少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2024.3.8(土) 人の死
2024.3.13(水) 湯治、答辞、千代の富士。
2024.3.18(月) リハビリ的日記です
2024.3.21(木) シャープにキメチマエ(17歳のこと)
2024.3.24(日) メンヘラ・モラハラ×外向・内向
2024.3.26(火) 続き メンモラ修正パッチ
2024.3.28(木) 続き メンモラ修正パッチ2
2024.3.31(日) 恋の京阪線/スペースネコ穴論

2024.3.8(土) 人の死

 人の死についての僕の考え方の基本はこの日記参照。
 誰かが誰かの死を悼む時、その仕方は自由で他人が口を挟むことではない。まずこれは前提。
 ただ、その様子を見て何かを思ったり、何かを言いたくなってしまうこともある程度は仕方ない。それをあんまり大っぴらに(SNS上とかで)やるとカドが立ったりするから僕はこの場所でやる。

 明日の13時から夜学バーで、橋本治さんの『蓮と刀』について3時間語らねばならないのだが、その前準備ばっかりして肝心の『蓮と刀』がまだ3分の1くらいしか読み終わっていない。もうすぐ開店なのに。まあよくあることだ。配信用のセッティングやホワイトボードの設置もせねばならない。がんばります。
 前準備とは『蓮と刀』(1982)より前の主著を読み返すこと。『桃尻娘』『秘本世界生玉子』『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』。そして続編『オイディプス燕返し! 蓮と刀青年編』もいちおう参照した。これだけで随分膨大な時間と労力を費やした。明日の講演(?)に直接役立つかはわからないが、「初期の橋本治」を改めてインストールしてみたことは無駄ではないと思う。
 そんでこれから無き寸暇を惜しんで『蓮と刀』を読み進めつつ構成を練らねばならないのだが、その前にちょっとだけ日記を書いておこうと、お店の近くにある喫茶店に来た。あと15分ほどしかない。思っていることを吐き出しておく。いま書かないと、確定申告の終わる15日までまでまた動かない可能性すら。有料!と歌っておいてそれはない。一回くらいはまとまったことを書くと思います。

 さて有名な人、こと文化的に偉大な人が亡くなった時には、インターネット上(主にTxitter)に「ああ……」みたいな言葉が並びます。「言葉にならない」とか「言葉が出てこない」という書き込みを見ると、「いや言葉になっとるやんけ!」と突っ込みたくなる。
 その人は、何かが言いたいのである。言いたいのだが、うまく言えないのでせめて「言葉にならない」といった言葉を絞り出すことでその代替とする。気持ちはわかる。しかし意地悪な僕は、「何かひとこと言いたいのですが、特に言うことが浮かびません、しかし今すぐになんでもいいから何かは言いたいのでこの数行をもってそれと代えさせていただきます」とでも、正直に言えばいいのにな、と思います。
「突然すぎる」とか言う人もいる。当たり前では? 昨日も遊んでたとか電話してたとかいう友達ならいざ知らず、あるいはつい最近までまったく死の香りのない発信(ツイートなど)をたくさんしていたのならまだわかるが、鳥山明さんのようにメディアを持たない、連載すら今はない漫画家の場合は、「突然」かどうかなんてわからないではないですか。素直に、「自分はこの方が亡くなるなんて思ってもいなかったので、どのような経緯を辿ってそうなったのかは分かりませんが自分にとっては突然に思えます」というふうに、言葉を尽くして書いてもいいんじゃないかと僕は思います。
 身近な人にとっては「突然ではない」ことでも、自分にとっては「突然」でしかないようなことはある。僕にとっても鳥山先生の死は「突然」であった。しかしそれをインターネット等で表明しようとは思わない。そう、僕はなぜだか「表明」ということにすごく厳しい。

 偉大な人の死を、めいめいが自由に、自分の言葉で(たとえそれが陳腐だったとしても)悼むことによって、その人の偉大さや生前の営為が浮きぼられる。「陳腐な言葉で悼むな!」なんて言うのはそれこそ横暴だ。人には人を自由に悼む自由がある。
 それはそれとして、僕はその「悼み方」を見て、「嫌だな」と思うことがある。それだけの話である。
 それを表立って言えばカドが立ち、世にストレスが増え、争いにもなりかねない。だから黙っていればいいのだが、「ああ……」と言いたい人たちと同様僕も、何かを言いたいのだ。ある人は「ああ……」とSNSで言い、一方で僕はこのようにホームページに書く。
 嫌いなのだ、死者を悼むようでいて、実は自分の話がしたいだけの人。人の死を利用して、自分の価値を高めようとする人。ポエムみてーなこと書いてんじゃねえぞ。黙って目をつぶれ。
 自分が気持ちよくなりたいだけではないか! と思うのだが、まあ、それはそれでその人なりの防衛策なのでしょうかね。ポエムを表明して気持ちよくならないと、その死を受け入れることができない。(誰も受け入れろなんて言ってないんだけどな。)
 きっとそういう人たちは苦しいのだと思う。なんでかは知らん。僕は苦しくないからわからない。鳥山明先生の大大大ファンであることは胸を張って言えるが、それと「悲しい」とか「苦しい」ということとはあまり関係がない。死んだからって、好きだという気持ちに変化は一切ない。当たり前じゃないか。
 受け入れるとか受け入れないとかではなくて、ただ事実として「そうらしい」ということが来た。それだけのこと。桂正和先生のように長電話をしたりメールを交わす仲ではないのだ。止まってしまったのなら、寂しいなと思うだけである。冥福を祈るほど信心深くもない。感謝だけはずっと、人生をかけて捧げ続けている。

2024.3.13(水) 湯治、答辞、千代の富士。

 3月4日(月)から7日(木)までは青森県の上北町(上北郡東北町)に行っておりました。2月19日から21日にかけても同じ温泉宿に泊まった。一泊2500円の自炊宿。定宿といってよかろう(うれしい)。
 キュンパスっていうJR東日本の一日フリーパスがだいぶ便利だったから。期間中5枚も使ってしまった。むろん仕事のためである。街では「仕入れ」と「営業」、宿でも「事務作業」と「勉強(これも一種の仕入れ)」そして「湯治(セルフ福利厚生)」。
 そもそも夜学バーとかこのホームページ(有料!)が仕事だとすると、あんまりプライベートとの差というのはないもので、何をやっても仕事のようにもなってしまう。それゆえストレスが溜まりにくいという利点もありながら、それゆえ「仕事から離れて」という発散があんまりできないという問題もあります。
「温泉宿で何も考えずにゆっくり……」ということが難しいのだ。どうしても「合宿」のようになってしまう。やることが溜まっているせいもある。楽しいからいいんだけども。
 ああ、そういえば昨年8月末の「やがっしゅく」みたいなことはまたしたいですね、ちょうどお店が閉まってたからこそできたんでもあったが、お店がやってる限りああいうことはできない、というのもさみしい話だ。なんかちょうどいい感じのやり方はないものかな。やはりこのホームページ上でのみ募集をかけるとか、そういう感じになるかね。来年は25周年だし。

 今回の三泊四日は、一つには「橋本治を読むため」のカンヅメという目的がある。3月9日に『蓮と刀』という本について解説しなければらないのだ。夜学バーの「受注」システムによって実現した会。僕としても改めてこの名著と向き合える機会をいただけて非常に嬉しかった。そのせいで気合いを入れすぎ、よせばいいのに他の初期作も読み返そうと、とりあえず『桃尻娘』は事前に読んでいた。
 そして合宿はほとんど『秘本世界生玉子』を読み返すだけで終わった。あとは『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』の大島弓子の項以外と、『爆笑問題の対談の七人(爆笑問題とウルトラ7)』の橋本さんの部分だけ読んだ。サボらなかったといえば嘘になるが、サボってばかりいたわけでもない。『秘本世界生玉子』があまりにヘビーな本なのだ。『蓮と刀』を語るにはここを抜かすわけにはいかない、と勝手に思っていたのである。
 さらに本当のことを言うと、亡き橋本治さんの「まとめ」を僕なりにしてゆくためには、やはり最初から復習する機会はほしい。多少無理してでも「総ざらい」はしておきたかった。真面目ですなあ。
 一応、宿には宿泊者専用のお風呂があるので、ことある毎に入っていた。湯治湯治~とか思いながら。計10回くらいは入ったかと思う。

 4日はキュンパスが効くのでいったん上北にチェックインして荷物を置き、青森を往復。5日は昼間にユニバース(スーパー)行った以外は宿から出なかった。6日は夜に近所の飲み屋に。7日は三沢と盛岡に寄り道して帰った。細かいことはあとで書けたら書く。
 7日はそのまま夜学バーを営業。この日はだいたい定時に帰って、ゆっくり寝た。問題はここから。
 8日は昼過ぎに出て、図書館を二軒(墨田区と江東区)回ってから押上のニトリでホワイトボード買い、東上野の喫茶店でカレーを食べる。ここでカレーにしたのがまた良くなかったかもしれない。いつも通りしょうが焼きにしておいたほうが栄養が摂れた。細かいことだけど、体調不良は少しの積み重ねである。
 いったんホワイトボード(90cm×60cm、輸送が本当に大変だった!)をお店に置き、ドンキホーテで仕入れをし、庄内屋でお弁当買って、シャルマンで日記書く。前回のやつ。それで17時から営業、24時に終わってからホワイトボードを設置し、配信用の機材をセッティング。深夜に帰宅し、ひたすら『蓮と刀』を読み込む。1時間寝るのを2回して、12時くらいに家を出る。13時からお客が入り、13時40分くらいから17時くらいまで講義のようなことをする。これはまあ、だいぶ疲れた。脳も身体も。口の中もしゃべりすぎて擦れ、舌に炎症ができた。
 この様子はYouTube上に記録した。無料で観られるが有料なので観た人は何らかの機会に1000円くらいください。

 このあと……なんと28時くらいまでお店に人がいた。18時~19時くらいに「ア、今日もうダメかも」って思ってたのだが、だんだん麻痺してきた。この「麻痺」ってのが一番のくせ者だ。麻痺してきたときは「限界を超えた」のだと思っていい。これからはもうちょっと気をつけよう。
 そんな折、明けて10日がまちくた氏(夜学バー従業員、高3)の卒業式と知る。答辞を読む(優秀!)と聞いていたのでぜひ見届けたい。2時間くらい寝て出席した。受付でマルつけさせられて緊張した。知っている子がほかにも2名いたので退屈しなかった……というのはだいぶ嘘で、3人とも名簿の序盤に集中していたため卒業証書授与のほとんどの時間を知らない子たちの名前とか表情とか顔とか、あるいは導線の改善についてとかあれこれ考えて過ごした。まさか寝るわけにはいかない。こうして頭を使い続けたのもやっぱりよいことではない。
 上野に戻って、小一時間ほど仮眠をとって「自習」へ。14時寸前に起きて鍵を開けるとすぐまちくた氏が入ってきた。僕は遠慮して(というよりコミュ障だし変質者なので)挨拶もせずスッと帰ってきたのだが、向こうからわざわざ会いに来てくれたのだ。皆勤賞や功労賞の副賞とか記念品などを自慢して帰っていった。
 本来なら19時くらいに終わる予定なのだが22時くらいまで営業してしまった。若者との時間はお互いに貴重である。後に生きてくると信じよう。
 というわけで、ご飯を買って帰った。ここで重ためのバングラデシュ料理を選んでしまったのがもう運の尽きだ。翌朝完璧に胃をやられていた。
 寝たのは25時くらいだったと思うが、振り返ってみると金曜の12時くらいから本格稼働していて、60時間超のうち5時間程度しか寝ていない。それでバングラ料理は無理ですね。食べてすぐ寝たし。「精をつけよう」なんてのは断食にビスケット。おかゆにすればよかった。これも反省である。そう、この文章は過ちをくり返さないための自省録。ハーァ。

 わかりやすくいえば「無理がたたって倒れた」わけだ。湯治とはなんだったのか? ほんの数日温泉に入ったり良いめの空気を吸ったところで、人間に「静養貯め」はできない。今回はいろんなタイミングが重なってこうなったのではあるが、そのタイミングから逃げる勇気を僕が持たなかったのが最大の要因。

 で、確定申告(まだやってなかったんかい!)を進めるはずだった11日と12日を完璧に寝てすごし、これを書いている13日も半分以上は寝ていたし、夜学バーの営業予定を出してこの日記を書いて、っていうのでもう22時半だ。数時間だけ確定申告のこともやったけれどもたぶんあと10時間くらいは必要だと思う。明日と明後日はお店もあるし、さてちゃんとできるんだろうか。15日まで。
 普段なら10時間を5時間ずつに分けてスパスパッと終わらせられるんだが今は体力が不安。気力もない。千代の富士である。「体力の限界! 気力も無くなり、引退することになりました」。そうならないように、少しずつがんばってゆきます。みんなありがとう。

2024.3.18(月) リハビリ的日記です

 確定申告は諦めた。今回はどう考えても還付申告なので遅れてもペナルティがないことに気がついたのだ。半年近くお店を休んだし、新店舗の初期費用もあるから計算するまでもなく無所得であろう。計算するまでもないから計算する気が起きなくて、それで進まないというのもあったと思う。
 人間の身体とは面白いもんで「諦めた!」と決めた途端に胃腸の調子がよくなった。病は気から。プレッシャーやストレスが悪いのだ、結局は。

 17日に夜学バーで行った『リボンの騎士』輪読会はまったくシューキャクふるわなかったのでここでも宣伝、第2回、第3回あると思います。ぜひともおいでください。
 体調不良と時間のなさでろくに宣伝できなかったし、肝心の『リボンの騎士』を読み返せたのが当日の午前中だったというのもよくなかった。次回告知の際には『リボンの騎士』がいったいどういうものなのか、いま読み返すことにどんな意義があるのか、ということをちゃんと発信しようと思います。
 ただ台詞を読み上げながらあれこれ思ったことを言うだけなのですが、やはり優れたネームを読み上げるのは楽しいですね。リズムが良いし、手塚先生の言語感覚をよく味わえる。普段はあまり意識しない「目線の動き」にも自覚的になれる気がします。そうだマンガってこういうふうに読んでいくんだ、と新鮮な気持ちになれました。
 それにしてもこの会を「発注」してくださった方の異常なほどの『リボンの騎士』およびサファイヤへの愛はすさまじい。その方と一緒に読んでいくことによって、作品が腹に落ちやすくなっている気がします。また襟を正すというか、ほどよい緊張感のもとまっすぐに向き合えるのもいいところ。
 5人くらいいるとかなり楽しいはず、よかったら参加表明を。日程あわせますので。

 やるべきこと、やりたいことが多すぎるわりにのんびり屋さんなので何もかも遅々として進まぬ。構造改革一夜にしてはならず、少しずつやり方を変えていこう。

2024.3.21(木) シャープにキメチマエ(17歳のこと)

 宮藤官九郎ドラマ『不適切にもほどがある』6話で、「大人が昔話をしたがるのは17歳に戻りたい(けど戻れない)から」(大意)というような表現があった。17歳イッツアセブンティーンと歌った(意味不明!)のはベボベでしたな。くわえタバコのセブンティーンズマップは尾崎豊。実力と無力、そして可能性とのバランスが最も妙な時期なのだろう。不完全ゆえ甘美。
 僕の17歳がどうであったかはその当時の日記を読んでいただければわかる。本当に素晴らしい時間だったし、9歳を自称する僕も実は17歳までは内面の変化が大きく認められる。逆にいえば17歳からこっちはマイナーチェンジというかいわゆる「成長」や「成熟」をしたくらいで「変化」という感覚はない。おおむね17歳の魂が今まで続いている。

 夜麻みゆき先生の漫画は小6から数年間、僕の心の大切な部分を育んでくれた。当時「少年ガンガン」に連載されていた『刻の大地』は2000年に他誌へ移り、2002年11月号で停止した。その直後、11月1日に僕は18歳になった。
 連載の再開は2017年10月。15年間のギャップをしっかりと感じさせつつ中途だった「塔の戦い」編は完結し新たに「天秤の代理」編が2020年から始まって今に至る。先日その新章を最新の2巻まで読み終えた。
 それから90年代の『刻の大地』単行本を読み返してみた。なんと美しい画面であるか! 少年の日の僕が魅了されたのもわかる。雑誌に掲載された第1話を読んだとき、いてもたってもいられずにそのまま書店に走って旧作『レヴァリアース』を全巻買いに行ったのを覚えている。(まあ、このくらい昔の記憶は当てにならないので、それは1話じゃなくて2話か3話だった可能性もあるが、とにかく1巻はまだ出ていなかったはずの時期。たしかダイエーと名鉄上飯田駅の間にあった「ワールドブック」。)

 17歳に戻りたいとは思わない(今もその延長だと思っているので)が、17歳のころまでに満ち溢れていたあのエネルギーや気持ちを時に振り返りたいとは思う。たとえば夜麻先生の作品はその頃の僕を突き動かし、「これが正しい」と思わせてくれた。そういった動力で今も生きている。ねじ回しはまだ本棚にあり、僕の背中にはそのための穴がまだちゃんと空いている、はずなのだ。
 最近のふるわない、すぐれない毎日の中で、やるべきタスクを傍に置き、ずっと好きである漫画を読み返している時間は、逃避でもなければ懐古ですらない。ねじ巻き、というだけでもない。確認でもあり再発見でもあり、また新発見でもなければならない。そのくらい美しいものを自分はあの頃からずっと好きでいるのだという誇りを強化する行為でもある。そしてもちろん、冷静な批判の目もそこにはあるべきである。自分はなぜそれを好きで、それゆえに何が見えなくなっていたのか、とか。
 17歳を、あるいはそれよりもずっと前のことを振り返るのは、「なぞる」ため。なぞることにはいろんな効能がある。助走をしっかりとるためには、跳ぶべき位置から下がってゆかねばならない。下がるために振り返り、そこへ戻り、なぞって走って跳んで飛ぶ。

 まあ単純に、また本当に純粋に、正しき懐古は今を正しく修正してくれる。正しいとはなんだと野暮なことをお言いで無い。正しさとは自信とか、胸を張るとか、そういうことでしかない。歩くための覚悟をキメさせてくれるのが、胸に信じる正しさというやつなのだ。それがなくては進めない。それが間違っているものかどうかは、一歩一歩を慎重に歩きながら、堂々と検討と検証を重ねてゆくのである。
『刻の大地』には「仲良し」という言葉が頻出し、「人間と魔物の共生」というテーマが貫かれている。僕の11歳も17歳も、そして現在も多分これからも、そこから離れることはあるまい。その覚悟をなぞる。

2024.3.24(日) メンヘラ・モラハラ×外向・内向

 今週はボーナスステージかと思うくらい面白い営業が続いた。お店の話。木と金は個人的な神回、土曜は来客こそ少なかったもののそのぶん濃密な時間だった。詳しくは日報に書く。
 土曜にみんなで話していた内容を忘れないうちにまとめる。発想の責任(想責)は基本的に「まちくた」という高校生(はんぶん大学生)にある。特定少年ゆえ勘弁してほしい。


 横軸(x軸)の正を「メンヘラ」、負を「モラハラ」とする。
 縦軸(y軸)の正を「外向」、負を「内向」とする。

        外向
        |
        |
モラハラ――――+―――――メンヘラ
        |
        |
        内向

 想像しやすくするためサンプルを置くと、
 第1象限(外向メンヘラ):田中みな実・指原莉乃
 第2象限(内向メンヘラ):SAYAKA
 第3象限(内向モラハラ):小沢健二
 第4象限(外向モラハラ):大森靖子・松田聖子

 くり返すが想責はまちくた特定少年にある。僕を含むその場にいた人たちの意見も採り入れられてはいるが、すべてまちくた氏の監修と承認に基づいている。また悉く個人の感想であり、根拠はない。

 この座標を眺めながら、誰がどの象限のどのあたりにいるのだろうとか、象限同士の相性はどうなんだろうとかを考えていくと、ものすごくある種の視界がクリアになる。あたかも人間がみなこの4種類のいずれかに当てはまるかのように錯覚されてくる。
 が、むろん「どの象限もしっくりこない」人というのはいる。「モラハラとメンヘラの間」とか「内向とも外向ともいえない」という場合、座標上にとる点は原点に近づき、数値の絶対値は低くなる。
 そのように原点に近い数値をとる場合、たとえばx軸が0に近いときは普通に考えると「モラハラでもなくメンヘラでもない」を示す。するとこの座標では「モラハラでもありメンヘラでもある」を指し示す方法がない。これは弱点である。しかし「モラハラでもありメンヘラでもある」という人が存在するのか、という議論も必要で、存在しないならこの弱点はなきものとなる。ここを処理するのが今後の課題。
 基本的には原点Oに近ければ近いほどいわゆる「普通の人」といえる。この記事で語られるのは主に「極端な人たち」についてであります。

 人間を数種類に分類して、その性質や相性を個人に勝手に当てはめて面白がる、というのは非常に悪趣味なわけだが、僕はけっこう役に立つ見方だと思うし、一時的にこの観点から世の中を眺めてみることは、知性と節度を持つ善人にとっては一定の糧となるはず。おおっぴらに語ったりSNSで発信するのは歓迎されないだろうが、小さな飲み屋でこっそり行われる思考実験(演習)としてはかなり有用。現代において密室とはそのように使われるべきであろう。インターネットに置き換えれば、このようなちっぽけな個人ホームページというのはかなり密室に近く、ゆえに少しくらいはその片鱗を記しておいても問題はなかろうと判断する。

○第1象限(外向メンヘラ)
 外向きにエネルギーを放出するメンヘラ。いまさらだが、この「メンヘラ」という言葉をレッテルとして軽々しく(こと揶揄的に)使うことに不快感を抱く人がいることは理解している。しかしこの言葉でなければ表せないニュアンスも実際存在するので、堂々と使用したい。
 メンヘラの定義は難しいが、ここでは主たる要件として「自分には原則として価値がないと思っている」ことを定めたい。モラハラ型の人は正反対で、「自分には無条件で価値があると思っている」のである。言い方を変えれば、メンヘラは「根本的には自分は正しくない」と思っており、モラハラは「根本的に自分は正しい」と思っている。さすがにざっくりすぎるが、大まかにいえばそういうことだと思う。もちろんこれを自己肯定感という言葉で語ることもできる。
 もし外向メンヘラが人を刺すとしたら、「自分は正しいから刺す」のではなくて、「自分は正しくないから刺す」のだと思う。そもそも刺すという行為が正しくないことは自明であり、「自分は正しくないのでこのたび刺すという正しくない行為をいたします」という話なのではないかと。(まちくたさんはここまでのことは言っていないので、文責は僕=筆者Jにあります。共犯者です。)
 自傷行為にしても、それを正しいと思ってしている人はおそらく少ない。正しくないからするのである。ゆえに「リスカは正しくないからやめなさい!」という止め方にはたぶんあまり意味がない。ODとか売春も同じである。自分は正しくないと思っているから、正しくないことをするのだ。
 彼氏を束縛したりすることも、それを「正しい」と思ってやっているかどうかは疑わしい。ひょっとしたら「正しくないことに付き合ってくれる人」を求めているのかもしれない。
 外向メンヘラと外向モラハラはなかなか相性が良い。外向同士拮抗して「盛り上がる」のである。モラハラとは「正しくない」ことなので、「正しくないことをしてもらったので、正しくないことをしてお返しする」という関係が成立する。
 そのように外向きにエネルギーを放出できる外向メンヘラは、たぶん自殺が苦手である。「死にたい」とは本気で思っているし、そのための努力もすることはするのだが、同時に「死ねない」という直観と絶望も持っているだろう。

○第2象限(内向メンヘラ)
 ひるがえって内向メンヘラは最も自殺に近いと思われる。SAYAKAさんを挙げさせていただいているが、まちくた氏の見解によれば神田正輝さんは同じ第2象限の内向メンヘラで、松田聖子さんと前山さんは第4象限の外向モラハラの可能性があるという。実際のところはもちろん(彼らの内面や私生活を知り得ないので)わからないが、そう考えると合点のいくことが多いそうなのだ。
 内向メンヘラはTwitter等で素直な心情を吐露したり、他人に働きかけて不満を解消しようとするなどの行動が苦手である。それゆえエネルギーは内(自分)に向けられ、蓄積してゆく。それが爆発すると「殺す」ではなくて「死ぬ」のほうへ行く。
 基本的に彼らは人の話を聞かない。他人に言われて意志を変えるということがほとんどない。かなり頑固である。しかし恋人などの依存相手には容易に流され、染められてゆく。いったいどうしたことだろう?
 内向である彼らには「自分」しかないので、依存先も「自分」でなければならない。すなわち「自分を相手に同化させる」ことによって他者への依存を成立させる。一方、「相手を自分に同化させる」のは外向モラハラの仕事である。ゆえにこの二組は一見、相性がいい。
 一見というのは、当然そんなものには破綻が待っているから。自分と他人が同じであるはずがないのだから、同化させるのも同化したがるのも無理筋。最初のうちは脳がバグって「私たちは一緒!」となるのかもしれないが、しだいに無理が生じてくる。

○第3象限(内向モラハラ)
 内向メンヘラと真に相性が良いのはたぶん内向モラハラである。内向メンヘラが「同化したい」と思う一方で、内向モラハラは「勝手にしてもらえればいいけど、まあこちらは何もしないし、こっちも勝手にさせてもらいますね」という態度をとる。「同化したい」という欲求が叶えられることはないが、むしろ無理してそのルートに行かないぶん破綻も訪れにくい。
 内向モラハラも「自分しかない」という点で共通している。内向モラハラにとって他者とは「利益をもたらしてくれる存在」でしかない。「利益をもたらしてあげよう」と考えるとしたら、それはリターンがほしいからというだけである。
 ゆえに内向モラハラと内向メンヘラは阿吽の呼吸で「取引」ができる。Win-Winの関係を築くことができる。内向モラハラは「こうしろ」とは言わない。内向メンヘラにはそれがわりと心地よい。関係は終わらないままズルズルと続いてゆく。
 ちょっと立ち止まってまとめよう。内向メンヘラは、外向モラハラから「こうしろ」と言われることは一時的には心地よいのだが破綻する。内向モラハラは「こうしろ」と言ってこないので、「同化したい」という欲求は叶えられないが、その代わり細く長い快楽が供給される。それに対して内向メンヘラは黙々とリターンを返し続ける。
 内向モラハラと外向メンヘラの相性はあまりよくない。外向メンヘラがどれだけ自分をさらけ出して直情を訴えても、内向モラハラは内向なので本音を言わない。なんなら黙り込んだり無視したりする。外向メンヘラにとってそのストレスたるや。「言ってもらえないとわからないよ!」と言われても、内向モラハラは本音を言ったことがないから何を言っていいのかわからない。何を言っても不利益になるような気がして、何も言わないほうがまだマシだと判断したりする。
 内向メンヘラも本音を言ったことがないので、ぶつかり合うことがない。やんわりと過ぎていく。しかし当然、その間に横たわる根本的な問題が解決することはない。破綻もない代わりに調和もないのである。
 内向モラハラと外向モラハラは「考え方は同じだが生き方が違う」という関係なのでパートナーシップを結ぶことはまずないが、友人としては最高。僕はどう考えても内向モラハラなのですが、親友と呼べる相手には内向メンヘラと外向モラハラが圧倒的に多い気がする。
 もちろん、どの象限にも共通するが同じ象限の人間同士は基本的に相性が良い。ただダイナミックな関係というよりは「静かに共感しあう」というあたりに終始しがちである。共感しかすることがないので。

○第4象限(外向モラハラ)
 この座標軸の発案者、まちくた氏は自称外向モラハラである。外向きにモラハラをして憚らない(?)、最も恐ろしい種属でございます。
 まちくた氏によると大森靖子さんと他のZOCメンバーとの関係は「外向モラハラと外向メンヘラ」とのことで、モラハラを受け入れているうちは安定するが、メンヘラ側も外向なので反発も生じやすい。ゆえにトラブルが絶えない。「姫がホストを刺す」という構造もこれだと思われる。
《※監修が入りました、「大森靖子は外向メンヘラをもとめているのに内向メンヘラが紛れ込むと告発される」「争った先に関係が破綻しちゃう(脱退しちゃう)のは相性良くない。外向同士は仲良くできるから!」とのこと。外向同士は仲良くできる、とはいえ、表面上は争いになることもあるし、破綻もある。ただ破滅的な結果にはなりにくい、ということだと思われます。また、なるほど内向メンヘラだからこそ「録音を流出させる」「脱退する」といったおとなしめな、消極的な手段になるかもわかりませんね。》
《※監修その2 外向モラハラと外向メンヘラとが接近して破綻する場合、そのダメージは平等に割り振られる。うまく行っている時の満足度も同じらしい。》
 内向メンヘラとの関係はすでに述べた通りだが、外向モラハラはともすれば内向メンヘラを殺しかねない。最も危険な関係とおぼしい。「自分は正しい」と声高に主張する人間と「自分は正しくない」と内面でひっそり思っている人間との組み合わせなのだから、ここが親密になると恐ろしい結果しか思い浮かばない。
 外向モラハラと内向モラハラとの違いについては、まちくた氏によると「外向モラハラは無神経がち、内向モラハラは繊細がち」。知性とはまた別の、気質の問題として。
 おそらくだが、割合としては外向モラハラには長子が多く、内向モラハラには末っ子が多いのではなかろうか。長子は実力行使で明確にハラスメントをするが、末っ子はひっそりと、小ずるく、バレないようにそれを行う。長子は本質的に強く、末っ子は本質的に弱いから。
 自己肯定感が強く、自分には価値があると無条件で思える人間はモラハラという加害性を持ちがちだが、もともと備わった力の強さによって外向か内向かが分かれる、というイメージ。むろんその「強さ」とは生まれた順のみによって決まるものではないから、きょうだい構成はせいぜいその一要素にすぎないが。


 と、いうのが土曜の夜に相手を変えながら(まちくた氏は電車のあるうちに帰宅した)午前5時近くまで語っていたことの部分的なまとめ。まことに悪趣味な、勝手な決めつけではあるものの、見るべきところは存分にあると思って記録してみた。
 モラハラ側の人は加害性に自覚的になれるし、メンヘラ側の人は被害性(そんな言葉あるのだろうか)を客観的に見つめられる。どういう相手だとどういう関係になりやすいのか、などを考える指針の一つになる。むろんそうやって「法則から逆算して個人と個人の関係を決めつける」というのは僕が最も憎むことではあるが、「知性と節度を備えた善人」であればうまく使いこなせるだろう。
 ここでは存分に書けなかったが上記4象限を考える際には「善悪」と「知性」という軸も必ず必要となる。モラハラもメンヘラもそれによって他人や自分を傷つけ得る、その点で人間の欠陥というべき性質である。ゆえにこそ善と知によって抑制したり、上手く飼い慣らしていく必要がある。でなければ待っているのは破綻、極端になると殺したり死んだり、という地獄なのだ。

2024.3.26(火) 続き メンモラ修正パッチ

 一つ前の記事には大いなる反響があった。嬉しい。もちろん完全な説明ではないので修正は多々必要である。
 とりあえず一つ、補足しておかなければならないのは大森靖子さんについてである。「彼女はメンヘラではないか」というイメージが世間的には強いし、この度も友達からそこを突っ込まれた。
 まずあの「メンヘラ・モラハラ」という対比は、語呂の良さやインパクト、イメージのしやすさによって選ばれた言葉である。もう少し詳しくいえば「本質として自分には価値がなく、正しくないと思っている」人をメンヘラ、「本質として自分には価値があり、正しいと思っている」人のほうをモラハラとおき、その中で外に向くか内に向くかということで分類した。
 大事なのは、来月あたり配信される「氷砂糖のおみやげ」(Podcast)でも語っているのだが、この四要素は人間の中にすべてあり、そのどれが強く発現しているか、ということで暫定的に決まる。ゆえに人生の中で、あるいはシチュエーションによって、外向メンヘラになったり内向モラハラになったり変化することもあるだろう。ただやっぱり「ざっくり言ってこの人はこれだよね」というのはあると思って、それでいうと僕は(あるいはまちくた氏は)大森靖子さんを「外向モラハラ」としたいのだ。ちなみに当のまちくた氏も同じ分類を自認する。
 大森さんはおそらく、本質的には自己肯定感がかなり高い人なのである。しかし人生の中でいろいろなことがあり、「自分は価値があって正しいはずなのになぜこんな目に遭うのか!」という憤りが彼女のエネルギーの理由としてあるのではないかと僕は勝手に思う。(このことは大森靖子さんにかなり詳しい友人に話してみたが、強く共感していただけた。)
 ここから先はその専門家の知見でもあるのだが、彼女の自己肯定感が本質的には強いからこそ、本質的に自己肯定感の低いファンや関係者(他のメンバーなど)は「自分とは違う」と気づいて離れていくこともあるのではないだろうか。そこに気づかなければ「共感」で済むのだが。
 ある属性(と言っていいかはさておき)の「教祖」のような存在が、実はその属性は持っていなかった、ということはあると思う。カルトでも教祖と信者はたぶん、本質的に一致することはあんまりないだろうし。

2024.3.28(木) 続き メンモラ修正パッチ2

 お友達から感想が届いたのでそれを参考に少し。
 まず言葉というのは難しい。人それぞれに読み取る意味も、かぎとる匂いも変わってくる。「自己肯定感」というような、個人のパーソナリティに深く関わる言葉はとりわけてそうだ。軽はずみに使うと怪我をするが、つい使ってしまう。そのあたり僕はいつも不注意である。

 結論から言うと「モラハラ」も「メンヘラ」も、ある意味では皆一様に「自己肯定感」は低いと言えるのだと思う。自分を無条件で肯定できないからモラハラで補おうとする(証拠を欲しがる)のだ。
 ただ僕がまだおぼろげに思うのは、「根本的に」とか「本質的に」というところ。「本来は自己肯定できていたはずの人がさまざまな要件が重なってそれが阻害されてしまった」という状況があるのではないかと。
 根本とか本質なんてものが人間の中に存在するとも思わないが、発達とか成長という中に段階みたいなものはあって、肯定できている時期とできない時期があったり、積み重ねがあってだんだん肯定できなくなってゆくなど、様々あるのではなかろうか。生まれてすぐに「肯定感」を奪われる人もいれば、小学校高学年あたりで喪失する人もいるかもしれないし、その逆があってもおかしくはない。
 この辺は非常に難しく繊細なポイントなのでもう少し慎重に考えていきたいと思う。なんのために考えるのかって、「面白がりつつ何かに役立てたい」という利己的な動機だとはきちんと白状しておく。ただ「役立てる」の中には当然「他人を利する」という現象を経由することも非常に多い。

「自分は正しいはずなのに正しいと扱われていないのはおかしい」という発想をする人を「モラハラ」側に入れた。本日の大森さんのツイートはちょっと興味深い。ここにあるのは「自分は正しいのだ」という揺るぎなさである。彼女の心中やここに至る経緯は正確に推し量ることができないが、ともかく参考になる。
 僕が注目するのは主に2点。まず、他人を傷つけるということは生きている限り仕方のない、当たり前のことだということ。そして、自分はダサいことはしないし時間を有効に使いたいし無駄なことはしたくない、かわいそうになりたくない。元気に生きていて、自分の人生を全うしたい。「自分の気持ちの落とし所は自分で探すべき」「自分の気持ちくらい自分で落とし前つければいい」と主張し、「ちゃんと生きよう今日もなんとか」と締める。これを僕は「自己肯定」と言っている。自分はプラスの状態でいたいし、いるべきだし、実際そうしていると胸を張っている(明記はしていないが、その過程において加害はありうるという話だと思う)。少なくとも対外的に、Twitterという場では大森さんは「自己肯定している自分」を世の中に発信しているのだと僕は読む。
 加害性の容認と強い(必死の)自己肯定。そう見せる大森さんを好きなファンが大勢いる。僕はその状況を面白いと思う。
 時間切れ。しばらくしたら続きを書くかも。

2024.3.31(日) 恋の京阪線/スペースネコ穴論

 年度末はけっこう好きである。前日もお店だったので悩んだが夜学従業員のさく氏(19)が青春18きっぷ3枚残りをたった6000円で譲ってくれたので朝から各駅停車の旅。8時54分東京発、17時42分大阪着。
 大人なのでグリーン車に乗った。東京→熱海だと101kmを超えて1550円かかるから、ひと駅手前の湯河原までにすると1000円となるのがハック。(3月16日からの料金改定でこうなった。)ちなみに品川→熱海でもOK。新橋→熱海だとだめ。
 グリーン車は快適なので目を閉じて体力の回復に努める。次の列車は熱海→浜松、なんとか座れたがロングシートで2時間半走るので最も退屈しやすいゾーン。ここでPC出して「氷砂糖のおみやげ」編集を8割くらい進める。月曜の15時までにUPしなければならないので必死である。
 浜松→豊橋は一瞬。豊橋→米原はいい席とれたので休む。名古屋で降りたい衝動に襲われるも耐えた。米原では対面乗り換えで楽だった。新快速で大阪まで。だんだん混んでいく。
 目的地はなんばのライブハウス。最寄りは大国町なのだがせっかく青春18きっぷを持っているので環状線で芦原橋から歩く。「なにわ くじらぐも」というたこ焼きやさんに寄りたかったのだが休業中とのこと。おなか空きすぎていたのでそのへんの適当なチェーンでたこ焼き買って食べる。
 ライブは素晴らしかった。20年前の3月31日に解散したバンドの一夜限りの復活。予想はしていたがさすが女性デュオというか、20年前からの筋金入りのファンたちはドルオタとだいたい同じ様子をしていた。去年水野あおいさんの23年ぶりのコンサートに行ったのだがその時の感じとまあまあ似ている。違うのは撮影が禁止されていなかった(らしい)ことで、多くの客がスマホやタブレット、そしてデジカメ(!)で写真や動画を終始撮っていて、気持ちはわかるが、ううむ。
 ベースは当時女子高生だったのもあり、まあいろいろあったのだろう。「みんなのこと覚えてるよ、何されたかも覚えてる」というさらりとした重いMCが印象的であった。事前にTxitterで「絶対に二度とやらない」と言っていた。主には別の理由なんだと思うけど、客層のせいも多少はあるのではないかしら。

「一番ヤバいのは女性シンガーソングライターのオタク」という格言がある。ガールズバンドとか美術家とかもけっこうすごいのが必ずつく。「ギャラリーストーカー」なんて言葉もある。芸術系はヤバいのが湧きがち。なぜといえばたぶん「ウンチクを垂れやすい(上から目線で接しやすい)」「あんまりお金をかけずに女性と(上から目線で)喋れる」というあたりがポイントなんだと思う。一方で女性を尊敬したいという欲求も男にはあるもので、そういう気持ちもシンガー、バンド、美術家は満たしてくれる。
 ヤバいオタクには「偉そう型」と「崇拝型」とが大きく分けてある気がする、というわけであります。男女はあんまり関係なく。
 ちなみに僕は素直に言えば後者の立ち位置に近く、ほっとくとすぐに尊敬してしまうので、せいぜい自身もりっぱな人間になることでバランスをとろうとしている。尊敬するからには尊敬されないといけない。
「モテたいならモテるのは義務」と僕はたまに言うのだが、それとちょっと似ている。欲求を満たしたいなら相応の態度というものがあるのだ。モテたいのにモテてないのはヤバいやつである。誰かを公に尊敬するのなら、尊敬されるに値する人物でもなければならない。それは「良い客である」ということにも繋がる。食堂や喫茶店ではお行儀良くしたほうがいい。
 気持ち悪い、尊敬できない人間から愛されるのと、素敵な、尊敬できる人間から愛されるのと、相手はどっちが嬉しいだろうか?という単純な話でもある。いわゆる「オタク」の多くにはその感覚がない。「自分を満たしてくれるもの」を一方的に求める。「喜ばせたい」という気持ちもあるにはあるようだが、たいていは「自分のやりたい方法によって喜んでほしい」が本音となる。なぜか「まず自分が素敵な人間になる」という発想のない人が多い。不思議なものだ、と言いたいところだが、別に不思議でもないか……。

 そのバンドのことは解散した直後に知った。初期衝動のすべてが詰め込まれたような名盤たちに胸を打たれ長らく愛聴していた。あるときベースボーカル(僕とほぼ同世代)が店長を務める飲み屋さんに行って、向こうも夜学バーに来てくれたりなどして交流ができた。ライブがあったらいつか行ってみたい、と思っていたのだがそれがまさか20年ぶりの再結成になるとは。

 青春18きっぷでは名古屋(実家)まで戻ることができないので、とりあえず京都へ。愛する「スペースネコ穴」に行ってみたら、日曜の夜中だってのに先客が5名もいた。お花見帰り需要があったらしい。
 ネコ穴ほど「芸術そのもの」のようなお店を僕は知らない。デザインというのはこういうことだ、と僕は真顔で思う。もう21年やってるらしい。
 このお店については多くの人が「汚い」という文脈で語り、それはまったく間違ってはいないのだが、虫やカビの類いを目撃したことはない。意外と埃っぽくもない。ドラえもんの「かがみでコマーシャル」(14巻)に出てくる「あばら屋」という和菓子屋のように、思ったよりずっと清潔なのである。当たり前だがお皿やグラスもちゃんと洗ってある。そしてまた誰もが口を揃えて言うのが「料理が美味しい」そして「安い」。人を選びつつ、同時に惹きつけもする。絶妙にして圧倒的なバランス感覚!
 有名な京都大学吉田寮の宿泊スペース(特に男子部屋)は本当に汚い。虫もウジャウジャわいていた。(それにしてもウジャウジャってやな字面だ。)そういうのに比べるとまったくネコ穴は秩序だっている。「汚い」と見える部分は「店の機能とは無関係の部分」であって、「店の機能と関係のある部分」は汚くないのである。何を言っているかわからないと思いますが……。
 スペースネコ穴という空間は確かに汚く「見える」のであるが、その全体の体積において「汚い」割合というのは実は案外小さいのだ。なぜならば、空間の大部分を占めるのは「何もないエリア(すなわち空中)」なのだ。そこについては清潔そのものだ。ボロ屋なので常に自然換気されていて空気は新鮮である。またお皿やグラス、箸、酒、料理、冷蔵庫、そしてお客さんが座る場所など「飲食店としての機能と直接関係のある部分」については、思いのほかかなり清潔に保たれている。おそらくキッチンのほうもそうだろう。虫が(たぶん)わいていないのはそこに気を遣っているからだと思われる。
 つまり、汚いのは「風景」であって、店そのものではないのである。店はむしろ汚くない。ただそこから見える景色は明らかに「すげーオンボロで汚い」のであって、それが雪景色の中で温泉入ってるみたいな情緒にいざなうわけだ。
 そのロケーションも手伝って、何より店主のふるまいによって、その場で生じるコミュニケーションにも嫌らしいウェットさはない。風景の汚さが「意識の高さ」をかき消してくれる。「繋がりましょうよ!」的な卑しさも発生しにくい。殺伐とした風景には殺伐としたやり取りが合う。ありきたりな、社交辞令のような言葉は似つかわしくない。必要最小限の動きから少しずつ、ゆっくりと交流が深まってゆく。こういうのを実現しているお店はなかなかない。これほどに優れた「設計」ができているのは夜学バーくらいしか思いつかない……。いや本当に。
 ネコ穴についてのここまで精緻な(?)分析はあんまりないだろうが、これが京都まで届くこともなさそうなのが少しさみしい。どなたかネコ穴にお邪魔したら上記のようなお話をしてみてください……。

 その後、件のベースボーカルさまと落ち合って朝まで飲む。ちと飲みすぎてしまった。体力が心配で、ぎりぎりまで「行くのやめようかな」と思っていたのだが来てよかった。まさかこんなタイミングでサシ飲みできるとは。音楽もお店も楽しみです。お互いがんばりましょう。

 ケチなので計算すると、東京から大阪(芦原橋)までの乗車券が8910円、京都へもJRのみで向かったので950円。9860円ぶんが2000円(+グリーン券1000円)になったのだ。安い! のぞみだと東京→大阪だけで14920円なのでだいぶ節約した感じ。細かいことだが大阪からなんば(大国町)まで地下鉄使うと往復480円、そこをカットできたのも大きい。ちなみに京都市内では130円のシェアバイクを3回使った。京都→烏丸松原、烏丸松原→西院、西院→京都。計390円。
 18きっぷを使ったのは久しぶりだ。最近は新幹線を使ったり、「一筆書きの長距離きっぷ」を使うことが多い。そこまで倹約しなくても生きていけることに気づいたのである。でも上記のような金勘定は性分だし、このゲーム性が楽しくて鉄道やってる(鉄道をやるとは?)ところもある。楽しいです。

 6時3分の新快速で名古屋(熱田)へ。某死ぬほど好きな喫茶店でモーニングして、熱田→大曽根。正規料金は2640円(新幹線だと5170~6110円)+200円。これで18きっぷ1回使うのはもったいない気もしたが、余らせるよりずっといい。というか、余らせると使ってしまう。旅ばっかりしている暇もないのだ、実のところ。
 地元駅には古き良き喫茶店がたくさんあって選び放題。セブン行きたかったが閉まってたのでダンカンにした。モーニングで目玉焼き出てくるのが良い。トーストはちょっと甘くしてある。中日新聞とビッグコミックオリジナル読んだ。つねかわ行こうかと思ったがおなかがいっぱいだしとにかく眠たいので小学校の裏や近所の団地を通って実家へ。しばらく矢田川を眺めていたら詩情がふつふつとわきあがってきたのでサッと2本ばかり詩をつくってブログに投稿。お風呂入って、「氷砂糖のおみやげ」音源を仕上げて、しばらくぼんやりしてから寝た。19時くらいに起きて夕飯をいただき、ぼんやりして、この文章を書いて、夜中になった。明日はつねかわと矢田川、あと喫茶店や銭湯に行ったりしたい。

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