少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。
過去ログ
2023年9月
2023年10月
2023年11月
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2023.10.9(月) BACK TO THE BACIC
2023.10.10(火) ジャニーズ断片1 言葉に無頓着
2023.10.11(水) ジャニーズ断片2 言葉は田舎を変えない
2023.10.12(木) ジャニーズ断片3 ファミリー宗教の呪縛
2023.10.13(金) ジャニーズ断片4 肉体と偶像の消費
2023.10.14(土) ジャニーズ断片5 男尊女卑の保存
2023.10.15(日) ジャニーズ断片6 藤子不二雄『少年時代』から
2023.10.16(月) ジャニーズ断片7 家族の崩壊
2023.10.17(火) 継続は力なり(ご褒美はヘルパンギーナトロフィー)
2023.10.18(水) ひげの数
2023.10.19(木) 札幌1 心強い友人たち
2023.10.20(金) 札幌2 かわいいぼく
2023.10.21(土) 札幌3 なじみと出会い
2023.10.22(日) 悲しい時間
2023.10.23(月) 生誕文化発表会
2023.10.24(火) BRAN-NEW LOVER
2023.10.25(水) りりちゃんは組織犯罪処罰法ームレスです
2023.10.26(木) 近況 準備と順序
2023.10.27(金) 社会は世界を単純にする
2023.10.28(土) 知るまでは死なず
2023.10.29(日) 電源オフ
2023.10.30(月) 池のほとりの本のみち まとめ
2023.10.31(火) もうすぐおたんじょうび
2023.10.9(月) BACK TO THE BACIC
9月30日に書いた「ギャンブル」は負けました。指定場所には誰も来ませんでした。似たことを10月8日にもやろうと思っていたのですがやめました。体調を崩しておったから。
体調不良日記を2月と8月に書いておりますが、まさか10月もこうなるとは。僕はふだんけっこう健康で、たまに熱が出ても1~2日で治るのが常だった。2020~22年もほぼ無傷で乗り切った。それが今年に入って急にこうだ。「1週間伏せる」みたいなことはたぶん物心ついて初めてで、それが年に3回もあったなんて信じられない。
なにか重大なことが忍び寄っているのだろうか? 人間ドックにでも行きますのでその話はここで終わりで、「大丈夫ですか? 病院行ってくださいね」みたいな内容のみのおたよりはご遠慮ください! そこに便乗して久しぶりにジャッキーさんに連絡しよう!みたいなのは大~歓迎!です。
表題、バックトゥザベーシックってのは坂本龍一さんが1998年に出したアルバム『BTTB』から。伏せっている時、何もできなくて、眠れなくて、うるさい曲や言葉のあるものは難しそうだったから、寝つくために冗談半分で99年発売のシングル『ウラBTTB』をかけてみた。そしたらなんか記憶がバーッとして、次に『12』という今年出たやつ聴きながら寝て、すぐ明け方に目が覚めてしまって『BTTB』を再生した。
『BTTB』はたぶん、初回版が発売されてすぐお父さんが買ってきてくれたんじゃないかな。CMで『energy flow』が流れるよりずっと前。この曲は爆発的にヒットした。「癒やし系音楽」と当時言われて大流行したもののハシリ。インストゥルメンタルのシングルとしてはあの『ソウル・ドラキュラ』を抜いて歴代一位になったはずである。(どうでもいい情報だが、当時ニュースでくり返し流れていた。あとでそのレコード買った。)
さっき「冗談半分で」と書いたのは、「癒やし系でも聴いて寝るか~(笑)」みたいな気分を表したものである。ハイコンテクスト!
すなわち、『evergy flow』(『ウラBTTB』1曲目)流行前に頼まれもせず息子に坂本龍一の最新アルバム(しかも初回版で7000円くらいする)を買ってきたお父さんは、何かちょっとおかしいのである。お父さんがそういうふうに僕に何かを買ってきてくれたことなんてほかにあっただろうか。思い出せない。(あったらごめん。)
ただし! この美しそうな想い出にはけっこうあやしいものがある。実際あんまり覚えていないというか、覚えているのだが長い時間を経て記憶が変容している可能性がそれなりにある。いや細かいことはどうでもいいか。どうでもいいことを書いてしまうのは寝込んでいて文章を書いていなかった反動でたぶん止まらなくなっているからである。
ともあれ『energy flow』流行前に初回版を買ってくるのと、流行後に通常版を買ってくるのとではだいぶ違って、うちのお父さんは(記憶の中で)前者だから超カッコいいな!という話。
そのころ僕はYMOが大好きであった。音楽と音波をこよなく愛するお父さんにとってはけっこう嬉しいことだったんじゃないかと振り返って思う。同年代がグレイラルクと言っているところで息子はYMOなのであるから。またお父さんは機械が得意で、パソコンで音楽を扱うこと(近年はレベルアップしすぎていて何をしているかもう僕にはわからない)が大好きである。そう思えばフロッピー付きの『BTTB』をつい買ってしまうというのはうなずける話だ。なんなら自分もほしかった可能性さえある。
こういうのは本人に確認すればいいんだけど、死んだらもう確認できない。これは練習なのである。親が死んだあと、親のことを思い出して、「本当はどうだったんだっけ?」と思い出せないことがあるとき、「本当はどう思っていたんだろう?」と気になってしまったとき、どういうふうに心をあつかったらいいのかという。
Back to the Basic、原点回帰、基本に帰る。
原点は世阿弥のいう「初心」と同じで、「その時々の原点」がたぶんある。
14歳の原点(あれなんか書名みたいになった)もあれば、10歳の原点もある。80歳の原点もあるだろう。
2023年、あまりに体調を崩しがちな自分に、「これはどの原点とも像が結べない」と困っている。「これが原点になっちゃいやだな」とも思う。
この日記をある程度読んでくださっている人は重々おわかりと思うが、僕の人生というのは原点の獲得と復習によってできている。ずっと同じ話ばかりしている。しかしよく見れば新たな原点との相互作用で少しずつ洗練されている。
もちろんここから病弱の人生を歩むようならそれを踏まえて精々格好良くやってくだけ。そうでない道が選べるなら今のところ原点たちはそっちのほうから僕を呼ぶ。
11月1日のお誕生日を前にしてやはりそういうことを考えるのだ。そろそろ原点回帰だなと。オール原点総進撃。その一環としてとりあえず古巣、新宿ゴールデン街の「無銘喫茶」ちゅうお店に一日だけ帰ってみることにしました。
伝説の「木曜喫茶」最後の営業は2012年11月1日。それからちょうど11年。せっかくなので11月にやろうと思います。16日に決まっております。21時から6時くらいを予定。もちろん木曜。
新宿エリアでもいつかお店をやりたいんで、月1くらいでやれたら楽しいんだけど、無理してまた倒れてもいけない。無銘~おざ研時代は週に1回だけの営業だったし、お酒を飲むのもその日くらいだった。体力だって今よりあっただろう。考えながらゆっくりやります。これを決めた時はまだ、健康だったのだ。
や、この話は別に本題ではない。BTTBである。いろいろ意識的に変えてゆくと思います。たとえば日記タイトルも「少年Aの散歩」として久しいけど、ずっとこれってのは意外と原点っぽくない。原点は「流動的」ということなので。Se
xy Zoneも名前変わるし。
また生活に関しても、やっぱもっと漫画読みたいとかいろいろある。寝込んでるときって何も考える余裕ないけど、ちょっと元気が出てくると反動で考えたくなって眠れなくてバーってあまりにも膨大なことを考えてしまう、ってのが昨夜。次歳は原点回帰と伏線回収をやってって、次々歳くらいにいったんまとまるといいな。
2023.10.10(火) ジャニーズ断片1 言葉に無頓着
美墨なぎささん
お誕生日おめでとうございます。
Web日記歴23年、書きたいトピックは当然いくつも同時に抱えていて、しかし「これを書くには○時間かかる」とか「これを書くにはまだ足りない要素がある」みたいなこともわかってきている。それで今日のように「小一時間くらいでサクッと書くか~」みたいな気分の時に取りかかれるものは何もなかったりする。それで近年は数日に一本、時に一週間前後空くことも平気になってしまった。ちょっと考え直したい。
僕は「積み上げていく」ということが苦手である。「積み上がっていく」ことにすべてを任せている。計画的に「このトピックは全4回に分けよう、今日はここまで、明日はここまで……」とできない。そも性分でないし、それをしたら僕の最大の持ち味であるはずの「自在」というものも損なわれてしまうかもしれない。それで今日も何も考えずとりあえず書き始めている。
もう「積み上げていく」ことは諦めて、「積み上がっていく」ことを信じるほうへ舵をきっていこうか。無計画でも尻切れトンボでもとにかく書くこと、読んでもらうこと、という原点(初心)へ戻るのだ。
つーわけでちょっとだけ。ジャニーズの件に進みましょう。こんなものは10月中にある程度終わらせておきたい。思いつくままに、構成も何もなくやってみます。最初は些末で、ほかの人がすでに言っているようなことが含まれるかもしれませんが、たぶんそのうち独自性が浮き上がってきます。(そうなる歴23年!)
未来人の方々すみません、これは歴史の実況。
東山紀之さんの「セクハラをしたことはない」という発言はダメです。当たり前だよね。「自分がセクハラをしたかどうかを自分が決める」なんてできるわけがない。僕は勝手に想像で書きます。おそらく彼はセクハラをしたことがあるでしょう。したことのない人なんているのかね。たとえば後輩に「オマエ彼女いんのか~?」と訊くことだってセクハラになりえます。「もう○○くらいしたのか~?」はもう明白にセクハラ、ということに現在ではなっていると思います。
この発言をした当時に、それを「セクハラだ」と思った人が誰もいなければ、その時点ではセクハラとは呼ばれないかもしれません。しかし言われた当人が「嫌な気持ちになった」のであれば、それはのちに振り返ってセクハラと言われても仕方ないというか、まあセクハラということにはなるでしょう。
ジャニーズにはそういう甘いところがいっぱいある。めんどいので敬体解除。
9日に事務所公式HPに載った声明から段落ごと引用する。
《なお、弊社は現在、被害者でない可能性が高い方々が、本当の被害者の方々の証言を使って虚偽の話をされているケースが複数あるという情報にも接しており、これから被害者救済のために使用しようと考えている資金が、そうでない人たちに渡りかねないと非常に苦慮しております。》
無関係の人が嘘をついて金をもらおうとしていて、そのせいで被害者救済に使うお金が減ってしまう(翻訳)、と。これも詰めが甘い。「被害者でない可能性が高い方々」というフレーズ。被害者である可能性も少なからずある、という書き方になってしまっている。「可能性が低い人たちにお金がわたるせいで、可能性の高い人たちに渡るお金が減る」というふうに読めるわけだ。可能性で決めていいわけがない。
これを言いたいのならば「明らかにジャニー喜多川本人と関わりを持ったことがないと証明できる方々」とでもしなければならないし、事務所はその証明をできなければならない。100%の証明は無理でも、「そのことがありえた合理的な説明がひとつたりとも残せないところまで検証できた」という状況まではがんばるべきだ。
ほぼ100%証明できる例としては、ジャニーさんが死んだ(以下J死)あとに生まれた人、とかだろうか。3歳に見えて実は19歳とかかもしれないからわからないけど。
あとは、「J死までジャニーさんが行ったことのない国にしか存在したことがなかった」とか。これも密航したとかジャニーさんがお忍びで実は行ってたとかあるから100%ではない。どうでもいい。
どうでもいいことを書いてしまったが、言語というのはそこまで突っ込まれることがありうるツールで、ふだん人は数%までのそういう隙なら意識さえしないし、20~30%くらいまでは気づいていても聞き流す。言語を扱う難しさを知っているから。
ジャニーズにとって今は「ふだん」ではない。一ミリでも隙があればメッタ刺しだ。もうちょっと言葉を大切にしたほうがいいと個人的には思う。
ジュリーさんがお手紙で発表していた「ジャニー喜多川の痕跡をこの世から一切消し去りたいと思います。」という言葉も、僕のような視野の広い(!)人物からすると、あきれるほど言葉というものについて無頓着、無責任と感じてしまう。
ある人物の痕跡をこの世から一切なくす、そんなことができるのか? していいのか? まず前者、できない。後者、「していい」にはいくつかのグレードがあると思う。たとえば社会や世間の倫理や道徳のうえでどうなのかというのと、もっと大きく、神的なレベルで、「いやそれは神をも恐れぬ行為やね」というような話のものと。
マアなんとなく雰囲気が高まっていれば「ジャニーの痕跡を世の中から消します!」に呼応して「そうだそうだ!」「いいぞ!」「よく言った!」「やっちまえ!」と叫ぶ声は盛大に響くだろう。しかし「いやだ!!」と言いたい人も必ずいる。その人の気持ちや人格はどうなるの?「いいぞ!」派の人たちからすると「こいつも即座に殺して痕跡を消そうぜ、ジャニーを擁護してんだから!」という話になる。そういうことをジュリーさんは言っている、と僕は思ってしまうわけですよ。
また「ジャニー喜多川の痕跡」のすべてを把握することはおそらく不可能でして、それを「したい」と言うのはこれは、神レベルに人智を超えようとしているわけでございます。ジュリーさんはここで、「ジャニー喜多川の痕跡であるかどうかを自分は(ないし人類は)判定できるし、それを消すこともできる」という前提に立っているはずなのである。そうでなければ、あの手紙は絵空事の夢物語を理想論として語ったものになってしまう。「必ず、やります」という意思表示でなければ、あの場にはふさわしくない、と僕は思う。
できないことをできないとわかっていて「したい」と言うのは、夢を語る場面ならいい(シンボルにはなるし)が、ああいう会見の場で語るならせめてよほど周到にやらなければいけない。「できないことはわかっていますが、気持ちとしてはそのくらいの覚悟がありますので、どうぞお見守りをお願いします」とか。それをサボって雑に書くから、僕なんかはこれをTVでリアルタイムで聞いて固まって、そのまま涙を流してしまった。「そんなこと言っていいわけないじゃん」と。
どんなに悪いことをした人でも、その痕跡をすべて消していいとは思えない。その人が生涯を通じてものすごく悪いことをたくさんしたとして、だからといって「すべて」を消すことは「よいこと」なのだろうか?
ぜんぜん短くならないやんけ。いったん終わることにします。つづきます。
2023.10.11(水) ジャニーズ断片2 言葉は田舎を変えない
「言葉に無頓着」と書いた。ジャニーズ事務所の話である。彼らの言葉は総じて雑だ、と僕は思う。
それは前回書いたような、言葉そのものの論理的な処理が下手(≒文章が下手)であるという意味にとどまらない。
「指名NGリスト」問題に関して昨日リリースされた事務所の公式見解はとくにひどかった。
《会見当日、写真あり指名リストにおいて「氏名候補記者」及び「氏名NG記者」とされている記者のいずれについても、約5割を指名している。
つまり、当該リスト上で「氏名候補」とされているか「氏名NG」とされているかに関わらず均等な割合で指名している。》
すでに指摘している人は多いだろうが、「約5割を指名している」は誤り。NG記者6名の中で「指名」されたのは1名で、指名されてないのに勝手に質問したのが2名(望月・尾形)。
ジャニーズ事務所はここで、「指名」と「質問(に返答したこと)」をごっちゃにしているわけだ。「言葉に無頓着」ここに極まる。昨日の文章を書いたとき僕はまだこの文書に触れていなかったのだが、「うおー、まさにこれやんけ」と感動してしまった。
詭弁を弄しようとしてあえて誤魔化しを敢行したのか、はたまた本当に「指名」と「質問(に返答したこと)」は同じものとして扱ってよいと考えたのか。僕は、後者であっても不思議はないと思っている。ジャニーズはそのくらい、言葉について雑な人たちだと理解している。
「指名」を「氏名」と間違えている(としか思えない)のも象徴的なこと。この一点において、コンサル会社ではなく事務所が作ったのではと疑ってしまう。
ジャニーズは伝統的にダンスレッスンが中心でボーカルレッスンの話は聞かれない。歌よりも踊りが優先される。言葉より情熱。歌詞の意味などわかっていなくてもいい、一所懸命その子らしく歌えていればそれでいい。「ギンギラギンにさりげなく」とはどういうことなのか、確信をもってマッチが歌っていたとはどうしても思えない。アイドルは原則としてそういう歌い方を許されているのだ。
この重要な記事で僕は、スター(ここではジャニーズアイドルの意味)の素質とは「鈍感」ということなのではと書いた。鈍感はもちろん「バカ」の近くにある。言葉について深く考えられる知性を備えた人間は、ジャニーズには向いていない。そもそも事務所が「言葉に無頓着」なのだし、考えれば考えるほど「おかしい」「わからない」「理屈に合わない」ことが無限にある。
奇しくもイノッチは「その世界で向いてない人はやっぱり長くは活躍できなかった」と10/2語った。僕はすぐに自分が書いたことを連想した。筋を通すとか、合理的に公平にやるとか、法を守るとか、そういうことについて敏感すぎる人間はたぶん「向いてない」のだろうなと。(イノッチが言いたいのは別のことだってのはもちろんわかります。)
ところでこのときイノッチはとんでもないことを言っている。
《そして、タレントたちみんなが、ジュリーも申し上げてましたけれども、そういう支配の中で、被害を受けたから彼らが活躍して生き残ってきたとはやっぱり僕は思えない。》
これは「ジャニーズで活躍して生き残ってきたタレントたちの中には被害を受けた人たちがたくさんいる」というふうに読める。え、それ言っちゃっていいの!? 詰めが甘いのか、もしくは、わざとやってるのか。前後を踏まえてもそう読めるはずなので、確認したい方は
こちら。ちなみにこちらのサイトでは「あのタレントたち」となっておりますが、「あの」はthatではなく「あの~……」という感じのやつ。この表記も忖度だったりして。
たぶん事務所側が公式に、現役タレントに対する被害を認めたのはイノッチのこの一言だけだと思うので、覚えておくと便利だと思います。(何に便利なんだ)
意思は言葉を変え 言葉は都市を変えてゆく
(小沢健二『流動体について』2016,2017)
都市は言葉で変わってゆく。しかし田舎は言葉で変わらない。
ジャニーズ事務所という小さな世界はまるっきりの「田舎」で、言葉の力が及ばない。古い価値観の家庭や、古い日本企業はみなそうであろう。
そもそもジャニーズってのはヤンキーのたまり場という側面もあると思う、彼らは言葉よりも肉体や感覚のほうを重視する。言葉はシンボルでしかなく、ツール(道具)ではない。
都市の空気は自由にする。田舎の空気は不自由である。
ヤンキーの世界はもちろん不自由。都市にいるヤンキーたちでも、「おらたちのルール」が徹底した田舎をそこに作り上げて逃げ込んでいるのだ。
彼らは鈍感ゆえ都市の自由には気がつかない。「自由をよこせ!」と不自由な田舎の世界に向かっていく。都市は言葉によってしか自由を獲得できない空間だから、言葉の苦手な人にとっては不自由と同じなのである。
ジャニーさんの被害に遭う年齢の人たちは基本的に言葉を満足に使いこなせない。だから「これはどういうことなんだ?」と戸惑って、まずは拒絶も抵抗もできない。それが終わったあとでも、そこに言葉を与えることができない。ましてや、ジャニーズというのは学校の勉強ができる子の多いところではないし、たぶんジャニーさんは比較的そういう子を避けるだろう(個人の見解です)。彼は鈍感な子が好きなのだ。それはもちろん、「鈍感な子は拒絶も告げ口もしないから」でもある。言葉に弱い子供たちは外部にそれを持っていくこともできない。誰に何をどう説明したらいいかわからない。
ジャニーズは言葉のない帝国なのである。
ジャニーさんの口調は一定であり、どの被害報告を聞いても同じような言葉を使っている。全身を触り、なめ回し、その行為中は言語をほぼ用いないという(ユーかわいいねとかは言うようだが)。もちろん僕が描いているジャニーさん像というのはタレントおよび被害者の皆様方の証言から勝手につくりあげたものであるから、「ジャニーさんは言葉が下手」みたいな話をしたいわけでもできるだけでもない。ただ彼の性加害行為に言語的な要素はほとんどなかった。それはまず間違いないと思う。はい、性行為のさいに多くの言葉を尽くす人たちもたくさんあります。
ジャニーさんは男の子を肉体の世界に連れて行く。言葉の世界から引き剥がす。それは洗礼でもあったのかもしれない。「向いている」人間に作り上げるための。「鈍感さ」を身に植え付けるための。
2023.10.12(木) ジャニーズ断片3 ファミリー宗教の呪縛
言葉や論理から抜け出すことが、まずジャニーズの要件だ、と僕はここまでで語ったつもりである。
理不尽に耐えるというよりは、理不尽の存在を自明として受け入れる。「これが当たり前だから」という意識を当たり前に持つ。いきなり呼び出されて2時間で振り付けを何曲も覚える、みたいなのも「そういうものだ」と笑ってこなせるようになってゆく。
ジャニーズに男性ファンがつきにくい理由はそこにもあると思う。理屈が存在しない。一貫性、整合性、合理性、そういうものにほぼ価値は置かれない。ファンなら思い当たることはいくらでもあると思う。「なんであの子が外されてあの子がデビューするの?」とかも含め、ジャニーズは理不尽に満ちている。だから面白いし、沼る。
ジャニオタの一部は、ジャニーさんや事務所をやたら擁護する。当事者の会とかを叩いたりする。実際身近に何人もそういう人がいる。
ジャニーズはジャニー喜多川を父とし、タレントを子とする「ファミリー」構造を持っているが、じつは事務所やファンも含めて「ファミリー」だというさらに大きな構造もある。たとえばファンクラブ統括組織的なものの名称も「ジャニーズファミリークラブ」。ファミリーなのだから、理屈を超えて擁護するのは自然なことかもしれない。
「ジャニー(ズ)が悪いわけがない、だってわたしのファミリーなのだから」という気持ちを無意識に抱えている人たちがいる。カウアン岡本や平本淳也らの過去を探り、粗を漁り、「こいつらは嘘ばかりついてきたインチキ野郎だ、信じてはならない!」と叫んでいたりする。だからといって今さらジャニーさんのしたことに大きな変更はないと思うのだが、そうやって戦っていなければ家族として遣る瀬がないのだろう。
ファンたちはよく訓練されている。ジャニーさんの意味不明な采配に「ま~たひろむは」と呆れつつ、それでも翻弄されることを選び続けてきた。個人的には、ジャニオタであればあるほどジャニーさんの性加害の存在をほぼ確信していたと思うのだが、それも「ま~ひろむだし」くらいの感じでスルーし続けてきたのだろう。
むかしジャニオタの子に「ジャニーさんの性的虐待みたいなのについてはどう思うの? ほぼガチだよねあれは」とかなんとか言ったらなんか若干キレられたことがある。「そんな事実はない」と思っていたのだろうか、それとも「やめろ、そこは入っちゃいけない線だ」という感じだったのか。あるいは、「あ、ごめんそこは考えないようにしてるんだ」という防衛だったのか。
そのころ僕はジャニーズの暴露本を安いモノから片っ端から買い、図書館にあるものは借りて読んでいた。すると「ジャニーズのことを知るのになぜ一次情報にあたらず、そのような暴露本を開くのか」とたしなめられたのを覚えている。「コーランの翻訳じゃなくてコーランを読め」と。
もちろん、それは「いいから舞台のDVDでも観ろよ」というくらいの意味だったのだろうが、いまあえて悪い読み方をすれば、ジャニーズ「ファミリー」の側にいる人にとっては、「ファミリー」中枢の声こそが真の一次情報なのであって、「ファミリー」外の声は聞く必要がない、というふうにも思えてくる。だって北公次の本も木山将吾の本も、一次情報っちゃ一次情報なのだ。別の宗教の聖書かもしれないのだ。
今日発売の週刊文春に松本潤の悪口(←雑)が載った。それについての感想を読んでいたら、複数の人がこんなふうに書いていた。「記事を最後まで読みました、長かったですが最後に事務所、大河チーム、NHK三者とも否定していました。みなさんご安心ください! 嘘記事です!」
公式が否定していれば嘘、公式が頷けば真実。そういう伝統がずっとあったのだと思う。だから「噂レベル」の段階では誰も何も言わなかったのだ。「ジャニーさんって子供たちに性的虐待してるんでしょ?」と誰がどれだけ叫ぼうとも、「それは公式が否定しているので嘘です」と言っていたのが、ジャニーズファミリー(ここでは主としてファンのこと)だったのである。「うちの子はやってないって言ってます! だから無実です!」
悪く言いたいのではない。そのくらいジャニーズは「ファミリー」というものを強固に作り上げていたのだ。むしろ驚歎したい。週刊誌に何が載っても、たとえば担当の熱愛が撮られても、公式が黙っている限り「気にしなくていいんだ」と忘れることができた。「公式の発表を待ちましょう」という言葉をどれだけ聞いたか。
「担当(最近は推しという人も多いようだ)の言葉を信じよう」とかも似たもの。何があってもとにかく「乗組員はキャプテンを信じてついてきてください(by2016年1月の木村拓哉)」ということで、とにかく公式(事務所や担当)の言葉が絶対。カルト宗教みたいだ、というと、そういえば教祖夫妻を真の父母とし信者全体を家族とみなす統一教会という宗教がかつてありました。
ファンたちがタレントを「担当」と呼ぶ理由については、「自分のことを見てくれている存在」という意識からくると理解していたのだが、ひょっとしたら家族というアナロジーの中に位置づけられるのかもしれない。ジャニーを父とし、タレントを子とする。そしてタレントを父とし、ファンを子とする構造だと思えば。事務所やジャニー、メリーは祖父母くらいに相当する。いずれにせよファンにとってジャニーズというものは「信じてついていく対象」なのであろう。
(この話は「田舎=家族=宗教」というふうにもつながれております。理屈以前の原始的なところに深く根ざしているから強いのです、ジャニーズは。)
ジャニーズの最強に巧妙なところは、タレントからもファンからも言葉をとりあげ、理屈をとりあげて、「親(公式)が絶対」という意識を徹底的に植え付けたことだ。そして「家族である」というアメをあたえる。そう、「家族」という関係のなかに理屈は要らない。
文春との裁判でジャニーさんはこう語っている。
《お父さん、お母さんが持っている愛情のつもりでいます。セックス的な愛情はあり得ない。ただ、悲しいことに血族関係はない。血のつながりのないというほどわびしいものはない。寂しかったのは僕自身だったかも分かりません。》
「セックス的な愛情はあり得ない」という部分はたぶん嘘だろう。嘘でないとしたら、「血のつながりのないわびしさを埋めるために、セックス的な行為を介して真の愛情で繋がろうとした」という話になると思う。セックス的な愛情を向けているわけではなく、セックス的なことをすることによってかろうじて少しだけその「わびしさ」が埋まるような気がしていたのではないか、ということだ。(こんなことを書くのは僕くらいだと思うので、みなさんちゃんと面白がっていただけると助かります。)
セックスには理屈はありませんものね、一般論として。ジャニーさんは性行為によって、理屈を超えた家族関係を子供たちと築こうとしていたし、おそらくある程度それは成功していたのだと思われます。引き換えに子供たちは言葉と論理と敏感さを失ってゆきました、というのが僕の論。
そして肉体だけが残り、その肉体を女の子たちは愛で回しているわけです。
次はたぶん、見つめる女の子の側の話。
2023.10.13(金) ジャニーズ断片4 肉体と偶像の消費
ジャニーズの現場では原則として「男から見られ、消費される」ということが起こらない。「担当に見てもらう」はある。それは「消費される」ということではない。
女性は、どこへ行っても男の目に晒され、評価され、消費される。ジャニーズは数少ない解放区である。そういう意見をたまに目にする。
その通りだと思う。ジャニーズの世界は基本的に「男が女をリードしてゆく」という古風なもので、「王子様とお姫様」というようなイメージさえいまだに通用している。ファン(主として女性)はそれを消費する。誰にも邪魔されず、文句言われず、「男らしい男」「男の子らしい男の子」を消費できる。普段は消費される存在であることを強いられている女性が、ジャニーズ世界では安心して「消費する」側に回れるのだ。
そこには基本的に女性しかいない。女子校で「あの先生が好き」と言い合うように、担当の話に花を咲かせる。好きな先生の授業だけは真面目に受けるようなノリで、せっせとうちわを作って、じっと見つめ、黄色く叫び、涙を流す。
ジャニーズは「男のためのコンテンツ」では絶対にない。「女の子のためのコンテンツ」である。なんの気兼ねもなく愛していい。「わかってない」と男たちから嘲笑されることもない。
それに対してタレントは当然「ありがとう」と思うし、言う。「応援してくれている君たちのおかげだよ」と。
愛情は肯定され、また次の日々を頑張れる。生活に色がつく。ファンクラブで年4140円、コンサートのチケットで7000~10000円くらい、たったそれだけの出費で、女の子たちは大好きな男の子たちを愛で回す権利と環境を手にすることができる。
彼女たちの見つめる先には肉体だけがある。もちろんこれは極端な表現で、そこにいるのは意思も人格もある一人の男性だが、しかしそれは前回までの話でいう「鈍感なスター(=アイドル)」なのだ。ファンである自分を絶対に否定しないで、いつもいたわってくれる、自分の意思や考えよりも「ジャニーズアイドルである」というアイデンティティを優先してくれる人間。個人であるより先にアイドルであってくれる、だから安心して心を委ねることができる。
わたしの心を守るために、心をからっぽにして微笑みかけてくれる。複雑なことを決して言わない。がんばってと言えばありがとうと返してくれる。もちろん時にはあまのじゃくなタレントもいて、やきもきすることもあるのだが、それでも「ジャニーズ」でいてくれる以上は、その枠から出過ぎることはない。舞台に出れば歌って踊って、かっこつけてくれる。いろんな需要に応えるために、いろんな男の子がちゃんといる。多種多様に見えながら、しかし誰もがちゃんと「ジャニーズ」をやってくれるという安心感がこの事務所にはある。
この状況を貫く事実は、「ジャニーズの男の子たちは本質的に消費される存在である」ということだと僕は思う。それを受け入れることができないと、イノッチのいう「向いていない」ということになるのではないだろうか。
ジャニーズの男の子たちは生産する存在ではない。消費される存在である。そのことに耐えなければならない。年を取って生産のほうに回りたくなったら作詞作曲をしたりコンサートの演出を考えたりということを「ジャニーズの枠組みの中で」することはできる。消費される存在であり続けながら、ちょっとずつ生産もさせてもらう、というような形で。それでもやっぱりもっと生産というものをメインにやりたい、ということになったら、基本的には退所するしかない。たとえば渋谷すばるや錦戸亮が退所したのは少なくとも公的にはそういう流れであったように思える。
思いつきで書くのだが、人間は人間の内面を消費することはできない。(できるとすれば魂を傷つけることになるだろう。)人間が消費できるのは人間の肉体と、その影である「偶像」のみである。
2023.10.14(土) ジャニーズ断片5 男尊女卑の保存
消費とは何か? 他者を利用して欲求の充足を行うこと。
その結果として相手は「減る」。
ジャニーさんがしてきたことは搾取であり、度の超えた消費である。
女の子たちは間接的にその片棒を担いできたとも言えるし、ジャニーさんが女の子たちに先鞭をつけたとも言える。いや違うな、ジャニーさんは少年たちに、「ユーはこういうふうに消費されるんだよ」と手ほどきをしたと言ったほうがいいかもしれない。
一方で女の子たちは、この男性中心社会において日常的にそのような消費、搾取をされている。
「自分たちがされていることをジャニーズに対してすることでバランスを取ってきた」という側面は確かにあったろう。ただしそこには「ジャニー喜多川という男性の権力者からのお墨付き」が前提としてある。男性が用意し、男性が先に手をつけ、男性によって許可された肉体の消費。女の子たちはジャニーさんという「男社会のボス」からおこぼれをもらってきた。
さらに嫌な言い方をすれば、男社会は女の子たちに、「ジャニーズという生贄を用意したから、いくらでも愛でていいよ。その代わり《男>女》って構図は据え置きでヨロシク!」と言っていたようなものだ。
ゆえにこそ、ジャニーズの基本的な世界観は「男が女をリードする」でなければならない。そのほうが自民党とも仲良くしやすい。男社会において、高い地位をキープしやすい。
少数の美少年たちを犠牲にして、男たちは、女たちからの非難を巧みにかわしてきた。「女性が社会の中で割を食っているのはわかるけど、まあ我慢してよ。ジャニーズでも見ててよ」と。ジャニーさんのしてきたことに誰もが目をつぶっていたのは、「男性社会の利」を守ろうとしていたのでもあるはずだ。
たった(あえて書いています)数百人の男が「消費される」だけで、数百万人、あるいは数千万人という女を「黙らせる」ことができる。男尊女卑の気配を社会に保持できる。男性支配者にとってこれほど都合のよいことはない。男たちがジャニーズの性虐待問題についてさして関心を持ってこなかった理由の核心だろうと僕は思う。
好きなジャニーズタレントのことを伝統的に「(わたしを)担当(してくれている人)」と呼ぶのは、「男のほうが立場が上」という意識を常に持つためでもあろうし、ジャニーさんの気まぐれな采配を「そういうものだから」と受け入れるしかないことも、「男性が決めたことには逆らえない」という暗黙の理解を育てていった。
ジャニーズにはヤンキーのような子が多いし、ファンの中にもヤンキーのような男の子が好きな人も当然多い。ヤンキー社会は男社会で縦社会で、保守的で男尊女卑である。政党でいえば実は自民党でしかない。ジャニーさんは「平和」とは言うけれども、「憲法9条を守ろう」とか「脱原発」とは僕の知る限り言っていない。(言ってたら教えてください。)
ジャニーズが凋落し、崩壊していくということは、そのようなシステムもなくなるということだ。女の子たちは男尊女卑のなかでバランスをとることが難しくなってゆく。「男女同尊」のほうへ向かうしかないのかもしれない。アイドルを見上げることはもうやめて、同じ地平に立つ男の子を愛するのがいいだろう。しかし実際には、ホストクラブやメン地下が今以上に流行ったりするのかもしれない。男の子たちは残念ながら、急に成熟などしてくれないから。
2023.10.15(日) ジャニーズ断片6 藤子不二雄『少年時代』から
ジャニーズについて書きたいことはまだまだ山ほどあるのだがこのあたりで区切りにしよう。もっと読みたい人は「
おこづかい」ページから僕に定期送金する設定をおこなったうえでメールフォームより「ワッフルワッフル」と送信してください。じつはこのホームページは有料のシェアウェアなので、月に500円とか1000円とかくださると助かります。
また月末と来月初に催し事があるのでみなさん来てください。とくに11月1日の
文化発表会は、僕が孤独に恥をさらす練習でありつつ、それを受けとめていただくことによって自分の半生と現状を肯定するという非常に重要な役割を担うものですので、ぜひともご協力をお願いいたします。誰もこないと「孤独の練習」のみに終わってしまいます。万障繰り合わせて一つ。
藤子不二雄A先生に『少年時代』という名作がある。ともかく読んでください。戦時中、主人公の進一少年(小学5年生→6年生)は東京から富山の小さな村に疎開し、そこでタケシという同い年の少年に出会う。
タケシは暴力によって教室を征服している独裁者であるが、進一に対してだけはまるで純粋な友情のような好意を向けている。ただしそれは「二人きりの時」に限られ、登下校中や学校内では進一に対してさえ独裁者として振る舞うのであった。
タケシに対する子供たちの不満は日に日に募り、ついにケンスケという少年が中心となって謀反が起こされる。タケシは敗北し、権力の座から引きずり下ろされる。
ついにタケシがたおされた! もうこれでタケシは二度と権力の座へもどれないだろう! もうぼくもタケシの顔色をうかがっておびえることもなくなるだろう! まちにまった自由の日がきたのだ!
だがなぜかぼくはむしょうに悲しかった・・・・!
「ぼく」とは進一のことである。その後二人の関係はどうなったかといえば、
ぼくは今こそ対等のつきあいができると思って何度かタケシに話しかけたがタケシはがんとしてぼくをこばんだ!
さらにこのあとについてはぜひ原作をご参照いただきたい。
タケシの天下が終わったあと、政権はケンスケにうつる。ケンスケがどのような政治を行ったか、詳しいことは描かれていない。ただ、ケンスケの主導によりタケシへの盛大なリンチが複数回行われ、「いやがらせ」はしばらく続いたということは明記されている。
きのうのあれだけでは きみへの制裁はまだおわっていないんだ! きみの長い間にわたる暴力的支配に対するみんなの怒りはあんなものではおさまらないんだ!
『少年時代』は昭和19年の夏から昭和20年の夏までの1年間を描いたドラマである。すなわち終戦をもって物語は終わる。大日本帝国はたおれ、新たに民主主義の世の中がやってくる。タケシ→ケンスケという政権委譲は、そのことと二重写しになっている。
進一が「むしょうに悲しかった」と言うのは、タケシが友人だからというだけではないのかもしれない。タケシはたしかに暴力によって独裁を敷いていた。しかし彼のしたことはすべて悪いことばかりだったろうか? そして本当にケンスケという人間のやり口は正しいのか? 結局はタケシを何度もリンチし、いやがらせをし、教室の隅に追いやったのではないか。
タケシのやり方は一言で言って古く、戦後民主主義の世界には絶対になじまない。しかし、ガキ大将とかカミナリオヤジとか、理不尽で支配的だけども、どこかあたたかい人の情をそこに感じてしまう、そういう気持ちはわりと普遍的にあるはずだ、人々の中に。
物語のなかで、タケシは「理不尽だがあたたかい支配者」として描かれている、と僕は思う。対してケンスケは「理性的だがつめたい支配者」であろう。いや、ちょっとタケシの肩を持ちすぎなのかもしれない。流行りの言葉でいえば、タケシのしたことは「許されることではない」のである。それを「あたたかい」と表現する僕の感覚は間違っているのだろうか?
ぼくはタケシがノボルたちにやっつけられる光景を想像した・・・・ だがそれはなぜか痛快な気分をともなわなかった! それに もしノボルがタケシをたおして権力の座につけば タケシのときよりもっと悪い状態が予想された!
これは、タケシの子分であったノボルたちが謀反を企てた際の進一のモノローグである。先に引用した「むしょうに悲しかった」という表現と呼応する伏線となっている。タケシの天下は、おそらくノボルが政権を握るよりはマシなのだと進一は考えている。ケンスケについても実は同じようなことを感じていたのかもしれない。どうせ誰かが天下を取るなら、タケシが一番マシなのではないか、と。
たとえばケンスケは、みんなでスイカを盗んで境内で食べるというような組織的軽犯罪を計画、実行できるだろうか? たぶんしないと僕は思う。ちなみにノボルだったら計画はしても、自分ばっかりたくさんスイカを食べそうである(邪推)。雪合戦や陣地取りにしてもそうだが、タケシは恐怖政治で秩序を保つのと同時に、みんなに「楽しみ」をも提供していたのだ。一応、そうなのだ。
僕はもちろん、タケシをジャニーさんと重ねている。帝国はたおれた。彼らのしたことは「許されることではない」。制裁を加えられ、世の隅に追いやられるのは当然のことだ。ただし同時に、彼らが生み出していた「楽しみ」や「あたたかさ」のようなものも失われる。時代はもうそれを許さない。
2023.10.16(月) ジャニーズ断片7 家族の崩壊
同時ということについて、たとえばの話。
ある男が重大な犯罪に手を染め、逮捕された。証拠は十分だが当人は無罪を主張している。母親は「うちの息子がそんなことをするわけありません、本人も否定しています、わたしは息子を信じます、息子は無実です!」と叫んでいる。
一方で、母親はこうも思っているかもしれない。「どうやら犯人は息子である」と。それはそれとして、母親は叫び続ける。「息子は無実です!」そういうことはいくらでもある。
ある中学生男子が学校で問題を起こした。教師たちは彼を叱りつけるが、当人は「自分は悪くない」と主張している。そこへ母親が乗り込んでくる。「息子は悪くありません」しかし本当は思っている、「8割くらいは息子が悪いな」と。
ルールを破った人間がいたとして、その人を擁護するために、「そもそもそのルール自体がおかしい」と言う。うまくいけば「ルールに無理があるのだから破ってしまうのも仕方ない」として無罪を勝ち取れるだろう。
ディベートに近い。正しいか、正しくないかではないのだ。どちらに付くか、であるし、勝つか負けるか、なのだ。世の中は実のところそのような動き方をする。
「証拠もないのに、あやふやな証言だけでジャニーさんを断罪するのはおかしいんじゃないですか?」と訴える人も、たぶん大半は「ジャニーさんはやってる」と確信している。それはそれなのだ。実際にやったかやってないかはどうでもいい。だれの味方をするか、そして、だれを勝たせたいか、なのだ。
正しいか正しくないかはどうでもいい、とにかく自分たちが勝てばいい、そういう精神でジャニーズ事務所は少なくとも数十年、運営されてきたに違いない。いろんなところに圧力をかけたり、脅しのような駆け引きをしたり、あるいはジャニーさんやその他関係者による性加害などについて目をつぶってきた。
先ほど息子と母親の例を二つ出したが、こういうのは「家族」であれば当たり前の感覚である。優先すべきはまず家族の利益であって、正しさではない。もちろんすべての人間がこの行動原理に則るというわけではないだろう。正しさをとる「立派な」人間もいるはずだ。しかしジャニーズというヤンキーファミリーはそうでなかった。
すでに書いたようにジャニーズはファンを含んで巨大なファミリーを形成している。ファンは担当の子のようであり、また母のようでもある。ひろむを、事務所を、タレントたちを守るために、認知を固定させるファンもたぶん多い。(認知の歪みというニュアンスだが、「固定」のほうがふさわしいと思う。)
ファンのなかで、はっきりとジャニーさんや事務所を擁護している人がどのくらいいるのかはわからない。むしろ「見限った」という人のほうが多い可能性もある。しかしどちらもかなりの数いるのは確かだ。
自分のため、また家族のためにどこか認知を固定させて「ひろむは世間が思っているほど多くの加害はしていない、だってまずうちの担当は手を出されてないし」と決めつけている(思い込もうとしている)人もいると思う。一方で、「ついにこの時がきたか、儚いな……」と冷静に終わりを見つめようとする人もいるだろう。
家族が許されざる罪を犯した時、どんな気持ちになって、どんな対応をとるのかというのは、当人次第だし、その家族との関係次第だと思う。自分とはどういう人間で、ジャニーズとはどういう関係を持ってきたのか、そして今後はどういう距離感で関わっていくのか、考えざるを得ない時期がきた。考えることは苦しい。
何も考えないためには認知を固定させるといい。「とにかく担当を信じる」がそれである。しかしこれまで夢を見させてくれていた巨大な装置は急速に壊れつつある。果たして、その「信じる」はいつまで持続するだろうか?
家族という神話なきいま、ジャニーズのファンはいったいなにをよすがにすればいいのか。もうただの「男と女」という、ホストとの関係と同じになるしかないのかもしれない。
希望があるとすれば、これまで育まれてきたグループやタレントたちとファンたち(例:セクシーたちとセクラバたち)との直接の、いわゆる「絆」。この質が今後問われる。ホストと姫になるのか、家族になるのか、あるいはまた別の、特別の関係を築いていけるのか。
いずれにせよ、やっぱり「ジャニーズ」という大きな括りは薄れていくだろう。
と書いて気づいたけど、今日でもう「ジャニーズ」という名前はなくなるのでした。17日からは社名変更して「スマイルアップ」になる。
2016年のSMAP解散騒動の時から僕は、「これから人々はどんどんばらばらになっていく、人間同士が長い間一緒にいることはもうできなくなる」とずっと言っている。「家族」の崩壊もそろそろ始まる。ジャニーズ消滅はその象徴なんじゃないかと僕はけっこう本気で思っている。
じゃあどういう世の中になるのか? というと、個人どうしが一時的に絆を結ぶ「ユニット」形式が多くなっていくのではないか。ジャニーズも「エージェント契約」でたぶんそれがしやすくなる。「ジャにの」のようなことが、ひょっとしたら事務所を超えて可能になってくるのかもしれない。少年隊の再始動も、6人のSMAPも絶対にありえないとは言えなくなってくる。現状はどちらも夢物語だけど。
2023.10.17(火) 継続は力なり(ご褒美はヘルパンギーナトロフィー)
10月9日から日記を毎日書くようにして今日で9日め。ずっとジャニーズのことばかり書いてきてしまった。ここまで毎日感想をくれる人が2名いて(題材が効いてるのもあろう)、一度だけ「面白い」と言ってくれた人がひとりいて、人づてに「面白い」と伝えてくださった方がひとり、掲示板に書き込みが一件(うれしい! みんなもっと書いて!)、あとは記憶のかぎり完全に無風。んまあこんなホームページなら多いほうなのかもしれない。贅沢は申しません。みなさん読むだけは読んでくれているのだと信じます。信じるしかございません。継続しかないんだってのもわかっております。
「好きでやってる」とはいえ、誰かに読んでもらうために書いているのだから、読んでもらって、感想いただいて、それではじめて「やってる」ということになるのでございます。完全に無風であればそれは「やってない」のと同じことなのです、なぜならば、風を起こすためにやっているわけなのですから。
You are my soul soul いつもすぐそばにある、ゆずれないよ誰も邪魔できない、体中に風をあつめて巻き起こせ嵐、嵐、for dream。
自信というもの、いまだに僕には根付かない。年がら年中「人気がない!」と嘆いている。人間らしくていいじゃないか。もちろんこれも「同時」ってやつで、本当はけっこう人気があるってのも理解している。
頭がおかしくなって、「お金がない!」と騒ぎ出すパターンがあるらしい。ナインティナインの岡村さんもそういう時期があったそうな。あんだけ働いて、つましく(たぶん)暮らして、お金がないわけがない。だけども頭が狂うとわけもなく不安は襲ってくるらしい。これが僕の場合「人気がない!」なのだろう。
こないだ勢いで、お誕生日に文化発表会をやるぞ、と書いた。ご丁寧に新しいページまで作った。さらっとTxitterにも流したのだが、5分くらいで消した。急に不安になったのだ。まだ体調も悪いし、すごく忙しいし、大したことはできなかろう。盛大に人を呼ぶ自信がなくなってしまった。中止にしようかと迷った。しかし一度言ったことだし、「ジャッキーさんは誕生日になるとなんか妙なことをやる」という刷り込みも捨てがたい。これも継続だ。誰もこなくてもやると書いた通り、誰もこなくてもやろう。このホームページでしか宣伝はしないことにした。ちゃんとやりますので、まあ強火の方だけ適当に。
やるだけやるけどいいでしょ、夢だけ持ったっていいでしょ……。
このホームページべつにSNSである程度かくさんしてもらったっていいですからね、どうせ炎上もしないし……。
今日は夜学バー新店舗に行って、不動産屋さんを通じて業者さんに壁紙とか塗装の色とかを伝えに行った。明日から工事が始まり、月末までに終わって、来月頭に冷蔵庫や椅子の搬入があって、9日か10日くらいから借りられるんじゃないか、という感じだけど、どうなるかわからない。遅れても驚かない。ともあれ早めに保健所に営業許可の申請をしなければ。
湯島のシャルマンでコーヒー飲んだ。東京新聞と週刊文春読んだ。むかしモーニング(雑誌)もあった気がするけど不景気で削ったかな。そういうことが最近多い。古い喫茶店も時代に応じて変わるところは変わるものである。吉池で買い物して家に帰って、世代論の本を20分くらいでさらっと読んで、ブラームスのムック本を半分くらいまで読んだ。あとガジェット警部と長くつ下のピッピ(いずれもかつてBSアニメ劇場で観ていたもの)をYouTubeで、日本語版が見当たらないので英語で観た。何言ってるかほとんどわからなかった。わかるようになるまでめっちゃ観ようかな。
まだ体調が悪い。頭が痛い。だらだらしている。ちかぢか札幌に行く。また取材仕事で関西にも何日か行くことになりそうだが、連絡がないので訝しんでいる。その中で月末の不忍池ブックなんちゃら出店と文化発表会と新店舗の準備をせねばならない。
このくらいならたぶんなんとかなる。仕事はどうとでもなるのだ。プライベートのことが増えると、ちょっとわからない。また潰れてしまいかねない。
暇なはずの僕がなぜ時に忙しくなるのかというと、「サボっちゃうから」だとずっと思ってきた。だけどそれに加えて、「断れないから」と「気を遣ってしまうから」ってのも大きいんだとようやく気がついた。「あの人のためになるなら」と無理をしてしまう。友達想いのいいやつだってことなんだが、今年体調を崩しまくってるのはそのせいかもしれないのだ。もうやめな。そんなにがんばらなくても愛してもらえるよ。
小さいとき、僕が居間に寝っ転がって漫画なんて読んでると、食堂のテーブルに座ってる兄が、「コップとって」とか言ってくることがあった。コップの入っている棚はテーブルのすぐ隣にあって、ちょっと立ち上がれば、なんなら椅子のうえに膝立ちでもすれば、彼は自分でコップをすぐ取れるのである。僕は漫画を置き、立ち上がり、とことこ歩いて、戸棚を開けてコップを取り、兄に渡して、また歩いて居間に戻って寝そべらなければならない。そんな理不尽なことはない。コップがほしいのなら自分で取ればいい。「えー」とか「自分でとったほうが早いじゃん」とか言うと、彼はにやりとして、「3」「2」「1……」とカウントダウンを始めるのである。それはまさに恐怖、脅迫であった。どんな凄惨なことが待ち受けているか? そうなると僕はもう諦めて、従順な奴隷としてコップをとりに立ち上がる。そういうふうに育ってきた。
いつしか僕は「コップとって」と言われればとりに行ってしまうような人間になっていた。矯正しようとずっとがんばっている。いまだに「コップとって」のようなことを言われると、一瞬脳が止まる。たまにバグる。
もうコップはとりにいきたくない。むろん、自分がとったほうが明らかに効率がいいとわかる場合には喜んでその人のためになりたい。しかし、「自分がとったほうが明らかに効率がいいとわかる場合」があまりにも多い場合はどうしたらいいのか? それで僕は溺れかけているのかもしれない。もっと別の観点を導入しなくては。
求められると応じてしまうのは病気のようなものだ。これまではそれも長い目で見ればきっとよい結果を導くだろうと信じてこれた。けっこうな無理もできた。しかしそろそろ潮時なんじゃないかと身体は言っている、気がする。
問題は、「他人のために」というだけでなく、「自分のために」ということがあることだ。「きっと自分のためにもなる」とか「自分も楽しい/気持ちいいから」といったことがあるから、するのである。それがまったくなければ僕だって断れる。何よりの問題は僕が強欲だってこと。
欲を捨てる、というような、ゼロヒャクの思考は性に合わないから、うまいこと調整していこう。バランスよく。自分の意思をもっと強く持とう(急に雑になったようだが、結局はそういうことなのだ)。
こういうこと書くと遊びに誘ってもらえなくなりそうで嫌なんだけど、でも実際「誘われる」ということに重圧はけっこう感じる。「誘う」じゃなくて「なんかそういうことになる」だったらすごく気が楽である。
いや、問題はそういうことではなくて。
たとえば「コップとって」と言われて動くのは、「運動になるし」とか「ずっと同じ姿勢で寝転がってるよりはたまに動いたほうが身体にいい」とか「ついでにトイレにも行けるし」というような合理化が可能である。僕はそういうことが得意すぎる。そうやって生き抜いてきたのだ。どんなつらいことがあっても、合理化で乗り越えてきた。そろそろ言ってあげたいね、自分に、「大丈夫だよ」と。「コップとらなくてもいいんだよ」と……。
あるいは、「コップとっちゃったね、とらなくてもよかったんだよ、次は断ってもいいんだよ」とか……。
泣けてきた。もうやめる。
2023.10.18(水) ひげの数
あご 8本
卓球とか清志郎の部位 2本
右 およそ30本
左 およそ40本
ということで、合計約80本が確認された。ちょうど抜け落ちたり生えかかっているものや、産毛よりはちょっと濃いめのものを入れても100本ていどだろう。これでもずいぶん増えたものだ。20代までは本当にハサミでちょきちょきするくらいで済んでいた。
脇は数えたことがない。両側合計10本もないかもしれない。こちらはいまだにはさみを入れている。
すねは薄めだがそれなりにある、ももには一切ない。
本当にどうでもいい話だ。毎日文章を書くとはそういうことなのだ。
さっき帝国湯という銭湯に行った。銭湯について僕はかなり複雑な想いを持っているが、帝国湯はそのマイナス部分を一切刺激してこない。
銭湯という文化を残すためには若者に気に入られねばならない。生き残ろうと思えばたぶんそれしかない。たとえば墨田区の大黒湯とか黄金湯とか、電気湯とかは若者が大いに盛り上げている。DJとかのイベントやったりビール出したりサウナ推したりがんばっている。でたぶんけっこう成功している。非常に喜ばしいことだが僕はちょっと苦手である。
ほかにもいろんな銭湯に行ってみているが、やはりブームというのか若者がけっこうきている。またそのような銭湯好きの若者がやってくることを念頭においた工夫がされていたりする。非常に喜ばしいことだが僕はちょっと苦手である。
できるだけもっと野良犬のような銭湯がないものかと探していて見つけたのが帝国湯。まず薪。そもそも熱いし急に熱くなったりもして恐ろしい。色気のない、機能のみの美しい洗い場。水も冷たすぎない。邪魔なものが一切ない。サウナもない。入浴者は年寄りが数名いたが、僕が入った直後に無人となり、それからずっと無人だった。番台には外国籍であろう女性が座り、そこから裸は丸見えである。女湯との仕切りは低く、身長が190cmくらいあったら向こうが見えるかもしれない。スポーツ新聞が三紙、鬼平犯科帳、剣客商売、黄昏流星群、ジャンプ、ヤンジャン、ヤンマガ、ゴラク、アサヒ芸能、週刊実話などが隅っこのほうに小さく置いてある。タオルは無料で貸してくれる。なぜ無料なのかというと、誰も借りないからだと思う。飛び込みのお客が多いなら有料にするか、「タオル無料貸し出し」とか書いておくのが自然であろう。何も書いていない。いつも入りに来る人か、銭湯好きの中でもちゃんとタオルを持参する上級者(?)が多いのではないかと推察される。僕は低級者なので用意がなく「すみませんタオル借りられますか」と言ったら「手ぬぐいしかない」と言われ、フェイスタオルを渡された。
殺伐とした脱衣所、牛乳とかコーラが飲めたりする。ドライヤーは20円。せっけんとかもいちおう買えるしグンゼの下着も売っている。体重を量ったら49kgくらいだった。帰ってたくさんご飯をたべた。
昔の日本人って背が低かったようで、さっき玉川カルテットの身長調べたら145cm、150cm、150cm、160cmとあった。1996年までのメンバー。「あたしゃもすこし背が欲しい」の人は145cmなんだけど、ほかのメンバーもじゅうぶんに背は低い。
オール阪神さんは161cm、オール巨人さんは184cmだそうだ。この世代としては本当に巨人だったのであろう。
ちなみに僕の身長はオール中日さんくらいである。(完全に中間ではない、2cmぶんくらい名古屋は関西寄りなのだ。)
自民党の歴史を振り返る1時間半くらいの動画を30分くらい見た。
浅草橋のなじみの喫茶店に行ってブラームスのムック本読み終わった。コーヒー豆の値上げに伴い、ポット提供だったコーヒーが一杯になった。たまたまかもしれないがチョコレートも3つだったのが2つになっていた。さみしいものだがしかたない、値段据え置きにするための工夫なのだ。もう何年かで90になる店主がその決断をしたこと自体がすばらしい。インボイスも登録したらしい。まだまだ商売するつもりなのだ。『言語の本質』ちょっと読んだ。オノマトペの話しか出てきてない。
いずれもすべてひげの数のようにどうでもいい話だが、記録を残すということは非常に大事である、なんて話もそういえばした。こういう文章もあとからたぶんすごく意味を持ってくるはずだ。僕にとっては。
2023.10.19(木) 札幌1 心強い友人たち
JALは信じられないほど快適でLCCとは何だったのかという気になる。ちょっと寝不足。15時すぎに札駅(通ぶった書き方)で自転車を組み立て大通の西にある宿に荷物を置いて中島公園近くで友人と合流。キッチンバロンでランチのチキンカツ定食食べてから漂着教室に行きテイルズオブシンフォニア眺めながら山田さんと話す。ひとりZepp SapporoでCorneliusのライブを聴く。
次兄が行けなくなったので代わりに来た。飛行機もとってもらった。ゆえにJAL。おみやげにサイン入り新譜(『夢中夢』)買った。しかし兄はもう持ってるらしいのでどうしよう。どなたか買い取ってください。
ところでいまiPadでこれを書いているのですがエディタにカーソルが表示されなくなって非常に書きづらい。ストレスフルな環境。いったんメモ帳に書いてから貼り付けることにしよう。不便。いいエディタあったら教えてください。
南6西4のPというバーへ。去年までSというバーをやっていたKさんが新しく作ったお店。2時間ばかりゆっくりと話し込んだ。Mellow Wavesが2周した。いいお店なので探して行ってみてください。
彼に対して僕はかなり強いシンパシーを持っている。やっているお店の感じや商売のやり方とかは必ずしも似てはいないのだが、なんというのか、ものごとに向き合うときの根本的な姿勢に共感する。多角的な活動をいくつも並行してやりながら、決して派手に目立とうとはしない。お店の入り口も気配が完全に消されていて、入りづらいようにあえて工夫している。いわゆる「界隈」とか「つるむ」といった感覚も必要最小限に抑えているように見える。地元(オホーツク)での展開も視野に入れていたり、まだ誰も手をつけていない商材に注目していたり、Podcastやってたり、ともかく視界が広い。だいたいの人は「飲食」+「音楽(イベント)」といった、2種類の融合くらいに閉じるのであるが、彼はもっと大きく世の中をとらえつつ、「自分の人生の中に何があるべきか」という発想から離れない。ジャンルや常識など既存のものから逆算して自分の在り方を考えるのではなく、出発点が常に自分なのである。ゆえに、わかりやすく特別なことをやっているわけでなくとも、彼のやることはすべて常に独創的なのだ。
病み上がりにジェムソンソーダと北海道のジン(ohoro)を2杯ほど飲んだらけっこう十分な感じになり、宿に戻ろうかと思ったのだが、せっかく平日の夜なのだからどこか初めてのお店にでも行ってみよう。札幌のカルチャーは狭く、そこにいる人なら知らぬ人はないであろうサロンタレ目というお店に初めて入った。金曜や土曜だとイレギュラーがありうる。木曜くらいがちょうどいい。
一瞬にして気に入ってもらえた。やがて僕が夜学バーの者だとわかるや、「行ってみたくて、お店の前まで行ったことがあるんですよ(閉まってたけど)」と。「ジャッキーさん、これはもう、どっか飲みに行きましょう」ということでそのままお店を閉めて2軒まわり、またタレ目に戻ってきて結局朝5時過ぎくらいまで二人で飲んだ。
彼はどうやら僕と同じく「お店マニア」みたいなところがある。いわく、「経年でおかしくなっているお店も好きだけど、意図的におかしいことをしているお店により興味がある」とのことで、ここには完全同意。おかしい人が長年お店をやっていて、猫またやツクモガミのように神的な進化を果たすお店、それも素晴らしいのであるが、頭で考えてつくられた「唯一性」みたいなものにはまた別の感動がある。そういうお店は全国でも数少ない。
サロンタレ目も、おそらくわざと入りづらい雰囲気にしているお店である。「入りやすい店なんてくそっ食らえですよ!」なんてあえて悪態ついたら、すごく喜んでくれた。そんなノリでお店づくりや接客についてなど話していたら、「こんな話ができる人はいない!」としきりに感動してくださる。「なんていい出会いだ!」と。わかります。遠く離れた土地で、似た志の人間がめいめい良きものを目指してがんばっている、その心強さ。
何が孤独かって、いいお店をやっている人はそれなりにいても、「どのようにしてどのようないいお店を作っていこうか」ということを自覚的に常に問い、考え続けている人というのは思った以上にいないのだ。水商売の世界は本当にインテリが少ない。かつてよりさらに減ってしまったような気がする。だからこうして「考えてやっている人」と出会うのはかなり珍しく、かけがえなく、嬉しい。
無意識によって維持されている「いいお店」も奇跡のようで素敵だが、意識的に維持されているものはある意味でさらに凄みがある。自然淘汰の中でたまたま生き残ってきたのではなく、頭で考えて自力で生き抜こうとしている。普通「生き抜く」ことを優先すると、僕が考えるような「いいお店、いい場所」にはなりにくい。美意識や理念より経済を先に立たせざるを得ないからだ。美しく、楽しく、かつ持続可能にやっていくのは実に難しい。それをわかるから、そういうことをやっている人を見ると、もうそれだけで「友達!」ってなってしまう。大変っすよね〜、いやわかりますよ、って。
札幌の友人たち。漂流教室の山田さんも、PのKさんも、タレ目のDさんも、みんな「唯一」のことをやっている。ただ儲かるよりも「自分の人生の中にあるべきと信じるものを持続させる」というようなことをたぶん優先させている。夕方に会った若き友人(大学3年)も、ひょっとしたらそういう生き方を選択するかもしれない。ちなみにこの人はこないだ東大駒場の900番講堂で同じ授業(小沢健二先生)を受けた同窓生である。あんな講義を受けてしまったら、もう清く正しく美しく、体と頭をせいいっぱい使って生きていくほかない。
こういう人たちがいてくれるおかげで、僕はまた前向きに生きてゆける。一人じゃないと思える。ちなみに大学生の子以外の3人はみな僕より年上である。ふかわりょうの一言ネタで「なんで、年下とばっか遊ぶの?」ってのがあって、たまに思い出してはドキッとしてしまうのだが、意外と僕には年上の尊敬する友人たちもけっこう多いのだ。20歳の時はどこ行っても最年少だったわけだから。一方で学校の先生なんてのもやってたし夜学バーは若い人を大歓迎しているから年下の友達も非常に多い。我ながら、けっこういいバランスだと思っている。
なんだか充実してしまって、気がついたら14時くらいまで寝てしまっていた。連泊最高〜。
2023.10.20(金) 札幌2 かわいいぼく
遅く起きた朝。すごい雨。傘をさしながら自転車で、のろりのろりと進んでいく。途中のセイコーマートで合羽を購入。Mサイズしかなかった。Lのほうが絶対よかったのだが探す手間を惜しんだ。リュックを覆うと前がしまらない。ないよりはマシ。598円。
東区のGというお店に行ったのだがたぶん定休日。あるいは廃業かもしれない。明日また確かめにいく。仲の良いお店。
さらに北上し北28条まで走る。Kという喫茶店で遅い昼食をとる。サラッと書いているがあの雨の中、あの路面状況で、傘と合羽で小径車走らせるのは並大抵のことではない。だいぶ体力を消耗した。1時間半くらいそこでママさんとお話しすることになった。じゃがいもを山ほどと、お菓子もたっぷりいただき、かつ珈琲のおかわりもご馳走になった。料理は一級品。だいぶ仲良くなったので次回札幌に来たらきっと寄ろう。「お兄ちゃんかわいいねえ、あどけなくて、いい顔してるよ。モテるだろう?」なんて言われた。その通りです。75歳の人から言われるとある種の自信がついてくる。これでよし。
Fというお店は閉まっていた。いよいよ廃業したか。明日余裕があれば来るかも。
大好きな余舎で昨日の日記更新。夜になってしまった。そんな日もある。
ここのおばあちゃんにも気に入られて、なぜかあったかい、あんこの入ったお饅頭をいただいた。嬉しい。
雨は止まない。淡々と走り、札幌中央郵便局で小休憩。折角だからハガキを2通ばかり送る。そこから市電の道を西に走り居酒屋Ba barへ。さらっと書いているが本当にけっこう厳しい道のりであった。
このお店も僕にとって、札幌でものすごく大事なお店である。詳しいことは割愛。サッポロッピーおいしい。新生夜学バーでも取り扱うかも。とりわけ2〜4人で飲むなら本当におすすめだから、札幌行く人は覚えておくように。
札幌の「界隈」は狭いが、もちろんそれはいくつもある。そのことを札幌の人こそが知らない。自分の所属している小さな「界隈」を、札幌の「界隈」のすべてであると錯覚してしまっている人も多いのではないだろうか。実のところ街というのはけっこう広いのである。僕は旅人ゆえ意外とよく見える。いくつかの「界隈」の存在を、あるいは「孤高」の存在を認識できる。トリックスター的に、もっと卑近にいえばゲストとして遊べるのが地方都市の面白いところ。いろんな世界に同時に顔を出せるという、役得。
サッポロッピーで中を2杯と、赤ワイン飲んで、刺し盛り(絶品!)とパン&パテいただき、いったん宿に戻る。mayuさんありがとうございます。こういう友人がたくさんいることが僕の財産であります。
眠れなかったけど、そっから4時間くらい休憩してから、昨日お世話になった「タレ目」に行ってみる。すでに終了してて、店長だけ残っていたので、「飲みますか」となり、そこから3時間弱で4軒はしごした。そんで今は朝の6時前。
やはり僕のようなやり口をしているお店は少ない。「既存の人間関係」がその場の中心に据えられることがほとんどだし、「出会う」とか「つながる」ということに価値が置かれすぎている。全国的にそうだと思う。僕はそこのアンチというか、カウンターとして、絶対に唯一無二なことをやっていきます。応援、ご支援よろしくお願い申し上げます。
2023.10.21(土) 札幌3 なじみと出会い
寝坊して10時ぎりぎり、着の身着のままチェックアウト。いまいちシャキッとせず、すごく寒くて、1時間くらい「さてどうしようかな」と考えながらそのへんをぐるぐるしていて、無為に過ごした。くたびれが深く、もうちょっと寝たかったのですすきののスーパー銭湯に行ってみたが「2750円です」と言われてギョッとして帰った。午前中は1800円って書いてあったのに! それさえもよく見たら税込1980円だった。土曜日はそれやってなかったみたい。なるほど。
行きたかった喫茶店はことごとく閉まっていて、11時になってしまったので、二夜連続でおすすめされたZAZIというお店に行ってZAZIミートとパワードリンクのセットを食べた。とてもおいしかったがソウルフード補正は感じた。パワードリンクというのはフルーツ牛乳みたいなやつ。
喜楽湯という銭湯に入る。490円。東京都より30円安い。これこれ、こういうことでいいのだ。仮眠はいもういいや。
いつの間にやら12時半を過ぎていた。ゆっくりと東区のほうへ走ってゆく。昨日閉まっていて涙をのんだ、とある秘密の喫茶店へ。13時ごろ到着。またも閉まっていて絶望。と思いきや物音がしたので、少し待つ。扉が開いた。「開けますか?」「いいですよ」
札幌では一番好きというか、一番なじみの昼のお店。じっくり静かにお話しする。いつの間にやら、梅を甘く煮たのと、醤油で漬けたのと、梅干しと、唐辛子味噌とを、ビンやらタッパに入れて大量にいただくことに。梅やしょうがの手軽でおいしい漬け方や、干し柿の干し方などを教えていただく。家でやる。また植物を3種類ほど持たせていただいた。おうちで育てようと思う。あるいはお店に持っていくかも。
なんだろうか、こちらの店主さんとは勝手に、どこか気が合うと感じている。孤高なるところか。もしくは、ふたりとも末っ子だからか。
2時間近くお邪魔してしまった。もらったじゃがいもやビンやらでいっぱいになったリュックの上から、鉢植えの入ったナップザックを背負って自転車に乗る。そろそろ雨が降るということだったし、おなかもすいていたのでテレビ塔前の地下にある東(あずま)に行って中華丼とコーヒーを。ビッグコミックオリジナル読もうと思ったら1号前のやつだった。北海道だから遅いとか、そういうことってあるのかな。
くたびれていて、日記を書こうかとも思ったけど動けず。小一時間ぼんやりとした。地下街に直通している地下のお店だとそのまま札幌駅まで濡れずに歩いていけるので、その中でハシゴするのもありだな。しかし美貴やバロンは閉まっていた。ひのではアリ。そんなことを考えていたら雨がしばらく上がるようだとわかって、じゃあすすきのでちょっと飲むかと、odecoという小さな小さな立ち飲み屋に寄ることにした。15時から開いているのだ。
隣り合ったお兄さんが、教育学の分野で院まで行って英語科の教員になったが、別の業界で就職して北海道に来て、いまは医学部の3年生(同級生はだいたい20歳くらい年下とのこと)という妙な経歴の持ち主で、僕の夜学バーのこともかなり気に入ってくださった。ここにはショップカードを置かせていただいているので、お渡しして、足しといた。
思わぬ出会いに楽しくなって、ビールとワイン赤と白たっぷり飲んでしまった。18時すぎにお店を出て空港へ。飛行機がちょうど1時間遅れて、ものすごく体力を奪われた。不動産屋に用意していただいた書類を回収するため上野にちょっと寄って、そこから自転車でおうちへ。時刻はもう0時すぎ。おなかがすいていたのでなじみのバングラデシュ料理屋へ。僕の顔を見るなり「今日はおいしいのあるよ!」とすすめてくださったのが、揚げパンみたいなのと、からいスープカレーみたいなやつ。胃がよくないんだけどな……と思いつつ、言われるがままに買ってしまった。帰って食べた。おいしかった。たびのおしまい(ばいばい)。
2023.10.22(日) 悲しい時間
エンターテインメントの鉄則としてポーカーフェイスってのがあると思う。苦しくても悲しくても胸にしまって、「エンターテインメント」という本分を全うする。このホームページはEntertainmentなどという文字をずっと冠している。15歳の僕はなぜこの言葉を選んだのだろう? 振り返ればエンターテインメントとは何か、まるで理解していなかった。でも自分が好きなのはどちらかといえばアートでなくエンタメと直観的にわかっていたのだろう。アートよりはエンタメのほうが「伝わる」ことを重視する。どちらかといえばアートは独りよがりなものだ。
ネガティブな感情を表明することはエンターテインメントになりにくい。ならないとは言わない、キレ芸とか自虐芸とかもある。悩みを吐露する文章が多くの人に読まれることだって大いにある。ただ、やみくもに嘆いても喜ぶ人はいない。光る嘆きには技術や運命が不可欠だ。
僕の場合は原則としてポーカーフェイス。だが慎重に素直さも出したい。嫌いなのはありきたりなこと、紋切り型のこと。どっかで何度も聞いたようなこと。そこをすり抜けられるのならばどんなことでも書いておきたい。
すり抜けた先がアートなのかエンターテインメントなのか、はたまた全然別のものなのかはわからない。つたわれ~~と願うしかない。
もうすぐさすがに夜学バー(無印)が開店する予定なのだが、そこではやはりポーカーフェイスが基本となるだろう。しかし正直さや素直さをいくらか滲ませはするだろう。そこを肝として認めてくれる人もいれば、くだらぬ私情と笑う人もいるだろう。伝わるか、これもギャンブル。
今日はなんだかずっと悲しいのである。すうっと息を吸いたくなる。この感覚をどんなものにでも忍ばせておきたい。笑ってないのに柔らかいような表情だったり、沈黙で言葉を届けてみたり。
涙には輝度もあれば速度もある。重さがある。位置エネルギーを持つ。涙はかならず肌と接地している。もとをたどれば心の底にある。
伝わるはずのない、意味のない言葉。それでもすべてをすり抜けて何かが届くことはある。真理は笹舟に載っている。無数にこの宇宙を彷徨っている。一日のうち16時間くらい、そのために目を開けておく。
悲しい時間は多いけど。
2023.10.23(月) 生誕文化発表会
BAR DOCTORHEADに行って、アコースティックギターをアンプにつなげる実験をやってみた。きちんときれいに音が出た。へたくそでもそれなりに聴ける音になる気がする、増幅器はすごい。
「ドクターヘッド」とはもちろんフリッパーズ・ギターのラスト・アルバム『ヘッド博士の世界塔 DOCTOR HEAD'S WORLD TOWER』から。小沢健二さんと小山田圭吾さん(Cornelius)が組んでいたバンド。いわゆる渋谷系音楽をテーマ・モチーフとしたお店としてはいろいろ日本一だと思うし、すごく安いのでみなさんぜひとも。イベントのない通常営業の日に2~4人くらいで行ってソファ席で語らうのがいいと思います。Twitterを見るのがよいでしょう。ところは四谷四丁目、駅でいえば丸の内線の新宿御苑前と四谷三丁目のあいだ。
このお店はオーナーも店長も古い友人(歳は僕より14~19?くらい上)で、20歳のときにゴールデン街で一緒に遊んでいた人たち。それで今年のお誕生日、11月1日(水)にはここをお借りしてひとり遊びのようなことをすることにした。だれでもウェルカムなのですが、このホームページでしか告知はしないので、誰も来ない可能性が十分にある。それはそれで、やってみたいことをやってみるから問題はない。でもシャンパンとか用意しとく。(ちなみに歴史上僕のお店でシャンパンを入れたのは15年以上やっててたぶん2名しかおりません。)これを読んだ人が宣伝したり人を呼ぶのはOKなので、お誘い合わせのうえ、ぜひ。
といって、何をやるのか。どんな空気になるのか、という話になると、もう、ワクワクしますね。全員が全員、針のむしろみたいなふうな可能性さえある。そういうのを楽しむ、とまではいかなくても、覚悟しないとこういうのは来ることができませんよね。予定では19時に開場し、木戸銭は1000円。ドリンクは頼んでも頼まなくてもよいけど、暇をみてお店にあるもので適当につくって出すことができます。当日は店長もスタッフもいないのでぜんぶ僕がひとりでやります。
いちおう
特設ページも作ってあって、タイムテーブルも載せてるのですが仮、実際どうなるやら。
DJとマイクとギターで音が出せるので、だいたいなんでもできる。古い音源を引っ張り出してきたり、下手くそな弾き語りをしてみたり、カラオケ音源を流してただ歌うことだってできる。そうなると本当に、僕のことをだいぶ愛していないと面白くない地獄のようなパーティになりそうだ。ゆえにあんまりおおっぴらに宣伝はできない。なんでもいいからジャッキーさんのやることなら2時間耐えてやろうという人だけぜひ……。
特に「自作詩の朗読」は、どんな空気になるやらわからない。拍手とかされたら恥ずかしくて死んでしまいそうだ。でもちゃんと胸を張ってやりたい。
こういう会だからこそ、まったく会ったことのない人とか10年ぶりの人とかがおいでになったら、めちゃくちゃ面白いので、よろしくお願いします。観客はせいぜい数人の見込み。でも、たまにあるよね、友達のライブとか観にいったら客が自分だけみたいなのって。(黒井46億年のライブとかそんな感じだった。)あの空気を味わってみるのも、一興。
地下は電波弱いので配信はしません(できません)。
また新しい歌をつくっていこうと思っているんだけどできるかどうかはわからない。今のところ微妙。ともかく忙しい。とりあえずBUCK-TICKは何か歌おうかな。(ああ、これ書いてるのが24日だってのがバレる! その話題はたぶん、明日の日記で。)
機材の使い方や照明や映像のこと、店の閉め方などを教わって、これでいつでも店長の代わりに店に立てる。オーナーこと社長は留守だったので歩いて荒木町に行って、なじみのお店に寄る。つい最近まで喫茶店(と店主は言い張っていた)だったのだが、料理をメインとしたお店に変わった。相変わらずよいお店だった。変わっていくのはさみしいけれども、心強くもある。
何がなくなってもなくならないもの、それは友情。しかし死んだらさすがに消える。生きていてほしいものだ。
2023.10.24(火) BRAN-NEW LOVER
他人の死に心を痛めることがほとんどない。痛めるときは「他人」ではない場合だと思うが、今のところ経験はない。祖父母のうち3人は亡くなっているが、いずれも大往生であったゆえ。
夜麻みゆき先生の『レヴァリアース』というたった3巻の漫画で「シオン」というキャラクターが終盤で死んでしまった時は、頭が狂うかと思うほど泣いた。記憶では小学6年生の時である。少年ガンガンで『刻の大地』が始まった直後、上飯田(超ローカル)のワールドブックって本屋で買ったような気がする。
フィクションには心揺さぶられるのだが、現実で誰かが亡くなったと聞いてもほとんど心が動くことはない。考えてみればシオンの場合、僕の目の前で死んでいるのだ。「だれだれが亡くなったよ」と伝聞で知るのとでは差があって当たり前だろう。また、シオンは僕にとってかけがえのない友人であり、まして主人公のウリックにとっては絶対に「他人」ではない、誰よりも何よりも大切な存在だった。それでダイレクトに心を劈かれたのだと思う。たとえるなら目の前で兄が(自分のために)殺されたようなものだ。
どういうわけだか僕には人の死に対する想像力がまるでない。「ああ、もうこの世の中に○○さんはいないんだ」と感傷に浸ることがほぼない。
いつでも「自分」というものをしか出発点にできない僕は、「その死が自分にもたらす影響」というものをまず考える。橋本治さんが亡くなったと知った時はすごくショックで、結局かなり泣いてしまったのだが、たぶん「悲しい」よりも「途方に暮れる」というほうが近かった。橋本さんに対する僕の感情はものすごく、たぶんみんなの想像を絶するほど強いし、サイン会で一言二言だけは言葉を交わしたこともある。それで「悲しい」という気持ちも珍しく少しは湧いてきたのだが、それ以上に「これからは橋本さんに頼らないでものごとを考えていかなくちゃならないんだ」という「デメリット」のほうをより重く考えていた。その寂寥感とか不安、希望が途絶えたという意味での絶望、すなわち自分のために感情が大きく揺さぶられたのであった。
BUCK-TICKの櫻井敦司さんが19日に亡くなっていたという報が本日出た。アルバムでいえば『HURRY UP MODE』から2009年の『memento mori』まではすべて(つまり36年のうち22年ぶんは)揃えていたが、そこから先は持っておらず近年サブスクで聴いていた。ライブに行ったこともない。めちゃくちゃ好きなバンドではあるし、大好きな曲もたくさんある。そのような距離感。
ちなみに僕は、自分でチケットを取ってライブに行くのはメジャーなミュージシャンだと小沢健二さんくらいで、Corneliusですら他人のチケットもしくは誘われて行ったフェス的なものでしか体験したことがない。その他は基本的に行かない、在宅野郎なのだ。ただしAmikaさんとか奥井亜紀さんとか、小さい会場でやるすごく好きなミュージシャンの場合はわりと行きます。あと在学中の早稲田の学祭で1500円だった忌野清志郎のライブに行ってみたりとか単発でなんか気が向いていくことはまれにあるし、誘われたりした場合は行くこともある。ゆずの東京ドームも友達にチケットもらって行った。ゆえにライブに行ってないからそんなに好きじゃないとかそういう話にはならない。Baroque/KannivalismやPIERROTもめちゃくちゃ好きだけどライブに行ったことはない。小沢さんだけは特別に好きだし、研究家と自負しているから絶対に行く。
あっちゃんが亡くなったと知って、「そうなんだ」と思った。そういうこともあるのか、と驚いたけれども、悲しみとかつらさ、苦しさは特にない。誤解されたくないが、僕は櫻井さんのことが本当に好きである。しかし彼が亡くなったことによって僕が被る「デメリット」(あえてこういう書き方をしています)というのは、さほど多くはない。二度と新曲を聴けないこと。年を取っていく櫻井さんを見て、その外見や考え方、芸術性などの変化を知ることができないこと。「自分」というものを中心にして考えればそのくらいである。そんなちっぽけなデメリットのために、悲しんだり嘆いたり涙を流したりすることは、どうも何かに対して礼を欠いているような気さえする。「ああ、BUCK-TICKの新譜をもっと聴きたかったよう!」とかいって泣くのは、人の死に対してあまりにも矮小すぎると僕は思う。
僕はそのようにしか感じることができない。共感能力が低いのだろうか。「○○さんが亡くなった」と聞いて、ダイレクトに、なにも考えず自然に悲しくなったり涙を流したりできる人もたぶんいるのだろう。僕にはいっさいその感覚がわからない。
BUCK-TICKのほとんどの曲の作曲(たまに作詞も)を手がける今井寿さんがコメントを出していた。僕はそれを読んでちょっと泣いてしまった。今井さんは生きている人だからだと思う。
西原夢路という友人が26歳で亡くなった時も、僕はちっとも悲しくはなくて、もちろん一滴の涙も流さなかった。古い友人たちとは「ようやく死んでくれたよな」「これで世界からゴミが減ったな」なんて冗談を交わしていた。そういう奴だったのである。しかしお通夜のとき、ご両親と妹たち(みんな会ったことがある)と対面して、僕の顔を見てぼろぼろ泣きだすのを前にしたら、その場で嗚咽して泣いてしまったし、いまも思い出すだけで涙がにじんでしまう。彼らは生きているから、僕の心へダイレクトに何もかも届くのである。死んだ人からはなにも届かない。届けてくれない。それこそが死というものの最も悲しい部分だろう。
死の悲しみは乾いている。死人は涙を流さないし、必要ともしない。生きているからこそ涙を流し、必要とする。
人間に限らず、何かが喪失したという、その情報はそれ自体単に無機質なもので、受け取った人が好き勝手に感情を動かす。ただし喪失したものはもうどこにもなくて、ものを言うこともなければ、二度と僕らの心を動かすことなどない。もう「無い」のだから。そのことは単純に悲しいが、僕はそれを「乾いた悲しみ」と表現したくなる。そうか、もうそれなしで僕たちはやっていなくちゃいけないんだと、ある種ドライに、生き残っている者として、生き残っているものたちとのこれからを考える。生き残っているものどうしの交流のなかで悲しみは湿ってゆき、ときに雨のように流れる。
だから今井寿さんが「続けるからね♪」と書いたことが何よりも僕の心には響いた。今井さんは生きていて、僕も生きている。生きている者どうしだから、心を通わせることができるし、悲しませることも喜ばせることも、泣かせることもできる。寂しいことだが、あっちゃんにはもう誰の心も動かすことができない。だからこそ今井さんはそのぶん「続ける」と明言したのだと勝手に僕は理解した。
人間にはさようなら いつか来るじゃない
この宇宙でもう一度 会える日まで
(BUCK-TICK『BRAN-NEW LOVER』作詞:櫻井敦司 作曲:今井寿、1999年)
2023.10.25(水) りりちゃんは組織犯罪処罰法ームレスです
りりちゃんが逮捕されて2ヶ月。そのときの日記は
こちら。
簡単に言うと、りりちゃんという女の子はホストクラブに通うため、多数の男の人に夢を与えて(≒騙して)巨額のお金を「頂いて」いた。そのテクニックを情報商材として売っていたところ購入者が詐欺で捕まり、りりちゃんも詐欺幇助ということで逮捕された。余罪はいくらでもあるので、ここまでに詐欺の容疑で二度再逮捕されている。
そしてこのたび、りりちゃんの担当ホストと、そのお店の店員(たぶん店長的な立ち位置の人)も逮捕された。罪状は「組織犯罪処罰法」とのこと。
組織犯罪処罰法? なんじゃそりゃ、ということで調べてみると、正式には「
組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律」。やや面倒だがせっかくなので引用とかする。
第二条 この法律において「団体」とは、共同の目的を有する多数人の継続的結合体であって、その目的又は意思を実現する行為の全部又は一部が組織(指揮命令に基づき、あらかじめ定められた任務の分担に従って構成員が一体として行動する人の結合体をいう。以下同じ。)により反復して行われるものをいう。
たぶんこの場合、りりちゃん、担当、店員の三者を「団体」とみてよいのだろう。
テレビ朝日のモーニングショーという番組で玉川徹という人がこう解説している。
「ホストというシステムが女の人から多額なお金をある種、巻き上げるシステムですよね。これが大金持ちがお金を払っている分には構わないわけだけれども、そうではなくお金を持っていない女性からも無理やりにお金を吸い上げるという形を取っている場合、そのお金はどっから来るんだという話になり、例えば体を売ったりとか、闇金で借りたり、こうやって犯罪を犯したりってことにつながっているということで、警察はここにもメスを入れると。ホストクラブ自体にメスを入れるぞということですよね」(引用元
りりちゃんはダークヒーローであり、義賊みたいな側面がある。(そのようなことは2020年にすでに書いているので、ご興味のある方は冒頭に貼ったリンクから辿ってくださいませ。)
りりちゃんのしたことは犯罪であって、僕がもし立場のある人間であったら全力で「彼女のしたことは絶対に許されることではありませんが!」といった前置きを何度でもしなくてはならないだろう。立場も人気もないからほどほどにしておりますが。しかし彼女の数年にわたる「うらっぴき」ないし「頂き」がもたらした結果は、けっこう大きなものなのかもしれない。
今回、担当ホストと店の責任者が逮捕されたことによって、この法律の運用自体が変わっていく可能性がある。普通は暴力団とかに適用するもので、「店と客」のような関係に対してはどうやらかなり珍しいらしい。ホストクラブとしては初なのかもしれない(詳しい人おしえて)。
このような運用が標準となれば、たとえば売春(違法なもの)によって得たお金を、それと知りつつ受け取ったホストクラブはすべて検挙できることになるかもしれない。もちろんそれですぐに何かが大きく動くことはたぶんなくて、「派手にやってると摘発されることもあるよね」くらいの温度に落ち着いていくのではあろうが、小さくとも確かに世の中を変えたとはいえそうだ。
りりちゃんはたぶん、「世の中を変えたい」という気持ちをけっこう強く持っていた。直接話したことが二度ある(電話と対面)が、「人に何かを教えることがしたい」みたいなことを何度か言っていた。教えるとか広めるとか、伝えるといったことが好きなのだ。マニュアルを作り、SNSやツイキャスやYouTubeなどに精を出していたのもそういう動機が一部にはあるはず。そしてさらによく口にしていたのは、「女の子たちを救いたい」といった方向性のこと。僕の視点からみれば、「違法なことをしてまでホストに通ってしまう」という状況はあんまりよくないことなので、それを逮捕できるような状況(前例)を作ったりりちゃんを素直にたたえたい。もし僕が立場や人気や影響力のある人間であれば、「犯罪者をたたえるとは!」って炎上するかもしれないけど、立場も人気も影響力も少ししかない(少しはある)から、ひっそりとここで。
2023.10.26(木) 近況 準備と順序
28、29日の土日に不忍池で行われる
催しに、夜学バーとしてお酒とコーヒーの屋台を出店します。よろしければ。座って話したりもできるようになっているはずです。恥ずかしい人はこっそりテークアウトを。
昼すぎ、上野入谷口の病院に行って血液とかの検査結果を受け取る。とくに異常なしでいったん安心。380円。そこから徒歩数分の保健所で営業許可申請の事前相談。あとはオンラインでいけそう。少し戻って大好きな喫茶店で昼食をとる。上野はここですね。本当にすばらしいのだが誰にも教えないぞ! おたずねください。
それから合羽橋で数時間あれこれ見る。とりあえず使い捨てコップ類だけ購入。いいやつを選んでいるから、けっこう高いのですよ。だいたい一つ30円かそれ以上する。コーヒーに関しては蓋をつけると50円くらいになる。これはもちろん上記の催しで使います。あんまり余るとやだから、おいでくださいませ。
田原町の喫茶店で一息つく。カフェオレにした。ここも好き。新店舗の内装のことなど考える。浅草を散策してから歩いて帰った。
日記らしい日記だこと。
現在は屋台(10/28、29)、生誕文化発表会(11/1)、夜学バー復活(11月中でほぼ確定)、無銘喫茶営業(11/16)と、場所も形態も異なる催事を4つ並行して進めているので、もう何がなんやらわからない。それなのに本読んだり映画観たりもしている。日記も毎日書いたりね。あと氷砂糖のおみやげの配信が10/30(可能なら31も)なので、その編集をしたりとか。収録も近いうちせねばならない。
28、29の不忍池(上野公園の南端)のやつは特に、上水も下水も使えない野外出店なので、めちゃくちゃ大変そう。お手伝い募集してます。えー、ふつうに遊びにきて、ちょっとだけおるすばんしてくださるだけで超助かります。とりわけ28日の13時~15時にお時間あるかた、ご連絡いただくか、現地においでください(本気!)。撤収はまあ、なんとかしますが、誰かいたらものすごくありがたいです。
無理せず。
来年のテーマはたぶん「無理せずちゃんとやる」になると思う。マイペースに。
ところで、いま11/1のための音源探してたら、ものすごい名曲、名トラックがざくざく出てきた。ノイズ弾き語り(『ETHANOLISM』+α)、VIP HOP(NEWKURERAP+SARANRAP)、HIP HOP浪曲9条ちゃん、9条ちゃん主題歌、『なせそ』、あとなんかいろいろ歌ってるやつなどなど。20歳~22歳くらいのものが多い。大学2年から無職時代にかけて。病んでた証拠。めちゃくちゃ面白いしフツーに優れている部分もあるので、恥と相談しながら流したり演ったり(!)しますね。
けっこう長い間ぶらぶらしているので、なんかいろいろやっているのです。それでもまともにメロディのあるオリジナルソングを作ったのは去年というのが僕としてはちょっとした誇りかもしれない。なんか、面白がってもらえるといいな。みんなに来てほしくなってきた。恥ずかしいけど。
ノイズ弾き語りとかラップとかは音楽ができないことを逆手にとってめちゃくちゃやったり既存の曲に言葉を乗せたりってやってたんだけど、その中でも「HIP HOP浪曲」はかなりの出来だし、着実に技術や勘は研いていたのだなと思う。それがあったうえで、高校生くらいでやるような曲作りをいまさらやっているのは、ある意味では正しい順序というような気もする。
2023.10.27(金) 社会は世界を単純にする
十三夜。不忍池のほとりで月を見ながら書いています。右手からはポエトリーリーディングが聞こえ、左手からは三味線みたいなのが聞こえます。そして中央上空に月。午後8時半。
目の前に自転車をとめ、iPadをチェーンカバーの上に載せて、シートステー(と言うらしい、サドル下から後輪の中央に伸びている棒)で挟むようにして固定し、地べたに座ってBluetoothの外部キーボードでカタカタしている。それなりにイケる。工夫、人生は。
「自分だけを愛してほしい」「自分をいちばん大切にしてほしい」なんて欲求はろくでもない。世の中はそんな単純にできていない。
しかし、単純でない世の中を単純に割り切ろうというのが社会であリ、制度である。混沌としていると多数の人間が力を合わせてことをなす、ということがしづらい。「あらかじめこのように定めるものとする」という決め事、ルールが必要となる。
独占欲とはものごとを単純にするための気持ちで、これが満たされないと不安になる。不安になるから追い求める。嫉妬はその原動力としてある。
ものごとが複雑であると人は不安なのだ。できるだけ単純にしてくれ!と多くの人は願っている。その想いが社会を支えてきた。
複雑さを礼賛したいのではないが、単純なものばかりでは面白くない。「面白い」という気持ちは「気持ちいい」に近くて、多くの人がこれを追い求める。ゆえに複雑な行為に手を染める人が出てきて、単純を愛する人たちは「複雑なことすんな!」とクレームを入れる。そこには当然「お前ばっかずるいぞ!」がある。
自分だけを愛してほしい、自分をいちばん大切にしてほしい、と願う人は、平等を重んじる。「わたしはこんなに愛しているのに!」「わたしはこんなに大切にしてきたのに!」と。「単純」という世界から外れる不安に耐えられない。
たとえば恋人という二者間の関係を、どうしても社会にしたくなる。ルールを作ったり確認したりして、相互に守ることを約束する。
もちろん、これは契約というもので、弱い者が強い者と対等に渡り合うために適した方法でもある。基本的には女より男のほうが肉体的に強いはずなので、弱い側たる女のほうがどちらかといえばこの「契約」を進んで活用する。泣き寝入りなどしたくない。強い側にとっては「契約」などしないほうが、いざとなったら腕力(その他の力でもよい)で勝てるわけだから得なのである。
それで世の中では「ねえ、私たちの関係ってなんなの?」みたいな話がよく生まれる。「付き合う前に身体を許しちゃダメだよ」という有名な知恵もこの事情から生まれているのだろう。
そういう前提があって「自分だけを愛してほしい」「自分をいちばん大切にしてほしい」という発想も出てくるわけだろうが、ここからが難しい。二者間の関係を社会化して、上記二つのルールを相手に課したとして、それが相手に負担を与えることは大いにあるし、または自分にとってさえ、相手だけを愛し、相手をいちばん大切にすることは意外と難しかったりする。「いや自分はそうしている」と言い張る人もいるかもしれないが、愛するとは何か、大切にするとは何か、ということを考えると、自分がどれだけそうしたつもりであっても、相手がそう感じてくれているとは限らないではないか。そして世の中には、自分と相手以外の人間が無数にいて、その人たちとの兼ね合いも考えたうえで様々なことをなさねばならない。いくら社会は単純を求めるといっても、本当は無限に複雑であるこの世界は常に一筋縄ではいかない。
やはり、順序が違うとしか思えない。「自分だけが愛されている」「自分がいちばん大切にされている」と、自分がそう実感することが結果としてあることは微笑ましいが、そこから逆算して他人との関係を作っていこうなどということは、あまりにも自己中心的だし、難しすぎる。
自己中心的にならないために「わたしもあなたをいちばんに大切にしますから」と申し渡すわけだが、この「結果としての平等」は果たされることが結構困難だ。「大切にする」とはどういうことか、というところで、二人はなかなか一致しない。結局ちまたになんとなく流布している「恋愛のルール」みたいなのを適当に導入して、「異性と二人で飲みにいかない!」みたいなことを取り決める。お互いの生活を縛ることによって、なんとなくの平穏は訪れる。でもけっこう「〇〇さんはこっち恋愛感情絶対わかないのでノーカウント。ご飯食べながら彼氏の愚痴聞いてもらお」とか「相談乗ってって言われたから定食屋でビール飲んじゃってるけど、居酒屋やバーじゃないからセーフだよな?」みたいな形でやんわりと破られ、「それってどうなの?」と物言いがついて不毛なる「話し合い」が展開される。
綺麗事を言えば、先にルールを決めるのではなくて、お互いが自由にやっていく中で、お互いの考え方を理解しあって、自然となんとなくルール未満の暫定的パターンみたいなのが決まっていく、という順序が良いのだと思う。ただし、どっちが難しいのかというと、これははっきり言って後者なのかもしれない。自由にやっていくという複雑さのもとでは「つがい」が成立しにくいから、たとえば恋愛なる謎のルールが社会から与えられ、単純さのもとで「つがい」を作れるようにしてあるわけだ。
僕という個人はもちろん社会には向いていないので、呑気に「恋愛などない!」なんてほざいているわけだが、社会に向いている人にとっては当然「恋愛さまのおかげで
幸せになれました!」になる。「人それぞれやでえ」ということでしかない。
「自分だけを愛してほしい」「自分をいちばん大切にしてほしい」という感覚はそれなりに問題があると僕は思うが、社会にとってはわりと便利な感情装置なのだろう。社会とどのくらいの距離をとって暮らしていくか、という話になるのだと思う。
社会というのは要するに、常識のことである。
2023.10.28(土) 知るまでは死なず
「池のほとりの本のみち」という催しにこの土日、夜学バーとして出店している。湯島から目と鼻の先にある不忍池の前に屋台を出させてもらった。非常に楽しかった。思ったよりお客さんあって、嬉しいことこのうえなし。
明日は10時には屋台を完成させていなければならないので、今日こそは手短に。
いろんなお客さんとお話しするなかで、かつて夜学バーで働いてくれていたある人の訃報にふれた。訃報と言っても1年か2年くらい前らしい。詳しくは知らない、これから知るかもわからない。誰も教えてくれなかったのはなぜだろう?「ジャッキーさんは当然知っているだろう」と思われていたってことかもしれないし、共通の友人は意外と少なかったというのもあるだろう。ともあれ、唐突な友達の死に驚いた。しかし
やっぱり実感もなければ、悲しみもない。「そうか、寂しいな」である。これからじわじわ、何かがやってくるのかな。でも「共通の友達が少ない」ということは、「生きている人」が何かを届けに来てくれることも少ないってことだ。それがまた輪をかけて寂しい。
なにも知らない僕は「最近ぜんぜんお店にも顔を出さないし、連絡もよこさないし、SNSも見失ったしブログも消えているな。どうかしたのかな」とだけ思っていた。「(一時)閉店するってのにあの子は来てくれないな」とか。まぬけというか、知るまでは死なないってことなんだな。知ったから、今日、その子は亡くなってしまった。
2023.10.29(日) 電源オフ
↑の催し2日め。力尽きた。こんどたぶん続き書きます。
2日間、とても実りのある時間を過ごせた。良き出会いもあったし美しい瞬間もあった。そのようなことが起きやすいような環境づくりとオペレーションがバッチリできていたと思う。そのために頭も身体もフル回転だった。自分で言うのもなんだが、ああいう多くの人が行き交う野外イベントの小さな屋台を「場」として成立させるのは並大抵の苦労ではない。仕上がった密室でやるのとはぜんぜん違った難しさがある。消耗も激しい。そろそろ電源を切らねばならない。一人でやるのは楽しいがさすがにくたびれる。ゆきずりに手伝ってくれた人たち本当にありがとうございました。特に氷買ってきてくれた人。
2023.10.30(月) 池のほとりの本のみち まとめ
昨夜から今朝にかけては体力気力減衰しどうなることかと思ったが11時間くらい存分に寝てゆっくり家事などして過ごしたら少しよくなった。あえて病院に行かずに寝っ転がって過ごした。かかりつけのお医者様にはあす会いにゆく予定、図書館のついでに。
土日の屋台について。ラーメンとかおでんの屋台に強い憧れを持っているのでああいうことができるのは素直に嬉しい。ふだん小さいライブハウスでやってるミュージシャンがたまに野外フェス出るみたいなことでもあった。
夜学バーというお店は原則として、「SNSや噂などですでに夜学バーのことを知っている人」か「夜学バーをたまたまインターネットや道ばたで見かけて興味を持った人」が、わざわざ3階(来月からは4階)まで上がってきて重い扉を自分の手で開く、それでようやく入店できる仕組みとなっている。お店にとってこれは非常にやりやすい。お客さんはすでに夜学バーのことを「ちょっと好き」なのである。興味・関心をあえて引く必要はもうない。夜学バーの内装がさして奇抜でもないし特徴的でもない(と僕は思っております)のは、そこで勝負する必要がないからで、おかげさまで派手な仕掛けより細かな工夫に力を割ける。「落ち着きますね~」なんて感想をいただけるのも、ミラーボールとか色のついた照明とか、おどろおどろしいオブジェとかがないせいもあると思う。代わりに、小さい妖精とか二宮金次郎とかがさりげなくいる。まったく傾向のつかめない(であろう)選書の本が法則性なく並べられている。統一感のない貼り紙ゾーンがある一方で、なにも貼っていないまっさらの壁も意外と広かったりする。
ところが今回の「屋台」の場合、夜学バーは裸の状態で衆目に晒される。「池のほとりの本のみち」という大きな催しで、立地も絶好、上野公園と仲町通り(湯島の歓楽街の中心部)を直接つなぐ唯一の横断歩道すぐ隣。ここで「雑居ビルの上階、閉ざされた重い扉」というアドバンテージなしに、「事前情報」をほぼ持たない人たちを相手に商売せねばならない。通行人には「夜学バー」という名前と、屋台の見かけと、店主の様子だけが提供される。そしてメニューを見るなら見る。店側からすると「勝負」のようなものだ。同人誌即売会で、いかに目を引き、気を引き、本を売るか、みたいな感じ。
夜学バーという名前はキャッチーなのでとりあえず足を止める人は多い。あとは、第一印象で「面白そうだ」「よさそうだ」と思わせなければならない。ブースに置くものは厳選し、これまでに揃えたかっこいい、かわいい道具を持ってきた。氷もわざわざ角氷を買ってきてアイスピック(これもすっごく古くてかっこいい)で砕いた。パフォーマンス大事。ジガー(計量カップ)やバースプーンもちゃんと使って、プラスチックのカップは一個30円くらいする硬質のものを用い、グラスと遜色ない感覚でビルド(お酒のつくりかたの一種)できるようにした。生レモンとライムはその場でいちいち切った。これもパフォーマンスの一つ。
お酒はほぼすべてヴィンテージ品。具体的にはジョニ黒(特級)、サントリーのドライジン緑と青(70年代に活躍)、サントリーのウォッカ(40度、年代不明)、レミーマルタン(40~50年くらい前のものと推測)、それと現行品のジョニ黒と、いちおう日和ってアワジンも持ってきた。
コーヒーは、貝印のアルミカップを大和の郵便用のアナログはかりに載せて計り、電動ミル(これはそこまでかっこよくはない)で砕いてドリップ。湯沸かし兼ドリップポットは自動温度調整できるハリオの電気ケトルをこのために買った。紙コップは持っても熱くないターコイズブルーの、20円くらいのやつ。
ちなみにふだんは小型の手動ミルを使っている。これはパフォーマンスとして非常に優秀で、動きがあるし、手間暇と心をこめている感じがするし、自分で挽くだけでなく「誰かに挽かせる」というイベントを起こすこともできる。ただし時間がかかるので、場合によって電動を使うことにしている。(電源は主催側が発電機を用意してくださった、非常に助かりました。)
また、「街と珈琲」(名古屋市南区呼続)から卸していただいている「夜学バーブレンド」は金曜に到着したもの。コーヒーを入れるのはバリスタほどにはうまくないので、鮮度は大いに頼もしい。
もちろん本のイベントなのだから本も置いた。しかしここは一切媚びず、すっごく狭い範囲にのみ刺さるようなラインナップにした。本のイベントなわけだから、みんなが好きなような本はそこら中にいくらでもある。自分のブースに置く本は、「僕くらいしか好きな人はいない」ようなものばかりにした。といって『パーマン』とかも置いたけど。この選書は夜学バーのミニチュアみたいになっていたと思う。さっき書いたように「傾向がつかめない」のがポイント。ミステリアスでなくてはならない。「ああ、こういう感じの趣味なのね」とは絶対に思えないように苦心した。
さて、だからなんだ?という話なのである。これだけではさほどお客は呼べなかったと思う。これらは夜学バーが得意な「細かな工夫」そのものであって、今回の屋台で必要とされるのは何より「キャッチーさ」。いかに細部を固めても、通行人はそこをとっかかりにはしてくれない。ミラーボールやぶきみなオブジェみたいなものが必要なのである。
今回の成功(成功だったのである)の要因はたぶん主に2つ。「ネーポン」公式のポップを高々と屋根に掲げたことと、「50年前のお酒を再現」という貼り紙を見えやすい位置に置いたことである。「ネーポンってなんですか?」「50年前のお酒を再現ってどういうことですか?」と質問してくださるお客がかなり多かった。とっかかりにしやすいキャッチーな宣伝。ネーポンありがとう。
ネーポンのポップも古めかしいデザインだし、「50年前のお酒を再現」というのも昭和レトロブームの今とくに興味を惹かれる人が多かったのかもしれない。オールドボトルをそろえ、それを使って昔流行ったジンフィズなどを、わかるかぎり古い製法で作ってみた。味は、僕は好きだけどもっと誰が飲んでもおいしいようにできる気がするのでもうちょっとがんばります。
服装に関してもメモしておこう。小沢健二さんが東大駒場900番講堂で売っていた緑のワークシャツを2日続けて着た。作業着なので下はジーパン(ヤンオル)、靴はドラえもんのを履いたが、ブースの外からは見えないので2日目はナイキにした。ズボンも紺色のRED KAPに変えた。(900番のワークシャツもRED KAPなのだ。ところでRED KAP今年で100周年らしい、足して1000みたいな意味もあったりして。)
客席はL字に作ったが、Lの中に僕がいるような形ではなく、Lの外に僕がいるような形、すなわち「L僕」ではなく「僕L」というふうにした。屋台の形と、使用可能な面積とを勘案するとそれが次善策であるのは明らかだった。屋台本体の横に長机をくっつけただけ。
机 僕
●机カウンター
●机 ●
●机●
通路通路通路通路通路通路
↑このような感じ。●がお客。テイクアウトが多かったので5席でまかなえたし、この隣にパラソル席が別にあったりもしたので、とくに困ることはなかった。随時知らない人どうしが一つの会話に入ったりしていて、そこに知性みたいなものも結晶したりして、夜学バーっぽい感じはちゃんとあった。しかし常にうまくいったとはいえない。やはり客席の構造が最善ではないのもあるし、環境が違うといつものナッジ的アプローチも難しい。単に慣れていないというか、うまいやり方を開発できていないということでもある。どこでも夜学バー的な空間を作り出せるようになるにはもう少し静かな夜が必要だろう。
2日間で「夜学バー」の名はけっこう売ることができたと思う。その人たちが実店舗に来たとき、どうなるかというのは楽しみでもあるし、不安でもある。屋台とは違ったふるまいを僕はするだろうし、お客さんもせざるを得なくなるはず。そこはうつくしく調整されなければならない。腕の見せどころとも言える。
ともあれ復活につとめます。おひっこしのお手伝い大募集。
2023.10.31(火) もうすぐおたんじょうび
わたしのかかりつけのお医者さまに行った。胃が悪いということで胃薬系統のものをたくさん出された。
家ではあたらしい歌をつくった。三つできた。これまでに三つつくっているから六つになった。ミニアルバムが出せる。
まにあえばあしたの
文化発表会で披露します。タイトルは『学校で』『懐かしさに』『あしたのよいこ』。すべて仮題だけど、変える予定はとくにない。
『学校で』は淡々としたわけのわからないやつ。『懐かしさに』は暗くて一方通行なもの。『あしたのよいこ』はかわいくて元気なのをつくろうと思ったら怖くなっちゃった。ぜひともおたのしみに。
じつは
YouTubeにいろいろ上がっています。
0時をすぎたら僕のおたんじょうびです。おいわい待ってます!
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