少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

 過去ログ  2007年5月後半  2007年6月a  2007年6月b、7月  TOP
2007.06.27 オートマチック・ライター/ヤンキー先生批判
2007.06.22 桜桃忌/『300』
2007.06.18 馴れ合いによる退化
2007.06.15 『ゲドを読む。』を読む。批判的に。
2007.06.13 岸田秀さんと飲み、西手新九郎と握手。
2007.06.10 ロケットマンインストアライブ
2007.06.09 中村一義『虹の戦士』を小沢健二ふうに読む。
2007.06.07 スペイン語とラテンアメリカについて勉強するぞ
2007.06.06 翻訳\(^o^)/オワタ
2007.06.04 川本真琴は神々 ~名曲『野菜』~

2007.6.27日(水) オートマチック・ライター/ヤンキー先生批判

 文字の世界で自動筆記するとやはり精度が下がる。
 筆を持って、白い紙に、何でも書いていいよと言われるのとは訳が違う。
 秩序のない文章を作るのは容易だが、秩序のない文字というのは文字ではない。
 文章を記述するのが文字である以上は、精度の高い文字の自動筆記はできない。
 どうしても秩序のことを考えなければいけないのだ。
 憑かれたように何かを書く、というのはほとんど嘘である。
 絵だったらいいんだがね。

 僕には今、まともな文章が書けない。
 現在は歯を食いしばって、ようやくのことでキーボード叩いている。
 秩序を意識することは、疲れる。
 ぼんやりとしていたい。
 全身を命令が駆け抜ける感覚は気持ち悪いし
 身体がパソコンにまで拡張されて、命令がかけずり回るのも、
 ああ、吐き気がする。

 今この状態のまま、「自動筆記」なんてもんをしたら、
 とんでもないものができあがるだろう
 自制せんくばならん、が、そりゃ、疲れるだ。
 
 自らに激しく絶望。日本にも。世界にも。全てに。
 15年間付き合ってきたひとみちゃんと別れた矢部さん、お疲れ様です。
 これも絶望の種の一つ。
 そして絶望が、理性を殺し、思考を鈍らせる。というか、ただただ無気力にさせる。

 でも、もう一つ、僕の絶望の原因を、できるだけがんばって、書いてみよう。

 ヤンキー先生が参院選に出馬なさるそうで。
 きっと当選するんだろうな。
 だが。罪を犯した人間が、立派な人生を歩めると思ったら大間違いだ。
 謙虚に生きてもらいたい。実際に、彼には、さまざまな疑惑がある。
 ほとんどの疑惑が、真実なのだろうと僕は思う。
 不良が更正するなんて、僕には実感が湧かないし、
 たとえ本当に心を入れ替えたとしても、
 人格まで入れ替わるとは限らん。
 犯罪者が何のハンディも負わない世界は、不平等だ。
 もちろん、犯罪者だって、罪を償う気持ちがあれば、
 普通の生活を営んでもいいと思う。
 技術や能力が社会に貢献できるのであれば、そうして欲しい。
 だが、「自分は犯罪者である」という自覚を忘れては、いかんだろう。
 義家さんは、自分が犯罪者であるということを忘れるどころか、
 ある種の誇りにまでして、それを武器に、お金を儲けていらっしゃる。
 大した教育の知識も、センスもないくせに。
 というか、単純に、頭悪い癖に、教育をどうこう言って。
 「あなたに教育を語る資格はない」なんて言う人に
 教育を語る資格なんてあるわけない。(って太田総理でも言われてたな)
 女子どもには強気に出るが、太田光やテリー伊藤など、
 目上の男には反論できない。そんな卑怯な人間に。

 ごく身近に、若いころ「ヤンキー」だった人がいる。
 その人はもう結婚して子どももいて、親バカっぷり発揮している。
 ほほえましい。が、
 はっきり言って、心配だ。
 「じゃあ、元ヤンキーに子どもを育てる権利はないのか!」なんて言われたら、
 「そりゃ、あります」と答えるしかない。
 が、
 心配である。
 この点は譲れない。
 彼が過去に、親や、家族や、他の大人に対してどのようなことをしてきたか僕は知ってる。
 そういう人間が「子育てちゃんとできるのかな」と心配されるのは当たり前のこと。
 潔く背負って行かなければならない十字架だ。
 「うるせえ!お前にそんなこと言う権利があんのか!」なんて怒り出したら、
 ますます心配になる。
 口で何を言っても愚か。子どもを立派な人間に育てることで証明してもらいたい。
 それ以外に、反論する術は、元ヤンキーにはない。そこは差別されるべきだろう。
 行動で示す。それしかない。
 義家さんはそれに失敗している。
 2ちゃんねるであんなに叩かれてるってことは、
 誰もが安心して「あ、この人は更正したんだ」と思えるような行動をとっていないということだから。
 北星余市で、ずっと教員していれば、「いい先生」でいられたかもしれないし、
 「あ、更正したんだな」って、誰からも思われてたかもしれないのに。
 身の程を知ろ。


 感情的になっていて、理性が飛んでいる時、または
 感傷的になっていて、理性が弱っている時
 文章を書くのは疲れる。
 絵だったらいいんだが。
 
 義家についてはここのHPを参照してね。義家弘介研究会
第三十二回ウーチャカ大放送 
2007/06/26 24:00~25:00  
↑Listenをクリックして適当なプレイヤーで再生(または保存→再生) 

ゲストいません。約一ヶ月ぶりの一人きり放送
24時までは適当に何か垂れながします
チャット

26日

 なんかとても疲れた。年に数度こういうのがあるんだが。
 みんな同じ言語で話せないものだろうか。

2007.6.22日(金) 桜桃忌/『300』

 こないだ太宰治の桜桃忌に行ったらば読売新聞に載った。
 一緒に行った女の子とツーショットで載ってしまったので
 さながらフライデーされた気分である
 全国版だったらもっと良かったのに。
 残念ながら20日の武蔵野版のみ。興味ある人は図書館とかで探してください。
 (スキャン画像をここに貼っても良いのだが)
 女子高生もいたし、
 おじちゃんおばちゃんおばあちゃんおじいちゃん
 要したら老若男女
 太宰治はさまざまの世代に愛されているようだ、今なお。
 驚いたのが、お寺の中で、一般の方がマイク持って、
 みんなの前で、かわりばんこに語ってたこと
 発言したい人が手を挙げて、和尚さんらしき人に当ててもらって、
 太宰に対する想いを語る、みたいなんだったが
 面白かった。18歳のおなごが生き生きと語っていた。

 太宰治の墓の向かいに森鴎外の墓もあった。
 どんな話をするんだろうか。


 最近『300』という映画を観た。
 こういう、新しい映画を観るのは珍しい。
 いつも二本立てとかしか観ないから。
 しかしテルモピュライの戦い(僕はテルモピレーと習ったもんだが)が
 モデルになっていると聞いたら観ないではいられない。
 スパルタ軍300名が何十万のペルシャ軍と全滅するまで戦い抜いた伝説の戦争。
 ま、ギリシア側にも援軍はいたのだが、それでも5000程度、
 しかも途中でその多くは撤退し、結局1000名しか残らなかったらしい。

 映画は、とにかくざんぎゃく。
 気持ち良いくらいバシュバシュ人が死ぬ。
 腕が飛び、首が飛び、血が吹き出る。死体の山。
 スパルタ軍の戦術が、「本当にこんなんだったかも」と思えるほどうまくやっている。
 しかしヘロドトスの『歴史』にあるような
 「撤退戦術」をやってなかった気がする。見たかった。惜しい。やってたっけな?

 聞いた話では、朝日新聞がこの映画を酷評しているらしい。
 そりゃそうだ、ただ残虐なだけの戦争映画だもんな。
 それも、人種的にはアメリカ人がイラク人殺しまくってるような感じにも見えるし。

 にしても、『Shall We ダンス?』のハリウッド版を見た時も思ったのだが、
 アメリカの映画って、結局「結婚」もしくは「夫婦(家族)の絆」に持っていくのな。
 そういうテーマを殊更に強調すると、余計に薄っぺらくなるぜよ。
 レオニダスと奥さんのロマンス描写なんて要らないんだが。
 何あの濃厚なラブシーン。本気すぎて笑える。
 それと執拗に「民主主義」とか「自由」とか言ってんのもしらける。
 バカっぽくていいけど。
 しかしスパルタ人が「法」を頑なに遵守しようとする様はよく描けていたと思う。
 『歴史』にも、「スパルタ人は法(ノモス)という君主を云々~」なんて記述があったな。
 そう、この機会に『歴史』の該当箇所をざっと読み直してみたら、
 『300』って意外と史実(ってかヘロドトス)に忠実なところは忠実にやっているのだな。
 もちろん演出部分もかなりあるけど。
 どこがどの程度改竄されているかわかると面白いかもしれない。
 
 はあ。それにしても、いつはかなくなるべきか。

第三十一回ウーチャカ大放送 
2007/06/19 24:00~25:00 
↑Listenをクリックして適当なプレイヤーで再生(または保存→再生) 

ゲスト二名。


24時までは適当に音楽を垂れながします 

チャット 
 

【ノイズ弾き語り】
矢崎隆雄さん1stマキシシングル『ETHANOLISM』(4曲入り)
DLはこちらを右クリックして保存!(配布終了)

1 NEVER HERO
2 RAIL LINE LOAD RULE
3 EMOTAL
4 NEEDLESS

全作詞・作曲・演奏・歌・録音など:矢崎隆雄さん

2007.6.18日(月) 馴れ合いによる退化

 馴れ合いでだらだらしていると腐ってしまう。
 「ホットケーキつくったよー」
 「わーすごいねー」
 で満足してると
 もうホットケーキの話題しかできなくなるぞ。
 
 律せよ。くそが。
 緊張感のない間抜けな言葉を垂れ流しツボに貯めてフタをして
 そのまま忘れてしまうんだろう。

 ホットケーキで繋がる関係に満足か。

 小学生でも飛び越えられる高さのハードル立てて
 お遊戯みたいにぴょんぴょん跳ねて
 退化してんのがわかんないか。
 
 大量に吐き出して過去に捨てる。
 恥とともに忘れる。
 昨日考えていたことがわからない。
 そうやって君たちは何も考えなくなっていくのだよ。
 過去も未来も関係ない、
 「現在」だけが存在する世界に閉じこめられて
 ホットケーキの話ばっかりして
 ホットケーキの話題ばっかしやがって。
 
 おまえはホットケーキの話をするのに忙しく
 ホットケーキの未来について考えようとは思わない。
 
 下らん。
 判を押したような発想。展開。結論。
 毎日それの繰り返しなんだろう。
 至る所で。
 
 きもちわるい。
 何たる愚昧。
 
 
 くだらない日記ばかり書き続けていたら脳味噌が退化するぞ。

2007.6.15(金) 『ゲドを読む。』を読む。批判的に。

 今日はジャイアンの誕生日なのですが、
 『ゲドを読む。』のことを書こう。
 13日の日記と合わせて読んでいただけると幸い。
 
 
 『ゲドを読む。』とは、
 全国書店で無料配布された糸井重里プロデュースのフリーペーパー。
 フリーペーパーといえど文庫サイズで約200ページというボリュームで、
 配布数は100万部を越えるという。
 
 内容はもちろんル=グウィンの『ゲド戦記』に関するもの。
 執筆陣は中沢新一、宮崎駿、宮崎吾郎、河合隼雄、清水真砂子、中村うさぎなど。
 映画『ゲド戦記』の広告の一環として作られたもので、
 元が取れたかどうかはわからないが、かなりの宣伝効果はあっただろう。
 僕は新宿東口の紀伊国屋書店で二冊(表紙が青と黒の2バージョンあったので)入手したのだが、
 その時はワゴンいっぱいに積まれていたにも関わらず、翌日通りがかったら一冊もなかった。
 無料配布本でここまで「売れた」ものは珍しいんじゃないだろうか。


 『毎月の環境学会々報』の編集長からこの本について、
 「なかなか『うさぎ!』っぽいことが書かれている」と聞いていたので、読んでみた。

 中沢新一の50ページに及ぶ「『ゲド戦記』の愉しみ方」や、
 訳者・清水真砂子の文章およびインタビューは非常に興味深いものだった。
 これがタダで読めるならば、お得だなと感じた。
 
 しかし、僕は『ゲドを読む。』を手放しで評価できない。
 「広告」としては一流である。「読み物」としてもよくできている。
 だが、この本は「思想」的に欠陥があるように思えるのだ。
 
 「いくつかの重要な『ゲド戦記』論」として
 河合隼雄の文章を載せたことによって、
 『ゲドを読む。』の思想的一貫性が揺らいでいるのではないかと思う。

 ル=グウィンがユングを読んでいたというのは確からしいし、
 影響もあるのかもしれない。
 だが、だからといってユング派の河合隼雄の意見に妥当性が認められるかといえば、
 そう単純な話でもないだろう。
 まず、ユング派としての、そして学者としての河合隼雄に対しては
 厳しい批判があることを知っておかなければならない。
 インターネットでも読めるわかりやすい批判には以下のようなものがある。

 中公新書の「復権」三部作で有名な林義道氏の河合隼雄批判
 アンチ「心のノート」HPでの批判
 
 どちらも長いので、ざっと目を通していただきたい。
 「ああ、河合隼雄さんって、うさんくさいのだな」
 くらいの認識で構わないので。
 今後、河合隼雄の文章(特に『ゲドを読む。』)を読む際に、
 多少うがった見方をしていただければ
 「なるほど、なるほど。いんちきくさい」と思っていただけるだろう。
 
 ちなみに『現代思想』(2007.4月号)にも、
 小沢牧子さんによる簡単な河合隼雄批判があって、
 彼が80年代から「心の専門家」の必要性を説き、
 現在の「心、癒し、セラピー」ブームの先駆になったことが書かれている。
 
 河合隼雄が「心の専門家」の必要性を説いたのは、
 ユング派としての立場からと言うよりはプロの心理療法家として、
 すなわち「カウンセラー」としての立場からであろう。
 彼は至るところで「心理学」と「心の専門家」の必要性を訴え、
 自分の職業の「商業的な成功」を導いたわけである。
 現在の心理学界において、表だった河合隼雄批判が展開されないのは
 そういう背景があってのことだろう。
 みんな、河合隼雄に頭が上がらないのだ。

 『ゲドを読む。』に収録された河合隼雄の文章「『ゲド戦記』と自己実現」は、
 確かにわかりやすい。わかりやすいが、よく読んでみると支離滅裂で、
 論理に破綻がある…というか、そもそも論理などそこにはない。
 たとえば、ゲドにおいて「真の名」というのがキーワードになっている。
 そして心理療法でも「真の名前」というのは重要だ、と河合隼雄は言うのだが、
 そこでいう「真の名前」というのは
 ニンジンを「ビタミンの結晶」だとか、くさい「竜のフンかなんか」だと思うのではなく、
 ニンジンを「ニンジン」という真の名前として捉えれば、
 子どものニンジン嫌いは解決する、というようなことだという。
 だから、『ゲド戦記』も心理療法も、真の名前を見つけるという意味で同じだ、
 と言っている。

 これが正しいか正しくないか、僕には判断ができない。
 なぜならば「説明がない」からだ。
 河合隼雄は常に一足飛びに
 「少しでも同じ性質を持つもの」同士をくっつけ、言い換え、すり替える。
 ゲドの例とニンジンの例とが対応するという論証はここにはない。
 あるのは、「真の名(前)」という言葉の共通だけだ。
 『ゲド戦記』では「真の名」がどういう存在として描かれているか
 という説明はまったくないし、
 ニンジンの真の名前はニンジンである、ということも特に論証されず、
 河合隼雄の印象による決めつけが、あたかも自明であるかのように語られる。
 『ゲド』では真の名を知ることは、
 そのものの本質を知り、操り、支配することに繋がる。、
 河合隼雄はニンジンの本質は「ニンジンであること」だと言っているわけだが、
 「ビタミンの結晶」というのも、「竜のフン」を思わせる臭みも、
 本質ではないということなのだろうか?
 そのあたりの説明がないので、なんとも言えない。反論すらできない。
 ハイタカの真の名がゲドであることと
 ニンジンの真の名前がニンジンであることが
 どうして対応するのか。その説明が一切ないのである。
 要するに、河合隼雄は「ふんいき」だけで喋っているわけだ。

 『ゲド戦記』が自己実現についての物語であるという見方も、
 ほとんど「ふんいき」である。論証されていない。
 この文章は明らかに「講演」を元にしたものであるから、
 煩わしい論証は省いているし、論理よりも感性に訴える内容になっている
 ということなのかもしれないが、
 それならば「重要な『ゲド戦記』論」として採録すべきではない。
 これは編集側の責任である。

 思想的に見ても、少なくとも、
 中沢新一の「『ゲド戦記』の愉しみ方」で主張されているル=グウィンの思想と
 「自己実現」というものは、一致しない。
 
 だから僕は『ゲドを読む。』を評価できない。思想的に一貫していないのだ。
 河合隼雄の文章は30年も前のものなので、
 悪いのは彼というよりもこの文章を採録した編集者か、
 プロデューサーの糸井重里であろう。僕は糸井重里好きだけど、言う。
 「いくつかの重要な『ゲド戦記』論」とあるのだから、
 色んな読み方の論文があってもいいとは思う。
 すべての論文が一貫して同じことを言っている必要はない。
 しかし、「いくつかの重要な『ゲド戦記』論」の中で、
 『ゲド戦記』の解釈や分析をめぐるまとまった文章は
 ほぼ河合隼雄のものだけと言っていい。
 しかもそれは36ページにもわたる長文だ。
 これを偏りと言わずして何と言おう?

 そもそもこの河合隼雄の文章は、
 「心理療法を材料として『ゲド戦記』を語る」ものではなく、
 「『ゲド戦記』をダシにして心理療法を語る」ものである。
 たぶんそういう趣旨で行われた講演か何かが元になっているのだろうが、
 このような文章を採録するっていうのは、いかがなものだろう。
 もっと良い論文はあるはずなのに。
 河合隼雄という人物がいかに「信仰」されているか、というのがよくわかる。
 この人の文章を載せればみんな読むだろう、という目論見なんだろうが、
 残念ながらこの本の主旨にはそぐわなかった、と僕は思う。

 中沢新一の主張だと、『ゲド戦記』とは
 「白人を中心に考えられてきた世界史や美術史の世界を、ひっくり返そうとした」(P25)
 とあって、
 有色人種や、先住民や、女性や、農業や、東洋や古代の英知などに寄り添い、
 国家、都市、科学、結婚、フェミニズムなどに疑問を呈するものである。
 僕は中沢新一の文章をそう読んだ。
 そして、これらを主張する長文が巻頭にあるということは、
 『ゲドを読む。』という本のコンセプトはこれらの主張に寄り添っていなければ、
 少なくとも思想的一貫性のあるものにはならないと思うのだが…。
 
 河合隼雄の言う「自己実現」はどうなのかというと、
 これは中沢新一の主張にそぐわないと思う。
 「自己」だの「自己実現」だのという河合隼雄が連発している言葉、
 ひいてはフロイト・ユングに始まる精神分析の分野というのは
 「個人主義」という白人文化の代表的な思想が根底にあるし、
 さらに精神分析は個人主義を発展させ、助長した。今もなお、している。

 『ゲド』を「自己実現」の文脈で語ることは、
 中沢新一の言うル=グウィンの思想とは相反するのではないだろうか。
 ル=グウィンがユングを読んでいたからとて、
 『ゲド』が自己実現の物語であるとは言えないわけだし、
 もしもル=グウィンが『ゲド』を自己実現の物語として書いているならば、
 彼女は「思想的一貫性に欠ける」として批判されなければならない。
 その場合、彼女は現代文明=白人文化を否定しながらも「個人主義」を奨励するという、
 まことに奇妙で鵺的な書を世に送り出してしまったわけだから。


 ゲド戦記のフンドシを借りて心理療法の土俵で相撲を取ったような文章を
 『ゲドを読む。』に収録してしまったことが僕は最も気に入らない。
 しっかりと心理療法のフンドシを締めて、
 ゲド戦記の土俵でそれを語る、というのならまだ話はわかるが。
 何を考えてあの文章を採録したのか、僕にはまったく意味がわからない。
 編集側が内容を理解していないとしか思えない。

 ところで『うさぎ!』との関連についてだが、
 僕は「関連するところもあるし、そうでないところも多い」
 とだけ言っておこう。

2016/08/03 現代文明=白人文化の否定(批判)と自己実現や個人主義の奨励が矛盾するかしないか、はよくわからない。

2007.6.13(水) 岸田秀さんと飲み、西手新九郎と握手。

 どういうわけか無銘喫茶に『ものぐさ精神分析』の岸田秀さんがやってきた。
 そしてどういうわけか二階で一緒に飲むことに。
 さすがひと癖もふた癖もある人物で、非常に楽しかった。
 彼自身「まともな」学者ではないためか、
 「心理学を学んだ奴ら」に特有の胡散臭さはほとんどなく、僕も違和感なくお話に加わることができた。
 僕はその岸田秀さんとのお話の中で、奇妙なシンクロニシティを体験した。

   数日前、僕が「白人文化」について考えていると、それを聞いた友人が
 「『ブラック・アテナ』という非常にラディカルな本がある」と教えてくれた。
 その本はどうやら「西洋人による歴史の偽造・捏造」についての本らしく、
 ギリシャの人々は元々黒い肌をしていたのに、
 西洋近代の歴史学者たちがその事実を歪ませ、
 「ギリシャ文化は白人の文化」としたのだ、という主張らしい。
 面白そうだなと思って覚えていたら、
 『ゲドを読む。』という本(文庫サイズのフリーペーパー)を読んだところ
 中沢新一による語りおろし記事の中でその『黒いアテナ』が紹介されていた。(P17)
 (この『ゲドを読む。』という本については言いたいことがあるのでいずれ日記に書くつもり)
 一冊5000円超で上下巻、しかも邦訳されてない部分がその3倍あるというから、
 「無理だー。でも読まなければ…でもなあ…」と思っていたところに、
 偶然に岸田秀さんと出会ってしまったわけだ。

 話を聞いていると、岸田秀さんはごく最近
 『嘘だらけのヨーロッパ製世界史』という本を上梓していたということがわかった。
 タイトルからしてまず、ストライク。
 興味津々に耳を傾けていると、その本はなんと
 『黒いアテナ』とその周辺の論争をまとめたような本であるという。

 わずか数日間のうちにこれほど『黒いアテナ』にまつわる出来事があるとは。
 それまでこの本のことを気にもとめていなかった僕が、である。
 これをシンクロニシティと言わずして何と呼ぶ!
 
 ひとまず、『黒いアテナ』は高いし長いので
 岸田秀さんの本を読んでみることにします。
 
 
 あんまり関係ないが唐沢商会が『ガラダマ天国』かなんかで
 「西手新九郎」なんてネタをやっていて、
 初めて「シンクロニシティ」という言葉を知ったのは
 それを読んだ中学生くらいの時だったなあ。


 それにしても、『ゲドを読む。』といい『嘘だらけのヨーロッパ製世界史』といい、
 ここ最近になって白人文化に対する疑問が少しずつではあるが育まれているような気がする。
 それを最も丁寧にわかりやすく書いているのは
 小沢健二の『うさぎ!』だと思うのだが。
 うむ、最近は本当に起きている時間のほとんどを『うさぎ!』について考えていて
 病。

2007.6.10(日) ロケットマンインストアライブ

 新宿タワレコでロケットマンのインストアライブ。
 ぎりぎりまで駒込にいて、着いたのが開始数分前だったため
 本人による前説を一部聞き逃してしまったようだ
 ゲストが一曲だけ歌って、ザブングルが出てきて、PV見て、という流れ。短い。
 準備不足のためサイン会でも何も目立った行動ができなくて、
 ロケットマンの印象に残ることができなかったと思う、残念だ。
 一か八かの賭けで、
 「『Fly Away』のPVは、YMOの『君に、胸キュン。』のPVみたいでした」と
 率直な感想を述べた(もしかしたら意識しているのかなと思ったので)が、
 どうもピンとこないらしく、はぁそうですかというような反応。
 仕方ないから最後に「み、ミツバ学園の大ファンです」みたいなことを言ったら
 「おお、ありがとう」と言ってくださったものの、
 その程度でござるよ。
 尊敬するふかわ先生に何か気の利いたことでもできたらよかったのだがなあ。
 
 
 これから一ヶ月間、忙しくなります。
 
 
 
 「白人文化の研究」と冠して、世界史を勉強し直そうかと思います。

2007.6.9(土) 中村一義『虹の戦士』を小沢健二ふうに読む。

 思ったより早く旅から帰って来ました。
 久々に中村一義の『ERA』というアルバムを聴いたら、
 『虹の戦士』という曲に心奪われた。

 昔から僕はこのアルバムが好きで、どの曲も素晴らしい!と思っていたのですが、
 『虹の戦士』は実はこれまで「まぁ、次点。」くらいの曲で、
 「それよりも『ジュビリー』『ピーナッツ』『ハレルヤ』『ゲルニカ』…名曲はたくさんあるぜ」
 なんて思っていたのですが、
 
 最近、「虹の戦士」という言葉の意味するところを知って、また、
 小沢健二の『うさぎ!』及び『毎日の環境学』の影響で
 地球環境だとか「世界問題」(社会問題という言葉は嫌いだ)について考えるようになって、
 中村一義の『虹の戦士』という曲と、改めて向かい合ってみた次第。
 
 
 まず、歌い出し。

   で、いつも通りの水面の鳥だと思った。
   よく見れば、ペットボトルか。


 流れる川の上にペットボトルが浮かんでいる。
 日常よく見る光景。


   ねぇ、「慣れてきたよ」って、あんたは言うが、
   慣れなんて通じないさ。意味が分かんない?


 ここが中村一義(略してなかよし)の詞のうまいところ。
 いったい何に「慣れてきた」のか、
 「あんた」とは誰なのか、
 「慣れなんて通じない」とは何に対して通じないのか、
 「意味が分かんない?」とは誰への問いかけなのか。等々。
 
 勝手に訳してみるならば、

 「ペットボトルが川に浮いている状況や、それに代表されるような街の汚染、ひいては地球環境の悪化等を目にしたり、耳にしたりすることにはもう慣れてきたよ(耳にタコができるほど見て、聞いているから、何も感じなくなってしまった)、なんて言う人がいるが、これは「慣れてきた」なんて言って片付けて良いような問題なのだろうか?「慣れてきた」から環境が良くなるわけでもないし、放っておいて良い問題だとも思わない。この説明がわからないほど無関心で、思考能力が低下しているわけではないよね?まさか、「環境なんてどうだっていいとか思ってるわけじゃないよね?」

 みたいな。上の解釈が合ってる合ってないとかは置いといて、
 たとえばまぁ僕にはそのように聞こえる。


   へいき? ハメられてんだ、見えない罠に。
   へいき? ぶち破るんだ、その手、足で、
   へいき? へいき? へいき?
 
 
 「見えない罠」とは、小沢健二のいう「灰色」のような、
 目には見えないが確実に人びとの生活と心とを蝕んでいる
 とてつもなく恐ろしくて巨大な存在を思い浮かべる。
 人びとに
 「仕方ないよ。そういう仕組みなんだから」
 と思わせるような社会の「仕組み」。
 人びとに諦めを植え付け、思考停止させるような目論見。
 そして、ただお金だけをじゃぶじゃぶ使わせて、
 どうでもいい情報をばらまいて、食いつかせて、
 人びとに考える隙を与えない。人びとをバカでいさせるための罠。
 詳しくは小沢健二の『うさぎ!』か
 『企業的な社会、セラピー的な社会』を読んでほしい。
 『うさぎ!』第1話はネットで読めます。小沢健二公式
 
 そんな仕組みを「ぶち破る」のが「虹の戦士」。
 これはネイティブ・アメリカンに伝わる伝説の一つで、
 
 「いまに、地球は病み、海は黒ずみ、川の水は毒となり、
  動物たち植物も姿を消しはじめるとき、まさにそのとき、
  みんなを救うために世界中から虹の戦士が現れる---」
 
 ということらしい。この文章は、「グリーンピース」という
 うさんくさ、いや、いかがわし、いや、その、よくわからない
 「過激派」NGOのHPから拝借しました。わかりやすかったので。
 http://www.greenpeace.or.jp/info/features/rw20/
 詳しくは『虹の戦士』という有名な物語を翻案した  北山耕平さんのブログをごらんください。
 大手NGOの活動はどうも胡散臭いので、(ピースボートとか、僕は大嫌いだ)
 個人的には北山さんの文章を読んでほしいです。


   で、いつもどおりのポリエステルな街の、
   地を裂いて、雑草は届く。



 巨大な文明と、それに抗う小さな自然とのコントラストが鮮やか。
 たとえ小さな雑草であろうと、
 大きな意志と心意気次第でコンクリートもぶち破って顔を出すし、
 そういう姿にホッとしたり勇気づけられたりする人もいる。
 
 
   あぁ、オレも、ホントの事なんて、
   分かりゃしないんだけど、
   本来立つ場所に、君はいるかい?


 情報は溢れ、「あれが正しい、これが正しい」なんて色んな立場の人が思っていて、
 あたかも真実なんてもう無いように見える。
 それは理想を追い求めるからだったりする。上のほうばっかり見て、
 実現不可能な絵空事ばかり思い描いて絶望しているから。
 それよりも、「本来立つ場所」に目を向け直してみたらどうだろうか。
 そこがドコなのかは僕にもわからない。
 でも、「現在自分はどこに立っているか」考えてみよう。
 そうしたら多くの人が「違う、ここではない」と思うんじゃないだろうか。
 なんて希望を僕は抱くのだが、楽観的だろうか?


   へいき? あそばれてんだ、見えない奴に。

   へいき? ただ楽しいってだけじゃ、死ぬぜ!?
   へいき? へいき? へいき?

 

 「見えない奴」はさっき言った「灰色」のような巨大な存在。
 僕らの心を知らないうちに操っているモノ。
 民衆の思考を決して自律させない。
 ただ「楽しい」だけを追い求めさせるような。
 しかし「楽しい」だけを求め、
 大切なことを「慣れてきたよ」で切り捨てて行くと、
 待っているのは「死」である。
 別に、楽しんでる人が今即死するとかそういうことではなくて、
 比喩的に、もっと大きくて大切なものの死を招くということ。


   最低な今日に、泣いて、呑み込まれないで。
   僕は僕で、君は君で、他の誰かではない。
   
   へいき? ナメられてんだ、この現状に。
   へいき? 骨ん中まで染みるヤツで。
   へいき? 言葉までも失くす前に。
   へいき? こじ開けてぇんだ、この直感で。



 「最低な今日」に絶望して諦めてしまうのではなく。
 精神科に行って類型化されて、他の人と同じような薬をもらって、
 だんだんと他の人とまったく同じ症状になっていくのはバカバカしい。
 (妙な例ですみません)
 今度は「現状にナメられている」ときた。
 さっきからこの曲では、同じことを違う表現で表している。

 「慣れ」「見えない罠」「ポリエステルな街」「見えない奴」
 「楽しいってだけ」「最低な今日」「現状」
 これらの言葉の含む意味は、全て同じものだと思う。
 それに対抗するのが、
 「その手、足」「雑草」「本来立つ場所」「僕は僕で~」「この直感」

 …なんか、国語の授業みたくなってきたなあ。
 前者のグループは、小沢健二ふうに言うと「灰色」の側に属するもので、
 後者のグループは「うさぎ」たちの側に属するものであろうと思う。
 (僕は僕で~っていうのは一見個人主義的な匂いもするが、
  ここでは「僕」と「君」との関係として語られているのであって、
  「僕だけの世界」「君だけの世界」を強調しているわけではないと思う
  この根拠は歌の最後のフレーズにある。)
 
 うさぎ!を読んでない人はぜひ読んでください。
 
 「骨ん中まで染みるヤツ」ってのもまた、
 心の中に刷り込まれてしまった
 「慣れてきたよ」的な気分を呼び起こす価値観のことなんだろうな。
 「仕方ないよ。そういう仕組みなんだから」という諦めが植え付けられてしまっている、と。
 
 
 しかし、改まって『ERA』を聴くと
 この『虹の戦士』のような強いメッセージ性が色んな曲から感じられる。
 『ピーナッツ』にしろ『ジュビリー』にしろ『ハレルヤ』にしろ…いや、全部の曲が。
 「すべての人たちに足りないのは、ほんの少しの『博愛』なる気持ちなんじゃないかなぁ」と
 思わせるような名曲ばかり。名盤である。
 彼の「博愛」なる精神と、それを最高の音楽に仕上げてしまう才能に脱帽だ。
 
 
   そう、だって、
   僕なら、君なら、どんな壁だって、
   ぶっ倒していけるさ。
   僕等は、願いを持った戦士なんだ。
   
   もし君の声が枯れ果てたら、
   オレが歌で叫んでやる。
 
 
 うさぎが、大きく伸びをしながら言います。
 「うん、まあでも、人びとは勝つよ。」
 「勝つねえ」ときらら。
 「そりゃ勝つでしょ」とクィル。
 
 (小沢健二『企業的な社会、セラピー的な社会』社会臨床雑誌14巻3号)
2016/08/03 いちばん役に立ったアルバムは『金字塔』で一番好きなアルバムは『太陽』です。(言っとかないと)

2007.6.8(金)~10(日) 旅に出ます

 ちょっと更新でけませんすみません
2007.6.7(木) スペイン語とラテンアメリカについて勉強するぞ

 という決意。
 
 昨夜は架神恭介さんの単行本作業がいったん終了したので打ち上げ。
 大久保でラム肉をおごっていただいた。
 なんて太っ腹ないい人なのだろう(言っとかないと)
 その後、架神さんが「無銘喫茶にいこう」とか言い出すのでしぶしぶ新宿に移動。
 なぜしぶしぶなのかというと、3人以上でゴールデン街の店に入るのは
 若干マナーが悪い気がする。どこの店もせまいから、
 3~4人連れだと入れないし、入れたとしても店の空気をがらりと変えてしまう。
 まぁ、無銘だからいいんだけど。
 
 無銘喫茶は信じられないほど混んでいて、15人以上いた。
 一階も二階も満員で、立ち飲みの人も。せまいのに。
 たくさん人がいてワイワイやってるのも楽しいが、
 客が4~5人くらいでまったりとやっている雰囲気がいちばん好きかもしれない。
 
 朝方近くになって人が引いて来ると、
 なぜか『悪魔のいけにえ』上映会が始まる。
 そして『地獄の黙示録』のギルモア中佐に萌えまくり。
 
 完全に人が数人になってきたところで僕は友人の某ニートさんと激論を交わす。
 教育問題について!
 子どもたちが教科間の連関を意識した効果的な学習ができないのは何故か
 というありきたりなテーマが最初だったが、
 そのうちに「数学と言語学習」の関係について熱くなり、
 「因数分解」ならぬ「因語分解」の概念を提唱、
 「単語とは数で有り得、数とは単語で有り得る」などと言い出す始末。
 
 また、例の単行本のタイトルを考える。 
 いちおう候補なのでまだ伏せねばならぬが、
 書籍はやはりタイトルが命。特に作家名にバリューが乏しい場合は。
 というわけで真剣に考えなければならない。
 しかし僕らがどれだけ素敵なタイトルを考えたとて、
 最終的には編集が通してくれなければ意味がない。
 ああ、お願いします。
 あのへぼい仮タイトルをそのまま通すのだけはやめてくだしあ。


 昼前まで激しく議論し、
 ニート氏と二人で紀伊国屋新宿本店へ。
 各階で楽しげな本を物色しつつ、
 最終的に購入したのは
 
 
 ・『国語教科書の思想』石原千秋
 いちおう大学時代の恩師なのだから買わなくては。
 ブックオフでまったく見かけないので新品で買ってしまった
 
 ・『大学生のための論文執筆法』石原千秋
 これは久米依子先生の論文が採録されているので買ったが、
 内容は、まぁ、僕は直接教わってたからなあ。
 でも久米先生は神々。
   
 ・『ラテンアメリカ研究への招待 改訂新版』 (2005 新評論)
 ・『ボリビアを知るための68章』 (2006 明石書店)
 小沢健二の『うさぎ!』を読むための資料として。
 3Fの海外事情コーナーのうち、10年以内に出版された本をざっと見たのだが、
 南米の「民営化」に対して肯定的な見方をする本もあれば
 市場原理主義をとことん批判する立場の本もあって、面白かった。
 僕はもちろん後者の立場なわけだが、本当は両方の立場の本を読まねばいけない。
 でも今回はとりあえず概観を掴みたかったので、
 できるだけ新しく、できるだけむらのなさそうなものを選んだ。どうだろう。
 ただ、確か『ラテンアメリカ研究への招待』のほうは
 下北沢の古本屋に売ってたような気がする。
 なぜ買うときに気がつかなかったのだろう。おわた。
 ちなみにラテンアメリカ関連本の隣に、中川八洋先生の御本がたくさんあって、
 立ち読みしながら二人でけたたましく笑った。なんぞこのレトリック。
 中川先生は書いている内容はもちろん素晴らしいが、
 それと同じくらい修辞法にも熟達しておられる。
 中川先生が「虚妄の」とか言い出すたびに腹がよじれる。
 
 ・『ニューエクスプレス スペイン語』白水社
 流れで、というかほとんどノリでスペイン語を学ぶことになった。
 ニート氏と一緒に勉強を始める。
 僕の知る限り彼はすでに
 英語、ラテン語、ギリシャ語(たぶん現・古両方)、
 ドイツ語、フランス語、オランダ語等(もっとあるかも)をすでに勉強しており、
 さらにこれから台湾語とスペイン語をやるらしい。
 なんて気持ち悪い友人なのだろうか。
 
 ・『スペイン語のことわざ』
 高校時代、恩師たるRinQ先生に
 「英語はことわざをやるといいぞ~ことわざを~」と言われ
 やってみたら実際にかなり役立ったし、何より楽しいので
 ついつい買ってしまった。
 薄っぺらい本なのに600個以上ものことわざが収録されている。
 これ全部覚えるのはとても無理。でも楽しそう。

 ・・・という感じなのだが、
 なんと膨大な金をかけてしまったことか。
 取り返せるくらい勉強せんとならんな。
 
 ちなみにニート氏と相談した結果、
 来週の火曜日までに『ニューエクスプレス』を半分終わらせよう、
 ということになった。ちょ、無理。ボリビアについての記事書かなきゃならんし、
 他にも書かねばならんものがいっぱいあるのだが…。
 まぁでもやってみるよ。
 アディオスはアディオースと発音する。
 hideのロケットダイブでも、歌詞カードには
 「待ってるだけの昨日にアディオース!」と表記されている。
 だからなんだってことはないが
 「アディオス」はなんとなく「ア」に強勢を置いてしまいがち、かも。
 
 男はosがつき、女はasがつくようだ。
 男はオス、女はass。…あれれれれ

2016/08/03 岸田さんの本は結局あまり肌に合わずほとんど読んでいません。

2007.6.6(水) 翻訳\(^o^)/オワタ

 \(^o^)/オワタには
 「終わった」という意味と「終わった」という意味の二つがある。

 「これって、英訳するとどういう言い回しになるだろう」
 なんて考えてしまう職業病(職業じゃないけど)。
 
 \(^o^)/オワタ has two meanings...
 
 いやもう気持ち悪くなってきたぜ
 鬼のような英訳生活がついに今日で終わり!
 っていうか\(^o^)/オワタ!
 Oh what a!!

 僕の仕事はこれで一段落ついたので、あとはゲラのチェックとか、打ち上げ(今から)とか。
 誤訳の数がはんぱない(まじ)であろうことは忘れて、
 さぁ!読書しよう!もうすぐ秋らヒャッホー!


 しかし出来上がった本に僕の名前がどうクレジットされるかは謎。
 ここ1週間は完全に棒に振って、その間、他の仕事も趣味も何もできなかったわけだが
 そのわりにこの本による収益は見込めない(見込まない)
 僕が報酬をもらってしまったら、
 中心となってやってた翻訳者(※ニート)に行く印税がほとんどなくなってしまう
 というわけでせめて「野菜担当 ジャッキー」とかどっかに書いてもらいたいことであるよ
 共著にしろとまでは言わないから、ぜひ、野菜担当で。

 一円ももらえなくったっていいから
 野菜になりたい
 
 
 なんか最近野菜が好きだ。別に食べているわけではないのだが。
 野菜という言葉と、野菜という言葉の持つイメージが大好きだ。
 アイラブ、野菜。
 そしてAll you need is yasai.
 
 
 みなさんは野菜についてどんなイメージをお持ちだろうか?
 フレッシュでハリのあるイメージでしょうか、土の上に転がっているイメージでしょうか、
 吉野家のコールスローでしょうか、キャベツでしょうか。ジャッキーさんでしょうか。
 
 僕は、
 「野菜を食べるとジャッキーさんのこと思い出すのよねー」
 「あー!あたしもあたしもー」
 って中等教育の現場でひそやかに囁かれたい。
 
 
 そういう野菜のイメージを作っていかなければいけない、使命として。
 野菜になりたい。
 
 
 ふう、しかし、翻訳は楽しかった。
 意外と自分は英語わかってると思った(うまく書けないけど)
 そして、中等教育(中学、高校)の英語の教え方はひどいなと改めて思った。
 ゆとりゴートゥヘブン。
 幸せであれ。
 
 
 誰よりも感謝したいのは、
 光を与えてくれたあの人だ。
 はなつまみ者のような扱いを受けていた僕を
 少年よりも少女が好きな僕を陵辱した
 神話に出てくるようなちょっとワルっぽい自動車修理工であるあの人にのように
 なれたらいいなと思う
 
 
 上の六行の意味がわかったらメールください。
 
 
 
 あ 野蒜
 
 
 ではなく、「少年Jの散歩」は、
 
   
 あ 野菜
 
 
 と言ってみよう。
 わかんない人はハルキ文庫の谷川俊太郎詩集を買ったらいいと思う。
 もう何年も谷川俊太郎の詩を読んでいないな。



 アイワナビー
 野菜

2007.6.4(月) 川本真琴は神々 ~名曲『野菜』~

 ヘブライ語にならって「川本真琴は神々」と言おう
 これまでしつこいくらいに
 「川本真琴は神」発言を繰り返してきた僕ですが

 これからは「川本真琴はネ申」などと言うのはやめて
 「川本真琴は神々」と言うことにします。

 「神」という語に複数形を用いて強調する方法は
 ヘブライ語などに見られるようなので、それにならって。
 (ヘブライ語がわかる方は詳しいことを教えてください。)


 ちなみにあるところには、こんなふうに書いてありました↓


 ヘブライ語の名詞の複数形は威厳あるいは卓越の複数です。日本語にはそのような使い方はありませんが、ヘブライ語の場合、名詞を複数形で表すことによって、その者の卓越さ、威厳、尊厳を強調する語になるのです。(新ア,聖ヨセフ版,聖書辞典,330ページ;?また,新カトリック百科事典,1967年,第5巻,287ページ参照。)

 旧約聖書を以下のように説明しているサイトもあった。どっちが妥当だろう↓


★★ 「ALHYM」 と 「YHWH」 ★★

旧約聖書の有名な始まりは、こうある:
 『はじめに神は天と地とを創造された。』 (創世記・1章・1節、日本聖書協会訳・以下同)
英語版ではこうだ:
 『In the beginning God created the heaven and the earth.』 (SINAI PUBLISHING HOUSE・以下同)

ではこの『神』、『God』に対応する原典のヘブル語は?…、
 エロヒム、つまり「ALHYM」である。
 ここで、語尾の「YM」は複数形を意味する。
 ヘブル語のこの文法は厳格である。
 だから、ここでは『神々』と複数形で訳すべきなのである。

ちなみに「YM」の語尾を取り去った「ALH」はなんと読めるだろうか?
 アラー、もしくはアッラーだ。つまり、
 ★4)イスラム教の神アッラーは、エロヒムの単数形なのだ。

天地創造の神エロヒムが複数であることは、次の節からもわかる:
 『神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、……』 (創世記・1章・26節)
 『And God said, Let us make man in our image, after our likeness: ……』
 (複数の神を連想させる表現は他にも多くある)

        [http://www.geocities.jp/untilled/ep13.htm]

 三位一体論者はこのことを
 「神とイエスと精霊の三つが一体だから複数形なんだよピギー!」
 とか(くやしまぎれに)説明するらしいのですが
 川本真琴も
 「川本和代(本名)と川本真琴(芸名)とタイガーフェイクファ(ソロユニット)」
 が一体になった存在であるので、三位一体説をモデルにしても理屈は通ります。通ってます。

 だから「川本真琴は神々」のほうが
 川本真琴に心酔するさまをより激しく表すことができるのではないかと。
 「川本和代は神々」という言い方のほうが正しいのかも知れませんが、
 一般的な言い方として「川本真琴は神々」を使用しました。

 うん、川本真琴は神々。


 ずっと英語ばっかと向き合ってるとそういうどうでもいいことが思い浮かんだりする。
 だがそれもあと数日で終わりだ(願望)。
 けど久々に英語をやったらなんだか楽しくなってきた。
 今やってる仕事(翻訳)の成果は二ヶ月後くらいに出版されるようです。
 買わなくてもいいけど。
 僕はネタ出しをほんの少しと一部の翻訳・推敲をやってます。


 最近その仕事がせっぱ詰まりすぎていて、
 一緒に仕事している「ニート氏」という不思議な名前の人と
 「野菜になりたい」ってずっと言ってます。
 野菜になりたい。野菜になれば仕事しなくてもいい。
 台湾の女の子にかじってもらえる。かじられたい。台湾女子にかじられたい。
 ああ、野菜になりたい。
 野菜になりたい。



 『野菜』
 作詞 ジャッキー
 作曲 川本真琴


 
 
 
 くしゃくしゃになってた捨てるつもりの側条肥料を
 ねえ 植えっこしよ
 生えるキャベツ・レタスに
 オカラとほうれんそう・ピーマン・ブロッコリー
 かたっぽの茎が コツンってぶつかるキュウリが好き
 ねぇ 基肥(きひ)しよっか
 春の風うらんだりしない野菜が 髪に ほら こぼれた
 今誰か使ってるの 窓際並んだ鋤(すき) こっから見えるかな
 「絶交だ」って掘った横に
 「こんどこそ絶交だ」って掘った
 誰も気づかない畑の上
 あたしたちがそっと遺棄している

 野菜になりたい いっぱい
 土の中でいっぱい
 ひとりぼっちになる練習してるの
 光合成の途中 できない できない できない できない
 小松菜は作りかけてやめてしまった
 そんな日持ち 悪かない 全然
 野菜と野菜の根がナタにふれた時
 できない できない できない


 野菜になりたい(demo version)
 http://www.geocities.jp/yazakit2112/yasai.mp3

 ごめんなさい、ここんとこ余裕がなくて更新できませんでした
 今日からもうちょっと真面目にやります。
 いま、翻訳の仕事を手伝っていまして、
 いや英語力なんて英検3級以下(一度も受けたことない)なんだけど、
 まぁ理屈だけはある程度知っているので手伝っているわけです。
 
 その仕事はお金はほとんどもらえませんが出版されて本になるようなので
 それだけでモチベーションが上がります。
 詳細がわかったらここに報告しますね。
 
 もし1000円の本が100万部売れたら印税の1%でも100万円か。ヒエー!

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