少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2013/07/31 水 心が広くなってきた、やっぱり一休さんだよ

「そうしていつかすべては優しさの中へ消えて行くんだね」
「いつの日か長い時間の記憶は消えて優しさを僕らはただ抱きしめるのか?と」

 最後に残るのは優しさで、それは希望です。

 湘南乃風について書いてから、自分の優しさが急激にUPしたような気がしています。なんか、憎いものなどなにもなくなるほど、「分けて考える」力が急速に強まってきています。
 湘南乃風のことは名前以外何一つ知らなかったのですが、聴いてみたらそれほど悪いものでもないだろうと思いました。ただ、ちょっと前の自分だったらもしかしたら批判していたかもしれないですね。わからないですけど。

 昔は野球が支配的で、Jリーグ以降はサッカーが同じくらいになって、スラムダンク以降はバスケがその次点にあがって、って感じですよね。
 僕はそういう感じ、とても嫌いだったんですよ。音楽でいえば僕の世代だとミスチルの支配感はけっこう嫌でした。
 そういうの(特にスポーツによる支配)って、小中学校や高校あたりに行けば今でもありますよね。でも、だんだん少なくなってると思うんです。代わりに別の問題が起きているということなんでしょうけど、価値観が多様化したおかげで、支配的なものというのがだんだんなくなってきているはずです。
 球技大会や体育大会から逃れるっていうのも、以前よりは楽にやれるようになってんじゃないかなって、なんとなく思うんですよ。
 支配的なものがなくなれば、各人が自由にやれるようになります。それをそれぞれが認め合えば、自由度があがっていきます。割と僕はそれを喜ばしく思います。

 湘南乃風がクラスで支配権を握るってことは、基本的にはないですよね。あったとしても、それは一過性のものであったり、たまたまそのクラスはそうだけどクラス分けしたらなくなったり、っていう程度のものでしょう。
 AKB48やジャニーズは支配力がけっこう強いので予断を許さないところがありますが、湘南乃風くらいなら、むしろ悪くないんじゃないかという気がします。2006年のベスト盤をざっと聴いてみましたが、だいたいいいこと(≠すばらしいこと)言ってます。湘南乃風の健康的なところは、リストカットに結びつかなさそうなところですね。メンヘラっぽくないです。問題があるとしたら例の「広島LINEで盛り上がって殺人」の精神性と無関係ではないところですが、この件に関してはまた改めて書きます。

 僕はあまりにも巨大な希望を抱えすぎていたんです。それがあまりにもアンバランスだから、絶望を重ねることによってバランスをとろうとしてきたんです。それがようやく安定してきたのかなという感じです。シーソーの端っこからじりじり真ん中のほうに寄っていって、ようやく現在まんなかあたりだと。

 僕は昔、「みんなも自分と同じくらいか、それ以上に頭がいいし、たくさんものを考えている」というふうに思っていたんですよ。「人間に対する際限のない希望」があったんです。小学生くらいの時にはそういうふうに考えていました。末っ子で、家の中には自分よりも成熟した人間しかいないわけですから、「みんな賢いはずだ」は育ちやすかったと思うんです。
 でも、それは大きな誤解でした。思考力とか思考量みたいな意味でいえば、僕はとても「頭がいい」のです。そういう意味での頭の良さは、ほとんどの人は持っていません。それが現実です。
 僕はその現実を受け入れるのが「いや」でした。「みんなもちゃんと考えろよ!」って思ってました。それが理想なのではないかなとは今も思いますし、できるだけそうなるような働きかけは続けていきます。しかし、ようやく現実を見る気持ちが出てきました。
 湘南乃風や、エヴァンゲリオンや、最近のプリキュアを好きな人を、ちょっと前の僕なら侮蔑していたかもしれません。侮蔑とはちょっと違う、絶望のほうが近いですね。「なんで?」ってのが真っ先です。「えー、だって、もっといいものたくさんあるじゃん!」って。
 でも50メートルを走るのに15秒かかる人に、いきなり10秒で走れとは言えないものです。その人が編み物得意だったら、編み物と並行してウォーキングとかするくらいが健康的なんだと思います。
 エヴァンゲリオン好きな人はエヴァンゲリオン好きな人です。事情があるんです。百回エヴァンゲリオン見るうちに、ドラえもんを一冊読むくらいでいいのかもしれません。
 急いては事を仕損じるというやつです。「急ぎすぎていた」というのは愛洸学園の理事長も言っていました。(まなびストレート!というアニメの話です。)
「貴様ほど急ぎすぎもしなければ、人類に絶望もしちゃいない!」とアムロって人が、『逆襲のシャア』っていう映画の中で言います。

 湘南乃風を好んで聴いている人は平均的には「頭がいい」人たちではないのかもしれません。しかし彼らから湘南乃風を取り上げて何かいいことがあるのでしょうか。彼らの中には、放っておけば殺人を犯していたような人もいて、湘南乃風のおかげで愛とか感謝とか成長とかに目覚めたのかもしれないのです。
 湘南乃風は、決して「パチンコはまって破産して最高」とか「好きでもない女に金もらって抱いて幸せ」とか「生まれたばかりの赤子を殺せ」とか言いません。
 だからいいのです。
 聞く耳持たれない100点の言葉より、聞いてもらえる60点の言葉という考え方もあるわけです。
 勉強を無理矢理押しつけても、あんまりいいことはありません。
 先生に「お母さんを大切に」と言われるより、湘南乃風に「お母さんを大切に」と言われたほうが響く、人間というのは悲しいけれどそういうものらしいのです。
 ふつうの人は「分けて考える」ことができません。「分ける」ことしかできません。だから「誰が言ったか」で区別するのです。

 僕は、湘南乃風が売れていることよりも、『一休さん』が再放送されないことのほうが気がかりです。なぜ一休さんは再放送されないのでしょうか。あれはわかりやすいし、嫌いな人もあんまりいません。一休さんを再放送すれば、少しだけでも世の中は上向きになると思います。「あわてないあわてない、ひとやすみひとやすみ」というフレーズが体にしみこんでいる人と、しみこんでいない人とでは、生き方が違ってくるはずです。
 一休さんが教えてくれるのは、「あわてずじっくり考える」ことです。また、「金持ちや権力者が偉いわけではない」ということです。「年齢差別はすべきでない」ということです。「坊主と侍にも友情は芽生える」ということです。「歌を歌えば楽しい」ということです。「お母さんは尊い」ということです。「知恵によって困難は切り開ける」ということです。しかし「知恵ばかりではどうにもならない」(一休さんがとんちに失敗したり、思いつかない回もあったりする)ということも同時に教えてくれます。一休さんはすばらしいアニメです。「誰が言ったか」ではなく「何を言ったか」の世界です。一休さんは子供だけど一目おかれていますし、大人の侍と親友です。
 湘南乃風は湘南乃風で、とりあえずはいいのです。ただ、一休さんとか、一休さん級のものによって幼い頃からちゃんと言い聞かせておけば、一休さんみたいなバンドも売れるようになるはずです。そうすれば世の中の一休さん率が上がって、未来は明るくなるでしょう。

 すべきことは、もっと一休さんを信じることです。それが大事です。「一休さんじゃダメなんじゃないか……」という恐れを乗り越えることです。どうしてもダメなら、新しい一休さんを作ることです。しかし一休さんよりすばらしい一休さんが作れないのならば、一休さんを放送すればいいのです。そういうことも怖がるべきではありません。
 一休さんを信じないから、湘南乃風という、一休さんよりもわかりにくいものに頼らざるを得ないのです。
 ドラえもんだってそうです。制作者がドラえもんを信じていないから、ああいうドラえもんになるのです。
 目先の視聴率よりも一休さんやドラえもんを信じることが大切です。お金の問題ならば、国が一休さんに助成金を出すべきです。国が一休さんを信じればいいだけの話です。
 一休さんも、今や支配的になる力を失っているでしょう。でもそれは野球だってサッカーだって同じことです。持続的な支配力を持てないのはそれこそ「時代」です。だから怖がることはないのです。一休さんを信じればいいのです。一時しのぎで刺激的なものを提供し続けるよりも、どっしり構えて一休さんを放映すればいいじゃないですか。
 急ぐのではなく、腰を据えて一休さんをみんなで見るのです。速い時代だからこそ、落ち着いて一休さんを見るべきだろうと僕は思います。

「時代」というのは常に現在のことです。未来はこれから作れます。「こういう時代だから」ではなく、「どういう時代にしようかね」でしょう。理想の未来を作るには時間がかかります。だから一休さんを信じようと言うのです。腰を据えて何年でも一休さんを放送し続けるべきです。ある時期はそうだったんじゃないですか? 少なくとも僕の小さい頃、名古屋ではずーっと一休さんを再放送し続けていたじゃないですか。あれでいいんですよ。
「効果がなかったからやめたんだ」という考え方もあるのでしょう。それもそうかもしれませんが、「効果がなかった」が「視聴率がとれなくなってきた」でしかないのなら、それほど残念なことはありません。一休さんを好んで見る人が減るのは当たり前です。少子化なんだから。見るべき人は見ているかもしれないのです。
 支配的なものは、生まれにくい時代です。だからこそ静かに一休さんなのです。一休さんだけではどうにもならないことはわかっています。でも、一休さんがなければ新しい一休さんは作れません。新しい一休さんが作れなければ、世の中の一休さん率が下がっていくだけです。
 湘南乃風は新しい一休さんなのでしょうか。(クイズ)
2013/07/30 火 チャンカスティポとファンタパーナ

 五歳くらい年上の友達(皿屋敷さん)が未来(実家の会津)に帰るというので、送別会のようなものを開いた。「皿ば皿屋敷皿オケ」と題し参加者を募ったところ、本人と僕含め述べ七名ほどになった。
 平日の昼間から開催してこんなに人が集まるのは驚異ですね。

・無職(競馬など)
・無職(放送大学)
・正社員(社畜、火水休み)
・正社員(おくすり休職)
・正社員(休日が不規則)
・舞台関係なので不規則
・大学生(ただし今年で26歳)

 そんなメンツでした。
 12時から開催して、皿の人が来たのが15時くらいだったので、それまで適当にワーワー歌ってました。あんまり覚えてないけど五年ぶりくらいに黒夢の親愛なるDEATHMASKとか歌った。「きちがい!めくら!はくち!きちがい!」とか叫ぶやつ。大学卒業くらいまではそういう、ギャーギャーいうやついっぱい好んで歌ってたなあ。
 最近はもうちょっと自分に合ったというか、愛情をこめられるようなものを歌うことが多いですね。Raphaelの『evergreen』は相変わらず歌いますけど、夏に歌うと実にいい。
 サカナクションとかいうバンド、ほとんど聴いたことがないんだけど、適当にシングル曲っぽいの入れて適当に熱唱する遊びに近年はまっております。前回は『セントレイ』とかいうのでやって、けっこう楽しかった。メロディもなにも知らないから全部適当。なんとなく叫びとか入れてみたりすると、サンボマスターみたいになって、なんかいい曲っぽくなる。こうして僕はすべてを愛するようになっていくのであります。今回は『ルーキー』とかいう曲でやってみたんだけど、なんかいまいち歌うにはつまんない曲だったので、適当に歌詞を増やして歌ってみたらなかなかよかった。「いつか〜おれたちは風になって〜オシャレな音楽奏でるのさ〜そうさ俺たちサカナクション〜!」みたいなふうに。
 あとケーダブシャインさんの『追いつめられて都知事人質』っていう曲も、聴いたことないけど歌ってみた。これは歌うにはつまんないけど歌詞が本当にすばらしく、みんなで大爆笑しました。
 皿さんが来てからは、とりあえずDAの『Grateful Days』を。それを受けての皿さんのコメントが「中二病とか言って他人をばかにすることしかできないやつは、永遠にこういう歌詞は書けませんよね。」もちろん「沙村広明先生は正しい」というニュアンスで。(短編でそういうせりふがあるのです。)
 それからいろいろ歌ったわけですが、本当にすばらしかったのが皿さんと僕とで歌ったNEWSの『チャンカパーナ』とトラジ・ハイジ(堂本剛と国分太一)の『ファンタスティポ』。なんかネット上でNEWSファンことパーナさんたちがとても話題になっていたので、二人とも聴いたことないけど入れて歌ってみました。いやー、なんか、二人で同時に適当に歌うのってめちゃくちゃ楽しいし面白かった。
 そしてファンタスティポは、皿さんの踊りが秀逸。「このために一人カラオケで練習しました」とか言って踊るんだけど、付け焼き刃だから七割くらいは適当で、残り三割は「確かにこんな動きしてたような……だけど何かが違う!」って感じのやつで、ぐだぐだなんだけど顔だけ真剣で、僕も隣で歌いながら一緒に踊ったてたんだけどもちろん適当。それを見て女の子が言ったのは「本当にこの人たちアラサー?」確かに。
 歌い終わってから「我々、年齢合わせたら還暦超えてますからね!」と言ったら、自分で言っといてちょっと我に返ってしまったとさ。ちなみに二人ともしらふです。僕もたいがい変な人間だけど、酒飲んでないのに同じテンションでふざけてくれる年上の友達がいるというのは本当に幸せで楽しいことであるなあ、と、改めて彼が未来へ帰ってしまうことを惜しく寂しく思ったのでした。

 皿屋敷さんと出会ったのはmixiとかいうSNS、僕が荒廃した小沢健二コミュニティでただ一人正論吐いて闘ってたのを見て「面白い人だ」と声をかけてくれたらしい。もう何年前だかわからない。たぶん「おばさん」の頃だから2007年かな。それから仲良くさせてもらってるわけですが、振り返るといろいろなことがありましたねえ。皿屋敷さんのような人が存在するということは僕にとって希望ですよ。「こういう生き方もあるのだよなー」と思わせてくれる。生き方は違うし、趣味もけっこう違うけど、どこか大事なところだけは共有していられるというのも希望。「お互い敵に回すと怖いから敵に回さない」という協定(?)も、はっきり言って正直な気持ちです。僕と皿屋敷さんの関係ってわりと、人間関係としてはかなり完成度の高いものなんじゃないかと、個人的には思っていますよ。完成度ってなんだよって話だけど、まあ、「意外と隙がない」というか。
 未来に帰っても隙のない関係は続くといいし、まあ、たぶん続くのでしょう。これからもよろしくお願いします。

2013/07/29 日 大鳥神社 あきいちこ

 目黒の大鳥神社というところの野外フェス(と言っても、神社の境内に小さなステージを作っただけの縁日がてらのもので、僕が着いた時にいたお客さんは100人程度。)に行ってきました。
 普段は名古屋で活躍しているあきいちこさんのライブを聴きに行ったのでございます。
 あきいちこさんは2005年に奥井亜紀さんがハートランドで行ったライブでオープニングアクトをつとめておられまして、それで惚れ込んだのです。同い年だったので、親近感もあって。その時に買った『歌種』というミニアルバムは未だによく聴きます。
 しかし、彼女の歌の魅力はいまいち、音源では伝わりきらないところがあります。ぜひともライブで堪能していただきたいものです。
 彼女の歌をライブで聴くと、「歌」というのはこういうものだよな、と思います。歌なんてのは気軽に歌われるものでいいと思うのですが、気軽に発せられる歌にこそ気取らない素直な感情がこもっているものです。それを濃く濃く、凝縮して歌い上げると、あきいちこさんの歌になる……とかなんか適当なことを今ちょっと思いつきました。でもそんなような気がします。
 日常的な歌い方というのではないです。しかし「自然さ」の延長線上にあります。だからこそ「楽しさ」があり「迫力」があって、場を包み込んで支配するような力強さがあります。
 国道に面した小さな神社の境内に、簡素なステージが設けられただけの、少しでも音が途切れれば車の音がごろごろ響きわたるような空間。ロックフェスやライブハウス、コンサートホールなどのような非日常性はまったくありません。近所のおじさんおばさんが集まってるような感じで、音楽を聴きにきたというよりは余興を見ているような感じのお客さんばかり。焼き鳥を食べたりビールを飲んだり。そんな場でさえ、あきいちこさんの歌には変わらぬ力がありました。
 僕が最前列で見ていたからかもしれませんが、歌はすっかり境内を包み込んで、息さえつかせないような完璧なリズムで奏でられていたような感覚を得ました。6月のワンマンライブでの感覚とほとんど同じで、驚きました。この人にとっちゃ場所なんか関係ないし、自分のファンが多かろうが少なかろうが(せいぜい数人しかいなかったかも?)、まったく関係なし。その場にいる人たちに向けて歌うのみ。あー、歌だなあと思ったことです。
 完璧に楽しそうなんですよ。歌も鍵盤も、一つ一つの音を丁寧に、手を抜かないで奏でます。聞き流せる箇所がない。それは本当に凄いことだと思います。そういう人は僕にとっては今は、ほかに奥井亜紀さんくらいです。Amikaさんもきっと、ライブをすることがあれば同じことを感じるんだと思いますが。
 僕があんまりライブに行かないのって、そういう力を持った人が案外少ないからなのかもしれないですね。いくらでも聞き流せてしまう。悪く言えば、暇を感じる。
 演劇も同じです。暇じゃない演劇って、そんなにない。先日観に行った文月堂の『ことほぎ』というお芝居は、久々に暇がなかったです。素直にすばらしいなと思えたのはシルバーシートヨコハイリーズ(インベーダーじじい)以来かも。(うりんこの『モモ』もよかったけど、遅れちゃってはじめのほう観られなかったし、後輩が出演してるからってのもあるので。)
 ライブにしろ演劇にしろ、数千円払って「暇」ってのはけっこうつらいので、どうしても足が遠のいちゃいます。映画もそうかも。でも行かないといろいろなものが悪くなっていってしまうので、暇と機会と興味を見つけてはいろいろ行っています。でもだいたい「暇」で終わって、日記にすら書かないことのほうが多いですね。もちろん糧にはなっていますが。だから無駄ではないのですが。暇だといろいろ考えられるというのもありますし。
 ああ、本や漫画も、同じようなもんかもしれないです。結局、なにもかも。
 あきいちこさんは数少ない「聴きに行きたくなるミュージシャン」です。年に一度やっているワンマンライブは二年連続で名古屋まで行っちゃったくらい。それは地元で同い年で、顔見知りにもなっているという親近感や義理もありますけど、それらを差し引いても魅力があります。やっぱり歌のすばらしさですね。曲のほうも、最近の『陽廻り』や『Only One Song』なんかは本当に名曲だと思います。歌詞がどんどん、よくなってるというか、視野を広げながら自分のことも他人のこともこの世界のことも深く優しく考えるようになってきていて、「この人のことを好きになったのは間違いではなかった」と思って嬉しくなります。最初の『歌種』からしてすばらしいのですが、その種がだんだん育って花を咲かせて……って感じですね。ここからが旬だと思います。ずっと旬かもしれません。(奥井亜紀さんは永遠に旬でしょうねえー。八月のライブ行きます。)

2013/07/28 日 自由について(3) タモリさん/死にたい気持ち2

 何もかもどうでもいいけど、どうでもいいのは暇なんで、もてあまして色々考えて疲れて、「あー面倒くさいなあ!」って全てを投げ出したくなるという、そういうのは真面目だとか言われそうだけど、「真面目は人のためならず」なんで、真面目ってことは自分勝手ってことです。
 本当に自分勝手じゃない人は、真面目じゃないと思いますね。もっと緩く生きていますね。たくさん許して。タモリさんみたいなイメージかな。
 真面目ってのは基本的に「自分で定めたルールに則る」だと思います。「他人のルールに乗っかる」というのも真面目だろうという気がしますが、それは「他人のルールに乗っかろうと自分が定めた」わけだから、やっぱり自分ルールなんです。じゃあ、真面目じゃない人というのは? ルールなんて決めないのです。柔軟に、その場その場で、その都度考えて生きていく。それがタモリさんの生き方であり芸であり、ジャズ的な何かなわけだと思います。
 このことはもちろん、「自由」ということに繋がってきますね。(2013/05/04 土「ジャズタモリ」参照)
 自由とは調和であり、許し合うことなんだとすると、ルールを決めないで、即興のジャズやダンスのように、みんなの歩調を緩やかに合わせていく。至って原始的な、「君や僕を繋いでる緩やかな止まらない法則(ルール)」だけに則って、あとは臨機応変にやっていく。それが結構自由だったりするんじゃなかろうかと思う。スポーツにはそういう自由がないですね。

 真面目=自分勝手=頑固
 不真面目=調和=柔軟
 もちろんこのイコールは本当のイコールではなくて、「繋がりやすい」くらいの意味で、不真面目で調和しない人なんてたくさんいますね。そういう奴らは不良です。

 不真面目+善=調和 みたいな感じでしょうか。
 不真面目+悪=殺人
 真面目+善=自分勝手
 真面目+悪=他人に同調し、かつ他人に同調を強いる

 すべて適当です。  上の例でいえば不真面目で善なのが僕はいいと思います。
 もちろんこんな単純に割り切れるもんじゃないんで、ただの便宜的な模式図ですが。

 僕はどっかで真面目だからどっかで自分勝手なんですね。
 調和に憧れます。
 いつかはタモリさん。

 暇であることが苦でなくなった時に
 悟ったとか言うのではないかとオモウヨ。
 だとしたら暇によって「死にたい」と思うのは
 その途中にある過程なのかもしれない。

2013/07/27 土 死にたい気持ち

 死にたいとか言わないよ。あの夏か。あの夏は苦しかったんだよ。孤独を超える速さで例の人の存在が近づいてきた。それはそれは臓器も何もかも捨ててしまってもすべて取り込んでしまう覚悟だったのだ。言葉を持って生きていける最期の可能性だったと思う。苦しかったんだよ。山を見ても道路を見ても、何一つ悲しいとか嬉しいとか思う暇もなかった。

 この速度ね。この速度に共感できるから、僕は彼女のことが好きなんだ。
「孤独を超える速さで」

 ゆっくりとセラピー。


 ざわざわとした書き方に技術は要らない。ちょっとの感性と自己愛と、自分勝手な横柄さがあればいい。
 技術がないから、ざわざわとした書き方に走るというのもある。しかしその速度が本物ならばそれはほとんど芸術だ。

 安全運転を心がければ速度は出ない。
 だから自分勝手な横柄さは必要だ。
 それを発揮するには勇気がいる。
 勇気とは、僕にとっては死を恐れないことなのかもしれない。

 死ぬことが怖くなくて辛い。
 死ぬことが怖くなくて困る。
 怖いことが減っていけばどんどん感性が死んでいく。
 自信は人を太らせる。

 幸せとはきっと太ることである。
 動くことは焦ることと同じだ。
 笑いながら自転車で坂を駆け上がるその人も
 幸せでないから走るのだ。

 僕は生存至上主義と幸福至上主義を疑います。
 なんだ、みんなして。
 生存と幸福がそれほど大切か?
 僕は生存も幸福もピンとこないから
 大切かどうかなんてわからないんだよ。

 友達が「ガンがなくなることはいいことだとは思えません!」みたいなこと言ってて、それはその場でそのタイミングでは言わないほうがいいことだったから、僕は黙っておりましたけれども、実際それはそうなんですね。
 たとえば僕にとって最も辛いのはお母さんが死ぬことだと思いますが
 お母さんが死んだらその瞬間僕は不幸なのかといえば
 そんなことはないです。
 お母さんが何者かに殺されたら僕は不幸なのかといえば
 それがどうもピンとこない。

 生存が、または幸福が、何よりも大事だとして話をするのは
 そういう前提がないと何も話が進まないからですね。
 仕方ないからそういう前提を作るんですよね。
 それもわかってんですけど
 僕にはわかんなくってぼーっとしちゃうな。

 たぶん子供がいる人なんかは
「そうは言うても子供の生存と幸福をのみ親は願うで」
 と言うんじゃないかとは思います。
 僕もそう思います。
 でもそれは別に生存至上主義じゃないですからね。
「この人の生命が停止したらやだなあ」ですもんね。
「この人が辛そうにしていたらやだなあ」ですよね。
 それはそうなんだろうと思いますけど
 それをそのまま一般論に移植することはできないでございますね。


 死にたい気持ちを僕は今日も抱えています。
 これはもう癖です。
 誰かも書いてた。
 その気持ちを言い換えたら「面倒くさい」でしかなかろうです。
「がんばりたくねーなー」です。
「でも、がんばらなかったらスゲー暇だし、楽しくねーなー」もあるので、困ってしまうのです。
 がんばらないと楽しくない、これは真理です。
 怠惰は気持ちいいが楽しくない。
 気持ちいいというのはあまりよくないものなのだと僕は思います。
 気持ちよくて良かった事なんて実はないですよ。
 考えたら。
「気持ちいい至上主義」も僕は嫌いというか疑ってますね。
 生存、幸福、気持ちいい、そんなことじゃないんだとオモウヨ。
 そんなことだったら暇だよ。
 暇って最高だけど
 そこに居続けようとすると死にたくなります。
 そこから抜けだすのは時に辛いです。

 生存が至上ならばなぜ暇か。
 生存が至上だってわかっちゃってるからです。
 幸福でも気持ちいいでも。
 それほど暇なことはない。
 カルトは暇だろうなって僕はいつも思います。
 でも彼らは自分たちを暇だとは思ってないでしょうね。
 そこがあまりにも暇だなあと僕は思います。

 何を言ってるのかわからないかもしれないけど
 昔はこういう書き方しか知らなかった。

 なんとかいろいろ書きたいです。
 変なことを言うようだけど
 まあ、わりかしそんなふうに
 けっこうじっくり考えてもらえれば
 面白いと思うんで
 昔のやつとかも適当に何度でも
 読んで見てください面白いですよ。
 知るためではなく考えるためと思えば
 だいたいなんだって楽しめます
 どうか優しく
2013/07/26 金 大学と偏差値と湘南乃風(天野ジャッキー2)

 初舞台から13年の記念日でございます。
 放送大学で統計学の試験がありました。
 ランチは拓殖大学の学食に行きました。
 こないだは高千穂大学、その前は目白大学に行きました。
 大学を巡るのは非常に楽しいものです。
 学校ごとにキャンパスも学生も学食もカラーが違って面白いです。

 上に挙げた大学は偏差値でいうと拓殖>目白>高千穂って感じで、ウェーイ度は高千穂≧目白≧拓殖って感じでした。けっこうどこもウェーイでしたが、拓殖は落ち着いた雰囲気で、地味な人も多かったです。派手なのは目白が一番かも。
 早稲田は未だによく行くんですけども、ウェーイって人たちもいるし、さらにまた別のいやらしさもあって、嫌な気分になることは非常に多いです。どっちかっていうと僕はウェーイ度高いほうが好きなのかもしれません。怖いし、うるさいけど。偏差値の高い大学はどうもこう、意識の高さっていうか、妙なプライドみたいなのがいちいち感じられてうんざりするし、なんか偉そうっていうか……早稲田の15号館の地下ラウンジにいると、かなり多くの男子学生が机の上に足載せてんですよね。床に座ってウェーイしてる人たちもたくさんいるし。お行儀が悪いですね。そんな人は高千穂にも目白にも拓殖にも、そしてもちろん放送大学にもいませんよ!

 偏差値40~50くらいのところは、いやらしさがないし、意外と行儀も悪くはなく、真面目に勉強してたりもします。外見は凄いんですけど、「見た目で決めんな、ってかハナから舐めんな」ってやつですね。ただその……目白大学にすっげーうるさい男の子がいて、ずっとジャニーズの歌とか歌ってて、死ぬかと思いました。でもそれもそういうものだと思えば気にもなりません。
 高千穂大学のラウンジは中学の定期テスト前って感じで、「過去問見りゃいいじゃん」とか「この授業切るわwww」みたいな雰囲気じゃなくって「ギャー! 簿記やばい~」とかいって、けっこう素直にがんばってるっぽくて好感が持てました。もちろん、ラウンジで勉強するような学生が全体の何%くらいなのかはわかりませんけど……勉強とか一切しなさそうな(偏見)ウェーイ外見な人たちもたくさんいましたけども……。しかし働き蟻の法則みたいなもんで、まじめとふまじめの割合はどこの大学でも同じなんじゃないかなーとかはなんとなく思います。

 仕事で専門学校とか、偏差値の高くない大学に取材しに行くことが多いんですけど、そういうところは実にもう、まじめにやってたりするんですよねー。就職をちゃんと考えてますからねえ。偏差値の高いところは「卒業さえすれば就職できるもーん」って感じでヘラヘラしてんですよ。あえて断言しますが専門学校生が一番まじめだと思いますよ。大学生も偏差値の高くないところはかなり実学的・実務的なこと(それこそ簿記とか)をみんなちゃんとやってて、地に足の着いた勉強をしてるからモチベーションもけっこう高いんですね。「あー、なんでアタシ文学部なんか入っちゃったんだろおー。(指で髪の毛をくるくる巻きながら)」みたいな人は比較的少ないのではないかなと思います。そもそも文学部なんてないんです(あるところもあるでしょうけど)。
「なんで○学部なんかに入っちゃったんだろおー」は、学部じゃなくって大学名や偏差値で入るとこ決めてるからそうなるわけですが、もう一つの理由は「今学んでいることが将来役に立ちそうにない」気がするからなんでしょう。偏差値の高い大学ほど学ぶことの抽象度が高いはずなので、すなわち「役に立たなさそうに見える」のですね。
 たとえば目白大学には文学部はないけど「人間学部」ってのがあって、心理カウンセリング学科、人間福祉学科、子ども学科、児童教育学科と分かれています。かなり具体的で、学科名を見るだけで「なれる職業」がイメージできます。たとえばカウンセラー、介護福祉士、保育士、幼稚園教諭・小学校教諭みたいな感じで。実学的なんですね。専門学校的な色合いが強いです。また、介護や心理・教育は、自分の親が要介護になった時や、自分に子供が生まれた時に役に立ちそうだから、女の子たちは割とまじめに学びそう。
 早稲田大学の人間科学部だと、人間環境科学科、健康福祉科学科、人間情報科学科となっていて、抽象度が高いです。どういう仕事に就けるのかいまいちわかりません。こうなると「なんでアタシ人間科学部なんて入っちゃったんだろおー。」になりやすいのではないかな、と思います。

 本題(!)の湘南乃風ですけど、早稲田とかよりはたぶん、専門学校とか偏差値の高くない大学にファンが多そうですよね。早稲田の人たちはフジファブリックでも聴いてりゃいいんですよ。僕はフジファブリックと湘南乃風だったら湘南乃風のほうが愛おしいですね。その理由は、上に書いたことほとんどそのままです。湘南乃風のほうが具体的で、実学的・実務的なんです。
 そりゃね、抽象的操作の得意な、偏差値の高い連中は一生懸命「U.F.Oの軌道に乗ってあなたと逃避行」みたいなわけのわからないフレーズを唱えてたらいいですよ。でもね、「会いたくて会いたくて震える」のほうが圧倒的にわかりやすいという人はいるんです。そしてそれは素直だということなのかもしれないのです。

 湘南乃風を邪悪と言う人もいるけど、本当にそうかな? と僕は思います。

きっとお似合いな二人 共に解り合って 重なり合っても
折り合いがつかない時は 自分勝手に怒鳴りまくって
パチンコ屋逃げ込み 時間つぶして気持ち落ち着かせて
景品の化粧品持って 謝りに行こう

「世界に親切」の管理人なかや君なんかは、この部分を問題視しているようなんですけど、なんでダメなの? 確かに自分勝手に怒鳴りまくるのはよくないことだけどさ、以下のように解釈したらどうなんでしょうか。

きっとお似合いな二人 共に解り合って 重なり合っても
折り合いがつかない時は 自分勝手に怒鳴りまくって……。
パチンコ屋逃げ込み 時間つぶして気持ち落ち着かせて
景品の化粧品持って 謝りに行こう

 こうやって「……。」を入れると、ちょっと違う意味に見えてきませんか。「……。」がないと、字面だけ見れば「折り合いがつかない時は、自分勝手に怒鳴りまくってからパチンコ屋逃げ込んじゃえばいいんだ」みたいなひどい意味になりそうですが、「……。」があると見れば、「折り合いがつかない時は自分勝手に怒鳴りまくっちゃうんだよな……。そんな時はパチンコ屋に逃げ込んで……気持ちが落ち着いてからちゃんと謝りにいくんだ」みたいな感じになって、イイヤツっぽいじゃないですか?
 この人たち、あんまり日本語得意じゃなさそうな雰囲気かもしだしてるんだからそのくらい優しく解釈したほうがいいんじゃないですか?
「共に解り合って 重なり合って」って部分を信じるなら、そっちの解釈のほうが自然だと僕は思いますよ。「解り合って重なり合っても、折り合いがつかない時は自分勝手に怒鳴りまくっちゃうんだよな……」のほうが。そうじゃないと、「ても」のつながりが悪くなりませんか? なりますよ。(それともそれはたんに湘南乃風が日本語得意じゃないからでしょうか。)
「反省しろ」みたいなこともなかや君言ってたけど、これ、「反省」なのかもしれないですよ?

絶対離さない その手ヨボヨボになっても
白髪の数喧嘩して しわの分だけの幸せ
二人で感じて生きて行こうぜ

 これも邪悪だみたいなこと、なかや君は言っていました。
「喧嘩しないほうがいいじゃん」とか。
 でもねー。チャットモンチーとかいう人たちの『Good luck my sister!!』とかいう曲に、「喧嘩さえもリズム やっぱり二人で踊りたい」なんて歌詞がありました。
 これはなんか、姉妹を歌った曲ということなんだと思いますけど、「喧嘩」ってのをあんまり大げさに考えない方法だってあるんですよね。「なんだよこの男女ー!」「なによ弱虫ー!」みたいな、小学生男女の微笑ましい喧嘩とかもありますよね。あれもリズムかもです。それとかたとえば『魔界大冒険』とかに見られるドラえもんとのび太の喧嘩って邪悪ですか? 喧嘩は若干邪悪だったかもしれないけど仲直りシーンは美しい名場面だと思います。
 そりゃまあ、喧嘩することを前提にするよりは、喧嘩しないように努力していったほうがよさそうですけども、喧嘩をまったくしない、ってのはどうなんですか?『宇宙船サジタリウス』のタコみたいな顔の夫婦の話を思い出してくださいよ! お互い我慢するよりは、ちょっとゲンカしたほうがマシって場合もあるかもしれません。本当は全部穏やかに話し合うほうがいいのかもしれませんが、それって可能ですか? 全カップルに要求するんですか?
 煽っといてなんですが、「可能じゃないけど目指そうよ」が僕の基本理念なので、「喧嘩しないように努力するのは大切だ」ってのには首肯するし、正しそうです。
 でもねー、湘南乃風は、「喧嘩ウェーイwww喧嘩はしたほうがいいよなwww」みたいに言ってるんですか? そうじゃないでしょ。彼らだって努力してるのかもしれないですよ。
 こうだとしたらどうしょう。

絶対離さない その手ヨボヨボになっても
白髪の数喧嘩して(しまったとしても、でも)しわの分だけの幸せ
二人で感じて生きて行こうぜ

 さっきのに比べると若干無理があるかもしれませんが、たとえばこういう補完の仕方だってありますよね。「喧嘩したほうがいい」とは言っていないんだから。「喧嘩はしないほうがいいけど、このぶんだとたくさんしちゃうんだろうなあ……でも幸せなことだってきっと多いよね」みたいなことだったら、割といい話っぽくないですか?

「反省がない」ってのは本当にわかりません。

馴れ合いを求める俺 新鮮さを求めるお前
お前は俺のために なのに俺は俺のため
春の夜風に打たれ 思い出に殴られ
傷重ねて 気付かされた大事なもの握りしめ

 反省、してるのでは?
「なのに」のところで反省してますよね?
 夜風に打たれ、思い出に殴られ、傷重ねて、「気づかされ」ているじゃないですか。そして大事なものを握りしめてますよ。これは「反省」じゃないの?

LOVE SONG もう悲しませたりしねえよ
空に向け俺は誓ったんだ

 これも反省そのものなのでは?
 なんか悪いコトしちゃったんでしょうけど、反省して空に誓ったわけですよ、「もうしない」って。

 そうやって考えていくと、僕の理想の男女関係とはぜんぜん違うけれども、これはこれで、別にいいんじゃないのかねー、って思います。そっちのほうが得意な人はいるわけです。
 算数と国語みたいなものなのでは?
 算数90点で国語5点の人に、「算数なんか意味ないからやめて、これからは国語だけをやろう」って言うのは、正しいんですかね。「算数は得意なんだからそのまま伸ばそう、でも国語ももうちょっとがんばろうね」がよいのでは? 国語至上主義の人は「国語できなきゃ意味ないから。ほかの科目がどれだけできても意味ないから」って言っちゃいがちな気がしますけど、「意味ない」まで言っちゃったら、ねえ。算数も大事だとオモウヨ。
 算数90点で国語5点の人に、「算数意味ないから国語だけやろうね」って言って、算数30点で国語30点になったら、それはいいことなんですか? 湘南乃風を邪悪と断じるのは、そういう人間を作ってしまうことになるのでは?

 湘南乃風が算数ではなくて殺人だったら、殺人90点で国語5点ということになりますね。そしたら「殺人なんてやめて国語をやろうね」でいいんです。でも、本当に湘南乃風は殺人ですか? 僕はそうは思わないですよ。殺人ってのは「良い○○人も悪い○○人もどっちも殺そう」みたいなプラカードを掲げて笑いながら町中を歩き回るくらいのもんなんじゃないかなーと僕は個人的に思いますけども。

2013/07/25 木 天野ジャッキー

 天邪鬼だから湘南乃風褒めます。
 最近『純恋歌』という曲についてなかや君が書いてて
 スマスマ出てたのについて橋本君が書いてて
 どっちもあんまり良いふうに書いてなかったから
 初めて聴いてみたんですよ、それまでは名前しか知らなかったんだけど。

 まず歌、ちゃんと歌ってて、いいんじゃないかなあ。
 純恋歌のサビ歌ってる人とか、けっこう情があっていいんじゃない。
 スマスマ見たけど、全員短パンはいてて最高じゃないですか。
(僕は「夏は半ズボン」党なので好感)
「お母さん大好きだよ」とか言ってて、いいじゃない。
 これで若いウェーイが「お母さん好きって言っていいんだ……!」ってちょっとでも素直になるならもう最高でしょう。
 みんなお母さん好きだけど言えないだけなんだよね、特にツッパリ系の人たちってのはその傾向強くて。だから大人になってから「マジ親に感謝」とか言うんだ。それはもうDragon Ashの『Grateful Days』からそうなんだ。

「父から得た揺るぎない誇り 母がくれた大きないたわり」
「マジ親に迷惑かけた本当に」
「仲間たち親たちファンたちに今日も感謝して」
(『Grateful Days』)

 僕はそりゃ個人的には本音では、「最初から素直に親に感謝しろよ!」って思うわけなんですけど、改心したほうがマシですよね。改心した人が「お前らにもあとでわかるさ、マジ親に感謝だぜ!」とかって、まだ改心してない人たちとか、親に感謝していいか悩んでる人とかに、好ましい影響を与えるかもしれないのですからね。
 ちなみに、若い人にはピンとこないだろうけどこの『Grateful Days』って曲は、99年に発売されたメガヒット曲で、その後のヒップホップとかレゲエとかのシーンに絶大なる影響を与えた凄い曲なんですよ。簡単にいえば、この曲を「かっけー!」とか思った若者が、どんどんそういう方向性の音楽にのめりこむようになってったんですね。んで、そういうミュージシャンがドカッと増えてったし、その支持層も広がり、深まっていったんです。というふうに僕は認識しています。KJとジブラさんがいなかったら、たぶん湘南乃風もないんじゃないでしょうか。もしかしたら、「ラップといえばブギーバックとDAYONE」みたいな認識のままだったかもしれません、一般的には。
 あと、ACOにサビ(フック)を歌わせたのも凄いんですね。それまでそういう曲(ラップ→サビが歌)でヒットしたのはそれこそ『今夜はブギー・バック』くらい(DAYONEはサビまでラップ調)だったと思うんですけど、でもこういう形式ってやっぱ耳に馴染みやすいし、カラオケとかでも歌いやすいんですよね。つまり、アングラっぽくていまいち盛り上がりに欠けるラップが、キャッチーになるんです。しかもこの曲の売れ方はブギーバックの比じゃなかった。この形が定着するのはやっぱ、『Grateful Days』以降なのではないかなあ、と思ったりしています。それまでにもいろんな曲があったんでしょうけど、その売れ方、影響力を考えるとやはり『Grateful Days』が歴史を変えた一曲です、たぶん。
 湘南乃風の『純恋歌』も、『今夜はブギー・バック』『Grateful Days』の流れにあるわけです。海外の流れはよく知らないけど、日本だけを見るとそういう感じでしょう。
 そういえば小沢健二さんは「マジ親に感謝」みたいなこと歌ってないですね。やっぱツッパリのほうが「これまで迷惑かけてゴメン、マジ感謝」みたいになりやすいんでしょうね。それを思うと海援隊はツッパリ系だったんですね、初期の金八先生なんか見てると本当にもうそんな感じがしてきます。
 あ、『母に捧げるバラード』は「ラップ→サビが歌」ではなくて「語り→サビが歌」のヒット曲ですね。これがブギーバックへの道を作った……の……かも……しれません。「マジ親に感謝」という感覚は海援隊からDragon Ashに隔世遺伝した感じ。
 海援隊とブギーバックの間にはダウン・タウン・ブギウギ・バンドの『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』があります。やっぱりツッパリなんですなあ。
 もともとヒップホップとかってのは、「楽器とかできないし歌も歌えないけど言いたいことがあるからリズムに乗って叫ぶぜ」みたいなところから生まれたと思うので、ツッパリと親和性が高くて当たり前ですね。

 んでツッパリが言ってることってのは悔しいけど正しいことが多いんですよ。「マジ親に感謝」なんかその典型だし、「一途にオマエを愛す」っていうのもそうでしょう。矢沢永吉さんといえば『アイ・ラヴ・ユー、OK』ですけど、あれってもう本当に、そういう歌です。
 ツッパリの言うことを肯定できないのって、結局ひねくれ者なんです。「親に感謝ー? 親はボクのことを束縛してた存在だからなあー」とか、「一途にー? あんなに悲しい裏切りがあって、あんなに悲しい別れがあったから、もう信じられないよー」なんていう「複雑な人たち」には、ツッパリの素直さはバカバカしくて受け入れられないんでしょう。
 ツッパリはいったん親から自由になった人たちで、「親の煩わしさ」から解放されることができたんです。だから後から冷静になると「マジ親に感謝」が出てくるわけですが、優しくて複雑で、「親は煩わしいけれども、邪険にはできない」とか思ってしまう優等生さんたちは、「マジ親に感謝」までたどり着けないんですね。ずーっと「煩わしい」まんまだから。
 バカな奴は「オマエだけだ」と言ったあと、別れてほかの女と付き合っても、「オマエだけだ」と本気で言えるんですが、ちょっと頭のいい人になると、「うーん、この子は好きだけど、前の子とはこういう点で違ってて……」みたいなことを考えてしまうんですね。それが正しいと思ってるんですね。「バカはいつも、オマエだけだとか言うけど、ちゃんと比較したりして、経験を活かさないと意味がないじゃないか」とかって。でも結局、どっちが結婚してうまくいくのかっていうと、「?」じゃないですか? 考えちゃう人はそもそも結婚が遅いだろうし、考えちゃうから離婚もしそうですよ。考えない人はズバッと結婚しちゃって、「オマエだけだ」を永遠に続けられるんですよ。浮気しても「火遊びだ」とか言って、嫁もいったん泣いてそれで終わったりするんじゃないですか(勝手な偏見)。
 僕は素直なツッパリ系の人たちが羨ましいですよ。そういうふうになろうとしていた時期は僕にもありましたが、やっぱりダメでしたね。人工的にできることじゃないみたいです。

 湘南乃風の『純恋歌』ってのは、そういう「何も考えないけど幸せなツッパリ系の価値観」を歌い上げた名曲なんじゃないですかね? とか僕は思います。『アイ・ラヴ・ユー、OK』と一緒ですよ。
 そりゃね、あの歌のカップルは、別れるかもしれませんよ。だって「単純」なんだから。でも、だからといって彼らに「複雑さ」を求めるのは、どうなんでしょうか。その辺で僕は常に迷ってるというか、悩んでる感じがあります。
 基本的に僕は、あの歌に歌われた価値観に共感はしないですね。「あー、また傷を重ねて大事なことに気づくアレか」とか思ったりします。それはあらゆる「売れる曲」がやってることですね。「そうして知った痛みを未だに僕は覚えている」とか。「癒えることない痛みならいっそ引き連れて」とか。そういうところは僕は好きじゃないんです、「痛みを伴わずに気づけたほうがいいじゃん」って基本的にずっと、もう10年、20年思ってます。でもねえ……。
 ここで僕は昨日書いた「価値や意味に似た何か別のこと」について思ってしまうんですね。

 それを思ってしまうのは悟りなのかもしれないしあきらめなのかも知れないけど、それを思わない限りは、「地球上にみんなで生きている」ことから逃げることにしかならないと思うんですよ。
 僕にもついにそういう時期がやってきたのかなとか思います。
 これまでの期間は全部、そこへ辿りつくための準備段階なんだろうな、とかいう予感もあります。
 今の僕は湘南乃風も、西野カナさんも、FUNKY MONKEY BABYSも、けっこう割と愛おしいです。
 嫌いなのはむしろスピッツみたいなものかもしれません。
 昔から僕はスピッツのことを好きになろうとしていましたが、そういうところがスピッツの最もヤバイところなんだよなと最近ようやく確信できそうです。

2013/07/24 水 わからない

 価値や意味に似た何か別のことを考えている。
 それはあるのかもしれない。
 今日芝居を見ていても思ったし
 微分方程式を勉強していても思った。

2013/07/23 火 なにいってんだかねー

 って思うことは多くて
 最近はあまり言わない。
 年を取った。
 若いからねって思ってしまうようになった。
 しかしその先がある。
 若いからそうだ、だから僕はその若さに対してこうアプローチする
 と
 で
 何もしないというアプローチも
 消極的に消去法的に
 あるので黙っているというような
 次第
 かも
 年上に対してはもうずいぶん昔から見限っている

2013/07/22 月 自由について(2) Kannivalismと「自分らしさ」

 自由=調和ということを書きました。
 もう一つ言うと、自由とは「自分らしさ」と関係が深そうです。
 Kannivalismというバンドに『age.』という曲があります。

そうだ 気づいたんだ。
そうさ 自由になりてぇんだ
自分らしく生きてぇんだ
(『age.』)

 この曲、「自由」という単語が六回も出てきます。ファーストアルバムの一曲目(トラックとしては二番目)で、同じライブで二度歌われることもあるような代表的な曲の一つです。(とある重要なライブでクライマックスに「勝手に一曲増やす」と宣言して二度目の演奏が行われました。)
「自由気ままに 気の向くままに」という歌詞がありますが、ボーカル・作詞の怜とギター・作曲の圭が参加しているもう一つのバンドbaroqueのインディーズ時代の代表曲に『Cherry King』というのがあって、こっちでも「自由気まま気の向くまま」と歌っています。ライブMCでも「そうだお前ら全員自由だ!」とか叫んだりします。たぶんこの人たちの基本テーマは「自由」です。

 自由とか、自分らしさとか、聞いてると「くさいなあ」って思ったりしますよね。それはそうなんですけど、尾崎豊にしろKannivalismにしろ、あまりにも本気なのでついつい耳を傾けてしまいます。
 そういえば『卒業』の歌詞には「あと何度自分自身卒業すれば本当の自分にたどりつけるだろう」というのがあるし、『自由への扉』には「きっとそこに信じていた自分らしさがあるのだから」というのがあります。

受け止めよう
自分らしさにうちのめされても
あるがままを受け止めながら目に映るもの全てを愛したい
(『存在』)

『卒業』『Scrambling Rock'n'Roll』と同じ『回帰線』というアルバムに収録された『存在』という曲は、『自由への扉』に繋がる思想をすでに秘めているように思います。
「あるがままを受け止めながら目に映るもの全てを愛したい」というのは、「全てが奏でるハーモニーに心委ねてみてもいいのさ」というのと、だいたい同じことを言っています。ただ、『存在』には「調和」という観点が見えません。「あるがままを受け止め」「全てを愛したい」と言っているだけで、「誰もが皆自由に生きてゆくことを許し合」うという思想ではないです。また、『存在』では「自由」という言葉は使われていません。
 ただ、『卒業』『Scrambling~』『存在』などで歌われていることを総合した上で「調和」という観点を加えると、『自由への扉』になりそうではあります。おそらく尾崎は最初(少なくとも85年)から一貫して同じ感覚を持っていたのではないでしょうか。

 僕は、「自由」と「自分らしさ」と「調和」というものは、かなり深く関係しているものなんじゃないかなと思っています。
 それは橋本治さんが『ぼくたちの近代史』あたりで言っていたようなこととも関係してくると思うし、小沢健二さんが93年に歌った「いつか誰もが花を愛し歌を歌い 返事じゃない言葉をしゃべり出すのなら 何千回ものなだらかに過ぎた季節が僕にとても愛おしく思えてくる」(『天使たちのシーン』)というフレーズに帰結するようなものなんじゃないかなあとか、思っていたりします。
 そのへんがうまくまとまるかわかりませんが、ちょっとやってみます。

2013/07/21 日 自由について(1) 尾崎豊と「調和」

 自由といえば尾崎豊、という時代は終わったんでしょうかね。
 僕がさんざっぱら引用している『自由への扉』という曲は尾崎豊の晩年の作で、おそらく彼の「自由」にまつわる作品としては最後にして最高のものなんじゃないかな、と思っています。そんなに詳しくないからわからないけど。『自由への扉』よりあとで、自由について歌った・書いた・語ったようなものがあれば是非教えてくださいませ。

『自由への扉』は92年5月(死後)の発表。
 その7年前の85年1月に『卒業』というシングルが出ていますが、そのカップリングが『Scrambling Rock'n'Roll』。どちらも「自由」というテーマを読み取れます。


仕組まれた自由に誰も気づかずに
あがいた日々も終る
この支配からの卒業
闘いからの卒業
(『卒業』)

自由になりたくないかい
熱くなりたくはないかい
自由になりたくないかい
思う様に生きたくはないかい
自由っていったいなんだい
どうすりゃ自由になるかい
自由っていったいなんだい
君は思う様に生きているかい
(『Scrambling Rock'n'Roll』)

誰もが皆自由に生きてゆくことを
許し合えればいいのさ
今夜素敵な夢を描いて自由への扉を開いてみるのさ
きっとそこに信じていた全ての姿があるはずさ
(『自由への扉』)


「仕組まれた自由」「自由っていったいなんだい」→「きっとそこに信じていた~」と、七年の間に疑問が確信に変わっていったような印象を受けます。

『自由への扉』で歌われているのは「全てが奏でるハーモニーに心委ねてみてもいいのさ」「誰もが皆自由に生きてゆくことを許し合えればいいのさ」です。これらは『Scranmbling~』の「思う様に生きたくはないかい」への答えのように感じます。「思う様に生きる」というのは自由の第一の要件だと思いますが、そのためには「ハーモニーに心委ね」るとか「自由に生きていくことを許し合」うとかいったことが必要なのだ、というのが26歳時点での尾崎の結論なのかなー。
 これ、僕はけっこう、いやかなり重要な考え方だと思うんですけど、この曲のファンってあんまり多くないんですよね。僕はもう十年以上カラオケで歌ったりこうして引用したりしてるんですけど、ピンときてくれる人はあんまりいません。うーん。僕が過大評価しすぎてるのかなあとも思うんだけど、今のところは「尾崎の言ってることがわかりにくいからだ」と考えることにします。
 ちなみに『自由への扉』の英語タイトルは『ALL HARMONIES WE MADE』。「僕らが奏でるすべてのハーモニー」みたいな感じですね。ハーモニーというのは 「和声」とかいう訳をあてるらしいですが、一般的には「調和」という意味でしょう。ここからなんとなく僕は、「自由とは調和である」という言い方を思いつきました。直観ですがたぶんこれでいいと思います。

2013/07/20 土 baby 楽勝 楽勝

 ハー。僕ももっと肩の力抜かないとな。
 放送大学! さて。

 いま「広島・灰ヶ峰での集団暴行殺人&死体遺棄事件」にめっちゃ興味があります。ポイントはたくさんあるんですが、それを書き始めると長くなりそうなので、もうちょっとまとまってからにします。とりあえず、事件の最も詳細なまとめはここだと思います。おすすめです。

 自由について考えています。
 ずっと考えているんですけどね。あんまりまとまったことを書いたことはない気がします。

 自由というのは自立というものの先にあって
 とうぜん自律を前提としていて
 かつ他の自由と調和するべきものなのだと
 僕は思います。


 なんでも自分一人で決めちゃう人が多すぎるよ。
 答え合わせではないですか、それも。
「私はこう思うー。だからこうするー。これでうまくいけばいいなー。うまくいかなかったら困っちゃうなー」っていう感じに
 なるやん。
 それあかんでって僕おもうねんけど
 かんのかね。

2013/07/19 金 紙に書くこと(昨日の補足)

 別に、「紙に書けば、その紙に何かが浮かび上がる」と思うわけではないのですよ、正直に言うと。(見えてくるものもあるとは思うけど。)
 書いてみること、書いてみようとしてみることを、してみたらいいんじゃないですか? と思うのです。
 書いた内容なんかどうでもいいんです。
「紙に書く」ということをしてみたらいいような気がするんですよ。
 書いたからどうなるということでなく書いてみたらいい気がするのです。
 人はなかなか紙になんか書かないから。

2013/07/18 木 横島先生と美神さんの「自信」について

 世の中にある問題の大部分は「自信」に関わるもので、適切な自信さえ持つことができたら心の悩みやおかしな癖や何かはだいたい改善するのではないかしら。
 僕の心の師匠である、『GS美神 極楽大作戦!!』の主人公横島忠夫先生17歳(なんか昨夜夢に出てきた)は、「この世に自分ほど信じれんもんがほかにあるかあー!」という名言をのこしている。げに、その通り。自分を信じるという、少年漫画の主人公なら無条件にできるはずのようなことが、横島先生にはできない。でもそれって本当にリアリティのあることで、真に迫っている。そこが読者(僕のようなだめ人間)の共感を呼んだのでしょうなあ。

 自信を持つためにはどうしたらいいのか。
 虚勢ではなく、適切な自信を。
 それはもう「あがく」しかない。
 で、「自分はどういうものか」を捉えるしかない。
 思春期から二十代くらいまでの間にそれをちゃんとやっておかないと、永遠に「適切な自信」は持てない。
「偉そうなオッサン」や「客観性のないオバサン」ってよくいるけど、ああいう人たちは怠っていたんだろう。「適切な自信」が持てないまま大人になって、「でも自信がないとまずいな」になって、「適切じゃない自信」を持ち始める、という非常に貧しく愚かな流れに乗っている。

 横島先生は「自分を信じる」という言葉を使ったけど、実は「自信」という言葉には「自分を信じる」というだけでなく「自分を確信する」という意味がある。横島先生はちゃんと「自分=煩悩」であることを知っていて、開き直っていて、最初から最後まで首尾一貫して「煩悩の男」だ。ただ横島先生は、「その煩悩パワーで目の前の敵を倒すことができる」ということまでは確信できず、だから「自分なんて信じられない」という意味のことを言った。その時点での彼は力に目覚めたばかりで、「自分の煩悩の力」をまったく把握していなかったのだ。だから、かなりその能力を割り引いて考えていた。
「自分にはどのくらいの力があるか」を把握すれば、「適切な自信」は持てる。当たり前のこと。横島先生はここからどんどんパワーアップして強くなるけれども、自分の実力ではとうていかなわないと思えば、堂々と卑怯な手を使ったり、逃げたり謝ったりする。それはある程度「自信がない」からであり、ある程度「自分の能力を把握している」からであり、「把握できていないぶんは割り引いて考えていた」からである。僕、わりと横島先生は「適切な自信」を持っていた人だったんだなーと思う。
 横島先生は基本的に、「ここまでは大丈夫、でもここからはどうだ、あ、ダメそうだからやめよう。でもこっちなら? よしいけた!」みたいな人なんだよね。あの有名な「蝶のように舞い、ゴキブリのように逃げる。と見せかけて蜂のように刺す! で、ゴキブリのように逃げる」というのも、自分の能力とよく相談した結果の、「適切な卑怯さ」なのである。自分はこの相手に対して「蝶のように舞い、蜂のように刺す」ができるほど強くはない。しかし「逃げると見せかけて攻撃する」ならできる。だからやる。しかし不意をついたあとでもまともに戦えばかなわないことはわかっているので、ちゃんと逃げる。相手との能力差を考えればそのくらいが適切なのである。もし、どう考えても絶対に勝てるような相手であれば、横島先生は「蜂のように刺す」だけをするだろう。そういう人なのだ。それは雇い主である美神さんもだいたい同じで、実は似たもの同士なんだよなー。
 横島先生も美神さんも「正々堂々」からはほど遠いヒーローで、卑怯なことをいくらでもする。でもそれは「まともにやったら勝ち目がない」といった事情があるからなのだ、基本的には。分をわきまえているということである。美神さんが高飛車で常に自信満々に見えるのも、おおむね自分の実力を把握しているから。だからあれは「適切な自信」なんだろう。「これは無理だ」とか「割に合わない」と思ったらすぐに匙を投げるのが美神さんで、それは「自分の能力も含め、全体を冷静に考えている」ということ。そこに少年漫画らしい無鉄砲さはない。悟空やYAIBAみたいな、「つえーやつに会うとワクワクする」系ではないのである。
 無根拠な自信が無根拠のまま貫かれて、結果的に「それでよかった」になるのが悟空系の物語文法なわけだけど、『GS美神』は違う。「適切な自信」を常に念頭に置いているのだ。……たぶん。ちゃんと読み返さないとなー。

「適切な自信」なるものを『GS美神』から考えてみたけど、ざっくりいうとこういう感じ。「自分の能力を把握する」「把握できている部分をもとにとるべき行動を考える」「把握できない部分は割り引いて考える」。言い換えると、「自分を確信(正確に把握)し、それに従って自分を信じる。信じられない部分は、信じない」ということ。
 自信がないと自覚している人は、「信じられない部分シカナイヨー」なんて甘えたことをすぐにぬかしやがる。それは前段階の「把握する」をさぼっているから。把握していないうちは自信なんか持ちようがないから、仕方ない。当たり前。とりあえず自分を見つめることだけをしましょう。自分を知らずに自信を持とうなんて虫のいいこと考えてるからダメなんだ。面倒くさいことを、ちゃんとやんなきゃ。
 そうすると今度は、自分を見つめるってなに? がくるわけだけど、それはもう、紙に書きなさい。自分についてひたすら紙に書く。それしかない。自分探しとかいっていろいろやったって、紙に書かなければ意味がない。書くことがなくなったら、そのとき改めて何かをすればいい。

2013/07/17 水 なにしてんの

動き出さなけりゃ そう 始まらない (なにしてんの)
悪い事だけ浮かんできちゃって暗い イヤ イヤ イヤ
「これだ」って思えるものがあるならば (なにしてんの)
人の目ばっかり気にしてちゃ損でしょう?

口先だけじゃ何も変えられない (なにしてんの)
分かってるけどヤッパ不安で辛い イヤ イヤ イヤ
明日も似た事で悩むぐらいなら (なにしてんの)
動き出さなきゃ始まりゃしないでしょう?
(SURFACE/なにしてんの

 これ100回聴いて出直してこい!
 って言いたくなるような人にたびたび出会います。
 誰もあんたの決断を肩代わりしてはくんないのォ。
 って言いたくなるような時もあります。

「今さら」じゃない まだ間に合う イエー
このままずっと今のままで いいはずないんだったら
ホラ なにしてんの

 その一歩を踏み出す勇気が、すべてを変える力です。
 ってフレーズを何度か使ってるけど、本当にそうね。
 僕は人生の中での記念すべき「一歩」をいくらでも覚えています。その一つ一つが僕の誇りです。十五歳の夏に逆ヒッチハイクされたときもそうだし、十六歳のとき北海道で旅人のおっちゃんと一夜をともにしたときもそうだし、初めて無銘喫茶に行った日のこともそうだし、早稲田の「うまい棒祭り」で知り合い一人もいない中できちがいみたいに暴れた時もそうだし……それら「一歩」を踏み出した瞬間のことは、本当にまさにその瞬間の情景や気分やイメージは、いつでも鮮明に思い出せます。爆発的な葛藤があったから焼き付いて離れません。
 人の目を気にせず、「これだ」と思う行動を取る一歩。それが「自分だけの人生」を作っていくのだと僕は思いますよ。

誰かに似た 生き方なんかじゃ 嫌
自分は自分と自信を持って 言いたいんだったら
ホラ なにしてんの

2013/07/16 火 いろんな頑固さへ乗り移れる柔軟さはやっぱり頑固だってことなんじゃねーの

 恋愛でたとえます。
「○○くん好き好き~」みたいな強烈な状態を「頑固」と言います。そうします。周囲が何を言おうと、相手とうまくいかなかろうと、「好き好き~」を揺らがせない頑固さ、というのは恋愛ではよくありますね。
 さて。「○○くん好き好き~」の数ヶ月後には「××くん好き好き~」となっていて、さらに数ヶ月後には「△△くん好き好き~」になってるような人は、柔軟なんでしょうか、頑固なんでしょうか。
 それは僕は頑固だと思うんですよね。
 頑固パワーは100のまま、それを注ぐ対象を変えている。いくらでも潔く変えられるということは柔軟なような気もしますが、それを柔軟と呼んでしまっていいのでしょうか。

「わたしは食事にはこだわらないから~」とか言って、毎食吉野家の牛丼やマクドナルドのハンバーガー、ミスドのドーナツ、コンビニ弁当などを食べている人は、柔軟なのか頑固なのか。「自炊をしない」「高いお店や個人経営の食堂などで食べない」とかいった意味で、ものすご~く頑固なのではないか。
「柔軟だからこうします、ああします」と言ったとき、「こう」とか「ああ」とかからこぼれ落ちるものはたくさんあります。こぼれ落ちるものを無視するのなら、それは立派に頑固ということです。

「わしは柔軟だから、若者のやることに理解があるんじゃ~」とか言って、何でもかんでも若者のやることを許容していたら、その人が生きてきた数十年はいったいなんだったんでしょうか。「わし(年寄り)と若者」という視点で、その間にあるものを見つめることこそが柔軟なのであるような、気がします。

 しゃれた言い方をすれば、「自分は柔軟だ」と意識する時点で、かなり頑固なのかもしれません。そこに「疑問」がないからです。柔軟さとは疑問を持ち続けることだと思うのです。疑問がなくなったらそれは柔軟とは言いません。だから僕は自分を柔軟だと思っている人はちっとも信用しませんね。「柔軟でありたい」ならわかるけど。

2013/07/15 月 結婚について

 結婚についてどう考えているのかみたいなことを聞かれたのですが、僕は個人的なことを話すのが極度に嫌いなので答えませんでした^_^むかし架神さんがそういう件に関してとても素晴らしい文章を書いていたので参考にしようと思ったんだけど、一時間くらい検索して出てこなかったので諦めました^_^
 とりあえずここで何か書きましょう。

 僕は基本的に人間が「セット」で扱われるのが我慢ならないです。恋人でも親友でも、友達でつくる「グループ」でも、家族でさえも、人間が「セ ット」として、 一緒くたにまとめ上げられてしまうことに少し反対しています。
 自分は他人に対してそのように考えたくないし、考えられたくもありません。人間は原則として「一人」でこの世の中に存在していて、必要な時にその都度「セット」になれればいいのだと思います。(これもFF6の世界ですね。あるいは小沢健二さんがむかし書いた「無色の混沌」という文章も、僕の考え方の基礎になっています。)
「夫婦」だの「恋人」だのという制度・風習は、人間を一組の「セット」にします。セットでいることは便利です。「どこに行くのも一緒」という人間関係は、楽です。そういう二人組はたいてい楽をしています。どこへ行っても「二人」の中に閉じこもっていられるからです。「あなたと一緒にいるわたし」「おまえと一緒にいるおれ」「わたしと一緒にいるあなた」「おれと一緒にいるおまえ」というふうに、自分の在り方と相手の在り方を、常に一定に保つことができます。
 関係の在り方が定まっていることは、夫婦として、そして家族として好ましいことなのではないか? という雰囲気も少しありますが、僕はそうは思いません。流動性がないからです。柔軟性がなくなります。定まってしまうことは危険です。永遠に二人だけで閉じていられたらそれは結構なことですが、どちらかの片方が「この空間では一人になりたい」「別の誰かとつながりたい」と思った時に、それは崩れます。もう片方が「行ってらっしゃい」と送り出して、そののちに「ただいま」と帰ってこられるならいいのですが、それは簡単なことではないのです。だから練習が必要です。
 いつも二人でいる人たちが、一人ずつになった時、かれらはちゃんと「一人」になれるのでしょうか? 僕はいぶかしく思います。自分が「一人」であることを忘れると、いざ「一人」になった時に困るのです。

 だいぶ抽象的になってしまいました。
 僕と仲のよい夫婦やカップルは、「一人ずつ」になることが上手な人が多いです。そうじゃないと素敵な二人組にはなれないのではないかなと思います。完全に別々というわけでもなく、かといって「いつも二人で」というわけでもない。自分が「一人だ」ということを意識しつつ、伴侶と向き合っているということだと思います。「仲がいい」というのは、「べったり」ということとは違うんですね。子供の頃の友人関係は男女ともに「べったり」しがちですが、それを大人になっても引っ張っていると、なかなか「一人になる」ということがわからなかったりします。
 僕は原則として結婚はしなくてもよいのだと思っていますが、日本では、一緒に暮らしたり、子供を育てたりする段になると結婚していたほうがいろいろと不便がないようです(世間体的な意味でも)。メリットを考えてすべきだと思えばしたほうがいいでしょう。その際に僕が考えるのは、「子供を育てるために結婚し同居をする上で、お互いが一人であり続けながら上手に折り合いをつけていけるかどうか」です。そういうことができない相手とでは、子供も「一人」にはなれません。そういう親は、つい子供と一体化しようとしてしまうでしょう。
 人間というのは、一人でいたいくせに、誰かを求めるものです。「それは両立するのだ」ということを知らない人間が、どちらかに偏って、倒れます。
「一人は楽だ、だから一人でいるんだ。誰のことも求めない」でもうまく生きていけないし、「二人でいたほうが楽だ、誰かと一緒にいたい。自分のことはどうでもいい。誰かと溶け合いたい」みたいな感じでも、やはりうまくいきません。(このへんはAmikaさんの『世界』って曲を思い出します。)

 以上のように思うので、僕はあんまり「セット」にされうるような話をするのが好きじゃありません。気を遣われるのも嫌です。
 その点、最近結婚した僕の身内はうまくやったなと思います、たぶん。そういうところも血のつながりを感じさせる。パーティには二つくらいの理由で行かないけど、祝福しています。おめでとうね。

2013/07/14 日 一般女性とは

 芸能人が結婚すると「一般女性と入籍!」とか書かれますよね。
 一般女性ってなんなんですか?
 これが、いわゆる「タレント」だったらその名前(芸名)を書かれますね。
 モデルさんとか、料理研究家とかでも、書かれますよね。
 政治家でも書かれますよね。
 どこまでが書かれて、どこまでが「一般女性」なんでしょうかね?
 たぶん「有名税が適用される範囲」までが「一般じゃない」んでしょう。
 でも、有名税が適用される範囲なんて、曖昧なもんですね。

「一般女性の職業も書けよ!」ということではありません。それも面白いけど。
「どうして、誰と結婚したかというところが問題になるのか? その相手が有名な人や、特殊な職業・出自の人だと、ことさらに話題にされるのはなぜか?」です。もうそれは、「話題になるから」でしかないわけですけどね。
 イヤだなあ。
 有名人の結婚がニュースになるのはわからないでもないけど、それなら「結婚しました」でいいでしょう。お相手なんかどうでもいいじゃない。
 本人が明かしたければ明かすし、そうでなければ別にどうでも。
 なんでそんなに知りたがりなんでしょうか。
 何か不安なことでもあるの?
 それは貧しいということだと思うけど。

 風間俊介さんや安藤美姫さんに関する報道を見て思ったのでした。

2013/07/13 土 ジャニーズにデブはいない

 ジャニーズにデブはいません。
「ジャニーズ デブ」で検索したらこういうのが出ました。

:なな:2010/05/19(水) 12:52:11 0
最近、私思ったんですけど、なんでジャニーズのファンがキモイとかって言われるんだろうって。
それで、考えてみたんですがジャニーズのイベントにけっこうデブの人が来ているんです!!
あと、田舎モン丸出しの服装の人とかもちらほらと見ます
もう、お願いしますから皆さん痩せたり、服装のセンスを磨いてください
これらは努力すれば治ることです!!!!
とにかく私は田舎者やデブと同じ人種だとは思われたくはないです!!
皆さん努力してください!!
私は14歳の頃から雑誌のモデルなどをやっているので少なくとも皆さんよりも努力はしています
皆さんも私の十分の1で良いですから努力してくださいお願いします!!!
私達ジャニーズファンが馬鹿にされるのはもうイヤなんです!!!
もうホントにデブの人って迷惑です

 マジであれ、釣りであれ、
 こういう人が出てくるのはジャニーズにデブがいないからなのです!
 ジャニーズにデブを入れましょう。
 デブユニットを作ってデブーさせましょう。

 それからジャニーズに不細工な人はいません。
 訓練されたジャニーズファンはよく「私達は顔で選んでるわけじゃない! 顔とか二の次だし!」とか言いますが、しかしジャニーズに不細工はいないのです。
 ちょっと(けっこう?)個性的な顔はいるけど、でもそれは「これがかっこいいんです! これをかっこいいと思う人もいるんです!」って言えば「うーん、そうなのかあ~」ってなる程度の「個性」で、この世の終わりみたいな顔はいません。

 だからなんだということは今のところ思いつきません。
 しかしこういう当たり前のことを僕たちはちゃんと考えなくてはいけないような気がするのです。
 はっきりと言い切りますが僕はジャニーズが嫌いです。
 AKB48も嫌いだし、ももいろクローバーも嫌いです。
 それはなんでかといえばその中にデブや不細工がいないからです。
 相当多くの病がそこから出てきてると思うんです。
『あまちゃん』も好きではないです。
 なぜならアキ役の人が見るからに可愛いからです。
 お母さんもキョンキョンだし超美人ですよね。
「親子二代でめっちゃ可愛い」という十字架を描いている部分もあるのでしょうか。うーん。ちゃんと全話見てる人おしえてください。
 彼女らが並の容姿だったらもっと愛せる気がします。

 僕はいつの間にか日本の実写もの(映画、ドラマなどあらゆるテレビ番組、アイドル、などなど)をほとんど見なくなったのですが、それはきっと「容姿」の問題がダイレクトに見えてしまうからなんでしょう。

 デブも不細工もいないジャニーズやAKB48を見て「キャー」とか若い子が言ってると、暗澹たる気分になります。
 で、その「キャー」とか言ってる子たちの何パーセントかは、「デブ」とか「不細工」とかだったりするんですよ。
 それを良しとする世の中って、よくないと思います。
 開き直って「だって好きなんだモン」とか言ってるファンの人たちは、いったいどういうことを本当は考えているのか、これから考え得るのか、いろいろ気になっています。

2013/07/12 金 あまちゃん

 わからない全体の
 わかる部分だけに泣いて
 全体を絶賛する
(またはその逆など)

2013/07/11 木 13

 だからなんだってことはないんですよ。
 本格的なオフ会は20周年の時にやります。
 あと7年。それまでみなさん力を蓄えておいてください。
 決して忘れませんように……。

 ひろりんこ氏の日記で48グループについて素晴らしい指摘がされているので、お時間のある方は、ぜひ。

2013/07/10 水 13周年まであと15分

 まもなくでーす。

2013/07/09 火 13周年

 あさって、このサイトの13周年です。7月11日の午前零時にスタートしました。そんなわけでおざ研、あすあさっての夜あけておきますので、ぜひともお祝いにきてくだちい。

2013/07/08 月 意味とリズム(演劇を例に)

 良いお芝居を見ました。内容の感想はまたまとめます。

 最近気づいたことですが、僕は音楽を聴くとき、「歌(音色)」と「リズム」しか気にしていないようです。歌に心(これがなんなのかというのもまた面倒くさい)があるかどうか、それによって歌詞=言葉はどのように生きているか、そして結果として美しいものを伝えているか……というようなことがまず一つ。これだけでもかなり抽象的ですが、さらに抽象的なのが「リズム」というやつで、僕は相当これを気にしているようです。
 これを言葉で説明することは非常に難しいんですが、代わりに演劇について語ることで少しは伝えることができるかもしれません。

 演劇でも僕はかなり、声(音)とリズムを重視して観ます。普通のお芝居だと声=台詞が物語の大筋を説明しているので、声を聞くことでストーリーやテーマなどをおおむね判断できます。そして動きやその他の五感的効果は、基本的にはそれを意味の面で補強するものです。
 ただし、これらが形作るのはもちろんストーリーやテーマ(すなわち「意味」)ばかりでなく、たとえば「リズム」というのもあります。僕はそれにばかり注目するわけです。

 演技・演出の、一つ一つにリズムを感じます。そればかりみています。同時にその演技・演出の「意味」についてももちろん考えるので、結構疲れます。
 こないだ観た別のお芝居は、あんまり平均的に演技がうまくなかったように思ったし、ちゃんと演出されてなかった(稽古が少ない?)ような気もして、やや暇でした。みるべきリズムは特になく、意味しかないような感じです。そのぶん「意味」を考える余裕ができたので、あまり疲れなかったのはよかったかも。
 今回みたのは、リズムと意味のレベルやバランスが絶妙でした。相当厳しく精緻な演出と、それに応える演技力がなければ、こうはできまいという、非常に心地よいお芝居でした。誘ってくれたひと本当にありがとう、感想書きます。

 演劇においてリズムを形作るのは、大雑把にいえば「台詞の速度や抑揚」と「間」です。これが優れた音楽のようにしっくり奏でられていると、芸術的に美しい芝居になります。
 そのへんはたぶん歌や楽器とあんまり事情は変わらないし、きっと文章だって同じことでしょう。文章にも速度や抑揚みたいなものはあると思います。僕は詩も書くんですけど、そんなことをかなり意識します。もちろん小説や日記でも。あるいは漫画(!)を書くときには一番大切にしている気がします。

 この「リズム」というのが僕を、「意味だけの人」にさせないでおいてくれているんだろうな。大切なのはリズム。意味だけで生きていたら仲良くならなかったかもしれない友達は何人もいる。意味だけだったらいよいよ偏屈な人だからなあ。

 念のため書いておきますが単調なリズムがただ続くのは好きではありません。予定調和は嫌です。僕がいろいろとぶち壊したくなってしまうのはそのためでしょうね。少し前に書いた、「ゆさぶりたい」という気持ちと関係がある気がします。

2013/07/07 日 アダルトとやらせ

 また今日も内容のないアダルト話です。たまにはいいでしょう。どうせみんな好きだし。本当は何よりも大切なことですエッチなことはってルンペン貧太先生も言ってた。
 公的に売られるアダルト的な映像のほとんどは「やらせ」だと思うんですが、これ、本当にやらせと言っていいんでしょうかね?
 たとえば、「素人もの」と呼ばれる系列の映像で、「看護師をしています」という女の人がアダルトなことをするとしますよ。
 その人は本当は看護師じゃないかもしれないし、名前も偽名だろうし、その中で語られるエピソードは全部ウソで、しかも「偶然道を歩いていた人に声をかけたら看護師さんだった!」という設定だったけど、本当は自ら「アダルト的な映像に出たいんですけど!」と志願してきた女の人だったとしますよ。
 その映像に映っている情報のほとんどはウソだったりするのですが、その女の人がアダルトなことをしてるのはどう考えても真実なんですよね。
「やらせかどうか」を問題にするのは、見る人の性癖(どんな設定に興奮できるか)だけであって、性癖をリセットした状態で見れば、もうやらせかどうかなんて関係がないですね。「こういう女の人がアダルト的なことをしている!」は、どう見ても真実なのです。
「修学旅行中の女子高生とやっちゃいました~」みたいな映像が、本当っぽく作られていても、それは公的に出ている限りほぼ100%「やらせ」です。しかしそこにはリアルっぽい女の子が映っていて、アダルトなことをしています。十代にしか見えず、あまりきれいでもないような子ばかりが、化粧もほとんどせずに出演しているのです。
 なぜ、あまりきれいでもない子が出ているのかといえば、「設定に真実味を持たせるため」でもあるし、「そういう設定を付加価値として持たせなければ売れないような容姿だから」でもあります。また、「単体では売れないような容姿」ということでもあります。
 そういう子が、アダルト的なものに出ているのは眼前の事実なのです。その子は女子高生でもなければ、修学旅行中でもなく、ナンパされたわけでもないのでしょうが、「一八~二十歳くらいの女の子で、AVに出ることを承諾した子」というのはたぶん、事実なのですね。そう考えるともう、「やらせ」であるかどうかは本当に、性癖と「大人の事情」の問題だけになってきます。どうでもいいですが、「修学旅行生のフリをしてアダルトしている、AV出演を承諾した十代の女の子」というものにこそ興奮する人というのも、いるかもしれません。
 だからなんだということは、別にありません。意外とそういう視点はなかったなと、僕がちょっと前に思ったというだけのことです。
 また、「そういうビデオを作ろう!」と企画したら、たぶんわりと簡単にそういう容姿の子たちをぱっと集められるような人材の海が、そこにあるということでもあります。順序は逆、つまりたまたまそういう女の子が集まったからそういう企画をしたのかもしれませんが……。
 業界には「タレント名鑑」的な「AV出演承諾者リスト」みたいなのがあったりするんでしょうかね。どうやって都合よく、ああいう感じの子をかき集めるんでしょう。いろいろ謎です。

2013/07/06 土 アダルトはすべての結果である

 アダルト的に動いているお金は巨額だと思います。その中でも、「女性がアダルト的なアレでお金をもらう」的なことで動いているお金は特に多いのではないか、と推察します。このあたりの話題は非常にデリケートなんで、あんまり触れたくなくって、じじつほとんど僕は書いてきてないのですが、やっぱりいっぺんちゃんと何か書いてみようかなあと思っています、最近。でも難しいです。
 結局、前回書いたみたいな、「アダルト的な人の多さ」を、「そうなってるんだなー」と受け入れることしか、アダルト的でない(その予定もない)人が考えることって、ないのかなーと思っちゃったりもします。
 正論みたいなことはそりゃ、言えると言えば言えるんですけど、それ言っても、ねえ。って感じで、だいたいみんな、黙っちゃいますよね。
 エロにまつわることを賢そうな言葉で語るのも、かっこつけてるみたいで、あるいは誤魔化しているみたいでちょっと、とか。
 僕はなんかそういうのも嫌で、何かを言いたいんだけど、特に何も言えることがないのです。

 あんまりアダルト的な業界のことを僕は知らないし、業界の人との関わりもほとんどないので、わからないというのが大きいです。
 なんかもう、「そうなってるんだなー」としか思えないです。
 定期的にクリックしまくってますが、「こ、こうなっているのか……!」という感想です。
 なんでそういうふうにしか思えないのかといったら、やっぱそこが人間の終着点だと僕が思ってるからなんでしょう。
 性に始まり性に終わるのが人間で、その性にまつわる状況がどうなっているのかというのは、すべての終着点というか、あらゆることの結果だと思うのです。その結果ばかり見つめていても、途方に暮れるだけです。何もできることはありません。
 だから僕はアダルト的なことはあんまり書かないのかもです。
 もう、善いとか悪いとかではなくって、結果なんです、これは。
 社会のバロメーターとは言えるのかもしれませんが、バロメーターをいじくれば社会が変わるのかといえば、そういうわけでもないのです。
 でも、やはりバロメーターは大事だから、「そうなってるんだなー」「こうなってるのかー」は、ちゃんとやんなきゃいけないような気はしています。
 だからけっこう、いろんなジャンルをクリックしております。
 僕はエロ漫画は、ゴージャス宝田先生とがぁさん先生を除いてほぼ好んで読むことがないのですが、クリックはけっこうします。それはそれが生身の人間だからでしょうね。「いまどんなエロ漫画が売れているのか」というのも「結果」を示す優れたバロメーターだと思いますが、生身の人間の映し出す「結果」は強烈です。すげーなと思います。本当に。

2013/07/05 金 アダルト的な人の多さ

 ほとんど内容のないこと書きます。
 AVに出てる女の人、多くないですか?
 この「AV」ってのは、「お店やネット等で販売・配信・公開されているアダルトコンテンツ全体」をさすと考えてください。つまり、「売春した時に撮られたビデオを勝手にネットに公開されました^_^」みたいなのも含みます。アダルト的なもの、多すぎるのでは? すごいのでは?
 そういうことを十代の若者たち(男女一名ずつ)の前で言ったらポカーンとされました^_^「だからなに?」みたいなこと言われました^_^「たくさんいるのはわかるけど、それがなんなの? ピンとこないんですけど」的な。
 まあ……二人ともふだんアダルト的なものを(たぶん)見ない、「婚前交渉とか! まじめなお付き合いの伴わない性的なこと! よくない!」というような考え方の人たちだったので、「あまりにも別世界すぎてよくわからない」ということだったのでしょう。
 でも! たぶん! 別世界じゃ! ないんですよ!
 クリックしてごらんなさいよ!
 それ的なサイトに行って、百回くらい、いろんなサムネイル的な画像をクリックしまくってみてくださいよ!
 多岐にわたる種族の、数多の、アダルト的な人たちがいることに驚きませんか?
 何回クリックしても、毎回ほとんど違う人たちが出てくるのですよ?
 クリックするたびに! アダルト姿の! 違う人たちが出てくるのですよ!
「って言っても、一部っしょ?」って思うかもしれないけど、ある記事によるとAV出演経験者は十万人以上いる(別の記事では十五万人以上、Wikipediaでは「(AV女優が)延べ20万人」)らしいですよ。このあたりを信じて十五万人くらいだと思いましょう。でもこれってたぶん公式の数字で、「売春した時に撮られたビデオを勝手にネットに公開されました^_^」みたいなのとか、「裏ルートだけで売買されてます」とか、「趣味で個人的にエロ動画配信してま~す('ω')」みたいなのとか、そういったインディーズ的なものを除いた数だと思われる(思うことにします)ので、実際はきっともっと大きな数字になりますし、ビデオは出てなくても売春してる人とかめちゃくちゃ多くて、なぜかそういうのもカウントすることにすると、平気で二十万人くらいいてもおかしくはないのです! 二十万人にします。
 二十万人いて、そのほとんどが「十五歳から五十歳の女性」だと仮定すると、約二七〇〇万人(2010年)くらいのうち二十万人だから、一三五人に一人がAVに出演しています! これは「ならした数」なので、多い世代(要するに最近の二十代とか)なら、数十人に一人くらいになる(かもしれない)!
 つまり(共学なら)二~三クラスに一人です!
 ……めっちゃ乱暴な、明らかに間違っていそうな計算をしましたが、さらに広げてソープやヘルスくらいまでを射程に収めるなら、あながち遠すぎることはない率なのでは? と! 性的ヌードモデルや性的イメージビデオとか、性的顔出し下着売りとか、その他ニッチアダルト等スレスレのものもたくさんあるんで、あわせて妥当だと思いましょう!
 さらにこれを、「東京二三区内に住んでいる人」とかに限定すると! 「クラス(=女子二十人とする)に二人~四人」くらいになります! 女子校ならクラスに四人~八人です! 日本の人口の一〇分の一が二三区内に住んでいるし、公式なアダルトビデオ的なものの大部分は都内で製造されていると思われるからです!
 計算の正確性とかはどうでもいいことにしましょう!
 クラスに二~四人です!  ……まあ、一人くらいはいるんじゃないでしょうか!
「でも、うちのクラスにはそういうやついないよ」と思う方、知らないだけかもしれませんよ! それに、東京には全国から人が集まってくるので、高校くらいまでのクラスで考えるとよくありません。「いまの二十代くらいの男女を東京二三区内で集めて、クラス的なものを作ったら、その中に最低でも一人くらいはアダルト的な女性がいる」ということです!

 だからなんだ、ということなんですけど。
 別にどうということもありません。
 すごいなーと思って、その後のことをもう、少なくとも十年くらいは考え続けております。

 五食くらいご飯等ごちそうします(「ひみつ券5枚綴りとして支給」)ので、僕の日記にインデックスつける作業、誰かやりませんか? 昔ちょっとやってたけど面倒くさくて挫折した。世界に親切の過去ログみて、「あ、便利」って思ったので。ええ。

2013/07/04 木 僕研究家(2)教えてジャッキーさん?

 前回の記事の続きです。

「ジャッキーさんをさばく判断ができなければカルト(自律思考が欠けている)なので危険」

 という考え方について。
 十三年もWeb日記やってて、同人誌も出してて、学校の先生までやってて、人が集まる場(おざ研)を作ったりもしているせいか(っていうかまあ主には性格のせいなんだけど)、ちょいちょい僕の考えやなんかが誰かに影響してしまうことがあります。「それって危ないのでは?」という問題も出てきます。出てきました。

 上の考え方は「世界に親切」のなかやくん(この人についてはまたいつか改めて書くかもしれない)が提示してくれたもの。彼は「その自律思考はどうやって鍛えればいいんだ?」という方面に解決策を見ているようです。

「自律的にものごとを考え、判断できるようになる方法」ってのは……難しいですね。これはちゃんと考えて書くと十日分くらいかかりそう。
 とりあえず、「こういう危機感」について書いてみます。

 こういう危機感を覚える人ってのは存外多いんですよね。かの橋本治さんも、寺山修司の本をいくらかだけ読んで「これ以上読むと、この人のエピゴーネン(まねっこ)になってしまう!」とか思ってやめてしまったんだとかなんとか。僕は寺山修司ではないですが(出身学科は同じですが!)、そのように僕から距離を置く人もいるといえばいるようなのです。
 僕は幸いにも? 不幸にも? そういうことを思ったことがないかもしれません。岡田淳さんにせよ、小沢健二さんにせよ、橋本治さんにせよ、これ以上はないというくらい傾倒したし今もしてるけど、決して食べられるようなことはなかった、はず。
 それはなんでかっていえば、たぶん「真実はいつもひとつ!」みたいなことを思っていたからなんだろうなあ、とちょっと思いました。

 尊敬する人が一人しかいなかったら、その人の真似をすればいいけど、たとえば尊敬する人が三人いたら、全員の真似をすることってできないですよね。その三人の言ってること・やってることを抽象化して、自分なりに「こういうのが正しい!」をまとめなければいけなくなります。
 それは僕が、両親と三人の兄に多大なる影響を受けて育ってきたことと関係があるのかもしれません。家庭内に五者五様の好みや信念があって、それらをすべて受け止めながら、「じゃあ、自分は?」を考えていた、一家六人のうち最も下っ端だった僕は、いつの間にかそういう、「たくさんの良いものをまとめ上げて、一つの在り方をつくる」というような能力を、身につけてきたのかもわかりません。

 イエスもすごいし、釈迦もすごいし、孔子もすごいって一律に思えたら、その人はたぶん「それらの何も信じていない」っていうことになるんですよね。もちろん「すべてを尊重している」わけですけど。

「真実はいつもひとつ!」みたいなことを考えて、どっかに点を一個設定するといいんじゃないかとひとまず思います。すでに誰かのいる点ではなくって、オリジナルの点。自分だけの、自分のための点。で、たとえば僕なんかの言っていることの一つ一つは、「その点の周辺にある別の点」みたいなイメージ。それでその他のいろんな点を、できるだけ多く見つけて、それら数多の点の位置を参考にして、「自分の点」はどこに置いておくべきかを決める……というような。
 例のなかやくんの使っている言葉だと「象限」みたいな感じですね。

 そういうふうに、ゆるめに考えて、「ジャッキーさんの言うことはわりと正しい!」「ほかの人も正しいことを言う!」くらいで、いいんじゃないでしょうか。「ジャッキーさんは正しいんだろうか……自分はそれに乗っかっているだけで、いいんだろうか……うう……」なんて思わないで(思う人がいるのかは知りませんが)、「あー、ジャッキーさんは今日も正しいな~。そういえば昨日、隣のおばちゃんも正しいこと言ってたな~」みたいな感じで、ゆるめに構えていれば良いような気がします。
 で、たまに「ジャッキーさん、正しくないのでは?」みたいに思ったら、そっと耳打ちしてくだされば幸いに存じますよ。
「おかしい……ジャッキーさんは正しいはずなのに……今日はなんだか正しくなさそうなことを言っている……どっちなんだ……うう……」とかになったら、ヤバイです。そういう時は、まあ、保留にしましょう。「わかんないわ、これは」って言って、ポイッとその辺に捨てておくと、生きているうちにまた出会って、その時には判断できるようになっているかもしれません。
 要するに、構えないほうがいいということです。
 それよりも大事なのは、「正しいかどうかとか知らないけど、ジャッキーさんとかいう人、なんか好きだわ」です。たぶんこれが、唯一の真実です。
 これは僕だけでなくって、すべてのもの・人に言えることです。
 っていうか僕に対してそういうふうに思っている人は現段階ではせいぜい数人しかいないので、すべてのもの・人に当てはめて考えるべきだと思います。

 あんまりかたくものを考えてると、「あれ?」って時が来るんですよ。小沢健二さんが『うさぎ!』という物語を書き始めた時に、「あれ?」って思った人はたくさんいたと思うんです。批判するような人もかなりいました。それは「小沢健二は! こうあるべき!」みたいなふうに思ってたからだと思うんですよ。だから「この小沢健二は! 違う! よくない!」みたいになるんですね。
 僕はもう、『うさぎ!』が始まった2005年10月の段階で小沢さんのことが(会ったこともないくせに)人間として大好きだったから、「へー、おもしろーい」と思いましたよ。「LIFEとかいうアルバムが! 好き!」みたいなふうにだけ思っていると、「今回のはLIFEみたいじゃない! よくない!」になっちゃったります。そういう人、多いんです。どんなものに関しても。
 あらかじめ「この人、なんか好きだわー」ってくらいの、ゆるい感じでもとらえておくと、「うーん、よくわからんけど、まあ、そういうこともあるわなー」くらいに考えられます。

 んだから、願わくは僕のことは、「よくわからんけどなんか好きかも」とか「まあ、嫌いじゃない」くらいに、ゆるめに思っていただけると、それ以上の光栄と幸福はないのです。

 自律うんぬんというよりは、「まあ、ふんわかいこうよ」って感じです、今回はとりあえず。かためのお話はまたそのうち。

2013/07/03 水 僕研究家(1)

 そろそろ「僕研究家」が出てきてもいいと思う。おごりで言ってるんじゃなくて、例えば僕は僕に対して割と深い考察が出来ると思う。それをまとめて「研究論文」を書いたらなかなか面白いはずだ。でもそういうのって自分がやるわけにはいかない。自分でやるとどうしても贔屓目になってしまったり、手前味噌になってしまったり、何らかの雑念が加わってきてしまう。それになんかめっちゃ自分大好き人間みたいで。実際そうなんだけどさ。だから、僕が僕に対して思っているようなことを書いてくれる人がいたらいいなあという願望です。絶対いないけど。
 だけど勘違いしてほしくないのは、「僕研究家」は決して僕にしかわからないような僕の内面を考察したりはしないってことだ。「僕研究家」は僕の書いた公の文章だけを元にして徹底的に僕を考察して論文を書く。だから僕以外の誰かでも可能なはずだ。僕が自分でそれをやるとどこかで文章に現れていない内面的なものが反映されてしまいそうなのだ。だから誰かめっちゃ僕を見て。食い入るように。解説して。解脱さして。ああやっぱ自分大好き。


「ここの一行はその前の段落に対するいわゆる保険なわけですね。ジャッキーさんって本当に臆病な男です」
みたいな論文を誰か書いてくれ。(※「狡猾な」は△)



ホント僕は同じこと何度も言わないと不安で不安で
たとえば
僕の文章の中でかなり頻繁に使われる「僕」という言葉、
自己顕示欲の強さをかなり端的に表しているんじゃないだろうか。

よく見ると「僕は」って付けなくても通じるのに使いまくっている
リズムをととのえるためだっていう言い訳もあるけど、にしてもあんまりだ
自分大好きなのであろう

とか、もう何回か言ったんだよ。でも不安だから言う。

2003年9月の日記

 やや恥ずかしい文章だけど引用してみました。
 まだ十八歳。ぐるぐると回る、行き着いたと思ったらまた同じところに旋回してきてしまっている、まさに「回る回る回り続ける僕たちの目は見えすぎて(フリッパーズ・ギター/午前3時のオプ)」のような思考に翻弄されていた頃。似たような話が西遊記にありましたね。孫悟空がお釈迦様の手のひらを飛びだして世界の果てまで飛んでいったと思ったら、実はそこもお釈迦様の手のひらの上でした、みたいな。加速する若い人は、孫悟空になったりお釈迦様になったりしながら、一人舞台を演じてみせる。自分の手のひらの上で、ぐるぐると回り続けるのが若さというものなのかもしれません。

 今の僕は、さほど「自分大好き」とは思っていません。
 かつては、「俺はこんなもんじゃない」的な気分があったんですよね。自分がどの程度のものか、わからなかった。何もできないような気もするし、何でもできるような気もする。これも孫悟空とお釈迦様ですね。そういう感じでした。自分がどの程度のもんかわからないから、できるだけ良いものとして見積もりたくて、「自分が大好き」という考え方になる。で、正直な僕はそのことを「ずるい」と思って、「自分が大好きなんです」といちいち断りを入れる。しかしその「断り」でさえ、なんだか間の抜けたものだというふうに感じるので、不安になって分析を重ねる。言い訳をする。同じようなことを何度でも言う。ぐるぐると、同じところを回る。ただ、もちろんそれは螺旋階段だったのかもしれないけど。

 そんな僕が考えていたことは、「僕研究家は出てこないか」だった。なんとまあ、尊大なことを言っていることでしょう。幸いこの一回きりしか言っていないようなので許してあげたい。
 これを単に「偉そうに」と切り捨てるのは簡単なんですが、「おごりで言ってるんじゃなくて」と最初に明言してあるように、その程度の突っ込みは十年前にすでに想定済みのようなんですね。ここで僕が本当に言いたかったことって、なんなんでしょうね。

 ま、たぶん単純に、「僕って、意外といいこと言ってませんか?」だと思います。さっきちょっと書いた「できるだけ良いものとして見積もりたい」を外部に向けた気持ちで、「もうちょっと良いものとして見積もってくださいよ」みたいな。自分で言うのもなんだけど、僕の書いてることは初期からちょくちょく面白いし、いま僕の持っている主要な考えの原型はこの頃までにほとんど出てきているんで、「もっと評価されたい!」という気持ちもわからないではないです。でもあんた、そりゃ無茶ってもんだ。そんなもんじゃ、誰もわかっちゃくれないよ。そういうことさえ、わからなかったというのが、当時の僕なんですね。
「正当に評価されたい」ということを思いながら、そのための方法を何一つとして知らない。正当とはどういうことか、ということもわからない。だから変に焦っていました。恥ずかしい話ですが、面白いです。

 ところで僕研究家ですが、最近若い人で、そのようなことを標榜する人が出てきました。世界に親切とかいうサイトの管理人です。まあ、研究家というのは冗談でしょうけど、彼の日記には割かし僕の話が出てくるので、なんだかとっても嬉しいです。よかったらこのジャッキーブランドの話(今のところ3まであって、3がちょっと研究っぽいです)とか、読んでみてください。「ジャッキー」でページ内検索すると、楽しいですよ。

 それから我衣というタンブラーに、ここんとこちょっと僕の昔の日記が引用されていたりします。ここから辿って、その周辺の日記を読むと非常に面白かったりするので、こちらもおすすめです。
 また、彼が最近まとめた30歳の幸福論の話は非常に面白いので、お暇な方はぜひ。感想は面倒くさかったらうちの掲示板にどうぞ(笑)。

「僕研究家」なんていうような、自分を中心においた考え方は今はもうほとんどしないんだけど、自分について何か肯定的なことを言われるのは嬉しいものですね。自分では見えづらいものも見えたりするし。

 去年のいつかに「がんばれ元気」を途中まで読んで意図的にやめた。「うさぎ!」は木曜□でときおり目にするけれど手に取れない。なぜか? 自己を振り返ってみて「僕はジャッキーブランドに振り回されてる/着られているのでは?」と思ってしまう。「無節操に影響を受けすぎているのでは?」と。
 時間が経つにつれて「受けた影響」は増えていく。これは間違いない。読んだ本を読んでない本にはできない(読まなかったことにはできるけど無駄だ)。それにジャッキーさんとの接触は可能な限り続けていくだろうしジャッキーさんのいうことは正しいと思うから影響を受けたがっている。ゆっくりと順応(進行形)していくことが大事だろうか。
「ジャッキーさんをさばく判断ができなければカルト(自律思考が欠けている)なので危険」
 その自律思考はどうやって鍛えればいいんだ? 教えてジャッキーさん!

 世界に親切、「ジャッキーブランドその2」より引用。
 こう言ってもらえると僕は泣いてしまうね。
 いちおう「教えてジャッキーさん!」とか書いてあるので、遅くなったけどちょっと返事みたいなモノを書こう。

 長くなったから次回!

2013/07/02 火 なぜdisるか

 ジャッキーさん(僕)といえば「ディスる」みたいなイメージがですね、あるところにはあります。
 僕としては「分析と批評」をしてるだけのつもり……の場合が大半なわけですが、たまに明らかに根拠の薄い言い方をする時はあります。そういう時があまりにも目立つので、「またジャッキーさんが何かディスってる……」みたいに見えるのでしょう、おそらく。
 なんでそんな言い方をするのか。一番の理由を正直にいえば、「面倒くさいから」ではあります。それはもちろん邪悪な手抜きです。ただどうしても、「明らかに邪悪じゃん!」と主張したいような時はあって、「説明なんて不要だろ!」とかって勝手な感じで何かを断じてみたり、ええ、しますね。それはよくないことです。よくないからやめるべきなのかもしれませんが、実はもう一つ考えというか、理由があるのです。

 それは、誰に話してもいまいちわかってもらえないことなのですが、簡単に言うと「ゆすぶりたい」なんですよ。
 便乗力とかいう造語について長文を書いていて、このことを説明する方法がようやく見つかった気がします。

 僕は、「無根拠に何かを好きだと言っている人=自分と好きなものとの境界線が曖昧になっている人(便乗中の人)」に対して、「きみきみ」と声をかけたいのですね。
 盲目的に何かを好きな人に対して、「それ、邪悪なのでは?」と言えば、まあその人は傷つくのかもしれませんけど、傷つきながらも何か考えるんだと思うのです。立ち止まるきっかけになる、場合も、あるだろうなと。
 好きなものに対して「邪悪なのでは?」と言われて怒るような人って、たいていその好きなものと自分との境界線が曖昧というか、好きなものと自分がほとんどイコールになってますよね。その人は「分けて考える」が苦手な人です。僕は、「分けて考えることのできる人が周りに増えたほうが自分は楽しいし、人類全体にとってもたぶん最終的にはそのほうがいい」と思っているんで、「引き剥がす」ってことをしたいのです。対象から離れて、分けて考えることができるように。
 お節介というか押し付けがましいというか、出過ぎた真似で、波風も立ちやすいんだけど、なんか今のところ、それをしちゃう性分なんですね。もうちょっと時が経てば、また違うやり方をするようになる気がするんですけど、今のところはそうしてしまいます。
 好きなものは好きなものであって、自分ではない。僕はそう思うんだけど、「いや自分だ」って思いこんじゃっちゃってる人は思いのほか多い。そういう人は、好きなものを邪悪だと言われれば怒る、傷つく。
 でも中にはそれだけじゃなくって、「そんなことないもん!」って反論しようとする人も、いるでしょう。たぶん。批判の言葉を否定するために、何かりくつを考えたり、する、人もいるはずです。
 他人に向けて「これはこのように素晴らしいのだ!」と説明するためには、対象をじっくりと見て、考察しなければならない。したがって、ある程度そのものとの距離が必要になる。だから「くそー、どうすればこの人に、○○の素晴らしさをわからせることができるんだ……!」とか考えてるうちに、いつの間にか対象との距離ができてきて、だんだん「自分」が独立、確立してくると。そのように思うのです。

 そのように思わせるためには、本当は批判に明確な理由を添えて、説得力を持たせたほうがよさそうです。じじつ、おそらくそういう場合がほとんどなんですが、そうではない場合もあるかもな、と思います。最初に「邪悪!」と言ってしまえば、「どういうことなんだ!」と反応してもらえる、気にしてもらえるという利点があるからです。理由は僕の中にちゃんとあるのだから、そのあとで説明するという手もあるのです。(逆上して聞いてくれない人もいるんですけど、それはもう……そういう人なんで僕は担当したくないです。)
 たとえばあるものに関する肯定的な言説があふれかえっている状況のなかで、それに関して肯定とも否定ともつかないような言葉で語ったとしたら、なかなか注目してもらえません。他の意見との差別化がはかれないのです。だから、肯定的な言説があふれかえっているなかでは、あえて否定的なムードを出しておくと、ちょっと目立たせることができる。で、注目させたところで「その理由は……」とやるのは、けっこううまいのではないかと。
 たとえば。僕はスラムダンクを傑作だと思うので、肯定的な雰囲気で語り始めることはできます。しかし、今さらスラムダンクを褒めたところで、誰が読みたいと思いますか? だから僕はかつてあえて、「スラムダンク有害論」という、いわゆる挑発的なタイトルをつけて文章を書いてみたわけです。そっちのほうが読みたくなるし、ちゃんと論旨にも合っている。実際わりと読まれているようです。

 有害! 邪悪! と僕が叫ぶ時、ほぼ例外なくそれを支える理屈が背景にあります。でも、それをいきなり言ってもなかなか聞いてはもらえないんですね。だからまずタイトルを叫ぶわけです。……もちろん、その態度が間違いなく正しいと言ってるわけではないですよ。何かを悪く言うのは危険なことです。でも、「引き剥がす」ということを考えた時に、今の僕にできるせいぜいの方法はこれかな、と、今のところは思っているのです。無根拠に何かを好きな、盲目で「自分」を知らないような人に、「あなたはあなたなんですよ」と声を掛けるための、有効かどうかはどうにもわからないこの微妙な実験は、はたから見ると「ただディスってるだけ」で、実際ホントにそうなってしまってることもあるのでしょう。でもとりあえず今は性分上、やっちゃう。それが現状の僕ですね。

 そんな自分は、さほど好きではありません。だからもう少し大きな力を身につけたいなとは思うのですが、模索中というところです。

 これもアイホン的なものから書いてみました^_^
2013/07/01 月 たのしい更新大会

 アイホン的なものを使い始めたので、アイホン的なものから更新できるようにFTPを扱えるソフトをインストール。が、全角スペースが打てない(打ち方がわからない)という致命的な問題にぶち当たっている。
 これはいよいよキーボードを買うべきか。早稲田の生協で折りたたみ式のキーボードを見かけた。10000円くらいするけど欲しい。
 昔から、外出先で更新するのが夢だったので、そのくらいは安いものだ。ちなみにこの文も中村橋のシャノアールで、アイホン的なものから書いております。全角スペースはわざわざコピーしてる。
 そうなったらもう少し更新できるようになるかも。しばらくお待ちください。

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