少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。
過去ログ
2007年4月後半
2007年5月前半
2007年5月後半
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2007.05.15 名探偵★浅見光彦の住む街ミステリーウォーク2007
2007.05.15 第二十六回ウーチャカ大放送 「証明」の巻
2007.05.14 100ハイ批判 早稲田大学生の帰属意識
2007.05.13 つまらない本音とおもしろい建前
(この期間、現在工事中)
2007.05.08 さおだけクライシス
2007.05.07 5月と自殺と『自由への扉』(尾崎豊)
2007.05.06 お墓と死の効能
2007.05.05 子どもの日だから大人批判
2007.05.04 矢田川と多摩川。交錯する想い出について
2007.05.03 hide哀悼カラオケとサジタリウス上映会
2007.05.02 hide命日だからROCKET DIVEを勝手にカバー
2007.5.15(火)
東京都北区で行われている
「名探偵★浅見光彦の住む街 ミステリーウォーク2007」というイベントに参加。
内田康夫のファンイベントを町おこし的にやってるって感じ。
このためだけに軽井沢から上京してきた友達と連れだって。
平塚亭の団子はやはりうまい。
彼は高校の頃からジャンプと内田康夫の新刊が発売されると学校に持ってきて
休み時間をフル活用して傍若無人にひたすら読みふけっていた。
とある作品に名前を出してもらったりもしているので興味ある方は探してみてください。
すごい性格悪い役でしかもすぐ死にます。
イベントは「意外と楽しい」。
街の中に隠されているキーワードを探して
パンフレットに載っている掌編小説の空白を埋めていくのが主旨で
(掌編はちゃんと事務所の方が監修しているようだ)
作品を知らなくても楽しめると思う。
都内の田舎道を歩いているだけで風情があるし
若干難易度が高めに設定されているのもやりがいがあって良い。
僕は霜降銀座のゆるーいマスコットキャラクター
「しーちゃん」(「し」という文字形をかたどったキャラ)に一目惚れし、
「しーちゃんエコバッグプレゼント」という文句に引かれて
浅見光彦の住民票を発行してもらった。
なかなかちゃんとしている。
ってか台紙に北区の名所が写真入りで紹介されているのがかなり良い。
なにげに内田先生の写真も載っているし。
あと、エコバッグとは別に靴屋さんから粗品ももらえた。
なんて良い街なんだろう!
練馬区以外に住むなら北区以外に考えられない。
具体的には王子周辺がいいな。
その後、渋谷へ行き、まんだらけ→ももみづきでラーメン
途中、同行した友達に貸していた自転車(普段僕が乗ってるやつ)が
事故り、ぶっ壊れてディープに。
明日買い換えます。
それにしても事故とはいえ借り物を壊したら結果責任を負うべきである。
車間距離を充分に取らなかったことと当たり判定の見極めミスが原因なわけだし。
もう少しすまなそうな顔でもしてくれれば僕も自転車も救われたのだが。
しかもあの自転車は四年間で二万キロを共に走った最愛の友なのだ。
それが壊れたということで僕の心ははっきり言ってボキボキに折れていた。
僕にしてみたら本気でブチ切れてもおかしくないくらいの状況だったわけである!
が、彼は天然なので美味しそうに僕のおごりでにこにこラーメンをすすっていた。
それを見て僕は
愕然とするとともに
なんだか全てが許せてしまった。
ほんとうにかわいいやつであるよ。いつか怒られないといいが。
天然は強い。
ほんわかしてしまった。
反省はして欲しいけどな。
まぁなんだ
カントは死ぬ前に一杯の紅茶を飲んで言った。
「これでよし。」
5.15 後半 第二十六回ウーチャカ大放送
ここから先はきわどいネタを含むので記事を変えよう。
家に帰って、ゲームとかやって、
人が増えて、ウーチャカ大放送。これはカオスだった。
『まなびストレート』のフルボイスゲームをやりながら
某ニート氏と共にひたすら(※内田康夫ファンのひととはべつじんです)
「人生とはオナニーである」という命題を真とするための証明に尽力。
最終的な結論は、三つ。
「人生とはオナニーであり、オナニーとは人生である」
「オナニーとは青春であり、青春とはオナニーである」
「フェラチオとはオナニーであるが、オナニーがフェラチオかどうかは証明できない」
このうち、「フェラチオとはオナニーである」という証明は鮮やかだった。
(1) 唇・舌・口の中は敏感な性感帯である
(2) フェラチオとは一般的に、口を使う側が能動的に動いて成立する行為である
(3) よってフェラチオとは自分で自分の口の中の性感帯を刺激する行為と言い換えられる
(4) オナニーが性的刺激を自らに与える行為を指すとするなら、フェラチオはオナニーである
あと、オナニーとマスターベーションが意味的に峻別すべき語であるということを
語源の面から探っていった証明も鮮やかであった
オナニーとは旧約聖書に登場するオナンという人物が語源になっており
広く膣外射精を指すわけだが
マスターベーションのマスは「手」を表すmaniとかmanuとかが変化したものであって
「手淫」、つまり手で淫せしむる行為を指すわけである。
よって、オナニーとは膣外射精一般を指し、
マスターベーションとは手を使った自慰行為を指すのである。
このように、オナニーとマスターベーションとは峻別すべきである。
なんて話を4時間近くネットラジオで語るというのはどうなのか。
最終的に残ったリスナーがほとんど女性だったというのは何なのだろうか。
楽しかったからいいんだけど。
2007.5.14(月) 100ハイ批判 早稲田大学生の帰属意識
僕は昔から
「自分は日本人だから」
「阪神ファンだから」
「早稲田大学の学生だから」
っていう意識が鼻について仕方ない
早稲田大学の学生が校歌や応援歌などについて強い愛着を持ち
バカ騒ぎしながらみんなで肩組んで歌うっていう光景見てると
昔拉致されて行った宗教団体のセミナー合宿で
「みんなで心を一つにするために」歌わされたオリジナルの歌(ゴーゴーーゴーみたいな)や
ある団体の会合で見た、集団でお題目を唱える姿とか
修行するぞ修行するぞとか
そういうのを思い出す。
「心を一つに」するにはスポーツをするか歌を歌えばいい。
これはまったく確かなことだ。
たとえば件の宗教セミナーでも、歌を歌う時間や、サッカーをする時間が用意されていた。
どこででもできて、誰にでもできるのはやはり歌のほう。
早稲田大学生が早稲田大学生として団結するには校歌か応援歌を歌えば良い。
非常にお手軽。
ま、そのことに対して別になんか文句あるわけではないのですよ。
お祭りなんかでもまず歌と踊りだし。
(新興宗教や大学でやったりするのは僕は若干気持ち悪いと思うけどね)
特に大学のことについて言うと
ほとんど早稲田特有の文化かもしれないが、
校歌を歌ったり行事に参加したりグッズを纏ったりなんだりすることで
「自分は早稲田生だ!」と実感して快感を得ようとする文化がある。
確実にある。
この文化について
「早稲田のフンドシを借りて~」っていう表現を使いたい。
虎の威を借る狐的なね。
こういうのはやっぱ軟派だろうと思う。
例えば昨日、一昨日と
早稲田精神昂揚会というサークルが主催するイベント
「100キロハイク」が開催されていた。
軟派の骨頂。
これは読んで字の如く、100キロ歩く。ただそれだけ。
仮装して歩く人が多いようだが、メインは歩くこと。ひたすら歩く。らしい。
というのも僕は参加したことはない。目撃したことはあるけど。
だからこれから書くことは想像でしかないし、
行ったことない人のひがみみたいなもんだと思ってもらえたらいい。
まー要するにさ
参加者のWeb日記とか読んでると
100ハイ(100キロハイク)に参加したことを
やたら誇ってるんよ
「わたしらすごい!」とか
「早稲田すごい!」とかね
まぁ確かに凄いイベントだ。参加者が1000人を越えるんだから。
それに二日で100キロ(実際には約125キロ)歩くってことは並大抵のことじゃない
Web日記見てるとみんな死にたいとかやめたいとか吐きたいとか倒れたいとか
そうやって思いながらなんとか完歩したって人が多いみたいで
「いい想い出になった。参加してない人は早稲田に入った意味がない」
とまで言う人さえいる。
そうかな。
二日間で125キロはどの程度すごいの?
だって毎年ほとんどの参加者は完歩するんでしょ?
参加費払って。休憩所も、食事も出て。コンビニもあって。
体力がない人にはきついかもしれないけど、
体力のある人ならそこそこいけるんじゃないですか。
そういうもんでしょ。
僕の尊敬する早稲田の先輩・岡田氏は
「日本縦断マラソン」ってのを3ヶ月間かけて敢行し
三日間で250キロ走るなんてのを平気で(死にそうになりながら)
やっていたわけだ。
しかも、誰にも注目されず。ただひとり、ひたすら孤独に。
これが硬派な「すごい」早稲田生の在り方だと思うんだがね。
岡田さんは日本縦断マラソンの際に
「早稲田大学」をカンバンとして掲げなかった。
サークルの活動として行ったわけでもなければ、
大学の行事でもむろんない。当たり前のこと。
だが「岡田さんが早稲田大学の学生である」という事実は揺るがぬ。
日本縦断マラソンのことを知った人は、
「へー、この人、早稲田の人なんだ。やっぱ早稲田って変なんだな」
と感じ、それが世間的な早稲田のイメージに還元される。
こういう流れが、あるべき姿なんじゃないの、って思う。
早稲田のカンバンを掲げたサークルのイベントに乗っかって、
たかだか100キロを歩いただけで
何か特別な行為をしたと思いこむなんて、どうかしてるよ。
ま、その人にとっちゃーすごい経験なのかもしれんが、
100ハイごときがすごい経験だなんて、どんだけ貧しい人生なんだよ。って思う。
所詮はイベント。
てめーで企画したことでもなきゃー
休憩所やメシまで用意されて至れり尽くせり。
お祭りとしちゃー楽しいかも知れませんがね、
それが「わたしすごい」や「早稲田すごい」に繋がるとは僕は思わないね
早稲田大学当局が企画したもんでもないわけだし。
すごいのはイベントを企画している昂揚会だけだ。
あとは、スタートと同時に猛ダッシュして100キロをハイペースで駆け抜ける猛者どもとかも、
まぁすごいなあとは思う。ただまぁ、一人で地味ーにやったらもっとすごい。
仮装している人びとも、一人で仮装して歩くならすごいんだけども、
仮装イベントで仮装するのは普通なわけで。コミケのコスプレのほうがクォリティも高いと思うよ。
あと気になるのは、参加者の日記を見ていると
「無駄」っていうところに重点を置いている人が多い。
「こんな無駄なこと必死にやってるわたしらすごい」
「こんな無駄なこと必死にやってる早稲田すごい」
「こんな無駄なことできるのは今だけ」
なんつう具合に。
いやー。だから、すごいのは昂揚会であって、君らでも、早稲田でもないのよ。
イベントに金払って参加するよりは、
個人的に誰も見てないところでコスプレして100キロ歩くほうが無駄じゃん。無駄を追究するなら。
結局お祭りがしたいだけって言えばよかろうものを。
みんな、早稲田をダシにして楽しみたいんだね。
早稲田のフンドシを借りねば何もできない。
卒業式を見ても、早稲田祭を見ても、そう。
みんな早稲田であることでしか自分を表現できないんじゃないかってくらいに。
ま、バカやる才能のない人でもある程度バカになれるという効果はあるんだが。
僕もかなり早稲田が好きな人間だと思うが
早稲田を青春のダシに使うのは好きじゃない
それってすっげぇ軟派だと思うよ
凄いこととか面白いこととか変なこととかやってる人がいて
その人がたまたま早稲田のカンバン背負ってる、
っていうのが僕にとっちゃ粋なわけであって
早稲田大学生だっていうことをそのまま青春の意味にしてしまうのは
非常に勿体ないと思うんだよね
貧しい。
能ある早稲田生は学生証を隠す。
早稲田に乗っかってしか何もできないような人はやっぱつまらん。
いくら面白いからとて、それが結局早稲田という名前の光によるものであるなら
単なる錯覚とか、共同幻想とか、そういう類の。
嫌いなんで。
すぐ消え失せんのよ、そんなん。
卒業したら消える灯火。その光を懐かしく思うだけで、ちっとも新しいことができなくて、
そうして早稲田至上主義みたいな大人が生まれるんでしょうよ。
いつまでも過去の栄光にすがるような。恥ずかしいワー。
ともかくね、100ハイなんてただのイベントであって。別にすごくもなんともないんで。
これをきっかけに「バカなことって楽しいなあ」と思った人が、
今度はもっとバカで無駄で頭おかしいことをしてくれたらいいんだけどね。
そういう入口としても、100ハイってのはすごい。
そう。100ハイというイベントは化け物であって、昂揚会はやっぱりすごい。
でもお前ら参加者はすごくもなんともない。ただの参加者。
良く言ってもコミケで同人誌売ってる程度のもんだよ。
コミケはすごいし、コミケ主催者もすごい。でも、参加者はすごくないでしょ。
「あー、そういえば今度100ハイあるらしいや。いこかな」
程度で参加して
「あー、疲れたわ。寝よ。」
くらいで終わるのが、100ハイ程度のイベントなら標準だと思うんだけど。
そしてそういう人たちが僕は好きだよ。
「できる男」は振り返らない。
なぜなら、
大きな目標に到達した時にはその更に向こうに
また新たな目標が見えてしまうからだ。
2007.5.13(日) つまらない本音とおもしろい建前
珍しく僕の文章を批評してくれるブログが現れた。
といっても完全に身内で、
このサイトの副管理人である添え木氏のブログなわけだが
彼とはいつでも意見が相異する。
文系と理系、というのもあるかもしれないが、
そんなレベルにとどまらずあらゆる分野で食い違う。
それでも今まで仲良くやれているのは何か理由があるのだろう。
わからんけど。
インターネットがだんだんと仲良しコミュニティ化していく中で
個人の文章に対して真っ向から批評・批判してくれるのは
実に気持ちのよいことだ。
特に知り合いの文章を真面目に批評するっていうのは
現代ではまず有り得ない。
そういうことをやってくれるのは今のところ彼だけかもしらんね…
っていう前置きで
5月5日の記事「
子どもの日だから大人批判」について
問題のブログ記事
僕は彼の記事を読んで
「あ、自分こんなこと書いてたのか!」
と、若干顔を赤らめながら
他人のブログに貼られている自分の文章を見るなんてまずないので
割と客観的な目で見つめなおすことができた。
けど、彼が僕に対して言っていることについて僕が事細かに反論して、
それを更に彼が…なんていう展開は特に望まないので、
(読者諸君からの感想は欲しいですが)
少しずれるが僕なりの結論みたいなものを少し書きます。
たとえで出てくるドラえもんの話とかも、実際、「おわり」で終わったらいいじゃない、と思うわけですよ。魔法の世界とか、マジでどうでもいい。俺は自分と自分の周辺にいる人達が楽しくやれていけるならそれで構わん。犬猫を虐待するのは構わんけど、俺の飼い犬(猫)にはやめてね、って感じだ
と彼は言う。
これには僕も同意見だ。
「はぁ?」と思われるかもしれないが、
「自分と自分の周辺にいる人達が楽しくやれていけるならそれで構わん」
というのが僕の本音。
中学生レベルの結論だと思うが、感覚的には僕もそのあたりで止まっている。
普段から僕はともすれば他人を傷つけてしまいそうなことや
多少不謹慎なことをギャグとしてよく言うが
周りの人がそれで笑ってくれたら別にいいんじゃないの、
その場に傷つく人もいないなら。
なんて思ってしまうわけだ。
ただ、思考をそのレベルでストップさせてしまうのがつまらん。退屈だ。
と僕は同時に思っている。
正直、
「自分と自分の周辺にいる人達が楽しくやれていけるならそれで構わん」
なんて進んで主張したいとも思わないし、
そう声高に叫んでいる人たちを魅力的には思えない。
不真面目かもしれないが、
つまらない本音よりもおもしろい建前を主張したい。
建前で考えていることを本音だと思いこんでいる人のほうが格好悪いし
「どうせ本音の部分では人間みな同じことを考えているんだ」
なんて言い方もできる。
建前を建前と意識しながら、どういう主張をするか。
「心に棚を作れ」(伊吹三郎)だ。
それ以上のことを考えるスペックがあるのなら、
「本音でこう思っている自分」はこっちの棚に置いといて、
建前としてもう少し違うことを色々と考えてみたらどうだろうと。
…その結果として僕は、
「前と言ってることが違う」とか
「一貫性がない」とか
「お前には魂の叫びというべき主張が欠けている」とか
言われてしまうわけだけどね。
思想や意見や考え方なんてのは更新されていくもので
間違いに気付けば転向してもいいじゃないかと。
ただ余りにも支離滅裂な転向を繰り返していてはどんな言葉も説得力を持たんし、
政治家などがそれをするのは心証がよろしくない。
けどまあ趣味でやってる分には良いんじゃないのかね。
一貫したテーマや具体的な「売り」のないライターは売れないけどさ。
ただ、僕は割と真面目に環境やらなんとか経済の弊害やらといったことを考えていると思う
地球や世界の現状に絶望して死にたくなることは毎日のようにある。
何したってちっとも世の中はよくならんし、
警官の態度は7割くらいの率で最悪だし、
犯罪や欺瞞に満ちた「大人の世界」はあまりにも汚い。
だいたい、加護ちゃんや辻ちゃんがセックスするような世の中に
絶望以外のどんな感情を抱けばいいんだ?
「地球も生活もよくならん。めんどいから死にたい」っていうのが本音だが
「でも死ねない(死にたくない)」ってのが現実なわけであって
その現実を背負いながら「死にたい、死にたい」って呟いていることよりも
「新自由主義とは何だったのか」とか
「家族や小さな共同体を死守または再生するには」とか
「人びとの蒙を啓くためにできることは何か」とか
「辻加護を処女のままでいさせるためにはどうしたらよかったのか」
なんてことを考えているほうが楽しい。
考えること、本を読むこと。話し合うこと。全てが楽しい。
稲着達也氏がどこかに書いていたが、
彼がオールナイトゴミ拾い的なイベントに参加したときに
「楽しいからやってるんであって、地域のためとか、環境のためとかではない」
という意味のことを参加者が口々に言っていたという。
僕はそれを聞いて、いいイベントだなと思った。
「楽しくて、街もきれいになって、一石二鳥」
っていう感覚がこれから大事になっていくのかもわからん。
「いいことしてるぜ」っていうカタルシスも
決して悪いことではない。
だって、いいことしたら気持ちいいのは当たり前のことなんだからな。
「いいこと」に罪悪感があるような社会は、まったくおかしい。
結局長く書いたが。
添え木くんの言うことは概ね僕の感性にフィットしている。
ゆえに彼に対して反論することはとりあえずない。
だが、「関係ない人びとがどうなろうが知らん」っていう考え方が
たのしい思考の邪魔になる場合が
今後ひょっとしたら出てくるかもしらんから
それだけ言っておく。
ごめんなさい、今日もまともな日記が書けません…。
↓友達の家で書いた日記
2007/05/12 19:38
昨夜、無銘(三日連続だぜ)で徹夜した後
久々になみちゃんが無銘来てたのでそのまま
なみ家で昼過ぎまでロックマン1。
交代でプレイして全クリ。局所的に鬼のような難易度。
で今に至る。
横でなみちゃんかわいい顔して寝てる。(あっち向いてるけど
なんて言うと
「ジャッキーさんって、なんてハレンチなんだろう!」
ってまた思われるけどそれも一興。
そいでいま目が覚めてソファーでごろごろしながら思いついた単語が
「デジタル自殺」。
いやほら「デジタル万引き」みたいな言い方がされるでしょう。
それと似た感覚の言葉なんだけど。
ググッてみたら僕の意図するような用例はなさそうだったので
ここに著作権を主張したいと思う。
まぁ略してデジサツですわ。
略さないほうが語としていかすけど。
僕も何度かデジタル自殺をしている。
友達がデジタル自殺をしたってこともよくある
それは今に始まった現象ではなくて昔からあった
が、mixiの流行によって最近とみに増えたんじゃないかなーと
理由・原因は様々であろうがおそらく
「ゼロからの再出発」
「人間関係の清算」
「新たな生活スタイルの取得」
「煩わしさ・精神的束縛からの解放」
などが大きな魅力となっているのだろうと思われる。
具体的には「mixiを退会します」という宣言。
昔は「ネットやめます〔制限します〕」だったけど。
もっと言えばチャットとかICQとかね。
「閉鎖します」でもいい。
一時期はメッセだったかもしんない。
「ネットからの自主的卒業」と言い換えてもよさそう。
インターネットって、やらなくなると、
それまでネット上で育んできたものが、
全てゼロになってしまう。
メールアドレスをなくせば、一生連絡が取れない。
そういう世界だったからな。
自殺されて、心から悲しんだこともあった。
後悔は多いし、寂しさも深い。
いつの間にか死んでる人が多すぎて。
もちろん「出戻り」は多い。非常に。
だけども、ネット上での人格と人間関係を清算し一時的にゼロに戻すという行為としての「デジタル自殺」は、たとえわずか数秒の「死」であったとしてもその機能を果たすだろう。
要は「宣言」なのだから。
「私、死にます」と言ったら死んだことになって
「やっぱり生き返ります」と言ったら生き返ることができる。
それがネットの社会、たとえばmixiだったりする。
友達にメールして、「招待してくんない?」でOK。
自分で自分を招待してから退会してもいいわけだし。
反感を買うこともあろうが、
ある程度期間を置いて、
「やはり○○なのでmixi復帰します」と言ってしまえば
かなりスムーズに社会復帰(!)できると思う。
そんなデジタル自殺について僕が何を思うかというと
取り立てて肯定も否定もしない。
あまり件数が多いと面倒だけど、あまり迷惑はしない。
ただ、もしかしたらネット社会以後、ことにmixi以後の文化を語る上で
外すことのできない概念になるのかもしれないという気はせんでもない。
少し大袈裟か。でもなかなか面白いんじゃないかと。
もしもmixiを退会することを「自殺」と表現するのに抵抗のない人が多いとすれば、mixiというのはそのくらい大きなものだということになるし、「mixi退会するなんてとんでもない!」って言う人がいるとすれば(いるんだこれが)その人にとってmixiのIDというのは自分そのものであるといえるだろうし。その考え方は国民番号制度(やっぱり大反対ですけれど)的なものにつながっていくのかもしれんし。
逆に「自殺?何言ってんの?たかがネットじゃん」と心底から思える人がいたら、その人がネット社会に染まっていないのか、まぁ、僕の言ってることが的外れなのかどっちか。
そしてネット社会に染まってない人は、現実世界でも生きづらくなるような世の中に今後なっていくのではないか、というのが僕の予感で、この予感がビンゴすれば、今はお手軽な「デジタル自殺」という概念は反社会的な行為と見られていくようになるかもしれなくて、そうするとネット文化を語る上で外せない項目にもなるかもしれんね、ってことで。
早く言えばネットと現実の境界線っていう話になってくるのかもしらん。
その辺についてはずいぶん前から考えていて、特に「mixiでネット社会デビューしました」って人々のネットに対する考え方・取り組み方っていうのが、古巣のユーザーの意識と著しく乖離したものなのではないかという。「ネチケット」や「ネットマナー」という言葉が死語になったのは、ネットでの振る舞いを現実的な尺度で測ろうという方向が主流になったからなんじゃないかと。ネット特有の倫理観みたいなものは排斥して、現実と同じ倫理観で裁いたほうが楽なんだって。ちなみに誰にとって「楽」かというと、主にいわゆる「お上」とか、「お金持ち」とかだと思う。
最近話題になった「読み逃げ禁止」云々っていうのもここに関係してくる。彼らは「読み逃げ」を、無断で家の中に侵入して挨拶も無しに去っていくような非人道的な行為だと思っているわけだ。あるいは盗撮や盗聴に近いとさえ。彼らがmixiを辞めるときがあるとすれば、それはほとんど「自殺」のようなものだろう。彼らは何らかの事情を背負って泣きながらmixiから消えていく。そして笑顔で出戻ってくる。新たな人生に対する希望の光を胸の中に灯しながら。
2007/05/11 17:07
現在日記の更新が著しく遅れております
今夜はちゃんと日記書くのでゆるしてください
最近、夜に夢を見ることくらいしか楽しみがないです。
「お兄ちゃん、ボク妊娠しちゃううっ!」
「おにーちゃん、ボク妊娠しちゃうううッ!」
「しろ、妊娠しろッ!」
「ボク」と「妊娠」という一見矛盾を孕みそうな単語を繋げて書いてしまう力業。
まさに才能の為せる業である。
この小説の場合はセリフの主が妹であるが、
これが仮に男の子のセリフだった場合にはまた違った趣を呈する。
性の知識が偏っており、
「男の子でも中出しされたら妊娠する」
と思いこんでしまっている可愛い男の子が焦って口にする。
「ダメっ…ボク男の子なのに…妊娠しひゃうううッ!アッーーーー!」
生つばごっくんである。
もう4年くらい前に西原氏から紹介してもらったこの小説のことを今でもたまに思い出す。
さっきもう一度読んでみたくなってググってみたら
なんと03年ごろに同タイトルの同人エロゲがリリースされていた模様。
ガンガン生射ち! ~お兄ちゃん、ボク、妊娠しちゃうっ~
画像とかはこちらで見られます
エロCG率99%というエロゲの鑑(?)のような作品らしい。
恋愛シミュレーション要素は一切無く、
ほぼHシーンのみで構成されているという潔さ。
ところで、「しろっ妊娠しろっ」は世界史上稀に見る頭悪そうなセリフであり、
僕はこの作者を割と心から尊敬している。
2007.5.8(火) さおだけクライシス
おこづかいを握りしめて子どもたちが
さおだけ屋のトラックを追いかけている
子どもたちはようやく手にした最新型のさおだけを握りしめて
殴りあったり、犬を殺したり、古い家屋を破壊したりしている
「おうい、休憩だ」
声がかかると、子どもたちは座り込み、ポケットからプリンをつかみ取る
食っては吐き、食っては破棄。
女性の姿を見つけるとさおだけで軽く後頭部を叩き、倒し
ちんちんを顔の前でぷらぷらさせてキャッキャと騒ぐ
「まだ休憩中だ!」
「すみません、工場長」
「しまえ、ちんちん」
そそくさとちんちんをしまう。
ばつが悪そうにうつむいて、嵐が過ぎるのを待つ。
やがて作業が再開された。
殴りあい、犬を殺し、古い家屋を破壊する。
大人たちは家の中で震えている
どうしてこんなふうになってしまったのか
どこで間違ってしまったのか
工場長とは誰なのか…。
ある日とつぜん、子どもたちはプリンしか口にしなくなった
栄養失調で死んでしまうまでの間、
子どもたちはさおだけ代をせびり、暴力と破壊の限りを尽くす。
母親は父親に欲情し
父親は母親に欲情する
狂った世界だ。
2007.5.7(月) 5月と自殺と『自由への扉』(尾崎豊)
「低気圧が近いと、低血圧になって、朝が弱くなって、鬱になるよ」
という内容をまことしやかに教授される夢を見た。
気になって天気図を調べてみたら、
まぁ確かに低気圧が近づいていると言われればそうだ。
低気圧→低血圧というのは単なる洒落のようでいて、
なんとなく科学的なような気がするから厄介。
そう。ここんとこ、元気が出ぬ。起きられぬ。寝てしまう。
数日前、
「ジャッキーさんって、死にたいとか考えたことあるんですか?」と聞かれたので
「そりゃあまあ」的なふうに答えたら
「怪しからぬことを質問してごめんなさい」みたいな反応が返ってきて困ったので
時節柄、
「hideちゃんが死んだときはすぐに後を追おうかと思いましたよ」という
言わなくてもいいような軽口を叩いてみた。
おばーちゃんの墓は尾崎豊のお墓の近くで
巨大で豪華なそのお墓をこないだ見学してきたんだけど
(「放熱への証」と刻まれていた。僕はこのアルバムの『自由への扉』が好きだった)
そういえば尾崎豊の命日は4月25日。hideちゃんの命日は5月2日。
けっこう近いなあ。
そんな話をしていたら、
「この季節になると、人は不安定になったりするのかねえ」
と言う人がいた。
「五月病」というのは、新年度が始まって一ヶ月経って気が抜けて、とか、
ゴールデンウィークが明けて現実が目の前に…とかそういう原因だけでなく
実はもっと別の、季節的な気候的なものでも何かあるんじゃないだろうかと。
梅雨になるとゆううつ、っていうのと同じで、
4月の終わりとか、5月の始めとかっていうのには、何かある。
もちろん、生活が変わっていじめられたりなんだりってのもあろう。
自殺率の統計でも、やはり4~5月の件数が多いようだ。次点は6月。
そうやって自分の不調を正当化しようとしてみるわけだが。
日がな一日hideの映像を見て萌えてだらける。
こんなんでいいのか?
ところで、尾崎豊の『自由への扉』という曲は
決して『15の夜』的な、『卒業』的な、
「自由なるものへの逃避」を歌った曲ではない。
裏切られても信じることから
奪われても与えることから
寂しくても分け合うことから
悲しくても微笑むことから
君なしじゃ僕のままでいられやしない
誰もが皆自由に生きてゆくことを許し合えればいいのさ
今夜素敵な夢を描いて自由への扉を開いてみるのさ
きっとそこに信じていた全ての姿があるはず
ここに描かれているのはある種のユートピア。
ほとんど宗教のように崇高な思想。
つまり「平等を抑圧しない理想的な自由」であるが
もちろんそんなもんが実現できるはずはなくて
「分け合うことに心が届かぬままで」
「見つめるものがすれ違って」しまう。
でも「いつかわかりあえる 大丈夫」と歌う。
うーん。無根拠な自信。
しかしこれは、小沢健二さんが
『企業的な社会、セラピー的な社会』の中で
主人公たちにこう言わせているシーンに重なる。
これも非常に根拠の「見えない」自信だ。
うさぎが、大きく伸びをしながら言います。
「うん、まあでも、人びとは勝つよ。」
「勝つねえ」ときらら。
「そりゃ勝つでしょ」とクィル。
「シンジル」ということは、「シンジツ」へと繋がる唯一の道だ。
ということを数年前僕はずっと言ってたんだけど
尾崎豊にしろ小沢健二さんにしろ、最後にはやはり、「信じる」ことを選んだんだな。
絶望することや、諦めること。目を背けることは簡単だけど、
本当のことへと動き続けるためには、信じるしかない。
信じられるものを信じる。
裏切られても信じる。
悲しかったら微笑む。
ばかげているようだが、それを選ぶ人たちもいる。
それは神様を信じる強さを持った人たちだろう。
少しだけ元気が出てきた。
2007.5.6(日) お墓と死の効能
おばーちゃんのお墓参りに行ってきた。
僕の親戚はみんなひょうきん者でジョークが絶えない。
墓前で、お参りしながら、
「千の風になってるからどうせここにはいないよね」
「本人が『そこに私はいません』って言うんだから間違いない」
「せっかくお参りしても張り合いがないわねえ」
ううむ。お墓参りってこんなもんなんだろうか。
おばーちゃんが亡くなってからもうじき4年。
僕に一人トランプを教えてくれたおばーちゃん。
ありがとう、おかげで友達のいない氷河期のような小学校低学年を乗り切れたよ。
人の死にもいろいろあって、
いい死に方とか悪い死に方。
80過ぎて天寿を全うしたおばーちゃんは、
本当にいい死に方をしたんだと思う。
お通夜の時なんか、親戚一同が揃って、笑いながらどんちゃん騒ぎ。
まぁどこの家族もそんなもんだと思うんだけどね。
お葬式の時のお坊さんがすっごい気合い入った人で、面白くって、
あとでみんなでネタにして大爆笑したりとか。
とにかく、出棺の時以外はみんな終始笑顔だった。
いい見送られ方をしたな、おばーちゃん。
思うに、「死」っていうのは
子どもや孫たちに贈る最後のプレゼントっていうかな。
もちろん「いい死に方」をした人に限ってのことだけど、
親戚がみんな集まるってのはやっぱり、お葬式の時くらいだから。
「自分たちは血の繋がった一族である」ということを確認できるのは、
こういう場でだけだと思う。
死ぬことによって、一族みんなが集まって、一つの時間を過ごす。
これを死者からのプレゼントだと思うのは、不謹慎でも何でもないと思う。
ここまではお葬式の時に感じたことで、
たぶん当時の日記にも書いてある。
あれからもう3年半以上経つのか…。
おばーちゃんが死んだとき、
僕は女の子と二人きりでカラオケーションしてたんだよなあ。
その子には確か何も言わなかったけど、なんか思いっきり甘えたった気がする。
すまんね。
今日、お墓参りに行って思ったのは、
「お墓ってすごい!」ということ。
お墓がなければ、お墓参りもせんわけで、そうなると、
親戚が集まるってこともなくなるわけで。そうすると、
家族が崩壊するっつうか、「一族」っていう考え方もなくなるね。
「そうか、家族という伝統はお墓によって保たれているんだな」とか思った。
やはり死者への畏敬とか、先祖への尊敬というものは忘れてはいかんですな。
左翼的な思想を持つ人がたまに、
「私が死んでもお墓は作らなくていい!」って主張しているのは
そういうことなのかな、と。
彼らはそんなに家族が嫌いなのかね?
家族を「『家』制度」なんつって勝手に制度化したりとか。
あまりにもヒドイ。
家族とか家ってのは当たり前にあるもので、
制度でもなんでもない。それを崩壊「させてしまった」がゆえに、
今の日本の暗澹たる状況があるわけなのだが。
おっとっとなんか政治っぽい話になってきた。
お墓参り、行ってよかったですよ。
おじーちゃんが元気そうでよかった。
みんなで写真撮るときに、おじーちゃんが僕の隣にきて、
がしっと肩組んで写真写った。
僕に将棋の楽しさを教えてくれたおじーちゃん。
おじーちゃんに将棋で勝てるようになってから、
すっかり誰とも指さなくなってしまったけど、
あの頃、おじーちゃんに勝つためにむきになって将棋を勉強してたのを思い出す。
なんかちょっと泣きそうなってしまった。
2007.5.5(土) 子どもの日だから大人批判
30過ぎて原始的なナンパしてる男ってのを観察。
酒を飲んで前後不覚に陥り、支離滅裂な言葉で唇に舌をねじ込む。
そんなんでうまくいくはずはないと思うが、そこはそれ、男の暴力と、女の諦め。
半ばレイプまがいだ。
軟弱な僕らのクラブでの出逢いというのは、
「クールな僕らが話をしたのは偶然じゃありえない だから」
という『今夜はブギー・バック/あの大きな心』の歌詞が象徴するように
もっとずっと恥ずかしがり屋でシャイな二人が運命や神様によって近づけられて
もじもじと少しずつうち解けていくような
そういう「あまずっぱい」シーンのはずだ。
(検閲削除)
カッコイイ男の子がスタイリッシュに女の子を口説いている姿は
むしろ美しくすらあって僕は好きなのだが
酔っぱらいのおっさんがへべれけになりながら電柱に話しかけるようなスタイルで言い寄っている姿は
醜く、不快感以外のどんな感情も喚起されない。憐れみくらいか。
なんてことを書いていると、
「あいつは俺のダチだからあんまり中傷しないでくれ」なんて言われそうだが
どうもこういうところは高校生の頃から変わっていないらしい。
不快は不快。
未だに僕は自分が大人だという自覚ができないでいる。
この2年間、年上の方々と付き合う機会が一気に増えて、
彼らのカッコイイ姿や、逆にカッコワルイ姿をたくさん見てきた。
最もカッコワルイと思えるのは、
明らかにおかしいことに目をつぶることができる人びとだ。
「仕方ないよ。そういう仕組みなんだから」
「なすにまかせよ」とでも言いたいのか知らんが、
単に面倒なことを放棄してるだけじゃないかね?
事なかれ主義とでも言うか。
誰かが何とかしてくれると思っているのか?
自分に迷惑がかからなければそのままで良いのか?
「不快だ」と思う感受性すら失われてしまっているのか?
何なんだ、彼ら。
中途半端な優しさに似てる。
ま、それが大人の社会なのか知らんが、
だとしたら、僕は一生大人にならんでもいいよ。
なんつう青いことを言いますが、割と本気。
「本当のこと」が云々とか、『うさぎ!』はすばらしいとか、
そういうふうに言うなら、
「仕方ないよ。そういう仕組みなんだから」で片付けてしまう精神をまず、
どうにかすべきなんじゃないかね。
南国少年パプワ君の
「大人はすぐ、『また』とか『いつか』とか言っちまうんだよな…」
ってシンタローのモノローグ。
ああいうのを見てドキッとしたりせんのかね。
完全にイカレちまってる。麻痺してる。心がなくなっている。空っぽ。
「若いね」とか「語ってるよ」なんつって茶化して。誤魔化して。逃げてな。
「ジャッキーは若いから」
必殺の文句だと?
僕は言い返す。
「○○さんはガキ以下だからな」
自分で言うのもなんだけど
僕は若さの向こうにある達観はもう通りすぎた。
諦めることにはもう飽きた。
「達観」がカッコイイと思って、そこにとどまっている人たちは
きっと忙しいんだろう。
安住しちゃって。楽なもんだから。
思考停止が芸術だと思いこんで、不労所得の上にあぐらをかいて満足げ。
醜い、醜い。
余裕がないね。
現状だけが全てであり、それを受け入れていけばいい。
確かに。今ここにあるのは現状しかない。受け入れるしかなかろう。
だがそれは諦めるということではない。
現実から目をそらしてはいかんとかそういう類の話だ。
諦めたり、達観するっていうことは
裏ボスの存在を知りながら
「どうせ勝てないから」とか「面倒くさいから」つって
表のラスボスを倒した段階で満足するような感じ。
新たに出逢う新しいモンスターとか
裏ダンジョンで手に入るすばらしいアイテムや
裏ボスを倒したあとの達成感
そして、ゲームの世界に訪れる本当の平和。
そういったものを全てフイにする感じの。
『ドラえもん のび太の魔界大冒険』で言うと
ドラミちゃんがもしもボックスを出して、
「おわり」って出て、
そのエンディングに満足してしまうようなものだ。
その後の「…まてよ。」がない。
魔法の世界なんてどうなってもいい、っていう身勝手さ。
それが日本の大人たちだよ。
『ドラえもん のび太と夢幻三剣士』で言うと
夢の世界の平和は取り戻さずに、自分たちだけが助かって、
それで満足してしまうような。
そうなるとしずちゃんに「ないしょ。でもかっこよかったわよ」って言われずに
一生、カッコワルイままで終わるんだ。
そういう大人にはなりたくなかった。
のび太たちのように、たとえ自分たちとは関係ないパラレルワールドのことでも
荒れているよりは平和なほうがいい。
そのためには命をかけて戦う。
ブルマがトランクスをタイムマシンで送り出した時の気持ちと同じだ。
人造人間に破壊されていない未来があってもいい。
そういう種の希望なのだ。
自分とは関係ないからって、「まぁいいんじゃないの」って、
「ダチだから」って、理屈にもならん。
30過ぎてたって、ダメな奴はダメなんだ。
誰かが注意してあげないといけないんじゃないの?って思うけど
誰も言わない。それでいいんだろうか。
著しく空気が読めない、場の空気を乱す、他人を不快にさせる。
そういう人に、
「あなたは他人に不快感を与える話し方しかしない」と言ってあげるのは、
悪いことなのか?
台風が過ぎ去っていくのを待つように、心の中で体育座りして、
事なきを得てホッとして、「コーヒーでも飲む?」なんて。
小さいころにどんなアニメを見て育ったんだろうか。
宇宙船サジタリウスを見なさい!
2007.5.4(金) 矢田川と多摩川。交錯する想い出について
昨日の日記を読んだ人から
「ジャッキーさんとカラオケに行っても合わなさそうだ」
と言われたので釈明というか説明。
昨日はヴィジュアル系祭りだったわけであって
渋谷系祭りとか秋葉系祭りとかだとまた別だし
何の縛りもなければホント適当に
郷ひろみ&樹木希林からKOJI1200まで
グレートチキンパワーズからフォーククルセイダーズまで
岡林信康からモーニング娘。まで
シャ乱Qからスーパー!?テンションズまで
ともさかりえからさかともえりまで
ハッキングから夜のおかずまで手広くカバーします
本日は
昨日のサジタリウスメンバーと昼までぐうたらしつつ
愛車(ロードレーサー)を駆って登戸へ。
晴れていたので気持ちがよかった。
自転車のサドルが前立腺を刺激。
今読んでいる本の著者は「謝世輝(しゃせいき)」である。
登戸駅の近くの多摩川の河原で
僕の東京のお兄さんと東京のお姉さんがガレージセールを開いていると聞いて
サイクリングがてら行ってみたというわけ。
途中、携帯電話を家に忘れたことに気付き
二人と連絡が取れなかったため難儀したが、
川沿いを鼻歌交じりに歌っていたらすぐに見つけることができた。
兄弟愛と思った。
ところで、僕の実家のマンションの裏には矢田川という川が流れていて
(屋上から飛び降りたら川にボチャンといきそうなくらい近い)
けっこう大きめの川で、河原も広く、草が生え人が走り、
キャッチボールやサッカーボールが飛び交ったり、
釣り人が糸を垂れる横で子どもたちが無邪気に遊び、夜には花火で彩られる。
そんな場所だった。
大きな川というのはけだしそういうものだろう。
近所中の人が集まる。その目的はさまざまだが、
みな、自然の重力に魂を引かれてそこに集まってくる。
最も身近な自然としての河川。生命の息づく場所。
人間も例外ではない。
多摩川の土手を走っていると、その川のことを思い出した。
あまりにもそっくりだ。
川が流れ、人がいて、虫が飛ぶ。
自転車で堤防を下る瞬間の、踏み込み。思い切り。
そんなところまで再現してくれなくともいいのに。
「矢田川の、うちから三〇〇メートルくらい上流に走ったところ」
多摩川を眺めていると、すぐにその風景に対応する矢田川の景色が浮かぶ。
先を走る、好きだった女の子の、miyataのママチャリを眺めながら、
ぼんやりと包まれていた、あの空気。
おそらく日本全国、こういう川には、どこにだってそれがある。
北海道の滝川市あたりを走っていた時にも
同じようにデジャヴを目の当たりにして、結局そこで予定外の時間を過ごしてしまい、
乗るべき電車に乗ることができなかった想い出がある。
多摩川のガレージセールには、本や、CDや、服やアクセサリーなどが陳列されていた。
「こんなもの、この値段で売ってもいいのか?」と思わせるようなものもあった。
出店場所のつい裏手にあるマンションで一緒に住んでいる二人は、
河原を楽しくさせるあらゆる工夫を施していた。
DJセット、音の良いスピーカー、テレビ、ファミコン、天体望遠鏡。
電力はほんの1~2リットルほどのガソリンで8時間も動く自家用発電機から供給する。
僕はファミコンで「迷宮組曲」をやったり、インチキDJプレイをしたり、
帽子とCDを買ってみたり、すっかり楽しんでしまった。
時に地元の若者が興味深げに顔を出して、ファミコンやCDJをいじっていった。
まったりとした、ゆるやかな時間が過ぎていく。
夜になったら星を見た。
金星を捉え、赤に青に黄に輝きを変えていく姿に見とれた。
北斗七星から北極星を探し、眺めた。
時間が早すぎたせいか、月は見えなかった。
そもそもこのガレージセールの趣旨は、
小沢健二の『うさぎ!』で肯定されているような価値観を実践しようというものだった。
世界を支配しているえたいのしれない「灰色」というもの。
奴の思惑を実現させるために計画された、「もう古いの計画」。
あれはもう古い、これももう古いと人びとに思わせて、
次々に古いものを捨て、新しいものを買い求めさせていく計画だ。
それで灰色の棲んでいる「大きなお金の塊」はだんだんと肥大化し、
潤沢な黒い輝きを増す。
そんな動きに対抗して考え出したのが、
「まだ使えるの計画」。
その一環として、家の中にある不要になったものを売ろう、と。
(本当は物々交換が望ましいけど、それは仲間が増えてきてからのことかな)
『うさぎ!』の主人公たちは、
星空を見上げながらものを考えたり、お話しをしたりすることが好き。
僕らも星空を眺めながら考える。お話しをする。天体望遠鏡で星を探す。
二人が持ってきてくれた望遠鏡を何度か使っているうちに、
僕はレンズの中に星をとらえるのがすっかり上手になってしまった。
最大倍率で金星をとらえると、
その周囲に肉眼では見えなかった小さな星が瞬いているのが見えた。
見えない輝き。届かない光。
本当の美しさは「星空」というカーテンの向こう側にある。
見えない輝き。届かない光。
されど美しいもの。
見えない活動。影にある仕事。
だけど大切なこと。誰の心にも秘められてあるもの。
それは「心の中にある光」。
店は閉められ、少しずつ機材が片付けられる。
それらが家の中に運ばれていく間、僕は荷物番として河原に残っていた。
しばしその「懐かしい」風景を眺めていると、
薄暗さの中に幾つもの想い出が浮かんでくる。
鉄橋の向こうで花火が上がって、散った。
世の中で最も美しい火薬の使い方。
そうだ、矢田川には地元でも最も大きな花火大会があった。
ほんの数年前まで。
物心ついた時から毎年眺めていた輝き。感じていた音。
思春期のころには、華麗さの裏でたなびく黒い煙に心を悩ませたりもした。
一年ごとに増えていく想い出。
誰と見に行って、何をして、どんなことを思って。
そんなことをいちいち、想い出ごとにひとつずつ、思い出していく。
多摩川の小さな花火を眺めながら。
追憶の中に浮かぶ面影はまるで人魚のようにきれいで、美しい笑みで、
つかまえようとすれば、海に潜り、
二度と出逢うことがない。
鯉のはねる音。
我に返る。
ここは多摩川だ。
ここではないあの川で。さまざまなことがあった。
川に入って遊んだ。鉄橋を走って渡った。映画も撮った。
バク転の練習もした。
初めて女の子の匂いを知ったのもあの場所だった。
(というよりも、それはその女の子だけの匂いだったのだろうけど)
景色も、匂いも、色も、暗さも、電車の音も、
人を狂わせるには充分なほど、普遍的すぎる。
パラレルに走る二つの川の流れがあって、
僕だけがすげ替えられている。
交わることのない二つの川。矢田川と多摩川。
想い出は交錯し、僕は電磁波の中で行き場を失っている。
平行線が閉じ切ってしまったとき、僕は押しつぶされるのだろう。
みんなが帰ってきた。
「やきとんでも食いにいこう」と、
僕らは駅に向かって歩き始めた。
お酒を飲み、お肉を食べて、
ほろ酔いで外に出ると、月が見えた。
「月のうさぎが、望遠鏡で見れたら良かったんだけど」
と、みんなで悔しがった。
「また次回」
再び、自転車で練馬まで帰る。
世田谷通りから、荒玉水道道路へ。
この景色。
あの町に似ている。ちっ。またデジャヴか。
逢瀬のあと、ウキウキ気分で家まで帰る、あの通り。
田舎道。坂道。何も見えない道。
誰もいない成城を通る。
切なさと虚しさが綯い交ぜになって、
ペダルに力を込める。
トンネルだ。ここは。速く!速く!
弾丸のように駆け抜け、環八に出る。
東京に帰ってきた!
2007.5.3(木) hide哀悼カラオケとサジタリウス上映会
昨日、hideの命日だったということで、
ゆうべから今朝にかけて「hide哀悼カラオケ」と銘打って
笑い飯名誉幹事長のOKDさんと二人でカラオケに行ってきたよ。
↓曲目(だいたい名簿順)
クリスマスと黒いブーツ BLANKEY JET CITY
赤いタンバリン BLANKEY JET CITY
残骸 BUCK-TICK
青春狂騒曲~青雲立志編~ cali≠gari
グッド・バイ。 cali≠gari
エロトピア cali≠gari
マグロ cali≠gari
君と僕〈特別教材/1週間でマスター!ボーカリスト養成講座〉 cali≠gari
マス現象 ヴァリエーション1 cali≠gari
Sexy Sexy, CASCADE
YELLOW YELLOW FIRE CASCADE
Cage Dir en grey
GARDEN Dir en grey
残-ZAN- Dir en grey
脈 Dir en grey
Lu:na Gackt
生きてく強さ GLAY
彼女の"Modern…" GLAY
Fancy Pink GUNIW TOOLS
50% & 50% hide
Hi-Ho hide
DICE hide
TELL ME hide
MISERY hide
Beauty & Stupid hide
ROCKET DIVE hide
ピンクスパイダー hide
ever free hide
HURRY GO ROUND hide
DAMAGE hide
-R-TYPE「瞳の色」 Janne Da Arc
RED ZONE Janne Da Arc
赤裸々 kannivalism
Lies and Truth L'arc~En~Ciel
Dune L'Arc~en~Ciel
未来航路 (Album Mix) La'cryma Christi
Chimes Laputa
EVE Laputa
月下の夜想曲 MALICE MIZER
ロマンス PENICILLIN
鬼と桜 PIERROT
自殺の理由 PIERROT
青い空の下… PIERROT
promise Raphael
忘却の空 SADS
ファミレスボンバー SEX MACHINEGUNS
ゴキゲン鳥~crawler is crazy~(album version) SOPHIA
Four Seasons THE YELLOW MONKEY
球根 THE YELLOW MONKEY
ココロノナイマチ ムック
イケナイコトカイ 岡村靖幸
マシュマロハネムーン~セックス 岡村靖幸
聖書(バイブル) 岡村靖幸
セックス 岡村靖幸
カマキリ 黒夢
親愛なるDEATH MASK 黒夢
Autism ~自閉症~ 黒夢
ICE MY LIFE 黒夢
BAD SPEED PLAY 黒夢
JUST ONE MORE KISS 清春
JACK THE RIPPER 聖飢魔Ⅱ
見事にヴィジュアル系しばり。(岡村ちゃんはある意味ヴィジュアル系!)
いかん、僕は「渋谷系」で売っているはずなのに。
すっかり「ヴィジュ谷系」か「渋アル系」みたいになってきている。
うん、渋アル系。
あ、ブランキーだけは言い訳できそうもない。まぁいいか。
しかしびっくりしたのは、二人でカラオケに行って、
入れられた曲が全曲自分のiTunesに入っているという事実。
改めてOKDさんとの趣味のかぶりっぷりに絶望…いや、なんというかその。
そして徹夜明け、新宿ゴールデン街の元あんよに行ったらば、
そのまま9時くらいまで居座り、その後さらにOKD家へ直行。
廃人的。
いったん家に帰ってちょっと寝て部屋を片付けて、
「宇宙船サジタリウス上映会」(通称「サジ会」)。
1986年に放送された名作アニメ。
このアニメが好きになれない人は人非人である。
会の詳細や作品に対する論文(!)などはいずれ書くが、
本日は1~13話までの「ベガ第3星編」を上映。
集まった20代男女三名が全員号泣(僕だけだったらどうしよう)していたのは間違いない!
そしてアン教授のあまりの強さと可愛さに悶絶し
ジラフさんのDQNっぷりに萌え
トッピーの男らしさと正直さに憧れ
ラナと一緒にラザニアを喰い(わざわざスーパーで買ってきた)
アーとかウーとか叫びながら発狂寸前に興奮。
っていうか反則なんだ!トッピーの長台詞!!
(おっと、詳しくはまた日を改めて書くぜ。いつかそのうち)
いやしかし、サジタリウスが受けて良かった。
もしも「あんまおもんない」みたいな反応されていたら
僕は友達を二名も失うことになっていたであろう!
みんなサジタリウスくらい見てくれよな!
じゃないと心が通じあえないんだから!
「なにがラブリー(Love)だ、なにがインディ(independent)だ!
もっと大切なことを、すっかり忘れていたじゃないか!
何をするにしたって…生きていればこそ…
リブ(live)!リブだよ!!」
(第2話 トッピーが初めて産まれた娘に名前をつけるシーン)
2007.5.2(水) hide命日だからROCKET DIVEを勝手にカバー
昨日はメーデー!メーデー!
だったので日記をストライキ。そして今日は
hideちゃんの誕生日。
ヴィジュアル系はhideに始まりhideに終わった
hideに影響されなかった世代のヴィジュアル系は腐りきっている。
最近のヴィジュアル系は「Dirに憧れてバンドを」みたいなのが
口には出さなくても確実に多数なので
その音に魂はありません。個人的に僕もDir en greyは好きだが。
そういうわけで昨日の夜、
「明日はhideの命日だから!」と気合いを入れて
真夜中に『ROCKET DIVE』のカバーを製作。
一人きりの部屋を閉め切って、
シングルのカップリングで入ってるvoicelessバージョンに歌と適当なコーラスを入れて録音
(ホント適当、ほぼ一発録り)
すっかりhideになった気分。
これがその音源だ!(もう恥なんて知らない)