少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2024.5.10(金) 祝☆9条ちゃん15周年
2024.5.16(木) 形式より詩のほうが偉い
2024.5.18(土) ふたりエコーチェンバー/全員が緊張している場
2024.5.24(金) 片ブ×CASCADE(関西紀行 京奈和滋①)
2024.5.28(火) 京都学派×天理教(関西紀行 京奈和滋②)
2024.5.29(水) みんなが王様になる世界(関西紀行 京奈和滋③)

2024.5.10(金) 祝☆9条ちゃん15周年

 あす夜学バーは7.11周年です、みんな来てね。明後日でもいいよ。
 詳細はホームページ、だけど実際Txitterが細かなところは早い。SNS社会~。
 SNSはホームページのファンネルかポケモンみたいなもんと考えております。ファンネルもポケモンもだんだん古くなるがホームページという和製英語は不滅である。

『たたかえっ!憲法9条ちゃん』が世に放たれたのは2669年5月10日、すなわち15年前の今日である。それはエポックだった。内面にあったものを初めて「まとまったもの」として外に出せた瞬間だった。
 今回詩集を作ったとき、2009年よりあとのものが圧倒的に多くなった。それは「9条ちゃん以前・以後」という考え方もできる。あるいは「教員以前・以後」でもある。中学校の先生になったのが2008年だから、9条ちゃんは教員をやりながら書かれた。教員になっていなければ9条ちゃんは書けなかったかもしれない。またそれは「『おばさん』以前・以後」というのにも遡る。小沢健二&エリザベス・コールによる『おばさんたちが案内する未来の世界』を僕が観まくったのは2007年のこと。段階を踏んでいるのが目に見える。
 詳しくは周年で出すペーパーに書くこととしよう。自伝の代わりになる。そういえば詩集にも『自伝』という作品を収録した。詩は、昔のものでも思ったより恥ずかしくない。

 おっと、詩集の説明をしていなかった。僕の古い友だち矢崎隆雄くんがずっとこのホームページの別館のような場所で続けている「ハイパー・トニック・セツノーナル」とかやいう詩のブログ。ここから46編を選んで本にした。名義はなぜか尾崎昂臣。たぶん明日届くので、明日売る。買いに来てね。20部しかなくて、一冊は小諸に送るし、一冊は自分のぶんだから実質18部かな。ほしい人、走れ走れ!
 12日までは店頭のみで販売または予約。来た人が優先ですがメールとかでも受け付けます。その数によって増刷も考えるのでよろしくお願いいたします。

 2009年5月10日をもって僕はとりあえず「完成」したと思う。詩もまとまりがよくなった。2002~2008までの詩を見ると一種の神通力は落ちたのかもしれないが、それ以上の超能力を得たと思っている。
 見つからないのだが確か10年とか15年とか前に、「詩のように文章を書きたい」みたいなことを書いたのを覚えている。その頃は受験勉強を経て、大学で学び、橋本治など論理性に長けた文章を浴びるように読んでいて、自分の書くものがガチガチになっていた。ほぐれるまでに10年くらいかかったのではないかな。最近はわりと自分の書くものに満足している。その結実が『あたらよのスタディ・バー』だったと思う。読んでない人は言ってください、読める方法をつくります。
 てかKindleで出したいんですよ、アシスタントの人がんばってください!(ひと任せ)

 日記は24年書いてるけども、なんだって続けていると軌跡ができて面白い。2009年に「完成」と書いたが、完成したからとて完璧ではない。不完全なまま洗練をめざしている。とりあえず歩けるようにはなった、というくらいだ。

 ところで詩集のタイトル『ただ美しいだけで生きている』。とある自作詩(収録した)のなかにこれと似たフレーズがあって、なんとなく目に止まったのでちょっと変えて題とした。いま思うとなるほど、2005年から2024年というのは美という軸で考えると自分としては納得がいく。
 9条ちゃんからの15年はひたすらに美を磨く時間だった。去年をもってそれは終わった(詳しくは詩集を読んでね)。今年のお誕生日くらいから、いよいよもって次の段階に動こうと思っている。

2024.5.16(木) 形式より詩のほうが偉い

 5月11日(土)の夜学バー7.11周年は、12日(日)の後夜祭と合わせてユニーク来客数ちょうど100名で終わりました。両日来たのが10名で延べ数は110名、遠隔ユーザが2名。みなさまありがとうございました。詳しくは夜学バーホームページに特設ページ作りますのでそちらで。

 詩集『ただ美しいだけで生きている』もおかげさまで18部を完売、1部を自分用とし、もう1部は小諸市御牧ヶ原の「読書の森」というお店に送りました。展示してくれる……はず。たぶん。
 自分でいうのも変だけど、ちゃんと美しくできました。本日追加で発注したので、来週にはまた届きます。ほしい人は買ってください。
 解題はすでに書いていて、せっかくだから下のほうに貼っておく。もうちょっと違うことをここに。
「ただ美しいだけで生きている」という言葉は、いろんな読み方ができる。美しい以外のことを何もしていないということなのかもしれないし、美しいということだけをよすがに生きているのかもしれないし。
「ただ美しく生きている」ではなく、「ただ美しいことだけで生きている」とかでもない。この「美しい」にはすでに感嘆の響きさえある。「美しい」というだけで生きているのだ。「美しい」の中で、あるいはそれを浴びたり、外から眺めたりして。
 それのみで僕は生きている。「美しい」というだけで。ふだん「常識」みたいなもんを腐してるのは、マーようするに基準が美にあるから。そうなると「優しさ」とか「思いやり」みたいなものも脇に置かれる。一見サイコパスのような感覚やふるまいになる。
 それが誇りでもあり、すごく嫌だったりもする。
 幼いころから常識や優しさ、思いやりといったことよりも、漫画が好きで、いつの間にか「美しい」みたいなことを求めるようになっていった。漫画とかが好きだったから常識が育たなかったのか、その逆かはわからない。
 で、もっと見事な人間であれば「美と優しさ」とをバランスよく育てていけるのだろうが、僕はちっともできていない。
 芯があるようでいて、別にない。目先の美だけを優先する。ただ美しいだけで生きている。まさに「その詩情を満足せしむる限り、乃木大将を崇拝する事を辞せざると同時に、大石内蔵助を撲殺するも顧る所にあらず。佐藤の一身、詩仏と詩魔とを併せ蔵すと云うも可なり。」という、芥川による佐藤春夫評を思い出す。
 詩仏と詩魔。美仏と美魔。エスパー魔美。
 紙の上でだけやってりゃいいんだけど。

 なんかそんなことを考えて詩を書いてきたのかもしれないな、と思って、そういうタイトルにした。
 出来上がったものを読んで、「これが詩だよ」と言ってくれた人がある。この一言で十分だ。This is shi なのだ。詩であるのならあとはどうでもいい。悪口をいえば、詩のような形をとっていて全然詩ではないような字の羅列ばかり目にする。「これが詩だよ」という言葉には、「あれは詩ではない」という含意がある。
 15歳の友達がすごく褒めてくれたのも嬉しかった。詩だと思ってくれただろうか。たぶんそうだろう。これが詩であり、詩でないものは詩ではない。形式より詩のほうが偉い。


 第一詩集『ただ美しいだけで生きている』解題

 二〇〇二年十月開設のブログ「ハイパー・トニック・セツノーナル」から二〇〇五年以降の詩を四六本収録。最初期の詩は「十八歳作品傑作選」として『ノンポリ少太陽』にかつて選抜して載せたので興味あるかたはお尋ねを。
 選んでいる時は意識しなかったけどできあがってみたら今回のテーマは「美と愛と生死」ってところ。第二詩集は『それで優しさの意味を知る』(仮題)、友愛とかがテーマになると思います。第三詩集は題さえ決まってないけど初期の頃のわけわからん詩を中心にしたシュールで神的なものにしたい。今回泣く泣く削った湯河原シリーズも入るはず。テクニカルカメオとか宮仕えも。(「なんのこっちゃ」なフレーズでしょうがなぜか思い入れあるのです。)

 二〇〇五年に僕は二〇歳で、二一歳になる直前に書いたのが『全てが美しい』。粗いけど後の詩の方向性はここで定まる。高校の同級生で某宗教の熱心な信徒たるGrozny氏から褒めてもらったのを覚えている。「あれよくわかるよ。俺もそんな気分になることがある」と。そういうふうに共鳴してもらえることはあまり多くないから嬉しかった。
『全てが美しい』はデビュー曲みたいなものだ。散歩、夜、川という三大概念が一同に会し、詩を書きたくなるようなあの気分がそのまま写し取られている気がする。
 二〇〇七年の『僕は撃つ』も代表作(?)。散文っぽいのだとやっぱりこれ。言うまでもなく僕は星が好きなのだが、ここにある「星観」はすごくいいですよね。かっこいい。この二作のリズムは一つの基調であり、これを混ぜたり崩したりして僕の詩風はできてゆく。
 このちょっと前に僕は特別好きなある芸術家と親しくなり、彼と彼の当時の活動とを通じて僕の身体からある種の欲がスッと抜けていった。栄誉とか名声はいっさい求めなくなった。しかしこの詩には「焦り」がある。
 たぶんこれは決意表明だったのだ。「ガキの頃から」を続けながら「大人にな」ることをめざし、「本当の悪党をこらしめてや」ろうと誓う。
「早く! 早く! 一つでも多くの星を!」という印象的なフレーズは、使命感による焦りの表出でもあろう。正直言うと昔はこの詩をやや絶望的なものとして読んでいた(書いた?)気もする。美しい星を一つ一つ撃ち落とし、その光を消し、それで大人になってしまうのだと。でも今になって読み返すとここで大事なのは「いつまでも僕は光の中で戦っているわけにはいかない」という部分だった。星の光を浴びているのではなくて、自分が主体的に「撃つ」ということをしていかなければならない。
 もう「受け取る」時代は終わったのだ。これからは「撃つ」ことが始まる。

 二〇〇八年に中学校の先生になって、無銘喫茶の木曜レギュラー営業もこの頃始める。二〇〇九年には『たたかえっ!憲法9条ちゃん』を上梓。そこから数年間はコンスタントに中長篇の小説作品を出し続けたし、その他の創作活動にも精を出す。二〇一二年に「おざ研」という、初の「自分の城」を開設。
 今回収録した詩を見ていくと、2010年のきらめきに出合う。『人が住んでいる』『平城宮跡のように』『住宅』『娘』『夜の爪』『さ聞新』と六本もあった。すべて思い入れ深く、ぜひとも入れたかった。尾崎文学は一つの完成を見せ、最近のものとあまり違和感がない。
『ぶっころせ!刑法39条ちゃん』という名作が書けたのもこの年だ。『9条ちゃん』の後半にいまだやや心残りを抱くのに対して、こちらは「まとまった」という気持ちがある。本当に書きたいことが書けたと。ちなみに略称の「39JC」は「サンキュー女子中学生」でもあり、この三月をもって中学教員を辞した事実と連動している。知恵院左右という人物は二作通して、あの学校にいた複数の女子たちを頭に浮かべながら描いた。彼女らがいなかったらこのシリーズはできていない。いつまで経っても三巻が出ないのは僕が中学生をその後受け持っていないからなのかも。
『娘』のような視点の置き方や、『住宅』のような直接的な表現ができるようになったのも、教員として子供たちとふれあうなかで獲得した誠実さと素直さゆえだと思う。拙い気のするものもあるが歴史として重要なので個人的に好きだと思うものは容赦なく採った。
 本数だけで見ても二〇一〇年は一〇七本書いていて、二〇〇三年に次いで二番目に多い。恋心を描けるようになったのも大きかろう。どんどん素直になってゆく。
 そこからはだんだん本数が減り、二〇一五、二〇一九は特に落ち込む。しかし少しずつ「粒ぞろい」にはなっていく。詩を書くタイミングが洗練されてきたか。でももっとゴミみたいなのも書きたい。
 二〇二三年は三〇本書いていて、二〇一三年以来の水準。二〇二四年ももう八本書いていて良いペースだ。僕のなかに詩ブームが起きていて、それでこの詩集が実現したというのもあるだろう。
 これが好評ならば、二巻や三巻でお目にかかります。

2024.5.18(土) ふたりエコーチェンバー/全員が緊張している場

 京都にいます。掘り進んできました。ぷらっとこだまで
 再放送ついでに再放送。わざわざメールで6年前の「運命論」って日記を褒めてくださった方がいたので。ここで言及されている詩はこれ。2018年5月はこれ一本しか書いていないのですね。たぶん二巻に入るでしょう。

 最近考えているのは「福祉と教育、感性と知性による四象限」。長くなるので今度にするけど面白いからしばらく日記チェック多めでぜひ。短くともちまちま更新する癖をつけます。
 10代の頃は本当に毎日、欠かさず更新していたんだからえらい。常にデスクトップパソコンで。そこまでとは言わなくとも、月に15本くらいは書きたいものだ。

 あと「ふたりエコーチェンバー」ってのがある。これは小ネタ。
 仲の良いふたりが仲良すぎると、その閉じた世界の中で思想が響き合い、共鳴し、常に繰り返され、より強化されてゆく。共依存どころか、共洗脳のような状態となる。
 その考えが妥当かどうか、外部でどこまで通用するかはあまり検討されない。二人の中でそれはもうすでに正しいのだ。小さな宗教が作られる。神が祀られ、悪魔が生み出される。
 ふつうエコーチェンバーってのはSNSについて言われる。それは当然あらゆる「人の集まり」のなかで起きることで、当然「二人きり」にもある。すべて同じこと。
 疑った方がいい。仲の良い二人は。お互いを。また自分を。そして二人を。
 信じるべきは世界のほうなのだ。その範囲をわざわざ狭めることはない。せっかく二倍の目と耳があるのだから。
 違うことや、離れることを恐れずに。
 重なって良いことは意外と少ない。


 全員がリラックスしている場よりも、全員が緊張している場のほうが実現しやすいし、良き空間になりやすいと思う。
 対等ということを考えると、①全員がリラックスしているか、②全員が緊張しているか、③全員がばらばらにいろんな状態でいるか、ということが思い浮かぶ。
 わが夜学バーのまず目指すのは②であり、①はない。③も良い場合には良いが、目指すには曖昧すぎる。
 いわゆる「常連」はリラックスしているもので、「一見(いちげん)」は緊張しているものである。そこに対等はない。ところが、「常連」なる概念が存在せず、何度来ていてもある程度の緊張感を持って座っている場合、緊張しがちな「一見(慣れていないお客)」との距離は遠くなくなる。対等に近づく。
 ただ世の中には「緊張しない一見」というものが存在し、そういう人が場を荒らす。遠慮せず、ちゃんと「緊張しなさい」というサインを出さなければならない。
 緊張という状態のもと、場に対等さが生まれる。慣れている人はリラックスしやすく、慣れていない人は緊張しやすい。とすれば、慣れている人が慣れていない人に合わせるのは当たり前である。

 ふつう、お店の人(特に店主)にとってお店は日常である。「常連」にとっても日常である。しかし「一見」など慣れていないお客にとっては非日常なのだ。そのギャップが対等さを殺し、場をつまんなくさせる。で、たいていの場合「お前もこれを日常にしろよ」と店主や常連は他の客に迫り、引き込もうとする。引き込まれなければ、仲良くすることはできない。
 店主や常連が「非日常」を常とすればいいだけだ。それだけで平和になる。なぜ慣れていない人が慣れている人に合わせなければならないのか? 店主や常連だって一見の客とは初対面なのだから、ちゃんと緊張しないと失礼ではないか。何をホームづらしてんだい。目の前にいるのは、知らない人だぞ。襟を正せ。
 緊張しろ、ちゃんと。


 この話はもちろんさっきの「ふたりエコーチェンバー」という話に関わる。閉じててもいいことはない。あるのは「気持ちいい」という現状肯定だけである。

2024.5.24(金) 片ブ×CASCADE(関西紀行 京奈和滋①)

 京都で片山ブレイカーズ&ザ☆ロケンローパーティとCASCADEのツーマンLIVEがあり、行きたかったのでついでに大旅行。
 数年前たしかJAZZ IN ろくでなしでCarole Kingというバーを紹介され、その店長が片ブのトムさんだった。いつかライブに行ってみたいと思っていたので大好きなCASCADEのとの対バンはこれ以上ない良い機会なのだ。
 ちなみにCASCADEのTAMAさんは夜学バーにおいでくださったことがある(!)し、HIROSHIさんは新宿ゴールデン街でバーテン(術語)しているので行ってお会いしたことがある。そこにナイチンゲール(ゴールデン街の超~硬派なお店)のマサルさんがたまたまいらっしゃってビックリした。たぶんもう15年くらい前に無銘(ゴールデン街で僕が働いていたお店)においでくださって、「ウチで働かないか」と打診されたのをよく覚えている。まだ20代前半の僕を即スカウトした慧眼(自分で言う)はすごい。「ほかの人間を働かせるつもりは基本的にはないのだが、君はよそにはない人材なので働いてくれたら面白いと思った」みたいな話だったと思う。お断りしてしまったが、とても嬉しかった。僕のことを「お店に立つ人間」として最初に評価してくださったのは、この人かもしれない。

●5月18日(土)
 東京駅にコールドの「静岡茶」がどこにもなかったので仕方なくホットを(ぷらっとこだまについてくる1ドリンククーポンで)買って、静岡駅の停車時に走って冷たいの買いに行った。これがなければ東海道新幹線に乗った気がしない。のぞみ停車駅なんだからのぞみでいいのにケチだからぷらっとこだまにした。10790円。のぞみ指定席だと14170円なのでけっこう安い。今回は自転車持って行かなかったので東京駅までの運賃(167円)かかっちゃったけど。あ、ここからたびたびお金の話が出てきます。旅の節約はケチってよりゲーム。趣味に近い。
 1434京都着。駅前の「POCO」という喫茶店へ。名店! まさか京都駅徒歩1分の場所にこんなお店があるとは。1時間くらいいてお客は背広のおじさんと勉強してる学生だけだった。まさに穴場。これから定店(じょうみせ)にしよう。ちなみに前回の日記はここで書き始め、次のお店で書き終わった。
 北上して「そのうちcafe SNC」へ。すばらしい店づくり、こういうのをやっている未来も僕にはあったな、なんて思ったので領収書をもらうときに夜学バーの名刺を差し出してご挨拶した。子どもの匂いがする。もちろん僕には並々ならぬ悪意と逆張り精神があるからこういうのをメインにはやれないと思うが、もし夜学バー的なことをやりながらさらに場所をつくるならば、こういう場をやりたい。
 時間がもう少しあったので左右田商店喫茶室というところへ。土曜日のみ「喫酒室」として夜営業があって、その開店直後。かしこいのでお酒でなく豆乳コーヒーにした。ホットドッグおいしかった。カウンターのみの小さな若いお店。まだ17時台だし飲み屋っていうよりカフェ利用だと思われた(実際そうだし)ようで、特に何か話したということはない。良いお店だったので領収書作戦(?)で名刺だけお渡しした。
 ところでホームページはいいな。こう寸評とかしてもSNSと違って御本人がご覧になる可能性がほとんどない。気楽だ。とて失礼のないようにはするけど。
 てことでもう少しだけ書いてみる。カウンターのみの小さな若いカフェ。この作りだと「常連わいわい」と「ひとり客殺伐」のあいだのグラデーションを自由にデザインできる。バーと同じように。このお店はどのような距離感でお客との関係や、お客同士の関係を考えているのだろうか。ほんの20分程度では何もわからなかったが、とても興味がある。たぶん何も考えていないお店がほとんどで、ただ自然にやってゆくがゆえ店主の性格がそのままそこに表れる。時間が経って安定するとたぶんすぐわかるようになる。

 ライブハウスARCDEUXへ。まず片ブ。めちゃくちゃいいバンドではないですか。さすがベテラン、かつ関西人という感じで、あまりにライブがうますぎる。音もパフォーマンス(ロックンローラー的振る舞い)もすばらしかった。前のほうのお客さんの多くはおそらくカスケーダーなのだがしっかり盛り上げていた。CASCADEのカバーで『S.O.S.ロマンティック』やってて、こういうことできる人たちっていいなと素朴に思う。一発でファンになったのでCDたくさん買った。まだまだこういうふうに「好きになる」ことのできてる自分に安心する。
 CASCADE。もちろんすばらしい。ギターMASASHIくん(尊敬をこめたくんづけ)に釘付けになってしまった。詞も曲もほとんどこの方がつくっていて、本物の天才と僕は思っているのだが、パフォーマンスも本当によいのだ。ライブにくるのは10年ぶりくらいで、しかも5メートルくらいの距離で見ていたから顔芸(と言っていいと思う)がよく見えて最高だった。どのくらい天才か知りたい方はサブスクでとりあえず『VIVA!』『Beautiful Human Life』『サムライマン』あたりまで聴いてみてください。初期三部作(勝手に言ってる)。中期の名曲は新録集『VIVA NICE TASTE』やベスト盤『ピアザ』などを。あと『サディスティック・グミ』に入ってるスッパダカーニバルメドレーも良いです。16分に代表曲を詰め込んでおります。最新アルバム『debug』以外はほぼサブスクにあるのでぜひ適当に。
 ところで最近夜学バーで働いてくれているモエさんという方(もうすぐはたち)はCASCADEの大ファンで、夜学バーに来たきっかけの一つには「CASCADEで検索してたら夜学バーが出てきた」というのもあったらしい。そしてこの日はちょうどそのモエさんが夜学バーに(まちくた氏とともに)立ってくれていた。申し訳ない気も少しするが、こっちとしてはものすごく感慨深いものがある。色々ありがとう。
 それにしてもギター本当によかった。上手すぎるし華があって。

 かしこいのでライブハウスでもお酒を飲まずお水にして、とりあえず立ち食いの都そばで腹ごしらえ。そして40年続く老舗「ろくで」に。ほぼ満員だったがカウンター一席だけ空いていたのでそこに座る。かしこいのでお酒は飲まずトマトジュースに。しばらくぼんやり一人飲んでいたがマスターが「この人はね東京でバーをやってるんだよ、君たしかこないだ東京にしばらく行ってなかったか?」と僕のとなりの外国人(あとでドイツ人とわかった)に話を振ってくれた。
 この彼との話はとても面白く、この先の旅の軸にもなるので、日を改めて書くことといたします。つづく。

2024.5.28(火) 京都学派×天理教(関西紀行 京奈和滋②)

●5月18日(土)続き
「ろくで」のマスターから紹介された男性、話していくうちにドイツ人とわかったが日本語に明るく、しかしネイティブではない。「それはどんな漢字を書きますか?」と何度となく聞かれた。答えるとすぐに「なるほど」とわかってくれる。ものすごく頭がいい。それだけにこちらもまったく手を抜かず、彼にとって最適な説明を探りながら話す。
「旅行で来ています」と話せば、旅程を話す流れになる。「明日は天理に行くんです」と言えば、自然なぜ行くのかという話になる。
 僕が天理教という歴史的な宗教に並々ならぬ興味を持っていることは熱心な読者であればご存じでありましょう。入信はしていないしする気もない、しかし天理市という都市の在り方を含め教理に「SF」を強く感じ、はっきり言ってゾクゾクする。これまでいろいろな宗教のことを調べたり無理やり教えられたりしてきたのだが、天理教は何にも似ていない。僕はなんでも独創的なものが好きなので、とても惹かれてしまった。
 そしてこの旅を通じて僕は「天理教のどこが好きか」および「なぜ天理教に入ろうとはみじんも思わないのか」がほぼ完全に言語化できた。それはこの夜のT氏(くだんのドイツ人)との問答のおかげでもある。彼には深く大きな感謝を捧げたい。

 Tは天理教のことも知っていたし天理市の存在も知っていたが、「天理教があるから天理市なのだ」ということは知らなかった。「そうだったのか!」と驚いてから、「天理教とはどういう宗教なのか?」「なぜあなたはそこに行くのか?」と次々質問された。意気揚々と答えていくと、質問はどんどん細かくなっていった。「どんな神が信じられているのか」「神職のヒエラルキーはどうなっているのか」「死後はどうなると考えられているのか」等々かなり具体的で答えるのが大変だったり、自信があまりないものもあったが「あくまで素人としての理解だが」と断ったうえでがんばって話した。すると話はだんだん僕個人のほうへ移ってゆく。「なぜあなたはそんなに詳しく、情熱を持って、その宗教を敬愛しているように見えるのに入信していないんだ? なぜそれを『信じる』に至らないのか?」と。
「あなたはいま信じる前の準備段階で、いまに信仰に入っていくのではないですか?」とも言われたが、今のところそのつもりはないと答えた。本音である。自分が天理教を信じる未来があるとしたら、ほかに何も(自分さえも)信じられなくなった時でしかない。他の宗教に入るか天理教に入るかを迫られたら天理教を選ぶ可能性は比較的高いとは思うが、できれば避けたい。
 その時の説明を要約するとだいたいこうだ。「天理教を信じたらほかのものを信じられなくなってしまう」。僕の得意な論法で、「トランプをやっているあいだはトランプしかできない」と同型である。
 天理教以外のあらゆる美しいもの、素晴らしいものを超えて、天理教のみを優先して信じ、愛するということは僕にとってだいぶばかばかしいことだ。先取りしておくが、僕の理解では開祖「中山みき」の思想にはそのような考え方はそぐわない。彼女はどうやらすべての人間をみな平等に捉えようとしていて、さらにいえば「これは正しいがこれは正しくない」といった排他的な感覚すら持たなかったようにさえ思える。たぶん釈迦の悟りに近い境地。
 そういえばTから最初に受けた質問は「天理教は神道ですか?」というものだったように思う。いろいろ事情があって天理教は自ら神道の仲間に入っていった(明治から終戦まではそうせざるを得なかった)のだが、ものの考え方は仏教、それも日本に流行った大乗系のものではなく、釈迦本来の考え方により近いものであろうと僕は思っている。
 さらに先取りして簡潔にまとめれば、「神に助けを求めよう」ではなくて「自らが神のようになって他人を助けるんやで」という姿勢だったと思われるのだ、おやさま(中山みき)は。そうなると原始仏教と同じくそれは宗教なのかどうかすらよくわからない。一言でいえば「りっぱな人になろう」ということなのだ。僕の言葉でいえばシャカレベである。

 そのような説明をしたうえで、「現在の天理教に入ったり信じたりすることと、その教祖のかつての言行(と伝えられていること)が好きであることとはまったく違う」と伝えた。すると「なるほど、切り分けられているんですね」と感心したように言って、実は京都大学の博士課程で宗教哲学を研究しているんですと打ち明けられた。打ち明けるという言葉をわざわざ使うのは、彼が「じつは」という言葉をニヤッとしながら使ったからである。粋な人間なのだ。
 かしこいので僕はここでお酒を頼まずトマトジュースを飲んでいたというのは前回書いたが、Tとの話が盛り上がってきたところでビールに変えていた。そしてこのあたりで「何か一杯おごりますよ」と言ってくれたので、ジンフィズにした。彼のほうはずっとビールを飲んでいて、ずっと煙草を吸っていた。ものすごいペースで。いつか夜学バーに来てくれたら嬉しいけど禁煙なのが申し訳ないなと思った。
 彼の説明によると「人間が信仰心を抱きはじめる時にはなんらかの飛躍(ジャンプ)が大抵あって、その心の動きについて研究している」とのこと。「この男はもうすぐ(天理教に)ジャンプしそうなのではないか?」と興味を持ったのもあるだろう。
 具体的には京都学派を扱っているらしい。京都学派……触れるのがひさびさすぎて何のことだったかパッと出てこない。フランクフルト学派とか小室直樹といった単語がなぜか(?)浮かんでは消えていく。とりあえず「西田幾多郎とかですよね」と返せた。「そうですそうです」と話は滞りなく進む。なんでもそれなりに知っておくのはいいことだ。潤滑油になる。インテリごっこ。
 京都学派は最近海外でわりと注目されているらしい。日本人で良い研究者はいますかと聞いたら、ちょっと迷ったあと大橋良介という人を教えてくれた。そこから世阿弥の名が出たので、しばらく世阿弥の話で盛り上がった。大橋先生の著作では『「切れ」の構造』という本をぜひとのことだったので、その場で注文した。のちに届いたのを開いてみたら確かに世阿弥のことが書いてあった。

 23時をすぎた。時間があったらスペースネコ穴に行こうと思っていたがTとの対話が面白すぎてやめにした。彼は京大の博士にいるわけだから賢い人間とはいくらでも出会うのだろうが、まさかこんな安酒の店で偶然にとは思わなかったろう。僕らはお互いに「よく知ってますね」だの「日本語が達者ですね」だのとは一切言わなかった。そんな時間さえもったいないくらい密度の濃い時間だった。LINE交換して再会を約し、トムさんに会うべく店を出た。
 店主のライブ後だから「キャロル」もさぞや大盛り上がり、と思っていたがさにあらず、むしろ逆にそんなもんだろう。カウンターにトムさんと男性が二人のみ。しばらくしてボーカルの片山さんと物販にいた女性、初めてお会いする男性が三名で来店した。そのまま二時くらいまでご一緒させていただいた。
 知らない男性は高知にお住まいとのことで、音楽に詳しそうだったのでmotoki tanakaの名前を出してみたら「もっくん? 今電話しましょうか」と深夜1時半にいきなり電話をかけ始めた。「ジャッキーさん! 何してんすか!」何してるも何も、高知にいるときと同じようなことをしているわけなのです。
 motokiさんは高知に通ううちに仲良くなった、Slowhand mojoというギター屋さん(カフェ、飲み屋、ライブハウス、クラブでもある)をやっているミュージシャン。最近アルバムを出して、めっちゃいいのでぜひ。こないだ神保町のライブに行って数年ぶりに会えた。よかった。このジャケットの写真は夜学バーに5年くらい前から貼ってあるのでピンとくる人もいるんじゃないでしょうか。
 その人の、おそらくかなり仲の良い友達と京都でばったり出会えたというわけ。しかし僕が勇気を出してmotokiさんの名前を出さなかったらこういう展開にはなっていないので、何でも言ってみるもんだなと思う。motokiさんは片山さんとも面識があるらしく、そこも電話で話していた。
 そのまま寝床へ向かおうかと思ったが、せっかくなので前に行ったことのある「うみねこ」という、猫のいる異様に長細いお店にだけ寄った。ここも安くて気易い。ちなみに「スタンドうみねこ」というオシャレビアバーではなく「スナックうみねこ」のほう。たぶん名前が似ているだけで関係はない。

 京都の宿はいま超高くて、楽天トラベルでちらっと調べたら最安値が20000円を超えていた。ちょっと前なら800円くらいで泊まれるゲストハウスごろごろあったのに、軒並み満室ということか。どうせ遅くまで遊んでいるだろうし、朝10時から行くべきところがあるのでインターネットカフェをヨヤクしておいた。個室6時間借りて1900円くらいだった。勝利。
 翌日は天理教の「詰所」と呼ばれる宿泊所に泊まることが決まっているのだが、いろいろあっていろいろなところに行ったので次はその話を書きます。T氏の話とも繋がってくる。乞うご期待。

2024.5.29(水) みんなが王様になる世界(関西紀行 京奈和滋③)

 だってさ、これから先何があるのかっつったら、全員が王様になればいいんじゃないって、それだけなんだよね。全員が中産階級になるのなんてやだ。そんなビンボーなところでストップするのやだ。全員が王様になればいい。全員が王様になって、ビンボーな王様もいるし、金持ちの王様もいるしって、そういう風に色々いた方が面白いって思うもん。王様なんてそもそも金持ちなんだから、「ビンボーも面白いね」って言える王様だっていていい筈なんだから、ビンボーな王様もいて、金持ちの王様もいて、男の王様もいて、女の王様もいて、若い王様もいて、年とった王様もいてって、人間の数だけみんな王様だったらそれでいいじゃない。そんで、王様っていうのは、とりあえずしっかりしてなくちゃいけないってことだけは課せられた職業なんだから、みんなしっかりすればいいじゃない。ね?
(橋本治『ぼくたちの近代史』河出文庫P91-92 1987.11.15講演→88.10単行本→92.1文庫)

 天理教の開祖とされる中山みきの思想は簡潔に言ってこれで、あとはすべて方便でしかないように思う。神さまがとかこの世の起こりはといった話は二の次以下で、本質は「みんなしっかりすればいいじゃない」の一言に尽きると。
 結論を先に書いてしまうが、15年前(僕が初めて天理に行ったのは2009年12月26日らしい)にこの宗教のことを好意的に思ったわけはたぶんここにある。すでに僕は橋本治さんを耽読していて、なんと天理を訪れる二日前(2009年12月24日)付の日記でも『ぼくたちの近代史』について言及していた。

 みんながしっかりするしかない。中山みきという人は生涯そればかり言っていたと僕は理解している(橋本治さんもそうだと思う)。しかし「しっかりする」のはかなり難しいから、いつの間にか彼女の思想は天理教という名の「宗教」になってしまった。「しっかりしよう」という根本を脇において「たすけたまえ」というおすがりがサビに置かれるようになってしまった。

 このたび僕が天理市を訪れたのは、去年来たときに知り合った方から「次にくるときは詰所を紹介しますからぜひそこに泊まってください」と言われたからである。詰所とは天理教の宿泊所で、詳しいことを語るとまた面白いのだが長くなるので割愛。信者でなくとも紹介があれば泊まることができる。
 京都のライブに行くのを決めたとき、じゃあ天理にも寄ろうと直観的に思ったのだ。勇気出して電話したら快諾された。何度も訪れているが泊まるのは初めてである。


●5月19日(日)
 話は戻り、河原町三条のインターネットカフェを朝9時半ぐらいに出る。ゆっくり歩いて「きんだあらんど」という絵本屋さんへ。ちょうど岡田淳さんの原画展の初日にあたり、開店は10時。直筆イラストの販売もあるというので一番乗りして買ってしまおうと思ったわけだ。
 当然というか、販売は抽選であった。値段も知らされぬまま住所など書いて申し込みだけした。思ったよりたくさん種類があってどれにしようか迷った。魔女のカラー画でめっちゃほしいのがあったが、倍率高そうだし値段も高そうなので日和って一色の線画(『プロフェッサーP』のやつ)にした。結果としては当選したのだが、15000円+着払いとメールで送られてきて、モノを考えたら高くはないのだがよくこの値段を明記明言せず売るなと感心した。だからこそ倍率が低かったのかもしれないし、初日だからキャプションも作品名も値段も何もついていなかったということなのかもしれない。いや、それにしても雑すぎる。べつに僕はそれでいいのだが、岡田さんにちょっと失礼じゃないかとは思う。
 15000円振り込んだので、近いうち届くはず。見に来てください、みなさん。お店に飾ります。夜学バーらしい一枚を選びました。

 京阪三条駅から近鉄に乗り継いで天理へ。まずみどりの窓口で「天理→和歌山→(新)大阪→東京」の乗車券を購入。複雑な経路は券売機では買えない。窓口は都会だと混んでいることが多いのでこういう駅が一番。
 雨降りだが商店街はアーケードなので助かる。歩きながらいくらか写真を撮り、「これが天理だ」と京都で出会ったT氏にLINEを送るなど。「FUJIYA」という古い喫茶店で一服。とても気に入った。僕に詰所を紹介してくれる方は商店街の一番奥、天理教本部神殿のすぐ手前にカフェを構えている。てくてく行ってみると、閉まっている。おかしい。困る。電話しても出ない。
 連絡つかねば今日の宿がない。昼食もそこでと思っていたのでそれもまた困る。仕方ないので商店街の「つるや」でざるそば定食を食べた。天理の飲食物にはなにか独特の味わいがある。たぶん僕の脳が勝手にそう感じているだけなのだとは思うが、なんとなくこう、あの街の全体に漂っている宗教的な香りが食べもの、飲みものにも乗り移っているような。たとえばアメリカやドイツのグミとか食べるとなんとなく「日本にはない味だな」と思ったりする、ああいう感覚をほんのわずか得るのである。
 商店街には稲田酒造という、150年近くも天理教のためにお酒(御神酒)を造っているという酒蔵がある。立ち飲みもできるので天理で昼飲みするならじつにオススメ。飲み比べセットを頼み、ほかにも数種類味見させてもらいながら、合計10000円ぶんくらい買ってお店(わが夜学バー)に送った。飲んでみたい人はあるうちにおたずねください。
 ウィーヒック。電話はまだつながらない。仕方ないのでそのカフェの姉妹店とおぼしき別のお店に行ってみることにした。

 アーケードから外れると駅前とはいえ情報量がぐっと減る。土地も空も広がっている。そこに古い平屋(一階建て)の民家があってカフェを名乗っている。偶然見かけたとしたらものすごい興奮するだろうな。中に入ってみると、誰もいない。本がたくさん並んでいて、ライブなどイベントもよく行っているようで、このあたりでは最大近い文化度ではなかろうか。奥から店主が出てくる。かなり歳を取った女性で、この人が「この町一番の文化的なカフェ」(僕判断)をやっていると思うと「若人もっとがんばって」と言いたくなる。
 家庭のダイニングのような席に座って甘酒を注文し、改めて本棚を見る。天理教の本も多いがそれに限らず、宗教など神秘系の分野をあれこれ網羅しているようだ。Googleマップのレビューには「天理教の信者さんがよく来てます」と書いてあるが店主は「天理教の人はあんまり来ない」「異端だと思われて(嫌われて)いる」というようなことを仰っていた。
 どうやら天理教の信者(どこかの教会に所属している)ではあるらしいが、いわゆる「バリ天」ではないようだ。僕が前回仲良くなった姉妹店(?)のNさんはどちらかというとバリ天である。どうも両者に交流は日ごろほぼないようで、連絡が取れないと伝えても「わからない、どうしようもない」という感じだった。
 その代わり「うちの詰所に泊まっていけば?」と提案してくださった。「もし詰所の受付時間過ぎちゃったらこのお店に泊まっていってもいいよ」とも。初対面の見知らぬ男性にこの優しさ。もちろん僕が行儀良く、害がなさそうでかつ、彼女の思想的なスタンスと矛盾しない存在であると話していてわかったから、そう言ってくれたのだろう。
 思想的なスタンスとは、簡単にまとめてしまうと「神的なものがあるとして天理教がそのすべてではない」ということ、そして「現在の天理教がしていることと中山みきの考えていたことは違う」ということ。ここにおいてこのSさんと僕の立場とはかなり近い。
 Sさんは中山みきのことを「おやさま」と呼ばず「中山みき」と言っていた。それはむしろ中山みきという人物を人間として尊重しているがゆえだと僕は思う。おやさまは(僕はけっこうこの呼び方が好きなので、わりと使う)「天皇も百姓もみな同じ人間」と説いた人であるから、「さま」づけで呼ぶことはそぐわない。「おやさま」を特別扱いしすぎることはむしろその思想を蹂躙することにさえなるかもしれない。ただ僕は「mana様」とか「ジャギ様」みたいに「さま」をつけることによってサマになるような呼称が好きなので、あえて「おやさま」と言いたくなる。敬意をこめたあだ名みたいな感覚で。矢沢永吉を「永ちゃん」って呼ぶような。
 おやさまはそのような思想の人であったから、いわゆる左翼方面の人にファンが多いような気がする。江戸時代か明治初期には「人類の平等」を唱えていた人なのである。おやさまが教えを説き初めた(立教)のは1838年、以下あまり関係ないかもしれないが参考として、四民平等と解放令が1871年、板垣退助が自由民権運動を始めるのが1874年、青鞜社は1911年、水平社は1922年。ちなみにおやさまが亡くなる(現身を隠される!)のは1887年。
 そんな時代に「世界中一れつはみなきょうだいや」(1877頃)とか「天皇も百姓も」と唱えてもろくに広まるわけはないし、実際激しく弾圧も受けている。いくらいじめられても(拷問を受けても)主張を曲げなかったとされているおやさまの姿に、いわゆる「活動家」の人たちはいたく感動するのだろう。
 このSさんも「むかしはいろんな闘争、運動をしていた」そうだ。しかし「ジャパンハンドラーとかに踊らされていたにすぎない」と反省し、それで現在のように草の根的に世の中をよくしていく方向に舵を切ったようである。彼女は現在の「天理教本部」についてはあまりよく思っていなくとも、「中山みき」という人に対しては敬意を持っているように見えた。

 僕のほうも、そういう考えの人なんだと安心し、「おやさまの考えていたことにできる限り迫ろうとしている人たちがいますよね、たしか十年前くらいに亡くなった人が中心となって……」と話してみると、「八島さんかな。そこに本があるよ」とすぐに合点してくださった。そのあたりについては去年9月19日の日記参照。ただし今ほど考えがまとまっていないのでちょっと誤った書き方をしているところもあるかも。あとで見直さないと。
「あの人はまあ、唯物論者だよね」とSさんは言って、そのあと「そうとばかりも言えんかもしれんが」というようなことを付け加えた。確かにどちらかというと八島英雄さんという人に共感する人は唯物論(神とかそういうものの存在を認めない)っぽい人が多いような気はするが、天理教というものに一度は染まった(あるいは染まった環境に育ってきた)人がほとんどなわけだから、純粋に唯物!と思っている人もまた少ないような気がする。
「神っちゅうのがアカシックレコードみたいなもんだとして」と語り始めたSさんの神観は面白かった。以下正しく伝えられているかわからないが僕なりに要約した内容。
 彼女は頭上の丸い照明を指さして言う。「こういうのに穴を開けたら光がひと筋さすわな。それが天理教やったりいろんな宗教として解釈されるわけや。いろんな方向から穴あけたらそれぞれ違う方向に光がさす。その光の行き着く先ばかり見ていても仕方ない。そのもとの光源を見んとな。」
 昨夜京都の「ろくで」でTに語ったことをまさに思い出した。「なにか一つの(排他的な)ものを信じたらほかのことを信じることができなくなる」。それは僕にとって今のところ必要ではない状況なのだ。
 ある宗教を信じている人は僕の友達に何人かいる。生まれつきというよりは、人生のどこかで「信じる」と決まった人たちがほとんどだ。彼や彼女らの話を聞くと、そこには必要や必然性がある。僕にはその飛躍のための導きがまだない。
 僕はいまのところ「心の中にある光」的なものに目を凝らそうとしている。Sさんが指さした丸い照明のようなものを。いつかそこから自分に向かってまっすぐに伸びてくる光があるのかもしれない。

 その八島さんという人がかつて中心となって運営していた団体はひと駅離れたところにいて、小さな展示室もやっていることは知っていた。Sさんに「あそこには今でも人がいるんですか」とたずねてみると、「いるよ、いまはKさんって女性ががんばってる」とのことだった。「でもあなた、Kさんに捕まったらきっと返してもらえないよ」と。そりゃそうかもしれない、いちおう僕は「若者」の部類に入る存在で、買えば3万円くらいする八島さんの『中山みき研究ノート』をすでに読破している(彼らが無料でネット公開しているのだ)。そんな人間は教団周辺でも希有だろう。ましてや東京から来た非信者ともなれば歓迎しないことはないと思う。行ってみることにした。
 隣の櫟本駅までは2キロくらいあって、歩けば30分くらいかかるのだが、電車も30分に一本くらいしかない。僕の性格からすると「歩いたほうが早い(し、楽しい)」になる。
 と、その前に。僕は今夜の宿に困っているのだった。Sさんが「Nさんが紹介するなら○○大教会の詰所じゃないかな」と教えてくれたので、いったん駅をまたいでそこへ行ってみた。「そんなことは何も聞いていない」とのことで、また振り出しに戻る。電話も通じない。とりあえず歩くか。
 しばらく線路沿いを行き、ちょっと逸れると細い道に出た。「ここは街道だな」とすぐにわかる。かなり古い道で、地形を見るかぎりおそらく140年前は櫟本から本部神殿(もとはおやさまのお屋敷)に向かう主たる道だったとおぼしい。今から向かうのは「大阪府奈良警察署櫟本分署」というものの跡地である。ここはおやさまが89歳の時、いわゆる「最後のご苦労」をされた場所。簡単にいえば捕まって拷問(少なくともそれに近い処遇だったらしい)されていた牢屋である。つまり、この古い街道はおやさまが最後に通った道であるにちがいないのだ。いや、歩いてよかった。
 道沿いに古民家があって、その奥にもう一つ建物がある。前者が「分署跡」で、後者が「分署跡保存会」の事務所(教会?詰所?)。まず分署跡内の「参考館」と呼ばれる展示室を見る。それから奥の事務所をおそるおそる訪ねてみた。
 二階の奥に通され、お茶とお茶菓子が出される。僕のほかにすでに一名、客人がもてなされていた。保存会の人らしきは全部で四名。いま合計六名がこの建物にいるらしい。思ったよりは賑わっている。日曜だからかな。
 予想通り僕は歓迎していただけたわけだが、たぶん研究ノートを全部読んだということと、どこの教会にも属さない、何系でも何派でもないということが大きい。なにせ初っぱな「あなたは何系?」と聞かれたのだ。もう一人、僕のほかにここを訪ねてきていた人(僕より5歳くらい年上)も天理教の信者ではなく、ただ中山みきに興味があって調べているようだった。ただしその人も生まれの家は天理教であって、完全にフリーというわけではない。僕はさらに何の関係もないので、本当に珍しいケースらしい。
 保存会の人たちもSさんの言葉を借りれば「唯物論」に近いのかもしれないが、おやさま時代の儀式(かぐらづとめ等)のやり方やその扱いによくこだわっているところを見ると、信仰のような気持ちがないわけではないと思う。ただし「天理教」よりも「中山みき教(あるいは中山みき原理主義)」というニュアンスがより近い。もうちょっと知っていけばもっと理解が深まるかもしれないのでここではあんまり断定したくはないが、ともかく僕はその姿勢に共感する。歴史をひもとけばそもそも「天理」という言葉もどうやらおやさま由来ではないか、少なくとも途中で(やむなく)変えてそうなったもので、はじめ「転輪(てんりん)」であったことは疑いなさそうだ。それだけ取っても「天理教」という言葉はここにはそぐわない。
 一次資料を大事にしてよく調べ、よく考えるという態度は敬服するほどだ。おやさまは「よく思案せよ」と何度となく書いていて、それは「自分の頭で考える」を是とする橋本治さんの態度とも通じる気がする。(そこが繋がってるからすごいと神秘的なことを言いたいのではなくて、僕が好きなものはだいたいそういうものだというだけです、念のため。)
 よく考えて、少しでもりっぱなものになる。しっかりする。言ってみれば神に近づく。それが中山みきの中心教説であり、釈迦も橋本さんも言っていることだと僕は理解している。

 このあたりで、よくわからない人も出てきたかもしれないので改めて説明しておく。
 まず最初に僕が仲良くなったNさん(寝床を提供してくれるはずの人)は「バリ天(バリバリ天理教)」で、基本的には本部の考え方をそのまま受け入れている、教会主義といえるような立場だと思われる。
 今回最初に出会ったSさんという方は教会内部にいながらも異端扱いされていて、「中山みき原理主義」でもありつつ、しかしその他さまざまな超常的なものにも目を向ける柔軟な?人。天理教の世界観に限らず「神的なもの」を信頼し、考究している。たとえばエドガー・ケイシーとか。
 そして「櫟本分署跡保存会」(代表者:Kさん)は、もっと唯物論に近い。中山みきを宗教家というよりは思想家として捉える立場。でもまったく「信仰」のようなものがないのかといえばわからない。「おつとめ」のような儀式についてはどう考えているのか、次の機会には聞いてみたいと思う。

 一時間だか二時間だかいろいろ話をして、先にいた男性が帰るというので僕もお暇することに。電車の本数が少ないので焦っていたのだが、彼が天理駅まで送ってくださるとのこと。非常に助かりました。
 帰り際、僕がずっと読みたいと思っていたとみ新蔵先生の『劇画 中山みき物語』をKさんから「お貸しします」と差し出された。とんでもない! 現在インターネットでは最安でも30000円弱の値がついているのだ。いつ返せるかわからないのに受け取れませんと固持したのだが、「あなたはいつでも自分で休みを作れる身なのだからまた来てください」と強く言われた。
「あなたのように、どこにも紐づいていない人は貴重なの。だから手伝ってほしい。」
 手伝う、という言葉は実に重たい。やっぱり断ろう、この本は返そうと思ったが、それを感じ取ったかKさんはすぐに「手伝うと言っても、わたしたちにはない発想がほしいというだけ。今日みたいにいろいろ質問してほしい。中にいると見えなかったり、思いつかないこともあると思うから」と言い直した。頭のいい人なのだ。必ず返しに来ますと約束した。ほかにも大量の資料を渡された。重いけど嬉しい。
「今日はどこに泊まるの?」と聞かれたので、詰所を紹介してくれるはずの人と連絡が取れない、と素直に話した。すると「何もないけど、ここはいつでも泊まれるからね」と言ってくれた。どんだけ宿ができるんだ、この天理に。

 車の中で、その男性と少し話した。やはり彼もいわゆる「左翼」の活動をしていた人らしい。noteをあとで全部読んだ(この記事がまずはおすすめ)が、信仰はないけど中山みきのことは大好き、という僕とかなり近い立場ではある。ただ彼の家系に天理教があったということと、それゆえの様々な思い入れはまったく違うし、差別や平等ということに対する姿勢やその熱量もずいぶん違う(めざすところが違うとは言わない)。しかしそんな細かいことはどうでもいい、全体として僕は彼に大きく共感をした。またお話したいと思っております。

 総合的に、面白いなと思うのは、「天理教を信仰しているわけではないが中山みきという人は本当にすごい」と堂々と思っている人がけっこういることである。彼ら(僕含む)はみな「現在の天理教教会は間違っていて、中山みきが当初唱えていたことのほうがずっと正しい」と思っている。
 そもそも「天理教」という名前からして、「天理」も「教」もおやさまの元々の思想にはたぶんない。ましてピラミッド型の組織とするのは不必要どころか、「一れつ」の考えに照らせばむしろおかしい。一人ひとりが立派にしっかりやることが大切なのだ。
 しかし、「天理」であって「教」であってピラミッド型の組織であるからこそ天理教はこんにちここまで大きくなったというのは疑いない。「たすけたまえ」と神にすがることをサビ(中心)に置いたからこそ、たくさんの人を集めることができた。そういうことは世にいくらでもある。櫟本の人たちによると、「たすけたまえ」という歌詞そのものが「みかぐらうた」の原初にはないという。僕もそうでなければおかしいと思う。
 夜学バーだってもっと露骨にわかりやすく、僕の意に反するようなことをたくさんしてセルアウトしたほうが結果的には「世の中をよくする」ことができるのかもしれない。しかしそれでは楽しくないし、そう正しくもない。自分がよいと思う仕方で粛々とやることが僕にとって「祈り」であり「信仰」で、それを最後までやり通したのが中山みきという人であるらしいから、僕はこの人のことを尊敬するし、そう思う人がほかにもたくさんいるということなのだろう。

 はじめに橋本治さんの文章を引用したけれども、重ねて言うがおやさまの言っていたことは「みんなが神になる(=みんなが王様になる)」ということで、つまり「全員が自立した個人となって他人をたすけましょう」だと僕は理解した。たすける者とたすけられる者が存在するということではない。それでは「一れつ」にならない。「一人じゃできないことだって 二人じゃたりないときだって 三人寄ればなんとかなるさ」とは『ぼくたちパーマン』の歌詞であるが、「みんなでたすけあえば一人でできないことも実現できるよね」という前向きな意味で考えるとよいのではなかろうか。
 また、おやさまの思想には「調和」というものもあって、これまた僕が好きな歌詞を持ってくれば「すべてが奏でるハーモニー」(尾崎豊『自由への扉』)というやつだ。単体で完璧な人間など存在しないが、一人ひとりがせいぜいりっぱにやっていけば、みんなで寄り集まってだいぶよい状態をつくれるはず。それぞれが個性を発揮して、補い合っていくことでまあるい世の中となる。櫟本の人たちによれば「かぐらづとめ」のもともとの形はそれを表した振り付けにちゃんとなっている。輪になった踊り手が、サビの最後のところだけそれぞれ違った動きをするのである。YouTubeでそれを見ることができるが、「調和」ということの表現としてなかなか優れたものだと僕は思う。
 いま書いていることのほとんどは教会本部からしたら「異端」と見なされるようなものかもしれない。それこそ調和していけたらいいのにな。実のところそれほど矛盾はしないのではないだろうか。みんなおやさまのこと好きなんだし。どうにかならんもんかしら。(無責任なこと言ってすみません。)


 もう一度、詰所を紹介してくれるはずのNさんのお店に行ってみた。看板はCLOSEになっていたが、人の気配がする。勇気を出して覗き込んでみる。伊藤野枝の人生を描いた『風よあらしよ』の上映イベントをやっていて、ちょうどお開きになるところだという。座ってちょっと待っていると、Nさんが申し訳なさそうにやってきて曰く、忙しすぎて詰所への連絡を忘れていたそうな。そして「ごめんなさい。ウチでよければ泊まってください」と。もしかしたら人を泊めるということは元来このくらい軽いことだったのかもしれない。天理の人たちが特殊なのだというよりは、田舎ってちょっと前まではどこでもこんなもんだったんだろうな。ただしそれがこうもきれいに保存されているのはきっと天理教とか中山みきの力なのである。
 Nさんが念のため詰所に電話したところ、OKとのことだった。よかった。夕飯はお店でいただくことになったが、その合間に本部へ「夕づとめ」に行くことにした。神殿では朝と夜に一回ずつ、ぢば(聖地)の中心たるかんろだいを囲んで歌い踊る儀式(おつとめ)が行われるのだ。
 イベントのお手伝いに来ていた天理教歴15年の男性(すなわち、たぶんこの人は20代か30代くらいで「ジャンプ」して入信しているわけである)に案内してもらった。おつとめに参加するのはもう4~5回目くらいだが、その後の三殿をまわって参拝するのと、おてふりの練習には初めて参加した。やっぱ自分はダンス苦手だな、できるようになりたいな、と思った。
 戻って、一度詰所に荷物を置きに行った。Sさんの言った通り○○大教会で合っていた。話が通っていなかっただけであった。また戻って、豪勢なごはんを食べる。お酒はなし。この日は昼に日本酒を飲み比べしただけであった。僕の旅行としては珍しいかもしれない。いや僕は浴びるように酒を飲みたいタイプではないのだが、夜のお店を巡るのが趣味なので旅行に出るとどうしてもたくさん飲んでしまうのである。
 豪勢なごはんの代金は2380円であった。そして詰所の宿泊と朝食に対するお供え(寄付というテイになっているのであろう)は1250円。物価がいろいろバグっている。
「天理に来たら朝のおつとめが気持ちよくて最高だから、ぜひ」と二人(Nさんと歴15年の男性)から口々に言われた。めちゃくちゃ寝不足だし疲れているので本当はただぐっすり眠りたいのだが、あまりそう言われては仕方ない。5時15分に始まるので4時50分くらいに起きて、のんびり15分歩いて神殿に着いた。今回はおつとめだけで帰った。月曜というのに夕づとめよりも人が多いのが意外だったが、すぐに「なるほど」とも思った。そして確かに気持ちがいい。散歩がてら通ったことのない道を歩いてみた。おもしろそうなお店を見つけた。今度来てみよう。
 ちょっと二度寝して、食堂にごはんを食べに行った。ビュッフェ式で、お米に汁物に小鉢に納豆、漬け物などが並んでいた。これが250円とは。昼食や夕食がさらに豪華になるとしたら原価割れしそう。ちなみに部屋は15畳、もちろん一人で。宿泊費は1000円。それらを入り口にある封筒に入れて箱にポトン。ちなみに受付の際にはお金の話は一切されていないし、どこにも書いていない。当然知っているものとして扱われる。たぶん「寄付」というテイにしているので説明しちゃうといろいろ面倒なこともあるのだろう。
 電車まで少し時間があったので駅のコンビニでレターパック買って昨日もらった紙ものなど詰めて家に送った。
 次は五條、和歌山、彦根。たぶんそんなに長くありません。

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