少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2017.10.31(火) ハロウイブ

 あすとしをとります。祝いにきてください。夜学バー(上にリンクあります)に17時~夜中までおります。

2017.10.26(木) 大人から見た子どもと、子供(二)

 視点を変えて、「子供」と呼ばれる小さな人たちについて。
 子供は、何でも楽しんでくれる。
 だから、「子供が楽しんでるからオーケー」というのは、ちょっと危ない。

 子供は放っておけばポテチやチョコばかり食べるし、残酷なことや豪奢なことを好んだりもする。
 だけど、ポテチやチョコばかり食べたり、残酷なことや豪奢なことを好む姿勢を見せていると、自分の大好きな人(たとえば親)が、怒ったり悲しそうにしたりする。
 そこで子供たちは学習する。「ポテチやチョコよりも、ブロッコリーやレンコンを好んで食べたほうが、自分の大好きなこの人は嬉しそうな顔をする」と。
 子供たちは、ポテチやチョコばかり食べたいと思いながらも、ブロッコリーやレンコンを食べて、たまにポテチやチョコを食べる。
 子供たちは、残酷なものや豪奢なものを好みながらも、大人の顔色をうかがって、優しいものやささやかなものを好きになる。それがかしこい子供というものだ。学校では「優等生」になる才能がある。
 しかし、残酷なものや豪奢なものが好きだという気持ちも変わらずに持ち続けるから、隠れてヴィジュアル系を聴いたり、格ゲーをやったり、贅沢品を買ったり、ホストに通ったりする。
 絵本についても、親が嬉しそうに読み聞かせしてくれるものは、気の利いた子供であれば、喜んでくれる。(「イヤ!」と言う子だっているのだろうが、その「イヤ!」は実は、絵本の内容を嫌がっているのではなくて、本当は別の理由があったりもする。)「人の顔色をうかがう」ということの味を占めた、あるいは諦めて「そうすることにしている」子供は、大人しく喜ぶ。
 親が嬉しそうに読み聞かせしてくれる絵本を嬉しそうに聞かないと、親は悲しんだり、機嫌を悪くする。それで読むのをやめてしまったりする。そうなれば、子供からしたらとんでもない事態だ。何も読んでもらえないくらいなら、ちょっとくらい好みじゃなくても、楽しんだほうが効率がよい。
 だって子供は、親に遊んでもらいたいのだ。親に読み聞かせをしてもらいたいのだ。親の声色を聞いていたいのだ。
 内容なんて、二の次なのだ。「面白かったらラッキー」くらいのものだ。「不快ではない」くらいでも、とりあえず満足できるのだ。大好きな人が、自分のために読んでくれるのだから。その声こそが最大のコンテンツであり、楽しみなのだから。
 世の中には無数の絵本があり、無数の親がいるのに、「読み聞かせ」という行為は、かなり高い成功率を維持している。どんな絵本を選んでも、どんな親がやっても、かなりの程度、うまくいく(「聞いてくれる」という意味では)ようなのだ。それは「保護者の声」の持つ力だと思う。

 このページの証言は興味深い。

「名作童話を毎晩読んでくれていた。長いし間延びしているしつまらなかった。かわいそうな場面で悲しそうにしない自分を見てくる母親の視線が、子どもながらにプレッシャーだった。」(当時17歳男子生徒など)

「この本おもしろくないね、と言うと、飽きっぽい!と怒られた。お母さんが選ぶ本はつまらなかったから、聞いているフリをしていた。」(当時16歳男子生徒など)

「『7匹の子ヤギ』とか、途中で数とかアルファベットが出てくるとすかさず、10まで数えてみよう、とかABCの歌とか差し込んできた。がんばって覚えましょうね感が見え見えで嫌だった。」(当時17歳女子生徒など)

 これら証言がすべて本当かどうかは検証できないけど、「ありそうだな」と思う。これらに共通するのはたぶん、「イヤだ」と思っていても、「聞いてあげていた」ということだろう。
 子供は子供なりに、親に気を遣うものだ。それは「優しさ」というよりも、「嫌な顔を見せたら面倒くさい」「ちょっと我慢したほうがうまくいく」ということを、知っているからだと思う。
 場合によっては、「この絵本を我慢したら、次は本当に好きなあの絵本を読んでもらえるかも」という打算だって働かせているかもしれない。

 僕は、「親が選んだ絵本」を読み聞かせする場合には、必ずこのような可能性があると思う。
 親が「いい本だ」と思って、ノリノリで読み聞かせる。それを子供は、楽しそうに聞く。親は「ああ、よかった。楽しんでくれるんだ」と胸をなでおろす。
 子供は、たしかに楽しんでいると思う。「面白い」と思える部分を、ちゃんと探し出して、ちゃんと「楽しい」と思っている。それは、親の用意したごはんを「おいしい」と思って食べるようなものだ。本当はポテチやチョコやハンバーガーが食べたいとしても、ブロッコリーやレンコンを「おいしい」と思って食べる。もちろんべつに、不健全なことではない。
 でも、親のほうは、子供に感謝しなければならない、と思う。どんなごはんも「おいしい」と思ってくれて、どんな絵本も「おもしろい」と思ってくれる、子供たちに対して。


 ところで、僕が小さいころに好きだった食べ物は以下である。きな粉、ブロッコリー、レンコン。今でも変わらずこれらは好きだ。当時も本当に「おいしい」と思ってはいた。しかし今ふり返ってみると、そこに「こういうものが好きであることのほうが正しい」という考えがなかったとは言えない。こういったものを好んで食べると、親は喜んだり、面白がったりするのだ。それでどんどん好きになっていった、ということはある。
 僕は、きな粉やブロッコリーやレンコンが好きであるような自分がとても好きだ。柿やコーンスープもずっと好きである。そんな自分を誇らしくさえ思う。
 そうやって僕は、身に価値観をしみこませていった。ブロッコリーやレンコンの価値観をである。それは親の影響(あるいは顔色うかがい)だったとも言えるし、幼いながら美意識に従ったとも言える。しかし、結果としてこの「結局、ブロッコリーとかレンコンがいちばんうまいよね」という価値観を持てたことをありがたく思う。

 僕のお母さんや長兄が岡田淳さんの児童書を好きだった。僕も好きになった。岡田淳さんの児童書を好きになることは、お母さんや長兄を好きであることをなぞるようなことだった。僕はお母さんや長兄のことがとても好きだったから、とても嬉しいことだった。
 でも、もちろん、お母さんや長兄の好きなものを全て好きになったわけではないし、一時はいいなと思っても、後にそうとも思わなくなることもたくさんある。永遠に好きなものも、中にはある。

 親が愛を持って与えてくれるものを、子供はけっこうすんなり受け容れる。親が誠実に好きであるようなものを、子供はけっこうすんなり好きになってくれる。
 でも、それを喜んでいてはいけない。だって、そんなのは当たり前のことだからだ。子供は「それ」を好きになったのではなくて、「親のことが好き」がちょっと延長されただけなのだ。


 だから、昨日の例をそのまま使うと、『すてきなこども』という絵本を親が読んであげて、子供がそれを楽しんでくれたり、「好きだ」と言ってくれたりしても、それは単に「あなたのことが好きなんだ」という意思表示でしかないかもしれない。その気持ちをこそ、受け取ってあげるのが、よいと思う。
「こんな素敵な絵本を好きになるあなたはエラい」とか、「やっぱりこの絵本はすばらしいんだ」と思うのは、二の次にして、自分と子供との間に現在結ばれている信頼関係のほうに注目する。それは子供の優しい嘘かもしれない、ということも念頭に置く。
 子供は、たいていのことに喜んでくれる。下品なことにも喜ぶ。突飛なことに喜ぶ。へんなことに喜ぶ。絵本の内容にというより、そういう細部に喜んだりする。それを「この絵本(の内容)は素晴らしい」というふうに勘違いすると、子供との距離はどんどん離れていく。

『すてきなこども』の中に、オバケの絵が出てきたとする。子供はその、オバケの絵に喜ぶ。その姿を見て、親は「いい絵本だ」と思う。
 そういう状況は、やっぱりどっかずれている、と思う。
「子供ってオバケが好きなんだなあ」というのは、いえるかもしれない。
『すてきなこども』の中に、粘土をこねるシーンがあるとする。子供はそのシーンに喜ぶ。「やってみたい」と言う。それで親は、「いい絵本だ」と思う。
 それもへんだ。その子供は粘土をやりたいのだから、粘土を与えたらどうだろう。……もちろんこれは、意地悪な言い方である。子供は本当は、粘土をやりたいのではなくて、『すてきなこども』に描かれた、その粘土の絵が好きなだけかもしれないから。
 子供が本当に何を好きなのか、何に喜んでいるのか、をわかるのは、難しい。
 絵本の面白さってのはそこにあるような気もする。


 言えるのは、どんなものでも、親が与えればなんだって「親が与えたもの」になる、ということだ。それを切り離して、絵本は語れない。絵本だけではない。何も語ることはできない。


 友達が、「子供にこういう本を読んで欲しいんだけど、どうすればいいかな」という相談をしてきたから、僕はこう答えた。「絶対にむりに読ませてはいけない。読めと言ってもいけない。ぎりぎり手が届く高さのところに、さりげなく置いておけ。たまに自分でニヤニヤ読んだりして、もし読みたい、と言われたら、まあ、そのうち読めば、とか、ちょっとまだ難しいかもね、みたいにそっけなく答えるといい」と伝えた。その後聞いたら、その方法はなかなかうまくいっているらしい。
「親が与えたもの」は「親が与えたもの」になってしまうから、本当に味わってもらいたいものこそ「自分で選んだもの」として届けてあげるのが、よいだろうと僕は思ったのだ。

「与える」をすると、子供は「大人から見たこども」として、振る舞いだしてしまうから。

2017.10.25(水) 大人から見た子どもと、子供(一)

 そもそもが僕には、人間を「大人と子供」に二分する考え方そのものがなじまない。
 僕は16歳のとき、自作の舞台の台本にすでにこう書いていた。

 今のあんたを動かしてるのはだれ?
 あんたでしょ?
 明日のあんたを動かすのはだれ?
 あんた以外のだれかってことがある?
(略)
 明日の自分、明後日の自分、みんな自分でしょ?
 朝起きたらいきなり大人になってるってわけじゃない。
 20年後って一口にいっても、時間は一日ずつ過ぎていくの。わかる?

 何度も引用して飽きた方には恐縮だが、2001年の夏に僕はこのような考えだった。
 で、もちろん今でもこう思っている。
「朝起きたらいきなり大人になってるってわけじゃない」。
 さかいめは、誰かが勝手につけるのだ。
 けっこう自分で。


 もちろん、大人と子供、というのは、さかいめこそはっきりしないものの、歴然とある。子供は小さい。大人は大きい。それはだいたいたしかなことだ。
 ただ気になるのは、世の中には「子供の感性/価値観」と「大人の感性/価値観」というものが存在する、というように思い込まれているらしいことだ。
 そして、どちらかが「よい」とされたり、「よくない」とされたりする。

 しかし果たして、世の中に本当に「子供の感性」とか「子供の価値観」というものは存在するのか?
 僕はそんなもん、ないと思っている。あるように見えるのは、大人が勝手に分類して、レッテルを貼るからだ。
「はい、これは子供ならではの感性ですね。素敵ですね」「はい、これは子供の価値観ですね。未熟ですね」というように。
 そして、その裏返しとして「大人の感性」とか「大人の価値観」というものが存在する。(いや、ひょっとしたら「感性」のほうは、あまり考えられていないのかもしれないが。)

 僕は、あるとすれば、「素敵な感性」「素敵な価値観」か「そうでない感性」「そうでない価値観」の別しか、ないと思う。
 貼るのならそういうレッテルの貼り方をしたほうが、よいと思っている。


 たとえ話をする。ここに絵本があるとしよう。
 題名は『すてきなこども』とでもしておく。
 多くの大人が、この絵本を読んで、「ああ、子供ってのは素敵だなあ」と思う、とする。
「大人になってしまうと、こういう感性を忘れがちなんだよなあ」
「大人ってのは、子供にくらべて、ぜんぜん素敵じゃないよなあ」
「よし、自分はもう大人になってしまっているけれども、子供のような素敵さを忘れないようにしよう!」
 そういった感想を、この絵本の読者は持つ。
 自分は大人だけれども、「子供の素敵さを理解している大人だ」というふうに、自覚する。
 そして時には、「ようし、子供のような感性を発揮しよう」と思ったりして、実際に「(その人が考える)子供っぽい」ことをしてみたりする。
 そして、それが終わると、「あー、今自分は子供のように素敵だった。さて、大人に戻ろう」と、「子供のような感性の発揮」を終了させる。
 こういう人たちは、大人の感性と子供の感性を「違うもの」「分かたれてあるもの」として捉えている。
 それで、「自分は大人の感性と子供の感性と両方持っていて、時と場合によって使い分けることができる」というふうにでも、たぶん思っている。
 でも、たぶん本当はそういうことではない。感性は一つなのだ。あなたには、「あなたの感性」だけがある。
「あなたの感性」が、どれだけたくさんの側面を持っていたって、べつに構わない。ただ「大人の感性」と「子供の感性」という、たったふたつに分割できるほど、単純なものではなかろう。おそらく。感性というものは、もっと複雑である。(そういうものが、もしあるとするなら。)

 この『すてきなこども』という絵本は、「子供は素敵である」という気持ちを読者に喚起する。加えて、「大人はそうではない」「そういう素敵さを失ってしまったのが大人である」という感覚をも与える。
 大人と子供はウラオモテであって、どちらか一方だけをしか見せることができない。
 こういう子供のことを、僕は、「大人から見た子ども」というふうに表現したい。
「大人から見た子ども」というのは、算数のように言えば、「人間から大人をひいたもの」である。
「人間-大人=大人から見た子ども」である。

 こういう等式とはなんの関係もないところに、人間も、大人も子供も、いるんじゃないのかな、というふうに、僕は考えるのだ。

 こういう絵本のことを、僕は「教科書」だと思う。
 大人からの、「子供像」の押しつけである。
 それを読んで、大人が「子供は素敵」と思うのだとしたら、そこには当然「子供というのはこういうもの」というイメージがある。
 それをもし、大人が小さい子に読ませたり、すすめたりするとしたら、それは価値観の押しつけであって、だから僕はそれを「教科書」だなと思う。
 そういうわけで僕は『すてきなこども』みたいなものが、ぜんぜん好きじゃない。


 感性は、あるいは価値観は決して、「大人/子供」というように二分できるものではない。あるいは、そうあるべきではない、と言ったほうがいいか。
 分けてしまって、しかもそれがウラオモテのような関係であったとすると、「どちらかがよくて、もう片方はよくない」というふうになりかねない。
 もっと平等でよいのではないのか?
 大人だろうが子供だろうが、どうだっていいんじゃないか?
 大切なのは、その存在がその時その場所で「よい存在か、否か」にかかっているのであって、「感性」のような形で、あらかじめその人に内在していると考えること自体、不要なのでは?


 余談。そのうち書くかもしれないけどジャニー喜多川さんやマイケル・ジャクソンは「大人/子供」という分け方をしていない気がする。極めて自然に。彼らは「(自分の美意識に照らして)素敵かどうか」ということしか考えていない、ようにしか思えない。だから客観的に見れば「少年愛」でも、彼らにとっては「愛」でしかない……のではないかと。
 一部のロリコンないし小児性愛者とかについても同様かもしれない。そういう人たちは意外と「純粋」とか言われる。たとえばある種のアイドルオタクとか。それは「大人/子供」という社会的な分類にとらわれていないから、なのではないか、とか。
『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』でも、ララアがシャア(ロリコンかつマザコンと言われがち)に「純粋」と言っていましたね。アムロの夢の中でだけど。ミライさんも言ってた。
 これは完全に僕の想像でしかないんだけど、シャアやその他のロリコンたちはともかく、ジャニーさんやマイケルは、子供と仲良くするほうが「自然」だっていうだけなんじゃないかな。彼らにはその才能というか、相手もそれを自然に受け容れてしまうような人格を(あるいは感性を)持っていた。ジャニーさんは異常性欲者のように言われ、確かに結果として、社会的にそう言われるようなことはきっとしているのだろうが、ジャニーさんからしたら「好きな子たちと仲良くしただけ」かもしれない。子どもたちがそれを受け容れたのだとしたら、権力や利害のためだけでなく、彼のそういう人格のためでもあったんじゃないか、と。うーん、このへんの話は非常にデリケートである。本当は一章を割きたい。


 マイケルといえば彼の邸宅(っていうレベルじゃないような巨大な敷地)は「ネバーランド」といった。ネバーランドといえばピーター・パンである。僕の大好きなJ・M・バリの小説『ピーターとウェンディ』における「子供観」は、面白い。作品の末尾はこう締めくくられている。

 and thus it will go on, so long as children are gay and innocent and heartless.
(こうしてずっと続いて行く。子供達が陽気で無邪気で非情であり続ける限り。※黒田誠

 この作品でも「大人/子供」はハッキリと分けられているわけだが、子供は「陽気で無邪気で非情」とされる。余計な美化がない。作中でピーターや子供達はためらいなく人を殺す。罪悪感は一切ない。ただワクワクするだけである。これも「子供像の押しつけ」という意味では一種の「教科書」なのであるが、僕にはなんとも役立ったものだ。「陽気で無邪気で非情」というのは、「子供の特徴」というよりは、「何も考えていない」である。
『ピーターとウェンディ』に描かれる子供は、「まっしろ」なのである。だから非情(無慈悲とも訳される)であり、残酷な行為に平気で手を染める。普通なら、そこに「記憶(学習)」が書き込まれていくことによって、少しずつ人格が形成されていく。「やってはいけないこと」「やったほうがいいこと」を知っていく。
 そのように人は成長(grow up)する。「ものを考える」ようになる。「ものを考える」というのは、「何かを記憶(学習)し、それを別の機会に利用する」ことが基盤にある。
「同じものに二度出会う」からこそ、「学習」は成り立つ。ところがピーターは、何をしてもすぐに忘れ、だから「同じことを二度経験する」ことが、ほとんどないのである。ゆえにピーターは永遠に「子供」というわけだ。
 このままピーター・パン論に突入してしまいそうだが、我慢する。あと一言だけ。
 バリの描く「子供」とは、「0」あるいはせいぜいが「1」という状態を指していて、「2」あるいはそれよりも大きな数ではない。小説冒頭の「two is the beginning of the end」というのはそういうことだと僕は考えている。


 まっしろな子供時代から少しずつ青春の青に染まっていく……なんて言葉もあったけど(『水色時代』)、子供時代は「まっしろ」であって、そこから少しずつ人格ができあがっていく。それはたぶん事実だと思う。そういうグラデーションを考えたとき、白っぽい段階のことを子供と呼ぶ、というのはわかりやすいが、最初に書いたようにさかいめはない。どこからが「大人」ということは、ない。
 そういうものだとすると、やはり「子供の感性」「大人の感性」というものは、なかろうと思える。人間というものは、まっしろな状態で生まれて、だんだんと濃くなっていく。便宜上、「だいたいこのくらい濃くなってきたものを大人と呼ぼう」という約束事が、社会にあるというだけのことだ。
 そしてまた、「濃ければ素敵」ということもない。「薄ければ良い」ということもない。濃さ、薄さという話ではなくて、「素敵か、そうでないか」のほうを、より注意すべきだと思うのである。

 そこには、「子供像」も何もない。ただ、人間がそこにいて、素敵であるかどうか、ということが常に問われ続けるだけだ。現状に応じて、周りの人は「よりみんなで素敵になれる」ための接し方を、調整するというだけの話だ。
『すてきなこども』という絵本の中に、「こどもはすてき」というイデオロギー(!)が隠されているのだとしたら、「それは違うぜ!」と僕は主張するものである。「こども」と「すてき」は、べつべつのこと。

 たとえば、みなさん(誰だ?)の大好きな『星の王子さま』という本の中には、かなりそういう側面が色濃くあって、僕はあんまり好きではないのだ。『銀河鉄道の夜』には、そういう区別がないように見える。

2017.10.24(火) 大人から見た子どもと、子供(序)

 大人の牛耳るこの世界では、「子供」には二種類ある。
 大人から見た子供と、子供。
 というふうにここでは、とりあえず分けてみる。


 大人から見た子供は、どこにいるのか。そこかしこにいる。
 よいこの顔をしていたり、わるい子の顔をしていたりする。
 では、子供はどこにいるのか。
 そこにいる。
 誰からも見られていない。
 見ているのは、子供だけ。
 あるいは大人だって、見ているんだけど、見えていない。そういう子供。
 それは、いたずらっことか、うそつきっていうことだけではない。
 大人は、大人になると、子供を子供として見られなくなる。
 子供を「大人から見た子ども」としてしか、見られなくなるのだ。
 だから「子供」のことは、彼らには見えない。

 子供からは、子供が見えているのか?
 見えている。
 しかし、それを語る言葉を子供たちは持っていない。
 ゆえに語られることはない。
 しかしときおり、絵本の中に登場する。
 しかしときおり、児童書の中に登場する。
 しかしときおり、まんがの中に登場する。


「大人から見た子ども」あるいは「親から見た子ども」。
 それは、『星の王子さま』とかの中にいる。
 あるいは、『アイスクリームが溶けてしまう前に』の中にいる。
 でも、子供は実はそこにはいない。


 子供はここにいる。あるいは、そこにいる。
 パーマンがそこにいるように。


「子どもだまし」をするのは、いつだって大人だ。
 子供は容易に、それにだまされる。
 だまされるのを、楽しんでいる。
 それが役目だと、割りきってもいる。
 だってそれは、大人と遊ぶ唯一の方法だから。


「あんなのは、子どもだましだよね」と言うのも、いつも大人だ。
 子供は、そんなことはどうでもいい。
 用意されているものは、与えられるものは、子どもだましだろうがそうでなかろうが、「大人から見た子ども」として、受け取る。
 ただそれだけのことなんじゃないだろうか。
 子供はただひたすら、子供である。
 ときおり、「大人から見た子ども」として、扱われてしまう。
 みんなはそれを、うまくやりすごす。
 ほんとうに、うまくやりすごす。
 大人たちと、適当に遊びながら。そのことにちゃんと、感謝しながら。


 でも子供は、ちゃんと別の場所にもいる。
 子供として生きる。
 そうでなくてはならないのだ。
 それなのに、なんでかね、わけのわからない社会の教科書を、「絵本」とかいう名目で、押しつけられるのは。
 それが絵本だろうが、社会の教科書だろうが、子供にとっては関係ないのに。
 大人たちは、「これは絵本だから、安心して楽しんでね」と言う。
 子供たちは、それが本当は社会の教科書であることを勘付いているのだけれども、「大人から見た子ども」としての役割をまっとうするために、それを「絵本」として受け取ってあげる。
 そして、楽しむ。だって楽しいのだ。
 それが大人と遊ぶ、唯一の方法だから。


 そうやって子供たちは嘘を覚えていく。
 一つの嘘を大切にすることの味をしめていく。
 世の中の渡り方を覚えていく。
 社会の教科書を「絵本」と呼ぶことに慣れていく。
 社会の教科書を「絵本」と呼べるようになるころ、その子供は大人になっている。
 つまり、子供のことが「大人から見た子ども」に見えるようになっているのだ。
 その区別がつかなくなっているのだ。
 そうしたらもうさようならだ。
 せいぜい「絵本」を大切に。


 僕は、ごく個人的にいえば、本当の絵本を読める人たちの国に住みたい。

2017.10.23(月) 選挙について

 一つのことに集中すると、その周りは見えなくなる。
 少なくとも、他のことができにくくなる。
「選挙」ということに集中すると、それ以外のことが見えなくなる。できにくくなる。


 そもそも選挙というのは、ずるい。
 選挙に行く人と行かない人は絶対にいる。
 選挙は、「選挙に行く人」の意志だけが数えられる。
「選挙に行くような価値観」だけが、ふるいにかけられて残っている。
「選挙に行かないような価値観」は、反映されない。
 だから選挙では、「選挙に行くような価値観」に支持されるような人たちが、勝ちやすくなっている。

 とても不公平だと思う。
 でも、その不公平さに文句を言う「筋合い」は、「選挙に行かないような価値観」の人には、持たされてないらしい。
 だから「選挙に行かないような価値観」の人たちは、だいたい静かにしている。


 憲法改正の国民投票は、法律上、「有効投票数の過半数」の得票で可決されるらしい。
 つまり「選挙に行かないような価値観」は、反映されない。

「選挙に行かないような価値観」が世の中にはっきりと反映されるためには、少なくとも「有権者」の過半数、できれば三分の二くらいの人たちが、その価値観を行動で表明する必要があるのだと思う。
 つまり、「投票率」なるものが五〇パーセント未満、できれば三〇パーセントくらいまで下がれば、さすがに反映されるのではないか、というところだ。
「選挙に行かないような価値観」が世の中に反映されるには、そのくらい頑張らなければならない。
 がんばって、投票に行かないようにしなければならない。それを多数派にせねばならない。
「したくないことはしない」という意志を、明確にあらわす必要がある。
「選挙に行かないような価値観」の人たちは、ひょっとしたらいつか来るかもしれないその時を、家でお茶とか飲みながら、のんびりと待っているのである。


 もしも、できるだけ現行制度を残したままで、「選挙に行かないような価値観」を反映させるのだとしたら、両議院の議席数のうち、「投票しなかった人たち」の割合のぶん、空席にすればどうだろう。
 投票率が六〇パーセントで、議席をかりに四〇〇としたら、一六〇席は空席になる。
 すると、残り二四〇席のうち与党がかりに三分の二を占めたとしても、一六〇議席ほどだから、全体(四〇〇議席)の半分にも及ばないことになる。
 これでは、憲法改正の発議は難しい。発議のためには、「投票率×改正勢力」が三分の二を超えなければならない。改正勢力がかりに全議員の八〇パーセントであっても、同時に投票率が八五パーセントくらいなければならない。そのために「選挙に行きましょう!」と与党(ないし改正勢力)は、国民に呼びかけまくらなければならない。

「民主主義」と言うのなら、どちらかといえばこっちのほうが妥当なんじゃなかろうか。
 そしたら、「選挙に行かない甲斐」だって、あろうもんだ。


「選挙に行かないような価値観」の人たちは、「選挙に行くような価値観」の人たちよりは、そのぶんちょっとだけ暇(=時間的にも、精神的にも、思想信条的にも余裕がある)なのだから、「選挙」のことなんてチラ見程度で済ませ、自分にとって大切なこと、自分が美しいとか素晴らしいとか思うものごとに、情熱や力を注ぎまくっていてほしいなと、思うしだいであります。




【補足】
 こういうむちゃくちゃな提案をすると「非現実的だ」と言われてしまう。「そんなことしたら、政治はむちゃくちゃになる」「なんならどっかの国が攻めてくる」とか。それは、そうなんでしょう。だから、今のところ半分以上の人たちが選挙に行くし、僕が書いたようなことは実現されない。「行かない」価値観の人たちはとりあえず無視しておいたほうが、国全体は幸福になるのだ、という考え方がたぶんあって、アンバランスなのは承知でみんなやっている。今はそのほうが妥当なのだろう。「行かない」価値観は、おそらく今はまだ役立たない。しかしいつか、そっちのほうがみんなにとって都合良くなる日が、来るかもしれない。それは今とはぜんぜん違う仕組みになるかもしれないってことで、まるでSFのよう。その日までそういう人たちは、力をたくわえて待つ。(だったらいいよな。)

 ちなみに5年前の選挙の記事で、似たようなことはすでに指摘されておりました。
 この「無効票」の人たちが、もしも一斉に「棄権」へと転じたら? そんなことはまだきっとないのでしょうが、いつか来ないとは限らない。

「きれいだ」ってのと「美しい」はぜんぜん違う。

 朝ってのはふしぎだ。昼でもないし夜でもないような、そのどちらでもあるような。
 夜を完全に追い出したら、もう美しくないってことかも。早朝が美しいのは、静かだからっていう気がするもの。

 朝のけしきが美しかったら、それは夜ってことになるのかなあ?

2017.10.19(木) 夜=孤独=美しさ

 19日の真夜中である。3:36。この時間まで僕は何もできていない。掃除や洗濯はしたし料理だって作った。しかしそれはもちろんのこと逃避である。どちらかといえば良い逃避だが、もう眠れないというほど眠ったのちの苦肉の策としての家事である。
 怠けて惰眠を貪っていたというわけではない。風邪を引いて苦しんでいたのだ。数日苦しんで良くならないので諦めてガスストーブを入れた。こないだ仕舞ったばかりの気がする。それであったかい部屋で本とか読んでたらちょっと元気になって、22時くらいから活動している。
 やらねばならないことは無限にあるができない。苦しいと詩を書いて紛らわせてしまう。いつの間にかそういうことが気持ちよくなってしまっている。詩は便利だ。わけのわからない気持ちをすべて詩情という都合の良い言葉で表現できてしまう。それでそのままを封じ込める。窓も開けずに月が見える。
 孤独の美しさを噛みしめる。孤独とは夜である。昼に孤独はない。そのくらい太陽は僕らに心強い。太陽が神様だとすれば、昼はいつでも神様がそばにいる。雨や曇りは、これはもう夜と言っていい。太陽を隠しているのだから。だけど夜には夜で、じつは神様がほかにいる。それは月や星だが、これは天気と関係がない。目に見える月や星は、すべてまやかしなのだ。食べられない。サンプル品にすぎない。本当にその時が夜ならばつねに月や星は僕らのそばにいるのである。
 孤独なとき、部屋を閉め切って電気を消して、太陽の光が一切さしこまないようなとき、毛布にくるまったり体育座りする僕らのまわりに月や星は輝くのであります。
 つまり僕たちの人生には絶対にいつも太陽かあるいは月や星がいるのであって、神様の種類が違うだけなのでございます。
 ……なんてことを書いているとここだけ読んだ人には気の狂った者だと思われてしまうのでもうちょっと冷静ぶったことも書いておこう。以上は詩。
 幼い頃、長兄がぽろりと「夜は世の中の音の総量が少なくなるから」みたいなことを言った。その時、うわあ、そういう考え方があるんだ! と感動したのを覚えている。そして、それからずいぶん時が経っても確かにそうだと思える。夜は音が減る。
 だから、僕が思うに、音と太陽は似ている。音と光。
 夜にドンドコ騒ぐのは、本当は昼を恋しがっているんじゃないだろうか。
 そういうわけで僕は静かな夜が好き。森の中に何もないような。

 美しさということを考えていると、どうしても無に近づいていく。

 昼や太陽は美しさとはずいぶん無縁なところにある。不思議なことだがそうなのだ。僕があまり好きではない『星の王子さま』という作品に「大切なものは目に見えない」という有名なフレーズがあるがそれはその通り。当たり前のことである。目に見えるものはすべて光。昼のもの。太陽から生まれる。それは生命の源であり、世界そのものではあっても、美しさではない。
 美しさは必ず闇の中にある。夜にある。孤独の内にある。
 適当に思いつくことを適当に書いておりますが今たしかにそう思う。
 炎が美しいのは暗闇の中なのだ。
 夜の中にも昼はあるし、昼の中にも夜はある。
 夜の中の昼は夜をより美しくさせる。昼の中の夜はそのままでさりげなく美しい。
 光のない空間。
 音のない時間。
 そういう瞬間は、昼夜問わずやってくる。
 そのときは例外なく孤独である。
 たとえ誰かが隣にいても。

(そのときがいかに幸せでも。いや、幸せであればこそ。)

2017.10.12(木) かしこくなりたい

 若い(16歳くらいの)人が「かしこくなりたい」とインターネットに書いていた。
 そうだった。僕もかしこくなりたかった。
 そのことをはっきりと自覚して、そうなるための行動を本格的に始めたのは、2001年の1月2日だったらしい。その時の日記が残っているのでわかる。その日からどうも、「ぼくすききらいいわずになんでもたべる」といった気分になっていたようだ。
 実際、このあたりから日記の様子が少しずつ変わり、2001年の3月くらいから、「それ」が板についていく(と、思う)。
 16歳だった。

 かしこくなるために僕が何をやったかというと、とにかく何でも「知る」ことだった。「見て、聞いて、味わう」ことだった。
 その手段は何でもよかった。文学や漫画や音楽や映画や芝居や一人旅が主だった。今思えば、「書く」ことや「人と関わる」こともその一環だったし、学校の授業もその一部ではあった。
(ただ当時は、「勉強している暇があったら漫画を読みたいし、読むべきだ」と強く思っていたけど。)
 もちろん、その内容は片っ端から忘れていった。そのことに焦りはあった。しかし、「忘れてもいい」と自分に言い聞かせた。「覚えている」ために躍起になることは、なんだか妙なように思えたのだ。

 記憶には、「形として残る記憶」と、「形を失ってどこかにしみこんでいく記憶」がある。たぶん。
 どちらも大切だけど、前者ばかりだとなんだかイヤだし、それは僕は得意ではないな、と思っていた。
 大好きな本で、その内容を言えと言われたら何も答えられないけど、とにかくかつて僕はその本からとても前向きで素敵なものを受け取っていて、今の自分がこうあることに大きく貢献してくれている、そんな本は、けっこうたくさんある。子どものうちに読んだ本なんて、多くはそういうものなんじゃないだろうか。
 とけて、しみこんでいくのだ。
 覚えているかどうかは問題ではない。

「形として残る記憶」は、間違っているかもしれない。間違ったことを覚えているよりも、忘れてしまったほうがいい。それよりも、「いま正しいこと」をその場で考え出せるほうがいい。
 僕はそのように考えたのかも知れない。
 もちろん、知識が不要だと言っているのではなくて。それを「覚える」のは最低限でもいいから、もっと大切なことを、そこから学ぼう、ということだ。

 これまでに食べたパンの枚数を覚えてなくても、そのパンが自分の身体を作ってくれていることは間違いない。そのパンのおかげで、自分はあって、生きていられる。
 どのパンが美味しかったか、ということは忘れてしまっても、「パンのおいしさを知っている人」にはなれる。

 これまでに読んだ本の冊数を覚えてなくても、その本が自分の心を作ってくれていることは間違いない。その本のおかげで、自分はあって、生きていられる。
 どの本が素敵だったか、ということは忘れてしまっても、「本のすてきさを知っている人」にはなれるのだ。

 何もかもを忘れてしまっても、それは自分の一部になるのだから、無駄じゃない。そう自分に言い聞かせて、いろんなものを見聞きしては、片っ端から忘れていった。

 で、いつの間にかかしこくなっていた。


「かしこい」という言葉を使っているが、実際にかしこくなってみると、自分が求めていた「かしこさ」というのは、「すてきなかしこさ」だし、「かしこくていいやつであること」だ、ということがわかった。知識が豊富だったり、思考力が優れていたりすることよりも、そういったことがたとえ中途半端なものでしかなくても、それを素敵なふうに使えることのほうが、自分にとっては大事なんだということが。
 素敵でいいやつになるために、いろんな方法があるとして、そのなかで自分に向いたやり方が、「かしこくなること」だったのだ。
 ほかにも無数にやり方はあって、人それぞれに向き不向きがある。僕は漫画を読んだけど、漫画を読まなくたっていいやつにはなれる。かしこくもなれる。
 たぶん、「何を自分の一部にしていくか」ということが大切なんだ。「何を」ということだけで足りなければ、「どんなふうに」と加えてもいい。
 生きていく中で、自分が素敵だと思えるものを、たくさん「素敵だ」と思って、そして、忘れていく。いつの間にかその素敵さは、自分の心の中にある。
 なまじ覚えていると、応用がきかなくなりやすいけれども、忘れてしまえば、曖昧な記憶をたよりに、その都度自分で考えることになって、それで訓練されていく。「たしか、こっちだったよな?」と探り探り、素敵なほうへ進んでいく。

「かしこくなりたい」と願う若い人たちはいまだ多いようだし、自分もかつてそうだった。かしこいということは素敵であるということだ、ということさえわかっていれば、あとは素敵なものに出会い続けるだけである。そうすればいつの間にか、素敵でいいやつになっていて、かしこさも必ずそこにある。
 本が好きならば読めばいいし、セーターを編むのが好きならばそうすればいい。というだけのことだと。

2017.10.10(火) 歌は心

 テレビ朝日の「しくじり先生」が終わって、新たに歌のコンテスト番組が始まった。録画されていたので見た。
 参加者が歌を歌う。審査員が審査する。それだけの番組である。審査員は、カラオケ採点ロボットと、歌のプロ4人。ロボットが100点、審査員一人ずつがそれぞれ25点の点を持ち、200点満点で優勝を競う。
 ロボットは当然、音程とかビブラートとか、そういうところで評価する。メイジェイさんとかさくらまやさんとかが得意なアレである。
 ところが、歌のプロである審査員たち(本業はボイストレーナーとか)は、そういう小手先のところだけでは審査しない。表現力とか、その歌を通して何を伝えたいのか、とか、「聴き手」への影響力がちゃんと伴っていなくては、評価されない。
 コンテストは予選と決勝に分かれており、予選を勝ち抜いた2名が、一週間後の決勝に臨む。
 その一週間、トレーナーがそれぞれついて、練習に励む。その風景も放送された。「性格と生き様が全部歌に出る」と先生は断言する。さらに、「心に問題がある」「自分を愛せてない 自信がない」そういった部分が、歌の邪魔をしている、と言われたそうなのである。
 そういうことを、ちゃんと提示してくれる番組があるのは、かなり健全だと思う。

 番組自体は、昔やっていた「マネーの虎」にかなり似ていて、審査員たちの辛口な批評を楽しむことが主眼のようだが、その言葉は例の「虎」たちと同じように(おそらくはそれ以上に)正論である。見ていて素直に「なるほどなー」「確かになー」と思う。
 さくらまやさん(僕はデビュー曲『大漁まつり』からの大ファンである)が、歌詞の内容をちっとも理解せずに歌っていることを看破されたシーンは特に印象的だった。小手先の技術でコーティングしても、本質のずさんさはすぐバレるのだ。
 僕もカラオケに行くのですが(この言い回しは、「僕もギターを弾くのですが」のパクりです)、なーんか、いろいろ考えてしまった。世の中にはカラオケに行くような人が多いので、なーんか、いろいろ考えてしまうのではないだろうか。

 kannivalismやバロックというバンドが僕は好きで、この人たちの曲をカラオケで歌うときなんかは、本当に心で歌っているような気分になる。もちろんそれも「自分が気持ちよくなるために歌っている」の類いにはなるんだろうけど、どっかで誰かのために歌えたらいいな、という気持ちにはなっていると思う。

 9月30日にAmikaさんのライブに行って、「歌」が本当に極限まで力を持つ瞬間、みたいなのを目の当たりにした。これが一人の人間から発せられているものなんだから、ほんとにすごい。(もちろん、演奏家の力だってあるんだろうけども。)


 で、このことはやっぱり「歌」だけに限らなくて、なんだってそうだと思うんですね。ありきたりなまとめ方だけど。文章だってそうだし。自分の生業に引きつけるなら、授業だってお店だって、なんだって。
 なんだって、性格や生き様が全部出るのだ。

2017.10.09(月) 純粋な声援

「お客さん。甲府へ行つたら、わるくなつたわね。」
 朝、私が机に頬杖つき、目をつぶつて、さまざまのことを考へてゐたら、私の背後で、床の間ふきながら、十五の娘さんは、しんからいまいましさうに、多少、とげとげしい口調で、さう言つた。私は、振りむきもせず、
「さうかね。わるくなつたかね。」
 娘さんは、拭き掃除の手を休めず、
「ああ、わるくなつた。この二、三日、ちつとも勉強すすまないぢやないの。あたしは毎朝、お客さんの書き散らした原稿用紙、番号順にそろへるのが、とつても、たのしい。たくさんお書きになつて居れば、うれしい。ゆうべもあたし、二階へそつと様子を見に来たの、知つてる? お客さん、ふとん頭からかぶつて、寝てたぢやないか。」
 私は、ありがたい事だと思つた。大袈裟な言ひかたをすれば、これは人間の生き抜く努力に対しての、純粋な声援である。なんの報酬も考へてゐない。私は、娘さんを、美しいと思つた。
(太宰治『富嶽百景』)

 ある高校2年生の女の子が、このHPをよく見に来てくれているようで、更新されてないとがっかりする、というか、「更新されてないな」と思って、つまんないようだ。そういう読者が一人でもいてくれるなら、もうちょっと書く気にもなる。みなさまの「純粋な声援」が、ずぼらで妙に慎重な僕を動かします。よろしくです。
 読んでなくていいので、「読んでます」とでも。ぜひ。

2017.10.07(土) 楳図かずお先生

 井の頭公園でおこなわれた「吉祥寺アニメワンダーランド2017」に行ってきました。グランドオープニングで楳図かずお先生がご出演されると聞いたので。ところで「グランド」ってなんなんでしょうね?
 オープニング自体にはさほどグランド感はなかった気がするけど、 楳図先生はまちがいなくグランドだった。81歳にして、小走りでステージに登場し、終始明るく元気に、ユーモアたっぷりにお話ししていた。言葉も聴き取りやすくて、いわゆる老人らしいところはない。
 僕は、「この人みたいになりたい」とか「この人を目標にがんばる」というような(求心的な!)考え方は、ほとんどまったくしない。(尊敬する人は無数にいる。)でも、楳図先生だけは、そういう存在かもしれない。あんなに背筋の伸びた、素敵な人でいられたらいいなあ。
 ほんの10分くらいだったけど、楳図先生の繰り出すギャグやジョークに笑いっぱなしだった。漫画はもうしばらく描いてないけど、楳図先生は生きているだけで漫画以上にすばらしいものを日々、生み出し続けているのだと思う。ある人は「神様に一番近い人」という表現をしていたけど、まったくほんとにそうだ。
 神様になりたいわけではもちろんないけど、楳図先生が実際はほかの人と何も変わらないふつうの人である以上、どんな人だって楳図先生みたいになることはできて、実は誰でも神様のようになれるんじゃないのかな? と思うことはあって、だったら自分もそういう素敵な人になれたらそれがいいよな、と。

 ある女友達から、「ジャッキーさんてそのまま年とって楳図かずおみたいなおじいさんになりそう」と、冗談で、半ば揶揄するように、「なりたくないよ!」なんて突っ込みをでも期待するみたいに、楳図先生に敬称もつけずに(!)、言われたことがあるけど、僕は素直に「そうなれたらほんとうに嬉しい、がんばるよ」と思った。その場では「しつれいなっ。『先生』をつけなさい!」とでも言ったような気がする。

 楳図先生のことをよくしらない人は、ピンとこないかもしれないけど、僕はもちろん「年をとっても派手なかっこうをして陽気にふるまう」という姿にのみ憧れているわけではない。人格そのものに強く惹かれる。あのしなやかな優しさを自分も持ちたいと思う。あの優しいかしこさを身にまといたいと思う。すてきにすばらしい「美意識」を。それは作品のなかにくっきりと現れている。『イアラ』という長編を読んだとき、「僕はこの人が本当に好きだ」と確信した。たとえば『イアラ』にあるような優しさ、素敵さ、美しさは、楳図先生のありとある言葉や所作にも現れている。目指すならばそういう人を目指したい。まねっこではなくて。だから、赤白のボーダーはまだ着ません。楳図先生が亡くなったら、一年目はいつもの白黒のボーダーを着て、翌年からは赤白も着始めるかもしれない。

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