少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2016.09.26(月) キー入力の工夫

 実際にガスト市ヶ谷店にて「原稿用紙に万年筆」で書いてみたものをほぼそのまんま打ち込んでUPしてみたのが昨日の記事である。
 今は最初からPCで書いているのだが、実はPCの入力方法もやや変えてみている。

 まず「A」の左隣にあるCapsLockキーにCtrlを割り当ててみた。左手小指をちょっとずらせばCtrlが発動する仕組み。そしてAtokとhtmlエディタの設定をいじり、以下のように割り付けした。

 Ctrl+G : Delete
 Ctrl+H : BackSpace
 Ctrl+I : ↑
 Ctrl+J : ←
 Ctrl+K : ↓
 Ctrl+L : →
 Ctrl+M : Enter
 Shift+Ctrl+I : 選択して↑
 Shift+Ctrl+J : 選択して←
 Shift+Ctrl+K : 選択して↓
 Shift+Ctrl+L : 選択して→

 これまではEnterやBSなどを押すのに右手小指(ないし薬指)を大きく動かす必要があったし、カーソルキーも右手全体を移動させて入力していたが、上記変更によりセットポジションからほぼ移動することなく文字入力に関わるほとんどすべてのキーが押せるわけである。
(あとは、記号(特に「」ーのあたり)がちょっと遠いので別のキーを割り当ててもいいが、そこまでするとほかのPCとの互換性が低くなりすぎるので保留。)

 また、入力そのものに関しても、いわゆる「親指シフト」のキーボードに興味がある。おぼろげな記憶では大昔に我が家にもあったような? 慣れれば便利そうなので是非ともマスターしたいところ。

 30を過ぎると人は、とても保守的になる、と思う。これまで積み重ねてきた「実績」を強く信じ込むようになり、新しい考え型や方法を取り入れることをしなくなる。少なくとも、かなり慎重にはなるだろう。
 キーボードの入力方式を変える、というのは、大げさにいえば箸やペンの持ち方を変えるようなことだ。若くて柔軟なうちはともかく、年をとるにつれどんどん難しくなっていく。「若いままでいたい」なんて思うのはあんまり格好良くない気がするが、「柔軟さを失いたくない」とは思うので、いろいろ試していこうと思っている。いまさら万年筆を手にしてみたのも、そういう気持ちのあらわれである。

2016.09.25(日) 原稿用紙と万年筆

 手塚治虫先生が使っていた画材を真似して買った藤子不二雄先生(あるいは満賀と才野)のエピソードは余りに有名であるが、(――余りに有名なのである。)有名なので、当然僕も知っている。そして「わかる」と共感する。好きな人の好きなものは好き。それは本当に根源的に、絶対にその通りなのである。この場合の「好き」とは、支配とか所有とかいうこととは一切関わりがなく、また「嫉妬」とも遠い。藤子両先生が手塚先生に抱いていた様な、「憧れ」や「尊敬」という意味合いの「好き」である。
 ではこれは男女交際に代表される様な「愛しあう二人」についての話ではないのかといえば、一般にも「尊敬し合える関係が理想」とか言うように、断然関係ある。多分。ただこのことに踏みこむと恋愛論になってしまうのでやめよう。
 少なくとも言えるのは――というか僕が思うのは、「好きな人が好きなものは好き」と“言える”ことって、とても健全だってこと。
 閑話休題。藤子先生は手塚先生に倣って画材を買い揃えたのだそうだ。同じ道具を使えば少しでも近づけるのではないか、と。可愛いファン心である。好きなモデルが使っている化粧品を買ってみるのとおんなじ理屈。僕にもずいぶんそのケはあって、F先生の愛読したというジュール・ベルヌを読んだし、A先生の好きなルネ・マグリットの画集も買った。

 実は今、この文章は原稿用紙に万年筆で書いているのである。ミーハーゆえに。

 本当、いい年して何やってんのかと思わないでもないが、好きな作家の真似をしているのだ。
 結城恭介先生が今、「最強のモバイル執筆環境」として、「コクヨ ケ-35N」という原稿用紙と、「プラチナ#3776センチュリー・ミュージック」という万年筆(のニブ)を使っているそうなのだ。それで書いたものをキーボードで打ち直し、ウェブに上げているそうで。「二度手間やんけ! よーそんなコトできまんなー」と最初は驚愕し、「おれにはできねーな」と思ったのだが、よく考えてみれば僕は日記を書いたあと必ず二度、三度読み返して推敲するのである。それを考えたら打ち直すのも同じ事、とまでは言わねど二度手間が一.三手間くらいに思えてきたので、思い切って新宿の世界堂で「コクヨ ケ-35N」を購入してきた、というわけ。
 万年筆の方は、流石にいきなり同じ物(二万位する)を買うのは畏れ多く、すでに持っていたものを使用している。小学館クリエイティブから二〇一二~三年に刊行された『まんが道』の全巻購入特典として手に入れたもので、「藤子不二雄A」というサインが刻まれている。ひとまずはこれでいけそうだ。しかし世界堂で試用させてもらった「センチュリー・ミュージック」の書き心地が余りに良く、あわや衝動買い、というところだったが、幸か不幸か在庫切れだったので、入荷次第お知らせ頂く、という話に落ち着いた。それまでに「原稿用紙に万年筆」というスタイルが気に入れば(性に合えば)買ってしまうかもしれない。何せ“あの”結城先生御用達である。小沢健二さんも万年筆を使っておられる様だし、遅かれ早かれそうなるだろうとは思う。

 慣れないことをして、ちょっと疲れてきた。しかし楽しい。書いていてトランス状態の様になることはキーボードを使っていてもたまにある(特に小説がノッている時はドバドバだ)が、ペンを使うとその閾値がずいぶんと低くなるなるらしい。先刻からずっと小用を我慢している。「先刻」とか「小用」とか書いてしまうのもアナログの魔力ゆえだろう。万年筆で長い文章を書くのは初めてだが、何というか書いてみて分かった。なぜこのような物が存在し、愛されているのかを。流れるからだ。
 キーボードはデジタルである。当たり前のことだが改めて思う。電子機器だからとかローマ字入力だからとかそういった事情以上に、キーボードは「カタカタ」なのである。一打につき一音が必ず伴う。それを僕はピアノを弾くようで結構好きではあるのだが、どうしてもそこには「音」がある。リズムがある。テンポが存在してしまう。
 インクは液体である故か、川の流れのようなのだ。流れていく。キーボードは人の足の様である。歩いたり、走ったり、その自在さは本当に素晴らしいが、酔うには若干、ハイすぎる。
 血でもよい。
 僕はドラムのない演奏がとても好きだ。ギターやピアノももちろんよいが、ヴァイオリンやトロンボーンがより好きだ。
 川や血に、近づけば近づくほど狂おしい。徒然草や方丈記は当然、筆で書かれた筈である。


 どちらがより「時間」かといえば、万年筆に軍配が上がると思う。

2016.09.13(火) 牛のよだれのように書く理由

 このホームページの文章は、僕がいま死にでもしない限り、いや死んだとしても、本になるようなことはない。売れないからだ。なぜ売れないのかといえば、まずあまりにもまとまりがない。『世界史講義録』といったサイトのようにずっと一つのテーマに則って書いてあるのならばともかく、ここにある文章たちにはテーマも何もなくつれづれなるままに書き散らされているだけのものである。
 僕にも力を入れて語りたいものというのはあって、そうしたものを分類してテーマごとにページを分けて体系的に書いてみたり、いっそブログにしてタグごとに分けてみたり、してもよかったと思うし「そうしようかな」と思ったこともあったんだけど結局ずっとこの形のまま。それを僕は自分で「勿体ないな」とも思うし、「自分には体系的にものごとをまとめる能力が欠けているのだ……」と落ち込んだりもする。でも、昨日書いたようなことを踏まえれば、「なぜ自分がそういう書き方しかしないのか」ということに一つの答えが出せるかもしれない。
 なんで僕が、こんなふうにだらだらと牛のよだれのようにいろんなことを書き散らし、ある決まったテーマのもとに体系立てて書かないかといえば、単純に「いろんなことが書きたい」という散漫さと、「同じものについて書き続けるのが面倒くさい」という怠惰さがツートップで、それ以外の理由などあってないようなものだとさえ思える。ただそこに加えて昨日今日考えたことには、「内容なんかどうでもいいと思っているから」というのがあるのではないかと。
 僕がここに書きたいものは「思考」であって、「内容」ではないのかもしれない。「内容」が先に決まっていてしまうと「思考」が制限されるから、それについては自由なほうがいい。何度か書いているけどいつの間にか僕がものを書く時のテーマは「誰も考えたことのないことや誰も書いたことのないことを書きたい」に定まった。それは面白くなくてもいい。斬新といえるほどでなくてもいい。ただ、まだ誰も手を着けていなさそうなことであればいい。それを目標にやっている。
「内容」を重視するのであれば、「ドラえもんについて語り尽くすホームページ」とかでもよかった。でも僕は「何でもいいから何かについてあれこれと考えるホームページ」を選んだ。「ドラえもん」という枠の中で考えるより、枠のないところで自由にやるほうが性に合っていた。あるいはやがて抱く「目標」に照らして正解であった。
 格好つけて言ってみれば「思考」というものはどんな「内容」よりも必ず本質的だからである。

2016.09.12(月) 思考のオープンソース化

 学校の同僚で一人だけ僕のやっている「場」に来てくれた人がいる。新卒一年目の若い男性で、『場の本』も読んでくれた。その感想として、こんなことを言われた。
「こんなに手の内というか、かなり高度な理念みたいなものまで明かしているのは意外でした。何も言わず黙ってただ『場』をやり続けることだってできるのに、考えていることを言葉で説明するのはなぜですか」(大意)
 考えたことがなかったので、その場で考えた。自分は言葉を使うことが好きだし、得意だとも思っているし、それが仕事のようなものだから、そこまで含めて自分のやるべきことだと思っている、みたいなことを言った。プラトンである僕はロゴス(言葉)の力を信じている、いや、信じたがっているのだ。
 彼とは考え方や目指すものについてある程度共感し合えているように感じるので、その場でも言葉を尽くしたし、別れてからもしばらく考え続けていた。そうしたら、ポンと思い浮かんだ。
 オープンソースか。

 ちょうど、『未来食堂ができるまで』という本を持っていた。未来食堂とは僕の古いマイミク(!)で、学生の頃にちょっと遊んだりもしていて、最近また仲良くさせていただいている小林せかいさんのやっているお店だ。未来食堂はこれまでにないかっきてきなお店で、僕のやっていることと志がちょっと似ている。むろんその志は似て非なるものであり、似て非なるからこそ僕のやっていることと違ってだんぜん注目されているのである。
 その注目されているところとして、たとえば「オープンソース」というところがある。本の帯には《事業計画書、月次売上をすべて公開する 「飲食業のオープンソース化」》という文言がある。
 オープンソースとは、もともとプログラミングの世界の言葉で、ソースコード(プログラムの内容?とでも言えばいいのか?)を無償で公開し、改良や再配布を許す、ということを言う、のだと思う。それによってどんなメリットがあるかといえば、「それを必要とする人の役に立ちつつ、ソースコード自体もいろんな人の手によって勝手に進化していく」ということだ、と、思う。「この概念こそがIT業界を迅速によりよく発展させた根幹」だとせかいさんは言う。
『未来食堂ができるまで』によると、飲食業はずいぶんとクローズドな世界のようで、「手の内を明かさないことによって有利になろう」という風潮が強いらしい。手の内を明かすと、真似されて、せっかくの優位性が失われてしまう。だから明かさない。「うちは秘伝のスープ! 製法は誰にも教えねーんだ! 帰ってくれ!」と取材拒否するうまいラーメン屋ってところ。これって単純に考えてセコくて、手の内を明かすことで世の中においしいものが増えたり、成功する飲食店が増えるならば、それは宇宙にとって幸福なことではないのかと思うのだが、生活がかかればそうも言ってられない。殺されなければ殺される。のたれ死ぬよりはセコさを選ぶのが普通である。
 しかし、未来食堂はオープンソース化を選んだ。それは本の中の言葉でいえば、「真似をすることは不可能だから」。表層は真似できたとしても、コアのところは真似できない。だから差別化できる。素晴らしい覚悟だと思う。そのくらい思わなければ、誇りというのはどこにも生まれない。

「オープンソース」という未来食堂の特徴は、自分のやっていることとはあまり関係ないものだとこれまでは思っていた。でも、その深層にある考え方には、よく似たところがあるような気がする。公開することで、何かがよくなっていくとしたら、公開したほうがいい。公開したところで、誰にも真似できないという自信があるのなら、言い換えれば、確固たる自分だけの「コア」を誇れるのであれば、公開することにデメリットはほとんどない。
 僕は何も考えずに『場の本』という冊子を刷って、100円で売っている。有料だし誰にでも手が届くわけではないので、これをオープンソースというわけにはいかないが、公開することに意義があるはずだという思いは、強くある。
 だって、そもそも、このホームページがそうなのだ。(さっき気づいた。)

 考えてみれば、僕が16年間(!)続けているこのホームページ(特に日記)は、オープンソースなのである。インターネット上で無償公開している、という意味では確かにそうだろう。では改良・再配布といった特徴についてはどうか。僕は「文章」の著作権を放棄するつもりはないが、「思考」に著作権などそもそも存在しないので、主張するつもりもない。(怒る権利はあるので怒る可能性はある。)みなさま大いに「参考に」してくださいませ。
 このホームページは、僕の「思考」がオープンソース化されたものだ、と言うことができるのではないか、と思ったのである。
 ちょっと前に、高校の同級生と話していて、「ジャッキーのホームページは、いつ読んでも、何か考えるの。共感できるところとか、なるほどと思うところもあるし、よくわかんないところもあるけど、絶対に読めば何かを考えるのね」と言われた。めちゃくちゃ嬉しかった。たぶん僕は、そのために書くことをやめないのだ。
 おざ研にしてもランタンにしても、あるいは『9条ちゃん』などの作品についても、このホームページ上で「手の内を明かす」ということを幾度となくしている。それはたぶん「思考のオープンソース化」を目指していたのであろう。ようやくふさわしい言葉が見つかった気がする。これまで僕は自分の書いていることを「自分語り」としか見なしていなかったところがあって、「いい年してずっと自分語りしてて恥ずかしいけど、でも、こういうことにもなんか意味がある気がすんだよなあ……うまく言えないけどそう思うんだよなあ……」とか思いつつ、何年も何年も、うだうだと自分の考えていることを垂れ流すことをやめなかった。「オープンソース」という大げさな言葉を手に入れてようやくピンときた。肯定できた。やっぱりこれは意味のあることだったのだ、と。
 誇りとして、僕の思考は真似され得ない。それは僕の思考が僕の思考として確固たるものだ、という自負があるからである。そんなもん、誰の思考だって二人として同じ思考の人間はいないのだから、当たり前だろう、とも思うのだが、それでも、僕は自分の思考に誇りを持っている。それは特別なことではなくて、当たり前のことなのだ。当たり前のことだからこそ、「これは当たり前のことなんだぞ」と主張したくて、延々とやっているのだ。
「誰にも真似され得ない自分だけの思考があって、そのことに誇りを持っている」ということを主張するために、僕はここに何かを書き続けている。「誰にも真似され得ない自分だけの思考がある」ということは当たり前だし、「そのことに誇りを持つ」ということも、たぶん当たり前というか、そうであることが「ちょっとりっぱ」という段階に進むための条件なのだ。「僕の思考は僕の思考として確固たる」ということを、当たり前だと思うこと。そのことに誇りを持つこと。
 自分の思考は自分の思考だってことは当たり前で、それに誇りは持つべきである、と主張する人がいることで、その「当たり前さ」は強調される。「当たり前さ」を強調したくて、僕は主張を続ける。そんなもんは当たり前なんだぞ、と言いたくて。(わかりづらいわりに、十行くらい同じことしか言っていないので、そろそろ言い方を変えていこう……。)

「誰にも真似できない自分だけの思考」をオープンソース化することに、僕は意味があると思って、そうしてきたのである。たぶん。
 少なくとも、誰かがこれを読んで、少なからず役に立ててくれているのだ。この文章自体が直接誰かによって書き換えられることはなくても、僕が思考したことは、誰かの頭の中で、改良され、再配布(活用あるいは発表)される。だったら、めちゃくちゃ意味がある。そういうふうになっているということは、たまにある読者さまからの反応により明らかなのだ。
 どんな文章だって、言葉だって、当たり前にそういうふうになっている。それを僕は、同じ場所で、16年やってきた。とりたてて評価されることもなく、アクセスが多いわけでもないが、絶対に何か意味があると信じて、やってみている。
 思考は、大切なことだと僕は思う。だから、「こういう思考がある」ということを提示して、それが誰かの役に立ったり、その思考自体が発展していくとしたら、おそらくそれは宇宙にとって善いことなのだ。というか、そうだと僕は信じているのだ。

 思考が、ロゴス(言葉、という意味のつもりで使っています。僕はプラトンなのでプラトン用語を使うのです)によって表され、それが拡散し、誰かの中で育っていく。それも広義の教育だと思う。
 あとはその思考を、あるいはロゴスを、磨いていくこと。それをもっともっと考えていきたい。
 このあたりが僕が「あれやこれや言葉で説明してしまう」ことの理由で、授業の中でもいつも言わなくてもいいようなことを言ってしまう。「手の内」を明かしてしまう。それはたぶん「(きわめて広い意味での)教育のオープンソース化」のようなことなのかもしれない。(かっこよく言うと。)

2016.09.09(金) 親しき仲にも礼儀あり

「親しき仲にも礼儀あり」という言葉が好きである。
 僕はかつてとても感情的な子だった。すぐ泣き、すぐ怒る。小学生の時に「これではよくない」と奮起して、感情を抑え込むようになった。今では滅多に怒りをあらわにしたり、感情的に人に注意したりしない。それでもこの十数年で何度か怒った記憶はある。ほとんどが「親しき仲にも礼儀あり」の絡む問題だった。
「ごめん」の一言がないだとか、泊まりにきて布団を畳まず出て行こうとするとか、そういう些細なことで、長い友達に説教をかましたことがある。いま思えば、僕は彼らとの関係を「何でも許される」にはしたくなかったのだろう。それを許せば「甘え」が発生し、「上下関係の亜流」になりかねない(前回、前々回の記事を参照)。その二人はともに十七年目の友人であるが、当時はまだ確か大学生くらいだったので四~七年くらいだった。そこから十年以上、よく続いている。
「親しき仲にも礼儀あり」とは、僕の言う「対等」という状態を担保するための言葉だ。「対等」を心がけるなら、親子でも、きょうだいでも、親友にだって、この「礼儀」は欠かしてはならない。相手を一人の人間として尊重しなければならない。「ありがとう」と「ごめんね」は言えなければならない。二つの気持ちをあわせて「感謝」と言う。(感謝と呼べない「ごめんね」は空虚である。←言い過ぎだろうか)

 学校の先生をやっていて常に心がけたいと思うのも、やはり「親しき仲にも礼儀あり」だ。生徒が親しく接してくれるのは嬉しいし、呼び捨てにされてもタメ口で話されても僕のほうでは問題はない。しかし、親しさの内にちゃんと「礼儀」が潜んでいる場合と、ぜんぜんそれのない場合がある。その有無は絶対にわかる。「礼儀のある親しさ」を向けてくれれば「やるな」と思うし、そうでなければ「無礼だな」と思う。(今の学校には今のところ前者の子しかいません、念のため。)
 反対に、もちろん、僕のほうでも生徒に対して、「親しき仲にも礼儀あり」を心がける。相手が「生徒」であり「年下」であり、さらに「女性」(女性に対してことさらに礼儀を欠く男は多い!)であっても、どれだけ仲良くなっても、「対等」の関係でいたいから、「礼儀」を用いる。具体的には、色々あるんだけど、第一には「どんな分野においてでも、相手が自分より優れた状態にある可能性を常に考える」だろうか。たとえ僕が専門とするようなこと(藤子不二雄とか?)に関してであっても、相手の知識や考えのほうが正しかったり面白かったりする場合は常にある。上下関係しか意識できない人間はそこで「勝った、負けた」を考えてしまう(決めつけ)のだが、自分の専門に関して相手が自分の知らないことや面白いことを言ってくれたなら、「もうけた!」と喜び感謝するのが素直ってものだ。そうした話にとどまらず、社会問題に対する意見にしたって、学校のシステムへの文句にしたって、相手が正しいこと(妥当なこと)を言う可能性は常にあるのだから、真剣に耳を傾け、違うと思えば、相手が納得できそうな仕方で「反論」をする。ぐうの音も出ない正論ならば、「あんたが正しい!」とちゃんと言う。そういうことを僕は礼儀と考える。
 実際、高校生くらいの子供は、「ちょっといじれば完璧に正しい」ようなことを拙く言うものである。そのつたなさを取り上げて「間違っている!」と言うのは愚かで、「あなたの考えはここをいじればどうにか妥当かもしれない」と導いてあげるのが、まあ、教育というものなんでしょう。(まともな先生はそういうふうにやっていると思う。)

 さて本題はもちろん、「上下関係しか結べない人」のこと。
 上下関係しか結べない人には、「親しき仲にも礼儀あり」がない。彼らは、「上」の人に向ける慇懃さを「礼儀」だと思っている節がある。そうではない。礼儀というものは、「対等」の人に向けてこそだ。礼儀という言葉が不相応ならば、「敬意」と言い換えてもいい。あらゆる人間に敬意を払えるほうが、いいに決まっている。
 敬意は必ずしも「上」にのみ向けるものではない。また、敬意は必ずしも慇懃さ(丁寧さ)と同期しない。タメ口で喋っていても敬意は発生する。善き生徒が僕に向かって話す時もそうだし、僕がかつての先生と話している時もそうだ。敬意たっぷりのタメ口で僕は話している、つもりなのである。
「対等」な相手に対し、「みえない敬意」を払うこと。それが「親しき仲にも礼儀あり」ではないだろうか。「上下」ばかりを意識していると、それができなくなる。「対等なんだから失礼でもいい」ということをどこかで思っている人間は、けっこう多い。

 そういう人は自分に向けられた「小さな親切」や「みえない敬意」に気づかなくて、やたら偉そうになったり、亭主関白になったりすんじゃないだろうか。彼らはそれを「当然」とさえ思わない。当然すぎて、意識さえできなくなっているのだと思う。

ジャッキー さん 投稿日:2016年09月08日(木) 11時09分
 
ヤンキーは、思春期に親を見下し、それが過ぎると尊敬するようになる、というパターンが多い気がします。
「マジ親に迷惑かけた本当に」という歌詞と「仲間たち親たちファンたちに今日も感謝して進む」という歌詞が両立するドラゴンアッシュの『Grateful Days』におけるジブラさんラップ部分は、まことにその象徴でございますね。
上下しか考えていないので、「見下す」と「尊敬する」のどっちかの極に振れるしかない、ということではないかと思います。
もちろん、何十年も見下し続けたり、逆に何十年も尊敬・感謝し続けたりする人もいるでしょう。そういう人も上下人間っぽいです。
AかBか、という単純さで割り切るほうがわかりやすいので、そうなるのでは。
上と下しかない人は容易に「右か左か」という思考にも流れるので、
ヤンキーに右翼が多かったり、頭でっかちに左翼が多かったりするのでしょう。

吾妻ひでお先生の言葉を借りれば、「垂直思考しかできないやつはこのザマだ」ですね。(『二日酔いダンディー』
(掲示板より)

2016.09.06(火) 上下関係しか結べない人

「上下関係」以外の人間関係を結べない人。
 上下関係以外にどんな関係があるのかといえば、それは当然「対等の関係」だ。

「上下関係以外の人間関係を結べない人」は、自分にだって「対等の関係」は結べていると思い込んでいる。だがたぶん、彼が対等だと思っているその関係は、関係などではなくて、裕福に生まれた反抗期の少年が両親に接する態度と同じである。
 少年は親の稼いだ金で生活をしている。トイレットペーパーがなくなれば親がいつの間にか買ってきて替えてくれている。食事も用意してくれる。洗濯もしてくれる。布団も畳んでくれる。しかし少年は親に対して感謝しない。「生んでくれなんて頼んだ覚えはない」といったことまで言う。ずばりこれは「甘え」である。
 世の中には、他人に甘えきっていて、それを「対等」だと思ってしまう人がいる。先生に反抗する生徒も、実は甘えているのである。「俺たちは同じ人間なんだから、年齢も立場も関係なく対等のはずだ!」と叫ぶ子供の言葉には、例外なく甘えが潜んでいる。なぜならば、大概、反抗する生徒は先生を「下」に見ているのであって、「対等」に見てなどいないのである。相手を勝手に「下」と設定して見下すのは甘えである。手抜きと言ってもいい。
 父親にも母親にも、反抗する少年は対等になど接しない。相手を勝手に「下」と措定する。対話などそこにはない。「オレ(たち)のほうが正しい」という信念によって親や先生、あるいは「大人」なるものを見下しているのである。
「対等な関係」とは、まず相手を「対等である」と仮定することから始まる。その仮定が崩れれば、「上下関係」に発展していくこともあるだろうが、そうなると当然もう「対等な関係」ではない。

 上下関係しか結べない人は、学校の先生にも多い、と思う。すべての生徒を「下」としてしまう人。彼らは同僚の先生についてはどう捉えているのだろうか? 「対等の関係」を結べているのだろうか? さすがにわからないので、私見を述べるにとどめるが、学校空間では基本的に「年上(あるいは先輩)の先生の意見が通る」という鉄則が(たぶん)あって、やはり上下関係になりがちなのである(そうでない学校はいい学校だと思います!)。同い年の同期、という場合はどうなのかというと、これぞこれから述べるある種の甘えの関係が存しているように思える。
 同期や同級生との関係はたいてい「対等」ではないか? という気はする。だが、そうでもない気もする。というのは、仲の良い同期や同級生相手だと「何でも許される」という甘えが生じてくるのである。ちょっとくらい失礼なことを言ったって構わない。ちょっとくらい負担をかけても同期のよしみで許してくれる。これは果たして「対等」なのだろうか? 「お互いがお互いに甘えている」という意味で、平等ではあるだろうし、これを対等と呼んでしまっても差し支えない気はするが、だが、これはどうも反抗期の少年と両親との関係に似ていないだろうか。少年はお母さんに対して、「絶対に許される」からこそ、悪態をつくのである。
 対等の関係とは、「何でも許される」という関係ばかりではない。それを言ったらいわゆる「共依存」関係だって、対等の関係ということになる。そうも言えなくはないが、そういう関係を結びがちな人は「そうではない別の対等な関係」はなかなか結べないのではないか?
「何でも許される」関係は、共依存にとても近い。「おれはすべてを許すから、おまえもすべてを許せよ」という、甘えあいの構図である。これは「お互いがお互いを下に見ることを許し合う」約束を結んだにすぎない。よく見ると「見下しあい」でしかなく、つまり「上下関係」の亜種なのではないか、と僕は思うのである。

 上下関係しか結べない人は、「上」だと思う人と「下」だと思う人をハッキリと分ける。そのほうが楽だからだ。「対等」だと思い込んでいる相手のことも、「相手も自分を見下して良い」という条件をつけて、見下している。
 さあ、それでは「対等」とはいったいどういうことだろう?
 僕が思うに、対等とは、タモリさんとさんまさんのような関係である(そればっかかよ!)。いやでも、冗談でなくて。上下関係しか結べない人には、ああいう関係は結べない。そして、ああいう関係を結べるようになるためには、上下関係なんてくだらないことばっかり考えていてはダメだということも、なんとなく想像できるだろう。
 自分と相手とは、時に上のようになり、時に下のようになる。そのバランスがお互いに納得する形でとれているような時、それを「対等」と言うのではないか、と思う。

2016.09.05(月) 成長は「場」の外で

 友達が言っていた、と別の友達から聞いたんだけど、「場というものは人がたまる場なので人は成長しないでそこにとどまる」。確かに、と膝を打った。
(成長、という言葉や概念がそもそも好きでない、という事情はとりあえず無視して。)

『場の本』(そういうものを作りました、ほしい人は言ってください。詳しくはランタンのページへ)に書き忘れたことなんだけど、僕が「場」の象徴としても最もふさわしいと思っているのは、『笑っていいとも』でタモリさんとさんまさんが二人でしゃべる時に置いてある小さな丸テーブルだ。あれこそが「場」である。
 タモリさんとさんまさんはあの丸テーブルに手を置いて話す。彼らにとって丸テーブルは、絶対になくてはならないものなのだと思う。あれはたぶん「場」なのだ。話題を乗せる「場」。あるいは、タモリとさんまという、強烈な二つの個性を同時に載せるための「場」。
 たぶん、彼らの個性は強すぎて、まっすぐに向かい合っては激突してしまうし、かといって目をそらせば拡散しすぎてしまう。自由な彼らはどこへでもどこまでも飛んでいってしまう。あの丸テーブルがあるからこそ、彼らの立ち話はその「場」を離れることなく、安定して続けていくことができる。丸テーブルの作り出す「場」はタモリさんとさんまさんにとっては互いのカドの鋭さを和らげるためのクッションでもあり、360度どっちへ飛んでもふたたびその中心へ引き寄せられてしまう、重力装置でもある。(カドをとり、全方位に働く。そのために丸くなければならんのです!)

 タモリさんとさんまさんは、そこで「成長」などしない。お互いが極めてきた芸の一端を、その一時的な「場」にのせるだけだ。コーナーが終わればまた一人の芸人として、それぞれの仕事に戻っていく。
 場とはそういうものである。

 さっきとはまた別の友達がmixiに書いていたことだが、「教室的な空間」と「部室的な空間」があるとして、前者は毎日強制的に行かなければならない、生産的なところ。後者は行っても行かなくてもいい、非生産的なところ、だという。そうすると、「教室的な空間」では、成長が促され、見込まれ、時に強要される。「部室的な空間」においては、成長はしない。少なくとも、しなくてもよい。する必然性がない。しにくい。
 僕がいつも言っている「場」というのは、どちらかといえば「部室的な空間」に近く、成長とはあまり関係がない。それを僕はずっと昔からたぶんよくわかっていた。だから、まだバーの客でしかなかった頃から、言うべき相手には「ここにいても意味がない」「日々の生活に力を入れたほうがいい」「とりあえず働いたらどうでしょうか」などなど、はっきりと言ってきた(ほんの数名に対してだが)。あるいは、店や「場」とはひとまず関係のないところで、具体的な助言や進言をしてきた。
 もちろん、「場」というのは、「場」での作法を学ぶところでもある。そういう意味での成長はあるわけだが、その作法を身につけるための素養が身についていない人にとっては、難しい。「まずは作法を身につけるための素養を」ということで、「働いてみたらどうでしょうか」というわけだ。「場」というのは、そういうところの面倒を見るところではない。たまたまその「場」で出会った人が、たまたま教育してくれるような場合もある、というだけで。

 無銘~おざ研~ランタンと通ってきてくれている某くんは、最初は会話さえおぼつかず、敬語は使えない、空気が読めない、無表情で怖い、などなどといった問題をたくさん抱えていて、僕も当初は頭を抱えた。しかし二人っきりになったタイミングで長々と(朝まで)説教をたれてみたところ、劇的に快方に向かっていった。
 この場合、もともと伸びしろ(?)があったというのと、僕がたまたま時間を取って長々しい説教をできたというのがよかったのだが、それだけではない。彼は人知れず(自分で言ってたけど)努力をしていたのである。説教を受けた翌週から、無銘喫茶のドアを開ける前にブツブツと喋る練習をしてから入ってきていた、というのだ。つまり彼は「場」の内部ではなくて、「場」の裏側で説教され、「場」の外側で自主的に鍛錬を重ねていたわけだ。たぶん、だから成長できたのである。

 僕のいう「場」というのは、人が集まるところである。その「人」は、その「場」の外側に、それぞれの生活を持っている。それぞれに生活を持っている人たちが、たまたま集まるのが「場」である。生活の場そのものが「場」になることはない。僕の大好きなこの曖昧な語に定義があるとしたら一つにはそういうことだ。
 それぞれに生活を持っている、サラリーマンとか、教師とか、学生とか、小説家とか、絵描きとか、芸人とか、ギャンブラーとか、軍人とか、殺し屋とか、ドロボウとか、マシーナリーとか、モンクそうとかが、たまたま集まってできるのが「場」なのである。生活と「場」とは切り離されている。そして人間が成長するのは「生活」においてであって、「場」においてではない。(そういうわけでFF6のキャラクターたちはぜんぜん成長しないのかもね? ティナが成長するのは村という「生活」においてだもの。対して、ずっと流動的な「場」にしかいなかったシャドウは何も変わらず自殺する。)
 人は生活の中で成長し、それを「場」の中で発揮していく。あるいは、成長を確かめるために「場」というものを求めるのかもしれない、とさえ思う。(僕の場合はそうかもしれない。)

 ぜんぜん成長がない、って事態は、「場」に執着しすぎて起こるのかもしれない。「場」の中では成長などできない、という原則をたまには振り返るのもいいと思う。人間の成長は生活の中においてのみ生じる。そして孤独というのは生活に含まれる。

 たとえば、読書をしてこそ読書会がある。読書という孤独(生活)に支えられて、読書会という「場」が成り立つわけだ。そこを忘れてはいけないし、このことは何にでも敷衍させて考えるべきではなかろうか。
 孤独であったことのない人間は、世の中のかなり多くのものごとが孤独に支えられているということを知らない。「場」だって常に孤独に支えられているのだし、あらゆる人間関係は孤独に支えられて維持されている。孤独を前提にして、と言ってもいい。問題のほとんどは、たぶんここにあるぞ。孤独を知らないと、知らず知らず人を傷つけてしまう。
 若い頃の一人暮らしは買ってでもしろ、ということでしょーか。

 お母さんはトイレットペーパーが切れるたびに新しいのを買い足している。その孤独を知らない人は、優しさに縁のない生き方しかできないのでは?


 孤独について詳しいことはもうちょっと考えていつか書こう。

(これまで出てきた友達はみな、初回のランタンに来てくれた。いろいろ考えながら来てくれて、本当にありがたいです。)

 ランタンzoneという新しい場所を開きます。よろしくお願いします。
 日記たくさん書く予定だったんですがもうちょっとだけお待ちくださいまし……。

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