少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。
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2019.9.27(金) 茶の湯と喫茶2 静岡のお茶
2019.9.26(木) 茶の湯と喫茶
2019.9.14(土) 場のつくりかた
2019.9.12(木) 高崎、中之条
2019.9.11(水) 親しき仲にも礼儀あり
2019.9.10(火) プラスとマイナス/人に興味を持つ 補足
2019.9.09(月) プラスとマイナス
2019.9.08(日) してもらえないんだね(プラスとマイナス 序)
2019.9.07(土) 芸術になんの意味があるか
2019.9.02(月) 恋愛、破壊と想像/橋本治 is still alive
2019.9.27(金) 茶の湯と喫茶2 静岡のお茶
お茶といえば静岡だが、25歳以上の茶道人口は11位(2016年、人口あたりの割合、人数では10位)とこれまた高くはない。彼らにとってお茶は日常そのもので、茶「道」といった大仰なものではないのだと思う。昨日に引き続き、思いつきとこじつけを書いてみる。
家康は茶の湯をあまり好まなかった、という説がある。だが長年駿府(静岡)に住み、その地を愛した彼は、もちろんお茶をこよなく愛してもいたらしい。
まだ6巻までしか読んでいないのに引用するのも気がひけるが、『へうげもの』という漫画のなかで家康は、珍しい酒や高級な酒をきらい、「『箔』もなく安きうえに旨い」常飲向きの酒を気に入っている。家康がもし本当にこういう人物だったとするなら、かしこまった茶道的な場よりも、現在の静岡人がするような「土瓶で大量に作ったお茶を茶の間で飲む」というほうが好みということかもしれない。とすると家康は「生活の人」だったのだろう。(そのへんはもうちょっと調べて、考えてみたい。)
しかし不思議なことに、静岡には喫茶店が少ない。2014年段階で人口あたりの喫茶店数は全国27位だそうである。ちなみにこのランキングの1位は高知で、岐阜、愛知、和歌山、大阪、兵庫と続く。高知を除けばみごと、信長や秀吉がいた地域とほぼ符合するのだ。大阪では利休のいた堺市が特に盛んらしいのも面白い。しかし家康が隠居生活を送った静岡は「27位」だし、江戸=東京も「19位」にとどまるのである。
この統計は重要なのでリンクしておく。
家康にとってお茶とは「わざわざ飲みにいくもの」ではなく「家でふつうに飲むもの」だったのかもしれない。「お茶」と「それを飲むための場」を家から切り離していたのが信長や秀吉で、家康は「家で飲めばいいじゃん」と考えた……とか。根拠は特になにもないけど。
そういうことだとすると、やはり喫茶店は「茶の湯の場」に相当するものであって、コーヒーは「茶の湯の茶」にあたるものなのではなかろうか。家康が「お茶は家で飲むもの」と決めてしまったせいで、「お茶でお金をとる飲食店」が成立しにくくなった。そのために新しく用意された「お茶」が、コーヒーだったのではないかと。
2019.9.26(木) 茶の湯と喫茶
山田芳裕先生の新連載『望郷太郎』がモーニングで始まった。そのせいもあって『へうげもの』を読み進めている。茶人、古田織部を主人公にした傑作。茶の湯に俄然、興味が出てきたので神津朝夫『茶の湯の歴史』『茶の湯と日本文化』など読んでいる。単純なので、近いうち京都の古田織部美術館に行こうと決めた。
「美意識の源流」という章が気になって、原田治『ぼくの美術帖』もちょっと読んだ。主に「縄文的美意識」についての話だった。橋本治『ひらがな日本美術史』も合わせて読み返したい。
茶の湯や日本美術について急に考え始めたのは偶然ではない。「
屋根と座布団」という会を始めたため。屋根のある場所に座布団置いて、ちょっとだけお金もらってお茶会をしよう、という単純なコンセプト。とりあえず、しばらくは茨城県のつくば市で。なぜつくばかといえば、「僕やります」という
殊勝な若者が住んでいるから。ありがたいことです。
つくばという土地の特殊さには前から注目していた。24日に実際行って、やってみて、ここでやることにはたしかに意義があると確信した。10月いっぱい、あるいは11月くらいまで? 断続的に続けてみるので、よろしくお願いします。一度くらいは来てみてください。交通費は都内から往復2000円ちょいです。秋葉原、新御徒町、浅草、南千住、北千住などから35分?50分で着きます。僕はたまにしかいないけど、10月17日(木)には必ずいます。
というのもその日、つくば市内の中高一貫校へ「芸術幼稚園」という催しの講師として招かれているのである。代表の女子生徒が呼んでくれた。うれしい。その広報原稿も書かなければならない。なんだかけっこう忙しい。もちろん、本もそろそろできる予定。
つくばという土地とかTX(つくばエクスプレス)とかについて語り始めたら長くなるので、それらはいつかの機会に。ともかく話は茶の湯と日本美術、というか、日本文化。
場とか和とか、そういうものを突き詰めた結晶の一つが茶の湯なんじゃないか。「茶道」ではなくて、「茶の湯」。今まだ調べながら考えている中途なので、そのうちそれっぽいことを書くつもり。とりあえず『へうげもの』全巻読んでから。
『へうげもの』の主人公、古田織部は岐阜(美濃)の人。彼がそれぞれ深く関係を持った信長、秀吉は愛知(尾張)の人で、茶の湯を重んじた。家康も愛知(三河)だが、茶の湯についてどう考えていたかはまだ僕はよく知らない。ただその後も茶の湯が流行り続けたのは確からしい。また尾張七代藩主徳川宗春が奨励したり、西尾という茶の名産地もあったため、愛知ではしばらく茶の湯は盛んだったと思われる。
ところが現在、「25歳以上の茶道人口」を調べると、愛知県は17位とさほどでもない。(これは2016年の「人口あたりの割合」であって、「人数」そのものなら東京、大阪、神奈川についで4位。)
僕が勝手に思うのは、愛知・岐阜の人が好きなのは「茶道」ではなくて「茶の湯」なのではないか、ということ。そして茶の湯の精神は、おそらく喫茶店(とりわけ小さな個人店)に引き継がれている。コーヒーに必ず豆菓子などが供されるのも、モーニングなどのサービスも軽食の充実も、内装や調度品に凝ることも、お店の人とのちょっとした雑談もなにもかも、茶の湯の感覚といえば納得がいく。そう考えると昨今流行りの殺風景かつ単調なカフェのつくりも、一種の利休的「わび」なのかと思えてくる。(個人的にはあんまり好きな「わび」でもないが。)
そうか、僕が興味を持っているのはじつは「日本文化」というよりも「名古屋文化」「愛知文化」なのだ。ひいては「自分の源流」をたどりたいのだ。縄文時代のことを考えるのにも、「さて名古屋は西日本か東日本か」ということをまず確認したくなる。そして喫茶店が全国にあり、モーニングの文化が広まり、コメダ珈琲が大繁盛するのなら、その「名古屋的美意識」はおそらく悪いものでもない。バーをやるにせよお茶会をやるにせよ、まずその精神を内面化しておきたいのである。
ちなみに、バーは『へうげもの』の利休の茶の湯にちょっと似ている気がする。そのへんについてもまたそのうち。
2019.9.14(土) 場のつくりかた
「複数の人に同時に話しかける」という能力について考えている。
夜学の日報にもちょっと書いた。
「今日、雨すごかったですね」みたいな言葉を、複数の相手に対して投げかけるのは、意外と特殊な能力なのではないか、と。
A、B、Cの三者がいて、Aが「今日、雨すごかったですね」と、BとCの二人に投げかける。それはもしかしたら、簡単なことではないのかもしれない。
「今日って、雨降るんですかね?」だったら、もうちょっと簡単だ。初心者(?)はこっちから入ったほうがやりやすいと思う。(これは、昨夜「日記読んでますよ!」とダイレクトお電話をくれた四国の友達が言っていた。いろいろとありがたい!)
いずれにせよ、そういうことができるようになるには、たぶんそれなりの心構えと訓練が必要だ。僕の場合は、演劇や教員をやっていたこと、そしてお店に立ったりお客として通ったりした経験が、その能力を育んでくれたんだろうと思う。
高校のときの演劇部の練習で、「声かけ」というのをやった。たとえば、こんなふう。
部員A、B、C、D、Eと、同じ方向を向いて並ぶ。このとき、距離も方向もばらばらになるようにする。Aから見て、Bは5メートル向こうのやや右手にいる。Cは10メートル向こうの左手にいる。Dは11メートル向こうの真ん中にいる。Eは20メートル向こうの真ん中にいる。Aから見て、全員が背を向けて立っている。
ここで、Aが「おーい」と叫ぶ。BCDEは、自分が呼ばれた、と思ったら、手をあげる。それだけの練習。
Aはもちろん、事前に「誰に向かって叫ぶか」を決めておく。Cに向かって「おーい」と言ったのに、BやDが手をあげてしまったら、Aは「失敗」したことになる。Cだけが手をあげて、ほかの人は誰も手をあげない、というのが「成功」なわけだ。
声をまっすぐ、届けたい方向に、届けたい距離だけ投げかける、という練習である。
応用として、複数の人に同時に声をかける、というパターンもある。たとえば、BCDの三人に声をかけて、Eにだけはかけない。この場合、「おーい」と言ってBCDの三名だけが手をあげたら「成功」で、Eが手をあげてしまったり、BCDのいずれかが手をあげなかったら、「失敗」。
これは、演劇の基礎の基礎。誰に向かって話しかけているか、というのを、客席に瞬時にわからせる、ということは、とても重要で、とても難しい。
発声は奥が深い。まっすぐ一直線に進む声もあれば、拡散して広がっていく声もある。上の例でいくと、Cにだけ届かせたいならば「まっすぐの声」を使い、BCDに届かせたいならば、「適度に拡散させた声」を使うとよい、ということ。
実際には、人は声だけで判断するのではない。姿勢とか、表情とか、身振りとか、「空気感」みたいなものを総合して、「誰に話しかけているのか」を判断する。演劇をやる人は、声だけでなくそれらのすべてを磨き、「誰に話しかけているのか」を確実に伝えるよう努める。
舞台袖に向かって「おーい」と言ったとき、何メートルくらい先に、何人くらいの人がいて、その人(たち)とはどういった関係であるのか、というところまで、イメージさせる。こういうことがちゃんとできる人は、「演技がうまい」と言われるだろう。
「複数の人に同時に話しかける」という能力は、こういった演技力に隣接している。あるいは、直結している。
「場」をつくるのが上手なバーテンダーは、たぶんそういうことを自然にしているのだ。カウンターで、右手側と左手側にお客が離れて座っていた場合でも、「今日、雨すごかったですね」という言葉を、双方に同時に投げかけることができる。そして双方から、ちゃんと反応が返ってくる。そのバーテンダーを反射して、二人の客になんらかの交流が生まれる。そういう可能性が常にあるなら、そこは「開かれた場」といえそうだ。
ただし、ここが絶妙なところなのだが、「べつにいま話題に巻き込まれたくなどない」と思っているお客もいるかもしれない。その可能性も踏まえたうえで、まずは「今日、雨すごかったですね」くらいのささやかな話題を出してみる。それも、「机の上に静かに置く」くらいの穏やかさで。
「いやあ、今日! 雨すごかったですねえ! ガハハ!」みたいな「バーン!」とした言い方だと、僕だったら「ヒッ」ってなって萎縮してしまうし、「やばい、これはこの店主とずっと喋り続けてないとダメなやつだ」と勝手に覚悟を決めてしまう。「これは無視してもギリギリ失礼にはならないよな」と思えるような軽さで言うのが、たぶんよい。
「今日、雨すごかったですね」とささやかに、おだやかに、双方に届くようにつぶやいてみると、相手もたいてい、ささやかに、おだやかに反応をかえしてくれる。そのときの微妙なニュアンスを、各人が読み取りあう。それをたよりに、次の瞬間の態度が決まる。そうしてしだいに「場」のバランスができあがっていく。
「場」というものはかならず流動的なもので、みんなの動きによって毎瞬間、変わっていく。育まれていく。
大事なのは、「巻き込まれたくない」と思っているかもしれない相手にも、「コミュニケーションの可能性」を常に開いておくこと。それが僕のよく言う「窓を開けておく」ということである。閉じてもゆるされるのは、「いやなお客」に対してのみ。(これは、緊急避難の話。)
原則として、「場」(小さなお店など)にやってくる人というのは、他者とのなんらかのコミュニケーションやふれあいを求めている。それが「話したい」なのか「ただ近くに人がいるというくらいがいい」なのかは場合によるが、「無視されたい」とか「軽んじられたい」と思っているような人は、たぶんまずいない。また、最初は「今日はとくに喋るって気分じゃない」と思っていたとしても、その場の雰囲気や話題などによっては、「やっぱりちょっとお話ししたいな」になるかもしれない。その時に「場」が閉じてしまっていたら、せっかくの想いも叶わない。
先日あるバーに行った時の話。さきに二人のお客がいた。一人はすぐに帰り、僕ともう一人だけになった。マスターはもう一人のお客と話しながら、ちらちらと僕のほうを見るのである。
話題は、たしかに僕にも参加できそうなものであった。具体的には忘れてしまったが、天気の話に近いような、一般的なこと。マスターはそれについて先にいたお客と話しながら、僕のほうをちらちらと見る。「どうですか、あなたはどう思いますか?」というような感じで。しかし僕はそこに口を挟むことはできなかった。マスターは、明らかにもう一人のお客にだけ、話しかけていたからである。そして、お客のほうもマスターにだけ注意を向けていて、僕には文字通り一瞥もくれなかった。
そこで「場」は閉じていたのだ。マスターとそのお客の二人のあいだで。その状態のままマスターは、息継ぎをするように首を動かして時おり僕のほうを見る。それはもう間違いなく、僕に気を遣ってのことだろう。「一緒にお話ししますか?」というサインだったのだとしか思えない。しかしこう見えて(読めて?)それなりには引っ込み思案でコミュニケーションにやや臆病な僕は、そこに入っていくことはできなかった。もうちょっとだけでも開いていてくれないと、ちょっと難しい。(いや、その気になればできるだろうけど、その気になる理由はなかった。)
そのマスターは、たぶん「複数の人に同時に話しかける」ことができないのである。彼はめちゃくちゃいい人で、愛想も良く、お酒を作るのも上手だし、サービスもよくて価格も安い。なかなか死角のない「いい店」なので僕も何度か行っているのであるが、ただそこは「開かれた場」にはまずならないのである。
もちろん、そもそも「そういう店」ではないのだから、なんの文句もない。「いい店」であることはまったく揺るがない。ただ、なぜ「そういう店」ではないのかといえば、その理由の一つには、やはりマスターが「複数の人に同時に話しかける」ことが不得手だから(あるいはそういう発想がないから)、ということはあるはずだ。僕の顔をちらちら見るということは、僕がその話に参加する可能性というものを、考えていないわけではないのだし。
一般的な小さなお店では、たぶん「何度も通っているうちに顔見知りができて、いつのまにかいろんな人と話すようになった」というふうなことが普通だと思う。これが「常連になる」というやつだ。
まずはマスターと話す。マスターと仲良くなる。マスターに自分のことを知ってもらう。するとマスターから、マスターとすでに親しいほかの客に紹介してもらえるようになる。「〇〇業をやってる何某くんだよ」と。それでそのお客と仲良くなる。あとは似たようなことの繰り返しで、「よくくる客たち」に認知されていく。それが一通り済むと、立派に「常連」の一員として所属が決まる。
「一対一の対話」を数珠つなぎのようにして、時間をかけてたくさんの人と繋がり、最後には自分も数珠の一つに加わっている、というわけ。この方式であれば、
「複数の人に同時に話しかける」という特殊能力は必要がない。
この「常連システム」はよくできているが、何しろ時間がかかるし、お客を「常連」か「そうでないか」に分けてしまう。「はじめからみんなが同じところにいる」という前提を持った「場」があったっていい。「原っぱ」や「公園」ってのはそういうもので、自分がやるなら、そういうものをやりたい。「夜学バー」の根幹はそこにある。
奇しくも「常連」には「連」という文字がつく。「連なっていく」のである。「連なる」は、「一対一の連続」だ。一直線のカウンターに居並ぶ、一対一の連続。
もっと、自由なほうが好みである。二人でも三人でも四人でも何人でも、みんなが「場」の中にともにいたほうが、心地よい。その中でマンガ読んでる人がいてもいいし、寝てたっていい。教室の休み時間なんか、ちょっと感じが近いかもしれないが、あれほど混沌としていると大変だ。整理するための「バランサー」的な存在が必要になる。
で、それを担うにはやはり「複数の人に同時に話しかける」能力に代表される、「場をつくるための技術」がちゃんとあったほうがいい。
「複数の人に同時に話しかける」はけっこうむずかしいが、「複数の人に同時に話を聞いてもらう」は、そんなにむずかしいことではない。前者の上手な人が一人でもいれば、あとはみんな後者をやればいいのである。むずかしいのは、最初の一言。
「今日、雨すごかったですねえ」をちゃんと届けて、いったん「場」が形成されてしまえば、あとはその中で自然に話すだけなのだ。
2019.9.12(木) 高崎、中之条
元気がない。あとで書くかも。現在9月9日の21時38分です。
2019.9.11(水) 親しき仲にも礼儀あり
家族でも恋人でも友達でも、礼儀はあったほうがいい。小さな子供に対しても当然「失礼」はあるべきではない。親や教員などからひどいめにあわされている子供がいたら、「子供がかわいそうだ」ではなく「子供に失礼だ」と告げることにしよう、これからは。
2019.9.10(火) プラスとマイナス/人に興味を持つ 補足
「人に興味を持つ」というのは、「さまざまな角度からその人を見た時に浮かびあがってくるすべての可能性に注目し、無限くらい膨大な人間の中身なるものを出来る限り知ろうとする態度」といったところか。今見えているものはほんの一部分でしかない。まだまだ自分には、その人についてわかっていないことがたくさんある。そのことを前提として、相手と接すること。
GUNIW TOOLS(グニュウツール)というバンドの『真鍮卵(しんちゅうらん)』という曲のPV(プロモーションビデオ)に、「どれだけ分かったと感じても そこを 離れてはいけない」という言葉がある。(全文は
2014年7月の日記に引用した。)まあ、それに尽きる。
「誰も行けぬ険しき場所に 添えた花は 誰 置いたもの?」というのがこの曲のサビにある印象的なフレーズ。そういう「領域」が存在して、そこにたどり着いた人がいる。しかも、そこに花を添えた。それはひょっとしたら、そこで息絶え朽ち果てた人に対する祈りの花なのかもしれない。となると、「そこ」に行った人は一人ではない。そのことを、どう感じるか。
僕はそのような愛すべき先人たちに花を添えるため生きているようなところがある。
ああ、あんなところに花があるな。というところで終えてはいけない。それを面倒くさがってはいけない。あなたが「わかった」と思うよりずっと深く大きな内容を、必ずその花は持っている。
可能性を愛する、なんて言葉を大昔に使ったような気がするけど、これはすなわち「かもしれない」を大切にする、ということ。それはもちろん、未来を愛そうとすることである。たとえば、相手との「関係」の未来を。
ちょっと前の記事に書いた「すべての人に興味を持つ」というのは、ようするに「(人間の)未来そのものを愛する」ということになるわけです。「すべてのものに」になれば、「(人間の)」が取れるわけですな。
2019.9.09(月) プラスとマイナス
「人に興味を持つ」というのは「心配」ということなのでは、と言った人がいた。僕はしばらくピンとこなかったが、「心配→心配り→かもしれない運転」というふうに転がしてみると、なるほど僕がふだん考えている内容とだいたい一致した。人に興味を持つというのは、「この人は??かもしれない」という想い(心配)を持つことと、けっこう重なるのではないか。
「心配する」というのは、たとえば「事故に遭っているかもしれない」といった形で、多くの場合「かもしれない」の気分を伴う。(「?かな」とか「もし?たら」といった言葉が使われる時もあるが、いずれも「かもしれない」にかなり近い気分である。)
たとえば自分のやっている「夜学バー」のような小さいお店を成り立たせるための極意として、「かもしれない運転」があると思っている。「この人はこう思っているかもしれない」というのが基本姿勢で、決して「この人はこう思っているだろう」と決めつけてばかりではいけない。常に、「これでいいだろう」ではなくて「これではいけないかもしれない」と疑い続けること。あらゆる瞬間に。
そういうふうにお店に立っていると、かなり疲れる。けれどもそうしなくては「良いお店」はできない(と僕は思っている)。
同じ人から、「相手に与えるマイナスを想像できない(人がいる)」ということを教えてもらった。意外と多くいるようだ。恥ずかしながら、僕はまだこの件について突き詰めて考えたことがなかった。
自分の振る舞いが、相手(または周囲)にマイナスの影響を与えているかもしれない、と考えない。なぜそうなるのかというと、たとえば「自分はたいていのことをマイナスには受け取らないから」というのがある(らしい)。
そういう人は、プラスのことしか考えない(らしい)。「相手にプラスを与える」ことはたくさん考えるけれども、「相手にマイナスを与えない」ことを考えない。
ああ、なるほど。たとえばプレゼントだ。「プレゼント」にはプラスもマイナスも伴うはずなのだが、そのプラス面しか考えられない人がいる、というわけだ。
「相手にとってプラスになるものをあげたい」という思いだけがあって、「それによってマイナスを与えてしまうんじゃないか」という視点がない。受け取る人の迷惑だったり、心苦しさ、気まずさ、面倒臭さ、周囲とのバランスなどを想像しない。
そういう人でも、ちゃんと確認はするだろう。「これは要りますか?」と。しかしそう言われて「要りません」と答える人はまずいない。とりあえず「ありがとう」と受け取る。そういう人が、この日本には多いと僕は思う。「人の好意を無にしてはいけない」が原則なのだ。
「プラスになる」と思って、ものをあげる。受け取る人は、「たしかにプラスになる」とは思う。しかし、「同時にマイナスでもある」ということを、受け取る人だけが思っていて、あげる側が思っていない。そういう状況はけっこうよくある。「ありがた迷惑」というやつだ。
「ものをもらう」というのは、たぶん元来気持ち悪いものなのである。それをわかっている人は、「あげかた」に工夫をする。どうやって渡せば、気持ち悪くないか。どこから先が「気持ち悪い」になるのか、といったことを熟考して、慎重にものを渡す。
おそらく日本では、「あげる」よりも「分ける」のほうが、気持ち悪くない。「持ってきたからみんなで分けましょう」とか「余ったのでおすそ分けさせてください」といった口上は、受け取る側のマイナス気分を減らすための「伝統的なあげかたの工夫」だと思う。
冒頭に戻る。「心配」とは「(悪いことがある)かもしれない」ということで、「マイナスを想像する」こと。それが「人に興味を持つ」であるとは、どういうことか?
「心配」というのは、「見えていない部分を想像する」ことだから。
自分にいま見えているのは、ごく一部分でしかない。自分が把握できているのは、ほんのわずかな範囲でしかない。そういう謙虚さを持つと、「かもしれない」の量が格段に増える。
「この人はこういう人なのかもしれない」「でも逆にこういう人でもあるのかもしれない」「こんなことを考えているかもしれない」「いやこういうふうな気持ちかもしれない」と、相手のことをあれこれ想像する。プラスのことだけではなく、同時にマイナスの面にも思考をめぐらせる。それが「心配」という行為の核心であって、「人に興味を持つ」ことである。
(これは僕の意見というよりは、「人に興味を持つということは心配ということなのではないか」という発想について、僕が考えたこと。)
僕が特に興味を持っているのは「心配」というキーワードよりも、「プラスを想像する」と「マイナスを想像する」という二つのことについて。世の中には、どちらか一方ばかりをしてしまう人や、両方を同時にできない人がけっこういると思われる。
あるものごとを推進しようとする人は、プラス面ばかりを強調するし、それを阻もうとする人は、マイナス面ばかりを主張する。戦略的にそうしているズルい人もいるのかもしれないが、「意識していない」人もそうとうな割合でいるだろう。
なんでそうなるかというと、たぶん「面倒くさいから」。一度に二つ以上のものごとを考えるのって大変だし能力も必要だから、しないにこしたことはない、とどこかで思って、それが適切と判断するんじゃないかな。
それは人間関係についても同じで、一度に二つ以上のことを考えるのが面倒くさい人は、「一対一の関係」に閉じていく。「三人の関係」や「四人の関係」などを拒み、複数の人間と同時に接することをいやがる。「いま自分が接している一人の人間」のことだけを考えて、その外側にいる人間のことを意識から除外する。
で、もちろんその「一人との関係」の中でも、プラスかマイナスかのどちらかしか考えない。良好な関係を築きたい場合は、「プラスになるように」だけを考えるか、「マイナスにならないように」だけを考える。たとえば、「相手がどうしたら喜ぶだろう?」だけを考えて、「相手がいやな気持ちになるかもしれない」という方面からものを考えない。あるいはその逆。
「自分はそこまでアンバランスではない」と思っている人も、注意はしておいたほうがいい。かりに「プラスを8割、マイナスを2割考える」という人がいた場合、それも十分にアンバランスだからだ。「私は周囲のこともちゃんと意識している」と思っていても、その割合が、「ある特定の人物への意識が9割、その他の人に対する意識が1割」だったら、やはりアンバランスなのである。きっとそういう人が、いちばんたちが悪い。「自分は大丈夫だ」と思っているから。
もちろん、問題は「割合」だけではない。「五分五分」であるのが正しい、というわけでは絶対にない。「どんなバランスで何をどう配慮するかは、その都度判断する」でなければならない。常に、その場で、考え抜かなければならない。これは非常に面倒くさく、難しく、疲れる。だからなかなか、やりたがる人はいない。僕はどうにか、できるだけやろうという意思は持って生きているが、いつでもうまくやれているとはとても言えないし、本当に疲れて、自分はいつまで「もつ」のだろうか? という巨大な不安も抱えている。といっていまさら、「最適化された一定のバランス」に自分を固定するつもりもない。暗闇の中挑戦は続く、という感じ。
なんとなればそれは芸術だから。芸術に強制力はない。だから素敵なわけです。
2019.9.08(日) してもらえないんだね(プラスとマイナス 序)
もっと優しくなろうと思った。自分はけっこう優しいほうだと思うが、優しいぶんにはバチも当たるまい。
以下は大半、ある友達(心底尊敬している)が言っていたことの焼き直しである。
僕はこれまで、「わたしは傷ついた! 不利益をこうむった! おまえのせいだ!」と激しい言葉で罵倒してくるような人は、「わたしはこれだけ傷ついたのだから、わたしも誰かを傷つけてもいい」という気持ち(平等観)を持っているのではないか、と考えていた。しかし、そうとばかりも言えないなと、その友達の言葉で反省させられたのだ。
おそらくかれらは、「自分が誰かを傷つける」という発想自体を、たぶんまったく持ち合わせていない。頭の中は「傷つけられた」ということでいっぱいで、そのほかを考える余裕はない。「自分の痛み」を少しでも和らげようと精いっぱいなのである。「おまえが悪い!」と考えることが当座、最大の癒しなのだ。
「おまえが悪い!」モードに入ると、それまでの関係性の積み重ねなどはいっさいリセットされる。というか、自衛のために組み替えられる。直前までの関係は破棄され、「自分の痛み」を低減させるために最も効果的な「新しい関係」を、その場で作り上げるのである。(「でっち上げ」ではなく「組み替え」なので、一面的にはたしかに成り立つような言い分が多い。「おまえがこんにゃくゼリーを買ってきて机に置いたから、子供が食べて喉に詰まらせたんだ! おまえが悪い!」みたいなもの。しかし当然話はもっと複雑で、こんにゃくゼリーを食べたいと言ったのはこの人だし、こんにゃくゼリーが机にあったのを気づいていてしばらく放置していたし、子供がこんにゃくゼリー食べて苦しんでいたのもしばらく気がつかなかったりした、というわけである。いろいろ考えると、買ってきて机に置いたことだけが悪いわけではないとわかるはずだが、そんなことはこの人にとって、まったくなんの意味も持たない。)
罵倒される側は傷つく。これまでに積み重ねてきた関係を、すべてなかったことにされるのだ。それどころか、「自分勝手に組み上げられた新しい関係(あなたがわたしを傷つけた、あなたがわたしに不利益をもたらした、あなたはわたしに悪意を持っている、等々)」を突きつけられ、そうではないと言っても聞く耳は持たれない。当然だ。その「新しい関係」が、その時に自分をいちばん守ってくれるものなのだから。
それまでにどれだけ相手を想い、心を尽くし手を尽くし、好意を持って付き合っていた(つもりだった)としても、そんなことはなんの意味も持たない。つい昨日(または一瞬前!)は仲良く遊んでいても、ラブラブだったとしても、「おまえが悪い!」モードに入ったら、そんなことは風の前の塵に同じ。雲散霧消。
残るのは、「ああ、これまでに自分がこの人のため、良かれと思ってしてきたことは、すべて無駄だったのだな」という徒労感、無力感だけである。
しかし、相手に「傷つけよう」という意志はない。ただ「傷つけられた」と思っているだけなのだ。そして「この傷を少しでも軽くしたい」と一所懸命になっているだけなのだ。それがたまたま「罵倒」のような形をとり、結果的に他人を傷つけてしまった、というだけ。かれらに「傷つけよう」という意志などない。そんなことに関心を持ってなどいられない。もっと大切なことがある。「自分を守る」ということが。
そう考えると、怒るのも傷つくのもお門違いな気がする。相手はただ、傷ついた自分のケアを自分でしているだけなのだ。そこに追い打ちをかけるように「おまえは間違っている!」と断ずるのは、厳しすぎる。相手にとっては理不尽でしかないだろう。
もっと優しくできるはずなのである。
「わたしは傷ついた」「わたしは被害者である」というところは、動かない。そこを動かそうとしても無駄である。その人にとっては「そこ」こそが現時点での安全地帯なのだ。「おまえが悪い」「おまえのせいだ」も、動かない。「そこ」が安全地帯なのだから。
これまでの僕はついつい、事実誤認や論理破綻が目についたり、そもそも今その態度を取ることは正しくないだろう、というような観点から、「そこ」に踏み込んでしまうことがあった。「どうしてそんなこと言うの?」と泣いてしまうこともあった。でもたぶん間違いだ。「そこ」が動くことはないし、動かすべきでもない。「そこ」を動かそうとするのは、相手をさらなる窮地に追い込もうとするようなことでしかなく、それは絶対に「仲良しの発想」ではない。
じゃあどうすればいいのか、というのは、皆目わからない。とりあえず今考えているのは、相手の安全地帯を侵すべきではないだろうということ。たぶん、「そこ」にいることをまずは尊重したほうがいい。肯定するわけではなく、尊重する。その人が「そこ」にいることには、重大な意味があって、軽はずみに侵すべきではないのだと。
2019.9.07(土) 芸術になんの意味があるか
このホームページも夜学バーも、芸術としてやっていて、夜学バーに来てお金を払ってもらうのは、描いた絵が売れるようなもの。芸術としてやれないとしたら、職人としてやる、という道しか僕には思い浮かばないが、それならば別のやり方でやるだろう。
「おざ研」の時代から今に至るまでお店は芸術という意識をもってしかやっていないし、やるつもりもない。ホームページも、この形に芸術性があると今のところ思うからこうしている。こういった「芸術」がいつか(筒井康隆先生の『美藝公』の世界のように)世の中をつくっていけばいいな、と夢想しながらやっている。
続けることに意義があるわけでもなければ、儲けることに意義があるわけでもない。芸術である、ということだけが大切だ。美しくなければ意味がない。
美しくない色を塗られてしまったら、塗り直すしかない。だれがどうやって塗り直すか? ということを、考えながら。
遊びでも仕事でもない、芸術なのだ、ということを、わかるべき立場の人にはどうかわかっていただきたい。わからないのなら「わかるべき立場」にいるべきではない。
「持続可能な芸術」が、あちこちにあったらと思うんだけどな。
メールフォームからもきた。ああよかった。引き続きよろしくお願いいたします。僕もがんばります。
ファンレターきた! うれしい! メールフォームじゃなくてメアド宛だけど、この人から最初に連絡をいただいた時はたぶん掲示板かメールフォームだったんだよなあ。そう、掲示板いちおうあるんで、使ってもらえたらとも思うんですけど、ちょっと仕様があんまりかっこよくなくて、
昔のやつと同じデザインでやれたらと思っております。ちょっとスパムが多すぎて閉じておりますが、どうにかならないでしょうか。どなたか技術者の方、見ていたら、よろしくお願いいたします。
2019.9.02(月) 恋愛、破壊と想像/橋本治 is still alive
「リーダーはもう来ない」なんて当たり前じゃない。だって俺やだもん。俺リーダーなんかになりたくないもん。だって、リーダーってすごくつまんないよ。ここで、六時間話してても、誰からも話しかけてもらえないもん。どこが面白いのそんなの? 誰もやりたくないに決まってるじゃん。それで、リーダーやれちゃうんだとしたら、リーダーが実質としてそういうつまんないものを持ってるってことに気がつかない、言ってみれば孤独であるっていうことに鈍感でいられるバカな人間だけだもん。孤独であることに鈍感だから、権力的なリーダーになれるんだよね。俺やだもん、そんなの。
(橋本治『ぼくたちの近代史』河出文庫P88)
一週間前に「ファンレターでもどうぞ」と書きましたが、いっさい何もありませんでした。メールフォームではない別のところから一言くださった優しい方が一人だけいらっしゃいましたが、そのくらいですね。いや、感謝です、本当に。
橋本治さんの言う「リーダー」のつまんなさって、孤独さって、そういうことなんですよ。こうやって何時間もかけて文章を書いたって、誰からも話しかけてなんかもらえない。そりゃ、誰もやりませんよこんなこと。SNSならいいね!がくる、リプライがある。それを互いに与えあう。そういうご褒美が、全然ないんだから。そりゃ徒労感と疲労感がたまっていくばかりでね。間接的にならともかく、直接的には一円も儲からない。むしろniftyにホームページを維持するために月額いくらっていうのを払っているんですよ。普通の読者さまはいっさい、そういう想像をしてくださらないと思いますけれども。
だってこれは、僕が好きでやってるんだもんね。好きでやってるんだから、読む側もべつに受け取るだけで構やしないよね。読ませていただいています、なんてへりくだる理由も、読んでやってるんだ、と偉ぶる理由もない。ただフラットに、そこにあるんだからたまに読む、と。そういうくらいのもんだろうから、べつにファンレターも何もないのでしょう。
お時間のある方は
9月1日の夜学日報を読んでみてくださいませ。言葉を「交わす」ということについて、少し書いています。大事なのは「交わす」であって、誰かがべらべら喋り続けて、誰かがそれを黙って聞く、なんてことじゃないんです。絡みづらい文章を書いているのは僕なんだから、反省すべきなのは承知しているんですけども。
僕はリーダー(権威や権力を持つ存在)なんてやりたくないので、フラットなお店をめざして夜学バーというもの(詳しくはHPへ!)をやっているわけですが、それは「交わす」ということが土台にあるフラットさでなければ絶対にいやなんです。
それはそれとして恋愛の話。
人間というものがなんで恋愛などというものをするのかというと、中途半端なままに出来上ってしまっている自分を一遍ブチ壊す為なんですね。
(橋本治『青空人生相談所』河出文庫P234)
絶対に付き合ってはいけない男として美容師、バンドマン(特にベーシスト)、バーテンダーが挙げられ、まとめて3Bなどと言われますね。これらの職業はみんな、「金さえ払えば会いに行ける男たち」なので、まあそこから恋愛感情になっていくことは多いのでしょう。彼らは基本的に「お客さん」を否定しない。美容師はむしろ褒めてくれるだろうし、バンドマンはファンと言われれば悪い気はしないだろうし、バーテンダーはどんな話にも耳を傾けてくれる。なぜならばそうすることでお金が引っ張れるからです。(パブリックイメージはそんなもんで間違いないと思います。)
僕も夜学バーに立って働くからにはバーテンダーであって、不用意にも恋愛感情のようなものを抱かれることがあります。ただ、それはあくまでも「恋愛感情のようなもの」にとどまっているはずです。「お金を引っ張ろうと思う才能」が僕にはあまりないから。お店の美意識を傷つけるくらいならそのお金はいりません、とけっこう本気で思えるから。いわゆる「色営業」をすることによって夜学バーが夜学バーじゃなくなってしまうなら、それは損ですね。だからしません。
それでもしぶとく「恋愛感情のようなもの」を抱かれることはあります。それは「付き合いたい!」とか「抱かれたい!」とは違う、ある種の「執着」のようなものです。なんのために彼女ら(男性の場合もありますが)が、僕にそういった執着を抱くのかといえば、「中途半端なままに出来上ってしまっている自分を一遍ブチ壊す為」なのでしょう。
さっき『明石家電視台』という関西ローカルの番組をTVerというアプリで観ていたら、日ノ本高校ダンス部の一年生女子が25歳の顧問の先生に想いを伝える、という場面がありました。直観ですがもしかしたら「学校の先生に恋をする」というのは、「中途半端なままに出来上ってしまっている自分を一遍ブチ壊す」を純粋に望んだ結果なのかもしれません。女子校でわりあい多くの生徒が同性や教員に恋愛感情を向けるというのは、そういう事情があるからなんじゃないかと。
たとえば結婚していて子供もいて、恋愛をしたところでそれを成就させるわけにはいかない、という立場の人がいます。そういう人が「中途半端なままに出来上ってしまっている自分を一遍ブチ壊す」という必要を感じてしまったら、むしろ「成就しない相手に恋愛感情を持つ」ことが最も都合よいのでしょう。僕は「恋愛などない」とフツーに思っている解脱者なので、「ともに溺れていく」ということは少なくとも、今のところは、考えにくい話です。ある意味で安全牌です。もっと安全なのはアイドルや二次元、ということになります。
成就するはずのない、あるいはしてしまったら大変なことになるような恋愛をなぜ人はするのかといえば、実際には成就しないほうが良いと思っているからなのではないでしょうか。だって恋愛の本当の目的は相手とどうこうしようというのではなくて、「中途半端なままに出来上ってしまっている自分を一遍ブチ壊す為」なのだから。ところが、成就しないと思っていたような恋愛も、意外に成就しちゃったりするもので、それで大変なことになってしまう人がけっこういますよね。
美容師、バンドマン、バーテンダーはいずれも、客の立場からだとかなり成就しにくいように見えます。だから安易に、先生に恋するように、恋をしてしまうのかもしれません。どうせ成就しないだろう、とタカをくくって。ところが美容師もバンドマンもバーテンダーも、意外と恋愛に付き合ってくれやすかったりします。(パブリックイメージとして!)それがあとで「騙された!」となるような関係だったとしても、とりあえず「関係」を持ってくれたりはします。(パブリックイメージ!)
大事なところに戻ります。べつに恋愛なんてする必要もないのに恋愛をしてしまうような人たちは、実は「中途半端なままに出来上ってしまっている自分を一遍ブチ壊す」ということを望んでいるのではないか、という話です。
自分が「中途半端である」ということがわかっていて、そしてその状態で「出来上って(完成して)しまっている」ということもわかっている。膠着して柔軟性をいっさい失ってしまっている自分に気づいていて、でも膠着して柔軟性がないからどうにもできなくて、しょうがないから「恋愛」という劇薬で頭をバカにさせて、いったんすべてをブチ壊す。固まってしまっていた「自分」を解体して、もう一度組み立て直すということをする。
逆にいえば、柔軟な人は恋愛をする必要がない、ということでもあります。柔軟な気持ちを持っていれば、恋愛の機能を利用する必要がないのです。
僕が「恋愛などない」と言うのは、たぶんそのことを踏まえています。「そもそも恋愛というのは人間が現状の自分を破壊するために他者(生身の人間に限らない)の存在を利用する現象であって、みんなが思っているような『感情や契約関係をパッケージングした概念』ではございません」ということを最も短く表現したフレーズが「恋愛などない」です。
僕はもうたぶん、少なくともかなりしばらくは恋愛らしい恋愛をしないと思いますが、その理由は「中途半端ではなくきちんと出来上った(完成した)から」ではもちろんありません。「中途半端なまま未完成であるから」です。
つまり、もし僕がこのまま「完成」してしまったら、あるいはそう思い込んで膠着してしまったら、ふたたびまた「恋愛」のお世話になるだろうということです。それはそれで楽しそうな気はします。
冒頭で、「交わす」ということの重要性を書いておきました。恋愛の特効薬はこれです。恋愛というのは「中途半端なままに出来上ってしまっている自分を一遍ブチ壊す為」にするもので、実は自分一人で完結しています。「付き合っている」二人の内実は、たいてい「お互いが自己完結したまま一緒にいる状態」です。そこに「交わす」はあんまりなかったりします。
いまの僕はもちろんそういった「付き合い方」をしませんので、相手が自己完結している時、こっちはすることがなくて退屈です。向こうは大忙しでしょう、ブチ壊してしまった自分を再び組み上げる、という作業をしているのですから。しかし「自己完結したまま組み上げる」をしてしまうと、もう一度元に戻るだけなので、「交わす」を積み重ねながら組み上げてもらわないといけません。でなければその恋愛の意味は何もなかった、ということになります。
だから、やる気があるなら「交わす」をしようよ。
そういうことを、そういう人たちには直接伝えているつもりなのですが、まあ……つらいことばかりですよね、お互いに。
何遍言ったって通じやしない、ってこたぁ置いといて、僕ぁ言う。(中村一義『魂の本』)
あーあ、さみしいなあ。(孤独であることに非常に敏感。)
今日はここの日記を二日分(つまりそうとうなボリューム)書いて、夜学日報も二日分(それぞれけっこうな長さ)書いた。こんなに文章を書いてどうするんだ? と急に思った。休みます、とはべつに言わないし思いもしないけど、もうちょっとけいざいてきな書き方をしたい。
あんまり読者も多くないけど、書きながら考えていることが重要なんだと思うから、これからも書くだろうと思います。ところでこの「いいね!」のない世界では、何か反応がもらえると非常にうれしいですので、ヒマな人はファンレターでもどうぞ。(たとえばもう1年以上メールフォームが使われていない。)本当に読者が30人もいるのか怪しく思えてきたよ。
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