少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2022.7.3(日) 今年の抱負、22周年に向けて
2022.7.4(月) 泣き言が詩情を殺す
2022.7.7(木) 東京東研究
2022.7.8(金) 悪い人の夢
2022.7.10(日) ココアのひと匙
2022.7.11(月) 22周年
2022.7.12(火) 8日、10日の補足
2022.7.15(金) 2003年10月の思い出
2022.7.18(月) グイター、そろばん、縦シュー(洗脳と中毒)
2022.7.19(火) 情と型
2022.7.20(水) 齢自認が9歳(定期)
2022.7.21(木) 僕の基本態度
2022.7.26(火) ダチュラフェスティバル覚書(1)
2022.7.31(日) 「つまんねー話」はなぜ生まれるか

2022.7.31(日) 「つまんねー話」はなぜ生まれるか

 ドラえもんの単行本(てんとう虫コミックス)は各巻おおむね冒頭の1話目にはキレのいいギャグが置かれ、末尾には感動ものやストーリー性の高い長めの作品が据えられる傾向にある。この日記も少しはそういうのを意識している。
 今日のような月の締め日は「末尾」でありつつ、また一番上に位置する「冒頭」でもある。「つかみ」「まとめ」双方の側面を持つ内容でなければならない。毎回ちゃんと考えているわけではないが、ちょっとくらいは。


 基本姿勢として「損をしたくない」。誰もがそうだろうが、僕の場合は「損なんかしてやるもんか」という強い気持ち。たとえば目の前に誰かいて、その人と話をしなければならない時、僕は絶対に損なんかしてやらない。
 この切り口は方便であってたぶんそれなりに大切な話になっていくので最後までぜひ。

 僕はふまじめなので、つまんない話を長々とされたら「早く終わんねえかな」とまず思う。しかし「早く終わんねえかな」とだけ思って、ただ時の過ぎるのを待っているだけなのは、ちょっと損な気がする。「そうなんですねえ〜!」とか言って感動したフリでもしたら比較的早く終わるかもしれない。損切りとしてはそれでもいい。5秒で終わるならそうする。しかしそんなケースはごく少なく、たいていは5分も10分も1時間でもご高説は続く。先生のお説教と同じ。
 そんな時間は損である。「つまんない、やめてくださいこの話」と一刀両断できるなら話は早いが、また別なる損が生じる可能性が高い。我が基底なる仲良しの発想もそこにはない。双方に損のない形にしなければ。
 そこで登場するのが、「つまんないと感じているのはこっちの都合」という反省である。僕のよく使う手口で、「誰かの言動によって傷ついたとき、その相手を責めるのは筋違いである。傷ついたのはこっちの匙加減でしかない。勝手に傷ついて勝手に怒るのはあまりに勝手がすぎる」というようなやつ。こっちが傷つかなければ無罪なのに、たまたま傷ついたから有罪だというのは、恣意的すぎません?と。
「つまんない」と思うのは、こっちの勝手な認識である。こっちが「面白い」と勝手に思えば、面白いのだ。とりあえず相手の話の中から、自分が「面白い」と思えるポイントとか、角度を探す。それで面白かったら何の問題もない。
 しかし、現実としては「どうしてもこの話は面白いと思えないな」ということが多い。そういう事態を少しでも少なくするために、日頃からいろんなことに興味を持ち、できるだけ幅広く物事を知っておいたり、考えておく。知識や教養、理解力や思考力は「つまんない」の予防でもある。むろんそれでも「つまんない」は到来する。その時は「自分が面白いと思えるような形に、話のほうを変えてしまう」しかない。それは「話題を変える」ということではない。相手はいま、その話題をしていて気持ちがいいのだから、いきなりべつの話題に変えたら「自分が得をするために相手に損をさせる」という行為になる。それは仲良しの発想とはいえない。
 相手の話がなぜつまらないのかといえば、ほとんどの場合「わからないから」か「とっくにわかっているから」のどちらか。わからない話の場合は、わかるように適宜質問をしたり、自分にわかるような説明を求めたりしてみる。とっくにわかっている話の場合は、「それについてはとっくにわかっている」ということを相手にわかるように伝えて、その次、その先、その奥にある「新鮮さ」にたどり着くことを目指す。これらの実行に必要なのは技術である。コツである。ウデである。
 こちらがどれだけ努力しても「つまらない」話にしかならない、そんな相手は本当に稀である。ほぼ確実に、自分が「面白い」と思える要素をその人は持っている。あるいは「楽しい」でも「嬉しい」でもいい。お互いに損をしない、得をする地点はきっと見つかる。

 僕はもうとにかく徹底的に「損をしたくない」「得をしたい」人間でありますので、他人と関わりを持つときに「我慢してつまらない時間をやり過ごす」ということはしない。一時的にそのような瞬間は訪れても、起死回生の手を必ず狙う。
 と言いたいところだけど、やっぱり疲れてるとか気力が出ないときは「何もしないでエネルギーを温存する」ことが最も得だという判断もありうるわけで、そういう場合もけっこうある。また相手のことを「話したくもない嫌なやつだ」と思えば、接すること自体が精神を消耗する「損」だから、あらゆる手を尽くして「目の前から消えてもらう」ための手段を講じることになる。(おー、こわい。)
 ただ僕はわりあい博愛の人(自称)であり、「傷つくのは自分の匙加減」とさえ思うくらいなので、よほどのことがなければ「話したくもない嫌なやつだ」とまでは思わない。だけど「どんな話でも楽しい」ということもないので、「自分の働きかけによって自分にとって楽しい時間に変えてゆく」ということに力を注ぐことになる。
 さらにいえば「その瞬間が楽しい」ということにこだわることもない。その瞬間は苦しかったり退屈だったりしても、その後いつか、何らかのタイミングで面白くなる、楽しくなるようなタネを蒔ければいい。あるいは、その後のための実験とかトライアルとか、そういうものとして割り切って時間を使うのもいい。長い目で見て自分の利益になるなら結果ALL RIGHTというものだ。ただそのためには「漫然と耐えて待つ」というより、「頭をフル回転させてトライ&エラーを繰り返しつつ、のちに役立つかもしれない材料を集める」という姿勢が肝要。

 ここで「話」とはそもそも一体なんなのか、ということを考える。たとえば、誰か一人が「話す」をして、その他の人が「話を聞く」という現象は、一方通行の「伝達」である。それを複数人で代わりばんこに繰り返していけば、その全体像が「話(会話・対話)」であるというふうにも思えるが、僕に言わせればそれは序破急の序に過ぎないというか、本番前の準備運動くらいのもの。
 複数の人によって立ち上がる「話」の醍醐味は、「話している当人たちから言葉が離れていくこと」にこそある。そして、どの人の内部にも存在していなかった、完璧に具体的にすごく新しい存在の「話」がその場に現出することにある。(※元ネタ「完璧にね、具体的にすごく新しい存在の曲」)
 そこにいる人の内部にすでにあった話がそこに出てくるだけなら、わざわざ時間を使って複数人で「話す」意味はさほどない(それなりにはある)。ボードゲームやボウリングでは代替しづらい「話す」ことの意義は、やはり「新しいものが生まれる」だと思う。
 場合分けをすれば、「一方にとって新しいものが生まれるが、他方にとっては新しいものは特に生まれない」という状況もある。たとえば「教える」。教える側も多少の新しいものを得られるかもしれないが、そのバランスは非常に悪い。基本的には「一方から一方へ一方的に言葉や知見が移動する」ということになる。その時間はなかなか楽しくはならない。「対等」じゃないから。

 仮に一つの場面を想定する。スタンダードに「おじさんが若者に何かを話す」というのでいこう。双方が「対等でない」場合、「一方的」になりがちである。高いほうから低いほうへと言葉が移動する。ここで「そもそも対等でないからそうなるのは仕方ない」と思ってはいけない。このジャッキーさんとかいう人はずいぶん前にこう書いている。《「対等な関係」とは、まず相手を「対等である」と仮定することから始まる。》(こちらを参照←一つ下の記事が「恋愛などない」に触れてますので、それもあわせて良かったら)
 まず、お互いがお互いを「対等である」と仮定する。そこから全てが始まる。これは「目上」の側だけが気をつければいいという問題ではない。むしろ普通このパターンでは主導権を持ちづらい「目下」の側こそが、積極的に「対等である」という姿勢を提出したほうがずっとうまくいく。
 対等でないというのは偏りがあるということで、偏りがあるというのは「どちらかが上」ということ。「上」のほうは自然と主導権を握り、「下」に向かって言葉を流す。なんならそのようにせねばならないというのがどうもこの世の常識らしい。(くだらん常識だね。)

 目の前の人の話を「つまんない」と思うとき、そのほとんどは「わからないから」か「とっくにわかっているから」だろう、と先に書いた。これらを打開するために必要なのはまず「対等であると仮定する」ではないかと僕は思う。「それはわかりません」「それはわかってます」とはっきり言えること。「この人は自分よりも上だから」「下だから」という理由で黙っている人はかなり多いはずで、そこさえ破れば意外と一緒に行ける地点が見つかるかもしれない。
「知らんがな」という言葉があって、「いやそんなこと聞かされましてもこっちは利益ないし興味もないんですけど?」みたいなニュアンス。そういう話をされることはけっこう多い。そんなんで時を浪費するのは御免だから、自分にとって利益や興味のあるほうへ引っ張っていきたい。自分がまず、それに興味を持っちゃえば話は早い。もちろんさほど強い興味を持てるはずもないが、ちょっとくらいなら持てるかもしれない。そしたらもう、その「ちょっと」の部分をきっかけにどんどん拡張していく。
 つまんねー話でも、ほんの1ミリ自分の興味が介入できる箇所があれば、そこに指突っ込んでぐりぐりして穴あけて、グワ〜っ!と広げてゆく。その広場で遊ぶ。
 それを「してもいい」と自分に許すのは自分で、そのためには「この人と自分は対等なのである」と思い込む必要がある。
 それは怖くて危険なことかもしれない。個々の性質や事情に合わせてその仕方や度合いを変えていくべきではある。ただ、虎穴に入らずんば虎子を得ず。1円も使わずにハイリターンのリスク取れるのでお得。ただお金でない何かが失われる可能性もある。そゆ(アラレ語)ことするのはギャンブラー。結局のところ「触らぬ神に祟りなし」を最善手とする人がほとんどだろう。そういう人は自分が話すときも「すでに自分の内部にある安全パイの言葉」しか出してこないから、「つまんねー」って言われちゃうのだ。(悪口!)

2022.7.26(火) ダチュラフェスティバル覚書(1)

 運命はナワのように、いいこと悪いことが同じだけ絡みあっている。ドラえもんが44巻で言っていた。44巻は発売後すぐ買ったと思うので小学3年生、8歳か9歳の時に読み「そうか!」と感動したものだ。高校生くらいの時には「そうでもないのでは」と思いはじめたが、今でも悪いときがあったときだけ都合よく思い出す。

 ここんとこ全体にほの暗い。あんましうまいこと行っていない。しかしぽつぽつと希望の芽は見えている。

(略)不幸は、自分が知らない間に、知らない場所で、勝手に育っていって、ある日突然、目の前に現れるという、重要な事実に、である。幸福は、逆だ。幸福は、ベランダにある小さなかわいらしい花の苗だ。あるいは番いのカナリアのひなだ。目に見えて、少しずつ少しずつ成長する。
 何にも起こっていないように見える間に、すべてのことが起こっているのだ。
(村上龍『69 sixty nine』)

 13歳くらいの時に植芝理一先生の『ディスコミュニケーション』と出逢い、その影響でYMOを好きになって、その流れの中で坂本龍一と村上龍の共著(『モニカ』『EV.Café 超進化論』)にぶつかり、それで今度は村上龍の本を読みあさった。なんだって簡単に好きになっていった。そういうふうに「辿っていくこと」が、リレーそのものが楽しかったのだと思う。


 8月19日(金)から21日(日)にかけて北千住で開催される「ダチュラフェスティバル」は、上に引用した村上龍の『69』に描かれる「フェスティバル」に触発されて企画された。ある日、夜学バーに通い始めたばかりの高校生男子が「ジャッキーさん、おれフェスティバルやりたいんすよ」と僕に言った。「フェスティバル?」と繰り返しながら、僕の頭には当然『69』の書影(ハードカバー版である)が浮かんでいた。そこへ「村上龍の……」と彼が言葉をついだ瞬間の僕の気持ちといったら。
『69』の熱心な読者にとって「フェスティバル」というのは普通名詞ではなく固有名詞なのだ。主人公矢崎剣介らが1969年11月23日に催したあのフェスティバルをおいて他にない。そして僕がどれだけ熱心な読者かというと、高校1年生の時に国語の授業で自己紹介を兼ねて一人ずつスピーチをすることになったので50分近くこの作品についてべらべらと語り続けたくらいに強火。それは4月の出来事なので残念ながらこのホームページにその様子は掲載されていない。しかし当時の日記帳には数ページにわたって詳細に活写されており、実は2020年7月に夜学バーで催された「平成のジャッキーさん展1」で展示していた。読みたい人は次回を待つか企画してください。

「あんなに好きになったのは中学生だったからだろう」と思うことはある。でもたまに読み返してみると「面白い!!!」って毎回なる。それは山田詠美『ぼくは勉強ができない』も同じで、「あんなもん子供だましじゃろ、成熟した今や大して響かぬにちまいない」と思いつつ読み返すと、「す、すごい!!!!」って毎回なる。
 だって未だにこうして引用してるんだもんね。与えられた影響は絶大だし、まったく色あせない。そしてずっと若い世代の人間にもちゃんと響き、53年ぶりに「フェスティバル」は実現する。

「一人でフェスティバルは難しかろう。この店にはほかにもイキのいい高校生が来ているから、とりあえず相談してみては」と、軽い気持ちで高2の女の子を紹介してみた。その女の子の手引きでもう一人高3の女の子も合流し、いつの間にか「夜学集会(ヤガシュー)」と名乗る3人組が結成され、あれよあれよと企画は進行していった。会場も日程も決まり、正式タイトルもつけられた。発起人の男子が「ダチュラフェスティバルってどうすか」と言い出したのだ。もちろん元ネタはこれまた村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』なのだが、「なんやそれ」と僕は思った。反対する理由もないので「まあ、いいんじゃないの」くらいの温度でスルーしたのだが、企画が進んでいくとだんだん「ダチュラ」という言葉に愛着がわいてきて、これ以外考えられないなという気分にもなってくる。言葉って不思議。

 かように村上龍づくしな「ダチュラフェスティバル」のパンフレットにはなんと、当の村上龍による書面インタビューが掲載される。先んじて読ませていただいたが、いや実に。お楽しみに。夜学バーで1069円以上の寄進をするか、クラウドファンディング(企画中)に参加するか、当日会場に来れば手に入るようです。余れば後日でも手に入るでしょう。たぶん夜学バーでも売られるでしょう……。


 希望の芽というのは彼らとのことでもある。これから育って、花を咲かせる可能性がある。
 あえてのたとえ話をすれば彼らはまだ僕のお店に経済的貢献がほとんどできない。お客としてもそうだし、お店を手伝ってもらうにしても彼らだけに任せるわけにはいかない(僕はいいけどいろいろ問題がありそう)。実際やってもらうときは僕ないし他の人が必ず付き添うようにしている。「じゃーよろしく」と放っておけば売上をつくってくれるわけではない。
 そういうのもあって彼らにはほぼ報酬を渡していない(売上の一部をダチュラフェスティバルに寄付したりというのはある)。完璧なるやりがい搾取。ただ「やりたい(お店に立ちたい)」と言われたら原則として断らないし、モヒートもコーヒーゼリーも作りたいと言えば作ってもらうし、打ち合わせや会議、作業、取材などの場として夜学バーはいつでも使い放題。営業時間中は何か注文してくれたら木戸銭(席料)なしでドリンク代のみいただくけど、何も頼まなかったら無料。(こんなことをいちいちなぜ書くかというと、未来、ダチュラフェスティバルの準備期間のことを思い出すよすがとするため。)
 お店(や僕)が経済的に得をするようなことは直接的にはほぼなく、損をすることも特にない。もちろん、彼らの存在はお店の彩りになる。無料でブランディングできているようなもの。しかし、なぜなのだろう、即効性はあまりない。「えっ高校生がきてるの? すごーい」とお客が湧いてくるような現象は起きない。
 夜学バーのことを好きになる人は慎重で思慮深い人が多いので、「高校生がいるんなら、自分は行かないほうがいいんじゃないだろうか?」とむしろ考えたりするのではないかと僕は分析する。「自分はお呼びじゃないだろう」「遠くから応援だけしておこう」みたいな。あるいは単純に「なんかイレギュラーな感じがすること」にはあんまり関わりたくない、というのが人情の原理なんだとも思う。
「高校生! 若い子! 説教とマウントのチャンス!」みたいな人は世間に多い(本当にそうなのです!)ので、かりに興味があっても「そうはなりたくないからなあ」と遠慮する人はたぶんけっこういる。
 僕は「君子危うきに近寄らず」も「虎穴に入らずんば虎児を得ず」もどっちも好きで、この二つの真理のあいだでいかにバランスを取るかが人生の肝要と思う。多くのかしこい人たちはそのためにまずは様子を見る。今はその期間なのかもしれない。

 ところで件の、「フェスティバル」の発起人たる男子は夜学バーを知った翌日に来店したそうだ。そのスピード感は絵に描いたように「虎穴に入らずんば虎児を得ず」。時にそういう勢いもだいじです。

 僕および夜学バーにとって、彼らの存在がプラスかマイナスかといえばもちろん大いにプラスで、疫病蔓延下だから目立たないものの、彼らが方々で宣伝(夜学集会と名乗っているからには、それこそ「いる」だけで広告塔となるわけだ)してくれているおかげで新たに知ってくださる人も増えていると思うし、当人たちからも(心許ないお財布の中から)飲みしろはいただいている。「夜学バー周辺でなんか面白いことが起こっているな(だからと言って今すぐには行かないけど)」と思ってくださっている方がいるだろうことも、長い目でみればとてもいい。

 ただし気をつけなければならないのは、「彼ら」というものが、いつまで僕ならびに夜学バーと仲良くしてくれるかわからないということ。付き合いが長ければ長いほど、僕は利益を享受できる。しかし「もう夜学バーとかジャッキーさんみたいなものは自分とはまったく関係がありません」ということになれば、僕の得るものはその先なにもない。さみしさとむなしさが残るだけ。
 若い彼らは、すぐに大きな利益をもたらしてくれるわけではない。長い付き合いをしなければ僕にあんまりトクはない。長い付き合いをするためには、僕は彼らにとって「いいやつ」であり続ける必要がある。「ジャッキーさんと仲良くしていてたのしい、うれしい」と思ってもらい続けなければならない。
 誤解されないようにちゃんと書いておこう。ここまでの話は「経済的貢献」という言葉を軸に展開している。それをいったん脇に置いて言うと、「いま現在、彼らと仲良くしている自分はそのことによってとても幸福である」。僕のすべての愛する友達たちと同じように。まさかそんな読み方をする人はいないと思うが、「自分に利益をもたらすまでには時間がかかるので、いま現在は嫌々渋々付き合いをもっております」という話ではない。はぁ、こんなことをいちいち書くから文章が長くなるのである。これ実は24日から書き始めてて、もう27日になって深夜3時。ついさっきまでヤガシュー(夜学集会)3人と武富健治先生とで4時間近くTwitterのスペース機能でトークしていた。いそがしー。
 僕は僕で末永く「楽しい、嬉しい」と思い続けねばならず、彼らにも同様にそうしていただかなければならない。そうしなければこの「楽しい、嬉しい」という幸福も、さっきから書いている「経済的貢献」も一切が消える。そのためには、我々の「関係」というものをちゃんと健やかなるもの、愛に満ちたものとし続けなければならない。そうならざる雰囲気が出てきたら、できる限りは調整に努めねばならない。これは僕が幸福に生きるため自らに課していることであって、普遍的真理ではないし、他人もそうすべきだと訴えるものでもない。そうしてくれたら嬉しくはあるし、みんながそういうふうにしたら世の中はよくなりそうにも思うけれども、人にはそれぞれスタイルがある。

 幸福は目に見えて少しずつ成長する。で、あればこそケアが必要なのである。「ひいきをするように余計な草抜く」(小沢健二『いちごが染まる』)みたいに。
 ゆっくりと育っていくはずの希望の芽も、ぞんざいに扱えば枯れてしまうかもしれない。放置していたら飛んでいくかもしれない。ずっと見守り、すべき関与は惜しんではならない。でなければ、ひそやかに育った不幸が唐突に襲いかかってくる。そういうようなことだろう。
 これも誤解がないようにちゃんと書いておくが、ここでいう「希望の芽」というのは「彼ら」のことではない。「彼らと自分との関係」のことである。僕は彼らを見守り、関与しようと言っているのではなく、「彼らとの関係を見守り、関与しよう」と言っている。
 冒頭に「希望の芽というのは彼らとのことでもある。これから育って、花を咲かせる可能性がある。」と書いたが、「彼らとのこと」と「と」が入っていることが、僕としてはものすごく重要。

 我々(4人)はみな出会って間もない。いちばん長い付き合いなのはたぶん僕と高2女子で、初対面からせいぜい2年弱(データによると2020年10月17日)。1人でお店に通ってくるようになってからは1年と3ヶ月くらい。ヤガシューは結成からまだ3ヶ月ちょいとのこと。まだまだ芽なのである。しかし芽だから醜いということはなく、芽はむしろたいがい美しい。毒があったりもするが。(こういう比喩はキリがないしあんまり意味もないが、すこし面白い。)
 どう育っていくのだろう。芽生えは奇蹟の手柄でも、育つ過程にはさほど手を貸してくれない。「あとはよろしく」と奇蹟は言う。「そんなあー」とか言いながら、我らは水をやる。見守って愛す。


 僕のあらゆる仕事は基本的に「待つ」ことにある。「今は、目の前にタネをまいて待とうぜ」(中村一義『ピーナッツ』)である。たとえばお店でもここしばらくは、1日にお客が1人とか2人とかって日がザラにある。それをキツいと思えばどんだけキツいかってのは、たぶんなかなか想像もしてもらえないんだけど、まあ仕方ない。時間がかかるのだ。
 小さい子が大きくなるのにも時間がかかるし、遠慮してる人が少し大胆になるのにも時間がかかる。様子見がいつ終わるかは誰にもわからない。何もかもに時間はかかる。ゆえにこそ僕は時間を愛していると主張する。時間は世の中そのもの。だからあらゆるものを「待つ」ことができる。時間がかかることを知っているから。待つことが辛くない、という意味では決してなくて。やることやったら、待つしかないから。
 時間は流れるものではない。変わらずにそこにあるものである。待つとき、僕は時間とともにある。愛するものとともにある。だから淋しくても悲しくても、どんなときでも耐えられる。

 7月26日は僕が高校1年生の時に守山文化小劇場で『L^2(エルツー)』というお芝居に「きゅうすけ」という男の子役で出演した、舞台デビューの日。きゅうすけ、9歳、なんかそういう符合も面白い。そんなに巨大な日ではない、だけど永遠に僕はこの日といるのだろう。ずっと忘れずに。

2022.7.21(木) 僕の基本態度

 僕らが知れることなんて一握り。見えてる部分だけを見て「こうだ」ということの恐ろしさ。誰かが殺されたらしくて、その犯人はAさんだ! ってなってても本当にそうかはわからない。本当は別の人が殺したのかもしれない。「真実」が無数に襲撃してくる。
 真実はいつも一つ、などということはない。偽りは一つに統合できるが、真実は常にバラバラ。数えきれないたくさんの要素があって、それらが同時に、各々自律して動く。100人の人間はそれぞれにまったく違うことを考えているのが普通で、「100人ともこう考えている」などとまとめられるはずがない。まず偽りと思っていい。真実はそれほど単純ではない。真実を把握することがどうしてもできないから、「疑似真実」を一時的に、その都度、編み出していく。

 真面目に暮らしてるとわかることは増えていく。しかし「どれだけわかったと感じても そこを離れてはいけない」。

2022.7.20(水) 齢自認が9歳(定期)

 昨日書いた「情と型」という話は、僕が齢自認を9歳と主張していることとも深く関係する。たとえば「30歳」っていう型が先にあって、それに情(内面)を合わせていっていたのがこれまでの社会だったとしたら、これからは情(内面)が「9歳」って思ったら、それに合わせて型を作っていっていいってこと。戸籍上の年齢が30歳だから内面も30歳らしくしなきゃいけないんじゃなくて、内面が9歳だから戸籍上の年齢とは関係なく「9歳だ」ってことを前提とした生き方をしていいのだ、ということ。それで世の中やそこに住む他人と仲良くできるんであれば、まったく何の問題もないよね? ってこと。


 2022年4月30日および2022年1月24日の記事の、たぶん続き。僕は同じようなことを何度も言っているが、ちょっとずつ更新されている。これは散歩だから同じ道を通ることはよくある。しかしその風景は以前とは微妙に異なるし、歩き方も違えば見るものも感じることも考えることも違う。

 以下は高校2年生の女の人から頂いたお言葉を僕なりに意訳(J訳)したもの。「ジャッキーさんが9歳である証拠は今のところ二つあります、一つは字があからさまに9歳であること。もう一つは、〇〇くん(高3)に接する時の態度が他の成人男性と異なることです。(どう異なるかは明言されなかったが、ほとんどの成人男性は〇〇くんを『かわいい後輩』のごとく扱うが、Jはそうでもないということだろう。)」
 字については以前も言われたことがあり、なるほどと思っている。僕はずっと自分の字にコンプレックスがあって、学校の先生になった時はみんなの前で黒板に文字を書くのがとても恥ずかしかった。作文とかにコメントを書くのも「こんな字で申し訳ない」と思いながらやっていた。書き順もめちゃくちゃだったのでこの時期に一所懸命矯正した。黒板の字がどんどん斜めになっていくのは最後までなおらなかった。
 ところが、「先生の字は変じゃないよ」「ちゃんと読めるよ」「むしろかわいいよ」みたいなことを言ってくれる生徒もいて、ものすごく救われた。みんな優しい。女子校に勤めたらより顕著になった。プライベートでも「字がよい」と絶賛してくれる人まで現れ、「そんなわけあるか?」と思いつつも、「じゃあ別にこれでいいのだろう」と思うようになっていった。
 字について、これでよい、と思えたことは非常に大きい。それは「人格について、これでよい」と思えることと、僕にとってほぼ同じだったのだ。幼稚な人格を幼稚な字が表象している、というのを、「そんなんでいいんか?」と思っていたわけだが、「それでいい!」と思えたわけなのだ。
 幼稚な人格に、たとえばカルトはつけ込むだろう。「そんな幼稚なことではいけないよ」と。「そうかもしれない」と昔の僕ならきっと思った。「立派にならないといけないんだろうな」と。

 これも何度も書いているが、女子校に勤め始めた30歳くらいの頃、僕は少し大人ぶっていた。9歳のくせに、生徒の前で30歳くらいの顔をしていたのである。久々の公的な教育現場で、「しっかりやんなきゃ」と気張っていたのだろう。しかしその男(僕)が本当は9歳であるということは、授業が始まって黒板に文字を書けば一瞬でバレる。思春期の女子たちはまったくそういうことには敏感だから、「こいつは嘘つきだ」と思った人もいたんじゃないかと思う。それで初年度はあんまり信頼されなかったような気がする。もちろん、最終的には僕のことを好きになってくれた生徒は多かったはずだけど。
 2年目はたぶん18歳くらい。1年生の授業では16歳くらいになっていたかもしれない。それでも字を書けばやはり9歳なのだから、「精神年齢は9歳のくせに背伸びしてカッコつけてる同級生の男子」くらいの鼻につく感じは残っていた可能性がある。3年目はひらきなおって9歳になって、ようやく字と年齢が一致した。それでなんとか、全員からとは言わないがそれなりに信頼してもらえたと思う。目の前にいる女の子たちは16歳とか17歳だったわけだが、みんなだって本当はまだ9歳くらいだったりもするんだから、意外とそれでちょうどよかったのだ。
(このあたりのことはむろん「クラスの雰囲気」によっていくらでも左右されることだから、結果的にそうなったというだけではある。しかし辻褄があえばそれにこしたことはないのです。)

 9歳が無理して30歳の顔をしたって、ただ信頼されないだけ。9歳なら9歳らしく振る舞ったほうが自然だし、かわいいじゃん。それが「この人は嘘をついていないな」という印象を与える。授業が、仕事が、やりやすくなる。しかし社会というものは9歳に対して「30歳の顔をしてください」と言う。「30歳の顔をしたうえで、仕事がちゃんとできないと、社会人として失格なのですよ」と。
「いやいや、9歳の顔してたって、仕事がちゃんとできてたらいいじゃないですか」「それは仕事とは言えません。なんですかあの幼稚園みたいな授業は」「でもほら、平均点は上がっていますし……」「試験問題を漏洩させているのでは?」「いやまあテスト前の授業で時間作って要点を復習したりはしますけど、それは他の先生もやっていますよね」「やっていますが、あなたの授業はみんながちゃんと話を聞くので多くの生徒がその要点を完璧に把握してしまうのです」「?????」
 ↑こういうやりとりが実際にあったわけではないが、現実として「幼稚園みたいな授業だけどみんなそれなりに僕の話を聞くという習慣ができているので試験前に要点をまとめて説明するとみんなそれを自然にインストールしてくれて平均点がちゃんと高くなる」というのはあった。テストというのは「要点」が出題されるわけだから、テスト前にテストに出るような要点をちゃんと説明するのが悪いこととは思わない。しかも丸暗記ではなくその解法の道すじをしっかり理解させるような解説をするのだから、試験はその復習を兼ねたものにもなり、大学受験や社会に出た後でも役立つような学力を少なからず育めている、と僕は思うんですけどーなんてことを今さら書いておく。学校の先生ってちょっと意地悪な癖がついてる人が多くて、なんとか生徒に点を取らせまいとする。「点を取りたいなら、よほど努力してもらわないとね!」という考え方が強い。いや、努力はそこそこでよくて、目的は「頭をよくさせること」だと僕は思っているから、公教育には本当に向かないのでありました。

 謎の話が長くなったけれども、社会というのは30歳に「30歳であること」を要求するので、9歳である僕は「9歳が30歳のふりをする」ということを強いられる。しかしそれではうまくいかない。「9歳のまま授業する」をやってみたら、うまくいったのだ。でもそれは原則として禁じ手。「30歳らしくやってください」となる。つまりこれは、「齢自認が実年齢とズレていると、社会で生きていくのは大変だ」という話なのである。


 僕の齢自認は9歳であるから、いわゆる「10代」はみんな年上。例の〇〇くんについても「お兄ちゃん」くらいにとらえている節がある。ほんまかいな。現実として僕は「年上の男性」で、向こうもこっちもそれを前提としている。ただ、だからといって僕の字が急に30代に変わるわけではない。9歳の字しか書けない人間がどんだけ大人ぶろうとしたって、嘘になるだけだ。だからたぶん僕はすごく謙虚なんじゃないかな。世間様は30代として扱ってくださいますが、いえいえワタクシなんてただのしがない9歳児でごぜえやす、大人ぶろうなんて気は毛頭ありやせんぜ旦那……と内心常に思っている。「大人ごっこ」みたいなことしててもどっかで「しょせん自分は年少ですから……」と遠慮がちにしている。
 もちろんですね、そういうのは、いいとこ取りっていうか、卑怯なスタイルであるということは理解しておりますよ。「大人の頭脳と経済力を持った上で9歳児に転生」みたいな世界ですからね。大人として生活しておきながら、都合のいいところでは「9歳なんで!」と言えちゃう。そのヤバさはそりゃ、バカじゃないんで自覚していますがな。
 でも実際そういう世界に僕は生きているのです。自分のことをけっこう本気で9歳としか思っていない。根底にそのズルさがあって、ジャッキーさんというこの不思議な人物は成立しているのです。ズルくなかったら存在できないですよ。社会には普通にはいられないようなヤバい奴なんだから。
 したたかに、自分の特性を利用して、うまいこと生きていかないと無理。9歳なんで、何もできないんで。みんなからお小遣いもらって生きてるんだから、僕は。夜のお店やるってそういうことでしかないんでね。

2022.7.19(火) 情と型

 1995年、巨大カルトAが大事件を起こした。無差別に人が死んだ。冬は長くて寒かった。記録によると僕のいた名古屋は3月20日の最低気温が1度だったそうで、東京では3月26日に雪が降っている。
 そして時は2022年、巨大カルトBに恨みを持つ人間が特定の人間を狙い撃ちした。その特定の人間だけが死んだ。

 うらみはらさでおくべきか! 7月17日で藤子不二雄A先生の『魔太郎がくる!』が50周年を迎えたそうな。

 Bには50年をゆうに超える歴史がある。積年の怨みとはこのことだろうか。長い時間をかけて、世界の各地で、少しずつ膨らんできた反動のエネルギーが、デルタアタックのように跳ね返って彼は殺された、かのように僕は見た。
 それは選挙活動妨害であり、怨恨殺人とみられた。


 もし本当に、たった一人の人間が引き起こしたことであるとすれば、あれは「うらみ」の発動である。うらみはメラメラと燃え、やがて暴発する。「ものすごく低い確率ではあるがもしかしたら一発で世界を滅ぼしてしまうかもしれないボタン」を、調子に乗って押しすぎた結果、とも言える。


 うらみの数が増えれば、そのぶん「うらみをはらす」も多くなる。
 泣き寝入りがほとんどだろう。諦めたり、妥協したり、忘れたり。そして「うらみをはらす」人もいる。

 復讐の最大は、個人であれば殺すこと。団体であれば殲滅すること。
 世界規模の超巨大カルト団体に復讐を果たすにはどうすればいいのか? たった一人の個人ができる、最もコストパフォーマンスの良い行為はなんだろうか? 急所はいったいどこにある?
 できるだけ早めに実現できそうなのは?


 はっきり言って、たった一人の人間による報復では、それがどれだけ「効率」の良いものだったとしても、大きなものを動かすにはまず足りない。まして数万人を殺したのでもない、たった一人を殺しただけなのだ。
 親玉を殺しても、子分たちは生きている。統率を失った彼らが、急にのんびりと平和な生活を始めるだろうか? チンピラ化するやつらもいるだろう。暴走することもあるだろう。新たに王座に着こうとする者も現れる。どくさいスイッチでジャイアンを消しても、代わりにスネ夫が殴ってくるのだ。

 ただもちろん、瞬間的に風は変わる。そこにつけ込んで戦争が始まる。誰が勝つかはわからない。
「今だ!」と動き出している人たちもいる。どうなるかはみんな次第。これもある種の民主主義か? なんてことも僕は思う。


 ところで、あれは組織的な犯行であって、裏には想像もつかない大きな話が横たわっている、なんて説もある。死因は実は別の狙撃犯によるライフルの弾だったのだ、とか。そうだとしたら、本件は「うらみ」の暴発ではなくて、「うらみ」の政治利用、といった話になる。
「情が型をつくる」時代だからこそ、「情の犯行に見せかける」ということが効果的なのかもしれない。


 そう、「情が型をつくる」。平成までは「型に合わせて情が決まる」だったと僕は思っている。たとえば、まず「思想」という型があって、それに基づいて「犯罪」が実行される、といった具合に。教団Aの事件なんかはまさにそうである。学生運動とか、左翼活動みたいなものも思想(に基づく組織)という「型」が先にある。
 しかしこれからは、「情」によって突き動かされた犯行というものが、それに見せかけたものも含めて、多くなっていくのかもしれない。
 今回の事件は「Bの思想に基づいた犯行」ではなくて、「Bから被害を受けた者の情による犯行」だったわけなので。


 僕の未来予測は相変わらず、「必要に応じてくっついたり離れたりする」という世の中の絵を描く。組織、契約、制度といったものはその都度、一時的につくられるだけのものになる。定型はない。「それぞれの詩情はそれぞれの詩型を要求する」とは佐藤春夫の言葉だが、情に応じて型が決まってくる、というのが遠くない未来に発達してゆく。

 世間一般にいわゆる「恋愛」には、「型」というものがある。付き合ってくださいという申し出があり、承諾があり、付き合うという行為に伴う種々の行動様式や倫理規範みたいなものがあり、別れようという時にさえ「別れよう」「はい」という定まった手続きが必要である。手をつなぎ性を交わしディズニーランドに行く。「情を型に合わせる」というふうになっている。
 心を、恋愛というすでに定まった(常識的な!)型のほうへと寄せてゆく。それが平成の恋愛であった。そんなもんはもう終わり。

 型、すなわち「結果」が先にあって、そこから逆算して「自分はどうあるべきか、どう行動すべきか」が決まる。カルトはここを突き詰めている。「『救い』から逆算しますと、あなたにはもうちょっと信心(献金)が必要ですね」と。だいたいのインチキは、詐欺は、そういう仕組みである。頂き女子も然り。

 学校の先生や親がよく言うそうだが、「○○のためには、△△しないとだめだよ」というやつ。将来立派な人間になって、安心して暮らすためには、いま勉強しないとダメなんだよ、みたいな。これも結果から逆算して脅しをかける、マイルドな洗脳なのである。

 情に応じて型が変わってくる、というのは、たとえばクルマなんか考えてもそう。ある時代にはどうやら「クルマを所有する」という型が先にあって、そこから「クルマがほしい」とか「クルマを持ってない男って」みたいな情が生まれていた。いまは「自分はクルマについてどう思うか」という情が先に立ち、購入するかシェアリングを選ぶか、所有せず適宜タクシー等を使うか、という型の選択をしやすくなってきていると思う。
「いまちゃんと勉強しないと低収入になってクルマも買えないよ、クルマも持ってないような男でいいの?」みたいな脅しは、ひょっとしたら昔はあったのかもしれない。今これが心に響く若い人はだんだん少なくなっている。もちろん「お金持ちになりたい!」と無邪気に言う子どもだってまだまだたくさんいるわけだが、そうじゃない人も多くなっているんじゃないだろうか。

 情が変われば型も変わる。カーシェアリングを利用していた家庭が、二人目の子どもの誕生を機にクルマを購入する。「何がなんでも所有」「何がなんでもシェアリング」ではなくって、状況に応じて、すなわち状況に応じた情に応じて、自分とクルマとの距離感を決める。べつに二人目が生まれたら絶対にクルマが必要なわけではない。我が家は子どもが四人いたがクルマはなかった。親が運転している姿を見たことは一度もない(免許は持っているらしい)。逆に、子どもはいないがクルマは持っていたい、という人もいる。僕はさっきからめちゃくちゃ当たり前のことを言っているようだが……「状況に応じてクルマを買うかどうか考える」というのは、意外と当たり前ではなかったんじゃないかと思うのだ。とりあえず「つぶしがきくから」と免許を取り、とりあえずクルマを買う、という時代はたぶん、あったと思う。「とりあえずタバコ吸うか」とかなり多くの男性が思って、実際にタバコを習慣としていたように。
 喫煙は「情→型」の最たるもんで、昔はとりあえず男性は吸っていたし、とりあえず女性は吸わなかった。傾向としてそういう型はあったはずである。ところが今は、男女関係なく「吸うか吸わないか」という距離感を情に応じて決めている。


 情が型を決める、というのがヤバいのは、情から何に発展するかわからない、ということ。カルトへのうらみという情が元首相の暗殺という型をとるなんてこともある。これはもうマークシートに用意された回答じゃなくて完全な自由記述。そういう世の中は統治する側にとっては都合が悪い。足並み揃えてもらわないと近代は対応できない。

 学校へ行け、と言ったら、ハイ行きます、というのが近代なのである。戦争へ行け、と言ったら、ハイ行きます、というのが近代なのである。そんなもん前近代だってそうだろうといえばそうなのかもしれないが、まあなんにせよ近代だってそうなのである。また、おそらく近代のほうが、命令の種類と回数が多いのだ。日常生活に深く深く食い込んでくる。
「学校へ行け」と言っても行かない人がどんどん増えてきて、仕方ないから行政のほうもそれを前提として、「複雑な足並みの揃え方」で妥協するようになった。複雑でもなんでも、とにかく足並みだけは揃えてもらわないと困る。選択肢はたくさんあるが、そのたくさんある選択肢はすべて把握しておきたい。掌握しておきたいというわけである。
 そこから外れることをされると、だいぶ困る。いたちごっこは繰り返し、複雑さは増していく。
 NHKを見てくれない人がいるから民放でつなぎとめ、民放も見てくれなくなってきたからインターネットも支配せねばならない。そういうようなこと。

 って頑張ったって、どうしたってオリジナルなことを始めるヤツがいる。想定外の事件は起こる。
 これから世の中が平穏を保つには、「まったくオリジナルな事態がそこかしこで多発する」という状況を前提として、仕組みをつくっていくことなのだろう。具体的なビジョーンはとくに浮かばないが、なんとなくそういうことを思う。

 多様性を、多様性という言葉の中に押し込めようとするから「LGBTQQIAAPPO2S」みたいな言葉も生まれる。どれだけ複雑にしたって拾えないものは出てくるのに。シャカイはそれによってひずんでいるのではないのかね。(誰?)
 ジャンルで分けず、一人一人を「その人」として見なす。若い世代は特に、そういう気持ちを持っていがちと思います。


 型によってまとまって一つの方向へ向かうのではなくて、個々の情による個々の型が、それぞれに動いた結果として世の中が動いてゆく。そもそも日本は軟体生物のようだと中根千枝先生も仰っていた。(『タテ社会の力学』P110~「軟体動物的構造」をみよ)
 中根先生のご指摘で興味深いのは、「その集団クラスターが、外部的あるいは内部的要因によって刺激を受けると、その全体の中でとくにその刺激に強く反応する特定部位(局所)から他の部分が一種の連鎖反応を受け、しだいに全体に影響していく」としたうえで、「局部に起こった動揺はその周辺に波及するだけでとどまり、そこだけの問題として自然に治癒することが多い。」(P121)というあたり。
 局所から全体に「刺激」が影響していく、というのはよくわかる。去年小山田くん(小山田圭吾さん)が悪と糾弾された風潮なんてまさにこれだった。ところが「そこだけの問題として自然に治癒する」ということも多いと。いやもう、そっちのほうが圧倒的ですよね。小山田くんくらい燃え上がるのはむしろ珍しい。野党が何をどれだけ批判しても、与党は多少唇を噛むくらいはしても、いつの間にかその風は止んでいる。
 今回も今はあれこれ報道されたりしていて、それで多少誰かが処分されたり「もうしません」って言うだけ言うってことはあるかもしれないけど、まあ治癒して行くんだろうな、このまま他に何もないなら、と僕は予想しております。そして何もなかったように、これまでとさほど変わらない癒着が続くんだと思います。このまま他に何もないなら。
 小山田くんもそろそろ治癒したっていうか、喪が明けた感じがありますね。あのまま他に何もなかったので。


 軟体動物たるこの社会を、統率することはそもそもできないし、たぶん一度もできたことはない。日本人は遵法精神が低いと中根先生のご本にはある。タテマエでのみ法を重んじ、ホンネでは破り放題。パチンコやソープもそれ。「政治」の世界もそんなもん。
 情の先行はホンネの暴走を招き、うらみはタテマエをかき消してしまう。
「政治生命は政治によって絶つべきだった」と言う人がいた。こちらは型の先行であり、タテマエの範囲で考えると確かにそうなる。

2022.7.18(月) グイター、そろばん、縦シュー(洗脳と中毒)

 めちゃくちゃ恥ずかしいのであまり書きたくないのだが、ある人が夜学バーに置いてったグイターをたびたび練習している。まだ何も弾けないがゆっくりぼちぼち上達している。
 また、そろばんを弾いている。これは「はじいている」と読みます。
 古いことしかやりたくない! という思いが強まりすぎて、お店ではすっかり巨大な氷をアイスピックで砕くようになったし、会計もそろばんを使う(主に京島店)ようになった。四則演算だけ勉強した。
 墨田区はけっこうそろばん会計が多い。こないだ釧路にもそろばん会計喫茶があった。また意識し出すと気がつくもので、灯台もと暗し、湯島の夜学バーから最寄りの喫茶「シャルマン」でも、やや複雑な計算だとそろばんが出てくる。たいていコーヒー一杯だから出番がなかったのだ。

 グイターとそろばん。どっちも片手間に遊んでるだけだが、それだけで十分、いつの間にだか時間をとられている。やるべきことが500個くらいあるのに、なんとなく時間を消費しているな、と思ったら、こういう細々としたもの。
 むろんそれは無駄ではない。グイターによって育まれるもの、そろばんによって育まれるものは絶大である。脳が、身体が、グリス塗ったみたいになめらかになってゆくのを感じる。

 僕にとっては「縦スクロールシューティングゲーム」も似たようなものである。平面の画面で、上から出てくる敵を戦闘機が撃ち落としていくみたいなやつ。たまにゲーセンとかでやる。脳が、身体が、活性化してゆく。連携がよくなってゆく。
 僕はたぶん自転車の運転が上手い。自転車にも上手い下手はあるのだ。そこには縦シューの技術や考え方もけっこう影響していると思う。
 僕は空間をドラクエのようにしか把握できない。現実をいったん「(北を上とした)俯瞰の平面図」に変換しないと方角がわからない。自転車に乗る時も「縦シューのように」空間を把握している節がある。

 僕僕僕。

 それで最近、「久々に縦シューやりたいな」と思ってアプリをDLした。これがサタンであった。指先と脳が接近していく感覚。育まれてゆく。みたされていくー!!
 たしかにそれは僕を活性化し、悪いことも当座、忘れさせる。しかしそれは浪費かつ逃避。ちょうどいいところでやめなければならない。

 さあ、その「ちょうどいいところ」とはどこにあるのか? それをわからなくさせるようにスマホアプリというものはできている。絶対に「ここらが潮時かな」と思わせないように徹底的に努力して作られている。
「どこまでやるんだ?」と自分でも思いつつ、「ここだ」という確信を決してアプリはくれないから、なんとなくその関係は続いていく。「ここでやめてしまったら、育ててきた戦闘機たちはどうなる? 何の意味があった?」そんなことを考えてしまう。「意味」なるものがアプリ側から提供されることがあるはずもなく。

 たぶん洗脳のシステム。「ここだ」という瞬間を、隙を、彼らは絶対に与えない。軽い気持ちで入ってきた人間を、絡め取って離さない。ここで何も考えず「アプリを消去する」選択をできるか否かが、けっこう大切なのだ。洗脳は中毒とかなり近い。引くに引けなくなる、それが始まり。損切りは冷徹な人間にしかできない。情というものがあるから。「だって縦シューには自分を育ててくれてる側面もあるんだし……」。

 というわけでなんの脈絡もなくサクッ、とアプリを消した。「すべてのデータが消去されますがいいですか?」的なメッセージが出てきた。少し心が動く。そう、この未練が洗脳と、中毒の源である。

2022.7.15(金) 2003年10月の思い出

 たとえば僕のWeb日記は過去は(ほぼ)すべて読めるけど、未来は更新されるまで読めない。古参でも新参でもそのとき目の前にある情報量は同じなのです。すごい! だからニワカも初心者もありません。時間の神さま(円ちゃん)の前にはみな平等。


「22年ぶんの日記が読めます」というのがこのホームページの、いつの間にかウリになってしまったが、しかし22年ぶんと一口に言っても、実のところスキマはけっこうあいている。それは「日記」の一覧ページを見てもわかる。
 サボっていたというよりは「インターネット上に個人的なことを書く」ことに対して、簡単にいえば「嫌」になっていた時期がほとんどである。多くは人の目、とくに恋人の目を気にしてのこと。もう今は、それを気にする人と付き合おうとは思わないし、極力気にされないような書き方に努める。今のようなスタイルになった理由の最大は実のところそこにある。できるだけ第三者に気にされない書き方。

 ホームページを始めたての頃は、田舎の高校生ということもあって周囲にインターネットを閲覧可能な人は多くなかった。しかし学年が上がっていくにつれてインターネットユーザーは多くなり(IT革命まっさかりで利用者が急増していた)、同級生だけでなく先輩後輩、学校の先生などまで僕のホームページを見るようになった。それで叱られたりもした。
 有名な話で恐縮だが、その時も僕は「なんでいかんの」という幼少期に口癖だった精神を発揮した。「インターネットでの発信を規制する法律や校則がないのに、なぜ戒められねばならないのか」という理屈であった。インターネットはまだまだ新奇なものだったし、ほとんどの大人たちはそれがなんなんだか、どう扱っていいのかよくわかっていなかったと思う。
 田舎の高校生が「無法」をいいことに好き勝手やってるんだから、当然インターネットは全国の無法者で溢れた。その後どんどんインターネットは無法地帯化していき、僕は「それ見たことか」と思ったものだった。2005年の『電車男』映画化、ドラマ化(書籍は2004年10月発売)あたりで、ようやく「許された」感じだったような気がする。

 2003、4年あたりが僕にとっては苦しかった。2003年7月からなぜか「月記」(毎日書き溜めたものを月に一度放出する形式)になるし、11月くらいからはしばらく混沌。2004年2月から7月までは「これはフィクションだ」という前提で三人称の日記(小説?)を書いていた。4周年の7月11日からふたたび一人称に戻るが、お誕生日の11月1日にまた日記の形式を変更。2005年1月中旬まで続く。
 そしてその1月下旬、mixiに招待され、沈み込む。

 ちょうどホームページを作っていたツールが使えなくなっていたのもあって、更新は停滞。一時は閉鎖騒動まであった。(これがいつだったかは忘れた。調べればわかるかもしれないが。)
 2005年10月30日の日記に「明後日から復活」という言葉がある。お誕生日を機に心機一転、という感じなのだろう。お誕生日大好き。「mixiはmixiとして、やはり自分にはホームページもなければならない」という気持ちになったようだ。9ヶ月くらいはmixi漬けだったことがうかがえる。


 さて、実はここからが本題なのである。こんだけ書けば僕のことを好きな人しかもう読んでいないだろう……。
 僕が「特定の宗教団体」に連れ去られて2泊3日(最終日は朝まで詰められたので2泊4日かもしれない)の合宿に参加させられた有名なエピソードは、2003年10月の「月記」に見える。※未来人のために。7月8日の奈良某重大事件直後、当該団体は名前を伏せられ「特定の宗教団体」と報道されていたのである
 2003年の夏から2005年秋までの出来事はカオスの海に埋もれてしまっている。その後にしても数年間はmixi日記も掘り起こさないと追えない(さらにその後はTwitterということになる)。自分研究家としましてはこのように情報が分散しているのはだいぶ面倒なんですよね。
 ジャッキーさん史の中でもかなり重要な、「宗教団体に拉致された経験×2」「自転車の授業での1週間の合宿」「初めて無銘喫茶に足を踏み入れる」などなどは、まさにこの時期。西原ととくに仲良かったのもこの辺りで、青春の青が最も色濃い時期でもあった。このあたりの記録が薄いのは実に悔やまれる。少しずつ復元していきたい、という想いはある。けど膨大すぎる。マジで誰か勝手にやってくれたらどれだけ楽だろう。無償で。

 そんなことを思いつつとりあえず、ダメもとで「特定の宗教団体」に関する日記を漁っていたら、意外といろいろ書いてあったので、せっかくなので転載します。こんときまだ18歳。
 と、その前に。同じのページの下のほうに、おそらく僕が西原と初めて池袋のバー「ペーパームーン」に行った時と思しき文章が発掘された。ありがとうよむかしのぼくよ、書いといてくれて。たぶんこれはペーパームーンだろうな、「マスター」が話に参加してくるようなお店は他に行った記憶がない。このお店、まだあって、たまに行きます。

なんか色々考えたけど思い出せない。ので書かない。ちょっと出掛けてきます。
冒険も夢見る情熱も夢見る
ゴールは遠いほどやる気になるよ

ホントのエナジーが動き出している



お子たちよ。







 僕はドラゴンボールという漫画が大好きだ。ドラゴンボールで一番好きなキャラはもちろんベジータだ。ブウと悟空との最終決戦で彼に涙を捧げない読者などいるものか。ドラゴンボールで最も男らしく人間味に溢れ、最高の生きざまを見せてくれるのは他ならぬベジータその人である。そして最も努力家だ。
 そして僕は一つのたとえ話を持ち出す。
 僕はこれから、バビディの術にかかろうかと思うのです。
 克つことができなければ、殺してほしいと願うのです。




下のたとえ話に関連して。ベジータは強すぎるから、強すぎるがゆえに、自分の強さの限界に気づくことができる。
頭の良すぎる人間は、頭が良すぎるから、良すぎるがゆえに、自分の頭脳の限界に気がつくことがあるのだろう。
悟空は限界を知らないし、
それよりも頭の良い人間は限界に気づいているほど暇ではない。
最強ではない、だが「強すぎる」人間にはどうしても、自分自身がその空間において、袋小路に陥っていることを知ることがある。
行き止まりの壁を目の当たりにして苦しむことがある。
それはバビディの術にかかっていくことで突破することができる。しかし
それはバビディの術にかかっていくことでしか突破することができないのであろうか。
僕は迷っている。
迷っているから、
眠り薬を吐き出してるんだ。





海原に乗り出そうかと思う。新しい愛。新しい灯り。心の中にある光。
美しさ。
でも「連れてって」なんて言わない。「見せてくれ」なんて言わない。お前らには。
もっと絶対的な説得力をもって迫ってくる芸術的価値を確実に付帯させた具体的なものであるはずだ。
夜中のコーヒーを濃いblackにしてとかそういう言葉。
強烈な音楽は、生の意味を知ったときに始めて本当に強烈な音楽になるのだと思う。
ただしそれを教えてくれるのはそういった音楽だとか、様々な色彩を持った、光だとか。
神様の存在を肯定するためには、「強さ」が必要なんだってこと。
神様を信じる強さ。
心はそこで安らぐのだろうか?
この「線路」を降りたら。
すべての時間が魔法みたいに見えるような、虹色の風景がそこにあるというのか。
例えば、サイケデリックでもいい。
魔法の中で、光の海に永遠を感じられるような、美しい日だって確信できるのだろうか。
優しさだけが心から溢れてくるような
そんな誰かがどこかに待ってて
僕の願いがカラフルに、あらゆる彩りで放たれるような
いつか心を震わせ、香水のような誘惑に
酔いしれて眠ることができるのか。
熱情とともに
敬虔な表情から本当の言葉を喋り出せるようになれるのか。
全てが宗教的で、敬虔で美しい。
しかし
神様を肯定するときにそれが慰めであってはいけない。
穴の空いた心を優しい言葉でふさぐより
僕はすべてと向かい合うため、ただ考えていくことだけを望む。
絶対的な神様にすべてを癒してもらうより、
ただただ静かに考える、そうして愛する人がいて、ただ考えていくことだけを幸せに思う。





神様を信じる強さ。
やっとこの言葉までは辿り着いた。
ここからは何も、道しるべはない。

盲目なあいつらに屈服するつもりなんかないよ
天使たちのシーンという音楽を聴いて、
涙を捧げることすらできないような
そんな自分が嫌だってこと。




友達の言っていたことがひどく心に残る。
「甘える」っていう行為は双方向的にはあり得ないから
甘えられていると甘えていくことができない。
優しさを持って接することが結果的に「甘やかし」という行為になるのなら
優しさは一方通行のままかえりみられない
それはキリスト教的な愛の形だからという人もいるかもしれない
でも、きっとこういうことだ
優しい人には辛いことなんか何もないんだって
辛い人はそう思っちゃうんだろうな。
辛がっている人は盲目だ。
自分に優しくしてくれる相手は神様だと思ってしまうんだ。
神様が、自分と同じように悩みを持っていて、
そして誰かにすがりつきたくて仕方がないんだってことを、わかってあげられない。




 だからさあ、大槻ケンヂなら「神様を信じる強さを僕に」タモリさんだったら「僕は思う この瞬間は続くと!いつまでも」。吉本ばななはラブリーとかのメロディをさ。感じられるってのは凄いと思うし、悔しいと思うんだよね。僕には何にもわからない。
 でもちょっとだけ掴めてきてる気がするんだよ。
 松本人志が「仔猫ちゃんたち」って言ったときに「僕そういうの大っ嫌い!」とか言ってたんだけど
 あいつめちゃくちゃかっこいいと思うよ。だからこそああいうことが嫌味なく言えちゃうんだよ。
 硬派だよ。ホントに。




正直な人だと思う。純粋、って言っちゃうとありふれているけど。



バビディごときに負けるか!
僕が負けたいのは、FFFとかKOなんだから



僕は合宿という名の迷宮にバイトという名の風穴をぶち開けたことによって逃げ道を作った。
帰ってきたら僕は、全てをお仕舞いにしようと思っている。
僕にとって真理とは誰かに与えられることではなくて自分で見つけだして行きたいと思うし
それを手助けしてくれるのは、ドラえもんしかないって思っているから。


僕の望むものは与えられることではなく僕の望むものは奪い取ることなのだ。
精神的な共産世界に脳髄まで支配されてしまいそうになったとき
僕は岡林信康の歌を思い出そうと思う
それでも止められないのなら、たぶん僕は受け入れているんだと思う。それを。



おすすめ料理みたいな言葉を軽蔑して
トルバドゥールを唱えたって仕方のないこと





考えてみたら僕が尊敬してる人は美しい心を持っていると思う
心の美しい人が心の美しい人を志向するんだと思ってた、でも違う、たぶん。
心が美しくないものだからそれを誤魔化すために心の美しいものを志向する
贖罪にならないことくらいわかってる。だからこそ汚い。
僕は美しくない。『ドラえもん』はあんなにも美しいのに
『ドラえもん』を愛してるふりをすることで、心が美しいふりをしようとしてたんじゃないか
だから僕は本当にドラえもんを愛して
何もかもを愛して
そしてひとりの女性だけを特別に愛して。
今そんなことばかり考えてる
なぐさめてしまわずに

でも愛することだけが美しさを創るなんて
それにそれって
自分が美しくなりたいがために愛そうとするのだし
結局は自分勝手
だけどいけないの?




考えるんじゃない、感じるんだ
ってのができないんだな、僕には。
それじゃいつまで経ってもダメなんだ。ちくしょう。








「いけないの?」





いけないの。
どこにも。





そして僕は真夜中にSOPHIAの街を全開にして脳内の捨象活動に勤しみ続けたわけで
そうしていくしかなかったわけで
でも彼らが言うには僕の生き方はたぶん間違っているっていうわけでさ





結果なんかどうでもいい
河村隆一のジュリアが部屋の隅々まで這い蹲って行くわけで



いやそんなことよりも絶対無敵ライジンオーのDVDが遂に出るってよ!
買えってことだろ!
DVDとLD両方持ってたらちょっと自慢できるな
するとでもビデオも買わないと、ああ!
まじ嬉しいっすねーどんくらい売れるんだろ
情報くれた友人に感謝です
そんな友達持ってるやついないだろー
「ライジンオーのDVDが遂に出ます!」なんてさ




心がこれ以上ないくらい傷ついているのでブラックタイダーの話でも見ようかな
お祝いも兼ねて!
いや第一話にするか
思い切って最終三話か
いや谷崎潤一郎の『秘密』を読んで(レポート書くか)




勝手に信じて、勝手に裏切られて
あんたが存在しもしないものを信じるから
僕は何もしなくてもあなたを裏切る結果になってしまうんだ
別に恋愛のことを言ってるんではない




ウッカリしてお茶に砂糖入れたり
カッコつけてウラBTTBなんて聴いてみたり
大人じゃないよな子供じゃないよな
なんかしらんけど輝けるとき
誰かと恋をしたら損なときは胃痛いなあ




宗教じゃないけど盲目的な奴らと宗教なんだけどよくものが見えてる奴らとでは
雲泥の差だろうな
そもそも僕はアマチュア啓発より宗教のほうが好きだ。




キュートすぎる君だとかなんとか




疾風のようにザブングルザブングル
ここは血の果て流されて 俺
今日もさすらい涙も枯れる
ブルーゲイル涙はらってブルーゲイルきらめく力
海をめざして翼をひらく鋼の機体野心を乗せて
風か嵐か青い閃光
疾風のようにザブングルザブングル疾風のようにザブングルザブングル



雪が溶けて僕たちは春を知る同じことただ繰り返す喋る笑う恋をする僕たちはさよならする
いやしかし授業が面白いよ。特に文学研究の方法と日本文学史と日本文学基礎講読と近代文学と映画と文学Ⅰと英語理解と、中国文学演習もまあ面白いかな。ああ教育学もまあまあ。教育臨床論もそこそこ。
すごい出てる授業のほとんどだ。
日本文法以外全部だ。
日本文法も嫌いじゃないんだけどねえ。
カメラトークが三周目に突入だ。


 これらは全て僕の私見なので先入観にしてほしくないんですが、
 さて彼らは外に情報が漏れるのを極度に嫌がるのでここに概略を記す。そういう予防的なカタコンベ信仰は好きではないから。閉鎖的な地下運動だけで世の中を変えようとするのも微妙な話。
 ある日早稲田大学の7号館の前に座って読書か物思いに耽っていると突然さえない兄ちゃんに声をかけられた。サークルの勧誘だった。ウッカリして電話番号なんか交換しちゃって、後期始まったばっかりのその頃は僕も暇だったし誰も相手してくれなくて寂しかったから、何か新しい刺激求めて心は彷徨い続けてた。それで先週の金曜日初めて部室に行って。部室っていってもなんかビルの一室を借り切ってて。音楽とか流して。ご飯とか出してくれてVIP待遇だったわけなんですが気になったことはみんな一様なしゃべり方をすること。みんな「いい人」で気持ちが悪い。今ではまあそれもある一つの幸福の形として完成に近いものだと思うんだけど。
 サークルの説明を簡単に受けて、どうも講義を受けるのが中心らしい。その時は神のかの字も出てこなかった。でもなんか宗教・哲学と科学を融合させて考えてみようって考え方は昔から自分の中にもあったから面白そうで、特に暇だからほんのちょっと迷った挙げ句その日の夜から二日間の合宿に入りました。この二日間の合宿が終わると六日間の本合宿があるらしい。もちろん僕は六日間もやってられるわけがないから行かないけど。茨城県土浦市というところに連れて行かれてファースト・イニシエーションを受けました。
 教化。洗脳。洗礼。儀式。通過儀礼。
 それからのスケジュール。金曜の夜。オリエンテーション。神という言葉を初めて耳にする。就寝。土曜。八時起床。ラジオ体操。インディアン相撲大会。朝ご飯。聖歌。講義。聖歌。講義。お祈り。啓発ソング。昼ご飯。サッカー。お風呂。聖歌。講義。聖歌。講義。お祈り。啓発ソング。夜ご飯。思想てんこ盛りの出し物大会。説得のためのお喋りタイム。就寝。日曜。八時起床。ラジオ体操。あっち向いてホイ大会。啓発ソング。朝ご飯。聖歌。講義。聖歌。講義。ゲーム大会。お喋りタイム。聖歌。講義。お祈り。お喋りタイム。夜ご飯。でも食べなかった。朝までお喋りタイム。帰る。電話かける。就寝。
 ちなみに東大とか慶応とかからも学生が来てるし、千葉とか埼玉とか新潟とかからも人が来ている。
 レクリエーション系の活動が多かったけどとても苦痛。全てが思想にくるまれている。
 その思想というのは宗教を科学的に分析して第一原因たる神の本質に迫ろうというものだった。で、世界の本質や宇宙の真理を説明してくれるんだけど、とても頭が悪い彼らはよくわからないことを言う。言いたいことはわかる。個人主義を廃絶し素敵な人間関係を築き世界平和を実現させましょうということだ。彼らは共産主義を否定していたがこれは精神的な共産主義だと僕は思う。今の世の中には完全に逆行している。
 ちなみに講義形式をとっているのにも理由があると思う。なぜ文章化しないのか。と色々な先輩に質問をしても言葉を濁されて終わる。とったノートと歌集はあとで回収される。要するに外に情報が漏れるのが嫌なわけだ。それに、文章化すると理論の穴が露骨に見えてしまうようになるし、教化するときには膨大な情報量を与えて混乱させて、洗礼していくうちに都合の良いところだけを残して疑問点を削ぎ落としていくというのが丁度良い。曖昧なまま次のステップに進めば、心に残るのは結論の部分だけになるし、自分で考えていくうちに自分なりな形に少しずつ変えていくことになるから、心にフィットしやすくなる。受け入れられやすくなる。よく考えられていると思う。
 理論のおかしなところを一部だけ紹介。僕にはおかしなところが多すぎて疑問点と突っ込みだけでB罫30枚のノートを二日で埋めた。
 まず宗教を科学的に分析すると言っておきながらキリスト教の神しか取り上げていない。聖歌歌ったりアーメンとか言ってみたりするのもおかしい。たまに他の宗教が出てくると例えば仏教とキリスト教はもともと同じものだったとか言い出す。その理由というのがサタン=魔だから。で、その根拠というのが「魔」という字の中に神様とエデンの園と完成されたアダムとイブを象徴する生命の木と善悪を知る木と鬼と化した蛇が描かれているから。頭悪い。旧約聖書の中にエジプト苦役が予言されているとか言う。当たり前だ旧約聖書が成立したのはバビロン補囚のあとだし十戒自体が出エジプトの際にモーセが賜ったんだし。ここで例えば「旧約聖書が具体化したのは後世になってからだが始めから予定はされていてその全てを神が操作していた(つまり原初からシナリオだけはあった)」とか言えばいいのに。言うと科学的じゃなくなっちゃうから言えないらしい。その一言があれば納得できるのに。ていうかまず聖書を単なる歴史的な書物と定義づけながらも聖書を論の拠り所とする根性がわからない。ペテロの人生を話している途中でユダのエピソードを挿入する。ペテロのエピソードとして。おかしい。言い間違えではない。知識の取り違えなら最低。駆け込み訴えを読め。アブラハムは三歳の雌牛と三歳の雌やぎと三歳の雄羊と山ばとと家ばとのひなを捧げたのに「3」という神聖な数字にこじつけたいがために「三つの捧げ物をした」と表現する。そしてそう考える過程は説明しない。ペテンじゃないかと思う。
 まあ例えばそんな感じの論理の穴が目立つ。言い訳は一貫して「二日間しかないから圧縮して説明している」だそうで。それにしたってちょっと雑すぎる。雑なのは論理だけじゃない。何の説明もなく財布と携帯を没収される。外界との交信を断つためと逃げ出せなくするためであろう。何か言い訳でもすればいいのに何も言わない。余計怪しさが増す。僕は途中でそれに気づいた。一応言えば出してきてくれるから、電話をかけようとしたら凄い勢いで止められる。我慢できなくてそれから自分で携帯は持ち続けていた。だいたいプライバシーの面から考えてもどうしてもおかしい。本人の目の前で鍵のかかる金庫の中にでも入れてその鍵を本人に持たせる、くらいしないと絶対にダメなのに。頭悪い。さすがは個人主義の廃絶を理念として掲げているだけはある。
 ちなみに論理の穴は僕が気づいただけでも数百個あって、いちいち質問してもいられないし、もともと質問は禁止されている。講義のペースを狂わされたくないからだそうだ。講義の時間以外でも、講師さんは次の講義の準備が忙しいから質問もできない。何か疑問点があれば先輩たちに聞くことができるが、誰もちゃんとした答えをくれない。「作品と作家の関係がどうして神と被造物との関係に結びつくんですか」という質問をしても、「六日間の本合宿に行けばわかるかもしれないよ」とか「それは頭だけで考えるんじゃなくて心でとらえなくちゃ」とか言われる。おいおい科学的に分析するんじゃないのかよ。誰に聞いてもこの二つしか言わない。具体的に教えてくれ。本当は誰も理解してないんじゃないか。結果的に自分たちが幸せで、真の愛とやらを理解したから、もう理論なんかどうでもいいんじゃないか。「最終的には全て理解するんだからとにかく洗脳しちゃえばいい」とか思ってるんじゃないか。結局は心の問題に行き着くわけだし。要するにこれは単なる自己啓発セミナーか、そうでなければ日本人が忌み嫌う宗教の「くさみ」を現代科学への信頼によって中和させてねじ伏せて納得させる、言ってみれば新型宗教、彼らは「21世紀型の新しい理念」だと言っているが、それを言うなら「21世紀型の新しい宗教」だろう。まあそこまで新しいものだとも思えないが。科学的であれなんであれ神の存在を信じているわけなんだから宗教とはどう違うのか説明して欲しいところだよ。
 で、そこまではいいんだ馬鹿だなあって思うから。でも彼らの凄いのはその強引さ。僕は六日間の本合宿なんて行きたくないのに朝まで説得されて、つまり夜に帰れるはずだったのに朝まで家に帰れなくて、しかも自分たちがちょっといい人なのをいいことに泣き落としをしたり僕の弱い心を突いてきたり。「このままじゃ尾崎くんは誰も信じられなくなっちゃうよ」とか「いい教師にはなれない」みたいなことを優しくオブラートに包まれた形で持ち出してくる。違う僕は文学がしたいんだ。あなた方のように一つの理想に一直線に、寄り道もせず既に敷かれたレールを他の人間にも無理矢理歩ませて。そこに発展はないんだ。一つの理想に向かっていくということはそこに達したらどうなるんだ。ただ幸せになっていくだけなんじゃないのか。発展性が見られないのなら嫌だ。
 「尾崎くんは本当に純粋な人だと思うしちゃんと物事を考える力を持っているんだから六日間の合宿に来たらきっともっともっと人間が大きくなって高まって深まっていくと思うよ」と、また同じことを繰り返す。違うじゃん。六日間の本合宿とやらに連れて行きたいだけじゃん。教化したいんでしょう。だいたい高まるとか深まるとか軽はずみに使うやつは本当は何も掴めちゃいないんだ。陶酔しているだけなんだ。それにそういうのは個人主義とは違うのかとも思う。
 そうやって僕を誉めてなんとか連れていこうとする。嫌なんだってば。新しい光は見たいけど、お前らなんかに見せてもらいたくはない。僕は僕の神様に言うんだ「見せてくれ」とか「連れてって」ってのは。
 なんてことを思ってるんだけど奴らが余りにも「いい人」なのと余りにもしつこいのとここで断ったら僕が悪い人間みたいな雰囲気が出てきてしまって、「断るわけにはいかない状況」、「ハイと言わざるを得ない状況」に追い込まれたので彼らの理論を完全に論破するためとか思って承諾してしまった。けど後から考えたらやっぱ行きたくない。本当に行きたくない。ああ。
 んで帰ってからのケアも凄い。二日間の合宿の翌日には僕だけのための歓迎会が開かれる。「行かざるを得ない」わけだ。僕だけのために祝日にみんな集まって歓迎会が催される。行かないわけにはいかないじゃないか。そして次の日も「一緒にお昼ご飯を食べよう」とか言われて呼び出される。んでその日の夜から合宿。要するに逃げられないようにしているわけだ。僕は行きたくないと思うあらゆる理由や実質的に失われるもの(授業やバイトなど)を挙げ、遂には捏造までして逃れようとしたけど最後には「いい人」オーラに屈してしまいそうになる。彼らはすごい。いい人のふりをして全てを自分らの都合の良いように仕向けようとする。例を挙げたらキリがないが、僕にはその魂胆が完璧にわかる。本当に彼らが僕のためを思って言ってくれているのだとは思うが、その中にやっぱり盲目的なところというか、僕の迷惑とか僕の気持ちとかは全く考慮に入れられていない。彼らには結果しか見えていないのだ。
 僕は合宿には行かないことにして、とりあえず彼らと連絡を断って、クラスメイトの女の子とずっとお喋りをして、「いかないで」って言われたからうん絶対に行かないことにして、強引に連れて行かれそうだったから連絡を断ってたのに、家にまで押し掛けてきて、バイトに行って帰ってきてもまだずっと待ってて、いやいい人なのはわかるよ、僕のことを考えてくれてるのもわかる。でも迷惑なんですよ。困るんです。僕がどれだけ弁舌の限りを尽くしても最後に出てくるのは「そのままじゃ君はダメになる」系の言葉!僕はそれに弱い。弱いんだけど、あなたらの姿勢はどうしても許せない、それを言っても、全て思っていることをぶちまけても、それでも僕を哀れむような眼で見て、「誰も信じられなくなっちゃうよ」とか「それは本当に生きてるんじゃないよ」とか「どうして君はそうやって何もかも独りで考えようとするんだい」とか言って、いやいや。あなたたちとは考えたくないんだ。クラスメイトの女の子といちゃいちゃしながら考えたいんだ。それが僕の行こうとする方向なんだ。そりゃあなたたちの言いたいこともわかるし、素晴らしいと思うし、結果的にいい人になっているから、尊敬はしているけど、でも僕がその境地に達するためにあなたたちは必要条件じゃない。他に何かある。ドラえもんを読んだり小沢健二を聴いたりしながらゆっくりと考えていきたい。わずか一週間ぽっちで洗脳されてたまるか。ていうか家まで来るな。門を叩くな。近所迷惑だ。
 優しい言葉をかけるな。いい人なのはわかるし、尊敬もしてるから。でも見えてないところがある。盲目的だ。
 現在の気持ちを考えずに将来ばかりを考えるからだ。全て結果しか見えていない。
 いい人なのはもうわかるから。
 尊敬してるから。
 でも僕には要らないから。
 家の前での話し合いも深夜に及びそうだったので僕は家に帰って鍵を閉めた。また戸がドンドンと鳴る。もう、ほら。僕に途轍もない罪悪感が生まれた。あんたらは本当にいい人だから、こうやってしたら、あなたたちの言葉で言えば「裏切った」ら、ひどく嫌な気持ちになる。それがあなたたちの手口だってこともわかる。意識しててもしてなくても、あなたたちの手口だってことくらいはわかる。
 僕はすぐにある人へ電話をかけて、適当な、言わなくてもいいような軽口を言って、すぐ切った。
 それが儀式。何事もなくて、パソコンを付けて、谷崎潤一郎の『秘密』について考え出す。とても冷静。本当は冷静なのに、メールやなんかではちょっと混乱してるふりなんかもしちゃって、あたたかい言葉を求めて。これじゃダメなのかな。
 ダメでもともと。だと思うけど。

 グルーヴ感がすさまじい。原文は時系列が下から上になっているので、本人権限で入れ替えました。どこで区切るか微妙なところもあったけど、なんとなく文学的になるよう心がけて編集。

 これについては、読んでからまた何か書くかもしれないけど、とりあえず内容については置いといて。この後2010年くらいに、僕は「彼ら」に会いに行ってその正体を確かめることになる。まさに今、世間で話題のあの団体であった。その時は雑誌の潜入取材も兼ねていたんだけど、深入りしなくて本当によかった。(クイックジャパンのバックナンバー漁ると、その文章読めます。)

 にしても、18歳の僕の葛藤と熱量はすごいよね、これであんなに可愛い男の子だったんだから、もっとモテればよかったな〜。今みたいに自分のこと可愛いとこの頃はまだ思っていないんで、あんまり可愛いような顔してなかったんだよね。惜しまれます。自信もなかったし。だからこういうのにここまで揺るがされてしまう。みんなも気をつけてね。
 でもだから今こんなにかわいいのだというのは思います。
(「だから」の裏にある膨大な情報量!)

2022.7.12(火) 8日、10日の補足

 BBSに感想を頂いた(うれしい)。すでにお返事はしましたが、こちらにも少し。

 人は読みたいようにしか読まない。より詳しく言えば、「自分がすでに関心を持っていること」ばかりを重点的に読み取ってしまう。それは10日に引用した小沢健二さんの『文学のテクノロジー』内で言われていることと似ている。短い文章では原則、相手がすでに知っていることしか伝えられない。相手が知らないこと、考えたことのないことを伝えようと思うと、どうしても文章は長くなる。

 視聴者は視聴者としての視点からものを見るし、脚本家は脚本家の視点から見る。自分のことを「国民」と思っている人は「国民」としての視点からものを見るし、政治家は政治家としての視点から見る。
 そこから放たれる言葉は「ポジショントーク」になる。僕の尊敬するある友人は常々「ポジショントークを恥じてはいけない」と主張しているが、それには同感。ただ、自分の語りがポジショントークに過ぎないことは自覚したほうがいいし、相手だって相手のポジションがあって、ポジションに従ってポジショントークしているのだということも理解せねばならない。


 投票に関心を持っている人は、ここの8日、10日の記事を読めば、「投票」について書いてある部分を入念に読み込む。これは「ポジションリーディング」とでも言うべき読み方である。それ自体は何も問題ではない。そういうものであるし、そうやって人の興味・関心はさらに伸びていく。
 ただ、書いている側にも書いている側なりのポジションがあって、その文章はそのポジションから放たれている。普通、読み手と書き手とではポジションが違う。

 たとえば僕は、暴力もテロも非合法も否定していない。むしろ容認している節さえある。それは僕の一種のポジションというか、前提。それはしっかりと8日、10日の記事にも明記されている。

 ところがBBSの書き込みを見ると、それをいまいち読み取ってもらえていないような気がしてくる。

それで内容なのですが、まず民主主義の陥穽という観点で意見を述べますと、
これを解決する方法の一つとして「抵抗権(革命権)」が挙げられます。
ご存知の通りロックが提唱したこの考えは、フランス革命やアメリカ独立などの理論的基盤となりましたが、
現代でそれをやるとまさしくテロルです。
したがって合法的な形で、この抵抗権を行う必要が出てきます。
国外ですと、間接民主制を取りながら抵抗権を有する西ドイツ憲法(ボン基本法)などはありますが、
本国では国政レベルだと残念ながら法律で保障された抵抗権は不可能です。
そこで出てくるのが、まさしく本記事の
「ではどうしようか? というのを必死に考えるために、人間の知恵というのはある」
という結論なのでしょうが、残念ながら前述した通り、
もはや国民にはこれだけの政治行動を組織化できる余力がありません。
月並みな結論で申し訳ありませんが、現状では「『よりマシ』な『ありもの』」に便乗しつつ、
知恵を模索するしかないのではないでしょうか。

《現代でそれをやるとまさしくテロルです。/したがって合法的な形で、この抵抗権を行う必要が出てきます。》《本国では国政レベルだと残念ながら法律で保障された抵抗権は不可能です》とあるのですが、僕はテロルや非合法を必ずしも否定していない(もちろん無条件に肯定するわけではない)ので、このように言われても、「なんでいかんの?」と思ってしまいます。
 僕ははっきりと本文で「暴力に反対したことは一度もありません」と書き、非合法にもある程度容認する姿勢を見せています。テロも否定はしていないはずです。ゆえにまず「ジャッキーさん、暴力やテロや非合法を許してはいけませんよ」というふうに、その前提をたしなめ、崩していただかなければ、その先の話はできません。
 便宜的にめちゃくちゃ単純化して考えると、一方のポジションは「暴力を否定しない」で、もう一方のポジションは「暴力を否定する」である、というとき、争点となるのは「暴力が許される場合があるかどうか(あるとしたらどんな場合か)」であって、そこを明らかにしないまま、「暴力はダメなのは当然として」的な温度で話が進んでいくと、暴力を必ずしも非としない側は話ができなくなります。


 上記引用の中で、「これは明らかに誤読されてしまっているな」と思う部分があるのですが、それも「ポジションリーディング」のせいなんじゃないかと僕は疑います。

「投票は大事だ」と思っている人は、他人の文章を読むとき、「この人は投票を大事だと思っているのだろうか、大事だと思っていないのだろうか」と考えながら文章を読むのだと思います。そしてどこかのタイミングで、「この人は投票を大事だと思っていない!」と思ったら、そこから先はそれを不動の前提として読み進めていくことになります。
 たぶん、この方は僕のことを「投票を大事だと思っていない」と思っているのだと思います。それが正しいかどうかはさておき、それを前提に読み進めていった結果、誤読が生じたのではないかと疑うわけです。

《現状では「『よりマシ』な『ありもの』」に便乗しつつ、/知恵を模索するしかないのではないでしょうか。》
 とあります。《ないでしょうか。》という言葉に僕は、「ジャッキーさんはそのようには仰っておりませんが、私はそのように思います」というニュアンスを僕は感じます。
 しかし、実のところまさにこのことをこそ、僕は言っているのではないでしょうか?

「現状を変えるには民主主義的な手続きしかないんだから、コツコツ投票しましょう」と、「そんな悠長なこと言ってられん! 殺しちゃえ!」と。
 どちらも極端に思える。
 ではどうしようか? というのを必死に考えるために、人間の知恵というのはあるのです。(今そんなことばかり考えてる なぐさめてしまわずに)
 デモもストも、投票もテロも「ありもの」でしかない。そこに便乗するだけでは、とても知恵とは言えない。

 便乗する「だけ」では、とちゃんと書いております。便乗を否定していません。投票が必要と思えばすればいいし、テロが必要な場合が存在することも、否定はできないと僕は思っております。でもそれ「だけ」じゃだめだよね、という話をずっとしているつもりです。
 僕はおそらく一度たりとも、この日記の中で「投票はすべきでない」とか「投票などしてはいけない」と書いたことはないと思います。大昔にもし言っていたら、ぬかってるので教えてください。「投票のない世界のほうが僕は好きだ」というような言い方ならするかもしれません。
 少なくとも今回、8日と10日の文章だけを見ると、まったくそのようなことは書いていないはずです。

 僕は件の書き込みにある、《「『よりマシ』な『ありもの』」に便乗しつつ、/知恵を模索するしかない》とかなり似たことを言っています。違うとしたら、「便乗はしてもしなくてもいい」と付け加えるくらいです。世の中がよくなるように、適切に知恵を絞れば(そして願わくはちょっとくらい世の中がよくなれば)、なんだっていいのです。

 ゆえに、「ジャッキーさんは便乗はしてもしなくてもいいという立場のようですが、私は絶対に便乗すべきだと考えます」というふうな主張であれば、争い(?)は成立します。

 ポジショントーク、もっと言えば、「自分が関心を持っていることについて語る」というのは人として当たり前のこと。ただ、それが過剰になると、いつの間にか盲点が増え(または広がり)、相手のポジションを無視してしまったり、それゆえ読み違えることも多くなる。それはもちろん僕も気をつけたいと思っているところで、いわゆるジカイヲコメテってやつですが、本当にここに陥ったらいよいよ「人の話を聞けない」ってことになってしまって、耄碌への道まっしぐら。がんばります。


 ここまで書いて、反省でもあるのですが、僕はBBSでも上記の文章でも、いただいた書き込みの前半部についてのコメントをあんまりできていません。実はそっちが「本筋」なのかもしれません。しかし僕の関心事が主に後半部にあったので、後半部に対する返信だけで手一杯になってしまっております。これもポジションリーディング&トーキング。

 一言だけ。そう、インテリによる文学的なアプローチは失敗するのです。いくいな晃子とかのほうが選挙に勝てるのです!(これについてはまた別に書きたいと思っております。)
 BBSにも書きましたが僕は「文学」をやっているつもりであって、「アプローチ」をしているつもりはありません。ましてや扇動もしていません。結果的にそうなっているようであれば、ちょっと失敗。気をつけたいので、もしあればアドバイスをください。>みなさま

 僕は本来、あんまり難しいことを言わず、「仲良しがいちばん」くらいのことを言いたいだけなのです。それなら「現実と乖離」しないと思っているのですが……。

2022.7.11(月) 22周年

 最近バテてるのか、動作が遅い。営業後、帰宅準備が整ってからお店を出るまでに1時間くらいかかるし、15分で走れる道のりに40分くらいかけている。そもそもお片付けものろのろしている。帰ってからお風呂入るまでも1時間くらいのんびりしてしまう。のび太ってきっとこんな感じ。のび太大好き。
 それで寝るのが4時とか5時とかになってしまう。3時には寝たいのだが。すると起きるのも11時とか12時とかにしたくなる。それでも今朝なんかは動けず、結局ごはん食べてまた寝て、夕方になって、もう家を出なければならない時間。いつまでもだらしない人間。しかし年中そうだというわけでもない。俊敏な時だってある。ここんとこはちょっとバテてるんだと思う。
 体力の問題でもありつつ、たぶん気力の問題もある。泣き言は今日からあんまりもう言わないぞって思ってるので差し控える。いつでも快適な精神を保つことが当座の課題。
 世の中に僕ほど体力と気力のある人間もそういないと見えようけれども、その分寝てるし、落ち込んでいるのだ。振り幅がでかいというだけで、ある意味効率が悪いのかもしれない。

 明けて11日は当Entertainment Zone(えんたーていんめんと ぞね)の22周年である。当日の日記にはっきりと「午前0時、営業開始」という旨が記されているし、0時ちょうどくらいにたくさんの書き込みがBBSにあったのも記録されている。僕もきちんと憶えている。

 10日から11日へと日付が変わった瞬間、お店にいたのは僕1人であった。17時に開店してちょっとしてからお客が4人ばかりあり(このページの読者は0名)、20時にみんないなくなり、21時くらいに1名、23時半くらいまでいて、そこから25時(営業終了)までは独り。
 懐かしい「リザーヴ友の会」にちなんでサントリーのリザーブを少し飲んだ。本当に、僕には「囲い」とか「仲間」みたいなもんがまったくいない。孤高と言い張っても許されるのでは。それでいて友達はたくさんいるし、可愛がってくれる人、慕ってくれる人、尊敬してくれている人もたぶんそれなりにいる。いいとこ取り。幸福なものだ。

 でもやっぱりさみしいことはさみしくて、その気持ちが動きを遅くする。いまも営業が始まって2時間経つが、何も起こらず、ただひたすらに冷凍庫の霜を落としている。これがもっとそれのみで、気持ちよくなるとまでは言わずとも、平熱におかなくてはだめだ。

 さて2022/07/11の午前0時でこのホームページは22周年です。書き込み、メール等ください。またご要望(本当にありました)にお応えしてお会計に口座載せたのでご確認ください。
 かつてウーチヤカ大放送で、「お金があって、それを使うという時、何に使うかなんですよ!」みたいなことを言った(記録では「お金を払うか払わないかで何かが変わるかもしれないというとき、それを払うか払わないかなんです。」とある)けど、「何がどう変わるかもしれないのか」ということの徹底的な想像、というのを僕は考えております。基本的には誰もが「想像がつかないことにはお金を出さない」ものです。

2022.7.10(日) ココアのひと匙

A
 わたくしはつい最近もある自民党の政治家から頼まれて暴力反対決議というのをやるから、署名をしてくれと。わたくしは生まれてから一度も暴力に反対したことがないから署名はできませんと返事をした、わたくしは右だろうが左だろうが暴力に反対したことなんか一度もない、これはわたくしが暴力というものの効果というものが現在非常にアイロニカルな構造を持っているから、ただ、無限定、あるいは無前提に暴力否定という考えは、たまたま共産党の戦略に乗るだけだと考えているんで、つかないです、わたくしは東大問題を前方を見まして、自民党と共産党が非常に接点になる時点を見まして、これなるかな、じつに恐ろしい世の中だなと思った、わたくしはあの時東大問題全体を見て暴力というものに対して恐怖を感じたとか暴力はいかんということは言ったつもりもないし、わたくしの書いたもの全部読んでいただくとわかるんです、どこにも書いてない。わたくしが一番恐ろしいと思ったのは、秩父宮ラグビー場の、ああいう集会のあった後あたりで、入試復活という動きが非常に見えてきた。その時に自民党も共産党も入試復活という線で折り合いそうになった、そして、だいたい学生の厭戦思想に付け込んで、「とにかくここらで手を打とうじゃないか」という気分が濃厚になった。この気分は日本全国に瀰漫してる。「イデオロギーなんかどうでもいいじゃないか、筋や論理はどうでもいいじゃないか、とにかく秩序が大切である、我々の生きているこの社会のただ当面の秩序が大切だ、そのために警察があるんだ、警察はその当面の秩序を維持すればいいんだし、その当面の秩序が維持されさえすれば、自民党と共産党があるとき手を握ったっていいんだ」と。わたくしは、今そこの入り口で「近代ゴリラ」とかという絵が書いてあったが、そういう点じゃプリミティブな人間だから、筋が立たないところでそういうことをやられると気持ちが悪い。わたくしは、自民党はもっとは反動的であってほしいし、共産党はもっと暴力的であってほしいのに、どっちもモタモタしている、この点が、わたくしがイライラしている1番の原因です、わたくしは全学連の諸君の中でどの派と戦おうとか、どの派を相手にしようなんていうことはまだわからないんで、わたくしは大きなこと方々に書いたり言ったりしておいりますが、人間やるときにはやらなきゃならんと思ってます。わたくしは、このだいたいに合法的に人間を殺すということが、あんまり好きじゃないんです。わたくしは死刑廃止論者では必ずしもありませんけれども、合法的に人間を殺すという立場に立って、自分がやりたいとは思っていない。わたくしは諸君から見りゃ体制側の人間かもしれないけれども、合法的に暴徒を鎮圧し、暴徒に対して射撃するのは自衛隊の任務である。わたくしは自衛隊の一員じゃありません。自衛隊には大変お世話になって、尊敬しているけれども、わたくしは一人の民間人であります。わたくしが行動を起こすときは、結局諸君とおんなじ非合法でやるほかないんだ。非合法で、決闘の思想において、人をやればそれは殺人犯だから、そうなったら自分もお巡りさんに捕まらないうちに、自決でもなんでもして、死にたいと思うんです。しかしそういう時期がいつくるかわからないから、そういう時期に合わせて身体を鍛錬して、近代ゴリラとして、立派なゴリラになりたい、そういう気持ちでいるわけです。
(https://katariki.com/2021/09/04/、https://www.youtube.com/watch?v=toNIKW1AB0w)

B
 わたくしの大嫌いなサルトルが『存在と無』の中で言っておりますけれども、一番猥褻なものは何かと言ってですな、一番猥褻なものっていうのは縛られた女の体だと言ってるんです。これはサルトルがあの『存在と無』の中で、自と他の関係を非常に分析しておりますけれども、エロティシズムは他者に対してしか発動しないですね、今暴力の話が出ましたが、暴力とエロティシズムってのは深いとこで非常に関係があるんで、他者に対してしか発現しないのが本来のエロティシズムの姿です。ところがその他者というものは意志を持った主体であると、これはエロティシズムにとっちゃ非常に邪魔者になるんです。ですからとにかく意思を持った主体を愛するという形では、男女平等というのは一つの矛盾でありまして、お互いの意思によって愛するというのは、ホントは愛のエロティシズムの形じゃない、相手が意思を封鎖されてる相手が主体的な動作を起こせない、そういう状況が一番猥褻で、一番エロティシズムに訴えるんであります。これが人間というものが人間に対して持っている関係の、わたくしは根源的なもんじゃないかと思います。例えば佐藤首相が縛られた状態で、ここにいるとすると、別にエロティックじゃないけれども、少なくともそれに暴力を行使するということは面白くないというのは諸君の中に持ってる状況だろうと思う。佐藤内閣というものが諸君に対して、攻撃的であると諸君は理解する。そしてその攻撃意思を相手の主体的意思と既に認める。この認めるところに諸君が他者というものを非エロティック的に、そして、主体的に把握しているという関係が生じるんじゃないかと思います、しかしそれはですね人間関係の根本的な自と他の対立というものではないんだと、わたくしは理解するんです、というのは、他者というものは我々にとっては本来どうにでも変形されうるような、このオブジェであるべきだ、これが自っていうものにとっての他者がそうあるべき状態、あるいはそういう状態であるべき他者というものを、我々は欲求しているんです。しかるに、相手が思うようにならんと、そこに我々と他者との関係が難しくなってくる。非エロティック的になるんです。そして、非エロティック的になってくると、ホントは暴力というものが発生するのはホントはおかしいんだ。これは暴力という形じゃなくて、諸君が言うように、まあ闘争と言う美しい言葉がありますけれども、暴力じゃなくてこれは既に対決の論理、決闘の論理に立っているんだと思われる。それでわたくしは学生暴力というものをただ暴力と考えないのはそのためなんであります。また向こう側から、警察権力から諸君を見た場合も、諸君というものが、ただ何らの主体の意思のない、さっきのキチガイだと思えば、これに対して暴力をふるう余地はない。そう言いながらもやっぱり暴力をふるうときは、諸君の中に主体を認めているからであります。こういうような状況をつくる、こういう状況は一つの自と他の関係を、無理やりに、主体、相手に対して、主体を認めようとする、相手を物体視しないと、いう関係をつくる、これをわたくしは、関係に入っていく、自と他が関係に入っていく、ただ唯一の方法じゃないかと思うんです。というのは、エロティシズムというものはある意味で関係じゃないんだ。これはまったくの、サルトルのいういわゆる猥褻感でありまして、オブジェから触発される性欲であります。ところが自と他が関係に入っていくということは、そこにすでに対立があり戦いがあるということをもう、すなわち意味するんだと考えるんです。それで、今の他者との関わり合いということですが、わたくしも他者というものをどうしても欲しくなったんです。わたくしは小説家としてエロティックにのみ世界と関わろうと非常に願っていたわけです。そしてわたくしの初期の小説はエロティックにのみ社会に関わっていて、大江健三郎とよく似てたと思うんですが、そのうちにだんだんにそういうものがいやになって、どうしても一つの関係に入りたくなってったんです。それが当然対立を生むことになって、対立が他者というもののイリュージョンをつくっていかざるをえない。それでわたくしは、とにかく共産主義というものを敵にすることを決めたんです。ですからもう、これから先ももうどうしようもないので、あくまでも共産主義を敵として戦うと、これは主体性ある他者と、いうふうに考えているわけです。
(https://katariki.com/2021/09/04/、https://www.youtube.com/watch?v=2kIbIEZHeUQ)

 いずれも1969年5月13日の三島由紀夫の言葉、太字僕。

 三島由紀夫の言っていることをがんばって理解しようとすると、すなわち「エロティック」に、相手(世界)をオブジェと見て関わりたいと思うのが人間の根本的な欲求ではあるが、それでも「非エロティック」に、対立、戦い、決闘、闘争という形で他者と「関係に入っていく」ことを良しとしたい、ということかと思います。

 僕がよく書いている「恋愛などない」「関係しかない」という話とだいたい同じ。僕は「対立」ではなく「仲良し」という言葉を使うけど。三島も関係厨だったのですね。僕も生まれてから暴力に反対したことは一度もありません。



文学のテクノロジー

 今は、短い文章の時代。文章は短く、簡潔に、わかりやすく。メールも、ツイッターも、ニュースの見出しも短い。たくさんの短い文章を読み、書く時代。
 ところが、文章の長さというのは、とてもおもしろい性質を持っている。ここで、実験してみます。
 今、二つの意見を、短く5秒で言ってみる。
 まず一つ目の意見。
「投票は大切なことです。大人の責任です。良い社会をつくるために、投票をしましょう。」
 わかりやすかったと思う。
 では、二つ目の意見。同じく5秒で言ってみる。
「投票をすると、敵味方ができてしまいます。強い社会をつくるために、なるべく投票をしないことが大切です。」
 わかりにくかったと思う。何? え? となったと思う。
 二つ目の意見は、こんなことを言っている。
 投票をすると、自分はこうだと思う! と心を決めて表明したのに、それがくつがえされてしまう人が出る。自分がはっきり出した結論を、「はい、ダメ」とくつがえされると、人の心はくじける。
 そして、敵味方ができてしまう。あいつはあっち側だ。俺とは違う。その違いを、投票ははっきりさせてしまう。
 負けた方は、負けを認めます、と口では言うけれど、どこかで恨みを持つ。敵味方がはっきりしてきて、みんなの心が離れてしまう。
 これを避ける、すばらしい方法がある。
 どんな方法か? 簡単。みんないつも、やっている。
 家族四人で映画を見に行くとする。お母さんはあの映画が見たい。お姉ちゃんは違う映画が見たい。弟も違う映画が見たい。
 そういう時、僕らは取引をはじめる。お姉ちゃうんは言う。「来週毎日お皿洗うから、わたしの見たい映画にしようよ」。これは、未来を取引材料にしている場合。あるいは、過去を持ち出す。「この前お姉ちゃんが見たいって映画見たじゃん。今日は僕が見たいのにしようよ!」
 みんなで、取引をする。そして「じゃあしょうがないな。次は絶対わたしが見たい映画にするからね」とか言いながら、どの映画にするか決める。
 こうすれば、一応全員納得して、進んでいくことができる。
 この場合、完全にはねつけられる人は出ない。敵、味方にはわかれない。集団の結束が維持される。

 九州福岡の漁村の漁業組合を訪ねた時、彼らもすべての決定を、四百人の漁師さんの、全員一致ですることを知った。一人でも納得していない人がいたら、納得するまで話し合う。必ずみんなで納得して、決定する。
 というのは、荒波に出て漁をするには、命がかかる。命のかかった場面で、「あいつは敵だから、助けない」となるのは、お互いにとてもまずい。
 だから、敵味方をつくらないように、いつも全員一致で進む。集団の結束を守るために、投票はしない。

 この、投票をしないで決定していくやり方を、コンセンサス、という。横文字で言う必要はない。昔から漁業組合や、家族が、自然にやっていることだ。
 コンセンサスは、集団の意思決定の方法として、最も強い方法として知られている。

 それを、さっき、短く簡潔にまとめて言ってみた。もう一度言ってみる。
「投票をすると、敵味方ができてしまいます。強い社会をつくるために、なるべく投票をしないことが大切です。」
 今度は意味がわかったと思う。

 では、どうしてさっき意味がわからなかったのだろう。
 それは普段、聞いたことがない意見だから。自分が知らない、聞いたことのない話は、短く言われると、意味がわからない。
 反対に、よく耳にする話は、短くてもわかる。「投票は大切な大人の責任」と聞いただけで、ああ、あれね、とわかる。
 つまり、短く簡潔に言えるかどうかは、言う人の能力だけでは決まらない。聞く人がその話を知っているかどうかに、かかっている。
 文章というのは、言う人と、聞く人の、あいだにあるものだから。

 この話をまとめると、
「短い文章で伝えられるのは、すでに相手が聞いたことがある話だけ」
あるいは、
「文章の長さは、内容を決めてしまう」
ということ。でも、いきなり短くそう言われても、わからないと思う。

 今は、短い文章の時代。
 短い文章ばかりに慣れてしまうと、人の忍耐力もなくなってくる。長いメールなんか、めんどくさくて読めない。最近は本を読むのがじれったくて、という人も、多いと思う。
 そういう短い文章の時代には、みんなが聞いたことのない、新しい意見をわかってもらうために必要な長さは、長過ぎる、と言うことになってしまう。
 長くなり過ぎるから、どうしても、よく聞く、ありがちな意見だけを、くりかえすことになる。それ以外の内容は、短い文では、伝えられないから。
 新しい意見が、言いにくくなる。言っても伝わらない長さの時間しか、与えられないから。
 短い文章の時代には、そういう危険性がある。

 短い文章でわかり合うのは、確かに気持ちがいい。そりで雪の丘を滑り降りるような快感がある。
 長い文は、そりを引きずって、雪の丘を登っていく時のようだ。それはめんどくさいような、でも気持ちいいような、ゆっくりした感覚。

 丘を登る、長い文と、滑り降りる、短い文。
 気持ちいいからと言って、滑り降りるだけでは、どんどん下がっていってしまう。

(あらしの音)

「長さが内容を決めてしまう」という文章の性質は、言葉に深く関わっている人は、みんな知っている。文学者は、みんな知っている。
 科学では、良心的な科学者は、素人に見えない危険があったら、それを言う。言う責任がある。言わずに生きていくことはできない。
 文学者も、危険があったら、言わなくてはいけないと思う。

(『Believe/文学のテクノロジー』小沢健二 二〇一二年九月「我ら、時」一般発売記念版 より)

 大きな覚悟を持ってこれを引用した。一つの文章を全文載せているので、法律で定められている「引用の範囲」を逸脱していると思う。非合法な行為。だけど、「短い文章」について語るこの長い文章を、勝手に短くしたくはない。それで10年間まとまった引用を避けてきたところはあるが、このささやかなホームページを見に来てくれている30人くらい(この数字に根拠はありませんが、そのくらいだと思う)や、向こう50年で見てくれるかもしれないせいぜい数百人くらい?の人たちには、ぜひ読んでほしい名文。思い切ってすべて書き起こしてみた。検索で飛んできた方、人に教えてもらった方もいるかもしれない。一字一句間違いなく写したつもりなので、こっそりと味わってください。できれば友達になりましょう。

 先に引用した三島由紀夫の長ったらしい言葉も、短くまとめては伝わらないものがある、と思って長めに載せてみた。「わたくしが行動を起こすときは、結局諸君とおんなじ非合法でやるほかないんだ。非合法で、決闘の思想において、人をやればそれは殺人犯だから、そうなったら自分もお巡りさんに捕まらないうちに、自決でもなんでもして、死にたいと思うんです。」ここだけを切り取るとヤバいが、前後をよく読めば「なるほど」となる(ならない?)。
 ちょっと前に「軽犯罪のすすめ」なんて文章を書いたけど、それとも近いかもしれない。

「文学のテクノロジー」という文章は、僕がどうして22年間(明日で22周年なのである)も「長い文章」を書き続けているのか、という説明にもなっている。Twitterが日本に入ってきたとき「こんな軽薄短小なサービスは嫌いだ!」と吠えてたのも同じ思想の筋。短い文章で伝えられるのは、「すでに相手が知っている、考えたことのあること」だけなのである、原則としては。僕は、長い文章でなければ伝えられないであろうような、読み手の考えたことのないことを書きたいとずっと思っている。じゃないとやってる意味がない。だからいつも長い。申し訳ない。どうにか短くしたいという想いもある。短くしても成立するのが芸術というものなのだ。小沢健二さんの文章は長いが、歌詞は短い。それで僕もずっと詩を書き続けている。

 もちろん、1969年に三島由紀夫が言っていることよりも、2012年に小沢さんの言ったことのほうが僕は好き。「対立」ではなく「仲良し」なのだ。

 引用の範囲を超えた過剰な引用は非合法である。しかし、それを犯してでもやる価値があると思えばやる。それが確信犯というもので、テロリストのかなしき、かなしき心なのである。

2022.7.8(金) 悪い人の夢

 夢見ました。
 板垣退助が演説をしていました。
 板垣退助は何者かに撃たれ心肺停止となりました。
 その人がなぜ板垣を撃ったかはわかりません。
 ある人は「民主主義への冒涜だ!」と叫びました。
 ある人は「なんかでかいことやって有名になりたかったんじゃない?」と言いました。
 ある人は「個人的に恨みがあったんだろうな」と言いました。
 ある人は「自分がうまく生きていけない世の中を憎み、今の社会の象徴のような存在を殺そうと思い立ったのでは。ある種の復讐ですね」と分析しました。
 ある喫茶店のママは「頭がおかしいのよ」と言った。

 最初に叫んだ人はなぜ、民主主義という単語を出したのでしょうか。
 それは板垣退助がとても偉い政治家だからです。
 とても偉い現職の政治家を、選挙などの法で定められた手続きによらず、暴力行為でもってその命や自由を奪うのは、結果として民主主義をけがすということ。
 民主主義的な手続きでもって選ばれた人間を、民主主義的ではない方法でもって引き摺り下ろそうというのは、せっかくの民主主義的な手続きを無駄にする。国民の意思によって選ばれた人間が殺されてしまうということは、国民の意思が殺されるということに等しいというわけ。

 板垣退助は搬送されながらこう言った、といいます。
「板垣死すとも民主主義は死なず。みなさん明後日の参院選は必ず投票に行きましょう」
 国民はそれをテレビやインターネットで知り、「明後日の参院選には必ず投票に行かなければ」と思ったといいます。世の中はなんとなくそういう空気に満ち満ちました。そして投票率は80%を超え、板垣の所属する自由民主党は圧勝、板垣の理想にまた一歩近づいた、といいます。
 民主主義はこうして強くなってゆくのでありました。

 いや、板垣退助は何も言わなかった、ともいいます。
 その世界線では、特に投票率に変化はありませんでした。
 いつも通り50%前後の投票率で、大方の予想通りに自由民主党は勝ちました。

 民主主義的でない手続きによる暗殺(未遂含む)は、民主主義を一時的に壊すが、やりようによってはレバレッジ効かして民主主義的な手続きを強化することもできると本で読みました。

「テロは許されない」といいます。テロとはたぶん、「政治に影響を与えうる単発の暴力」のことで、民主主義的、平和的な手続きによらないから嫌われます。
 インターネット上であれこれ口汚く何かを罵るのも、民主主義的でなく、平和的でもなく、また「何か」に影響を与えうるので、ほぼテロです。
 たとえばプリキュアの新キャラが気に食わない人たちが、「ああいうキャラを出すな! 何を考えてる!」と声高に叫ぶ。東映の人がそれ見てビビる。「なんか評判悪いみたいだから、次回で殺しましょう!」ということになる。女児たちの多くはフツーに受け入れてたし、「好き!」って言う子もけっこういたので、悲しみは広がり、作品人気は低迷し、グッズの売れゆきも悪くなった。これはテロである。
 何がテロかというと、「投票をしたらそのキャラは過半数の人気をとるのに、少数のアンチのせいで殺されてしまった、それが作品の人気にも悪影響を与えた」というところ。もちろんこの場合、幼稚園児にも選挙権はある。

 MACARONIってバンドに『テロルの恍惚』って曲がある。そうテロルは恍惚。
 投票に恍惚はない。

 民主的な手続きを踏んでAという結果になったのに、民主的でない手続きによってBの結果をむりに得ようとする、それがテロル。
 数年前、喫茶店に入ったら、おじいさんたちが大声で、「安倍と麻生が世の中を悪くしてるんだ」「殺したほうがいいね」「殺しちゃえ!」という会話をしていた。これは実話です。墨田区です。
 テロルの意思は潜在している。恍惚がそれを動かす。
 長い時間をかけた民主主義的な手続き(もうそれは明治か幕末くらいまで遡る)によって安倍さんや麻生さんが力を握っているわけだが、それを民主主義的でない仕方で覆そうとするのはテロである。
「長い時間をかけた民主主義的な手続き」は、もはや既得権益だし、「そんなに早くから民主主義的な手続きに参加できたのは実力のあった藩の金持ちだけなのだから、そもそもが不平等。いったんリセットしましょう」というのは正論に思える。しかしその正論も、現代の民主主義的な手続きによらなければ通すことができない。しかし現代の民主主義的な手続きは、既得権のある者に圧倒的有利なので、なかなか覆せない。既得権のある者に圧倒的有利な状況を変えるには、これまた民主主義的な手続きによらねばならない。そうなると革命でも起こしたくなるのは心情として理解できる。墨田区の下町のおじいちゃんが「殺しちゃえ!」と叫ぶ気持ち。
「つまり俺たちには何もできないってことじゃん!」という無力感。「いや、できるよ。人を殺すくらいなら」というテロルの誘惑。恍惚の香り。

「現状を変えるには民主主義的な手続きしかないんだから、コツコツ投票しましょう」と、「そんな悠長なこと言ってられん! 殺しちゃえ!」と。
 どちらも極端に思える。
 ではどうしようか? というのを必死に考えるために、人間の知恵というのはあるのです。(今そんなことばかり考えてる なぐさめてしまわずに)
 デモもストも、投票もテロも「ありもの」でしかない。そこに便乗するだけでは、とても知恵とは言えない。

 読者の方が↑を読んで掘り起こしてくださった→2018年6月20日

2022.7.7(木) 東京東研究

 錦糸町南口の「JoinT」というバーにたびたび行く。そこそこ悪いエリアの雑居ビル。朝までやっていてダーツもある。あんまり僕が行かなそうな(と自分で思う)お店だがジンの揃えが実によく、また店主がなんだか素晴らしい。初対面から「この人はなんだか良いな」と思っていていまいち言語化できずにいたが最近立て続けに二度会ってなんとなくわかってきた。
 彼はゴードンというジンが好きで、僕も好きである。それでこないだ20mlで7600円(たしか)という「1930年ごろ(代?)」と言われるオールド・ゴードンをいただいた。仕入れ値は知らないがたぶん破格であろう。ハーフで10ml、3800円。また言いようのない深い複雑な味がする。これがどこまで元々の味で、どこからが経年の変化なのだろうか? というような話をしたり。そこからいろんな話に波及していった。「最近、湯島のバーだけじゃなくて京島で喫茶店みたいなの始めたんですけど、そこでオールドのサントリージン出してて、それも美味しいんですよ。このゴードンのオールドと少しだけ似たような風味があるかも」みたいなことを言ったら、翌々週くらいに飲みに来てくださった。
 このSNS時代にわざわざホームページに知人のこと書くのは気恥ずかしい。こっちのほうが残るからかなあ。いろいろ理屈はありそうだけど、今はおく。
 彼は好奇心が旺盛で、基本姿勢が肯定的で、かつ「教える」というような視点もお持ちである。彼にも師事する方がいらっしゃるようだからそのせいかもしれない。乱暴に僕なりに要すると「研究熱心な教育者」なわけで、そりゃお店に立つには理想的。なんでこの人が錦糸町なんぞ(失礼)でやってんだ? というのは、地元だからというのもあるだろう。またこんな土地だからこそ教育は生きてくるし、先達や先輩を敬う姿勢や後輩によくしようとする性質は、「地元」というイナカならではだとも思える。自分とは若干遠いノリのお店なのだが、どうも気になって何度も足を運んでしまうというのは、そういうところをどっかで感じ取っていたのだろう、たぶん。
 僕はどちらかといえば都市(流浪)の教育者なのだが、彼は田舎(土着)の教育者なのかもしれない、なんてテキトーすぎることを言ってみる。

 最近は「喫茶 夜学バー(通称:京島店)」なるものを墨田区で始めたのもあって墨田区の若い人たちと関係が深まっている。と言っても、彼らも当然一枚岩ではない。どこに行ってもそうだが、「群れる・つるむ系」の人たちと「孤高系」の人たちに大きく分かれる。無論その中間というかハイブリッドな人たちもたぶんいるが、大雑把にいえば。
 言うまでもなく僕は「孤高系」であって、「群れる・つるむ系」の人たちと一緒に何かをやるのは難しい。小中高からずっとそうなのだ。それは朝型・夜型みたいなもので、もち良し悪しではない、ただ性質の話。(ゆえに生活の中で変わり得る。夜型の人が朝型に変わるように。)

 この間、ついに「孤高系」の最たる感じの場所を区内に見つけて、感激してしまった。「孤高系」のお店はホラ穴のようである。賢者が静かに棲んでいる。LPPという、お店というか、書斎。アブサン飲んで打ち解けて、店主(書斎主)制作のものすごい装幀の著書をいただいてしまった。今度『小バー』を持って上がらねば。浅羽先生の『みえない大学論序説』も差し上げようかな。
   台東区蔵前にあるYというお店も孤高系。初めて行った時はほとんど話せなかったし、その後も2度ほど扉を開けてみたが、「もうおしまい」と断られてしまった。それでも何か可能性を感じてめげずに行ってみて、勇気出してちょぼちょぼお話ししてみたら、思った以上に話が合うというか。お互い孤高系なんで、「せっかくだし一緒に何かやりましょうよ!」みたいなことには容易くならない。ただ何かを確認し合うような。
 注:孤高系のお店とは、店主も店員も客も各々孤高であって、「街の中では孤立しているが、そのお店の中では常連たちが群れてつるんでいる」というようなものではない
 このYの店主が話題に出しておられたので、浅草のGというかなり有名なお店にも最近初めて行った。店主の振る舞いは数秒で「うん」と思えた。よくできたいいお店だった。坂本慎太郎とかフィッシュマンズとかソウルセットとか(お客さんが)流してて、音楽好きな人が集まっているようだ。「フィッシュマンズっぽい!」となぜか言われてしまった(オザケンの話題は出なかった)。ジャッキーですと名乗ったら「夜学バー野方ですよね! 行ったことあります!」という方が。なんと。別の場所で出会うとすぐに思い出せないことが多い。
 このお店は孤高系という感じでもないけど、群れる・つるむでもない。唯一系というのか……。浅草エリアに、というか東京東エリアにこのようなテイストのお店があんまりないから、あまり濁ることなく成立しているのかもしれない。朝5時まで年中無休?でやってるそうなので、折を見て遊びに行こう。ほぼ帰り道。
 これらはすべて、ほんの2週間くらいの間に起こったこと。旅行から帰ったあとだから。6月後半は旅行もせず仕事もせずって感じだったけど、そのぶん上記のような深まりや出会いがあった。休むことにはそういう効用もある。

 東京東にはある種の文化が本当に乏しい。「歴史」「伝統」という意味ではものすごく文化的だし、「新しいもの」も清澄、蔵前、京島などを中心としてどんどんできている。しかしその中間がない。昭和後期から平成にかけての若者文化……僕がいつも言うところの「1979年から1995年まで」の文化が特に弱い。エヴァ以降の文化はあるといえばあるのだ、アニソンDJバーみたいなのとかは結構あるし。
 この辺の話はまだまだ長くなりそう。僕が東京東で好きなのは、たとえば「1970年代までにできた喫茶店」とかなんだけど、80年代以降のものとなると、えーっと、ってちょっと、なる。
 ちなみに孤高系は時空を超えるので、そういうものとは関係なく局所的に存在している。賢者の洞穴。チッと時間ないのでまたそのうち。

2022.7.4(月) 泣き言が詩情を殺す

 昨日書いたように、いちおう7月11日までは、ここまでの振り返りをちくちくやっていこうと思う。
 何度目かのジャッキー2(ツー)。
 ここまでは「整理」の期間だったように思うことにする。

 新型コロナウィルスさんがご入国なさって以来、多くの人間が一気に、唐突に、解像度を上げて僕に迫ってきた。それは絶好の検体だった。それで、しなくてもいいような分析をたくさんしてしまった。まんまと。むろん必要で重要だったようにも思う。
 それでいい加減もう、考えるべきことは考えたし、言うべきことは言った。ひとことでいえば古いアニメマンガの小物ラスボスが言う「愚かな人間どもめ!」ということであり、それ以外ではない。
 その愚かさを前提とし、憎み、時に愛しつつ、進んでいかねばならない、ということは別にずいぶん前から僕は言っているはずである。だけどなかなかできなくて。
 6月に「ぐうたら」して、小沢健二さんのツアーがあって、札幌で古川ともさんにお会いしたことが、僕の中でかなり大きな出来事だった。信じられないものが確定し、同時に信じられるものも定まった。あとはもう進むだけである。昨日「心配するのをやめる」と書いた意味はそれだったのだなと今わかった。
 2020年の初頭から、愚かな人間どもが右往左往する中で、僕も同様に右往左往しながら、自分なりに全力疾走してきたわけです。まわりの飲食店がぐうたら(?)するなか、コーラも飲まずクリームもなめず(?)、お店を開け続けて(2021年から年中無休はやめたけど)、くたびれたんで1ヶ月のお休みをいただいたわけです。そいで7月1日から再開、いま4日の21時18分です。金土日月のここまでの客数を発表します、11人。プラス高校生が3人、2回ずつ。でもこれは打ち合わせのために貸し出した名残なので売上はなし。
 こういうのも泣き言の一部なのか? わかんないけど、分析と批評を行うのは性分なので、ひっそりとやる。これは少ないだろうか? みなさんピンとこないでしょうが、簡単にいえばうちのお店は一晩に10人くらいってのが一つの目標というか、目安。それが週末まるっと含む4日間で(まあまだ月曜これからわかんないけど)11人ってのは、まあ少ないと言えます。「少ない!」って昨日まで思ってやや凹んでたんだけど、夜中に付き合いの長い友達と電話して、なかなか実りのある話ができて、ジャニーズの録画(亀梨くんのてんとう虫のサンバよかった)見て寝て、おそく起きて探偵!ナイトスクープ見ながらたのしくゆったり鮭とか食べて、夕方にお店にあったシナモンとクローブとセイロンウバでなんちゃってチャイを作って飲んで、残ったガラにちょっと水入れて煮込んでスパイスと紅茶の香りを燻らせ、なんかぼんやりしながらもずっと「ストレスには損しかないでな」なんてことを考え、いろんな友達にLINE返してると、別に何が好転したってわけでもないけど、「多い!」にちゃんと、なった。
 すごく単純な話だけど、多いよね。11人もお客さん来るって。プラス3人が打ち合わせで2回も使ってくれるって。要するに上限とか目標、理想を設定するから数字外の幸福が見えなくなるっていう、僕がアホほど言い続けてることそのまんまのことが、リラックスすると当然わかってくるわけですね。自分の思想なんだから。
 こまごまとした悩み、やんなきゃいけないのにやってないこと、やりたいのにやれてないこと、そういうものが押し寄せて鬱々となる。そんなことは理屈上、当然。
 あって当たり前なのだ。不安は自由の代償であると村上龍もゆうとった。そりゃ不安だが、それがどうした? 座禅の最中に湧き上がる雑念のように、お空に飛ばしていけば良い。
 心配によって行動にブレが出るよりも、剣の達人みたく落ち着いて耳を澄ますべし。ゆえにこそハエも斬れる。

 僕の詩情は、無の際に現れる。何もない時。悲しみでも喜びでも、一瞬、心身が空っぽになる。そこに残った何かが詩情。悲しい時に嘆き、嬉しい時に自慢していては、詩情の湧き出る隙はない。
 もう何も説明しなくていいのだと思うことにする。

2022.7.3(日) 今年の抱負、22周年に向けて

 22周年を機に僕はもう心配するのをやめる。
 自らを客観視するのは当たり前のこと。わざわざ口に出すことはない。
 言うべきことはもう言ったし、伝わるところに伝わることもわかった。
 だったら同じ場所にいる必要はない。そこにもうあるのだから。

 7月11日でこのホームページは22周年。毎年7月11日と、お誕生日の11月1日は、僕が心を新たにするタイミング。過去ログを漁っていただければよくわかると思う。しばらく更新していない時期でも、その日になるとひょっこり現れる。契約更改の日、みたいな。
 この1年(いや2年半か)はしんどいことが多かった。そのぶん嘆くことも多かった。そろそろおしまいにする。僕は飽きないのが美点であり欠点。放っとけば同じことを死ぬまで続けてしまう。
「飽きない」という自覚を持って、「やばい」と早めに感じ取り、「飽きてないけど捨てて進む」を無理にでもやんないと。

 このホームページは僕のアネックス(別館)みたいなものなので軸として捨てない。むしろここを守るためになんだって捨ててゆく。根本的には何も変わらない。僕の大好きなピボットである。軸足はひとところ。もう一方はどこへでも置いて良い。長い時間で円を描く。

 ここからは真の孤独。本当の梯子を登ってゆく。
 さみしくても「さみしい」とは言わない。一応、キリが良いので7月11日から完璧にそうできるようアップしておく。そのための文章、これ。
 もちろん「さみしい」という言葉は書くかもしれないけども。禁止したいわけじゃなくて。

 僕は非常にかっこよくてかわいいのであり、それをあえて自分で宣言する面白さみたいなことを近年は狙っていた節があった。「別に面白くないよ!」という声は要らん。こっちは「誰かにとっては面白いかもしれない」という祈りと博打の意図でやっていて、あんたは抽選に外れたの。
 またここでいう「面白い」ってのは「笑える」とか「興味深い」とかだけじゃなく、ともかくあらゆる前向きな気持ちのこと。
 そういう説明もいい加減疲れた。少しずつやめていきたいものだ。
 何がやだって時間かかるから。
 もっと漫画描いたりしたい。

 美と愛に生きるとき、すべての言葉は旋律に乗る。

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