少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2018.9.25(火) モテるのは義務だっつう話

 時間がないので簡潔に……と言っていつも長くなるんだけど。
 モテなけりゃならんな、と痛烈に感じた。モテる、というのは別に「恋愛」みたいな話ではなくて、やっぱ人から好かれなくては話にならないし、好きな人や好かれたい人に好かれなくてはあまり意味がない。で、ここでは「好きな人や好かれたい人にちゃんと好かれる」ということを「モテる」の基本的な意味だとします。
 モテたいと思うなら、モテるのは義務だ。
 モテたい……つまり、好きな相手や好かれたい相手に好かれたいと思うとき、ふつう人はその相手に近づこうとする。しかし、その人がモテないのならば。すなわち好かれたい相手に好かれないような人であれば、相手はその人から近づかれることに不快や不安を感じてしまうだろう。
 近づかれるほうからしたら、好きでもない相手がズカズカと近づいてくるのだから、不気味だったり面倒だったり、迷惑だったりするわけだ。
 でも、好きな相手が近づいてくるんだったら悪い気はしない。
 よって、近づきたいと思うなら、好かれなくてはならない。(っていうか、近づくのは好かれてからじゃないとダメなんだけど、それがモテない人にはわかんないんだよな??。)
 つまりつまり、モテたいと思うならモテるのは義務。そうじゃなかったら、相手を困らせてしまうもの。

 近づいていいのは、好かれてから。ストーカーとかセクハラというものは、ここを満たさない場合に発生する。
「近づく」ってのはもちろん、肉体的な接触だけを言っているわけじゃなくて。「距離感」のこと。相手の優しさにつけ込んで、ずんずん距離を詰めていく人っているけど、モテるという義務を果たさずにする人の多いこと。
 モテたいと思うなら、モテるのは義務!

 さっきね、ずいぶん乱暴な近づき方をする人を見て、勝手にすっごい不快な気分になった。その人は「モテない」だけでなく、どうも「モテたい」とすら思っていないようだった。
 この世には「好かれなくていいから近づきたい」とだけ思う強欲人間(主におじさん)がたくさんいる。厄介なことだ。
「モテたいと思うなら、モテるのは義務」と何度も書いているけれども、モテたいと思っていない……つまり「相手の気持ちなんてどうでもいいからただ近づきたい」とだけ思っている、自分の側の欲求充足以外何も考えていない欲の皮の突っ張った人間というのはおりまして、そういうのは論外。もちろんね。はぁ。

2018.9.20(木) 運命はいくつもある

 高校1年生、15歳の今日、初めて自転車旅行をした。そういうのは記念日としてしっかり覚えている。あの日にすべては始まったような気がする。そういう「あの日」をたくさん持っているから僕はこのような僕になった。そこからすべてが始まるような日は一つではない。ほんとにたくさん無数にあるのだ。運命はいくつもある。
 縦の糸はあなた、横の糸はわたし、なんて歌もあるけれども、すると事態は複雑だ。ある縦糸とある横糸が一つの平面を作るのならば、いくつもの平面が同時に織り成されているというわけだし、そういう三次元的なモノはまた同時に無数に存在するのだから、そのまま四次元、五次元ロクジゲン、延々と広がっていくような気さえする。
 ともあれたくさんの糸が同時に紡がれていく。
 そうやって繭のように僕はできあがったのであろう。
(これからもその厚みは増していく。)

 ところで僕はちゃんとモテるのです。「なんでジャッキーはモテるの?」とこないだ友人に問われてちょっと考え込んだら、「モテようとしているからだ」という答えがポンと出た。そうだ、モテようとすればモテるのだ。
 モテたいと思っているだけではモテるかどうかはわからないが、適切にモテようと努めて、それがうまくいっていれば実際にモテる可能性はかなり高い。
「モテようとする」というのは、「モテたいと思っている相手に色目を使う」みたいなようなことで、そういうセコいことを僕はしている、というわけです。あけすけに言えば。
 それは「狙ってる相手に色目を使う」では(必ずしも)ない。「こういうような人にモテたい」という時の「こういう人」のイメージを仮想モテ目標として、そういう人の目線に立って「どうすればそういう人たちにモテるか」ということを考えながら、生きていくというようなこと。
 僕は髪を染めたり立てたりしませんが、そういう自分であることによって、「そういう人」(=仮想モテ目標)にアピールしようとしている、という側面もあるわけです。モテようとする、というのはそういうことの無数の集積で、つまり「どういう自分であるか、ということを戦略的に決定する」というようなことでしょう。

 そんなふうに生きてきたと今現在主張している僕も、すでに30をすぎ、ここから急激にでも漸進的にでも、なんらかの身体的精神的な変化を迎えることは想像に難くありません。

 いったい、僕はこれからもそれでもそうやって、「モテようと」しつづけるのだろうか?
 わからないけども、そのへんについても自覚的ひいては戦略的であるだろう、ということはまず間違いがなくて、そのために自分の変化についてたぶんかなり敏感になっていくことでしょう。
 で、その変化に応じてやり方、あり方を考えていこうと思っているわけです。たとえば、「モテようとする」のではなくて、「愛されようとする」のかもしれない。「とにかく柔軟な人だと思われようとする」のかもしれない。「穏やかな気持ちを感じさせようとする」のかもしれない。ともあれそれは、ひとまず「(今の仮想モテ目標とは違うかもしれない)ある種の人たち」に向けてチューニングされ、自覚的、戦略的に行われていくのだろう、と、考えられる。

 しかし、いつかは完璧に自然に生きていくのかもしれない。
 自覚も戦略もなにもない状態になるのかもしれない。
 最終的にはそこにいてもいい。

2018.9.13(木) 上品とは、品があるとは

「夜学バーを卒論の対象にしたいので、調査させてください」と宣う殊勝な女子が現れた。僕がやっているそのお店に3週間ほど毎日常駐するらしい。先週の金曜日から「調査」を始めて、28日までいるらしい。その前もお客としてよく来てくれていたから、その後もきっと来てくれるのだろう。たぶん。そうでなければ嫌だな。
 で。自然、客がいない時間帯などにはその子と話す時間が多くなる。その子ももう一週間、開店から閉店までずっと店のことを見ているので、いろいろなことが見えてきているようである。
 水曜の閉店後、彼女と話したのは、「上品とは、品があるとは」というテーマだった。
 こういう話ができる時点で、夜学向きの人材、逸材であるなあと思わされる。以下は、彼女となんとなく話したことをもとに、僕が勝手に考えたことである。彼女の意見ではまったくない、ということは断っておく。しかしそれは彼女に文責を背負わせないために言うのであって、彼女がいなければ下記のような思考は生まれなかったのだから、我々(誰?)は大いに感謝せねばならない。

 品があるっていうのは、「周囲に適切に気を遣えているようす」をさすのではなかろうか。気を遣うというのは、とりあえずは「(他人に)不利益をもたらさないように振る舞う」ということだと思う。
 品がないっていうのは、それができていない、ということ。

 で、上品というのは、「品がある」ということが過剰になった状態なのではないか。
 そこでは「利益」が強調される。
 上品というのは、「こうしていたほうが利益があるでしょ?」というふうに主張をするものなのであろう、ということだ。
 だから下品というのも、同様に主張する。「こうしないことに利益を感じない」と。

 下品は、主張するのである。消極的な主張である。現状そうであるようなことに対して、「こうでないという状態にあえてすることに、おれは利益を感じないよ」というふうに、訴える。
 ファミレスで騒いでいる人たちは、ファミレスで騒ぎ続ける。
 つまり、下品というのは、現状維持なのであるが、いくつもある選択肢の中からあえて現状維持を選択しているのではなくて、ただ漫然と、現状維持なのである。そして、「こうでない状態に、おれは利益を感じないぜ」と主張する。

 品がない、という状態は、そこから「主張」を削ぎとったものだ。ただ漫然と、現状維持なのであるが、「利益」ということには意識が行っていない。たとえば下品には「だって楽しいじゃん?」が(暗に)あるけれども、「品がない」には、それがない。「楽しい」といった感情の自覚すら、おそらくない。ただ、自然なのだ。言い方を変えれば、野蛮なのである。

 乱暴なようだが、「自然=野蛮=品がない」なのだ。
「自然にしていても品がある」ような人は、もちろんいるが、こういうときの「自然」は「自然体」という意味で、「その人にとっては、それが当たり前」という話。「品」というものを内面化している(もう完全に自分のものにしちゃってる)ってことで、それはまずまちがいなく、学習によって身についたものである。本来的な「自然」ではない。
 人間はたぶん、生来(他の動物たちと似たようなふうに)野蛮で、学習によって少しずつそうではなくなっていく(すなわち、他人との触れ合い方や社会での振る舞い方を覚えていく)、と思う。そうだとしよう。
 そうだとすると、品というものは学習によって身についていくのである。

 品が身についていないというのは、「他人との触れ合い」や「社会での振る舞い」がへたくそ、すなわち「周囲に適切に気を遣う」が不得手である、ということであろう。

 下品とか品がないというのは、ただ漫然と現状維持なのである。何も考えていないと言ってもいい。上品とか品があるというのは、「こうすべきだ」とか「こっちのほうがよいだろう」という意志、判断があるということ。
 そういう意志や判断を当たり前に無意識にやってしまえる人は、「品が備わっている」とか「自然体で品がある」とかいうことになる。
 下品とか品がない人たちは、自分の振る舞いに対して、ほとんど意志や判断がない。と書いたら、そんなわけないだろ、意志や判断くらい誰にだってあるだろ、という声が(僕の脳内で)聞こえる。たしかに、誰にだって「こうしよう」くらいの意志はある。しかし下品とか品がない人のそれは「こうしたい」と同じなのである。「こうしよう」と「こうしたい」がスムーズに一致してしまっている、というのが、下品とか品がないということの別の側面でもある。意志=欲求で、判断=反射、という感じ。

 上品とか品がある人は、「こうしたい」と「こうしよう」が原則、分離している。「どうすべきか」「どうしたほうがいいだろうか」という検討を重ね、結果として「こうしたい」と「こうしよう」が合致した場合に、「わあ、たのしい」ということに(ようやく)なる。
 下品とか品がない人は、「こうしたい」と「こうしよう」が原則、一致している。だから原則、常に「たのしい」と思って生きている。しかし、だからこそひとたび「こうしたい」と「こうしよう」が分離する事態に直面すると、めちゃくちゃ不快になるのである。「ふざけんじゃねえよ!」と怒り出すのである。

 上品な人や品がある人は、怒らない。「こうしたい」と「こうしよう」がかけ離れていることは大前提だからだ。「こうしたいが、そうできない」がデフォルトで、「どうしよう」がすぐさま用意される。「どうしよう」とはもちろん、「現状」から脱するための自問である。

 とどのつまり。「上品とか品がある」と僕が言っているのは、「今よりよくしよう」という気持ちなのかもしれない。「今よりよくする方法はとりあえずない」と思ったときに限り、「現状維持」とか「何もしない」が選択される。

 だとすると、「肉くいてー」とかはどうなんだろう。
 肉を食えば、今よりよくなる、と思う。その気持ちは、「上品とか品がある」だろうか。
 そうなんだろうな。「今よりよくなる」と思って肉を欲するのならば。そのことが、周囲にも伝わっているのならば。
 下品とか品がない人は、ただ漫然と「肉くいてー」なのだ。



 と、ここまで書いてすぐ、「品ってのは、つまり客観性のことか」と真理を得た。
 考えてみれば、そりゃそうである。
 閉じた空間では問題がないことも、開かれた場でやれば「品」が問われる。「外からどう見えるか」ということを、意識して行動を調整できるというのが、すなわち「品がある」なのであろう。
 ファミレスや居酒屋でガッハッハと大騒ぎする人たちは、基本的には「品がない」とされると思うが、ほかに客がいなければ、あるいは、店員すらいなかったとしたら、それが「品がない」かどうかは、誰にも判定されない。
 親友と二人きりならば、どれだけ口汚く他人を罵ったって、下品だと思われることはない。
 家族の前でなら裸でゴロンと横になれる。
 一人でいるときになら、なんだってオッケーなわけだ。
「外からどう見えるか」が、問題なわけだから。

 そうすると、「品がある」というのはほぼすなわち「客観性がある」なんだけど、「客観性がある」というのが褒め言葉として機能するときには、当然上のほうに書いた「今よりよくしよう」という意識がその「客観」の目には宿っているはずだ。
 自らを客観的に見つめ、「よい」かどうかの判断をして、よくなければもっとよくするし、よい場合でももっとよくならないかを検討し、最悪でも現状維持に努める。
 これが「品がある」ということで、それがアピールを含むものになれば、「上品」と呼ばれるのではないか、という気がする。「ああいうやりかたは上品だな」と思うときは、「ああいうやりかたにはメリット(利益)があるな」と思う時であろうから。
「品があるね」というときは、もっと静的というか、おとなしい感じ。


 それにしても、「他人からどう見えるか」というのは、繊細なテーマである。「自分は他人からどう見えているか」という把握と、「自分は他人からどう見えていたいか」という欲求と、「自分は他人からどう見えているべきか」という判断と。すべてが一致すれば幸せだ。
 しかし、この「べき」の中に、常に「今よりよくしよう」の魂がなければ、「現状維持」という頽廃に身を委ねることになる。しかも「べき」の中にはさらに、「自分が他人から見られた結果、見たその他人にも利益がもたらされねばならない」という隠し文句も秘められている。いなければならない。
 たぶん、そういう使命感みたいなものが、「品がある」という世界を支えているのではなかろうか。(それは「かっこいい」という言葉でもよいのである。)
2018.9.11(火) シャカレベ

 自分にとって嫌なこと、不快なことは、起きる。そのとき、「イヤだなあ」「不快だなあ」と思う。それは自然なことだが、それで怒ったり、誰かを責めたりするのは不当だ、と冷血で乱心な僕は思うのである。
 イヤだ、不快だ、と思うのは自分の性質のせいで、自分の勝手なのに、相手にそれを押しつけてはいけないのではないか?
(2018年5月8日の日記より)

 と、書いているように、僕は原則として、「不快になる」とか「傷つく」とか「悲しい」とかいったことは、すべて自分の問題だ、と思っている。
 自分が勝手に、そうなっているのである。だから自分の「せい」なのだ。
 しかし。勘違いしてはいけない、これは「自分が悪い」という意味ではない。悪いのは常に、絶対に、不快に「させた」側なのだ。不快に「なった」側は、被害者である。「させた」側は、加害者だ。常に。絶対に。
 つまり。「なった」側がそう「なった」瞬間に、「させた」という事実が成立し、「させた」側=加害者が誕生するのである。
 すげー悪い言い方をしてしまえば、誰かが被害者ヅラをした瞬間に、自動的に加害者が発生するのである。
 自分が「不快になった」ということによって、自分は被害者となり、それをもって、「不快にさせた」者は、加害者となる。
 自分が不快にさえならなければ、加害者は生まれない。誰も悪者は生まれない。不快になるから、被害者も加害者も生まれる。悪者が生み出されてしまう。

 極端なことを申せば、殴られたって蹴られたって、切りつけられたって、「イヤだ」「不快だ」と思わなければ、やった相手はべつになーんにも悪くないわけですよ。でも、それじゃあんまりだっていうことで、刑法ってものがあるんでしょう。殴る蹴るレベルになれば、99%以上の人たちが不快に感じる。わずか1%に満たない人たちのために「不快じゃないかもしれない」という可能性を残してしまうと、抑止力が弱くなってしまい、99%以上の人たちが困る。だから一律でノーにしよう、と。
 すなわち、刑法がすぐさま反応せざるを得ないような範囲(傷害とか強姦とか)を除けば、(乱暴なりくつでまとめてしまうと)「不快じゃないかもしれない」として概ね構わないはずだ。不快かどうかは、客観的に決められるのではなくて、主観的に決めていい。だとすれば、どんなことでも原則不快に思わないほうが、全体にトクである。被害者も加害者も、生まれないのだから。不快に思ったほうが利があると判断したときだけ、不快になればいいのである。

 そういうわけで僕は、「不快になる」という事態は極力避けている。ちょっとやそっとのことでは不快にならないし、なったとして、表明はしない。表明せずに不快を解消する道をなんとか探し出そうとし、かつ、似たような不快を繰り返さないように反省する。
 これは、とってもエライやりかたであって、普通の人にはやれと言ったってすぐできることではない、らしい。どうやらシャカレベ(釈迦レベルの意、バンドではない)なのである。

 シャカレベに達している僕は、そういうふうにできるが、せいぜいボサレベ(菩薩レベル、まだ解脱できていない)にとどまっている人たちには、なかなか難しいそうな。
 怒ったっていいことなんてない。だからまあまず怒らない。シャカレベの僕はそのように、いつも柔和なおももちで暮らしている。(異論はあるでしょうが、ここはまあ方便ということで一旦そういうことにしましょう。)
 あんまり腹が立てば、シャカレベである自分はこっちの棚に置いといて(棚上げして)、いったんは鬼のごとく怒るかもしれない。でもそういう場合にしたって、たぶん僕は方便の一環として、けっこう冷静なまま怒ったように見せるんだろうな、と思う。かつてちょっとはそういうこともあった。今後はだいぶ少なくなりそうな予感。(といって、だから僕になにをしても怒られないんだヤッホーと思わないでくださいませ、極めて冷徹に、適切に復讐いたします。そういうふうにしておかないと、抑止力が働かないので。)

 いや。シャカレベって言葉を思いついたから使いたかっただけです。

2018.9.10(月) 「新しい」と「最先端」

「最先端」ってのは、「今んとこ最も新しい」ってことだと思うんだけど、「新しい」ってのは、べつに最先端ではない。
 最先端とはぜんぜん関係のないものをこそ「新しい」というのだ。
 だからより正確には、「最先端」=「いちばん最近に新しいとされたもの」となる。
 で、僕は「最先端」なんてのはイヤなのだ。「新しい」でなければ、だめ。
 よく提案されるんだ。「こういうのが、最先端なものとしてありますけど、採り入れては?」と。「最先端」となってしまった時点で、もうだいぶ古い。そういうものを採用したって、さしていいことはない。
「最先端」ってのは、「もう知れ渡ってしまったもの」のことをしか言わないので、そこにはもうすでにたくさんの人がいる。よって、「最先端」のことをすれば、まとまった人数の人たちを、呼び込むことができる。
 しかし、そこにくる人たちというのは、「最先端」ごときを魅力と思ってしまう人たちなのである。
 そういう人たちは、「新しい」には鈍感だ。
「新しい」をわかるためには「自分の判断」というものが必要なのだが、「最先端」をわかるためには、「他人の判断」がありさえすればいい。
 だから「最先端」のことを好きなのは、「他人の判断」をわかることに敏感な人たち。

 もちろん、「最先端」も「新しい」も両方わかる人もいる。
 でも、「最先端」と「新しい」を同時にやるというのは、かなり難しい。
 どっちにも見える、というくらいのものなら、なんとかなるかもしれない。

 旅行記を執筆中……というか、「書く機会をうかがっている」という感じです。なかなかまとまった時間がとれない。まとまってない時間はいくらでもとれるのに。まとめてやらないと何もできないので困ります。

 iPad Pro+Textasticで更新→成功。快適。これからiPadで更新できるぞ?。
 新しい環境ができるといろいろ試すのだが、今回面白かったのは「全角スペースの出し方」。iOS系の環境だとスペースがデフォルトで半角になってしまうため、これまでiPhoneなどでは辞書登録で対応していたのだが、それよりも「電話帳に登録」という手が有用とわかった。連絡帳アプリに「 」という人間を登録し、その読みがなを「vv」とでもすると、「っv」で「 」と変換してくれる。これはかなり楽だ。辞書登録だと全角スペースは単独で登録できないため、「 あ」とかを登録して、あとから「あを消していたのである。それよりはずいぶんとよい。
 それからTextasticというアプリは、ctrl+hでバックスペース、ctrl+dでデリート、ctrl+mで改行、などが実装されている。これも非常に便利。今のところさして不便がない。ほんとはctrl+gでデリート、のほうがよかったけど。
 あとは、自分でショートカットキーをカスタマイズできたら言うことないんだけどな。PCでは変則ダイヤモンドカーソル(ctrlと特定のアルファベットキーに上下左右の矢印キーをあてる)を使っているので、それはぜひともほしいところ。

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