少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。
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2023.6.6(火) 信州紀行 6/3-(1)
2023.6.8(木) 信州紀行 6/3-(2)
2023.6.19(月) 夜学バー閉店騒動始末の中間
2023.6.30(金) お散歩遠く
2023.6.6(火) 信州紀行 6/3-(1)
【3日(土) 東京→松本】
夜学バー閉店騒動の渦中であるが、この日から長野に行くことは決めていたので敢行した。すでにえきねっとトクだ値で30%引きの切符も買ってある。我がロバ(ロードバイクの略でもあるが、あるアメリカ人から「あなたのロバ」と言われたのを気に入ってこう呼んでいる)にまたがって最寄り駅へ。新宿まで走るつもりだったのだが雨なのでやめた。
駅前で自転車を分解し、袋に入れようとしたら、できない。ロバの輪行があまりに久しぶりで、まったく勝手がわからなくなっていたのだ。しまった。ここ数年はキャリーミーという小径車に凝っていたから。ロバを袋に入れるのはひょっとしたら
2020年9月に信州を訪ねて以来かもしれない。どうしてもロードレーサーを走らせたくなるような土地なのである、僕にとって。また長野県がある意味で「巨大な東京」だからでもあろう。数キロから数十キロの距離をおいて個性的、魅力的な街が点在している。これが東京なら「数百メートルから数キロおいて」となるわけだ。速い自転車で飛び回るのが便利で、楽しい。
どうにかこうにか自転車を袋詰めできた頃には、乗るべきだった電車(切符に印字されている便)は行ってしまっていた。絶望! えきねっとトクだ値の30%引きは取り消され、松本への到着も1時間遅れるだろう。ただ、JRの指定する乗り継ぎはやや余裕をもって設定されているはずなので、めっちゃ急げば予定通り新宿駅11時発の特急あずさに乗れる可能性はある。
ちなみにチケットは発券前。発券すると乗車変更が不可となり出発時間までに払戻をしないと無効化する。つまり「発券したけど目の前で特急が行ってしまった」場合に、1円も戻ってこない紙切れと化す、らしいのである。発券して間に合うのに賭けるか、大事をとって乗車変更しておくか。こんなこといちいち書いてごめんなさいですが、記録しとくの大事。今後のために。
で、僕が選んだのは「乗り継ぎを調べもせずに大急ぎで発券し、ダッシュでホームへ駆け上がる」。調べているうちに新宿方面の便をもう一つ逃したら、今度こそ本当の絶望。何も考えずにとにかく電車に乗ろう。それから電車を調べ、無理とわかったら適当な駅で(新宿だと期限に間に合わない可能性が高い)払い戻しの手続きをすればよい。間に合いそうならがんばるのみ。←こういう判断が瞬時にできるのは経験とかしこさであります。旅の醍醐味は賭けなのだし。
新宿駅で乗り換えが5分あるようなので、余裕だなと思っていたら、御茶ノ水駅で乗り換える快速が3分の遅れ。2分しかない。慌てて「上りエスカレーターに最も近い扉」を検索。特急ホームまでの道筋もシミュレーション。みごと間に合いました。かしこいってりっぱですね。
「まつもとー まつもとー まつもとー」というおなじみのアナウンス。永遠に変わらないでほしい。お城口でロバを組み立て(ロバを組み立て???)定宿ならぬ常店である「コーヒー西村」へ。ここが松本のゲート空間。しかしやばい、このペースで書いていたら何度でも日が暮れる。急ぎます。洞察や分析じみたことは最小限に……。
シンフォニアが開いていたのでまたコーヒー。「西村」は関東っぽいというか、いわゆる本格の味わいだが、こちらは信州らしい麦茶のような(としか僕には表現できない)味わい。コーヒーの味も地方によってちょっとずつ変わるのだ。僕調べの主観的感想としては上田がいちばん麦茶で、小諸や諏訪もまあまあ麦茶。もちろんすべての店が、というわけではない。いわゆる「珈琲専門店」ではない喫茶店がわかりやすい。西村は400円、シンフォニアは300円。物価というより店の性格が出ている価格。
「道(タオ)」という自転車屋へ。ハンドルに取り付けるスマホ台が欲しかったのだ。またシフトワイヤーの交換が必要なので、営業時間を確認しておいた。あとで預けよう。いったん宿に荷物を置いて祖母の家へ。
祖母(ママさんと呼ばれている)、おじ、おばの四人でコタツを囲み談話。面白い話がたくさん聞けた。中でも衝撃だったのは、ママさんのお母さんは97まで生き、そのまたお母さんは105まで生きたとの話である。ママさんは現在90歳だそうなのであと8年生きたら3代で300歳という話になる。確認していないがもし上記二人が数え年だったとしたらあと5年で達成(?)。そのうえで僕のお母さんが100まで生きれば4代で400歳……。すごい血のもとに生まれたものだ。ここのおじいちゃんも90くらいまで生きたし、父方の祖父母も90前後。なんとか僕も長生きしてゆきたい。
ママさんは喫茶店をやっていたのだが、その前は食品や日用品を売る商店だったらしい。剛田雑貨店(ジャイアンの家)や林商店(あしたのジョー)みたいな感じか。そのころの手ぬぐいが出てきたそうなので、一枚もらった。暖簾とか信用金庫のタオルとかもくれた。おじちゃんは小さなカバンをくれた。
食卓にはつけものが何種類も置かれていて、その隣にエクレアが並んでいた。お茶が無限に入れられた。夕飯はうなぎをごちそうになった。ママさんは僕がくるというので美容院に行ってきたらしい。
母親の実家、というのはルーツの中のルーツと言っていい。この人に育てられ、この人を尊敬して我が母はできあがっていった。松本という土地も彼女を育んだ。僕にとってはずいぶん特別な土地なのである。山々に囲まれたこの景色は50年前も70年前も変わらなかったろう。
松本を僕なりに一言で言えば「誇り」だと思う。喫茶店に入ると郷土史の本や店主の高校の文集みたいなものが並んでいたりする。二言目には「信州」と言い、山と気候の話がやたら多い。長野県内どこに行っても割とそうな気もするが、松本は特にこうした傾向が顕著だ、と思うのですが、詳しい方ご意見くださいませ。
城のある街はプライドが高くなるものだと僕は思っているのですが、松本城は国宝で、かつ街の中心部にドンとある。これが松本人の気位に影響しないわけがない。
どうしてもそこを出たかったらしいお母さんの気持ちを僕はなんとなく、たぶんよくわかる。
友達の愛ゆえにさんが今日から松本でメイド喫茶を隔週の頻度で開くというので行ってきた。愛ゆえにさんとお店のオーナー、そして夜学バーにもおいでくださる方と、3人も知己がいた。1時間くらい雑談などして、お金を払おうと思ったら「頂きぼくどうぞ」と件のお客さんが申し出てくださった。頂きぼくとは、かわいいぼくがなにかを頂くことである(説明になってる?)。お言葉に甘えた。たしか一月くらい前、彼とこのお店の話をしていて、「ジャッキーさん行くとしたら何時ごろに行きますか」「6時くらいですかね、みんながご飯を食べているような頃に」みたいなやり取りを交わしたのであった。それだけの応答でちゃんと出会えたのだから素敵なことだ。約束ですらない、何気ないやりとりが晴れて「待ち合わせ」になったわけである。
前回訪れたときに通りかかり「ここは」と気になったバーがあった。その時は営業していなかったのだが今回は開いていた。非常に入りにくい入り口だが、店前の灯りがついているということは「勇気を出して入ってこい」のサインだと僕は受け取ることにしている。入ってみたらだいたい数秒から数十秒でそのお店の、というか店員さんのスタンスはわかるものである。やはり良い場だと直観した。果たして素晴らしいバランス感覚を備えた空間であった。
光あれば闇もある。新宿には都庁もあれば歌舞伎町もあるし、歌舞伎町の中にもきらびやかな飲み屋街の裏にゴールデン街とか思い出の抜け道(思い出横丁ではない)がある。さらにその中に、平均からはぐれた孤高の店がある。またメインから外れた雑居ビルの一角にごく個性的なお店が潜んでいたりする。都市には必ずそういった、色とりどりの「闇の受け皿」が存在しているはずなのだ。湯島なら夜学バーだと自負している部分もある。松本くらいの規模の街なら僕好みのそれがいくつかはあるはずだ、しかしなかなか見つからなかった。ようやく見つけたぞ、と言いたくなるくらい、僕はこのお店が気に入ってしまった。
三杯ほどお酒を飲み、エルボールームというお店で淡々とひとりジャスミン焼酎の水割りを飲み、少しのナッツを食べて、夜を仕舞った。もうちょっと遊んでもよかったけど、この次の一杯が翌日の命運を左右するのは経験的にわかっている。長旅の初日だし、明日は茅野に14時までに着かなければならない。松本にはまた何度でも来るだろう。というか、例のお店と出合ったことによって、来る気が強まった。それで安心して戦略的撤退を選べたのである。ちなみにかの店主は名古屋(しかも我が家から自転車で10分くらい)から信州大学に進学して定住したらしい。ひょっとしたら同じ高校かもしれないが聞けなかった。
【4日(日) 松本→茅野→諏訪・下諏訪】
温泉に浸かり、レターパックに荷物(昨日もらったものなど)を入れて自宅に送り、自転車屋さんにシフトワイヤー交換をお願いした。その間にモーニングでもと「かめのや」という喫茶店に行ってみたが、900円というので目玉が飛び出た。カフェやないかい! どうやら、古い古い老舗を若い人が運営しているということらしい。喫茶店ってもうカフェになってゆかざるを得ないのだな、そうして喫茶店の様式美は失われていくんかな。なんとか「ゆっくりしていってね」という喫茶の発想が守られていければいいんだけど。詳しくはTwitterの
このスレッドに書いています。
自転車屋さんに戻り、こことここもそろそろ交換したほうがいいよ、といったアドバイスをいただく。良いお店だった。おすすめです。旅先で自転車直すのけっこう好き。
さて出発、と思ったがその前に、左シューズのクリートを調整。暗号みたいですみません、クリートとは靴の裏につける、足をペダルに固定するための部品。これがなかなか難儀で、30分くらい消費してしまった。遅刻理由の半分はこれ。とはいえこれの違和感を放置したまま長距離を走ると膝や足首を痛めてしまう。ワイヤー交換もそうだけど、出発前にやっとけよ、という話なんですけどね。突発した夜学バー閉店騒動で時間が。
さて茅野に向かって走り出しました。誤算、思ったより坂がきつい。前半で調子に乗って足を使いすぎたため旧塩尻峠がだいぶキツかった。このあたりでほぼ遅刻が確定。焦らずに旧中山道の楽しさを満喫することにした。
下諏訪を通過するとき、例の名古屋人バー店主から教えていただいた「ヤミヤ」というお店を見に行ってみた。不定休かつ何時に開いて閉まるかもよくわからなかったので、いったん下見に行ったほうが吉と考えたのだ。開いていた。「今日は何時までですか?」「8時です」よしそれまでに戻ってこよう、いまお茶している余裕はない。わずか一瞬だったが、彼の見た目と雰囲気、そして壁にかかるレコードの趣味などを見て、「間違いなかろう」と分かったのであった。こういう瞬間の審美眼みたいなものだけは磨き続けていきたい。
そこからは主に旧甲州街道を走った。以前にも走ったことがあるが、実に素晴らしいのである。まるで空を飛んでいるような気持ちになる。阿蘇山を自転車で登ったときはさらにすごく、まさに天空だった。こちらは低空飛行をじっくり続けてゆくような感じ。
今回、基本的に国道は避けた。旧道があれば必ず通った。細かく説明すると大変なので省くが、どう考えたって大きな国道を走るメリットは「結果的に目的地への到着が早い」というくらいで、あとはデメリットだらけなのだ。僕にとっては。
茅野に着いたのは15時くらいで、目標の1時間遅れ。自転車を停めてコンサートホールへ。友達はトップバッター出演のみで聴けなかった。後半にも出番があるのではないかと期待していたのだが。小一時間、足を休めつつ他の方々の演奏を楽しみ、カーテンコールで友達の姿を見ることができた。また会場のアナウンスをしていたと後で知ったので、一応目と耳の両方で味わえたことになる……(なんのこっちゃね)。
ヤミヤともう一軒、松本で教えてもらったお店が下諏訪にあるので、戻ろうかと思ったが、茅野で何もしないのも味気ない。浮木(fumoku)という、バースペースにかなりの力を入れているらしいゲストハウスがあったので、その前を通ってみた。看板を見る限り、「ゲストハウスのついでにバーをやっている」というより「バーのついでにゲストハウスをやっている」感じ。これまた直観が走った。中にいた方に声をかけてみる。
こういうの、僕は気が小さいので一所懸命勇気を振り絞って、えいや! ままよ!とやっております。決して楽なことではないし、よほどその意義をすでに感じていない限りはやりません。だからみんなも、勇気出してこ〜〜。
見学を申し出、中に入れてもらって、身分を明かしておこうとショップカードを渡したら興味を持ってくださって、「コーヒーでも飲んでいかれますか?」と小一時間雑談。そのあとで宿も見せてもらったのだが、めちゃくちゃ安いし楽しそうなので、駅も近いからこれは合宿に使えるなと思った。最大で9人部屋があるし、3〜4人部屋も楽しそうだった。ドミトリーもある。修学旅行いこまい。
ゲストハウスのかなり多くは僕にとって馴染めない価値観のものであるが、ここはちょっと毛色が違う。偽善的でない、というと、じゃあゲストハウスのかなり多くが偽善的なのかという話になってしまうので、「善的でない」とでも言いましょうか。ゲストハウスのかなり多くは「善的」あるいは「思想的」であると僕は思っていて、そこに馴染めなさを感じがちなのである。善も思想も良いものであるが、この場合の善は常識的な善に過ぎず、思想は既存の思想に過ぎない。そういうことをあまり感じさせなかったから、気に入ったのである。
下諏訪に戻る途中、友達から連絡があって、高島城で落ち合うことに。こちらは上諏訪、諏訪市である。下諏訪は下諏訪町で、自治体が違う。
城のある町はプライドが高くなると昨日の項で書いたが、上諏訪はちょっとそういうところがある。対して下諏訪はたぶんそこまででもない。それで移住者についても柔軟だったり、先ほどのヤミヤなど若者の集まる妙なお店も成立しやすいのではないか。下諏訪の駅前をちょっと歩いただけで、上諏訪とは明らかに異なる「フレッシュさの密度」に感嘆した。
ふたたびヤミヤに行ってみる。思った以上のすばらしい空間であった。入るとまず古着コーナーがあり、その先に喫茶コーナーがあり、さらにその先に喫煙可能なバーコーナーがある。2階も「面白いこと」をやってくれる人に貸し出したりしているらしい。
何よりもヤバいのは音楽のコレクションだった。YMOとはっぴいえんどのメンバーを中心に、「そのあたり」のものがレアもの含め非常に良いセンスで配置されている。好きな人は行ってみるといいです。
バーコーナーに座らせていただき、四方山の話を。「伊那市は新旧のバランスがとてもいい」「辰野がアツい」との情報をいただいたのがありがたい。人生はRPG、街から街を渡り歩き、情報を集めてゆくのです。今度またゆっくりお酒飲みに来ます。
その後、もう一軒進められたCafe Tacに行ってみるが臨時休業。エビを食べなくてはならなくなったので、王様の餃子という色々と雑すぎて笑えてくる安すぎの名店でエビ尽くしを楽しみました。
【5日(月) 諏訪→小諸】
昼食は昨日行けなかったCafe Tacでとることにした。ガレットのプレートとコーヒーを注文し、1800円。普段だったらまず頼まない値段。松本の彼が勧めてくれた理由は一瞬でわかった。明らかにおかしい。ガレット屋さんとしても素敵なお店であるが、それはある種の擬態というか、シノギみたいなもんなのではなかろうか。店の一角にかなりしっかりとした松澤宥(諏訪出身の芸術家)コーナーがある。ガレット屋さんとは。店内の張り紙やチラシなどもけっこう個性的で、フツーでないことだけはわかる。「妙な若者たちの溜まり場になっている」らしいが、僕のほかにお客は家族連れと女性二人組。いろんな面が同時にあるお店なのだと思う。
お店の勝手口の外に椅子があって、そこで厨房の人と話ができる。厨房の中に座って話すこともできるらしい。なるほど? 客席はむしろオマケなのかもしれない。外での立ち話とか、厨房の中でのお客との雑談が当たり前にあるお店なのだ。
帰り際、お店の人とちょっとお話しする。どこそこで紹介されて来ました、とショップカードを渡すと、「また来てください」と2回言われた。また行く。
ここからはひたすら峠攻めである。1534メートルの和田峠を登りきり、いったん下ってから笠取峠を越えてまた下る。そこからまたグワっと山を駆け上がると、今日の目的地である御牧が原に出る。これ以上書くことはそんなにない。峠、楽しかった。くたびれた。純粋にこれ。
それにしても自転車で山を行くことが僕はとても好きである。改めて。なぜかというのは過去にも書いたし、これからも書く。いまは先を急ごう。
いや、一個だけ書くべきことを忘れていた。和田峠と笠取峠の間、旧中山道の途中に、3年前に通りかかって「なんだこれは?」と思っていた謎の家があった。地図にメモしてあったので今回も旧道を通り見てみることにした。相変わらず変な家。眺めていると、おばあさんが座って読書なさっていたので、声をかけてみた。これまた、相当の勇気と覚悟を振り絞って、である。自転車に乗って旅行していると、「がんばってる物好きの旅行者」みたいな顔ができるので、その加速も手伝った。
ご主人が趣味で絵を描くそうなのである。その展示館を見せていただいた。圧倒された。それだけではない。ご主人は彫刻でも家でもあらゆるものを作るらしい。その展示館も、隣にある自宅も、1から100まですべて(足場を組むところからすべて!)自分で作ったというのだ。「変な家」と思うのもそりゃそうだ。まるでアートというアート、ものづくりというものづくりをすべて極めたかのようなご老人である。80代も半ばというがピンピン歩いていたし、頭も言葉もはっきりとしていた。作品の中にはついこの間作ったようなものもあって、アマビエをモチーフにしたものもある。実に頼もしい。日本という国の、あるいは人間とか文化というものの奥深さ、奥ゆかしさを感じる。
彼の屋号は「ゼペット」だそうな。なんでも作るから。
御牧が原をわたった端っこ、小諸駅側に「読書の森」という喫茶店がある。今回はここで2泊する。今回寝るのは母屋からかなり離れた、野原の隅にある小さな小屋。ここの主人の作ったものである。いろいろな小屋がいくつもあって、お客はみなそれらに泊まる。母屋に宿泊スペースはない。小屋の中では虫が平気で這ったり飛んだりしていて、キャンプ場のような雰囲気。
小屋に荷物を置き、シャワーを浴びて、夕食をいただく。ご主人と奥さん、娘さん、2歳のお孫さん、僕以外に宿泊の方が1名、夕飯後ご帰宅になったのが2名、計8名の賑やかな食卓であったが、常時人は増えたり減ったりしながら、長い時間をゆったりと食べ、飲み、語らった。
80歳を過ぎた五国さんという方が「ケーナ」という南米の楽器を披露してくださった。なんでも日本で初めてこの楽器を演奏した人という。とても難しい楽器とのこと。僕も試しに吹かせてもらった。音が出なかった。でも「出そうだな」と言われたので続けてみると、すぐにピーとなって「すごい!」と言われた。それでアドバイスを一つ二つもらってその通りにしたら、途端に音が出るようになった。「初めてで音が出るのは何十人に一人、だからこのケーナを差し上げます」とのことで、僕はいきなりケーナの演奏者であり所持者になってしまった。練習します。
保護猫の話や、小諸市政にまつわる話などいろいろ。書ききれないし別に書くべきでもないが、こうした時間が自分をより豊かに、また美しくしていくのであるなあ、などと考えていた。ワイン飲みすぎた。6時過ぎから12時くらいまで、6時間近く話していたことになる。
いまは6日の15時半、このあとのことはまた後日。
2023.6.8(木) 信州紀行 6/3-(2)
【6日(火) 小諸】
9時くらいに起きて朝食をいただく。お洗濯をする。茶房にこもり、店主が毎年書いている「すろうりぃの雑記帳」最新2年分と、ロシア(ヤースナヤ・ポリャーナ)旅行記を読む。その勢いで僕も旅行記(前回の日記)を書く。15時半くらいになってしまった。せっかく山に来たのでお散歩に出た。小さくて迫力のある白山神社を見る。近隣唯一の商店(たぶん)であるパン屋さんは閉まっていた。農道を歩く。泥を渡り靴が汚れた。
泊まっている小屋(古だたみで作られている)に戻って今度は夜学バー「閉店のお知らせ」に加筆。18時になったので夕飯のため茶房へ。今夜もお酒を飲みながらいろんな人と話す。11人いた。ゲストハウスでのこういう時間はむずがゆいことも多いのだが読書の森はリラックスできる。ありがたい。
たまたま、田島征三さんもいらっしゃった。この茶房の椅子は木でできていて、僕のお尻にはとても痛い。骨が出っ張っていて肉がないので、ダイレクトに刺さるのである。それで昨日から僕だけが座布団を使わせていただいていたのだが、征三さんもここでは座布団を敷くのが常のようで、いらっしゃる前からセッティングされていた。聞くと、僕と同じくお尻が痛いんだそうである! とても痩身で在られるので。さもありなむ。このことで共感しあえるのは本当に珍しい。めちゃくちゃ嬉しかった。
自動車についての話も印象深かった。時代も違い状況も違ったけれども、征三さんも僕も自動車の生み出す副作用について強い憎しみを抱いていたことで共通していた。なんだかとても心強くなった。
83歳という。昨日ケーナをくださった五国さんや、「ゼペット」の田中さんとほぼ同世代。80代の方に縁がある旅。不思議なものだ。
店主夫妻のお孫さんが、ついに僕に接近してきた。わかるぜ。昨日から君は、僕のことを値踏みするように見ていたもんな。2歳半くらい。言葉はまだ上手ではない。彼は少しずつ距離を縮め(これは偶然でもある)、いよいよ僕の隣に来ると、座っている僕の身体をちょいと押した。僕はすこし大袈裟に、しかしごく自然に、後ろに倒れてまた戻った。起き上がり小法師のように。彼は怪訝な顔をしてもう一度僕の身体を押した。同じように起き上がり小法師をした。再現性がある!と彼は喜んだ。何度も何度も同じことを繰り返した。そしてほんの少しずつバリエーションを工夫していった。いきなりバージョンを変えると「せっかく面白かったのにどうして別のことをするの!」になってしまうかもしれないから、慎重に、どうすれば一番僕らは面白いのだろう?と真剣に考えて僕は遊んだ。
結果的にできあがった「ノリ」は以下。彼が僕の身体を押すと、座ったまま僕は後ろに倒れる。そしてそのまま腹筋の力でステイする。僕は彼に手を差し出す。それを彼の手が引っ張ると、僕はウィーンと起き上がる。1回の起き上がり小法師に対して、2回の介入を要求するわけだ。この辺りが、彼の発達のギリギリのラインだったと思う。これ以上複雑になるとたぶんできないか、面白くない。幼児教育とは常に、愉快さと知育との絶妙なラインを攻めて行われねばならぬ、とその時に思った。
それにしても、子供というのは場を支配する。いや、そうさせているのは大人たちである。大人というものは、小さい子を見ると声をかける。何かをやらせようとする。名前を言わせたり、呼ばせようとする。愛情を浴びせるという面では意義もあるだろうが、子供からしたら「要求に応える」ということをひたすらやらなければならないので、しんどいのではと見ていて思う。
常に主役でいなければならない。しかも、自発的に何かをやる前に、「ほらこの前のあれやって」とか「〇〇の歌を歌おうか」というふうに、先取りして注文が来る。こんなに不自由なことはなかろう。人間というのは、やっぱり人間を支配したいのでしょうかね。
僕はそういうアプローチをしないので、「別枠」としてカウントされていたと思う。僕が何気なくほっぺに空気をためてプクーってすると、彼は人差し指でそれを撫ぜようとする。ほおに触れた瞬間、僕はもちろんパーン、と空気を弾けさせる。面白いに決まっている。僕だって面白いのだ。そういう自然発生的な共犯の遊びが、僕は楽しい。彼もたぶん楽しかったと思う。
ここで大事だと僕が思うのは、「ほら、ほっぺを押してみて。面白いことが起こるよ」というサジェストをしないことである。僕はただプクーってしてみる。もし、彼が僕のほっぺをさわるのでなく、頭をポン、っと叩いていたら、もちろん口内の空気は弾けるわけだが、その時の僕の表情や頭の動きはけっこう変わるだろう。別の種類の面白さになる。そこからまったく違った遊びに発展してく目だってある。「違うよ、頭を叩くんじゃなくて、ほおを押すんだよ」なんて言ったら興醒めもいいとこ。そういうことじゃないのだ。これはふたりの「ダンス」なのだから。
すべての大人がそういうふうに接するべきかは知らないが、こういう「枠」があるのもいいだろう。
23時過ぎお開きになって、ちょっとケーナ吹いて寝た。征三さんに「湯島のニイちゃん」と呼ばれ、ワインを注いでいただけたのは、ささやかな僕の自慢である。(主にわがお母さんへの。)
【7日(水) 小諸→上田】
9時ごろに起床、朝食をいただく。今日は茶房もお休みにして、山を降りた千曲川沿いの畑に征三さんの作品をでっかく建てるんだそうな。それをちょっと見学しに行ってからお暇を告げ西へ走る。
しばらく川沿いに走ってから、道を逸れて山を登る。この上にカフェがあるらしい。Log Cafe Heidi & Ohiなるしゃれたお店。珈琲とシフォンをいただく。世間話をする。お店の宣伝もした(大事)。八ヶ岳の湧水を僕のペットボトル(900mlのポカリ)に入れていただいた。本当にRPGみたいだ。自転車旅行では水分が何より大事。
とても素敵な、やわらかいご夫婦(であろう)だった。山の景色の楽しみ方を話してくれた。緑はふんわりと広がる。
山をふたたび降り(さらりと書いているがけっこうな急坂であった)、また西へ。川を渡りしなの鉄道に沿って旧北国街道を進む。海野宿という宿場町を通る。江戸時代からの建物がずらーっと並んでいて古本屋や喫茶店もあるらしいのだが水曜はことごとく定休らしく観光客は皆無。通学の小学生しか目に入らない。資料館はやっていたのでくまなく見た。蚕にやたら詳しくなった。なるほどこの宿が長く残っているのは洪水や火事を避けられたのもあるが、養蚕によって経済的に豊かであり続けたからでもあるらしい。
上田市街に入る。こちらも僕が行きたいと思っていたお店はことごとく定休。途方に暮れてしまった。とりあえずコーヒーでも飲むかと地図を眺めていたら「浅間珈琲」という文字が目に入った。新しくできた自家焙煎カフェらしい、蔵前あたりに100個くらいありそうな感じで特に期待もしなかったがインスタを見てこれはと思った。
元は「水澤印店」というはんこ屋さんの物件だったようで、幌もガラス戸の店名もそのまま残している。この時点で「なかなかやるじゃないの」と(偉そうに)思ったのだが、驚いたのは最新の投稿。
《時々「はんこ作って」とご依頼がございます。(略)やはり水沢印店さんの名前を残している以上はんこも作れるようにならねばと思いまして、当店のカップ用のはんこと豆の銘柄印を自作してみました。》
心意気! 前の物件の名残をあえて残しているお店は数あれど、その業まで次いでいこうという人はそう多くはないはず。気になって、行ってみた。今風のしゃれた内装になってはいるが、よく見ると最小限しか手が加えられていない。床の模様もよく選ばれている。元の物件の良さをできる限り活かそうという気持ちが見て取れた。珈琲も美味しい。いいお店である。
それなりの世間話をして、お店のショップカードも渡した(大事)。おすすめのお店などを聞く。上田のご当地グルメとして美味だれのやきとりというのがあるらしい。バーが開くにはまだ時間があったので、まずはやきとり屋にでも行くか。
と思ったが無数にあるやきとり屋、どこもピンとこない。一つ「ここかな」と思えるお店があったが暖簾が出ていない。中に人の気配はあったのでそのうち開くだろう。とりあえず上田を訪れたら必ず寄る喫茶店「木の実」に行ってみた。コーヒー180円。全国最安値じゃないかなあ。ここで充電しつつ時を待った。
やきとり屋さんの暖簾が出ていた。入ってみる。おじいさんが一人だけで立っている。お客はない。「やきとりだけ?」と聞かれる。意図がわからなかったが「やきとりと、お酒……」と返したらOKだった。お酒を飲んでもらえないと商売にならないから断っているようだ。
「ビール? 瓶ビールだけど。いま生やってねえんだ」と大瓶が出てくる。これだけでそこそこ酔っぱらってしまったものの、おかわりはしなくて済んだ。ここで飲みすぎると大変なのでむしろありがたかったかもしれない。
やきとりが出来上がるまでの間にお通しとして柿ピー、塩辛、ゴボウの揚げたのが順々に、時間差で出てくる。この感じ、なにか既視感が……そうだ! すぐ近くに2年くらいまであった「故郷」という喫茶店である。コーヒーしか注文していないのにいろんなものが順々に、コース料理のように出てきたものだ。これは「上田あるある」なのか? なんにせよ嬉しい限り。ここにやきとりの盛り合わせとつくね2本セットを頼んで2000円くらいだった。安いのう。世間話も自慢話もふんだんに聞けるしいい店です。かわしま。
はんこ屋さん、じゃない浅間珈琲で聞いたバーにゆく。大好きなヴァージンというバーボンの「21年」を発見し、飲む。
実は夜学バーのお客さんから「上田の○○というバーに21年がありましたよ」と教えていただいたのが、今回ここまで足を伸ばした直接の理由である。そうでなければ軽井沢方面に走っていた。しかし結果としてそのお店には行かなかった。僕が「21年」を飲んだのは別のお店なのである。すなわち上田にはこの激レアな「21年」を置くお店が少なくとも2つあるということ。
ワンショット4500円。安いと思う。東京では見たことさえないし、値段もたぶんもうちょっと高いだろう。上田でも、もう一方のお店ではたしか10000円と聞いた。そっちのほうは開店が遅かったので後回しにしたのだった。
澄んで品があり非常に美味しかった。また訪れたら飲みにいこう。
ヴァージン21年を飲む、という最大の目的は達したので、上田市内をしばらく散策、アンテナに引っかかるお店等を探す。お城のほうまで行ってみる。次きたら寄ってみようかな、と思えるお店はいくつか見つけた。やはり足を使うのが一番。
前からずっと気になっているバーは今日も開店する気配がない。時間をおいて何度も見にいってみたがダメだった。とりあえずちょっと目にとまったバーに入ってみる。「学生ワンショット200円引き」とあったのが気になったのだ。なぜ学割をやっているのかを聞いてみようと思った。一見ただのカジュアルなバーだが、ひょっとしたら志のあるお店かもしれない。
チャージ500円、ドリンクは500円から。学生はそれが300円になる。いくら上田たって破格である。ただ、それ以外に特筆すべきことはない。学割の成果あってか若いお客ばかりだったが、店主ともお客同士でも「内容のない馴れ合いの会話」をしているばかりで、知的な匂いはどこからも一切しなかった。チンチロリンをまわしてイエーガーを飲ませあうだけで時間を消費させていた。それが300円だとしたら安い娯楽ではある。
隙を見て「学割をやっているのが気になって入ってみたが、どんな意図か」をたずねてみた。「若い人に安くのんでもらいたいんで!」とのこと。いや、何も悪くはない、素朴な回答である。しかしもちろん、つまらない。「なぜ若い人に安くのませたいのか」と突っ込んで聞いてみたくはあったが、そこに何かがあるとも思えない。
もう一杯頼んで様子を見るか、すぐに出て別のところを探すか、悩ましいところであった。タイムリミットも近く、酒量もそれほど余裕がない。また方々で配ってしまったせいで夜学バーのショップカードもあと1枚しかない。もう一杯飲むならばこの旅の店めぐりはここで終了だろう。かといって外に出ても何か見つかる保証はない。決断が迫られる。こういう時は未知に賭けるべきである。
すぐに会計を申し出た。ショップカードも温存しておいた。ただし領収書に「夜学バー」と書いてもらった。これで何か反応してくれるかなと思ったが、「夜の学び……エロい感じっすか?」みたいなくだらないことを言われたので、まあ正しい判断だったろうとむしろホッとした。
お酒もたらふく飲んだしここからは電車で移動するつもりなのだ。地方の終電は早い。自転車を分解して袋に詰める作業だってある。残り時間はせいぜい30分から1時間弱。気になっているバーの前を通ってみる。やはり営業していない。駅のほうへ向かう。
地方都市あるあるなのだが、繁華街と駅との間には、ほぼ何もないようなエリアがあったりする。前橋なんかがわかりやすい。新潟もまあ近い。上田も、お店の密集した商店街地帯から駅に向かう途中、ぽっかりとお店の少なくなるエリアがちょっとだけある。そこを通ってみた。意外とこういうところに、あるものはあるのである。その予感は完璧に正しかった。長年「店師」として、また「旅師」として磨いてきた勘のたまものであった。
暗く狭い路地の先のほうにうっすらと小さく、一つだけ奇妙な形の明かりがともっていた。「奇妙な形の」というのがポイントである。あれは住居ではない。標準的な居酒屋でもない。明らかに芸術的な意図でもって設置されたものである。自転車引いて小路に踏み入れてみた。
和風の引き戸に小さな暖簾。小料理屋のような外観だが、目を引く装飾はほぼない。よく見ると表札のような小さな看板があって店名らしきものは書いてある。一見は無個性な見た目をしていて、住居か、そうでなければ「知る人ぞ知る隠れ家的な高級小料理店」と思える。ただ気になるのはちょっとおかしな形の明かり……。
しげしげ見ると引き戸の一角に、ごく小さなステッカーが一枚だけ貼られているのに気がついた。「VINYL」と書いてある。一瞬ですべてを理解した。なるほどね。
迷いなく自転車停めて鍵かけて戸を開けた。思ったとおりの世界。もとは小料理屋か居酒屋だったのだろう、コの字型のカウンター。その上にターンテーブルがあって、レコードが並んでいて、かっこいい音楽がかかっている。壁にギター。本もいくらか置いてある。
何もかもに誇りとこだわりを持ってやっていることがすぐにわかる。知らない名前の麦焼酎を水割りで注文した。お通しは今朝だか昨日、野で摘んできたという春菊と山椒の葉(withじゃこ)であった。チョウセンゴミシを漬けた焼酎も少しいただいた。すべて美味であった。
店主とはほんのわずかな時間で、だいたいのことはわかり合えた気がする。「志がある」とはこういうことを言うのだ。アクセスは抜群、だが見つけにくく、入りにくい。わかる人にしかわからない、出合える人にしか出合えない。ゆえに「質」を担保していられる。夜学バーだってまさにそうなのだ。わかる人にはちゃんとわかり、出合える人にはちゃんと出合える。排除ではなく、手招きなのである。
感動のままこの記事は終わろう。僕の旅には必ず続きがある。愛しい場所や人に出会ったからには、絶対に再会したいのだ。どの土地も、きっとふたたび訪れる。愛し合うとは「また会えましたね」と想いあうことなのである。参考文献、とよ田みのる『ラブロマ』!
2023.6.19(月) 夜学バー閉店騒動始末の中間
今月あんまり更新できてないのはもちろん弊店の閉店の関係。有料(
この記事参照)なのに申し訳ない、という気分はあるのですが……。
徳島で私設図書館をやっている友人がときおりこんなことを言います。彼は他人にサポート(投げ銭的なこと)をするさい「できるだけのんびり生きてほしい」という思いを込めているので、「サポートされたのでがんばります!」といった態度をとられると困る、と。
僕の場合でも、有料にしたからにはたくさん書かなきゃ!というのは本末転倒かもしれないわけです。そもそもホームページを有料にするのは「あくせく働く時間を創造的な時間にまわしたい」という発想なわけで、「サポートされたからあくせくホームページを更新しなきゃ!」ではおかしい。生活が楽になったから結果的に書く文章の量が増え質も向上したぞ!という順番でなければ。
そんなわけで今後もマイペースに更新してゆきます。義務感でなく使命感でやっているライフワーク、多少無理して時間を割くこともありますが、ここに何かを書くことによって発想が広がったりまとまったりして、それで他のことがスムーズに前に進んでゆく、というような関係も僕の生活にはちゃんとあります。安心してご課金くださいませ。
さて今月はとみに忙しい。
閉店のお知らせにも書きましたが夜学バーの物件更新不可が明らかになったのは5月26日。その日のうちに「まあ退去かな」となんとなく直観し、数日中にはすっかり固まって6月1日に告知。この約3週間は激動でしたし、これからどんどん忙しくなっていくはず。
来客数が3倍くらいになっているので、お店での労働密度も3倍になっておりまして、ここから増えることはあっても減ることはないでしょう。とはいえせっかくなので1人でも多くの人に、1回でも多く来てほしい。そのためには「手を抜く」ことが肝要だから、抜けるところは少しずつ抜いていきます。
僕の労働密度を減らしたい場合はビールやジンジャエールをビンから直飲みしてください。おつまみも近々省略し、無言で柿ピーの袋を渡すとかにするかも。紙皿でセルフってのもありかな。お冷や(チェイサー)もセルフにしていこう。
抜けるところはそうして抜きつつ、夜学バーでしか味わえないメニューとかは、ちゃんとおいしく作ります。ジャズボールとかギムレットとか、ネーポンとか。(雪国やドラえもん、クリームソーダ、ミルクセーキなどを挙げないところに本音が透けております、マア状況を見てご注文ください。)
ドラえもんというのは夜学バー創業時に考えたカクテルなのですが、けっこう手間なので今ある材料がなくなったらもう仕入れません。そうしてだんだんビンが減っていくと美しいですね。
クリームソーダとミルクセーキは原価も手間もかかるわりに値段設定がものすごく安い。お金も年齢も少ない人のためにそうしているわけなので、テキトーに値上げするかも。明日から1000円くらいにしようかな。その流動性も夜学バーならではのものなので、笑っておすませください。最終日は雪国(カクテルではいちばん手間かかる)8000円くらいにしたろかね。
話を戻して、労働密度が3倍になると何が起きるかというと、くたびれてしまう、というだけ。あまりくたびれて、最終日までに倒れてしまったら何もかも終わり。しかも最終日の次の日、7月1日は庚申の日だから上野公園のいつものところ(水上音楽堂野外ステージの裏)あたりで宴(
ランタンzone)を開こうと計画中。とにかくそこまでは体力を持たせねばならない。
ところで6月30日の深夜25時か26時くらいから
YouTube Liveとたぶん
インスタライブで生配信やりますから覚えておいてください。スケジュール帳にカキコぜひ。
それにしても「閉店します」のエネルギーはすごい。17年~19年くらいぶり(記憶がものすごく不明瞭)にradiwoくんに会った。このホームページを(ごくまれにではあろうが)見ているようで、お店に来てくれた。他にお客がいなかったのでその場でなみちゃんやのぶりん(名前はほぼ出していないだろうが高校~大学くらいの日記にけっこう出てくる人たち)に電話をかけた。10数年ぶりに話した。「終わります」という宣言をしなければこういう再会もなかったかもしれない。いいきっかけになっている。
数年ぶりに来たとか、前のお店には来たことがあるがこのお店には初めて、とか、ずっと気になっていましたがようやく来られました、なくなるなんて残念です、とか。そういう人たちが本当に多い。嬉しいことではあるが、「やめます」と言って初めてそういう人たちの重い腰が上がったというわけなので、心中複雑ではある。
しかし嘆くべきことでもない。むしろたった6年でその人たちの腰を上げさせたことを喜ぶべきだろう。死ぬことによってしか生み出せない波動、与えられない刺激というのはある。
もし夜学バーが秋くらいに再開して、また6年後くらいに「やめます」と言ったとき、どんな反応を得るだろう?「また閉店詐欺か」と思われて、人は集まらないだろうか。いや、たぶんあんまり変わらない。その時にも駆け込み需要はかなり発生すると僕は見る。「その場所で6年間営業して、もうその場所では営業されない」ということは事実だから。いつか再開するにしても、同じお店ではない。
次にできるはずの「夜学バー2」的なもの(以下ツー)は、現行の夜学バーと同じではない。そのことがおそらく近いうちに証明される。もちろん僕は、夜学バーという名を使うからには方向性を変えるつもりはないし、できるだけ今の雰囲気を再現するように努める。それでも何かは違うのだ。
その絶妙な違いと、「違うのにここは確かに夜学バーである」というおかしな安心感に魅惑された人は、きっとやみつきになって、夜学バーが閉店してまた再生するたびにその様子を見にいきたくなるだろう。そう願う。
ツーで初めて夜学バーを知った人は、「はじめての夜学バー」を失うわけだから、名残もひとしおのはず。
僕の前のお店「おざ研(尾崎教育研究所)」に通ってくれていた人は、夜学バーが閉店すると聞いて少しは「懐かしい」気分になったのではないか。おざ研が閉まったことによって「失うことのエモさ」を知った人は、「またあのエモさを味わえるのか」とちょっとくらいは思ったんじゃないだろうか? かく言う僕はそうなのだ。味をしめてしまったとも言える。ただし僕も彼らも、「失うエモさ」とともに「再生するよろこび」も知った。おざ研からランタンを経て夜学バーが生まれたことによって。
僕は無責任な人間ではないし、「スクラップ&ビルド」なら「ビルド」のほうがより大切であるということくらいはわきまえている。まともにビルドしないのにスクラップするわけにはいかない。壊すからには建て直す。んまあがんばってみます。
とりあえずツーについては、常に僕の最新情報をお伝えするこのホームページでだけこっそり書いておこう。計画は進行中、だけどまだ確かに言えることは何もありません。顔を見てなら言えても、不特定多数に対して書けることは本当に何も。(お店に来てくださいってことです。)
2023.6.30(金) お散歩遠く
今は令和5年7月2日の夕方です、しかし6月30日の日付で書いておきましょう。夜学バーはこの日に終焉しました。詳しいことは例の「
閉店のお知らせ」ページに書きますが、先にこちらに書くのが僕なりのインターネットとの向き合い方。
その深夜、7月1日になってから弾き語りライブをやった。なにそれ?っていうと、まちくたさんって人に「やろうよ」と煽られたのだ。
この人は僕の恩師である浅羽通明先生を尊敬する人物の娘で、中3のときその親に連れられて初めてお店にきてくれた。高校に上がってからたびたび来てくれるようになって、その冬くらいからお店を手伝ってくれている。今は高3。
1年ちょい前に彼女がギターをお店に置いていって、僕はそのギターでひまなとき練習するようになった。昔から弾けるようになりたいとは思っていたし、実はうちの両親って音楽ができる人たち(家にはピアノとフルートがある、かつてはオルガンとギターも)なので、その魂を継ぎたいという気持ちもあった。
過去に挑戦してみたことはある。21~22歳くらいの頃か。それはすぐに挫折してしまった。機が熟していなかったんだと思う。結局コードとか全部無視して、チューニングを完全に狂わせた状態で適当に音を出して歌う「ノイズ弾き語り」という謎ジャンルで5曲くらいつくって録音はした。それもやればよかったな、忘れてた。
今回はけっこう正統にやってそれなりに上達していった。2020年以降はお客さんが多くなかったから、お客のない日に気を紛らすのにもちょうどよかった。ギターの持ち主であるまちくたさんも、僕が弾けるようになれば嬉しいだろうからやる気も出た。何よりも、なんとなく「今だ」という感覚があったのが大きい。
5月末くらいか、このお店6月で終わります、と彼女に伝えたら、「最終日にライブやろうよ」と言われた。えー(無理だよ)と思ったけど、「わたしが前座で出て、長渕の乾杯をエレキでやりますから!」と言われて面白そうだから乗った。この発言はちゃんと本番で粋な伏線と化す。
その日のために僕は自作曲を一曲つくった。それで確信した。自分はやはりフォークの人間なのだと。
世の中には、ロックの人間とフォークの人間がいる、と思う。僕はフォークなのだ。ただ不思議なことに、僕ときわめて仲の良い人間には、ロックの人間が多い。
ジャズの友達も多いけれども、ジャズに対置されるのはクラシックかな。それでいうと僕は思いっきりジャズ。
犬だけど猫や猫好きの友達が多いなとか、文系だけど理系の友達が多いなとか、そういうこともある。子供だけど大人の友達が多い、とかね。つまり仲の良さにはそんなこと、なんにも関係ないってこと。
その曲の歌詞の話をじっくりしたい。こちらです。
『お散歩遠く』(作詞作曲僕)
お散歩遠くへあてもなく
なかよしお月様
指先すべてが美しい
目に見えぬものたちも
あっちかな
こっちかなって
どうにかなってしまいそうです
お散歩遠くに手を振って
だれか笑ったら
耳を澄ましていいんだね
ひとりでもいいんだね
聞いたかな ゆったかな
豊かな悲しさの日々
お散歩遠くのガンダーラ
みんなばらばら
いろいろあるから目を閉じて
今日 愛する人たちと
さらば 友よ
散ったから あったから
宝のありかにも似た
あっちかな
こっちかなって
どうにかなってしまった
あっちかな
こっちかなって
どうにかなってしまったから
お散歩遠くへあてもなく
なかよしお月様
指先すべてが美しい
目に見えぬものたちも
あっちかな
こっちかなって
どうにかなってしまいそうかな
ライブをやることが決まって、曲を作りたいな~と思いながら長野へ旅行に出た。4泊5日のわりと長い旅で、松本→塩尻→茅野→諏訪→小諸→上田と自転車で走った。高い峠をいくつも越えた。こういうとき音楽やラジオを聴いたりは(危ないから)しないので、ゆったりとものを考えたり鼻歌を歌ったりすることができた。それでなんとなくお店が終わるまでの流れと、曲のメロディができていった。
タイトルは最初に決まった。「お散歩遠く」とは始め、対談コンテンツのタイトルとして考えていたものである。遠くとトークをかけているわけだ。お散歩のような話をして、どんどん遠くまでいこう、と。
小説を書くときでも、お店を作るときでも僕はまずタイトルから作る。たぶん、そうでないと分散しすぎるのである。遠心的すぎて。
旅行中にメロディを口ずさんで、スマホに録音して、だいたいの方針が決まった。帰ってきてCとかGとかのコードをなんとなくつけた。そこからは忙しすぎてほぼ何もしない状態でライブ当日(30日)の朝になった。
5時くらいに帰宅して、小一時間ほどで歌詞を書きあげた。いったん寝て、昼すぎお店に行ってコードの手直しをした。「こっちかなって」の部分はこのときにできた。
一気呵成に書いたにしては、というか、ゆえにこそ素晴らしく純度の高い歌詞になったし、それにしては技巧的でもあるのが凄いと自分で思うのだが、誰も褒めてくれないのでこれから細かく解説していきます。こうやって自分で言っちゃうから誰も言ってくれないんだろうけど、これもある意味での教育だと思っていますから、僕は。
>お散歩遠くへあてもなく
お散歩遠くというフレーズは3種類の使われ方をしているけど、それぞれ後につく助詞を「へ」「に」「の」と分けているのが素晴らしいですね。
遠くへ行く、というモチーフはもちろん「遠心的」ということで、「あてもなく」というのは目的や目標を設けない、ゴールを設定しないということ。散歩ってそういうものだよねという、作品の前提として理解しておいてほしいことを最初に持ってきているわけであります。
>なかよしお月様
ここがなんとも僕らしいところで、童謡のような世界観であるということも示されます。お月様となかよしってことは、舞台としてイメージしてほしいのは夜。一人で歩いている様子も想起されるはず。月だけが友達、っていうような孤独さも色気として匂わされている。
ここのメロディは「お月様~」「笑ったら~」「ばらばら~」と、すべて「ア」の音で伸びやかに歌えるようになっておりまして、しかも「マー」とか「ラー」とかの原始的で綺麗な子音。僕の声の魅力(!)が抜群に引き出されるところ。冒頭でこういう気持ちいい箇所があると嬉しいですね。
>指先すべてが美しい
「すべてが美しい」というのは18年前に書いた『
全てが美しい』という詩のから。個人的には、近しい世界観のもの。この詩情を歌いたいと思った。
「指先」とつけたのは、その古い詩の実質的なラストフレーズ「土の混じった爪の垢」というのを意識しているが、そんなことはべつに関係なくただ単純に「指先すべてが美しい」というのは素敵なフレーズだと思う。ここに関しては説明できない。これをわかってくれる人は僕に近い詩情を持っている人なんじゃないかな。
>目に見えぬものたちも
神秘的なものへの礼讃と親愛。形而下、形而上を問わず、美しいものすべてを引き連れて僕は歩いてゆくよ、という宣言でもある。
このメロディは「も~」「と~」とオ段で伸ばすのが気持ちいい。「なかよしお月様~」は音が上がっていくのでア段が適していて、ここは音が下がる部分なのでオ段が気持ちいい。僕の声と歌い方だと。個人的には小沢健二さんっぽさは(あるとしたら)こういうところに宿っていると思う。音の下がる時の「オ~」は彼の曲によくある。「あふれる幸せを祈るよ~」とか「誰かにとって特別だった君と~」なんかが典型。
「ね~」とエ段で伸ばすのが一カ所あるが、ここは切なさを強調したい部分だからちょうどよいし、そのあとがハミング(歌詞に表示はないが、「さらば友よ」と同じメロディで歌われる)なので他の部分とは差別化できていたほうがいい。
>あっちかな こっちかなって どうにかなってしまいそうです
「かな」という音がこの曲の最大の肝である。「かな」とは僕の本名に入っている「哉」という字の読みでもあって、詠嘆と疑問を表す。
僕が常々主張する「かもしれない運転」のような態度を象徴的に示すのが「かな」という音なのである。小沢健二さんでいえば、『飛行する君と僕のために』という曲にある「大丈夫かな? これでいいのかな? 半信半疑 本当のことを運んでゆく」というところに重なる。岡林信康さんでいえば『自由への長い旅』における「信じたいために疑いつづける」というやつ。
それにしても「こっちかなって」と「どうにかなって」をかぶらせるのは非常によくできた言葉遊びである。高1からの親友であるぺ~こ氏に、小説の下読みをしてもらった時だったかな、「やっぱジャッキーさんは奥井亜紀さんみたいな言葉遊びが好きだよね」みたいなことを言われたのを思い出す。こういうの本当に好きだし、何より歌ってて気持ちいいのだ。
「どうにかなってしまいそう」というのは、「あやしうこそものぐるほしけれ」のリスペクトでもあります。一応。随筆とは筆に随(したが)うと書く、文字の散歩なのです。この「少年Aの散歩」は、現代版の徒然草だと思っておりますので。
ここも実は言葉遊びで、後半まで聴くとわかるんだけど「どうにかなって」というのは「狂っちまう」って意味と、「なんとかなる」っていう意味とのダブルミーニングになっております。
ここを「です」で締めくくるのはいろんな解釈ができそうですが、はっぴいえんどとかサニーデイ・サービスとかそういう系の雰囲気を出したかったのは一つあります。あともちろん井上順の『お世話になりました』ですね。「明日の朝この町を僕は出てゆくのです」から始まる、別れの曲。
>お散歩遠くに手を振って
中村一義『永遠なるもの』の「平行線の二本だが手を振るくらいは」というのを僕はイメージしました。
>誰か笑ったら
「なかよしお月様」は9音、「誰か笑ったら」は8音、「みんなばらばら」は7音、というふうに、このメロディはだんだん音符に対する文字数が減っていくようになっています。だからなんだってのもないけど、なんか良くないですか? どんどん伸びやかになってゆく感じ。
ちなみにここだけ「G→C→D」ではなく、Cを飛ばして「G→D」と弾いてます。これもアクセント。すでに書いたようにここは切なさのある、ちょっと差別化したい箇所なので。
大好きなKannivalismの『きみミュージック』という名曲は、ほぼ同じメロディなのにくり返されるたびにコードやリズムがちょっとずつ違って、聴き飽きないようになっております。それをやりたかったのもあります。
>耳を澄ましていいんだね ひとりでもいいんだね
「いいんだね」を2回重ねるのも、上述した「差別化」の一環。
なんというか、めちゃくちゃいいですよね、ここ。
このあとハミングになるのは、「耳を澄ましていいんだね」と「聞いたかな」をつなぐ箇所だから、あえて言葉をなくしたという感じ。風の音みたいなイメージかな。
>聞いたかな ゆったかな 豊かな悲しさの日々
ここはたぶんけっこう人気のある箇所で、「豊かな悲しさの日々」というのは心にしみる名フレーズでございますなあ。
「ゆったかな」が「ゆたかな」にかかっているのは当然ですが、そのあとに「かなしさ」が来るのも凄く面白いと思うんですよ!
「日々ぃ~」は中村一義の『ジュビリー』にある「日々~」という部分をイメージしました。イメージしただけ。べつに深い意味はありません。が、ここで「意識しました」と書いているのはすべて名曲だし、みな僕が言いたいことを歌っている曲たちです。
説明するのは野暮でしょうが「豊かな悲しさ」というのは、わかる!って感じしませんか。豊かさってのは実はかなり多くの悲しさによって成り立つというか、積み上がっていくものであるという、人生ってそうだよね!的な、はい。
>お散歩遠くのガンダーラ
ガンダーラといえばゴダイゴですが、僕はこのバンドがとても好きで、夜学バーで最も多くかけていた音楽の一つ。その想い出もあって使いました。
ゆえにここでいうガンダーラとは天竺的な、理想郷みたいな感じ。
>みんなばらばら
みんなそれぞれ遠くに歩いていって、それぞれの理想郷へ向かっていくよね。それによってばらばらになってゆくよね、という話ですな。(野暮な説明)
>いろいろあるから目を閉じて 今日愛する人たちと
ここも、人生とか生きていくって、時間が流れるってのはそういうことだよね、という感じ。それぞれに何かを封じたり、何かを特別に重んじて生きていくのです。
>さらば 友よ
これは藤子不二雄A先生が、F先生のお亡くなりになった時に描いた漫画『さらば友よ』を意識しております。この作品の最後には同名の詩(A先生作)が掲載されております。
《あの日ぼくは きみと出会った/まぶしいあこがれの 季節のさなかに//ぼくは きみと会い/きみとたたずみ きみと語り/きみと走り/きみと立ちどまり/きみと泣き きみと笑った//やがて時が過ぎ/きみと別れの日がきた…/さようなら きみのぼく/さようなら ぼくのきみ/さようなら さようなら》
藤子ファンは、「さらば友よ」と聞いただけでこの詩を思い出し、自動的に涙があふれだすものなのです。
歌としての観点だと、「アアア オオオ」という母音になって、非常に美しい。
同メロディで歌詞があるのはここだけなので、かなり印象的なはずです、理論上。
>散ったから あったから 宝のありかにも似た
「かな」という音についての話をしましたが、本作におけるもう一つの大切な音は「から」です。
ここまで「ガンダーラ」「ばらばら」「いろいろあるから」とラ音の脚韻を重ねてきた伏線がここで回収されるわけですよ。ところで「いろいろあるから」は8文字の中で1つおきに4つもR音が出てきて綺麗ですよね。褒めてよね。
「から」というのは論理の象徴でもあります。AだからB、という因果は論理や理屈といったものの基礎。僕という人間の思想は「かな」と「から」でできている。疑問と論理。
「散ったから」というのは「熱はただ散ってゆく夜の中へ」(小沢健二『昨日と今日』)というのが意識されたフレーズ。←こういうのはオタクだから書くだけであって、作品の鑑賞とはとくに関係ありませんよ、あしからず。
散ったということは、かつてはあったということ。散ったからあったと言えるのかもしれないし、あったから散ったとも言える。マニアックな話だが拙著『小学校には、バーくらいある』の帯の見返しにこっそり書いてある「ひらけばつぼみ」「とじればおはな」とちょっと似ている。
「あったから」と「宝」という言葉遊び。
「似た」というのは、まあ「完璧な絵に似た」(小沢健二『ラブリー』でたまに歌われる歌詞)を意識した、かも。
あとはもう、100回くらい聴いていただければ、なにか感じていただけるかもしれません。
>あっちかな こっちかなって どうにかなってしまった
ここで、「どうにかなる」というののもう一つの意味が浮かび上がるのであります。「なんとかなる」のほう。
>あっちかな こっちかなって どうにかなってしまったから
>(繰り返しなので略)
>あっちかな こっちかなって どうにかなってしまいそうかな
「から」と論理をやったあとで、やっぱり疑問の「かな」で締める、というのが、僕らしいカナと思ったのでありましょう。
「かな」ってかわいいし。
以上がとりあえずの解題。こんなもんは僕が好きな蛇足というやつに過ぎない。誰も気づいてくれないだろうし、自分でも忘れてしまいそうだからメモしたようなもの。まあこれをほんとに小一時間で作ったのは褒められていいと思うので、褒めてね。言えば言うほど、誰も褒めてくれなくて、孤独は深まり、また歌や文章が量産されて、みなさまは嬉しい、みたいなことありますけど、あまりにも褒められないと腐ってしまいますから。脅し。
曲を作っていたことは本当に誰にも言っていなかった。言いたくなったけど我慢した。当日の夕方に完成したわけだから、誰にも言う隙がなかったってのもあるけど。
夜学バー閉店直後、真夜中のライブ本番で、前座のまちくたさんがまず小沢さんの『昨日と今日』をやった。「熱はただ散ってゆく夜の中へ」という歌詞が含まれる曲で、ああ今夜にぴったりだし、僕の作った曲にも通ずるなと思った。
それで長渕剛の『乾杯』をやるのかと思いきや、それは好きなミュージシャンにちなんだフェイクだったそうで、実は新曲を作ってきていた、と。『
風葬』という曲で、とても良い。これは自分と僕と、夜学バーへのラブレターですよね。きっちり別れの曲でありながら、完璧に前を向いている。すばらしいよ。
彼女も誰にも言わないで、こっそり曲を作って、本番でいきなり発表した。僕も同じようにした。何も示し合わさず、まったく同じことをしたってのが本当に笑える。ただ、向こうが作ってきたのはロックで、僕のはフォークだった。いや、彼女が曰く、僕の歌は童謡だという。それもわかる。ジャンルでいえば「フォーク童謡」ってんだろう。前にひとり芝居の挿入歌としてつくった『大横川の歌』なんかもう、完璧に童謡だったし。
「いつか誰もが花を愛し歌を歌い 返事じゃない言葉をしゃべり出すのなら」とは、小沢健二さん(またかよ)の『天使たちのシーン』って曲の歌詞だけど、本当に「返事じゃない言葉」ってのは名フレーズだ。対等ってのはそういうことだとしか思えない。
夜学バーが終わったあと、このライブなるものをやってみて、対等ということが肌身に沁みてわかった。僕がこんなにも多くの人たちに囲まれながらも孤独だのとのたまうのは、贅沢にも対等を渇望しているからだ。この偉大すぎる自分(自分で言うよ、言わないと逆にいやらしいからね!)に対等に立ち向かってきてくれる人を求めている。
まちくたさんという人は、たぶん意識してそうしてくれているのだと僕は思っている。放っておけば僕のことは尊敬して終わってしまう。それじゃダメなんだって彼女は自然に知っている。下手に出ることを僕が一切望まないのだということをわかってくれている。と、思う。
また、あすかさんという方が
こんな文章を書いてくれた。10歳ちょっと年下だが、まったく対等に向き合おうとし続けてくれている。ずっと。ありがたいことだ。この文章は、さすがに僕は泣いちまったね。あと、別の友達の
この文章も僕は好きだ。ありがとう。
ライブには実はもう1人、29日に来てくれた古い友人にその場で「明日ライブやってよ」と声をかけて、出てもらった。黒井46億年である。ライブを終えた彼の帰り際、僕はエレファントカシマシの『男は行く』という歌にある、「俺はお前に負けないが お前も俺に負けるなよ」という言葉を贈った。まちくたさんとあすかさん、そして僕に共通するのはこの精神だろう。
黒井46億年は6年くらい音楽活動をしていないようだし、10年くらいは新曲も作ってない(正確な年月はわからない)。それで僕はだいぶ強めに「音楽をやれ! 曲をつくれ!」と突っついた。そんなもん本人の自由である、ということは百も承知だが、そういうこととはまったく別として、「おれの好きなおまえは昨日までの6年間のおまえではなく、今日ライブをやったお前なんだよ、君だってそうじゃないのか?」ということを問いかけたのだ。そしたらまんまと「9月に新音源を出す」という宣言をTwitterでしていた。実現するか、現段階ではわからない。僕は待っている。
6年ぶりのライブ(ちなみに6年前も夜学バーだった)で、ギターも実家に送っていて練習できず、歌詞カードは新たに手書きして、現場で初めて手にしたアコギでの演奏は当然ミスだらけだった。しかし何人かはけっこう本気で感動していたし、僕も嬉しかった。それでいいのだ。
普通なら「6年もライブやってないし、ギターも実家送っちゃったんで無理ッスよ。それも明日の深夜にだなんて」と断るもんだと思うが、彼はちゃんと来た。やりきった。僕が本気だったのがわかったからだと思う。それで無理してでも対等というステージに立ってくれたのだ。
実際僕は全身全霊で9曲やって、うち1曲は書きおろしのオリジナルだった。そして「こうして下手でも曲作ってライブできてるのは黒井くんのおかげ」と高らかに言った。そのことが熱き感激屋の彼に影響しなかったわけがない。その熱を必ずや持続させていただきたい。
改めて自分の名言を置いておこう。「対等とは、対等であると仮定することから始まる」。20歳くらい年の離れたまちくたさんでさえ、「ジャッキーさんとは対等である」という仮定を、まずしてくれている。こちらだってそうだ。だから対等に渡り合える。対等とは、お互いに「対等である」と仮定し合っている関係にすぎない。
しかし、その仮定が、できない人にはできないのである。何かがそれを阻害するのだ。主には、常識が。あるいは、臆病な自尊心が。
対等を仮定できる人間には覚悟がある。そしてそこからしか対等は生まれない。僕だって本当に尊敬している人にはまず対等と仮定するだなんて難しい。だけどやるべき時にはやるしかない。とにかく堂々としていることだ。しかしそれは尊大であることとは違う。謙虚に堂々、そのバランスをまずは知ることであろう。
返事というものは、「相手から受ける」ということが前提にある。当たり前だけど。でも対等ってのはそうじゃない。お互いにぴーぴー鳴き合っているだけでいいんです。
こんな長々と読んでくださった方のために書いておきますが夜学バーはたぶん9月頭くらいに、元の店舗からものすごく近いところで「復活」します。そこはいっそう対等ということを深く考えた空間にできればと思っております。(対等についての
参考記事←ここからリンクを遡りまくれます)
「耳を澄ましていいんだね ひとりでもいいんだね」というフレーズが僕は最高に好きです。「いいんだね」と自分で思えること、それがすべての出発点であるような気さえします。誰かに許可をもらうんじゃなくって。
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