に上がっていないんだ!」とか。それの延長で、無意識のうちに僕らはアメリカや中国のことばっかり考えるし、自分やお金のことばかりを考える。テレビのニュースでも、インターネットでも、そのことばかりを強調したがるから。その他のものは、まったく見えなくなってしまう。
んだども、僕はずーっとインターネットやってて、ここで出逢った素晴らしい友達ってのもたくさんいる。だから、「インターネットなんかやらない!」ではなくて、上手く付き合っていく方法を考えたい。願わくは、僕の日記を読んでくれている人たちは、これを「単なる情報」とか「暇つぶし」とか考えるんじゃなくて(もちろんそれだけでもすっごい嬉しいんだけど)、日記という形を借りた僕という人間のつぶやきなんだと思ってほしいし、語りかけなんだと思ってもらえたらと思う。そういうつぶやきとか語りかけについて、掲示板でわいわいと考えたり、くだらないこと話したりしたい。こんなこと自分で言うのは野暮すぎるから今まで言わなかったけど、やっぱ思う。それほどの力はこのサイトにはないかもしれないけど、理想はそこ。なんとか、やってみたい。応援してくれたら嬉しい。お互いにお互いを知らない僕の友達同士が(あるいは、僕さえも知らない人たちが)、ここの掲示板やチャットで出逢って、名前を覚えたり話をしたりちょっと仲良くなったりするのを見ていると、もう死ぬくらい嬉しくなる。オフとかできるようになったら、すごいんだけどなあ。(そういえば一回もやったことない)
今日の面白かったコピペ
3 名前:名無しさん@八周年[sage] 投稿日:2007/07/16(月) 17:28:41 ID:H59wIurM0
誕生日に買ってやったCDを店に売り飛ばした妹に腹を立てた俺は、
妹を怖がらせてやろうと、全く同じCDを買い戻し妹の部屋に置いておいた。
そしたら妹の奴、不気味がるどころかまた売り飛ばしやがんの。もうブチ切れたね。
おもいっきり頬を引っ叩いてやったよ。そしたら妹の奴、泣きながらこう訴えてきたんだ。
「…お兄ちゃんの誕生日に買ってあげたい物があって、それを買うお金が欲しかったの」ってね。
この言葉を聞いて俺、不覚にも泣いちゃったよ。だって俺の誕生日は3ヶ月前にもうすんでるもん
2ちゃんから来てる人とかへ。
知りたいことがあるんなら、誰かに聞けばいい。インターネットに全ての情報が載っていると思うのは、テレビで報道されていることだけが現実であると思うのと同じくらい浅はかなことだ。僕のページを見てウダウダ文句言ってんじゃなくて、直接聞いてくれたらいい。そうしたら実際に会う機会が作れるかもしれないし、電話くらいするかもしれない。僕にもその人にも、友達が一人増えるかもしれない。どうしてそうやって考えることができなくなってしまったんだろうか。(他所で書いた文章から引用)
■あらゆることへの答え / 平成19年7月15日(日)
世田谷区から自転車で帰る途中、ずっと環八(環状八号線)というでっかい道路を通るわけなんだけど、うるさいし、こわいし、単調だし、空気も悪いし、心休まらないし、線路が道を遮っていたりして、困る。線路があると、自転車は迂回するか、むりやり自動車専用道路を通るか、階段を登ったり降りたりするかしなくてはならない。そういうわけで僕は特別急ぎではないとき、特に夜中、練馬への帰り道に関してはたいてい環八の傍らの、狭い、細い、暗い路地を走ることにしている。車どころか人っ子一人いない静かな道。10メートルごとに街灯が一つずつともっている簡素な道。特に杉並区から練馬区のあたりは、東京というイメージにそぐわない田舎道。
ゆっくりと、ぼんやり走る。ふだんの3分の1くらいのスピードで。風景と、静けさを噛みしめながら。ふと空を見上げると、星があまりにきれいだった。
今日は月が出ていなくて、台風一過とはこのことと、雲も見事に散っていた。少し暗いところで、片手で街灯を隠しながら、つーっと自転車走らせて、星がきれい。それだけ。
たったそれだけのこと。
僕にはそれが全てのように思える。今日あのふたりが言っていたことも、星がきれい。
この日の帰り道、台風から一転、晴れ晴れと空が笑い、星がきれいで、僕がそれを見上げていたということは、偶然じゃない。
どうして、星がきれいだというだけで、畑のそばを自転車で通るだけで、墓場にぞくぞくするだけで、こんな気分になるのだろう。どうして、野菜をかじったり、土に寝ころんだり、ねずみが死んでいるのを見ただけで、こんな気分になるのだろう。どうして、誰もいないのに人の気配がしたり、かかしが怖かったり、空に吸い込まれるような気がしたり、するのだろう。
あまりにも星がきれいだった。ここは東京で、見られる星の数なんて限られている。そりゃあもっと田舎に行けば、もっと綺麗な星空は見られる。だけどそういうことじゃない。やっぱり星はきれいだから。
僕らは(なんて言い方は勝手だけど)、星を諦めすぎているような気がする。いったいどうして、東京には空がないだとか、星が見えないとか思いこんでしまったんだろう。そうやって諦めていると、見えるものもみえないし、見上げようともしないだろう。「東京の空なんて」と僕らは、いや僕は、ついつい思ってしまう。だけど、それはきっと空をバカにしすぎている。星をあなどっちゃいけない。輝き、瞬き、踊っている。よく眼を凝らしてみると、一つ、二つ、星の数が増えてくる。少し暗くて静かなところを探して、耳を澄ましながら、空を見る。すると、想像していたのよりもずっと多くの星が見えて、聞こえるはずのない静寂が聞こえてくる。そして思う。星がきれい。
まるで好きな人が近くにいるような感覚。
草を使った治療みたいに、少しずつ癒されていく。
難しい言葉は何も思いつかない。
星がきれい。
今日は、よいこともたくさんあったけど、いやなこともたくさんあった。どうしても、絶望せざるを得ない。そんな気分ですらあった。理屈で説明つかないこと、目には見えないけど大切なもの、愛する心。口にした瞬間に、あまりにも陳腐になってしまうんだけど、言いたい。僕は君たちを信じている。街の灯りを週に一度だけ全部消して、近所の人たちはみんな外に出て、星を眺めながら、ビールを飲んだり、笑いあったり。子どもたちが叫んだり、走ったりまわったり。少しでも見晴らしのいい場所を求めて、かけずり回り、数をかぞえているうちに、眠くなったり。そういう空想。ありえない夢。だけど信じていて、涙を流しながら望み続けている光景。
死にたいとか絶望は、そんな時にしかやってこない。
星がきれい。
きれいな星。
みんなが笑っていること。
うれしそうなこと。
すれ違ったら挨拶をすること。
星がきれいなこと。
好きな人がそばにいるような感覚を、大切にすること。
それだけのこと。
■「毎月の環境学会々報」第四号 / 平成19年7月14日(土)
近況と予告です。
あんまりまとまった日記が書けない状態でして全国数十人の読者の方々すみません。特に
「毎月の環境学会々報 第四号(特別増大号)」の発行にてんてこまいでした。明日15日発行です。今回は文章量が多くて、全部で30000字弱くらいあります。いつもの5倍くらい。で、うち10000字弱くらいは僕の文章です。拙いですがそれなりに気合い入れて書きました。専門家が見たら「なんじゃこれは!」と言われそうな、文芸批評にすらなっていない駄文ですが、機会があったら目を通してやってください。ということで欲しい方は
メールください。「日記見ましたー」的なこと書いてくださればとくべつに送料負担します。その代わりお返事ください。あ、本体も無料です。
ああ、そうそう。「今回はゲストだらけ」だし、僕の文章もあくまで個人的なものなので、必ずしもこの冊子の内容が我々の団体の思想や活動方針と重なるというわけではありません。僕らはあくまでも『うさぎ!』や『毎日の環境学』を研究するだけの立場であって、ある特定の思想を信奉するのでもなければ、また否定するものでもありません。さらに言うと、この日記に書いてあることも、副編集長(僕)の個人的な意見です。
そういう「この『毎月の環境学会』は特定の思想・信条に偏ることなく、できる限り中立性を保っていきたい」という思いを込めて僕は「『誤読』しているかもしれない人たちへ―」という文を書いたわけで、むろん誰か特定の人たちや団体に宛てて書いたわけではありません。自戒の念です。(と、言い訳入れておきます)
小沢健二さんの書いていることをただ受け入れるのも、ただ批判するだけなのも面白みがないので、さまざまな視点から読み解いていけたら楽しいと思っている次第ですよ、僕の個人的な考えですが。
ウーチャカ34アップしました。200分くらいありますが未編集。
適当に早送りしながら聴いてください
期間限定公開、次回放送後には消すかも知れないので
お早めにどうぞ
第三十四回ウーチャカ大放送 Ez七周年記念SP
なんて恥ずかしいのだろう
※これ、配布終了っす。
■Ez七周年! / 平成19年7月11日(水)
Entertainment Zone七周年を記念して、本日0時から「ウーチャカ大放送 Ez七周年記念スペシャル」と題しまして3時間ぶち抜きでネットラジオを放送しました。放送の模様は明日にでもUPします。現在ウーチャカブログも立ち上げ企画中。Podcastで聴けるようにしたいぜ…。
第三十四回ウーチャカ大放送
2007/07/10 24:00~25:00(?)
↑Listenをクリックして適当なプレイヤーで再生(または保存→再生)
Ez七周年すぺしゃる(・∀・)
2000年からの7年をふりかえる予定
24時までは適当に何か垂れながします。
mixiをやっている方はこちらも
チャット
■『人と超人』のラストを訳してみた / 平成19年7月9日(月)
タナー (続けて)誓って言うが、僕は幸福な人間なんかじゃない。確かにアンは幸せそうに見える、達成感と、成功と、勝利によってね。それは幸福なんかじゃなくて、したたかな者が幸福を売った時にもらえる代金みたいなものさ。今日、この午後に僕ら二人がしていることは、幸福をすて、自由をすて、平穏をすて、そのうえ未来に起こりうるあらゆる甘美な可能性をすてることだ、家庭や家族なんていう面倒ごとと引きかえにね。お願いだから、僕をだしに半分酔っぱらいながらばからしい演説をして下品な冗談をかましたりなんてことはやめてもらいたい。それから、僕らは僕らの家に僕ら好みの内装をほどこさせてもらう、だからこの場で言っておくが、七つか八つの旅行用の時計、四つか五つの化粧箱、肉用ナイフに魚用ナイフ、極上のモロッコ革で装丁したパトモアの『家庭の天使』、そのほか君たちが僕らに贈るために用意しているものは、すべて直ちに売り飛ばし、そのお金は『革命家のハンドブック』無料配布のための費用にあてる。結婚式をとり行うのは僕らがイギリスに戻ってから三日後だ、婚姻許可状をいただき、地区の結婚登記所で、立会には僕の弁護士及びその書記を、当事者と同じく普段どおりの服装で――
ヴァイオレット (強い確信をもって)あなたってひどい人だわ、ジャック。
アン (愛情を込めて誇らしげに彼を見やり、彼の腕をなでながら)気にしないでね、あなた。もっとお話しして。
タナー お話し!
一同笑う。
幕。(僕訳)
訳していたら射精しそうになった。バーナード・ショーの全四幕による喜劇(にして哲学)『人と超人』のラスト。僕はこの作品が大好きだ。ショーの思想を肯定するわけではないが、ショーの作品は全面肯定である。ラストのアンとタナーとのやりとりが「Never mind her, dear. Go on talking.」「Talking!」というやりとりなんだが、邦訳文庫本にして約300ページにわたって繰り広げられてきたタナーの哲学的思索の全てを「talk」という語で片付けてしまうアンは最強。ちなみに第二幕にこれの伏線がある。
ANN. You talk so well.
TANNER. Talk! Talk! It means nothing to you but talk.
これはタナーの20行近くにも及ぶ哲学的長台詞の直後の会話。アンはこの時の長台詞を「talk」と表現しただけでなく、ラストで同じ表現をすることで「タナーが今まで話してきたこと全て」を単なる「talk(お話し、おしゃべり)」だとぶった切っているのである。「どんなに男が偉くても、女の乳房にゃかなわない」という明石家さんまの『真っ赤なウソ』という歌を思い出す。ううむ。
『人と超人』はツンデレで「おしゃべり」のうまい革命家のジャック=タナーさんが気の強くてわがままなアン=ホワイトフィールド嬢の罠にはまって結婚するハメになるまでを描く物語だ。アンはなんと、タナーと結婚するために父の遺言状に「タナーを後見人とする」と書かせるほどのしたたかな娘である。タナーはひたすら「自由と名誉と自我」のために「僕は君と結婚しないぞ!」と主張し続けるわけだが、アンに「あなたは私を愛していないわ」と言われた瞬間にアンを両腕に抱きしめてしまうようなわけのわからんツンデレっぷりを発揮する。この極端さ!まことに萌える。タナーに。このあたりのアンとタナーのやり取りは実に素晴らしいので、是非ここだけでも読んでほしいものだ。
この作品には今のところ二種類の訳がある。岩波文庫に収められている市川又彦訳と、白水社の『ショー名作集』などに収められている喜志哲雄訳である。市川は日本におけるショー研究の権威だが、あんまりよろしい訳ではない。喜志は最近集英社新書から本を出したりしている喜劇の研究者だが、こっちのほうがだんぜん読みやすく、面白い。ところが喜志訳を収録した本は現在いずれも絶版で、図書館に行くか、古本屋で買わないと読めないのである。
特に『ショー名作集』は『人と超人』や『ピグマリオン』(マイ・フェア・レディの原作)など代表作6篇(ほとんど現在読めなくなっている)を収録しているのでファンとしてはマストアイテムなわけだが、早稲田の古本屋を全部探しても見つけられないくらいレアなのだ。早稲田大学は全国的に見てもショー研究に強い学校なのに…。Amazonでも常時5000円以上するのでずっと手が出なかった。
んで、最近ようやく杉並区の古本屋で1500円という破格で入手した。ホクホクしている。久々に喜志訳をぱらぱらと読んでみたところ、…あんまり良い訳でもないような気がしてきた。
それもそのはず、『ショー名作集』というのは40年も前に出版された本であって、とっくに「賞味期限」が切れている。市川訳に至っては90年以上前の訳で、58年以降改訂されていない。そろそろ新訳出せよ!社会主義者とはいえノーベル文学賞受賞者の作品がここまで顧みられないというのはいかに。こりゃあ僕が訳すしかないぞ…。
とか思って冒頭でラストの文章を訳してみたわけである。とくに喜志訳は大いに参考にさせていただいた。参考までに両氏の訳と原文を貼っておこう。長いぞ。
《喜志訳》
タナー (続けて)誓っていうが、僕は幸福な男なんかじゃない。アンのほうは幸福に見える、だがほんとうは勝利と成功に酔っているだけだ。これは幸福ではなくて、強い人間が自分の幸福を売って得る代償にすぎない。今日の午後僕らがやったことは、幸福をすて、自由をすて、平安をすて、そう、何よりも未知なる未来のロマンティックな可能性をすてて、代わりに家庭生活のわずらいを背負いこむということなのだ。誰であろうと、これはいい機会だとばかりに、一杯機嫌になって、僕をだしに愚劣な演説や野卑な冗談を口にするのは、願い下げにする。僕らの家には僕らの趣味に従って家具をおくつもりだ。だから今はっきりいっておくが、七つか八つの旅行用置時計、四つか五つの化粧道具入れ、肉用ナイフに魚用ナイフ、パトモアの『家庭の天使』の特製モロッコ革本、そのほか僕らにわんさかと贈られるはずのものは、すべて直ちに売りとばし、売り上げは『革命家のハンドブック』の無料配布の費用にあてる。結婚式は僕らがイギリスへ帰ってから三日後、特別許可により、地区の登記監督官の事務所において行なう。立会は僕の弁護士とその書記、もちろん依頼人同様に、平服を着用し――
ヴァイオレット (強い確信をこめて)あなたってひどい人だわ、ジャック。
アン (愛情をこめて誇らしげに彼を見、彼の腕を愛撫しながら)気にしないでね、あなた。もっとお話しして。
タナー お話し!
一同笑う。
《市川訳》
タナー 〔言葉をつづけて〕まじめにいうのだが、僕は、幸福な人間ではないのだ。アンは、幸福に見えるが、あれだって、勝ち誇って、いい気になって、いばっているばかりだ。そりゃ、幸福ではなくって、強者が自分の幸福を売った代価というものだ。今日僕たち二人のしたことは、幸福を棄て、自由を棄て、安静を捨て、なかんずく、未知の将来に起り得べきロマンティックなことを棄てて、その代りに、家庭と眷族のめんどうを引き受けたのだ。願わくは、この機会を利用し、僕をだしに使って、生酔いになって、下らぬ祝儀を述べ、低級な洒落などを振りまわすのはやめてもらいたい。僕たちは、自分たちの趣味によって、自分たちの家の設備をするつもりである。だから、ここにあらかじめ断っておくが、七八個の旅行用置時計、四つ五つの化粧道具箱、サラダの鉢、肉用の大ナイフと魚用のナイフ、特製モロッコ皮表装のテニスンの詩集、その他諸君がわれわれの上に、山と積もうとしているものはなんでも、直ちに売り飛ばして、その売上高をもって、革命家必携の無代配布の費用にあてるのである。結婚は、イギリスに帰ってから三日後、特別許可を得て、区登録監督官の事務所で、僕の弁護士及びその書記立会の上、これを行うのであって、当事者同様、みんな平服のままで――
ヴァイオレット 〔強い確信をもって〕あなたは、乱暴者ね。ジャック。
アン 〔嬉しそうな得意然とした風で、タナーをじっと見、その腕をなでながら〕あの女の言うこたあかまわないでね。もっと、おしゃべりを続けなさいよ。
タナー おしゃべりだと!
一同、どっと笑う。
《原文》
TANNER [continuing] I solemnly say that I am not a happy man. Ann looks happy; but she is only triumphant, successful, victorious. That is not happiness, but the price for which the strong sell their happiness. What we have both done this afternoon is to renounce happiness, renounce freedom, renounce tranquillity, above all, renounce the romantic possibilities of an unknown future, for the cares of a household and a family. I beg that no man may seize the occasion to get half drunk and utter imbecile speeches and coarse pleasantries at my expense. We propose to furnish our own house according to our own taste; and I hereby give notice that the seven or eight travelling clocks, the four or five dressing cases, the carvers and fish slices, the copies of Patmore’s Angel In The House in extra morocco, and the other articles you are preparing to heap upon us, will be instantly sold, and the proceeds devoted to circulating free copies of the Revolutionist’s Handbook. The wedding will take place three days after our return to England, by special licence, at the office of the district superintendent registrar, in the presence of my solicitor and his clerk, who, like his clients, will be in ordinary walking dress―
VIOLET [with intense conviction] You are a brute, Jack.
ANN [looking at him with fond pride and caressing his arm] Never mind her, dear. Go on talking.
TANNER. Talking!
Universal laughter.
ずいぶん間違っているところもあるかと思いますが、いまの僕の限界です。
■小畑健『人間失格』~萌える!純文学~ / 平成19年7月7日(土)
なんか、色んな日記を書いては消し、書いては消し。
書かなきゃならない原稿を書くための読書に耽っていたら
どうも時間がなくなってしまいます毎日
あと寝過ぎ。
ダメ人間から脱したい。
毎日、生活と自殺のことを考えます。
という太宰治リスペクト。井伏さんは、悪人です。
太宰と言えば、先日紀伊国屋を歩いていたら、
平積みされていた集英社文庫版『人間失格』の表紙に度肝を抜かれた。
こ、これは…!
面食らった。
まさか大場つぐみや鷹野常雄だけでなく、太宰治までガモウひろしだったとは。
人間失格なんか3種類くらい持ってるのについつい衝動買いしてしまった僕はまんまとジャンプシステムの罠にはめられたというわけだ。さすがガモウ。この調子だと夏目漱石までガモウになりかねない。『こころ』なんか容易に『DEATH NOTE』化されそうだ。先生は月(ライト)、KはLの顔で描かれ、腐れおなごが嬉々として飛びつくことうけあい。それでなくとも高校で『こころ』を学習する腐れ女子高生は「ウホッ」とか「アッー!」とか心の中で呟いているものなのだ。この事実に関しては当時腐れていた女子校出身者からウラを取ってあるし、僕が高校生の時もそのような感想をほのめかしいるおなごはいた。挿絵がなくともそうなのに、これが小畑絵になったと考えたら…。コミケの中で確かな一角が占められることは間違いないし、「『こころ』オンリー」が開催されたり、「先生×K」や「K×先生」は基本として、「静(先生の奥さん)×K」とか「私×先生」などという新しいカップリングも生まれるであろう。ちなみに「静×K」の場合、(男女カップルだから)面白みに欠けるため、おそらく静が最終的にKを自殺に追い込むという凄惨な流れが一般化するだろう。『こころ』は三角関係や嫉み、憧れ(尊敬)などすばらしい素材がたくさんあって、まことに二次創作に向いた作品であることよ。
いつの間にか『こころ』の話になってしまった、太宰(=ガモウ)の話に戻ろう。いやしっかし、そもそも、『人間失格』の主人公ってこんな奴だったかあ?僕は太宰の大ファンで、今年は桜桃忌にも参った(なんと翌日6月20日の読売新聞武蔵野版に写真が載った)。が、代表作と言われる『人間失格』は決して好きな作品ではない。件の表紙には「最高傑作」とあるが、「代表作」なのは認めても「最高傑作」という言い方には首肯できない。集英社の目録情報では「太宰治の自伝であり、遺書でもある作品」と持ち上げられているが、「自伝的」なのは否定せんまでも決して「自伝」ではないし、べつに「遺書」でもない。
遺書は別にあるし。自伝だ、遺書だと「解釈」するのは構わんが、まるで自明のように書かれると適わん。
大学に入学してすぐ早稲田の古書店で全集を買い、他の作品はほぼ読破した僕だが、『人間失格』にはなんとなく手が出ず、3年生の時にようやく読んでから、一度も読み返していない。 だから内容を細かく覚えているわけではないのだが、少なくともこれだけは言える。「ライトじゃねーだろ!!」
たぶんこのイラストは、本編の冒頭にあるこの部分を参考にして描かれたものだろう。
高等学校時代の写真か、大学時代の写真か、はっきりしないけれども、とにかく、おそろしく美貌の学生である。しかし、これもまた、不思議にも、生きている人間の感じはしなかった。学生服を着て、胸のポケットから白いハンケチを覗かせ、籐椅子に腰かけて足を組み、そうして、やはり、笑っている。こんどの笑顔は、皺くちゃの猿の笑いでなく、かなり巧みな微笑になってはいるが、しかし、人間の笑いと、どこやら違う。血の重さ、とでもいおうか、生命の渋さ、とでもいおうか、そのような充実感は少しもなく、それこそ、鳥のようではなく、羽毛のように軽く、ただ白紙一枚、そうして、笑っている。つまり、一から十まで造り物の感じなのである。キザといっても足りない。おしゃれといっても、もちろん足りない。しかも、よく見ていると、やはりこの美貌の学生にも、どこか怪談じみた気味悪いものが感ぜられてくるのである。私はこれまで、こんな不思議な美貌の青年を見た事が、いちどもなかった。
これを読んでみると、なるほど、表紙の小畑絵はけっこう忠実に太宰の文章を再現しているかのように思える。学生服着た美貌の青年が、籐椅子に腰かけていて、足は組んでいないものの、胸にはちゃんとハンケチが覗いている。そして冷たい、およそ若者らしくない、ニヒルな、非人間的な笑みを浮かべている。うんうん。さすが小畑健である。…が、おい。ちょっと待て。その背景はなんなんだ。
おいおい、ライト(あえてそう呼ぼう)よ。お前はどこに座っているんだ。どこの廃墟だ。床のタイルから察するに洋館のようだが、いったい何の用があってそこに行ったのか。壁までボコボコに崩れた廃墟の洋館にほとんど無傷の籐椅子というのは違和感がありすぎる、どう考えても籐椅子を持参したとしか思えない。なんて手の込んだ。しかも裾の足りていない、ピチピチでつやのある新品同様の学生服をボタン全部留めてカラーのホックまでつけて、ぴかぴかの革靴にハンケチまで携えて、用意周到、いったいどのような目的でその写真を撮ったのか。ってか、誰が撮影したんだ、これ。恥ずかしくなかったのか。
表紙だけ見るとどう見てもライトノベル。おそらく武器か魔法か何か特別な力が登場するに違いない。そしてこの青年は最初は主人公の友達だったけど後に敵側に回って主人公と熾烈な闘いをくり広げるが実は悪の黒幕に操られていただけであって死ぬ間際に正気に戻ってみんな泣く(読者も泣く)って感じのキャラだろうと思われる。つまりサブキャラか。なのになんで表紙なんだ。まぁいいや。
なんか来るところまで来たって感じだなあ。純文学にもラノベの影響が。何年か前にポプラ社文庫から出てる江戸川乱歩の少年探偵団シリーズ(『怪人二十面相』とか)が表紙をリニューアルして、小林少年が神木くんもびっくりのかわいらしい萌え萌えショタボーイに変貌していたことに凄まじくショックを受けたのを思い出す。こんな可愛らしい少年を何十人も集めて子分として使っている明智小五郎ってなんなの?ジャニーさん?少年探偵団ってジャニーズだったのか!そしてその少年たちをさらって監禁したりする二十面相とかってさらになんなの?
そろそろ『銀河鉄道の夜』なんかも萌え絵にされそうでちと怖い。ジョバンニとカムパネルラなんか、現段階でも腐れおなごたちは「ウホッ」とか「アッー!」とかすでに(何十年も前から)言っているに違いないのだが、これが萌え絵になったなら!いや、萌え絵じゃないからこそ萌えるという意見もあるが。ところで紀伊国屋で見た新潮文庫かなんかの『銀河鉄道の夜』の表紙は、若くてさわやかな女の人の肖像写真であった。…おい。『銀河鉄道の夜』の主要人物でこんな女いねーよ!まさかザネリか?ザネリなのか!?ザネリが女の子だという解釈であえてそれをやったのなら僕は装丁者を褒めちぎってやる!でも、だったらもっと幼くてかーいらしい女の子を起用してほしかった。神木くんとか。あれ。ちなみに僕が最も好きなのは無論ザネリであるが、二番目に好きなのは「黒い外套を着て青年の腕にすがって不思議そうに窓の外を見て」いた「十二ばかりの眼の茶いろな可愛らしい女の子」である。うむ。やはり宮沢賢治は変態。
今のところ侵犯されている領域は表紙だけのようだが、そのうち純文学の古典と呼ばれている作品にも萌えな挿絵がはさまれる可能性もなくはない。著作権が切れているわけだから、やっても構わないはず。なんで誰もやらないんだろう。萌え挿絵のふんだんに入った『たけくらべ』とか。あ、こわい団体から文句出るからか。
萌え絵書ける人いたら、著作権切れた純文学に萌える挿絵をつけて出版しませんか。僕が萌えっぽくリライトするのもいいな。『走れメロス』の妹をすっごい萌えキャラにするとか。アイディアは尽きん。フヒヒヒ。
■偏向報道と2chとWeb日記と保守主義の哲学 / 平成19年7月4日(水)
最近、僕の周辺で「マスコミの偏向報道」についてWeb日記を書く人が一定の割合でいる。猫も杓子もWeb日記を書くようになった昨今のインターネッツ、その長所を挙げるとしたら「世論(の一部)が見えやすくなった」というところだろう。友達との普段の会話では絶対に言わないようなことでもWeb日記には書く、という人がいる。特に政治や報道に関する意見などというものは、仮に井戸端会議の中で話題に上ったとしても、「いやあねえ」「ホントにねえ」で片付けられ、「意見」としてまとめられることは少ないと思う。Web日記は、世論(の一部)を閉じられた井戸端会議や居酒屋トークの中に埋没させることをせず、一個の「意見(opinion)」として開かせる効用を持つ。
「痛いニュース」などのニュースまとめサイトが流行っていて、2ちゃんねるの人々の意見が今までより広く知られるようになった。世の中の仕組みや在り方に対する猜疑心を匿名の彼らが代弁してくれる。2ちゃんねらが「ネット右翼」と呼ばれるのは、ほとんどのマスコミが左翼的な立場を取っている以上当たり前のことかもしれない。2ちゃんの書き込みは、新聞の投書欄などと違って当局の思想によって取捨選択されない(まとめサイトの場合、管理者の主観によって取捨されるが)意見を読むことのできる貴重な場であり、そこには批判精神と懐疑的な姿勢が渦巻いている。
2ちゃんねら(もちろん全員ではない)は基本的には体制やマスコミの対抗者であり、いわゆる「野党精神」のようなものを持つ、「ノー!」と言うのが仕事のような人たちだ(どうせ匿名であるのなら賛同するよりも否定するほうが気持ち良いというのも要因の一つだろう)。彼らの基本信条は、報道された内容(主に>>1が立てたニューススレの内容)に対して「ノー!」と言うことだ。
しかし、「報道に対して批判する」ことが仕事だった彼ら2ちゃんねらの立場がここのところ変わってきている。上記のように「2ちゃんねるの人々の意見が今までより広く知られるようになった」ことから、彼らは「見る」側であるだけでなく同時に「見られる」側にもなったのである。マスコミの報道を批判する機能として2ちゃんねるのニュースサイトはあったのだが、彼らの意見が2ちゃんねるの外部(まとめサイトを見ている人たち)にも知られるようになったからには、彼ら2ちゃんねらは外部からの閲覧者からの評価を受けなくてはならない。「左翼マスコミ」を「ネット右翼」が批判し、それをさらに外部から批判する役割が必要になってきたわけだ。
その役割を担うのが、個人のWeb日記であると思っている。2ちゃんねるという特異な場で形成された「2ch世論」を相対化する、個人がある程度の非匿名性をもって形成していく「Web日記世論」である。
Web日記は、「こういう報道がされていて、それに対して2chではこういう反論を中心に盛り上がっているけれど、ちょっと待て。そもそも、その報道がなされた意図は何なのか。あるいはその報道は、マスコミによって捏造または歪曲されたものでない確証があるのか。2chでの盛り上がりは、実は周到に計画された罠だという考え方はできないだろうか。2ちゃんねらが反論して喜べば喜ぶほど、裏でもっと喜んでいる人たちがいるのではないか…」などと外部から批判することもできる(いささか陰謀論気味だが)。これと同じ内容のことを2chで言っても、祭り的盛り上がりによってログが流され、埋没してしまう。
例えば先日話題にした光市母子殺害事件のドラえもん裁判では、2ちゃんねらは主に「弁護団は死刑廃止論のためにこの裁判を利用している」「被告は死刑にすべきだ」などと言って攻撃するわけだが、そういう空気が充満している場で、弁護団を擁護する発言や、死刑廃止論者からの言い分はほぼ黙殺される。2chのスレッドは1から1000までを「一直線に」駆け抜けていく形式なので、討論という形がほとんど取れない。一つの主流意見が定まってしまったら、あとはそれを軸に走り抜けるのみである。ブレーキや歯止めはどこにもない。
そんな中で、個人のWeb日記ではまったく違う視点からの批判も多く見られる。裁判の公判記録などを慎重に検証して、「2ちゃんねらの人々が注目していない部分」を暴き出し、「2chの偏向批判」を指摘した人もいる。
少なくとも僕の周囲では、現在「マスコミの偏向報道」についてのWeb日記世論が形成されつつある。結局、「報道やそれに対する批判を見るだけでは、本当のことなどわからないよ」ということに集約されそうだ。ニヒルだが、報道に対して一定の距離を置くというのは重要なことかもしれない。報道される内容だけではわからないから、勉強が必要なわけだし、色々な意見を聞くことも肝要になってくるだろう。報道を見ただけで全てわかったような気になるのが問題なのだ。中でも最も危険なのは、「痛いニュース」を見ただけでわかったような気になってしまっている人々だろう。もしかしたら「痛いニュース」の管理人はある危険思想の持ち主で、その思想を肯定するような書き込みだけを抽出して載せているのかもしれないのである。
というわけで僕は、できれば「痛いニュース」ではなく2chの「ニュー速+」あたりを中心に見ることをお勧めしとくます。
実はここまでは前置きである。…が、長くなりすぎたので本題を本気出して書く気はない。なんとなく書きます。
僕の好きな学者に
中川八洋という人がいる。「太田総理」にも出たことがあるのだが、余り有名な人ではない。日本で「
バーク保守主義」哲学を一般に広めた立役者であり、思想的にはもちろん「保守」で、日本国の武装を主張しており、女系天皇は皇統廃絶に繋がり、ジェンダー=フリー教育と性教育によって日本は滅びるらしい。僕はバーキアンだし(これを一度言ってみたかった)彼の「悪意」に満ちた過激にして華麗なレトリックに心酔しているので「中川八洋の大ファン」を自称するが、彼の言っていること全てを支持するわけではない。バーク保守主義を下敷きにしているため総論の部分ではかなり同意できることが多いが、各論や細かい論立ては必ずしも肯定的な立場ではない。僕が勉強不足なのが主な原因だが、「おいおいマジかよー」と、肯定も否定もできない場合が多い。っていうか大抵そうである。現段階ではとりあえず、「ウヒョッ。また中川先生が過激なことを仰っている、フヒヒヒ…」とか言っているのが楽しくて仕方ない。
まぁそういう人であるため、批判も数多い。僕がかつて「中川八洋」という名前を初めて知った時に、ググって出てきたページがいきなりコレである。
Hot News! 1999/09/15 中川八洋(筑波大教授)の差別的暴言
彼に対して何の予備知識もないままいきなりコレを読んだので、もちろん面食らった。「ウヘェッ。なんちゅう過激な人だ。とんでもないことを言う人もいたもんだ」と感じた。
その後、主著である『
正統の哲学 異端の思想―「人権」「平等」「民主」の禍毒』を読み、『
保守主義の哲学―知の巨星たちは何を語ったか』を読み、その他幾つかの著書を読んでいくうちに、「あれ?」と思うようになった。確かに過激でめちゃくちゃ(と思えるよう)なことを書いてはいるが、件のサイトにあるような発言のほとんどは思想的に裏打ちされた「哲学的主張(大袈裟か?)」であるし、その他のあまりにも過激だと感じられるところは、「いくら中川八洋でもこれは言わないだろう」と思えるようなものばかりである。おそらく言ったとしたらそれは単に「レトリック」もしくは「立論のための極論」だと思う。件の抗議サイトは、言葉の枝葉末節を取り上げて、あたかもそれが「主張」であるかのように抜粋しただけなのではないかと。まぁファンの欲目でそう思うようにしている。
中川氏は「長崎市長が作った長崎アピール(平和宣言)は正気ではない」「日の丸・君が代(の法制化)に反対した者は非国民」「日本は戦争をしないからだめ。戦争をしない民族は退廃する」「共産党の議員に税金で給料を払う必要はない」「女性は40(歳)過ぎたら肉のかたまり」「セクハラ裁判をしているのはみんな共産党」などの発言をしたと報道されています。
以上のうち、「女性は40(歳)過ぎたら肉のかたまり」「セクハラ裁判をしているのはみんな共産党」以外は、中川八洋はちゃんと思想的な背景を基に言っているわけであって、「差別的」でもなければ「暴言」でもない。多少大袈裟に言っているか、大袈裟に「書き直されている」部分はあるが、彼の思想もしくはバークの思想を知る者ならば「日本は戦争をしないからだめ。戦争をしない民族は退廃する」という言葉は「日本は軍隊を持っていないから、国を守るという意識がなく、そのような民族は国家を維持できない」という意味であったのだろうとすぐにわかる。「共産党の議員に税金で給料を払う必要はない」は、「共産主義は亡国を導く思想(だと中川氏は思っている)であり、そのような思想を掲げる政党に国が金を払うのは矛盾するので、必要はない」という意味だろう。とてもわかりやすい「極論」だ。
もちろん、「何も長崎でそんなこと言わないでも…なんて空気が読めない学者なんだ」という批判は免れ得ない。「原爆しょうがない発言」も同じである。思想的には「アリ」だと思うが、何も長崎で言わなくても。しかも防衛相が。
「女性は40(歳)過ぎたら肉のかたまり」については、これはたぶん「主張」ではないでしょう。本論(主張)を導くための極論的前提として使ったんじゃないかな。例えば、「男性にとっては、女性は40過ぎたら肉の塊にしか見えないんです。(だから若いうちに子どもを作って出生率を上げましょう)」的なことを言ったのかもしれない。「女なんて40過ぎたら肉塊なんだよ!」なんてことを、中川先生ほどマジメな人が公的な場で「主張」したりはせんのではないかな。批判するならば、ちゃんと前後の文脈を押さえ、万人にが納得できるような状態で提示して欲しいものだ。
「セクハラ裁判をしているのはみんな共産党」については、これはたぶんほぼ本気で言っているんだろうが、ファンとしていちおう弁護しておこう。これは比喩みたいなもんで、「セクハラ裁判をしている人たちは共産主義的な思想を持っている」という意味か、もしくは「セクハラ裁判は共産主義的世界を夢想する人々に思想的に利用されている」という…中川八洋の著作を読むならばこのくらいの言い換えは自然にできなければいけない。でなければあまりに過激な言いぐさに引いてしまうか、真に受けてしまう。どちらも非常に勿体ないことである。
もちろん、中川八洋の読者でない(中川リテラシーを持たない)人がいきなりこんな言い方を目の前にたたきつけられたら、「ムキー!」ってなるのは仕方ない。だから批判されるのもやむないのだが、問題は、中川八洋についての予備知識のない人があの抗議サイトを見たら、すっかり彼のことを「悪」だと思いこんでしまうということだ。現に僕はあれを最初に見たとき、正直引いた。笑いながらも「ひでぇ」と思った。あのとき僕は、抗議サイトに対する「批判精神」に見事に欠けていた。中川八洋の著作を読み、彼の思想を理解し、ファンになって、「ひいき目に見る」ことを覚えて初めて、あのサイトを穿った目で見つめ直すことができたんである。
ここでまぁ、偏向報道云々に繋がる。どんなことを伝えるのでも、断片的な情報ではどうしても偏りが出る。だから先にも述べたように「勉強」が必要なのである。報道を鵜呑みにしない知識と思考力、そして調査能力が必要なのだ。が、どうも現代日本人さんは楽なほうへ楽なほうへと流れていく傾向にあって、そのような「勉強」はしようとせん。ただ自分がなんとなく納得できることを無条件に信じてしまう。それで例の納豆の事件(あるある大辞典に消費者が振りまわされた事件)があったのだ。なっとうになんとなくなっとくしてしまったが故に、あの事件が起きたのだ。
結論は非常に月並みなものになってしまったが、本心である。みんな勉強がタリンノータリンであることよ。もちろん僕もそうなのだが、無知の知というか、「自分はバカであって、勉強が必要なのだ」という意識がないとさらにいかんね。バカであるバカりか、バカであることに無自覚なのはさらにバカだ。民衆がバカなのは仕方ないにせよ、バカな上に道徳のない人間ばかりが増えてしまえば、バカが好き勝手バラバラなことを思い、行動し、ああ、日本は滅びるのであることよ。
バカでも道徳がありゃあいい。そのような民衆が歴史上、文明や国家を支えてきたのだ。そもそも、政府もマスコミも道徳に則って政治・報道していれば「勉強」なんて必要ないかもしれぬ。「道徳とは国民共通の思考や行動の指針であり、それを正しく持たない民族は国家を維持できない」というのが保守主義的な考え方で、これには僕も大いに賛同する。「人を殺すな」「売春(援助交際)はいかん」という道徳を誰もが無批判的に受け入れ、親から子へと世襲させていく社会が「人に迷惑をかけなければ何をやってもいい」「全て自己責任で」と教える社会よりも安定するのは当たり前だと思うのだが。
※「売春は不道徳と言うが、古代からある職業じゃないか」という指摘があるかもしれない。しかし少なくとも日本では、売春はおそらくいつの時代も「不道徳」と見なされてきたと思う。「不道徳ながらも存在していた」わけで、売春婦やそれを買う人たちが「道徳的」と評された時代はないんじゃないだろうか。イケナイことなのにどうして存在していたか…については、ちょっと勉強せねばならんです。詳しい人お願い。たしか江戸時代、武士が吉原に行くのは恥(野暮)だ、みたいな意識があった、はず(落語知識)。少なくとも(日本の保守主義者たちが例学なく好む)「武士道」の価値観においては、「貞操はサムライの妻にとっては最も貴ばれる徳目であって、命を賭しても守るべきものとされていた(新渡戸稲造『武士道』奈良本辰也訳 第十四章)」ようだ。
この貞操観念については鎌倉時代か何かの説話で非常に面白い例があるのだが、資料が手元にないのでまた後日。
第三十三回ウーチャカ大放送
2007/07/03 24:00~25:00
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レタスと野球拳スペシャル
24時までは適当に何か垂れながします。
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チャット
■飲酒としての読書、クスリとしての読書 / 平成19年7月2日(月)
ランチタイム終了間際にガストへ滑り込んで、日替わりハンバーグランチを注文。って、ああ?ドリンクバーつかないのか…。これで504円はぼったくりであるよ。ドリンクバーを頼んだら約700円じゃないか!頼まなかったけど。ということで次からはランチではなくモーニングを利用する。モーニングメニューは最安のトーストセットが336円で、399円出せばそれなりのものが食べられてしかもドリンクバー付き。これは利用せんくばならん。平日ならば混まない立地だし、何時間居座っても平気だ。が、家計と栄養のことを考えるとやはり家で野菜を洗って食べたほうが良いに決まっている。それなのになぜ僕はファミレスなんぞに行くのか…。
ひとえに読書のため。優雅に。寒いんだけどね。ファミレスって適度にうるさくて、緊張感あって、けどあるていど自由で、適す。図書館でもいいのだが、なんとなく窮屈な感じがする。お金かかるけど、まぁ、集中できるし、気分転換も兼ねて。
つって、『
教育を救う保守の哲学』という物々しい本を読んでいたわけだが、200ページ読むのに5時間かかった。1時間に40ページというペース。途中でメールしたりネットしたりしてたのを差し引いても、やはり僕は本を読むのが遅い。
時折何を勘違いしたのか「ジャッキーさんってたくさん本を読まれるんですよね!?」みたいに仰る方がいて、まぁそれを否定する気は特にないのだが、「一日に何冊くらい読まれるんですか?」とか言われると非常に困る。ライトノベルばっか読んでるんなら別だが、毎日何冊も読書できるなんてのは超人か速読家か真正ニートである。いやジャッキーさんは真正ニートに限りなく近いではないかとか言われたらかなわないが、とにかく僕が読めるのは一日にせいぜい1冊か多くても(まる一日暇だった場合で)2~3冊くらいのものである。
僕は活字中毒ではない。読書なんて苦痛でしかない。坂口安吾は飲酒に関してこう言っている。「酒は、うまいもんじゃないです。僕はどんなウイスキーでもコニャックでも、イキを殺して、ようやく呑み下しているのだ。酔っ払うために、のんでいるです。酔うと、ねむれます。」(「不良少年とキリスト」)読書だって、そんなもんだ。活字中毒ってのは、その名の通り、アルコール中毒と同じ。僕はアル中じゃないから、酒を呑むときは、まさしくイキを殺して、「ごくり」とやる。読書をする時も、動悸を激しくさせながら、時おり眉をひそめ、げっそりした顔で、頭痛を伴わせながら、ようやく読む。楽しいもんじゃないです、あんなもの。
幼き頃はもちろん、読書とは楽しいものだった。「時の経つのも忘れて」という言葉があるが、読んでいるうちにフッと意識を失い、うたた寝に夢を見るかのように物語の世界を「体験」し、気付けば時計が一回り二回りしていた、なんて経験がよくあった。幼少の頃、書物は合法の麻薬だった。ああいうトリップのような状態を「活字中毒」と呼ぶのなら、あやかりたいものだ。が、「活字中毒」を自称する方々は大人になった今でもああいう体験をしているのだろうか。だとしたら羨ましいものだが、単純に「活字を追っているのが楽しい」「活字がないと落ち着かない」というだけの話であれば、単なるアル中の連続飲酒。酒と同じく、一晩で全てを忘れるのだろう。
■『ワッハマン』と『飛べ!イサミ』 / 平成19年7月1日(日)
とあるアフタヌーン往年の読者よりすすめを受けて、あさりよしとおの『ワッハマン』(全11巻)を読破。買う時はセットで買ったらよいと思う。
ワッハマン全巻セット(Amazon) 今なら送料込みで2000円ちょっと。
表紙がいきなり黄金のガイコツで、敬遠される人も多いかと思うが、そこはそれ、さすがあさり先生。ページをめくれば一流のドタバタ変態コメディが展開される。ノリはほとんど全盛期のゆうきまさみ。そしてヒロイン(?)のレミィが可愛すぎる。
見た目は小学生(身長141センチ)の美少女で、戦闘時にはロボットに変形して若干巨大化。毎回かならず凝ったコスプレをして登場。セーラー服、看護婦、裸エプロン、メイド服、ウェディングドレス、葉っぱ一枚と際限がない。「恥」という概念を持たず何かというとすぐに全裸or下半身まるだしになるが一向に気にしない。強気で偉そうだがどことなくいじらしい。まさしく最強のヒロインである。
もう一人のヒロインが「ルミちゃん」。身長120センチ(自称。たぶんもっと低い)、見た目はどう見ても幼稚園児なのだが、実は21歳。純粋無垢で対人恐怖症。レミィよりも貧乳だが、レミィと違って下の毛がある…というのを一緒にお風呂に入って誇示し合うシーンがある。むちゃくちゃ。
生身のくせにマスターアジア並に強い自衛隊のおっさん、長沼が異様にカッコイイ。敵であるはずのワッハマンやレミィに対して実は激しく感情移入しているが、本人はそれを認めない。敵対しているように見えながら、実は大好き。王道のツンデレおやじ。ワッハマンを追うことを生き甲斐にしているという点で銭形警部(ルパン三世)や西園寺まりぃ(究極超人あ~る)と共通するが、全編にわたる長沼の大活躍はそれらの比ではない。っていうかたぶん本当の主役は長沼だ。特にラスト近くの格好良さは比類なし。
長沼の同僚でマッドサイエンティストの梅田も非常に良い味を出している。それからドクターカオスとマリアを彷彿とさせるじじいとアンドロイド美少女の組み合わせも乙である。北海道弁を喋りたいてい全裸の巨乳変形ロボット少女オシリス、中国からワッハマンと結婚するために追いかけてくる美女(あ~るで言うとバスガイドのねーちゃん)、チェリー(うる星やつら)顔負けの悪僧だがなぜかめちゃくちゃ強い坊主のおっさん、などなど、とにかくサブキャラの設定がとんでもなく、必然的に「ほのぼのとした格闘ものドタバタエロコメ」になるわけである。ワッハマンが言葉を発しない設定なので、その分サブキャラが引き立つ。
凄いのはキャラのみではなく、ストーリーも凄まじい。短編エピソードを積み重ねて、じっくりと緻密な設定を組み立て練り上げていった上で、伊藤岳彦の『宇宙英雄物語』を彷彿とさせるラスト1巻のどんでん返しには震えるほどのカタルシスを得られるはず。そして「10000年」じゃ済まない、「無限」という時を生きる「ワッハマン」という存在の孤独さと哀しさが最終巻で提示され、それまでほのぼのと間抜けな存在として描かれてきた重みが一気に読者の上にのしかかる。そして、彼にささやかな救いをさしのべようとする長沼やレミィたち…。うおおおおお!
変態、エロ、ドタバタ、そして重厚なテーマを持ち合わせた『ワッハマン』は紛れもなく名作である。これが同時期に『飛べ!イサミ』のエロ同人を出していたヒゲの大入道、あさりよしとおの作品だとは!現在アフタヌーンで連載中の『るくるく』も、いずれ『ワッハマン』のような大河的な流れに変わっていくのであろうか…。何だか期待してしまう。
『飛べ!イサミ』といえば、第1話と第2話を何年ぶりかに観た。こっからだんだんと油が乗ってきて、文句なしに「名作!」と言える作品になっていくわけだが、いや、第2話までも充分に面白い。ここからもっともっと楽しくなっていくと思うとウキウキする。「95年度の最優秀アニメ」はエヴァなどではない、どう考えてもイサミである。僕はイサミを観て楽しい気分にならないやつは人として大切なものが欠落していると思うようにしている。事実そうである。あれが良いと思えないのは、人間として欠陥があるとしか思えない。もう、人じゃない。
なんとなればイサミは「王道」なのである。寄り道せず、人の心にダイレクトに響くように作ってある。子どもの心へまっすぐ届くように作ってあるのだ。『ふたりはプリキュア』も同じ、『まなびストレート』も同じだ。評価されるのはどうしても『エヴァ』のように屈折した関係や感情を描いたものや、『ハルヒ』のように破天荒でオタクに媚びたような作品である。僕はどっちの作品も大好きだがやはり『イサミ』の持つような王道の美しさには勝てない。『イサミ』を創った佐藤竜雄監督が『機動戦艦ナデシコ』でオタク方向に寄り添ってしまったのは「王道アニメ」界の大きな損失である。制作側にその意図があったにせよなかったにせよ、『ナデシコ』は完全に星野ルリとゲキガンガー3によって自壊した。結果としてオタクに食いつぶされてしまったのである。ルリルリはケイちゃんになれなかったし、ゲキガンガーはガンバマンになれなかった(逆も然りだが)。まぁ、ナデシコ自体は再放送まで観てたし、好きなんだけど。
かなり横道に逸れたが、『ワッハマン』は名作。これまであさり先生の本当の才能に気付かなかったのは失態である。いい年して『飛べ!イサミ』に注目するという時点で素晴らしい作家に違いないのだ。
■「ドラえもん裁判」と死刑 / 平成19年6月30日(土)
なんか、この日記昼間に書いて、「こんなん公開していいのかなあ、過激すぎんかのう」とか思ってたけど、太田総理でカンニング竹山の「少年法を廃止します」なんてマニフェストが取り上げられてた関係で
滋賀の青木くんリンチ殺人のサイトなんか見てて、
綾瀬のコンクリ事件のこと思い出したりもして、「やっぱり犯罪者は極刑に科すべき」という気持ちが強まってきたので、思い切って公開してしまうことにした。左翼的、社会主義的、性善説的な人権観念が僕は大嫌いだ。ティーンを終えてなお「道徳」を身につけることのできなかった人間は相応の裁きを受けて然るべき。「環境が悪かった」なんて、どんな犯罪者に対しても言えることだよ。罪を犯すのは常に「環境」が原因となる。これを否定するならば、「遺伝」が犯罪の原因だということになってしまうからね。「環境が悪かったために、罪を犯した」というのは、至極当たり前のことであって、わざわざ言うのはナンセンスに過ぎる。まぁ、「遺伝」が全く関係ないかと言えば、異論はある。けどこれを言ってしまうと、それこそうるさく言う人がいそうだ、黙っておこう。そういえば噂では、警察官って身内に犯罪者がいるとなれないんだって…まぁ、いいや。
前置きが長くなってしまったが、昼間に書いた日記を以下に公開します。
僕の尊敬する腐j…乙女である某嬢が、例の「ドラえもん裁判」についてブログに書いていたので、僕も黙ってはいられない。彼女が引いていた
スポーツ報知の記事から引用させてもらおう。
山口県光市の母子殺害事件の差し戻し控訴審で、殺人罪などに問われた元少年(26)=事件当時18歳=は27日、広島高裁の公判で、本村夕夏ちゃん(当時11か月)殺害について「ひもを首に巻いたことすら分からない」と殺意を否認した。また、遺体を押し入れに遺棄したことを「ドラえもんが何とかしてくれると思った」と証言。殺害後に性的暴行した夕夏ちゃんの母・弥生さん(当時23歳)についても「復活の儀式だった」などと語り、乱暴目的を否定した。
26日に引き続き、これまでの起訴事実を否認する元少年。この日は、国民的人気キャラクターの名前を引き合いに出し、自らの殺意を否定した。
「今考えると幼いが…ドラえもんの存在を信じておりました」。弁護側が元少年に、夕夏ちゃんの遺体を押し入れの天袋に入れたことについて質問したときだった。
「ドラえもんの4次元ポケットは、何でもかなえてくれる。押し入れはドラえもんの寝室になっている訳ですが、押し入れに入れることで、ドラえもんが何とかしてくれると思いました」
もう少し詳しく知りたい方は、
光市母子殺害事件 - Wikipediaへどうぞ。
公判での「ドラえもん発言」について、インターネットでは思った通りの反応。mixiのドラえもんコミュでは「ドラえもんを穢された」的な怒りや、「ドラえもんは犯罪者の味方なんてしない」という意見が多い。2ちゃんねる(ニュー速+)では、「死刑廃止のためにドラえもんが利用された」「こんなやつは死刑にしてしまえ」「弁護団を処罰すべき」「更正するわけないだろ」「性善説にもほどがある」などなど。ブログのほうはあまりチェックしていないが、冒頭に話題にした尊敬する腐j…乙女が書いたのは、
ドラえもんは何もしてくれないよ。何もしてくれない。
あの漫画で育った子供なら、みんな、わかっていることだよ。
きみは、アニメの主題歌の歌詞しか憶えていないのじゃないかい。
もしくは、一度もあの漫画を読んだことのない大人に
書いてもらった原稿を読み上げているだけじゃないのかい。 (引用元)
うん、実に当を得ている。加害者と弁護団とドラえもんとの関係は、ほぼこの文章で言い表せていると言っていいと思う。ので、その点に関しては僕には特に言うことはない。死刑云々に関しては、僕の意見は「だんこしけい」もしくは「死刑以上の極刑」である。
死ぬより辛い目に合わされれば再犯はせんし、抑止力にもなるだろうと思う。ただ、もの凄いマゾヒストがもの凄い喜んでしまう可能性も考えねばならないので、「残酷で苦しい死刑」か「残酷で苦しいけど、死なない刑」のどちらが良いかは熟考の余地がある。あと僕が考えているのは、アメリカのとある州で実施されているという噂の(本当はどうだかわからんが)ロボトミー手術である。性欲とか凶暴性とかを司っている部分を手術で取り除いてしまい、ポヤーっとした人間を作り出す。
なんてことを書いていると10年後くらいに、例えば僕が教師になったとして、「尾崎先生は過去にこんな過激なことを言うておりました」なんて言われて叩かれたりして。そうしたら言い訳のしようもないなあ。まぁ僕が上に書いたのは極論であって、本当に犯罪抑止力を高めようと思ったらそこまでするしかないよということです。と今のうちに言い訳しておこう。
死刑廃止論の根拠の一つになるのは「冤罪の事例」であるが、「冤罪があるから死刑をやめよう」ではなくて、「できるだけ冤罪はなくす」方向にむかうのが普通ではないのかね。あと、(特に性犯罪の)再犯率の高さを鑑みれば、「更正可能性」なんてものがいかに信用できないかというのがわかるというものだ。そりゃあ更正可能性は誰にだってあるだろうよ。1%くらいは。
今回の事件に関して、彼はやってしまったのだ。18歳という「立派な年齢」で。女性を強姦して、殺して、赤ちゃんまで殺してしまったわけだ。もし今、深く反省しているというなら、潔く死んだらいいと思う。仕方ない。彼はそれだけのことをしたのだ。加害者の家族や友達も、それだけのことをしたのだから、あたたかく見送ってあげてほしいものだ。もし本人が「一生をかけて償いたい」と言うのであれば、どこかの「貧しい」国にでも飛んで、辛く、汚く、危険な、誰もやりたがらないような労働を無給でやるくらいの根性を見せて欲しい。365日、一日15時間、死ぬまで。自主的にそこまでやるくらいの心意気がなければ、人を殺した償いを本気で考えているなんて思いがたい。昔の漫画によく出てくる、強制労働施設。「1分きゅうけい!」みたいな、そんなの。作って、働かせたらいいのに。と、居酒屋か高校生レベルの死刑論を展開してみる。虚しい。
ええい、ドラえもんの話をしよう。
このままでは居酒屋トークに堕す。
■『ドラえもん』の主人公はだれか? / 平成19年6月30日(土)
近代文学研究には、「作品の初めと終わりを比較して、成長している者が主人公である」という考え方が存在する。もちろんこの考え方を全ての研究者が採用しているわけではないが、そういう考え方もあるということで。今回はこの考え方に沿って『ドラえもん』を考えてみよう。となると、『ドラえもん』という漫画の主人公はやはりのび太である!…多くの人はそう思うだろう。
確かに、「さようなら、ドラえもん」を始めとする幾つか(も)の短編や、大長編シリーズのほとんどにおいて、最も著しい成長を見せるのはなんと言ってものび太である。が、それはミクロレベルでの話であって、「さようなら、ドラえもん」という短編の主人公がのび太であるとか、「のび太の恐竜」の主人公がのび太である、という言い方はできても、『ドラえもん』という作品全体の主人公を規定するにはちと弱い。例えば、「のび太の宇宙小戦争」において最も成長しているのは、たぶんスネ夫であるし、てんとう虫コミックス23巻所収の「ハッピーバースデイ・ジャイアン」という話は、どう考えてもジャイアンの成長物語としてしか読めない。
じゃあ、『ドラえもん』という作品全体をマクロの視点で眺めた時、「最も成長している」のは誰か。
そりゃあもちろん、ドラえもんである。
僕は『ドラえもん』の原作短編を三つの類型に分けている。
(1)ドラえもんがのび太より精神年齢が低い
(2)ドラえもんとのび太の精神年齢が同程度
(3)ドラえもんがのび太より精神年齢が高い
(1)はほとんど連載最初期にしか現出しないパターンで、てんコミ1巻の
「未来の国からはるばると」(小四 1970.1)
「ドラえもんの大予言」(小四 1970.2)などがある。ドラえもんが暴走してのび太を振りまわしたり、ドラえもん自身が大失敗してひどい目にあったりする場面が中心的に描写される。有名な話でいうと、4巻の
「のろいのカメラ」(小三 1970.10)という話などが典型的だ。この話においては、暴走するのも失敗するのもひどい目に合うのもドラえもんである。ただしラストには、二人してスネ夫に復讐するシーンが描かれており、(2)の特徴の一つである二人の共犯性も顔を覗かせている。それからかの有名な
「ドラえもんだらけ」(小三 1971.2)もこの類型に含めて良いだろう。ドラえもんが失敗する様をのび太が傍観する、というスタイルである。
(2)は連載中期ごろ(70年代後半くらい)に多く見られ、ギャグまんがとしては最も油が乗っている作品群(だと僕は思う)だ。たとえば8巻の
「見たままスコープ」(小6 1975.1)や9巻の
「ツチノコ見つけた!」(小六 1975.3)を例に取ると、前者は二人ともバカで、部屋の中で延々とコントのようなやりとりを繰り広げるし、後者は二人してツチノコ探しに奔走し、二人してそれに失敗する。のび太とドラえもんが「精神的に対等」であるのが特徴だ。23巻に収録の超名作
「異説クラブメンバーズバッヂ」(小四 1980.11)もこのパターン。二人で楽しく地底国の秘密を共有し、のび太もドラえもんも暴走しない。平和的な話である。
(3)は、15巻の
「どくさいスイッチ」(小四 1977.6)に代表される「教訓系」とでも言えそうなアレである。だいたい、原作をまともに読んだことのない日本人は「ドラえもん」というとこの手の話を連想する。特に1990年代のアニメ版ドラえもんに親しんだ世代はそうであろう。この類型は原作でも後期に多く見られる。もちろん、後期になっても(2)の類型が非常に多く描かれていることは注記しておかねばならないが、ドラえもんによる説教系のセリフは後期になればなるほど増加するのは確かだ。40巻台になると「もっとマジメにやれ」とか「また、宿題もしないでゴロゴロと!」なんて、まるでママか先生のような言葉遣いが頻発するようになる。10巻あたりまでのドラえもんの精神年齢を考えると、ちょっと信じがたいほどの変化である。「1たす1は5だろ」とか平気で口にしていたのに…。
以上のようにざっくりと検証してみると、(1)~(3)は、大まかに言ってほぼ時系列的に推移する。…とはいえ、連載初期段階からこの三つの類型は入り交じって描かれているので、「初期はこう」「中期はこう」などと言い切ることはできないのだが、おそらく比率を割り出せば「この類型は初期に多い」「後期になるとこの類型の比率が増す」というくらいのことは言えるはず。ので、いちおう便宜的に(1)は初期型、(2)は中期型、(3)は後期型と言わせていただきたい。
ちなみにこの類型は奇しくも『こち亀』と非常に似通っている。最初期は破天荒な中川に両津が振りまわされるが、そのうちに揃ってバカをやるようになる。そしていつからか両津の暴走を中川が傍観して呆れたり、時には懲らしめたりするパターンに終始するようになった。この二つの「国民的長寿漫画」の類型の一致は興味深いものがあるが、まぁひとまず置いておこう。
連載前期、中期、後期と時系列的に見ていくと、のび太は相も変わらずバカであり、マクロ的な成長は特に見られず、ひたすらぐうたらと欲望の赴くまま生きているのに対して、ドラえもんはなんと著しい成長を見せていることか!最初に述べた「成長するのが主人公」という考え方を当てはめるならば、やはり『ドラえもん』の主人公は、のび太ではなくドラえもんなのである。ドラえもんはのび太との友情を通じて成長し、まるで保護者のような眼差しをのび太に対して向けるようになったのだ。「友情」は「お守り」に変わり、「一緒に遊ぶ」ではなく「遊んであげる」という立場に変容している。天才・方倉陽二先生の『ドラえもん百科』がいつまで経っても復刊されないのは、そこに描かれているドラえもんがダメロボットのままだからだろう。確かに70年代半ばまでのドラえもんはのび太と同じくらいバカだったが、以後彼は急速に成長を遂げ、『ドラえもん百科』で描かれている彼とはほとんど別人格のようにすらなっているのだ。
さて。ドラえもんはこんなに成長しているのに、のび太はちっとも変わらない。時折やる気は出すのだが続かない。よくなるどころか、ドラえもんへの依存度は高まるばかりのような気さえする。だが心配は要らない。ドラえもんが成長しているということは、のび太も成長しているということなのだ。
のび太にとってドラえもんが「友達」という対等の存在でなくなり、口うるさいだけの世話焼きロボットになる。この構図はつまり、思春期の子どもたちが迎える「反抗期」と同じである。ずっと一緒に遊んでいて、何でも話せる最も身近な存在であった親=ドラえもんのことを「口うるさい」「説教くさい」と感じ始め、少しずつ距離を置くようになったら、その時こそのび太は、「親離れ」ならぬ「ドラえもん離れ」をするのである。赤ちゃん言葉を使って、対等な視点から「あやして」くれる時期はもう過ぎた。ドラえもんが「赤ちゃん言葉」をやめ、「保護者としての言葉」を使い始めたということは、のび太にそれを受け入れるだけの準備ができたということだ。「説教」を受け入れる土壌が。今はまだ甘えているだけののび太だが、じきに成長しつつある自分に気付き、独り立ちするときが来るだろう。その時こそのび太の自立する時である。いつまでもドラえもんと対等の関係を保ち続けている最終回は、ドラえもんの本当の最終回ではない。もちろん、「宿題は終わったのかい」などという、保護者と子ども的な構図で締めくくられる最終回もあるべきではない。のび太がドラえもんから卒業し、ドラえもんはそんなのび太を寂しく思いつつもあったか~い目で見つめる。この構図にたどり着いてこそ、『ドラえもん』の物語は終わることができるのだ。
ただし、もちろんそのような最終回は描かれてはならない。ドラえもんは「永遠の少年時代」を描き続ける物語だからだ。いつか二人は別れなければならない、いつか卒業し、自立し、サヨナラしなければならない。「一夏の冒険」は別れとともにあってこそ美しい。だからこそ『ドラえもん』の物語は、いつも楽しく、はかなく、懐かしいものなのだ。
ボクはここにいる 君の目の前に
君がおとなに なるまでは
あそびつづけよう ボクといっしょに
(『ポケットの中に』作詞:武田鉄矢 歌:大山のぶ代)
劇場第一作「のび太の恐竜」の主題歌となったこの曲こそが、『ドラえもん』という物語のテーマを最も端的に、凝縮して表していると思う。
久々にマジメにドラえもんを語ってしまった。後半は少々強引にまとめてしまった感があるが、まぁいいか。いつの間にか朝の4時過ぎだ。何やってんだろう。僕の夢はこういう文章ばっかりでできた「ドラえもん論」の単行本を出すことなんだが、まぁ無理だろうな。いろいろと。はぁ。同人誌でも出すか。
■僕がHTMLにこだわる理由 / 平成19年6月29日(金)
しかし、今回の友人は、友達の多い人間です。閲覧者同士の繋がりによって新しいコミュニケーションができあがる可能性がとても高い。それをBlog形式にしてしまい、「閲覧者対管理者」の関係に閉じこもろうというのは、あなた、怠慢ですよ。もちろんBlogはデザインも綺麗だし、何より簡便ですが、その友人には「閲覧者同士のコミュニケーションの糸を結びつける」という責任があると思います。想像してみなさい、その友人のホームページに訪れる人達が、万が一全員くっつきでもしたら、どれだけ面白いことになるか!
その可能性及び面白さと、Blog的簡便さ、どちらを取るのかと、友人には問いたい。 (引用元)
↑は、僕が「ブログはいいなあ。僕もブログに移行しようかなあ」などという不届きな発言をしたことを受けて、当サイト副管理人であるsplint(添え木)が書いた記事からの引用です。前後の文脈がわからないとけっこう意味不明なので、ぜひリンク先に飛んで全文を読んでみてください。
僕はこのサイトを立ち上げてすぐに「Web日記」の味を占め、「この日記は僕のライフワークにしよう!」などと思いたち、10年でも50年でも続けていくぞと誓った。このサイトも来月11日で7周年を迎えるわけだが、「7年もよく続いたなあ」なんて気分は微塵もない。「7年も続いたぞ!どうだすごいだろう」という慢心があるのみである。7年の間に、日記がストップした時期も若干あったし(その間も他のスペースでWeb日記は書いていた)、閉鎖ごっこに興じたこともあった。最近も更新は滞りがちなわけだが、これまでURLを変更することもなく何とかやってきている。未だに「ジャッキー ドラえもん」で検索すると僕の恥ずかしいページが何番目かにヒットする。ちなみに、いちばん上に表示される
これは別人である。別人とは思えないが、別人である。僕がドラえもんに関して、こんな言い方をするわけがない。誤解なきよう。
そんな僕が、なぜ「ブログはいいなあ」などと発言したか。もちろん添え木の言う「blog的簡便さ」である。まず、htmlを打つのはめんどい。
つーか今の若い世代は「html」と聞いても拡張子の一つかURLの末尾についてる文字列、というくらいの認識しかないだろう。いや、mixiやblogに慣れてしまっている人にとっては、そういう認識すらないのかもしれない。「htmlってなに?」とか言う世代が登場するのもそう遠くは…いや、すでに「htmlってなに?」という世代なのか。「FTPってなに?」は、十代ならばほぼ間違いなく言いそうだが。今の十代でhtmlタグとFTPを使ってホームページを更新している人がどのくらいいるのだろう。かく言う僕も全部手打ちは面倒だし、全てのタグを理解しているわけではないのでサポートソフトを使ってやっているわけだが。もはやhtmlは時代遅れ。SNSかblogの時代だ。
そういえば最近ショックなのは、自分より少し下の「世代」と話をしていると、こんなことを言うやつがかなりの割でいることだ。「ジャッキーさんのブログ読んでますよ」どうやらこのサイトのことを言っているようだが、否!僕は「ホームページ上でWeb日記を書いている」のであって、これは「ブログ」などではない。年下でなくとも、ネットをやり始めたのが遅い人は年齢に関係なくそういうことを言う。あと、先日大学の後輩らと話していて、彼らに圧倒的にパソコンの知識が足りないことがわかった。彼ら(その時は4~5人ばかりいたのだが)は大学生にもなって、「デフラグ」「ディレクトリ」「ショートカットキー」がわからない。というか、「ファイル」「フォルダ」「クリック」「コピペ」以外の言葉は通じないと思ったほうがいい。「わかんなかったらググる」という精神すらなかったりする。趣味や勉強やどうでもいいことについては何でもGoogleに頼るのに、パソコンのことに関しては「調べる」という発想がないようだ。パソコンが重くなったら、「どうしよう」と言う前に「パソコン 重い」でググればいいのに…。
時代は変わった。明らかに「ホームページ上のWeb日記」というやつは緩やかな死を迎えようとしている。そりゃあ、ブログはデザインがきれい、記法も単純、更新がかんたん、携帯からもかける、画像のアップロードも楽、検索にもひっかかりやすい、Amazonや楽天などとの連携もあって、何もかもが至れり尽くせり。「テキストサイト」が隆盛を極めていたあの頃が懐かしい。
そういうわけで「ブログはいいなあ」という発言になるわけだが、もちろん本気で言っているわけではない。「はてなダイアリーも楽しそうだからそっちのアカウントも取っておこう」くらいのもんだ。本当にそっちに変えてしまおうという気はさらさらない。簡便さと検索の優位性という誘惑に負けそうになるときもあるが、かといって「Ez」を捨てるのか、というと、そんな気にはならん。僕はここが好きなのだ。
割とありきたりな言い方になってしまうが、僕はもともとこういうことにかけちゃ保守的であって、「進歩」や「便利」というものがイコール「良い」に繋がるとは思っていない。htmlをこつこつと組んで、FTPで1ページずつアップして、他のどこにもない自分だけの「ホームページ」を作ることが持つ意味は、必ずあると思う。ブログやSNS(特にmixi)は、横方向の繋がりしか保証しないシステムだ。僕は「我が強い」ので、横の繋がりの中に埋没し、没個性的な小惑星となり、みんなで手を繋いで土星の輪っかを作るなんてのを潔しとしない。だいたい、この場合の「土星」ってのは、金とか、政策とか、陰謀のことなんだ。きっと。僕は時間を縦に貫くツルギのようなホームページを作り続けたいですな。ブログだのmixiだのっつう平面的な世界にそびえ立つ金字塔。モノリス。東京タワー。そのような存在でありたい。なんてことは、もう少しアクセス増やしてから言えって。言えって?さいか。
そんなわけで、サイトをリニューアルしてみた。日記をトップに移動させたので、色々と不便があるかもしれない。あったらごめん。そのうちなんとかする。
今回のリニューアルで、僕がブログに抱いていたコンプレックスのようなものが幾らか解消できた。まず、「1行に約40文字」。文庫本やA4のレポート用紙がだいたい1行40文字程度で、それ以上になると非常に読みにくくなる。次に、「行間を空ける」。これである程度また読みやすくなるはず。それから、それから、まぁ、そんなとこ。
つうわけでよろしく。
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