ひごろのおこない/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。
過去ログ
2025年8月
2025年9月
2025年10月
TOP
2025.9.1(月) 休暇と切り替え
2025.9.2(火) 老人になって勾配を崩そう
2025.9.3(水) 余は如何にして老人となりし乎
2025.9.4(木) スズキさんの慧眼:マチアプについて
2025.9.5(金) 夜学バーと「出会い」
2025.9.6(土) ガストと空調
2025.9.7(日) それでも来るか、君はこっちに。
2025.9.8(月) 無理をする
2025.9.9(火) ガルバとキャバ(識者Aの話)
2025.9.10(水) ガルバとキャバ(識者Bの話)
2025.9.11(木) ガルバとキャバ(Jの私見)
2025.9.12(金) キャバとガルバ(総評)
2025.9.13(土) キャバとガルバ(振り返り)
2025.9.14(日) 前髪の頃
2025.9.15(月) 素晴らしいうどん屋(一)
2025.9.16(火) 素晴らしいうどん屋(二)
2025.9.17(水) 1・2の参政党!!
2025.9.18(木) みんなの願いを叶えましょう
2025.9.19(金) ガルバは「減る」のか
2025.9.20(土) ラップと短歌
2025.9.21(日) 近況(総集編)
2025.9.22(月) 進次郎話法
2025.9.23(火) 練習問題(不発の核弾頭)
2025.9.24(水) 参政AIと多数決
2025.9.25(木) つかれ た
2025.9.26(金) 熊谷の名店
2025.9.27(土) 上達と下達(現実と常識)
2025.9.28(日) 「お待ち遠さま」の美学
2025.9.29(月) 憧れと遠心
2025.9.30(火) 勝ち続けなきゃならない……?
2025.9.1(月) 休暇と切り替え
休んだ休んだ。いまは4日の13時。日月火水と4日間も夜学バーは非番であった。おかげさまで全日営業はできて、日曜と月曜はお客として少し顔を出した。火水は完全に休暇、伴って二日間の休肝。今のところ肝臓の値は信じられないほどよいのだが、胃腸も荒れるのでね。休胃腸日。
4日くらい休んでようやく、3日めか4日めに動き出すことができる。昨日は8時から15時までガストにこもり、2時間かけてお風呂のすべてを掃除した。その後はゴミを捨て散歩し本を読むなど。今日はすでにあれこれやって、これからいろいろなことをこなし、夕方からお店。
「休む」というのは僕にとって「モードの切り替え」みたいなことか。日月にお店に行ったのも緩やかに切り替えるグラデーションをつくるためだったか。日は友達と、月は呼び出されてだったが、ちょうどよかった。火水は呼ばれても行かなかったかもしれない。
ちまちまとスマホでリサーチし大きめの買い物を済ませたり、こまごまとしたものを買い集めたりなども「そういうモード」でないとできない。永遠に床に置きっぱなしになっていたものも拾えたりする。
自転車のサドルバッグ買った。これでギター背負いながら自転車に乗れる。小径車用のチューブも買った。10月4日の新潟ライブ(自作自演)に向けて着々と準備が進められていく。
長めの休暇は僕を解放する。火曜の夜に集中的に日記を書いた(8月も力作ぞろいなので読んでね!)が、水曜はPCを触っていない。完璧なるオフ。ドラえもんのお誕生日だった。楳図かずお先生も同じ日、と思ったら岸田メルもそうだった。翌4日は伊倉ゆうのお誕生日だそうだ。後者二人は名古屋時代のお友達(それぞれ一個先輩と一個後輩、どちらも高校は違う)、なんとなく奇縁を感じる。とりあえず「いいね」だけしといた。2日は
うなぎ(岐阜)のお誕生日。みんなおめでとう。
「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買い来て妻としたしむ」とは石川啄木『一握の砂』にある歌。26歳で死んどる。しかも4月に。明治の尾崎豊。没年は大正元年だが尾崎も平成まで生きたワね。
岡林信康も26の4月にでも死んでいれば文字通り神様になったのだろうが後年「ジェームスディーンにはなれなかったけれど生き続けることができてよかった」と歌っている。その前にすでに『26ばんめの秋』なんて曲もありますから、これは26の春というもの、それを乗り切ることがいかに天才にとって大変かを語っているようにも思える。
小沢健二さんはニューヨークに移る直前、29歳の冬に『春にして君を想う』という老人のような(?)曲を出した。天才は20代の後半くらいで老人にならざるを得なくなる。『26ばんめの秋』もそうだったと思う。尾崎や啄木はそれができず死んだ、というと都合よく物語化させすぎなのだが、仕方ない。僕の友人の西原夢路くんも26で死んだが、彼も老人になることができなかった人だ。
では僕はいつ老人になったのだろうか? あるは未だ成らずや? みたいな話を次に書くかも。出かけてきます。
メモ 奥井亜紀さんなら『Iのこころ』、川本真琴さんなら『アイラブユー』が、おそらくどうやらなんらかの切り替えの起点となったらしいようなタイミング。二人ともそんなようなことをどこかで言っていた。「これが書けた(歌えた)おかげで」みたいな。岡林が『26ばんめの秋』について言っていたことによく似ている。いずれも「長期の休暇」を経験したミュージシャンである。
2025.9.2(火) 老人になって勾配を崩そう
先月10日と11日あたりに書いたことにも関わるが、年齢というのは実に厄介で、いわゆる「権力勾配」(流行語ですよね~)を導く。
僕は「ドラえもんチャット」にハマった15歳のときに「年齢というものは考えないようにしよう」と思い、同時に「年齢ということを考えないでいいインターネットという世界はなんて素敵なんだ」とも思った。チャットに入ってきた人とは問答無用でタメ口を利くようにしたのである。「問答無用で敬語」のほうが普通なのだが、当時のドラチャには前者のほうがふさわしい雰囲気があった。『ドラえもん』という作品を至高とする価値観の世界に敬語を持ち込むのは野暮なのだ。しかしそのせいで管理人の「とも」や「くら」なんかと実際会ったとき、どう喋っていいかわかんなくて文字通り閉口してしまった。そこで「インターネットってのは万能ではない、結局はみんな肉体を持って現実に生きているのだ」と悟り、やがて「お店」という空間のほうに意識はシフトしていく。(以上、自分史。)
いつかの僕がそう結論したように、「結局のところ年齢差というのは存在し、どうしても意識はしてしまう」のであった。僕はそのことをつまらないと嘆くが、向き合わないわけにはいかない。
「学校の先生」というのは「権威的でありながら、舐められることも同時にできる」絶妙な存在で、そのことにはずいぶん助けられた。生徒と「対等」のようになることは難しくない。それはなぜかというと、「生徒と教師」という距離が「孫と祖父母」くらい離れているからなのではないかと思い至った。ただしこれが「担任」となると「子と親」くらいの距離になって勾配が機能し、うまくいかない。
「孫と祖父母」あるいは「生徒と教科担任(ないし授業を受け持っていない教員)」というのはちょうどよく遠い距離で、勾配の発生を防ぐことがしやすい。
権力勾配が発生するのはむしろ「距離が近い」からで、「年齢が離れている」からではない。部活の1~2年先輩、というのが最も勾配キツい場合ってあるじゃないですか? ところが「5年先輩」とかだと直接の利害関係があんまりないのでかえってほとんど対等に接することができてしまう。『究極超人あ~る』のたわば先輩的な。
すなわち、年齢でいえば「絶妙に年上」くらいが最も勾配がキツい。「かなり年上」であればそれは緩くなる。老害は、その緩さを理解せず未だ勾配がキツいものと思い込んで若者にキツくあたるから嫌われるのである。「年寄りは黙ってろ」と思えるのは勾配が緩い、あるいは逆転しているからで、「対等」を是とする考え方にとっては実のところ歓迎すべき現象なのかもしれない。
というわけで「みんななかよく」を実践しようと思ったらとっとと老人になるに尽きる。ジャニーさんの話はしていない。あれも深く関係するとは思うけど話が複雑なのでここでは深入りしない。
簡単にまとめると「大人は子供から信用してもらえないが、なぜか老人は信用してもらえる。それは距離が遠すぎて勾配が緩くなるから」という主張である。数学的な話でもあるのだ。
若者に人気のあったカリスマが老害のようになっていくのは、いつまでもそこに「勾配」があるものと思い込むからである。それは「無理な若作り」とか「気持ちだけは若くて」の結果でもある。老人になってしまえば「勾配」は霞む。みうらじゅんさんが最近「老けづくり」という言葉を作っていたが、流石だ。自らの権威化、老害化を予防するにはそれに尽きる。
2025.9.3(水) 余は如何にして老人となりし乎
ドラえもんと楳図かずお先生のお誕生日にはふさわしい話題のように思う。
若者のカリスマが大人になれば、そこに「距離」ができて「変わっちまった」と嘆かれる。一足飛びに老人となって「ものすごい距離」をむしろ作るべきである。タテの距離よりもヨコの距離を長くすることで勾配を緩くさせるわけだ。人は「近くて高い」ものを崇め、「やや遠くて高い」ものを嘲り、「とても遠くて高い」ものに対して無関心となる。仙人とか「旅人!」とか、みんなはそう言うだけ~。(←歌ってる)
たとえば小沢健二さんのファンとかでも、昔は「近くて高い」と思って崇めていたクセに、ちょっと自分とのズレが出てくると「変わっちまったな」と嘆いて「昔はよかった」だの「オザケンは○○までだよね」みたいに批判するようになる。中途半端な遠さにあるうちはそうで、もっととことん遠くまで行ってしまえば「もう自分とは関係ない」と批判をやめる。そういう性質が人間にはあると思う。
僕は今のところ、比較的、いろんな人から「遠い」位置にいることができていると思う。「近い」と思われるとトラブルになるし、「やや遠い」くらいだと叩かれるので、「遠い」状態でおりたい。例外や失敗もあるが、(能力や魅力のわりに)それなりにうまくできている自負はある。なぜかといえば、自分がちょっと老人のようからであろう。ではなぜ、いつ、僕は老人となったのか?
遡るのは2007年7月15日、小沢健二さんと初めてお会いした日である。ここから徐々に余の人生は「余生」へと進んでいった。詳しくは「氷砂糖のおみやげ」の該当回を探して聴いてください。最も尊敬し、憧れていた人間と仲良くなれたことにより「自分の人生はこれでいい」と思えたのである。もっと美しく言えば「もう自分のために生きる時間は終わった」と。
誤解されたくないのでもう少し説明しておくが、これは単に「ミーハー心が満足した」ということだけではない。「欲望というもののちっぽけさ」を、手に入れて知ったわけである。「こんなちっぽけなことなのか」と。小沢さんと会って話して、仲良くなったからなんだというのか? こんなことどうでもいいことじゃないかと、贅沢にも思えてしまったのだ。「重要なことはこんなところにはない」と改めて思えた。もちろん当時小沢さんが展開していた『うさぎ!』とか『おばさんたちが案内する未来の世界』が呈示してくれたものや、その頃耽読していた橋本治さんの影響もかなり大きい。「大事なことは、少なくとも自分が精神的に満足することではない」と実感できたって感じだろうか。「アーこれは次の段階に入ったな」「もう自分の内面とか悩みとか欲望とか目標とかをこねくり回して生きていくターンではない」「もっと恐ろしく大きいものを知ってしまったぞ」というような。
釈迦が悟った直後のようになすべきことを失った僕は瞑想しながら(?)「これからどうすればいいのか?」と考えた。ここで「では他人のために生きよう!」とボランティアや政治活動に精を出すのは僕の人生としては愚かである。それは「別の生きがい(≒若さ)」を模索する行為だからである。釈迦だって「他人を救おう」と積極的に思ったわけではなかろう。想像だが、ただなんとなく生きただけのような気がする。問われたことには答えるし、思ったことは口にする。べつに無理して黙っている必要はないし、なすに任せなされるに任せたという感じではなかろうか。シャカレベ(自称)となった僕もそれから、ほとんど主体性を失ってしまった。やりたいと思ったことはやるし、できるだけ自分の負担にならないような生き方に努めてきた。しかし「こうなりたい」とか「これをやりたい」といった野望はほとんどなくなった。22歳にして老人の境地となった。逆に言えば、そのおかげで教員にもなれたし『9条ちゃん』以下一連の作品が作れたというのは何度も語ってきた通りである。「こうあるべき」という肩の力が抜け、「なんだっていいじゃない」と気楽になれた。
僕が成城学園中学校で働き始めたのは2008年6月1日からで、無銘喫茶の週一店長もこのころ始まった。もうだいたい老人としての僕はできあがっていた。主体性と常識はほぼ欠落し、「公園で子供と遊んでるヤベーじじい」みたいになっていた。ジャニーさんの話はしていない。「主体性と常識はほぼ欠落し」というのは重要である。ここに肉体的な若さと精神的な未熟さが加わってかなり不安定な状態でもあったが、一方で知性だけはぐんぐん伸びていた。この頃の日記はたぶん面白い。
それから長い時が経過し、良くも悪くもより老人となってきた、と自分では思う。「死にたい」と言う人間に対し「死ぬな」と言うことはもうずいぶん長い間できていない。ただ微笑んで茶を飲むのみである。
2025.9.4(木) スズキさんの慧眼:マチアプについて
スズキさんは今日もいた。「むかしはボーイフレンドやガールフレンドがたくさんいた、それが当たり前だったの。女の子なんか特にそうだよ? いろんな男と同時に付き合ってさ、その中からいい男を選んで結婚するんだもの。フッたりフラれたりして経験を積んでいくんだよ。男はフラれるのが当たり前。そうやって免疫力を高めていくんだから。今はさあ、一人一人との付き合いが濃くなりすぎたんだよ。思い入れが強すぎる。だから別れ方も下手だしな。」
するとママ(大ママの娘さん)が「すぐ殺しちゃうもんね~」と合いの手。本当にいい店だ。
「草食系男子なんてのは信じられない、俺なんかの頃だったらビョーキだよ。そういうことしか考えてないんだから男は。」
云々。スズキさんの語ることはいつも守旧的、懐古的でありながらも聞くべきところがある。「一人一人との付き合いが濃くなりすぎた」というのは慧眼ではあるまいか。
マッチングアプリなんてのは顕著だが、みんな「一対一」というものを過信しすぎている。マッチングアプリによって積めるのは「一対一の経験」だけであって、「世の中で生きる」ということにおいてそれがどこまで役立つかは不明である。
こないだある女の子が「彼氏と別れて新しい彼氏ができました」と教えてくれた。別れた彼氏はマチアプで出会った人、新しい彼氏は職場の人らしい。スズキさんほどではないにしろ守旧的な僕は「むべなるかな」と得心した。
ところで、僕はマチアプをやったことがない(話の流れで導入はしたことがあるが、メッセージを交わすなどはしたことがない)。また合コンもしたことがない(高1の時に一度だけ呼ばれたが公園に集合して即解散となった、あれはなんだったのだ)。つまり、僕は「男女の出会いとしてマチアプをのみ強く否定している」のではない。そもそも「マチアプにも合コンにも縁がない」僕は、いずれも「不要なわりにハイコストでリスキー」だと思っているのである。
「出会いのための出会い」によって出会うよりは「世の中において出会う」ことのほうが個人の成長のためにはよい。「一対一」や「三対三」という定められた環境、「付き合う相手を探す」という求心的な感覚、「恋愛」とか「条件」といった狭い視野、そういった制限の中でしか「経験」を積むことができないと、「そこにおいて相手を見つける能力」だけが伸長する。「世の中に生きる能力」はそれとは別物である。
「世の中において出会う」をひたすらしていると、あらゆる能力を伸長させながらついでに人との関係を広げていくことができる。僕はそのほうが効率がよかろうと思うのである。どうせ出会ったあとには世の中に出ていくのだ。二人だけで生きていくわけではない。
マッチングアプリは「ネットで本を買う」ようなもので、「世の中において出会う」は「本屋や図書館に通って本を物色する」みたいなことだ。前者ではフィルターバブル内のものしか知覚しにくいが、後者は少なくとも前者よりは多種多様な情報が入ってくる。インターネットのほうが広そうなのに、不思議である。
「こういう人がいいな」という条件ばかりを見て相手を探していると、「相手」のあり方は固定され、同時に「自分のあり方」も固定される。「こういう相手を探しているこういう自分」というところから離れなくなる。むろん長くやっているうちに「こういう人は違うな」「自分は実はこういう人のほうが合っているみたいだ」と学習していくことはあると思うが、その歩みは「ハイコストでリスキー」な気がするし、「結局のところ自分の内部だけで完結してしまう営み」でしかない。
マチアプを捨てよ、街に出よ!みたいなことが言いたい。ゲームとして面白そうなのは間違いないし、会社や学校の中だけに閉じるよりは多様な人と会えるとは思うから、そういうのはすごくいいんだけど、結局「恋愛」「セックス」「結婚」に収斂していくような関係をめざすのがデフォルトなら出会える相手の属性はごく限られ友達になれる可能性も低く、SNSとかで多くの人と同時に繋がったほうが楽しくないか?と思います。やはりインターネット……インターネットはすべてを解決する。マチアプもインターネットの一部ではあるが、一部でしかないことは理解すべきで、マチアプをやるなら別のことも同時にやっていったほうがいい。
あ、そういえば前にテレビで結婚相談所的なところの社長が出てて、「結局成婚するのは婚活以外の出会い方も視野に入れている人」みたいなことを言ってたな。そうなのです、マチアプはマチアプでいいんだが、それ「だけ」をやっていると先ほどの(スズキさんの言う?)「経験」が伸びないので、いろいろなことを同時にやるのがいいんでしょうね、優等生的な結論になってしまったが。
もちろん向き不向きってのはあり、そもそも「世の中においての自由恋愛」というのがまったくそぐわない人ってのはいると思う。それで「お見合い」ってのとか「家が決めた結婚」とかが昔は多かったのだ。その現代的でカジュアルなのが「マチアプ」や「婚活」なのであって、それを一切否定する気は当然ない。ただ「世の中での自由恋愛」が本当は向いている(ないし可能である)ような人までマチアプで消耗しているような気はするのである。それは即物的ショートカット(すなわち手抜き)でしかない。
個人的には!最終的に「婚活」等によるマッチングでつがいを探すにしても、とりあえず外に出てあれこれ「経験」なるものを積んでおいたほうがよき結果の得られる率は上がるんじゃないかとは思います。(だから夜学バーに通っている人は正しい!と最後に手前味噌。)
2025.9.5(金) 夜学バーと「出会い」
昨日の記事で最後に夜学バーを出したが、夜学バーは思った以上に「出会いの場」になっていない。あのお店で出会って結婚した、という例は未だ知らないし、「特別な」関係に発展したのも数える程度しか認知していない。9年めとなるカウンターバーで、お客同士の交流がかなり盛んな店なのだからもっと多くてもよさそうである。これは良い面ではとても良い、誇らしいことだが、一方で悪く言うこともできる。
僕はときおり「性欲とかなさそう」的なニュアンスのことを言われる。とんでもない誤解だが、そのように演出してきた自覚はある。なんせ女子校の教員をやっていた人間、「性欲がある」と思われたら終わりなのだ。
教員時代はいかに性欲の香りを消すかというのは大事なテーマだったが、それを自覚的にやるとまた逆にやらしくなりそうなので「いかに無意識に性欲を消すか」というおよそ不可能な芸当に挑戦していた。そして実際、学校にいる間は一切の性欲がなくなっていた。女子校においては下着が見えるくらいよくあることだし、過剰な接触や接近も日常的であったが、すでにシャカレベに達していた僕は何も思わない。何も思わないからそういうことがどんどん増えていくが、それでも何も思わない。中学生男子同士のじゃれ合いと同じくらいの感覚。
夜学バーに立っている時も似たようなもんである。性欲とか下心のようなものが見えたらバーテンダーとして終わり。教員と違って別に(一時的には)終わってもいいのだが、終わりは終わりである。
品性のない下ネタを言ったり、お客同士の情愛を煽ったりということもない。「お前らいい感じじゃん~付き合っちゃいなよ~」みたいなことを言うバーテンダーもいるにはいるだろう、特にカジュアルなお店なら。でも意識がそっちに行っちゃうと「知的な面白さ」からどうしても離れていくので、夜学バーの場には合わない。
恋愛とか性愛でなくとも、夜学バーの弱点として「お客同士の仲が深まることが少ない」というのがある。そもそも僕がお客の名前や連絡先、SNSのアカウント等を知らないことが多いのだからお客同士がそれを知ることは稀だし、なんとなく聞いちゃいけないような雰囲気にもなるだろう。また「一対一で深く話す」ということも状況として少なく、「みんなで話す」とか「誰かがそこにコメントする」ということが常に許されている。よく言えば「ナンパが存在しない」なのだが、悪く言えば「仲良くなるきっかけが掴みづらい」。
誤解してほしくないが夜学バーは何も禁止なんかしてない。ナンパすら禁止はしていない(むろん推奨もしない)。むしろさりげなく名前やSNSアカウントを「引き出す」みたいなことをしてほしい。そうしたら僕はそれを勝手に「盗む」。
さりげなく引き出す、というのは、相手から自発的に言わせる、あるいはすすんで言ってもらうということである。「Txitterのアカウントを教えてください」と直接的に聞くのはダサいし圧力が強いので個人的にはNGだが、「へェ~○○やってるんですかァ? それってどっかで公開とかしてます?」みたいな聞き方ならOKだろう。相手も言いやすい。何らかの「活動」をしていて、そのことをすでに明かしているわけだから、むしろ言いたいかもしれない。でも「自分から言うのもナァ~」ってまともな人間なら思うはずで、そこをちょっとくすぐってあげますと「アッ、自分インスタに全部載せてます、××って検索してみてください」とかって言える。ウィンウィン。そういうふうに出会っていけばいいと思う。どこであれ。
僕は、というか夜学バーは「一期一会(いちごいちえ)」を重んじる。「一生に一度きりの機会や出会い」という意味だが、決して「二度と会わない」ことを意味しない。「すべての会(回)を大切にする」ということでしかない。もとは茶会についての言葉である。夜学バーでいえば「すべての営業におけるすべての場、すべての時間を大切にし、楽しく面白く実りあるものにしようと努める」ということ。むしろ僕の人生のテーマは「再会」で、「また会える」ということが至上の喜び。
同じく大事な言葉で「一座建立(いちざこんりゅう)」がある。「主に茶道において、亭主と客が心を一つにして和やかな空間を築き上げることを意味します。お互いを思いやり、場の参加者全員で心地よい場を創り上げていくこと、またそのための心構えを表す言葉です。」だそうな。当たり前だが「個人同士が仲良くなってはいけない」というニュアンスなど含まれていない。そんな分断はむしろ嫌いである。
バー業界では「お客同士の交流は極力避ける」というお店も多い。トラブルを避けるためだ。そのほうが楽だからだ。ほとんどの場合「お酒と向き合ってもらうため」というのは二の次か言い訳。なぜならバーテンダーとは世間話も交わすもの。だったら隣の客とも言葉を交わしていいはずだし、バーテンダーと「この酒は~」という話をしていいなら、隣の客とだってしていいではないか。それを極力避けるのは面倒だからか、うまくやる自信やスキルが乏しいからにすぎない。
私淑する阿佐ヶ谷メリデのマスター(今月で85)は「バーテンダーの仕事は、自分を反射してお客同士を繋げること」とハッキリ言う(先月も書いたなこれ)。自信とスキルがあるから堂々と言えるのだ。酒の席でのトラブルなんてある時はある。避けるよりもリスクをとってハイリターンを狙うってわけだ。
仲良くすること、仲を深めることを怖がらないでほしい。ただ下手くそな人が下手にやるとナンパみたいになるんで、こっそりと店主に相談していただきたい。「どうしたら自然に人と仲良くなれますか?」とか。夜学バーという場にとってうってつけの議題で、みんなも真剣に考えてくれるはず。そして経験を積み、だんだん慣れてきて、晴れて能力が伸び「成長」となる。いつしか自然とモテるようになっている。(啓発!)
2025.9.6(土) ガストと空調
これ今ガストで書いてるんだけど、空調がちょうどよくて心地よい。昔って真夏にファミレス入ると寒くて耐えられなかったんよね。東日本大震災を経て「節電」ということが当たり前になったのと、あまり「回転率」を気にしなくなったゆえだろう。
ファミレスの設定温度が低かった理由はいくつか考えられる。まず「働いている側に合わせていた」。座っていると寒くても動いていればちょうどいいのである。店員は「客にとっては寒い」ということに気づいてさえいなかったりする。それは「回転率の上昇」に貢献する。寒いと長くはいられないからすぐに出ていって、また新しい客が見込める。
ところが最近は「コメダ型」のビジネスモデルをファミレスも採用しているように思える。今いるガストもカウンター型の一人席があって電源もWi-Fiもある。「どうぞ長居してください」なのだ。不景気や競合(それこそコメダ)の伸長などもあって従来ほど大手ファミレスは流行らなくなり、「回転率」よりも「客が入っているように見える」ことのほうが重要になってきたのではないか。この店舗も平日のランチさえ満席にはならない。こないだ行ったバ~ミヤンは平日夜に列ができてたので店舗によるのだとは思うけど、「列ができる」のはひょっとしたら「回転率の軽視」ゆえかもしれない。「並んでる=流行ってる」なのでイメージ戦略としてプラスなのだ。
バ~ミヤンもどこかで(実のところ震災前からだが最近はさらに顕著)「飲み」を重視するようになった。ボトルキープもできるし「焼酎用ドリンクバー」というメニューもできた。これも長居を許す傾向の一つ。
ファミレスなんてそもそも長居するものではないか?という気もするけど、あの夏の冷やし方は「とっとと出ていけ」にしか思えなかった。僕が痩せてて冷えやすいからかね? ファミレスはデブばっかってこと?(ひどい)そんなわけじゃないだろう。順序としては「節電の必要」→「冷房を強くできない」→「回転率が落ちる」→「いっそそれを前提とした戦略にしちゃえ」ってことだったりして。いずれにせよ「一人でひたすら本とか読んでたい」人間としては実にありがたい。
世の中が変わって「ファミリー」だけをターゲットに据えてもやっていけないから「作業や読書や勉強をしたい個人」とか「充電したい人」とかをより意識したってことだと思う。でなければこんな至れり尽くせりな席はつくらないだろう。快適すぎる。
ファミレスすらも「個人」をこれだけ意識せざるを得ないってのはそれだけ人々の分断や孤立化が進んでるってことか。僕は「孤独でもあり《みんな》でもある」ことを是とする(「氷砂糖のおみやげ」の『ふしぎな木の実の料理法』回、またはどこかにあるはずの『FF6』配信を参照)ので、どちらも可能な今のファミレスがけっこう好きである。喫茶店がなくなっていくことの補填だとしたら少し悲しいけど。
2025.9.7(日) それでも来るか、君はこっちに。
日本橋ヨヲコ『G戦場ヘヴンズドア』の台詞である。
かわいそうになあ。気づいちゃったんだよなあ、
誰も生き急げなんて言ってくれないことに。
見ろよ。この青い空 白い雲 そして楽しい学校生活。
どれもこれも君の野望をゆっくりと爽やかに打ち砕いてくれることだろう。
君にこれから必要なのは絶望と焦燥感。
何も知らずに生きていけたらこんなに楽なことはないのに、
それでも来るか、君はこっちに。
何度引用したかわからないが、折に触れ思い出す。正直言って「みんな好きなやつ」だから恥ずかしいのだが、それをおしてでも言及したくなる。
「見ろよこの青い空~」は植木等の『だまって俺について来い』のパロディなのだろうが、それに気がついたのはずいぶん後だったな。
はっきり言って僕は「若者」を信用していない。大人になったら大人になっちゃうからだ。若者は生き急ぐことに酔いしれるが、背中を押してくれる者はいない。放っといてもやってくる幸福や充足はゆっくりと爽やかにその野望をむしろ打ち砕く。「絶望と焦燥感」はやがて薄れて消えていく。
イキってデカいこと言ったり奇抜なことやる若者は、どうせ落ち着いていく。高校や大学で出会った「一見面白そうなやつら」はおおむねそうして火を消していった。なんでか?「楽しく生きるにはエネルギーが要る」からに他ならない。そんなエネルギーを何十年も燃やし続けられるヤツはまずいない。
奇数日曜の夜のみゴールデン街の「チリチリナイン」というお店に大学の先輩が立っている。もう十年以上は続けているはずで、それだけでも尊敬に値する。彼は学生時代から「面白い」企画を無数に実現させ、個人でも日本縦断マラソンを二度やるなど「ストイックな狂気」において右に出る者はいない。何度も転職をくり返し今はとある大企業に落ち着いて久しいが「退職してお遍路マラソン十二周やる」とかたぶん本気で言っている。期待しております。愛知県民なので貯金もめちゃくちゃある(今日額を聞いて驚愕した)ので早くFIREしちゃえばいいのに。
その先輩からほかの後輩のことを聞くと、やはりおおむね落ち着いている。彼の周辺には常に狂気が満ちていたが、結局は「狂おうとして狂っていた高学歴人間」ばかりであって、狂おうとして狂ったまま生きていられる人などいないようなのである。どこかで正気に落ち着いてしまう。狂気と正気がほぼ一致している人間だけが平気な顔してずっと狂っていられて、しかも生活に破綻もない。
血気盛んな若者を見ていると、「で、こっちに来んの? 来ないの?」ってよく思う。「いつまでもそれやる覚悟はあんの?」と。別になくたっていいけど、来てくれるんなら僕のさみしさはちょっとだけ薄れる。仲間が増えた、って嬉しくなる。でもそれは呪われた仲間だ。常識の中で生きていけない、道に乗れない気狂いたち。
すべては覚悟、と言いたいが、僕の場合は先に諦めがあった。「自分はまともには生きていけない」という。それが呪いとしてずっとついてまわった。何度か「まとも」に行こうとしたこともあったが、できなかった。いま思えば行かなくってよかった。不可能だっただろうから。
逆の人が多いってことだろう。「まともじゃない生き方を試みたが不可能だった」ほうが。人間はまともに生きるようにできているし、まともじゃない生き方をすれば破綻するようにできている。まともじゃなく生きているのに破綻しない、というのは奇蹟的なことであって、並大抵のエネルギーや努力では足りない。また来るべき不幸や軋轢、一歩間違えば訪れる破綻をも覚悟し続けなければならない。それはたぶん永遠で、地獄のようなものだ。安定などない。
それでも来るか、君はこっちに。いやね、来る人は来るし来ない人は来ない、ただそれだけなのだが、最も不幸なのは「行こうとしたが能力や努力が足りなくて破綻した」なんだよね。西原夢路くんなんかはその狭間で死んだんだよね。
2025.9.8(月) 無理をする
歳をとると「無理をする」ことができなくなる、って言いますよね。本当はね、無理なことはもともと無理なんですよ。でも若くて未熟だと、それが「無理」だってことがわからなかったり、「無理なことでも可能である」と思っちゃうってだけ。んで本当に狂ってる人とか根性がある人は、「無理だけどとりあえずやってみて、やっぱり無理だった」ってことを受け入れるんですよね。「無理だったけど無駄ではなかった」ってことだけを慰めにして。
経験を積むと「これは無理だからやめておこう」と思えて、それが昨日書いた「落ち着き」に繋がっていくんだけど、いつまでも狂ってる人ってのは「無理なんだけどやってみよう」をずっとやるんです。それで永遠に落ち着くことがない。なぜというに「無理かどうかはどうでもいい」からなんだと思う。歳をとると確かに「これは無理で、これは無理ではない」と峻別できるように(まともに生きていれば)なるんだけどその上で「別にどっちでも関係ないよね」と思っちゃう人だっているわけだ。
日本縦断マラソンとかお遍路マラソン十二周とか、普通の人間がやろうとしたってそりゃ無理なんですよ。無理だけどやってみて、いくつもの破綻や妥協を受け入れながら無理矢理すすめていくもんなんですね。それを四十何歳になってやれるんなら僕は本当に尊敬するというわけです。期待しちゃうなあ。
無理かどうか、という冷静さよりも「面白い」というほうをとってしまう、それは病気だし呪い。冷静さや賢さが増せば増すほど「面白い」の重要度は下がっていくのが普通だが、それが下がらない、あるいは下がりすぎないように工夫して生きていられる人が、本当に「面白い」ってことを愛しているように思う。それが「体温を保つ」ってことなのだ。
僕は狂っておりますので無理なことを未だにやってしまう。ここには書けないようなことも含む。バカなんだと思う。しかし破滅的ではない。「どうせ○○歳までに死ぬし」みたいなフェイク野郎の定型句を吐いたことなど一度もない。自分の信じる「体温」を保ち続けることしか考えていない。どうにかならんかと、虎視眈々、地道に。
Moo.念平先生とネオユートピア(目黒さんと秋山さん)のトークイベントに行ったが、彼らも相当狂っておられる。勇気が持てます。アその後池袋のうどん屋さんに行った話とか、書かないと。
2025.9.9(火) ガルバとキャバ(識者Aの話)
お店で、ある女性が「風俗もキャバクラも私からしたら同じ」と発言したところから始まった。その後いくらか調査を実施した結果、男性は「風俗とキャバクラの間には大きな溝がある」と思いがちなようだが、女性は「同じようなもの」と感じる傾向のあることがわかった(僕調べ)。ただしそれとは別に「キャバかガルバならガルバのほうが(彼氏に行かれるのは)嫌」という意見もあったことも書き添えておく。
経過をじっくり書くと長くなるので簡潔にまとめたい。識者A氏によれば「キャバクラに行くおじさんたちは愛人を求めている」とのことで、すなわちアバンチュール、未来における性的情事を思い描く。いわゆる「風俗」が「即座に肉体的接触を行う」ものであるのに対し、キャバクラは「将来的な肉体的接触を望みながらまず精神的な接近を図る」ものだと説明してみると、なるほど後者のほうがよりキモき取り返しのつかぬ事態かもしれない。
A氏はまた興味深いことを言っている。「ガルバ(ガールズバー)にはお金を主とする数値的な指標しか存在しないが、キャバクラには男として人間としての魅力や嬢および店との関係性など曖昧な機微が関わってくる」と。わかる。ガルバの動力は「金」であり、ガルバにおける「金」とは「酒量」でもあり、それを可能にさせるのは「根性」である。つまり「何を何杯飲んで、いくら払うか」だけが問われる。もちろん最終的には「金額」に収束する。
現今のガルバやそれに類するカジュアルなバーにおいてよく聞くフレーズに「テキーラ飲んでいい?」とか「テキーラ飲む?」というのがある。テキーラはコカボム(やや古い)になったりクライナーになったりする。だいたい「嬢と客とが同じ量を飲む」ことがほとんどで、こうしたショット類は一瞬で酒量(酔い)を加速させ会計を膨張させる。「飲めない」となると「金がない」「根性もない」という二重の恥を晒すことになり、これを断ることのできる男はいないと言われている(『現代用語の基礎知識2025』より)。←嘘です
最近告発されていたが舞妓の世界でもこうした客との「勝負」はあるらしいし、お座敷遊びには「飲みゲー」が多数存在する。負けたら罰杯、というのはきっと江戸時代くらいからあるのだろう。(資料ナシ、あとでお店にある専門書を紐解いてみるか。忘れそうなので誰か突っついてちょ。)←2025/09/16追記 江戸時代どころか「曲水の宴」にまで遡れた。『饗宴の研究』という専門書を参照してみたいが、どこにもないし高い
ガルバでもトランプとかチンチロリンとかの何かしらのゲームをして負けた者が飲む、というのは非常にポピュラーで、まさしく日本文化の正統な後継である。海外にどのくらいそういうのがあるのかは誰か調べて教えてください、あるいは人類普遍なのか。乱暴な仮説だがガルバというものは日本古来の芸者文化の「そういう部分」だけを抽出したものと言えるかもしれない。別の部分を抽出したのがキャバクラ。無理にザッパクに分類すればガルバはどちらかといえば「舞妓」、キャバクラは「芸妓(芸者)」なのではないか。
告発本によると、舞妓は「子供」であるからして客がどんな下ネタを言っても笑ったり恥じらったりしてはいけないそうだ。首をかしげて不思議そうな顔をするなど「わからない」そぶりをせねばならない。また舞妓はお稽古はすれど「芸道のプロ」ではなく修行中の身で、何か芸をするにしても「お遊戯」にすぎないのだと僕は理解した。少なくともその「告発した舞妓」の見た世界ではそうだったんだと思う。むろん一言に舞妓と言ってもいろいろな世界があるだろうが(念のため)。
ガルバ(コンカフェもここに含めたい)嬢も基本的には「夜職のプロ」ではない。大学生とかフリーターとか副業とかで比較的気軽に始められる。LINE等による「営業」など顧客管理などもしなくてよいことが多い。禁じられている店すらある。「ガルバ・コンカフェ嬢は店の管理下にある子供(素人バイト)であって、キャバ嬢や風俗嬢のような大人(個人事業主寄りの玄人)ではない」という話なのだろう。ゆえに「飲む」「飲ませる」という単純な仕事だけを任されることになる。舞妓もそうなんじゃなかろうか? 詳しいことを知っている人がいたらぜひ教えていただきたい。
ガルバ・コンカフェ嬢が「飲む」「飲ませる」の単純な仕事しか請け負えないのだとしたら、その空間が「金」という指標一色に染まるのはよく理解できる。それ以外に価値観が存在しないのだ。そのくらい単純化、あるいはある一面では洗練された世界なのである。ふたたび識者A氏によると、「だからこそ一発逆転もあり得る」とのこと。金さえ積めばいいのだから。
たとえばあるお店には「バースデーで81000円以上の会計をしたらデート権がつきます」みたいな特典があったりする。デート権と言っても店の近所で、出勤前に、1~2時間ほど会食する(しかも男性スタッフがついてきたりする)だけで、よく考えたらただの「同伴」かそれ以下の処遇でしかない。しかし連絡先の交換や同伴、アフターなどが禁じられている(ないしそのような制度や慣習がない)お店においては意味を持つし、正直なところ客側にとっては「デート」そのものはどうでもよい、らしい。A氏曰く「お金を出してその権利を得た時点でゲームには勝っているので、特典の内容はどうでもいい」とのこと。彼がそう思っているというよりは、さまざまな経験や知見を総合するとそう考えるのが自然ということだ。ちなみに「ゲームに勝つ」とは「男としての価値を自覚できる状態になる」ことだと思われる。ガルバではそれが「金」によってのみ得られるのである。
A氏は「ガルバとキャバクラはまったく違う力学で動くゲーム」と言い切る。ガルバではただ酒を飲み、飲ませ、金を積めばいい。キャバクラはもっと複雑で古風。たとえば「ツケ」も利くらしい。ホストでは「(売り)掛け」と言う。ホストとの類似や相違まで考えるとキリがないので今回は置いておこう。
簡単にいえば「金しかない世界」と「人間同士の世界」くらいの違いがある。キャバクラでは必ずしも金を持っていたり金を使える人がモテるわけではないとも聞く。っていうかキャバクラでは「モテる」という概念が存在する。ガルバには金しかないので「客は客」という感覚がどちらかといえば強いような気がするのだが、キャバクラでは「長い付き合いの良いお客さん」という関係になりやすく、独立してスナックとかを開いたとき支えてくれるのはそうしたお客たちなのである。実際愛人のようになるケースだってあるのだろう。夢がありますな。その「夢」を求めてみなキャバクラに行くのなら、やはり「風俗+ギャンブル」くらいのえげつなさがある。
ここから識者B氏が登場する。実際お店でこの話をしていた時にちょうど現れて、僕はつい「専門家が来た!」と言ってしまった。そしてやはり興味深い話に発展していった。続きは庚申の晩、ではなくてできるだけ早く書きます。
【増補】
構造的にも、キャバクラは1ボックスに1グループが原則で相席という概念が存在しないので「客と嬢」という閉じた空間が形成されうるが、すべてカウンターで常に相席となるガールズバーではなかなか閉じようがない。ゆえにこそ「金」という普遍の価値だけが存在を許されるのである。「ここだけの話」すらできない構造なのだ。ほかの客がいない時を狙ってなんとか「その空間」を作ろうとする客だっているだろうが、キャバクラならただ指名するだけで良い。
またキャバクラは風営法により深夜営業ができないので「タイムリミット」が早く、ゆえに「アフター」という概念が濃い(深夜のうちに動ける)のもポイントである。法による規制が逆にブースターとなりブラックボックスを作っている、と考えたらちょっと面白い。
ところで、ここではかなり単純化して語っているが当然世の中には「連絡先を交換しないガルバ」と「連絡先を交換するガルバ」が存在するし、その「する度」にもグラデーションがある。つまり「極めてキャバクラ寄りのガルバ」というものもあるということだ。次回はそのことから話が始まる(予定)。
2025.9.10(水) ガルバとキャバ(識者Bの話)
識者B氏は言い切る。「(ガールズバーの時代は)終わりますよ。もう保たないですよ」。
昨日の記事で「ガールズバーには金という指標しか存在しない」というようなことを書いたが、そんな世界が長く続くわけがない。もうガタが来ている。「若い女」という商材のみで数万の客単価を日常的に上げるのは無理がある。反面キャバクラには「金」以外の指標があり「夢」と言えるようなものもあるので長く続いてきた。
B氏は言う。「ガルバの子って営業しないもん、連絡先の交換すらしない」。水商売とはそれをしてなんぼであろうと。めっちゃ簡単に言い換えると「ガルバは金という指標しか存在しないくせに(存在しないので?)営業努力を一切しない」とも言える。そういう「営業努力」をしなくてもいい、あるいはできないからこそ時給も低いし、「若い女である」という以外の魅力を求められないし、発揮する場面もなかなかない。酒を飲んで、飲ませる以外のコミュニケーションはせいぜいカラオケくらいになる。
キャバクラのように比較的閉鎖的な空間が作れるとガルバよりはもう少し踏み込んだ話ができるしLINEや同伴などでまったく二人きりにもなれる。むろんそういった「営業努力」をしているガルバもあるのだがそれについては後に語ろう。「そういったことを一切しないガルバやコンカフェが多い」という線でいったん進める。
僕は出会い厨であり「人間はみな対等」だと思っているので、「仲良くなる可能性の極めて低い(その可能性が制度的に閉ざされた)」相手と接するほどむなしいことはないと思っている。目の前の人間を「若い女」としてのみ眺め、愛で、満足できるほどの境地には達していない。すなわち「この若い女たちは人間ではないし、それらと対峙するときの自分も人間ではない」と思えるってことだ。
2018年1月9日の記事で、夕食後にボードゲームをやりたがるゲストハウスについて批判した。「トランプをしている間はトランプしかできない」という僕の格言(2017年2月5日がたぶん初出)に絡む。スゲー名文だから読んでね。夏目漱石『こころ』のカルタ取りのシーンがいきなり出てくるのとか天才かと思った。流石に自画自讃。そのころちょうど授業でやってたのかも。
ボードゲームは人間を「プレイヤー」に変換する。そこには「人間同士の交流」はなく「プレイヤー同士の勝負」のみとなる。つまり目の前の人間を一時的に人間と見なさず、自分も見なされないことを受け入れるのだ。
今さらだがガルバのように単純に「女を買う」場においては、「金を支払う側(=客)」と「金を受け取る側(=嬢)」というふうに人間は変換される。そこにあるのは「若い女の肉体」と「それを求める男の性欲」だけでござゃーます(大河ドラマ『秀吉』における市原悦子の名古屋弁ナレーション風)。しかしガルバには身体的接触も精神的な接近もほぼないので性欲は酒と歌(と虚栄心の充足)によって良く言えば昇華される。ここに1時間1万とかってのが妥当か?というわけだが、他に行き場もないから仕方なく甘んじているのが現状だと思う。
それに対してキャバ型の商売は当然「客と嬢」という関係は固持されつつ、しかし「人間」としてお互いを見る視線がガルバよりは強くあり得る。古き良き日本の水商売とはそのようなものであろう。
ドラマ『はぐれ刑事純情派』(1988-2009)で藤田まこと演じる安浦警部は捜査に行き詰まった時や複雑な事件(ヤマ)が解決した後などに「さくら」というバー(雰囲気はクラブやスナックに近いと思う)に足を向けママに相談したり気持ちを吐き出したりする。「これが水商売のイデアや!」と幼い僕は思った(イデアなんて言葉を知ってて偉いわねえ)ものだ。
乱暴を言えば人間というものは、あるいは働く男は成熟するとともに「さくら」のような場所を探し、見つけ、居着くようになる。ここんとこ何度か書いている某喫茶店の「スズキさん」も同じである。彼は昼食時以降、おそらく夕方の閉店までずっとそのお店にいる。背広を着て。どうも午前中だけ仕事して、午後はずっとそのお店で油を売っているようだ。たまにお店にスズキさん宛の電話がかかってきたりする。職場公認なのだ。なんだあの身分。よほど偉いのだろうか。
私見だが水商売というものは「そこ」に向かっていくのが自然というか王道で、金という指標しか存在しないガルバという場にはその指向が乏しい。ゆえに長くは保たない。B氏は「ぼったくりばっかですよ」とさえ言う。となればすでに終わりかけている。この1年ちょっとで少なくとも新宿、新橋、浜松のガルバ嬢が刺殺されていて、業態の衰退と連動していると思えなくもない。
長くなってきたので記事を分けます。
2025.9.11(木) ガルバとキャバ(Jの私見)
ガールズバーを三つに分けて考えてみる。漏れや例外、誤差などは無数にあるだろうが、正しいかどうかではなく「考えてみる」ことに意義を感じてやるだけなので、ご意見があれば賜りたいものの怒らないでほしい。
a 「お金」型
b 「推し」型
c 「キャバ」型
aは前回、前々回に語ったような「ガルバのイデア」を体現した存在。金以外の指標が存在せず、とにかく酒を飲み、飲ませ、騒ぐなら騒ぎ、特に連絡先を交換するでもない。SNSで濃い仲になることも基本的にはない。大学生のバイトがノースキルノー経験でこなせるイメージ。基本は時給で、バックはあるものの野心は少なく店から言われた以上のことはしない。もちろん顔と名前を覚えたり来店時に「あ~○○さーん」くらいのことは言うしプライベートな話をして客の歓心を買ったりもするが「仕事は仕事」と割り切り「客は客」という意識が非常に強い。ここを勘違いすると刺殺事件が起こる。
bは要するにコンカフェである。コンカフェのほとんどはここに分類される。キャストを疑似アイドルとして「推す」ゲーム。連絡先の交換はしないしDMもしないしフォロバもしない(人や店による)がTxitterのALTとかで「おきゅおわ」はする。「おきゅおわ」とは「お給仕終わり=退勤」の意味だが転じてその日に来店したお客への感謝(お礼)を綴る慣習のことを指したりもする。チェキのらくがきに書くような内容。Txitterの場合はALT機能が使われることが多い。そのような距離感。
「営業」は主としてSNSを通じて公開で行い、直接メッセージを送ることは少ないと思われる。「私という個人を魅力的に思い、応援してくれる人はお店に来てください。来られない場合は遠隔ください」という内容のことを一生言っている。「推し」型の店では「売上成績=アイデンティティ」なので必死である。
キャストはほぼアイドルのような存在となるので「客」ではなく「オタク」という言葉も使われる。「応援」という概念があるので大金を積む人も多いが、大金を積めば何かがどうなるというものでもない。ここで期待しすぎるといつの間にか刺殺していたりする。
cは「コンセプト」「推し」「応援」という概念に頼らないでしっかりと「営業」をする、いわば古き良きキャバクラ型のガールズバー。脈がありそうだと思ったら積極的に連絡先を交換し、そのために仕事用のスマホを持っていたりもする。むろん色恋も友営もある。「座らない」だけでほとんどキャバクラと変わらない。
ここからは店にもよるのだろうが、それでもガールズバーである以上は「金」が主役にはなる。不思議だがたぶんそういうものなのだ。いや待て、だったらキャバクラは「金」が主役ではないのか?というと、それはそうなんじゃないんですか? 一軒しか行ったことないけど……。
キャバクラは「金はかかるもの」という空間で、「金をかけたから偉い」ということはあんまりないのではないか。ここがちょっとホストクラブと違うところなんじゃないかな。いやここについては完全に想像です。異論、ご意見、知ってること教えてください。キャバクラの客は鷹揚に構えて普通に飲み食いするのが常道で、嬢も無理に煽ったりせずあくまで自然にお酒を飲み、飲ませる。「完璧なタイミングで煙草に火をつける」とか「灰皿をさりげなく変える」みたいな「呼吸」が客からの評価の対象にもなる。
他方ガルバにおいては「ここで金を出さないのはダサいよね」という空気が「飲みゲー」とか「お祝い」みたいなうっすいオブラートでくるまれて存在しているように思う。ガルバは最低料金がキャバクラより安く設定されているのが普通で、「ハイここからどこまで伸ばせますか?」という店からの要求がその上に乗っかる。嬢はそれに乗り、客はそれに応える。応えられることが「カッコいい=男が上がる」ということになり、「50分2000円の店に100分で50000円払った俺」というのが勲章にすらなる。(んなあほな)
サンプルが少ないのでまったく自信がないのだが、「キャバ型のガルバ」は「客を比較的人間として見がちな営業するガルバ」であって、中身はやっぱりガルバなのだと思う。なぜそうなるかというと「カウンターがあって、嬢たちはそれ越しに立って接客するから」としか言いようがない。空間構造がそうさせている。あるいは「黒服が(原則)おらず、ドリンクの提供等はすべて嬢が行う」というのもあるし「風営法による営業可能時間の違い」というのもあろう。今後いろんな専門家(まだ見ぬ識者C~氏)に聞いてみたいところだ。
たとえば、ガルバがカウンターである以上「常に相席」ということになり、嬢を独占することはできない。「つく」という概念はあるが一定時間でいなくなる。恐ろしいことにガルバでは「嬢が一人もつかない」という時間が存在するのだ。キャバクラでそれをやったら「金返せ」だろう。
横並びになると隣同士どのくらい何を飲み、いくらくらい金を払うかがわかり、「男のプライド」が発動する。ここで嬢からの「テキーラ飲もうよ」なり「○○ゲームしよう」といった提案を断れる猛者はなかなかいない。「ケチんのかよ、ダセーな」と誰も誰からも思われたくないのだ。また断ったら目の前から女の子が消える可能性が高くなる。ほかの客がいればそっちにつくに決まっている。それに文句を言える権利を客は持っていない。ガルバのカウンターには市場原理があるのだ。「需要と供給」の縮図である。
識者A氏は実はガルバについて「資本主義の原理のみで動いている」と言っていたのだが、こういうことなのだ。書いているうちに僕も理解が進み、ようやく回収できた。それで支払額は競りのように上がっていく。この点はたぶんホストに似ている。
キャバでも当然「同じ嬢を指名する競合」というのは存在するのだが、ここで活躍するのが「古き良き柔軟性」なんだと思う。黒服やベテランの嬢が「うまくやる」のだろう。未だに「ツケが利く」というキャバクラの世界には、すなわち「過去と未来」が存在するのであって、「埋め合わせ」という概念もある。ガルバはもっと刹那的で、過去も未来もない。現在があるのみ。その点非常に現代的である。スパチャ投げたって未来とかないから。
キャバクラにおいてはたぶん、競合の客がいるからといって「それぞれの支払額が上がっていく」という現象は起きづらい。過去があり、未来があるからだ。そんなはしたない真似をしたってモテはしない。男は黙って別の女と飲み、次回来店時に改めて指名して「こないだは(席に行けなくて)ごめんねえ、(気を遣って呼ばないでいてくれて)本当にありがとうねえ~」と言われればいいのである。それで「株が上がる」のがキャバクラだと僕は識者A氏の話を聞いて思った。
もちろんこれは僕の想像する「キャバクラのイデア(?)」みたいなもんで、実際にはもっと下品な店で下品な客と下品な嬢が下品なことを繰り広げる場合もあるだろう。しかし大枠で言って「相席が存在しない閉じた空間」しかありえないキャバクラでは男は比較的落ち着いていられるし、そこで別の女と話していればひとまず大きな不満もないだろう、たぶん。
優秀な黒服は、「ある常連客の本指名」を席につかせられない場合、当然その人が好みそうな次点の嬢を送り出すだろうし、一時的な赤字(?)を覚悟で普段より多くの嬢を侍らせる選択もすると思う。それが「古き良き柔軟性」だし、「過去と未来の存在」である。そういうことがすべて不可能であれば、その人が好みそうな高めのウィスキーでも一杯持参して「○○さんすみませんねえ、次回ちょっとサービスしますんで」みたいなことを言ってもいいわけである。これも想像でしかないので、実際どのような工夫をしているのかはぜひ「優秀な黒服」に聞いてみたい。
長くなった! 次に続く。いま11日だけど12日の日付にする! 過去も未来もあるのだ、この日記には……。
2025.9.12(金) キャバとガルバ(総評)
書くことはたくさんあるのにガルバとキャバの話で4日分も。まぁいいです、これはこれで僕の研究には大事なことだ。ここ15年くらい売春からアイドルまで「女を買う」ということについて考えてきた、その軌跡としても重要なのである。
ここまで3日分「ガルバとキャバ」について書いてきたが、僕はほとんどガルバとキャバには行かない。友達や教え子、好きな有名人などが関わっているお店にはちょこちょこ行っている。あとは耳学問に過ぎない。ただ曲がりなりにも20年くらい夜の世界にいるといえばいるし、本もよく読むしテレビやインターネットも大好きなのでそれなりの理解はあると思う。「ここが違う」とか「自分はこう思う」とか、「わたしの経験ではこうだった」といったことがあればぜひ教えてほしい。
気にかかるのは識者B氏による「(ガルバは)終わる」という意見。昨日ガルバをabcに三分類したが、どれが終わり、どれが終わらないのだろうか?
たぶんaの「お金」型(最も純粋なガルバ)は保たない。今のガルバの客単価相場は「若い女」という商品の市場価格として高すぎる。無個性なガルバは減っていくのが自然であろう。むろんなくなりはしない。男は常に行きずりの女を求める生きものだから……。
bの「推し」型(おおむねコンカフェ)は「うまくやれば生き残れる」というくらいで、発想や人脈、演出力、広報力などの経営手腕がよほどなければ続かない。しかしなくなりはしない。男は常に女を買うときに「コンセプトが面白い」だの「応援してる」だの「オーナーのファンで」だの「意外と酒がうまい」だのと言い訳したい生きものだから……。
そしてcの「キャバ」型(営業熱心なガルバ)は、「だったらキャバクラかスナックでいいよね」という話になって、これも減っていく。ただガルバはキャバよりも「お酒をつくる」ことを中心とした店のオペレーションを曲がりなりにも多少学べるので、やる気と人気のある嬢は独立すればいい。敷地を狭くして、キャストを自分だけか、週末にもう一人くらい呼ぶようにするだけで、あとはだいたい一緒でいいのだから。
「キャバ型」は独立に向いている。なぜなら「営業熱心」だからね。ファンがちゃんとつく。bもそれに近いが、「推し」型はどこまで行っても人気商売のため双方向的な関わりに乏しいきらいがあり、やや不安定である。肌感覚として、長く続くのは嬢と客との関係がより対等っぽい場合だと思う。嬢のほうが(お店の人だからという意味で)ちょっとだけ偉い、というくらいがちょうどいい。金を積んで、積まれてという関係は「嬢が上位に見えるが客は客で偉そうにする」という地獄を生みだしやすい。そういう瞬間的な上下関係ではなくて「長い付き合い」にいかに持って行けるかがポイントとなる。
cについては「そこまでしなくてもよくない?」という感想もある。営業して、自分で酒つくって、自分で死ぬほど飲んで、客にも飲ませて、アフターケアして、また営業して、みたいなのの無限のくり返し。どんな水商売にも言えることかもしれないが、「若いうちは無理してでも持続不可能な方法で客と金を貯め、やがて独立するか結婚してそこから離脱する」というルートが黄金である。しかし金主たるオーナーはそういう優秀な人間を手放したくないので、どうにか手元に置いておこうとする。というか、夜職は業界ぐるみで「そういう環境」を作りあげている。客と嬢からきちんと金を吸い上げられる巧妙な構造を。若い女はそこから容易に逃げられない。
そこへいくと超スピードで「
みずのみば」を移転して実質的な独立を果たそうとしているかなみさんは偉いよね(急にボールを投げる)、10月4日(土)の最終稼働日にそこで僕ライブしますからみんな来てね。新潟の内野駅ね……。
さてそのようにガルバが「終わって」嬢たちは、また客たちはどこへ行くのか? bとcの嬢たちは行き場に困らないだろう。推されたいなら「言い訳つきで女を売る」空間はインターネット上にもあるし、働き手を募集しているサブカルっぽいカジュアルなバーも(大都市なら)たくさんある。営業ができるならキャバクラやスナックで働くのもいいだろう。問題はaの子たちだが、フツーのバイトができる子は一所懸命して、できない子は夜職のどこかに残る、って感じでしょうかね。
客たちはどこにでも行き場はある。むしろ彼らは今「仕方なく」ガルバに行っているんだと思う。ほかにないから。というか、ガルバがありすぎるから。僕は多くの人間たちのことをかなり愚かだと思っている。ことに今ガルバに通っている(あるいはフツーに選択肢として持っている)人たちはじつに愚か率が高かろう。愚かな人たちはなぜガルバに行くのかというと、そこにガルバがあるからなのだ。ガルバがあって、ガルバがありふれていて、ガルバに行くのがどうやらありふれているようだから、そこに女もいるし、それでガルバに行くだけなのだ。ガルバで2時間3万円の支払いを請求されようと、まわりを見ると「そういうもの」らしいので受け入れているのだ。「これはどうやら相場として正当らしい」とまわりを見て思うのだ。ガルバに特別な魅力があるわけではない。ただガルバがあって、行ってみたら気持ちよく、相場としてそのくらいであろうという額を請求されたから払っているだけなのだ。
ガルバがなければ余所に行くだけなのだ。愚かな人たちは「気持ちよさ」を提供してもらえる場所ならなんだっていいのだ。近所のバーの常連になるとかでもいいのだ。そこに女の子がいなくたっていいのだ。いたら嬉しいけどいなくたって別にいいのだ。いたら嬉しいのでいるときに喜ぶだけなのだ。
女の子がいたら嬉しい、だから女バーテンダーの店を探したり、女の人がやってる居酒屋に通ったりするだけで実はよい。ガールズバーのような狂った場所(私見)に行く必要はさしてない。ある人もいるのだろうが、たぶん7割くらいは「ガルバじゃなくていいけど、なんとなくガルバに行っている」くらいの感じだと僕は思う。それほど男たちにこだわりなどない。「女がいたら嬉しい」ただそれだけである。そこには年齢も容姿もあまり関係ない。好みはある程度あっても、そこから外れると満足できないわけではない。満足できない人もいるかもしれないけど、1割以下だと思う。男はそのくらい「女ならなんでもいい」と思っているのだから。
結論、もしガルバが「終わって」数が減ったら、男たちは別の「女がいる場所」を求めてどこかに行く。なんなら外に出ず、インターネット上だけでもそれは実現できる。女たちも「ガルバほどは稼げないけどそれなりに楽」な飲食店などに勤めたり、配信やファンティア等を細々がんばったりするだろう。未来予想、ハテどうなるかね。
2025.9.13(土) キャバとガルバ(振り返り)
書いたのに消えた。サルベージ出来たらする。別の端末で書いたやつなので今は不可能。
とりあえず、一連の記事について「現場が見えてる」って現場の人に言われたのが本当に嬉しかった。「剣の達人は剣を持たない」は僕の名言だが、それみたいなものだなあ。
読書についても、その分野についてある程度の知識を揃えればあとは読まなくてもタイトルと目次をざっと読むだけでだいたいわかるから必要なところだけ読めばいいとむかし猫先生(浅羽通明ニャー)が仰っていて、ほぼ同じことが山形浩生『翻訳者の全技術』にもあった。
2025.9.14(日) 前髪の頃
人生初の床屋に行こうと決意し、近所の居酒屋で勧められた古いバーバーに意を決して向かったが一週間ほどお休みとの貼り紙。仕方ないのでとりあえず前髪周辺だけ自分で切ったのだが、なんというか「前髪だけ自分で切った人」みたいになって「うーん、これは合ってるのか?」と心配になった。
幼少期はお母さん、18歳まではお父さん、以降はずっと自分で髪を切っている。お父さんが自分で切る人だったから真似したのだ。すなわち一度もお金を払って髪を切ったことがない。20年以上もセルフカットだけを続けていれば当然スキルも多少はついてくるもので最近はそれなりに安定してきた。ただ、「プロの仕事」を一切知らないのもいかがなものかというのと、「プロに切ってもらった場合の姿」も気にならないではない。周囲にも言われる。せっかくいい男なのだからちゃんとしたところで切ってもらえよ、みたいな意味で。
それで「よーし、いちど町のバーバーで切ってもらってみるか」と決意したが出鼻をくじかれた(むろんバーバーに罪はない)わけだ。結局は自分で切ったわけなんだけど、「一週間後くらいに切りに行くとしたら今は前髪だけでいいか」ということで前髪だけにしたのだが、「一週間後に切りに行くとしたら」という普段はまったく生じない雑念が入ったせいで、なんだかいつもとは若干違う切り方になってしまった。別にすごく変になったわけではないんだけど、「これでいいんだっけ?」と不安になった。単にあんまりなったことのない状態になったというだけなのだが。
そんなんでフワフワとお店に立っていたら友達の女の子が「前髪かわいいですね」と言ってくれた。いつも僕を救ってくれるのはこういう一言なのだ。武富健治『掃除当番』のラストシーンのようだ。本当にありがたい。ほかにもチラホラと「アラかわいい」なんて言ってくれる人がいて、「よかった~とりあえずはかわいいという評価を得た」とホッとした。
そんだけの話。「褒める」ということはまったく無料で、さまざまなタイミングの他人を救いうる。自分にとっては軽い一言でも相手は信じられないくらい嬉しかったり助かったりする可能性がある。僕はあんまり「髪切りましたね」とか気づいても言わないのだが、「その○○かっこいい!/かわいい!」みたいなことはけっこう言う。「変化」については特に言及しないが「良さ」については伝えたくなる。件の友達も「良い」と思って言ってくれたのだろう。友達はいつでもいいもんだ。
その逆で、軽い一言が徹底的に傷つけてしまうこともある。信頼関係というものがないところで軽々しく何かを言うことは難しいし、ある程度の信頼が見込まれたとしても覚悟ができず尻込みすることは多かろう。でも褒めないよりは褒めたほうがいいのだ。勇気出して。それが世の中をよくする第一歩。ジャキより始めよ。
2025.9.15(月) 素晴らしいうどん屋(一)
9月7日、藤子不二雄はじめトキワ荘メンバー御用達の「松葉」で昼食を取った。最近ちょっと小麦を控えている(胃腸が弱いのは小麦のせいでは?とその筋の人に言われたから試しに抜いてみている)ので初めて麺類ではなく焼肉定食を頼んでみた。「町の定食屋!」って感じの盛り方で大いに満腹となった。いつ行ってもいいお店である。普通あそこまで観光地化してしまったらいろんなクォリティが(僕のような偏屈者にとっては)損なわれてしまいそうなものだが「松葉」は往年の輝きを失っていない。せいぜいこの20年くらいしか知らないけど。
その後、Moo.念平先生のトークイベントへ。藤子不二雄ファンサークル「ネオ・ユートピア」の秋山さん目黒さんと鼎談。まことに面白かった。「君こそわがおたく」ではないが、「僕の好きなオタクってこういう人たちなのだ」とお三方のお話を拝聴して改めて思った。むろん自分も似たようなものだと胸を張りながら。
Moo.先生とは懇意にさせて頂いているつもりなのだが、タイミングが合わず(また気分もそのように優れず)お声かけできなかった。久々の商業新刊が出たこともあってサインの列が長蛇だった。何よりであります。しばし「後方大ファン面(?)」してから「ふるいち」で『ネオ・ユートピア』最新号と田中道明『名犬タマ公』買った。
商店街を歩き、「Neggy」という最高な喫茶店でコーヒー飲みつつ本を読む。暗くなりかけた頃に駅前で自転車借りて池袋へビューン。夜は大崎で予定があるのだが、その前に池袋あたりで夕飯を済ませておこうと思ったのだ。
90近いおばあさんが一人でやっているおいしくて安くてめちゃくちゃ狭いうどん屋が池袋にある、と噂には聞いていた。18時台なら開いていてほしいが日曜だしお休みかもしれない。「すでに閉業した」という噂すらある。そんな時はとりあえず行ってみるのが鉄則。ちょっと待てさっきお前小麦を抜いているとか言ってなかったか?
うどんこそ小麦そのものだろ。その通りです。しかし小麦を抜くために素晴らしいはずの場所を回避するなど本末転倒、すべてはよく生きるため。「素晴らしいうどん屋」に天秤が傾くのは当たり前のことだ。むしろそういうイレギュラーのために「松葉」ではラーメンを食べなかったのでもある。その時点ではうどん屋のうの字も頭になかったが、いざという時に「しまった! さっきも小麦を食べてしまった」とならないようできるだけ控えておくべきなのだ。松葉のラーメンはしばらくは逃げないだろうし、定食を食べてみたかったのも大いにあった。
さてうどん屋の前まで来た。建物の灯りはついている。提灯は消えていて、ネットで見た看板は裏返っている。しかし小さなぼろぼろの暖簾は軒先にかかっている。これをどう判断するべきか? この店は客を待っているのだろうか、そうではないのだろうか?
こういうとき、「無理だ。絶対に戸を開けられない」と諦めてしまうことが実はけっこうある。度胸がない、というよりは「迷惑では」と思いすぎてしまう。おそらくその先は「完成された場所」であって、まちがいなく自分の来訪は想定されていない。それが不快な雑音となることを恐れる。スナックやバーなどに対してもそう感じて尻込みし、踵を返すことも多い。意外かもしれないが「店師」を標榜する僕にあっても、いやそうだからこそ「侵入する」という感覚を強く持っている。「大丈夫だよ」というサインが店先や前情報等になければ扉を開ける決心はつかない。
少し話が逸れるが「喫茶店」というものに対してはかなり簡単に扉を開けてしまえる。受け入れてくれるだろうという前向きな想像が常にある。日本において「珈琲(お茶)を出す店」というのはそういうものだからだ。僕が喫茶店を好きな理由はまさしくここにある。誰もが自由に訪れてよい場所(のはず)だから。
このうどん屋に対して僕は、自分の「侵入」が「不快な雑音」となり、何かを壊してしまうことを危惧していたわけだ。追い返されたらお互いにいい気分にはならない。「断られるほうが辛いかね、断るほうが辛いかね」というやつ。Googleのレビューに実は「やっていないと言って追い返された」みたいな怒りの声があったのだが、「ごめんなさい」と言う側も辛いのだよ。それをわかるんだよアムロ。
しかし果たして僕は扉を開けた。「ええい、ままよ」と。なぜかといえば、そのうどん屋があまりにも「素晴らしいはず」だったからだ。上記の気持ちをすべて天秤にかけても、目の前のぼろぼろの暖簾の「先」を見てみたい。ずるさを承知で正直に言えば「一瞬でいいから店の中を覗きたい」と。もしかしたらその先はもう店ではなく「ただの民家」かもしれなくて、そしたらただの不法侵入である。それでも「もしかしたら」が拭えなかった。その「素晴らしさ」に対して僕はもう中毒なのだ。
扉を開けて、さてどうなったか。つづく!
2025.9.16(火) 素晴らしいうどん屋(二)
素晴らしいはずのうどん屋の戸は容易に開いた。戸とか扉とか統一されていないが実際は引戸であった。(一)で主として「扉」としたのは、「店と外とを分ける境界であり、開ける際に覚悟と勇気が必要になる」というニュアンスをよりわかりやすくするためである。引戸を引くときと、握ってぐるっと回すタイプのドアノブを引くときと、けっこう感覚が違うと思いませんか? 「重たい」のはたぶん後者なのだ。文学的に。
店の中は店であった。乱雑で、狭い。レビューでは「一人入れるかどうか」というのもあったが、そんなことはない。なぜならば先客が二人いたからだ。50代か60代と思われる男性が二人、テーブルに向かい合って座っていた。店主はその前に立っていた。
六人乗りエレベーターの中にギリギリ将棋が指せるくらいの小さなテーブルと椅子が二つ置いてあるような感じ。まわりは棚や荷物でごちゃついている。そこに人間が四人入っている状態を想像してほしい。そして当然突然の闖入者(僕)は一瞬にして「お呼びでない」雰囲気を創り上げた。店主は苦笑いして指で「バツ」を作り、「やってないの」と言った。終わりだ。しかし一瞬だけでもここを覗けたことがすでに至福であり、「申し訳なさ」だけが心を濁していた。
ただ一つ聞いておくべきことがある。「やってない」のは今だけなのか、それともすでにお店としては閉めていて、いまはプライベートの場なのか。テーブルには缶ビールやコンビニのおつまみが置いてあって、明らかに「うどん屋」ではない。しかしコップやお皿はお店のものと見えた。これは「どっち」なのだろうか。もしお店として健在ならば、必ず再訪せねばならない。
「お店としてはもう営業してないってことでしょうか」「そう、もうやってないの。歳だからね」ジエンド。
「わかりました、失礼しました」と半分お店に入っていた身体を引いて外に出ようとした瞬間、奥に座っていた男性が「これで良かったらちょっと飲んでいきます? いいですよ、入っちゃって」と言ってくれた。エー!? そんなことある? もちろんここは店主の反応次第。黙っている。笑っている感じでもない。表情から気持ちがまったく読めない。
するともう一人の男性が「俺、もう帰るとこだから、ここ座っちゃっていいよ」と後押ししてくれた。こうなるともう多数決で、よほど嫌がられているようでなければ甘えてしまいたい。相変わらず店主の表情は読めないが、嫌がっているふうではなかった。「お客さんがそう言うならねえ」というふうに僕は解釈した。読んだというよりは、古いお店の人は大抵そう思うものだろうという希望的定説。
やがて手前の男性はお帰りになり、代わりにそこへ座らせていただいた。「これしかないけど」とお酒を注いでもらい、店主(ここからはママと呼ぶ)はもう90になるのだと教えてもらった。噂通りだ。
省いているがやり取りは当然上記のみではない。すべてを完璧にこなした、つもりである。これまた狡知さでもあるが、しっかりと「演技」をした。むろん嘘をついたのではない。「僕は大丈夫な人です」というメッセージを態度で伝えようと努めた。「大丈夫」というのは「危険ではない」とか「常識がある」というだけの意味ではない。たとえば最初に「これで良かったら」とお酒を提示された時、それはかなり強めのハードリカーで、見る限り氷も割り物も何もなく、ショットグラスにストレートで飲んでいた。すなわち彼は「40度の酒をストレートで飲むのでもいいか?」と言外に訊ねていたわけだ。僕はそれを瞬間に理解し「お酒好きなので、ふだんからストレートでも飲みます」という内容を手早く伝えた。そういう側面も含む、あらゆる「大丈夫」を短い時間で積み重ねていくことで「とりあえずの信頼」を勝ち取ってゆく。それを「演技」とまとめたわけだ。
「これね、ブラジルのお酒なんだけど……」と説明され、反射的な当て推量で「カシャーサですね」と言ったら「お酒詳しいんですね!」と明らかに喜んでもらえた。そこからは話が早いもので、話は弾み酒は進み、カシャーサを二種類とベトナムのお酒を頂いた。「これは原料も何もよくわからないんだよね、日本語が書いてないし調べても何も出てこない」とのことだったので、味見してみて「匂いは白酒っぽいですね」だの「ベトナムだからお米かもしれませんね」みたいなわかったようなことを言っていたら「なるほど~」みたいになって次第に和気藹々としていく。実際はもち米のお酒で泡盛の古酒に近いものだと思われた(改めて調べたら一つだけ日本語のページがヒットした)。
酒の話だけをしていたのではない。ブラジルやベトナムの気候や国柄の話に始まり、「行ったことがあるんですね~」というキッカケからプライベートな領域に少しずつ踏み入っていく。こちらも「お店をやっていて~」と明かす。ママは特にお話には入ってこなかったがじっと聞いていてくれて、同業者ゆえの安心もあるだろうとわりと早めに出した。はじめは固い表情だったものの最終的には笑顔で見送ってくれた。名刺渡して男性とはLINE交換した。
今はせいぜい五人くらいの常連だけが半ばプライベートに訪れているそうだ。予約をするのでもなく、通りすがりに灯りがついていたら寄るのだという。ママも毎日いるわけではなく、僕はきわめて運が良かったといえる。しかし今後僕がそこに通うかといえばやはり遠慮してしまう。結果的には歓迎されたとはいえ「侵入」だったことは間違いないのだ。これを読んだ人は「行ってみたい」と思うかもしれないが決して軽々しくは行かないでほしい。重々しくなら良いのかといえば僕は「良くない」とハッキリ思う。しかし禁止する立場にもないし、こうして堂々と子細を書いているくせに何を言うかということでもある。
「侵入」には二つの責任が伴う。一つは「完成された場所をかき乱してしまう」こと、そして「仲良くなったら関係ができてしまう」ことである。後者は実に僕らしい発想だ。関わりを持った以上は「いい思い出化」できない。関係は続いていかなければならない。再び闖入者となることにはかなり強い抵抗があるが、手土産でも持って訪ねていくべき、という感覚も一方にはある。
次に通りがかってみた時、あの暖簾を見て自分がどんな感覚になるのか、ということにかかっている、と思う。
大崎に行って、かつての教え子である幽山あきさんの生誕イベントに顔を出した。夜学バーの真下(=旧夜学バー)で働いているいむちゃんという子もキャストでいた。幽山がスカウトしたらしい。僕とは全然関係ないところで。世間はあまりにも狭い。ちなみに旧夜学バーのお店(スケッチィという)のオーナーは僕の次兄と知り合いだった。世間は狭い。
幽山は夜学にもたびたび来てくれているが、僕も折りに触れ会いに行っている。会いに行ける人とは会うほうがいい。本当に、つくづくそう思う。
2025.9.17(水) 1・2の参政党!!
読売新聞の世論調査によると参政党の支持率が落ちて国民民主党が野党トップになったそうな。7月、8月は参政党がトップだった。
これはまずい、と思った。何がって、参院選(7月20日投開票)の頃からずっと「参政党について書かなきゃな~」と思っていたのだが2ヶ月も遅れてしまって、ついに参政党に「かげり」が見えてきてしまった。これでは何を書いても「後出し」になってしまう。チクショー。お店とかではあれこれ語ってきたんですけどね。皆様、ジャッキーさんの最新作は常に夜学バーにあります。ちゃんと通ってくださいますように! よろしくおたのもうします。
とはいえ「かげり」は読売新聞の調査(9月13~14日)。NHKの調査(9月5~7日)では参政党が勝っている。ただし個人的には! この「約一週間」の差はけっこうでかい(その間に支持率が下がった可能性がある)と思う。読売新聞のほうが新しいということは一応おさえておきたい。
また朝日新聞の調査では8/24の時点(調査日か発表日かは不明)で国民民主党が上回っている。Txitterでは「参政党の支持率が落ちているというのは大嘘!」という立場の人もかなり多いようだが、以上の三調査を踏まえると「かげり」自体はあるだろうと思う。急がねば。
まず結論から書くと、僕の見解はこうである。「都知事選で石丸に入れた層が参院選で参政党に投じ、同じ層が近い将来に小泉進次郎を支持する」。そりゃそうだという感じかもしれないが、そうか?という感じでもあると思う。
もちろん、「ガチの参政党支持者」がそのまま進次郎を歓迎するようになるという話ではなく、いわゆる浮動票についてのこと。僕は石丸に投票した人のほとんどは「なんとなく」だと思っている。そして参政党に投票した人のほとんど(ガチ支持者以外という意味)も「なんとなく」だと思う。多少の理屈があるにしても「変えてくれそう」「勢いがある」といった《なんとなく》系の発想か、「外国人の問題はたしかに問題だよね」といった《身近な問題意識》系、そして「この政策が実現すれば自分にとって都合がいい」という《個人の利益》系くらいのものだろう。「日本人ファースト最高!」みたいな《政治信条》系の人は実際かなり少ない、はず。
去年の衆院選で国民民主党を支持した人も、「手取りを増やす」という《個人の利益》系が多かったと思われる。あとは雰囲気。ただインテリ層の支持者には《政治信条》系や《戦略的投票》系もいて、そこが固ければ今後も盤石だろう。石丸は「ほぼ雰囲気のみ」だったからあっという間に弱体化した。
石丸や参政党に投票した人の多くは「なんかすごそうだから」くらいにしか思っていなかった。あとは「既成政党はダメ」というイメージ。とにかく「自民党はダメ!」と思い込んでいる。「百合子もダメ! 蓮舫もダメ! 田母神は問題外! 新しい風! 若い人! それっぽい雰囲気!」と。
ああ、すべて印象論なのが申し訳ない。本当はもっとちゃんと「投票理由アンケート」みたいな?データがあれば参照したいのだが、余裕がない。何せ「ガルバもキャバもほとんど行かないのに長々と語り続ける」ような空想人間の世迷い言、ぜひ怒らずにいていただきたい。そして使えそうなデータを知っているのならば教えてほしい。
そういうわけで参政党に投票した層の多くは進次郎になった瞬間に自民党支持に移る、と僕は考えております。なぜならば進次郎は「若い」し「顔がいい」し「それっぽい話し方」ができるので(進次郎話法の凄さについては別記したい)。ただし、もし次に総裁選で進次郎が総理になったとしてもそのフィーバーはたぶん限定的で、「いったん総理を退いた数年後の第二次政権」こそけっこう長期になるのではないかと予想している。仮に次が進次郎だとしたらそれはその時のリハーサル、来るべき「ガチ進次郎政権」のための練習のようなものになって、1年くらいで代わりそうな気がします。要するに安倍晋三さんと似たような流れを汲む。当たってたら褒めて。
さてそれはそれとして参政党そのものの話をしたい。あんまり目次に「参政党」という文字を並べ立てたくないのでタイトルを工夫するが、次も参政党の話題である。ちなみに今日のタイトルは『1・2の三四郎』が元ネタと思わせておいて実は『1・2のアッホ!!』が元だという高等ギャグです。
2025.9.18(木) みんなの願いを叶えましょう
参政党のすごいのは第一に名前である。「参政」党。マジで何も言っていない。「政治に参加する」というだけで中身はなんでもいい。参政党の言うことはコロコロ変わって問題ない、だって「参政」党だから。すごすぎる!
参政党は常にその名前によって「みなさん政治に参加しましょう!」と呼びかけ、「政治に興味なかった層」を見事に取り込んだ。「政治に参加させる」とはこの場合「自分たちに投票させる」ということで、それはすなわち「当選する」ということに結びつく。ということは「参政党」とは党の側から見ると「当選党」という意味になる。
「参政する=投票する→どこに?→もちろん参政党に。→当選!」というふうに「参政」と「当選」が一本の線で繋がる、ここが彼らの革命的にヤバいところだと僕は思っているのであります。
「共産党」なら「共産主義を是とする」のだし「自民党」なら「自由で民主的であることを是とする」といったふうに、多くの政党は名で体を表している。「れいわ新選組」については参政党に近くて、ただ「新しい(現代的)」とだけ言っている。主義主張が含まれているわけではない。まだ「チームみらい」のほうがやや意味が濃かろう(特に「チーム」は面白い)。
参院選のときに「参政党かれいわかで迷っている」という人がたくさんいたらしいが、もっともな話だ。その二つは「中身を問わない」ものね。神谷崇幣と山本太郎どっちが好きか、というだけ(と言っては失礼かもしれないが僕はそう思う)なのだ。
さて参政党は「参政=当選」を第一に是とする(個人の見解です)。神谷さんはあの一世を風靡した「日本人ファースト」というパワーワードを「差別では」と指摘されたさい「選挙のためのキャッチコピー」と言い切り、少なくとも一度は破棄を匂わせている。後に「公約を包括するキャッチコピーとして使うのはとりあえず今回の選挙期間中だけという趣旨」(方針や公約としては継続する)と説明されたが、たぶん彼らにとってはどっちでもいい。「参政=当選」すればそれでいいのだから。
それを悪いとは言わない。なぜなら参政党とは「みんなが願っていることを叶える政党」で、それってたぶん「いいこと」だから。「みんなの話を聞いて、みんなが投票したいような政党をつくりますので、みんなでがんばって当選しよう」というのが参政党という言葉の意味である。
わかりますでしょうか。神谷さんの理屈では、「我々が日本人ファーストを掲げるのは、日本人ファーストという考え方を多くの人が求めているから」なのだ。そう僕は見ている。別に神谷さんが「日本人ファースト」にこだわっているわけではない。票が取れるから言っているだけだ。票が取れるから、と言うと聞こえが悪いが、「みんなが望むから」と言えば聞こえがいい。選挙ってそのように身も蓋もないのです。
おそらく神谷さんご本人も予感していると思うが「日本人ファースト」という言葉の寿命はそう長くない。そもそも「都民ファースト」という小池百合子のけっこう古いコピー(後に政党の名前にもなった)が元ネタなわけだし。ようするに他人の褌で相撲をとって見事勝っちゃった。スゲー。すごすぎる。おそらく神谷さんは「日本人ファースト」という言葉を容易く捨てて、また新しいコピーを考えるだろう。ちなみにその前の選挙は「日本をなめるな」だった。そのうちに「日本」という言葉も消えてしまうかもしれない。それでもいいのだ。みんなが参政(=当選)できればいいのだから。綺麗に言えば、みんなの願いが叶えばそれでいいのだから。
そのような「参政=当選=みんなの願いを叶える」を第一とする政党が、今後どうなっていくのだろう。神谷さんがいつまでも「雰囲気」でやっていこうとするのであればさすがに飽きられて弱くなるだろう。昨日の記事で言うと《政治信条》系だけが残る。しかしもし「その時における多数派の意見をしっかり吸い上げてそれを代弁するような、すなわちその時点で最も票が取れるような主張を常に展開し続ける」という流動的なあり方が徹底的に可能であれば、ひょっとしたら第一党も夢じゃないのである。民主政治ってまさにそういうものなので。しかし如何せん「多数派」というよりは「一部の極端な人や流されやすい人」だけをターゲットにしているように見える。たぶん彼は「そこまで」である。
2025.9.19(金) ガルバは「減る」のか
一連の「ガルバとキャバ」シリーズについて、読者(であり15年来の友人)がお店に来て「ガルバは減らないんじゃないですか」とのたまった。説明不足だったようなので少し補足しておく。
少なくとも僕が店を構える湯島という町では、明らかに、圧倒的に、コロナ禍前後でガルバやコンカフェが爆増している。どう考えても増えていて、増えているからお客の取り合いになり、嬢に対して客(おじさん)の数が相対的に少なくなるから客単価を上げるために「飲んで、飲ませる」営業に傾いていく。そのくせキャバクラのような「営業」システムが確立していないから早晩限界を迎えるだろう、というのが僕の見方である。
僕は「ガルバはなくなる」のではなく「減る」と言っている。それは「今よりは減る」という意味で、少なくともかつて(コロナ前)と同じ水準にまでは戻るのではないかということだ。今の状態は異常としか思えず、到底持続可能ではない。若い女が若い女というだけで(性接待も色恋営業も基本的にはないのに)これほど「売れて」しまうのは間違っているとも思う。
「会社の後輩がガルバで一晩で6万使ったらしい」と件の友人は言う。また「一度(別の人に)連れていってもらったら会計が7万だった」とも。驚くことに今の常識としては「まあそんなもん」だということになっている。まともな人は「ガルバって高いじゃないですか」「ほとんどぼったくりですよね」と言う。ほとんど弱者ビジネス、あるいは貧困ビジネスである。
一般に、お金持ちは「お金の価値」をわかっているので無駄な散財はしない。可処分所得の中で、自分が満足できるものを逐一見極め計算してお金を使う傾向にある。貧乏な人は極端に言うと「支払いが可能かどうか」しか考えない。「限度額まであと10万くらいあるから……」とか「明日パチンコで増やせばなんとか……」みたいな発想である。本当に、極端に言うと。ガルバは「そういう層」をターゲットとして稼いでいる。「もうすぐ給料日だから、手持ちのキャッシュはすべて使い切ってもいいだろう」という発想は自転車操業の貧乏人がすることで、お金の価値を知っている人は単に「これに○○円の価値はあるか?」と考えて支払いの是非を決める。むろんお金持ちはお金持ちなので「まぁ別にいいか」と支払うことはある。ただその店への評価はそれで下がる(コスパが悪いと感じる)のであまり近づかなくなる。結果としてそのような店に残る客はおおかた貧乏人である。
例外として思い浮かぶのは、「偏差値の低い高校で成績上位をとって悦に入る」タイプの人。キャバクラではモテないがガルバなら金を使うだけでモテるので、あえてそういうお店に通うお金持ち。99%は成金。※個人の感想です
不景気で嬢の供給が増え、それを支える貧乏人も増え、いったんは需給が均衡して今の状態ができた。しかしやがて嬢は刺され始め、客は刺し始めた。嬢は酒と客によって疲弊し、客の資金的体力も底をつく。何年経っても大したリターンがないことにも気づき始める。それでも通い続ける者はいるので「なくなる」ことはないが、徐々に「減る」のではという見立てだったわけである。増えすぎたぶんは減る。でもそれを求める者は数え切れない、誇らしい義務感で分別なく醜悪を換金してください……。
ところで、その友人はあの「
素晴らしいうどん屋」に行ったことがあるらしい。2年ほど前、昼間に。先客が一人いたが「うどんはもうやっていない」と断られたらしい。「ジャッキーさんは入れたんですね」と感心(?)された。一番大切なものはやっぱりタイミングだと思うけど、「お行儀良くする」という「演技」も同じくらい重要である。
書き忘れていたのだが、帰り際に僕が「突然だったのに入れてくださってありがとうございます」みたいなことを言ったら、招き入れてくれた男性が「ちゃんと顔や態度を見て決めてるよ。この人は大丈夫そうだと思ったから誘ったんだ」と話してくれた。こんなにうれしいことはない。名誉で、自慢できることだったのに書かなかった僕は偉いな。いま書いたけど。
2025.9.20(土) ラップと短歌
っていうタイトルで書き始めたら悪口になってきたので格納した。どっちのシーンにもそれほど詳しくないし。
ただ、この2つのジャンルに共通点はあると思っている。そしてなぜか僕はこれらに距離を置いている。しかしかつてラップもどきの活動をやってみたことはあって、たぶんかなり得意だと思う。短歌については微妙だが57調、75調といった言葉のリズムは大好きである。
僕は日本語ラップを聞くと大抵まず「ただの文章やんけ」と思うし、短歌を読むと大抵まず「ただの文章やんけ」と思う。向いてないんだろうな。
短歌についてはどうしてもそれを「歌」とは思えない。少なくとも99%までの現代歌人(自称含む)まではそう。ごくまれに感心する歌に出合うこともあるが戦後のものでは相当稀。べつに嫌いなわけではない。短歌というジャンルを好きな人はぜひどのように味わっているのかを教えてほしい。本気で言っています。
ラップ(日本語ラップ)についても同じで、それを「声」によってやる意味があるのか?と思うようなことが多い。リズムに乗って文章を声に出しているだけで、そこにダジャレが付随しているにすぎない、としか思えないようなものが多くてほとんど聴くことができない。
最近MOROHAというミュージシャンを教えてもらって聴いた。あれをラップと言うかは知らないが、僕が「聴ける」のはああいうものである。「歌になっている」し「詩になっている」と思える。
MOROHAが「歌になっている」とはどういうことかというと、「言葉にふさわしい声の出し方がなされている」。単語やフレーズに対しても、曲全体の流れやグルーヴに対しても逐一「ふさわしい」声の出し方が徹底されている。薦めてくれた友人は「本当に思っていることしか言っていない」みたいな説明をしていたが、それは「言葉と声」が一致しているからだと僕は思う。
一方、短歌が「歌になる」ためにはどうしたらいいか。「声」がないのだから非常に難しい。そう、非常に難しいのだから普通の人間にはできない。それなのに普通の人間が、文字数をおおむね57577に合わせるだけで「短歌をしている」と思い込んでいることにたぶん僕はずっとムカついているのだろう。
短歌(の形式)が歌となるためには、文字だけで声を響かせなければならないのである。たった31音で。およそ不可能。そのために『伊勢物語』にはストーリーがあるし、和歌集にも詞書(ことばがき)がついていたりする。また「誰がつくったか」ということも「声」を響かせる手伝いをしてきた。裸のみそひともじに「声」を宿らせて「歌」にすることは本当に難しい。みんなそれを実現したくていろいろ工夫して、定型を崩したりなんだりがんばっているわけなんでしょうね。
俳句になぜ季語が必要かといえば「十七音で表現できることは限られているから」であろう。俳句は短いから難しく、音数の多い短歌は簡単だ、というのが一般的な見方であろうが、実のところ「外部の情報」に頼ってきた歴史はどちらにもある。現代の短歌は「31音ですべてを表現しよう」と思いすぎて歌にならず、ただの短文に堕している。ゆえ参入が容易く、「どうも歌人で~す」と名乗ることができる。
日本語ラップのほとんどは(僕の考えでは)言葉と声が乖離している。それぞれが優れていれば聴く人はそう気にしない(頭の中で合致させられる)のだろうが僕の好みではない。MOROHAについてはそこが最初から一致している。ゆえに好みである。
また「詩になっている」とはどういうことか。これは説明が難しいが、「言葉の意味を珍重する散文」ではなく「言葉の意味以外の要素を尊重する韻文」ということである(佐藤春夫の詩論による)。最も有名らしい『革命』という曲のサビ(?)は、
真っ暗闇の未来に描き殴る
蛍光ペンを求めて
半径0mの世界を変える
革命起こす幕開けの夜
「未来」に蛍光ペンで何かを描くことはできないし、「半径0m」という範囲は存在しない。意味を超えている。詩的である。
また、
「~~の未来に~~る
~~を~~て
~~の世界を~~る
~~す~~~のよる」
実に巧みな構成。「の」「る」「す」といった音の配置の妙は言うまでもないが、あえてそれを外した「蛍光ペンを求めて」もゆえに際立つ。「の未来に」「の世界を」の対応もうまい。未来と世界は意味と音の双方で共鳴する。常套ではあるが動詞の終止形で踏んできた最後を名詞「夜」で締め括るのも上手い。止まった感じがする。「言葉の持つ意味以外の要素」がちゃんと詰まっている。
歌になっていて、詩になっている。ラップと短歌に共通して僕が求める要素はこれらである。もしよさそうなものがあったら教えてください。
2025.9.21(日) 近況(総集編)
最近のことで書いていないことを思いつくまま。
21日は非番だったが、ホキ徳田という人をめあてに上野公園のジャズフェスへ。ほかに用事もなかったし、すぐに帰ろうと思っていたのでろくに荷物を持たず走って向かった。4㎞ちょい。ランニングにはちょうどいい。ふだんは基本的に自転車ゆえ歩いたり走ったりが少なくなりがちなのでたまに自分が走れるかどうかを確かめる意味も込めて走ってみるのである。
前日は思いのほかお客が多く氷が切れてしまったので業務スーパーに寄って板氷を買おうと思ったが一つもない、それらしきスペースもない。品切れではなく取り扱いをやめてしまったのかも。困るなあ。仕方ないので割れてるやつを買って18時ちょうどにお店へ。担当からは「5分遅れる」と連絡があったので鍵を開け冷凍庫に入れて外に出たらちょうどすれ違った。
18時10分からホキ徳田。間に合った。やー、素晴らしかった。91歳、11月14日で92歳になるそうだが、立ってペダル踏みながらキーボード弾いて譜面もなしで小一時間を歌い切った。アンコールはビッグバンドで2曲。さすがに感激してこないだ出たばっかりのサイン入り自伝を消費税抜きで買った。ほくほく。ちなみに通常3000円のところ学割で1000円、手数料110円、ドリンク代は200円であった……。放送大学!そりゃ本くらい買います。
こないだ「琥珀」という超高級老舗バー(夜学から徒歩1分未満)に連れていっていただきまして(2回目)、その時にチラシとともに「ホキ徳田は必見」と教わったのだ。今度「聴いてきましたよ~」とご報告に行かねば。ちなみにここで供された「三島由紀夫が飲んだジントニック=三島トニック」を真似た「ゆしまトニック」を練習中。難しい。同じ材料で同じことしてるはずなのにあの味が出せない。場の力もあるよね……。
帰りは歩く。雨が降ってきた。しかしいまさらと濡れながら歩き続ける。雨宿りがてらスーパーに寄って買い物をする。出てきてもまだ降っている。仕方なく濡れながら歩く。LINEを見ると「早退します(大意)」と連絡が。ゆったり買い物してる間に。これが20時前くらい。
すぐに踵を返してバスに乗ることもできたが、買ったものを一度家まで運びたかった。合羽着て、自転車でふたたび上野へ向かう。「20時30分ごろ再開します」とSNSに投げる。
こういう時の気分を筆致で伝えるのが文章力ってもんなんだろうが、「ペダルは古い難破船の錆び切った舵のように重く」みたいな下手くそな比喩を書いてもいやらしく恨みがましく見えるだけなので直截にしたほうがいい。二往復て! しかも走り、歩き、そのあとに自転車。さらに雨。食べればトライアスロン。
何が憂鬱かって、日曜の夜なんですよね。しかも雨降りってなったら、お客なんてこないんですよ、普通。だから別に僕は行く必要もないのです。早退した子への当てつけみたいにもなっちゃうし。でもなんか「行くしかないなあ」としか思えないのが僕の良くも悪いところだ。根性と使命感。
20時半に着いて、すぐにお客さんが来た。あー良かった。その方が1時間ほどでお帰りになってからは無風。何も起こらず、そのまま帰宅、するのもなんだったので一軒だけ家の近所の去年できたバーに初めて行ってみたのだが、絵に描いたような「凡テンダー」ぶりで苦爆笑しつつ気疲れしてしまった。「このあたりでよく飲まれるんですか?」「どのあたりでよく飲まれるんですか?」「職場はどのあたりなんですか?」「どういったお仕事をされているんですか?」「どんなお酒をふだん飲みますか?」等々々、どうでもいいくせに踏み込んだ質問を矢継ぎ早にしてくるのだ。アンケートするなら一杯くらいごちそうしてほしい(そういうバイト昔してた)。茜霧島のお湯割りを頼んだら30mlほどお酒を入れたカップに100度の熱湯を注ぐ。すごい!
そのあとはサントリーオールドの水割りを頼んだのだが20~25mlしか入れていなかった気がする。見間違い、あるいは飲み間違い(?)だろうか。タリスカーだったらこれで1480円だったのか?(ちなみに夜学では900円)でもそんなに体内にお酒を入れたくなかったのでちょうどよかったな。あ、それを見抜いてくださったのかしら。名テンダーの可能性。なんつって性格悪そうなこともクサクサしてると考えちゃいますよね。悪化しないうちに素直に帰宅。チャージはたぶん500円(金に細かい)。
そのテンダー悪い人ではなかったし、水割りはけっこうおいしかった。ただすべてが「そこそこ」って感じで僕の感覚からは褒めるところが一つもない。これで1年続くってのはちょっとやっぱ、水商売ってチョロいのか? 3年、5年続くのか? 今後変化はするのだろうか? 年に一度くらいは定点観測しておこう。
20土のことは日報に書きます。
19金、これも日報かな。
18木は阿佐ヶ谷バートルに集合! 9月生まれの友達と。「かわ清」が開いていて感涙。87歳になるそうな。お店はとっくに50周年。お通しと、すべてが載ったプレートと、デザートにルバーブの寒天、それで二人で焼酎お湯割りを7~8杯飲んで7100円じゃった(金に細かい)。すばらしいことだ。そして「メリデ」に。こちらは今月で85歳。年寄り観測日記みたいになってる。ここは二人で3000円台だったかな。誕生月の人がいると楽しいことが起こるので行きたい人はお申し出ください。女子がいいですね、女子が!ってのはマスターが喜ぶから(上納)っていうだけでもちろんそうでなくとも構いません。なにしろ僕が行きたいだけなので。
Txitterに写真載せたら夜学に行ってたって人が黙ってスッとメリデに来てくれたのもうれしかった。タイミング。フットワーク。面白さ。サプライズと賭け。
友達と別れ、呼ばれたので御茶ノ水で下車して夜学に。だらだらしてサイゼリヤでワイン飲んで帰った。
17水、体力の限界!って感じで早めに帰ったと記憶している。
16火、つまりスゲー飲んだ気がする。
15月、自転車(ロバ)にキャラダイスのバッグを装着。えまくんが働いている神楽坂のお店に行く。積年気になっていた焼酎バー「寛永」に立ち寄る。あひる社で吉本さんと長話、浅羽猫先生にもご挨拶して古本ちょっと買う。湯島戻ってちょっと飲む。
14日はあんま覚えてない。それはそうと最近ガストに朝早く行って数時間サギョーしたり本読んだりするのに凝っている。東京新聞にクーポンが挟まっていたので。壁に面した一人席があって、電源もついているのだ。最高。ファミレス熱が高まってきた。近所の喫茶店がどんどんなくなっているので……。さみしい。
13日は夜予定あったんだけど疲れすぎてすっ飛ばし、それでも呼ばれたので22時ごろ夜学にイン。したら「琥珀に行きましょう」ということになって3名でお邪魔する。ギムレット/ロックスタイルのダイキリ、みしまトニック/ジンフィズ、サイドカーって感じだったかな。僕もう一杯飲んだっけな。それで18900円という会計だったのだが、高いけど琥珀にしては安いようにも思う。「安いモード」(とは?)に入ったのかもしれない。あるいは意外とチャージが安く設定されているのかも。たとえば一杯3000円でチャージ1000円→18000円くらいの。今度勇気出して一人で行ってみよう。そのためにホキ徳田を聴きに行ったのだから。でも女の子連れていったからとか、三島由紀夫の話をしたからとかいう「スイッチ」だった可能性もある。研究をすすめたい。
そのあとは「うなばら」行って、もう一人合流して「さんつぼ」か。重鎮行脚ツアー。そんで夜学バーに帰ったのかな。朝方めんどくさい絡み方してすみませんでした。反省してま(~)す。「めんどくさい絡み方」って「格好悪いふられ方」みたいだな。
めんどくさい絡み方、という言葉でまとめてしまうと何だか雑すぎるのでもうちょっと精確に考えると、「正当性のない突っかかり方」かもしれない。いや僕としてはけっこう真面目に考えたいテーマや内容ではあったのだが、そのために目の前の人(たち)を礼を失する形で利用してしまった感は否めない。申し訳ない。こちらに甘えがあったということです。そういうことたまにあるんですよね。猛省!(平野綾さんの声で)
そんなところか。あとは思い出したら。7日、うどん屋に行った日書き忘れてたけど大崎のあとに大久保の「おーちゃっこ」行きましたワ。さらにそのあとゴールデン街「チリチリナイン」行った。奇数日曜のみ岡田さん(重要人物)が立ってるのでよかったら行ってみてください。朝まで開いてます。それでたぶん帰った。酔っていたからというより時期的に記憶が薄い。
11日にメップルを4代目に変えた。(重要な記録)
2025.9.22(月) 進次郎話法
小泉進次郎のすごいのはその話法にある。「何も言っていない」とか「同語反復」とか「頭が悪い」というのは序の口というより周縁で、核心ではない。彼の最大の凄みは「質問に答えているが、質問に答えていない」ことだ。(※これは進次郎話法ではない。進次郎なら「質問に答えているので、質問に答えている」となろう。)
簡潔に。進次郎はたとえば「Q」という質問を投げかけられたとき、本来するべき「A」という答えは返さない。それと隣接するがまったく別物の「A´」という返答をする。いまから例を探してくる。きっと簡単に見つかるはずだ。いつもやっているから。
地域によってはもうすでにそういう状況になってる地域もあるんですよ。例えばどこにお米を売ろうかなという時に、農協に売ろうかな、それとも他に売ろうかな。こういったところっていうのは私は農家さんが選ぶって大事だと思います。農家さんの手取りを上げるにはね。で、こういった状況の中で私がよく、農協の皆さんが一次金を支払って、その一次金でやってる状況が基本という今の形から、
――概算金ですね。
概算金です。で、これを基本は買い取り、こういった方向に行くべきではないか。この思いを持ってる理由は農家さんのこの競争力と交渉力を上げた方がいい。そういう思いです。
――はい。概算金の廃止っていうのはこの秋からやるんですか?
私は概算金が基本だっていうことを言ってるんですよね。で、この思いというのは何度も言ってますけど、農家の皆さんが自分が売り先をちゃんと選べる。それと地域によっては農協しかないっていう地域もちろんあるんですよ。ただこれは概算金の話だけでは限らないで、例えば農業機械、これも高すぎるって話ありますよね。で、農薬、肥料、ダンボール、様々な農業のために必要な資材というものがあります。この農業資材を販売をするっていうことを今までJAグループはやってきて、それを買うのがお客さんである農協の組合員ですよね。生産者。その皆さんに対してやっぱり大事なことはより安いものを、よりいいものを農家の皆さんに販売をして手取りを上げて。かつ農家の皆さんが作ったものをより評価される市場で売ってくこと。はい。これが私は農協の一番大事なことだと思ってるんです。
(https://youtu.be/ZAPeveGu1YI?t=699、2025年7月1日放送)
わかりやすい例が見つかった。インタビュー全体はわりとしっかり受け答えしているのだが、「概算金の廃止は秋から?」という質問には「進次郎話法」ではぐらかしている。「いつから」とも「廃止する」とも「廃止しない」とも言っていない。「私は概算金が基本ということを言っているんですよね」と答えてはいるが、その前のところでは明らかに「概算金が基本という形から、基本は買い取りという形に変えたほうがいい」と言っているので、まったく回答になっていない。
進次郎は「現在は概算金が基本である」としか言っていない。「廃止は秋から?」と聞かれたあとでも「現在は概算金が基本である」と繰り返している。少なくとも言葉の上ではそうである。「基本は買い取りという方向に行くべき」と言っているのだから、「今後も基本は概算金です」という意味では絶対にない。こちらの記事(https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA202KN0Q5A620C2000000/)でも「今まで概算金という一時払いだったが、これからの基本は買い取りだと認識が一致した」と記者団に語った(6/20)とある。農水相としての公式見解だったということだ。口が滑ったのだとしたら「私は概算金が基本だっていうことを言ってるんですよね」のほうだろう。これは単純に「買い取りが基本」の言い間違えかもしれない。そしたら意味は通る。しかし「廃止は秋から?」の答えにはならない。
進次郎は、「廃止」にも「時期」にも触れず、すぐさま「思い」というワードにシフトしている。これがミソなので覚えておくべきだ。進次郎はこういうとき割と「感情」を表す語を使いがちなのだ。そのほうが国民に届くことを知っている。人々は感情を表す語に反射するものだ。手品師がタネから注意を逸らすためわざと大げさな身振りをするように、進次郎は「思い」みたいなことをすぐ言う。
「何度も言ってますけど」というのも重要だ。進次郎は「公式見解を繰り返す」ことには長けている。都合の悪い質問にはまず「感情語」で注意を逸らしてから、「既存の公式見解」を長々と語る。公式見解は公式見解なのだから突っ込みどころはない。公式見解を語っている限りにおいては失敗しない。だから公式見解だけをひたすら語るのである。
何度も言っている公式見解を、とにかく繰り返す。その「公式見解」は政治家や官僚や秘書やライターや周辺の有能な人々が一所懸命考えたものなので「失言」にはならない。そして「概算金の話だけでは限らないで」と見事に概算金から話をずらしていく。概算金のことを聞かれているのに。そしてまた別の「公式見解」を語り続ける。その内容は「公式見解」であり至極まっとうで隙のないものだから、さらにそれを進次郎が、進次郎の喋り方で言うのだから、聞いている側は「なるほど?」とけむに巻かれてしまう。これが「進次郎話法」のあらまし。
これは正直、有能な政治家であれば当然持っているスキルなのだとは思う。うまく話をはぐらかし、答えたくない質問には答えないでいること。ただ進次郎はそれがめちゃくちゃうまい、と思う。これから国民が進次郎話法にどのくらい乗せられていくのか、楽しみに見守っていきたい。
2025.9.23(火) 練習問題(不発の核弾頭)
この記事ですでに書いたのだが繰り返し強調しておきたい。僕の大好きな爆笑問題という漫才コンビの本質は「練習」にある。
先週のTBSラジオ『火曜JUNK 爆笑問題カーボーイ』のオープニングトークで太田さんと田中さんが『タイムボカン』のED『それゆけガイコッツ』をひたすら練習する場面があった。彼らの出会いは「日本大学芸術学部演劇学科」で、演劇は「練習(稽古)」なくしては成り立たない。
おそらく多くの中堅~ベテラン漫才師はもうそんなに「練習」はしない。想像だが「今日はあのネタで行こか」「せやな」くらいのものか、あるいはそれすらなしに舞台に出ることさえあるのではないか。ネタ合わせくらいはするかもしれないが賞レースでもなければ新人の頃ほどは練習しないだろう。しかし爆笑問題はラジオを聴く限り、舞台に立つたびに新しくネタを作り、かなりの時間をかけて練習している。みっちりと。
時事ネタ漫才なので常に新ネタが必要だし、ボケやツッコミも完全にパターン化させているわけではない。そもそも練習が不可欠な形式なのだ。それを何十年も続けていて、これからも続けていきそうなのが本当にすごい。
ダウンタウンやとんねるずがテレビから存在感を消し、ウンナンもネタはしない。タモリやたけしはもはや「芸人」という感じでもないので、いまのテレビ芸人で最も「偉い」のは明石家さんま、その次は爆笑問題なんじゃないか? 上沼、鶴瓶あたりが浮かぶは浮かぶが「芸人」としての面は弱い。少し若いのだと有吉とか東野か。
そんなことを踏まえたうえで僕は「爆笑問題が天下を取った」と強弁したい。ファンだしね。 爆笑問題を表すには「練習」という語だけでなく、少なくとも太田さん個人をとれば「勉強」という言葉もあてはまる。『サンデー・ジャポン』や選挙特番の裏側で膨大な予習をしているようで、それは『芸人人語』という連載によく表れている。
それでいうと実は明石家さんまさんもけっこうな勉強家で、できるだけ新しい知識や考え方を取り入れようと努めている(そのせいで若干スベることもないではない)。また彼にとっては日常のすべてが「練習」そのものである。プライベートでもあのままでずっと喋り続けているらしい。
結局生き残ったのはさんまさんと爆笑問題で、なぜと言えば「努力家だから」と僕は言いたいのである。一周回って今は努力と根性の世界なのだ。
最近の若いもんは(!?)本当に根性がなくて、簡単に心が折れて飛んだりする。だからこそ「努力ができて根性がある」人間は他に差をつけられるのではなかろうか。「そんなもんは古い」「今は努力も根性もなくたって成功する時代だ」という考え方もあるのかもしれないが、努力も根性もなくたって成功する時代に努力と根性を持っていたらもっとすごいのでは? 近道なんてないのだ。
とはいえ、明石家さんまさんは70代、爆笑問題は60代である。じっさい何の参考になろう。彼らは「努力と根性の最後の輝き」かもしれない。
とはいえとはいえ、大谷翔平も藤井聡太も、偉大なる人はやはり「努力と根性」でやってきている。「好きだからやっている」だけでは済まない。市井には「好きなはずなのにがんばれない」人ばっかりなのだ。
では努力や根性はどうやって育まれるのだろうか。またアタリマエのことを言うが「褒められる」ことでは? もちろん「楽しい」も「利益が見込める」もあるんだが、もっと生々しくは「褒められる」とか「人に好かれる」ことで、それをこそ最大の利益と思える人が実はがんばれているはずだ。
「わたしは何をやったって褒められることはないし、人に好かれることもない」と心の底で思ってしまっている人は努力も根性も出すだけ損だとしか思えない。だから練習とかしない。「自分は褒められる可能性があるし人に好かれる可能性がある」と思える人は努力や根性に意味を見いだせる。たとえすぐには成果がなくとも。それはゆくゆく「使命感」となる。人に褒められるということは「誰かの役に立つ」ということにかなり近く、いきおい「使命」と思えるわけだ。大谷翔平なんか絶対もう、打つこと打ち取ることを使命としているだろう、極めて自然に、当たり前に。
世の中を良くするために必要なのは努力、根性、使命感。それを育てるのは褒めること。そのような泥臭いことを何周も回って改めて信じている。
本とか読んだほうがいい人は本とか読んだほうがいい。そしてその成果によって褒められるべきである。何をどのくらい読んだかではなく、それを読んで得たものを「使った」成果によって。そういったことをひたすら繰り返す。ひたすらひたすら……。爆笑問題は、ことに太田さんはずっとそういうふうにたぶん生きてきて、今ようやく「天下を取った」と(僕から)言われるに至ったわけである。
2025.9.24(水) 参政AIと多数決
僕は基本的に、「人々は概ね愚かであり、愚かな人々が多数決で選んだものは概ね愚かな選択である」ということを前提に、「しかし少数の賢い人々は少しずつ多数決の使い方が上手になっており、世の中は少しずつ良くなっている」と考えている。
ChatGPTなどの一般的な生成AIは(僕の理解では)現状、「膨大なデータをおおむね無差別に学習する」ものらしい。その中にはむろん誤ったものもある。つまりそれらの生成AIは「人類の(主としてインターネット上で発信した)情報の多数決」を示すものである。ちょっと乱暴すぎるか? ともあれ、誤った情報も学習してしまうというのは確かだろう。「誤った」というのは「あるところでは正しいがあるところでは正しくない」ものも含む(というかそれが大半である)はずなので、学習しないと仕方がない。
Geminiに確かめながら進めていく。生成AIとは《学習データの中で**「次にどの単語が来る確率が高いか」**を計算している》ものだという。《最も確からしい選択の連続》とも言い換えられる。文脈を制限しても、《文脈における単語同士の関連性の多数派パターン》を呼び出す。まとめると《既存の文章の関係性のパターンを複雑に確率学習し、新しい言葉を紡ぎ出す》とのことだ。
ただし、《構造がしっかりしていて論理が一貫している文章》を優先して学習し、《人間による「評価と調整」》も経て、《AIはより論理的で正確な(=賢い人が期待する)回答を生成するように調整されます》だそうな。
一方で、《AIは「賢さ」だけでなく、**「多様性」と「共感性」**も学習する必要がある》とも。また《開発者が「愚かだ」と判断した情報をフィルタリングしきれていない》という事情もあるらしいが、これはもちろん「フィルタリングしている」ということでもある。すなわち「単純な多数決よりは(開発者目線で)マシなものにはなっているはず」。
生成AIを《多数決》と言うのは《単純化しすぎ》ではあるものの、《本質の一面を捉えているとも言え》る。清濁併せ呑むという感じか。
《生成AIが明らかに事実と違ったこと(いわゆるハルシネーション)を言う主な原因は、ご指摘の通り「予測の間違い」であり、特に「収集した情報の使い方(確率的な接続)が悪い」ことに起因します。
しかし、「人々が必ずしも正しいことばかりを言っていない(=学習データの質の低さ)」という事情も、その間違いを引き起こす根本的な要因として大きく影響しています。》
とりあえずここまではGeminiの言質(?)をとった。おおむね間違っていない認識だと思って、話を進めたい。
何が言いたいかというと、参政党ってこの意味で生成AIみたいなもんだよね。僕は
この記事で天才的にも参政党を「みんなの願いを叶える」党と規定した。参政党は名前の通り「参政=当選」を是とする集団で、その中身については定まっていない。常にその都度の多数決で決まる(と僕は見ている)。唯一絶対の党是が「参政=当選」にあるから当たり前だ。
つまり、「現状参政党を支持するような人たちの喜びそうなこと」を常に言っているわけだ。たまにハルシネーション(幻覚:事実に反する回答の生成)は起こるが、利用者(支持者)はさして気にしない。ハルシネーションでしかないからだ。
地方議会でポンポン議席をとっていけるのも、「みんなが好きそうなこと」を言っているからだと想像すれば合点がいく。その土地その土地に「ウケる内容」はあって、そこに絞っていけば意外と当選するのだろう。今は「勢い」があるので一層。もちろん「組織力」とか「宗教的熱狂」があるからってのも非常に大きいはずだが、訴える内容が「みんなが好きそうなこと」であることも当然、重要である。
試しに参政党から愛知県内で当選した市議のホームページをいくつか見てみた。もちろん地方議員なら当たり前だが「地元」のことをよく考え(調べ)た政策が間違いなく載っている。消費税減税!とか戦争反対!みたいな大きなことじゃなくて、ベッドタウンの春日井市なら「子育て」、管理教育や詰め込み教育の激しかった(今もわりと強いと思う)刈谷市では「偏差値教育からの脱却」が強くアピールされている。当たり前のことなんだが、この当たり前のことをしっかりやるからたぶん参政党は地方でも強いのである。
参政党とは「多くの人がすでに良いと思っていることを掲げて当選する」政党である。陰謀論めいたことを言うのも票が取れるからにほかならない。排外主義的な色合いもそれで票が取れるから、勝てるからである。
むろんさっきから言っている多数決とは「過半数をとる」という意味ではない。「選挙に勝てる=当選できる数をとる」だ。「日本人ファースト」でまさか人口の過半数は動かせないが、「さや」を得票率9.6%(668568票、都内有権者の約5.78%)で当選させるくらいまではいけるのだ。おそろしや……。
陰謀論や排外主義に寄ってしまうのはもちろん浮動票を得るため、特にいわゆる「それまで参政していなかった人たち」を参政(投票)させるため。ブルーオーシャンというか、「まだ埋められてない領域」をうまく使ったわけですね。まともな主張はもうすでにいろんな政党が埋めてしまっておりますから、そこで戦っても勝ち目はない。
都議選で世田谷区から2位当選した参政党員のホームページを見ると「教育と心を守る」「農家と食を守る」「国土と生命を守り、自然と人をつなぐ」「治安の死守(女性のスペースを守りぬく)」等とある。ちなみに青学、サッカー、母子家庭。いかにも世田谷区民が好みそうな(偏見)。「オーガニック!」「食品添加物、農薬、遺伝子組み換えはNO!」みたいな人たちをうまく拾ったのだと、これは僕だけでなくいろんな人が当時言っていたと思う。女性票が伸びたんじゃないかな。
そもそも「守る」って言葉は女の人、とても好きだよね。ジャニーズの曲とかにも唐突に出てくる。
それこそ生成AIに、「○○市民が好みそうな政策を教えて」と言ったら出てくるような政策をきっちり掲げるのが参政党である。
ためしに世田谷区で聞いてみた。「1. 災害対策と都市インフラの安全強化」「2. 子育て・教育環境の充実と未来への投資」「3. 環境・みどりの保全と地域活性化」だそうな。「持続可能な社会への貢献意識が高い区民が多いです。」とも。
参政党の大躍進は生成AIの発展と無関係ではない、と僕は思うわけです。「愚かでも間違っていても、多数の人が言っているならそれでいい、自分では何も価値判断などしたくない」という時代なのだ。もちろん今に始まったことじゃないけど、それが「ここ」まで来たんだってことね。
実際たぶん彼らはめっちゃ生成AI使ってると思う。なぜならばそれが「多数決」に至る最短ルートだから。民主政治に個性なんか要らないのだ。「みんなの願い」を叶えることが正道。その意味で技術屋たる「チームみらい」との相性は抜群によい。安野さんとの対談で神谷さんが「チームみらいとだったら組んでもいい」的なことを言っていたのは、そのあたりをよくわかってるからなんじゃなかろうか。
話は舞い戻る。冒頭の「しかし少数の賢い人々は少しずつ多数決の使い方が上手になっており、世の中は少しずつ良くなっている」という僕の基本的な考え方に、ひょっとしたらブレーキをかけているのが参政党と生成AIであるかもしれないし、逆に「手段」と割り切れば意外と上手く使えるかもしれないというのが、参政党と生成AIである、の、かもしれない。
2025.9.25(木) つかれ た
ガー! つかれた!
ふだん僕は「くたびれた」と言い換えるようにしている(かわいいから)が、今日は言いたい!「つかれ た」!(
芝浦慶一スタンプ参照)
アー。
今日は「りょう」の誕生日なんだよね。17日はたかゆきくんね。毎年覚えてるけど、照れるから特に連絡はしない。おめでとう。
りょうは高1のときドラ(えもん)チャ(ット)で知り合った大親友なのだがたぶん死んだ。細かいことはいろんなとこに書いている。たかゆきくんは中学の友達で名古屋に住んでる。
だからって別にどってことないけど(スタンプ集6参照)。
2025.9.26(金) 熊谷の名店
熊谷に「セーヌ」というバーがある。マスターは御年89歳、跡継ぎの息子さんはちょうど還暦を迎えたばかり。かつてはママさんも客席のいちばん端っこに座っていたのだが町の噂で「倒れた」と聞いた。その日は珍しくマスターのワンオペだった。
ジンフィズ、ジンリッキー、ハイボール(バランタイン17年)と注文。何もかもおいしい。とりわけジンフィズはラーニングしたい。レモンをまるっと一個搾り(しかし全部は入れない、贅沢なつくり……)、砂糖は太白でないとダメだそうだが、太白ってなんだ? 上白糖なのかグラニュー糖なのか。次回思い切って聞いてみるか。ジンはゴードンの43度をたっぷり、45~60は入れる。シェイクして氷ごとグラスに入れ、カナダドライのソーダでまとめる。
会計は3000円であった。一杯1000円なのは従来通りだがチャージも1000円あったような気がする。これも次回また確認しよう。
この名店に62年ほどの歴史があり、27歳の時に脱サラして始めたそうだ。内装もその頃の名残が残っておりつつ、常に鋭敏な美意識によって更新され続けている。食器もイカした(高級な)ものばかりである。バカラとかカガミとか。
そして何より、グランドピアノが置いてある。カラオケはないが、なんとマスターの演奏で歌えるのである。もちろん古い曲でないと難しいだろうが。ボーカル用のマイクもある。
最初の1時間ほどは僕とマスターが二人きりだったのだが、ジンリッキーを飲み終わる頃に麻雀の話しかしない三人組がやってきた。そのうちの一人、水川かたまりのような見た目の男性がピアノを弾けるということで、それに合わせて連れの人がT-BOLANの『離したくはない』を歌っていた。そのあと僕が尾崎豊の『I LOVE YOU』『OH MY LITTLE GIRL』、サザンの『真夏の果実』なんかを1コーラスずつ歌った。いつかマスターの伴奏で何か歌ってみたいものだ。歌本(なんと手書きのがある)を見ればよかった。またすぐ行きたい。
で、マスターから「いい声ですね」と何度も言われたのがとても嬉しかった。素朴に。素直に。60年以上も誰かを褒め続けてきた歴史の一角に入れたということでもある。
リミットが近いので惜しみながら駅に向かうと、19時前にはやっていなかった小さなお店に灯りが灯っていた。えいやと1杯、15分だけ飲んで、なんとか電車に間に合った。ビールだけで2000円(表示価格700円)。それほど高いとは思えないので、たぶん飲めば飲むほど安くなるタイプのお店。15分ではもったいなかった。「ちょい吞みちい」いいお店だと思う。有料サイトなので店名もどんどん出して行く。お金を投げてね。参考文献:エレファントカシマシ『珍奇男』
2025.9.27(土) 上達と下達(現実と常識)
上達部 部活だったら 入りたい
「君子は上達し小人は下達す」と論語にある。日国大(わからない人は国文学科卒業生に聞こう! 知らなかったらモグリである)は「君子はすぐれた教養や道徳を身につけようと努力し、小人はつまらないことを身につけようとする」と説明する。
小倉紀蔵という人の本ではこれを、おおむね次のように解釈している。曰く、君子は帰納的に(下から上へ)物事を考えるが、小人は演繹的に(上から下へ)考えると。
通常、「エラい人」の物言いは演繹的である。結論が先にあると言ってもいい。「あの人は偉いのだから、みんなが敬うべきだ」は演繹的。「みんなが敬っているから、あの人は偉いのだ」と考えるのが帰納的。ですよね?
君子には常に現実が先にある。小人はなぜか形而上のことを先に考える。
現実はあまりに複雑で怪奇ゆえ扱いにくい。「たった一つに定まるルール」を暗記しておいたほうが話が早い。ニッコクダイの言う「つまらないことを身につけようとする」の「つまらないこと」とは、僕のよく使う言葉でいえば「常識」というやつ。これを多く身につければ身につけるほど、効率が良くなり、何も考えずに生きていくことが容易になる。形而下(現実)についていちいち考えるのが面倒だから、すでに形而上(常識)に落とし込まれたものでショートカットしていく。これが「下達」の真髄である。
一方、形而下から形而上に上げていくのが「上達」だと言うわけだ、小倉氏は。たぶん。
ソクラテスも釈迦も孔子もたぶんイエスも「対機説法」の人だったと僕は思う。一つの法則というものがあるというよりは状況に応じて、現実を見て、その場合はこうだという判断を逐一下す。「常識」というルールに則っていくのではなくて、自分で考える。だから「偉大!」ってなったのでございましょうな。
ムハンマドもおやさま(中山みき)もおそらくそういう人で、ひょっとしたら幕末から明治にかけての知識人にウルトラ多大なる影響を与えた頼山陽の「勢」という概念も、「天下の体勢を見定める」という意味で対機的と言えるのかも。それは一方で丸山眞男にまで届き、一方では中根千枝先生の通称「タテ社会」論にまで届いている、のかも。(参考文献:濱野靖一郎『「天下の体勢」の政治思想史』※中根先生への言及はない)
学校で習う日本の思想といえばまず「無常」であろうと国語の先生たる僕は認識している。方丈記だったり平家物語だったり。状況は刻々と変わっていって常なるものなどないのだからその都度考えなくちゃね、ってのが日本の人の根底にあるはずなのだ。常識に縛られているように見えてもどこかでその柔軟性を持ち続けている。変化への対応力が凄すぎる。
日本には「対機説法」の偉人は(少なくとも孔子や釈迦レベは)生まれていない。それって「状況が変わるのは当たり前」って誰もが思っているからじゃないだろうか。日本の人は全体で「一人の偉人」なのではないか。中根先生の『タテ社会の力学』はそういうことを言っている気がする。
極端にいえば、日本に「常識」なんて概念は要らない。「常連などない」と夜学バーについて言っているのも「常」ということへの懐疑かもしれない。無常なのだよ。知ってるくせにぃ。
その代わりやっぱ「空気」とか「流れ」とか「雰囲気」みたいなものが支配的で、でもそれは「一人の偉人」を維持していくためには不可欠なのだから仕方ない。ただその上に「常識」みたいなものがかぶさってくるのはだいぶしんどい。
2025.9.28(日) 「お待ち遠さま」の美学
「お待ち遠さま」ってすごいよな、と急に思った。喫茶店でたまに「お待ち遠さま」と言われるのだ。日本語訳すると「待ち遠しかったでしょう!」だぞ。「わしのコーヒー、はやく飲みたくて仕方なかったじゃろ。ヒッヒッヒ。持ってきてやったゾイ」だぞ。
たぶんもうちょっと若い人なら「お待たせしました」と言う。謝罪の意が強くなる。僕もけっこう言う。「お待ち遠さま」と言ったことはない。しかし「お待ち遠さま」はなんだか素敵な言葉である。なぜかは不明。でもなんかいい。「お待ち遠さま」って言いたい。
もっと考えてみる。「お待ち遠さま」とはなんなのか?
そこにあるのは「決めつけの美学」だと思う。スパッ!と決めつけられると案外気持ちがいい。「お待ち遠さま〜(待ち遠しかったでしょ〜?)と決めつけられると、そのくらい素敵なものが来たのだと認識せざるを得ない。それは言葉のマジックであり、詐欺のようなもんでもあるが、「ほ〜ら、素敵なものが来ましたよ〜」という、生活をちょっとだけ楽しくさせる呪文のようなものと思えば、推せる。
「お待ち遠さま」には自信が満ちている。「いま持ってきたこれは当然あなたが待ち遠しく思ってしまうような素晴らしいものなのだ」という決めつけがある。お金をとって提供するからには、そうでなくてはならない。
「ほ〜ら、今日はごちそうですよ〜〜」と出てくる料理は実にもうすでに素敵である。「あんまり大したものはお出しできないんだけど」という謙虚さもいいが、「おいしいものがた〜〜〜んとありますよ〜〜」と言われる気持ちよさもかけがえがない。
ちなみに新潟の「六曜館」で言われた。体験したい人はぜひ行ってみてください。
2025.9.29(月) 憧れと遠心
小沢健二『天気読み』(1993)にある「星座から遠く離れていって景色が変わらなくなるなら ねえ本当はもっと本当があるはず」という歌詞こそが「遠心的」なる概念の象徴だとずっと思っている。
遠心的とは「遠くへ向かおうとする」ということで、求心的=「中心(ある目的地)に向かおうとする」の対義語である。引用した歌詞の真意(真価)は僕には説明できないけれども、「遠くに離れていった先に本当がある」的なことだとすると、ウム遠心的!と思うのである。
ところで、小沢健二という人は「渋谷系」なる音楽ムーブメントの中心にいた人で、彼が稀に世間から攻撃されるのは「パクリ」ってことなんだが実のところ渋谷系というのはかなりの部分パクリによって成立していた文化だというのが一応僕の理解であります。
簡単にいえば洋楽の雰囲気とかメロディとか演奏とか音の感じとか言葉とかをパクって換骨奪胎したような曲が多く、「元ネタ」をいかにして引用するか、ということに心血注いでたようなイメージがあるわけです。
しかし小沢さんをはじめとする優秀な渋谷系ミュージシャンたちは「元ネタに近づこう」としてそれをするというよりはむしろ「この元ネタからどうやって遠くに行けばいいのか?」を考えていたように僕は思っておりまして、それが正しい(?)渋谷系の精神というものではなかろうかとさえ。すなわち「遠心的」ということな訳です。
元ネタは元ネタとしてあるんだけど、それは素材に過ぎなくて、それを使いながらいかにしてそこから離れていくか、遠くへ行くか。まったく違った表現にたどり着けるか。そもそも遠心的という表現は小沢さんがあるインタビューで使った言葉なのですが、ひょっとしたら本当にそういうこともイメージしていたのかもしれない。
パクリ、あるいは「まねっこ」というものは、そこへ近づこうとしてする動機と、どうにかそこから離れようとする動機との二つがたぶんあって、しかもそれらは両立する。
まずは同化したいという欲求があるんだけど、それだとそれ以上にはなれないしそもそも完全に同化なんてできやしない(とまともな神経ならわかる)ので、「いったん限りなく同化に近づいてからそこを離れれば、元ネタの良さを背負いながらもオリジナルの境地にたどり着けるのでは?」という期待も持てる。
同化(ここではパクること)を経たからこそ、そこから離れることによって「絶対に同化しない」が実現できる。いったん学校に行ってから学校を出れば学校の外に行けるよねっていうただの当たり前の話として。しかも自分の背中には学校がそびえている。
憧れる、そこに近づきたい、という気持ちと、遠心的であるという態度は決して矛盾しないんだってこと。それは「かつて憧れていたものに背を向ける」というネガティブな話ではなくてむしろ「憧れているものを背負う」という前向きな覚悟だったりもします。そのためにまずそこへ向かうことは無駄ではございません。
2025.9.30(火) 勝ち続けなきゃならない……?
「僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない」ってのは尾崎豊の『僕が僕であるために』の歌詞なんだけど、なんやそれってずっと思ってた。つい最近まで。だってなんで「勝つ」必要があるの? 物騒じゃない? フンワカやろうよ、フンワカ。
しかしふとわかった。「勝ち続けなきゃならない」って歌詞はホントにヤバい。なるほどそういう意味か。
僕は大概きちがいである。僕が「僕」であるとは、きちがい、すなわち常識の外側に生きるということだ。常識の内側で生きることは比較的容易い。道がある程度用意されているから。僕が「僕」としてではなくたとえば「社会人」だとか「〇〇社の社員」だとか「父親」だとかそういうものとしてのみ生きるんだったら別に「勝つ」必要なんてない。ましてや「勝ち続ける」なんてどうでもいい。ってか勝ち負けとかない。何言ってるんだ。役割を担うだけなんだ。天命を知って。そこに勝ち負けなんかあるものか。
しかしひとたび「僕」として生きようと思ったら、その「僕」が気狂いであればあるほど「勝つ」ということ、いや「勝ち続ける」ことが必要となってくる。常識や世間は「あなたは負けです!」と宣言してくるのだから。それで実際に負けてしまっていたら僕は「僕」ではいられない。まあ死ぬしかない。基本的には味方もいない。
きちがいが生き延びるためには「あなたは負けです!」と言われない、あるいは言われたところで何のダメージも受けないような「勝ち方」を常にしていなければならない。一部の隙もなく。尾崎豊がそういうことを歌っていたのだとしたらまあ若くして死ぬわなって感じがある。つらすぎるっショ。
僕が僕であるとは、自由であるということである。ミズカラニヨルっていうように。そのためには勝ち続けることが不可欠と尾崎は考えた。「非常識だ」という批難をかわすためには、「非常識だけど成功した=勝った」という状況が必要なわけである。悲しい話だ。
非常識な人間が生きていくのは大変である。非常識ということは極めて珍妙ということで、徒党を組む仲間もいないレベルの少数派(ってか孤独)。その時点で基本的には負けが確定している。何もしなければ「あ、負けの人ですね。こちらへどうぞ」という態度で扱われ続ける。そのような「僕」は浮かばれないし、「僕である」と胸を張ることが難しくなる。「僕?っていうか、負けてる人ですよね?(笑)」と言われて終わる。「あなたはあなたです」と言ってくれる人がいることによって僕は「僕」になれるので。そのためには勝つしかない、と尾崎は考えてしまったわけなのでしょう。きっと。
勝つって何? それこそすなわち「あなたはあなたで、それで良いです。わたしはあなたの存在を認めます」と言ってもらうことなんでしょうね。言うって、別に言葉で表明するってことだけじゃなくてね。
「あなたは非常識であり、わたしはあなたの存在を認めません」とだけ言われていることが、「負け」ということなのだと思う。あまりに孤独だから。誰からも認められなければ僕なるものが「僕」として成立するか怪しくなってくる。
「さあもう一度愛や誠心(まごころ)で立ち向かっていかなければ」ってのは『存在』って曲の歌詞だけど、ここでもmustが出てくる。恐ろしい。そりゃ死ぬわ。焦り過ぎ。
その曲で尾崎は「受け止めよう」「あるがままを受け止めながら」と歌う。「難なく生きるために自分を変えま〜す」ではなくて、「今のこの自分のままでどうにか立ち向かって勝たなければ。そのために必要な武器は……うん! 愛や誠心だ!」というわけなのら。スッゲー! 感動する。大好き。悲しい。
過去ログ
2025年8月
2025年9月
2025年10月
TOP