少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2007.05.21 欠番
2007.05.20 初下北~臨死!江古田ちゃんの瀧波ユカリサイン会と気流舎
2007.05.19 刃物の煌めきと瞬間の水玉
2007.05.18 「効率化によって心の余裕を殺すの計画」
2007.05.17 心に本棚を作れ
2007.05.16 文科系女子テキストカタルシス


言えた義理じゃないが
お節介かもしれないが
真面目な発言をするときは
その内容がどのように思想的に位置づけられるのか
考えたほうがいいような気がする
でなければいつまで経っても
自分が何を考えているのかわからないままだ。


X軸やY軸、あるいはZ軸やらもあるかもしれないが、
その辺の尺度は何でもいい。
右翼とか左翼とか
何何主義とかじゃなくてもいい。

とにかく思想の距離感を掴むことだ
思考空間の座標軸を作れみたいなことを
石原千秋が言っていた
自分と誰かの間には
どのような隔たりがあって
どのような距離感があるのか



みんな適当に発言しすぎていないか(むろん僕も含め
真面目な話をするときに
感情的になってはいけない
主観的になりすぎてはいけない
自分が今どっちに偏っているのか
ちゃんとわきまえて話すべきだ
できなくてもいい
心掛けたらと

僕は真面目に何かを考えようとしている
すべての友人たちに言いたい。


↑ここまで暗号




今日の帰り道、友人たちと話をしていて
「失敗してしまった共産主義や資本主義にかわる新しい概念を考えなくては」
という話の流れがあったのを受けて

「一つの概念、たとえば“何何主義”などといった言葉によって理想的な社会像を規定しようとするのはどうなのだろう。ほころびや無理のある抽象的な目標を設定して、盲目的にその目標地点へ向かおうとしたから(共産主義にしろ資本主義にしろ)失敗したんじゃないだろうか。」
なんてことを余り深く考えずに言ってみた
余り深くはないが少しだけ考えて言った

僕は小沢健二さんの支持者なので
小沢健二さんの居る座標を目がけて発言の矢を射た
つもりです。

2007.5.21(月) 欠番

2007.5.20(日) 初下北~臨死!江古田ちゃんの瀧波ユカリサイン会と気流舎

 下北沢に行ってきた。
 目的は
 『臨死!江古田ちゃん』でお馴染み、瀧波ユカリ先生のサイン会。
 
 カラスヤサトシ先生のサイン会に行って
 瀧波ユカリ先生のサイン会に行かないのは
 アフタヌーン読者としてはモグリである。
 
 ちなみに人生初の下北沢。
 東京に四年間住んでいながら
 自転車で30分程度という距離に住んでいながら
 僕は一度も下北沢を訪れたことがなかった
 それはもう、ほぼ「主義」に近い。
 行くもんか
 行ってやるもんか的な
 でも行ってみたらまあ楽しかった
 キャー
 
 整理番号100番(カラスヤサトシ先生のときと同じ番号!)で
 1時間くらい並んだ


 サイン会後、気流舎という、対抗文化専門古書店(だっけ?)に行った。
 一通り本を見たあと、店長さんに話しかけて、仲良くなってみた。
 もともと友達の友達にあたる人なのであまり緊張はしなかったが、
 話していくうちに、他にも「共通の友達」にあたる人物がいることがわかり、
 なんだか不思議な気分になってしまった。
 世間は狭いものだ。

 夜は新宿ゴールデン街の元あんよで(いい加減無銘喫茶と言えばいいのだが)
 「毎月の環境学会」ミーティング。
 ここんとこ月に何回もやってる気がするけど、「毎月の」。
 みんな思考に疲れてきてるのかな。という気がした。
 「灰色とは何か」というテーマひとつとっても、
 さまざまな角度からの見方がある。
 経済をモチーフに語ることももちろんできるし、
 『モモ』と同じテーマを持つものとして語ることもできる。
 でも、突き詰めていくとそれらはどこかで必ず交差するし、
 実は同じとこにあるもんなんだと思う。
 ただ僕らにはまだそこまで到達できていない。



 考えることは大変だが、快感を伴う。
 これが「気持ちいい」と思えるうちは、
 堅気の人生を歩む気になれない。

2007.5.19(土) 刃物の煌めきと瞬間の水玉

 たまに川本真琴さんとか小倉優子さんとかの映像を見るとやられる。
 ↑このくらいの文章で何万人かの人が熱狂してくれたらいいのになあ。
 
 
 古い世代の僕らは
 若い世代の彼らに勝てないし
 若い世代の僕らは
 古い世代の彼らに勝てないし
 
 「ジャッキーくんは若いから」
 なんて言われたら無条件でノックアウト

 それに
 「あいつは若いからな」なんて
 思ってしまったら僕はもう
 無条件でノックアウト
 
 あんたはまだ若いなどと卑怯な逃げ方をするな
 時代を変えていくものがあるとすればそれはきっと名もない青春たち
 (篠原美也子『誰の様でもなく』)

 こんな言葉を胸にいつも抱いている
 「彼は若いから」なんて言い訳はすべきでない
 かつて自分もそうであったと目を細め
 視野を狭めるようなこともあってはならない
 「若人よ」なんて言って
 無批判に受け入れてはいけない
 
 すべてのことばは必ず何かを語っている
 「本当にわかってもらいたいことは本当に誰にもわかってもらえない」
 幼いからと切り捨てられていく
 若いからと切り捨てられていく
 偏差値が低いから
 所得が低いから
 頭が悪いから
 顔が悪いから
 
 うむ。またもやポエジーが溢れてきた。
 要するに、あらゆることばに耳を傾けなければいけない
 本当は。
 わかってはいるんだが
 
 そこにポエジーがないと
 リズムがないと
 美しさがないと
 僕の耳は向かないんだよ。
 若いとかそういう理由ではなく。

 もっと流麗に
 もっと美しく
 語って欲しいと願う。
 
 それは刃物の煌めきかもしれないし
 瞬間の水玉かもしれない

2007.5.18(金) 「効率化によって心の余裕を殺すの計画」

 東京ビッグサイトまでウチから30キロくらいだと思うのを往復して60キロ。
 ママチャリだがちっとも苦ではない。
 いつだったかロードで千葉大学まで50キロ(往復100キロ)走った時は
 「たった50キロくらいなら全力で走り抜けてやる」とかってビュビュン飛ばした結果
 片道でもう参ってしまい、千葉在住の某嬢より一方的に癒しを頂いてしまったわけだが
 その節は申し訳ない、ありがとうございました。
 
 もしかしたら同じ距離走るならロードよりママチャリのほうが楽かもわからん
 数百キロの長い距離でも
 ロードやマウンテンで駆け抜けるよりも
 時間はかかっても、ママチャリでちんたら走ってたほうが楽なんじゃないだろうかと。
 なまじスピードが出るぶん、疲れたり、足を壊したり、しやすい。
 事故に対しても気を遣うから、精神的にもすり減るし。
 
 「車の台数を減らそう、自転車に乗ろう」と主張する僕だが
 高い金出して買ったロードレーサーなどに乗って、
 スピードがんがん出して、体力と精神力をすり減らし、
 専用のシューズを履いて、高いメットつけて、パーツもいいのにつけ換えて、
 パンクしたらチューブ取り替えて、
 なんて具合にじゃぶじゃぶお金を投資していく。
 
 「もっと速く、もっと速く」
 を追究していく精神は、
 資本主義やら新自由主義と仲の良いらしい得体の知れない「灰色」なるものが設計した
 「速く速くの計画」や「もう古いの計画」というものとリンクしている。
 
 僕や僕の仲間たちは「まだ古くないの計画」というのを提案していて、
 使えるものは長く使うし、新しいものが欲しくなったら中古品を探す。
 ところがその一方で、
 「速く速くの計画」に荷担してしまっているのではないだろうか、と
 自ら疑ってしまうこともいくつかある。
 自転車にしたってそうだ。

 ロードレーサーにスピードを求めるなら、
 もっと軽くて性能の良い新車が欲しくなるし、
 よいパーツがあったらそれも欲しくなる。
 そして、より速いスピードで、より早く目的地に着くことを求める。

 個人的に、ロードレーサーに乗っているときとママチャリに乗っている時との最大の違いは
 精神的な余裕。
 高校の時、まだiPodもMDウォークマンも持ってなかった時代、
 下校中、自転車に乗りながら、いろいろなことを考えた。
 往路は急いでいて20分程度で走り抜けてしまう距離を40分も50分もかけてゆったりと走り
 あれやこれやものを考えて、それはそのままその日の日記の中身になった。
 
 まちなかでロードに乗っている時はものを考える余裕なんてない。
 精神を常に研がせ、張り詰めさせておかないと死ぬ。
 そのくらい車体の軽いロードは不安定なもので、突風が吹いたら煽られて撥ねられて死ぬ。
 これが、1キロ四方を見渡せるような田舎道であったら話は別なんだが、
 だから都市部では僕はたいていママチャリに乗るようにしている。
 安全だし、ゆったりと走って、いろいろなことを考えることができるから。
 
 「速さ」は精神的な余裕を殺す。これはなんにしたってそうだと思う。
 ファストフードにしても、新幹線にしても、フレッツ光でもそうかもしれない。
 効率化だけが進んでいって、心の余裕が殺されてしまう。
 これが悪いことだと言うのは早計かもしらんが、とにかくこうやって、
 人びとはものを考える時間を失い、バカになって、灰色の計画にはまっていく。
 「速く速くの計画」「もう古いの計画」。
 「効率化によって心の余裕を殺すの計画」。
 
 「ちょっと急ぎすぎてやしないか」
 ってことを
 自問してみる癖をつけたほうがいいかもしれないな。

2007.5.17(木) 心に本棚を作れ

 13日の日記に関して、ブログ主からレスポンスがあった。
 とりあえずはここを読んでみてほしい
 なかなかいいことを言っている。さすが副管理人。
 
 心に棚を作ろう。それも「本音棚」と「建前棚」とふたつに分けてしまうのではなく、いくつも棚を作ってしまおう。すると思考が対立せずに相対化されて、本音も建前もなくなる。そのなかで、最も目的(正しい、儲かる、楽しくなる、やり過ごせる……)に沿った「意見N」を見てやればよいのではないか。

 僕とはまた違った言い方をしてくれている。
 そう、棚は多ければ多いほうがいい。整理がつくなら、の話だが…。


 俺の本音は、大体において「なんだかすごく頑張ってるけど、思ったほどは報われないって分かってる?」なのだけれども、それでも冒険漫画は大好きだし、努力の結果に勝利を掴むタイプの小説も読む。でも一方で、もし現実にトムソーヤがいたら、俺は彼の行動をたぶん冷笑するだろう。
 これが「心の棚」ってことなんじゃないのかね。自分の本音はとりあえず「棚に」置いておいて、今目の前の本の中で活躍している主人公を応援してやる。

 そうやって
 本を読むように世の中を見ることが出来れば、
 本を読むように物事を考えることが出来れば、
 なかなかよい感じですな。

 このあたりを読んで、
 「心に本棚を作れ」という言葉を思いついた。どうでしょう。
 心の本棚は一つだけでも、幾つあっても構わない。
 ただ、そこに置く本は、自分で書いたか、自分でファイリングしたオリジナルの本だ。
 ちゃんとタイトルをつけて、ちゃんと分類分けをして、ちゃんと整理をして置く。
 その中には自分の好きな本もあれば、あまり好きではない本もあるかもしれない。
 が、「嫌いだったはずの本」が、何年も経て読み返すとやけに気に入ってしまったりもする。
 だから本というのは捨てられない。
 思考の結果というのも、捨てないできちんと取っておけば、いつか役立つ時が来るものだ。
 「ものを考える」ってのはそういうふうに
 捨てたりしないで、いい考えも、悪そうな考えも、ちゃんとどこかにしまっておく。
 そうして蔵書が増えていくと、その蔵書の内容を踏まえて、
 今度はもっとすばらしい本が棚の上に増えていく、と。
 古くなった本もまた読み返してみると新たな発見があるといった…。
 うむ。
 心に本棚を作ろう。
 誰の様でもないオリジナルの本棚。
 思考のアルバム。
 生きてきた証。
 それって「ブログ」みたいなもんなんかね?

2007.5.16(水) 文科系女子テキストカタルシス

 結局昨日放送したネットラジオのゲストの一人であるニート氏は
 夕方までうちにいて
 『あまいぞ!男吾』と『ラブロマ』を全巻読破して行きよった。
 これらはどちらも僕の「読まねば心が通じ合えないリスト」に入っている。
 僕と通じ合いたいって妙な人は読んでくださいねまじで。
 
 最近働きすぎで暇がない。
 暇がないと心に余裕が生まれず、気の利いた言葉も浮かばない。
 困ったもんだ。
 だが日記は書く。
 
 んーと。
 いつかのダ・ヴィンチかなんかの特集記事によれば
 「文科系女子は言葉でイク」らしい。
 言葉責めが好きとかそういう意味じゃなくて(たぶん)
 ひどい言い方をすれば甘い言葉に騙されやすいってことね。

 僕なりの言い方だと
 「文科系女子はテキストでカタルシスを得られる」とでも言おうか。
 文科系女子にモテるための秘訣は、ひとえにここ。
 メールの文面やWeb日記の文体にヤラレチマウのは文科系女子の特性。
 
 だからモテキストを紡げる男は文科系女子にモテる。
 『モテキストのつくりかた』みたいな本を出したら売れるだろうか。
 売れはせんかもしらんが僕は読みたい。
 
 まぁその、テキストに限定した話ではなく
 実際の会話でもそうだし
 言葉を使ったコミュニケーション全般が得意だと
 文科系女子にはモテそうな気がするよね、感覚的にも。

 あとは空気を読むこと。
 (これは文科系女子相手に限らないか)
 空気を読むとは文脈を読むことであり
 文脈を読む能力は読書によって培える。
 だから読書家の男子で言葉を操るのが上手ければ完璧なモテボーイなはずである
 だがしかし、文科系男子は軟弱でシャイだから。よく言えば謙虚だから。
 情緒や風情をわきまえているから
 結局体育会系の軟派男に全てをかっさらわれてしまうのである。
 ゆえに、結果的に、そこそこしかモテない。
 恋愛に積極的になるやつは「文科系」ではない。
 体育会系の腐った奴である。
 
 どうでもいいことだが、理系硬派は仲間であるが理系軟派は敵である。
 最大の敵。
 理系軟派はスポーツができるが理系硬派はあまりスポーツが得意でない
 文系は軟派だろうが硬派だろうがスポーツができない。
 というか文系に軟派などいない。
 軟弱者がいるだけである。
 うむ。
 我ながらなんて偏見に満ちた言葉を書くのだろう。
 ちょっと感動した。
 みなさん本気にしないでね。
 基本的に。
 僕の言ってることは。
 だって眠いし。

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