少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2018.10.30(火) 

 日記がとぎれている。めずらしく近況報告でもしよう。

・お店
 夜学バーにはだいたい週に4?5日くらい出ています。
 めちゃくちゃ楽しいんだけど、やっぱり週に3?4日くらいにおさえたい。あと1人、ゆうしゅうな店員さんがいてくれたらいいんだけど。あんまり給料だせないし、やっぱり「ゆうしゅう」でないといけないので、なかなか。いま夜学にいてくれている人たちは、みなゆうしゅうで助かります。真水で行きたい。

・旅行
 ライターの仕事の出張もあわせると、今月は静岡?山梨、新潟×2回、大阪・奈良と、いろんなところに行っております。夏に高知行ったりしたこともまだ書いていないし、名古屋もまた新たに巡ったりしたので、いろいろ書きたいことはたまっている。うーん、でもそういうのはべつの形で昇華するかもしれない。
 いずれにしても雑事にとらわれなかなか文章書く時間がとれないので、やはりマネージャが必要。僕は本気です。

・仕事
 お店についてはあまり仕事だと認識していないのですが、いちおう少しだけお金はもらっております。ライターとしては三社と取引(!)していて、それぞれ教育系、漫画系、芸能・エンタメ系のライティング。あちこち取材行ったり奥付に名前が載ったり印税がもらえたり(予定)、なんかそれっぽいけど、先生をやめたぶん仕事を頼んでもらえるようになったという話。
 印税案件は2方面から計3件くらい話があるけどまだ信じていない。一生に一度は印税ってもらってみたいよね……。もらえるといいな。
 先生の仕事も、ゆるっと頼まれていることがあって、春までには何かうごくかも。「ジャッキーさんうちの子供の話し相手になってあげてください」みたいな家庭教師依頼はないものか。僕は本気です。

2018.10.10(水) エスケートゥー

 早稲田はSで慶應はK、というかんじがしますね。
 散歩と筋トレの続き。

 考えてみれば、経済も経営も企業も起業もKなのだ。
 芝居、小説、詩、政治、先生……このへんはS。
 医者(医師)もS? 医学部は慶應にしかないけど。

 喫茶店はKSTがすべて入ってバランスよく、カフェはKのみ。
 会社はKS。
 社会はSK。
 世間も世界もSKだ!

 よのなかはどうも、SとKとでできているらしい。
(ジャニーさんはすごいなあ。)

 早稲田大学は略すとき早大と言うけど、わざわざSを最初に持ってくるあたり、意識的、という気がする。やっぱり人は、Sの音が好きなのだ。たぶんKの音も。
 コーヒーはKなんだなあ。
 酒はSK。
 米はK。

 Kはカタくてカッコいい。Sはさっぱり、さわやか、すっきり、スムーズ、そんな感じ。
 そう思うと「カワイイ」がKなのはふしぎというか、おもしろい。
 カワイイと対になるものが、オシャレとかシャレてるってことなのかもな。こっちはS。
 洗練もSだ。素敵はSTK、素晴らしいはS。
 優しさはS。
 怖いはK。でも恐ろしいはS。
 こういうことを考えていると本当に面白い。
 考える、思考、意思、意識、こういうのもKやSが入り込む。

 少年Aの散歩は、SSですね。

 スピリチュアル(S)なことを言っているのではなくて、本当にこういう、音に対する感覚とか意識ってのは人間にはあるんだろうし、KやSの入った言葉や名前が多いのはやっぱそういうことなんだと思うのだ。みんなKやSが好きなのだ。カールルイスとかスティーブンスピルバーグとか。

 そういえば、KはKで、先生と静(お嬢さん)はSですね。「奥さん」のみ、KS。「私」もSだし、なんなら青年もSだ。心はK。漱石はSSK。

2018.10.09(火) 泰作・都留(先生)

 ある珈琲屋に行った。店主と話して、ひとつ啓けた。ため、しるす。

 ちょっと前にあるバーに行った。ほかに客はなく、マスターがおいしいジントニックの作り方を実演してみせてくれた。うすはりタンブラーに氷をたて、ライムをしぼり、ジンとトニックをそそいでとにかく混ぜる。混ぜる。混ぜまくる。炭酸は思ったほど飛ばない。あきらかに味に一体感が出る。それはもうあまり混ぜなかったものと同時に飲み比べてみたら瞭然だった。
 文章うまいな。(唐突)

 日本は、削る文化である。引く文化である。その通りだと思う。味に関してもたぶんそうだ。
 おいしさというのは何か? 珈琲屋の店主いわく、「舌離れ」だという。ビール業界がかつて喧伝していた「のどごし」とか「キレ」に近い。仏教だと「空」とでも言うのだろうか? 飲んだ瞬間に、味が消えること。それが究極のおいしさなのかもしれない。一瞬ののちにはまたふたたび、新鮮なおいしさを味わえる。
 おいしさというのは、あるといえばあるが、ないといえばない。味も香りも苦味も酸味も、おいしさとの直接の関係はない。おいしさとは僕のことばでいえばたぶん、澄んでいること。それに尽きよう。きれいな空気をすって「おいしい!」と思うのと同じ。
 どんな味でも香りでも、中心に「おいしさ」が据えられてなくてはならない。

 一般には、日本酒は米を削れば削るほど澄んだ水のような味になる。そもそも白米というものは玄米を精米してできあがる。それこそが日本人の「削る」文化の象徴だろう。世界中かなり多くの食文化は、スパイスの文化であって、足すとか増やす(らしい)。白米に水入れて炊く、というのが根幹にある日本人は「素材の味」というシンプルさが大好きだ。
 コーヒーから空気まで、あらゆるモノのおいしさは「澄んでいる」ということ。口に入れるものだけでなく、目に入るもの耳に入れるもの、おおむね結局はそうなんじゃないだろうか。中心には核としてまずそれがあって、残りの味付けはすべて「好み」の問題でしかないのではなかろうか。
 澄んでいるものの上に載せられてこそ、そのものは引き立つ。というような。

 僕は雑だとか雑然といったものがずいぶん好きなのだが、それは結局のところ「澄んでいる」という状態が基盤にあったうえで、うまく調和やバランスがとれている(美意識が適切に機能している)ようすが好きなのだということなのであろう。雑でもいいが汚くてはいけないのだ。
 とても美しい、澄んだ状態の上に、オモチャをひとつずつ置いていく。置くごとにバランスが少し崩れる。だからまた次のモノを置く。それを永遠に繰り返し続けるのが、生きるということなのだ。
 とても美しい、澄んだ状態の上に、記憶を、感情を、行為を、経験を、積み重ねていく。それが人格であり、人生なのである。美意識をもってそのバランスを美しくとろうと常に努め続けていなければ、必ずや醜いものとなる。

 何もないシンプルなお店も美しいが、いろんなものが降り積もって雑然としたお店が、なぜだか全体として一体感をもった素敵な雰囲気を醸し出しているとしたら。それはやはり同様に、いや僕の「好み」としてはまったくそれ以上に、美しいと思ってしまう。
 歴史のない美しさと、歴史のある美しさと。


 店の歴史、人の歴史。僕は歴史が好きである。時間を愛しているものだから。


 一体感のあるジントニックは、すなわちバランスが取れているということだ。
 だから、「舌離れ」というものがある。
 澄んでいるのだ。
 澄んでいるといえばもちろん水こそが澄んでいるものだ。しかし、氷とライムとジンとトニックとを混ぜたものでも、同じくらい澄んでいるものは作り出せる。「ウデ」さえあれば。「ウデ」というのは、すなわち美意識とその運用、ということである。

 生まれたときには真っ白だとしても、すぐにいろんなものが付け加えられて、アンバランスになる。そのアンバランスをならしてまっすぐにするための時間が、人の一生というもので、そのために美意識を身につけることが必要で、だから美しいことを学ぶのだ。

2018.10.08(月) 散歩と筋トレ

 男性(と、ここでは割り切って考えてしまいましょう!)には、二種類いる、とする。
 それはたとえば、「散歩」型と「筋トレ」型だ。
 散歩は外(自分以外のもの)を志向し、目的や目標を伴わない。(遠心的)
 筋トレは内(自分自身)を志向し、目的や目標を伴う。(求心的)
 散歩型の人は、「筋トレするくらいなら散歩したほうが実りが多い」と思っている。
 筋トレ型の人は、「散歩するくらいなら筋トレしたほうが効率が良い」と思っている。
 僕は散歩が好きで、人生のすべてがほぼ散歩で、筋トレはやってみようとしたことは何度もあるけれど3日と続きません。(ラジオ体操は数ヶ月くらい続いたことがあります。)
 あなたはどんな男性ですか。どんな男性がすきですか。

 この話はほんっっとに長くなるんだけど、ひとつだけメモしておく。
 ジャニーズからデビューしたグループは大別して「S」型と「K(+T)」型に分けられる。

 S型……少年隊(Tが入ってはいるがKがないため、Sが強いと判断)、SMAP、嵐、NEWS、Hey!Say!JUMP、Sexy Zone、A.B.C.-Z、ジャニーズWEST(少年隊に同じ)  K(+T)型……光GENJI、男闘呼組、TOKIO、KinKi Kids、関ジャニ∞、KAT-TUN(カトゥーン)
 混合型、または分類不能……忍者(少年忍者はS)、V6、タッキー&翼(タキツバと略すとSが消える)、Kis-My-Ft2、King&Prince(キンプリと略すとSが消える)など

 カミセン、トニセン、NYC、修二と彰、トラジ・ハイジ、舞祭組……などもSKTが入っている。デビューしてないものの中でもFour Tops、Snow Man、Lone-tune(ラブトゥーン)などSKTの入っている場合が多い。They武道(この名前だいすき)やYa-Ya-yahなどSKTのないものは稀有かつ短命で現在までにたいがいは解散ないし雲散霧消している(違ったらおしえてください)。
 S型は中性的、K(+T)型は男性的である。象徴的にわかりやすいのはSexy ZoneとKAT-TUN。一般に、Sの音は爽やかで清涼感があり、KとTは硬くて頼り甲斐がある感じがする……と、思う。

 な、何が言いたいかというと、散歩(SAMPO)はS、筋トレ(KINTORE)はK(+T)ですよね、ということ。
 散歩は中性的であり、筋トレは男性的なのだ。(だいぶ乱暴な話であることは承知しております。)
 しかも、冗談ついでに申せば、SAMPOはほとんどSMAPではないか!!
 というわけで、世の中の男性を二種類に分けたとき、散歩型と筋トレ型に分けられるわけですが、それはほとんどすなわち、ジャニーズグループのネーミングとも重なるのではないか? というKASETSU(KST!!)なのでした!!

 ちなみに僕は完璧な散歩型で、9thシングルまでのSMAPとSexy Zone、あと安井謙太郎(SKTだ!)くんが好きです。

2018.10.07(日) ビルトイレ

 ある愛しい女の子が「お手洗い」と言うのを聞いてから僕はトイレットのことを「お手洗い」と言うことに努めているのだがそんなことを明かすと僕が「お手洗い」と言うたびに見も知らぬ女の子の顔を思い浮かべてギャーってなる人間が未だに少なからずいるという可能性を考慮して以上の内容はすべて撤回いたします。

 僕は静岡の街を徘徊していて非常にお手洗いに行きたくなったのです。
 そんでミリマ(ファミリーマート)に駆け込んだのですそのファミマに(もうファミマ言うてるやんか)お手洗いはあったのですしかし「防犯上貸し出しておりません」と張り紙にて宣告されておりました。
 そこで僕は店員さんをつかまえこう言うべきだったのです。「我慢できる範囲を超えています。」
 しかし諸氏に意外だったとしても僕は引っ込み思案のコミュニケーション障害状態人間感覚所有者であるため言えませんでした。
 よって用をプラスするプレイスをファインドするネセシティにナローられたのです。
 まちがえました。狭→迫
 しかし僕はビルトイレをしっていました。
 どんなビルにもトイレはあります。
 だから切羽詰まっているとき、すべてのビルがトイレに見えます。
 ところがあらゆるビルのあらゆるトイレが確実に公開されているわけではありません。
 先のミリ魔のように遮断されている場合も多々あるのです。
 しかし僕はビルトイレを知っています、だから一目でわかるのです。
「この構造のビルは、トイレが解放されている!」と。
 果たせるかな、ミリマの向かいのビルを見ました、二階にしゃぶしゃぶの店が入っていて、くねる階段がそこへ続いています。それは練馬区の練馬駅から西へちょっと行ったらへんのガストに構造が酷似していました。そして僕は思い出したのです。「こういう構造のビルにテナントとして入っているお店にはトイレが単独で存在せず、店の外に出て共同のトイレを使用するようになっていることが多い!」と。
 高田馬場駅の早稲田口正面にある芳林堂ビルの地下にカンタベリという喫茶店があり僕はよく利用するのですがこのフロアも同様の構造です。カンタベリ滞在中に催すと一度、店の外に出ねばなりません。デパートのレストランフロアも大概そうですしそういう商業施設は多くあります。ある時期に流行った建築なのでしょう。建築あるいは建築史に詳しい方ならいつごろの流行かわかるかもわかりません。
 というわけで僕はだいたいなんとなくビルの外観を見ただけで、「このビルの建築年代と構造からして、トイレが店から独立している可能性が高いな?」ということがわかるのです。
 もちろん、そのしゃぶしゃぶの店の入っているビルの、しゃぶしゃぶの店が入っているフロアの奥に、トイレットはありました。神保町と竹橋の間にある「未来食堂」という僕の旧友がやっているお店もビルの地下なのですが同じ構造です。トイレは店舗の奥にあります。
 そういうのは本当に直感的にわかるものなのです。おかげでこの静岡の夜は非常に実り多く楽しいものになりました。もし僕にこの智恵が、直観が、備わっていなかったとしたら……いったいどんなことになっていたのか、考えるだけで身の毛もよだつ事態です。くわばら、くわばら。
 なんというのか、そういうのを野生の感覚というのでしょう。僕はだいぶんそういうのを身につけています。実感できました。今日はそれだけです。

2018.10.4(木) 若おかみは小学生!

 おもしろかった! 超名作! ということは置いといて。
 山本正之さんに『黒百合城の兄弟』という、18分におよぶ浪曲のような物語仕立ての長い曲がある。僕はこの曲が小学校低~中学年くらいの頃からめちゃくちゃ好きだった。『あああがらがらどんどんどん』というライブ盤で聴くことができる。歌詞はところどころ間違っているものの、ここにまとめられている。
 僕の無数にある原点のうち一つは、間違いなくこの曲だ。

 現代の三河地方に生きる正之少年がなぜか戦国(?)の世の中に迷い込み、黒百合城の城主の次男「陸太郎」となる。陸太郎には尊敬する「空之介」という兄がいるが、若くして戦死してしまう。「陸太郎、次の世で、おなごか、友か同胞(はらから)か、いかなる姿に変わろうとも、次の世で、また会おう。さらばだ!」
 残された陸太郎は城を守り米寿まで生き、天寿を全うしたところで現代に戻って、「正之」として目を覚ます。すべて夢だった、という話なのだが、ちょっと違うのがこのあとのところ。正之のじいちゃんもかつて、黒百合城に行っていたらしいのである。

そうかおんしもとうとう あそこへ行ったか
人とともに生きること 知ってしまったか
これからの人生 苦労するぞえ
やさしい人を探して 歩くぞえ

黒百合城の兄上が ゆらめきながらほほえんだ

それからすでに三十年 すぎたけど
友達 仕事の仲間 教え子たちに
ときどき 心がキラリ 光るヤツがいる
こいつこそきっと……

黒百合城を知ってるね
あの人々と生きたよね
もいちど会えるね いっしょにね
いえいえ今も いっしょだよ

 僕も、幼くしてこの『黒百合城の兄弟』という曲を聴いてしまったがゆえに(つまり、黒百合城へ行って、その世界を生きてしまったがゆえに)、「苦労」しているのである。「やさしい人を探して歩く」ということを、ずっとしている。

 ちょっと話は飛ぶようだけど、物語ってのは、「おはなし」っていうものは、「やさしい人」とか「すてきな人」というものの、ひな形を与えてくれる。「すばらしいこと」「かっこいいここと」「かわいいこと」といった価値観も、植えつけられてしまう。そのせいで僕は黒百合城にいたような人たちのことを、ずっとずっと探して生きている。
 もちろん、たった18分の曲の中に、すべてが書き込まれているわけではない。僕の「黒百合城」には、たとえば岡田淳さんの作品に出てくる人たちが、みんな生きている。『宇宙船サジタリウス』のトッピーやラナやジラフも、シビップもそこにいる。これまで出会ったあらゆるおはなしのなかの、あらゆる素敵な友達たちが、全員いる。そういう場所に行ってしまった僕は、もう「苦労」するしかないのだ。「やさしい人を探して歩く」ということを、死ぬまでし続ける。

 そんくらいすてきな「おはなし」と、出会ってしまった。
 やられてしまった。

「人とともに生きること」を知ってしまった。
 そういう「関係」のひな形を知ってしまった。
 そうなると、もうそういうふうにしか生きていきたくなくなる。
 だからそういうふうにしている。

 人と出会うことは、ひょっとしたら「再会」にもなるんだ、ということを、僕はたびたび書いている。その感覚の根源は、『黒百合城の兄弟』だ。
 前世、というスピリチュアルな話がしたいわけではない。そうじゃない。黒百合城に行った人は、黒百合城にいた人たちを探して生きているのだ。だから、そういう人と出会えれば、それは「再会」でもあるのである。
 で、それは実際のところ、幼少期にふれた「おはなし」のなかから形成されるところが多い。もちろん家族や友達との現実の付き合いだってそれぞれの「黒百合城」に大きな影響を与えるけれども、しかしそれに負けないくらい、「おはなし」の力も強い。で、「おはなし」にあまりに影響されすぎてしまうと、きっと僕みたいになってしまう……。
 僕はトッピーやラナたちに会いたいのだし、「新宇宙便利舎」(『宇宙船サジタリウス』の主人公たちが経営する会社)に入りたいのである。そのためにそういう人たちを探しているし、自分でそういう場を作ろうともする。もちろん、まったく同じ人と出会うだとか、まったく同じものを作るだとかいう意味ではなくて。「ああいうのってほんとにいいじゃん」って本気で思うその気持ちにしたがって、人付き合いをしたり仕事をしたりする。
 僕はすてきな人と出会ったとき、「再会」だと思う。「この人は黒百合城にいたんじゃないか?」と思うのだ。実際に会ったことはなくても、「実はわたしも黒百合城にいたんです!」くらいのことはあるんじゃないか、と。

きっと「レモン糖の日々」に訪れてくださる方は男女問わず、年齢問わず、「オリーブ少女魂」を持っていらっしゃるはず。
それは、オリーブを読んだことがなくても、数回しか買ったことがなくても、生まれ持った「オリーブ少女魂」というのも
存在すると思うのです。稀にいつから読んだか、読んだ期間の長さ、というのを「オリーブ少女」の基準にする人がいますが、
私は「オリーブ」のエッセンスをもともと持っている人もいる、と思うのです。
「レモン糖の日々」を応援してくださるような稀有な人はおそらく、「オリーブ」のセンスや嗜好を生まれもってもっているか、
自然と身につけているか、オリーブを読んで身につけた人にちがいないのです!
「レモン糖の日々」2012.7.5

 レモン糖さんの言葉にあわせて「黒百合城魂」というようなものがあるとすれば、僕と気の合う人、仲良くなるような人というのは、どこかで「黒百合城」のセンスや嗜好を生まれもってもっているか、自然と身につけているか、『黒百合城の兄弟』やその他すてきなおはなしによって身につけたにちがいないのです!
 黒百合城のエッセンス、というものがあって、それはもちろん僕が適当に恣意的に名づけているものにすぎないんだけど、そういうすてきさ、「人とともに生きる観」みたいなものがあって、それを持っている人との出会いを、僕はどこかで待ち望んでいるし、僕が偉そうに「教育」なんつって言っていることのほとんどすべては、そのエッセンスをどうにか身につけてもらおうという、ある種せこい考えでしかない、のです。
「だけどそいつが アレをもっていたら 俺は差別しない OH つきあいたい」とRCサクセションは歌っておりますが、僕にとっての「アレ」ってのはその、黒百合城のエッセンス、だというわけ。

 ぐるっと話は回転するが、人は死ねば生まれ変わる。
 もちろん輪廻転生の話ではなくて。
 ある人が死んだら、その人とは違う誰かと出会えるのだ。
 Aさんが死ぬまで、Bさんとは出会えない。そういうBさんがいるとしたら、それは「生まれ変わり」と言えるのかもしれない。
 Aさんが死んでも、亡霊のようにAさんのことが心に残り続けているうちは、Aさんは「成仏していない」という状態になって、それによってBさんと出会うことはまだできない。
 Aさんのことを成仏させられたとき、はじめてBさんと出会うことができるようになる。と、すると、なんだかBさんってのはAさんの生まれ変わりであったっていいような気がするのだ。急に僕は。
 もちろん、Aさんの生まれ変わりが一人であるとは限らないし、人間であるかどうか、生物であるかもわからない。
 なぜならば、そう、もちろん、Aさんの生まれ変わりというのは、「自分」の心の中に生まれるものだからだ。(心の中にある光!)
 Aさんが生きているうちは、「自分」の心の中に「生きているAさん」がいる。それを「死んだ」と認めることができたとき、「生きているAさん」は消えて、溶けて、そのぶんは「何か」になる。それが「生まれ変わり」と僕が言っているもの。

 映画『若おかみは小学生!』のラストシーン。幽霊のウリ坊と美陽ちゃんがおっこの前から消えてしまう寸前(おそらく)のところで、幽霊のふたりは「生まれ変わり」を口にする。正確なせりふはわからないが、「生まれ変わって必ず会える」くらいのことを言う。
 僕はそれは、絶対にそうだと思っている。
 逆に、ふたりが幽霊でいる限りは、「生まれ変わったふたり」には会えないのだ。
 ふたりが成仏(たぶんそういうことでいいんだと思う)して初めて、ふたりは生まれ変わることができる。スピリチュアルな意味ではなくて、おっこちゃんの心の中で。
 うり坊にも美陽ちゃんにも二度と会うことはできない。そのことは寂しい。でも、ふたりのことを忘れることはない。大切にしたまま、「生まれ変わり」にもまた会える。再会できる。
 それが生きていく、ということなのだ、と僕は思ったのでした。

 死んだ人とともに生きる、ということはどういうことか、ということ。
 おっこちゃんは両親を事故でなくしている。でも、「二人は一緒にいる」というようなことを、何度か口にする。
 そう、死んだって一緒にいることはできる。ともに行く、ともに生きる、ということは。
 その上で、「死んだ」ということにちゃんと決着をつけることができれば、「生まれ変わる」ということだってあり得る。

『黒百合城の兄弟』にある「もいちど会えるね いっしょにね いえいえ今も いっしょだよ」というのは、レモン糖さんの言う「オリーブ少女魂」とかなり似ている。オリーブを読んだことがなくたって、初めからそれを持っている人だっているのだ。
 一度も会ったことがなくたって、ずっと一緒にいるような人はいる。
 もう会うことができなくたって、ずっと一緒にいるような人もいる。
 オリーブという雑誌はもうないけれども、その魂は「オリーブ」が存在するより前からずっとあって、なくなってからもずっとある。だから、1000年前にもオリーブ少女はいたかもしれないし、21世紀生まれのオリーブ少女だっていておかしくない。
 人間というのもじつはそのくらいユニバーサルなもんなんじゃないのか? という話を僕は長々ずっと書いているわけだ。
 Aさんという人がいる。Aさんの魂は1000年前にもあっただろうし、これからもずっとあるのだ。魂、とかいうとスピッてる感じだけど、きわめて冷静な思考実験として、「あるひとつの価値観は永遠に近いくらい長く存在する」ということは、言えるんじゃないか。たとえば、やさしい、とか。
 やさしい、ということは1000年前からあるかもしれなくて、それをぐにゃぐにゃと形を変えながらも人々は受け継いできた。「なかよし」ということだってそうだろう。

 おっこと「なかよし」であったウリ坊と美陽ちゃんは死んでも、「なかよし」は残る。そしてその「なかよし」を一緒にやれる人がもしいたら、それは「生まれ変わり」って言ってもべつにいいんじゃないのか、とか。それを「覚えている」と言ってしまっても、何も変なことはないんじゃないか? と。前世とかってのは、結局そのくらいの意味において、絶対に存在する。

「Aさんが死ぬまで、Bさんとは出会えない」と先に書いたが、なぜそうなのか。それはもちろん、Aさんの死によって「自分」が変化するから。
「自分」がもう、Aさんと会うことがなくなるから。
 そうでなければ出会えないBさん、というのが、Aさんそっくりであるかどうかは、わからない。何も似ていないかもしれない。そしてBさんは、何千人もいるのかもしれない。
 もしくは、Aさんが死ぬことによって出会えたBさん、というのは、実はすでに知り合いではあったBさんの、新しい側面が見えるようになった、(自分にとっては)新しいBさん、なのかもしれない。
 わからないが、人が死ぬってのは、そういうふうにちょっとした影響を与えるものだ。だから、それが回りまわって「生まれ変わる」というような事態にもなる。
 死ぬことによって、周囲に(あるいは、ある個人に)与える影響の総和が、「生まれ変わる」ということの究極の答えであろう。で、その総和のうち、それなりの分量がある個人に集中する、ということは、ないこともなかろう。それを精一杯スピリチュアルにシンプルに表現したものが、輪廻転生。極論、そういうこともあるだろうってことで。

 映画『若おかみは小学生!』は、両親の死と、親友になった幽霊ふたりの成仏と、四人の死が描かれる。まあ、成仏したかに思われて実はまだこの世にいました~みたいなことが可能な終わり方にはなっていたように思う。(その余白も僕は好きだし、それが許されるくらいには子ども向けコメディとして成功していたはず。『ふたりはプリキュア Max Heart』の最終回みたいに。)
 ありふれた言い方をすると、主人公のおっこ(織子)ちゃんがそれらの死を受け入れて前を向き、現実でも二人の親友(真月さん&グローリーさん)を得る(鈴鬼くんはたぶん相変わらずいる)、という話なわけだ。そのうえ、成仏したふたりの生まれ変わりとは、ゼッタイの約束をしている。前途は明るい!
 ありふれていない観点から書くと、この「受け入れて前を向き」の内実。ほんとに満ち足りている。両親も幽霊たちも死につつ生き続けるし、かつ生まれ変わるのだ、というふうに、死を受け入れつつも完璧に死を否定している……ように僕は感じた。死を克服するためには、死を否定することがどこかで必要なのかもしれない。古代から人が墓をつくり、宗教を求め続けているように。
 そしてその死生観を、僕は「その通り!」と見た。
 人は死ぬが、人は生き続ける。人は生まれ変わる。
 そこに僕なりに付け加えたいのが、今日だらだらと書いてきたことたちだ。生まれ変わるといっても、神が手を加えて、前の人格がそのまま転生するわけではない。
 死を受け入れた人の心の中に、「生まれ変わり」ができあがるのだ。

2018.10.3(水) 幸福について

『闇金ウシジマくん』フーゾクくん編のなかで、「本当に幸せだったら、わざわざ言葉にして、彼氏自慢する必要ないじゃん。」というセリフがある。
 ああ、もう本当にその通りで、僕は僕自身の幸福を自分のなかでだけ秘めていられたら最もそれで心地がいい。
 そのために深呼吸というものがある。煙草はいらない。ただゆっくりと息を吸って吐く。自分のなかにある幸福を、自分のなかでだけ燻らせる。幸福な空気が、肺の内で胃の奥で、ぐるりと渦をまく。麻薬みたいに酔わせてくれる。
 誰からも邪魔をされたくない。だから僕は僕の幸福をあまりおそとに持ちだしたくない。
 幸福とともに出かけることは好きだ。幸福を携えて友達と会うことも。だけどそのとき、僕の幸福は僕のなかで眠る。また別の楽しさとか、嬉しさとか、心地よさといったものたちに、代わりになって踊っていただく。
 僕はたったひとりのときにだけ、大きく息を吸う。
 そして吐く。
 そのときのようすは絶対に秘密なのである。

 あまりいいことがないんだ。「私は幸福だ!」と主張することに。あるいは、「私の幸福の秘訣はこちらです」と紹介することに。
 それは「私の事情」であって、「その場の実情」とはまったく関係がない。ただ「話のタネ」にでもなるだけだ。そしてそのタネは自分と誰かとによって消費され尽くし、しゅっと咲いて、すぐ萎えて枯れる。で、またちがうタネをわれわれは育てる。タネがなくなれば、家まで取りに戻ったりする。むりやり収穫しようとさえする。あほくさいことだ。

 それは不幸も同じことである。僕の不幸は僕のなかでだけ花を咲かせ実をつける。
 毒々しい色の花。触れれば棘に血を流す。しかしその実に罪はない。魔族の血を引く子どもでも、ツノのほかは僕らと変わりゃしないのだ、というふうに。
 悲しみは僕を孤独にする。喜びも僕を孤独にさせる。
 そうやって胸のなかはいつも何かに満たされている。秘訣と言えばそれが秘訣だ。
 モテの秘訣もそこにあるのだ!(ぉ

 頭の中ではいつもオーケストラやビッグバンドが広大な大地とそこに棲む数多の生命、みたいなもんを奏で続けていて、胸の中ではいつも孤独なシンガーソングライターがアコギ弾いてラ~とか言っている。
 それは僕にだけ聞こえていたらよいもので、誰かに聞かせるものではない。だけども僕はそのリズムで生きている。その光景を「よし」として、虹の橋を歩きつづける。美意識の上を。

 今日は103の日。高校一年生のとき僕はイチマルサン(我が母校では1年3組のことをこう呼称する)だったから、この日はちょっと特別なのだ。
 友達、ということが何より大切だと思う。そのくせ友達のことを大切にできないタイミングもけっこうあって、失礼をしている人には機会を見つけて謝ってまわりたいとは思っている……。

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