少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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  ■ / 平成19年10月19日(金)

 何もしないと考える時間がないのでやはり刺身の上にタンポポのせる仕事は僕にとって必要なのかもしれない。
 職業に貴賎なしという言葉は嘘だと思う。明らかに貴賤はある。その事実を踏まえずして生きることを強いるのが教育であり世間であるとしたらなんと残酷なものだろうか。
 
 
 「お母さーん」
 「どうしたの嬉しそうな顔をして」
 「えっへへー、今日ね、テストで100点とったんだ。すごいでしょ!」
 「あのね、テストというのは、授業で勉強した内容を確認するためのものなのよ。だから100点を取って当たり前なの。100点を取れないということはちゃんと勉強できていなかったということで、授業を真面目に受けてなかったってことなのよ。わかる?」
 
 
 「ねえねえ、びーとるずって素晴らしいね」
 「そうだよ。当たり前じゃない。みんな知ってるよそんなこと」
 「さーじぇんとぺっぱーずろんりーはーつくらぶばんどは名盤だと思う」
 「何言ってるの。そりゃそうでしょ」
 「りぼるばーもいいよね」
 「わかりきったことじゃない」
 「それから」
 「あのね」
 「なに?」
 「そういうこと、よそで言わないほうがいいよ」
 「どうして?」
 「どうしても」
 「そう」
 
 
 「好きだよ」
 「知ってます」
 「愛してる」
 「それはどうも」
 「嫌いだ」
 「死ねってこと?」
 「好きだよ」
 「知ってます」
 
 
 「モスバーガーうめえ」
 「何を今さら」


 「R25って、タダなのに読み応えがあって、すごいよね」
 「だって相当広告料もらってるもの」
 「どこ行っても置いてあるのがすごい」
 「フリーペーパーとしては革命的なことだったってね。テレビで見たよ?」
 「あ、うん…ごめん」
 「どうして謝るの?」
 「どうしても」
 「嫌いになったんでしょ」
 「そんなことない」
 「うそよ」
 「明日は晴れるってね」
 「そうよ。1週間は晴れ間が続くって言ってたわ」
 「テレビで?」
 「そうよ」


 「ほら。松屋に“豚めし”というのがあるじゃない?」
 「ああ、うん。そうみたいね。」
 「“イタめし”がイタリア料理なら、“ブタめし”はブタリア料理なのかしら?そこのところははっきりさせておいたほうがいいわね」
 「ごめん。トイレに行ってくる。」


 「それで、豚めしの話なんだけど」
 「もういいよ」
 「どうしたの?」
 「松屋の豚めしの話はもういいじゃないか。何度も聞いた。疲れたよ」
 「松屋の豚めし?」
 「もうやめてくれないか。松屋の豚めしのことを話すのは」
 「ちょっと待ってちょうだい。誰が松屋の豚めしの話をしたっていうの?」
 「さっきからずっと、君がしてるじゃないか」
 「あたしが?」
 「そうだよ、君はさっきから、松屋の豚めしのことばかり…」
 「ばかなこと言わないで!どうしてあたしが、松屋の豚めしの話をしなくちゃならないの?」
 「だって、現に…」
 「もういや。あなたさっきからあたしの話に上の空だったと思ったら、本当に何も聞いていなかったのね」
 「え…」
 「さようなら」


 「僕は何にも知らないんだよ」
 「知ってるよ」
 「何もわからないんだ」
 「わかってる」
 「ごめんね」
 「それでいいのよ」

 一つ前の料理に関する日記に反応したのは見事に料理を愛する一人の友人だけでした。でも専門家に真面目に答えていただけて光栄であります。
 わかりにくかったようなので幾つか蛇足を。まず僕が「料理ができる」と「料理がうまい」とを明確に区別し、後者に類する言葉を一度も用いていないこと。次に、僕はチャーハンやら親子丼やらを作り出すようになる以前から心の中では「僕は料理ができる」と本当は思っていたということ。しかし周囲からは「料理ができない」とおそらく思われ、実際に言われていたということ。さらに、人それぞれに「料理」というものや「料理ができる」ということの定義やそれについての考え方は違っていることを踏まえた上で、「ある種の人々」が意識上抱えている料理観を決めつけ、それを自らの料理観と重ねて書いた文章であること。そして何より、あの日記が全体として橋本治の著書の宣伝となっていること。
 「ある種の人々」に該当しない先の友人は僕の文章の本質(?)を鋭く見抜いて自身のWeb日記に意見を綴ってくださいました。あの日記で僕が吐き出したかったのは、「僕が料理ができないなどと言われている(た)ことに関しての憤り」です。料理というのはそういうもんじゃない、と思っていたが故に、僕は今までオムライスもハンバーグもグラタンも目玉焼きもあえて作ろうとは思わなかったのです。あ、一部嘘です。目玉焼きは好物なのでたまに作ります。ピーマンとか肉入れて、しょうゆで。
 まぁしかし僕は「料理がうまくない」です。調味料云々の話も、経験が少ないから分量や入れるべき調味料に自信が持てないわけで、それ故にレシピに書いてある分量がどうしても気になってしまうのです。「本当にこの量でいいのか?」という問いへの答えは、実際に何度も何度も作ってみないとわかりません。100回くらい作れば、「だいたいこの量が適性」と思えるような塩やこしょうの量が身体に染みついてくると思うのですが、いかんせん僕は毎日三食ご飯を作っているわけでもないし、不器用だし、舌が貧しいので、どうやら修得が遅れているようです。
 僕は「料理ができるようになりたい」とは思っていません。すでにできるからです。でも、「料理ができると思われたい」は、若干思っています。「あなたは料理ができないのね」などと、嫁入り前でろくに家で料理もしない娘っ子たちに言われたくないからです(何か嫌な思い出でもあるのでしょうか)。しかし最も強い思いは、「料理がうまくなりたい」です、実は。短時間でぱぱっと、見栄えもよく味もよいものを作りたい、という思いです。ただ、「短時間でぱぱっと、見栄えもよく味もよいものを作る」ということだけが「料理がうまい」を規定しているわけではないと思うのです。では何が、「料理がうまい」ということを決めるのか。それは「わからない」です。だから僕は、今は「所用時間」も「見栄え」も「味」もさして気にせず料理しています。再現性も何も考えず、ただ漫然と何か食べられるものを作っています。それが僕の「わからない」から「わかる」へ至ろうとするための方法なのです。いつの間にか話は橋本治に戻っているのですが、「暗記とは、身体にとって『無意味な忍耐』」であると彼は言います。暗記嫌いの自分は「脳に届く記憶」よりも「身体に届く納得」を目指すのだと。それで最終的にたどり着く結論は、「私の身体は頭がいい」です。僕も自分の身体はさほど頭の悪いほうではないだろうと思っているので、ただただ漫然と料理をするのです。橋本治が取材でパリに行って、メモの一つもとらずにただボーッとぶらぶらしていたように、僕も同じ方法論であらゆることをします。ただ漫然と本を読むし、ただ漫然と音楽を聴くし、ただ漫然と映画を観るし、ただ漫然と「生活」をします。僕は自分が「吸収した」ものは決して死なず、脳という坩堝の中に融けこみ、いつか再構成されるのをじっと待っているものだと昔から思っているからです。そういう意味で橋本治の方法は非常に僕に合っているものだと感じました。セックスをするときにメモをとってする人はいません。ハウツー本をいくら読んでも実践で役立つかどうかは別です。セックスとは脳で考えるものではなく身体で考えてするものだからです。だから僕はただ漫然とセックスをします。というか、ただ漫然とセックスをしない人はセックスをしていて果たして何が楽しいのでしょうか。そんな人は、まぁいないだろうと思いますが。
 料理も然り、勉強も然りです。何だか当たり前の正論を言っているだけみたいになりましたが、そういう結論に至ってしまったのだから仕方ないのです。もしこれを読んでいる人の中に受験生がいたら、どうぞ自分の勉強の仕方と照らし合わせてみてください。僕は大学受験期、年が明けるまで暗記らしい暗記は一切しませんでした。だから効率は余りよくなかったです。みんながターゲット1900とかの単語帳を開いてぶつぶつやっている時に、僕は図書館へ行って「英語の語源」について書かれた本をひたすら読みふけっていたのですから、その頃知っていた単語の数は真面目に受験勉強していた彼らと比べたらずっと少なかったと思います。しかし結局のところ、これはもの凄く効率のよいやり方だったのです。
 橋本治が『桃尻語訳 枕草子』を書いた際に、古文の単語カードを作り、一枚一枚「どう訳したか」を書き込んでいって、「結局、この単語の核となる訳はこれだ」を決めるという方法をとったらしいですが、僕も似たようなことはしておりました。僕も「手を動かしていなければ他のものに手が伸びてしまう」タイプなので、「ただひたすら手を動かす」ことで自分を机の前に縛り付けていた時期がありました。何をしていたかというと、「ことばは友達」という考え方に則って、英単語で言えばスペルは顔、発音は名前、意味は性格というふうに位置づけ、小学生が手帳に友達の情報を書き込むようなノリで、その単語に対する情報や想いを書き込んでいくのです。この方法は、初めのうちはカードを使ってやっていましたが、そのうちカードなしでもできるようになりました。「ただ漫然と英語を読み、辞書を引く」だけで、その単語の顔と名前と性格を一致させられるように「自然に」なってきたのです。それができたのは、接頭辞や接尾辞の仕組みや、語源による単語分解を理解したことに負うところは大きいのですが、あとは辞書を引いたことです。何度も何度も引き直します。一つの単語に対して十回も二十回も引いて、読みます。「覚えよう」なんて気は起こさず、「友達のことを理解しよう」という想いだけで、何度も何度も、ただただ漫然と辞書を読みます。時間はかかりますが、勉強にかけられる時間が半年くらいあるのならおすすめだと思います。イージーカム、イージーゴーとはよく言ったもので、暗記した内容なんてのはすぐにどこかへ言ってしまいます。と、また説教じみた正論になってきたので、このへんで。
 
 第46回?ウーチャカ大放送
 http://219.17.92.49:8000
 チャットはこちら
 
 どなたか本当は第何回か教えてください
 10/16 24:00-25:00が本放送
 なんだかんだでだらだらと朝方までやってることが多いです
 が、未定は未定。
 24:00までは何か適当に垂れ流しています。
 上の数字だらけのアドレスにアクセスしたらListenをクリックして適当なプレイヤーで再生。おすすめはWinamp。
 放送時間までに寝てたらごめんなさい。
 今週は「ジャッキーさんが音楽に聴き惚れるスペシャル」にでもしようかな。
 まだ未定。
 メルマガ滞ってます。だれか何か燃料でも送ってきてください

  ■あーる、もんかァ! / 平成19年10月15日(月)

 橋本治の『「わからない」という方法』(集英社新書0085)が面白かった。
 おすすめです。
 
 今日は親子丼を作りました。
 昨日はチャーハンを作りました。
 一昨日もチャーハンを作りました。
 その前はなんだかよくわからない名前のない炒めものを作りました。
 いずれも具がたっぷりです。
 加えて野菜やら何やらを数種類、生で食します。
 ので最近はかなり栄養状態が良いと思われます。

 ことの始まりは「なんだかよくわからない名前のない炒めもの」なるものを作ってしまったことでした。これはナスとタマネギと豚肉(カレー用)を醤油と酢と酒とみりん風調味料でからめて炒めたものなのですが、凄まじく美味しかったです。しかしそれはどんなに美味しくても所詮「なんだかよくわからない名前のない炒めもの」であり、いいとこ「ナスとタマネギと豚肉(カレー用)を醤油と酢と酒とみりん風調味料でからめて炒めたもの」でしかありません。仮にこの食べ物に「ジンバブエ」とかそういう名前をつけたとしても、「昨日ジンバブエ作ったんだぜ」と吹聴してまわることはできないのです。僕のした行為は調理ではあれど料理ではなかったのです。僕は4年半も独り暮らしをしていながら「料理」というものがほとんどできないということにようやく気がつきました。僕が週に何日かしているそれはおおかたの場合料理ではなくせいぜい調理とやっと呼べる程度のものだったのです。僕がふだん食べている、混ぜたり茹でたり焼いたり炒めたりして作っている食べものは、大半に名前がなく、それ故にそれらは料理ではないので、つまり僕は料理ができないのです。
 「あなたは料理ができないのね」という言葉を僕は何度も言われたことがあります。そのたびに僕は首をかしげてきました。僕は混ぜたり茹でたり焼いたり炒めたりして食べものを調理しています。米も炊きます。夜に家にいる場合はたいていそのように食事をします。しかし人は僕に対して言うのです。「あなたは料理ができないのね」
 僕は今になってようやく気がつきました。この場合の「料理ができない」は、「自炊ができない」とはまったく違う意味だったのです。僕が言われ続けてきたのは、「あなたは自炊ができないのね」ではなく、「あなたは名前のある料理を作ることができないのね」であり、「あなたはちゃんとした料理のレシピを知らないのね」であり、「あなたはいい加減な食べものしか作れないのね」だったのです。
 では、なぜ料理はいい加減ではいけないのでしょうか? いい加減な料理は料理ではないのでしょうか? 残念ながら、そういうことになっているらしいのです。どんなに美味しい食べものを作っても、その食べものを正しく表現する言葉が存在していない場合、それは料理をしたとは言えません。実際に食べさせて、美味しいことを確認させない限りは、いくら僕が「○○と××を△△して食べたんだけど、美味しかったよ」と言っても、「ふうん。また適当に何か作ったのね」と言われてしまいます。
 先に出た「あなたは料理ができないのね」という言葉が出現する状況というのは、だいたいにおいて次のような状況だと思われます。「あなたはオムライスが作れる?」「いいえ」「ハンバーグが作れる?」「いいえ」「グラタンが作れる?」「いいえ」「目玉焼きが作れる?」「いいえ」「あなたは料理ができないのね」
 ここで仮に「でも、ラーメンやスパゲティやカレーくらいなら作ったことはあります」と主張したとしても、オムライスもハンバーグもグラタンも目玉焼きも作れない男に貼られるレッテルは間違いなく「料理ができない」です。「料理ができる」と言うためには、名前のある、料理らしい料理の有名どころをきちんとおさえていないといけないのです。
 なぜこういうことになったかというと、料理とは女性のするべきことであったからです。別の言い方をすると、女性が女性でいられるための必要条件として「料理ができる」というのがあったからです。「料理ができない」女性は、一人前の女性として認められません。女性は「一人前の女性」として認められないと価値を持ちませんから、「料理ができる」という状態を目指します。目指すためには、「料理ができる」という状態に明確な定義がなくてはいけません。それが例えば「オムライスが作れて、ハンバーグが作れて、グラタンが作れて、目玉焼きが作れる」になるのです。先ほどの問答がもし、姑と嫁の間で交わされたものであったとしたならばどうでしょう。オムライスもハンバーグもグラタンも目玉焼きも作れないなんて、「一人前の女性」になる過程でそれらすべてを当然のようにマスターしてきた姑から言わせれば、「あなたは料理ができないのね」であり、「嫁として失格」であり、「女として半人前」ということになります。女性は常にそういうものを押しつけられて生きています。「料理くらいできなければ半人前」という意識が幼い頃から植え付けられており、「オムライスやハンバーグやグラタンや目玉焼きくらい作れるようにならなくちゃ」という強迫観念に常に駆られて生きてきているのが、女性というものです。だから彼女たちは、オムライスやハンバーグやグラタンや目玉焼きの作れない僕のことを「料理ができない」と断ずるのです。
 「オムライスやハンバーグやグラタンや目玉焼きを作れること」は、「料理ができる」ということの証明であり、「一人前の女性」の必要条件です。前者については男も同じで、これらを作ることのできない男は「料理ができない」、逆にこれらを作ることのできる男は「料理ができる」ことになります。「料理ができる」男は、なぜかモテます。つまりモテたい人はモテるために何をすればいいかというと、オムライスやハンバーグやグラタンや目玉焼きを作れるようになればいいのです。あとは親子丼とか、ポテトサラダとか、そういう有名な、誰でも名前を知っている簡単な料理を片っ端から作ってみるだけで、「料理ができる」の仲間入りができます。たとえ応用がまったく利かなくても、「あなたはオムライスが作れる?」「はい」「ハンバーグが作れる?」「はい」「グラタンが作れる?」「はい」「目玉焼きが作れる?」「はい」「あなたは料理ができるのね」と、こうなります。
 だいぶ話が長くなりましたが、この事実に気づいたとき、僕は思いました。なァんだ、料理ができるようになるのって、こんなに簡単なんだ。なら、料理ができないよりは、できたほうがいいかな。じゃ、やってみよう。そういうわけで、とりあえずチャーハンを作ってみようと思ったわけです。
 チャーハンを作ってみたら、ニンジンが固くてしかも生臭くてあまりおいしくありませんでした。ニンジン以外のところは非常に美味しいのですが、ニンジンの個性が強すぎて完全にチャーハンはバランスを失ってしまいました。「だったら、やわらかくしてから入れればいいんだ」と思って、次の日もチャーハンを作りました。二日連続でチャーハンを作った理由は、こういうことです。
 二日目のチャーハンを作る際には、ニンジンを最初に切って熱湯に浸し、それから他の野菜を切り始めました。準備が全て完了し、鍋があたたまった頃にはもうニンジンはやわらかくなっていました。そうして出来上がったチャーハンは昨日のものとは比べものにならないほどに美味でした。でもまだ何かが足りない、と思いました。その日のチャーハンにはちょっと欲を出して具を五つ入れました。タマネギ、ニンジン、ピーマン、ナス、キャベツです。一日目にはナスとキャベツは入れなかったのですが、意外なほど全体にマッチしてくれてまずまずの成功を得ました。少なくとも僕の貧しい舌はそれを「うまい」と言ったのです。しかし何かが足りない。それは肉でした。
 その日は冷蔵庫に肉がなかったのです。それで翌日、つまり今日ですが、鶏肉を1kg買ってきて、親子丼を作ることにしました。具は他に、タマネギ、ニンジン、ぶなしめじです。ニンジンは実家にいたころ母親が入れていたので、真似して入れてみました。ぶなしめじは、なんとなく合いそう、と思ったので入れました。ニンジンは、煮て作る料理なので大丈夫だとは思いましたが、一応あらかじめ少しだけ熱湯に浸しておきました。時間短縮にはなったと思います。結果、ニンジンはタマネギと同じくらいやわらかい食感となり、味のほうも、熱湯につけておいたためにアクが抜けたのか、くさみがなく美味しかったです。ぶなしめじも親子丼の味にとけ込み、豊かな味わいとなりました。
 
 冒頭に紹介した橋本治の『「わからない」という方法』は、そういうことを書いた本です。ぜひ、一読をおすすめいたします。
 
 ちなみにこの本は、刺身の上にタンポポをのせる仕事の休憩中に、三日ほどかけて読み切りました。だからたぶん2時間くらいで読めちゃうと思います。この本を最後まで読めたおかげで、ここ一週間の僕の気分がだいたいマイナス5000だとすると、今日はマイナス4500くらいまでよくなりました。


 ここからは若干、本の中身に絡めて書いてみます。僕は料理について「本当に何もわからない」。だからやる。教則本もレシピもろくに見ずにやる。だって料理なんていい加減にやっていいものなんだから。「ニンジンをあらかじめやわらかくしておく」なんてのは、おそらく「料理ができる」人に言わせれば常識以前のことでしょう。しかし、僕は「本当に何もわからない」ので、そういう基礎基本以前のところから始めなければいけないのです。実際、僕はつい最近までみじん切りのやりかたも知りませんでした。ニンジンの上手な切り方も、未だによくわかりません。知らない人は、とことん知らないのです。インターネットでレシピを検索すると、「さいの目に切ったじゃがいもを…」などと書いてありますが、さいの目に切るにはどうしたらいいのか。その際に皮をむいたほうがいいのか。さいの目とはサイコロということだと思うが、どのくらいの大きさのサイコロを目安にしたらいいのか。など、わからないことだらけです。でもレシピには「さいの目に切ったじゃがいも」と、じゃがいもはすでにさいの目に切られた状態で登場します。こうなるともう途端に意気消沈してしまいます。「さいの目 じゃがいも」で再検索です。やる気も削がれるというものです。こうして「料理ができる」を諦めていった男たちは大勢いるはずです。
 なぜこういうことになるのかというと、人はレシピを見ると「その通りにしなくてはならない」と思ってしまうからです。「おおさじ1」とか「カップ1/2」とか、几帳面に計って入れている人もいるようですが、僕には信じられません。でもレシピにはそういう魔力があるらしくて、かく言う僕もやっぱりレシピを見るとその通りにしなければならない気分になってしまいます。だから極力レシピはさっと目を通して「流れで理解する」にとどめます。歴史の勉強と同じです。丸暗記しても役に立たない。料理と歴史は流れで覚えるべし。あとは理屈をきかせて、応用する。「この料理は野菜を薄めに切らないと、きっと火が通らないだろうな」くらいの理屈でいい。要はおいしく、そしてできるだけ速く作れたら良いのです。
 「ねばならぬ」ということに支配されると貧しくなるばかりです。女性が嫁に行くと姑に「うちの台所の掟」というものを教わると言いますが、それは「家」の継承であると同時に嫁が姑から受ける「生き方の強制」でもあります。それが良いとも悪いとも僕には言えませんが、少なくともどこにも嫁に行く予定のない僕としては御免被りたいです。夫が妻に「みそ汁は赤味噌にしろ」と(妻は白味噌育ちであるにもかかわらず)強いるのも、これも生き方の強制です。それがいいとも悪いとも僕には言えませんが、赤味噌は大好きだが白味噌も嫌いではない僕としては、「両方作ってくれたら二倍おいしいなあ」と思うくらいです。教育基本法の改正は、「生き方の強制」の強化に他ならず、それを僕は直感的に「嫌だなァ」と思います。生き方を強制するだけならまだいいですが、強制した上で「別に従わなくてもいいんだよ」と教えることは理性的に「絶対にダメだ」と言えます。最もわかりやすい例としては国旗・国歌の問題ですが、そういった表面的なことだけでなく、もっと根深い問題があるように思います。強制した上で、そこから逃れても良いという自由を与えればどういうことになるか。そういえばコンドームを配る学校があったようですが、生徒のその後が気になります。

 もっともっと哀しみは深いです
 そして僕は何も言っていません
 何も言わないために喋り続けているだけのことです

 思っているよりもずっとずっとすれ違いは多いです
 あなたが傷つく言葉とわたしが傷つく言葉は違います
 それを押しつけ合っていても意味はありません

 あなたはあなたが思っているよりもとても自分勝手です
 未来永劫そのようにしか生きられないのです
 本当の意味でそのことを自覚するのもきっと不可能でしょう
 だからせめて謙虚でいてください

 僕もそろそろ何も言わないために黙り続ける方法を勉強します



 純粋な労働力への変換を切望します
 すべて機械仕掛けで動いていけばいい
 いっそねじになってしまえたらな

■労働とおにぎり / 平成19年10月14日(日)

 今日も今日とて刺身の上にタンポポ
 一言も発せずに黙々とこなす
 
 最近楽しいことをしていない
 宴会もイベントも何もかもキャンセル
 
 刺身の上にタンポポのせる仕事の合間
 休憩しながらお茶を飲んでいると
 中学生の時に書いた小説を思い出す
 タイムパラドックスもののSF短篇だったんだけど
 労働の尊さとおにぎりの美味しさ
 本当のテーマはそういうのだったんだと思う
 その頃はまだそう思っていたのかもしれない
 
 
 
 今こうしている間にあそこではあの人たちが
 きっと楽しいことをしている
 僕はそれを想像して幸福になる
 悲劇のハッピーエンドというやつだ
 
 
 
 
 
 空高くから桜の花びらが一つだけ舞い落ちてくる
 ひらひらと長い時間をかけて
 太陽に照らされ月に照らされて煌めいている
 やがて空が曇り雨が降ってきて
 ある雨粒がひと筋の針となって花びらの中心を突き刺し
 そのまま地上に突き刺さる
 花びらはしばし空中で静止して
 雫にあおられて少しずつ近づいてくる

■冬秋夏春 / 平成19年10月13日(土)

 今日を迎えても何一つ
 終わりも変わりも報われも
 始まりもしない
 そんな今日がもうじきまた来ます
 
 
 刺身の上にタンポポのせる仕事の採用試験に行ってきました
 もし受かったらバイトから正社員へ格上げです
 でも昨日のことを思い出すとまたタンポポ持つ指が震えて
 きっとだめです、今回も
 
 
 それでまた明日から刺身の上にタンポポのせる仕事が始まります
 指の先から機械になっていくような感覚です
 タンポポをつまんでは離す
 その作業を何時間もくり返していると頭の中が真っ白になります
 脳髄までもが機械に変わってしまうのです
 いっそそのまま自動化されてしまったらどんなにか楽でしょうか
 いずれ錆びきって動かなくなるのだとしても
 生きたまま腐り落ちてしまうよりはずっとましだと思えます


 もの言わぬブリキに美学を感じます
 何も主張しない
 透明な存在に憧れます
 みがいた水晶のような洗練も望ましいものです
 やわらかな肉を抱いたまま
 貝のように口を噤み
 冷たい海の底へゆっくりと沈んでいきたいです
 呼吸をしなくても
 不思議に苦しくありません。

■今日の日記もフィクションです / 平成19年10月12日(金)

 今日も刺身の上にタンポポのせる仕事をしてきました。
 途中、どうしてもお腹が空いたので
 監視員の目を盗んでタンポポを一つだけたべました
 ガコーン
 と音がしてコンベアが止まり
 すぐさま監視員が駆けつけてきました
 「きっさまああ。何をやっているのかああ」
 バシーン、スコーン
 僕は頬を腫らします
 「いたいです」
 「わしの心のほうが痛いわい」
 寂しげにそうつぶやくと監視員は去っていきました
 やがてコンベアが再び動き出し
 僕はタンポポののっていない刺身が目の前を通り過ぎていくのを見ながら
 ただ嗚咽して泣きました。

 どうしようもない僕は愛する恋人のもとへ行きました
 「好きだよ」
 と言ったら
 「わかったから刺身の上にタンポポのせる作業に戻れ」
 と言われました。
 彼女は泣いていました。
 僕も泣いていました。
 僕は工場に戻って、
 刺身の上にタンポポのせる仕事を一生懸命やりました。

 そのような一日が今日も昨日と同じようにあり
 生きることと死ぬこととの距離を測りながら眠りに就きます。

■今日の日記はフィクションです / 平成19年10月11日(木)

 夢が叶ってバイトしてきました
 9時から5時まで働いてたったの8500円というケチなバイトです
 でも昼飯(豪華弁当)とおやつが出るし
 芸術作品(と思うことにしている)の鑑賞もできるので
 お得感はないではないです。
 早めに終わって外に出ると自転車がありません
 撤去されていました
 今日は遅刻気味で急いでいたので
 全力で10kmちょい走って
 途中で道に迷って、さらに焦って
 着いたはいいがうっかり放置禁止区域に停めてしまっていたのです
 一瞬途方に暮れましたが気を取り直して徒歩で保管所まで行きました
 徒歩で
 5000円とられました
 ごねましたが「お役所が決めたことなんでねえ」
 「老人がアルバイトで来ているだけなんでねえ」
 強行突破しようと思えばできた気がしますがおとなしく
 5000円とられました
 これで本日は
 9時から5時まで働いて3500円という本当にケチなバイトになりました
 そして僕は泣いたり笑ったりしました。
 僕は感極まると笑う癖があります
 笑わなければ飛びだしてしまうからです
 でもそんなことしてる暇ないんですよ
 すぐにまた家まで10kmちょい泣き笑いながら走って
 家で内職して
 内職の成果を宅急便で送って
 そのまま自転車で20kmほど走ってまたバイト
 これは結果的には2時間で7000円というそれほどケチではないバイト
 なんかそれなりに喰うものももらえたし
 これで5000円の穴埋めができた
 なんて思えるほどプラス思考ではありません。
 今日は合計60km走り、12時間ほど重労働したのです
 それで本当は15500円もらえるはずだったのが
 10500円になったのです
 マイナス5000円なのです
 5000円あれば何が買えるかと考えただけで死にたくなります
 日給10000円で、メシまで喰って、何が不服かと仰るかもしれません
 内職までしてるくせに
 ケチな奴だ、憐れだ、と
 でも
 僕にとってお金とはそういうものなのです
 お金とは生きていくために必要な唯一のものなのです
 5000円あれば何日喰えるかと考えただけで死にたくなります
 お金がなければ生きていけないこの自分を呪い殺してやりたい
 僕は5000円とられた瞬間からずっと呪文を唱えていました
 自転車に乗っている間中ずっと考えていました
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働きたい
 働くよ
 働いたらいいんだろう
 働きたい
 働きたい
 働くよ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働くよ
 働くよ
 働くよ
 働きたい
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 そして僕は現在、とても大きな悩みを抱えています
 それらは幾つかあります
 それらがすべて解決しないうちは幸せなんて感じられません
 心も身体もぼろぼろなんです
 とりわけ身体がもうだめです
 にやにやしているけどもう半分終わったような身体なんです
 さらに老いて醜くなり、結果女にも捨てられる
 未来が見える
 見えてはいけないものが全て見える
 死ぬこと以外にこの問題を解決させることは今の僕には不可能です
 そして僕は思うのです。
 働かなきゃ
 働けばいいんだろう
 働くよ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 働かなきゃ
 
■9円 / 平成19年10月10日(水)

 財布の中には9円しかない
 郵便局はマイナス20万超
 銀行にはお金あるけど
 カードも印鑑もないから下ろせない

 そうさ 俺の夢はバイト
 俺の夢はバイト

 お腹が減って仕方がない
 野菜はあるので米炊いて喰おう
 またポテトサラダでも作るか
 だけど身体が動かない

 そうさ 俺の夢はバイト
 俺の夢はバイト

 9円しかないのでごーるでん街にも行けない
 ワンカップ大関も買えない
 やらなきゃいけないことはたくさんある
 だけど何をするにもお金がかかる

 そうさ 俺の夢はバイト
 俺の夢はバイト

 バイトするのが俺の夢
 街で手に入れたこれはYUMEX
 表紙のGirlは俺の嫁
 つべこべ言わずにさっさと読め

 目をつけた寿司屋はかなり有名
 二代目板前が最近襲名
 そいつがDQNでリストラ進め
 残ったバイトはもう数名

 やっぱだめだったこのバイトも
 面接で殴られたまるで子ども
 次に手に入れたこれはDOMO
 コンビニがいいかな君どう思う?

 俺にはやっぱり無理なんだぜ
 バイトなんてできないんだぜ
 だけど夢に向かって突き進むんだぜ

 ※俺の夢はバイト
  昔の夢はパイロット
  今の夢はバイト
  昔の夢はパイロット
  金も職も何もない
  だけど俺には夢がある
  そうさ 俺の夢はバイト
  俺の夢はバイト

 ※くりかえし

 

 しゃれにならない。おなかすいた。
 もう夜なのに昨晩から何も食べていない
 明日も労働とか信じられない
 チョコレートでもなめて命を繋ぐか
 あと二切れしかないけど。
 
 お金がない状態なんて知らないほうがいい
 お金がなくて幸せになれる人なんていない
 絶対にいない
 
 
 うわあ、チョコ、にがい
 砂糖をくわえよう


 悪いことは重なる。プリンタの黒インクが切れた
 いよいよ何もできない。
 インク買いに行こうにもお金がない
 郵便局からあと2000円くらい下ろせないものだろうか。
 
 そう 俺の夢はバイト
 俺の夢はバイト

■タイ行く / 平成19年10月8日(月)

 7日昼頃、A氏、B氏来たり、
 『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』全6話
 『がくえんゆーとぴあ まなびストレート!』全12話 鑑賞など

 『0080』は何度観たかわからないが何度観ても反則。泣ける。
 まだ観たことのない人はすぐうちにきてください。
 この作品のテーマはやはり「嘘」。嘘と秘密。
 空港にいた名もなき振られ女の「嘘を突き通す根性もないくせに!」は名台詞。
 アルの嘘、バーニィの嘘、クリスの嘘、サイクロプス隊のみんなの嘘。
 連邦の嘘、ジオンの嘘。
 シュタイナーの「嘘が下手だな」は名台詞。
 ちゃんと「嘘」を軸に物語がずっと展開しているのに改めて気づかされて驚く。
 だからエンディングテーマも「嘘をついた夜には…」で始まるのだな。
 詳しくはまた別の機会に。
 語りたい人は声かけてください、語り合いましょう。
 
 『まなび』はまだ二度目。新しい発見が盛りだくさん。
 こんなに完成度の高い作品は珍しいと思う。
 てめーらハルヒとからき☆すたとか言ってんじゃねー。
 オタクならまなびを観なさいまなびを。
 一話だけ観て「なんじゃこりゃ」つって観るのやめちゃうのは勿体ないぞ。
 A氏もB氏も第一話を観た段階では「?」という感じだったようだが
 僕が必死に解説を入れまくった成果なのか、
 回を増すごとにすっかりまなびワールドへ引き込まれていたようだった。
 作画もカメラワークも構成も伏線の張り方も完璧。
 キャラの書き込みも人間関係の描き方もたった12話であそこまでやるとは感服。
 内容も、人間らしい神経を持ち合わせていたら絶対に共感できるもののはずなのに。
 どうして売れなかったのだろう。
 現代人は「まっすぐ」を解さないんだろうか。
 どうか50分間だけ時間を作ってもらって
 『まなび』をせめて第2話くらいまでは観てほしい。
 できれば3話まで、いや全話観てください。
 最初から最後まで伏線だらけなんで最後まで観たらきっと面白いと思う。
 
 ニコニコ動画で全部見られます。本当は最高の画質で観てほしいんだけど…。
 ネタバレが嫌な人はコメント消したほうがいいかもだけど、
 解説がないとわからないかもしれないのでコメントあったほうがいいかも…?
 こればっかりはわからないです。52。

 第一話は踏み絵なので、
 「は?何コレ」とか思いながらせめて第2話までは観てほしい。
 A氏曰く「上級者向けすぎる」とのことなので、
 アニメリテラシーの低い方には馴染めないのかもわかりませんが、
 僕は『まなび』が誰にとっても面白い作品だと信じております。是非。
 第4話まで観てだめだったらやめてもいいです。ええ。いいですよ。
 観たら感想きかせてくだしあ。つまんなくても。
 高画質で見たい人は言ってください。どうにかします。

 「他のアニメ会社だったら絶対にしない」が
 (たぶん)ufotableのウリなので、
 「何この動き」とか「何この構図」とか「何この台詞」とか思わないでください。
 あと、まなびを観てて痛々しいとかいたたまれないとか思うのは普通らしいです。
 そこは我慢して観てくださると嬉しいです。
 彼女らも、だんだん成長して行きますので。

 まなびたちの成長を12話かけて生暖かい目で見守る、
 それが『まなびストレート!』の醍醐味!
 
 
 8日午後、男4名で早稲田松竹。
 『太陽を盗んだ男』(1979) 沢田研二、菅原( ^ω^)太ほか
 『青春の殺人者』(1976) 水谷豊、原田美枝子ほか
 ともに長谷川和彦監督、計4時間半。長丁場だが飽きず。

 『太陽~』は二度目だが面白すぎる。『青春~』も最高。
 やはりSUDITOR氏を連れてくればよかった。

 『太陽を盗んだ男』に関しては、見てくれとしか言えません。
 すごい邦画が観てみたい、という人はどうぞ。絶対に面白いです。
 『青春の殺人者』は初めて観たのですが、凄かったです。
 前半の市原悦子に圧倒された。


 「誰かのせいにしないと、きちがいになっちゃうよね」
 という言葉をキーワードに、近々何か言いたいと思いました。


 どちらの映画もヒロインが若干白痴っぽくてすばらしいです。
 ずっと見てるとだんだんいとおしく思えてくる。


 誰かのせいにしたり、どうにか理屈つけないと、
 きちがいになっちゃうんだよ。
 だから他人のせいにしたり、環境のせいにしたり、血液型のせいにしたり、
 自分のせいにしたりしちゃう。
 本当は何のせいでもないかもしれないのになあ。

 わからないと不安になったりする。
 わかることで乗り越えようとする。

 なんとか処方箋を出さないと死ぬる。
 気が狂う。
 まあしかしできればそんなものなしで生きていけたらいいなと思 が寂しいかって咳が出る。風邪がなかなか治らない。
 誰と会っていても本調子が出なくて困るぜ。
 このまま出ないほうが普通に生きられる気もするが。
 メール来たと思ったら乱数みたいなアドレスからしかこないし、寂しい。
 ( ・∀・)ノ<たまにはメールくれよ!
 自分から送れって?さんせい異議なし。
 誰にも会わずに働きに行こう。げほげほ。

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