ひごろのおこない/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2025.9.1(月) 休暇と切り替え
2025.9.2(火) 老人になって勾配を崩そう
2025.9.3(水) 余は如何にして老人となりし乎
2025.9.4(木) スズキさんの慧眼:マチアプについて
2025.9.5(金) 夜学バーと「出会い」
2025.9.6(土) ガストと空調
2025.9.7(日) それでも来るか、君はこっちに。
2025.9.8(月) 無理をする
2025.9.9(火) ガルバとキャバ(識者Aの話)
2025.9.10(水) ガルバとキャバ(識者Bの話)
2025.9.11(木) ガルバとキャバ(Jの私見)
2025.9.12(金) キャバとガルバ(総評)

2025.9.1(月) 休暇と切り替え

 休んだ休んだ。いまは4日の13時。日月火水と4日間も夜学バーは非番であった。おかげさまで全日営業はできて、日曜と月曜はお客として少し顔を出した。火水は完全に休暇、伴って二日間の休肝。今のところ肝臓の値は信じられないほどよいのだが、胃腸も荒れるのでね。休胃腸日。
 4日くらい休んでようやく、3日めか4日めに動き出すことができる。昨日は8時から15時までガストにこもり、2時間かけてお風呂のすべてを掃除した。その後はゴミを捨て散歩し本を読むなど。今日はすでにあれこれやって、これからいろいろなことをこなし、夕方からお店。
「休む」というのは僕にとって「モードの切り替え」みたいなことか。日月にお店に行ったのも緩やかに切り替えるグラデーションをつくるためだったか。日は友達と、月は呼び出されてだったが、ちょうどよかった。火水は呼ばれても行かなかったかもしれない。
 ちまちまとスマホでリサーチし大きめの買い物を済ませたり、こまごまとしたものを買い集めたりなども「そういうモード」でないとできない。永遠に床に置きっぱなしになっていたものも拾えたりする。
 自転車のサドルバッグ買った。これでギター背負いながら自転車に乗れる。小径車用のチューブも買った。10月4日の新潟ライブ(自作自演)に向けて着々と準備が進められていく。

 長めの休暇は僕を解放する。火曜の夜に集中的に日記を書いた(8月も力作ぞろいなので読んでね!)が、水曜はPCを触っていない。完璧なるオフ。ドラえもんのお誕生日だった。楳図かずお先生も同じ日、と思ったら岸田メルもそうだった。翌4日は伊倉ゆうのお誕生日だそうだ。後者二人は名古屋時代のお友達(それぞれ一個先輩と一個後輩、どちらも高校は違う)、なんとなく奇縁を感じる。とりあえず「いいね」だけしといた。2日はうなぎ(岐阜)のお誕生日。みんなおめでとう。
「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買い来て妻としたしむ」とは石川啄木『一握の砂』にある歌。26歳で死んどる。しかも4月に。明治の尾崎豊。没年は大正元年だが尾崎も平成まで生きたワね。
 岡林信康も26の4月にでも死んでいれば文字通り神様になったのだろうが後年「ジェームスディーンにはなれなかったけれど生き続けることができてよかった」と歌っている。その前にすでに『26ばんめの秋』なんて曲もありますから、これは26の春というもの、それを乗り切ることがいかに天才にとって大変かを語っているようにも思える。

 小沢健二さんはニューヨークに移る直前、29歳の冬に『春にして君を想う』という老人のような(?)曲を出した。天才は20代の後半くらいで老人にならざるを得なくなる。『26ばんめの秋』もそうだったと思う。尾崎や啄木はそれができず死んだ、というと都合よく物語化させすぎなのだが、仕方ない。僕の友人の西原夢路くんも26で死んだが、彼も老人になることができなかった人だ。
 では僕はいつ老人になったのだろうか? あるは未だ成らずや? みたいな話を次に書くかも。出かけてきます。

 メモ 奥井亜紀さんなら『Iのこころ』、川本真琴さんなら『アイラブユー』が、おそらくどうやらなんらかの切り替えの起点となったらしいようなタイミング。二人ともそんなようなことをどこかで言っていた。「これが書けた(歌えた)おかげで」みたいな。岡林が『26ばんめの秋』について言っていたことによく似ている。いずれも「長期の休暇」を経験したミュージシャンである。

2025.9.2(火) 老人になって勾配を崩そう

 先月10日と11日あたりに書いたことにも関わるが、年齢というのは実に厄介で、いわゆる「権力勾配」(流行語ですよね~)を導く。
 僕は「ドラえもんチャット」にハマった15歳のときに「年齢というものは考えないようにしよう」と思い、同時に「年齢ということを考えないでいいインターネットという世界はなんて素敵なんだ」とも思った。チャットに入ってきた人とは問答無用でタメ口を利くようにしたのである。「問答無用で敬語」のほうが普通なのだが、当時のドラチャには前者のほうがふさわしい雰囲気があった。『ドラえもん』という作品を至高とする価値観の世界に敬語を持ち込むのは野暮なのだ。しかしそのせいで管理人の「とも」や「くら」なんかと実際会ったとき、どう喋っていいかわかんなくて文字通り閉口してしまった。そこで「インターネットってのは万能ではない、結局はみんな肉体を持って現実に生きているのだ」と悟り、やがて「お店」という空間のほうに意識はシフトしていく。(以上、自分史。)
 いつかの僕がそう結論したように、「結局のところ年齢差というのは存在し、どうしても意識はしてしまう」のであった。僕はそのことをつまらないと嘆くが、向き合わないわけにはいかない。
「学校の先生」というのは「権威的でありながら、舐められることも同時にできる」絶妙な存在で、そのことにはずいぶん助けられた。生徒と「対等」のようになることは難しくない。それはなぜかというと、「生徒と教師」という距離が「孫と祖父母」くらい離れているからなのではないかと思い至った。ただしこれが「担任」となると「子と親」くらいの距離になって勾配が機能し、うまくいかない。
「孫と祖父母」あるいは「生徒と教科担任(ないし授業を受け持っていない教員)」というのはちょうどよく遠い距離で、勾配の発生を防ぐことがしやすい。
 権力勾配が発生するのはむしろ「距離が近い」からで、「年齢が離れている」からではない。部活の1~2年先輩、というのが最も勾配キツい場合ってあるじゃないですか? ところが「5年先輩」とかだと直接の利害関係があんまりないのでかえってほとんど対等に接することができてしまう。『究極超人あ~る』のたわば先輩的な。
 すなわち、年齢でいえば「絶妙に年上」くらいが最も勾配がキツい。「かなり年上」であればそれは緩くなる。老害は、その緩さを理解せず未だ勾配がキツいものと思い込んで若者にキツくあたるから嫌われるのである。「年寄りは黙ってろ」と思えるのは勾配が緩い、あるいは逆転しているからで、「対等」を是とする考え方にとっては実のところ歓迎すべき現象なのかもしれない。
 というわけで「みんななかよく」を実践しようと思ったらとっとと老人になるに尽きる。ジャニーさんの話はしていない。あれも深く関係するとは思うけど話が複雑なのでここでは深入りしない。
 簡単にまとめると「大人は子供から信用してもらえないが、なぜか老人は信用してもらえる。それは距離が遠すぎて勾配が緩くなるから」という主張である。数学的な話でもあるのだ。
 若者に人気のあったカリスマが老害のようになっていくのは、いつまでもそこに「勾配」があるものと思い込むからである。それは「無理な若作り」とか「気持ちだけは若くて」の結果でもある。老人になってしまえば「勾配」は霞む。みうらじゅんさんが最近「老けづくり」という言葉を作っていたが、流石だ。自らの権威化、老害化を予防するにはそれに尽きる。

2025.9.3(水) 余は如何にして老人となりし乎

 ドラえもんと楳図かずお先生のお誕生日にはふさわしい話題のように思う。

 若者のカリスマが大人になれば、そこに「距離」ができて「変わっちまった」と嘆かれる。一足飛びに老人となって「ものすごい距離」をむしろ作るべきである。タテの距離よりもヨコの距離を長くすることで勾配を緩くさせるわけだ。人は「近くて高い」ものを崇め、「やや遠くて高い」ものを嘲り、「とても遠くて高い」ものに対して無関心となる。仙人とか「旅人!」とか、みんなはそう言うだけ~。(←歌ってる)
 たとえば小沢健二さんのファンとかでも、昔は「近くて高い」と思って崇めていたクセに、ちょっと自分とのズレが出てくると「変わっちまったな」と嘆いて「昔はよかった」だの「オザケンは○○までだよね」みたいに批判するようになる。中途半端な遠さにあるうちはそうで、もっととことん遠くまで行ってしまえば「もう自分とは関係ない」と批判をやめる。そういう性質が人間にはあると思う。
 僕は今のところ、比較的、いろんな人から「遠い」位置にいることができていると思う。「近い」と思われるとトラブルになるし、「やや遠い」くらいだと叩かれるので、「遠い」状態でおりたい。例外や失敗もあるが、(能力や魅力のわりに)それなりにうまくできている自負はある。なぜかといえば、自分がちょっと老人のようからであろう。ではなぜ、いつ、僕は老人となったのか?
 遡るのは2007年7月15日、小沢健二さんと初めてお会いした日である。ここから徐々に余の人生は「余生」へと進んでいった。詳しくは「氷砂糖のおみやげ」の該当回を探して聴いてください。最も尊敬し、憧れていた人間と仲良くなれたことにより「自分の人生はこれでいい」と思えたのである。もっと美しく言えば「もう自分のために生きる時間は終わった」と。
 誤解されたくないのでもう少し説明しておくが、これは単に「ミーハー心が満足した」ということだけではない。「欲望というもののちっぽけさ」を、手に入れて知ったわけである。「こんなちっぽけなことなのか」と。小沢さんと会って話して、仲良くなったからなんだというのか? こんなことどうでもいいことじゃないかと、贅沢にも思えてしまったのだ。「重要なことはこんなところにはない」と改めて思えた。もちろん当時小沢さんが展開していた『うさぎ!』とか『おばさんたちが案内する未来の世界』が呈示してくれたものや、その頃耽読していた橋本治さんの影響もかなり大きい。「大事なことは、少なくとも自分が精神的に満足することではない」と実感できたって感じだろうか。「アーこれは次の段階に入ったな」「もう自分の内面とか悩みとか欲望とか目標とかをこねくり回して生きていくターンではない」「もっと恐ろしく大きいものを知ってしまったぞ」というような。
 釈迦が悟った直後のようになすべきことを失った僕は瞑想しながら(?)「これからどうすればいいのか?」と考えた。ここで「では他人のために生きよう!」とボランティアや政治活動に精を出すのは僕の人生としては愚かである。それは「別の生きがい(≒若さ)」を模索する行為だからである。釈迦だって「他人を救おう」と積極的に思ったわけではなかろう。想像だが、ただなんとなく生きただけのような気がする。問われたことには答えるし、思ったことは口にする。べつに無理して黙っている必要はないし、なすに任せなされるに任せたという感じではなかろうか。シャカレベ(自称)となった僕もそれから、ほとんど主体性を失ってしまった。やりたいと思ったことはやるし、できるだけ自分の負担にならないような生き方に努めてきた。しかし「こうなりたい」とか「これをやりたい」といった野望はほとんどなくなった。22歳にして老人の境地となった。逆に言えば、そのおかげで教員にもなれたし『9条ちゃん』以下一連の作品が作れたというのは何度も語ってきた通りである。「こうあるべき」という肩の力が抜け、「なんだっていいじゃない」と気楽になれた。
 僕が成城学園中学校で働き始めたのは2008年6月1日からで、無銘喫茶の週一店長もこのころ始まった。もうだいたい老人としての僕はできあがっていた。主体性と常識はほぼ欠落し、「公園で子供と遊んでるヤベーじじい」みたいになっていた。ジャニーさんの話はしていない。「主体性と常識はほぼ欠落し」というのは重要である。ここに肉体的な若さと精神的な未熟さが加わってかなり不安定な状態でもあったが、一方で知性だけはぐんぐん伸びていた。この頃の日記はたぶん面白い。
 それから長い時が経過し、良くも悪くもより老人となってきた、と自分では思う。「死にたい」と言う人間に対し「死ぬな」と言うことはもうずいぶん長い間できていない。ただ微笑んで茶を飲むのみである。

2025.9.4(木) スズキさんの慧眼:マチアプについて

 スズキさんは今日もいた。「むかしはボーイフレンドやガールフレンドがたくさんいた、それが当たり前だったの。女の子なんか特にそうだよ? いろんな男と同時に付き合ってさ、その中からいい男を選んで結婚するんだもの。フッたりフラれたりして経験を積んでいくんだよ。男はフラれるのが当たり前。そうやって免疫力を高めていくんだから。今はさあ、一人一人との付き合いが濃くなりすぎたんだよ。思い入れが強すぎる。だから別れ方も下手だしな。」
 するとママ(大ママの娘さん)が「すぐ殺しちゃうもんね~」と合いの手。本当にいい店だ。
「草食系男子なんてのは信じられない、俺なんかの頃だったらビョーキだよ。そういうことしか考えてないんだから男は。」
 云々。スズキさんの語ることはいつも守旧的、懐古的でありながらも聞くべきところがある。「一人一人との付き合いが濃くなりすぎた」というのは慧眼ではあるまいか。

 マッチングアプリなんてのは顕著だが、みんな「一対一」というものを過信しすぎている。マッチングアプリによって積めるのは「一対一の経験」だけであって、「世の中で生きる」ということにおいてそれがどこまで役立つかは不明である。
 こないだある女の子が「彼氏と別れて新しい彼氏ができました」と教えてくれた。別れた彼氏はマチアプで出会った人、新しい彼氏は職場の人らしい。スズキさんほどではないにしろ守旧的な僕は「むべなるかな」と得心した。
 ところで、僕はマチアプをやったことがない(話の流れで導入はしたことがあるが、メッセージを交わすなどはしたことがない)。また合コンもしたことがない(高1の時に一度だけ呼ばれたが公園に集合して即解散となった、あれはなんだったのだ)。つまり、僕は「男女の出会いとしてマチアプをのみ強く否定している」のではない。そもそも「マチアプにも合コンにも縁がない」僕は、いずれも「不要なわりにハイコストでリスキー」だと思っているのである。
「出会いのための出会い」によって出会うよりは「世の中において出会う」ことのほうが個人の成長のためにはよい。「一対一」や「三対三」という定められた環境、「付き合う相手を探す」という求心的な感覚、「恋愛」とか「条件」といった狭い視野、そういった制限の中でしか「経験」を積むことができないと、「そこにおいて相手を見つける能力」だけが伸長する。「世の中に生きる能力」はそれとは別物である。
「世の中において出会う」をひたすらしていると、あらゆる能力を伸長させながらついでに人との関係を広げていくことができる。僕はそのほうが効率がよかろうと思うのである。どうせ出会ったあとには世の中に出ていくのだ。二人だけで生きていくわけではない。
 マッチングアプリは「ネットで本を買う」ようなもので、「世の中において出会う」は「本屋や図書館に通って本を物色する」みたいなことだ。前者ではフィルターバブル内のものしか知覚しにくいが、後者は少なくとも前者よりは多種多様な情報が入ってくる。インターネットのほうが広そうなのに、不思議である。
「こういう人がいいな」という条件ばかりを見て相手を探していると、「相手」のあり方は固定され、同時に「自分のあり方」も固定される。「こういう相手を探しているこういう自分」というところから離れなくなる。むろん長くやっているうちに「こういう人は違うな」「自分は実はこういう人のほうが合っているみたいだ」と学習していくことはあると思うが、その歩みは「ハイコストでリスキー」な気がするし、「結局のところ自分の内部だけで完結してしまう営み」でしかない。
 マチアプを捨てよ、街に出よ!みたいなことが言いたい。ゲームとして面白そうなのは間違いないし、会社や学校の中だけに閉じるよりは多様な人と会えるとは思うから、そういうのはすごくいいんだけど、結局「恋愛」「セックス」「結婚」に収斂していくような関係をめざすのがデフォルトなら出会える相手の属性はごく限られ友達になれる可能性も低く、SNSとかで多くの人と同時に繋がったほうが楽しくないか?と思います。やはりインターネット……インターネットはすべてを解決する。マチアプもインターネットの一部ではあるが、一部でしかないことは理解すべきで、マチアプをやるなら別のことも同時にやっていったほうがいい。
 あ、そういえば前にテレビで結婚相談所的なところの社長が出てて、「結局成婚するのは婚活以外の出会い方も視野に入れている人」みたいなことを言ってたな。そうなのです、マチアプはマチアプでいいんだが、それ「だけ」をやっていると先ほどの(スズキさんの言う?)「経験」が伸びないので、いろいろなことを同時にやるのがいいんでしょうね、優等生的な結論になってしまったが。

 もちろん向き不向きってのはあり、そもそも「世の中においての自由恋愛」というのがまったくそぐわない人ってのはいると思う。それで「お見合い」ってのとか「家が決めた結婚」とかが昔は多かったのだ。その現代的でカジュアルなのが「マチアプ」や「婚活」なのであって、それを一切否定する気は当然ない。ただ「世の中での自由恋愛」が本当は向いている(ないし可能である)ような人までマチアプで消耗しているような気はするのである。それは即物的ショートカット(すなわち手抜き)でしかない。
 個人的には!最終的に「婚活」等によるマッチングでつがいを探すにしても、とりあえず外に出てあれこれ「経験」なるものを積んでおいたほうがよき結果の得られる率は上がるんじゃないかとは思います。(だから夜学バーに通っている人は正しい!と最後に手前味噌。)

2025.9.5(金) 夜学バーと「出会い」

 昨日の記事で最後に夜学バーを出したが、夜学バーは思った以上に「出会いの場」になっていない。あのお店で出会って結婚した、という例は未だ知らないし、「特別な」関係に発展したのも数える程度しか認知していない。9年めとなるカウンターバーで、お客同士の交流がかなり盛んな店なのだからもっと多くてもよさそうである。これは良い面ではとても良い、誇らしいことだが、一方で悪く言うこともできる。
 僕はときおり「性欲とかなさそう」的なニュアンスのことを言われる。とんでもない誤解だが、そのように演出してきた自覚はある。なんせ女子校の教員をやっていた人間、「性欲がある」と思われたら終わりなのだ。
 教員時代はいかに性欲の香りを消すかというのは大事なテーマだったが、それを自覚的にやるとまた逆にやらしくなりそうなので「いかに無意識に性欲を消すか」というおよそ不可能な芸当に挑戦していた。そして実際、学校にいる間は一切の性欲がなくなっていた。女子校においては下着が見えるくらいよくあることだし、過剰な接触や接近も日常的であったが、すでにシャカレベに達していた僕は何も思わない。何も思わないからそういうことがどんどん増えていくが、それでも何も思わない。中学生男子同士のじゃれ合いと同じくらいの感覚。
 夜学バーに立っている時も似たようなもんである。性欲とか下心のようなものが見えたらバーテンダーとして終わり。教員と違って別に(一時的には)終わってもいいのだが、終わりは終わりである。
 品性のない下ネタを言ったり、お客同士の情愛を煽ったりということもない。「お前らいい感じじゃん~付き合っちゃいなよ~」みたいなことを言うバーテンダーもいるにはいるだろう、特にカジュアルなお店なら。でも意識がそっちに行っちゃうと「知的な面白さ」からどうしても離れていくので、夜学バーの場には合わない。
 恋愛とか性愛でなくとも、夜学バーの弱点として「お客同士の仲が深まることが少ない」というのがある。そもそも僕がお客の名前や連絡先、SNSのアカウント等を知らないことが多いのだからお客同士がそれを知ることは稀だし、なんとなく聞いちゃいけないような雰囲気にもなるだろう。また「一対一で深く話す」ということも状況として少なく、「みんなで話す」とか「誰かがそこにコメントする」ということが常に許されている。よく言えば「ナンパが存在しない」なのだが、悪く言えば「仲良くなるきっかけが掴みづらい」。
 誤解してほしくないが夜学バーは何も禁止なんかしてない。ナンパすら禁止はしていない(むろん推奨もしない)。むしろさりげなく名前やSNSアカウントを「引き出す」みたいなことをしてほしい。そうしたら僕はそれを勝手に「盗む」。
 さりげなく引き出す、というのは、相手から自発的に言わせる、あるいはすすんで言ってもらうということである。「Txitterのアカウントを教えてください」と直接的に聞くのはダサいし圧力が強いので個人的にはNGだが、「へェ~○○やってるんですかァ? それってどっかで公開とかしてます?」みたいな聞き方ならOKだろう。相手も言いやすい。何らかの「活動」をしていて、そのことをすでに明かしているわけだから、むしろ言いたいかもしれない。でも「自分から言うのもナァ~」ってまともな人間なら思うはずで、そこをちょっとくすぐってあげますと「アッ、自分インスタに全部載せてます、××って検索してみてください」とかって言える。ウィンウィン。そういうふうに出会っていけばいいと思う。どこであれ。

 僕は、というか夜学バーは「一期一会(いちごいちえ)」を重んじる。「一生に一度きりの機会や出会い」という意味だが、決して「二度と会わない」ことを意味しない。「すべての会(回)を大切にする」ということでしかない。もとは茶会についての言葉である。夜学バーでいえば「すべての営業におけるすべての場、すべての時間を大切にし、楽しく面白く実りあるものにしようと努める」ということ。むしろ僕の人生のテーマは「再会」で、「また会える」ということが至上の喜び。
 同じく大事な言葉で「一座建立(いちざこんりゅう)」がある。「主に茶道において、亭主と客が心を一つにして和やかな空間を築き上げることを意味します。お互いを思いやり、場の参加者全員で心地よい場を創り上げていくこと、またそのための心構えを表す言葉です。」だそうな。当たり前だが「個人同士が仲良くなってはいけない」というニュアンスなど含まれていない。そんな分断はむしろ嫌いである。
 バー業界では「お客同士の交流は極力避ける」というお店も多い。トラブルを避けるためだ。そのほうが楽だからだ。ほとんどの場合「お酒と向き合ってもらうため」というのは二の次か言い訳。なぜならバーテンダーとは世間話も交わすもの。だったら隣の客とも言葉を交わしていいはずだし、バーテンダーと「この酒は~」という話をしていいなら、隣の客とだってしていいではないか。それを極力避けるのは面倒だからか、うまくやる自信やスキルが乏しいからにすぎない。
 私淑する阿佐ヶ谷メリデのマスター(今月で85)は「バーテンダーの仕事は、自分を反射してお客同士を繋げること」とハッキリ言う(先月も書いたなこれ)。自信とスキルがあるから堂々と言えるのだ。酒の席でのトラブルなんてある時はある。避けるよりもリスクをとってハイリターンを狙うってわけだ。
 仲良くすること、仲を深めることを怖がらないでほしい。ただ下手くそな人が下手にやるとナンパみたいになるんで、こっそりと店主に相談していただきたい。「どうしたら自然に人と仲良くなれますか?」とか。夜学バーという場にとってうってつけの議題で、みんなも真剣に考えてくれるはず。そして経験を積み、だんだん慣れてきて、晴れて能力が伸び「成長」となる。いつしか自然とモテるようになっている。(啓発!)

2025.9.6(土) ガストと空調

 これ今ガストで書いてるんだけど、空調がちょうどよくて心地よい。昔って真夏にファミレス入ると寒くて耐えられなかったんよね。東日本大震災を経て「節電」ということが当たり前になったのと、あまり「回転率」を気にしなくなったゆえだろう。
 ファミレスの設定温度が低かった理由はいくつか考えられる。まず「働いている側に合わせていた」。座っていると寒くても動いていればちょうどいいのである。店員は「客にとっては寒い」ということに気づいてさえいなかったりする。それは「回転率の上昇」に貢献する。寒いと長くはいられないからすぐに出ていって、また新しい客が見込める。
 ところが最近は「コメダ型」のビジネスモデルをファミレスも採用しているように思える。今いるガストもカウンター型の一人席があって電源もWi-Fiもある。「どうぞ長居してください」なのだ。不景気や競合(それこそコメダ)の伸長などもあって従来ほど大手ファミレスは流行らなくなり、「回転率」よりも「客が入っているように見える」ことのほうが重要になってきたのではないか。この店舗も平日のランチさえ満席にはならない。こないだ行ったバ~ミヤンは平日夜に列ができてたので店舗によるのだとは思うけど、「列ができる」のはひょっとしたら「回転率の軽視」ゆえかもしれない。「並んでる=流行ってる」なのでイメージ戦略としてプラスなのだ。
 バ~ミヤンもどこかで(実のところ震災前からだが最近はさらに顕著)「飲み」を重視するようになった。ボトルキープもできるし「焼酎用ドリンクバー」というメニューもできた。これも長居を許す傾向の一つ。
 ファミレスなんてそもそも長居するものではないか?という気もするけど、あの夏の冷やし方は「とっとと出ていけ」にしか思えなかった。僕が痩せてて冷えやすいからかね? ファミレスはデブばっかってこと?(ひどい)そんなわけじゃないだろう。順序としては「節電の必要」→「冷房を強くできない」→「回転率が落ちる」→「いっそそれを前提とした戦略にしちゃえ」ってことだったりして。いずれにせよ「一人でひたすら本とか読んでたい」人間としては実にありがたい。
 世の中が変わって「ファミリー」だけをターゲットに据えてもやっていけないから「作業や読書や勉強をしたい個人」とか「充電したい人」とかをより意識したってことだと思う。でなければこんな至れり尽くせりな席はつくらないだろう。快適すぎる。
 ファミレスすらも「個人」をこれだけ意識せざるを得ないってのはそれだけ人々の分断や孤立化が進んでるってことか。僕は「孤独でもあり《みんな》でもある」ことを是とする(「氷砂糖のおみやげ」の『ふしぎな木の実の料理法』回、またはどこかにあるはずの『FF6』配信を参照)ので、どちらも可能な今のファミレスがけっこう好きである。喫茶店がなくなっていくことの補填だとしたら少し悲しいけど。

2025.9.7(日) それでも来るか、君はこっちに。

 日本橋ヨヲコ『G戦場ヘヴンズドア』の台詞である。

かわいそうになあ。気づいちゃったんだよなあ、
誰も生き急げなんて言ってくれないことに。
見ろよ。この青い空 白い雲 そして楽しい学校生活。
どれもこれも君の野望をゆっくりと爽やかに打ち砕いてくれることだろう。
君にこれから必要なのは絶望と焦燥感。
何も知らずに生きていけたらこんなに楽なことはないのに、
それでも来るか、君はこっちに。

 何度引用したかわからないが、折に触れ思い出す。正直言って「みんな好きなやつ」だから恥ずかしいのだが、それをおしてでも言及したくなる。
「見ろよこの青い空~」は植木等の『だまって俺について来い』のパロディなのだろうが、それに気がついたのはずいぶん後だったな。

 はっきり言って僕は「若者」を信用していない。大人になったら大人になっちゃうからだ。若者は生き急ぐことに酔いしれるが、背中を押してくれる者はいない。放っといてもやってくる幸福や充足はゆっくりと爽やかにその野望をむしろ打ち砕く。「絶望と焦燥感」はやがて薄れて消えていく。

 イキってデカいこと言ったり奇抜なことやる若者は、どうせ落ち着いていく。高校や大学で出会った「一見面白そうなやつら」はおおむねそうして火を消していった。なんでか?「楽しく生きるにはエネルギーが要る」からに他ならない。そんなエネルギーを何十年も燃やし続けられるヤツはまずいない。
 奇数日曜の夜のみゴールデン街の「チリチリナイン」というお店に大学の先輩が立っている。もう十年以上は続けているはずで、それだけでも尊敬に値する。彼は学生時代から「面白い」企画を無数に実現させ、個人でも日本縦断マラソンを二度やるなど「ストイックな狂気」において右に出る者はいない。何度も転職をくり返し今はとある大企業に落ち着いて久しいが「退職してお遍路マラソン十二周やる」とかたぶん本気で言っている。期待しております。愛知県民なので貯金もめちゃくちゃある(今日額を聞いて驚愕した)ので早くFIREしちゃえばいいのに。
 その先輩からほかの後輩のことを聞くと、やはりおおむね落ち着いている。彼の周辺には常に狂気が満ちていたが、結局は「狂おうとして狂っていた高学歴人間」ばかりであって、狂おうとして狂ったまま生きていられる人などいないようなのである。どこかで正気に落ち着いてしまう。狂気と正気がほぼ一致している人間だけが平気な顔してずっと狂っていられて、しかも生活に破綻もない。

 血気盛んな若者を見ていると、「で、こっちに来んの? 来ないの?」ってよく思う。「いつまでもそれやる覚悟はあんの?」と。別になくたっていいけど、来てくれるんなら僕のさみしさはちょっとだけ薄れる。仲間が増えた、って嬉しくなる。でもそれは呪われた仲間だ。常識の中で生きていけない、道に乗れない気狂いたち。
 すべては覚悟、と言いたいが、僕の場合は先に諦めがあった。「自分はまともには生きていけない」という。それが呪いとしてずっとついてまわった。何度か「まとも」に行こうとしたこともあったが、できなかった。いま思えば行かなくってよかった。不可能だっただろうから。
 逆の人が多いってことだろう。「まともじゃない生き方を試みたが不可能だった」ほうが。人間はまともに生きるようにできているし、まともじゃない生き方をすれば破綻するようにできている。まともじゃなく生きているのに破綻しない、というのは奇蹟的なことであって、並大抵のエネルギーや努力では足りない。また来るべき不幸や軋轢、一歩間違えば訪れる破綻をも覚悟し続けなければならない。それはたぶん永遠で、地獄のようなものだ。安定などない。
 それでも来るか、君はこっちに。いやね、来る人は来るし来ない人は来ない、ただそれだけなのだが、最も不幸なのは「行こうとしたが能力や努力が足りなくて破綻した」なんだよね。西原夢路くんなんかはその狭間で死んだんだよね。

2025.9.8(月) 無理をする

 歳をとると「無理をする」ことができなくなる、って言いますよね。本当はね、無理なことはもともと無理なんですよ。でも若くて未熟だと、それが「無理」だってことがわからなかったり、「無理なことでも可能である」と思っちゃうってだけ。んで本当に狂ってる人とか根性がある人は、「無理だけどとりあえずやってみて、やっぱり無理だった」ってことを受け入れるんですよね。「無理だったけど無駄ではなかった」ってことだけを慰めにして。
 経験を積むと「これは無理だからやめておこう」と思えて、それが昨日書いた「落ち着き」に繋がっていくんだけど、いつまでも狂ってる人ってのは「無理なんだけどやってみよう」をずっとやるんです。それで永遠に落ち着くことがない。なぜというに「無理かどうかはどうでもいい」からなんだと思う。歳をとると確かに「これは無理で、これは無理ではない」と峻別できるように(まともに生きていれば)なるんだけどその上で「別にどっちでも関係ないよね」と思っちゃう人だっているわけだ。
 日本縦断マラソンとかお遍路マラソン十二周とか、普通の人間がやろうとしたってそりゃ無理なんですよ。無理だけどやってみて、いくつもの破綻や妥協を受け入れながら無理矢理すすめていくもんなんですね。それを四十何歳になってやれるんなら僕は本当に尊敬するというわけです。期待しちゃうなあ。
 無理かどうか、という冷静さよりも「面白い」というほうをとってしまう、それは病気だし呪い。冷静さや賢さが増せば増すほど「面白い」の重要度は下がっていくのが普通だが、それが下がらない、あるいは下がりすぎないように工夫して生きていられる人が、本当に「面白い」ってことを愛しているように思う。それが「体温を保つ」ってことなのだ。

 僕は狂っておりますので無理なことを未だにやってしまう。ここには書けないようなことも含む。バカなんだと思う。しかし破滅的ではない。「どうせ○○歳までに死ぬし」みたいなフェイク野郎の定型句を吐いたことなど一度もない。自分の信じる「体温」を保ち続けることしか考えていない。どうにかならんかと、虎視眈々、地道に。
 Moo.念平先生とネオユートピア(目黒さんと秋山さん)のトークイベントに行ったが、彼らも相当狂っておられる。勇気が持てます。アその後池袋のうどん屋さんに行った話とか、書かないと。

2025.9.9(火) ガルバとキャバ(識者Aの話)

 お店で、ある女性が「風俗もキャバクラも私からしたら同じ」と発言したところから始まった。その後いくらか調査を実施した結果、男性は「風俗とキャバクラの間には大きな溝がある」と思いがちなようだが、女性は「同じようなもの」と感じる傾向のあることがわかった(僕調べ)。ただしそれとは別に「キャバかガルバならガルバのほうが(彼氏に行かれるのは)嫌」という意見もあったことも書き添えておく。
 経過をじっくり書くと長くなるので簡潔にまとめたい。識者A氏によれば「キャバクラに行くおじさんたちは愛人を求めている」とのことで、すなわちアバンチュール、未来における性的情事を思い描く。いわゆる「風俗」が「即座に肉体的接触を行う」ものであるのに対し、キャバクラは「将来的な肉体的接触を望みながらまず精神的な接近を図る」ものだと説明してみると、なるほど後者のほうがよりキモき取り返しのつかぬ事態かもしれない。
 A氏はまた興味深いことを言っている。「ガルバ(ガールズバー)にはお金を主とする数値的な指標しか存在しないが、キャバクラには男として人間としての魅力や嬢および店との関係性など曖昧な機微が関わってくる」と。わかる。ガルバの動力は「金」であり、ガルバにおける「金」とは「酒量」でもあり、それを可能にさせるのは「根性」である。つまり「何を何杯飲んで、いくら払うか」だけが問われる。もちろん最終的には「金額」に収束する。
 現今のガルバやそれに類するカジュアルなバーにおいてよく聞くフレーズに「テキーラ飲んでいい?」とか「テキーラ飲む?」というのがある。テキーラはコカボム(やや古い)になったりクライナーになったりする。だいたい「嬢と客とが同じ量を飲む」ことがほとんどで、こうしたショット類は一瞬で酒量(酔い)を加速させ会計を膨張させる。「飲めない」となると「金がない」「根性もない」という二重の恥を晒すことになり、これを断ることのできる男はいないと言われている(『現代用語の基礎知識2025』より)。←嘘です
 最近告発されていたが舞妓の世界でもこうした客との「勝負」はあるらしいし、お座敷遊びには「飲みゲー」が多数存在する。負けたら罰杯、というのはきっと江戸時代くらいからあるのだろう。(資料ナシ、あとでお店にある専門書を紐解いてみるか。忘れそうなので誰か突っついてちょ。)
 ガルバでもトランプとかチンチロリンとかの何かしらのゲームをして負けた者が飲む、というのは非常にポピュラーで、まさしく日本文化の正統な後継である。海外にどのくらいそういうのがあるのかは誰か調べて教えてください、あるいは人類普遍なのか。乱暴な仮説だがガルバというものは日本古来の芸者文化の「そういう部分」だけを抽出したものと言えるかもしれない。別の部分を抽出したのがキャバクラ。無理にザッパクに分類すればガルバはどちらかといえば「舞妓」、キャバクラは「芸妓(芸者)」なのではないか。
 告発本によると、舞妓は「子供」であるからして客がどんな下ネタを言っても笑ったり恥じらったりしてはいけないそうだ。首をかしげて不思議そうな顔をするなど「わからない」そぶりをせねばならない。また舞妓はお稽古はすれど「芸道のプロ」ではなく修行中の身で、何か芸をするにしても「お遊戯」にすぎないのだと僕は理解した。少なくともその「告発した舞妓」の見た世界ではそうだったんだと思う。むろん一言に舞妓と言ってもいろいろな世界があるだろうが(念のため)。
 ガルバ(コンカフェもここに含めたい)嬢も基本的には「夜職のプロ」ではない。大学生とかフリーターとか副業とかで比較的気軽に始められる。LINE等による「営業」など顧客管理などもしなくてよいことが多い。禁じられている店すらある。「ガルバ・コンカフェ嬢は店の管理下にある子供(素人バイト)であって、キャバ嬢や風俗嬢のような大人(個人事業主寄りの玄人)ではない」という話なのだろう。ゆえに「飲む」「飲ませる」という単純な仕事だけを任されることになる。舞妓もそうなんじゃなかろうか? 詳しいことを知っている人がいたらぜひ教えていただきたい。
 ガルバ・コンカフェ嬢が「飲む」「飲ませる」の単純な仕事しか請け負えないのだとしたら、その空間が「金」という指標一色に染まるのはよく理解できる。それ以外に価値観が存在しないのだ。そのくらい単純化、あるいはある一面では洗練された世界なのである。ふたたび識者A氏によると、「だからこそ一発逆転もあり得る」とのこと。金さえ積めばいいのだから。
 たとえばあるお店には「バースデーで81000円以上の会計をしたらデート権がつきます」みたいな特典があったりする。デート権と言っても店の近所で、出勤前に、1~2時間ほど会食する(しかも男性スタッフがついてきたりする)だけで、よく考えたらただの「同伴」かそれ以下の処遇でしかない。しかし連絡先の交換や同伴、アフターなどが禁じられている(ないしそのような制度や慣習がない)お店においては意味を持つし、正直なところ客側にとっては「デート」そのものはどうでもよい、らしい。A氏曰く「お金を出してその権利を得た時点でゲームには勝っているので、特典の内容はどうでもいい」とのこと。彼がそう思っているというよりは、さまざまな経験や知見を総合するとそう考えるのが自然ということだ。ちなみに「ゲームに勝つ」とは「男としての価値を自覚できる状態になる」ことだと思われる。ガルバではそれが「金」によってのみ得られるのである。
 A氏は「ガルバとキャバクラはまったく違う力学で動くゲーム」と言い切る。ガルバではただ酒を飲み、飲ませ、金を積めばいい。キャバクラはもっと複雑で古風。たとえば「ツケ」も利くらしい。ホストでは「(売り)掛け」と言う。ホストとの類似や相違まで考えるとキリがないので今回は置いておこう。
 簡単にいえば「金しかない世界」と「人間同士の世界」くらいの違いがある。キャバクラでは必ずしも金を持っていたり金を使える人がモテるわけではないとも聞く。っていうかキャバクラでは「モテる」という概念が存在する。ガルバには金しかないので「客は客」という感覚がどちらかといえば強いような気がするのだが、キャバクラでは「長い付き合いの良いお客さん」という関係になりやすく、独立してスナックとかを開いたとき支えてくれるのはそうしたお客たちなのである。実際愛人のようになるケースだってあるのだろう。夢がありますな。その「夢」を求めてみなキャバクラに行くのなら、やはり「風俗+ギャンブル」くらいのえげつなさがある。

 ここから識者B氏が登場する。実際お店でこの話をしていた時にちょうど現れて、僕はつい「専門家が来た!」と言ってしまった。そしてやはり興味深い話に発展していった。続きは庚申の晩、ではなくてできるだけ早く書きます。

【増補】
 構造的にも、キャバクラは1ボックスに1グループが原則で相席という概念が存在しないので「客と嬢」という閉じた空間が形成されうるが、すべてカウンターで常に相席となるガールズバーではなかなか閉じようがない。ゆえにこそ「金」という普遍の価値だけが存在を許されるのである。「ここだけの話」すらできない構造なのだ。ほかの客がいない時を狙ってなんとか「その空間」を作ろうとする客だっているだろうが、キャバクラならただ指名するだけで良い。
 またキャバクラは風営法により深夜営業ができないので「タイムリミット」が早く、ゆえに「アフター」という概念が濃い(深夜のうちに動ける)のもポイントである。法による規制が逆にブースターとなりブラックボックスを作っている、と考えたらちょっと面白い。

 ところで、ここではかなり単純化して語っているが当然世の中には「連絡先を交換しないガルバ」と「連絡先を交換するガルバ」が存在するし、その「する度」にもグラデーションがある。つまり「極めてキャバクラ寄りのガルバ」というものもあるということだ。次回はそのことから話が始まる(予定)。

2025.9.10(水) ガルバとキャバ(識者Bの話)

 識者B氏は言い切る。「(ガールズバーの時代は)終わりますよ。もう保たないですよ」。
 昨日の記事で「ガールズバーには金という指標しか存在しない」というようなことを書いたが、そんな世界が長く続くわけがない。もうガタが来ている。「若い女」という商材のみで数万の客単価を日常的に上げるのは無理がある。反面キャバクラには「金」以外の指標があり「夢」と言えるようなものもあるので長く続いてきた。
 B氏は言う。「ガルバの子って営業しないもん、連絡先の交換すらしない」。水商売とはそれをしてなんぼであろうと。めっちゃ簡単に言い換えると「ガルバは金という指標しか存在しないくせに(存在しないので?)営業努力を一切しない」とも言える。そういう「営業努力」をしなくてもいい、あるいはできないからこそ時給も低いし、「若い女である」という以外の魅力を求められないし、発揮する場面もなかなかない。酒を飲んで、飲ませる以外のコミュニケーションはせいぜいカラオケくらいになる。
 キャバクラのように比較的閉鎖的な空間が作れるとガルバよりはもう少し踏み込んだ話ができるしLINEや同伴などでまったく二人きりにもなれる。むろんそういった「営業努力」をしているガルバもあるのだがそれについては後に語ろう。「そういったことを一切しないガルバやコンカフェが多い」という線でいったん進める。
 僕は出会い厨であり「人間はみな対等」だと思っているので、「仲良くなる可能性の極めて低い(その可能性が制度的に閉ざされた)」相手と接するほどむなしいことはないと思っている。目の前の人間を「若い女」としてのみ眺め、愛で、満足できるほどの境地には達していない。すなわち「この若い女たちは人間ではないし、それらと対峙するときの自分も人間ではない」と思えるってことだ。

 2018年1月9日の記事で、夕食後にボードゲームをやりたがるゲストハウスについて批判した。「トランプをしている間はトランプしかできない」という僕の格言(2017年2月5日がたぶん初出)に絡む。スゲー名文だから読んでね。夏目漱石『こころ』のカルタ取りのシーンがいきなり出てくるのとか天才かと思った。流石に自画自讃。そのころちょうど授業でやってたのかも。
 ボードゲームは人間を「プレイヤー」に変換する。そこには「人間同士の交流」はなく「プレイヤー同士の勝負」のみとなる。つまり目の前の人間を一時的に人間と見なさず、自分も見なされないことを受け入れるのだ。
 今さらだがガルバのように単純に「女を買う」場においては、「金を支払う側(=客)」と「金を受け取る側(=嬢)」というふうに人間は変換される。そこにあるのは「若い女の肉体」と「それを求める男の性欲」だけでござゃーます(大河ドラマ『秀吉』における市原悦子の名古屋弁ナレーション風)。しかしガルバには身体的接触も精神的な接近もほぼないので性欲は酒と歌(と虚栄心の充足)によって良く言えば昇華される。ここに1時間1万とかってのが妥当か?というわけだが、他に行き場もないから仕方なく甘んじているのが現状だと思う。
 それに対してキャバ型の商売は当然「客と嬢」という関係は固持されつつ、しかし「人間」としてお互いを見る視線がガルバよりは強くあり得る。古き良き日本の水商売とはそのようなものであろう。
 ドラマ『はぐれ刑事純情派』(1988-2009)で藤田まこと演じる安浦警部は捜査に行き詰まった時や複雑な事件(ヤマ)が解決した後などに「さくら」というバー(雰囲気はクラブやスナックに近いと思う)に足を向けママに相談したり気持ちを吐き出したりする。「これが水商売のイデアや!」と幼い僕は思った(イデアなんて言葉を知ってて偉いわねえ)ものだ。
 乱暴を言えば人間というものは、あるいは働く男は成熟するとともに「さくら」のような場所を探し、見つけ、居着くようになる。ここんとこ何度か書いている某喫茶店の「スズキさん」も同じである。彼は昼食時以降、おそらく夕方の閉店までずっとそのお店にいる。背広を着て。どうも午前中だけ仕事して、午後はずっとそのお店で油を売っているようだ。たまにお店にスズキさん宛の電話がかかってきたりする。職場公認なのだ。なんだあの身分。よほど偉いのだろうか。
 私見だが水商売というものは「そこ」に向かっていくのが自然というか王道で、金という指標しか存在しないガルバという場にはその指向が乏しい。ゆえに長くは保たない。B氏は「ぼったくりばっかですよ」とさえ言う。となればすでに終わりかけている。この1年ちょっとで少なくとも新宿、新橋、浜松のガルバ嬢が刺殺されていて、業態の衰退と連動していると思えなくもない。

 長くなってきたので記事を分けます。

2025.9.11(木) ガルバとキャバ(Jの私見)

 ガールズバーを三つに分けて考えてみる。漏れや例外、誤差などは無数にあるだろうが、正しいかどうかではなく「考えてみる」ことに意義を感じてやるだけなので、ご意見があれば賜りたいものの怒らないでほしい。

  a 「お金」型
  b 「推し」型
  c 「キャバ」型

 aは前回、前々回に語ったような「ガルバのイデア」を体現した存在。金以外の指標が存在せず、とにかく酒を飲み、飲ませ、騒ぐなら騒ぎ、特に連絡先を交換するでもない。SNSで濃い仲になることも基本的にはない。大学生のバイトがノースキルノー経験でこなせるイメージ。基本は時給で、バックはあるものの野心は少なく店から言われた以上のことはしない。もちろん顔と名前を覚えたり来店時に「あ~○○さーん」くらいのことは言うしプライベートな話をして客の歓心を買ったりもするが「仕事は仕事」と割り切り「客は客」という意識が非常に強い。ここを勘違いすると刺殺事件が起こる。

 bは要するにコンカフェである。コンカフェのほとんどはここに分類される。キャストを疑似アイドルとして「推す」ゲーム。連絡先の交換はしないしDMもしないしフォロバもしない(人や店による)がTxitterのALTとかで「おきゅおわ」はする。「おきゅおわ」とは「お給仕終わり=退勤」の意味だが転じてその日に来店したお客への感謝(お礼)を綴る慣習のことを指したりもする。チェキのらくがきに書くような内容。Txitterの場合はALT機能が使われることが多い。そのような距離感。
「営業」は主としてSNSを通じて公開で行い、直接メッセージを送ることは少ないと思われる。「私という個人を魅力的に思い、応援してくれる人はお店に来てください。来られない場合は遠隔ください」という内容のことを一生言っている。「推し」型の店では「売上成績=アイデンティティ」なので必死である。
 キャストはほぼアイドルのような存在となるので「客」ではなく「オタク」という言葉も使われる。「応援」という概念があるので大金を積む人も多いが、大金を積めば何かがどうなるというものでもない。ここで期待しすぎるといつの間にか刺殺していたりする。

 cは「コンセプト」「推し」「応援」という概念に頼らないでしっかりと「営業」をする、いわば古き良きキャバクラ型のガールズバー。脈がありそうだと思ったら積極的に連絡先を交換し、そのために仕事用のスマホを持っていたりもする。むろん色恋も友営もある。「座らない」だけでほとんどキャバクラと変わらない。
 ここからは店にもよるのだろうが、それでもガールズバーである以上は「金」が主役にはなる。不思議だがたぶんそういうものなのだ。いや待て、だったらキャバクラは「金」が主役ではないのか?というと、それはそうなんじゃないんですか? 一軒しか行ったことないけど……。

 キャバクラは「金はかかるもの」という空間で、「金をかけたから偉い」ということはあんまりないのではないか。ここがちょっとホストクラブと違うところなんじゃないかな。いやここについては完全に想像です。異論、ご意見、知ってること教えてください。キャバクラの客は鷹揚に構えて普通に飲み食いするのが常道で、嬢も無理に煽ったりせずあくまで自然にお酒を飲み、飲ませる。「完璧なタイミングで煙草に火をつける」とか「灰皿をさりげなく変える」みたいな「呼吸」が客からの評価の対象にもなる。
 他方ガルバにおいては「ここで金を出さないのはダサいよね」という空気が「飲みゲー」とか「お祝い」みたいなうっすいオブラートでくるまれて存在しているように思う。ガルバは最低料金がキャバクラより安く設定されているのが普通で、「ハイここからどこまで伸ばせますか?」という店からの要求がその上に乗っかる。嬢はそれに乗り、客はそれに応える。応えられることが「カッコいい=男が上がる」ということになり、「50分2000円の店に100分で50000円払った俺」というのが勲章にすらなる。(んなあほな)
 サンプルが少ないのでまったく自信がないのだが、「キャバ型のガルバ」は「客を比較的人間として見がちな営業するガルバ」であって、中身はやっぱりガルバなのだと思う。なぜそうなるかというと「カウンターがあって、嬢たちはそれ越しに立って接客するから」としか言いようがない。空間構造がそうさせている。あるいは「黒服が(原則)おらず、ドリンクの提供等はすべて嬢が行う」というのもあるし「風営法による営業可能時間の違い」というのもあろう。今後いろんな専門家(まだ見ぬ識者C~氏)に聞いてみたいところだ。
 たとえば、ガルバがカウンターである以上「常に相席」ということになり、嬢を独占することはできない。「つく」という概念はあるが一定時間でいなくなる。恐ろしいことにガルバでは「嬢が一人もつかない」という時間が存在するのだ。キャバクラでそれをやったら「金返せ」だろう。
 横並びになると隣同士どのくらい何を飲み、いくらくらい金を払うかがわかり、「男のプライド」が発動する。ここで嬢からの「テキーラ飲もうよ」なり「○○ゲームしよう」といった提案を断れる猛者はなかなかいない。「ケチんのかよ、ダセーな」と誰も誰からも思われたくないのだ。また断ったら目の前から女の子が消える可能性が高くなる。ほかの客がいればそっちにつくに決まっている。それに文句を言える権利を客は持っていない。ガルバのカウンターには市場原理があるのだ。「需要と供給」の縮図である。
 識者A氏は実はガルバについて「資本主義の原理のみで動いている」と言っていたのだが、こういうことなのだ。書いているうちに僕も理解が進み、ようやく回収できた。それで支払額は競りのように上がっていく。この点はたぶんホストに似ている。
 キャバでも当然「同じ嬢を指名する競合」というのは存在するのだが、ここで活躍するのが「古き良き柔軟性」なんだと思う。黒服やベテランの嬢が「うまくやる」のだろう。未だに「ツケが利く」というキャバクラの世界には、すなわち「過去と未来」が存在するのであって、「埋め合わせ」という概念もある。ガルバはもっと刹那的で、過去も未来もない。現在があるのみ。その点非常に現代的である。スパチャ投げたって未来とかないから。
 キャバクラにおいてはたぶん、競合の客がいるからといって「それぞれの支払額が上がっていく」という現象は起きづらい。過去があり、未来があるからだ。そんなはしたない真似をしたってモテはしない。男は黙って別の女と飲み、次回来店時に改めて指名して「こないだは(席に行けなくて)ごめんねえ、(気を遣って呼ばないでいてくれて)本当にありがとうねえ~」と言われればいいのである。それで「株が上がる」のがキャバクラだと僕は識者A氏の話を聞いて思った。
 もちろんこれは僕の想像する「キャバクラのイデア(?)」みたいなもんで、実際にはもっと下品な店で下品な客と下品な嬢が下品なことを繰り広げる場合もあるだろう。しかし大枠で言って「相席が存在しない閉じた空間」しかありえないキャバクラでは男は比較的落ち着いていられるし、そこで別の女と話していればひとまず大きな不満もないだろう、たぶん。
 優秀な黒服は、「ある常連客の本指名」を席につかせられない場合、当然その人が好みそうな次点の嬢を送り出すだろうし、一時的な赤字(?)を覚悟で普段より多くの嬢を侍らせる選択もすると思う。それが「古き良き柔軟性」だし、「過去と未来の存在」である。そういうことがすべて不可能であれば、その人が好みそうな高めのウィスキーでも一杯持参して「○○さんすみませんねえ、次回ちょっとサービスしますんで」みたいなことを言ってもいいわけである。これも想像でしかないので、実際どのような工夫をしているのかはぜひ「優秀な黒服」に聞いてみたい。

 長くなった! 次に続く。いま11日だけど12日の日付にする! 過去も未来もあるのだ、この日記には……。

2025.9.12(金) キャバとガルバ(総評)

 書くことはたくさんあるのにガルバとキャバの話で4日分も。まぁいいです、これはこれで僕の研究には大事なことだ。ここ15年くらい売春からアイドルまで「女を買う」ということについて考えてきた、その軌跡としても重要なのである。
 ここまで3日分「ガルバとキャバ」について書いてきたが、僕はほとんどガルバとキャバには行かない。友達や教え子、好きな有名人などが関わっているお店にはちょこちょこ行っている。あとは耳学問に過ぎない。ただ曲がりなりにも20年くらい夜の世界にいるといえばいるし、本もよく読むしテレビやインターネットも大好きなのでそれなりの理解はあると思う。「ここが違う」とか「自分はこう思う」とか、「わたしの経験ではこうだった」といったことがあればぜひ教えてほしい。

 気にかかるのは識者B氏による「(ガルバは)終わる」という意見。昨日ガルバをabcに三分類したが、どれが終わり、どれが終わらないのだろうか?
 たぶんaの「お金」型(最も純粋なガルバ)は保たない。今のガルバの客単価相場は「若い女」という商品の市場価格として高すぎる。無個性なガルバは減っていくのが自然であろう。むろんなくなりはしない。男は常に行きずりの女を求める生きものだから……。
 bの「推し」型(おおむねコンカフェ)は「うまくやれば生き残れる」というくらいで、発想や人脈、演出力、広報力などの経営手腕がよほどなければ続かない。しかしなくなりはしない。男は常に女を買うときに「コンセプトが面白い」だの「応援してる」だの「オーナーのファンで」だの「意外と酒がうまい」だのと言い訳したい生きものだから……。
 そしてcの「キャバ」型(営業熱心なガルバ)は、「だったらキャバクラかスナックでいいよね」という話になって、これも減っていく。ただガルバはキャバよりも「お酒をつくる」ことを中心とした店のオペレーションを曲がりなりにも多少学べるので、やる気と人気のある嬢は独立すればいい。敷地を狭くして、キャストを自分だけか、週末にもう一人くらい呼ぶようにするだけで、あとはだいたい一緒でいいのだから。
「キャバ型」は独立に向いている。なぜなら「営業熱心」だからね。ファンがちゃんとつく。bもそれに近いが、「推し」型はどこまで行っても人気商売のため双方向的な関わりに乏しいきらいがあり、やや不安定である。肌感覚として、長く続くのは嬢と客との関係がより対等っぽい場合だと思う。嬢のほうが(お店の人だからという意味で)ちょっとだけ偉い、というくらいがちょうどいい。金を積んで、積まれてという関係は「嬢が上位に見えるが客は客で偉そうにする」という地獄を生みだしやすい。そういう瞬間的な上下関係ではなくて「長い付き合い」にいかに持って行けるかがポイントとなる。

 cについては「そこまでしなくてもよくない?」という感想もある。営業して、自分で酒つくって、自分で死ぬほど飲んで、客にも飲ませて、アフターケアして、また営業して、みたいなのの無限のくり返し。どんな水商売にも言えることかもしれないが、「若いうちは無理してでも持続不可能な方法で客と金を貯め、やがて独立するか結婚してそこから離脱する」というルートが黄金である。しかし金主たるオーナーはそういう優秀な人間を手放したくないので、どうにか手元に置いておこうとする。というか、夜職は業界ぐるみで「そういう環境」を作りあげている。客と嬢からきちんと金を吸い上げられる巧妙な構造を。若い女はそこから容易に逃げられない。
 そこへいくと超スピードで「みずのみば」を移転して実質的な独立を果たそうとしているかなみさんは偉いよね(急にボールを投げる)、10月4日(土)の最終稼働日にそこで僕ライブしますからみんな来てね。新潟の内野駅ね……。

 さてそのようにガルバが「終わって」嬢たちは、また客たちはどこへ行くのか? bとcの嬢たちは行き場に困らないだろう。推されたいなら「言い訳つきで女を売る」空間はインターネット上にもあるし、働き手を募集しているサブカルっぽいカジュアルなバーも(大都市なら)たくさんある。営業ができるならキャバクラやスナックで働くのもいいだろう。問題はaの子たちだが、フツーのバイトができる子は一所懸命して、できない子は夜職のどこかに残る、って感じでしょうかね。
 客たちはどこにでも行き場はある。むしろ彼らは今「仕方なく」ガルバに行っているんだと思う。ほかにないから。というか、ガルバがありすぎるから。僕は多くの人間たちのことをかなり愚かだと思っている。ことに今ガルバに通っている(あるいはフツーに選択肢として持っている)人たちはじつに愚か率が高かろう。愚かな人たちはなぜガルバに行くのかというと、そこにガルバがあるからなのだ。ガルバがあって、ガルバがありふれていて、ガルバに行くのがどうやらありふれているようだから、そこに女もいるし、それでガルバに行くだけなのだ。ガルバで2時間3万円の支払いを請求されようと、まわりを見ると「そういうもの」らしいので受け入れているのだ。「これはどうやら相場として正当らしい」とまわりを見て思うのだ。ガルバに特別な魅力があるわけではない。ただガルバがあって、行ってみたら気持ちよく、相場としてそのくらいであろうという額を請求されたから払っているだけなのだ。
 ガルバがなければ余所に行くだけなのだ。愚かな人たちは「気持ちよさ」を提供してもらえる場所ならなんだっていいのだ。近所のバーの常連になるとかでもいいのだ。そこに女の子がいなくたっていいのだ。いたら嬉しいけどいなくたって別にいいのだ。いたら嬉しいのでいるときに喜ぶだけなのだ。
 女の子がいたら嬉しい、だから女バーテンダーの店を探したり、女の人がやってる居酒屋に通ったりするだけで実はよい。ガールズバーのような狂った場所(私見)に行く必要はさしてない。ある人もいるのだろうが、たぶん7割くらいは「ガルバじゃなくていいけど、なんとなくガルバに行っている」くらいの感じだと僕は思う。それほど男たちにこだわりなどない。「女がいたら嬉しい」ただそれだけである。そこには年齢も容姿もあまり関係ない。好みはある程度あっても、そこから外れると満足できないわけではない。満足できない人もいるかもしれないけど、1割以下だと思う。男はそのくらい「女ならなんでもいい」と思っているのだから。
 結論、もしガルバが「終わって」数が減ったら、男たちは別の「女がいる場所」を求めてどこかに行く。なんなら外に出ず、インターネット上だけでもそれは実現できる。女たちも「ガルバほどは稼げないけどそれなりに楽」な飲食店などに勤めたり、配信やファンティア等を細々がんばったりするだろう。未来予想、ハテどうなるかね。

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