少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2022.6.6(月) ぐうたらは一日にしてならず。
2022.6.15(水) 尾崎くんホームページとかでは何も本当のこと言ってないじゃない
2022.6.17(金) 人間ぎらい
2022.6.20(日) 生きものの記録
2022.6.30(木) 高い塔一つ(存在と仕事)

2022.6.30(木) 高い塔一つ(存在と仕事)

 6月は「ぐうたらの月」として、お店をほぼお休みした。その代わりにと30日連続で更新した(1日だけ「雲隠」がありますが。参考文献:『源氏物語』)noteを書き終えました。はっきり言って、反応はほぼ無。近しい人が一言、二言くれたくらいである。普段ここに書いている文章だってまず無風なのだから別に仕方ない。
 たとえば僕が息をしたり歩いたりすることにコメントする人はいないだろう。たとえその所作が素敵でも。「ああ、あなたはとても素敵に息をしますね」「あなたの歩き方はなんて素晴らしいんだ!」等。あらお顔がかっこいいわね、というふうに誰かが僕を見て思ったとしても、「あなたのお顔はかっこいい、私はとても好きである。」と言う人はほとんどいない。いや、実のところここまでなら多少はいる。しかし、「私はあなたの顔についてこれこれの感想を持ちました」と具体的に語り始める人はかなり少なくなる。
 で、あるからして、僕の文章なり、やっていることなどに、たいして反応がないというのは、それが息をしたり歩いたり、顔を見せて生活したりといった、自然な行為だからであろう。そう解釈するほかない。
 僕の文章を読んで何かを述べるというのは、「他人の散歩について感想や意見を述べる」ことに等しいのであって、そんなことをする奴はいない。それをせよと訴える僕は頭がおかしい。なるほどなあ、ようやくわかりました。
 だからもういいです。僕はせいぜい素敵な散歩を引き続き続けて、みんなに好かれます。ありがとうよ友よ、いてくれて。


 東京の街に孤独を捧げている
 高い塔一つ

 というのは小沢健二さんの『高い塔』という曲の歌詞。各種歌詞サイト(Apple Musicも含む)ではほとんどの場合「高い塔の一つ」と表記されておりますがアルバム『So kakkoii 宇宙』の歌詞カードでは「高い塔一つ」となっています。CDでもライブでも確かに「高い塔一つ」と歌っております。誰が「の」を入れたのか? 何者かによる陰謀にしか思えない!
 ところでその歌詞カードでは曲名と思しき位置に「高い塔とStardust」と書かれております。しかしCDの帯には『高い塔』とだけ。いったいどっちが正しいのか? 我々を混乱させてどうしようというのか? 何を企んでる?

 本当のことは一つじゃないのです。
 高い塔って言うけど、塔はだいたい高い。高いから塔と言うのだ。それは「おいしいごはん」みたいなものである。不服なら「おいしいごちそう」とか「豪華なごちそう」でもいい。

 高い塔、の「高い」というのは塔の特徴を強調したものである。
 おおきなおすもうさん、みたいなものである。
 鼻の長いぞう。

 いま東京スカイツリーの見える位置に住んでいるからよく塔について考える。
 塔は地元の人にとって、ただそこにあるだけのもの。いまさら「高い!」なんて思わない。「改めて見ると高いわねえ」なんてタイミングすら、ほぼない。
 高い塔はその高さをもてあます。せっかく高いのに驚いてももらえない。もちろん観光客からはブラボーの声が飛ぶが、そればかりを喜んでは孤独は深まるばかりだろう。一度きりしか会えないような人たちばかりから褒められて、近くに住んでいる人からはなんのコメントももらえない。
 でも、高い塔を地元の人が別に好きじゃないのかと言ったら、めちゃくちゃ好きなのである。東京スカイツリーの近くに住んでいる人たちは、おおむね東京スカイツリーを好きだと思う。生活の中でいつでも見える高い塔は、それこそ単純接触効果とでも言いましょうか、いつでもどこからでも見えるので、時間が経つほどに愛着が強まっていく。
 そこにあることが当たり前になってしまえば、ありがたみとか新鮮さはなくなっていくけれども、そのぶん愛着、無意識の愛が、深まる。
 高い塔は孤独に、誰からも声をかけられず、ただ毎日をたたずんでいる。近くにいる人たちは心のどこかでものすごく高い塔を愛している。そのことは高い塔に果たして、伝わっているのか、いないのか。


 これを書いているのは7月1日金曜日の20時38分。6月いっぱいほぼお休みしていたお店(夜学バー)を、17時から開店させたが、3時間半、誰も来ないのである。金曜の夜ですよ。雨も降っていない。確かに暑かったけれどもね。夕方にはそんなでもなかったよ。知ってるぞ。ま僕は灼熱じめじめの名古屋市出身で、家庭の方針で冷房ほとんど使わず、18歳からの11年半もエアコンなしで練馬区に住んだから、暑さに強いんだとは思うけど。
 東京の街に孤独を捧げている、高い塔一つ。偉そうに、自分を重ねてみたくなるほど、淋しさが募っている。今に始まったことじゃない。僕が愛されているのは誰よりも僕がよく知っている。高い塔だってそれは知っているだろう。だけど、そういう問題じゃない。

 高い塔はなんのためにそこに立っているのだろうか? そのことをちゃんと考えてあげた人が、歴史上今のところ小沢健二さんしかいないかもしれないってことなのだ(なこたない?)。ちなみに小沢さんは昔から塔をたびたびモチーフにしている。若き日に組んでいたバンド、フリッパーズ・ギターの最後のアルバムは『ヘッド博士の世界塔』で、『世界塔よ永遠に』という曲で終わる。
 僕はいったいなんのために生活しているのだろうか? そう問い続けている。誰にどれだけ褒められようが、愛されようが、「そこに立っていてくれてありがとう」という言葉がなければ、高い塔の孤独が満たされることはない。
 高い塔にとって仕事とは、そこに立っていること、そのものである。高い塔にとって、「そこに立っていてくれてありがとう」という言葉は、その存在と、その仕事とを、同時に肯定してもらえることなのである。

2022.6.20(日) 生きものの記録

 幸福の記録。人の幸福を呪う人はブラウザの戻るボタンでお戻りください。また、「なんだ、ジャッキーさんは幸福なんだ。じゃあ僕たちはジャッキーさんから何をどんだけ搾取しても問題ないんだ」と思うような人は、ブックマークからこのページを消しておいてください。(ブックマークとは???)
 幸福自慢をするということは、そんなに幸福ではないということかもしれないのだ。
 自分は自分をとても幸福だと思うけれども、それは非常に危ういバランスの上に立った幸福で、その土台にあるものはあんまり確かではない。だから安心も安住もできない。ずっとそうしていなければすぐに崩れてしまう。ゆえにそんなに羨ましいようなことではないというか、その過程は苦しみと不安ばかりなのです。

 11日からずっと旅行している。すばらしい喫茶店をたくさん訪れた。複数回めの場所では覚えていてもらえたりもした。愛するのは時間と空間。すなわち日常や生活。デザインなどの見た目はその要素であるだけ。美しいだの正しいだの、そういうことを思って吸う空気は美味しい。摂取し続けていなければ美しくも正しくもいられる自信がない。麻薬のようなもので、その行為自体が正しいとは別に思っていない。だけど同時に修行だとは思う。少しずつよくなって、少しずつよくしていきたい。

 友達に会った。神戸で、網走で、札幌で。これまでの自信がつく。
 友達が増えた。気がする。京都で、釧路で、札幌で。いくらか未来が好きになる。
 尊敬する人たちと会った。京都で、札幌で、名古屋で。心が強くなる。
 それにしてもいつの間にか札幌に友達がものすごくいた。yさん、kさん、sn、たまたま来ていたf氏、tくん、mさん、新たに知り合ったtさん、そしてありがとうhさん。gのママも友達と言いたくなる。そしてfさん。心強いとはこのことだ。
 北海道出身、また在住の友達はまだまだいる。それぞれの顔が浮かぶ。お世話になった人たちのことも浮かぶ。忘れないから幸福でいられるのであって、忘れたら何もなくなる。思い出したくなくなったりとかでも。

 名古屋のセンチュリーホールで小沢健二さんのライブがあって、近くで喫茶店を探していたら真本堂という「古本喫茶」なるものが見つかった。大きな古民家を一軒まるっと借りて営業しているらしい。入って冷たい抹茶オレ飲み、店主さんと世間話をして、わが夜学バーの話をしたら、ホームページを見てくれて、「まなび文庫……?」とつぶやき、奥から『小学校には、バーくらいある』という緑色の本を出してきてくれた。「ソレェ! 僕が書いた本です!」「えっ、作者なの?」
 どういう経緯でそこに来たかはいちおう省くが、なんと僕の自費出版した本が、テキトーに(と言うと失礼ですね、ピンと来て、です)入ったお店に置いてあったのである。クラっときた。店主さんもずっと「えーっ? えーっ?」と繰り返していた。同じこと、新潟の内野でもあったな。
 ちなみにそのお店の奥の部屋の本棚には、僕の幼少期より尊敬してやまない岡田淳さんの代表作のほとんど(こそあどの森を除く)が置いてあって、それも「えーっ?」でした。橋本治もちょこちょこあった。
 全体には「一般」って感じの品揃えなんだけど、ところどころそういうのがあって、むしろ驚く。「すごい趣味が合う」というのではなくて、「ピンポイントでここだけがなぜか重なる」なのだ。
 ところで真本堂(まほんどう)ってMAHO堂みたい。狙ってるのかな。
 名古屋といえば美宝堂だけど。

 そのあと「ジャンプ」行って、「バロン」って喫茶店入ったら、「センチュリーホール?」とママさんにたずねられた。「ええそうです」「やっぱり!」「え」「さっきも同じように、東京から来た人や、静岡から来たって人がね」「ええー」
 面白い。「オザケンのついでに喫茶店でも」という人がけっこういて、しかも少なくとも2人が僕と同じお店を選んでいるのだ。(僕は打席数多いからズルだけれども。)
 少し時間がずれていたら3人揃って春ラララだったわけで、なんか笑ってしまう。とても素晴らしいお店だった。お友達になりたいものでございます。もうお友達だったりして。


 こういう偶然があると、友達というものはわりあい必然に結びつくのだなという気がしてくる。似たようなところがあるから、同じ場所に集まるのだ。
 場の引力っていうか。そういう力の宿った場所をつくっていたいものです。引き続き頑張ります。
 コンサート会場でも、あちこちに友達の姿があった。

 gのママからカリカリ梅のしょうゆ漬けもらったの本当に嬉しかった。同じ釜の飯を食うならぬ、同じビンの梅を食べるわけだ。
 お店の中に大量に積まれていた漫画はほとんど処分しちゃったみたいだけど、「大事なのは自分の部屋に置いてある」って。50年前の漫画少女なんだろうな。

 友達に読ませてもらった森雅之の『追伸』すごくよかった。
 遠く離れても、明日が見えなくても、愛を止めないで。この海の果てはやがて青い空へ続いてる、一人じゃない。この胸にずっと愛は生きてる。(参考文献:SPEED『ALIVE』)


 今日は実家で寝ます。好きなだけ。

2022.6.17(金) 人間ぎらい

 まだ旅の途中。そういえば6月は夜学バーをおおむねお休みにして、柄にもなくnoteを使ってみている。予約投稿ができるからってのと、みんなが読みやすいプラットフォームでやってみようかなってのと。そしたら見事に反応僅少。何しても僕の言葉はバズらない、伸びない。でも届いたら響く(そう信じるしかない)。
 いくらなんだってなあ。それなりの質の文章を毎日かならず17時に投稿する、ってのをもう16日も連続でやってて、それを30日まで続けるんだが、今のところ誰も褒めてくれない。個人の感想をつぶやいてくださる方は数名いたけど。ま、仕方ない。そういうもんだから。
「何遍言ったって通じやしない、ってこたぁ置いといて、僕ぁ言う。」ってやつだ。

 というわけで毎月17日は僕を褒める日としますから、あす朝10時までに掲示板、メールフォーム等からお褒めください。褒めないならお金をください。あるいは仲良くしてください。いずれでもなければ悲しい。


 自転車に乗っているといろんなことを考える。僕は人間ぎらいなんだと思い付いた。たまに「ジャッキーさんは愚かさについてめちゃくちゃ憎んでいるのにそれでも人間が好きですごい、というかよくわからないどういうことなの」みたいなことを言われますが、ようやくその適切な返答ができます。僕はたぶん人間が嫌いです。

 帯広の街にはインテリが見当たらなかった。本が置いてあるのは古い喫茶店くらいだった。一軒だけ本が置いてあるバーをネットで見つけたけど、村上春樹とかで、それでもあるだけマシだと思ったらミックスバーかゲイバーのようだった。ノンケの自分が歓迎される場と思えるだけの材料は何もない。それが橋本治だったら勇気を出して入ってみたかもしれないけど。
 また、「帯広にブックカフェバーを作りました!」というのを見かけたので期待して見てみたら、のぶみの本とかをすすめていた。ウウウ……。
「帯広読書研究会」というTwitterアカウントは、2013年に6回ツイートしているのみ。初回(と思われる)の読書会は中止になったとお知らせして止まっている。実質何もしなかったように見える。

 立花隆がむかし、「帯広には専門書を置くような大きな書店がないので、ろくな文化が育たない」的なことを帯広の講演かシンポジウムか何かで言ったらしい。らしいというのは、ソースが見つからないから。眉唾ものの伝説かもしれないが、気になる発言ではある。それからたぶん20年とか30年とか経ってるんだと思うけど、まあ確かに、少なくとも「読書」みたいな文化が育っている雰囲気はないし、そういう意味での文化的な匂いも感じられない。

 人間はベース、とても愚かで、それを抑制するために知性がある。あるいは、愚かでも問題がないために、「善意」というものを発達させる。ただし善意はあまりに無邪気で、いつでも適切に機能するとは限らない。うまく機能させるのは知性の力である。知性なき善意は惰性で動き、時に人をよろこばせ、時に傷つける。善意は角度によって悪意と区別がつかない。その峻別こそ知性の仕事なのである。偏見だがいわゆる「田舎の村」には、「悪意と表裏一体の善意」だけがあって、知性がない。
 都市においては「知性ある場」が実現しうる。僕はそれを求めて都市をゆく。

 もちろんどこにでも、「偶然に善意に満ちた場」はある。奇跡的な場が。しかしそういう場所は探せない。手がかりやヒントを何もくれない。奇跡的な場には、奇跡的に巡り合うしかない。

 個人というものは基本的に愚かなものである。愚かだから悪というわけではないが、愚かだと悪になることを避けづらくはなる。そこで知性が必要になる。
 ところで、知性によって愚かさを抑制する、というのはどういうことだろうか。自分が愚かでなくなることはできないし、他人を愚かでなくすこともできない。ゆえにそれは「関係を調整する」ことによって実現される。だから僕は人間ぎらいで、個人ぎらいではあるが、関係が大好きなのである。大好きというか、そこを上手にコントロールする以外に、他人と共に生きていくことなどできない。

 人間が嫌いで、個人が嫌いな僕には、関係を愛する以外に、人を愛する方法がない。
「好みの顔」すらはっきりしていない。ぼんやりとはたぶんあって、それを多くの人は時間をかけてはっきりさせていくんだろうが、僕は興味がないので確立しない。人間や個人に興味がない。「ジャッキーさんは私に興味がないよね」と言われたことがあるが、その通りで、興味などない。あなたとの関係にのみ興味がある。個人のことなどどうでもいい。
 もちろん、誤解されたくないから書くが、「あなたとの関係」においては、「あなたの情報」はとても大きな意味をもつ。「あなたと他者との関係」も同様に大きな意味を持つ。「あなたとの関係」のために「あなたのこと」を聞くのであって、あなたに興味があるから「あなたのこと」を聞くわけではない。あなたとの関係を善く育みたい僕は、あなたの話を聞く。それによって仲は深まっていく。そのことが僕は何よりも楽しくて幸福である。
「あなたという個人に興味がない」ことと「あなたの話に興味がある」こととは矛盾しない。「あなたの話は、あなたとの関係を育む上で重要だから興味があるが、あなた個人について興味があるわけではない」という感じ。(そもそも個人などない、関係があるだけ、というのが僕の考え方の本義なのだが、長くなるし、たぶんどこかにすでに書いている。)

 帯広の夜は、本当にまったく、1ミリの知性も感じることがなく、さみしかった。どこを歩き回っても「知性のヒント」は見つけられなかった。いくらなんでもまったく存在しないわけはないので、次回来たらまた探し回ってはみるつもりだが、インターネットの達人であり散歩の達人でもある僕が、事前に徹底的に調べた上で、何時間も繁華街を徘徊した上でそうなのだから、やはり帯広に文化が育たないってのは本当なのかもしれない。

 知性のない都市には、丸裸の欲望だけが存在する。それがあまりに醜く思えて、くたびれてしまった。僕の嫌いな「個人」たちがたくさんいて、しかも誰も「関係」など見ていない。
 昼の帯広、ことに駅の南側は、奇跡的な善意に満ち溢れていて、とても良かった。



 追記2022/06/21:本当に帯広を悪く言いたいのではなく、文系大学のない盆地の町が文系の文化に乏しくなっているのではないかという、ただそれだけのことを言っております。

2022.6.15(水) 尾崎くんホームページとかでは何も本当のこと言ってないじゃない

 ジャイ誕だからって、でもないが。

 旅の中に。硫黄の湯に浸かっております。
 11日に出て、1泊めはカプセルみたいなドミトリー、2、3泊めは極端に壁のうすい西成のドヤ(にしてはかなり高級なほうではある)。4泊めは飲んでいてろくに寝られていない。よって5泊めは豪遊、温泉旅館。
 とりわけ3、4泊めの寝不足→早朝の飛行機→自転車で野山を駆け回り、街で遊びまわる→お酒を飲む→寝不足→長時間の電車移動というので疲れ果てました。まだ21時40分だけど今日は寝ます! と思ったのに日記を書き始めてしまった。さあ。

 詳しいことはまた日記にまとめるとは思います。
 夜学のジャーナルも書かないといけない。ぐうたらは溜め込んだルーティンに消費される。織り込み済みではあるが。


 とりわけ嬉しかったこと。神戸で古い友達に会った。10年以上前だなあ。彼女は東京でフツーにたぶん働いていた。いきなりそれを辞めて山奥の廃墟で暮らし始めた。そこでカレーを作ってみたら好評だったので相棒と共に車で売り歩くようになった。それをもうずっとやっている。僕も神戸に行く時は時間を合わせてそのキッチンカーを捕まえるようにしている。会ったのは数年ぶりで、いつの間にか母親になっていた。hideと黒夢を子に聴かせているとのこと。PIERROTも?
 べつにそんだけの話なんだけど、縁が続いていることと、友達がずっと友達のままでいてくれることが嬉しい。いつ会っても「ジャッキー!」と喜んでくれるし僕も「かなちゃん!」と喜ぶ。「変わっちまったなあ」と嘆きなどしない。変わったとしたら子ができたことだけど、その事実や生活以外に変化はない。彼女は彼女である。それが確認できただけでいい。きっとこれからもずっとそうなのだ。(そうであるべきだ。)

 なぜ、「彼女は彼女だ」と思えるのか? ずっと会ってなくて、連絡も年に1回くらいで、SNSとかで交流することもない。今回もほんの1時間くらいしか会っていない。
 そこで登場するのがやはり「関係」というもので。(またその話かーという人はブラウザの戻るボタンでお戻りください)
 まず、僕は僕である、とする。これは僕が勝手に決めることだが、異論は許さない。そうすると「僕」という点は固定される。次に、「彼女」という点がある。これは固定されていない。ただし、その間に「関係」という線がある。この線が固定されていれば、「彼女」の位置も固定される。
 会って1時間も話せば、「関係」に変化がないことくらいは感じられる。さらば僕から伸びる「関係」の線は据え置きである。ぐにゃりと曲がったり、消えたりズレたりしていない(ミクロにはわからないが、おおむねは)。その関係の先に「彼女」がいるのだから、その点は以前とほぼ変わらず、「彼女は彼女」と言えるのだ。しょめおわ。
 その人が「その人」と思えるのは、その人の肩書きや生活や性質や内心などなどが「変わらない」からではない。僕から見ればの話だが、「僕との関係」さえ変わらないのであれば、他の何が変わっていようが、「ぼくのきみ、きみのぼく」は不変。

 僕はある人に初めて会う。その人がどういう人かはこの際どうでもよく、僕がどういう人かもどうでもいい。僕はその人とどんな関係を結べるだろうか? ということしか大事なことはない。それは媚びへつらうということではない。相手に合わせるということでもない。うまく踊ること、遊ぶことなのだ、理想としては。

 10代女(じゅうだいおんな)から夜中に恋愛相談を受けていて思ったのはそんなこと。彼女は僕を「あざとい」と言う。
  離脱
「あざとくて何が悪いの」とよく知らない番組のタイトルを僕は叫ぶ君は笑う。
 オザキくんホームページとかでは何も本当のこと言ってないじゃない(言ってます)
 電話がかかってくる、それはとてもとても長い夜
  戻る
 それはもちろん冗談なのだろうが話題は「媚びる」ことと「あざとい」との違いになった。「媚びる」をするとき、その行為の主役は相手だが、「あざとい」の場合は主役が自分なのである。
 僕はもう自分を原点O(オー)に置く気満々で、だから「点は固定」なんてことが言えるのだ。
 媚びる人は相手を原点にとどめ置くために、先回りで右往左往して疲弊する。
 僕は勝手なことを考える。全員原点でいいじゃないか。空間のほうがねじ曲がれ!

 この「空間」というのがまさに「関係」である。原点と原点とをつなぐ空間。それが関係。
 原点は0(ゼロ)で情報はない。ただ自分であるだけ。考えてみれば「自分」という言葉にも何の情報もない。ただ「原点の位置にいる存在」ということしか意味しない。
 ものを立ち上がらせるのは常に空間、関係なのである。

 宇宙空間を遊泳するダンス(イメージです)みたいに、自由に互いが飛び回りながらも、なんかこれは楽しいねって。
 遠のくこともあり、近づくこともありながら、酔うように楽しい。スイすい。
 今日の話題、すべてつながっているのです。神戸のかなちゃん、10代女、僕がこれから会う誰か。そして旅。

 旅は自分を固定(原点)から解き放つ。
 すると、自分もまた「誰かという原点から伸びた関係の先にある点」なのだという自覚が生まれてくる。
 何を言っているのかよくわかりませんね。
 こういうことは何度説明したってわかってもらえないから、賢い昔の人は歌詞に載せて歌い、何度も何度も唱えてもらえるようにしたのですね。そしてある瞬間に「あっ!」ってわかると。
 そういう言葉に僕は助けられてきたので、向いていればそうしたい。でも僕は芸術家ではなくて職人……でもなくて、かといってただの消費者でもないし、商売人でもないし、うーん……いったいなんなんだろう。やっぱりただ散歩してるだけの人間なんだと思う、本音では。
(寝るので唐突に、変なところで終わります。)

2022.6.6(月) ぐうたらは一日にしてならず。

「ぐうたらの月」を実践中。元ネタはドラえもん14巻「ぐうたらの日」から。
「ぐうたら感謝の日」はのび太がつくった祝日の名前で、お話のタイトルは「ぐうたらの日」。簡潔なのでこっちのが好きかも。

 今年は6月を「ぐうたらの月」とし、具体的にはお店(夜学バー)の営業を極限まで縮小。原則として高校生の子らが「やりたい」と言ってくれる日と、かねての従業員が代わりに立ってくれる日のみ。いずれも数日ずつくらい。いちおう高校生の日は僕も付き添うし、夜はついでに営業もしようと思っているけど、それ以外はやらない。
 ただし4月21日から始めた京島の「喫茶 夜学バー」は2,9,23,30の4日間やります。真ん中はおやすみ。

 ↑こういうことはネット上のいろんなところにもちろん書いているけど、最後に残るのはこの日記のはずだから近況ついでに書き残しておきます。


 6月休んで何をするかといったら、手をつけられてなかったいろいろなことに手をつけるのみ。それだけで終わりそう。僕の時計は遅いので。


 走り始めたものを止めるのは難しい。お店を始めたら閉じるわけにはいかない。固定費はそのまま降りかかってくる。生活費だって稼がなきゃいけない。
 しかし同時に休むことも必要だ。僕にとっても必要だし、きっとお客さんたちにとっても必要なのだ。なんのために必要なのかはよくわかっていないけど、なんだかそんなような気はする。
 多くのお店がこの2年間の中でまとまった休みをとっていたけど僕はほとんど休まなかった。2020年の年末と翌年始は2~3週間くらい休んだが、その時も他のお店は営業していた。逆張りは大事。

「酒を飲んだあとに宿酔(ふつかよい)があるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。」(梶井基次郎『檸檬』より)

 それが来たのだ。(別に僕は酒を毎日飲んでいるわけではないが。)
 なんかデトックスみたいな、膿を出す期間みたいなのは要るのである。
 でなければいつの間にか「平坦」になってしまう。すべて当たり前になってしまう。酒が当たり前になればアル中、クスリが当たり前になったら薬物依存。

 引用は『檸檬』の第二文から。酒→二日酔い→酒→二日酔い、というのではなく、→酒酒酒酒→二日酔い二日酔い二日酔い二日酔い、みたいなイメージであろうか。長く続いたものの後遺症は、長く続く。当たり前の後遺症は、また別の当たり前。
 この作品では「神経衰弱」と表現されているが、いまふうに言えば「鬱」であろう。ストレス→落ち込む→ストレス→落ち込む、というサイクルのうちはまだいいが、ストレスストレスストレスストレス→落ち込む落ち込む落ち込む落ち込む、になってしまうのが、病気というのの厄介さ。

『檸檬』は高校三年生の教科書にけっこう載っている。散歩の話である。作中に「酒」という文字は引用した箇所に二つあるのみ。たぶんアル中みたいなもんなんだろうが、酒を飲む話ではなく、歩く話。

 散歩の渦中、僕は「ジャッキーさん」ではない。ただの歩く肉体であり、見る目玉であり、味わう感性である。
「自分」というものから離れて、宙をゆく感覚になる。それは僕にとって面白い漫画や児童小説を読むことであって、女の人の中に溺れることであって、自転車を何十時間も走らせることだった。忘我。その最も日常的で、ドライなのが散歩。あるいは詩を書くこと。
 ちょっとここんとこは散歩の時間がなかなかとれず、詩情も湧き上がらない。それは僕にとって致命的なこと。そろそろぐうたらせねばならない。ゆっくりと。
 先に書いたとおりやることは山積だし京島店もあって完全にぐうたらモードにはできない気はするが、ほんの少しでもこの宿酔がおさまればと思う。
 旅にも出るつもり。会える人たちや道に。

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