少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2013/08/31  『風立ちぬ』雑感

 恋愛に関しては「ケータイ小説」そのもの。
 ものづくりに関しては「モーレツ社員」であるというだけ。
 昔(近代に足を踏み入れたばかり)の日本人って、みんなあんなもんだったのかもしれんですよ。恋愛がなんだかわからないから、欲望=恋愛だと勘違いして突っ走ってしまう(『恋は欲望』なんて名曲もありましたねえ)。仕事のほかには何もないから、とにかくそれに没頭してしまう。
 最近になってようやく、「恋愛=結婚=セックス」という図式が崩れてきたり、「仕事より○○だ」という考え方が広まってきていますが、ずっと長い間、この国は二郎とか菜穂子みたいな感じだったんだと思います。

 たばこに関して、「喫煙を助長するのでは」なんて懸念をする人たちがいたようです。それはとらえ方だから好きに解釈してもらうとして、あの作品の中では「煙」ってかなり重要な役割を果たしているように思いますね。
 飛行機や戦争の「煙」と、たばこの「煙」とが、象徴的に重なっています。結核を患っている菜穗子の横で二郎がたばこをふかすシーンがありますが、ああいう習慣が菜穗子の寿命を縮めたというのは事情として正解でしょう。また、飛行機や戦争の煙が「国を滅ぼす」ということの象徴として作中に悲しく通底しているというのも、まあ言いすぎではないような気がします。
 僕はたばこの煙は「矛盾」であったりとか、「妥協」であったりとか、「悲しみ」であったりとか、「殺人」であったりとか、そういったものを淡々と示しているような気がします。菜穗子はそれで死んだのかもしれないし、戦争の煙をも連想させる恐ろしいもの。でもたばこは、二郎が仕事を遂行させるためにはなくてはならないものだったし、当時はそういう時代だった。たばこは(あるいは煙は)時代の価値観そのものだとも言えそうです。
 主題歌が『ひこうき雲』だってのも、それを暗示しているのかもしれません。

 僕はこの映画をあんまり特別なものとは思わなかったのですが、それでも多くの人が感動して泣くというのは、前の記事に書いたこともそうなんでしょうが、やっぱり見せ方が巧みなんでしょうね。「なんだかわからないけど泣かせる」という技術。「泣く以外に特にすることのない人」を、確実に泣かせる感じ。まあ、恋をして、人が死ねば、泣く人は泣く。「ジブリの泣ける映画」だから、ちゃんとあらかじめ号泣する準備はできていた。そういうところもあるんでしょう。

2013/08/30  エゴイズムこそが美しい時代

『風立ちぬ』という、宮崎駿監督の映画を観たのです。
 面白さや感動はほぼ感じず、しかし、わかりました。
 僕はこの価値観と無縁なんだな、と。
 そう思うとむやみにさみしくなり、上映中はずっと死にそうなほど辛かったです。
 これに対して泣く人や、絶賛する人、あるいは何らかの理由をつけて力強く批判する人がたくさんいるということに、孤独を感じます。

 僕はアニメがわりと好きなのですが、『風立ちぬ』の動画や演出について良いと思った場面は一つもありません。風景についても、まったく美しいと思いませんでした。
 それをもって『風立ちぬ』が悪い作品というのではなく、僕はそういうものを感じることができないんだということです。実写の映像でも、写真でも、「あー、きれいだな」と感じることは、ほんのちょっとくらいしかありません。
 女の人の外見にあまり興味がないことや、食べものの味そのものにこだわりがないことなどと同じような感じだと思います。
 きれいだけど、それがなんなの? という感覚です。おいしいけど、それがなんなの? とか。それよりも、その女の人と自分がどういう関係を築けるのかとか、その食べものが身体にどういう影響を及ぼすのか、といったことのほうが気になります。
 究極の「関係厨」、と僕は自分を呼びますが、心がないということですよ。

 感覚的な美しさのほとんどが、僕にはわかりません。
 視覚的な美しさがわかりません。聴覚的な美しさもわかりません。先に挙げたように味覚にもこだわりがありません。嗅覚は人並みな気がしますが、特に敏感ではないと思います。肉体的な快楽についても、特に強くはないと思います。精神的なもののほうに燃えます。
 わかりません、と書いてるけど、まったくわからないということではなく、好き嫌いはあるし善し悪しも判断しています。こだわりがないとか、感動がないというような意味です。
「美しいけど、それがなんなの?」と。

 尊敬する友人が『風立ちぬ』の感想を「でっていう(それがどうした)」って一言にまとめてたけど、僕もだいたい同じ。
 それがどうした?

 好きな顔というか、「いい」と思う顔はあると思います。そこに傾向もあるだろうから、「好みの顔」というのは存在しているのかもしれません。ところが、「だから、なんなんだ?」となります。
「好みの顔」のアイドルや女優さんかなんかがいたとしても、僕は別にその人のファンにはならないのです。「かわいいけど、それだけだな」です。
 生活の中でも同様で、「顔立ちが好みだからアプローチしよう」はありません。僕がアプローチするとしたら全然別の理由です。
『風立ちぬ』は、別に好みでもないし、それ以外の好きになる理由も特にないので、無感動のままうちひしがれて劇場を出ました。

 たとえば『風立ちぬ』に描かれた恋愛は、僕から見たら「空っぽ」です。僕がまったく重視しない種類の「美しさ」だけを問題にした恋愛です。
 だけど、あれが「美しい」ということなのかもしれません。
 だから泣く人は泣くんでしょう。
 恋愛だけじゃなくって、『風立ちぬ』に描かれたあらゆる場面は、たぶん美しいのです。動画から、演出から、きっとすべて美しいのです。
 ただ僕はそれを重視しません。

 盲目な恋こそが美しいのです。
 熱病のような恋こそが美しいのです。
 花嫁姿を見て「きれいだ」と言うことが美しいのです。
 死を覚悟して、死期を早めてでも、美しい姿をしている時期に愛し合おうとすることこそが、美しいのです。
 矛盾こそが美しいのです。
 それが人間的であるということなのです。
 だとすれば僕は人間的ではありません。
 それで勝手に辛くなったのでした。

 いろいろ理由はあると思うけど美しいと思うから泣くんでしょう。
「なかなかそうはできないものだが、そうであるべきだと思う」から人は、映画やなんかで感動して泣くんだと僕は思うんです。
「実現の難しい理想」です。
 ラブラブな恋愛で泣くのは「理想」だと思うからで、ラブラブな恋愛が死によって断ち切られることで泣くのは「実現の難しさ」を感じるから、なのではないでしょうか。(余談ですが僕が『レヴァリアース』という漫画で泣くのは、まさにこの事情かと。)
 僕は『風立ちぬ』に見られるようなラブラブな恋愛を「理想」だとは思いませんので、その実現が難しかったからといって、感動も何もしません。二郎の飛行機に対する姿勢についても、「理想」だとは感じませんので、その実現がいかに難しいものであっても、だからなんだと思うばかりです。
 風景にしても、当時の社会にしても、アニメーションの作画にしても、別に僕は良いともなんとも思いません。良かったとして、それがなんだ? と思います。
『風立ちぬ』という映画の中には、僕にとっての理想はありません。
 だけど、かなり多くの人にとっての理想があるようなので、僕はとてもさみしくなるのです。
 ……とはいえ、名古屋駅の風景と、電車の描写、黒川夫妻の人格と、ドイツ人カストルプの性格や台詞は、僕もわりと好きです。
 感動するというほどではないですが。

 二郎も菜穂子も、美しく描かれすぎです。
 まず顔が綺麗です。
 それは、この物語の視点は二郎の主観だから、というのなら納得はできます。でも、だから好きだ、というふうにはなりません。
 人間の主観の中にある、美しさ。
 だからなんだ? と思います。
 だから悪い映画だというのではなくって、僕は本当に心のない人間だなと自分で思うのみです。
 僕のセンスや感覚が良いとか悪いとかいうのではなくって、僕には「個人」だとか「個人の内面」だとかいうものが本当にまったくわからないようなのです。だから「個人」を問題にされると、感動できません。興奮もしません。「関係」がないとダメなのです。

『風立ちぬ』には「エゴイズムの美しさ」が描き込まれているのかもしれませんが、それは僕にはわからないものです。
 二郎と菜穂子の間には「関係」なんてありません。「個人」が二つ、ポンポンと置いてあるだけです。
 それが近代ってものの象徴でもあるような気がします。
 エゴイズムが許されるのが近代なんです。
 近代というのはちんぷんかんぷんですね。

『風立ちぬ』を、宮崎駿監督による自身の投影だとか、監督の我欲でできているとか言う人がいるようなんですが、それも僕がこの映画を「エゴイズムの美しさ」という言葉でまとめようとしているのと関係あるのかもしれないですね。

 いろいろ考えていることがあるので、近日中にまとまったのを書きます。これからちょっと御坂峠まで自転車で走ってくるよ。高校生の頃から行きたくて、なかなか行けなかったところ。18の時、受験帰りに富士急までは行ったんだけど、そのまま富士山をぐるっと回ったので。自転車だと三つ峠で放屁するのは無理かもしれないけど、富士吉田で財布を落としたりはしてきます。

2013/08/29 木 快不快と苦楽

 快・不快よりも苦・楽のほうを重視するのかも知れない。
 苦しみからは解放させてあげたいけど、
 不快から解放させてあげようとは思わない。
 楽にさせてあげようとは思うけど、
 快くさせてあげようとは、あんまり思わない。

 だから芝田さんの幸福論は割としっくりきたのかもな。

 書いてもらってうれしい。
 ほめられました


2013/08/28 水 要領をよくする

 みんなそれぞれ障碍のようなものを抱えてますね。
 僕だったらADHD(注意欠陥多動性障碍)の症状の幾分かがぴしっと当てはまります。
 また、他人やモノへの共感に乏しいです。これはサイコパス(精神病質)とか呼ばれる人たちに見られる特質に近いらしいので、ちょっと怖いです。ただサイコパスは共感が「(ほぼ)ない」のだと思いますが、僕は「乏しい」程度です。
 要領が悪いって人も障碍のようなものなんでしょうね。
 そういう人が要領よくなるにはどうしたらいいのか、僕にはわかりません。自分のADHD的な特質だって、なかなか克服できないのです。

 要領と言えば思い出すのはかつて中学生に配った『要領よくやれ!』という文章です。そこに書いた「要領のよさ」の意味とは、かいつまんで言うと「快不快ではなく損得をできるだけ広い範囲(最終的には宇宙的、歴史的、未来的な範囲にまで広げる)で考えて行動すること」でした。
 視野を広く持って、冷静にものごとを判断しよう、ということです。
 でも、それができりゃ苦労はないですね。

「できない」という人には、何かしら事情があるはずです。一つじゃなくても、複雑でも、何かしらあると思います。
 要領がよくないというのは、冷静に考えて行動できないということで、それはすなわち、損得勘定が苦手であるということだと、僕は思います。
 損得勘定が苦手な人の背負っている「事情」をいくつか、考えてみました。
 たとえば、「自分の損得ばかり考えてしまう」とか、「他人の損得ばかり考えてしまう」とか、「損得を考えることに罪悪感がある」とか、「快不快ばかりに従ってしまう」とか。
 もし、そういった事情の中にいるのであれば、そこらを少しずつ、意識的に改善していけば、なんとなく快方には向かっていくのではないでしょうか。
 実に難しいことですね。

「損得勘定をする」というのはとても大切なことです。「冷静に考える」とはそういうことだと思います。だいたいのことは損得勘定の発展です。本質的なことを言えば、「何が得で、何が損か」という基準が、その人の思想であり、人格になります。すべての思考は損得勘定だと僕は見なします。(とても単純化して言えば、「自分が気持ちよくなる」ことだけを得とするなら、その人は享楽的で自分勝手な人格ということです。)「自分は何を得とし、何を損とするか」を考えることが、「自分と向き合う」ということだったりもします。
 しかし、「バランスよく」は難しいです。「すべての人にとって等しく得であるように」はたぶん不可能なので、「常にどこかに偏りを持たせながら、計算し続ける」をしなければなりません。そんなこと、できたら苦労はしないですね。
 損得勘定ってのは計算で、しかも「たくさんの計算を同時にする」が必要なので、どうしても頭は混乱します。整理させなきゃいけません。
 だったらもう、算数やったらいいんじゃないかと思ってしまいます。

 たとえば、算数です。
 算数じゃないかもしれません。
 しかし算数かもしれません。
 どのみち算数はやるにこしたことはないので、やってもいいんじゃないかとは思います。
 座禅かもしれません。瞑想かもしれません。
 武道かもしれません。
 書道かもしれません。
 編み物かもしれません。折り紙かもしれません。
 何なのかはよくわかりません。
 でも、何かかもしれません。

 そういうことをたくさん想像しながら、いつか僕は「紙に書け」と言いました。混乱したら紙に書け、と。
 紙に書けば解決するとは思っていません。
 紙に書くだけでは、大抵のことは解決しません。
 紙に書けるのは、すでにわかっていることだけなのです。
 しかし紙に書くと、わかっていないことが見えてきたり、ぱっとひらめいたりします。
 そういう可能性のために、「紙に書く」は有効なのです。一種の賭けです。
 紙に書いても何も変わらなければ、「何も変わらなかったな」でいいです。「でも、もしかしたら紙に書いたことでちょっとは整理がついたかもしれないな」と前向きに考えればいいと思います。
 僕が大切だと思うのは、「書いてみる」ということです。
 人はよっぽどのことがなければ紙に書いたりしないもんです。
 だけど、有効かもしれないから、やってみるといいと思うのです。
 それは算数だって同じです。

 僕がいい年して(片手間だけど)数学やってるのも、そういうことです。
 何かになるかもしれないと思うから、やるのです。
 時間の無駄かもしれないけど、時間の無駄じゃないかもしれないから、やるのです。賭けとして。今のところは「特に劇的なことは何もないなあ」です。「でも、これから何か見えてくるかもしれないなあ」とか「多少は考え方が変わったような気もするぞ」とか、思っています。少なくとも、知見が広がったことは確かだと思います。広がったから意味があるのかどうかは、知りませんが。
 このたびめでたく、放送大学で数学に関わる科目を24単位ほど取得して、放送大学エキスパート(数学と社会)の認証が確定しましたが、まだやめる気はありません。

2013/08/27 火 素直じゃない人の仕事とは

 友達や恋人が「すげー感動した」とか言ってすすめてくれるものに対して、「どこが?」って思うことはよくありますね。それはセンスが違うとかいうことばかりではないような気がします。
 僕が素直じゃないというだけなのです。
 素直な人は何にでも感動するんです。素直じゃない人の仕事っていうのは、やっぱり「仕分け」なんじゃなかろうか、と思ったりします。「悪いよ」「悪くない」といったふうな判断をするのは、素直じゃない人たちのほうがいいです。素直な人たちは、たまたま目に入ったものにいちいち感動していくので、「あれもいい、これもいい」になります。あるいは、第一印象の嫌悪感だけで「悪い」と断ずることもあります。それはいけないことではなくって、素直なだけなのです。
 素直じゃない、常にすべてを疑っている、僕のような人間は、覚悟と責任をもって見る目を養わなければならないですね。それは仕事であり義務なんじゃないか、と割と本気で思います。

2013/08/26 月 素直さの育てかた

 素直な人ってのは多いです。
 子供はみんな素直だし、未熟な人はだいたい素直です。成熟してくると、素直ではなくなります。素直でなくなったら、もう手遅れです。
 素直な人は何にでも感動します。

 女児はプリキュアが好きです。プリキュアだったら何でもいいんです。内容なんかどうでもよくって、とにかくプリキュアがプリキュアとしてのツボを押さえてさえいれば、女児は喜びます。そういうもんです。そのくらい彼女たちは素直なのです。
 だからって、その女児の素直さに甘えて、手を抜いてはいけないわけです。女児はプリキュアだったら何でもいい。だからこそ、プリキュアに「○(マル)さ」を込めなければならないのです。「○い魂」を吹き込まなければならないのです。
 ケーキだったらなんでも食べるって女の子がいて、その子がニンジン苦手だったら、キャロットケーキを食べさせますよね。カボチャが苦手なら、パンプキンケーキを食べさせますね。そういうことなんですよ。
 勉強はしないけどマンガだったら何でも読む、って子のために、学習マンガがあるみたいなもんですよ。

 素直な人はまっしろなんです。
 ちょっとツボを押さえれば、何にでも感動します。好きになっちゃいます。
 だからこそ、そういう人にはできるだけ○いものを見せてあげなければならないんです。
 僕は『あまいぞ!男吾』をものすごく○いと思いますが、『ワンピース』は男吾ほど○いとは思いません。
 しかしある人は、どっちにも号泣するかもしれません。男吾にも感動し、ワンピースにも感動する。それは悪いことではありません。素直だということです。その人は『恋空』にも感動するかもしれません。BUMP OF CHICKENの熱狂的なファンかもしれません。それは、素直だからです。
 何にでも感動してくれるような素直な人はまっしろなのです。いいことです。だからこそそういう時期は、できるだけ○いものにふれさせてあげたほうがいいのではないか、と僕は思っています。
 ただ難しいことに、あまり免疫がない状態で○くないものにふれると、逆にそこにのめり込んでしまったりもするのです。「箱入り娘が処女のままAVデビュー」みたいなもんです。「自分の殻を破りたくて……」みたいな。だから、無菌室で育てるようなことではなくって、何でもかんでもふれさせながらも、「これは○い」「○くない」「○いよ」「○くない」「○い」みたいな教育を、日々の生活の中で少しずつやっていくしかないのですかね。難しいけれど、押しつけがましくならないように気をつけながら……。もちろん、究極に○いものは空気のようにふれさせていくものとして……。だんだん自分で判断できるようになることを目指して……。
 川とかでどろんこ遊びしてた人のほうが花粉症にならないとかいう話もあります。川遊びには危険がつきものですが、「これは危ない」ということをちゃんと教えて、適度に泳がせたりしつつ、判断力を養わせていくのがいいのでしょうね。かわいい子には旅をさせろといった感じで。

 幼い頃にちゃんと○いものにふれていた人は、後にどれだけ歪んだものに入れ込んでも、必ず戻ってくるのです。たぶんそうだと思います。そうじゃなきゃ嫌ですね。ドラえもんを嫌いな子供なんてそうそういないんだから、まっしろなうちにふれさせておけば、後に離れることがあろうとも、ドラえもんの○さは心に根を張ります。そうであれば、きっとぎりぎりのところで、悪いことにはならないでしょう。
 ○さの基準というものをいかに幼い頃に身につけるか、というのがきっと肝要です。

 小学校に上がったばかりの頃、同級生が公園に咲いている花を片っ端からちぎっていて、「一緒にやろうぜ、楽しいよ」みたいなこと言われて、信じられなくて、逃げたことがあります。その子たちとはその後あんまり遊ばなくなりました。その子たちは公園の蟻を片っ端から踏みつぶす遊びもしていました。その頃『火の鳥 鳳凰編』を読んでいたかどうかはわかりませんが、僕にはそんなことはとてもできませんでした。
 ただ、砂場に作った池の中に蟻を放り込む遊びには参加していて、その時に「なんて残酷なことを自分はしているんだ」とハッとして、以後そういうことをやめたような記憶はあります。時系列がどのようになっているのかはわかりませんが、少しずつ少しずつ、心の○さは養われていったんだなあ、という気がします。
 幼い頃といえばお母さんと一緒にどんぐりやまつぼっくりを拾いに行ったり、ジュズダマやほうせんかの種を集めたり、お父さんと虫を捕ったりしていた記憶があります。よく覚えてないけど、その時の両親の行動や言動に、僕を育てる 何らかの方向付けがあったんだろうな、と思います。本人たちは意識していなかったのかもしれないけど。

2013/08/25 日 圧倒的な○さ

「○い」という言葉を提唱します。
 奥井亜紀さんのライブを見ていて、「人間が輝ける限界のところまで輝いている(2004年)」「人間界の頂点に君臨(2012年)」「究極の善(2013年)」などなど、様々な表現を尽くしてきましたが、どうしても彼女のすばらしさを言語化することができません。「善い」「正しい」「美しい」といった言葉は湯水のようにあふれ出てくるのですが、なんかそうやって言うのも紋切り型すぎて、まったく現実に追いつかない、速度がなさすぎるように思えて、「違うよなあ縲怐vっていつも思ってしまうのです。
 そこで僕なりの真善美を「○い」という形容詞の中に閉じこめてしまおうと思います。
 奥井亜紀さんのライブ中(『風紋』を歌っている時だったか?)に、「この人のテーマは○ってことなんじゃないかなあー」って思ったのです。なぜそう思うのかって理由はけっこうたくさんあるんだけど、缶バッジについての説明にさえ「缶バッジは丸い」とわざわざ書くくらい、○ってのは一つのテーマであるようなのです。最近の曲だと『ハジマル。』ってのがまさに○をテーマにしていたりします。
 ジョージ秋山先生の『博愛の人』という、二宮尊徳(金次郎)をモデルにしたマンガを読んで知ったんだけど、尊徳の思想も「○」なんですって。そういうのは調べればキリがないと思う。
 何にしても僕は○が好きなのです。ドラえもんも丸顔です。

 これから僕は、ものごとの善し悪し・美醜などを語る時にきっと「○い」「○くない」といった表現を使うと思います。なんかもう、そういうことだとしか僕は思えないほど、○原理主義者になってきました。

 奥井亜紀さんは○い。究極に○い。圧倒的な○さ。そうとしか言いようがありません。

2013/08/24 土 見た目に無頓着

 奥井亜紀さんやあきいちこさんという歌手を僕は好きで、たびたびライブにも足を運ぶのですが、来ているお客さんは誤解を恐れずに言って「見た目に無頓着」な人が多いです。
 奥井亜紀さんに関しては最近ちょっと客層が変わってきていて、その点に関しては後述しますが、僕がライブに行き始めた頃(初めて行ったのは2004年6月26日だった模様)は、本当に「見た目に無頓着」な人(特に男性)が多かったのです。
「見た目に無頓着」というのはもちろん蔑んで言っているのではありません。僕もずいぶん「見た目に無頓着」で、「公共の福祉に反しない限りにおいて、外見の自由は認められるべきだ」と考えています。ちなみに公共の福祉ってのは感性的なものというよりも、鏡張りの服はまぶしいからやめましょう、ってくらいの感じ。
 見た目に無頓着な人は、服装だけでなく、表情や態度にも無頓着な場合が多いです。すなわち「他人の目を気にしない」ということ。僕はどっちかといえば「他人の目を意識しつつ、開き直ってそれを気にしない」なのですが、奥井亜紀さんやあきいちこさんのライブによく来ている(いた)人たちは割と、「はなから意識しない」の方面の人が多い気がします。それはある意味で究極に効率的だと思います。他人の視線を気にして生きるのは、圧倒的に「ロス」が多いのです。
 社会においては、「客観的に見た自分の姿をうまく操作して相手に好印象を与える」というテクニックが重視され、それができない人には「社会性のないやつ」というレッテルが貼られることもあります。またたいていの場合、その人はモテません。「客観的に見た自分の姿をうまく操作する」ができると、非常にモテやすくなります。
 しかし、それをすることにはかなりのエネルギーが必要ですし、「客観的に見た自分の姿を操作する」は「自分を飾る」とか「自分に嘘をつく」ということにつながりやすいため、「自分」なるものの分裂を招いたりもします。よいことばかりではありません。
 そして何より、目が曇ります。
 簡単に言っちゃうと、たとえばモテるために最も効果的なのは「流行を追う」ことだと思います。また、社会で認められるために最も効果的なのは「常識を身につける」で、他人から好意的に思われるために最も効果的なのは「相手がしてほしいことをする」だと思います。
「流行を追う」「常識を身につける」「相手がしてほしいことをする」、すなわちこれらは「みんなに合わせる」です。この三つを徹底していくと、当然「自分」とか「個性」なんてもんはなくなります。
 何かを好きになるにあたっても、他人の目を気にします。何を好きであればモテるのか、何を好きであればみんなに混じれるのか、何を好きであればセンスがいいと思われるのか、何を好きであれば無難なのか……、他人に合わせることがくせになっている人は、どこかでこういう考え方をします。他人の意見や好みを常に想定して自分の意見や好みを決定させるため、「自分の目」は曇ります。何も見えなくなります。
 僕は奥井亜紀さんの歌を、日本中のどんな歌よりも愛していますし、本当にすばらしいものだと思っていますが、奥井亜紀さんのライブというのは、渋谷で、土曜の夜に、3800円のチケットで、100人から200人といった程度の動員です。なんでだろう? と僕はずっと思っていました。今はなんとなくわかります。
 奥井亜紀さんの歌には付加価値がない(低い)のです。
「どんなミュージシャンが好き?」と聞かれて、「奥井亜紀」と答えても、「センスがいい」と思われることはまずありません。みんな知らないからです。歌の内容はセンセーショナルでもなければ、ネタにしやすいようなものでもありません。「マイナーだけど聴いてるとカッコいい」というような類のものではないと思います。特定のジャンルやカテゴリに属さないので、「○○系」といった括りで同好の士を探すこともできません。奥井亜紀さんを好きになることに取り立てて「うまみ」はないのです。
 奥井亜紀さんの歌は、アイドルソングや流行のポップスのように「無条件に与えてくれる」ものとは捉えにくいものです。また、もちろん「絶望や自虐を促してくれる」ものでもありません。ライブは「参戦」と言って違和感のないようなものではなく、座ってじっくり「聴く」ものです。(少なくともかつてはそうでした。)僕はそういうふうに思います。
 アイドルでもなく、バンドでもなく、サブカルチャーでもなく、ただ「シンガーソングライター」であるような奥井亜紀さんには、「歌の外側にある付加価値」といったものがほとんどない、と僕は思います。
 目の曇った人は、「歌の外側にある付加価値」を強く求めます。そういう人は奥井亜紀さんを好きにはなりません。ずっとそうだったと思います。だからこそ、「目の曇っていない、見た目に無頓着な人たち」の支持を集めていたんじゃなかろうか、と思うのです。

 ただ最近は、アニメソングを何曲も歌い、ボカロの曲を歌い、かつてのアニソン(魔法陣グルグルやターンAガンダムなど)を収録したアルバムを出すなど、「付加価値」につながりやすいような活動が増えてきています。それに伴ってか、ライブのお客さんも明らかに変わりました。聴く態度も変わりましたが、外見も変わりました。「見た目に頓着」の人たちが増えてきたように思います。
 また、奥井亜紀さんはTwitterをやっていますが、そこで「Twitterで積極的にリプライをとばしてくるような人たちの生の声」をたくさん聞いています。そのせいかはわかりませんが、ライブの選曲も変わっているような気がします。たまたまなのかもしれませんが、24日のライブでは『月の繭』『晴れてハレルヤ』『カランドリエ』『心のファンファーレ』『Wind Climbing縲恤翌ノあそばれて縲怐xと、アニメの曲が5曲歌われました。『月の繭』を歌う際には、「この曲を聴きたくてライブに来てくださった方もいるかもしれません」と言っていました。「やっぱり、求める人はいるんだな」と思いました。(単純に、いい曲だから、その気持ちはとても自然なものだとは思います。)
 ちょっと衝撃を受けたのは、MCで言っていたこんなエピソード。ライブに来てくれた若い人から、「サイリウム(光る棒)がなかったから、どう楽しんでいいかわからなかった」というようなことを言われたそうな。「知らない」ことは仕方がないのですが、「そうか、知らないのか……」というショックがありました。

「サイリウムを振って楽しむ」というのは、明らかに「歌」の外側にある楽しみ方です。つまり僕の言う「付加価値」です。奥井亜紀さんの歌にも、それが求められる時期が来たのかなと思っています。少し前のライブから、『怪盗ラヴミー』という曲の時にちょっとした「振り」のようなものが登場し始めました。やっているのはほんの数人からせいぜい十数人くらいだと思いますが、少し前なら絶対になかったことです。手拍子をする曲も多くなりました。以前はもっと少なかったように思います。はっきり言って、手拍子すらままならないような消極的なお客さんが多かったということだと思います。僕もそうですが、「振り」には正直、戸惑っている人もいるんじゃないかなあと勝手に思ったりもしています。
 また、奥井さんが客席にマイクを向けるというパフォーマンスも、圧倒的に増えています。それは別に嫌いだとも悪いとも思わないので、変わっていくものだなあとただ感慨深いです。
「昔はよかった」とはあんまり思わないんですよ。十年くらい前はそれこそ、お客さんが消極的すぎて、申し訳ないとさえ思ってしまうような場面もありましたので。適度に盛り上がるのは本当によいことだと思っています。
 ただ、客層が「見た目に無頓着」から少しずつ変わってきていて、それによって何かが確実に変化している、ということは感じています。

「見た目に無頓着」な人たちは「歌そのもの」を聴きます。それこそおそらく理屈を超えて、「歌」に耳を傾けます。
 そうではない、「見た目に頓着」な人たちは、たぶんちょっと違うのです。
 僕は乱暴に言って、「見た目に無頓着」な人たちこそが、ものごとを本質的に見極める力を持っているのだと信じています。だから、奥井亜紀さんのかつてのライブや、あきいちこさんのライブには、そういう人たちが集まっているのだと思うのです。
 同じアニメやマンガを好きだという人とネットで出会って、実際に会ってみたりすると、「見た目に無頓着」な人がとても多いです。それは僕や彼らがちゃんと本質的にものごとを見極めていて、そういう人たちは「見た目に無頓着」な場合が多いからなんだろうと思います。
 飾る、ということをはなから信用していないのです。
 飾ることよりも大切なことがある、まっすぐ生きていくことは素敵なことだ、ということが根底にあって、そのうえで「ささやかに彩る」ことが本当の美しさなのだ、というようなことを、たぶん信じているのです。
 そういう人はもちろん、社会ではいじめられますよ。僕もそこから抜け出すために、こんな性格になってしまったようなものです。
 何にも頓着せず、ただ「歌」に向き合う、奥井亜紀さんやあきいちこさんのお客さんを僕は本当に好きだし、一緒に聴いていて実に心地よいです。

 付加価値について、ちょっと書き切れていないような気がします。ほかにもいくらでも言いようはあるでしょう。たとえば奥井亜紀さんには「物語」を感じさせないところが不思議とあります。奥井亜紀さんはメジャーでデビューして、いったん休業してインディーズで復帰しています。いくらでも「物語」はありそうな気がしますが、なぜかそういうことは問題にならないような気がします。なんでそうなのかっていうのは、わかりません。川本真琴さんなんかも同じような流れですが、彼女はその流れに大いなる「物語」を感じさせる歌手だと思います。単純に川本さんのほうがヒットメイカーだったからなのか、それともほかに何かがあるのか、わからないけど。
 僕だけなのかもしれないけど、奥井亜紀さんは、どういうわけだか「歌」だけを届けてくれる存在なんです。もちろん歌だけじゃなくって、ステージに立てばその振る舞いもだし、彼女の人格そのものも僕は心から愛し、尊敬しています。でもそれは決して「付加価値」ではなくって、単に人格としか言い様のないものというか……。うーん。難しいです。
 ファンになってもう19年(!)経とうとしているけど、未だに僕は言葉で表せないのです。それはとても誇らしいことでもあります。

2013/08/22 木 ちゃんとやってます木曜□

 木曜□は毎週木曜日に元気に営業中です。
 特に断りがない限り必ず木曜に僕はいます。
 誰も来なくても一人でぼんやりしています。
 みなさん遊びに来て下さい。
 こういうことだと僕は思っています。

2013/08/21 水 豊橋

 この日は名古屋におりました。
 昼間は家にいて、昼寝して
 19時から金山に行って、あきいちこさんの路上ライブを3ステージ聴いて、鳴海でひろりんこさんを出待ちして、富士松ですんたんと駅前ウーロン乳酸菌。
 そこから浜松へ自転車でビューン

2013/08/20 火 世代は人並みにDIVE TO BLUE

 16時前くらいに姫路サテライトスペースで橋本くんと会って、
 山川ともやくんとその友達たちを見て
 マクドナルドに行って22時10分くらいまでなにやら話をして
 22時17分の新快速に一緒に乗った。
 プライベートを詳らかにさらけてしまったが別に構わなかろう。
 青少年よ、門限を破れ!
 ということが僕は常に言いたいです。
 そこからだいたいのことは始まりますし、
 親も覚悟はできています。
 できていないなら親が悪いです。
 打倒しましょう。

 わりかし僕が喋る感じになってしまった感はあるがしかし
 僕が16くらいの時はもっと喋れなかった気がする。
 くらとか、ともとかと会っても、どうも、こう
 いや、けい(同い年)やショウ(一つ下)や、その他年の近い人たちと会った時でさえ、うまく話すことができなかった気がする。
 そう考えると最近はずいぶん話せるようにはなった。
 達人になりたいものではあるが、まあ
 ほどほどでいいやな。

2013/08/19 月 中つ国大学(仮)

 京都→明石→高松→池田(徳島)→笠岡(岡山)と旅してきました。次は姫路です。
 姫路は高校の修学旅行の行き先になっていたのですが、途中で帰ってきたので僕は行っていません。リベンジや!

 京都ではとるたらさん、明石では橋本くん、高松では茄子さん、池田ではJPさん(一家)、笠岡ではニートさん(一家)にお相手・お世話いただきました。
 とりわけ、JPさんの生い立ちを探る山奥ツアーと、ニートさんのお父さんと自転車で巡った干拓・農場・空港・牧場ツアーは非常にすばらしかった。

 17日はとるたらさんと水沢めぐみ先輩トークショー。すばらしかった。京都マンガミュージアムもよかった。ディスコミュニケーション読んでる女の子がいて嬉しかった。
 18日、昼間に明石で橋本くんと会った。暑い中つきあってもらってまず自転車を修理。クリーニング屋と一体になっている不思議なお店へ行き、タイヤがパンクしやすくなっていたのを見てもらった。その後ごはんを食べてコーヒー。電車に乗り遅れる。
 高松へ着いたのは夜の八時半くらいになってしまった。茄子さんとお会いしてレヴァリアースを中心に様々なお話を。
 夜中に高松を出て自転車で池田町へ向かうも、あまりにも眠かったため栗林公園の南のネットカフェで一時間だけ仮眠。午前四時前に再び出発。三時間ちょっとであっさりと到着してしまった(60キロくらい)。夜中から早朝にかけては涼しいし、交通量も少ないから距離が伸びるのだ。途中に400メートル台の峠があって、ちょっとつらかったけどつづら折りの道路が見えた瞬間にテンションがあがって一気に走破。ニヤニヤしながら楽しく登った。下り坂では死ぬかと思った。下りよりも登りのほうが数倍楽しいと思えるのは自分の性格の好きなところ。だってそっちのほうがかっこいいじゃん!
 19日。徳島ではあえて観光地などを巡らず、「半生を振り返るツアー」を実施してもらった。昔住んでた家とか通っていた小学校とか。全校生徒一桁という小学校(現在は廃校)を卒業したと知って、ああ、そういうのってぜんぜん身近にある話なんだなーと思った。そういう環境でこの人が育ったのかーとか、いろいろと面白い。他人のルーツって本当に面白い。それから21世紀でフルーツあんみつ食べながら釣りキチ三平読んだ。
 昼過ぎから岡山へ移動。某駅に着いたらニートさんではなくお父さんがサイクリング姿でお出迎え。そのまま二人で走りに行った。
 ニートさん(僕と同い年の友達)のお父さんは僕の倍以上の年齢なのに、僕と同じくらいかそれ以上に自転車走行能力があって驚いた。自転車そのものの質としてはむこうのほうがちょっといい程度。オールカーボン製、コンポ(装備的なもの)は105で重量は8kgくらいらしい。僕のはアルミ+一部カーボンで9kgくらいだけどコンポがULTEGRA。ほとんどハンデがない状態で年齢差30以上の人間が一緒に走って、走行能力にほとんど差がないというのは驚異。僕もこのくらいの鉄人になりたいものだ。
 夜はニートさんと中つ国大学(仮)の構想など語り合う。いい友達を持った。
 20日、ニートさんの通った小学校をみにいくも暑すぎて死亡。
 これから放送大学の姫路サテライトスペースへ。電車の中。

2013/08/18 日 作品の力

 僕の考えです。
 人間は学習します。
 何によって学習するかといえばいろいろあると思いますが、親などの他の人間と、その他の環境と言えるだろうと思います。
 その他の環境、というものの中には「作品」と呼ばれるものが含まれるでしょう。
 作品によっても人は学習します。

 しかし「人格の方向性」は、「作品」と呼ばれるものとほとんど触れあわない、ごく初期の段階で決定づけられてしまうものだと思います。
 つまり、学習らしい学習をあんまりしない段階ですでに、人格の方向性はほとんど定まってしまい、膠着と言っていいほど頑なになって、ほぼひたすらその方向へ突き進んでいくことになります。おそらく。
 それは悲しいことに、本人にはほとんど選択の余地のないところで決まってしまいます(おそらく遺伝と乳幼児期の生育環境に大部分を依存します)。
 その後で人格の方向性を調節していくのが、「学習」とか「教育」、すなわち自他の努力です。
 この努力には「作品」と触れあう・触れあわせる努力が含まれています。

 悪人がよい作品を見ても意味がない、ということはないと僕は思います。
 僕はまなびストレート!という作品が好きですが、これを見てピンとこない人もいます。それにはいろいろな理由があります。
 しかしその人もいつかまなびを愛するかもしれません。
 まなびを愛するための前提を、どこかで獲得してしまえば、愛することはできると思います。
 僕はそう思うことでしか希望を保てないし、人生も保てません。
 誰もがまなびを愛すべき、というのではありません。誰でも愛することはできる、です。そうならないのは、ほかの場所を優先して遠回りしているだけです。そのうちにそのまま死んでしまう人がいるというだけです。
 言うまでもなく、まなびに限った話ではなく。
 だから何もかも、あきらめてはいけないと僕は思います。思いたいのです。
 Zがわからない人は、AもBも知らないのです。
 AもBも知らないけどZだけ知っている人もいます。でも、その人はどこかでAやBを知る必要に迫られます。もちろん、その必要を必要だと思わず、無視する人もいます。
 その無視が僕は最も悲しいのですが、悲しんでばかりもいられないからがんばろう、というのが今の気分です。

 作品には力があります。しかし作品は道具や薬ではありません。

 旅先です。たびたび更新します。
 体調が悪くて困りました。数週間、発熱や鼻水、喉の痛みなどが伴わない謎の咳が断続的にあり、数日前からついに発熱と頭痛が発生。今はかなり安定していますが咳はたまに(一日に一回から数回程度)出るし、喉にはわずかな違和感が。帰ったらなるべく早く病院に行きます。早期発見が大切な何らかの病気かもしれないと思ったりしてとりあえずやや笑っております。
 病院に行くのはとても苦手なんですが、そんなことを言っている場合ではないような気がします。ただ、最近は気持ちも滅入っていたし、暑い日が続いたり多少動き回り過ぎたりもしたため、発熱のほうは精神的なものと疲労との合わせ技かなとも思います。咳のほうは咳喘息だったかなんかそういう名前のものが近いかと。とにかく観念して病院に行きます。せっかくだからほかの気になるところもみてもらおうかな。
 それと、仕事で鍼灸だとかあん摩マッサージだとかの原稿や取材を担当することがたびたびあって興味を持ってます。昔から姿勢が悪くて、腰や背中が痛むのでみてもらいたいなと思うんですけど何かいいご意見などございませんか。やめたほうがいいとかネガティブな考えも含めて。盛岡にとても素敵な鍼灸を知っているのですが練馬に住んでいるのでどうにもなりませぬ。

 15日の木曜□、お盆なので14時くらいからぼんやりやってます。
 帰省も旅行もしないという暇な方は、ぜひ。

2013/08/13 火 正道

 頭のおかしい人ってのはいるし、自分と考え方の違う人ってのもいます。
 僕は僕の考え方をかなり妥当だと思っているけど、僕が妥当だとは思えない考え方をする人もたくさんいるのです。当たり前ですが。
 全部、許してしまえばいいのだと思います。
 そして逃げながら寂しく暮らしていけば。
 でも、できることなら……

 とか考えてたら、ばからしさと無力感でへとへとになりました。
 自分のことだけ考えていたほうが「パフォーマンス」がいいですよ、確実に。僕にとっては。みんなにとってもそうなんでしょう?
 ボランティアとかってのは今やだいたい、自分について考えるのが面倒くさい人が暇つぶしのためにやるもんです。
 人間は「両方」をバランス良く考えるような聖なる作りをしていない。それができるには訓練が必要なんだ、と思います。
 僕はその修行を一人で延々とやってきた、と思います。
 自己流には無理がありました。
 頑張ってるうちはいいけれど、諦めた瞬間に一気に来ます。
 だめだ……と思うと、もうだめです。

何も出来はしない そんなもどかしさと
逃れずに歩むさ それがせめての証し
(岡林信康/君に捧げるLove Song

 とは、思うんですけどね。
 もう一歩、進めないと、このままです。

2013/08/12 月 広島LINEで盛り上がって殺人(6)

 二つに分けられるものの中で、数直線によって結びつけられているもののすべてを思考から排除してしまいたい。
 それはできないから仕方ないんだけど。

「世界」ってのはあります。
 たくさんあります。
 ここで言う世界というのは「ある価値観を持った人たちの集団」です。一人が複数の集団に所属しています。その中には勢力の強いものと弱いものがあります。相性のいいものと悪いものがあります。
 信じられないほど頭の悪い人たちの世界もあれば、信じられないほど残虐な世界もあります。
 信じられないほどだから想像もつきません。

 ちょっと前まではほとんど興味がなかったのですが、
 最近、凶悪事件に関するノンフィクション本をよく読みます。
 精神疾患の本も読みます。
 うつ病の本や、性差に関する本は以前にまとめて読んだのですが、
 それだけでは現実に対応しきれなくなってきたのです。
 信じられないことが現実にはたくさん起こります。
 なぜ信じられないのかといえば、「そういう世界があることを知らない」からだと思って、少しでも知らない世界を減らそうと、いろいろ本を読むのです。
 それが関係しているのかは知りませんが体調が悪いです。

 問題を回避するには「知る」しかありません。
 人間の想像力とは「知識を繋げる」ことでしかない(そうでなければ空想か妄想です)ので、「知る」は重要です。実地で知ることが困難なことや、実地だけでは足りないことは、本を読むなどして知らなければなりません。

 問題というのは、たとえば犯罪であったり、不幸であったり、他人(特に大切な人)との不和です。知らないと避けられません。
 手っ取り早いのは『ナニワ金融道』や『ヤミ金ウシジマくん』、福本伸行作品などを丹念に読むことです。
 でもそれだけでは足りませんね。
 もっともっと、いくらでも知っておいたほうがいいことはあります。

「広島LINEで盛り上がって殺人」に僕が敏感なのは、僕の知らない世界の出来事だからです。知らない世界のことは知れるだけ知っておかないと、いざという時に問題を解決・回避できません。
 主犯とされる少女が使った「成長」という言葉について、友達といろいろ話しました。
 彼は「バカだから、何も想像してないだけ。刑務所から出ればハクがつくと思ってる。そういう考え方の世界もあるんですよ」というようなことを言って、だいたい僕も同意しました。
「捕まって刑務所に入る=成長」というふうに、短絡的に繋げているだけかもしれません。「ハクがつく」とさえ考えてないのでは、と僕は思います。
 その「=」には理屈なんてないのかもしれません。
「捕まって刑務所に入る=成長=いいこと」という感覚があるのだろう、というのが僕の今の憶測です。
 僕や、理知的な人はすぐに「=」に理屈を求めてしまいますが、そんなものは多くの人には存在していないようなものなんですね。

「腹が立った→殺した」という場合、「なぜ腹が立ったのか」とか「腹が立ったからって殺していいのか」というのは、あまり意味を持たない場合が多いような気がします。「だって、なんかなんとなくムカついたんだよ」とか「だって、殺したくなったんだ」とかいうことなんです、たぶん。
 そういう人って思った以上に多いんですよ。

 自分の基準で考えてはいけない、ということを痛感させられます。

2013/08/11 日 エアコンのリモコン

「電気がもったいないから、なるべく全員一斉に休みをとれ」
 とか、言われる会社もあるそうです。
 一人や二人しか出勤してないのにエアコン使うのはもったいない、というようなことでしょう。
 ただ、単身者なら何人か会社に来てもらったほうが節電になりそう(オフィスの規模にもよるけど)。家にいればいるだけエアコン使うと思うので。
 うちは10年くらいエアコンがありません。弱者です。
 なぜ弱者なのかといえば、近隣の室外機によって気温が上がる(と思う)からです。
 そんなに家の密集している地区ではないので、室外機ごときで本当に気温が上がるとも思えませんが、彼らは部屋の中を冷たくしているぶん、熱を外に放出しているわけだから、多少は影響あるのかもしれないとは思います。集合住宅なので特に。
 弱者だから、強者の横暴に対して「邪悪」と思ったりします。エアコンのある家は涼しくていいかもしれないけど、節度を持ってもらわないと、隣にいる弱者にしわ寄せがくるんだよ、と。調べると、室外機の熱風や騒音に悩まされている人はけっこういるようです。
 うちは「あえて使わない」のではなくって、「ない」ので、「使いたい」と思ってもどうにもなりません。
 つまり、やせ我慢をしているわけではないので、たぶんエアコンが設置されていれば使うでしょう。
 ただの弱者です。
 なぜエアコンを買わない弱者のままでいるのかといえば、

・何も考えずに本棚を置いてしまったため、おそらく大規模な模様替え(リフォームの域)をしないとエアコンが置けない
・工事で壁に穴を開けたり、業者を呼ぶのが億劫
・お金がもったいない(なくても問題がないのだから要らない)
・電気や原材料の節約
・弱者への配慮
・在野志向
・そもそもエアコンが苦手。冷房病になりそう
・夏は暑くて当たり前という、のび太のパパの言葉が耳から離れない

 といったところです。
 自ら進んで弱者になっているわけですが、その点では自転車と同じです。

 自転車では主に車道を走ります。車道は暑いです。しかも排気ガスやタイヤなどの粉塵がダイレクトに体内に入ってきます。健康に悪いです。忌野清志郎さんが咽頭がんになったのも、最近僕の喉の調子がずっと悪いのも、たぶんこのせいです(決めつけ)。
 しかし四輪車の中にいる人は涼しいし、排気ガスも吸いません。これはすごい仕組みです。今度こそ完全なる「強者」です。彼らは。
 車内にはエアコンがあって、そのぶんの熱も外に放出されています。これは家のエアコンと同じ事情です。車の場合はその上に有毒なガスや粉塵が加わるので、手に負えません。
 自転車に乗っているとき、僕は弱者です。今のところ自転車とキックボードにしか乗らないので、正真正銘の弱者です。
 涼しい車内でニコニコしながら笑う強者の姿に弱者たる僕は「邪悪」と思います。だったら僕も強者になればいいのですが、エアコンの時と同じような理由で、弱者のままでいます。

 しかし人間というのは面白いもんで、もし僕がエアコンのある家に住み、自動車に乗るようになったら、それが常態化して、何も気にしなくなるでしょう。今のこの感覚はきっと麻痺するでしょう。それはほぼ確実です。
 だから強者を責める気にはなれません。仕方ないのです。それは洗脳されて人を殺すようなものです。
 意識が、もっといえば人格がそのように変わるのです。

 ちなみにうちは、風通しの悪い家よりは風通しがいいです。うちにくる人は「涼しくて良い」と言ってくれたりするのですが、それは本当に暑い日の暑い時間にうちに来たことがないのと、その人の家の風通しが悪すぎるからだと思います。たぶんこれは日本の風通しとしては標準以下です。標準以上の家が都内にどのくらいあるのかはしりませんが。
 風通しがわりにいいので、35度を超えるような日の日中でなければ、換気扇と扇風機を回せばさほど苦もなく乗り切れます。35度を超えると一気に生活能率が下がる気がするので、喫茶店や図書館などに避難します。
 要はなんとか工夫して生き延びています。
「世界に親切」とかいうサイトに、こうあります。

バテてます。クーラーつけた部屋から出ないのが、一番健康的ですね。環境に悪いと思いますが、少なくとも、自分には優しいので、まあ、それはそれで、完全に否定されるような考えではないと思います。環境に優しく自分に厳しくして、バテて、気分が悪くなったり病気になったりでパフォーマンスが下がったら、プラスマイナスゼロというか、因果応報というか、虻蜂取らずというか、元の木阿弥というか、急がば回れというか、人間万事塞翁が馬というか、めくらめっぽうというか

 僕は環境のことなどあまり考えず、自分に優しくした結果、こうなっているので、単純に性格というか意識、もっといえば人格の問題だと思います。
 エアコンがないほうが今のところ僕は楽なのです。
 エアコンを設置した瞬間に僕の人格は変わり始めるのかもしれませんが、現在はそうです。エアコンがない中で工夫していくほうが健康的だと思うし、パフォーマンスなんか多少下がったって構わない。そういう時は「あー、避難するのが遅れたか。面倒くさがって昼近くまで家にいるからこんなことになるんだ。もっと早く喫茶店にでも行けばよかった」とかなります。
 これは性格とライフスタイルの問題だと思いませんか。僕は喫茶店に長時間いても苦じゃないし、そのために毎回数百円払う覚悟もあります。七時開店のお店なら六時台に移動ができるので暑くないです。移動しそびれて、室内があまりにも暑くなってきたら、「ああ、失敗したなあ」と反省します。
 でも、そうじゃない人はエアコンをつけた方がいいのでしょう。
 上の引用文が言っているのも、すべて「自分にとって」ですね。
 僕にとっては、エアコンがあると「工夫しなくなる人格」に変わってしまいそうだから、それが家の中にあるのは嫌です。
 家族ができればまた違うでしょうが、一人なのでこのほうがいいです。
 ちなみに、本当に避難が必要だった日は、今年は今のところ一週間くらいです。毎日まともに出勤してたとしたらもっと減るでしょう。
 実家(名古屋)にいた頃は、エアコンはあったけど、つけるのは年に一度か二度かのイベントでした。最近は親も年を取ってきて、たまに帰ってくる息子や遊びに来る孫たちに対して甘々なので、つける頻度がものすごく上がっているようです。

2013/08/10 土 まさやん/ガソリンスタンド

 まさやんと会った。「結婚式の二次会ぶりだから、三年ぶりですね!」と言われて、はっとした。そんなに会ってなかったのかー。
 僕の悪い癖で、「結婚した友達とは連絡を取ったり遊ぶ頻度が減る」っていうのがある。そういう気の遣い方って好きじゃないし、自分がされたら絶対に嫌なんだけど、なんとなくそういうふうになってしまう。たぶん相手側も、友達と連絡を取ったり遊んだりする頻度が全体的に下がっているんだと思う。どっちが先にそうなるのかわからないけど、なんかそうなっちゃうんだよね。
 まさやんとは彼が結婚する前から会う頻度はかなり減っていて、もともと数年に一度しか会っていなかった。しかしお互い、その存在を軽く思うことはなかっただろう。彼に関することは、彼が結婚する前後にも書いているのでご参照あれ。(2010/07/042010/12/04

 2001年の4月の日記を読み返したら、まさやんに対する説教が書いてあって、懐かしくなった。思い返せば、最低限の「しつけ」みたいなこともある程度、したのかもしれない。僕も彼の姿を見て自分を戒め、引き締めたわけだから、こっちも感謝している。
 僕は高校に入るまで部活や習い事等をしていなかったので、彼は僕にできた最初の後輩だ。(最初の後輩は何人かいて、それぞれ重要人物なのだがとりあえず今日はまさやんの話。)
 最初の後輩であり、最初の生徒と言ってもいいのかしれない。生徒って言うと「はっきりとした上下関係」を思い浮かべてしまうけど、彼はすぐに僕を「ジャッキー」と呼ぶようになったし、敬語もあんまり使わなくなった。最近でも、僕と出会って「より納得できる自分」に変われたような人って、生徒や教え子っていうより単純に「友達」だったりするような人なんだよね。教え子であっても僕のことを呼び捨てにしてたりとか。まさやんは、そういう存在の第一号だと思う。
 まさやんは今、自転車の仕事をしている。僕と出会って自転車に目覚めたのだということを今日も言ってくれた。一緒にいた奥さんに、「おれがいろいろ記録を残したり、ネットに文章として書いたりするのもこの人の影響なんだ」と言ってくれた。はっきりとそう言えるのって、嬉しいし、かっこいい。
「ジャッキーには何をしたって本気でやったら勝てる気がしないよ。自転車だって、おれはちょっと長くやってたり、専門にやってるから勝てるのかもしれないけど、もし本気でやられたら絶対に勝てない。だけど、だからこそ負けないようにってがんばるんだけどね。」こういう「アキラメの伴わない謙虚さ」は本当にすばらしいな。「かなわないからあきらめる」のではなくって「かなわない存在がいると思うからがんばる」っていうのは、「わからないからわかろうとがんばる」っていう僕の姿勢と共通するものがある。
『レヴァリアース』でシオン様に対してザードが言った「お前は 知るコトを知るために学んでいるのだな」というせりふが、その考え方の原点になっているのかもしれない。遡ったらソクラテスなんだけど。(余談)

 ゆずの岩沢先生の名曲に『ガソリンスタンド』ってのがある。

逢えなくなってもう二回目の冬がきて
逢えなくなってからは何しろやりきれなくて
だけども僕はいつも君がここにいるから
なんとかこうしてやっていける気がしてんだ

 岩沢先生の中でも特に心に残っている曲。
「逢えなくなった」理由はわからないけど、「君がここにいるからなんとかこうしてやっていける気が」するっていうのは、なんとなくわかる。
 僕はどこかで、この歌にあるような「君」でありたいし、「君」のような存在を心の中にたくさん持っている。
 まさやんなんかはまさに、お互いにそういう存在なんじゃないかな。

 そしてまたここへ帰ってきたわけさ
 風の音を聞きながら
 いつの間にウトウトしてた
 日だまりのあの公園へ

 同じアルバムの、同じく岩沢先生の『日だまりにて』という曲。あんまり人気のあるアルバムじゃないけど、ここに入っている岩沢先生の曲はどれもすばらしい。
 名古屋に帰るといつも浮かぶ曲。
 生きているためのふるさとを、岩沢先生はあの手この手で歌っている。また同じアルバムの『飛べない鳥』で、「君からもらった優しさの言葉を持ってまた歩き出す」と歌っているのも、同じことだ。

 心の支えは一つじゃない。名前をつけて、決めてはいけない。誰もがどこかでつながりながら、細胞で支えている。細胞は支えられている。知らないうちに。

2013/08/09 金 JPJ

 友達が毎週金曜日に新宿二丁目でやってるバーに行ってきた。
 意外にも二丁目で飲むのは初めて。しかしそのお店は店長以外みんなノンケだったので、さして二丁目という気がしない。
 いま「おざ研」という、バーのような、たまり場のような場所を運転しているけど、バッチリ「お店!」って感じのところでやるのもやっぱりいいな。並行して両方やってもいいかもしれない。そういう話はないではないけど、週に二日、あるいはそれ以上徹夜でやるのはけっこう厳しい。
 金曜だし、店長が魅力あふれる人物なので店は大いに賑わっていた。客層は、店長のファンや仕事仲間が主といった感じ。
 当たり前なんだけど、誰がやるかということによって客層は大きく変わる。僕だったらどういう感じになるだろうか。
 飛び込みのお客さんは二人ばかりいた。そういう人が一人でもいるのは、こういう場所でやる醍醐味。おざ研にはそういうお客さんがこないので、やっぱり「お店」であることの強み・楽しさはある。「どう動くかわからない」というのは重要だ。
 僕は別に水商売がやりたいわけではないのだけど、たまり場みたいなのはほしいし、「何が起こるかわからない」というところで誰かと出会いたい気持ちもある。
 そういうのをしたいってなると基本的には「バー」や「カフェ」っていう形態になっちゃいますね、今は。
「おざ研」は、わけのわからない場所だけどその点を意識して作られていて、しかし「何が起こるか縲怐vの要素は、昔のゴールデン街とか二丁目に比べると少ない。
 両方やれるならやりたいけど、体力的な問題がある。誰か僕と同じような意志を持った魅力的な人間がいればいいけどな。

 おざ研はあと2年くらいでなくなると思うので、「行ってみたい」「興味がある」と思ってくれる人は、ぜひお早めに。たぶん、気がついたらなくなっています。そういうもんですよね。
2013/08/08 木 努力厨 伝統と慣性

 高校の頃から、「努力なんて嫌いだし、したことがない」とうそぶいていた(いちおう理屈はある)僕だけど、なんか最近(というか今日)自分は努力家だという自覚に目覚めた。
 詳しい話はするなら後日。

 昨日の深夜に10キロくらい走った。
 そのあと自転車で8キロ走って帰った。
 走るのは楽しい。しかし滅多に走らない。
 いちおう、10キロを1時間ちょいくらいかけて走る程度なら、息が切れず、今のところ筋肉痛もないくらいの体力はある。
 しかし走らない。なぜか。必要がないから。
 必要に迫られないと何もしない。
 今回はちょっと事情があったから走ったけど。
 数年に一度くらいしか走らない。
 でも数年に一度はまとまった距離を走らないと、自分が走れるかどうかがわからなくなる。
 鉄棒を見ると、逆上がりやグライダーや、コウモリ状態でぐるぐる回るやつとか、するんだけど、なぜするかといえば、できなくなるのが怖いから。縄跳びも定期的にやるけど、三重跳びがまったくできなくなる時が怖い。
 怖いっていうか嫌だなと思う。
 老いたくないというよりは衰えるのが嫌だ。
 できていたことができなくなることを受け入れる覚悟はあるつもりだが、努力もせずにただできなくなるだけなのはちょっと嫌。
 とか考えていて、自分はなんと努力家なのだろうと思った。
 慣性の法則が働いているのか。
 惰性ではない慣性のことを努力と言うのかも知れない。
 人工的な慣性というか。
 昔は「嫌なことを仕方なくやるのが努力」とか言っていて、「だから僕は努力は嫌いだししたことがない」と続けた。今でもそう思う。しかし付け加えたい。「人工的な慣性を努力と呼ぶのなら僕はついついしてしまう」とか。
 あるいは、劣等感や好奇心、理屈や感情に突き動かされて何かをすることが努力なら、僕はけっこうしている。

 僕は思い返せばけっこう努力している。大人になって、周りに本当にどうしようもない他人や友達がたくさんいて、彼らは彼らなりに努力しているのだろうけど、でも自分の努力って実はけっこうすごいのかなと思ったりもする。たとえばこの日記だってよく続けている。見る人が見れば努力だろうし、実はこれぞ「人工的な慣性」なわけで、別に楽しいから続けているわけではないし、ハッキリ言って面倒くさい。妙な義務感もある。しかし結局は慣性だ。続けているから続けている。伝統に対して僕が肯定的なのは、それは人工的な慣性によってそこにあるからかもしれない。ただ、惰性で続いている悪習はその限りではない。慣性で続いているものを伝統と呼ぶのだ。

2013/08/07 水 安全運転とは

どらもの2013/08/06の記事。

 確かに言いました。「安全運転とは、『相手がキチガイであることを常に想定せよ』ではないか」。
 絶望的な言葉ですけどね。
 無条件に人を信用すれば泣くのはこっち。
 どうやって見る目を養えばいいのか? と。
 基本的に、そのドライバーがキチガイかどうかというのは、運転中の顔を見ないとわからない。でも顔はよく見えない。見てもわからない時だってあるかもしれない。
 車の中の顔を見て、正確に判断する能力。
 今日は僕じゃない人たちの誕生日でした。
 仲の良い夫婦の結婚記念日でもあると聞いてびっくり。のび太の誕生日。
 そういえば僕の東京のお兄さん(偽兄)の結婚記念日はドラえもんの誕生日。
 ここらへんみんな同世代(うちの長兄と同じくらい)
 ちなみに長兄ものび太生まれ。

2013/08/06 火 広島LINEで盛り上がって殺人(5) 答え合わせ社会

広島LINE殺人の犯人が使う"成長"という言葉、「人を殺しても"成長"さえすれば最終的には善でいられる」という物語を彼女に与えていたのでは。成長という言葉を使えば答えあわせのように善なる物語が与えられる。成長は神話なんや。
答えあわせ(当然の帰着)のように"泣ける"ワンピースや、答えあわせのような成長物語を売りにするAKB48がこの犯人の"成長"と無関係であるとは、わいにはどうしても思えないんや。因果関係には無いにしても、まったくの無関係ではないと思うんや。

 Unused_Johnnyとかいう人(サイトどうにかしろ)が言ってた。たぶんこのサイトを見ての感想だろう。彼とはけっこう前から「答え合わせ社会」についての話をしていて、ワンピースやAKB48のことも話していたと思う。
 念のためちゃんとあらかじめ確認しておくと、「答え合わせ社会」という概念は僕がこの何年か言っているやつで、「ワンピースは答え合わせマンガや!」とかいうふうに使う。そもそもは学校で行われるクイズ形式のテスト(択一問題に限らず、記述式などでも明確な「正解」が存在するのが学校)に慣らされた現代人に警鐘を鳴らすために言い始めたことである。テスト(クイズ)に慣らされた人間は「必ずどこかに答えがある」ということを前提としてものを考える。それが多数の成員の中で常態化しているのが「答え合わせ社会」だ。
 このことについて考え始めたのは2007年くらい。小沢健二さんが「インターネットに情報が載らないような活動」をしていた時に、「自己啓発セミナーのようなことをやっている」とか「エコ活動に没頭している」「新自由主義やグローバリズムを批判している」みたいなふうに言われていて、「なんでこの人たちは、既存のわかりやすい言葉を使ってしかものごとを考えられないんだろう?」と思っていた。それは彼らが「答え合わせ」に慣らされすぎているからだ。
 誰かの発言や行動は、一言の単純な「正解」によってすべて表現することが出来る、という思い込みによって、小沢さんはいろんな言われ方をしていた。「どこかに必ず正解がある」という思い込みがエスカレートすると、「なぜネットに情報を載せないんだ」になって、「なぜ隠すんだ」になって、「隠すのは悪いことだ、なぜ悪いことをするんだ」「小沢は悪いやつだ」となってしまっていた。今では信じられないかも知れないが、本当に当時はそんなふうに言う人が、多かったのだ。ネット上でも、そうじゃないところでも。
 それは学校における「クイズ形式のテスト」の病だ。
 僕はこういう考え方しかできない人を「答え合わせ社会の敗北者」とか呼んでいる。(岡村隆史さんが「ゆとり教育の敗北者」とか言っているのを真似してるだけで、勝ち負けとかを意識しているわけではない。)

 上のジョニー氏が例に出しているのはワンピースとAKB48。
 ワンピースは「感情の答え合わせ」だ。演劇部のかなり上の先輩がちょうど一年前にOB会で「ワンピースは、脳みそのある一部分だけをひたすら刺激してくるから、飽きるんだよ」と言っていて感動した。「中毒」になるもののほとんどは、一部分しか刺激してこないものだ。性的なことにせよ、恋愛にせよ、アルコールや煙草や麻薬にせよ。ワンピースもその仲間なのかもしれない。
 主人公のルフィは天真爛漫というか、単純な少年である。ドラゴンボールの孫悟空や、YAIBAの鉄刃にけっこう近い。「まっすぐ」なのだ。どういうふうにまっすぐかというと、「(おれたちは or そいつは)仲間だ!(ドン!)」みたいなことをストレートに口に出せるようなまっすぐさ。「熱い」と言い換えてもいいかもしれない。
 試しに「ワンピース 仲間だ」で画像検索するとイメージがつかめるかもしれない。ルフィの言う「仲間だ」は『南国少年パプワくん』でパプワが言う「今日からオマエも友達だ」を思い出させる。(なんでだろうと思ったら声が同じ田中真弓さんだった。)
 パプワくんは誰とでも「友達」になってしまうが、「友達」という言葉を必要以上に使うのはおそらく、パプワが感情表現が苦手で、誰に対しても素直になれない子だからだ。もう一人の主人公シンタローに対するツンデレ的な態度からそう思わされる。パプワは「友達」という言葉を使わなければ、他人と「関係」のようなものが築けないのである。もちろん作品の最後ではパプワとシンタローの間に素晴らしい友情が育まれていることをお互いに、そして読者も確認する。パプワの心は単純なように見えて実は複雑で、その閉ざされた心を解放したのはシンタローとの「関係」だった……と。この「複雑さを乗り越えた単純さ」を楽しく美しく描いたところが、『パプワくん』の名作たるゆえんだろう。
 ワンピースのルフィの内面にそういった複雑さがあるのかどうかは知らない。ただ僕の占いによると、今のところ「仲間」という言葉は水戸黄門の印籠のように使われているのかなと思う。ダチョウ倶楽部の「聞いてないよ」でもいいけど。「くるか? くるか? きたー!」といったふうに。

「感情の答え合わせ」というのは、たとえば「泣ける映画」というキャッチフレーズによく表れている。「泣ける映画」という煽りにひかれて観る人は、「自分が泣いたかどうか」を確かめる。泣いたならば「泣けた」、泣いてないならば「泣けなかった」と言う。これが答え合わせでなくてなんだろうか。
 ワンピースにも似たところがあるんじゃないかと思う。
「泣ける映画」を観るのが好きな人って、たぶん「こういうのは泣いてしまう」というツボを持っている。「恋人が不治の病にかかる」「恋人はそれを知ってわざと自分に冷たくして嫌われようとし、死んでも悲しまないように仕向ける」「自分がレイプされても恋人は受け入れてくれる」「赤ちゃんが流産する」「恋人が死ぬ」「彼の死後、忘れ形見を産み、強く生きていくと決める」……これらをガッチャガチャに詰め込んだのが『恋空』を初めとするケータイ小説というやつで、何百万人(推定)の人が泣いている。
 ワンピースとは、「仲間や友達の大切さ」というテーマを強調したケータイ小説みたいなものだ。そしてそれをドン! バン! と延々くり返す。「仲間や友達の大切さ」という「ツボ」に弱い人は、それの中毒になる。そのうち「ドン!」とか「バン!」という擬音や大ゴマ、太いゴシックのフォントなどが「トリガ」になって、条件反射のように泣ける(感動する)ようになる。
 その時の読者の感覚は、「ああ、ドン! とかバン! とか早くこないかな……きたら泣けるんだけどな……はやく泣きたいな……」である。いやきっとそうなのである。次第にそうなっていく。
 それは水戸黄門の印籠であってダチョウ倶楽部の「聞いてないよ」と同じなのだ。その「待ってました」感は、「それがツボ」という人にとってはたまらない快感がある。

 例の殺人犯の少女にとっては、その「ツボ」というのが「成長」という言葉だったのかな、と思う。
 また、彼女らの関係において、「仲間」とか「友達」とかっていうキーワードも、無関係ではないどころか、直結しているような気がする。
 パプワくんにとって「友達」という言葉は、シンタローとの間に「関係」をねじ込むための工夫だった。装置だった。LINEと同じだ。(※(4)参照)
 ルフィたちにとって「仲間」というのは、戦うための理由であったり、仲良くするための理由であったりする。やはり個人間に「関係」をねじ込むためのものなのだ。
 ルフィと誰かの間に、「関係」が結ばれる。だから仲間だ、という順序ではなくって、「仲間だ」「だから『関係』がある」という順序になる。こう言うとファンたちは「違う! 彼らの間には確固たる絆が!」とか言うのかもしれないけど、それはどの程度のものなんでしょうか? 『まなびストレート!』の4話から6話にかけてのような、濃密な「関係構築の過程」が描かれているんでしょうか? 何巻か教えてくれたら読んで考えを改めます。

「俺ら親友だもんな」「だってうちら友達じゃん」という言葉の軽さ、薄さ。それをわからない人たちがいる。なぜわからないのか。「知らない」からである。友達とは何なのか、親友とはなんなのか、知らない。だから言葉でしか表現できない。言葉によって無理矢理「関係」をねじ込む。
 それはLINEという存在そのものや、「友達」「仲間」「成長」といったお題目的な言葉に共通するものである。
 少女には「成長」という言葉の意味することなんて、きっとわかってはいない。わからないから「成長」という言葉をわざわざ使うのである。それはパプワくんが、「友達」というものを知らないから「友達」という言葉を使うのと同じだと思う。
 ルフィもきっと、「仲間」なるものを知らないからそういう言葉を使うのではないだろうか。「友達から仲間へ」というフレーズを物語中盤に掲げた『まなびストレート!』でも、ラストシーンに言葉はない。最終話には「友達」という言葉も「仲間」という言葉も、出てこない。それはきっと彼女たちが、そんな言葉を必要としないほど濃密に「友達」や「仲間」というものを知ってしまったからではないかな、と思う。
 今後ルフィが「仲間」という言葉をあえて使わないようになっていったら、また違う物語になっていくのかもしれない。(もうそうなっているのなら、誰かぜひとも教えてください。)
 ところで「友達の意味さえ知らなかった こんなわたしだけれど 今は言える Thanks my friend!」というのは『まなびストレート!』の挿入歌『桜舞うこの約束の地で』の歌詞。パプワくんが「友達の意味」を知った後にシンタローに対して言う「友達」という言葉は、それまでのそれとはまったく違う。そういうことなのかなーとか。で、この歌の流れた次の回(最終話)では、「友達」という言葉は使われない、と。

 期待する→「仲間だ(バン!)」→泣ける→気持ちいい という流れは、解答する→答えを見る(採点される)→点が取れる→気持ちいい というのと同じようなことだ。
 それを僕は答え合わせと呼んでいる。

 恋人関係・親子関係にもよく見られますよ。
「こうしてくれるはずだ」→「してくれない」→「怒る」
「こうしてくれるはずだ」→「してくれる」→「喜ぶ」
 という。
 クリスマスやバレンタインなんかも、答え合わせの一環。
 何をそんなに期待しているんだろうかね。
 もっと柔軟にやっていけばいいのに。

2013/08/05 月 広島LINEで盛り上がって殺人(4)

 この事件に関する最新の論考

 津田大介さんというゴールデンな方への反論から始まるこの文章。なかなかわかりやすいです。

 僕の視点から言うと、LINEというのは「個人間にむりやり関係をねじ込む」ものだ。
 SNSはじめインターネット全般に言えることだけど、LINEは特に、上の記事にもあるように「求心力」と「閉鎖性」があるようだ。盛り上がりやすく、エスカレートすれば止まらない。閉鎖しているから、まちがったことでもLINE内で「正しい」とされれば、そのまま通る。訂正する外部の者はいない。
 LINEは、本来ならば「関係」を結ぶ能力のない者たちに、容易に「関係」の雛形を与える。彼らは現実世界で「関係」を結ぶことが困難であるから、ほとんど初めて体験する強固な(ただし仮想の)「関係」に興奮する。そしてはまりこむ。そういうようなものだと思う。
 暴走族だって不良グループだって、個人間にむりやり「関係」をねじ込む装置なのだろうが、それはあくまでも「現実」を前提にしていて、LINEとは少々質が違う(つまり、少々質が違うだけで暴走族みたいなもんなわけだが)。LINEが介在したからこそ、瀬戸くんのような人が殺人に関与してしまったのかもしれない(ブログを見ると善人っぽいんだよねえ……)。
 LINEの中で、みんなが言っていることに乗っかれば、それで仲間意識が持てる。「関係」を実感できる。それは気持ちいいことだと思う。「関係」を知らない寂しい人は、すぐさまトリコになってしまうだろう。それ自体は特別なことではなく、かなり多くの人がそうだ。ただし、それはいつか「関係」を健やかに築くための練習でなければならない。練習になるかどうかはきっとその人次第で、良くも悪くもないだろう。しかし副作用としてこの事件のような妙な「関係」は生まれてしまう。

 安易すぎるからだろう。
 容易すぎるから。
 関係をサボって、いきなり性的な快感だけを覚えてしまったら、そっちばかりになってしまうよ。
 だから自慰中毒・セックス中毒の女の子は多いんだろう。

「成長」は単純だから嫌いだ。
 それは「気持ちいい」と一緒。
 単純なものをそのまま信じてはいけない。
 単純なものはある。しかし世の中は複雑だ。単純なものだってどこかで複雑な作用をしている。組み合わさったり、分解されたりして。
 そのことを知らなければ、命の複雑さだってわからない。人間の生命は、生きるか、死ぬかという、単純なものでもある。しかしそれを本当に「単純」と見てしまえば、軽んずる。「嫌いなんだから殺していい」というまちがった情報が流れる。
「気持ちいい」も「嫌い」も、とても単純なことで、しかしどこかで複雑だ。

 個人としての自分は、いくらでも単純にできる。「自分は○○だ」と思いこめばいい。しかし他人との関わりの中でも単純でいようとすれば、次々と問題が起きてくる。面倒くさがりの快楽主義者は「単純でいたい」を選ぶ。そういう人の周りでトラブルは耐えないし、場合によってはその人自身が、過食症になったり手首を切ったりする。自分を単純の中に閉じこめるのは無理があるのだ。人が一人では生きていない以上。それを無理にしようとすれば、人が死ぬほどのひずみが生まれてしまうのである。

2013/08/04 日 広島LINEで盛り上がって殺人(3)

 主犯とされる女の子は「成長」という言葉を使った。逮捕されたあとは成長して帰ってくるから、待っててねと。
 その言葉に「関係」という意識は希薄である。彼女はまた「支えてくれてありがとう」とも言っている。これも「自分」に焦点のある言葉だ。「皆、本当にごめんなさい」とは言っているけれども、何に対して言っているのかは不明。意地悪なことを言えば「ごめんなさい」は「ご免なさい」、「許してください」という意味なので、本来的には自分のための言葉ですね。むろんそんなことは意識していないんだろうけど。
 で、そう言う彼女に対する友達の言葉が「ほんまによかった」的なものだっていうのも、また面白い。そりゃ、ほかに言い様もなかろうけれども……。何がよかったんだろうか。罪を認めて懺悔するのは比較的いいことかもしれないけど、彼女は「成長してくる」としか言ってない。それが「よかった」んだろうか。このへんはちょっと、よくわからない。単に「関心がない」ということなのかな。「自首=いいこと」「成長=いいこと」という既製の図式をそのまんま当てはめて脊髄で反応しているような感じもする。いずれにしてもあんまり考えてないんだろう。

 たぶん彼女ら・彼らの間に人間としての「関係」というのはほとんどない。人間としての関係ってなんだよ、と言われたら困ってしまうが、彼らはあまりにも「個人」でしかなさすぎる。自我の定まらない個人ほど危険なものはない。自分がわからなければ、自分の行動や判断を操作していくことはできない。8/1の『鏡の中の少女』についての文章で書いたような、「自分に関するまちがった情報」に従って行動するようになってしまう。「私はあいつを殺したい」ならまだしも、「私にはあいつを殺す必要がある」とか「私にはあいつを殺す権利がある」とかいったふうになってしまうと、明らかに「まちがった情報」だ。

 主犯とされる少女は報道によれば「母子家庭の生活保護受給世帯」。母子家庭だから人を殺すなんてばかげたことはないが、母子家庭である場合はお母さんやその周り、そして本人は「気をつけたほうがいい」。いろんな人や家族と接したり、話を聞いたりしていて思う。
 現代はたぶん「母子家庭の多い時代」だ。しかし僕たちは「母子家庭の中で子供を育てていく方法」をまだそれほど確立していない。社会だって母子家庭に合わせてはくれない。どちらかといえば男親と女親がそろっている状態を念頭に置いて社会というのはできている。だから母子家庭というのは「大変」なのだ。「大変」だと、どうしてもひずみは生まれやすい。「母子家庭における子育て」というのは、これだけ増えている現代においても未だに「例外」のように扱われ、「こうしておけば妥当」と信じられているようなやり方はない。あったとしても浸透してはいない。
 母子家庭においては「妥当とされている関係の在り方」がない。両親のいる家庭においては、なんとなくだがステレオタイプの家庭像がぎりぎり生きているはずだが、母子家庭には「成功した(または妥当そうな)モデル」というのが一般に知られていない。たとえば、ドラえもんもクレヨンしんちゃんもちびまる子ちゃんもサザエさんも母子家庭ではないし、テレビなどで「理想の家庭」としてたたえられている母子家庭を僕は今のところ見たことがない。(最近はあるんでしょうか。)
「母子家庭になるルート」は場合によってまちまちだから、「これ」というイメージが作りにくい。だから場合ごとに「これが妥当」というやり方を探らなければならないわけだが、残念ながらおそらく多くの人はそんな能力を持っていない。

 そういえば一休さんは母子家庭。古いようでいて時代に先んじていたのか? やっぱり一休さんしかない。かもしれない。

 母子家庭は特別な要因がなければ、どうしても「関係」についての能力が育ちにくくなりがちなのではないかな、と思う。そして「個人」に閉じこもってしまう。「成長」や「支えられる」という言葉にばかりリアリティを感じ、「自分は○○だ」という情報を自分勝手にねつ造するようになったりする。「関係」というものを知らないから、全部自分で決めてしまう。
 もちろん、別に母子家庭に限らない。『鏡の中の少女』の主人公フランチェスカには両親と姉がいる。しかし家族の関係はゆがんでいた。ゆがむルートはいくらでもある。多少のゆがみは「特徴」だろうが、ゆがみすぎれば問題だ。

 たとえ家族に問題がなくっても、「関係」を知らなければたとえば恋愛だって独りよがりになる。全部自分で決めたりとか。よくないんじゃないかなあ。

 独りよがり。そう、僕が使う「個人」という言葉には常に「独りよがり」というニュアンスがある。少女の使った「成長」という言葉はきっと独りよがりだ。たぶん、捕まった七人のうち多くは、あるいは全員は、似たような事情だと思う。報道によれば彼らはみな一様に被害者への謝意を口にせず、自らの将来に関する不安ばかりを口にするというのだから。
 それは年齢というか、発達段階のせいもあろうけれども、そういう段階の人は安全な場所で、ゆっくりと自我の確立につとめるべきなのだが。「だからそこに行くなって。背伸びはこの範囲内で」と、8/1に引用したのと同じバンドが歌っている。

2013/08/03 土 広島LINEで盛り上がって殺人(2)

 僕がこの事件に興味を持ったきっかけは、最初に自首した少女が自首する前に友人とのLINEで打ち明けた文章だった。

グルチャでいいあいになって、いまからこいやゆてなってあって、タクシーではいがみねいって、殴って蹴ってやら根性焼きやらしよおたらあんま動かんくなって、それで首絞めて最後に首の骨おってなげてすてた

 内容もすごければ文体もすごい。LINEで言ってしまうこともすごい。よっぽど自分の中にためておくことができなかったのか、それともLINEで犯罪告白をすることにそもそも抵抗がないのか。殺してる最中にもLINEで実況中継してた人がいたとかいう話もあったりするし、後者かな。でも、やっぱり両方だろう。白骨死体を見て自首を思い立つというようなナイーブな(?)面もあるようだから。(それがこの子たちの想像力の程度なんだろうけど、この世代はけっこうな割合でそんなもんなのだろうか。)

 彼女がLINEで送信した文章の中から、「この世代の精神性」に関連しそうな表現を特に挙げてみる。
 世代なのか時代なのか、年齢なのかは微妙なところだけど。
「出てくるまでまっとってほしい。うちもちゃんと成長してくるね」
「ほんまにもお1回チャンスくれるならうちが出てくるまでまっとってほしい。頑張って成長してくるね」

「成長」。
 この子の言う「成長」という言葉の中には、おそらく「自分」しかいない。
 成長というのは基本的に「数直線」的なものだ。数的・量的に「よりよくなる」ということだ。「長く成る」というのだからそういうことだ。だから成長という言葉はけっこうだいたい単純で、しかも他から独立している。
 成長するのは個人であって「関係」ではない。「関係が成長する」というのは変だ。関係に長さはない。関係というのは常に質的なものである。「仲良しになる」はあっても「仲良くなる」は微妙だし、「もっと仲良くなる」はないだろう、と僕は思う。(別にそういう言葉を使うべきではないということではなく、便宜的にはどんどん使っていいし僕だって使うのだが、突き詰めて考えれば、ということ。)だから、「知人→友達→親友→心の友」みたいなふうに、出世魚のような変化を本来「関係」はしない。はずである。『まなびストレート!』に登場する「友達から仲間へ」というのは質的な変化だ。
 彼女には、いやおそらく彼女「たち」には「自分」しかない。取り調べでも未だに被害者への謝意などはなく、自分の今後のことばかりを気にしているという。もちろん、集団意識で盛り上がって人殺しちゃって後悔するような人にろくな「自分」なんてないんだけど、「ろくでもない原始的な自分」みたいなのはあるんでしょうね。
 自首した子はそんな感じだと思うんだけど、21歳の瀬戸くんはさらに原始的というか、ほとんど存在しないくらい小さな「自分」しか持っていなかったと思われる。例のまとめ記事を見てもらえばわかるけど、彼の行動は徹頭徹尾「状況に流された」に支配されている。彼の父親もそういう性格の子だと言っているくらいだし、何の恨みもないのに殺人に荷担し、状況に流されて危害も加えていたようだ。「瀬戸くんもやりなよ」みたいな意味のことを言われたんだろうか。これもこの事件が映し出した「時代」の有り様の一つだと思う。(そういう人は縄文時代からいるのかもしれないけど、増えてんじゃないかなという気はする。)

 この事件の悲劇はたぶん、「関係」のないところに「関係」のようなものを存在させてしまったというところにあって、それはLINEというツールによって実現させられたものだ。その辺については次以降。

2013/08/02 金 広島LINEで盛り上がって殺人(1)

「広島LINEで盛り上がって殺人」というのは僕がつけた名前で、16歳くらいの少年少女6人と21歳の瀬戸くんが16歳の女の子を「殴って蹴ってやら根性焼きやらしよおたらあんま動かんくなって、それで首絞めて最後に首の骨おってなげてすてた」事件のこと。「」でくくった部分は、当初の報道で主犯とされていた(実際そうだろうと思われる)16歳の女の子が、自首前にLINEに書き込んでいた内容からの引用。
 この事件は、最初から最後までLINEが鍵になっている。簡単に言えば、LINEで「いいあい」になって、LINEで殺しちゃおうぜ的な雰囲気になって、LINEで仲間集めて、LINEで被害者呼び出して、LINE仲間(初対面同士もたくさんいたようだ)でLINE友達を監禁してリンチして殺して山に捨てて、事件後もLINEで相談したり犯行告白したりして、事情聴取の時もLINEやってる、という感じ。そのへんの書き込みは一部が公開されていて、調べると読める。僕のおすすめはここ。というかどう考えてもここが一番まとまっている。
 長いけど、読んで損はありません。僕にとっては、かつての綾瀬の女子高生コンクリ殺人や、新潟女児9年間監禁事件と同じくらい興味深いもの。変な気持ちで興味があるのではなく、こういうところに人間の本質だとか、時代の有り様だとかは映し出されると思うから。
 ゆっくりと続きます。

2013/08/01 木 鏡の中の少女

「世界に親切」の人が常々話題にしているレベンクロンという人の『鏡の中の少女』という本を読んだ。拒食症の女の子が、少しずつ快方に向かっていくという筋。いろいろ言いたいことはあるんだけど、とりあえず「心当たりのある人は読んでも損はない」かなとは思います。心当たりというのは拒食症ということだけではなくて、いろんな病。

「狂うってことは、感情がちゃんと働かないってことだ。狂うってことは、自分の頭が自分自身にトリックをしかけ、自分自身についてまちがった情報を流し、それから、いつまでも消えないまちがった恐怖を与えることなんだ」

 この本はけっこう前からおざ研に置いてあって、いつか読もうと思ってたのをやっと読んだ。なぜ今日だったのかというのは、「なんとなく」なんだけど、不思議なことに僕はこれを読むわずか一日前に、上記の文章とほとんど同じ意味のことを別の場所で書いているのだった。なんか、こういう偶然っていうか、タイミングのよさみたいなのはけっこうある。「あ、今だったな」と思えるような。これはたぶん単なる偶然じゃなくって、僕が培ってきた能力なんだと思う。
 どういうことを言っていたのかというと、

 だいたいの問題は「自分で自分を無根拠に見積もる」というところから始まって、それが頑固さとプライドの源になる。悩みのほとんどはそこから出ているよ。自分のありのまま、あるがままを受け入れればいいのだ。そののちに「どうするか」を考える。ここが逆転すれば永遠に変化はない。

 自己愛の歪みは、自分を正当に評価・判断できていないところに由来すると思う。

 当たり前のことを言っているわけで、『鏡の中の少女』で書かれていることと似ているからとて、それほどすごいということもないんだけど、タイミングが良かった。けっこうずっと、僕はこのことを考えている。
「自分自身についてまちがった情報を流し」というフレーズは、いいなと思った。なるほど、こういう言い方があったかと。問題のある人ってのはほとんど例外なく、これをしている気がする。
「自分を疑いなさい 多角的に見なさい そんなちゃちな物差しじゃ 絶対にサバ読んじゃうもん」ってcali≠gariとかいうバンドが歌ってた。「疑う」というのは、「自分の自分自身に対する評価は間違っていないか」ということでもあるので、とても大事なことだ。この歌は後に「健全にやりなさい 早くおうちに帰りなさい ほらこうやって言ってんじゃん 責任とかもてないもんねぇ」と続く。っていうか、そもそも出だしがこんなふう。

ねーねーまだ×3 君なんかさぁー
自分自身の半分の事だってなんだかわけわかんないんでしょ?
ねーねーでも×3 博識ぶってさぁー
あっちもこっちも知ってるふうな口ぶりボロがでちゃったりしてね
負け犬のエレジーじゃない 頭なんかたたき割っちゃえよ!
あの夏のおセンチなスイカみたいにやっちゃえば?
「あっどうもお母さん 彼女はきっとまだ他の道が見えてないだけなんですよ」

 自分自身の半分のこともわかんない人が、チャチな物差し持ってちゃサバ読んじゃう、そりゃそうだ。悪気があってのことじゃなくっても、物差しがチャチだから正確に測れない。だから疑う必要がある。多角的に見る必要がある。「健全にやりなさい」とはいい叱咤だ。

 自分自身のことがわかんなくっちゃ、何にもわかんない。で、自分自身のことなんて永遠にわかるもんじゃない。だから永遠にわかんない。だから永遠に疑い続ける必要がある。そりゃ疲れちゃうよね。でも暇はなくなる。
 自分自身のまちがった情報を流してしまう人は、無根拠に自分を見積もったまんま、ほったらかして疑うってことをしない。それでどんどん本当からずれてって、取り返しのつかないことになる。
『鏡の中の少女』の主人公は、拒食症になる前は162センチで42キロっていう、普通よりもちょっと痩せてるくらいの体重だった。それを「太ってる」「美しくない」「ダンスも映えない」などと認識するのは、とてもわかりやすい「まちがった情報」なんじゃないか。少なくとも、頻繁に疑うべき認識だろう。でも疑わないで、そのまま続けてっちゃうと、162センチで体重が20キロ台、なんて事態に、気がついたらなっちゃうのだ。

 問題行動のメカニズムってのはおおよそ似たようなもんだと思う。
 自分で自分を把握できないから、「何か」に頼るんだろうし。
「自分」をどこかに捏造してしまうのは、けっこう楽なことだ。
『鏡の中の少女』の主人公は、抱えているすべての問題を拒食症の症状にぶち込んだようなものだ。本当は家族との関係に問題があって、他者とのコミュニケーションにも問題があって、っていうのを、全部「拒食症」の中にぶちまけた。それはある種の捏造だ。すべてを粘土のように丸めて固めてしまうのは楽だよね。もやもやとした辛さを、性欲や自傷や服薬に封じ込めてしまうようなのも同じ。一元化・一本化したほうが楽だというだけ。その過程に「まちがった情報」は暗躍する。問題を一本化するなんてまったく無茶なことだけど、「まちがった情報」によってつじつまを合わせてしまうのだ。

 同じ作者の本を数冊買ったので、しばらく読みふけることにしよう。
『鏡の中の少女』は、すでに「わかっている」ような人が読んでもあんまり面白くないかもしれない。目新しいことはそれほど多くない(なにせ古い本なのだ)し、物語としても文章としても(僕にとっては)さほど魅力的ではなかった。最も興味深く読めるのは問題を抱えた当事者だろう。しかし、「そういう問題を抱えた他人」について関心があるなら、面白いかも知れない。僕はそういう視点で読んだら、けっこう良かった。面白いかどうかは別として、僕にとって「役立つ」本であることは間違いない。

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