少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2022.1.31(月) ZOKU−SHINGO(1)
2022.1.24(月) 年齢差別/年齢同一性障害
2022.1.23(日) 選ばれる
2022.1.18(火) 軽犯罪のすすめ
2022.1.14(金) 孤独と文字と雨
2022.1.1(土) 晴れたれば、鮮やかれ。

2022.1.31(月) ZOKU−SHINGO(1)

 1月が終わります(実はもう終わってます)。2月1日の正午過ぎ、これからお散歩なんだけど、ケータイ(といつまでも呼んでやる)に電池がたまるまで。

 髪を伸ばしていますね。10代後半から20代前半くらいまではこのくらいまで伸びてからぐんと短く切って、を繰り返していました。たとえば高校時代の写真を見るとたまにこのくらい長い。このくらいってどのくらい? っていうと、デビューしたてのKAT-TUNくらい。KAT-TUNの誰? っていうと田中聖を除いた平均よりちょっと短いくらい。具体的には中丸くんくらい。亀梨くんだと伸ばしすぎだろうか。上田くんあたりが潮時だと思う。
 ひとまずはもうちょっと様子を見てみよう。でもこの長さの時に初めて会った人って、この長さの僕の像を永遠に抱き続けるのかもしれない。そう考えると「これが自分である」といつでも思えるような髪型で常にいるほうがいいんだろうな。僕にとっては。毎回違うってのにも憧れはするけど、やっぱり楳図かずお先生のようにしておきたい。

 1月28日に六本木ヒルズの「楳図かずお大美術展」に行ってきた。残念ながら前日の内覧会は抽選に外れてしまった。新作『ZOKU−SHINGO 小さなロボット シンゴ美術館』は本当に素晴らしかった。
 今回の作品にあたって楳図先生がインタビューなどで繰り返し話しているのが「元に戻る」ということ。2月1日(未来!)のNHK「おはよう日本」では「遠くへ来ちゃったからおうちに帰ろうよ」という言葉を使っていた。

 進化して、どんどんいっちゃって、あふれてしまって、壊れてしまう先に元に戻りましょうよと。もうちょっと、忘れてしまってもいいから戻ろうよ、とかっていう、生物的な意識というか、そういうのが働いてるような気がするので、もう、遠くに来ちゃったからおうちに帰ろうよ、って言ってるような
(2/1 NHK総合「おはよう日本」)

 僕は遠心的などといって「遠くへ行く」ということを重んじているが、ただやみくもに遠くへ行こうというのではなくて、ちゃんと「元に戻る」も同時にやらなきゃいけない。僕がいつまでも子供の時からずっと好きなものをずっと好きでいるのは、いつでも「元に戻る」ということができるためなんだと思う。楳図先生が武井武雄や初山滋の名を出すように、僕には藤子不二雄先生や岡田淳さんが元にある。散歩だってそうなのだ。毎日、元に戻るため僕は「歩く」のだろう。

 今の時代、だからコロナとか色々あって、あたふたしてるけど、それはだから、いったんちょっと、元に戻りましょうという意味もあって。だから、言い方悪いけど、僕あの、『ZOKU−SHINGO』の中……「人間退化」という言葉、書きました。退化って、ある意味、退化は必要なんですね。なぜかというと、進みすぎちゃって、変な、頭でっかちの特殊な進化の仕方は、それは状況が変わったらいちどきに滅びてしまうしかないので。それよりも「いったん元に戻りましょう」で。退化するって「元に戻る」ってことなんですけどね。戻って何をするかって言ったら、「受け入れる幅を広げましょう」って。広げといて、で、また進化しましょうって。それの繰り返しをやらないと、一方的に進化していくのは、それはなんか、特殊な隅っこのほうに進化してしまって、状況変わったら破滅しかないので。それよりも、元に戻って、普遍的なところをもう一回、もう一回おさらいして、身につけて、それで再び進化しましょうと。
(1月30日 NHKラジオ第1「マイあさ!」)

 元に戻る、そういう場所が必ずある。誰にでも。ないわけがない。「私にはない」と思う人がいるのはわかる。おそらくそういう人は、「小さい頃に自分が好きだったもの=元に戻る場所」だと思っているのではないか。「私には本当に好きなものなんて何もなかった」とか「私が好きだったのはろくでもないものばかりだ」とか。でも別に、元に戻るってのはそういう意味ばかりではない。これから出会うものが、自分の戻る場所だということだってあるはずだ。初めて会った人や、初めて訪れた場所に、あたたかき懐かしさを感じるように。

 髪を伸ばすのもいいんだけど、ちゃんと元に戻らなきゃいけない。「元」というのがあるのなら。
「髪を長く伸ばしてみて 元には何も戻らないと知るはず」ってフリッパーズ・ギターの歌詞にあるけど、きっとその状態は「元」じゃないのだろう。

 髪といえば僕は10歳の時と20歳の時に丸坊主になった。それぞれ事情があって。それこそ普遍的な状態というか、受け入れる幅を広げた状態なのかもしれない。30歳の時にしそびれたので、40歳でやろうか? とも思っているが、はてさて。数列的にその次は80歳なので、ちょうどいいような気はする。

 時間。いつかに続きます。

2022.1.24(月) 年齢差別/年齢同一性障害

「最後に残るのは年齢差別」と聞いたことがある。年齢で差をつけるのが差別であれば、それは解消できるし、すべきということだろう。
 性差による差別は、減らそうという努力が長年なされている。とはいえお手洗いやお風呂がすべて一緒になるとも思えず、「このくらいの差については認めましょう」という線引きの問題になっていくはず。少なくともまだ数十年くらいは。
 年齢についても「再チャレンジ」なんて言葉があったように、少しずつ差別を緩和していこうという動きはある。定年や年金が存在感を失いつつあるのも、ある意味でそれと同期しているとも取れる。
 成人年齢が18歳に引き下げられて、たとえば選挙権が18〜19歳にも与えられた。これも年齢差別の緩和である。もちろん選挙権が0歳にまで与えられる未来は想像しにくいので、これにも社会はどこかで線を引くだろう。
 ただ、小さな子供にも選挙権(あるいはそれに似たような何らかの権利)が付与される可能性はある。年齢で区切るのではなく、試験とかによって。18歳以上にはほぼ無条件で選挙権が付与されるが、それ未満の年齢でも能力に応じて選挙権(またはそれ的なもの)を得られるということである。そうなると「選挙権返納」という考え方も出てくる。「投票行為をまともに行えない」と自己判断した人間は、それを返すことができるわけである。再び得るためには、18歳未満が受けるのと同等な試験等が課される。
 給料が上がらない、というのも、年功序列の崩壊を意味している。まあそういう状況証拠?みたいなのを挙げ始めたらキリがない。世の中は「年齢差別の解消」のほうへ向かっている。その痛烈な副作用として年金や年功序列、終身雇用といったものは崩壊していくし、若くて「力」のある人たちがどんどん力を育てていって、若くて「力」のない人たちはいつまでたっても力を持てないという格差が広がっていく。年功の価値が失われるのと同時に、若いという価値も失われていく。
 たとえば若い女の子が「女」を売る相場もどんどん下がっている。コンカフェじゃ時給1000円でキャバクラとほぼ同じことをしていたりする。愛人やパトロンという言葉も死語となりつつある。今や若い女にそれほどの価値はない。パパ活が流行るのは若い女に価値があるからではなくて、むしろ価値がなくなってきたからだと僕は思う。
「老い」にも「若き」にもそれほどの価値がなくなり、「その人」そのものの価値をまず問われる。それが最後の差別たる年齢差別のなくなった世界である。

 ところで最近気づいたのだが僕は9歳である。Folderというダンス&ボーカルグループが『パラシューター』でデビューした時、中心にいた三浦大地くんは9歳で、すぐに誕生日を迎えて10歳になった。当時12歳だった僕は彼を見て「かっこいい!」と思ったものだ。つまり僕はその時「10歳の少年をかっこいいと思う」ような内面の持ち主だった。その眼差しは明らかに「下」でなく「上」に向けたものだった。
 アニメ『魔神英雄伝ワタル』の主人公、戦部(いくさべ)ワタルは大地と同じ小学4年生、9歳から10歳になる学年である。ちなみに1年後に同枠で始まる後番組『魔動王グランゾート』の主人公遥大地は5年生。僕にとっての永遠なる「お兄さん」たち。
 9歳や10歳の少年たちをいつまでも「かっこいいお兄さん」だと思って崇敬している僕は、せいぜい9歳くらいなのだろう。『ちびまる子ちゃん』は小学3年生で、あの人たちのことを「お兄さん」「お姉さん」と思ったことは(たぶん)一度もない。でもまるちゃんのお姉ちゃん(6年生)はいつまでも「お姉ちゃん」なのだ。
 そりゃー物語の視点人物に感情移入してりゃそうなるだろ、ってだけの話でもあるのですが、小学4〜5年生が主人公のアニメにいつまででも感情移入していられるってことは、まあやっぱりそういうことなんだろうと思うわけです。ちなみに大好きな『飛べ!イサミ』(1995)も5年生。そのくらいの人たちが大活躍するお話って、だいぶ少なくなりましたね。同じ95年に放映された『エヴァ』が14歳なのは象徴的だと思う。プリキュアもイナズマイレブンも中学生。シンカリオンは5〜6年生くらいらしいのでがんばってほしい。
 中学生の時に『絶対無敵ライジンオー』(5年生→OVA等で6年生)に引くほどどハマりしたのもすごくわかりやすい。本放送は小1だったのだが、たしか6年生の時に三重テレビで再放送してて急激に好きになってしまったのだ。どうも自分の内面ってのは、いいとこ5年生か、それに憧れる3〜4年生くらいなんじゃないかと思う。

「自分のことを何歳だと思うか」というのを「性自認(自分の性をどう認識しているか)」になぞらえて「年齢自認」と呼ぶと、僕の年齢自認は9歳。「自分は本当は男性なのに、生まれ持った身体的特徴から女性として扱われてしまって困る!」というのが性同一性障害であるならば、それの年齢バージョンは「年齢同一性障害」といえましょう。「僕は本当は9歳なのに、生きてきた年数から〇〇歳として扱われてしまって困る!」ということですね。
 なーにをゆっとんじゃ、とお思いかもしれませんが、そのような視点は差別です。これが最後に残ると言われる「年齢差別」というものなのです。
 何年生きたか、生まれてからどれだけ経ったか、ということだけで、社会・世間での扱われ方が決定されてしまう。これを差別と言わずしてなんなのでしょうか?
 それに対して僕が何かを主張するとしたら、「僕は9歳なのだから9歳として扱ってください」ということではない。「年齢で判断されることがもうちょっと少なくなるといいな」くらいのこと。
 9歳だろうが30何歳だろうが基本的にはどうでもいいということになったら、別に何歳として扱われようが問題ない。「自分はまあみなさんの考え方に合わせて表現するなら9歳といわれるような存在なんですけど、そんなことはどうでもいいじゃないですか」と。
「自分は男なんだから男として扱ってくれ」というのではなく、「男でも女でもどっちでもあんまり変わらないような世の中だったら困ることはかなり減るんだけどな」というような。
「自分はまあみなさんの考え方に合わせて表現するならFtMのホモセクシャルだってことにはなるんでしょうけど、だからなんなんですか? どうでもいいじゃないですか。私は私なんですが?」

 社会から男性と認識されている性自認上の女性が、とりあえず男子トイレや男湯を利用せざるを得ない状況にあるように、年齢自認が9歳である僕も、少年法で守られなかったり年金の納入義務があることは受け入れる。だけど僕が9歳であるということを誰にも否定はされたくない。
 性自認は女性であるが社会通念(常識)に従ってしぶしぶ男子トイレを利用するという人に、「お前は男子トイレに入ってるから男なんだよ」と言う人は間違っているし、悪だろう。性差別についてはひとまずそのくらいには成熟している。「年金払ってるんだからお前は9歳じゃないよ」と僕に言う人がいたら、同じくらい非礼なのである。

第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、年齢、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
(日本国憲法改正案J案)

2022.1.23(日) 選ばれる

「選ばれる」ことに執着する人。どうしても選ばれたくてたまらなくて、選ばれないと気が狂う。「なぜ他の人は選ばれるのに、自分は選ばれないの?」と、常に比較する。「選ばれる」というのには、同列に他人が幾人か並んでいることが前提にある。
 たいがいの不幸は「他人と比較する」ことから生まれると思うので、それさえやめればいいと単純には思うのだが、現実はそう単純ではない。
 たとえば「タバコやめたいなら吸わなきゃいいじゃん」「酒で身体悪くしたんならもう飲まなきゃいいじゃん」と言うようなのはある種の暴論だ。身体的な依存を払拭するのが難しいのはもちろん、「こういう場では吸うのが常識だ、飲むのが礼儀だ」といった意識も根強く心にある。習慣は意志や理屈でなかなか変えられない。「付き合い」もあるし、「キャラクター」もあるし、「アイデンティティ」もあるし、「人生の一貫性」もある。
「あれ? タバコやめたんすか? 日和ったんすねえ。頑なに紙巻きタバコ吸ってるのがカッコよかったのに」みたいなこと。
「え? 酒飲まないの? ぬる……。つまんねえ人間になったもんだな」
 ああ、おれの人生は青春時代からずっと酒とタバコとともにあった。それらをなくしたら、いったい自分は何をすればいいのかわからない。自分はどういう人間なのかさえわからない。安らげる人間関係のほとんどは喫煙所やバーにある。金だって何に使ったらいいかわからない。他人とどうやって喋ったらいいか、関わったらいいか、わからない。これからどうやって「自分」なるものと付き合ったらいいか、見当もつかない……。
 というような問題が、「人と比較するのをやめる」ということにも出てくる。「じゃあ自分は、これからどうやって生きていけばいいの?」
 人と比較しないと、自分がどういう人間だかわからない! 人との喋り方も、接し方も、関わり方も、何もわからない! 明日着る服さえ決められない!
 私を導いてきたのはいつだって他人だ。誰だってそうじゃないか! 人は一人では生きていけないんだから、他人と比較して、その上で自分の振る舞いを決めて何が悪い?
 確かにそれで不幸もあった。だけど幸福だってもたらしてくれた。これまで私を作ってきたのは「他人との比較」で、喜びも悲しみもすべてそれとともにあった。選ばれる喜びが私の幸福で、選ばれない不安や焦りが私を動かしてきた。それを奪うというのか! そんなことされたら、どうしたらいい。
 選ばれるということは、他人に決めてもらうということ。そういうことに慣れた人は「どうしたらいい」と常に他問する。他問他答が生きる知恵なのだ。自分で考えるより、自分のために真剣に考えてくれる人の言うことを聞いたほうが楽だし、その人が自分より賢いのであれば、むしろ確実ではないか。
 人と比べたり、人に意見を求めたりして、人に頼って生きていく。自分は空っぽでも問題ない。問題が起きたらまた誰かに頼ればいい。
 自立もよいが、自立できないなら自立しないでなんとか生きていく道を探るしかない。どちらもできないなら、どちらかの力を磨くか、うまくバランスを取るか、特に何もしないでいるか。
 何かを選ぶか、誰かに選ばれるように努力するか、何もしないでただ待っているか。苦しいのは当たり前で、苦しくなければ儲けもん。苦しみの先いつか苦しみのない世界にたどり着ける、そのための最も妥当な道筋が「自立」であるという宗教を、僕は信じるものであるが、そうでない信仰だってあるし、自立って簡単じゃないですからね。小乗というか、密教というか。大乗の顕教にすがって生きたほうが楽だ! という考え方を、否定する気はもうありません。

2022.1.18(火) 軽犯罪のすすめ

 友人が職場の忘年会で「軽犯罪をしろ!」と先輩から説諭を受けたらしい。それにめちゃくちゃ感激してずっと軽犯罪について考えている。
「ちょっとくらい悪いことできないと人としてつまんねえぜえ」みたいな話でもあるのだろうが、おそらくもっと含蓄がある。ここで「はい、じゃあ万引きしてきます!」とただ悪事を働くだけでは意味がない。言われたからするのではなくて、どうしてもしなければならないという強い思いがあってこそ、軽犯罪は光り輝く。

「ちょっとくらい悪いこととかしたほうがいいんじゃない?」というような言葉はたまに聞かれる。あまりにもつまんねえ人間に対しては、「お前ほんとなんか悪さでもしてみたら?」と言いたくなるのは人情らしい。真面目一辺倒の朴念仁にアバンチュール(火遊び)をすすめたり、ガリ勉坊やをディスコに誘ったり。それは「新しい世界を開かせる」というのが目的であろう。だがこういうのは劇薬で副作用も強い。マンガ的なパターンだと朴念仁は遊びほうけて家庭や仕事を顧みなくなり、ガリ勉坊やはハンパなグレかたをしてまともなレールから外れてしまう。
 僕がこれまで「軽犯罪のすすめ」について抱いていたイメージは以上の如し。それによって人生が明るく開かれることもあれば、暗く閉ざされてしまう可能性も大きい。一か八かの賭けである。しかし例の友人の話を聞いて改めて考えてみたら、順序を間違えなければ問題ないのだとわかった。
 順序とは。「なぜその軽犯罪をするか」という動機をはっきりとさせてから事に及ぶべきなのだ。朴念仁とガリ勉坊やの例では、「なぜ軽犯罪をするか」だけがあって、「なぜその軽犯罪をするか」という部分がハッキリとしていない。とにかく軽犯罪しちまえば勝ちだ! というノリで不倫をしたり酒を飲んで踊り狂ったりしても、「俺は軽犯罪をした!」という達成感だけが残って、目の前にはアウトローの世界。望んでたのはそんなんじゃないでろ?

「軽犯罪」が先にあるのではない。「何かをしたいと思ったとき、その結果として軽犯罪がある」べきなのだ。
 ある鉄道オタクが線路に入る。それは「悪いことがしたい」からではない。どうしても線路の上に立ちたいからなのだ。あるいは、そこからの景色を見たいから。写真におさめたいから。どうしてもそれをしたい、しなければならない、内から湧き出る強い情熱に突き動かされて、彼は「踏み越えてしまった」はずなのだ。
 我が身を振り返れば、僕は人生の中で何度となく「踏み越えて」きた。実は線路の上に立ったことも何度かある。いずれも十代の若い時分である。まず間違いなく電車が来ないタイミングで、誰にも見られないように、細心の注意を払ってそれをした。だから許されるというわけではない。真に軽犯罪である。ただ、そういうことの積み重ねによって「僕」が作られてきたというのは、まことに確かなことなのだ。
 入ってはいけないところに入ったり、してはいけないことをしてしまう。それを繰り返しているうちに遵法精神が薄くなり、いつか重大な過ちを犯す。それではいけない。常に自問しなくては。「本当にそれは、罪を犯してまですべきことなのか?」と。
 そこに葛藤が生まれる。犯罪とは「社会に背く」ということ。自分の欲求が一方にあって、もう一方に「世の中」がある。こちらを立てればあちらが立たない。世の中を無視するわけにはいかないが、自分を押し殺して生きるのも苦しい。そこで「バランスを取る」ということが必要になる。そうやって人は、自分と世の中との良き関係を築いていくのである。

 中学生のころ、こう考えていた。「チェーンの量販店で少額の万引きをするのはまあいいとしても、駄菓子屋などの小さな商店で万引きをするのは絶対にいけない!」と。
 いや、万引きは万引きで、どっちも犯罪で、したらカンだろ! というツッコミはさておき、中学生のジャッキー少年は、たまにダイエーで40円のコーラをパクるくらいのことは、ダイエーの経営からしたら誤差みたいなものだし、従業員が傷つくようなこともそうはあるまいと想像していた。ところで同級生のIくんは、とあるショッピングモールで『もののけ姫』を15本くらい一気に盗み、当然どこも買い取ってくれず、近くの駐車場に全部捨てたそうな。こんなことは絶対にしてはいけない。ビデオ屋の人はめちゃくちゃ困ったはずだし、傷ついただろう。新品のビデオ15本もゴミになってしまった(誰かが拾ったかもしれないけど)。量販店でも規模が大きければ誤差とはいえない。
 いや待て待て。40円のコーラでもビデオ15本でも犯罪は犯罪、40円のコーラだって積み重なれば被害は甚大だ。そんなことを許していいわけがない。
 さて、では、僕はダイエーで40円のコーラをパクっていたのか? もちろんしません。僕には「コーラを飲みたい」という強い欲求がないし、40円くらいならさすがに払う。
 ビデオ15本も、僕は盗まないし、加担もしない。許されざる行為である。イッシーは本当にヤバいやつで、なんか知らんけどそのへんの自販機のカギとか持ってた。どこで手に入れるんだ。元気でやってるだろうか。

 生まれてからずっとそういう冷静さを持っていたとまでは言わないが、いつしかそういう「バランス」を意識するようになった。40円を惜しんでコーラを盗むなんてことはしない。『もののけ姫』も盗んでまで観たいわけではない。費用対効果じゃないが、天秤にかける。しかし同じくらいの年頃、入ってはいけない場所に何カ所も入った。どうしても入りたかったからである。
 そこへ入ったことによって、誰かに迷惑がかかったかもしれない。あるいは、たまたまその時は大丈夫だっただけで、何か問題が起こる可能性もあったかもしれない。それでも僕は入りたかったのだ。それで「軽犯罪」に手を染めた。
 実際、それは悪いことで、僕は悪いことをした。その時の僕は「それでも僕はそれをするのだ」と思っていたけど、中学生くらいの幼い判断が正しかったとは言えない。するべきでなかった、と思うようなこともある。謝りたいこともある。ただ、それによって僕の価値観は作られていった。あるいは磨かれていったのは確かなのだ。
 お前みたいな価値観になるんだから、本当にあらゆる犯罪はするべきじゃないよな! と、僕を知るすべての人間が思うのであれば、僕の軽犯罪はたぶんすべてただの悪事であった。僕の価値観をすべてのみなさんが嫌うのであれば、僕はただの悪いやつである。もしもそうでないならば、「ジャッキーさんのおかげで助かった!」と思う人がけっこういるのなら、僕の軽犯罪はちょっとくらいは意味があったのである。
 たとえば、これも中学生のとき、初めて朝帰りした日のことを覚えている。きっと大きな心配や負担をかけただろう。一言「今日は帰んない」と言っておけばそれを許さない人たちでもないことはわかっていた。だけど言えなくて黙って夜を明かした。一晩中友達と遊んでいた。これも僕の言うところの「軽犯罪」である。楽しさと罪悪感が一緒になったその夜の気持ち、朝になって家に帰った時のドキドキ、普段通りに接してくれたお母さんの優しさ、それらすべては僕の記憶の中で光り輝いている。必ずしも良い想い出というわけではない。やっぱり一言「帰らない」と連絡すべきだったと後悔はしている。だがその時の「どうしよう」という葛藤が僕の心を育て、失敗は経験となり、また図らずも両親をよりいっそう好きにさせた。
 これまでに傷つけた人たち、迷惑をかけた人たちはいっぱいいる。謝っても謝りきれない。それを正当化したいのではない。せめてその経験を、これからに活かしていかねばと思う。

 軽犯罪。これは何も法律で裁かれることのみを言っているのではない。あらゆるちょっと悪いこと。ずるいこと。してはいけないとされていること。それは自分と他人(または社会)とのどっちを立たせるか、という問題である。軽犯罪をするというのは、世の中とのバランスを考えることなのだ。ここでは自分を優先して、ここではあっちを優先しよう、というような判断の積み重ねが、軽犯罪歴であり、それはほぼその人の価値観や美意識そのものである。この理論でいくと、軽犯罪をまったくしない人は、価値観が社会とまったく同一になる。そういう人が「自分がない」と言われるのである。
 ある程度のリスクや迷惑を承知した上で、自分がどうしてもしたいこと、すべきと信じることをやる。それによる利益と不利益のトータルは絶対にプラスでなくてはならず、かつ自分だけでなくいつか他人や世の中に還元されていかなければならない。軽犯罪をすることで、その人がいいやつに育っていくのであれば、少しくらいは目をつぶらなくてはならない。将来的に、その人が世の中をよくしていくのだから。これは教育の話でもある。
 いかに、できるだけ迷惑をかけずに、自分のしたいことを通してしまうか。高度に熟達した軽犯罪は善行と区別がつかない。

2022.1.14(金) 孤独と文字と雨

 ただ一切は過ぎていきますな。
 昼過ぎまで寝て、ぼうっとしてからコーヒー飲んで散歩に出た。森を歩く。せめてもの自然に慰められる。ただ静かにしていたい。
 水木金と休んだが、けっきょく昨夜は用があってお店に行ったしお酒も飲んだ。なんだかまだリフレッシュできていない。もうちょっと休まねばならない。
 孤独を欲しなくなるということは、自由が要らないということかもしれない。自我をと言ってもいい。かりに家庭を持って幸福で、「一人の時間がほしい」とあんまり思わない人がいるとしたら、溶けて家庭と一つになっているってことかもしれない。
 平均的な家庭人にとって一人の時間は、欲しくともたぶん現実的でない。日常的には居酒屋の一人飲み、散歩、喫茶店といったくらい。ただその時間はごく短く、また完全に一人でもない。
 山に登るとか、自転車で走り続けるとか、または釣りのようなことが手軽な孤独だろう。ある種の大人はそういった趣味を好む。
 インスタントな孤独であれ大人になると貴重である。人は欲深い、真に孤独であれば孤独など望みもしなかろうが、手に入らなくなれば欲しくなる。ある家庭人はお手洗いの中にしか孤独の安らぎはないとまで言う。

 隠れて、今年のテーマは「孤独」である。昨年末から構想し始めた新作長篇まんが(30ページ!)のタイトルはすぐ決まった。ずばり『孤独』。僕にはいま、孤独である悲しみと同時に、孤独なくしては生きられないという達観も大きなテーマとしてある。
 僕が自由に、自我を強く持ち、何にも溶けないで生きてゆくには、孤独が絶対に必要なのだ。ああ、誰にもわかってもらえない。さみしくてたまらない。何も知らないまま僕を攻撃してくる人がいる!
 その孤独が宇宙の混沌から僕を切り出してこの形にする。それを見てみんなは「かっこいい」とか「かわいい」と思ってくれるわけなのだ。

 こうして文字を書いているが、多くの人は文字を読まないし、読んだとしても、一字一句しっかりと、論理を追いながら読もうとしてくれる人はごく少数で、その中で、的確に論理を把握できる人などさらに少ない。そして僕の書く文章のように、いくら論理を追っても答えや結論らしきものは見つからず、「ここは何を言っているのかまったくわからない」「ここから先は突っぱねるようにうち捨てられている」といった未開を巧妙に(僕はそのつもりです)ちりばめてある文章だと、「まったくわからない」か「勝手に分かった気になる」かのどちらかになりがち。僕としてはぜひ「わかったような、わからないような」というふうに思っていただきたいし、欲を言えば「ここは論理が通っているので意味がわかるが、ここは論理がうち捨てられているので正確な意図が読み取れない」と精緻に考えてほしいけど、そんな負担を読者様に強いたくもないので、「はぁ、わかるような、わからんような」くらいで済ませていただけると幸いです。もちろん「ジャッキーさんが書いていることはよくわからんが、それはそれとして自分はこう思う」と勝手に発展していただけたら一番嬉しいです。
「ジャッキーさんが書いていることはよくわからんので、何かをジャッキーさんのせいにすることはできないが、とりあえずジャッキーさんが書いているものを読んで自分はこう考えた」というのが僕の理想だというわけですね。
 歌の歌詞とかってそうだと思うんだけど、「ああ、これはこういうことを歌っているのかもしれないな、そう解釈すると、すげーいい曲じゃん!」ってことがよくあって、それと同じように、「ああ、ジャッキーさんはこういうことを言っているのかもしれないな、そう解釈すると、すげーいいことゆってんじゃん!」っていうふうにしたいわけなのだ。
 もちろんその逆に、「うわ、ジャッキーさんはこういうことを言ってるのかもしれないな、そう解釈すると、すげーやなことゆってんな!」ということもあろう。でも、僕が本当にそういうことを言っているのかはわからないので、無罪放免になる、してほしい。疑わしきは罰せずの会。

 たとえば僕はH jungle with T(ダウンタウン浜田雅功と小室哲哉)の『FRIENDSHIP』という曲が好きで、歌詞についてものすごく下駄を履かせた素晴らしく美しい解釈をしている自信がある。誰もがそう解釈するかはわからない。それはたとえば『ふたりはプリキュア』とか『まなびストレート!』といったアニメについても同様である。下駄を履かせた素晴らしい解釈を僕はしている。いずれも、制作者がそのつもりで作ったかどうかはどうでもいいし、他の人がどう解釈するかはまったく別の話である。ただ僕の心の中で優しく輝き、僕の人格をきっと豊かにしてくれている。その事実をもって僕はそれらを賞賛し、愛する。
 すべてはあんたの中で育っていくもんなのだ。その自覚が肝要。わたしの中に何があるかがただ大切。積極的に傷つけてくるものからは身を守らねばならないが、自分から取りに行くものについては、自由に取捨選択して、自由に解釈して、自由に糧としようではありませんか。

 文章をマジでみんな読めない。それは「わかる」と「わからない」の峻別がうまくできないからだと思う。この「わかる」というのは共感とか納得ということではなくて、単純に意味がとれているかどうかということ。
 ここでいう「わかる」というのは、書かれている意味内容が理解できているということである。肯定するか否定するかはその次の話。で、「わからない」というのは、「これはわからないな」というふうに保留することである。普通の人はこれをしない。
 では、その「普通の人」が「わかる」もの以外をどのように処理するかというと、何の処理もしない。認識しない。
 普通の人は、文章……というか文字列の中から、「わかる」ものだけを取り出す。その他を廃棄する。いやいや、捨ててはいけない、「ここにはこのようなことが書かれているが、これについて自分は十分に把握できていない」というふうに、取り分けて別の皿に置いとかないと。

 SNSでは、書かれていることのうち自分が「わかる」部分だけを切り取って理解し、その他の文字列は無視してリプライをする、というのが日常茶飯事。パッと文章を見たときに、自分が「わかる」部分だけが目に入る。脳はそれだけを認識して意味を取り、その他の部分を捨ててしまう。このときに、「別の皿に移す」ということをしておいて、投稿する前とかに「ところで自分は何を取り分けたんだっけな?」と点検をすれば、「あ、しまった、このリプライじゃ的外れだ」というような踏みとどまり方ができる。しかし、普通の人は普通、そんなことはしない。

 文字をよく書き言葉をよく喋る僕の孤独というのは、多くはこのような普通の人の性質によって強化される。恨むつもりはない。そういうものなのだ。雨が降り風が吹くように、そういうふうにできている。文字なんか書くほうが悪い、という考え方だってあるのだ。
 雨に濡れた! って言って怒る人。傘をさして合羽を着て長靴を履くか、そもそも外出しなければよいではありませんか。文章を書くというのは、「それでも僕は雨具なしでお外で遊びたいんだ!」というような無鉄砲のワガママである。それで「濡れた!」と怒るのはお門違い。濡れるだろ、そりゃ、っていうだけ。あー、やっぱ濡れたな。
 でも、雨の中を傘もささずに走るのは楽しい。だからやる。
「いや予報では晴れだったのに、急に降ってきたんですよ!」ということもある。寝耳に水のようなトラブルも、そりゃ、あることだ。楽しむか悲しむしかない。

 問題は、一緒に遊んでくれる人が少ない、ってことだけ。それで孤独になるんだけど、いったんは孤独になって雨の中で遊ばないと、「楽しそうだ」って言って寄ってくる人もいない。僕が全然儲かんないお店をやってるのはそういうことなのです。友達がほしい、たった一人だけ。雨が大好きで夜が大好きな。

2022.1.1(土) 晴れたれば、鮮やかれ。

 デシ(1993生)が「ピアノはブルジョワの暴力! 宅建を取れ!」と言っていた。勢いで宅建と簿記の本を買ってきた。なぜ簿記がついてくるのかというと、そのデシがいま経理の仕事をしているそうだから。高校(103)の友達に「間借りでバリスタやってるフリーランス経理」というのがいるからでもある。
 彼女は法学部出身なので宅建は比較的有利だったと見える。宅建は民法らしいから(雑な表現)。「ジャッキーさんに足りないのは法律」と別の元法学徒から言われたこともある。なるほどなーと思ったので、2024年入学を目処に都立大の法学部を狙います。公立なのに共通テスト含め3教科で受験できるそうなので。そういえば恩師である浅羽通明猫先生も法学部卒で司法試験通ってるし、あひる社の吉本社長も法学で修士取っている。僕が法律を知らずして誰が知ろう? ってか処女作が『たたかえっ!憲法9条ちゃん』なのだぞ? 法律やらなきゃ!
 そういうわけで今年はだらだらそれらに関する本を読んでいこうと思っています。いけそうだったら試験も受けます。資格は教諭免許状以外にまったく持っておらず、英検すら受けたことがありません。何か持っていても今後役立たせるつもりもないのですが、役立ちそうにないからこそ若干はやる気が出ます。必要があることのほうが面倒くさいみたいな分野ってありますよね。
 と、いうのはすべて皮算用。きっと途中でほかのことに興味が出てきて、こういったことは忘れられていくのでしょう。どのていどまでかじれるだろう。

 お店について。12月後半からじわじわと感染者数が増えております。もともとの計画として、年末年始をほぼフルで営業し、成人の日を過ぎたら休みまくろうと思っていたのでちょうどいい。11日まで営業し、あとは16日以降の木・日のみ営業というので今月と、ひょっとしたら来月くらいまではやります。
 これ書いてる今現在はじつは12日の夜中なのですが、今日ついに東京の新規感染者数が2000人を超えました。11日までは最大で1200人ちょいだった。ここからしばらくは増え続けると思います。せいぜい静かにしていましょう。
 けっこう忙しかったので日記の更新も遅くなってしまった。しばらくゆっくりして、文章を書いたり漫画をつくったり(12年ぶりくらいに短編集出すよ!)本を読んだりいろいろします。

【14日深夜追記】
 ここんとこの東京都の感染者数まとめときます。あとから見たら「歴史!」って感じになると思うので。

 7金 922人
 8土 1224人
 9日 1223人
 10祝 871人
 11火 962人
 12水 2198人
 13木 3124人
 14金 4051人

 連休が11日までの数字を抑えた(そういうものなのです)とはいえ、あまりに綺麗な急増。12日から縮小しようというのはもう年末には決めていたので、よい読みだったと僕は思う。夜学バーはこの2年、「逃げ足」をめちゃくちゃ鍛えてきた。詳しくはそっちのHPの文章に詳しいけど、感染の流行を先読みしながら営業のしかたを変え続けている。11日の時点で1000人前後いるんだから「逃げ切った」とは言わないけれども、鮮やかなタイミングですよね。長期休業ではなくて、お正月休みを兼ねて休みがちになるだけ。気にしながらみなさん(こんなん読んでる全員!)慎重においでください。実効再生産数が鈍ってきている(上昇率とほぼ同じ下降率)らしいので近々また減っていくのでしょう。建国記念の日くらいには落ち着いてきているといいけど。
【追記おわり】

 くだらない計算をしてみよう。夜学バーの維持費(僕の収入を0としたランニングコスト)を月に15万円とする。原価率をかりに25%とすれば、20万円の売上でちょうどまかなえることになる。木・日のみ営業ということで、月に9日とする。平均22222円の売り上げが必要である。客単価を2000円とすると(ならすと実際このくらいなのです)11人の来店が毎回必要。うーん、無理ですね。
 月に9日で、うち半分(日曜)は昼営業。2回に絞ることによってお客が集中しやすくはなるものの、外出を控える心的要因もかなり大きい、とするとたぶん、多くても10万円、直観としては7~8万円くらい。赤字が7~8万円出ると思われる。
 夜学の通帳を見ると面白い。開店から少しずつお金を貯めて、1年半で100万円。そこで人件費をちょっと上げたら見事にだんだん減っていき、1年ちょっとで52万円まで減る。60万円くらいのときにコロナ流行、売上はガクンと減るものの、みなさまのお志(存在への対価)のおかげでなんとか耐え抜く。しかし2年間かけてじわじわ削られて現在は23000円。虎の子の蓄えは他にあるので破産することはないが、それにはあんまり手をつけたくない。退去とか移転とか新規開店(2号店!?)のためにとっておかねばならない。借金はしたくない。(これが名古屋人の経済感覚というものである。)
 2月くらいまでは週2日の営業でもなんとかなると思うが、3月くらいにはまともに営業できないと厳しい。逆にいえば2月までは休みがちでもそんなに問題はない。できればまた少しずつお金を蓄えておきたいので、様子を見ながら営業日を増やしていくつもりではあるけど。どうなることやら。
 さっきの計算をさらにアレンジしてみる。平時なら1日平均の売り上げ15000円が「存在維持ライン」である。これより恒常的に低いようなら店を畳むことを考える。来店を控える心的要因が特にないまたは薄い場合は、このラインが実現されるものとする。
 この「平時の存在維持ライン」には僕の給料(すなわち生活費)も当然含まれるのだが、これをひとまず無視し、上述の「売上20万円」という「緊急時の存在維持ライン」を考えてみる。家賃や光熱費等がまかなえるライン。
 15000円から逆算すると、13.333…日営業すればよい。週3日だとだいたい13日になる。営業日を減らすぶん少しくらいは1日ずつの来客数は増えるのではないかと思うので、ちょうどよいかもしれない。
 すなわち、夜学バーはたとえば木金土のみの営業でも、「緊急時の存在維持ライン」を確保できるはずだというわけである。うむ。夢の週休4日である。生活費はなんか別のお店でバイトとかして稼ぎたい。

 年末年始のことを何も書いていなかった。ほとんどずっとお店にいたので夜学バーの日報に詳しいです。
 個人としては、服を直したのが大きかった。コートを2着とパーカーとジャンパーを修理に出した。ジーンズも2本いま出してる。面倒がりと先延ばし癖で、こういうことがなかなかできない。おうちの整理やなんやかやもできたらいいなと思っております。

 1月11日の話。早起きしてペリカンのパンを買いに行き、いったんそれをお店に置いて、根津の某喫茶にモーニングを食べに行った。火曜と金曜にいるおばさんは本当によくしてくれる。もちろんその他の曜日にいるママも本当によくしてくれる。ママからは「ぼく」と呼ばれたことさえある。お手洗いに入っているあいだに「かわいいわねえあの子」と噂しているのが聞こえたこともある。僕はほんとうにかわいいぼくなのである。
 モーニングが550円から600円に値上げされていたが、明らかに900円くらいの内容なのでそれでも安すぎる。具の詰まったおにぎり二つにお味噌汁、おかずがたっぷり(多いときは10品近く出た)。今回はデザートにパイナップルがついた。そしてコーヒーにお菓子まで。
 ホクホクしながらお店に戻る。三河島の某喫茶にも行こうと思っていたのだが、思いのほかおなかいっぱいになってしまったのでやめた。そこは問答無用でトーストとゆで卵が出てくるのである。今度にする。
 湯島の某喫茶にパンを届ける。満席に近かったのでお茶はご遠慮した。雨が強くなってきていた。
 着ていたダッフルコートは一番上の革ひもが一つちぎれている。2年くらい放置してしまっている。お直しに出したら「革ひもをご持参ください」と言われたので、探さねばならない。自転車で三筋まで戻り、マルジュウという革屋さんに行ってみた。小売店というよりは事務所のような感じで、思った雰囲気と違う。入り口近くに作業台のようなものがあり、奥にデスクルーム。そこに2人のおばさんが座って何やら仕事している。若干気後れしたが勇気を出して中に入り、「ご相談したいのですが……」と切り出すと、おばさんたちはすぐさま席を立ち、高速で「あれはどう」「これじゃだめ?」「3ミリよ3ミリ」「4ミリでもいけない?」「あれ、ほら、なかったかしら」と、僕のダッフルコートに合いそうな革ひもを探してくれた。最終的に奥のほうから鹿革らしきひもを持ってきてくれて、「これでいいじゃない」ということで決まった。「日に焼けるといい色になるから」とのことで、楽しみ。「あげる! 直すっていう意気込みに惚れた! 何かあったら思い出してちょうだい」と格好いい。頂いてしまった。直ったら冬のうちに見せに来ないといけない。
 今度はジーンズをデニム修理屋さんに持ち込む。浅草橋はすごい。兄のブランドのジーンズを2本。履きすぎていろいろ傷んできているのだ。片方は2000円+税、もう片方は10000円+税で、合計13200円。安くはないが、ちをわけたきょうだいの名品なのだ。大切にする。
 そして近くの某喫茶でお茶。世間話を少ししたり、お年賀をいただいたり。もらってばかりである。お返ししないと、って思いつつ、なかなか難しい。輝くばかりでも足りないんだよなあ。
 ものをあげる、っていうのが昔から僕には難しい。ハガキくらいは気軽に出したいと思っています。これも今年の目標ですねい。
 こないだエアメールを出したのは僕にとってはけっこう大きな経験。安いんですね。もっといくらでも出していい感じがした。あんまり海外に友達いないんだけど。千ちゃんとかに送ってみたいな。

 あ、だから文章を書くのか。本を作ったり、ホームページを更新したり。

 今年も当たり前のようにこの日記は更新され続けるでしょう。それは目標として掲げるまでもない。大切なことは勝手に進行していく。そういうものをあると思えるのが僕の幸福なところ。
 しばらく書かなかったので、書く材料はいくらでもある。困ったな。

 こないだとある方から昨年12月26日の日記「一対一対応の野蛮さについて」ってのを褒めてもらった。あれはもちろん「恋愛などない」っていう一連の僕の意見の延長にある。人を好きだと思う気持ちは実在するし、それはとても素敵なものである。だからこそ、それを「恋愛」というパッケージに押し込める必要はない。借り物のストーリーに当てはめて幸福を水増しするのは本末転倒である。しんじつのあいにいきよう! と。
 自分の気持ちも、誰かとの関係も、唯一無二のもので、名前などない。そういう意味で「恋愛などない」。恋愛なんつうカテゴリに収まるような気持ちも関係も、本当はない。むりやりそれを「ある」ことにして、人工的な幸福感を吸い上げているだけ。
 カテゴリやジャンルで分けるのは手抜き。するとしたら、便宜上のことでしかない。その自覚が大切。すべての分類は冗談でしかない。一時的に、便利だから、面白いからするってだけ。
 これを僕はずいぶん昔から、少なくとも10年以上前から言っていると思うんだけど、最近ようやくというか、目に見えてそういう感じの意見が増えてきたように思う。今はまだ「多様性」とか言って、むしろカテゴリを細分化して増やすことも流行ってるけど、そのうちそれすらもなくなって、ごくシンプルな「自分は自分」ってことに収束していく。
 これからはそういう時代になっていくといい。そしてジャッキーさんが最先端だったことを30人くらいの人が褒めそやしてくれるといいなと思っております。
 その源流はたぶん岡田淳さんの『扉のむこうの物語』。未読の方は今すぐに。再読の方はなるはやに。

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