少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2021.4.27(火) セルフ聖地巡礼(自伝2)/西に開く
2021.4.25(日) 自由忌(ALL HARMONIES WE MADE)
2021.4.24(土) 緊急事態宣言
2021.4.22(木) 補足と覚書
2021.4.21(水) 古典に旅だつ
2021.4.16(金) 実績は真っ先に自分を騙す
2021.4.9(金) 雑記 神通力(予告編)
2021.4.4(日) 雑記 時間は人と比べられない
2021.4.3(土) うまくいっていない人は歩きましょう

2021.4.27(火) セルフ聖地巡礼(自伝2)/西に開く

 午前のぎりぎり自転車で出立、南下して新大橋をわたり人形町を通る。初めの目的地は中野坂上なれど「O珈琲」の様子を確かめるため迂回、果たして「CLOSE」の文字と灯りのない店内。インターネットでも1年か2年情報がない。
 日本橋、東京駅の北側を通って竹橋から皇居と武道館の合間を抜けて千鳥ヶ淵へ。緊急事態宣言など知らぬ風に人出はどこも多く、しんみち通りはランチタイムで人いきれ。四谷四丁目の交差点で停め突発的にA社を訪ねる。5階に登ると社長のみおり、小一時間雑談と軽い打ち合わせをする。いつ行ってもたいがいいるし、事前に知らせずとも嫌な顔一つしない。昔ながらの「システム」が実に心地よい。
 新宿二丁目と歌舞伎町の様子を見る。普通の人がたくさん歩いている。昼はこんなものか。職安通りを西へ、「おざ研」跡地は未だ更地。取り壊しのため退去させられてからもう6年近く経つのに何もできていない。だったらもうちょっと使わせてくれたってよかったのに。ちょっと前にある女の子から「あそこは私の青春です」と言ってもらえて嬉しかったのだが、そういうふうに思ってくれている人はたぶんそれなりにいるのだろう。当たり前だけど、僕もそうだし。自分で言うけど、あんな場所は後にも先にもありませんよね。意外と、ないんですよね。ああいうのは。(気になる方は↑のURLなどから研究をお進めください。)
 稲垣商店は相変わらず坂上バーガーとお弁当を売っているし水曜発売のはずのサンデーとマガジンを並べていた。犬の看板を右折し喫茶モンプチを存在確認、そのまま堀越学園に抜ける道すがらにある我が旧居を目視。想い出ストーカー。とっくに他の人が住んでいるのだからもう何も関係はない、理屈では知れどやはり見に行ってしまう。住んだ数年間が一斉に胸に広がる。別に聖地巡礼のつもりはなかった、本格にするのならまず上京してから11年住んだ練馬区富士見台に行かねばならぬ。
 昼ごはんをどうしてもカレーにしたかった。Aという馴染みの店でジンジャーあずきカレーと秘伝のドライカレーのハーフ、サラダ、ホットコーヒーそして粟島の千代華(ちよか)という和の焼き菓子(とでも言えばいいのか)をいただく。世間話をする。このわたりに住んでいた頃は目が覚めたらまずこのお店でカレーを食べていたものだ。坂上時代の聖地といえばまずはここ。それもあってか、ところでチャンベビの『コーヒー』という曲がとても好きである。サブスクにあります。
 山上の某所に自転車を置き、中野駅から中央線で国分寺。某喫茶で休む。今年で94歳になるはずだが足取りもお話もはっきりしている。耳も遠くない。僕もこのくらいずっと現役でいたいものだが、さて。
 なんとなし電車に乗るのが嫌になったので駅前でシェア自転車をレンタル。15分70円のやつ。地図を暗記してひた走り三鷹駅南、禅林寺近くの「成田光房」へ。ノックもせずに開けると目の前に成田さん。連絡もなしに急に訪ねたというのに嫌な顔一つせず昆布で昆布茶を作っていただき縁側に出て語らう。写真などさまざま見せていただき数年ぶりに詳しくレクチャー? を受けた。
 成田光房は成田さんという老爺の営むアトリエ兼ギャラリー兼自宅でちゃんと暗室もある。かつては湯島天神近くのかなり目立たぬ場所にあったのだが散歩で見つけて仲良くなった。一言で言ってどんな場所かといえば、たとえばこれを読んでいる若い人、すぐにでも三鷹市上連雀4丁目13-13(0422-26−6699)を訪ねなさい。平日と土曜の10時から17時くらいの時間ならいると思います。たぶん日曜や祝日でも。「オザキさんの紹介で」とでも告げれば何も怖くありません。そして若くない人、何だろう? と思ったら訪ねてみてください。とにかく稀有な場所なのです。ああいうものは、昔はけっこうあったのかもしれないけど、今見つけるのは至難の業です。「こういうものがあるのか」と、今のうちに知っておいたほうがいい。成田さんが元気なうちに、さあ早く! そこから始まるのです。
 こういうものは人から人へ伝わるものだ、と成田さんも言っていたので、SNSで「行ってみて!」とは言いませんが、このHPならほぼ口コミと同じでしょう。今は特に、直接伝えられる機会も減っているし。ああいう場所を知ることは、必ずや自らを豊かにするはず。
 思ったより長居してしまった。いったん吉祥寺駅前で自転車を返却、歩いて喫茶Pに行ってみたが閉まっていた。また少し歩いて再び自転車を借りて西荻、荻窪と進む。かつて勤務していた女子校の前を通る。聖地、聖地。18時すぎ、阿佐ヶ谷の1番街はほとんどのお店が閉まっていた。中野サンプラザで自転車を返して某所で自分の自転車に乗り換える。馴染みの中華屋雪だるまは5月11日までお休みとのこと。ちょっと前までは17時から20時って感じでやってたんだけど、お酒が飲めないってなるとさすがにってことか。もう50年ここでやっているお店。マスター元気でいておくれ。
 西新宿の喫茶マックスは18時くらいで閉めたのか片付けをする姿が見えた。くるりと曲がって新宿中央公園、かつて「新宿青姦遊撃隊」「花見沢俊彦」「ランタンZone」が開催されていた聖地である。横目に見てグッときながら坂を登る。青姦と花見沢についてはこちらのサイトの下のほうに関連URLまとめがありますので研究を進めてください。※主催は僕ではありません。中心人物が未来(会津)に帰ったので途中から僕が引き継いだものです。

 お腹がすいてきた、新宿は(感染症的に)怖いのであんまり飲食店にも入りたくないが、あまりにペコなので仕方ない、できるだけ大人しいお店を選ぼう。長野屋に行こうか? と思ったが、たつ屋にした。20歳前後からたびたび通っている青春の店。あの頃とぜんぜん変わらない。悩んだすえ牛丼の並にした。いつもそうだ。美味しい。新宿で一番好きな食べ物屋さんだな。ぜひ。
 19時を過ぎた。区役所の向かいに自転車を停め、ゴールデン街を歩いてみる。ほとんど明かりがついていない。一つの筋につき営業しているのは5店舗前後、という感じ。街全体でせいぜい20〜30店舗くらいだろうか? 開いているのは多く見積もって10軒に1軒くらいだと思う。そのうちのほとんどが、おそらくアルコールを提供している。満席のお店もいくらかあった。「ノンアルで営業します」と店頭に明示していたのは僕が見回った限り3店舗のみだった。
 そのうちの1軒、HALOというお店が気になった。「本」を売り(の一つ)にしているようだ。比較的新しいお店。お客が誰もいないようだったので入ってみた。バナナジュースを注文し、少し話す。「自分の人生を変えた本」をお客さんが持ち寄っているとのこと。この状況で、アルコール抜きで20時まで、という縛りを受け入れて、正々堂々やろうとしているのが素晴らしい。「本」をテーマに掲げ出したのは去年の6月から、つまり前回の緊急事態宣言が明けてからで、バナナジュースもそうらしい。こんな時だからこそ新しいことをやりたい、という気概、イイジャ ナイノ。行ってみてよかった。
 僕もかつてはゴールデン街明るい花園一番街の「無銘喫茶」というお店に毎週木曜、立っていたのである(木曜喫茶)。初めて通ったバーもそこだった。冒頭に寄ったA社の社長が当時はオーナー兼水・木の店主だった。その後オーナーが変わり、どんどん僕の知っている感じではなくなっていったようだが、内装などはほとんどそのままのようで嬉しい。今日ももちろん、そのお店の前を通った。たたずまいはまったく変わらない。永遠にそうであってほしいものだが。
 物見遊山は風まかせ。その後、歌舞伎町をぶらりと歩いた。普通の人は一人もいないが、いわゆる「歌舞伎っぽい人」は全員いる、という感じ。みんなめちゃくちゃ元気。それにしても歌舞伎町はいつ歩いても懐かしい感じがする。20年前と比べたらわからないが、15年前からだと意外と変わらないものも多い。青春のカレー屋シディークはなくなったけど、コーヒーショップクールはまだあるし、20時を過ぎてもしっかり営業していた。さすがである。入らなかったけど、やってるだけで心強い。
 二律背反である。歌舞伎町がちゃんと静かになって、みんなで大人しくしていたら感染症がおさまりやすくなるのは明白、しかし世の中にはこういう場所がなくてはならないし、どうしても存在してしまう。そういう歌舞伎町の姿を見て、不安と同時にまた心強さも湧いてくるのだ。歌舞伎町の人たちが歌舞伎町のみに閉じていてくれるならあまり問題がないのだが、彼らの一部は昼間歌舞伎町の外にいる。そこが問題といえば問題なのだろう。
 人間の弱さと強さ。人間らしいとはどういうことか。両極があって、どっちが正しいというのでもない。ただみんなが自分なりにバランスをとって生きていく。必死に。愚かなるも賢明なるも。
 人殺しが街のゴミを一つだけ拾う、というような希望もある。それだって世の中の全体を、ほんの少しだけ「いい子」に傾かせるのだ。人を殺す。それはとりあえず止められない。仕方がないのだ。ゴミを拾う。それはそれとして独立して、街を少しだけ綺麗にしている。
 自転車でまた10キロ走って墨田区の自宅に帰る。新宿やそのさらに西のエリアはすっかり遠くなりにけり、だが時間を見つけてたびたびこのように訪ねありく。東京に閉じてはいけない。東京の東側にのみ閉じるなど笑止。「界隈」は否定していきたい。50キロ近く走ったので、心地よく寝た。

2021.4.25(日) 自由忌(ALL HARMONIES WE MADE)

 尾崎豊の命日。物心ついて間もなく亡くなった。『OH MY LITTLE GIRL』がドラマ主題歌としてリバイバルしたのが小3の時で、全部覚えて歌っていた。後に不良となった兄がどハマりして一日中家に鳴り響き、ほとんどの曲を覚えることになる。その時は『Forget-me-not』なんかが好きだった。フツーであろ。

 尾崎については何度か書いた。「自由」とやはり切り離せない。古い文章で恥ずかしいけど2015年12月12日の日記は尾崎豊を下敷きにして自由を考えた文章としてはそれなりにまとまっていると思う。去年の今ごろ、つまり命日付近である2020年4月26日の日記もわかりやすいと思うので、良かったら。
『存在』という曲について触れた2013年7月22日の日記でも自由について考えていた。

 受け止めよう 目まいすらする街の影の中
 さあもう一度 愛や誠心(まごころ)で立ち向かって行かなければ
 受け止めよう 自分らしさに打ちのめされても
 あるがままを受け止めながら 目に映るものすべてを愛したい
(尾崎豊『存在』)

「愛や誠心で立ち向かって行かなければ」という決意は、僕でいえばまさに昨日書いた「いい子の世の中」にしようって想いとたぶん同じ。
 自らに由(よ)って生きる人たちが調和(harmony)して世の中ができる。それがうまく行かないのが「悪い子が強い世の中」。
「いい子の世の中」は、自由な人たちが調和する世の中。
 愛や誠心を持った人たちが、自分のこととみんなのことをバランスよく考えている世界。

 最近考えていることの中心に「自己決定」というものがある。
「あなたが決めたんだから、いいよね?」というときのニュアンスである。
 たとえばリベラルな思想を持った芸能人が、7歳の子供に「テレビ出たい?」と聞く。子供は「出たい!」と言う。「全国の人たちに顔と名前を知られて、芸能人の子供だってこともわかっちゃうけど、いい?」と聞く。「いいよ! テレビ出たい!」と子は言う。
 これで「自己決定」の手続きは完了である。
 このあと、「やっぱテレビなんか出るんじゃなかった」と子がぼやいたとしたら、親はこう言うことができる。「君が出たいと言ったんだよ」。
 こういう場合、「自己決定」は「自己責任」とセットだというわけだ。

 親も先生も、何かのコーチも先輩も上司も、すぐにこう言う。
「きみがやろうと決めたことなんだから、責任を持って最後までやるべきだ」
 これも「自己決定=自己責任」である。
 僕はこういう考え方をまったく好まない。仲良しの発想じゃない。
 仲良しの発想とは「調和」である。
「きみが決めた」などといった個人の事情などどうでもいい。
 何かあったら「困ったねえ」から始まるのだ。

「やっぱテレビなんか出るんじゃなかった」「困ったねえ」
 と、こう。
 で、「どうしようかねえ?」と続く。
「こうしたらどうだろう?」「いや、こうしては?」と続いていく。
 それでいつか、きっと「こうだよね!」「そう、それだ!」がやってくる。

 自己よさよなら。個人なんてもう、考えない方がいい。
「どうなるか」だろう、大事なのは。
「あなたが決めたことだから、それはあなたの問題であって、私には関係ない」ではない。
 だって、関係があるのだ。少なくとも、どこか遠いところでは。
 そう思うことも仲良しの発想。「遠く遠く繋がれてる君や僕の生活」。

 同様に、「これは私の問題であって、あなたが口を挟むことではない」というのもやめにしよう。「うっせーな!」で済ませたい。誰の問題であるか、なんてことよりも、「不快だ!」と言った方がまだ正確だもの。だってどんな問題だって、それが誰のものなのかなんて、誰にもわからない。
(僕ならそんなとき「君の介入は役に立たないからやめてくれ」と言いたい。)
 しかしもちろん、「ねえ、どうしよう?」「困ったねえ、どうしようか」「こうかな?」「どうだろう。こうとか?」「うーん、こう?」「そうだねえ、ちょっと考えてみるね」なんて感じだったら、ただ仲良しの日常をやっているだけで、そもそも「介入」ですらない。

 自己決定と自由は、似て非なるものである。正反対と言っていい。
 自己決定=自己責任という考え方には、調和がないからである。
 自由とは、調和を前提としたものでなければならない。そうでなければワガママだから。
 殺す自由を謳歌したら、生きる自由を侵してしまう。だから調和がなければならない。

「いいって言ったんだからいいんだよね?」というのは、「言質を取った!」ということでしかない。そこから自由は制限されていく。
 あなたはこう決めたんだから、あなたはそうするしかないのです! と、行動が決定に縛られていく。自縄自縛とはこのことだ。
 でもよく考えてみますと、人が一人で決定できることなんて本当はありません。あらゆるものとの関係の中でしか、人は行動できないからです。実はみんなで決めているのです、すべて。
「決定」などない。
 意思があるだけ。
 そして意思は調和をめざす。そうでなければワガママだから。
(そして意思は言葉を変え、言葉は都市を変えてゆく。)

 スクランブル交差点を誰ともぶつからず渡りきる。
 みんな笑顔で、手を振るくらいで。

2021.4.24(土) 緊急事態宣言

 感染する人が少なくなることを僕は願うしみんなもそうだとここでは仮定します。
 そのために様々なことを制限しましょうという動きが今世の中にある。
 政府や自治体はそれを効果的(現実的に妥当な内容)と信じて行う。
 しかしその一連の制限について、妥当ではないと思う人たちもいる。なぜこれを制限するのか? これについては制限しなくてもいいのではないか? とか。もっと制限しろ! という人もいると思う。いろんな人がいる。
(「そもそも感染を抑える必要はない!」という考えもありますがここでは無視します。)

 これから書くことについて早とちりしないでね。
 途中で「ああ、そういう主張ね」と読むのをやめた場合、それとはずいぶん違った内容を全体としては述べている可能性が高いと思います。

 とにかく感染を抑えたい、とする。
 制限をせずとも感染がおさまるなら、何も制限する必要はない。みんながウィルスの特性についてよく学び、よく知り、可能な限りの努力をすれば、何も制限せずとも感染は収まると僕は思う。映画館も演劇もライブも、飲食店も通常通りでいい。酒だって飲んでいい。
 くれぐれも僕は、「制限しなくても感染がおさまる可能性がある」とだけ言っています。
 映画は黙って見ればいい。演劇は換気をよくして、前のほうの席を(役者の唾液が飛ばぬよう)空けるくらいのことはした方がいいかもしれない。ライブは叫び声を上げず、暴れずに目と耳を中心にして楽しむ。飲食店でも、換気してそれなりの距離をとって小声で話せば問題はないはずだ。全てにおいて、喋る時はごく小声で、距離や方向などもよく考えてする。全国民が!
 お酒だってそうやって飲めばいい。上記のような努力を維持し続ければいい。声を大きくしなければいいし、不要に身体的距離を近づけなければいい。
 でも、そうする人が(必要なよりもずっと)少ないから制限が必要だと行政は考えるのです。
 僕もそうだと思います。おわり。
 日本にいるすべての人が、まあ乳幼児とかを除いて、上記のような注意を理性的に常にできるのなら、まあ少なくとも僕くらい意識してするのなら、何も制限なんていらないのです。
 飲食店も24時間営業していいし、お酒だって出していい。でも、暴れる人、騒ぐ人、うるさい人がいるから、制限が必要だというだけ。
 移動が悪いんじゃないし飲食が悪いんでもない。エンタメが、娯楽が悪いのでもない。ただ「感染力を持っている場合に他人に感染させる可能性の高い行動をする人」が悪い。
 そういう人たちの「せい」で、割を食っている真面目な人たちがいる。教室と同じです。
 たとえば8割の生徒が黙って授業を受けていても、2割の生徒が騒いでいたら、「騒がしい教室」になる。で、たいていそういう教室では、次第に喋る生徒が増えていって、最終的には7割から9割くらいの生徒が「おしゃべり」をするようになる。ひどい場合はほぼ全員が。
 それを「先生がいい授業をしないからだ」「指導力が足りないのだ」と責めるのが、行政を責める人たちです。
 騒いでるのは生徒たちなのに、それをうまくコントロールできない先生が責められる。
 感染を拡大させているのは「国民」なのに、それをコントロールできない「行政」が責められる。
 仕方ないから「授業中の私語は禁止! 成績を下げます!」と言えば、「圧政だ!」と声が上がる。「自由を!」と。
 今はそういう状況です。文句を言っている人たちは、僕にはだいたいそう見えます。
「生徒気分」が抜けていない。無意識なのか、自分が何かの「庇護下」にあると思うらしい。「支配下」ならばまだわかるけど。

 行政(国や自治体)のことを先生だと思ってる。学校だと思ってる。
 もうやめようよ〜そんなこと。って僕はほんと、単純に思います。いつまでそんなつまんない子供なの?
 おもしろい子供になんなきゃだめよ。

 みんなが大きい声を出すと、感染の広がる可能性が高まるでしょ?
 みんなが小声で話せば、感染の広がる可能性は低くなるよね?
 授業でも一緒で、大きい声で話すから、うるさく感じるのです。みんなが小声で話せば、そんなに気にならない。一番いいのは無言だけど、それじゃ息が詰まっちゃうし、つまんないから、僕が現役の教員だった時はずっと「声帯をふるわせるな〜」って言ってた。それで「なるほど!」と思って本当にそうしてた子は、感染にも気をつけられてるんじゃないかな。思い出してくれてたら嬉しいんだけどな。

 授業を成立させる努力をおこたり、先生や学校のせいにする生徒たちが(かなりたくさん)いるから、校則とかルールが増えたり、厳しくなったりしていくのです。学校ならそれで仕方ないのかもしれない。みんな小さいんだもん。
 でも今問題になっていることに関しては、大きい小さいは関係ない。いわば平等に感染を広げている。平等にみんなが、感染をコントロールする力を持っている。
 真面目な子たちは力として弱くて、負けちゃったから、「制限」が必要になっちゃった。そんだけの話。
 敗北したんだからしょうがないよね。
 敗北した真面目な人たちは可哀想かもしれない、でも、仕方ないよね。だから僕たちは、真面目な人たちをもっと世の中に増やすよう努力しなけぁいけない。極めて広義の教育によって。
(極めて広義の教育ってのは、あなたの道の歩き方とか表情とか、そういうことも全部含めてってこと。それを見ているのが子供だろうが老人だろうが関係なく、それは教育なんだと僕は考えているのです。)
 現状、この世の中は、真面目な人たちの勢力が弱いってこと。
 それは仕方ないよね。「嫌だ!」と思うなら、力をつけなきゃ。教育をしなきゃ。それをサボってたから、今、負けてるんだからね。
 人のせいにしちゃダメなのよ。今からでも遅くない。少なくとも自分の周りくらいは、安全度を高められるかもしれないんだし。いい子の責務よ〜。

「映画館では感染しません!」とか「書店では感染しません!」とか。
 言いたいことはわかるけど、映画館に行ったついでにみんなで居酒屋に行って、酒飲んでガハハと酔っ払って、そのままキャバクラに行く人だっているんです。想像以上にたくさんいるんです。
 それは「悪い子」ですよ。でも悪い子っているからね。
 いい子だけの世の中じゃないんだもん。
 映画館行って帰りにチューして、それで感染して、家族にうつして、その家族がギャハハーな飲み会に行ったりしますからね。
 本屋さんの店員が帰りにダーツバー行って騒ぎ散らすかもしれませんしね。
 そういう人たちを野放しにしてた責任は、やっぱ全員が持つんじゃない?
 いい子は、いい子でいたいならちゃんと頑張んなきゃダメなんだよ。ずっと。みんながいい子になるように、諦めないで。
 それを「損じゃん!」って思うのは、悪い子なんだって、そう思わないと、ほんとに悪い子になってっちゃうからね。自分が。そんなのやじゃん。

 これはいい子と悪い子の勢力争いなの。で、それでいい子は負けてるの。
 いい子の世の中にしたいから、僕はせいぜい頑張っているよ。みんなも頑張ってよ。お願いします。

2021.4.22(木) 補足と覚書

 まだ読んでないんだけど(これから読む)世阿弥の『花鏡』には「離見の見」という用語が出てくる。能楽用語辞典では「演者が自らの身体を離れた客観的な目線をもち、あらゆる方向から自身の演技を見る意識のこと」とある。「自分を疑いなさい 多角的に見なさい そんなちゃちな物差しじゃ 絶対にサバ読んじゃうもん」と歌うのはcali≠gariの『フラフラスキップ』。
 某私立中学で23歳の僕が国語を教える教室にいた当時中2だった男子(要するに教え子)からメールが来た、イスラームのラマダンについて書いてあった。彼は10年以上にわたってたびたび連絡をくれては、新鮮な知見や発想を与えてくれる。ラマダンの断食は「食」から遠ざかることでむしろそれを強く意識するという意味があるようだ。またその期間は配偶者とも距離をとって生活するのだという。性や愛の対象を遠ざけることで、強くその素晴らしさ、有り難さを感じられるように、ということなのだろう。
 これらは「離れる」ということでありながら、「離れたところからそれを見る」ということなので、むしろその対象と仲良くするためのものである。古典を読むことが「自分自身を現代から隔離する」ことであり、同時に「隔離された場所から現代を見る」ということでもあるのと同じ。改めてよく知るために、離見の見をもつ。「海外に渡って日本を知る」的な、当たり前のことしか言っておりませんが。
 話は変わって「一つのことをする」が中心の時代はもう終わっていますよね。「たくさんのことをする」が当たり前になっています。一つの職場で働くのではなく、複数のところで働く。それによって各所で働く自分の姿それぞれについて「離見の見」をもつ。職場そのものに対しても、ちょっと離れたところから客観的に見つめ、改めてそこがどんな場所であるかを知る。
 囲い込む、囲い込まれる、というのはもうやめたほうがいいと僕は思うのですが、過渡期なればこそ既得権にしがみつく人はより必死になります。自分が望んでいるのは単なる「所有」に過ぎないということを、改めて自覚すべきと存じます。
 人間関係、すべて同じ。恋人や子や使用人が何をしていようが自由だ、ってのは根底にあって、でもそれは嫌だ! っていうのなら、持ち出すべきは常識ではなくて「あなた自身の自由」以外にはありません。それを持ち寄って相談したり落としどころをみつける、その手間を惜しんではなりませぬ。そんなこともわからないような遅れた(!)人間とは即刻の契約解除をおすすめいたします。

2021.4.21(水) 古典に旅だつ

 丸山眞男が(珍しく?権威のありそうな引用から始まる)、古典を読み学ぶ意味を「自分自身を現代から隔離すること」(『「文明論の概略」を読む』上P9)と言っていた。そのためにあえて現在流行していない古典、もしくは不評判なテーマに関わる古典を選ぶべしと。
 世阿弥『風姿花伝』を先ほど読み終えた。これから『三道』『申学談儀』『花鏡』あたりに進む予定。並行して正岡子規『歌よみに与ふる書』も読んでいる。高浜虚子『俳句への道』と三好達治『詩を読む人のために』もこないだ買ったのでこれから読むつもり。いずれも「いまさら」だけど、むしろ良いタイミングかも。流行でも評判でもないだろうし。
 世阿弥の考え方は僕が授業やお店づくり、人との接し方について考えることとかなり重なる。子規のは「古今集以後の和歌はほとんどダメ、俺が本当の和歌ってもんを教えてやる」というような話で、現代短歌が嫌いな僕はこのあたりから検討を始めるのが適当な予感がする。
 僕は現代に蔓延る短歌のほとんどが好きじゃないのだが、それがなぜなのかということを考えるのに大きなヒントとなりそうなのだ。自分が子規側につくのか、彼の批判する「歌よみ」側につくのか、そのどちらでもないのかはまだわからない。とりあえず岩波文庫で『歌よみに与ふる書』本編すべてと『あきまろに答ふ』を読み、ちょっと飛ばして『曙覧の歌』を読んでいるのだが、今のところ子規の言うことはだいたい好意的に理解している。
 それはそれとして最近の生活は相変わらず散歩と喫茶。とは言ってもここんところ毎日のようにお店に出ているのでなかなかまとまって歩くことがない。平日はおおむね13時から16時まで営業していた。起きるのが遅いので昼食を喫茶店でとり、お店に行って、その後時間があれば一軒か二軒寄って帰る。移動は自転車だからなかなか歩かない。今日は非番だったのでけっこう歩いた。明日から「15時から18時」というふうに時間をずらすので、またちょっとリズムが変わるはず。楽しみだ。
 古いお店にばかり行くからか、よく豆腐屋さんで油あげをもらったり、パン屋さんでパンをよけいにもらったり、喫茶店でもおにぎりやパンや柿の種なんかを特別に出してもらえたりする。だいたいはおばあさんのお店。コーヒーまたはミルクコーヒーにゆでたまごとトーストがついて250円(モーニングではなく終日)というわけのわからない価格のお店によく行くんだけど、たいていいちごジャムをつけてくれるし、こないだなんか200円におまけしてもらった。それはもちろん僕がかわいいから(!)なんだけど、そういうバッファ(?)のある世界観だってことでもあるんですよね。それこそ『三丁目の夕日 夕焼けの詩』みたいな、昭和30年代の感覚がそのまま残っているような感じ。
 古典を読み学ぶとは「自分自身を現代から隔離すること」と冒頭に引用した。もちろんそういう豆腐屋さんやパン屋さんや喫茶店だって「現代」の一部ではあるんだけど、相対的には「古典」であるとも言えるはずで、それを味わい学ぶことは「自分自身を現代(新しい風潮)から隔離する」になるのだと思う。現代しか見ぬのは視野狭窄、もっと広い視界を得なければならない。
 新しいものばかりを追っていると目の前のものしか見えなくなって、近視眼的になる。どうしたらもうちょっと引いた目線で見られるのかといえば、いったんそこから退くしかなくて、そのために古典は有用なのだ。いま目の前にあるものは、所詮一時的なもの、流行のもの。決して絶対のものではない。では普遍的なものとは? 本当に大切なものとは何か? なんてことも自分なりにわかってくる。
 ところでこないだとあるおばあさんのお店でお手洗いに入ったら、お客のおばあさんと「あの子かわいいわねえ」なんて話しているのが聞こえてきた。おお、やっぱり僕はかわいいのだ! 証拠をつかんだぞ! とじつに嬉しくなった。お店を出るときにはいつも「またきてねー」とか「モーニングも食べにきて」なんて声をかけてもらえる。なんか色々と時間がバグったような、現代にいて現代にいないような気にさせられて、瞬間あらゆる制約から解放されてしまえる。至福、だが古いお店は遠くなく消えてしまう。どうしたら古典を永遠に残しておけるのか? 愛するしかない。何を? いつも通りのお話ですが、時間をです。時間瞬間を愛する、その気持ちが詩情であって、あらゆる素敵なものの源なので。
「詩歌に限らず総ての文学が感情を本とする事は古今東西相違あるべくも無之」とは子規の言。僕はそのような文学的または芸術的なお店屋さんが大好きです。詩情ある空間をすこしでも。

2021.4.16(金) 実績は真っ先に自分を騙す

 30歳くらいになると持論ができあがってくる。結論から言えばそれでは遅すぎる。30歳くらいになってようやく持論が固まってきた人は本当にそこで固まる。それでそれしか言わなくなる。持論を持つのは早ければ早いほどいい。そうすると持論は自然と変化していく。変化することが当たり前になる。そりゃそうだ若いうちに考えたことなんて歳を取れば変わるに決まってる。しかし30歳の時に考えたことはひょっとしたら永遠に変わらないかもしれない。
 もちろん10歳の時に考えたことをずっと持ち続けることもある、でも変わる部分だってあるだろう? 永遠にそれでいこう。
 なぜ30歳くらいで固まりやすくなるのか、実績があるからだ。実績が裏付けをしてくれるから。若いうちは実績がない。いいかね、実績が土台になったらおしまいだ。
 実績はまず真っ先に自分を騙す。「こういう実績があるのだから、お前はそのままをやればいい」とそそのかす。しかしあらゆる状況は刻一刻と変わっている。二度と同じパターンは巡り来ない。だが人は騙されてしまう。楽すぎて。
 しまいには「考えたという実績」すら持ち出して「お前よりこちらの方が正しい」という確信を持つ。それで人の話を聞かなくなる。
 自分はお前よりたくさん考えてきたし、たくさんの結論を出し、判断をし、成功(や失敗)をおさめてきた。経験が違う。成功した回数も(失敗した回数も)違う。だからこちらの方が正しい。そのように考えている。どんどんみんなそうなっていく。
 もっと言えば、「正しいかどうか」ということを優先的に考えるようになる。歳をとるとはたぶんそういうことなんだろうな。
 しかし「正しいかどうか」なんてどうでもいいのだ。「自分はこれを正しいと思う」ということだけがあって、それの真偽は検証のしようがない。対抗できるのは「自分はそれを正しいとは思わない、なぜならば……」という反論だけ。「それは正しくない」と言うことはできない。当たり前のことなのに、なぜか忘れてしまうらしい。
「自分はこれを正しいと思う」と言う人に対して、「それは正しくないよ」と言うのが、「固まった」ということなのだ。あるいは、「どうしたらいいのでしょうか」と尋ねる人に対して「こうしたらいいんだよ」と(ギャグでなく)答えるとか。つまり、相手の広がりを自分の狭さの中に押し込めてしまう。
 ソクラテスは正しい。問答するしかないのだ。彼は「正しいかどうか」を最初には考えない。「君が正しいと思うそのことについて、今から一緒にチェックしていこう」という態度を取る(と僕は勝手に理解している)。点検である。
 ああ、実績の上にあぐらをかく人間は点検をしなくなる。
 実績はまず自分を騙す。「それでいい」と洗脳する。「お前は正しい」と甘く囁く。
 しかし、ここが一番大事なので繰り返すが、「正しいかどうか」などどうでもいいのだ。
 大切なのは「相手(他人)が何を言っているか」でしかない。自分が何を考えているか、などというのはどんな時も意味を持たない。
 自分が考えていることなど、単独では何も意味を持たない。関係の中で変奏され初めて意味を持つ。
 誰かが何かを言う。そうなんだ、と思う。わからないことや気になったことがあれば引き出してみる。そうなんだ、とまた思う。その上で、役に立ちそうなことが言えそうならば言う。「正しいかどうか」ではなくて「役に立つかどうか」なのである。それによって世の中は良くなるか。それだけ。

2021.4.9(金) 雑記 神通力(予告編)

 角テー申告〆切まぢか故あっさりとまあ。
 突然ですがドラゴンボールクイズ! 界王星で修行中の悟空が界王さまの飛ばしたレンガを教わりたての元気玉であっさりと破壊した際の界王さまのセリフは?
 もう一つ! 第1巻の冒頭における悟空の最初のセリフは?
 む〜〜んむんむん ではないぞよ。

 特に何も関係ありません。何かを言おう。
 今日書こうとしていたのは失われてしまう神通力についてのことです。もともとジンツーリキなんてたいそうなもんでもなかったのかもしれませんが。
 侍魂の健さん(懐かしいですね〜)が「テキストサイトができるのは学生のうちだけ」みたいなことを(7年くらい前の記事で)言っていたのをたまたま見た。なんで学生じゃなくなるとテキストサイトができなくなるのか? 「忙しいから」で済む話なんだけど、なんで忙しくなるのか? 忙しくなるってのは、神通力を働かせる余裕がなくなるというか、神通力を用いない時間が生活のほとんどを占めるようになるってことだと思うんですが、すなわち神通力なんてものに価値を認めなくなるってことなんじゃないかな。
 僕は神通力こそが全てだと思っている。言い換えればこれも詩だと思う。詩を失っちゃいけない。

「夢を失くしたらもう お空にゃなれないよ」
 久保田洋司さんが10代の時に作った『イタバリ・ローカ』という曲の歌詞である。
 この方はジャニーズにたくさんの歌詞を提供しており、僕の大好きな『ファンタスティポ』もそうだ。堂本光一さんのミュージカル『endless SHOCK』のテーマも作詞している。
「大空が美しい 届かなくても かつてそこに いた気がする」
 初めて聴いたとき、なんてすごい歌詞なんだ! と思ったら久保田さんだった。さすが。

 夢を失くしてお空になれなくなった人は、大空を美しいと思うくらいしかできないのかな。
 神通力とは「お空になる」ってことだろう。
 どうしてそれが他人事や過去になってしまうんだろうな。
「かつてそこにいた気がする」じゃなくて、「僕はお空さ」でいい。
 どちらの歌詞も凄いし好きだけど、それはそうとお空になりたい。

2021.4.4(日) 雑記 時間は人と比べられない

 友達や人付き合いのことを中心に、ザッパクとした近況。


 出会ったのは十年以上も前で、僕は大学を出て間もない非常勤講師、彼は中学二年生であった。それからつかず離れず仲良くしている。自分のお店でない場所で、一対一で話すのは久しぶりだった。数日前のこと。
 面白かった話のひとつを、僕なりに変奏して書いてみる。
 自分のからだは自分のものではない。
 ある教えでは、肉体というのは神がつくったもので、自分はそれに宿っているにすぎない、という。(そういう考え方をする宗教はけっこうあると思う。)
 実際、自分のからだのすべてが、自分の自由になるわけではない。
 身体というものは脳にとって他者である。脳にとって、あるいは意識にとって、心にとって、自分にとって、身体は自然の一部であって、自分の「外部」である。
 ただ、自分は自分のからだに「動け」と命令することができる。
 それしかできない。
 昨日書いた話につながっている。生きるとは、「現実を自分にとってましな方に変えて行くこと」なのだ。それは具体的に、「自分のからだに命令をする」ということによって実現される。
 人生は、ある程度勝手に動いていく。自分はそれを調整することができる。
 それしかできない。


 先月下旬、高校一年生の時の同級生と長電話をした。最後に会ったのは2018年らしい。顔を見ないで話をしたのは初めてかもしれない。
 出会った頃からお互いに「こいつくらいにしかわかってもらえない領域」というのを意識し合っていたと思う。面白いことが思いついても、それを面白いと思ってくれるのはこいつくらいなんだよな、という相手。学校ではそれぞれにそれぞれの人間関係を持っているけれども、たまに話す機会があれば「お互いにしかわかってもらえないこと」を共有し合っていた。感覚が合うからまとまった時間があれば「ボケにボケを重ねて大河となす」というような芸当もできた。発想の上に発想を積み上げて美しき城を作る。その貴重な関係が未だに続いている。
 この一年、僕が帰省できていないこともあって、あまりにも前回から間が空いてしまっていた。しびれを切らして「話そう」と持ちかけたのだ。日付の変わるくらいまで数時間繋げた。長い公園を歩きながらイヤホンマイクで話していたのだが、彼も同様に外を歩きながら話していたそうだ。こちらは東京で、あちらは名古屋。

 古い友達とは、生き方の種類やリズムがだんだんずれてくるものだ。「僕らは離ればなれ たまに会っても話題がない」とはよく言った。ユニコーンの『すばらしい日々』という曲の歌詞だが、それこそ高校の時にカラオケでよく歌っていた。皮肉な伏線である。三十代ならおおむね昔話か家庭の話に終始してしまうだろう。さらに年をとると病気の話や孫の話になるのだと思う。かつてはシーズンごとに会っていた友達も、次第に年に一回くらいになり、数年に一回になり……と、だんだんペースが緩んでくる。互いに変化がないからである。
 変わらないどころか、「つまんなくなったな」と思ってしまうような友達もいる。別にその友達が悪いのではない。そいつはそいつなりに、そいつの生活を全うしているのだ。友達から見たら「つまんない」でしかなかったとしても、本人にとっては充実と幸福のかけがえない日々だったりする。働いて結婚して子供がいたら、それだけでもう人生として過不足ない。他人から見て面白いかどうかなんてどうでもいいし、他人と話して「面白い!」と思ってもらえるかどうかもどうでもいい。
 ただ、気をつけるべきことがあるとしたら、子供たちから「うちの親って超すてき!」と思ってもらえるように生きること、だと個人的には思う。それが最も手軽で堅実な教育だから。そのためには友達からもあんまり「つまんなくなったな」とは思われないほうがいいはずなので、僕もせいぜい気をつけます。

 子供にとって「超すてき!」だってことは、たぶん僕から見ても「超すてき!」だろうと思う。このたび電話した友達は、「超すてき!」である。
 転がる石には苔がつかない、と言う。彼は転がっているので苔がない。少なくとも転がる体力のあるうちは、苔のないほうがすてきだと僕は思う。
 具体的には、教員をやりながら、塾を運営したり、教員志望者を支援する仕組みをつくったりしている。会うたび話すたびに進展がある。とても刺激になる。たぶんお互い様だろう。
 何か違うことをする、というのは「遠心的」な姿勢。そこも気が合うところかもしれない。ともかく遠くへ行きたい。求心的であることを否定したいのではなくて、ただ我々はきっとそうなのだ。

 彼とは現在の話ができる。とても有り難いこと。でもたぶん本当は、どんな友達とだって現在の話をすれば楽しくて刺激的で、実りあるものなのだろう。ただ、そのとっかかりがだんだんわからなくなってしまうだけなのだ。あまりにも生活と、考えていることが違いすぎるから。
 今度また古い友達に会うときは、ちょっとそのあたりを意識してみよう。


 高校生に受験指導をしている。この春から三年生になる。三月末に喫茶店で会って、期末テストの振り返りとか今後の計画とかについて話したが、いつの間にか雑談が膨れ上がってめっちゃ楽しかった。
 お世辞でないことを祈るが、話の聞き方を褒められた。否定するでもなく、適当に共感したり慰めたりするでもなく、面白がったうえで持論をのべてくれることが心地よいという。それをうれしがるあなたがすばらしいのだよ、と今なら思えるが、その時は「ほんと? うれしい!」と思うばかりであった。素直に。
 喫茶店でぼつぼつとしゃべれる、ってのはいいな。僕はもう、せっかく勉強教えるんなら友達になれないとやだから、とても安心した。かしこい人と仲良くしてると自然とかしこくなっていくもんだと思うので、この調子でいければきっと大丈夫。
 受験科目は英語、数学、生物。なんと理系。僕自身の受験科目は英語、国語、世界史なので、英語しか重ならない。それでもまあ、いちおうは放送大学で数学を専攻(?)しましたし! 復習のチャンスだと思ってがんばっています。今日彼女のための参考書を神保町の三省堂へ探しに行って、ついでに長岡亮介先生の『論理学で学ぶ数学 ――思考ツールとしてのロジック』を自分用に買った。一般書のようなタイトルだけど、なんと旺文社の『大学受験 総合的研究』シリーズ。学習参考書である。しびれる。僕はべつに受験するわけじゃないので、こういうある意味悠長な教材にも手が出せる。
 それから『俺の家の話』に影響されて岩波文庫の『風姿花伝』を買った。けっこう単純な人間なのだ。古本コーナーで100円だったからつい。訳は載ってないけど、パラパラしてみたらなんとか読めそうな文章だった。(いちおう国語の先生なので、少しくらいは古文が読めるのだ。)
 森博嗣『お金の減らし方』『勉強の価値』をざっと立ち読みした。彼の本でまともに読んだのは『集中力はいらない』と、せいぜいあと一冊か二冊くらいだが、不遜ながら僕と似ている部分がけっこうある。名古屋人だし。ブログなどもちょこちょこ読んでいたので、だいたい彼の考え方はわかっているつもりだ。だからパラパラ~っとしただけでだいたい把握はできた。うん、全面的に賛成! ゆえに買わなかった。


 今年の頭くらいに小学四年生の友達ができた。本人が「友達」と言っていたので間違いないだろう。それから3月22日のこと、今年90歳になる(と推察される)方からお呼ばれしてコーヒーと玉子サンドをごちそうになった。友達とふたりでお邪魔した。僕は『ひとりでいらっしゃい』というお話が好きだけれども、『雪渡り』というのも大好きで、こちらは兄妹ふたりで狐にお呼ばれするお話。狐の幻燈会には11歳以下しか行かれない。今でいえば小学四年生はセーフということになる。ああ、そういうことかもしれない。


 人から2020年5月25日の日記について言及を受けた。「優越感」についての文章だと言われたが、ぜんぜん内容が浮かばなかった。確認してみると青木雄二先生の「資本主義は優越感を煽る」というフレーズが引用されている。ああ、思い出してきた。

 優越感が大好きな人は、ほかの人が優越感を得ているのが許せない。他人が優越するということは、こちらが劣っている証拠と考えるんだろう。
 そういう人は「他人との差異」を気にしますね。人と比べます。みんなの不幸はだいたいこのへん。

 この記事に書いてあることは、森博嗣さんの言っていることと基本的にはたぶん同じです。が、なんだかとてもわかりにくいですね。うーん。粗い。全体的に伝われ~。(by 佐久間一行さん)
 でも、いいことをちゃんと言っている。人と比べる、ということは「外部(自分の外側にあるもの)」に依存するということだもんね。みんなの不幸はだいたいこのへん。ほんなこつ。
 僕が愛しているのは時間。時間は人と比べられない。もちろん数値化された「何時間」とか「何年」ってのは単純に比較ができますよ。そうじゃない、概念としての「時間」のこと。流れもしなければ過ぎ去りもしない、いつも動かずにここにある「時間」のことね。
 石と石とを比較することはできない。「石の質量」や「石の色」とかなら比較ができる。しかし「石と石とを比べる」ということはできないのである。
 そう考えると、あなたが比べているさまざまなものは、本来は比べることができないものなんじゃないのか? と思う。

2021.4.3(土) うまくいっていない人は歩きましょう

 やだやだ! 僕のことを嫌いにならないで!
 偉そうなことを言うヤなやつだって思わないで!
 いいよね、あなたは、うまくいってて、とか
 あなたにはわからないんだよ、とか。
 そう、「お前にはわかんねえんだよ」と言って死んだ友達もいました。(西原くんという人。)
 彼が僕と縁を切ろうという頃、「実家の太さ」を自慢してきましたね。どういう意図だったか知りませんが、「そういうところも含めて、お前とは世界が違う、わかりあえない」ということだったんだろうな。
 何度もすみませんが大事なこと。

 人生というのは!
「現実を自分にとってましな方に変えて行くこと」
 です。
 そのために用意された期間であります。

 弱っている人や、うまくいっていない人、少なくとも僕が勝手にそのように判断してしまっている人が、周囲に何人もいます。
 そういう人たちに僕は基本的に何もできません。
 話を聞いたり、何かを言って、少しでもつらさを和らげることならできると思うし、実際やっていますが、
「彼らのため」などと言ってこんなところに何かを書いてみることは、逆に反感を買う可能性さえあります。
 やだなあ、それがほんとうにいやだ。
 いやなのはこっちだよ、と言われるのを想像してまたいやだ。
 だからといってこれから書くようなことを直接告げられるタイミングというのは、いつ来るかわからない。
 会ったこともない誰かに届けることに意味がないとも思わない。
 回りくどい言い方ですが、僕なりには、いま書いていることは具体的な複数の友達に向けていることでもありますし、ぜんぜん別の誰かに対して言うことでもあります。そこを分けて語ることは僕の力ではできませんので、言うか、黙るか、という選択となって、性分で、書きます。

「もうだめだ」と思っている人に、「大丈夫だよ」と言うのは、とても大切なことですが、タイミングを間違えれば、「お前に何がわかるんだ」にもなるし、「あなただったら大丈夫なんだろうけど、わたしには無理」となるかもしれない。
 だからすごくいやだ。
「いやだ」と繰り返し書くことで、「は? なんなの?」って思われるのも怖い。そういう人はもう読むのをやめてしまうような気もするし、そういう人こそ地の果てまで読むような気もする。
 ああ、なんというか、そういうことが最近ずっと考えていることです。自分には何もできないし、何かをやろうとすれば裏目に出る。本当はただ静かに、笑って近くにいることが一番だと思う。

 何を言っても説教になってしまうのではないかと。
 そして説教というのは、嫌われるのではないかと。
 嫌われるのは、嫌だということ。
 嫌わないで! って心から願う。
 だから普段は黙っているし、しゃべろうとするとこのような時間が必要になる。

 それなりに生きてきて、何を言っても無駄、という徒労は存分に味わった。これまでたくさん喋ってきた。
 だからもう喋りたくない、と思ったことはたくさんあって、去年の誕生日に書いたことは言葉を換えればそういうことでもある。
 たとえば友達がいる。その友達は大変な状況にある。「こうしてみたら?」とか、「こう考えてみたら?」と言うことはとても簡単だ。だって僕には「考え」というものがすでにあるのだ。
 少しは自信もある。その考えはその人にとってそれなりにかなり正しいだろう。ただ、その人がそれを受け入れるかは全然別のことだ。
 受け入れるにはタイミングがある。
「大丈夫だよ」と言っても、「大丈夫なわけない!」と思われてしまうタイミングもある。
「そうだね」と受け入れてくれたとしても、それを続けられるかもまた別だ。「やろうとしたけどダメだった」ということがほとんどだろう。「すぐには難しいよね。少しずつしかできないよね」と言っても、「そんな悠長なこと! いつまでかかるのか教えてよ! 一生できないかもしれないよね? わたしはそんなに立派な人間じゃないんだ!」となるかもしれない。そういうタイミングもあるだろう。かなり多いだろう。だからつらい。
 そんなに上手じゃないと思う。
 僕はその係じゃない、むりに係を引き受ける必要はない。そう思ったほうがいいこともたぶん多い。
 僕じゃなくて、ほかの人とかものがなんとかしてくれることもあるだろう。
 だから僕は何もしないでいい。しないほうがいい。結局は自分でなんとかするしかないのだし、そのきっかけを与えるものとは偶然にしか出会えない。彼や彼女のタイミングの問題でしかないのだ、と。

 僕はただ何もしないで、ただ友達でいつづければいい。そのように今は考えている。
 そうできるようになってかなり楽になったし、楽になった相手も何人かいると思う。
 何も引き受けず、ただ他人として、ただ友達として存在するだけ。

 だけど、やっぱり気になってしまう。これは性分だろうな。
 でも、心が弱っている人や、心が変になっている人に何かを言うのは恐ろしい。何も言いたくない。しかし言いたい。
 たった一行のことだ。生きるってのは、現実を自分にとってましな方に変えて行くこと、なのだと。
 
 そんなことはわかってるよ! と言われそうだ。それで終わってしまう。
 だけど「わかってる」と「そうしてみる」との差は大きい。みんな何をやればいいかわからないのだ。僕はたいてい、散歩をすすめる。歩きなさいと。できるならお日さまのある時間に。
 歩くことから始めるのだと。外を歩けないなら部屋の中を歩くことから。それもむりなら転がることから。
 もちろん、その人の状態とか性質とか、望みとかによって変わるはずだけど、ベースはそんな感じ。
 現実を自分にとってましな方に変えて行くってのが、歩くことから始まる、というのは、想像がしにくい。そして、「そんなもんかね」と思って歩いてみても、たぶん取り立てていいことはない。「なんも意味ないな」と思って、やめてしまうのを想像できる。
 だけど出発点はそこで、意味がないと思いながら歩き続けることが重要なのだ。
 それが、意味を自分で作る練習になる。
 意味ということを理解する一歩になる。
 世界というものの中にある、ふだん意識していないものを感じて、そこに意味を見いだしたり、意味を作り出したり、意味と意味とを結びつけたりすることを習得していく。
 そのうちに、だんだん複雑なことができるようになって、「現実を自分にとってましな方に変えて行く」ということが少しずつ実現していく。
 それにどのくらいの時間がかかるか? それが、わからない、というか、永遠にかかると言ってしまってもいいかもしれない。べつにゴールなんてないのだ。
 ただゆるやかに何かが良くなっていくのを感じられる可能性は高い。
(と僕は信じる。)

 でも、それは悠長である。あまりにも。
 そんな時間はない。余裕もない。現実的には、お金がない。
 歩いていてお金が儲かるか? 儲からない。
 ただ減りもしない。おなかは減るし靴も減るけど。体重もたぶん減る。
 同じように寝っ転がっていても、スマホを見ていても、儲からないし減りもしない。電池は減る。
 だったらそのぶん歩いてもいい、と思えることが、だいじ。

 目的もなくとりあえず歩く。そうすると、たぶん最初は呆然とする。「どこへ行ったらいいんだ?」と。「目的もなく歩くなんてことが可能なのか?」と。で、大げさにいえば、そこから自分と世界との対話が始まる。
 自分は、目的もなく歩こうと思うとき、どこをどう歩くのか? この町に自分が歩きたい場所があるとすれば、どこなんだ? と。

 僕の考えでは、現代人の抱えている問題のほとんどは、たいていこれによって改善が見込める。
 もちろんそれで直接的に借金が減るわけではないし、家賃が払えるわけでもない。職が決まるでもない。そんな即効性はない。でもそっちに向かっていくための第一歩としては、それほど間違ったことは言っていないはずだ。
 散歩する、ということだけが決まっていて、どこをどう歩いて、どこに立ち寄るか、ということは何も決まっていない。そこを自分で考えて決めなければならない。せっかく散歩をするのだから、それを充実させるために工夫しないと損である。さあどのように「自分にとってすばらしい散歩」にしてやろうか? そう思えたら、もう「現実を自分にとってましな方に変えて行く」ということを始めているのだ。
 人生というのは、「生きる」ということだけが決まっていて、それ以外のことはすべて自分で決めることが(本当は)できる。それを「自分にとってましな方」に導くために、いろいろ工夫をするものなのだ。その練習としてちょうどいいのが、僕が思うには散歩なのである。

「散歩ならしてるよ。ほかにやることないんだから」という人もあるだろう。
 その人はもう、よくなりかかっているのだ、そう信じるしかないと思う。
 そのまま歩きつづけるのをおすすめします。
 たまに走ってみたり、知らない店に入ってみたり、どんどん遠くまで行ってみたり、いろいろバリエーションをつけていくと、また違ってくるかもしれない。

 ある人が言っていた。「悩んでいる人には、はっきり言ってアドバイスができません。そういう人の悩みの原因は、何年も前にあるものなのです。したがって、今から手を打っても、問題が解消されるのには、また長い時間がかかる場合がほとんどです。」
 悩んでいるということは、すでに手遅れなのだと。
 そんなことは実は誰だってわかっている。でも「何年も前に戻ってやり直す」なんてことはできない。だから多くの人は諦める。
 あるいは、「まだまだこの路線で、一発逆転のチャンスがあるはずだ!」と夢想する。競馬の負けを競馬で取り返そうとする感じ。損切りができない。
 でも「やり直す」というのは、「スタート地点まで戻る」ということだけではない。「ここをふたたびスタート地点とする」ということでもある。
 同じ地点まで戻ったところで、また同じ道をたどる可能性も高い。パチンコで身を持ち崩した人がパチンコを始める以前まで戻っても、またパチンコを始める可能性は高い。
 だから今この地点から、ぜんぜん違うほうへ歩き出したほうが成功の芽はある、かもしれない。
 歩こうというのはそういうニュアンスでもある。

「全然違うほうったって、何も思いつかないよ」という人がほとんどだろうから、「意味もなく歩く」ということを、ばかばかしくなるくらいやらないといけない。
 それはべつに「歩く」じゃなくてもいいのかもしれない。意味もなく目についた本を図書館で借りてきて読みまくる、とかでもいいのかもしれない。
 ただそれは、児童書コーナーとかでやるのがよさそう。大人向けだと、ついつい「これまでの自分」に関連したものを選んでしまうだろうから。
 ぜんぜんどうでもよさそうな、「古い柱時計のひみつ」みたいな本をひたすら読む。
 それはたぶん、歩くための体力づくりにもなると思う。

 ここまで書いたからにはもうちょっと書く。うまくいっていない人はだいたい、「自分はこういう人間だ」という思い込みが強い。現状そうだとしても、ずっとそうであるとは限らないのに、「ずっと自分はこんなものだろう」と決め込んでいる。あるいは無根拠に、「本当は自分はこういう人間なのに」とか「いずれ自分はこんな感じになる」と思っている。
 いったんすべて忘れて、「自分はなんだかよくわからない」とリセットミーしたほうがたぶんよい。
 どうして「自分はこういう人間だ」と思ってしまうのかといえば、「過去こうだったから」が根拠であることがほとんどである。過去に縛られている。
 あるいは、「自分はこうであるべきだから」という理想に縛られている。
 それはなぜかというと、「過去ずっとそう思ってきたから」で、やはり過去に縛られている。
「自分は将来こうならなくてはいけない」という想いも、結局は過去ずっとそう思ってきたという事実を、捨てられないから。過去に描いた未来像に縛られている。過去に縛られていて、未来像を捨てられない。
 過去なんて気持ちひとつでどうだって変えられる、捏造できるもんなんだから、縛られるなんて損だ。体よく利用してやればいい。それができりゃ苦労しないんだろうが、それさえできりゃ苦労しないのだ。できようぜ。
 もちろん、過去の自分を裏切るとか傷つけるってのはあんまりよくないから、そこは相談したうえで。

 散歩っていうのは現在を一歩一歩踏みしめながら判断を積み重ねていく行為ですから、過去から解放される練習にもなります。また、目的がないのだから未来のことも考えなくてよろしい。
 あと孤独になれます。これ大事。

 別に誰からも何も言われないでしょうが、それにしても「うぜー」とか「だるー」と思われてしまうような気はしてしまう。あーやだやだ。わかってもらいたいよ。
「面倒くさい、っていうか、考えたくない。」

 なんだかうまくいっていない人は、とりあえず自分の精神が自分の思っている以上におかしくなっていると仮定して、それを是正するためにまず歩く、というのを僕はいいとおもいます。
 歩くのはとりあえず無意味なので、意味を生じさせるために考えたり、工夫をします。そこに「自分」というものは芽生えてきますから、その芽を大切にすることです。(説教おわり)
 僕のことを嫌わないで! 本当に。いいやつなんだから……。

○参考文献
 現実を自分にとってましな方に変えて行くことが、“生きる”ってことなんだね。
(橋本治『青空人生相談所』ちくま文庫P29)

 悩んでいる人には、はっきり言ってアドバイスができません。そういう人の悩みの原因は、何年も前にあるものなのです。したがって、今から手を打っても、問題が解消されるのには、また長い時間がかかる場合がほとんどです。
(森博嗣『集中力はいらない』SB新書P173)

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