少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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■如何子 2007/12/30

 東京に帰ったら7月中旬の日記を調べてみます。
 平凡だけど日曜日テレビを見る。架空の偶像に自分を見てる。テレビはちょっと(略)やーわ。セクシー? 誰が? そんなんじゃ見るだけ損。世間のガールは自分を見ている。ガールはちょっと(略)あほか。

 kill me stop kill me stop kill me stop kill me stop stop me stop me

 かくされたメッセージ、それは留守電に。

■キングコング西野ブログの炎上について 2007/12/29

 実家。
 いちおう世間の話題に遅れないようにニュー速+はチェックする。
 するとキングコング西野のブログが炎上しているとのこと。
 M-1効果の一環なんだろうけど、ちょっと可哀想だった。
 というのも、今回の叩かれ方はあまりにも不当と言わざるを得ない。
 もちろん西野(呼び捨ては芸人の愛称です! たぶん。西野さんすみません)が軽率だったというのが最大の原因ではあろうけど。
 漫才コンビ「キングコング」の西野亮廣さん(27)のブログをめぐり、批判が殺到している。「いい逃げはずるい」なとど2ちゃんねらーを批判。ところが、反論の機会を保証することの重要性を主張しているにもかわらず、西野さんのブログにはコメント欄がなく、西野さんこそが「言い逃げ状態」との批判がネット上で相次いでいるのだ。
 と始まる文章が、J-castニュースに掲載され、それがニュー速+板(2ch)に転用された。また最も閲覧者数の多い2chまとめサイトである痛いニュースで書き込みの一部が恣意的にまとめられている。元のブログはこちら。

 実際に「西野さんこそが『言い逃げ状態』との批判がネット上で相次いでいる」のかどうかを検証することは難しいが、ニュースサイト→ニュー速+(もしかしたら今後、→痛いニュースへ転載されるかもしれない)という流れですでにそう書かれてしまい、「痛いニュース」でもそのような流れでまとめられている。こうして何十万人(ひょっとしたら何百万人)もの人の目に触れてしまった以上、この記事は「正しい」。というか、正しいものとして受け取られ、そういう批判を(再)生産してしまいやすい。それがすでに書かれてしまっている以上、「西野さんこそが『言い逃げ状態』との批判がネット上で相次いでいる」という状況を「いや、そうではない」と否定するのは困難を極める。
 かりに「西野さんこそが『言い逃げ状態』との批判がネット上で相次いでいる」のだとすれば、西野への批判はあまりにも不当だと思う。もし、そういう事実がないのに記事を捏造したのでなければ。
 投げっぱなしの意見をする奴を僕は認めない。/反論の責任を取らない奴。その受け口を設けていない奴。/インターネットの世界で言えばいわゆる『2ちゃんねる』というサイトの中でも、人を否定する事で自分の存在を確かめている奴がその最たる例。/とてもカッコ悪いし、わかりやすく言えばアホだと思う。/そうなってはいけない。(『西野公論』)
 この部分が最大の焦点となっている。この記述に対して、「コメント欄を設けてないということは、西野は自分のいう『反論の責任を取らない奴。その受け口を設けていない奴。』に当てはまる。自分のことを棚にあげて他人をアホだと罵るとは、西野こそが『言い逃げ状態』で、自己矛盾ではないか」という批判が相次いでいる、とJ-castはまとめたと僕は読んだ。
 が、はっきり言ってこのような批判をしているやつが本当に多数いるのであれば、絶望せざるを得ない。もともとしてるけど。
 「コメント欄がないブログは言い逃げ状態である」という言い方は、西野に対しては通用しない。西野のブログは「実名」で書かれており、TV等のメディアで惜しみなく姿を晒しているからだ。匿名の素人ブログや2ちゃんねるなどとは覚悟が違う。西野の主張は、「評論をするのであれば、反論を受け止める姿勢を持て」というものであって、その姿勢の例として「TV出演」や「作品製作」を挙げている。ブログにコメント欄がなければ反論から逃げていることになるのであれば、TVにも書籍にも映画にもコメント欄に相当するものがないので、それらはすべて「言い逃げ」ということになる。そんなわけはない。TVや作品によって名前や姿を晒すことが「表に立つ」ということであり、「反論の責任」(なんか変な言葉だな)を取るために必要だと西野は言っているのだ。西野は「表に立つ」ことによって「反論の責任」を取ろうと努めているので、煩わしいコメント欄など設ける必要はない。読者が西野に対して何か言いたければ、吉本興業に手紙かメールでも送ってみるか、自分のブログだのHPだのからリンク張って言葉を添えればいい。相手の素性がわかっているのだから、どうにでもしようはある。
 どうしてもコメント欄のないことについて批判がしたいならば、「インターネットのブログでは雑誌や書籍などとは違って、たとえ有名人の記名原稿であってもコメント欄がなければ反論を受け入れる姿勢があるとはいえない」ということの根拠を明確に示さなければならないはずだ。が、見たところそういうふうに言っている人は見当たらない。もしいたら教えてください。

 がんばってまとめてみよう。「表に立って反論を受け入れなければ」と主張する「表に立って反論を受け入れようとしている人」に対して、「でも、コメント欄がないじゃないか」と言うのは、おかしい。つまり「コメント欄を設けることが反論を受け入れるための必要条件にはならず、『表に立つ』ことが反論を受け入れるための必要条件であると考えており、それを満たしている人」に向かって「コメント欄を設けるという、反論を受け入れるための必要条件を満たしていない」と批判するのは、まるで話がかみ合っていない。それは「コメント欄を設けることが反論を受け入れるための必要条件であり、『表に立つ』ことは反論を受け入れるための必要条件にはならない」ということを証明して初めて言えることだ。つまり「反論を受け入れているならばコメント欄がある」という仮言命題を偽とし「反論を受け入れているならば表に立っている」ああ、ややこしい。合ってるかな。

 こういうふうに、あからさまに不当な批判を許し、それを増幅させて伝えてしまう仕組みが、今のネットにはある。こういう状況をどうにかしないといつまで経ってもWeb2.0(笑)の(笑)が外れない。文章もろくに読めないくせに文句ばかり言う人たちがかなりの人数いる(しかも匿名で、悪意もたっぷり)というのは、由々し。

 僕も最近小沢スレでよくわからない批判をされている。僕は顔も名前も明かしていないので西野ほど偉そうなことはいえないが、「カッコ悪いし、わかりやすく言えばアホ」だとどうしても思って、同情的になってしまう。「そうなってはいけないと思う」。僕に対する批判が云々というのは置いておいても、あのスレは基本的にひどい。藤子・F・不二雄先生の『ミノタウロスの皿』にあるような「言葉は通じるが話が通じない」という奇妙な状況が現出している。ぐちゃぐちゃ。これを打破するためには、オフ会でもやってじっくりと話し合ってみなければならないかもしれない。むろんそれで解決にはならないだろうが、現状を何らかの形で変えることはできるだろう。いっぺん呼びかけてみたいなと思うんだけど、僕が言っても誰も来ないよなあ。「○月×日の○時から○時まで、歌舞伎町コマ劇前のマクドナルドにいますので暇な人話しに来てください」とかだったらスネークくらいは来るかな、どうでしょう。「ジャッキーとかいうやつ、ちょっと見てきたけどすっげーキモかった」とか「ジャッキーと話してみたけど、シャブ中みたいなしゃべり方だし目も据わってて完璧に洗脳されてる感じだった」とか「一人称がジャッキーだった」とか書き込まれたら嫌だけど。でも楽しそうだ。

 ところで、キングコングの西野はなんか他人とは思えない感じがする。中二病っぽい感じとか、「言い切り」が好きなところとか。あとタモリさんが大好きなところとか。ちなみに引用した箇所にあった「インターネットの世界で言えばいわゆる『2ちゃんねる』というサイトの中でも、人を否定する事で自分の存在を確かめている奴がその最たる例。」というのは、26日に僕が書いた「自意識とプライドが傷つくというごくごく小さなリスクだけを負って、他人の自意識とプライドを傷つけることを前提とした借り物の自己主張を矜持としているような」というのとほぼ同じ。同じときに同じこと、いるもんだなあ。

 実家帰ります。可能ならばFTPで更新するよ。

■2chへ 2007/12/28

 めんどいし、スルーが一番なんだけど一応書いておこう。
 「ネットにこれ関連のことは書かん」と思ってたんだけど、禁破るか。
 まぁ不当に叩かれているのに黙っていることもなかろて。
 おそらくそのうち消すけど。
 
 
 195 名前:ジャッキー ◆8GsNR11YsY [] 投稿日:2007/12/27(木) 16:28:39 ID:0xPeDoTuO
 記念カキコ

 206 名前: ◆8GsNR11YsY [] 投稿日:2007/12/27(木) 22:05:22 ID:bof0oqgw0
 この速さならいける!
  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄       (´´
      ∧∧   )      (´⌒(´
   ⊂(゚Д゚⊂⌒`つ≡≡≡(´⌒;;;≡≡≡
         ̄ ̄  (´⌒(´⌒;;
       ズザーーーーーッ


 これらの書きこみは僕のもので(上が携帯、下がPC)、その他の書きこみは僕のものではないです。少なくとも27日に関しては、相当悪質なID改竄をしていない限りは書きこみも自演も不可能。そんなめんどいことせんよ。


 222 名前:NO MUSIC NO NAME[] 投稿日:2007/12/28(金) 03:46:40 ID:BeQc7L1x0
 >>212
 ジャッキーってあれだろ。社会臨床学会に小沢が来たときに、
 自分たちは手伝いの振りしてもぐりこんで、当日になって、
 「実はファンの人に来て欲しくないそうなのでそういう人は来ないで下さい。」
 って、自分の「日記」で告知した人だろ。
 オタ奴隷というよりは、うまく小沢をイベントに引っ張り出して、
 ハーブティとかサンドイッチとか売り抜けたんだから、結構したたかなんじゃない?

 そうやってだんだん小沢に世の中の現実や社会性を教育してやってくれる人がいないと、
 また小沢が引きこもっちゃうから、そういう人も周辺にいたほうが良いんだよ。


 良い機会なのでこれにも公式に反論しておこうかな。
 まず「手伝いの振りしてもぐりこんで」が事実誤認。
 正しくは「整理券が届いたので(出席できることが決まったので)、当日は早めに行って手伝った」です。「手伝うんで出席させてください~」的な流れではないし、「手伝いの振り」ではなく、純然たる「手伝い」。
 僕の立場を説明すると、「学習会」をネットで知ったのではなく、社臨誌14巻3号を直接注文していたので「学習会」案内のDMを受けとっており、応募ハガキも一枚だけ書いて送った。また春の総会で社臨会員になっており、その際にニューズペーパーの紙面で手伝いが募集されていたので申し出て雑誌のテープ起こしをやらせていただいた。
 で、ハガキが当選して折り返されてきたから、当日は若い男手も多くなくばたばたすることを懸念されていた運営の方に「どうせ行くんなら早めに行ってお手伝いしましょうか」と訊ねたらば「ぜひ」と言われたのでそのようにした、というのが事の顛末。

 それから
 「実はファンの人に来て欲しくないそうなのでそういう人は来ないで下さい。」
 という類の発言はしていない。
 まず彼が「ファンの人に来て欲しくない」と僕の前で言ったことは一度もない、むしろそういった「ファン差別」という風潮に疑問を感じている立場であって、僕もそんなことを言うわけがない。
 僕があの時言ったのは、「僕は映画や社臨学習会については何も書きません、出席した上でそうしたいと判断したからです」ということ(これはここに書いた)と、「インターネット上に映画の内容や当日の様子を書いたりしている人は、映画の趣旨や本人たちの意向をどういうふうに解釈・理解しているんだ?」という疑問(こっちはmixiに書いた)。そもそも「来るべき、来ざるべき」という種類の話すらしてない。「書く、書かない」という話をしていたのみ。なしてそうも飛躍するか、やはり人の世は伝言ゲームである。

 >ハーブティとかサンドイッチとか売り抜けた
 僕は横浜での集いの運営には一切関わっていないんだけどな。
 主催者の一人とは友達だし、当日はちょうど横浜で楠美津香観てたから、ついでに途中から行って撤去手伝ったりはしたけど。サンドイッチがどうとか何も知らん。
 ちなみに7月20日に渋谷でやったときは無論何も売らず、参加者にそれぞれできれば手作りの食品を持ち寄ってもらうよう呼びかけた(生野菜持ってきてる方とかいて面白かった)。こっちで用意したのは飲み物だけだったはず。

 川柳に対して「本性がほの見える」とか書いていた人がいたが、本性を隠しているつもりはないんだけどなあ。坂本龍一が隠し子がいるって報道されて「いや、隠してない」と言っていたのを思いだした。

 なんかなー、善し悪しについてすごい考えるよ。
 誤解とか誤読とかいうことにも。
 とかく人の世は伝言ゲーム。

 なんてことを言ってたら「潔癖すぎる」と言われた。

 さて、この件についてなんか聞きたいこと、言いたいことがある人はメールフォームからメールください。

■頭の善し悪し 2007/12/27

 「頭が良い」に対応する「頭が悪い」と「頭が善い」に対応する「頭が悪い」は違って、「頭が善い」に対応する「頭が悪い」には到底我慢ならない。

 ところで、昨日、一昨日の日記が酷い。特に一昨日。あのハチャメチャで支離滅裂な文章に一応フォローを入れておこう。「僕は感情的な主張を貫き通すためであれば論理性などという悪魔に魂を売り渡したりなどせず、いかなる詭弁・強弁にも身を委ねる覚悟であります。」
 というのはまあ「半分」冗談であるとしてとりま自戒のためにたびたび引用してきた次の一節を再び心に刻んでおこう。
 現在、ブログ、2ちゃんねる、ミクシィなどでは、日々それはもうさまざまな批評が乱れ飛んでいる。しかし、批評という行為は、この例でもわかるように、しばしば自らの読解力のなさやら無知やら自分の恥ずかしい思いこみやらを無自覚のまま天下に晒してしまう、とてもこわい火遊びなのである。
 降りかかった火の粉を払うついでに、よい機会だからここで一言忠告しておく。
 (『浅羽通明同時代論集治国平天下篇 天皇・反戦・日本』幻冬舎)
 

 どこまで浅羽先生が好きなのか僕は…でもこの「忠告」にはかなりドキッとさせられる。ちなみに「この例」というのが非常にわかりやすくい好例。120ページあたり。

 昨日の続きを書く時間と気力がどうやらなさそうである。というのも2ちゃん小沢スレに僕の日記やら川柳(!)やらが晒されて面白くて仕方がないのだー。どんな箇所をコピペされたのかとヒヤヒヤしたが、寄生獣はすごいとか、サジタリウスを見ればいいよとか、僕が中川八洋先生へ思想的に同調しすぎているのではないかという誤解への懸念への言い訳(僕は中川先生の華麗なるレトリックや、現役国会議員に対して「あなた頭が悪いんですね」と全国放送で言い放つ堂々さなどを尊敬しています、もちろん思想的にも影響は受けてますが…)とか、特にみんなに読まれてもあまり困らない、というか日常的に大声で叫び回っていることばかりを貼られただけなのでホッとした。むしろ、なんという的確な引用であろうかと驚嘆。でもできることなら『まなびストレート!』について熱弁をふるっているところとかを取り上げてほしかった。

 > 2ちゃんねら(もちろん全員ではない)は基本的には体制やマスコミの対抗者であり、いわゆる「野党精神」のようなものを持つ、「ノー!」と言うのが仕事のような人たちだ

 というのも引用されていた。2ちゃんねらは常に野党であり、とにかく何にでも批判するのが仕事であるので、もし僕を叩くのだとしたらまぁ、それも仕事の一つなのであろう。と読んでいて思った。「ジャッキー、ノー!」「落とせ、あんなもんは!」「インチキばっか!」

 恥ずかしかったのは何といっても川柳。自分が気に入っている作品ばかりならばいくら晒されても良かったが、あからさまに面白くないものもかなり混じっているところにとても凹んだ。前の僕の馬鹿。

 戦慄したのは僕について「ウーチャカとドラえもんとサジタリウスを好きな自分が大好きで、自分だけが頭いいと思ってる可愛そうな子です。」と書いてあったこと。なんという的確さだろう。僕を知っている人ならとりあえず笑うと思う。ウーチャカはさまで好きなわけではないが、ドラえもんやサジタリウスは死ぬほど好きで盲目的崇拝対象であるし、ドラえもんやサジタリウスで心動かされて泣きじゃくっているような自分が限りなく果てしなく星の光のように大好き。まったく間違っていない。『あまいぞ!男吾』とか読んでわーわー泣いている自分は、ある意味誇り。ただそれが「これで泣けないと誇れない」になって「泣かなくては」と身構えて読んでしまったら終わりなんで、ほどほどにせんくばならんが。
 「自分だけが頭いいと思ってる」というのは肯定も否定もしないけど少なくともこれを書きこんだ人よりは「頭が善い」とは思いたい。
 まーしかし僕もこれからは敵を作らないように何かを批判したり批評したりすることは控えたほうがいいなあ。しらんうちに無知や馬鹿をさらけ出してしまうし。自重わないと。

 いやホントに、好きなものを好きである自分というのは心から誇れる。
 なんてことを言うと「お前の本質はお前の内部にはないのか」「お前の頭の中は全て借り物か」などと言われてしまうかな。うーん。そうかもしれんね。だがそれでいい。

 あ、その2ちゃんに僕の日記とかを貼った人が、この日記のことを「ブログ」って表現してたんだけど、違うんだよなあ。これはブログじゃないつもりなんだけど。個人サイトとブログは全然違うと思うんだけど。日記だけを考えてもブログではなく「HTMLで生成されたWeb日記」だと思っているんだけど。ブログ隆盛以後にネット・デビューした人とは、「これ(Ez)はブログではない」という考え方を共有できないことが多い。この日記をブログと呼べるかどうかは僕には決められないことかもしれないけど、少なくとも僕は全然ブログとは思ってない。この日記はいわゆる「ブログ」なんかよりもずっと自由度が高くて素晴らしいものだと思っているし(内容はさておき)、逆に「ブログ」には当たり前のように装備されている機能がまったくなかったりする。ほかにブログも持っている僕から言わせれば、本当に全然違う。だからたまに「ジャッキーさんのブログ読みました」みたいに言われるとすっごい戸惑う。「え、あの変な詩しか載ってないブログ見られたんか?」って思う。

 って、いかん。昔の「川ラン」の詩とかコピペされたらちょう恥ずかしい。しんでしまう。それだけは何卒


 さらっと一応昨日の続き。
 『右翼と左翼』について、メモ。
 ○左が弱体化したため相対的に右傾化しただけ
 ・右傾化…現状肯定。過去も未来もなし。現在にしか目を向けない姿勢
 ・↑つまりmixiのシステムと同じ
 ・そもそもインターネット自体が「共時性」の強すぎるメディアである
 ○「右」「左」の書名傾向の違いについて
 ○理念が死んだため、何が進歩であるかわからない
 ○政治、経済、文化・社会、外交・安保…という「思考の座標」(石原千秋)
 ○イデオロギーがすなわち人格を表さなくなった(では何が?)
 ○右翼と左翼、「敵」に依存する構造。(結論)
 ○もう一つの知の可能性、「トピカの知」。ここで小沢健二、橋本治らに繋げたい。
 ・「(頭が良いに対応する)頭が悪い」には、大きな知の可能性がある。
 

 橋本治の『ハシモト式 古典入門』は非常に優れた日本古典の入門書だと思う。正直言って、ここに書かれている内容は国文科を出た人でも本当にちゃんと古典をやっていないと知らないことばかり(悲しいかな本当。学部4年生の近代文学ゼミで「プロレタリア文学って、何ですか」と真顔で発言する学生が早稲田にもいた。大学のレベルなんてそんなもんだー)。簡単に書かれているけど、実際本当に重要で「意外と知らない」ことばかりが書かれている。「少し古典に興味がある」という人は絶対に読むべきだし、高校・大学などで古典をある程度やった人は復習がてら読んでみるといいかもしれない。きっと新しい発見もあるはずだし。

 最近『おくのほそ道』を暗記してるんだけど、橋本治もこの本で「暗誦すべし」と書いていた。やっぱり古典は暗誦できなければ仕方ないね。でないと身体化できないもん、実用しないから。「身体化」というのは例えば、音を聞いただけで何となく意味が掴めてしまうようになるってことかな。「これは完了で、これは詠嘆だから…」なんてことを考えずに、響きだけで「こういう意味だな」と直感できるようになること。そのためには朗読や暗誦が不可欠だと僕は思う。そしてそれ以外には古典体得の道筋はない!

 なんて言うと、「暗記(笑)」みたいに思われるかもしれないけど、世の中には良い暗記と悪い暗記がある。文法も語彙も知らず、文章の意味もわからないままただ闇雲に暗記しても楽しくないし、力もつかない。たとえば僕が今やっている暗記法は、…これは僕が今ある程度古典が読めるからできるんだけど…、とにかく覚えたい文章の「意味」をまず完璧に理解する。文法や語釈でわからないところが一箇所でもあったらだめ。それで声に出して情景や話の流れなどを思い浮かべながら読む。何度か読んだら現代語訳を読みながら原文を復元してみる。覚えたかなと思ったら諳んじてみる。こんな感じ。
 じゃあ、古典をほとんど読めない初心者の場合はどうしたらいいのかというと、簡単な文章を読めばいい。実際、『おくのほそ道』なんかは現代語とほとんど変わらないので(中学の教科書にも載るくらいわかりやすい)、意味を完璧に掴んだ上で暗記するということが容易。これをいきなり中古文学とかでやるからいけないのだ(この辺は橋本治も書いてたけど)。たとえば、まず『おくのほそ道』をしっかり読んで、それから『徒然草』をかいつまんで読んで、『方丈記』をちょっとだけ読んで、それから『枕草子』とかぼんやりと読んでみる、とか。近世から始めて徐々に時代を上りながら、段階を踏んでテキストを少しずつ難しくしていく…っていうのがいいのではないかと。思う。あとムリして全部読もうとしないこと。かいつまんじゃえばおk。
 とか書いてて思うのは、これを読んでいる人の中に僕が理想の読者として考えている「ちょっと古典に興味がある人」はどのくらいいるのだろう。一人いたらいいほうだよなー。いることを願うます。
 つーかまた無駄に偉そうなことを書いてしまった。まぁおk。

■HASYMOトーサム 2007/12/26

    

 今夜はこの2冊についてさらりと書いて白ビール飲みに行く。

 左は我が恩師(!)、浅羽通明先生の近著…とは言え丸一年以上前の本。あいうえお順で幻冬舎新書の記念すべき創刊一冊目となった『右翼と左翼』。
 正直言って、「右翼と左翼のことはなんとなく知っている」という人は、一~五章は斜め読みくらいで充分だと思う。よほどこの周辺の知識をガチガチに固めて武装したいという人以外は。(本気で学びたかったら幻冬舎新書なんか読んでない気もするけど。)
 肝は何と言っても六章以降。五章まではそのお膳立てにすぎない。
 「新世紀エヴァンゲリオン」のヒット以来、自分の危機と世界全体の危機とがシンクロしてゆく物語を「セカイ系」と呼びますが、「右翼」「左翼」に代表されるイデオロギーはもとより「セカイ系」だったのかもしれません。(P199)

 「右翼」「左翼」はもう、サブカルチャーですらない、「むかつき」とか「へたれ」とかいった生理的反応や傾向と同列に語られる何かへ近づいているのかもしれません。(P200)
 浅羽先生は「右翼」「左翼」という二分法が冷戦集結以後過去のものとなった、と言うばかりか、いや、右翼も左翼も昔からサブカルだったわけだが、最近はサブカルですらなくなってきている、とまで言う。今や右翼・左翼は「一種のカウンセリングやメンヘル・ドラッグ」のごとくなり、ネット上では「書きこみのネタとして、また他人の書きこみをあげつらう論拠として」使われると。
 要するにもう右翼・左翼は馬鹿の慰みにしかならん、メンヘラや性格と頭の悪い人のための言葉になっている。そういえば右翼・左翼という言葉が聞かれるのは、自己を激しく主張する時か、批判や悪口を口にする時くらいだ。自分をアピールしたり、他人を貶める時だけで、何かを考えるときの材料として使われることは、ほとんどない。というか、右翼・左翼という言葉を使って「何かを考える」ことができるのって、「右翼・左翼とは何か」を考える時くらいかもしれない。特定の人物や思想を取り上げて「右であるか左であるか」を考えることに、今や毫も価値のないような気がする。
 肥大した若い自意識が、これから実力や社会的持ち場を時間をかけて育ててゆくじれったさを回避して、それっぽい言説のまとい方を覚えることで、「左翼である私」「右翼である私」として手っ取り早く格好をつけようとするパターンは、戦前の左傾青年以来、珍しくありません。
 しかしネット左翼または右翼に関しては、逮捕も拷問も処刑も、いや怪我の一つも覚悟しておらず、「傷つくのはただ自意識とプライドだけ」である、と続く。
 ネトウヨとかが嫌われるのってこういう理由からなんだろうな。自意識とプライドが傷つくというごくごく小さなリスクだけを負って、他人の自意識とプライドを傷つけることを前提とした借り物の自己主張を矜持としているような若者たち(僕も自戒せねば)、いや「若者」ならばまだいいんだけど、中には30すぎても40すぎてもどうしようもない人というのがいる(これも自戒、あと7年でどうにかせんと)。
 僕も「借り物」の言葉や思想が好きなクチなので(引用の快楽バンザイ、この文章自体がそもそもそうだ)あまり他人に対してああだこうだ言えないんだが、ターム(術語)を使わなくては何も考えられない、表現できないというのはあまりにも貧しい。また借り物であれ自前であれ、自分の信じている考え方に引き込まなくては何も言えない(我田引水)というのも悲しいものがある。「宗教」「思想」「論理」など、「信じている考え方」はさまざまだが、それらにはそれらなりに筋の通った理屈がそれぞれにあって、それはそれぞれがそれぞれに固有でありそれぞれに対して平行な「筋」である。それぞれがそれぞれの筋の上で主張を展開している限りは、まともな話し合いなどできるわけがない。

 「天皇制が存続すると、これこれの費用がかかる。天皇は象徴でしかなく実効性のない存在なので無駄である。だから天皇制は廃止すべきである」という論が仮にあったとする。この論には筋が通っている。「天皇制を廃止した場合のメリット」しか問題にしていないからだ。これに反論するためには、「いや、天皇制を廃止するメリットは“ない”」と主張するしかない、たとえば「費用はかかるが、それに見合った効果がある(実効性がある)」と展開すればいい。ところがここで反論として「天皇制を廃止した場合のデメリット」を主張してしまうと、もう議論としては崩壊である。筋が通っていようがいまいが、そもそも次元の違うことを反論として持ち出してしまったら話にならない。
 ちなみに僕は日本に天皇「制」などないと思っています。天皇陛下は“いる”のです。(おお、これがネトウヨか!)

 うーん、だめだ時間がない。橋本治について何も触れられなかった。明日の夜、時間と元気があれば続きを書きます。もう名古屋に発ってしまうので。日記は何らかの形で、名古屋からも更新するようにしますのでよろすく。

■言葉の誤用についてなど 2007/12/25

 「鳥肌が立った」という言葉を肯定的な文脈で(「感動した」「良い意味ですごい」という意味で)使われるのが嫌いだ。そのわけは、高校の時に自分が「感動に打ち震えた」という文脈でその言葉を使った時、ある女の子から「それは誤用だ」と糾弾されたことに端を発する。「鳥肌が立つ」は本来「身の毛もよだつ」と同じような意味で、原則としてネガティブなニュアンスでしか使えないという。それ以来どうも「鳥肌が立つ」という言葉を意識してしまい、肯定的な文脈で使われると気になって気になって仕方がなかった。で、最近どうも僕は「鳥肌が立つ」を肯定的文脈で使用する「誤用」が嫌いなのだな、と悟った。そして今日、「なぜこの誤用が嫌いなのか」が少しわかった。

 「鳥肌が立つ」を肯定的文脈で使うことを誤用だ(昔の意味・用法とは違う)と知りながら、あえて使う立場が少なからず存在する。Iwatamの何でもコラム:鳥肌が立つほどすごいは興味深い論考だ。
 「鳥肌が立つ」という言葉の誤用の問題は、他の誤用の問題とは違って簡単な問題である。「鳥肌が立つ」は現象を指している言葉だからだ。立毛筋が収縮して体毛が立ち、皮膚にぶつぶつができるのが「鳥肌が立つ」だから、本人がもしそうなったのであればそれが何に対してであれ正しい使い方なのだ。「この料理はおいしすぎて鳥肌が立ちました」というのも、本当に立毛筋が収縮したのなら正しい使い方である。
 これ以上わかりやすい説明はない。まったく、その通りである。筋が通っている。「鳥肌が立つ」を慣用句としてではなく実際の現象として捉え、「だって本当に鳥肌立ったんだもん」と開き直ることを妨げる理由はなさそうだ。本当に鳥肌が立っているのなら。(それは本人にしかわからない問題だ。)
 この理由から僕も、「鳥肌が立つ」を誤用している人に対して「それ誤用だからやめれ」とは言わない。ただ好き嫌いで言うなら、「相応しい使い方ではない」とくらいは主張したい。なぜか。言葉はものごとを分節し、定義するものだと考えるからだ。すでに設けられた分節をわざわざ取り払って定義し直すなんてのはまったく無駄だし、語彙の豊かさも失われてしまう。良いことは何もない。
 
 どこからが犬でどこからがキツネかと問われれば、犬と呼ばれるものが犬でキツネと呼ばれるものがキツネであるとしか言えない。ゴールデンレトリバーとブルドックとプードルが等しく犬と呼ばれるのは何故かといえば、それはそれらが犬と呼ばれているからだと答えざるを得ない。
 「鳥肌が立つ」は寒いときや怖いときや不快なときなどに起こる現象(というふうに、言葉で定義されているし、実際そうだと思う)であって、いわゆる「感動した」という状況にみられるものではない。「鳥肌が立つ」という言葉は、“絶対にそういう状況しか指し示さない”。比喩的な用法を除いて犬が犬以外を示し得ないのと同じ。「感動した」という意味で「鳥肌が立つ」という言葉を使う人は、大きな勘違いをしている。僕はその人に言いたい。「あなたは感動しているのではなく、寒さか怖さか不快さなどの理由によって、ちょっぴり“興奮”しているだけなのですよ」

 つまり“僕の考えでは”、言葉は感情に優先する。感情が言葉に優先すると思っていると、「鳥肌が立つ」などの言葉を誤用しやすいと思う。(どっちが正しいとかではない、好き嫌いの問題)←このへんの下りは暇な人には考えてもらって、興味のない方は読み流しちゃってください
 さっき「鳥肌が立つ」の一種の言い換えとして「興奮」という言葉を使ったが、「畏敬」とか「ぞくぞく」という言葉も近いかもしれない。好きなバンドの演奏を聴いて「鳥肌が立った」とか言う人はかなり多いと思うが、仮に実際「鳥肌が立った」として、なぜそうなったのかというと「感動して」ではなく「畏敬して/ぞくぞくして」と言ったほうがより妥当だろう。これらはふつう「畏れ/ある種の恐怖」という意味を伴う。好きなバンドの演奏になんか得体の知れない神のようなパワーを感じたわけだ、ろう、たぶん。少なくとも「お涙ちょうだいのドラマを見て感動した」ときや「すてきなプレゼントをもらって感動した」ときの「感動」とは意味が異なるはず。
 “僕の考えでは”、言葉はものごとを分節するものなので、ちゃんと区別してもらいたい。「感動した」「すごい」「やばい」「鳥肌が立った」などの言葉を一緒くたに同じ意味として使うのは、まったくもって“相応しくない”。「鳥肌が立った」には「鳥肌が立った」なりのフィールドがある。個人の都合で勝手に歪めないでいただきたいことであるよ。相応しい言葉を相応しい状況で使えないのは、語彙が貧弱であることを露呈させているだけなのだー。

 この辺のことを自覚して、的確に「鳥肌が立つ」という言葉を使っている人はいい。「怖くて寒気がした」という意味合いで、「昨日の演奏は神懸かり的で、ライブがなんか宗教の集まりみたいで、鳥肌が立った」などと言うのはなかなか正しい使い方だと思う。あまり好きじゃないけど。昨日の荘厳たる礼拝で隣にいたかわいい女の子が「鳥肌が立った」と言っていたわけだけど、彼女は恐らく宗教的な「畏敬」を感じたのだと思う。これも割と真っ当な使い方かもしれない。好きじゃないけど。
 ただ、「昨日食べたケーキが美味しくて鳥肌が立った」とかいう言い方にはどうしても疑問を感じる。怖いくらいおいしいケーキだったのだろうか。漫画や映画に対して鳥肌が立ったと言うのもよくわからない。立ったとしたら、それは「恐怖」とか「不快」とかによって立っているはずで、単に「素晴らしい映画だから」「あまりに映像が美しくて」鳥肌が立ったと思うのは、思いこみ。もしや「美しい」と「怖い」は紙一重だってことを前提としているのかしら。あるいはあまりに美しいものには神のパワーを感じる、とか。そういう。
 ちなみに僕は素晴らしい作品に出逢うと「うおおおおおー」って心の中で叫んだりしてとても興奮するけど、べつに鳥肌は立たない。鳥肌が立つのって、夜中にトイレ行く時とかだなあ。

 ほんとに、僕は「感動した」と思った時に実際に鳥肌が立った覚えがない。「鳥肌が立った」とか言っている人を見るにつけ、「お前は本当に鳥肌が立ったのかと問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。お前、鳥肌が立ったって言いたいだけちゃうんかと。」とか思う。「鳥肌が立った時と似ている感覚」になら何度も立ち会ったことがあるが、その感覚は寒さや怖さや不快さによって立つ「鳥肌」とは似て非なるものだと思っている。もしかしたら僕はすっかり言葉に支配されていて、「鳥肌が立つ」という言葉の領域外にある状態を「鳥肌が立っている」とは認めていないだけなのかもしれない。
 あるいは僕の感受性が貧しいということなんかね?

 もうちょっと実際的なことを言うと、従来の意味・用法では「鳥肌が立った」とだけ言えば発話者がどういう心情でいるのか文脈を鑑みなくてもおおかたわかる。ポジティブな心情でいるのかネガティブな心情でいるのか判断しづらくなるような「語の定義の改悪」はすべきでない。日本語は僕のいちばん好きな言語なので、できれば大切にしてあげたいものだが、これ以上「便利語」が増えると日本人の語彙はますます貧困を極める。そうなると民度も下がる。一億総ゆとり現象が起きる。日本は僕のいちばん好きな国なので、できれば大切にしてあげたいものだ…。

 しかし僕は「我が国」という言葉が死ぬほど嫌いです。
 この件も長くなるからまたいつか。

■ヤバイ筋から狙われてるんよオイラ 2007/12/24

 2chから無断リンクktkr
 
 立教大学のクリスマス・イブ礼拝に行ってきましたよ。
 聖歌を歌うと気持ちいい。
 様式美。
 なんちゃってクリスチャンになりたいと思った。
 来年もどっかの礼拝に行けたらいいな。
 
 聖夜ということで鶏肉ばかり喰っている
 ミリーマートがでっかい骨付き肉を100円で売ってて
 神様と僕は思った。
 
 特に宗教的なこだわりがない人は
 明日、どこでもいいから教会にでも行って
 礼拝に参加してくるといいと思います。
 主とイエスに感謝を捧げるために。
 楽しいクリスマスをどうもありがとうと。
 って、やべ。明石家サンタ忘れてた、死にたい。
 八木さんのファンですー

■完全無欠のエビチャーハン(作って 作って) 2007/12/23

 2ちゃんねる小沢スレに、19日の僕の日記(の一部)が無断で貼られていた。未だにここを見てくださっている人がいるのかな、検索ではなさそうだし。なんにせよお疲れ様です。僕も僕で、何チェックしてんだよって感じだけど。いや楽しいのでよく読んでます。自演ではないかと言われそうだがこの時間僕はNEETさんと一緒にネットラジオやっていたのでアリバイ成立。
 そういう状況を宮崎哲弥は「他人の考えを自分の知能程度に合わせて刈り込」むと表現した。現在、小沢健二さんのことをネット上で批判的に書いている人のほとんどは、これと同じことをしているように「僕には」思える。彼らは彼らの知能程度に合わせて小沢健二さんの考えや行動などを「刈り込」んで単純化し、自分を納得させ安心させるためだけに批判を展開したり、戸惑いを顕わにしたりしているようにさえ思う。もちろん慎重に考えれば、僕が「彼ら」の考えを僕の知能程度に合わせて「刈り込」んでいるとも言えるので、「お前らバーカ」と断じてしまうことはできない。もうちょっと考えを深めてみなければいけない。
 この部分なのだが、書き込んだ人は「もちろん慎重に考えれば」以下の譲歩部分を削ってしまっているのでとても偉そうな印象になっている。引用の仕方っていうのも重要だなあ。それでもなぜかスレの人々が割と反応しているのは、なんとなく嬉しい。


 『おくのほそ道』暗記プロジェクトが進行中。
 有名な句が詠み込まれている箇所くらいは憶えておきたいものだ。
 藤子・F・不二雄の短篇『山寺グラフィティ』には立石寺が舞台として登場し、『おくのほそ道』から「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」を含んだ文章が引用されている。それを読んで実際に山形県の山寺まで行ってきた経験があるが、あの山寺をあんなにも的確に表現した芭蕉は天才。文章巧すぎ。「立石寺」はその頃に憶えて、今でも全文暗記している。名文なので覚え甲斐もあるというもの。
 岩に巌を重ねて山とし、松柏年旧り、土石老いて苔滑らかに、岩上の院々扉を閉ぢて物の音聞こえず。岸を巡り、岩を這いて、仏閣を拝し、佳景寂寞として心澄みゆくのみ覚ゆ。
 すげー気持ちいい。


 22日は豆乳鍋。ドイツの白ビールとかオーストラリアのCASCADEというビール飲みながら。深夜は男3人で朝まで縦シューティング。『達人』というソフトをプレイしたのだが、これが極悪。一週(200面まであった)だけして即爆睡。3人がかりで5~6時間かかった。いったんやってみてください。

 久しぶりに『練馬大根ブラザーズ』を見たがやはり名作。練馬最高。
 松本彩乃の歌声に殺されたい。


 祝日なのにどの家も日章旗を掲げていないが、都営バスは日の丸引っさげて運行していた。ばたばたと冬の空気に翻弄されつつ国の象徴を一身に背負って風を切る姿に感動すら。中野ブロードウェイを練り歩いて様々の店で様々のものを買い、それらを組み合わせてオリジナルの宝石箱を創る。詳細は秘密。まんだらけ、明屋書店、各地のブックオフなどを巡り歩いてこれが最後と言わんばかりに消費。かまやつひろしのアルバム。夜は朝までラジオなど。


帰ってきたウーチャカ大放送
イブイブも零時すぎればイブの夜スペシャル
12/24 0:00~
http://219.17.92.26:8000/listen.pls

毎年恒例、イブイブの夜からイブの夜にかけてはウーチャカ大放送から流れるクリスマスソングでしんみりしましょう。
チャット

特に何をするでもないです。
笑い飯とポイズン見逃して死にたい
あとは期待してない

■「作者は常に既に書き込まれている」 2007/12/21

   
 
 業田良家『自虐の詩』。
 これを「面白くない」と言う人は(少なくとも僕の周りには)いないであろう、と思う。ただそれが「泣けるか否か」という問題になれば、ことはそう単純ではない。
 「BS漫画夜話」で『自虐の詩』が取り上げられたことがあったが、出演者たちがひたすら「泣ける泣ける」とべた褒めし続ける異様な回だった。それでもなんとかある程度の客観性を持ちながら分析していていたが、「このシーンで泣けないのは人間じゃない」と言う場面もあった。その中で岡田斗司夫だけは至ってクールに、鋭く問題提起していた。

 「泣けることが正しくて、泣けないのはこれがわかんないことだというふうに…、絶対そういうことはないですよ」「なんだかんだ言ってここにいる人は幸せだから泣けるんですよ」「泣ける漫画だから良い漫画だっていうふうにはあんまり思ってほしくない」

 「幸せだから泣ける」「他人事だから泣ける」というのはとてもよくわかる。だいたい流行りの感動ものっていうのは、他人の不幸を蚊帳の外から見つめさせる形式のものが多い。(それは一種のノスタルジーのようなものだ。誰だって過去に不幸を背負っている。)
 『自虐の詩』は間違いなく漫画史に残る傑作だけど、それは「泣けるから」ではない。『自虐の詩』が偉大なのは…これは色々な言い方があるんだけど、一つの例として僕なりに言うと「幸や不幸を超越した生命の普遍的な価値について、4コマという形式を徹底的に守り抜きながら描き切った」こと。「人間の絆を理屈抜きで描いた」とかでもいい。
 この作品は決して「幸せや不幸せというのは客観的判断によるものでなく、主観的に決められるものである」ということだけを伝えているのではなく、その先にある「生きていることはそれだけで価値である」という境地にまで達しようとしている。(このへんは前掲の宮崎哲弥『新世紀の美徳』が面白い。)
 もちろんこれを読んで泣く人は「かわいそお。うるうる」で泣くのではなくて、幸せについてとか、絆についてとか、愛についてとかを考えて、感じて泣く(と思う)。でもそれらで泣けるのは結局いわゆる不幸というものをノスタルジーとして消化(昇華)できている人に限られるような気もする。そのような心境を未だ得られない僕は、これを読んで『火の鳥』などの手塚治虫作品を思い出した。『自虐の詩』には「生命」を感じる。

 別に不幸気取っているわけでも、実際にさほど(客観的に)不幸なわけでもないが、『自虐の詩』っていう作品はしゃれにならん。しゃれにならんくて心が痛む。だから素直に泣くことはできない。だが、どこか勇気も与えられる。主観的な幸福も男女の絆も女の友情も人間愛も新たな生命も大きな「希望」である。そうだ、これは生命と希望を描いた現代の聖書である! うーむ。うん。そんな感じなので、いっぺん読んでみるといいあるさんすー。

■くちやし 2007/12/19



 ようやく読了。ホントに僕は本を読むのが遅い。他の本の「つまみ読み」をしまくっているせいもあるのだが、それにしても。こんなんじゃちょっと忙しくなるだけでまったく読書が進まなくなるぞ。
 そうそう、そうなんですよ。年明けから死ぬくらい忙しくなるようなのですよ。だからこのサイトもたぶん、今以上に更新頻度が下がるであろうと思われます。でも絶対に、死ぬまでやめるつもりはないので、見捨てないでいてくださると嬉しいです。当面は10周年を目指してゆったりといきます。

 宮崎哲弥の『新世紀の美徳 ヴァーチャス・リアリティ』は、およそ1998年から2000年春くらいまでの時評を集めた本で、ちょうど僕が中学2年から3年にかけての時期だから、話題のどれもがやたら懐かしい。そういう意味で非常に取っつきやすく、かなり楽しんで読めた。
 世間的には『戦争論』が出た直後にあたるため、小林よしのりとの「人の死はすべて犬死にである(宮崎)」という言を巡った論争の様子が詳しく分かる。その中で特に「他人の考えを自分の知能程度に合わせて刈り込まないこと。(P92)」という記述が印象的だった。ネット上などで「議論」めいたことをしていると、必ずと言っていいほどこれが起きる。相手が僕を「刈り込」んできたこともあれば、僕のほうが相手を「刈り込」んでしまったことも多々あっただろう。反省。

 ところで、思い出したこと。
 僕はもう、それこそ小学校低学年くらいから、「教員、兄たち、クラスメイトなどの知能程度によって自らの考えを刈り込まれる」という苦い体験を数え切れないほどしてきた。自分が早熟であったとか言いたいのではなく、子どもというのは常にそのように扱われる。

 例えばこんなことがあった。小学校でまだわり算を習ったか習わないかという時分に、僕はあるクラスメイトから難題をふっかけられた。「5わる2はいくつだ?」4わる2が2であることくらいは知っていた(であろう)彼も、おそらくこの問題の答えは知らず、「答えられまい、いや、答えなどないのだ!」とか思って言ったのだろう。僕はこう答えた。「2.5だ」するとそいつは動揺して、周りの子どもたちに片っ端から問いかけ始めた。「おい、5わる2っていくつだ?」当然みんな答えられない。そこで塾に通っている秀才の某くんに助けを求めた。「某くん、5わる2っていくつだい」某くんは答えた。「2あまり1さ」
 「某くんは塾に通っていて頭がいい」という常識がクラス内にあったので、僕は糾弾された。「おい、某くんは違う答えを言ってるぞ」「うそつき」「某くんのほうが正しいに決まってる」「2.5なんて数字はないだろ、常識的に考えて…」など、ひどい言われようだった。彼らは小数点の存在など知らなかったのだ。某くんは小数点の存在を知ってか知らずか、僕のことを可哀想な目で見つめていた。
 僕は当時算数大好きっ子だったので小数点を使った簡単な計算は知っていた。というか、その頃の僕は「わる2のエキスパート」だったのだ。1をどんどん2で割っていって、0.5、0.25、0.125…とノートいっぱいに書き出し、出てくる数字の規則性を割り出そうという(当時の自分的には知的な)遊びに凝っていたのだ。だから5わる2と言われればつまり0.5わる2と同じ計算をすればいいということぐらいわかる。あと「かける2のエキスパート」でもあった。2に次々と2をかけて、4、8、16…と暗誦するのが(当時の自分的には高尚な)趣味だった。
 まぁ言ってしまえば当時算数に関しては他のクラスメイトとは、おそらく某くんとも一線を画す力を持っていた僕も、見事彼らに「刈り込」まれてしまったわけである。某くんという権威によって正当性を失墜させられてしまったのである。

 似たような話で、教員からは「まさかこんな子どもがそんな複雑なことを考えるわけがない」という理由で誤解されたり叱られたり無視されたりしたし、兄たちからは「まさかこいつがそんな複雑なこと考えるわけがない」という理由で馬鹿にされた。別に僕が早熟だったとか頭が良かったとか言うのではなくて、子どもとは常にそういう風にしか見られない。さとうまきこの『私の秘密の花園』や、山田詠美の『眠れる分度器』(『ぼくは勉強ができない』所収)は、そういう子どもが主人公である。僕はかつてそれらを読んでいたく共感したものだ。

 そういう状況を宮崎哲弥は「他人の考えを自分の知能程度に合わせて刈り込」むと表現した。現在、小沢健二さんのことをネット上で批判的に書いている人のほとんどは、これと同じことをしているように「僕には」思える。彼らは彼らの知能程度に合わせて小沢健二さんの考えや行動などを「刈り込」んで単純化し、自分を納得させ安心させるためだけに批判を展開したり、戸惑いを顕わにしたりしているようにさえ思う。もちろん慎重に考えれば、僕が「彼ら」の考えを僕の知能程度に合わせて「刈り込」んでいるとも言えるので、「お前らバーカ」と断じてしまうことはできない。もうちょっと考えを深めてみなければいけない。

 宮崎哲弥の主張は常に明解だ。彼は何も複雑なことをしておらず、「自らの主義主張から出発した論理的な正しさ」に照らし合わせて批評しているのみ。その姿勢と巧緻な論理性には感服するし、「主義主張」についても僕はかなり宮崎哲弥の立場に近い(むろん異なる部分もある)。色々読んでみよう。

 なんつーか、「たかじんのそこまで言って委員会」に出てるときの宮崎哲弥があまりにも可愛いから、最近気にしてみてるっていうだけなんだけどね。政治や社会をテーマにしてるわりには、すっごい家族的な?あったかい番組づくりで好感が持てるよ、ホント。さすが大阪。がんばれ読売テレビ。

■夜麻みゆき先生、復活! 2007/12/18

 

 もう死んでもいい…。
 2008年1月18日発売の「Gファンタジー」から新連載。
 『トリフィルファンタジア』という「ショートストーリー連載」だそうだ。

 やはり『刻の大地』の続きを…というのが正直なところだけど、
 描いてくれるだけでいい! だって五年も待ったんだから。
 ゆっくりと、自分のペースで描いてください。

 夜麻先生、本当にありがとうございます。
 今の僕があるのはあなたのおかげです。
 ことに中学の頃はお世話になりました。
 『刻の大地』第2巻のサイン会で緊張し過ぎて、サイン本をその場に忘れて帰りそうになったこともいい想い出です。もちろん家宝として取ってあります。
 
 大袈裟じゃなく、夜麻みゆき作品が僕に与えた影響というのは大きい。たとえば僕に「善と悪」について考えるきっかけを最初に与えてくれたのは、ガンダムでもザンボット3でもなかった。『刻の大地』の主人公、十六夜の生き方・考え方は僕の人格形成に大きく関わっている。もちろん、カイもジェンドもウリックもシオンも。(未読の方はぜひ。)
 
 この報せを聞いたときは渋谷にいたんだけど、恥ずかしいことに街中で涙ぐんでしまった。知り合いと一緒じゃなくて良かった。すぐに書店に走ってGファンタジーを開き、次号予告を確認。なんと予告に見開き2ページが割かれていた。店を出て、高校の時一緒に夜麻みゆき作品について語り合っていた女の子に電話。…出ない。なんで出ないんだよこんな時に! 気がはやった。できるだけ早く、肉声でこのことを伝えたい。少なくとも僕にとっては、夜麻みゆき先生はそういう存在だった。
 
 ああ、今日は久しぶりに『刻の大地』を読むか! 実はこの数年間ほど、怖くて怖くて読み返すことができなかった。死んでしまった恋人の手紙を読み返すような勇気は僕にはなかったのだ。だけど夜麻先生は帰ってきた、もしもこのまま『刻の大地』の続きが描かれなかったとしても、いい。もう大丈夫。生きている恋人の手紙を、一通ばかり紛失してしまっただけのことなのだ。

■楠美津香のひとりシェイクスピア『超訳 リア王』 2007/12/16

 完全に放送コードに引っかかる。一般的な流通じゃDVD化も難しいかも。でもとても面白かった。個人的には先月見た『オセロー』のほうが好きだけど、アブなさではこっちのほうが上。エドガーがきちがいのフリをし続ける場面とか、リア王の精神が崩壊していく様とか、道化の必死さとか、奇天烈すぎてむしろ怖い。もともとの演技レベルが高いので、見せる場面はきちんと魅せる。「格調を排除」というのが売り文句であるが、格調を排してこそシェイクスピアの台詞はより魅力を持つのかもしれないと思った。格調というヨロイを脱ぎ捨てて裸同然になった「至高の名台詞」たちはストレートに心に届く。
 無形文化財か人間国宝に指定しても良いくらい素晴らしい芸なので、もっと沢山の人に見て貰いたい。特に自分の友達とかに。ってわけで友達三人引き連れていったけど、みんな気に入ったみたいで、ってか激しく感動してもらえたようで良かった。こういう感性を共有できる友達っていうのは本当に素晴らしい。
 終演後、美津香さんに美津香日みかんをプレゼント。めしあがっていただけたかしら。


 その後、二駅歩いてとあるイベントへ。打ち上げにものこのこと。色々と貴重な話を聞けたし、知り合いも増えて楽しかった! 武蔵小杉泊。

■偶然という神様 2007/12/15

 『藤子・F・不二雄の異説クラブ』という本は、「科学で完全に否定されていないならば、“ありうる”」というスタンスで書かれている。僕も「異説クラブ」の一員として、その考え方に強く賛成したい。昨日紹介した『2112年9月3日、ドラえもんは本当に誕生する!』という本は、いろいろと批判をしたけれども、『異説クラブ』と同じスタンスで書かれているという点で僕は好きだ(一度著者に会って、いろいろとお話ししたいものだ。ファンレターでも書くか)。

 僕が信じたいと思っている「異説」に、「偶然という神様」がある。神様はいて、偶然としてそれは現れるというものだ。つまり、腹を減らしてたら空からお肉が降って来て、「アッラーの神のお恵みだ」とか思う、そういう精神。これについて「偶然という神様」という呼び方をしている人がいるかどうかは知らないが、とりあえずそう呼んでおこう。

 ここで話は妙な方向に行くのだが、僕の場合、この神様は読書中に現れることが多い。あるいはインターネットで何か文章を読んでいる時など。いちいちメモを取っていないのでほとんど忘れてしまっているが、昨日今日降りてきた神様について一つ二つ、憶えていることを。

 13日はhideの誕生日で、僕は一日中彼のことを考えて過ごした。ネットコスプレ(造語)をしたり、CDやDVDを垂れ流した。それで昨日、何となく手にした宮崎哲弥の本に、hideの死について書かれてあって、びっくりした。その本を買ったのは確か11日か12日のことで、「hideが呼んでいた」としか思えない。

 で、その宮崎哲弥の本にはプライベート・ライアンの最初の25分間がいかに凄まじいか、ということが書かれていた。ふーん、観てみようかな。と思っていたら、友達のブログにニコニコ動画にアップされたプライベート・ライアンの最初の25分間のURLが貼られていた。これがシンクロニシティというやつか!

 また、ぶらぶらとインターネットを観ていたら、12日の夜にお会いした人のブログを偶然発見した。それから偶然覗いた赤の他人のブログに、「とあるイベントでこんな発言をした」と書かれていたのだが、その発言は僕が先日友達から「とあるイベントでこんな発言をした人がいた」と聞かされた「発言」そのものだったのだ。うーむ。偶然ってすごい。

 今日、夜に名古屋から所用で友達がやってくる。偶然にも明日、楠美津香さんのひとり芝居がある。その友達も楠美津香の出ていた名古屋の「ウガッタ」というコント番組のファンだったから、ちょうどいい、行こう。ということになった。これも偶然。

 そういう偶然には神様が宿っているのである。

 ただし僕は基本的にいわゆる「科学」を信じているようだ。「科学で証明(否定)できないこと」の中には、霊魂だとかあの世だとか超能力だとか色々あると思うが、どれも信じていないようだ。「ようだ」というのがミソで、信じているような気がしていても、心のどこかで「いや、それは」とブレーキがかかる。そういう時代に育ってしまったのだ。だからこそ幼少時、必死で超能力を会得しようと努力したり、「それ系」の本を読みあさったりしたのかもしれない。信じることができないからこそ、憧れたのかもしれない。心の底では「んなもん、ねーよ」と思いながら。
 ただ、「ありえない」と断ずることもできない。どれも「あるかもしれない」。

 「謙虚さ」ということについてここ数年間暇なときぼんやりと考えているのだが、信じていないことを「ありえない」と断ずるのは余りにも謙虚さがない。「僕は信じてないけど、ありえないとも言い切れない」という態度が、「異説クラブ」の一員としては適切なのではなかろうか、と思う。
 ちなみにそんな僕でも、夜中に台所とかで妙な物音がするとやっぱり背筋が凍る。「ドロボウかもしれない」というのもあるが、それだけではない。そういうのを「オバケ」と呼ぶのなら、オバケはいる。それから、これはよく言うんだけど、僕がもし「ある女の子」と手と手を合わせたら、僕らは輝いて宙に浮くだろうと思う。僕はその「ある女の子」と手を合わせたことがないので、未だにこの考えは否定できない。

 あとこれもよく言う話なんだけど、幼いころ、「モグラが人の言葉を喋ることってあるの?」と長兄に問いただしたことがある。長兄は笑って「んなもんあるわけないだろ」と言ったあと、少し考えて「どこかに書いてあったのか?」とたずねた。それで僕は「岡田淳さんの本に書いてあったんだ」と答えた。すると彼は「ああ、そんなら、あるかもしれないな」と、にやりと笑った。

■密には柳葉魚 2007/12/14

     

 『不思議の国の論理学』を読了し(精読すると時間がかかる本だった)「あと○○ページ」のところで積んでた新書三冊をようやく消化。
 今は宮崎てっちゃんの『新世紀の美徳』を読んでいる。感想とかはまた後で。


 『2112年9月3日、ドラえもんは本当に誕生する!』桜井進 ソフトバンク新書
 ドラえもん柄の帯に引かれて新品で買ってしまった。案の定ブックオフ等で見かける本書には帯がない。ホクホク。
 浪人時代にドラえもんを読みまくっていたという筆者のドラえもんに対する愛や情熱が伝わってきて好感が持てる。科学技術に対する誠実で真摯な態度も好きだ。思想的にもかなり僕と合っている気がする。さすが藤子ファンだ。
 だがそれだけに、100ページくらいでまとめられそうな全体の内容の薄さ(ソフトバンク新書なんて所詮こんなもんか、とさえ思わされた)や、校正の甘さ(ソフトバンク新書なんてry)、そして読解の著しく困難な文章(要するに下手ということ。これは編集のせいでもある)が幾らか見られることなどが残念。引用箇所に出典を明示していない場合も見られ、特に以下に示す箇所(180P)はひどい。
 「『ドラえもん』の中では、乗ってきたタイムマシンが壊れてしまい、何度もピンチに陥る場面が登場します。」という非常に意味の取りづらい文章のあと、「そのときにドラえもんは、「やっぱり、タイムマシンは発明しないでおこうね」というセリフで結んでいます。」とある。文章がひどいのには目をつぶるにしても(だけど僕の中で、理数系の人の文章力に対する懐疑が少なからず生まれた!)、ドラえもんがそのセリフを言った場面が明示されていないのが気にかかる。僕の記憶ではドラえもんはそんなこと言っていないからだ。だいたいドラえもんがタイムマシンを発明したわけでもないのに、「発明しないでおこうね」などと言うとは考えにくい。何らかの事情でそう発言した場面があったのなら、その背景を説明してくれないと意味がわからないではないか。「おこうね」って、誰に言ってるんだ。謎すぎる。
 「ぼくたち大人になってもタイムマシンだけは発明しないでおこうな」というセリフなら、実は藤子・F・不二雄のSF短篇『タイムマシンを作ろう』の中に登場する(オチにあたるセリフなので、あまり書きたくなかったのだが…)。もしかしたら筆者は、『ドラえもん』とこの作品とを混同しているのかも知れない。他の箇所ではせりふなどの出典が明示されている場合が多いのに、ここだけ出典がないということは、あいまいな記憶を頼りに書いてしまっている可能性もある。ソフトバンク新書なんてこんなもんか…。
 筆者の「ドラえもんが好き」という想いはよくわかるし、思想も共感できるのだが、肝心なところで詰めが甘いのが残念だ。ゲラ読みや校正がろくに行われていないとしか思えない。数学や物理学に関する本書のキモとなる部分でさえ、アインシュタインに偏りすぎの感はあるし、説明が少ないので説得力に欠ける(ソフトバンク新書はこれだから…)。
 ソフトバンク新書は高田純次の『適当論』とかも出してくれてるし、志は面白いと思うのでもうちょっと頑張ってもらいたい。


 『ビジネスマンのための新・教養講座』宮崎哲弥 洋泉社新書y
 僕が買ったときはAmazon最安値3500円くらいだったが、今はだいぶ下がってきているプチプレミア新書。読んでみて納得、これは見事に賞味期限が切れている。構成や内容も「教養講座」と言うには不親切すぎる。せいぜい「ある種のビジネスマンにとって大いに参考になる話題が含まれる本」くらいにしておいてほしかった。僕がビジネスや経済について深い理解を持っていないせいもあるのだが、正直言ってさほど面白くはなかった。この手の話題って古くなるととことん使えなくなるから、一般ビジネスマンにとってはもう「用無し」の品だろう。品切れになっている理由がよくわかる。ビジネス・経済の専門家か、宮崎てっちゃんのファンでなければ今あえてこの本を買う人もいないと思う。タイトルとネームバリューに引かれて買ってしまう人はいそうだが。
 でも別にどうしようもないほどつまらんというわけでもないので、暇つぶしにはなるかもわかりません。面白い箇所もけっこうあったし。
 個人的に最も印象深かったのはあとがきにある一節。

 以下は私見である。また取り敢えずの仮説である。
 経済学に「正しい立場」などは存在しない。経済学は厳密な科学ではなく、前提となる価値判断によって、推論過程や結論がどのようにも変わる、精緻なイデオロギー体系である。少なくとも現状ではそうとしかいいようがない。

 
 
 『ウェブ時代をゆく』梅田望夫 ちくま新書
 前作『ウェブ進化論』はまだ読んでいないのだが、本書だけ読んでも面白かった。インターネットは現代社会に不可避的に存在しており、その進化を無視することはできない。だから 「ウェブ進化」を否定的に捉えるメリットは何もない。ということが前提にあって、「ではどのようにインターネットと付き合っていくか」という問題に向き合っている。
 梅田さんの本が売れているのって、梅田さんが「あまりにも時代に先んじ過ぎている」からだと思う。電車の中でインターネットなんて触ったこともないような顔をした団塊世代とおぼしきおじさんが本書を読んでいるのを見たことがあるが、そういう層に売れるのって、「誰も知らない時代の最先端をやさしく説明してくれている」という期待に応える本だからだと思う。つまり、多くの人の知的好奇心を刺激する。ただ正直言って、「先んじ過ぎている」ゆえに、(特にITやクリエイティブ系の)ビジネスの現場にいる人や、または「これからネットで金を稼ごう、飯を喰おう」と考えている人には非常に「実用的」なのだが、そうでなければ「参考にしかならない」かもしれない。たぶん多くの読者が、「ふーん、ウェブってすごいなあ」「ウェブにはこういう側面があるんだ」くらいでストップして、実際に自分の生活(リアル、ネット双方)をどうこうしようとかは思わない。本当は万人が「実用」すべき内容であるのだが、時代がまだそれに追いついていない。だから梅田さんには、もうちょっとこの手の本を書き続けていてほしいと思う。
 ところでこの本を読んでいる最中に、ひょんな縁から梅田さんとお知り合いになる機会があった。将棋をやっていて良かったと心から思ったのはこれが初めてかもしれない。将棋が僕の人格や思考パターンを形成するのに及ぼした影響はかなり大きいと思うのだが、大人になってから「具体的な役」にはまったく立たない趣味である。将棋で人脈が広がるということもあまり多くない(特に僕の世代では、将棋を指せる人の率がかなり下がってきていると思う)。だからこういう出逢いがあるととても嬉しくなってしまう。あー、将棋指したい。強くないけど。ブランクが10年近くあるけど。と、言い訳しておかなくては。

 今すぐにニコニコ動画に登録して、
 以下の作品を「読む」ことを義務付けます。

 藤子・F・不二雄SF短篇名作集
 『自分会議』
 『ある日・・・』
 『大予言』
 『ノスタル爺』


 特に↑二つがオススメ。
 「わかってる」コマ運びと、ムード盛り上げ楽団並のクォリティを持つBGM。ただ画面に絵を表示するだけでなく、より楽しく読ませるために工夫された秀逸な演出に目を見張る。そして何より、「みんなで漫画を読む」という楽しさを体感できるというニコニコ動画ならではの醍醐味。ニコニコの新たな可能性がここにある!

 漫画を読んでていつも思うのは、「この楽しさを誰かと共有したい!」ということだ。僕はふだん面白い作品と出会ったら、その感動を共有できるであろう友達にすぐ連絡を取り、「○○を読め!」だの「××を買え!」だのと言う。「つまんなかったらオレが金払うから!」とまで言う。好きな作品を誰かと共有したいと思う心が僕は非常に強い。もしそれがアニメとか映画とかだったら家に呼んで一緒に観ることができるが、漫画だと「読め!」とか「買え!」とかしか言えなくて、同じ時間、同じ空間において共有できることはない。
 ところがニコニコ動画は、厳密には「同じ時間」でも「同じ空間」でもないのだが、仮想的にはそれら(僕の願いをかなえるシステム)を実現させているように思える。職人さん本当にありがとう。
 改めて、ニコ動ってすごいなあ。

 あの頃の君の声さえ、今の僕には痛い。

 2007/12/10

   

 僕が読んでいるのは昭和52年に朝日出版社から出た版(右)だが、今手に入るのはちくま学芸文庫版(左)だけのようだ。内容に変わりがないのなら右のほうを中古で買ったほうが安いし装丁がカッコイイと思う。

 この本はルイス・キャロル著、柳瀬尚紀編訳と書いてあるが、実際のところはキャロルと柳瀬尚紀の「共著」のようなものだと言ったほうがいい。柳瀬直樹はこの本で、「キャロルの英語を材料として日本語による言語遊戯を実験している」。実際ひょっとすると、キャロル自身の言葉よりも柳瀬尚紀による言葉のほうが比重が高いかもしれない。翻訳するにしても独自の大胆な意訳(彼は「誤魔化し」とも言っている)に変換しているし、キャロルの遺したパズルやクイズなどを引用しながら独自の発想でそれらを再構成してみたり、新たに詩を作ってみたりとやりたい放題だ。キャロルの芸術を味わいながら、ジョイスやボルヘスをも訳した日本を代表する「物好きな」翻訳家、柳瀬尚紀の魔術的な日本語にどっぷりと漬かることができるこの本はなかなかに良書であると言える。うん。
 以下メモなど

   ●論理のパラドクス

 二人の兄弟が、「カーは店にいるか」という議論をする。

 前提1:店にはカー、アレン、ブラウンの三人の店員がおり、
     三人が同時に外出することはない
 前提2:アレンとブラウンは必ず一緒に行動する
 兄による背理法:
 「カーはいない」と仮定すると
 前提1より「アレンがいない場合、ブラウンがいる」
 前提2より「アレンがいない場合、ブラウンもいない」
 よって矛盾が生じるため、カーは店にいる。
 
 これに対し、「アレンが店にいるなら、カーは外出できる」と弟が言うと
 兄は弟を「非論理」的であると糾弾する。

   ●亀がアキレスに言ったこと

 「2,3歩で到達できそうだが実は無限数の距離から成っていて、それぞれの距離がその前の距離より長い競争路」の話。
 
 状況:命題Aと命題Bが真であるときに(誰が見ても明らかに)真であるような命題Zがあり、アキレスは亀に命題Zが真であることを認めさせなければならない。
 「AとBが真であるならばZは真である」という仮言的命題をCとしたとき、Zが真であると証明するためにはCが真であることを証明しなくてはならない。が、仮にCが真であることが証明されたとしても「AとBとCが真であるならばZは真である」という仮言的命題Dも証明しなくてはいけなくなる。これを永遠に繰り返していくと、アキレスはいつまで経っても亀に追いつけない。

   ●ふたつの時計

 この時計の話を最初に考えたのは誰なんだろう。うる星やつらのアニメにも出てきたな。
 一度論理の迷宮に入ってしまうと、「その論理にこだわり続ける限り」絶対に出てくることができない。「あ、迷ったな」と思ったら思い切って迷宮から脱出し、違う入口を探すか、あるいは「論理」なんかにはひとまず見切りを付けてみるのがいいんじゃないかしらね。

   ●一日はいつ始まるか?

 お日様と一緒に走り続けたらずっと昼間だけど、いつ日付が変わるんだろうという素朴な疑問。いったいどの瞬間に変わるのか。そういう線がどこかにあって、その両側に人が住んでいたらどんな問題が起きるのか。『線上の街』というタイトルで小説にしてみよう。

   ●風変わりな授業

 人生とは伝言ゲームである
 
    
 2007/12/09

 社畜への第一歩を踏み出した僕に幸あれ。
 まぁ基本的にこのサイトはフィクションなわけだが。
 (そこを忘れてしまってはいけない)

 奥井亜紀と岡崎律子の曲をすべてプレイリストにぶち込んでシャッフル。
 一晩中やってるけど飽きない。
 
 

 来年のスケジュール帳として「歴史手帳」を買った。
 吉川弘文館から出ているやつ、840円。
 「日記と歴史百科が一冊で便利!」という文句にひかれてつい。
 真ん中に「発行図書目録」という名の広告が16ページも差し挟まれているのが気にくわないが、それ以外はほぼ満足。ちょっと気持ち悪いほどの情報量が詰まっている。
 
 〈付録内容〉世界史重要年表・年代表・年号索引・日本歴代表・世界主要国為政者歴代表・近世の交通路(宿駅、港津一覧)・人名、地名対照表・官位相当表・官制表・四等官・武家職制表・時刻表・中国歴代度量衡表・歴史上の度量衡および江戸幕府の貨幣・文化史便覧(文化施設一覧・仏像、建築部分の名称・国宝、史跡、名勝一覧・文化勲章受章者一覧・変体がなのいろいろ) 他
 ※日記欄に、便利な全国各地の「お祭り」「年中行事」などを付載する。
                                (公式HPより)

 ちょっとクラクラしてしまいそうなほどだ。付録だけで160ページ。上記以外だと日本地図や世界地図なんかも入っている。これで厚さ約1cm、文庫本よりも小さいサイズに収まっているというのが信じられない。山川出版社の歴史手帳はもっと小さいが、情報の濃度が違いすぎて買う気になれなかった。
 吉川の歴史手帳は本当にキチガイ。まず「年代表」というやつ。これは西暦年号を基準に日本と中国の各王朝の変遷を列挙したものだが、干支、天皇・皇帝とその元号、現代からの逆算年数が記されている。まぁここまでは歴史手帳には必須の項目だろうが、その後に「年号索引」というのがあって、あいうえお順で日中の元号が検索できる無駄に便利すぎる仕様。その次の「日本歴代表」というのが凄まじくて、天皇・将軍・総理大臣あたりだけかと思いきや、院政、摂政・関白、執権、執事・管領、江戸幕府の大老・老中・京都所司代なども載っている。こんなもん普通の人は一生に一度調べるか調べないか…いや調べないよな。マニア向けの手帳だということがよくわかる。その他官制表や官位相当表など、有職故実についても充実。
 中でもいちばん痺れたのは、「世界主要国為政者歴代表」。ローマ教皇、ローマ皇帝に始まり主要国の王・元首・大統領などが事細かく列挙されているわけだが、それらが全て(中国・朝鮮を除く)アルファベットで書かれているというのが凄い。カタカナで書くと発音に主観や思想が入ってしまうのはわかるが、普通の人には読めないだろ…。
 あと変体仮名っていうのも、古文書を読む人と書道をやる人以外は全く利用しないと思う。まったく収録する基準がわからない。
 日記部分には、一週間ごとに1ページを割いて地方の神社のお祭りをも含んだ年中行事が列挙されている。たった一週間のうちににこんなに行事があるとは日本すげえーって気になってくる。まったく役には立たないと思うけど。

 そういうわけで衝動買いしてしまったわけだが、これよりもっとキチガイな歴史手帳ってあるんだろうか。あったら乗り換えてしまいそうだが、どうやらこれが最もメジャーな歴史手帳らしいのできっと最もバランスが取れているということなんだろう。何はともあれオススメでありますよ。
 
 ついでに、最近震えるほど凄いと思った歴史の本を紹介しておこう。
 
 
 
 この『図説歴史散歩事典』は本当にすごい。僕と友人Nはこの本の最初の数十ページを肴に歌舞伎町の地下のバーで一晩語り明かした。手にとってパラパラめくるだけでそのキチガイっぷりがよくわかるほどに情報が濃く、何よりもその図版の多さに感嘆する。430ページの大ボリュームを厚さ2cm以下に抑えているのもすごい。僕はこの筋は素人なのでわからないのだが、おそらく仏教建築を初めとする日本の文化遺産に関する知識はこれ一冊でほぼ網羅できてしまうのではないかと思う。さすが山川出版社、日本史には強い。歴史手帳は日和って一般向け(それでも充分濃い)にしているが、この本はなかなかキチガイじみている。ちなみに受験生のころ、日本史用語集は山川だったけど、世界史用語集は旺文社を使っていた。旺文社のほうが面白いから。山川=日本史という印象。まぁ、騙されたと思ってこの本をどこかで手にとってみてほしいですよ。僕はAmazonの中古で300円+送料出して買いました。でもこれ定価5000円くらいでもいいような気がするぞ、内容的には。
 
 そういうわけでライトな歴史ファンは2008年歴史手帳と図説歴史散歩事典を購入するとなんとなく幸せな気分になれるかと思われます。ヘビーな歴史マニアには「はぁ? そんなもんガキが読むもんだぜ」とか言われるかもしれないけど。



 ネットでお近づきになった某作家さん(名前は伏せたほうがいいのかしら)の自作曲。
 他にも『チマミレア』『家に帰る』などが初音ミク曲としてうpされてます。
 いずれも良い曲ですが、特にこの『アクリル』という曲には素直に感動。
 こういう音が好きなんだよなー。速攻mp3化。
 それを大好きな初音ミクでやられてしまうと、もう。
 本で楽しませてもらって、音でまで楽しませていただけるとは
 ありがとうございます。今後も印税に貢献します。
 
 ラジオで流したくなってきた。再開しようかな。
 『チマミレア』の絶妙なポップ感がテクノポップ育ちにはたまりません。
 なんて書いてたら本人が検索で飛んできてくれたりしないかな。
 「チマミレア」で検索することなんかありえないか。

2007/12/08

 今日はビートルズを「聴きません」。
 パールハーバーってカタカナで書いた時の字面は奇蹟に近い。
 
 真鍋ちえみはすごい。顔は好みじゃないけど。
 
 やってみればどんなことでもそれなりにうまくいくと思うが
 やってみるというハードルが高すぎる
 なんだってそう。
 
 どうしたらあの人が喜ぶか、ということだけをひたすら考えて夜も眠れない
 「あの人」が誰であれば幸せか
 などということを考えていてはやっぱり何もできない。

2007/12/07

 ここで覚悟を決めんくば。

2007/12/06

 何に向いているか、ということではなく、何に向かないか、ということばかり考えて結局何もできないでいる。かなり給料の良い会社に就職(しかも「クリエイティブ」に言葉や文章を書いていく仕事)できそうな感じなのだが、「向かない」ということばかり考えて二の足を踏んでいる。実際のところ今僕は、ほとんど直感によるばかりのこの「向かない」にだけ呪縛され、何もしないままただぼんやりと生きている。今の、そしてこれからの人生をすべて捨てて「仕事」を人生とする生き方へと一歩踏み出し、たゆまぬ努力と勤勉を忘れずに行けば、これまで想像もできなかったほどの「お金」を手にすることができるかもしれないのに。
 この世はお金と年齢だけでできていて、その他には何もない。幸せになるために、また人を幸せにするために必要なのはこの二つだけだ。この世界では、物質を支配しているのはお金で、時間を支配しているのは年齢だ。お金が物質を支配し、年齢が時間を支配している。前者も後者も覆すことは不可能ではない。しかし容易でもない。この二つを得るためのスタンダードなレールの上からいったん脱落してしまったら、それを取り戻すためには「向かない」ということを克服していくか、「向く」ものを血まなこになって探さなくてはならない。「向く」ものなんて、本当は何もなかったのだとしても。

 ここから卑近な話に入る。僕は最近電気グルーヴという、中学生の頃から大好きな音楽を聞き返していて、今日は『DRAGON』という僕が二番目に買った彼らのCDを聴いていて、その最後の2曲、『ブラジルのカウボーイ』と『虹』の約20分間を、目を閉じてじっくりと聴いた。『虹』の11分間を体感することは僕にとって最も愛する時間の使い方だ。『ブラジルのカウボーイ』はその助走。そして僕にはそういう時間の使い方がたくさんある。こうやって意味のない文章を誰にともなく書き流しているのもその一つ。

 しかし、「何もできない」「何にも向かない」僕がそのような時間の使い方を望んではいけない。能力のない人間は馬車馬のように働かなくてはいけない。若いうちは一日に15時間くらい働いて、「時間の年金」を蓄えなければいけない。そんなことはわかっている。能力も財産も徳性もない人間が楽をしようと思ってはいけない。血を吐くような重労働に耐え、社会の言いなりになって暮らして行かねば人並みの幸せは得られない。少なくとも、他人から見て「あの人は幸せだ」と言われるような生活はできない。自分だけが「いいんだオレは、これで幸せなんだから」などと思っても、周りからそう思われていなければ、本当に幸せな気分には浸れない。「オレは幸せだ」と思ってはいても、常に不安がつきまとう。「幸せなんてどうでもいい、オレはそんなこと考えない」と思っていると、そのうちに何も考えられないようになってしまう気がする。それでいいのか、僕にはまだわからない。

 それで行き着く結論はいつだって「死ぬ」ことなのだが、それを書いてしまうようでは「ここ」に何かを書いている意味がない。それを書かないことが、このホームページのテーマなのかもしれない、と今ちょっと思った。
 好きな女の子の目の前で「死にたい」と言ってしまったらお仕舞いだ。それと同じように、公の場で死への志向性を芸術的価値のない言い方で表現してしまったら、もう「何かを書く人」としては最低だ。もちろん、「死にたい」とだけただ書くことが価値を持つことだってあるわけだが…。そしてそれと同様に恋人の前で「死にたい」と言うことが価値を持つ瞬間だってある。タイミングはいつだって難しい。
 
 僕が人並みの幸せを手に入れて、これから築いていく僕の家庭に人並みの幸せを与えるためには、「人並みでない幸せ」を諦めて人並みの幸せのために無私の魂を捧げるしかない。私を捨てて金を儲ける。「人並みでない幸せ」を諦めないのなら、僕は私を力の限り守り抜き、これから築いていく僕の家庭に人並み以下の幸せしか与えられないことを覚悟しなければならない。常識的に考えて、僕が求めるべきものは「人並みの幸せ」である。「人並みでない幸せ」はもちろん「人並み以上の幸せ」などというものではない。「人並み以上の幸せ」を享受できる人の家庭には、当たり前のように「人並み以上の幸せ」が降り注ぐ。かりに「人並みでない幸せ」という、僕が求めてやまない状態を追い求めるのならば、僕の家庭には、「人並みでない幸せ」どころか、「人並み以下の幸せ(もしくは、不幸)」がやってくることは目に見えている。それは僕が「人並みでない幸せ」のうちで最も金銭的に成功した場合においても同じだろう。

 最初のほうに就職の話を書いたが、そこに就職したとて一生そこにいなければならないわけではない(ただそう期待されてはいるが)。また、すぐにクビになる可能性も高い。上の人が僕を「使えない」と判断したら終わりだ。とりあえずやってみたらいい。それなのになぜ躊躇う。なぜ?

 これが「何もできない」「何にも向かない」という性質の究極だ。

2007/12/04

 松山から帰って参りました。
 長い長い? 旅行記はメルマガで送信いたしましたよ。
 まだの方はこの機会にどうぞ。メールフォームから「メルマガくれ」と。
 ものすごい送信頻度が低いけど…。
 
 
2007/12/01

 今日からちょっと松山に行ってきます
 ちなみに今日は藤子・F・不二雄先生の誕生日であり かつ
 僕の大好きな某先輩の誕生日でもあります
 おめでとうございます。

 更新がすっかり
 侍魂並になっておりますが
 なんとなく生きています

■『楠美津香の東京美人百景』 2007/11/20



 ひとりコント「東京美人百景」を活字化し、詳細な注を加えた本。
 本編も注も面白いが、楠美津香の芸風を正しく伝えるものではない。

 率直に言って楠美津香のネタを見たことのない人は読まなくてもいい。永六輔による短い解説文が全てだ、「この本では彼女の芸をうかがい知ることはできない」。永六輔は、楠美津香には「芸人」としての側面と「批評家」としての側面があると見ており、この本では後者の面目は躍如しているものの、前者、すなわち芸人としての楠美津香の魅力は十分に伝わらないものとしている。まったくその通り。この本は楠美津香の「批評眼」を確かめるためのもので、90年代半ばの文明批評として読むのが妥当だろう。ではなぜネタをわざわざ書籍という形にしているのかというと(これも永六輔が簡潔に語っているのだが、僕なりに言えば)、舞台だと「笑うこと」が先行するため、楠美津香の鋭い批評眼、観察眼に気づきにくい。だから野暮と知りながらもあえて活字化に踏み切ったのではなかろうか。舞台でしか伝わらないことと、活字でしか伝わらない(伝わりにくい)ことの両方を楠美津香はやっていて、後者の魅力を十全に知らしめるためには文字の力を借りなければいけなかった。
 と、いうわけなんで、気になる人だけ読めばいいと思います。とりあえず舞台を観に行ったほうがいいと思う。


■『オセロー』W・シェイクスピア/小田島雄志 2007/11/19



 「人種差別もの」の古典。黒人のオセロー(ほとんどの場合ムーアとしか呼ばれない)将軍が部下のイアーゴーにそそのかされて誤解して嫉妬に狂う話。主要登場人物が誰一人幸せにならない(ほとんど死ぬ)、シェイクスピアの「四大悲劇」の一つ。

 単細胞なオセローが頭脳明晰なイアーゴーの巧みな罠にはまり、嫉妬によって人格を崩壊させていくさまは見ていて小気味よいほど。イアーゴーを「忠実な男」と思いこみ、彼の言葉を信じるが余り他の部下や妻のことまで信じられなくなっていく。つまりオセローの人間関係などというのは「イアーゴーの戯言」ごときによって覆されてしまう程度のものばかりで、ここに黒人であるオセローの悲しさがあるような気がする。「忠実」だけを信じ、「愛情」を信じられなかったオセロー。それは差別の裏返しのようなものだったのではないか。
 
 細かいところを語るとキリがないのでとりあえず一言。財布に金を入れとけよ。

■文豪・夏目漱石-そのこころとまなざし- 江戸東京博物館 2007/11/15

 とにかく広い&人が多いでうんざりした。でも面白かった。
 第五高等学校で教えていたというエドマンド・バークの『フランス革命の省察』が蔵書として展示されていた。調べてみると全集にこんな記述が。
 
 「私の前に誰か英語を受け持って居って、私は其後を引受けた。エドマンド・バークの何とか云ふ本でありますが、それは私の嫌な本です。此位解らない本はない。演説でも英吉利人が解るものならば日本人が字引を引いて解らないことはない筈である。が、實際解らない本です。其解らない本を教へた時に丁度速水君が生徒だつたから、偉くない偉くないと云ふ考へが何時までも退かないのかも知れません。それで其後英語も大分教へて年功を積みましたが、速水君に断りますが、その後発達した今日の私の英語の力でも、あのバークの論文は矢張り解らない。嘘だと思ふなら速水君があれを教えて御覧になれば直ぐ分る。――こんな下らない事を言つて時間ばかり経って御迷惑でありましょうが、實は時間を潰す為に、さふいふ事を言ふのであります。大した問題も有りませんから。」(講演「模倣と独立」)

 わかんないのに渋々教えてた漱石先生がかわいい。
 っていうか漱石自身が「嫌な本」と言っていた『フランス革命の省察』を展示するってのは何なんだろう。他にも蔵書はいっぱいあったのに、何故にあえてこの本を選んだのか。朝日新聞も主催者なのに、保守の教典たるこの本を、なぜ…。バークについての主な記述は少なくとも全集にはほぼ引用箇所のみであり、思い入れも特になさそうだから展示すべき理由もないような気がするんだが…選んだのは相当マニアックな漱石ファンか、かなり保守な人だな。

 それから、初出(ホトトギス)の『吾輩は猫である』にはルビが一切振られてなかったのも発見と言えば発見か。総ルビじゃなきゃ読めねえよ、あんなもん! 昔の人ってすごい。

 ほか、僕はミーハーファンではないので写真とか成績表とかあんまり面白くなかったし、全集を持っているので日記や書簡を血まなこになって読まねばならんわけでもない。面白かったのはノートの落書きとか、蔵書と蔵書への書き込み。あとは漱石画伯の絵かな。意外とうまいし、ほのぼのする。
 異様に字が細かいメモとかも楽しかった。僕ももっとメモ魔になって、本に書き込みとかしようかなあと思ったけど、うーん。本に書き込みとかマジできねっす。なんでなんだろう。

■楠美津香『LSD 超訳オセロー』新宿タイニイアリス 2007/11/14

 講談の形を借りた一人芝居、もしくは文学的一人コント。
 登場後、下手にある小さな黒板(脚立の上に固定)に『オセロー』の人物相関図を単純化して書く。非常にわかりやすい。軽妙なトークが進み、作品に関する前知識や観る際の心構えなど。「楠美津香は女性です」「楠美津香を全肯定するつもりで観てください! ちょっとでも否定する気持ちがあるともの凄く腹が立ってくるかと思います」「小学生になったつもりで観てください」「オセローは人種差別ものの古典です」「ツクダオリジナルはバンダイに吸収されました」など。
 本編スタート。声色、表情、扇子と手ぬぐいだけで全てのキャラクターを演じ分ける。仕草、ポーズ、しゃべり方、小道具などによってキャラクターを記号化し、声を出す前から誰のせりふが来るかわかるほど。小学生でもわかる安心設計。場面転換や、「地の文」への転換の際には扇子をピシャリと鳴らしてメリハリをつける。また、舞台後方に吊られた布も小道具として活用される(扉など)。机、黒板、布。無駄なものが一切ないシンプルなセット。舞台の片隅にはギターが置かれてあり、劇中デズデモーナが一度だけ歌う。講談スタイルなのに舞台狭しと動き回り、時々机の前にやってきて迫真の演技を魅せる。
 熱いテンション。魅力的すぎるキャラクター作り。特にイアーゴーは悪者なのに憎めないどころか格好良すぎる。レベルの高いジョークとハイセンスな言語感覚が飽きさせない。そしてシェイクスピアの名台詞は「そのまま聞かせる」。ここが凄い。ほぼすべての台詞は「超訳」され、完全に楠美津香の世界に染められているにもかかわらず、「お気をつけください、将軍。嫉妬というやつに。こいつは緑色の目をした怪物で、人の心を餌食とし、それを弄ぶのです」など、聞かせるところは原作にとことん忠実に聞かせる。通常の台詞はすべて「超訳」されるが、「いい台詞」は「超訳」ではなくむしろ「直訳」される。よく聞いていると「直訳」の箇所は非常に多く、しかし「超訳」との違和感が一切ない。バランスが絶妙なのだ。物語の流れも原作から脱線することは一度としてなく、ほとんど完璧に演じきる。最も感動したのはこの点。シェイクスピアのパロディコントだと思ったら大間違いで、シェイクスピアの持ち味をきちんと残したまま楠美津香のセンスと技量でしっかり笑わせ、泣かせ、聞かせる。400年前の天才と現代の天才が手を組んだ、とてつもないエネルギーの核融合。
 「シェイクスピアの原作はここで終わりますが…」と幕後のオマケ。「その後のイアーゴー」を演じていただきました。楠美津香のその後のオセロー解釈は本当に面白い。ネタバレになりすぎるので反転。
 イアーゴーは一度たりとも実際に殺しをそそのかしたりはしていない(怪しいですぜと言っただけ)し、オセロー、デズデモーナ、ロダリーゴー、エミリアは死んでいるので何も証言できない。死人に口なし。ロダリーゴー殺しなどに関しても目撃者はいない。ロダリーゴーのメモが残っていたと言っても自他共に認めるバカなので(しかもデズデモーナに私怨あり)どこまで信用できるものかわからない。よって罪状は「エミリア殺し」のみであるが、これも「ひどい暴力女だったんですよおおお」などと裁判で風見鶏公爵に対して泣き落としにかかれば情状酌量がかかって実刑五年執行猶予三年、ロダリーゴーからふんだくった一財産で保釈金を積み、残りの人生も困難なく暮らせる。「死ぬ奴は馬鹿で、生きている奴が勝者」とはまさにこのことである。
 その後、「大衆演芸のお決まり通り、歌と踊りでシメましょう。誰が踊るわけでもありませんが」と言ってギター弾き語り。『から騒ぎ』から『泣くな乙女よ』。「どうせ悲しい 人の世ならば せめて楽しい ふりをしよう」と、フォークライブのようにみんなで合唱。楽しかった。最高。グッズとかいっぱい買ってしまった。これからも追っかけしようっと。
 ネタバレごめんなさい。
 その代わり宣伝いたします。12月に横浜、2月に北千住、東神奈川で「ひとりシェイクスピア」ありますので、是非どうぞ! これはもっとたくさんの人に観ていただかないと勿体ない。詳しくは楠美津香公式で。

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 インターネットのコミュニケーションって、mixiと2chだけじゃないんですよ、と言いたい。知らない人とチャットしたり、メールを送り合ったりっていうような、20世紀的なネットコミュニケーションの復古を願って、ちょっといろいろやってみます。微力だけど。せめてEzを読んでくれている人たちの間で、ほんの僅かでも繋がりみたいなのが作れたらなあと本気で思っています。いつかオフ会するのが夢なんで…(笑)。
 だけどそのためには読者をもうちょっと増やさなきゃいけないなあ。そしてそのためには楽しいサイト作りをしなければいけないなあ。だけどもう、無理だなあ。かつての読者の方々はきっと愛想を尽かしてしまっているか、ここのことなんて忘れてしまっているのだろうなあ。ううむ。
 しかしでもまぁ、読んでくださっている方々も少なからずいるようなので、マイペースに頑張っていきたいと思っております次第であります。

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