少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2019.8.26(月) 自主制作と自己実現
2019.8.25(日) 世の中をよくしようと思っている店
2019.8.18(日) 芸術家の要件
2019.8.12(月) 対等区対等
2019.8.10(土) 恋愛、かわいい、好き
2019.8.4(日) すんごい15歳

2019.8.26(月) 自主制作と自己実現

 世の中は自主制作に満ちている。以下は「以前お店で働いてくれていた人」の言葉から着想を得て考えたこと。

 ものの質がわかるようになってくると、自主制作のジン(冊子のことネ)とか、自主制作の音楽とかには、だんだん満足できなくなってくる。質(印刷や音質のことだけではなくてネ)のよいものであればもちろん「すごい!」となるのだが、そもそも自主制作モノに質のよいものは(割合として)多くない。
 僕の場合、どうやら以前は「自主制作補正」みたいなものがあったようなのである(今でも多少ある)。「自主制作にしては良いな」とか「自主制作っぽくて良い」とか「自主制作しているだけでえらい」とか。文化祭に遊びに行くと文芸部とか漫研とかの冊子をつい買ってしまい、とくに面白くはないのに「良い」と思ってしまう、というのとよく似ている。(『天悪の教室』はめっちゃ面白かったが、例外中の例外。)

 自主制作モノの良さ、というのは、限界芸術(非専門家が提供し非専門家が享受する芸術)の良さに通ずる。盆踊りなんかがそうらしい。カラオケ大会もまあそうだろう。文化祭の演劇やお化け屋敷なんかもそういうモノだと思う。「小説家になろう」「pixiv」「YouTuber」なんかもたぶんそう。単純に(「専門家」が判断するような)質、というものが問題になるのではない世界。
 しかし慣れてきたり、目が肥えてきてしまうと、だんだん飽き足らなくなってくる。「自主制作」の裏側が見えてくるようになると、嫌悪感すら覚えてくる。裏側になにがあるのかといえば、ずばり「自己実現」。

 自己実現は当然「自分」のために行われることなので、多くの場合「みんな」のことを考えていない。言ってしまえば自主制作モノには、「自分のことしか考えていない」ものが多い。「自分のことしか考えない」ことを僕は長らく「邪悪」と断じている。自主制作には、常に邪悪さが付きまとう。
 そもそも自主制作というのがなんなのか、自主制作でないものとどう違うのかといえば、たぶん「多くの人を巻き込まずに制作する」ということだと思う。元請けとか下請けとかスポンサーとかいった大きな仕組みの中で制作するのではなく、自分とその周りの小さな人間関係の輪の中だけで制作する。多くの人を巻き込んだ制作であれば、自然と「みんな」のことが(たとえ商業的な観点からのみであっても)意識されるだろうが、自主制作のような小さな仕組みの中だけだと、「みんな」はおろか「他人」という小さな単位にすら目がいかない。「自分」が中心になって、「世の中」という大きなものはあまり意識されない。
 もちろん、すべての自主制作がそうだと言うわけではない。このHPだって自主制作である。僕がつくる本(冊子)も、夜学バーというお店も自主制作。だからこそ、できるだけ広い視点をもち、できるだけ「みんな」を考えていたいと思っている。放っておけば「自分」だけになってしまうのだから、より意識的に意識していたい。そしてむしろ、そういうふうな「自主制作の呪いに抗う」ような小さな人たちを、僕はなによりも愛している自覚がある。


 自主制作の呪いとは、自己実現の呪い。自己実現の呪いというのは、「実現すべき自己があるが、その自己はまだ実現されていないので、実現しなくてはならない」という強迫観念、というか思い込み。しかし、自己などない。ないのだから実現しようもない。ゆえにこそ「呪い」なのだ。
 この呪いをはねのけるためには、「自主制作」をするさい、まず「他人」のことを考える、という作業が必要になってくる。(このあたりは橋本治さんの『いま私たちが考えるべきこと』が近いことを書いているかも?)
 たいていの自主制作ものは、いわゆる自己満足に過ぎないものが多く、「受け手」のことをあんまり考えていない。
「どういう人が享受するのか」「享受した人がどう感じるか」「どんな影響を与えるか」などなどを想像するのが、「まず『他人』のことを考える」ということ。これをしないと、基本的には「自己満足」と言われるようなものになる。

(あえて「受け手」のことは考えず気ままに表現して、評価はご自由に、というスタイルも、当然「自己満足」。自己満足ゆえに悪い、ということはない。ただ、だからこそそれを提供(公開)する時には慎重にならなければならない。何も考えずに作ったものは、どこで誰を傷つけたり、怒らせたりするかわからないのだから。制作とか芸術とかとは別の問題。)

 自己満足な自主制作は、自己実現のために行われる。それが「自己実現のためのみに」行われるものならば、それを享受する人は、その出汁にされるという構図になる。だから「自己実現もできて、みんなも嬉しい」ということがたぶん、ウィンウィンで良いとされる。
 まあ、それでべつに、いいんじゃないですかと思うは思う。ただその「みんな」ってのは誰だ? というのが、問題になるというだけで。
 自己実現のための自主制作は、ほぼ自己満足だし、かりにそれをありがたがって嬉しくなるような「みんな」がいたとしても、それは「それによって自己実現しようとする人と似た価値観の少数の人たち」でしかない。制作というのは多かれ少なかれ「似た価値観の人に好まれる」ようなもんではあるが、この場合の「価値観」は「自己実現を目的にするようなやつと似た価値観」なので、ろくなものではない。(ひどい悪口かもしれない。)
「自己実現を目的にするようなやつ」というのは「なんとか口実をつけて自己満足をしたい人」なのだ。おそらくはそれに群がる人たちも、「なんとか口実をつけて自己満足をしたい人」である。第一の目的は「自己実現」であって、そこで繋がった共犯関係が成立する。
 みんなで輪になって手をつないで、空に向かって「自己実現!」とでも叫んで、ああいい気持ち、といったやつばらである。(だんだん口が悪くなる。「やつばら」などという言葉は『走れメロス』のディオニス王くらいしか使わないものだ。)

 そうなると、ここでいう「みんな」というのは、「自分たち」くらいの意味である。コミュニティとか界隈と呼ばれるものは、たいがいそういうもので、だから僕は自分の作っている「場」がそうなってしまうことを絶対に避けたい。
「自分たち」というものは、「他人」を飲み込んでできあがる。飲み込めない他人は、弾き飛ばす。そうして「自分たちと、それ以外」という形で世の中をとらえるようになる。「バーベキューに参加する人」と「しない人」に分ける。そういう人たちがたくさんいて、世の中はバーベキューだらけになっている。


 今さらながら「自主制作(インディーズ)」というのは、「作品」という形で発表されるようなものに限らない。「お店」だってそうなのだ。個人商店というのはすべて「インディーズのお店」と言っていい。デニーズやローソンは「メジャー」だが、近所の駄菓子屋は「インディーズ」である。
 メジャーは原則として「大味」で、最大公約数の人が満足するような無難なものである。インディーズならばもっと自由がきく。現代はそういう理由で、自主制作のお店をやる人が多いのだと思う。(昔は、単純に土地があるからとか、儲かるだろうからとか、ほかにやれることもないといった理由で個人商店を開いたケースがもっと多かったのだろうけど。)
 つまり、いまインディーズのお店を開いている人たちのけっこう多くは、「自己実現」のためにやっているのかもしれない、という話。
 前の章段の末尾に書いたような状況になっているお店が、多いのでは? と思うのである。

 お店を構成する人間が「自分たち」のみになっていて、「他人」がいない。そこに「お客」はいないと言ってもいい。だって自主制作バーや自主制作カフェの基本態度は「どう? オシャレでしょ?」ではないか。「どう? オシャレでしょ? そう思うでしょ? だったら話は早いけど、そうじゃなかったらごめんなさいね。」なのである。(これも、ひどい悪口。自覚はあります。)
 たぶんケーキ屋さんや雑貨屋さんでも同じようなことが言えるし、靴屋さんでも古着屋さんでも今あえて個人が新しく作るようなところはそうなんじゃないのかな。「商店街に一軒くらい服屋がないと困る」といった「必要性」はなくて、「感性のマッチング」だけがある。「感性がマッチしたら、あなたはウチのお客さんだけど、そうじゃなかったらごめんなさいね。」なのだ。この「お客さん」というのは、言うまでもなく即、「自分たち」に組み込まれる。
 美容室だとどうなんだろう? まあ、似たようなものなんじゃないだろうか。行ったことがない(本当です)からよくわからない。
 ちなみにこの「感性のマッチング」は今、SNS等の力でクラスタ化されている。(←この一文を深く掘ると大変そうなのでもうちょっと考えてからにします。)

「感性のマッチング」は、「オシャレでしょ?」「ええ、まったく」という暗黙の合意によって成り立つ。それは「自己実現する側とさせる側」でありつつ、享受者は「オシャレさを身にまとう」ことによって満足を得、自己実現に近づく。あるいはSNSに載せることで「オシャレでしょ?」を投げかける側に回ることさえできるのだ。「いいね!」という形で「ええ、まったく」をいただき、合意が成立する。
「そこに『お客』はいない」とさっき書いたのは、売り手と買い手がこのような共犯関係にあるから。なんなら、「買ったお客のSNS投稿を売ったお店のアカウントがいいね!する」という状況だっていくらでもあるわけだから、まさに共犯というかマッチポンプ承認大会である。
「バーに行く→SNSに載せる→バーのアカウントがいいね!する」というような話。それが悪いというわけじゃもちろんないが、そういう仕組みに現代はけっこう、なっている。
 インディーズの人たちはそうやって「自分たち」をある程度まで増やし、維持させていくことに努める。SNSじゃなくても、小さなお店はなんらかの方法で「自分たち」を確保する。たとえばバーやスナックなんかの場合、その工夫の一つが「バーベキュー」だったり「花見」だったり、「周年イベント」だったり「生誕祭」だったりする。
 インディーズのカフェの人たちは何してるんだろうな。インディーズ美容室は? インディーズネイルサロンは? とか考えていくと、面白い。美容室の場合、そこで行われる「会話」が実は、それなんじゃないか、という気がしている。会話によってお客との結びつきを強め、「自分たち」の中に組み込もうとしているんじゃないか。なぜ美容師さんはやたらと世間話をしたがるのか?(なんかそういう感じらしいじゃないですか)というのがずっと謎だったが、そう考えると合点がいった。カフェの場合はやっぱり「通ってもらう」ことや「SNSに載せてもらうこと」なのかな。あるいはインディーズだと、お客と店員の会話がけっこうあったりするのかもしれない。「このコーヒー豆は……」みたいなうんちくを語り出す店も多いだろうし、「おいしいでしょう?」「ええ、まったく」という形で合意を得て、「自分たち」という意識に持っていくのかしら。あるいは「自家焙煎」とか「スペシャルティ」「有機栽培」「サードウェーブ」等々といった概念を「良し」として共有することが?(このあたり、結論ありきで考えております。ちょっと遊んでしまいました。)


 そういえば、昨日の記事で「自慢話ばかりする推定70代のバーのマスター」のことを少し書いたが、あれが自己実現の成れの果てだろう。「わしの自己はこんなに実現している!」というアピールを、口頭でしなければならないことの哀れさよ。総じて自慢話というものは、「自己実現したかったのにできなかった人が自分は自己実現できているのだと自身に言い聞かせる」ためになされるものだ。ゴールデン街で50年、バーを維持してきただけでよっぽど偉いのに、自慢話がどうして必要なもんかね。悲しいサガだ。
 実現される自己なんてものは、ないのだ。ないから、できない。できないから自慢が必要になる。自慢によって「できた」ことにしてしまうしかない。「実現した!」と言ってしまえば、したことになる。少なくとも当人の中では。
 あるいは、「実現しています!」と他人に言わせればいい。それがさっきから書いている「共犯関係」の中でなされていることだ。実のところ、この記事によってあぶり出したい邪悪はこれである。「自分たち」という範囲の中で「俺たちの自己は実現されているよな?」と確認しあうこと。それによって「自分たち」の幸福は担保されるけれども、広く「世の中」について考えたらどうだろう。考えてみて、「自分たちと世の中でウィンウィンだ!」と確信できるならそれでいい(それがいい)が、果たしてみなさま、そういったことを考えておられますか?
 そこなのだ。「俺たちの自己は実現されているよな?」と確認しあうことが、すなわち「世の中もウィンしてる!」であればいいのだが、ただその「ウィン」っていうのは、「自己実現しようとするような人たちが考えるウィン」なのである。「まず自分のことを考える人たち」が考えるような、ウィン。そういったウィンが蔓延した世の中は、どんな世の中なのだろうか? それは良いか? どうだ? という、話。
 そこに取りこぼしはありませんか? 「自分たち」の外の人たちが、ちゃんと過ごしやすくなるようにできあがっていますか? その、あなたたちの「自分たち」というものは。

 話をグイーンと戻すと、自主制作というものは、自己実現と繋がりがちなのだ。「だから」そこに質のいいものはあんまりない。ただ、自己実現とは関係のないところで行われる自主制作には、見るところがあるはずだ。「世の中をよくしようとして行われる自主制作」である。
 自己実現を目指すのは簡単だ。自分が満足すればいいだけなのだから。一方、「世の中をよくしよう」というのは、とても難しい。だからほとんどの人はそれをやりたがらないし、やってみたところで「投票に行こう!」くらいしか言えないのだ。
 おそらくこれから大切なのは、「世の中をよくしようとして行われる自主制作」の「世の中」という部分と「よくする」という部分について、しっかり考えること。「投票に行こう!」などという単純なところに落とし込まず、「はて、世の中をよくするとはどういうことで、どうすればそうなるのだろう?」と、みんながじっくり考えることだ。でもたぶん、そんな事態にはなかなかならない。それで僕なぞは、「ちょっとでもそういうふうになるためには、微力な自分はどうしたらいいんだろうか?」というくらいのことを考えている。




 で、省みて自分の「夜学バー」とかいうもんはなんなんだ、といえば、そこらへんのところを悩み苦しみながらやっているような存在なのだ。まず理想としては、「世の中をよくしようと思っている店」として世の中に存在すること。手はじめには、そういう存在をめざしてみること。めざしていることを、できるだけ上手に表明すること。
 自主制作なので、本当にうまくやらないと、いま自分が書いたような状態には簡単になってしまう。自己満足におちいったり、自己実現を切望したり、「自分たち」という閉鎖性に甘んじてしまったり、単純な思想にかぶれてしまったり。そういうことは絶対にしたくない。強い気持ちでそう意識していないと、小さなお店はすぐに転ぶ。たくさんの好きなお店が転ぶのを見てきた。バランス、バランス。美意識をしっかりとさせ、ちゃんと目を見張り、耳をすませておくこと。油断しないこと。心優し、ラララ科学の子………というところで、おやすみなさい。

2019.8.25(日) 世の中をよくしようと思っている店

 新宿ゴールデン街の「納涼祭」に行ってきた。15時から22時のあいだ、約270店舗のうち180店舗以上がチャージ無料、一杯500円で開放される。参加店12店、非参加店1店で合計13店舗をまわった。
 まずS番街の「S」という店に行った。ツイッターで見て、もしかしたら良い店(良い人)かなと思ったのだが、「世の中をよくしようという気持ちがあるか」という基準においては、まったくそんなことはなさそうな店、人、であった。
 もう、ここんところ思っている。お店の善し悪しを測る基準があるとしたら、「世の中をよくしようとしているか」くらいしかないだろうと。
 それから平日会員制の「T」。声優さんの経営するお店で、Y有作さんとかO恵美さんとかのボトルがあってすごい! と思ったが、世の中をよくしようとしているかどうかはわからなかった。お客の一人がひたすら「僕〇〇さんとも仕事してて!」「ガンダムの本も書いたことあって!」と大声で吹聴していた。
 そのあと「TM」というお店に行ったのだが、これはすばらしかった。まず人が少ない。僕が入った時は、ふだんから来ているらしい年金生活者(のちに話題が出た)のお姉さんたちが二人、特にお話をするでもない納涼祭参加者の男性が一人、のみだった。濃い濃い赤霧島を注がれて、30?40分くらいいたが、そのあともお客は一人きただけだった。たぶん三十数年は営業しており、ママも年金生活。そんなに儲ける気もないらしく、「店を維持しているだけ」と言う。そのわりに納涼祭に参加しているのは、「これをきっかけに知ってもらえれば」とのこと。つまり「べつに儲からなくてもいいが新しいお客がくるのは嬉しい」ということで、僕はこれを「世の中をよくしようと思っている」に類する気持ちだと考えている。
 古巣の「M」へ。店内に入ったのは2012年11月1日(正確には2日の明け方)以来なので、7年近く離れていたことになる。懐かしかった。このお店のシステムは、よく工夫すれば世の中をよくさせる可能性がある。でも、そうする意思がないとなんだってそういう方には向かわない。
 友達が働いている「U」に。「サーセン! 〇〇さん(友達)のつくったハイボールくざさい!」とドヤ顔で言ったら、「いまわたしお金の係なのでお酒作っていません」と。なんとも柔軟性のない、とも思ったが、そういう常識なのだろう仕方ない。ハイボールおいしかった。
「G」。良い店だと思ったが世の中を(略)
「L」。たぶん世の中をよくしようとは考えていない。お店のお姉さんとお話ししていたら「つまんねえ話だ。ホステスじゃねえんだよ!」と怒りだし、自分が口を開けば自慢話しか出てこない推定70代のマスター。食べログレビュアーのようなことを書いてしまったが、面白いのでまたいこうと思う。
「N」。見るからに世の中を(略)だが、おともだちが中にいるのを発見して入店。悪い店ではないが、世の(略)
「U」。創業55年で代替わりなし、というのはもはやゴールデン街ではほかにない。古さでは一位だと思われる。ママはおいくつなのか、僕が20歳のころからたびたびお見かけしているが、容貌が1ミリも変わっていないのがすごい。近くのお店で働いていたので、よく怒られたものだ……。怖かった。今回初めてここで飲むことができ、感動してしまった。意外と内装や調度品、置いているお酒などには凝っていて、美意識のしっかりある方なのだとわかった。うむ。もはやゴールデン街に思い残すことはない。いや本当に。ママは一言でいえば「キョーレツ」というやつであり、常にトゲトゲしていて口が悪く、ひたすら怖くて、値段もふだんはけっこう高い。もちろん世(略)
「S」こちらも推定70代のママ。とても良いお店だ。世の中をよくしてきたのかもしれないが、よくしようという意思があるかはわからない。たぶんどこかにあるのだろう(このお店のことはもうちょっと知りたい)。なんと漫画家のS先生と偶然お会いして感激。都留泰作先生のお話がちょっとできて嬉しかった。
「A」なんかガールズバーみたいだった。先代の頃は知らないが、今は世(略
「SW」もう、座っているだけでつらい。こないだまでSWさんというおじいさんのお店だったのが、代替わり(乗っ取りにしかみえない)してからウワー! って感じになってしまった。SWさんはなんとか生きているらしい。もちろん、世の中をよくしようなどと考えている気配はない。

 最後、最近できたという「SKT」。ここは納涼祭に参加しておらず、通常営業。オーナーではなく月一で立っている方の日だった。お店に立つのはまだ三度目くらいだそうだが、お客が多い中そつなく営業をこなしていた。とても良い人だった。その方のお知り合いなど若い人たちがわらわらといた。
 店内はこざっぱりとしていた。「世の中をよくしようとする内装」というのが僕はあると思っているのだが、若くてセンスのいい人の感性ならばこれが「そう」なのだろうか。カフェでもなんでもそうだが、現代の人はどうも「殺風景の中にポツンポツンと意味を置いておく」ような空間づくりが好きなようだ。IKEAで揃えた部屋みたいな。
 そう、そして極めて洋風。和風なら和風で「和風!」という気合いの和風ばかり。日本らしさ、というのは実は、そのどちらにもないのではないかと思うんだけどな。あるいは、もうそんな時代でもないってことか。

 もちろん、世の中をよくしよう、というのは、ある特定の思想(投票へ行こう!等も含む)を賞揚する態度のことではない。このお店が存在することによって世の中がよくなる、という確信のことを言っている。
 古いお店の人たちは、惰性でお店を続けている、ただの暇つぶしでしかない、というのは、実際ほんとうにたぶんそうである。そして同時にそれが「自分だけでなく、複数の人間の惰性と暇つぶし」であることを知っている。そのお店に来ているお客さんだけでなく、社会全体、世の中全体にとっての「惰性と暇つぶし」でもあるということも、ちゃんと知っている。そこまで来ると「惰性と暇つぶし」は文化であって、世の中の持つ「雰囲気」そのものなのだ、ということになってくる。つまり、その「惰性と暇つぶし」こそが、世の中の一部を構成し、世の中の雰囲気を作っているのだということ。そのあたりまで意外と「確信」しているからこそ、彼らは80になっても90になっても、店をやめないのではないか、と僕には思えてくる。「古き良き」なるものの、最後の担い手として。語らずとも伝えてくれる。
 そういうものなのだ、ということを、頭のいい若い人たちは自覚して、そのようなお店づくりをしてくださればいい。今、新しい店たちが「どう」あるかによって、50年後の世の中の「雰囲気」が変わってくる。責任は存外、重大なのだ。そういうことを考えているようなお店が、「世の中をよくしようと思っている店」だと僕は考えている。

 ちなみに「世の中をよくする」というフレーズの(僕の中での)元ネタは『ばびっと数え歌』です。

2019.8.18(日) 芸術家の要件

「他人」を二種類に分けて考える人がいる。「自分に利益をもたらす他人」か「そうでない他人」かと。で、「利益をもたらさない」と判断した相手には、興味を持たない。そういう人はほぼすなわち「自分のことしか考えない」人であって、邪悪。(はじめまして、僕はこのようなスピードの文章を書きがちです。)
「たくさんいる他人のうちの誰かが、自分に利益をもたらしてくれる場合がある」とくらいに考えたほうが良い、と僕は思う。
 利益はいつのまにかもたらされるもので、それが実のところどこからやってきているのかは、わからない。そう思っておく謙虚さはとても大事だ。もちろん、「〇〇さんのおかげだ」と仮定してお礼を言ったり恩返しをするのもまた大事。ただ実際は世の中、そう単純ではない。

 すべての人間に興味を持つ、いやせめて、すべての人間が等しく「他人」というものなのだ、というくらいの認識は、持っておいてもよいのではないか。

 すべての他人は等しく「他人」で、分類はできない。ただ、その一人一人と自分との「関係」が一つずつある。それが網の目のように組み合わされて、きわめて複雑な「人間関係」が存在している。本来はそうだ、と僕は強く信ずる。
 しかし、そういうものの考え方をするのはかなり大変だ。さっさと分類してしまったほうが労力が少ないし、大した能力も必要ない。それが人類の智恵というものでもある。
 それで何にも問題はない。

「ああ、この人は他人に興味がないんだな」と思う瞬間はけっこうある。それはすなわち「自分のことしか考えていないんだな」であるし、「他人を何パターンかに分けているんだな」でもある。
 きっと楽だから。だって、出会ったすべての他人に対して、「自分との関係」を一つずつ作っていくのは、しんどい。
 そういう面倒くさいことをして、いったいなんの得があるんだろうか? 「自分に利益をもらたす他人」との関係さえあれば、自動的に利益が振り込まれてくる。それで何の不都合があろうか?
 たぶん、べつに、ない。
 美しさ、優しさ、豊かさ、そういったものが「その先」にあると思う人だけが、「すべての他人に興味を持つ」などという酔狂に走るのだろう。
 言ってしまえばそういう人は、みんな芸術家なのである。

2019.8.12(月) 対等区対等

 対等、ということについて改めてぶちあたり、ひとまず過去ログを「対等」で検索してみたらちょうどいい文章がいくつか見つかった。べんりだなあEz。
 まず「2016.09.06(火) 上下関係しか結べない人」という記事の中にある重要な記述を切り取ってみる。

「対等な関係」とは、まず相手を「対等である」と仮定することから始まる。

 自分と相手とは、時に上のようになり、時に下のようになる。そのバランスがお互いに納得する形でとれているような時、それを「対等」と言うのではないか、と思う。

 その次の記事「2016.09.09(金) 親しき仲にも礼儀あり」にもちょっと重要な部分がある。

 礼儀というものは、「対等」の人に向けてこそだ。礼儀という言葉が不相応ならば、「敬意」と言い換えてもいい。

 2017年5月上旬ごろの日記(リンク先の一つ下の文章)では、若い人と対等である、というのがどういうことかを、考えている。子ども相手でも、礼儀や敬意は必要なのである。

 でもねえ、子どもには未来があって、その未来というのは、その子の中にすでに宿っているのだ。
(略)
 若い人をばかにするってことは、その若い人の未来まで含めたぜんぶをばかにすることだ、って僕は思っちゃう
(略)
 未来まで含めてこの子なんだって考えたら、すでに対等であっていいと思うのだ。

 そして、「2018.11.04(日) 散歩と対等」「2018.11.07(水) 散歩と対等、補足」という記事から、それぞれ以下。

僕は自由に道を歩く。相手も自由に道を歩く。だけども結局は同じほうへ進む。どちらに行くかは呼吸で決まる。その「呼吸」が「仲良しの証左」で、よく息が合っていれば「対等」といえる気がする。

 バランスのいい時は、対等だな、と思うが、なんだかアンバランスだな、と思えば、対等ではない、と僕は感じる。


 このくらいで、僕が近年「対等」について考えていたことがだいたい出揃う。
 まとめてみると、対等とは「納得のいくバランス」が成立している状態のことで、それは「敬意」によって支えられる。
「おれはお前を軽視するから、お前もおれを軽視していいよ」という取り決めを互いに交わすのは「対等」というより、上下関係の亜種である。(「上下関係しか結べない人」参照)
 そうではなく、礼儀、敬意、尊重といったものが、「対等」という状態の基礎にある。
 で、「仲良し」とはそういう状態のことである。
 礼儀、敬意、尊重といったものたちで、バランスを取り合っている状態。
 それにお互いが納得している状態。

「仲良し」になるにはどうしたらいいか。「対等」になればよい。
「対等」になるにはどうしたらいいか。
「対等であると仮定する」である。


 僕のことを尊敬してくれている人がいる、とする。
 その人は、僕と対等になりたいと思っている。
 そのために、なぜだか僕の粗探しをする。
 冗談みたいだが、そういう発想の人はいると思う。
「ジャッキーさんってすごい人だけど、でもこういう欠点もあるよね」
「こういうところは、自分のほうが優れているな」
 そんなふうに思うことで、なんだか対等な気になるらしいのだ。
「上下関係の亜種」を作り出すことによって、「お互い様」に持っていく。この発想は、「不公平」を叫びたがる気持ちと同類だ。「自分はこれだけ傷ついたのだから、あなたも同じくらい傷ついたって文句は言えない」という、野蛮な発想。数値の帳尻だけを合わせようとしている。「仲良しの発想」とは程遠い。
 もちろん、「どんな面でもジャッキーさんにはかなわない、対等になんてなれるわけがない」とか思うのもおかしいし、「ジャッキーさんなんか取るに足らないね」と思うのも、当然「仲良しの発想」ではない。
 単純に、まず「対等である」と仮定すればいいだけなのだ。


 この人と自分とは対等である、だとしたら、どのような敬意をもって接するべきだろうか?
 そういうふうに考えるのである。
 どんな目上の人にでも、あるいはよっぽど年下の相手にでも、とにかく「対等である」と仮定してみる。ばかにしない。おそれない。対等な相手にするように、敬意を払う。
 そのうえで、相手が納得するように、バランスをとっていくのである。
 これが仲良しの秘訣だと思う。すぐに「仲良し!」と言えるわけじゃなくても、ちゃんとじわじわ、そういうふうになっていく。正当な手続きで。時間をかけて。
 上にも下にも見ないで、「対等である」と仮定する。そんなこと慣れてきたら簡単だと思うので、ぜひ、おすすめ。

 ところで、「対等であると仮定する」というのは、「遊ぶ」ということの前提にある。
 だから、遊んだことのある人たちは、当たり前にできるはずなのである。
 たとえば、大人が小さい子供と遊ぶとき、「対等であると仮定する」をしていますよね。え、していませんか?
 したほうが楽しいと思います。で、仲良くなれると思います。

 親が子に接するときでも、教員が生徒に接するときでも、それらの逆でも。なんだって「対等であると仮定する」は、あったほうがいいと思います。
 敬意ってそのくらいすごいものなので。

2019.8.10(土) 恋愛、かわいい、好き

 一種の唯物論かもしれない。「恋愛」などない。「かわいい」も「好き」もない。
 本当はないのだが、これらの言葉を使うといろいろと便利なことがあるから、使うだけ。

 もちろん、突き詰めれば言語というものはすべて「ないものをあらしめる」ものと言えるし、「便利だから」使われている。ただ、「恋愛」とたとえば「岩」とか「手紙」といったものだと、同じ言葉でもちょっぴり違う。
「恋愛」よりは「岩」とか「手紙」といった言葉のほうが、定義が明確である。「こういう意味ですよね」という取り決めがしっかりしている。共通認識としてブレが少ない。
 岩はあるような気がする。手紙もあるような気がする。でも恋愛は、ちょっとわからない。
「かわいい」とか「好き」も怪しいものである。
「恋人」も「友達」も「友情」も、当然そう。
 こういったものは、定義が曖昧なまんま、その場その場で便宜的に、いろんな意味やニュアンスで使われる。そういうものは、果たして「ある」と言えるのか? いっそ「ない」と考えてみたら、意外とそっちのほうが正しく生きられるのではないか?
 って、これを書くのは何度めなんだろうか。同じことばっか書いている。もういい加減やめにしたい。
(でも書きながら考えてるってところもあるから、ご堪忍。)

「ない」と僕が言うのに対して、「いや実際あるじゃん」「みんながあると思ってるんだからそれでいいじゃん」「辞書に載ってるんですけど?」等と言われたら、「まあ、あるといえばありますね」と僕は答えるしかない。ただ僕が言いたいのは、「ない、と考えてみたら、けっこう発想が柔軟になると思いますよ」なのである。
「恋愛」「恋人」「付き合う」といった言葉に踊らされている人は多い。そんなもん、いっぺん「ない」と考えてみたらどうなんだ! と。「ある」と思っている人は、なにを根拠にそう思うのか。なぜ、恋愛をしたり付き合ったり、恋人を所有(!)しなければならないのか。それは一言でいえば、「便利だから」「楽だから」。そういったものの存在を前提としなければ「面倒くさい」という、現生人類が最も忌み嫌う状況にぶち当たってしまうから。
 面倒くさい、というのが、本当に邪悪のすべて、元凶なのだ。面倒くさいからみんな、「告白」をして「付き合う」をして「恋人」をつくって「恋愛」をするのだ。
 あーあ、本当にあほらしい。くたびれてしまうよ。
 そういう曖昧な取り決めで無理やりくっつくから、あとで齟齬がでてダメになるんでしょう。
 もっとちゃんと人間と人間とのステキな関係、みたいなふうなんを目指して生きてって、必要があればだれかとくっつけばいいじゃないと思うんだけど、まあそれには労力も能力も要る。面倒くさい人はそんなこと、やってられない。日が暮れて死んでしまう。だから仕方がないというか、近代人の智恵なんだろうな。恋愛の発明ってのは。
(恋愛ってものをよく見ると、性欲、快楽、所有欲、独占欲とそれによる嫉妬、不安・孤独感・さみしさからの逃避、暇つぶし、見栄、経済的合理性、単純な執着心や思い込みなどなど、「恋愛感情」なんて言葉を使わずに説明できるような内容ばっかりなんですね。そういったものをざっくりと「恋愛」で括った先人は、まあ天才というか、すさまじい智恵だと思います。)

 人間同士が仲良くなるってのは、けっこう難しいんですよ、本当は。「恋愛」みたいな概念があったら、それを接着剤にして無理やりくっつくことができる。そうするとすっごい楽。もし、そういうものがなかったとしたら、少しずつ、ゆっくりと着実に仲良くなっていくしかない。どこまで仲良くなれるかもわからない相手と。それってすごく面倒くさい「らしい」んですよね。一足飛びにピャーッ!っと、「恋愛!」つって合意に至れたら、まあ楽ですよね。そりゃそっちのほうがいいですよ。長い目で見ないのであれば。長い目って、10年50年、ないし数百年単位で。(世の中を良くするには、最低でもそのくらいの時間感覚でいなければ。)

 もし「面倒くさくてもいいからわたしは本当にステキな人とめぐりあいたい!」という方がいたら、とりあえず『銀河鉄道の夜』でも読んで(なぜ?)、川原に行って「恋愛などない!」と一回だけ大声で唱えてみましょう。そしてそれからは四六時中、どんなささいなことでもいちいち「なぜだ?」と考えてみたりするなど、いかがでしょう。
 曖昧な言葉に頼らず、ものごとを細かく考えるくせがつくと、柔軟になっていきます。すると「人と仲良くする」ということが、だんだんできるようになっていきます。「恋愛」なんてものの力を借りなくとも。

2019.8.4(日) すんごい15歳

 高知県にいます。今回の旅行もいいことばかり。学びに満ちております。詳しいことはのちにまとめる予定。
 いま、このあとにつづく文章を書いていたのに1000字くらい消えてしまった。こないだも同じことがあったし、もうこのアプリはだめなのかもしれない。僕はほんとうにつらいなあ。
 というわけで書いてたことを超簡潔に再現して寝ます。
 2000年8月4日の日記面白い。それについて言い訳している2008年4月16日の僕も面白い。たしかにあれは「分岐点」だった。なんの分岐点だったのかは、今になってなんとなくわかる。「裏日記」はどこかにあるはずだから、探しておこう。それをアップできるようになったら、ついにあの頃の自分を供養できるかもしれない。
 ところで昔の日記を公開していることはとても恥ずかしい。フォントいじりも固有名詞の濫用も、単語の選び方や文体や口調も、調子に乗っているさまも他人や周囲のことを考えていないところもさまざま厳しい。でも「人は変わっていく」ということを証明するため、消すわけにはいかない。ジャッキーさんだって昔はこんなにバカだったのだ。バカでも考えることや判断すること選択することをずっとやめなければ、そういうことだけはそれなりに上手になっていくのだ。
 僕はいまそうとうかしこい人間だと思うけど、昔はそれほどかしこくなかった。それは15歳の僕が証明してくれている。で、僕はその15歳の僕をとても大切に思うがゆえに、彼から離れてかしこくなることはしていない。彼がそのままかしこくなるように19年間やってきた。だから「かしこい」といってもその「かしこさ」は世間や社会とは関係のない、15歳の少年にしか関係のないようなかしこさなのである。

 15歳の僕は、16歳になってすぐ、具体的には2001年の1月2日に、「もっとかしこくなりたい」と強く思ったらしい。日記にちゃんと書いてある。その3月くらいから、文章を書く姿勢も変化していると思う。16歳と17歳の2年間でだいたい固まって、18になった2002年の11月くらいからはまた次の段階、といった感じかな。すごく暇な人はそのへんどうぞ研究してみてください。

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