ひごろのおこない/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2026.2.1(日) 仙台から帰京
2026.2.2(月) 脳出血 or 脳しんとう
2026.2.3(火) 僕はいじめっ子なのかもしれない
2026.2.4(水) 「男のわりには」
2026.2.5(木) 魔神英雄伝ワタル超!感謝祭
2026.2.6(金) タイタンシネマライブ
2026.2.7(土) 三重野瞳は歌い下げる(礼讃)
2026.2.8(日) 小さなおうちはどうなるの
2026.2.9(月) 名古屋店外1 友達観光
2026.2.10(火) 名古屋店外2 那古野→女子大→大曽根→神宮前

2026.2.1(日) 仙台から帰京

 31日(30日深夜以降)の話。仙台「くも」を出たのは深夜3時くらいだったか、冒険はお仕舞いにして眠った。こういうときは11時チェックアウトの宿を選ぶのが定石である。昼食と珈琲をどうしよう。なぜだか繁華街のほうに行く気にならなかったので、ふだん行かない駅南のほうや東口を歩くことにした。途中でダテバイクを見つけたので借りて、五橋駅の旧奥州街道付近に味のあるお店が多そうだったので行ってみた。休んでいる所やすでに廃墟と化しているところもあり、最大のお目当てだった「光」というお店も閉まっているようだった。口コミで「開いてるのか開いてないのかわからない」とみな書いていたが、暗かったし店内に自転車が置いてあったりしたのでたぶんさすがにあれは閉まっていたのであろう。今度平日の昼時に行ってみたい。岩沼屋というお魚屋さんを選んだ。とてもおいしく、栄養も満点であった。さすが魚屋さん。
 その近くの「皇琲亭」で休息。山形で買った生田春月の『真実に生きる悩み』を読む。二葉亭四迷に言及している最初の講演録だけしっかり読み、あとはざっと流して最後まで。この人は秋が好きなんだな。春生まれだから春月なのだと思うのだが。月の話はほとんどなく、星と太陽が強調されていた。
 東口の「赤い屋根」に行ってみた。「骨董ですか、喫茶ですか」と聞かれる。「喫茶」は「珈琲」とかだったかもしれないが正確に覚えていない。友達と来て話すのに最高だと思う。一組外国人カップルが入ってきてやはり「骨董ですか、喫茶ですか」と聞かれ、そのまま何も注文せずに出ていってしまった。
 珈琲飲みつつ賀川豊彦『星より星への通路』読み、「ぼくはなれてるから、あわてないのだ」と出発ギリギリまで粘る。特急「ひたち」品川行きに乗る。たった1880円の追加料金で味わえる、四時間半の旅(1416-1837)。空いていて最高。人の気配がしたのは水戸-上野間くらいであった。仙台から都心まで乗り換えなしで行ける在来線特急は一日に3本しかないのだが、やはりみんな新幹線を選ぶのだろう。ま、それが普通ですわな。かたや俺は「ひたち」の座席で被災地見て、呟くんすわ。it’a pacific ocaen.

 電車の都合で19時開店、けっこうお客さんあり。「仙台行くから休みますわ~」しなくてよかった。旅から帰った日の営業は無風のことが多いのでありがたい。ありがとうございますありがとう。

2026.2.2(月) 脳出血 or 脳しんとう

 病院に行った。1月29日の記事にすでに書いているが、1日の営業中に後頭部をガーンと打ち、そのまま頭と視界がぼんやりしたような感覚が続いたので急遽「ギン」氏に交代してもらって早退。あまりにも不安だったので救急も考えたがどこに電話しても「混んでいる」とか「おなかの専門医しかいない」と断られ、果ては「明日の朝でいいんじゃないですかァ~?(意訳)」とまで言われたので、まぁそれもそうかギャンブルギャンブルと大人しく家に帰った。時間外だと問答無用で7700円追加でかかるらしいし。
 21時59分のバスが5分ほど遅れてくれていたおかげでスムーズにバスに乗れた。そうでなければ15分待つか、電車で帰るか、自転車か徒歩かタクシーか。この中ならバスが最も良い。階段も乗り換えもないし、歩く距離も短い。そして安い。貧乏性だから「死ぬかも」と思いながらも常にお金のこと考えてるんですよね。ヤベー奴だと腹の中でちょっとわろた。
 ところが僕はバス酔いするのですよね。慣れててストレス少ないという点では実際自転車がいちばんよかった気もするのだが、いきなり気を失ったりしたら事故死のセンもあるわけだからやめておいた。冷静で的確な判断力。
 症状が実際どうだったのかというと、これがまた、頭を打つちょっと前にコーヒーに少量(10ml)くらいのウィスキーを入れて飲んでいたので、カフェインとアルコールの作用も多少加わってよくわかんないっちゃわかんないんですよね。普段から考えるとたったそんだけの飲酒量であれほどぼんやりすることはありえないので、フィクション用語(?)の「軽い脳しんとう」ってやつだと今では思うんだけど、外傷としての痛みが一切なくてただ頭と視界がややぼんやりしているというのは、「内側で出血している」という可能性を想像して常にゾッとしておりました。死んだり記憶障害になったりするのかな、とか。実際練炭自殺に失敗して1分前のことを思い出せなくなった友達もいたし、後頭部打って嗅覚をほぼ失った友達もいるし、本当に焦った。
 とにかく安静にし、考えることもできるだけ少なくして、とりあえずは(吐くかもしれないので)何も食べず、翌朝8時30分に病院に電話して9時半の予約をとった。ゆっくり歩いて3分前には受付を済ませたが、診療が始まったのは10時過ぎ、終わったのが11時前くらいか。CTスキャンは異常なし、帰り道にめちゃくちゃモノ買って食べた。
 料金は18600円の3割負担で5580円。薬も出なかったのでそれなりに安く済んだ。CTだけで14700円ですからね! でも怖いので行ってよかった。CTの画像もらって帰ればよかった(もらえるのかな?)。
 いま(7日)の段階でもとりあえず元気。CTに映らないわずかな出血がだんだん広がって数ヶ月後に効いてくる可能性もあるらしいから油断できないが、考えたり書いたりすることも普段通りしている。
 一応は死を意識するよい機会になった。それに伴いやや人生観に影響が出た。急ごうと思う。もう時間がないのだ……。

2026.2.3(火) 僕はいじめっ子なのかもしれない

 なんかわかってきてしまった。「いじめた側」は「いじめられた側」のことを友達だと思っていたりする。これはマジなのだ。最近見かえしている『3年B組金八先生』第四シリーズ(1995年度)でも、桜木伸也を最もひどくいじめていた豊川康は、「友達」だとか「遊んでるだけ」みたいなことを言っていた気がする。それは彼の本音だと思うが、伸也のほうはたぶんかなり複雑な感情で向き合っていたことだろう。
 片想いというのは、いじめのようなものかもしれない。ずいぶん乱暴な気もするが、「暴力」というよりは「いじめ」の構図により近い気が今はしている。僕はすごく好きでも、相手はそう思っていない。それなのにその「好き」を押し通してしまえるのは、片想いする側がその相手を「下に見ている」からではないか。
 まったく絶望的な話だ。自分がそうかもしれないのだから。いじめっ子がいじめられっ子に「友達」と言ってしまえるのは、主導権が常に自分にあると信じて疑いがないからだ。だから「遊んで(やって)いただけ」と一方的に言えてしまう。片想いもその多くは、「主導権が自分にある」という勘違い、思い込みを伴うことが多い。それはもちろん無意識の話だ。一人相撲に相手を巻き込むような片想いは邪悪だと僕は思うが、無意識に行われるので罪悪感を持つ者は非常に少ない。いじめも似たようなものではないのか。
 これは1月28日の「片想いの資格」という記事に関連する。わかりやすい例ではたとえば昔の恋人への未練というものは、「片想い」であり時に「いじめ」にもなる。相手にとっては思い出したくもない嫌な思い出かもしれないのに。それは友達でも教え子でもなんでも同じだ。
 でも大事なのはここからだ、我々はそれを踏まえて生きていくしかない。人に恋い焦がれるということは、常に暴力であって、いじめの可能性がある。だから時にそれを秘め、いつも慎重にその相手に向き合わなければならない。
 僕はいじめっ子なのだと思う。それで離れていく人は離れていく。悲劇にも僕のほうは「いじめた」という自覚がない。無邪気に「ねえねえ」とまた声をかけたりする。向こうは「勘弁してくれ」と思い、それとなく避けるようになる。鈍感な僕は「チェッ、なんだよ」と思いさえするだろう。本当のいじめっ子ならそこからいじめをエスカレートさせていくわけで、そのおそれが僕にないわけではない。ようやくわかった。
 あまりにも人(みんな)のことが好きで、ずっと愛し続ける重たい気持ちを僕は持っていて、しかし全員が全員そういう性質ではなくて、むしろ忘れたいとか、重たいのは苦しいという感覚だって当たり前に存在する。友達なんて一人か二人いればいいのに、なんでアイツは関わろうとしてくるんだ?と煙たがる人だっているはずだ。それについて「さみしいさみしい」と泣いて嘆くのがこの日記であり僕のすべての活動で、それは単に「いじめ」の正当化でしかない。「どうして自分はすべてを愛しているのにすべては僕を愛してくれないんだ?」というワガママ。そんなんが通るわけがない。愛するのはお前の勝手だ。愛される権利など誰にもない。

2026.2.4(水) 「男のわりには」

「男は」とか「女は」といった巨大な言い方をする人はけっこういて、それが冗談であるぶんには僕はけっこう好きだしその通りと思うことも多い、なんなら自分でもけっこう言う。でもそれは、前にも書いた気がするが「自虐」であるか、「共感的他虐」でなければいけないと信じている。
 自虐というのはわかりやすく、男である僕が「男は~」と男の悪口を言うものである。自分にも多少思い当たる節がありながら、「男」という仮想敵をあえて叩くパフォーマンス。他人事ではないからこそ笑いになる。
「共感的他虐」には2パターンあって、僕という男が「女」に共感して(ある種の名誉女性となって)「男」の悪口を言うのがまず一つ。「男ってこういうとこあるよね~わかるわかる、自分はいま名誉女性なのでそこには含まれずあなたの側に全面的に寄り添っております」という態度。閉じた共犯関係によって大きなカタルシスが得られ、信頼関係の確認にもなる。
 もう一つは、あくまで自分が男であるという立場から離れずに、「わかるわかる、男ってのはそういうもんなんだよな、殺したほうがいいよな」と、女に共感しつつ男として男を叩く。このとき、自分にも心当たりがあるかどうかは関係がない。自虐ではなくあくまで他虐なのだ。2つのパターンの違いは名誉女性という立ち位置をとるどうかで、男が「女」側に寄り添って共感することに変わりはなく、本質的な差はあまりないと僕は見る。
 男女を交換してもたぶん同様に成り立つ。「女って」と自虐するパターンと、「女ってそういう生きものだよね、マジ無理あたしも女嫌いなの」みたいな形で「名誉男性」側の視点から語るパターンと、「女ってそうなんだよね、申し訳ないけどそういうもんなんだから仕方ない、とりあえず同情だけしとくわ」みたいに自分が女の側であることは崩さないパターンと。やはり後者2つには本質的な差はあまりない。
 ひるがえって、「男のくせに」「女のくせに」という言い方はどうだろうか? 僕は例外なく不快に思うし、かなりきわどいギャグを逆説的にあえて飛ばす場合以外には言うことがない。ともすれば誤解されて嫌われるかなり高度なギャンブルなのであまり手を出したくはないが、言えば必ずウケるという瞬間もあるのだ。
 話はぜんぜん変わるがダイアンのユースケ(西澤)さんについて津田さんが「こいつ男やのに短大行ってんすよ」と言う定番のジョークがある。さすがにもう(特に全国区では)ジョークとして成立しないだろうから、今のように売れてからはほぼ聞くことがなくなった。「男やのに」というきわどさ。それはもう今の時代、自虐ですらない。ただのコンプラ案件である。
「男のくせに」「女のくせに」「男のわりには」「女のわりには」「男なのに」「女なのに」こうした言い回しが正解になるタイミングはかなり限られてきた。シンプルな差別としか受け取られない。ところが僕の私感だと「男は」「女は」に関しては、まだもうちょっと延命の余地がある。その言い方にはそもそも価値判断がなくプレーンなので、「自虐」や「共感」をまぶせばかなりマイルドになり、冗談として通用しやすい。また「男は」「女は」という言い方は「男全般」「女全般」について一般的に語るのに対し、先に挙げたほかの例は明らかに「特定の人間」について攻撃する、ないし晒し上げる言い方になる。どちらが暴力的かは論を待たない。前者は例外を許すが、後者は例外そのものを取り上げて、その存在を許さない。
「男のくせに」と言うためには「男は」という前提がまず必要である。「男はこうであるはずなのに、あの人はそうではなくて○○である、ゆえに悪い」という流れ。「男のくせに」と言うとき、「男は」が先に提示されているのならまだマシなのだが、多くの場合「(みなさんご存じで主が男はこうですよね? 言うまでもないから言いませんけど、それなのに)あいつは男のくせに○○だよね」という省略がおおむね見られる。この「暗黙の了解が前提とされている」感じがまた、邪悪さを醸す。つまり「あらかじめ前提を共有している結託した複数の人間が、特定の人間(たち)を叩く」という構図になるから。
 特筆すべきは「男のわりには」である。これはぶったまげる。「男のくせに」は通常、「男はこのように良い性質を持った存在であるが、それなのにその性質を持っていないやつがいる。こいつです!」という晒し方のために使われる。「男のわりには」は逆で、「男はこのように悪い性質を色濃く持った存在であるが、それなのにその性質がやや薄いやつがいる。こいつです!」と、誰か特定の人間を「それなりに褒める」ために使われるのである。
「男のわりには」は、「男という邪悪な集団」をまず(暗黙に)規定したうえで、「その中でもマシなやつがいる」という話として登場するわけだ。誰かを褒めているように見えて、「男」という巨大な邪悪集団をまとめて貶めている。なんつう凄まじい悪口だろうか。たとえば「女のわりには頭いいよね」と言ったとき、その話者はたぶんだいぶ嫌なやつで、あんまり好かれることはないだろう。「女」という巨大な愚鈍集団をまず規定しているわけだから。
 最近なんか男と女が戦争している。やるならもっと冗談でやればいいのに。敵にしか思っていない。いいですか、僕の最大の名言はこれです。「対等ということは、お互いが対等であると仮定することから始まる」。腹ではどう思っていてもいい、とりあえず誰かと対等でいたいと願ったり、誰もが対等であるべきだと思うなら、まずはそう仮定するところから始めなくてはならない。この記事からいくつかの古い文章に飛べるのでご参照あれ。忙しい人は直接ここへ。

2026.2.5(木) 魔神英雄伝ワタル超!感謝祭

 山猫スズメ先生とその娘さま(6)と表題イベントへ。LINE CUBE SHIBUYA、元渋谷公会堂。2月1日の話である。この晩に頭を打ったのであった。人間万事塞翁が馬!
『ワタル』は88年に『(無印)』、90年に『2』、97年に『超』が放送されたほかOVAやCDドラマ、配信アニメなど現代に至るまでさまざまなメディアで展開され続けてきた人気シリーズである。去年は主人公も設定もすべて変えた『魔神創造伝ワタル』が地上波放送され、思った以上に面白くて(わかってて)感動したものだ。
 昼の部、簡単な感想。田中真弓さん(71)はすごい! キャラソンでは歌って踊り、朗読劇では走りまわりながら息も切らさず完璧な「ワタル」として演技しておられ涙が出そうになった。一人称がアドリブのとき一回「オレ」になって、ワタルは「ボク」だろ~と思ったが、超ワタ1話の悪いワタルは「オレ」だったから良し。得した。ワタルファミリーの末っ子山寺宏一さん(64)は大スターの貫禄、歌も上手で一流だった。みなさんもちろん素晴らしかったがハッキシ言ってこのお二人は別格という感じ。誰も異論ないと思う。
 それでも田中真弓さん、伊倉一恵さん、高野麗さんが中心となって(途中山ちゃんも加わって)演じられた朗読劇(公開立ち稽古)は実に素晴らしかった。『ワタル2』最終回の裏側を茶目っ気たっぷりに描く書きおろしシナリオで、いったい誰が書いたのだ? 赤尾でこ先生では?と言ってる人いたけど、確かにそう思っちゃうよね。
 赤尾でこ先生とは、歌手の三重野瞳さんの変名である。そして僕は三重野瞳さんが大好きである。ミエノの歌の魅力については明後日の記事に書く。昼の部では『超ワタル』の前期OPED『ひとつのハートで』『BOYS BE AMBITIOUS』を歌っていらっしゃった。こっそりミエノTシャツを着ていったのだが冬なので誰にも見せる機会なく、終わってからスズメ先生にこっそりと見せた。
 ミエノが舞台に出てきたとき、昂奮が伝わったのか隣の娘(6)が「好きなの?」とたずねてきた。「うん」と応えたら、無言で自分がさっきまで振り乱していたペンライトを差し出してきた。すごく感動してしまった。なんてイイヤツなんだ! ありがたく振らせていただいた(珍しい)。いつもいつでも地蔵なので……。
 それにしても『ひとつのハートで』は名曲だ。聴き惚れながら「なぜミエノの歌い方でなければならないのか」を考えていて、なんとなく思い当たったことがあったので、それを明後日書く(はず)。
 イベントのラストはファーストシリーズのOP『STEP』をみんなで歌った。なんていい曲なんだ……。さすがに泣いてしまったが、その中でずっとミエノを見ていた。ミエノさんは4分くらいの曲のうち10秒くらいしかマイクを自分に向けることなく、ほとんどずっと会場に突き出して歌っていた。これが三重野瞳という人物なのだ。『ひとつのハートで』のあと高齢者(?)ばかりの会場に対して「立っちゃダメなの?」とスタンドアップを煽り、その流れもあってか『STEP』も総立ちであった。赤尾でことしての活動もそうだが、実のところ縁の下の力持ちなのですよね。たとえば彼女の作詞が僕はとにかく好きです。一番は『夜は目をあけて』ですね(キリッ)。たぶんあんまり売れてない最新アルバム『2930』(2007年)ぜひ買ってください。すべてミエノの作詞です。
 終わってからグッズに並ぶ。すでに売り切れ多発。実は昨夜「これでグッズを買ってください」とおこづかい5000円 #頂きぼく していたのだ。そのお金でTシャツと定規買った。定規ヤバい。いまどき定規を公式グッズにするのすごい。よくわかっていらっしゃる。オマケでもらえたポストカードは僕がヒミコ、スズメ先生は海火子であった。完璧である。スズメ先生は海火子がたいそうお好きなそうなので……。

2026.2.6(金) タイタンシネマライブ

 意外にもタイタンライブを観るのは初めてである。金曜はだいたいお店に立っているし。この日は明石家さんまさんがスペシャルゲストというので重い腰を上げた。いやー、行ってよかった。

 爆笑問題 / ウエストランド
 キュウ / シティホテル3号室 / まんじゅう大帝国 / 春とヒコーキ
 とろサーモン / エレキコミック / 流れ星☆ / バイきんぐ
 明石家さんま(古希還暦)

 タイタン所属メンバーと他事務所の芸人たちを見比べることができて非常によかった。タイタンの芸は「演劇」的であると確信した。春とヒコーキが最初だったのだが、演技の質がコントというよりは演劇のように思えたのだ。情報量とテンポで笑わせたり、顔や動きの異様さで笑わせるのではなく、「間と言葉」がその主役である。シティホテルもその系統に寄っている。漫才にしてもまんじゅう大帝国やキュウはまさに「間と言葉」。キュウの今回のネタについてはだいぶ演劇だった。むしろウエストランドと爆笑問題がそこから外れる。彼らは「言葉」が中心にあって、「間」はそれを引き立てるためにある。まんじゅうやキュウは間そのものが笑いに直接的に貢献している。
 爆笑問題とウエストランドは、さすが売れてるだけあって「間」に頼らない。彼らくらいになってくると「間」なんて完璧で当たり前なのだ。夢路いとし・喜味こいしの境地を思い浮かべていただきたい、「間」は彼らの立っている舞台そのもので、そのうえにいとしこいしがいるからそれだけで楽しく、自然と顔もほころんでくるのである。
 ゲスト(タイタン以外の芸人)は揃ってめちゃくちゃ面白かった。そのうえでタイタン勢との違いをあえて考えてみるなら、やっぱタイタンってインテリの笑いなんだなというところか。頭で考えて笑う感じ。「絵が見える」のではなく「論理が見える」というか。このへんはもうちょっと詰めて考えてみたい。
 トリを飾った古希還暦は、古希(70歳)を迎えた明石家さんまさんと還暦を迎えた太田光さんの二人組。「来年もやる」みたいなこと言ってたけどコンビ名どうするんだろう。ま昭和のいるこいるだってずっと昭和だったんだからいいか。僕も「不惑而立」とかやりたい。カッコいい。「志学而立」はもっとカッコいい。
 漫才(?)が長すぎて止めに入った(たぶんそういう演出)田中裕二さんとのトリオ漫才(レツゴー三匹や漫画トリオのカバーやってた)も含め、とにかくみんな楽しそうで嬉しそうだった。太田さんがその状況について「遊んでた」と表現したのも非常に良かった。楽しそうに遊び、それがお客さんや視聴者にも伝染する。それが僕の考える「お笑い」の理想系である。「この世界にもっといたい、離れたくない」と思わせるのが、あらゆるクリエーテブなコンテンツの目指すべきところであろう。
 小さいころ本読んでて、だんだんページ数が残り少なくなっていくのを実感すると「終わってほしくない、ずっとみんなと一緒にいたい」と寂しくなったものだ。さんまさんと太田さん(そして田中さん)の「遊び」のような漫才は十分にそういうものであった。
 爆笑問題の素晴らしいところは「論理が見える」インテリな笑いと、「楽しそう」な遊びの笑いとを両方できる、というか両方の要素が常にあるところだと思う。さんまさんも実はこっそりとそのようなことをしているのだが、熟練しすぎて一見そうは見えない。論理の「くさみ」がほとんど感じられない。最近『人間・明石家さんま』という新潮新書を読んだのだが、そこでもさんまさんが実は恐ろしいほどの博識で勉強家であることが明かされていた。高度に大衆化したインテリの笑いはピエロと区別がつかない(なんのこっちゃね)。ちなみに僕のあんまり好きじゃない芸人たちはみんなそういう「くさみ」を捨てきれていない、ピエロになることのできていない人たちなのだと思う。歌手とかについてもそうだろうな。
 太田さんもいつからか「今この本を読んでいる」「この本が面白かった」みたいなことを以前ほどは言わなくなった。読書量はたぶんむしろ増えているのだと思うが、だからこそ言う必要がなくなってきたのだろう。あるいは言っている暇も。そんなことよりも言うべきことがある。読書の内容ではなく、それを経て自分の中から生まれてきた言葉のほうがずっと価値がある。関数としての自分に自信がついてきたみたいな話ではなかろうか。僕の高校生の頃の日記に「これを買った」「これを読んだ」みたいな記述が多いのも同じ話。もうそんな必要はない。本よりも自分のほうが偉いのだから。もちろん、本に代表される様々なものどもを常に栄養としているからこそ、そうであることができるわけだが。先達に感謝!

2026.2.7(土) 三重野瞳は歌い下げる(礼讃)

 1日に「ワタル超!感謝祭」で三重野瞳の歌を生で聴きながら(1年2ヶ月ぶり2度目)、この人の歌の魅力がどこにあるのかをぼんやり考えていた。考え始めてから数秒で結論が出た。この人は歌っている時に音(ピッチ)を上げないのだ。
「歌い上げる」という言葉があるが、そのイメージは「天城〜〜↑越〜お↓お↑↑えぇ〜〜↑↑↑」みたいに上がっていく感じ。三重野瞳がこれを歌ったら「天城〜〜↓越〜お↓お↓えぇ〜〜↑↑↓」って感じになる(脳内再生余裕)。文字では伝わらないと思うけど……。
 なんと言うのでしょう、歌手によっては語尾(音尾)をフッと上げる感じの歌い方をすると思うのだが、ミエノはフッと下げる。ほとんど常に。これが安心感や優しさのある表現につながっているのではないかと思う。
 三重野瞳の『ヤッホー!』『Dearest』という曲は、それぞれイズミカワソラ『ヤッホー!』と沢田聖子『親愛なる人へ』のカバーである。またワタルの主題歌『STEP』を歌った音源もある。これらを聴き比べると、上げ下げの違いがよくわかる。平成J-POPの歌い方は音の末尾を上げていく方向性なのだろうなと思っているが、ミエノは逆である。そのせいでイマイチ売れなかったのではなかろうか。しかし僕のようなハイセンス逆張り男にはむしろ響く。
『STEP』の原曲は「君の↑ 涙↑ 最後にする↑ワケは→」というイメージだが、ミエノは「君の↓ 涙↓ 最後にする↑ワケは↓」というような感じで歌う、少なくとも相対的には。実際の音の上下は僕には実のところ検証できないが、与える(僕が感じている)イメージはそのようなものなので、個人の感想としてお許しいただきたい。もう少しわかりやすいところだと、「虹の橋がもうすぐかかるから」の「る」の部分が低くなるのがミエノの特徴。こういうところにグッとくるのです。
 とか言ってますが今JIKKAにいて音源の確認ができていないので、すべて僕の妄想、勘違いという可能性はあります。今度検証して間違ってるようなら謝罪文出します。
 なんにしても僕の思うに、三重野瞳の歌い方は柔らかくて優しい。普通の歌手なら「歌い上げる」ように歌うのを、彼女はむしろ「歌い下げる」かのようにする。「上げる」文化に慣れきった身としてはいつでも新鮮で、しかし心が休まる。代表曲『ひとつのハートで』も、他の(歌うま系 or 陶酔系の)歌手ならたぶん「たったひとつのハートで〜↑」と歌うだろうが、ミエノはもちろん「たったひとつのハートで↓」と踏みとどまる。そこには決意がある。「守りたいんだ君を〜↑」よりも「守りたいんだ君を↓」のほうが信用できる。「僕の大事な人が」の「が」をしっかり低くしてくれる安心感よ。ここを高く伸ばして余韻をつけると切なさが勝ってしまう。そのほうがエモい(ゆえ売れる)のかもしれないが、僕はミエノの素直な歌い方が一等好きである。
 さらに感覚的な話をすると、ミエノの歌い方は「聴かせる」のではなくて「伝える」なんですよね。歌が上手い人は「私の上手な歌を聴いて楽しんでください」という雰囲気を持っている(気がする)が、ミエノは「こういうことです」と歌の中身をそのまま伝えてくる。「たったひとつのハートで守りたいんだ君を」と、そのままただ発しているだけなのである。歌のために曲があるのではなく、曲のために(さらに言えば言葉のために)歌っている。僕はそういう歌手が好きなのだ。Amikaさんもそういう人である。小沢健二さんは自分でそのようなことを言っていた、ある日のMCで。
 歌手が「歌い上げる」のは聴き手が気持ちいいからだと思うが、ミエノは歌い上げない。気持ちがいいかどうかではなく「こういう曲である」ということのほうが大事で、ライブでも「こういう曲だからこう盛り上がりましょう!」という姿勢を感じる。ミエノは作詞家で脚本家で構成作家で絵本作家でもありますから、文芸的な「中身」をしっかり問題にするのでしょうね。というかそういう歌手だったからそういう仕事に移っていったのでしょう。で、そういう歌手だったから『ひとつのハートで』を聴いた中学1年生の僕は(もっと言えば『瞳にDiamond』を聴いた小4の僕は)三重野瞳さんを大好きになったわけであります。

2026.2.8(日) 小さなおうちはどうなるの

 急がず焦らず、のんびりと準備して東京駅に向かい、どうしてもそばが食べたかったので「そばいち」というお店でカレーそばを食べた。そばを食べたかったのにカレーそばを選ぶ僕はなんて無邪気で可愛らしいのでしょうね? 単にダシが効いてればなんでも良かったのだろうが、カレーという文字を見たらカレーを食べたくなるのだ。いい奴だな。
 雪で遅れていた。混んでいた。窓際が良かったので「のぞみ」は見送り、14番線の「ひかり」に乗ろうかと思ったが15号線の「ひかり」が急遽「のぞみ」になったか番線変更があったかなんかでそっちのほうが早く来そうだったし列が空いてたので並んで乗った。2号車先頭の窓際をゲトー。通路まで満席になるほどの混雑だったがそれなりに快適に移動できた。
 最寄り駅→川崎410円、横浜市内→名古屋市内5720円と分割して買った。6380円が6130円になるハック。ちなみに東京(または神田や新日本橋)→川崎にすると320円なのでさらに90円安くなる。フーフー(興奮している音)#1円でも運賃・料金が安くなると嬉しい鉄
 新幹線は自由席で4180円。合計10310円(あるいは10220円)は実のところ金券ショップのほうが少し安いが「名古屋市内」がつくのと「えきねっと」で買えばJREポイントが300pt以上貯まる(JR東海管内でも率は下がるがちゃんとつくのだ)のでこちらのほうがいい。
 ちなみに帰りは(フーフー)同じ分割きっぷを買い、浜松行の新快速に乗り、浜松から新幹線で静岡、一度下車して静岡から三島まで新幹線、そこから在来線で熱海からはグリーン車(優待券で無料!)に乗る。フフフ……ポイントはロングシートが三島-熱海間のみになること。浜松行の新快速(かなり少ない)に乗れれば勝利確定。浜松→三島の自由席は2530円だが、浜松→静岡と静岡→三島に分割すると各990円で1980円となる。すると合計8110円(あるいは8020円)というわけだ。それで浜松、静岡で途中下車して遊べて最高。フーフー
 ※フーフーの元ネタは武富健治『鈴木先生』の竹地です。名作なので読んでね!

 狂っているので電車の話をすると早口になっていけない。名古屋に着きました。まっすぐ帰ればいいのに地元駅で一軒だけ飲み屋に寄ってみた。それが「ミ・カシータ」、小さなおうちくらいの意味らしい。ボドゲの店のようだから「求心性が高そう」と敬遠していたのだが日曜の夜でも朝5時までやっているという心意気を買って初めて入ってみた。こんな立地(駅からも遠い雑居ビルの上階、そもそも大曽根には深夜人間がいない)で成り立つのか?と思ったら、なんと9年も成り立ち続けたらしく、これは「何かある」と思わざるを得ない。ただ2月22日で閉店とのこと。すごいタイミングだ。いま行かなければ二度と行くことはなかろう。
 入店すると店主らしき女性とお客が一人、ソファ席に座ってチルアウトしていた。店内はかなり散らかっており、カウンターの上はモノがいっぱいで座るべきではなさそうである。カラオケもある店なのに完全に無音。どう考えても営業しているようには見えない。普通の人間ならば「ア、間違えました」とか言って出ていくところだろうが、僕はむしろ針のむしろ感を感じつつ観察していた。10秒くらいで「たぶんいい店だ」とわかった。単純に、店主もお客も見知らぬ僕が入ってきたことをまったく嫌がらなかったからである。若い女性店主だったのでもっと警戒しても良さそうなもんだ。胆力がある。
 2時間飲み放題プランを選び、結果としてハイボール、ワイン3杯、レモンサワー飲んだ。「ジキルとハイド」という韓国のボドゲを遊んだ(面白かった)。求心的!?と思ったが、一人いたお客が最近ボドゲにハマった方だったからであって、店主曰く「ボドゲもカラオケもやらなくていい」。おっしゃっていたことを総合して要約すると「何をしていてもいいし、その選択肢は広いほうがいい」ということなんだと思う。いろんな人がいて、いろんな気分の時があるのだから、やることを限定すべきではないと。遠心的な魂を感じて、思わず名刺を渡してしまった。実際ほかのお客が終電でお帰りになってサシになってからはひたすらずっと話していた。この方実のところかなりの才媛で、とある近所の旧帝国大学の理系学部に現役で合格していたそうな。しかし1日も通わなかったという。その周辺の事情もいろいろ聞かせていただいたが書くのは遠慮しよう。すべてめちゃくちゃ面白い話で、いい時間だった。
 もうちょっと早く行けばよかったな。しかし後悔先に立たず。火曜日にもう一度行けると思うので、その際に『夜学バーのつくりかた。』(通称句点)を渡してみようかな。どんなお客さんがついているのかも気になるから、22日は顔を出してみたい。さすがに無理か……。

2026.2.9(月) 名古屋店外1 友達観光

 朝9時半に大曽根駅でお友達と合流。時おりご来店くださるお客で、名前も素性も知らないのだが先日お店で話していたらたまたま同じ日に名古屋にいることがわかったので折角ならと。よく考えたら「店外(てんがい)」である。しかも遠方。キャバ嬢とかが温泉とかに連れてかれるアレ。パパ活の源流(?)。でも現地集合ってのはあんまりない気がする。
 知らないおじさんから押し売りされた「喫茶はじまり」の珈琲チケットが使い切れないので手伝ってほしかったのだが臨時休業だったのでたかゆきくん(2000年頃の日記参照)ちの近所「ヴィーナス」でモーニングをとる。大曽根ではもう一番好きだな。ここは「女性の店」で、もう一つのお気に入り「大臣」は「男性の店」である。喫茶店ってこの2種類に大別できる気がする。細かいことは長くなるので直接おたずねください。残念ながら大臣のほうは最近閉業してしまった。ラーメン二郎(New!)の向かいらへんにあったのだが。
 上飯田南荘のほうをまわって「つねかわ」へ。混んでいたので「あとで来るわ~」と先に矢田川に出る。水辺を歩く。いつ来ても矢田川はいい。僕のすべてを育んだもの。いつでも涙を洗い流してくれた。天気がよくて本当によかった。
 つねかわに戻るがさっきよりもっと混んでいたので「4つの集合住宅」(「場の本」参照)や小学校のあたりを歩き回る。学区内にある酒蔵「金虎」でお酒を買って(梅酒を買ったらウメをくれたぞ!)、ふたたびつねかわ戻るとやや空いていたので入る。まだロキポで見られると思うがついこないだ「キャッチ!」というローカル番組で取り上げられたらしく、開店から押すな押すなの大繁盛だったそうだ。つねかわがメディアに出るのは珍しいことではない(壁は色紙だらけである)が、駅から遠いし駐車場もないので今日ほど混むことはめったにない。平日の昼間なのに! 放送直後となるとさすがに影響あるようだ。3月下旬にはNHK「あさイチ!」の放送も控えているとのこと、全国版だしまた忙しくなるのだろう。そういえば僕も木曜喫茶(無銘喫茶)時代に密着されたことがあるけど、それ見て来たって人はあんまりいなかった。
 開店から51年。おばちゃん死ぬまでやる気らしいがいつコロリと行くかわからんのでここの読者は無理してでも早めに行ってください、11時くらいから20時まで、年中無休。冠婚葬祭と病院以外で休むことは基本的にありません。正月は不明だけど。
 マヨたません、おこそば、お好みイカ肉(醤油)、スナックロール、もちチーズ、こんじょう焼き、そしてビールを2本、二人で豪遊した。のどごし生という発泡酒(500ml)をつねかわではビールと呼ぶ。かつては店内に「ビール」というメニューが貼ってあったのだが今では隠しメニューになっている。
 つねかわはいまだに年々メニューが増えて行っている(異常である)のだが、今回注文したものはすべて30年以上前から存在する。小中学校の時に食べていたようなものたち。当時から今まで、つねかわに座ってもちチーズを食べなかったことはたぶん数えるほどしかない。みなさんも一度おためし下さい。(参考文献:芝浦慶一『水道』)
 僕の接客スタイルや店づくりの基礎にはこのお店の影響がけっこうある。一番の根っこは祖母が松本で経営していた喫茶「駒」だが、その次はつねかわだろう。おばちゃんは不用意に名前をたずねたりしないし、僕が見知らぬ女性を突然連れていっても関係を詮索することはない。「個人情報だで。最近うるさいもんでかん」と今は言っているが、こういう場にとって個人情報は意外とノイズになるともどこかで考えているのではなかろうか。んま近所の人の噂話は平気でしてくるけど。それは「同時」で矛盾はしない。ちなみにおばちゃんは大阪の人だが名古屋が長いので方言はハイブリッド。経営感覚や接客も名阪のいいとこ取りという感じがして、そこも面白いところである。
「キャッチ!」でも取り上げられていたが、つねかわは狭いので見知らぬ人との会話が生まれやすい。おばちゃんがお喋り好きなのもあろう。そこがやっぱり僕の原点にあって、そういう店しかやる気にはならない。
 駅に戻り、改札で見送る。ふるさとフルコースを堪能(?)して頂いた。友達の生まれ故郷というものはそれだけで観光地になる。僕もこれまで徳島の池田や静岡の清水などで友達に「ツアー」を頼んだことがある。あれほど楽いことはかった。誰もが楽しいとは限らないし関係にもよるのだろうけど、その人についての理解や気持ちにより厚みが出るような気がする。

2026.2.10(火) 名古屋店外2 那古野→女子大→大曽根→神宮前

 名古屋でテンガイといえば天野天街さんだよね~というローカルジョークは置いといて。少年王者館は青春です。ところでアマノドラッグとかカメラのアマノとか、キャイ~ンの天野ひろゆきさんとか愛知県にはアマノが多いのです。天野こずえ先生はたぶん違うけどルーツが名古屋圏にある可能性はゼロではない。
 9日は15時くらいに帰って昼寝(夕寝)して親孝行に努め、どこにも遊びに行かなかった。そういう日も必要だ。
 10日、16時13分、甲斐国在住のボウ(某)氏からDMがあった。
「(8日の)日記を見て(ミ・カシータに)行ってみたくなりました(ので会社を飛び出し今から名古屋に向かいます)」と。ギン氏もあれを見て「行きたい!」と思ったそうなので、よほど訴求力の高い記事になっていたらしい。あんまり詳しくは書いていないのだが、それがまたよかったのかもしれない。親孝行しながらUPしてよかった。というわけで2日めの「店外」が確定したわけである。ちなみに「小さなおうちはどうなるの」の元ネタは奥田民生『近未来』であります。名曲。

 話は前後してこの日は昼すぎに家を出た。歩いて矢田川を渡り守山区の「ぽかぽか温泉」へ。朝6時から15時までWi-Fiと電源とフリードリンクと漫画とゴロ寝スペースのある休憩所が「モーニング」と称して無料になる神湯なのだ。入浴料530円のみ。神……。(参考文献:芝浦慶一『神をさがせば』)
 15時までポチポチ作業してお風呂に入り、また歩いて守山アピタへ。スガキヤ食べる。そして歩いて新守山駅から大曽根駅へ移動(160円)。フフフ……。なんて効率のいい移動なんだ……たかまる……。昂奮する……。
 コーヒーチケットを押し売りされた(お店の人から押し売りされたわけではないことを名誉のため記す)「喫茶はじまり」は定休日のはずだがまちなかのイベントに合わせて16時から数時間だけ開いているようだった。チケット使いたいので行った。来店は3回目くらいだが前回「スナックはじまり」と称する週末営業(ここで押し売りに遭った)で覚えて頂いたようで、入ってすぐ「名古屋にお帰りなんですね~」と声をかけていただいた。
 もちろん「押し売り」というのはネタで言っているのであって恨みや後悔はないが、あれは押し売りでしかなかったというか、僕のような心の弱い人間には断ることが不可能な流れをつくられたのは間違いない。おかげで向こう1年間はけっこう頻繁に名古屋に帰ってこねばならない。うれしい悲鳴である。名古屋好きだし、両親も年ですからネ。またそれによってこの店の「ウチ」に入り込めたという功能もあった。
 このお店は良くも悪くも「地元密着型」で、僕のような新余所者に対しては(他の名古屋のお店と同様に)閉鎖的、排他的な傾向がある。地方に行くと頻繁に発生する「どこから来たの?」とか「ご旅行ですか?」といった声かけは名古屋では極端に少ない。このくらいの大都市になると余所者なんて「いて当たり前」で珍しくもなく、「日常的なノイズ」として無視されるのである。良く言えばそれは「身内の輪に無理矢理入れるのも申し訳ない」という気づかいでもあろうが、旅行に慣れた身としてはさみしく思ってしまう。
 ところで新余所者(シン・ヨソモノ)とは僕が今つくった新しい概念で、「本来は余所者ではないのだが時を経て余所者になった」というニュアンス。ひょっとしたら僕のほうが古い大曽根を知っているくらいなのだが、今住んでなくて頻繁に通って来ないのならやはり自分は余所者なのである。
 名古屋の人は「ウチかソトか」の判定を重んじる。いったん「ウチ」に入ってしまえばそこからは急速に距離が縮まっていくのだが、「ソト」の人間は徹底的に排除、無視する傾向にある。もしかしたら僕は深層意識においてそのことを若い頃から感知していて、それでどうしても東京に出て行きたくなったのかもしれない。言語化できるようになったのはずっと後であるが。
 町おこしには内向きと外向きがある、という話はまた今度にしよう。長くなるので。

 地下鉄の24時間券を買い、覚王山で降りてチェコと古本の店「cesta(ツェスタ)」へ。細く長く通っている名古屋では数少ないお店。18時の開店と同時に入り、30分くらいだけお邪魔する。短時間でチェコビールとチェコアブサン飲んだので酔っ払ってしまった! こんなはずじゃなかった! こちらは本当にバランスよくやられていると思います。開き方と閉じ方が絶妙で、心地が良いし鼻につかない。しばらくはこの「開き方と閉じ方」という観点からお店や場を見ていくことになると思います。そういうブーム。
 藤が丘のサイゼリヤへ。同級生のボードバカ(彼が高校の頃から使っていたハンドルネーム)一家と待ち合わせる。子供3人と奥さんとで計6人。ここでの話もあとにしよう、長くなるから。
 国際センター下車、藤一番で腹ごしらえ、ちょっと円頓寺と四間道を散歩。えんどうじとしけみち。どちらも変換できない。がんばれよATOK for 一太郎2021!
 バー・パプリカへ。ここでようやくボウ氏と合流。2人で計4杯飲んで2700円だった。価格破壊。名古屋では屈指の文化度を誇るいい店なのだが、立地と狭さ、営業時間の短さなどもあってイマイチ目立たない存在となっているのが勿体ない。こういうお店が那古野(なごの)地域にいくつか集まっていたらいいんだけどナァ……。さすがは文化不毛の地と呼ばれる名古屋だワ。
 日付が変わるころ女子大小路に移動、「ブルズバー」に行ってみる。けっこう好きだな。78歳の多趣味な店主。たぶんSM(好きが集まる)バーとして認知されてるのだと思うが、店主は頑なに「変わった趣味嗜好」とか「趣味が多い」という言い方をする。SMに限定されたくないのだろう。わかる。そういうところも非常に好感が持てた。
 近所を探索、ボロボロのビルに入って感嘆していると定休日であるはずの「Book Bar Spenser」が開いていた。11月に開店したばかりの新店で、さっき調べて知ったばかり。ブックバーというブックバーを僕は基本的に信頼していないのだが、せっかくなので入ってみた。気の抜けたけっこういい店だった。「別のバーで働いていたり飲み歩いていた時の知り合いだけで売上は出るので基本的に新規顧客の獲得は考えていないが、知らない人に来てもらえるとやっぱり嬉しい」とめちゃくちゃ素直で素朴な感想を伝えてくれて、ある意味なかなか言えるこっちゃない。SNSなどの広報は確かに力を入れていないが、まったくしていないわけでもない。「新規顧客は要らない」「でも新しい人にも来てほしい」という狭間に浮かんでいる様子。「女子大にはこういう文化的な香りのするお店が少ないので嬉しい」と伝えると、「ありそうなのに」と返してくれたので、それなりに色々わかっている人ではあるのだと思う。今のお客さんはほとんど本を読まない人たちばかりだというが、少しずつ変わっていくかもしれない。定期的に通って観察してみたい。
 大曽根に移動、本丸の「ミ・カシータ」へ。この日もお客は終電までに帰ったらしく、店主はひとり原神をやっていた。偉いのだよ。客がいなくても帰るのではなく「自分の時間」としてありがたく活用している。僕もお客がいないとたいてい本を読むか文章を書いている。いい時間だなと噛みしめながら。たまに焦ったりもするけど。もし夜学バーが毎日朝まで営業するお店になったなら、読書時間が増えると前向きに考えることもできるわけだ。
 店主と話しつつ、また一個だけボードゲームをやった。ボードゲームをやっている間はボードゲームしかできない(名言!)のでいつもあまり気は進まないのだが、22日に閉店してしまうというのだからむしろ体験しておきたい。「ビンゴリノ」というのをやって、やっぱり店主が勝利した。さすが、頭いいのだ。各種ゲームは閉店セールで売りさばいているらしく、ボウさんにアクトレイザー買ってもらった。電池入れ替えてあるらしい。すごい。ワーイ!
 朝が近づく。前にボウさんをお連れして大いに気に入ってくださった早朝4時に開く名喫茶「ロアール」へ。始発まで過ごす。ここでモーニングをいただきながらビックコミックオリジナル読むのがもう至福中の至福。前回は五階(と僕は呼んでいる)の窓際の席で朝日を迎えたが、今はまだ夜明けが遅いし三階(と僕は呼んでいる)の雰囲気も味わってほしかったので登らなかった。もうちょっと遅い時間だと三階は埋まっていて四階か五階に通されることが多くなるから、実のところ三階でコーヒー飲めるのはちょっとレアなのだ。
 家に着いてもまだ夜は明けていなかった。両親も寝静まっていた。この人たち夜更かしだから起きて待っててくれたらどうしよう(申し訳ない)と思ったが、お父さんは昨晩めっちゃお酒飲みながら長時間話したので「息子欲」も落ち着いていたのだろう。その辺の話はまた書きます。
 11日はすでに書いたように朝から動いて浜松と静岡に寄ろうと思ったのだが身体を慮って、そして少しでも実家にいる時間を延ばしたくて昼まで寝た。喫茶はじまりでもう一枚チケットを消費して、電車乗って、ガラガラの「ひかり」自由席でゆったり帰った。14時31分発の「ひかり」は豊橋に停まる以外「のぞみ」とまったく同じ停車駅なのに、自由席が5号車まであるのである。フフフ……。移動ハックだいすき。早めに着いたので早めにお店を開けたがお客は数時間来ず、ずっと本を読んでいた。

○メモ欄
僕の友達がその奥さんを好きになった理由を奥さんが考察
ささやかな親孝行
町おこしの力の向き
高市「暗い話せんといて~」 メモ:卑弥呼弥呼弥呼卑弥呼弥呼~
なぜ日本はうまくいくのか メモ:僕は、中根千枝ちゃん!
なぜ思想が強まっていくのか 思想が強いとはなんなのか メモ:高市三部作(予定)
河村たかしの事 メモ:おもしれーやつをたてないかんダワァ

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