少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2022.8.5(金) 近況 縛る義太夫大女優いじめ京島あきいちこ
2022.8.10(水) 好きなことと欲すること
2022.8.11(木) ドラえもんと僕
2022.8.14(日) 近況 新刊の告知ふくむ
2022.8.16(日) ちゃんとブックマークしてます?
2022.8.18(火) 昨日の続き 「選ぶ」について
2022.8.22(月) ダチュラフェスティバル覚書(2)
2022.8.23(火) ダチュラフェスティバル覚書(3)
2022.8.25(木) 未来を含めてその人を見る
2022.8.27(土) ドントラ世代とドラガン世代
2022.8.31(水) 夏休み、我らが社会の偉大なる時計

2022.8.31(水) 夏休み、我らが社会の偉大なる時計

 僕たちはもう時計を当たり前に思っている。あと1時間15分で閉店する。誰もいない夏休みの終わり。小学校のときにそうだったというだけで、別に何も変わりはしない。明日僕は学校に行かない。

 僕は時間を左右する。時間が僕を左右するのではない。しかし時計だけは変えられない。他人が作ったものだから。
 他人に左右されて生きている。時間はいくらでも自由になる。他人を自由にすることだけはできない。


「チクタク迫りくる針がこわいこわいと泣き虫のダーリン」


 あと3分。まばたき一つ。

 僕だけの終わりと僕だけの始まり。みんなとは別のところにいて、今ごろさみしい気持ちの人もいる。
 自分とほかの人とは別々で、それぞれの世界を生きている。
 だからこそ仲良しを、せいぜいやる。

2022.8.27(土) ドントラ世代とドラガン世代

 8月23日の記事で「ドントラ世代」「ドラガン世代」という捉え方を試みた。簡単に整理すると、

ドントラ世代:およそ1947〜1968年生まれ。価値観は「DON'T TRUST OVER THIRTY」。上下の世代とは断絶しているという認識。

ドラガン世代:およそ1969年以降の生まれ。世代の下限は今のところ不明。1995年生まれまでを「前期」、1996年生まれから(Z世代)を「後期」とする。1978-79年に溢れ出た文化(カルチャー)によってまとめられ、ほぼ同じ世界観を共有している。ゆえに「15歳と50歳が趣味で繋がって友達になる」ということが実現しやすい。
《資料……『ドラえもん』連載開始が1969年12月、最初のアニメ化が1973年4月(〜9月)、てんとう虫コミックス発売が1974年8月、コロコロコミック創刊が1977年4月、テレビ朝日でのアニメ化が1979年4月、映画化が1980年3月、ちなみに藤子・F・不二雄先生の御逝去が1996年9月。また『機動戦士ガンダム』が1979年4月(〜翌1月)。
 およそ1969年以降の生まれは、遅くとも10歳くらいまでに「ドラえもんブーム」が直撃しており、またガンダムの存在もたぶん知っている。どちらも(特にガンダム)男子・男性に偏ったムーブメントではあるものの、世代感を示すためだけの概念なのでお許しいただきたい。もちろん女子・女性についても考えたいのでヒントください。「1978−79年」という特殊な時期に生まれた、世に出たものは他にも数多く、そのうちまとめたいと思っておりますが、とりあえずここではドラガンという言葉に代表させます。実はまた別の概念として「ドラガン問題」(すでに書いたかもしれないしいつかまた書くと思います)というのがあるので僕にだけ都合良いのです。》

【おまけ】
スマタブ世代:iPhoneの3大キャリア解放が2011年(ソフトバンクからの発売は2008年、iPad発売は2010年)ということを考え、おおむね2011〜2014年あたり以降の生まれを想定する。赤子の頃からスマホ・タブレットに触れている世代。このへんで価値観も何かが分かれるのかもしれない。

 ドラガン世代は少なくとも現在の中高生〜53歳くらいにあたることになるが、注目したいのは「それよりちょっと上」の世代。すべて私見でしかないが1965〜69年生まれあたりはドントラとドラガンの狭間で価値観にも過渡期ゆえの揺らぎが見られる。たとえば1965年度生まれのさくらももこ、尾崎豊、大槻ケンヂさんは時代との向き合いかたが朗らかとはいえず屈折していた。1968年度生まれのフリッパーズ・ギターもやはり世の中(大人)を敵または「格下」と見なしていたように思える。
 この世代にとってYMOやゴダイゴは思春期に登場したものであり原体験ではない。小沢健二さん(1968〜)はドラえもん、ウルトラマン、仮面ライダーの話はけっこうするが、ガンダムの話は聞いたことがない。(あったらすみません、教えてください。)純ドラガン世代とは絶妙にズレて、絶妙に重なる。仲良くはなれても、いまいち「同じ世界観」とまでは言いづらいのがこの世代だと個人的には思っている。
 そういえば『Dr.スランプ』は1980年、『ドラゴンボール』は1984年にスタートする。ドラガン世代であれば一期生(1969年生まれ)でも15歳でドラゴンボールが始まるわけである。こういった「ビッグタイトルとの距離感」も僕にとってはけっこう大事。ちなみに大友克洋の初単行本『ショートピース』は1979年、『童夢』は1983年(雑誌掲載は1980-81年)。69年生まれは10歳で『テクノポリス』を聴き、14歳で『童夢』を手に取れたのだ。

 僕が主張したいのはとにかく「ドラガン世代は同じ世界観を共有している」ということ。8月21日の東京新聞で内田樹という70歳くらいの学者さんがこう書いていた。

(略)
 私自身は若い頃には年長者相手に「心を開く」ということができなかった。それよりは「喧嘩を売って顰蹙を買う」方が自己陶冶上には効果的だと信じていた。周りの少年たちもだいたい似たようなものだったと思う。「なんでも相談できる同性の年長者」がいるというような者は私の友人の中にはいなかった。(略)
(略)
 いま、私のところにメールをくれる若者たちはとても素直に心を開いている。(略)
 メールを読んで感じるのは彼らがとても「優しい」ということである。言葉づかいも優しいし、接する態度も優しい。もしかすると、日本の若い男性たちは自分の弱さを語る言葉を手に入れたのかも知れない。そう思ったらなんだかほっとしてきた。

 この人は「ドントラ世代」なので「喧嘩を売って顰蹙を買う」が正しいと信じていたわけだ。そして相談者はおそらく「ドラガン世代」であり、しかも「親もドラガン世代」という二世(Z世代周辺)の可能性も高い。「親と同じ世界観を共有している」となれば、年長者に対して「同じ世界観である」という認識を自然に持っていても不思議ではない。
「優しい」というのにはいろんな理由があろうが、同じ世界観を持っている相手に牙を剥く必要は別にないので、つっけんどんな態度には損しかなくなるからでないかと思う。

 ところがしかし、逆を言えば世代とは無関係に、「親と世界観が共有できない」という場合には「年長者=敵」という認識になるのかもしれない。
 先日行われた高校生主催のダチュラフェスティバルについて僕は「ドラガン世代のお祭り」と書いた。あれが成立したのは同じ世界観を共有していたからだろう。1969年という時代が一つのモチーフとなっていたが、当時を知る人はたぶんいなかったし、ほぼ全員がドラガン世代以下の人たちだったと思う。僕の知る限り出店者の年齢の幅は中学3年生から1970年生まれ(武富健治先生)くらいまで。お客さんの中にはおじいさんおばあさんと言える人が多少いたかもしれないが僕は見ていない。「造反有理」と書かれた立て看板を見て「懐かしいねえ〜」と漏らす人がいた! という話は聞いていない。(あったら教えてほしい、最高のシーンだ。)
 運営の中高生たちは、ボランティアの人たちも含めてたぶんほとんど(全員とは言わない)が、「親と世界観を共有している」ほうの人たちなんじゃないかと勝手に思っている。間違えてほしくない、「価値観が同じ」ではないし「親と仲が良い」と言っているわけでもない。ただ同じような文化を内面化しているというか。別世界の住人とまでは思っていないというか。年長者(OVER 30)と一緒にものごとをなすことに抵抗がないというのは、そういうことなんじゃないかと睨む。根拠はありません。また例外もあると思う。親ではなく別の年長者と世界観を共有し良き関係を築いた経験があるとか。
 すなわち、これも机上の空論だが、「親と同じ世界観を共有していないし、他のOVER 30の年長者ともそれをした実感がない」場合においては、ひょっとしたらドントラ世代と近しい感覚を持つのではなかろうか。ここにおいてドラガン世代も左右に分断するのではなかろうか。

 ドラガン世代の内において世代間の対立(上下の分断)はない。でも世代を問わず「そんな世界観知らない」という人はいる。「その世界観」の外側にいる人にとっては、「あっちのほうで自分の知らない世界観を共有している人たちがいて、なんだか仲良くやってるみたいだな」という他人事になる。
 タテはのっぺりとして対等だけれども、ヨコの繋がりを担保してくれるものはない。「誰もが歌える流行歌」みたいなものは少なくなって来たが、YMOのメロディを口ずさめる若者はけっこういる、みたいな。
 つまりは住み分けってことで、考えようによっちゃ喜ばしい世の中なんだけども、「平行線の二本だが手を振るくらいは」ってなもんで、それなりに仲良くできたらもっといいよなと思う。ドラガン世代と僕が言っているのは当然「ドラガン世界」でもあって、世の中には違う世界もたくさんある。史観だっていくつもある。

 ただ大きく見て「ドントラ世代」と「ドラガン世代」のような区切りがあることは確かだと僕は思っている。明らかにカルチャーはそこで転換する。また2016年のSMAP解散に始まる無数の散開や休止、2019年の令和改元、2020年からの疫病禍、2021年のエヴァンゲリオン終了なども再びの「区切り」の象徴になる気がする。
 昭和が終わったときにドラガンは成人を迎え、ドントラより上は順次引退していく。世の中がほぼドラガンとドントラに満たされるまでの期間が平成の失われた30年で、令和になるとドントラはもう70代。あと20年もすればドラガンが70代、ドントラは90代となる。
 ドントラは今まさに「わしらの時代じゃー」というわけ。自分らが「信じない!」と断じた老人たちはどんどん死んでゆく。そして最高権力を握る。
 今話題の電通の高橋治之さん容疑者は1944年生まれの78歳で、1969年にはもう25歳だった。OVER 30ではなかったもののトラストされるかは微妙である。ちなみに麻生太郎さんは1940年、森喜朗さんは1937年、小泉純一郎さんと小沢一郎さんは1942年生まれだそうです。安倍晋三さんは1954年、菅義偉さんは1948年、岸田文雄さんは1957年。面白い。
 政治の話をすると男ばかり出てくる。小池百合子さんは1952年。黒柳徹子さんは1933年。デヴィ夫人は1940年。田嶋陽子さんは1941年。萩尾望都先生は1949年。大島弓子先生は1947年。

 ドントラはドラガンを可愛がる。「優しい」と評する。甘えたドラガンはいつまでも甘えたまま、子供たち同士で遊んでいる。
 この遊びっぱなしの子供たちが20年後には覇権を握っている。安倍さん、菅さん、岸田さんのポジションに入っている。そんときにどうなるか。ポイントはこれから育つその後の世代との関係と、「その世界観」の外側にあるものへの眼差しだと思う。すなわち異質なものとどう付き合っていくか。狭っちい同質性の中でずっと遊んできた子供たちの弱点はそこにある。
 かつて世の中は「だだっ広い一つの同質性」だったと思う。そこから外れる人たちはそれはもう大変だった。大いに我慢を強いられていた。それがだんだん「狭っちいたくさんの同質性」というふうになってきた。住み分けが細かくなってきたわけだ。ドラガン世代は「世代間の住み分け」があんまりない世代のかたまりだと理解していただきたい。具体的には、全員Twitterにいるわけです。いない人もいるけど、それは「世代間の住み分け」ではなくて、ヨコの住み分け。
 今のインターネットって同質と異質がごっちゃになってる非常にわけのわからない空間で、同質は仲間、異質は敵ということになりがち。なんかそういうのって楽しくないじゃない。
 僕が夜学バーなどを通じてしていることは「ある程度異質な人たちが仲良く楽しむために必要な最低限の同質性を空間の中に担保する」ということ(ややこしい〜)。「異質なものは許さない」でもなければ「異質であることを許す」のでもなく、「ここんとこだけ同質であれば助かります」「そこんとこが異質ですとここにいてもらうのは困ります」というのをやっている。「異質なもんでもなんでもOK! みんなで一緒に《居場所》しましょう!」みたいなのがすでに流行っていると思うが、今のところ僕はそういうふうにするつもりはない。
「異質と同質とのバランス」を研究している。「こういうふうに異質であるが、こういうふうに同質であるから問題ない」とか「こういうふうに同質だけれども、こういうふうに異質であるから問題だ」とか。
 そんな夜学バーはやはりドラガン世代のお客さんが多い。同質とか異質とかを考えるときに年齢を考慮に入れなくて済むからだと思う。しかしもちろんドラガン世代に閉じるつもりはないし、今閉じているとも思っていない(ドントラ世代のお客さんもいらっしゃる)。できるだけ風通しを良くしておき、新たな世代の人たちとも楽しくできるように努め、20年後も40年後もいろんな人と仲良くしていけたらいいな。
 そのために今めちゃくちゃ考えているのが「老い」ということである。これはもう「あとは余生」と決めた22歳の時からずっと大きなテーマ。たぶんこのあとはそういう話を書きます。乞うご期待。

2022.8.25(木) 未来を含めてその人を見る

 いいことばかり書いた[要出典]ので嫌われうること、というか「何言っとんだ」的なことを。僕はいま自分をとてもいい男、いい人間だと思っているが、かつて僕はそれほどいい男、いい人間ではなかったに違いない。じゃがいもの芽は毒だけどじゃがいもは美味しく食べられるみたいな話か[独自研究]。最近仲良くなった人の中には僕のことをけっこう良いものだと思っている人がたぶんそれなりにいるのだと思うが、その人たちにはきっと想像もできないくらい昔の僕はヤバかった。今でもヤバいがもっとヤバかった。日記の過去ログを読んでいただければ雰囲気くらいは感じられると思う。要するに僕は苦しんでいたし、悩んでいて、わけがわからなくて、結果的に人を傷つけたり不愉快にさせることも多かったのである。
 もちろんヤバかった時代の僕にも良いところはたぶんたくさんあって、ずっと仲良くしてくれている人たちは「こいつはヤバいし悪いところも多々あるけれども良い部分は良いしなんだかよくわからないが面白いのでとりあえず仲良くしておこう」みたいなふうに思ってくれていたのだろう。身に余る幸福である。みんなありがとう。
 僕はだんだん良いものになっているはずだけど、悪い部分も依然として残っているし、今新しく出会った人の中にも「こいつは悪い」「邪悪だ」と僕を断ずる人がいるかもしれない。単に僕の思う「良さ」なるものがだんだん定まってきたというだけの話で、それと相反する「良さ」を信ずる人とは衝突する可能性がある。しかし僕の「良さ」について「それ、確かに良いね」と思ってくれる人からしたら、僕はきっととても良い男、良い人間として映るだろう(当たり前)。
 僕の中で「自分にとって良さとは何か」ということがある程度はっきりしてきたがゆえに、他人から見ても良し悪しの判定がしやすくなった。ゆえにおそらく不幸も減っている。僕は少なくともかつてよりはもうちょっとわかりやすく「良さ」をアピールしているから、本当は全く違う「良さ」を求めている人が間違えて「好き!」と思うような事態は少なくなってはいるのではないかと。

 少なくなっているとは言ってもあるにはある。そして「良さ」についての認識が重なっている(とお互いが思っている)うちはいいが、ひとたびズレるともう修復ができない、という心の癖もある人にはある。そうなるとやはり疎遠になる。さみしいことである。

「わたしはせんせいのことをすごくいい男だと思っています、せんせいよりいい男、いい人間でなければ彼氏にできません、どうでもいい男と付き合うくらいなら彼氏いなくていい、彼氏ができたら必ずせんせいに紹介します、せんせいに紹介できるような相手じゃなかったら絶対に付き合いません!」(大意)というようなことを先日言われた。光栄なことである。この人は僕の生徒、教え子ではないが、せんせいとは僕のことである。
 このようなことを言う人は複数人いる。冗談ではないのだろうが、これは「そのくらいわたしはあなたのことを信頼しています」という愛の表明であり、「くだらぬ恋愛関係には陥らないぞ!」という誓いでもあろう。この時、この人は僕の抱く(説く)「良さ」を良いと思っている。僕のことをいい男、いい人間だと思っているのだからきっとそうだろう。
 ところで、僕はかつてそれほどいい男、いい人間ではなかった。上記のようなことを言う人はたいがい僕よりも一回り年齢が下の人たちである。彼女らは果たして、自分と同年代だった頃の僕を見ても同じことを言うのだろうか? 断言するが、言わない。むしろ恋愛的に好きになりすぎて発狂して死ぬパターンのほうがまだありそうである。その年代の僕は特段いい男、いい人間ではないのだから、傷つけられてボロ雑巾のように朽ち果てた可能性さえある。もちろん僕には悪意なんてまったくないつもりなんだけど、本当にいろんなことが不器用で下手くそで、何にもわかっていなかったから、無邪気にあなたを殺していたかもしれない。(最近だって不用意に殺めてしまった。)そのくせ意味のわからない言語化できない謎の魅力だけはあるわけで、しかも心身ともに若くてみずみずしいのであってそれはもう本当にヤバいのです。

「せんせいよりいい男」というのはもちろん「現在のジャッキーさんよりいい男」という意味になるわけですが、たとえばじゃあ、その人の目の前に「5年前のジャッキーさん」が現れたらどうだろうか? こちらは「現在のジャッキーさん」よりもいい男、いい人間じゃございませんので、排除ということになります。すごい!
 5年前のジャッキーさんはそこそこいい男、いい人間だったわけですが、それでも「現在のジャッキーさん」を基準にした場合には弾かれてしまいます。しかし5年前のジャッキーさんは5年後に「現在のジャッキーさん」になる存在なわけです。5年前のジャッキーさんと仲良くなっておけば、5年経ったら「せんせいと同じくらいいい男」になり、5年過ぎたら「せんせいよりもいい男」になる可能性が高いです。(「ジャッキーさん進歩史観」に従えば。)そうしたら付き合えます。→happy!
 えーーーーつまりですね、僕が再三言っております、「未来を含めてその人のことを見る」をしなければならないのですね。「現在のジャッキーさんよりもいい男」を、僕よりもひと回りとか下の年齢の女性が見つけてくることはほぼ不可能と言っていいです。そのくらい現在のジャッキーさんというのはいい男なのです。しかし、「10年前のジャッキーさん」ならば見つけることが可能かもしれません。ただし、「10年前のジャッキーさん」というのは今ほどいい男、いい人間ではありません。しかし「10年後にめちゃくちゃいい男、いい人間になる可能性を秘めている人間」ではあります。だからすぐに付き合う必要はありませんが、仲良くしておいて損はないよ、と思います。

 彼氏とか恋人とかいうことを考え出すと、「たった一人の相手を」「いますぐに」見つけるという発想になりがち。もっと気長にやったほうがいい。「10年前のジャッキーさん」くらいのいい男を100人くらい見つけておいて、全員とそれなりに仲良くしておけば、10年後にめちゃくちゃいい男と付き合えるかもしれないわけです。付き合わなくても少なくとも「めちゃくちゃいい男の友達が100人いる」という状態になります。これは本当にすごいことです。
 いい人間と結ばれたい! と思ったら焦りは禁物。「いい人間未満のすばらしい友達」を無数に持てば、その中から「いい人間」が生まれるかもしれない。
 ただ難しいのは、「未満」というものの下限をどのあたりに設定するか。「いい人間になるかもしれない」と誰とでも仲良くしていると、その中に邪悪な者が混じっていた時に困る。また実のところ人間というものは、「時間が経てばだんだん良くなってゆく」人よりも「時間が経てばだんだん悪くなってゆく」人のほうがたぶん多い。だから「まあまあ良さそう」くらいで仲良くなってみたら、8年後くらいに「ちょう邪悪」になっている場合も多々あるというわけで。
 だから「その人の中に未来を見る」という眼、能力を養わねばならない。株を買うようなと言っては失礼というか軽薄すぎるかもしれないが、「未来を含めてその人なんだ」という発想で常に人を見ることはとても大切。
 こういうことを言うと「じゃあいまのわたしはダメってことなんですね……」と思われてしまうので注意が必要なんだが、僕ははっきり言ってそのように他人のことを常に見ているので、「ダメとは言いませんが将来もっとすばらしい人間になることを含めてわたしはあなたを好きです」と正直に言います。そうすると「アア、ジャッキーサンの期待に応えなきゃ、でないと見捨てられてしまう……」と病んでしまう人も実際いるわけなのですが、そこをわかった上で僕はきっちりと、「そうやって永遠に他人の期待するように動くという発想しかしないのなら、僕のあなたへの好意は次第に薄くなっていくでしょう。あなたがあなたなりの歩き方で進んでいくのなら、それがどんな道であれ僕はあなたを祝福しますし、それが僕にとってあまりにも邪悪と思えるものでないのなら、是非とも仲良くさせていただきたく存じます」ということを周りくどくくどくどと説明します。
 みんな未来を数直線の先にあるものと思っているので、「ジャッキーさんの期待するような方向性から外れたらわたしは嫌われてしまう」という発想になりがち。しかし未来というのはあなたのいまいる場所で展開されるものだと僕は思っているから、「外れる」ということはあり得ない。ただあなたがその場所で美しくあるか醜くあるかを問題にするだけ(あーおそろしい)。

 最後になぜかすべてをひっくり返しますが、実際の話30年前のジャッキーさんすら見つけることは難しいでしょうね。でもだからこそ、もしも30年前のジャッキーさんを見つけたら、とにかく仲良くなっておくのが吉だと思います。相手はやべーやつなんで、距離感を考えて、慎重に。
 念のため言っておきますが「ジャッキーさん」だの「せんせい」というのは比喩でございまして、ともあれ「いい男としか付き合いたくない!」は正解だと思いますが、「これからよくなりそうな男とはとりあえず友達になっておいて、そうでもなさそうな男とはべつに関わりを持たなくてよい」という感じでいいんじゃないかと考えております。よき友達、大事。
 ここで問題は「友達になろうと思ったら性的・恋愛的なアプローチをされた!」だと思いますが、そういう人間はだいぶ下等なのでそっと離れていきましょう。見込みがありそうな相手なら「また今度ねボウヤ」とでもやんわり伝えてみるのもよいと思います。

 なんかもうちょっと書きたくなってきた。「すばらしい相手だと思って付き合ってみたらピッタリだったけどこっちだけ成長が早くて相手が幼稚に思えてきたので別れたら向こうが未練タラタラで困ってる」という案件。これも「またいつかねボウヤ」と言うしかないかもしれません。20年後にはいい男だといいね。その時にまた仲良くできたらとてもいいよね……。

2022.8.23(火) ダチュラフェスティバル覚書(3)

(1)(2)の続き。
 ダチュラフェスティバルでは僕は本も売った。2階の「夜学バー北千住店」で、新刊『あたらよのスタディ•バー』をお披露目&即売。一般500円、小中高生等100円としたら、100円でけっこう売れた。ありがたい。
 その他『夜学の初心』がほんの少し売れて、『小学校には、バーくらいある』は定価より安くしたにもかかわらず一冊も売れなかった。そして「ノンポリ天皇」からの委託として9条ちゃん、パン、短編集1、ノンポリ少太陽、ペド太、通電少女を並べるも一切売れず。またこっそり『少年Aの散歩 震災後特別編』も置いていたがこれも売れなかった。平たくいえば新刊以外ほぼ売れなかった。まあそういうもんである。お魚と同じで新鮮なものしかまず売れない。
 まず売れないとわかっている古い既刊をなぜ持っていくのか? 売れるかもしれないから。それは「お店は開いていなければならない」ということとおんなじ。在庫があるなら並べなければならない。重たいしかさばるし、ヒーヒー困るのは自分なのだが、そのすべてが「良い本」であると信じる限り、並べ続けねばならない。ノンポリ天皇の作品はよく見ると夜学バーに常に並べてあって、値札までぶら下がっている。あんまり気付かれないような気もするけど。
「本」は求心力をどんどん弱めていると感じる。ごく一部の好き者だけが寄り集まって文化をつくり、閉じこもっている。「本の世界」「本界隈」みたいなのがあってそこを一歩出ると本の背表紙さえ忌み嫌われるツルツルの空間が広がっている。今この世界に本はノイズに過ぎないらしい。
 僕にとって本はまず何よりも「ある」ことに意義があるもの。だから北千住店にも並べる必要があった。あんまりたくさん持っていくわけにはいかないので自分の本だけを持って行って売った。売れなかったけど。でもそういうことによって夜学バーおよび僕はその「らしさ」を担保しようとしているわけなのだ。

 ともあれ新刊の『あたらよ』は名文、名著なので買ってください。近年の総集編のような内容になっております。詩的な味付けがほどよく、「かっこいい〜(*ポヮヮーン*)」ってなるの請け合い。ちゃんと美しく、気高く仕上がっております。夜学バーで買えますし、通販、個人的お渡し会等はご相談ください。メールフォームなどから。

 売れないといえば、ダチュラの三日間とも、終了後は湯島に移動して夜学バー本店を営業した。初日は22時から24時まで営業してお客2名、2日め同じく22−24で5名、3日めは20−24で1名。
 初日はダチュラ帰り1名、そうでない方1名。2日めはダ3、他2。3日めダ0、他1。
 北千住店のほうにけっこうお客おいでくださったので何も贅沢なことを言うつもりはない、すべてのお客様に感謝カンゲキ雨霰。しかし忘れまい、令和4年8月21日の20時から24時にかけてのお客が1名だったことを。何を言われようがその事実は揺るがぬ。信じてもらえないかもしれないがこれは「みんな来いよ! なんで来てくれないの?」という恨み節ではない。ただ「そういう人は一人しかいない」という事実が僕の胸に沁み渡る。もっと頑張らなくっちゃと思うだけ。僕は面白いと思ったんだけどな。僕は楽しいと思ったんだけどな。というだけのこと。つまりこれは「自分が独りよがりであったことの証明」だから、とてもつらくてさみしいってこと。ほとんど毎日のようにそういう気分でもあるけど、そうでないことも多いからこれからもいくらでもそういうふうにやっていく。

 ヤガシューの3人やボランティア・協力者の中心にいた人たちとは比べようもないが、僕は僕で19日、20日、21日の実働時間(家を出てから帰るまで、休憩ほぼゼロ)を計算するとおよそ49時間となる。まあ50時間で良いでしょう。72時間のうち50時間も働いていたと考えたらブラック企業としては超一流。その多くは立ち仕事、力仕事、重荷積んだ自転車移動。いたわってほしいのが本音だが、「同情するなら仲良くしてくれ」が思想上の本音。22日はともかく休みました。お疲れさまでした。
 あ休憩ほぼゼロは嘘だ、初日の昼前に北千住のお気に入り喫茶でごはん食べたのと、夕方にお気に入りラーメン屋(ただし誰もラーメン食べてない)でジンハイ飲んでごはん食べた合計1時間半くらいは休んだといえば休んだ。2、3日めはお弁当にしてほぼ外出してない。だから48時間でいいか。(何もかも適当。)

 初日の準備はほぼ一人でやって孤独だったが、撤去は何名かの方に手伝っていただいて楽しく速く終わった。「おざ研」(2012〜15)もカウンター作るときは自分と友達2人だけでやったけど、撤収するときは10人、20人という人が関わってくれてすごかった。始めたときと終えるときとで人数が違うってのは、それ自体成功の証でもあるのかもしれない。
 いろんなものを作っては壊してきたおかげで、準備と撤去の手際もかなりよくなっている。振り返れば大学卒業後のプータロー時代に食い繋ぐためやっていた大工仕事も、「作って壊す」というのが主な業務だった。僕のような素人がまともに関われたのは、数日ないし数週間で壊すようなイベントステージやプレハブばっかりだったのだ。
 技術も経験も一応はあるので、一人で作って一人で片付けることもできるし、ある意味ではそっちのほうが楽だという考え方もある。いわゆる「自分でやったほうが早い病」。手伝ってもらうのが申し訳ないという気持ちもある。だけども、手伝おうと思って来てくれた(いてくれる)人に何もしてもらわないのは、それはそれで礼を欠くだろう。今回は意識して「できるだけ他人にやってもらおう」と努めた。そのために必要なのは「監督・指示出し」。誰に何をやってもらうか、ということを瞬時に振り分けて、わかりやすく適切な表現でお願いする。あらかじめそうしようと思っていたのではなく、思いのほか多くの人が助けに来てくれたので急遽そう考えた。
 男女の別というよりは、体格や筋力や勘(経験)、人格性格などを考慮して、この人たちには重たいモノを運んでもらう、この人は(同人経験の豊富な漫画家だから)冊子関係をまとめていただく、この人たちは繊細に扱ってくれそうなので割れ物や道具を新聞で包んでバッグに入れてもらおう、などなど思いつくままにお願いしてみた。汚れ仕事は自分で。ものすごくうまくいった、と思う。みなさまありがとうございました。
 昨日書いた営業の手際についてもそうなのだが、「手際」というものはたぶん一生モノで、向上したぶんはそう簡単に衰えない。僕は実のところ22歳の時からずっと老いに備え続けている。その頃に「あとは余生」と決めたから。できる限りさまざまな技術を向上させておき、脳や身体の衰弱を補完せねばと。

 結論から言って、まったく問題を感じない峠越えだった。ただ和田峠の旧道に街灯が一切なくて暗かったのと、路面状態が悪かったのと、たまに対向車がやってくるのがだいぶ怖かった。実はこの時、後輪のゴムがだいぶはげてきていて、スリップやパンクの可能性がやや高まっていたのだ。しかし体力と筋力に関しては、疲労や疲弊をほぼ感じず、ただ清々しさに満ちていた。前日それなりに走った割にはぜんぜん消耗しなかったし、次の日もピンピン歩いたり走ったりできた。なんだこんなもんかと拍子抜けした。一気に何百キロも走るんでなければ、まだまだ断然いけるのだなあ。
 僕は筋トレしない(しても続かない)し、自転車も近年1日に8km程度、たぶん年間で3000kmくらいしか乗っていない(かつては年間8000kmくらいは乗っていた)。運動量の減少と加齢によって、間違いなく体は衰えているはず。しかし自転車で峠を越えるという段になったら、10年前と特段変化を感じない。これはいったいどういうことかといえば、たぶん技術と心がまえ。
「安全第一と体力温存」と書いたけど、これは「無理をしない」ということで、「無茶をしない」ということ。すなわち「体力や筋力を無駄に消耗させない」ということである。そのためにあらゆる工夫を、全身で凝らしている。そのことが今回まさしく肌でわかった。
 身体が勝手に動いているのである。ロードレーサーというのはドロップハンドルという、前方でクルンと回る奇妙な形のハンドルがついているのだが、このハンドル、ざっくり分けても持つ場所が四箇所くらいあって、その持ち方を、ほぼ無意識に、終始変え続けながら走っているのだ。今のこの状況なら、ここを持って走るべきだ、というのを、およそ数秒単位で判断し直して、サッ、サッ、サッ、と持ち替える。変速器も適宜切り替えるし、漕ぎ方も変える。姿勢も常に変わる。細かいところでいえば、肘がずっと動き続けている。この動きはまるで不随意筋ではないかと思うくらい、まったく意図せずに勝手に、自然に動く。たぶん肘の位置によってごく微妙に重心の位置を調整したり、ショック吸収に努めたりしているのであろう。サドルとペダルとハンドルと、どこにどのくらい体重をかけるかというのもずっと考え続けている。頭と身体が、両方で。おお、まさに『ふたつのこころ』。
 羽生善治さんがどこかで、「若い頃よりも読める手数は減ったけれども、読まなくても良い手がわかるようになったので、棋力(将棋の強さ)は変わらない」というようなことを言っていた。エンジンとかCPUのパワーは衰えていても、動かし方の効率を上げてさえゆければ、得られる結果は悪くならない。熟練とか老練と言うのであろう。将棋でも自転車でも、たいていのことはなんだってきっとそうだ。歳をとれば必然的に弱まってしまう部分はあるが、そのぶんの時間をかけてほかの部分が良くなっていったらいい。若さに特有の美はやがて失われていくのだろうが、そのかわりに優しい表情を得られれば良い、みたいなことか。
 坂道を登っていく。日が暮れていく。半袖に短パンだったが、このあたりでヒザ・サポーターを装着する。標高が上がれば温度が下がり、膝が冷え、関節に負担がかかるので、温めたほうがいい。ただでさえ登り坂での踏み込みには膝を使うのだ。こういった知恵も経験の賜物。
2020.9.1(火)〜3(木)の日記より)

 ここんとこ中井久夫先生の本をあれこれ読んで老いによる脳の変化について考え、備え始めている。その辺のこともまとまってきたらここに書きます。
 言えるのは、ともかく老いには抗えない。だからその代わりになるような別の部分を磨いていくしかない。普通の生き方であればそれは「お金」であろう。老いによる衰弱をお金が補完する。僕にはどうもそうでもない方向にしか生き残る道がない気がする。技術とか、友達とか。


 ダチュラフェスティバルに限らず、いろんな世代の人たちと接して痛感するのは、「今の若い人たちが大人をそんなに嫌っていない」ということと、「昔の若い人たち(今の若くない人たち)は大人を無条件に嫌っていた」ということ。
 ムーンライダーズが『DON'T TRUST OVER THIRTY』というアルバムを出したのは1986年。30歳以上を信用するな。この言葉にさらに元ネタがあるのなら教えてほしい。尾崎豊は1985年までに初期三部作を世に放ち、今に知られるヒット曲はほぼ発表し尽くした。(僕は1988年以降の後期三部作もめちゃくちゃ好きである、念のため。)
「警察白書 校内暴力事件数と検挙・補導人員数(1975年度~2018年度)」という資料を見てみますと、1981〜83年あたり(尾崎のデビュー時期)をピークとして1987年からグッと下がる(前年比でほぼ半減している)。バブル本番に入って校内暴力はオワコンと化したか。別の資料(文部科学省調査の校内暴力発生件数推移)では90年代に入ってむしろ増えているようにも見えるが、「警察のお世話にならない軽微な(?)暴力が相対的に増えた」「軽微なものもカウントするようになった(隠蔽しなくなった)」といった話なのではと思う。
 僕の感覚では、35年以上前に思春期だった人たち、すなわち現在の50代以上の人たちは、若い頃「大人」というものをほとんど信用できなかった世代なんじゃないかと思う。その上限はどこにあるかと言えば、やっぱり学生闘争世代なのでは。団塊の世代の一期生は現在の75歳くらい。僕の仮説ですと53〜75歳(1947〜1969年生まれ)くらいまでが「DON'T TRUST OVER THIRTY」世代で、ムーンライダーズの鈴木慶一さんや、坂本龍一さんはいま70歳だからちょうどこのあたり。
 僕は常々、今の50代以上とそれより下とには明確な線が引かれていて、下の世代はほぼ「一枚岩」だと主張してきた。「物心ついた時から1978〜1979年のカルチャーに触れてきた世代」ということで一致するからだ。たとえばスターウォーズ(日本公開)、ゾンビ、エイリアン、マッドマックス、サザン、ゴダイゴ、YMO、スペースインベーダー、カリオストロの城、未来少年コナン、極めつけがドラえもん(テレ朝版)とガンダム。数え上げればキリがないが、少なくとも平成末期まで続く覇権的文化のほとんどがこの2年で一気に出揃い、数十年間メディアはこれらの延長で食い繋ぐ。『シン・エヴァンゲリオン』(2021.3)でようやく一つの区切りができたような気がする。
 めちゃくちゃ簡単にいえば、いまのだいたい50歳以下の世代は「ドラえもんとガンダムを観て育った」世代というわけで、まあほぼ同じ文化を共有しているといえる。それがだいたい「DON'T TRUST OVER THIRTY」世代と入れ替わる、のではないか? とダイナミックに思うわけです。
 50歳(前後)以下の「ドラガン世代」は、価値観がだいたい同じだから、ドントトラストも何もない。普通に仲良くできる。「ドントラ世代」にはそれが信じられない。
「ドラガン世代」も上のほうの人たちは、その親が「ドントラ世代」だったりするわけだから、そことは分かり合えない。だけど下のほうの人たちは親までも「ドラガン世代」なわけだから、「友達親子」みたいになりやすいし、親ほど年齢の離れた大人の友達もすぐつくれる。カルチャーが40年間変わらなかったからである。
 ただしいまようやく、令和に至ってそれが変わりつつある。その予感をすでに感じている僕は非常にえらいのでこれからも僕の言動によく注目しておくべきだと思いますよ(懇願)。

 ダチュラフェスティバルというのは、雑に言えば「ドラガン世代」のお祭りであった。Z世代とはざっくり言って「親もドラガン世代」だという事実に尽きる。ドラガン世代の下のほうの人たちが上のほうの人たちを動かして、あるいは「納得」や「理解」を得て成立させたのがダチュラフェスティバル。
 直観として、ではこれから先はどうなっていくのかといえば、もうさすがに「ドラガン」の効力は切れる。あらゆる時代との距離が等しくなっている現代では、「世代」ということがどんどん意味を持たなくなってきている。いよいよ年齢差別の終焉に向かって動いていくわけだ。

 おおむね1947年以降に生まれた世代が僕の言う「ドントラ世代」で、だいたい1969年以降に生まれた世代が「ドラガン世代」、こう考えると、校内暴力のピークが1983年に終わることの説明が簡単につく。ドントラ世代は学生運動から校内暴力までの世代で、ドラガン世代は暴力なんか振るわない。
 1965年に生まれた尾崎豊はドントラの最終世代にほど近く、しかし天才ゆえその路線の終焉に早くも気づき晩年は宮沢賢治レベルの境地に達した(個人の感想です)ものの、何かに耐えきれず死んでしまった。1968年度生まれのフリッパーズ・ギターはドントラとドラガンの合いの子だったと言えよう。だから彼らはパンクでポップでオシャレでギリギリだったのだ。
 そして1996年以降に生まれた世代が「Z世代(ドラガン世代後期)」となる。69と96で非常にちょうどいいよね。で、その次の世代は震災後生まれって感じになるのだろうか。ここのことはさすがにわからない。しかしその次の世代はZ世代(ドラガン世代後期)とまとまって、また一つの「一枚岩」となる可能性はある。全世代を巻き込むことはたぶんできまい。なぜならドラガン前期より上の世代はどうしても「世代」というものを意識してしまうから。僕はドラガン中期生まれだけど天才ゆえ(!)早めにこういうことに気づいて備えていけるから、まあそれでできる限りみんなと仲良くできればいいな。
 そのへん引き続き考えつつここに逐一書いていくのでチャンネル登録(ブックマーク)お願いいたします。ぜひスマホのホーム画面にこのホームページのURL登録してください。簡単にできます。

2022.8.22(月) ダチュラフェスティバル覚書(2)

(1)は準備段階での覚え書き。今回は本番直後の覚え書き。
 わが夜学バーを拠点とする高校生3名が「夜学集会(ヤガシュー)」を名乗り「ダチュラフェスティバル」というお祭りを8月19日(金)から21日(日)にかけて北千住のBUoYという場所で開催した。僕はさほどに関与していない。ごく初期の頃(5月くらい?)は会議みたいなのに参加することもあったけど、いつの間にかほぼ何も言う必要がなくなった。「よし、ここからはもう口を挟まないぞ!」と決意した瞬間があったわけではなく、ずっと一定に「もし何か問題があったら口出しせねば」と思い続けていて、そのまま終わった。
 初めて自転車に乗る時はうしろで誰かが押してあげるべきであろうが、安定して走れるようになったらもうむしろその手助けは邪魔なのである。これは教育の基本でもあるが、「対等」という世界にゆくためにも必須の態度。教えてあげよう、助けてあげようという意識のあるうちは、「対等であると仮定する」のが難しい。

 本番で僕は「夜学バー北千住店」というのを三日間出店した。「2階のカフェスペースで夜学バーをやってほしい」と言われてやったので、これは依頼であろうと認識し出店料は払わなかった!(払えとも言われていないのでたぶんよいのだろう。)僕および夜学バーはこのフェスティバルに一銭たりとも出資していない、むろんクラウドファンディングにも参加していない。「北千住店」をやるにあたっていろいろ買ったりはしたがそれは個人的な経費である。
 財政に関わったのは現金の立て替えのみ。僕が誘った相手への支払いだったので、義理とか仁義とかいうやつ。(別件の立て替えについては「本当にヤバくなったらまた言って」と断った。)
 ネットでも草の根でも宣伝はしたし、すべきと思うことはできるだけした。善意ではあるが慈善ではない。将来的に自分に利益があろうと思うことはしたし、そうでもないと思うことはしなかった。
 夜学バーはダチュラフェスティバルにおいて非常に絶妙というか妙な立ち位置で、「ダチュラフェスティバルの原点」という言われ方はしても、主催や運営ではないし、いち出店者とも言えないし協賛者でも協力者でもボランティアでもないような気がする。フィクサーっぽい感じはあるがさほど大したことはしていない。僕の具体的な功績はたぶん、「村上龍さんにメールしてみなよ!」とsakuくんを煽ったのと、「三ノ輪に『なにかし堂』っていう場所があるから行ってみたら?」とsakuくんにすすめたことくらい。でもべつにこれらがなくてもダは成立していたと思うので、ちょっとアシストしたくらいの話。
 あとは場所を無償で無制限に貸し出したことか。その「拠点感」が精神的支柱になっていた可能性はあるし、僕のほうにもその自負がもちろんある。「原点」というのは「出発点」という意味と「軸足」(座標上の原点Oのイメージ)という二つの意味があろう。そこからなにかし堂や新宿のROSSOをはじめさまざまな場所へと足を動かしていった。軸足の如何でフットワークには相当な差が出る。その自覚は「夜学集会」というネーミングにあらかじめ含まれていたのかもしれない。
 ともあれ、そのような曖昧でよくわからない立ち位置が僕には非常にやりやすかった。そういうポジションで最後までいさせてくれた3人に心から感謝する。ありがとう。当日も好きなときに行って好きなように行動して好きなタイミングで帰ることができた。僕には役職も役割も何も与えられていなかった。ただ2階でバーをやっている人、でいられた。ストレスがほぼなかった。ただ淡々と自分の仕事をすればよかった。じつに最高であった。
 それがそれで成立したのは、「ジャッキーさんは必要な時には必要なことをちゃんとしてくれるだろう」とか「なんだかんだ言って全体のことを見てうまいことやってくれるだろう」といった信頼を持ってくれていたからだと思う。また、「結局ジャッキーさんはどういう立ち位置でこのフェスティバルに関わっているんですか!」という不都合をたぶん誰も(少なくともそれほど強くは)感じていなかっただろうというのも、「曖昧で流動的な存在を許す」という柔軟さが彼らの中に根付いているからだろうと思う。それをもし僕以外の人にやったら大変なことになるのかもしれないが、僕が相手ならむしろそのほうがふさわしい、という直観があったのではないかしらね。
 僕は社会の人間ではないので、社会で当たり前とされている「契約」とか「ギブアンドテイク」「等価交換」みたいな感覚がものすごく希薄。「普通こうするでしょ」という感覚があんまりないし、あったとしても相手に要求はしない。常識を知らないわけではないので「あーそれは(社会の常識に照らせば)非常識だよね」と認識することはできるが、「常識的に対応しろよ!」とは別に思わない。
 だからこそ、2階に設置された「夜学バー北千住店」は解放区のようなものとして存在できた。ヤガシューたちも地下の本会場にいるときとはけっこう別の気分でいられたのでは。責任感とか各種のプレッシャー(圧力)みたいなものからほんの少しでも逃げられる場所であったなら幸いである。夜のお店ってのは機能的にそういうものですから、やはりあれは夜学「バー」であったといえましょう。
 2階は夜学バー以外の出店がなかったので、準備から撤去まですべて僕(と友達たち)がやったし、電気や空調も毎日僕が消して帰った。会場の方との打ち合わせも、2階に関しては僕が単独で対応したこともあった。おかげでたぶんヤガシューにとって2階はおおむね「管轄外」となった。だから「休憩所」として機能しうる。最終日以外はゴミもちゃんと自分で持って帰って、できるだけヤガシューと「仕事」みたいな関わりかたをしないように意識した。「これ会場のゴミと一緒に捨ててくれない?」と頼むこともできたかもしれないが、そうすると「仕事」の関係ができてしまう。また、ほかの出店者はゴミを持ち帰っているわけだから、無駄な「身内感」も発生してしまう。そういうノイズはすべて避けたい。
 2日めの途中で、地下に夜学バーのショップカードをどこにも置いてないことに気づき、本部に持って行ったら、「出店するなら3500円いただきますよ?」とか「協賛企業の方ですか?」とかいう煽られ方をしたので、一枚も置かずに持って帰った。「そういういじり方していい相手とちゃうねんぞ!!!!」という思いもありつつ、もう一つは「あー、やっぱこの空間に夜学バーを公式に持ち込む必要はないんだな」と理解したゆえ。危なかった。あのまま名刺を置いていったら「解放区」としてのパワーが弱まってしまったかもしれない。

 三日間、僕は数えるほどしか地下に降りていない。振り返ればそれも「解放区」演出の一環であった。できるだけ別の世界にいる特別な存在でありたかった。また「お店というのは開いていなければならない」という美学の皮をかぶった強迫観念のせいでもある。地下にいる間はお店を閉めることになる、それが性分として耐えがたいのだ。ウィルス曝露確率を下げる意図も少しはある。そして何より、苦手だから。
 体育祭の日、旧校舎一階の図書室の前の階段の下にあるリヤカーの中に寝転んで、太宰治の『駆け込み訴え』読んで悦に入っていた僕である。高3の文化祭の日に私服で別の高校の文化祭に行って、そのまま自転車で自分とこの文化祭にお客さんとして遊びに行くようなたわけ者が僕なのだ。とにかくずーっと「社会」の外にいたいらしい。徹底してる。偉い。
 僕の好きな『がくえんゆーとぴあ まなびストレート!』というアニメで、主人公たち生徒会役員は学園祭のあいだ本部にずっといなければならないから、自分たちが苦労して実現させた楽しいお祭りをまったく味わえない……という描写がある。そこで彼女たちは目を閉じて「わたしにもみえるよ」をやるわけであるが、なんのことだかわかんないだろうからとにかくブルーレイでも買って観てください。えー、つまり、自分たちが直接参加しなくても、目を閉じて「わたしにもみえるよ」をやれば、十分にお祭りを体感できるわけである。僕は2階でドリンクを作りつつ、あるいはお客の誰もいない間でさえも、「わたしにもみえるよ」と地下のお祭りに思いを馳せ、存分に楽しんでいたのでアリマシタッ。
『まなび』では学園祭の最後の最後、先生方の粋な計らいで役員たちもお祭りのクライマックスに参加することが叶う。僕もすばらしい友人たちに手伝ってもらって2階の片付けを爆速で終わらせ、地下に行ってヤガシューたちの最後の挨拶には立ち会うことができた。そしてそれだけを見てヒュッと帰った。

 記録として「北千住店」の詳細について書いておく。出店場所は一応カフェということになっているが、キッチンもカウンターも備品も何一つ使えないとのことだった。会場の隅っこにうち捨てられていた廃材みたいなのを組み合わせて湯島本店と似たようなL字型カウンターを造り、丸くて背もたれのない足つきの椅子を5つ置いた。椅子の高さがカウンターに合わないので、地下から平台を二つ持ってきて底上げした。ちょうどよい高さになった。平台がなかったら全然違う雰囲気になっていたと思う。ところで平台というものには「運び方」がある。普通に持つと一人だと大変なぐらい重いが、持ち方を覚えて慣れると同時に二ついける(危ないからやらないけど)。演劇部時代に培った経験が活きた。なんだかめちゃくちゃ嬉しかった。
 コーヒー(ホット/アイス)、ジュース、カクテル等を提供するための道具や資材を大量に持ち込んだ。冷蔵庫はかろうじて借りられたが冷凍庫がなかったので二日間氷が溶けないという保冷リュック(7800円)を買ってそこに角氷を二貫目(約7.5kg)ほど突っ込み湯島から毎日輸送した。すべて一台の自転車で。このためにブリヂストンのステップクルーズをメルカリで買い、OGKの27リットルで600gという軽量なリアキャリアバスケット(後輪荷台かご)を買った。
 ホットコーヒーは白い紙蓋のついたターコイズの断熱紙コップ、アイスコーヒーおよびソフトドリンクはあの「レインボー」紙コップ。お酒は強化プラスチックのタンブラーで、一個30円以上するやつ。これでないと氷を入れてグルグル回してカップを冷やし溶けた水を捨てる、という一連のバーしぐさがうまくできない。持った時の安定感や口あたりも良いので、思いきって合羽橋で買った。コースターとジュースストローは京島店で使ったものを。
 コーヒー豆はおなじみの「街と珈琲」(名古屋市南区呼続)から取り寄せ。電動ブレンダー(これが重くてでかいんだ)で粉砕し、大容量のブリタ(超でかい)の水を電気ケトル(これは副管理人添え木氏に借りた)で沸かして注ぐ。ドリッパーやサーバーも地味にかさばる。
 氷は網付きステンレス皿の上で貝印アイスピックで砕き、切子のアイスペール(でかくて重い)に入れておく。生レモンと生ライムも使ったのでまな板と果物ナイフも持ってきた。お酒はオールドのサントリージン(緑)とオールドのジョニ赤(私の隠れ家の純子さんから頂いたもの)、スピリタス。シロップは液糖(カリブ)、レモンジュース、ライムジュース、グレナデン、メロン(スミダ)の5種。あとはネーポン、タンサン(ウィルキンソン500mlを使用)、ウーロン茶。
 ステンレスの水差し、ステンレスの大きい軽量カップ、ミキシンググラス、シェイカー(SUNTORY)、ジガー、バースプーン、ギムレット用にカクテルグラスを一つだけ。
 あと細々としたものは書き切れない。個人的に勝利を決めた(?)立役者は「ねじのついた小さなフック」である。5つ使った。ゴミ袋、まな板、手ぬぐい、輪ゴム、マスクをこれにかけた。アイスピックとナイフの置き場にはちょっと困った。(原則としてお客の手の届く場所には置かないほうがいい。)
 メニューはヤガシューまちくた氏が書いてくれた。これには本当に助けられた。ありがとうございます。
 上水道も下水道も使えない(あるにはあるが即席カウンターからは距離がある)環境だったので大いに工夫した。ウェットティッシュと消毒液で随時手やナイフ、ジガーなどを洗浄する。巨大ブリタと水差し、電気ケトルに真水は常にためておく。下水がわりに黒いバケツと白いバケツを用意し、コーヒーなど色の濃いものは黒のほうに、その他は白のほうに捨てる。お客の飲み残しもここに捨てることになるので、白のほうにレモンやライムの切れ端が入ることがある。その時のためにステンレスのトングを(もちろん氷用のとはべつに)用意しバケツにかけておく。
 今回のやり方を応用すればだいたいどこでもお店が開ける。移動式夜学バーの可能性がさらに開けた、非常に意義深い営業であった。

 経験一応長いので、オーダーや片付けなどのタスクがたまった時にどのような流れで何をすればよいかを瞬時に設計して動くことがかなり上手になってきた。あんまり褒めてもらえないというか、たぶん見ているだけでは何がすごいのかよくわからないのだと思う。実際やってみると、僕は実のところめちゃくちゃすごいことをしているのであると僕は思うので、ここに記しておく。それは日ごろの営業でも同じ。たとえば5人連れのお客がそれぞれべつのドリンクをオーダーした場合、それらをほぼ同時に提供するためにはどのような流れを設計すれば最も速く効率が良いか、というのを瞬時に、ないし動きながら考えて実行するのはけっこう大変なのである。なぜほぼ同時に出すのかといえば、たぶんそのほうがいいから。全員のドリンクが揃うまで飲み始めない人とかいるし。んまあ5人連れなんてのは年に一度あるかないかだけど、だからこそその瞬間にものすごく腕が試される。急にエンジンがギュンギュン言う。
 僕は日ごろ、「場のつくりかた」とか「空間の演出」みたいなことをよく言っている。その具体として「複数の人に同時に話しかける」とか「立ち位置や身体の向きを意識する」とかがある。だけどまたそういう「場づくり」的なのに直接関わるような技術とは別に、単純に「ドリンクを提供する手際」みたいなのも大事だったりする。なんというのか、富野由悠季さんや庵野秀明さんは作品のストーリーや演出も素晴らしいけど、何よりもまずアニメーターとしての基礎技術がすさまじい人なのだというような感じ? いや僕そんなにお酒作るのとか上手じゃないんでもちろん富野さん庵野さんを引き合いに出せるレベルじゃないけど、まあそういう方向の。
 アニメでいうストーリーが空間の雰囲気や話す内容で、演出が空間づくりの技術、そこを支えているのがその演出を実現するための細々とした基礎技術、お店でいうとなんだろうか、やはりおしぼり出したりドリンク作ったりってところも含まれるんだろうな。あとお酒をおいしくつくるのはたぶん画力で、アニメの監督って画力そのものは超一流じゃないって場合もありますよね。それ以上に大切なものがあるというか。

 ダチュラフェスティバルの2日め、15時から18時すぎまでヤガシュー、武富健治先生、僕の5人によるペンタ談が行われた。そのうち正式にアップされると思うけど、ダチュラのTwitterスペースで生中継されていたのでその録音がまだ聴けるんじゃないかな。探してみてください。
 うまくできたところもたくさんあったけど、できなかったというか、ちょっとあれは恥ずかしいなとか、言い過ぎたなとか、誤解されたかもしれないな、と思うところもあった。全体にはとても良かったと思う。ある人から「あと3時間いけます」と言っていただけてとても嬉しかった。
 同じ5人によるプレ配信で物足りなかった部分は解消されていたというか、やはり初対面を含む複数の人間が非対面で話すというのは無理があった。肉体は大事。肉体があれば、話していない間も十分に存在していられるが、肉体がないと、黙っていたら存在は無に等しくなる。口数イコール存在になってしまう。肉体さえあれば、口数なんてただの個体差というふうにもできる。そのようにできていたなら今回は成功であった。
 また、非対面だと意思表明がすべて音声言語になるのもつらい。ラジオとスペースの大きな違いである。ラジオはふつう、喋っている人たちどうしは対面している。スペースはふつう、対面していない。
 たぶんスペースってのは二人が最も適していて、三人が限界。四人以上はちょっと難しいんじゃないかな。近いうち夜学バーの企画として「対談」ってのを始めたいんだけど、それはもう一対一を原則とする。ヤガシュー相手だったら四人でもいいかもしれないけど、僕とモエさん、僕とsakuくん、僕とまちくたさん、みたいに一対一でやるほうが面白いと思う。四人でやるならそのあとで。

 個人的には! ダチュラフェスティバルにおいていろんなものが繋がったことが僕にとっては面白かった。武富先生、ひのもと先生、わたしのような天気、なにかし堂、プチパリ、夜更けの人々、夜学バーの従業員やお客さん、遊びに来てくれた友人知人。いろんなところでいろんなふうに仲良くなった人たちが1カ所で交わる面白さ。これは本当にダチュラフェスティバルのおかげ。ナツメザクロエマさんとナツメザクロエマさんのファンのヒッピーとその友達のヒッピーに会えたのも超よかった。どんどん広がる友達の輪!
 このEntertainment Zoneというホームページは実のところ、それがしたくて作られたものなのである。開設当時の僕には、中学までの友達、高校のクラス、演劇部関係、インターネット(ドラチャなど)と、少なくとも四種の人間関係があった。そういう人たちがごっちゃになって見に来てくれて、掲示板やチャットで交流が持てたらどんなに楽しいだろう! というのが初期の原動力だった。「みんななかよく」をしたかったわけです。「活字芸術」というコンテンツはかなりそれそのものの状況になっていた。非常に幸福だった。そういう意味で僕にとってのダチュラフェスティバルは非常に素敵なものでありました。おつかれさまでした。ありがとうございました。まだ書き足りないことある気がするのでそのうち(3)を書くかもしれません。夜中になったのでおやすみなさい。

2022.8.18(火) 昨日の続き 「選ぶ」について

 選ぶことがしんどい、もう何も選びたくない、そういう気分が今のいわゆるZ世代くらいにはある、のではないかという仮説。
 そして「選ぶ」ということをあらかじめ放棄しているのがその次の世代になるのでは、という仮説。
「選ぶ」には「目の前に選択肢が複数ある」という状況が必要で、それが二つ三つだったらまだいいが、選択肢があまりにも多いとだんだんしんどくなってくる。
 そうすると(これもまた我田引水な展開だが)、選択肢という「環境」を出発点にするのではなく、「自分」を出発点にさせてしまえばいいという発想も出てくる。
「選ぶ」というのは、「与えられている」という前提がまずある。それを排す。「与えられたもの(所与の環境)から選ぶ」は過去となる。ただ「私はこうする」というだけになる。

「私には私の生き方がある それはおそらく自分というものを知るところから始まることでしょう」(吉田拓郎『今日までそして明日から』)
 52年も前に言われている。「こういうものがあるからその中から選ぶ」ではなくて、「まず自分を知り、それから自分の生き方ができてゆく」。
「選ぶ」ということは、「まず目標を決める」というやり方と相性がいい。
 目標を決め、そこに向かってゆく。その「目標」が自分にふさわしいオリジナルのものであればいいが、大抵の場合はそうではない。与えられた常識的な目標の中から、欲望に沿って選ばれる。目標とか夢といったものはおおむね「選ぶ」ものである。
 しかし「次の瞬間、自分はどうするか」という判断の積み重ねは、選ぶということからもう少しくらいは遠い。「何を選ぼうか」という考え方ももちろんできる。しかし自分というものと向き合い、見つめていれば、「何をするか」は自然と定まる。
 何も考えなくても「選ぶ」はできる。ただ指させばいい。ボタンを押せばいい。その単純な事実が人々をずっと堕落させてきた。

 谷川俊太郎さん(90)がインタビュー(東京新聞8月16日朝刊)で「平和を続けるため、どうすればいいでしょうか。」との問いに対し、こう答えていた。

 自分の平和な生活を守る。それを中心に据えるしかないと思いますね。僕は国家というものをそんなに信用していないんです。国家単位で考えないで、自分単位で考えればいいんです。自分が何か一つ、はっきりした芯を持って判断することで、戦争を遠ざけることができる。そういうふうに考えるしかないですね。
 本当に命を懸けて自分の生活を守る。それが反戦に結びつくと思うんですよね。個人から始まって、家族とか身近な人、愛する人に広がっていくわけです。でも、抽象的な広い範囲にいくと、愛国心がどうのこうのという話になる。そこまで広げないほうがいいと思います。

 そういえば前に、「ジャッキーさんの文章には引用がない(からすごい)」というような褒められ方をしたのですが、引用ならめちゃくちゃしていますね。でもたぶんその人も、「誰かの言っていることをそのまま自分の手柄にしようとせず、あくまでダシにする程度にとどめている」という意味で言っているのだと思います。これもまあダシです。ご紹介というか。オタクなので。
 この谷川さんの言っている内容に賛同したいわけではまったくない。ましてや戦争の話をしたいのでもない。「そういうふうに考えるしかないですね」という谷川さんの態度を好ましく思う。
「やっぱり自分、てことだよな。」(参考文献:小沢健二『DOOWUTCHALIKE』「意外な結論!」)という陳腐な結論に終わってしまいそうだけど、抽象に飛ばないで具体的にわかる部分をしっかりしましょうという、地に足のついた話。
 抽象の世界に飛べば無限にどこへでも行ける。果てしない。キリがない。そこには何もありませんよ。自分という個別具体の肉体が、抽象の世界に及ぼせる影響などないと思ったほうがいい。個別具体の肉体が影響させられるのは個別具体のものに関してのみだという謙虚さ(リアリズム?)が大事。「そういうふうに考えるしかないですね」と日本一の詩人が言う重み。
 みなさん(誰?)の大好きな、ゴミを拾いましょうとか節電しましょうというのはすべて「チリも積もれば」の発想なわけですが、「自分単位で考える」も完全にそのチリ積もなわけです。うまくいけば連動して大きなうねりとなり世の中は変わっていきます。うまくいかなければ泣きながら海岸のゴミを拾うだけの人です。でも世の中はほんの少しだけきれいになります。
 ゴミ拾いはかなり具体的でダイレクトな行為で、伝染もしやすい。しかもそれが善行であるということを疑う人はかなり少ないはずです。僕もけっこう好きです。そういうことを日々コツコツとやっていきたいものなのです。
 目の前にゴミが落ちていたら拾う、というのはけっこう「選ぶ」から遠いことです。

2022.8.16(日) ちゃんとブックマークしてます?

「選ぶ」は終わった。現代の人はいかに選ばないかに命かけてる。
 情報が多すぎるということはずっと言われている。ベストセラーになった林雄二郎『情報化社会』の発売が1969年。同じ著者が翌年に出した本のタイトルはずばり『高度選択社会』。90年代以降のインターネットの発達でいよいよそれが最高潮に、という感じなんだと思うけど、僕が実感したのはもうまさに今。いまがほんとに情報社会。
 情報が氾濫しきったあとで生まれた情報氾濫ネイティブが今の中高生あたりなんじゃなかろうか。Z世代は大体96年生まれ以降とされるが、90年代生まれだと多くはまだスマホ・タブレットネイティブではない。2000年代前半でもまだ怪しい。iPhoneの日本発売(ソフトバンク)は2008年、iPadは2010年、auとdocomoの参入した4Sは2011年。となると真にネイティブなのは11歳とかせいぜい14歳くらいになるわけだ。
 最近夜学バーによくいるまちくたさんという高2の人がTwitterで知り合った中2の13歳(ここまで名詞句)と二度ばかりお店でお会いした。その方はYMOやその周辺の音楽が好きで、どうもアナログレコードでそれを聴いているようだ。自ら欲して環境をととのえ、主としておこづかいで集めていると推察される。初めて買ったレコードがYMOのテクノデリックで、それが今年の5月。
「あーアナログって最近流行ってるもんねー」「やっぱ反動的にアナログに戻ってくんだねー」なんて話をしたいんじゃない。かの人はYouTubeやサブスクという無限の海でなく、アナログレコードという有限の沼へ自主的に飛び込んでいったわけだ。
 現代のインターネットには「おすすめ」という概念がある。もうみんな「選ぶ」ということがしんどいのでAIにそれを任せたいというわけだ。サブスクのシャッフル機能で流れてきた音楽を楽しむ。好きなのがあれば「好きだ」と思っていいねする。そうやって「好き」はどんどん広がっていき、量ばかり多くなり、溺れて息もできなくなる。その中から選ぶのは非常にしんどい、結局またシャッフルに頼る。
 めちゃくちゃテキトーなことを直観で述べるが、Z世代の前半のほうの人たちはまさにその「しんどさ」の中にいるんでは? しかしたとえば13歳とかの人たちはまた違う感覚で、「選ぶ」ことのしんどさをあらかじめ痛感しているから、かなり初期の段階でそこから逃げようとするのではないか?(もちろんそれは一部の多感な?人に限るのかもしれないし、上の世代にだってそういう人はいくらでもいるだろう。傾向や比率の話を、直観でしているだけ。)
 赤ん坊の頃からYouTubeとかで、動画を選ばされたり、AIの選んだ動画を見せられ続けてきた世代。「この中から選びなさい」と「この中から選びましたので」の大洪水。それこそ反動的な勘のいい人間なら「もう飽きた!」となるのは必定である。
 アナログレコードの良いところは、「知っている中から選ぶ」「持っている中から選ぶ」ということが原則で、知らないものは買えない(よほど大富豪なら別だし、ジャケ買いってのもあるが)し、持っていないものは聴けないというところ。CDでも似たようなもんだが、データ化の難易度の差が一線を画す。また音質の違いや物理的回転が可視化されることなどアナログならではの魅力的な要素も多い。サイズが大きいことや入手(購入)のハードルが高いのも重要なところ。「選び放題に選べる」ということはない。知ること、見つけること、買うこと、聴くこと、幾重もの段階を乗り越えてその音は耳に届く。
 14日の日記に、「あたらよ」という言葉について事前に調べなかったことでむしろ自分の満足できる作品が作れた、ということを書いたが、多すぎる情報はノイズになりやすい。森博嗣さんも最近たとえばこういうこととかこういうことを書いている。(暇な人は他の記事も読んでみてちょ。)
 やっぱ「運んできてもらう」のと「取りに行く」の違いは大きい。現代はほとんど「選ぶ」と「運んできてもらう」がイコールで、「取りに行く」余地がほとんどない。何かを選んでいる間に、次のものが運ばれてきて、ああ、これもあわせた中から選ぶのかとうんざりしていたら、「こちらで選びました」と勝手に再生されてしまう。その繰り返し。
 若ければ若いほど、その「運んできてもらう」ということに飽き飽きしてんじゃないか、というのがこの文章の言いたいこと。インターネットはもう「取りに行く」ものではない。「運んできてもらう」ものである。例外なのはこのような個人のホームページ。みんなちゃんとブックマークしてます? Twitterから飛んできてんじゃないっすぜ。アプリ一覧にショートカット作ってくださいよ。(やり方わかんなかったら調べてね。)
 13歳くらいだと、もう「なんとなく」のレベルで、「運んできてもらう」ことを拒絶して、「取りに行く」のほうを無意識に選んじゃうこともあるってことかな、とその人を見て思った。「目の前に無数のボタンがあるから押しまくる」っていうんじゃなくって、「どこかに何かを探しに行く」というほうへ行くのかもしれない。そうしたらこのホームページとか夜学バーみたいな「待っている」存在も意味を持つのかもしれない、なんて我田引水の希望を勝手に抱いてしまった。

2022.8.14(日) 近況 新刊の告知ふくむ

 4日(木)、日替わり定食コーヒーお菓子つき690円のお店→コーヒー350円の古い喫茶店→老夫婦の営むコーヒー350円のコンセントWi-Fi完備カフェという黄金コースを巡ろうと思ったら三軒目が定休日でウルトラ大雨ザーザーだったので仕方なく駅の近くの新しくできたカフェに入ったらものすごくお尻が痛くて泣いてしまった。なぜカフェはお尻を痛めつけるのか。お尻の骨がでっぱっていて肉付きもよくない僕のような人間を差別しているとしか思えない。腹が立って座禅組みながら3時間くらい読書したり作業したりして、雨が小降りになってきたから外に出たら自転車が消えてなくなっていた。この大雨になんと。カッとなってメルカリで自転車を買いました。つづく。ガストに行ってガストバーガー食べた。お尻はまったく痛くなかった。やっぱファミレスですな。ファミレスは喫茶店の流れの上にあるというのが僕の主張です。カフェとは別の流れ。

 6日(土)、友達のモニターとしてパーソナルカラー診断と骨格診断を受け「イエベ秋」「骨格ナチュラル」と告知される。ついでに新小岩あたりをめぐった。行ってみたかったのになくなってしまっているお店が多くてさみしかった。インターネットの情報はあてにならないものも多いから、実際行ってみるようにしている。
 駅の比較的近くにある小さな喫茶店がものすごく好きになった。ここに行くために新小岩へわざわざ行ってもいいくらいだ。モーニング500円。次に訪れましたのは魚屋さんと一体となった(?)喫茶店、おさしみ定食とコーヒーで800円だったかな。もう一件駅の近くのスナックみたいな喫茶店アイスコーヒー350円。折りたたみ自転車(キャリーミー)でぐるりと、合計10キロ弱くらい走ったか。そのままお店を営業。

 8日(日)、おかとくがおやすみだったのでしばらくお散歩して稲垣で夕飯(?)を食べてから浅草線に乗り西馬込で自転車を引き取る。ずっとアルベルト乗っていたので久々のチェーン車にテンション上がる。ママチャリと実用車の中間みたいな車種。やはり自転車はチェーン……チェーンですよ皆さん。
 17キロほどの距離を押して帰ってきた。途中大森であんず文庫に、高輪で仔猫に寄った。仔猫は創業55年、16年前(確か)に建て替えたそうで内装は綺麗だったが年季は細部に宿っていた。ママはソファに座ってマグカップでなんか飲みながらテレビ見ていた。看板にBeer&Barとあったのでビールを頼んだが酸っぱい。これは手入れの問題であろう。お通しも「これは食べて大丈夫なやつだろうか?」と思わされる風味があった(大丈夫だった)。しかしそんなことはどうでも良いむしろ風情であると思えるような非常に素晴らしい最高のお店だったのでお近くにおいでの際はぜひどうぞ。通りすがりにたまたま見つけて「ここだ!」と入店を即断した僕は本当に誉められるべきである。帰るときママに「またおいで」と言われた。また行きます。かわいいぼくだから。

 9日(火)朝、荒木町の喫茶店「私の隠れ家」の新体制がご破算になりましたとの連絡が入った。あわせて僕がそこに開設する予定だった古本屋(いわゆるひと棚店主)プロジェクトも霧消。「橋本治と岡田淳しか置かない」という世界一尖った選書にする予定だったのに……。仕方ない、夜学バーに「橋本治専門図書館」でも作ろうかな。
「隠れ家」は引退(?)するはずだった前店主がふたたび現店主に返り咲くことになったわけだが、すでに別のお店でも働いているしものすごく大変だろうな。近いうちに顔を出したいな。みなさんもぜひ。
 言いたいことはいろいろあるけど、僕もサイコパスできちがいな異常変人だからなんだか他人事とは思えない。(詳しくはインスタでもご覧ください。)

 11日(木)、新刊の制作を決心。13日(土)の17時までに入稿すればダチュラフェスティバル初日に間に合うようなので、頑張ることにした。まずデザイナー様にイメージを伝えて表紙だけ作ってもらう。この時点でまだタイトルも内容も決まっていない。12日(金)夕方にタイトルを思いついたので伝える。余談だがこのタイトルには「あらたよ」という言葉が使われている。まあ誰もこんな言葉使ってないだろーと思ったのだが、入稿してからなんの気なしに「あらたよ」でTwitter検索してみたらだいぶ手垢がついていた。ってか知り合いの書店兼出版社が思いっきりバーの名前として使ってて冷や汗が出た。まさかの丸かぶり。こんど謝っておこう……。知らなかったんです。もし事前に「あらたよ」を検索していたらこの言葉は絶対に使わなかったな。でも結果としていい本になったと思うので調べなくて本当によかった。僕のパクリ元(元ネタ)は万葉集であって、他の何でもありません! 信じてください!
 その晩の日付が変わって、すなわち入稿予定日の午前2時半ころにようやく本文に着手。表紙のイメージとタイトルから「こんな感じかな」と手探りで書き進めていった。
 ダチュラフェスティバルで売るのだから想定する読者は「夜学バーのことをあんまり知らない人」、だから夜学バーの紹介になるようなパンフレット冊子にしようと最初は思っていた。というかそれしか考えていなかった。書き始めてみたらタイトルに引っ張られてめちゃくちゃ詩的なモノになった。個人的にはけっこう好きなので、ぜひお買い求めください。内容はいつもの長い日記がそのまま本になったようなものでもあるけど、それをちゃんと詩にできたような気がする。分量は10000字くらい。6時半くらいにいったん寝て、10時半くらいに起きて、15時には入稿を終えていた。校正と入稿に30分として執筆時間は8時間くらいか。
 19日から21日までの「ダチュラフェスティバル」に出店する「夜学バー北千住店」で買えます。入場無料のイベント内なので本買うだけでもOKだし、チャージないしテイクアウトもできます。ぜひ。開店時間はなんともいえませんが昼すぎくらいから夜まではたまに休みを作りつつだいたいやっていると思います。午前中は怪しいので僕にご連絡ください(連絡先を知らないよ! という方! このホームページにはメールフォームがあるのですぞ!)。
 19(金)、20(土)の22-24時と、21(日)の20-24時は湯島のほうの夜学バーも営業するので、そこでも買えます。売れ残ればその後も夜学バーで買えます。100部しか刷らないしたぶん増刷もないのでお早めに。郵送をご希望の方は住所書いた返信用封筒と愛のこもったお手紙を入れて夜学バー(110−0005台東区上野2−4−3 池之端すきやビル301)まで送ってください。本の大きさは162mm×106mm、厚みはほんの1ミリちょいと思われます。重さはまだわかんないけど1冊ならたぶん94円切手でいける。本の代金は後払いで良いです。500円。小中高生はダチュラ会場だと100円。
 ちなみにダチュラ運営の高校生3人(夜学集会)と武富健治先生とのペンタ談もUPされています。ぜひ聴いてみてください。あとでTaking!のほうにも貼っとかないと。あ、それ言ったら文化系トークラジオLifeに出たときの音源とかもWebに残ってそうだから貼りたくなってきますな。「場の探究」とかも。でもそういうの始めたらキリがない。
 また20(土)の15時から、ダチュラフェスティバル(会場は北千住の「BUoY」)内で夜学集会、武富健治先生とのペンタ談で僕も登壇しますので、お時間ある方はぜひ。ROMってる人会いにきて「ヘビーリスナーです」って小声で伝えてください。
 そういやこのホームページのオフ会は「10年にいちど」って決めてるんだけど、20周年の第2回オフは緊急事態宣言中かなんかで惨憺たる有様だった。(細かく)刻んで25周年でやれば? と古い読者の方から言われた。確かにそうだな。四半世紀だし。検討しておきます。2025年7月11日いちおう空けといてください。

 お店の話。12(金)はお客が11名で近年ではかなり多く、13(土)は台風報道の風評被害もあってか4名、14(日)はなんとたったの2名でした。15(月)はどうでしょう。結果はそのうち日報に書くと思います。

2022.8.11(木) ドラえもんと僕

 善……宇宙……未来の輝き……優しさと美しさ……何より楽しさ……仲良し……仲良く暮らすということ……人として自然な反射的思考と行動……根底のユーモア……爆笑に次ぐ爆笑……それらを僕に植え付けた聖書『ドラえもん』。あまりに極まってつらい時にはもうこれ以外に頼るものはない。
 東京でひとり暮らしを始めてから15年、僕は畳(中野時代の4年間は木の板)に布団敷いて寝ていたわけだが、そこへ泥のようにへばりついて心死んでいた若き日の工夫に、いつでも手の届く場所、目に見える場所に『ドラえもん』のてんとう虫コミックスを置いていた。具体的にはおふとんの真横、本棚の一番下の段に全巻を並べていたのである。どんな時でも手に取れるし、そんな気力すらわかない場合にも目で見ることはできる。それにどれだけ助けられてきたろうか?
 最近はいっちょまえに「ベッド」なるもので寝ている。名古屋時代ぶりである。精神的にも安定しがちになってきたのでもう手の届く範囲に『ドラえもん』はない。だけども起き上がってピューと歩けばすぐ持ってこられるくらい近場にはある。同じ空間でベッドの上から視認もできる。扉つきの大きな本棚のいちばんいい場所で見守ってくれている。
 昨日と今日、近年稀に見る心調の悪さで、帰ってきてからはずっと様子おかしくギンギンに冴えてしまい、強迫観念のみをプログラミングされたロボットのように家事をして、昨夜は久々にほとんど眠れなかった。なんとか昼前に少しだけ眠って起きてまたロボットのように家を出てダルバートを食べ、喫茶店でコーヒーを飲みながら狂ったようにスマホでタスクをこなし、帰ってから夕寝をしたり『ドラえもん』をあらためて読んだりした。滂沱の涙。36巻、37巻、38巻と読み、いま39巻である。ああ、この人たちのような人々、この世界のような世の中は、なぜいま容易には現前せぬのだろう? そんなことを考えていたら親友(!)から自殺を仄めかす連絡があり、2248にきたLINEに2249に返信するもそこから既読なく、どうしよう家まで急いで自転車駆ってドンドンドンってしたほうがいいのかな? どうしよう? って思っているうちにまた頭が狂ってきたのでドラえもん読んで泣いたり呻いたり少し眠ったりして、こりゃもう死んだなー、もうだめです、落ちてから45分たちましたからとか思ってたら深夜2時くらいに返信があった。あーよかった。僕も普段ならもうちょっと冷静にいたのだろうが今回はあまりにタイミングが重なった。ここんとこあんまなかったような感じ。一年分くらい泣いたかもしれない。

 それにしても繰り返したい、「ああ、この人たちのような人々、この世界のような世の中は、なぜいま容易には現前せぬのだろう?」僕はいちばん好きなアニメとして『宇宙船サジタリウス』をかならず挙げるが、これを観ながらいつも泣きつつ上記のことをそっくり想う。どうして世の中はドラえもんとかサジタリウスのようになっていないのだろう? 僕が「世の中をよくする」と言う時、それは現実をよりドラえもんとかサジタリウスの世界に近づけるということである。聖書や宣教ビデオのほうへこの世界を寄せていこうという話でしかない。
 僕はマンガの世界でやっている。やってきた。これからもやっていく。楽じゃないけどそれしかない。
 
 今日は『ドラえもん』読む以外なんもやってないのかっていうと、意外とやるべきこと(やりたいこと)をチッとだけ進めたりはした。でも持続しない。明日か明後日のどっかで5時間くらいフルアクセルでやることになるだろう。原点回帰はその準備運動でもあったかもしれない。改めて、あらためて思うが、僕は『ドラえもん』の世界の外で生きていく気はさらさらない。(それはもちろん漫画版のいわゆる「原作」のみについての話であって、アニメ版や映画版その他のメディアミックス等々はいっさい関係ありません。僕は絶ッッッ対にそっちの世界では生きていきたくありません。『ドラえもん』を読んでいて大山のぶ代さんや水田わさびさんその他実在の人物の声が聞こえてきたことはただの一度もございません。)

2022.8.10(水) 好きなことと欲すること

「好きしかなくて関係がない」
 ↑あーまたいつもの話か、と思った人は現在Kindleで新潮文庫のキャンペーンをやっておりまして、橋本治『いま私たちが考えるべきこと』が半額ポイントバックですのでそれを買って読んでください。もちろん紙の本で買うのも大推奨。

「好きしかなくて関係がない」ということについて、すでに別の言葉で15回くらいは書いたような気がしますが、生きているとこのことを引き合いに出したくなるような出来事が頻発するので仕方ないのです。個別具体的な経験を抽象化して語ろうとすると、だいたい似たような話に落ち着いてくるのです。だったらもう書かなきゃいいじゃないかとも思うのですが、書くごとに洗練されていく「はず」だし、最近僕の文章を読み始めた人だってけっこういる「かもしれない」のだから、許して首チョンパ。

 でもせっかくだからもうちょっと進んだ感じのことを書きたい。
 世の中には、「好きなものと欲するものが同じ」人と、「好きなものと欲するものが違う」人がいる。


 A 好きしかなくて関係がない
 B 好きなものと欲するものが違う

 uー、これを絡めて書くと4時間くらいかかりそう。どうしよう。すごく中途半端に終わるかもしれないけどやってみよう。


 Aを簡潔にのみ説明すると、もちろん代表的なのは「恋愛」だがそれに限ったことではなく、どんな愛情や愛情表現に関しても。「○○が好きです」とは言って、ではその「○○」とその人がどのように関わりを持てるかと言ったら、べつにそんなにろくな関わりは持てない、という場合のこと。いやーよくあることよくあること。(←谷啓)
 Bは、「○○が好きです」とは言うものの、「でも実のところ××のほうが欲しいのです」という場合。簡単に言えば理想と現実。タテマエとホンネ。

 あなたの言っていることは私にとって非常に理想的だし世間的な(あるいは自分に対する)タテマエとしても完璧なんだけど、現実としてはあなたの言っていることを実践しないほうが私は多くの快楽を得ることができるのでホンネを言えば排斥したい。

 僕の孤独の源。だからこそ血反吐吐いて手を振り合える友達に愛を。
 いつもならこの8倍くらい書くんだけど今回の場合は別にこれで。

2022.8.5(金) 近況 縛る義太夫大女優いじめ京島あきいちこ

 最近まったく「日紀」のほうを書けていない。再開するつもりではあるが、とりあえず主だった出来事をここに記す。

 7月22日、友達が縛られて動画撮影されているところに付き添うボランティア。もう三度目くらいで毎回「なんじゃこのシチュエーションは」と思うのだが読書や雑務がとても捗るのでけっこう好きだったりする。
 縛られる側からすると、身動きが取れなくなるため二人きりで撮影をするのは怖いし、万が一縛ってる側が即死したりしたら自分もやがて死ぬわけなので、なるほど健康な第三者がその場にいたほうが安全なわけである。縛る側のかたいわく、「人に見られながらこんなことをするのは恥ずかしくてたまらない、本当は二人きりでやりたい、でも尾崎さんは変な顔ひとつせず平常心でいてくださるのでありがたい、尾崎さんだったら付き添ってもらってもいい」みたいな感じで、ある意味僕のことを認めてくださっていて、それがゆえ奇跡的に実現している「妙な時間」なわけである。
 僕はたしかに変な顔一つせず平常心でただそこにいる。10年以上の付き合いになる女友達が裸同然の姿で縛られて唸ってても特段心も動かず淡々と自分の仕事をする。狂ってる? それ、褒め言葉ね。いやべつに何も感じることないですよね。女の子のほうも平然とこなすし、着替えも僕の横で平気でしてるし。ある人がそれを希望して、ある人がそれを引き受けて、またある人がそこに立ち会ってくれと頼まれて快諾したというだけ。でもそこで行われていることを客観的に見るとちょっと面白い。

 7月25日、大隈講堂の地下に女流義太夫を聴きに行く。晩年、橋本治さんがけっこう深く関わっていた分野。あー僕は義太夫を聴いたのは初めてなのですが、橋本さんの言いたいことはなんとなくわかったかもしれない。これは意味とかじゃなくて、語ですらなくて、ただ一列の言葉のリズムなのだ。文学の音楽的要素とはまさにこれなのだ。緩急とか、ノリとか、響きといったものがたぶん義太夫のメインの要素。義太夫がわかるというのは「言葉が聞き取れて、意味がとれる」ということではなく、「このリズムに乗って楽しめる」ということなのだろう。

 7月26日、名古屋の児童向け劇団「劇団うりんこ」が新宿に来てたので観に行く。大女優ちぇりー氏がまたいい役で出演していた。同じ小学校の二つ下の子。すなわち添え木さん(このホームページの副管理人)に次いで付き合いの長い友達ということになる。
 感染対策の一環で、ロビーに役者さんが出てくることはなく、挨拶も交わせなかったが、すぐに簡単な感想を送った。『ヘンテコ鳥と、さかいめの3人』とても素晴らしかった。『オズの魔法使い』くらい良い話だった。そういう古典並みによくできたお話。
 演劇というのは昔から「進歩的な」思想を持っていると相場が決まっている。LGBT的なモチーフを取り上げる作品が本当に多い。うりんこでも『わたしとわたし、ぼくとぼく』というお芝居がまさにそれで、ちぇりー氏も出演し「俳優A賞」(けっこうすごい賞らしい)を受けていた。
 今回の『ヘンテコ鳥〜』でも、ちぇりー氏演ずる(彼女は合計10役くらいは演じ分けていたが、その中の最もメインな役である)「黄色い国の姫様」は「男の子になりたい!」と主張する。なぜかというと、「男の子=王子様でないと、跡継ぎ=王様になれないから」。
 細かい経緯は省くが、この姫様はすごーーく立派な女の子で、どう考えたってこの子こそが国を継ぐべきだし、もしも赤青黄という三つの国の統一される日が来るならば、間違いなく彼女がその旗手となって引っ張っていくべき、そういう偉大なる人物。それなのに「女の子である」という理由だけでリーダーになれないのだとしたら、世界の損失はあまりにも甚大すぎる。
 うろ覚えではあるが、主人公である3人の子供たちは、ラスト近くで姫様にこのようなことを言う。「王様になってよ!」と。それに対して姫様はこう返す。「女の子のままで?」
 このシーンは本当に素晴らしくて僕はちょっと泣いてしまった。そう、女の子のままで王様になればいいじゃん。なんだってそういうことでいいのだ。
 たぶんこの世界は「女王様」とか「女帝」みたいなものが存在しないのだろう。「王様になるには男の子でなければならない」という不文律(文律かもしれない)があるのだろう。その「常識」を偉大なるこの姫様が打ち破るのである。がんばれ! いけ! やっちゃえ! 姫様ならできるよ! と思わせてくれるだけの魅力が、この姫様にはあり、それは演技者たるちぇりー氏から湧き出るものである。役者由来の説得力がなければ、このシーンは決して感動的にならない。「この子ならできる」と思わせるのは、おおむね役者の力。
 僕もたいがいとっちゃん坊やというか、子供みたいな人間だが、わずか二つだけ年下のちぇりー氏も本当に女児みたいな人間である。とりわけ女児役をやっていると女児にしか見えない。去年『学校ウサギをつかまえろ』を観に行った時の、岡田淳さんと僕ら二人とのスリーショット写真が手元にあるのだが、まあ本当に幼い人たちなのだ。この写真は永遠の宝物となるであろー。
 彼女の、女児役として立つ時の女児としての輝きみたいなものが、「姫様」というキャラクターに命と信頼を与える。それで「女の子のままで?」という驚きと希望に感涙してしまう。
 僕が泣くのは「女の子のままで王様になって良い」という思想に対して、ではない。その美しき「驚きと希望」に、である。彼女はきっと、そんなこと考えたこともなかったのだ。王様ってのは王子様がなるものだと思い込んでいた。視界が一気に広がって、世界が明るい色に塗り替えられてゆく。「それでいいんじゃん!」と自分でも思えるし、「そうしてよ!」と心から願う友達が3人も目の前にいる。いやー、いいお話ですな。
 ぜひ劇団うりんこの大女優、藤本伸江さんの演技を一度。けっこう全国行脚していますので。9月は松本と京都で『わたしとわたし、ぼくとぼく』があるみたい。行きたいな。

 7月26日の夜、夜学集会と漫画家の武富健治先生と、5人でTwitterの「スペース」機能を使って話す。アーカイブそのうちアップされるそうですが遅れている模様。詳しくはそれ(と「反省会」と題された直後の回)を聴いていただければと思うのですが、途中で僕は明確にブチ切れております。ピンポイントで「ここ」 という瞬間がありますのでぜひ探してみてください。『走れメロス』でいうところの「それも私の、ひとりよがりか?」くらいの切り替えポイントがあります。
 いや実際にはべつに「おこってはいない」のですが、「ん? なんだそれ?」と僕が思った、はっきりとした瞬間がたぶんある。聴きかえしてないので正確なことは言えないけど。
 いちおう、僕がそこで引っかかった理由というのを少し書いておきます。ある人が「こういう感じ」というような(正確な言い方は忘れました)表現を使っていて、それに対して僕は、「こういう感じってどういう感じやねん!」と思ったわけです。「こういう感じ」と言うからには、それが「どういう感じ」なのかを、みんなが共有していなければまさに話になりません。ゆえにその後、そこを明確にしましょう、という流れに僕は持って行ってると思います。
 ディスコミュニケーション(交流不全)は「認識のズレ」から起こります。認識が合っていれば、意見や考え方がズレていても、同じ土俵で話し合うことができますが、認識がズレていると、そこに土台は生まれません。
 たとえばAさんが「仲良くしている」と思っていて、Bさんが「いじめられている」と思っている時。Bさんが「いじめをやめてくれ!」といきなり言っても、Aさんは「は?」なのです。Bさんが「あなたのその行為により私は非常に辛い気持ちになっております。私としましてはこれをいじめと認識しております」とまず表明しないと、AさんはAさんで「いきなり悪者に仕立て上げられた被害者」となり、「ああそうかい、だったらそういうことでいいよ!」と開き直って、これにていじめ関係は固定されます。(これはたとえ話であって、こうした表明によっていじめがなくなったり解決したりする可能性が高いと言いたいのではありません。ただ、こういう働きかけによって何かが是正される場合もあるとは思います。)
 仲良しの発想とは「対等」を仮定することで、それは「同じ認識(土俵)の上に立つ」ということを原則とします。

 7月27日、28日。「夜学バー京島店」最終回。楽しかったですが、相変わらずお客は僅少。感染者数爆増のせいもありましょうが、そこを前提としてうまくやれないとどのみちダメなわけで。いろいろ勉強になりました。
 京島店は墨田区京島にて週に1日、木曜日のみ開いた「喫茶店」。なぜこれを始めたのかというと、ごく簡単にいえば「墨田区で何かやりたかった」「湯島とは違うこと、バーではないことがやりたかった」というのが一番。その過程で「夜学バーおよび僕」のお客さんが少しでも増えればと。
 湯島と違ってアクセスが悪いので、「わざわざ型」ではなく「ご近所型」のお店にしようとはじめから思っていた。しかし僕にはやはり「ご近所型」の才能はないようだ。中野や高円寺とかなら別だろうが、京島ではとりわけ難しい。4月21日からほぼ毎週、13時から24時という長丁場で開き、「わー、本が置いてある」という感じで入店してくださった方は一人もいない。京島周辺は村社会で、警戒心が強く、「本」を象徴とする文系文化をみんなで愛でるような雰囲気もほとんどない(個人の感想です)。あの土地で「週に1日だけ開く文化的な飲食店」をイチから立ち上げるのは至難の業と感じた。
 だからこそ、「甘夏書店(およびカフェikkA)」やオープンな書斎「LE PETIT PARISIEN」のような場所には本当に敬意を表したい。前者は押上駅やとうきょうスカイツリー駅に比較的近く、後者は曳舟駅前という地の利も多少はあるが、それでも向島地区でああいうことをやるのは並大抵の苦労ではなかろう。鳩の街商店街にある自転車屋さん「千輪」や系列の「喫茶 千輪」なんかも非常に素晴らしい営みをしている。かれらがいてくれるおかげで、僕も潔く退けるというものだ。
 土地にもお店(アドリブ)にも思い入れがあるので、完全に撤退というわけではないが、ちょっといろいろ考え直さないと。あの土地では「夜学バー」的なものはやはり無理があるので、やるとしたら全然別のこと。いまのところ塾(寺子屋喫茶?)と思ってるけど、どうなりますやら。協力者求。

 8月3日、御徒町駅前にあきいちこさん来ていたので聴きにゆく。僕と同い年で、名古屋で活動していたシンガーソングライター。2005年ごろ奥井亜紀さんのライブにオープニングアクトで出ていて知ったから、ファン歴としては相当長い。それでも2015年に出たCDを持っていなかったということは、少なくとも7年くらいライブには行ってなかったということか。こちらも忘れておりませんし、あちらも忘れていなかったようで、よき再会の時間となりました。この度の演奏では2005年の曲も2022年の新曲も聴くことができた。時間はすべて同じところにある。

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