少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。
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2010/12/32 「mixi世代が!」と5年前の僕は年上の人たちに毎日心で言っていた
10年前のインターネット人口は、高校1年生のクラスで言ったら「1/5くらいがネットを自由に見られる環境にある」というくらいのもんだったんじゃないかと僕は勝手に思っている(名古屋調べ)。ひょっとしたらもっと少なかったかもしれない。大多数は「ネット環境がない」か、「家族はやっているが自分はほとんどさわったことがない」「たまに検索くらいはすることがある」という程度のもんだった。「自分の好きなサイトを見ている」という人は、かなり少なかった。だからクラスでネットの話が出ることはほとんどない。侍魂というサイトで「先行者」のネタが流行ってから、若干学校でもネットの話をする空気ができたものの、それでも侍魂なんか知らないという人のほうが多数派だった。当たり前のようだけど。
それなので、必然的に「ネットと日常」は切り離されていた。ネット上では具体的な日常の話をしてもわかってもらえないので、せいぜい「お母さんが……」とか「友達が……」とかいう、一般的な言葉で語られた(はずだ)。「ユミコがさあ」と言ってもわかってもらえないからだ。それに、「ユミコがさあ」という語り方をしたがるような人は、当時インターネットなんかしていなかったと思う。
ところが2004年で世界は変わり始めて、2005~6年にはもう完全に逆転した。「ネットと日常」が同じものになりはじめたのだ。mixiの登場と普及によって。最近はTwitterによってますますその傾向が強くなった。
僕のように頑固に旧時代のスタンスでいる人にとっては、ちょっとやりづらい状況ではある。
あまりにも、ネットと日常とを近く感じすぎると、ちょっとしたことにも敏感になる……なんつうのは別に、10年前も同じだとは思うんだけども。
「たかがネット」と思う人が少ないというのは、由々しき事態だとは思うのだ。僕が書いていることなんて、現実の僕の一言ですべて打ち消されてしまうようなものなのに。
2010/12/31 ユーカリ
昨日はなんかいろいろ言い訳じみたことを書いてしまったが、なんというか、申し訳ありませんというか、わけのわからないことを言ってすみません。もうちょっとマシな言い訳をさせてもらうと、「ごめんなさい。そんなつもりはなかったんです」というだけのことなんだと思う、たぶん。
2010/12/30 20世紀のネット中毒者
僕は20世紀のインターネットで育ってきた人間で、今でもそのスピリットを守り通しているつもりであるため、「インターネット」と「日常」というのを必要がない限りは切り離すようにしています。
たとえばTwitterに「今○○にいます」みたいなことは書かない。「お腹がすいた」も書かない。「殺すぞ」と書いても別に殺すつもりはないし、怒ってさえいない。できるだけ日常の事情や感情やインターネットに持ち出したくはない。
ここに書いている文章は、「日々考えたこと」を綴るという傾向に最近はなっている。「考えたこと」を、可能な限り具体性を排除して、抽象化して、できるだけ応用の利くように、一般的に、書き換えている。あるAさんのことを書くときに、あまり具体的に、そして正確に書きすぎると「Aさんという個人」が不必要に存在感を持ってしまうので、わざとAさんについての情報を歪めて書くことさえある。あるいは、「書かない」ということでぼかしたりもする。例えば昨日の記事で言えば、僕はG氏以外の2人についてその存在以外を一切言及していない。意図的に外している。書く必要がないからだ。ここで邪推しようと思えば、「ジャッキーさんと、その恋人と、G氏と、その恋人」という組み合わせがすぐに思いついて、「恋人の存在を隠しているのか、照れているのか」などと思う人もいるのかもしれないが、単純に、書く必要がないから書かないだけである。書くといろいろ、不都合もあるのだ。
そういうふうに、他人のことを書くときには意図的にずらしていくのである。だからこその「フィクション」表示である。
先日AさんとかBさんとかCさんとか書いたときは、「A、B、C、ジャッキー」という4人の関係をだいぶずらして書いた。ずらしたというか、極端まで単純化して、「ウソではないが具体性が一切ない」書き方をした。
それから、「考えたこと」を記すわけだから、必ずしも「事実」とは照応しない。事実を書くといろいろと不都合もあるから、ウソを書くことも多い。たいていは本心も書いていない。そういう感じで逃げの手を打ちまくらなければ、とてもこの年になってネット上に文章なんか書いていられない。
ところが、こういうことは読者のみなさまにとっては「知ったこっちゃねーよ」ということでしかないので、ちょっと問題が起きたりもする。そういうときにどうしたらいいのかというのは、実は僕にもよくわからなくって、ちと困る。
「あなた、インターネットにあたしのこと好きって書いてたじゃない!」みたいなことも、言われるわけです。書いてないのに。
「Dさん好きだ!」と書いたら、出川さんが「あたしのこと?」とか勝手に思って、「ねえーん」とか言ってすり寄ってくるのを僕が全力で殴打したところで、上記の台詞である。いや、そういうことも実際にある。
そういうことを極力少なくしつつ、文章を書き続けるというのは難しい。書き様についてはまだまだ模索を続けることにします。
2010/12/29 たのしいゲーム
Wiiパーティというゲームをやった。楽しかった。
Wiiはすごい。やはり任天堂はすごいのである。
僕は十代の終わり頃にゲームを封印し、「以前にクリアしたことのあるゲーム」を除いて、ほとんどプレイしていない。(FF6とかDQ2とか魔界塔士Sa・Gaとかは1~2年おきくらいにやってる。)
なんでかというと、僕はゲームがかなり好きなのでやっていると廃人になるからである。お金も時間もなくなって、いかん。
しかし例外として、「ゲーセン」や「友達の家」ではゲームをする。ゲーセンではだいたい「縦スクロールシューティングゲーム」か「クイズマジックアカデミー」しかやらない。友達の家では必要に応じていろいろする。
マリオカートやスマッシュブラザーズなどを複数人でやると非常に楽しいのだが、これらは操作が難しかったり、実力の差が顕著に出すぎてしまったりするため、手放しで賞賛できるほど好きではない。桃鉄などのすごろく系ゲームも、心底から面白いのではあるがいかんせん時間がかかりすぎるし、操作は単調だし、どうしてもギャンブル臭が漂ってくる。てれび ゲームでありながら、その本質は実は麻雀に近い。だいたい4人でやるし。何時間でも続けてしまえるし。
「みんなでやって楽しいゲーム」として最強だと僕が思うのはやはり「Wiiマリオ」。マリオの操作に不自由がない程度にゲームができる人ならば誰でも楽しめる。マリオカートやスマブラほど難しくないし、下手な人でもそれなりに楽しめるだろう。
で、昨日はもう10年の付き合いになるG氏のお宅にお邪魔して、「Wiiパーティ」で一晩中遊んだ。男2人女2人で、どっからどう見てもリア充な感じで、80種類あるうちのほとんどのゲームを試してみた。
Gはゲームを愛している人なのでもちろん技術的には段違いで上手いのだが、彼が常に一位や二位ということもなく、ゲームによってそれぞれに得意・不得意が出るし、運の要素も非常に強い。多少の偏りはあるものの、けっこうみんなバランスよく勝っていたと思う。全体的にバランスが絶妙で、とてもいい。
ところで僕とGとが協力プレイをすると、やたら上手くいく。倉庫番みたいなやつをやったのだが、我ながら美しい連携だった。バランスなんちゃらという、木の板の上を二人でバランスとりながら走っていく難易度高すぎの鬼畜ゲームも、恐るべき集中力のもと全面クリア達成。そういえば前にマリオカートでペアを作った時もけっこう強かった(あれはGが上手いだけなんだが)。
二人プレイで完璧に息が合うとそれだけで嬉しいものだし、難しいゲームをクリアした後の達成感・充足感を二人で分かち合えるというのもよい。自分たちの妙な仲の良さというのを実感できて、非常に有意義な時間を過ごせたと思う。自分で言うのもなんだけど、あそこまでうまく連携してやるにはそれなりに仲良くなければできんもんだと思う。ちなみにWiiパーティの相性診断では72%でトップ。「Gが答えそうな答えを先取りして当てる」ゲームでも一位であった。仲良し仲良し。うむうむ。
ごはんと同じで、一人で孤独にやるよりもみんなでやるほうが楽しいものですねえ。ファミコンがファミリーコンピュータの略称であるというのを思い出すと、任天堂さんがWiiに辿り着いたというのもむべなるかなと。
2010/12/28 雪が降る町日和
行間を読もうとするのなら、まず行を読めなければいけない。
行を無視して行間を読もうとしたら、人は読みたいようにしか読めない。
非常に忙しいということを書いておかなければ誰かが何かを言いだしそうなので仕事納めは30日であり30日は忘年会でもあり各所に本を納品しなければならないのであり31日は名古屋に帰るのである。
「おれとの誘いを断っておいて、なんで鍋したり人んち泊まってゲームしたりしてんだよ」なんて言葉もある。僕の友達ならそういうことはまず言わないが、言うような人もいる。色んな事情があってそうなっているのだが、「おれ」の誘いがあった日とゲームした日とが違っていたとしても、言う人は言う。
ある友達からよく「ジャッキーって誤解を恐れないからすごいよね」と言われていたが、誤解を恐れないというのは単純に「誤解されるような言い方(書き方)をする」というだけのことなのかもしれない。「伝わってほしい人には伝わっているはずだ」と思ってはいるのだが、それを時々外すことがある。うっかりと。
言葉というのはあんまり正しく伝わらないものだし、人間というのは自分の読みたいようにしか読めない。そこを確かめるためには話し手(書き手)と直接関わりを持つしかないだろう。そのために掲示板とかチャットとかメールとかいうものが存在しているのであります。
行を無視して行間を読みとろうとしたら、解釈は千差万別。万あれば九九九九までは誤解だ。読み手にできることは行を読み、行間を想像することだけである。想像は想像でしかない。疑わしきは罰せず。
2010/12/27 いつの間にかもう射手座じゃないが
全人類のみなさまに『宇宙船サジタリウス』を早く最後まで見ていただいて、最終話付近のトッピーのあの台詞を噛みしめあいたいものです。
2010/12/26 僕が命の短ければ
最近の関心事といえば専らこれだから書く。当事者も御覧になられるかもしれませんが、所信表明として受け取っていただければ。
AとBが時に対立する、という構造があって、僕はAととても仲が良く、Bとはそれなり。ゆえにAの口から、Bに対する不満をたくさん聞くわけである。Aの言う「Bに関する話」が、どれだけ真実に近いものかはわからない。ただ、AともBとも仲の良いCという人間からも同じ質の「Bに関する話」を聞いているので、妥当性は高いかなという感じはあるが、AとCとがあまりにも仲良しなので、決め手にはならない。AやCがどれだけBについての不満を言おうとも、僕は「なるほど。君たちはそう感じるんだね」という感想をどこかで持っている。もちろん話を聞いている時は「たぶんこれがほとんど真実なんだろうなあ」とは思っているが、最終的なところでは「でもBの言い分もあるからな」というのは一応保たせている。
「何が真実か」とか、「誰が悪い」とか、そういうことは問題ではないし、あえて問題にしたくもない。重要なのは「僕はAと仲が良い」ということであって、「僕はAを健やかに成長させてあげたい」ということである。
そういうことなので僕は「Aを贔屓する」ということができない。「Bに不満があるんだったら、それを解決するための力を身につけよ」ということを言って、そのための考え方とか、やり方の断片を例示する。Bが悪いと思ったら「Bが悪いね」と言うし、Aに悪いところがあれば「それはAが悪い」と言う。
Aが健やかに成長していくためには、甘やかしてはいけないと思うので、常に冷静に考えて、時に慰め、時に叱る。常に教える。
僕はAもBもCも大好きなので、みんな仲良く暮らしていける方法があればいいなと思うし、今のところその突破口を切り開けそうなのは実際Aのような気がする。だから最近の関心事といえば専らこれだ。
誰もがみな、自由に生きていくことを許し合えればいいのだ。
みんながみんな、好き勝手、やりたいようにやる。
そのためにはどうしたらいいのか? ということを考える。
ここが最も重要なところで、抜かしてはいけない。
どうしても、「私は自由にやりたい」が一番に出てきて、
「ほかのみんなだって自由にやりたいんだ」ということが忘れられがちになる。
自由に生きていくためには、調整が必要なのだよ。
それが世の中の難しいところであるが、それさえ達成できてしまえば、生活は非常に楽しく、素敵なものとなっていくはず。
そして僕もその一員となりたいのです。
2010/12/25 家族と食事会
23日は朗読会と無銘喫茶、24日は仕事しつつ本屋巡りしてセルフクリスマスプレゼント買いまくりつつウーチャカ大放送、25日は石神井公園行って夜は家族と食事会や! ドヤ!
家族が家族のようになっていくのってなんかいいね。
二人は今日もガリレオの夜。だけど、わいは月や!
月やから君らに照らされて光るんやで。
ピッカピカやで。君らは燦々や。
幸せであれと祈るよ。彼はおすすめ物件だから。
たったの一口飲めばホッとしちゃう、チャウダーのように暖かい。
大事なのはそういうことでしょう。
BGM:三重野瞳『ガリレオの夜』、五條真由美『木枯らしのDing Dong』
ご静聴ありがとうございました 2010/12/25 1:30
ようやく安定しました。23:45~から本放送しますー。
第六十数回ウーチャカ大放送 クリスマス直前奇跡の第復活SP 本放送は22:30~。それまでは適当にクリスマスソングを中心に垂れ流しておきます。
http://std1.ladio.net:8090/uchaka.m3u
これを右クリック保存してなんか適当なプレーヤー(Winamp推奨)で再生!
環境によっては左クリック一発でいけますが。
適当にやります。25時でいったんおわり。今回は総集編的にやりましょうかね。
チャット(★)で感想とか言ってくださればと思いますう
12月24日、ジャッキーさんによる懐かしのネットラジオ「ウーチャカ大放送」を復活させます。マシントラブルによってずっと休んでいたのですが、どうにかしてやります。ラジオが無理ならユーストリームでやります。ゲストは調整中だけど、折角だから一人でやろうかな。またケーキとか作ろうかな。コンテンツは考え中です。たぶん夜中の22時くらいからやります。当日の夜にここを見に来てくだされば、アドレスなど書いてあると思いますー。
ハイパー・トニック・セツノーナル
のイベント(朗読会)を12月23日(祝)に行います。「投票」にご協力ください。
2010/12/20 疑問や質問の穴2
「なんで?」ということについて昨日書いたが、補足。
「なんで?」と、「なんでなんだろうね」というのとでは、ちょっと違う。「なんで?」が一方的な投げかけだとしたら、「なんでなんだろうね」は、「一緒に考えましょう」という意味合いを含むから、こっちのほうが楽しい。
以前「ニートさん」という友達と干支について話した時があったが、中心議題は「なんで干支が甲子なのに元号の変わってない年があるんだろうね」だった。とても楽しかった。僕らは甲子生まれなので甲子には敏感なのである。
自動販売機にお金を入れてジュースを買うように、質問を投げかけて答えをもらう、ということは機械的で、事務的で、楽しくない。
ジュースを飲みたいなら誰かと一緒に作ったほうが楽しいし生産的だ。もちろん一人で作ったっていい。誰かに作らせようなんていう手抜きは、しないほうがいい。何より失礼だ。
2010/12/19 疑問や質問の穴
なんにでも疑問を持つのは悪いことではない。
むしろ良いことかもしれない。
どんどん疑問を抱いてくれたまえ。
しかし、「わからない」ことを、ただ「なんで?」と尋ねることにいかばかりの意味があるかと言ったら、それこそ疑問である。
「わからない」ことがあるとする。
「なんで?」と誰かに尋ねる。
尋ねられた誰かは、何かを答える。
尋ねられた方は、ふーんと思って、参考にしたり、しなかったりする。
僕はそういうのにはあんまり縁がない。
「なんで?」っていうのは、あんまり良い質問ではないのだ。
そもそも、質問というもの自体が、高級な行為になりづらい。
「なんで?」に的確に答えられる人間というのも、あんまりいない。
僕は聞かれると、頭をひねって、絞りだす。
その答えは相手に響いたり、響かなかったりする。
それだけのことで、別に楽しくもなんともない。
体操にはなるかなというくらいのものだ。
「なんで?」から始まった、偉大なことは数限りないはずだが、それは必ずしも「なんで?」と誰かに尋ねることから始まったとは限らない。
僕はドラえもんが好きだが、「なんでドラえもんが好きなの?」と尋ねられても、まともに答える気にはならない。質問が難しすぎるからだ。もうちょっと違う角度から攻めてきてもらえれば、助かるんだけどな。
そういうのって難しいんだよね。
「わからない」との付き合い方は難しい。
うまく折り合いをつけていかなきゃね。
「どうしたらいいと思う?」という質問も、だいぶ苦しい。だいたいが意味ない。
なので、ちょっと考えてみたほうがいいと僕は思う。
2010/12/18 細野さん
hideの『HURRY GO ROUND』という曲が好き。
なんて良い曲なんだと聴くたび歌うたびに思う
奥井亜紀さんに『ああ、春だ。』という曲があって、
こちらも四季の移り変わりを歌ったもので、
僕は本当に、心から、大好きな曲。
この二曲はなんとなく似ている。
四季が移りゆき、時が過ぎていくということしか歌っていないが
それ以上のことなんて、
それ以外のことなんてこの世の中にはないという
言い方もある。
四季は移りゆき、その繰り返しで時は過ぎていく
その中で僕たちは春という季節に何を思うのか、という。
この二曲を聴いたら
一つでも思うことは増えるだろう。
僕のこの気持ちを誰かにわかってもらいたいものだ。
と、最近は時間がないので
そのように感傷的なだけのことしか書けない。
2010/12/17 戦え
わかってっかどーかわかんねーのにわかったよーなこと知ったかぶって
駄目な大人ですねえ。
羽根だけ見て、あれは鳩だと決めつけてしまうのは
仕方がないのかもしれないんだけどもさ。
「黒いからカラスだ」というのはちょっと違うんじゃないかとね。
それにしても自分以外の人の思惑で自分の人生が決定されていくというのは恐ろしいものですね。僕の人生をどうやら決定しそうなのは僕自身の中にある様々な問題らしくって、ひとまず他人の意志というのは関係がなさそうなんですけれども。
理屈のわからない人には、理屈の質がすべて同じように見えるらしい。
量でしかわからない人ってのがいる。
質ってもんをわかんない人がいる。
あとは、色とか。形とか。そういったものを自分勝手に判断しては、決めつけている。黒いからカラス、というように。
質を問題にする人と量を問題にする人が
通じ合うのは難しい。
すべてを自分の見たいように見ようとする人は
真実を求めたがる人を嘘吐きと糾弾する
常に対立する。
誰かの思惑によって動かざるを得なくて
いつでも泣いているような人は
結局自分を強くするしかないのです。
鎖を引きちぎって動きたいほうへ動くのです。
戦え
2010/12/16 赤と黒
10年後どころか3年後が怖い。僕は僕でなくなっている気がする。新しい僕になんてなりたくないのに。でも仕方ない、そういうのは運命と言ってもう決まっている。受け入れるか、悪あがきするか。まだ決めかねている。どうしようかな。どうしよう。
偏差値55以下の大学なんてすべて潰して、専門学校にしてしまえばいいのである。
しかし専門学校というのは「優等生」と「落ちこぼれ」がはっきりしている。落ちこぼれたらその専門学校にいる意味はないのだから、どんどんやめていく。落ちこぼれなかった人たちは結構みんな優秀である。大学というのは「落ちこぼれ」を許さないシステムなのかもしれないとちょっと思った。民主主義のダメなところか。
どんどん僕の色に染まっていけばいいのだ。
僕は僕の好きなものでできていて、当然僕は僕が大好きなのだから。
たくさん目がぴくぴくする。
2010/12/15 マグナ・カルタ
ネパール人の方が4人か5人くらいでやってるお気に入りのカレー屋さんに、夕ご飯を買いに行った。一日中、カレー・ナン・サラダのセットが500円で持ち帰れるのだ。
奥行きのある店内の、手前のところに楽器がたくさん置いてある。ギター、ベース、ドラム、キーボードと揃っている。
店に入ると、ピアノの音が聞こえてきた。
僕は注文を告げると、奥の席に座ってじっくりと聴く。
一曲終わる度に、歓声と拍手。
忘年会が行われているらしく、40代から50代くらいのおじさん・おばさんが10人くらい、カレーを食べ、お酒を飲んでいる。
ピアノを弾いているのは、その一派の人らしい。
50歳前後の男の人。
僕は、お店の人がサービスしてくれた冷たいチャイをストローで飲んだ。
照れくさそうに立ちあがり、忘年会の輪に軽く礼をするピアノの人。
「一人でやるのはきついですねえ、どなたかセッションしませんか」
と言いながら、今度はギターを手にする彼。
「25年前にやってただけなんですけどねー」と言いながら、緊張した面持ちでドラムセットの前に座るおじさん。
セッションが始まった。
最初はぎこちなかった音が、だんだんリズムに乗ってくる。
酔っぱらったおじさんとおばさんが、席から立ちあがって、チーク・ダンスを踊り始めた。
カレーを受け取り、会計を済ませて外に出るとき、拍手と笑顔を送ってみた。
ギターの人は夢中になっていた気づかなかった。ドラムの人が、満面の笑みで会釈をしてくれた。
2010/12/14 また同じこと言いますけどね
子供って、いっぺんはまり込んじゃえば夢中になるんですよ。だからハリー・ポッターは大ベストセラーになったわけですよ。ポケモンだってなんだってそうでねえ。そこにつけ込んで商売すんのが大人ってもんで。
ハリー・ポッター。僕ももうちょっと下の世代だったら危なかったか? 日本版が出たとき、僕はもう中学3年生くらいだったので、読まなかったし、今でも一冊も読んでいないんだけど。
高校生の女の子に『あまいぞ! 男吾』を読ませたら、「ハリー・ポッターなんか読んでる場合じゃなかったよ!」というような感想が飛んできて、非常に嬉しかったという話。
そうなのだよ。小学生とか、あるいはそれ以前の年代で、『あまいぞ! 男吾』みたいなのを読むべきなんですよ。
僕はハリー・ポッターに関して、「きっと面白いんだろう」と思いながら、しかし「面白い」以外の感想が僕のところにはどこからも聞こえて来ないから、「別に読まなくてもいいか」と思っていた。
「面白い」なんていうのを、僕はあんまり重要視しない。どうでもいい。「面白い」からといって「良い」とは限らないが、「良い」作品は必ず「面白い」と、僕は信じている。
というか、「良いものは、面白いと感じる“べき”」なのだ。
なんて言うと、物わかりの良さそうな人が、
「良い悪いを客観的に決めることはできない。人それぞれ異なるものだ」
とかなんとか言う。やだやだ。
また同じこと言いますけどね。
理想を持たないで漫然と生きてちゃ、だめ。
良いとか正しいとか、常に考えるべき。
「自分にとって」ではなく、「みんなにとって」。
で、僕は『あまいぞ! 男吾』を「正しい!」と思う。
人と人との関係の、理想の形が描かれている。
これを僕は、みんなに押しつけたい。
ハリー・ポッターくらい読まれればいいと思うのだが、どうやらそういうことにはならない。
どういう理由でハリー・ポッターが売れたのかはよくわからないが、子供が楽しんで読んだからというのは間違いない。
子供が「読みたい」と言うから与えた。
それは「ポケモンやりたい」と言うから与えるというのと同じだし、「まんじゅう食いたい」と言うから与えるのと同じことだ。
その結果、ハリー・ポッターが売れ、ポケモンが売れ、まんじゅうが売れ、大人たちは金が儲かり、子供たちは欲望を充足させる。
それを「よし」とするのが、現代社会ってやつ。
理想なんてないんだ。「なすにまかせよ」。それだけ。
残念ながら、『あまいぞ! 男吾』は、「読みたい」と思う人が少ないらしい。一度だけ復刻されたが、それもすぐに絶版。
僕が世の中を嫌いな原因って、もうホント全部これなんだよね。
世の中全体が、『あまいぞ! 男吾』を消そうとしてる。誰も「読みたい」と言わないし、「読ませたい」とも言わない。ここがどうも、狂ってる。僕はささやかながら定期的に、こうして『男吾』のすばらしさを語ったり、友人や教え子に貸し出したりしているわけだが、そういう人が少なくともあと5万人くらいはいたって、いいんでないかね?
小学館の人も、「『男吾』を復刊させよう!」となんで言わないんだろうねー。「大きなキャンペーンを打って、たくさん売ろう!」とか、そういう発想にも、なんないもんかねー。
売れるあてがないもんな。
コロコロ連載時でも『男吾』は全然人気なかったらしいし。
みんなミニ四駆のほうが好きだもんね。
仕方ないよな。
この「仕方ない」が、もう本当に悲しいですよ。絶望。
やっぱり僕のほうが狂ってるんでしょうかね。
ハリー・ポッターを読んだことがなく、ポケモンもやったことがなく、ワンピースも最初の数巻しか読んでいないような僕は、たぶんおかしいのです。
そんな僕は何を言ったって、やったって意味がなく、せいぜいごくごく少数の、奇跡的に近い感性を持った人たちと静かに仲良くしていくしかないのであることよ。
なんていうのは別に本音ではなく、世の中を少しでも『男吾』寄りにしていくのがまあ、目標ではあります。死にたいけど。
2010/12/12 コアにあるのは子供の頃の正しいこと
うう、うう。三重野瞳『Wonderful Bravo!』です。
岩泉舞先生の唯一の単行本である、『七つの海』という短編集を読んだ。92年にジャンプコミックスで出たものだ。
何年ぶりに読んだかわからないが、二十年くらい前に出会って、もう十回や二十回は読み返しているかもしれない。とても大好きな本だ。
それでやっぱり当時と同じくらい、いや、それ以上に、心打たれた。
子供の頃から何も変わっていないのだなと改めて思う。
それから、僕のずっと抱いているテーマや問題意識というのが、実は『七つの海』の随所に散りばめられていたということもわかった。
『ふろん』という彼女の初投稿作は、頭を切られたカエルのように、脊髄反射のみで生きている子供たちを描いたものだった。
僕はいま毎日そういうことばかり考えて生きているのだが、原点はここにあったのかもしれない。もちろん、原点の一つ、だけれども。
最近じゃ古本屋でも見なくなってしまったけど、こういう作品こそ長く長く読み継がれて行ってほしいものだ。
【途中経過】
以下の作品に、今のところ票が入っております。リンク先を参考にして、投票してください。個人的には2003~2004年に名作が多いと思っているのですが、その辺からはほとんどノミネートされておりません。なぜだ! ちなみに〆切りは23日、イベントが終わるまでです。
投票所
がいっぱいになったので、新しい詩に投票したい方は
予備
をご利用ください。
セマンティック意味論
さ聞新
ただセックスがしたいという欲望の中で
つまづけ!ガチガチのビニールテープ
ふたりの証拠
アイラブユー
ハッピーエンド
俺の嫌いな事を恋人はするな
ゆうれいと包丁
コンプリートな詩
ゴキブリ如く
ジャイアント馬場とチワワ(オス・三ヶ月)のアナルセックス
フィナーレ
プリキュア
違う
完成
間隙
教えあう
嫌い
虎のヒゲ
指
死ぬ
全てが美しい
太陽の塔
必要と恋愛
分裂とは
平城宮跡のように
夜の監視
幽霊船
恋はくだらない
由比
モザイクなしで見る日本の歴史
2010/12/09 友達と仕事なんかするもんじゃないって言うけど
友達でいられないような仕事の仕方をするからでしょ?
働き方次第だよ。
友達と遊ぶのって楽しいんだけど、仕事をするのって楽しくないし、楽しいとしても友達と遊ぶのとは違う楽しさでしょう、普通は。だから友達と仕事をするとよくないんだ。友達が友達じゃなくなってしまう。
でもねえ、それは仕事をマジメにやってるからそうなってしまうのだよ。テキトーにやればいいんだよ。わりかしフマジメに。そうすれば友達と、友達のまんま仕事ができると思うよ。遊んじゃえばいいんだよ。
「遊びの余地がない仕事」を友達とやるなんてのは、ぞっとする。そんなもんはダメだ。でも「遊びの余地がある仕事」であれば、むしろ友達とこそやるべきだろう。
実際、僕は今友達と毎日働いている。友達は十五くらい年上で、しかも社長。つまり上司。でも僕はいまだに「友達」という認識しか持っていない。毎日どうでもいいことを言って笑いまくっている。良い職場だ。
友達と友達であり続けることができる仕事というのは、非常に楽しい。人間が機械ではなく、人間でいられるということだ。「申し訳ございません」というバリヤの必要がない仕事。素晴らしい。
そんな仕事はほとんどないが、学校の先生というのはちょっぴりそういうところがあるかもしれない。遊びの余地のある授業をする先生は、生徒と友達でいられる場合が多い。生徒と人間として付き合っていける先生が、僕は良い先生だと思っている。
2010/12/08 大麻
大麻と鬱病
大麻と統合失調症
大麻とサーファー
大麻とセックス
湘南の海の家が大麻をはじめとするドラッグ濫用の温床となっていると夜回り先生が言っていた。そこではもちろんセックスも行われている。
僕の友達はインドで大麻を覚えて、日本に帰ってきてから煙草を吸うようになった。
大麻が恐ろしいのは「人体への影響」ではない。
よく言われるように、大麻そのものの依存性は低いようだし、煙草ほど健康を害するというわけでもないらしい。
問題は、大麻から派生する諸々。
例えばセックスとか。
非行とか。
「大麻が手に入らないので、とりあえず煙草を吸おう」と煙草を吸い始めたら、煙草の強い依存性に飲み込まれてしまうとか。
大麻じゃ足りなくなって、ケミカルに走るとか。
大麻持ってる人から「セックスしようぜ」と言われて、軽い気持ちでやってみたら、すっごい良くて、そこからいわゆる「キメセク」にはまってしまうケースだってある。
まあ、その人がダメになっていくというだけなら別にいい。そいつが死ねば済む話だ。肉体的に、精神的に、社会的に、死んでいけばいい。
だけど、その人がダメになっていくことで、困る人がいる。悲しむ人がいる。迷惑を被る人がいる。イヤな気分になる人がいる。
そういうのが見えなくなってしまったら、人間としておしまいだ。
子供を大切にしない親が大嫌い。
子供を愛するためには、愛するということをちゃんと知らなくてはならなくて、そのための練習として人間は恋愛をするのだと思うのだが、恋愛もろくにできない人間が子供だけ産んでしまったら、歪んだ愛情しか向けられなくなる。思いこみだけの恋愛しかしたことのない人は、思いこみの愛情を子供に向けてしまう。「あたしはあなたのためを思って言ってるのよ」なんていう、自分勝手な言葉を子供に向けてしまうような親は、だいたいこれだ。愛を知らない。
別に大麻ってのは比喩でしかないのかもしれない。
でも、軽い気持ちで手を出すべきでないのは大麻だけではないのだ。
恋愛は麻薬みたいなもんだってよく言うように。
「それ自体」には害はなくても、そこから害が派生してしまうことだってある。
その「派生」を見通す想像力のない人間が、他人を傷つける。子供をダメにする。可哀想だ、あまりにも。
ああ、この文章がどこかに届けばいいのだが。
2010/12/07 文章と責任
最近他人の文章をたくさん見ている。仕事で、私生活で、また同人誌などで。そうするとやはり文章には上手・下手があるというのが非常によくわかる。内容がどうこうではなく、読みやすさとか、伝え方とか、あるいはもっと原始的に、文法的な妥当さといったところに。
プロ・アマを問わず、大量に他人の文章を読んでみて思ったのは、「文章を上手に書ける人というのは少ない」ということと、「しかし文章というものは誰にでも書けると思われている」ということ。「自分にはまったく書けない」と自覚している人だってもちろんたくさんいるけれども、そういう人は「大学出てる人はみんな文章が書けるんだろうな」とか「文系の人はみんな文章が書けるんだろうな」とか「大人はみんな文章が書けるんだろうな」とか「ライターってのはみんな文章が上手いんだろうな」とか思っていたりするのではないかと思う。だが、そんなわけはない。
「自分は書ける」と錯覚している「書けない人」も非常に多い。それが「ライターってのはみんな文章が上手いんだろうな」が間違っているという所以である。下手くそなのにライターをやりたがる(やっている!)人はとても多い。
文章とか言葉というのは大切なもので、歴然と上手い下手があるものなんだけれども、意外なことにかなり軽視されている。「日本語文章能力検定」というのが最近まで存在したらしいが、消滅してしまった。それに英検や漢検、いや数検と比べてさえマイナーなものだ。
僕は、みんなが文章を書けるようになればそれにこしたことはないと思うんだけど、現実的にそれは難しい。軽視されているから、教育でもまともに扱われない。僕が勤めていた中学校には「作文の時間」というのがあって、年に4本ほど1000字前後の作文を書く。しかし何の指導もないまま「さあ、自由に書きなさい」と言うだけの授業なので、生徒の文章力が向上するわけがない。上手い人だけが楽しんで、上手くない人は苦しんでいる。あんなに不公平な教育があって良いわけがない。体育の授業のようなものだ。できない人に「さあ、やりなさい」だけを言っても楽しくなくなるだけなのに。
なんで文章が軽視されるのかというと、それは断然「難しいから」だろう。そもそもマニュアル化するのが難しいし、マニュアル化してしまうと「自分らしい文章」というものを書けなくさせてしまう恐れもある。そこをどうにかバランスを取りつつ、文法的な妥当性だとか、わかりやすさ・読みやすさといったところだけでもちゃんと教えてあげるべきだと思うんだけどな。内容には口を挟まないで。感想だけはちゃんと言ってあげて。
結局、先生たちが無能で、面倒くさがりだっていうことに尽きる。ここで言う「先生たち」っていうのは、現場の先生だけじゃなくって、相当偉い人たちも含む。彼らは文章が書けないし、文章を大切だとも思っていないので、そういう発想にならない。文章を大切だと思っていたら学習指導要領(文科省が出している、この教科はこういうふうに教えましょうね、というありがたい文章)だってもうちょっと読みやすく・わかりやすくなっているだろう。「こんなんじゃダメだ! わかりにくい!」って、なんで偉い人が言わないんだろう? 無能だからだよね。あるいは、やる気がないから。「学習指導要領とは、こういうものだ」という思いこみがあるから。くだらん。ああいう文章って、「文法さえ間違っていなければ伝わらなくてもいい」という態度で書かれているとしか思えない。
《直角三角形における三角比の意味,それを鈍角まで拡張する意義及び図形の計量の基本的な性質について理解し,角の大きさなどを用いた計量の考えの有用性を認識するとともに,それらを具体的な事象の考察に活用できるようにする。》
「直角三角形における三角比の意味、それを鈍角まで拡張する意義」ってなんだろう。「角の大きさなどを用いた計量の考えの有用性」を「具体的な事象の考察に活用」する例というのが、僕は一つも思い浮かばない。というか、そもそもよく意味がわからない。数学の先生ならわかるんだろうか。数学の先生にはわかっても、結局は生徒に理解させなければ意味がないのだけど。こういうことを答えられる高校生なんて1%もいない。
「学習指導要領には、わかりにくく、当たり障りのない書き方をしておくから、あとは現場の先生、勝手によろしく」という声が聞こえてきそうだ。
そういうことを思ってわざと書いてるんだったらまだ救いはあるけれども、大まじめに「これでよし」と言ってるんだとしたら、あまりにも文章をなめている。
「数学的な見方や考え方のよさを認識できるようにする」なんてことも高校数学の学習指導要領には書いていたりするのだが、これに関する詳しい説明は一切ない。「あとは、よろしく」といったところだ。なめてんなあ、いろいろと。
現場の先生ってのはそんなに優秀じゃないし、数学の先生は文章なんか読めないんだから(!)、こんな文章で伝わるわけがない。
「数学的な考え方を育てる」ということを言う数学の先生はたくさんいたが、「数学的な考え方とは何か」を教えてくれた先生は一人もいなかったように思う。学習指導要領は現場の先生に丸投げをして、現場の先生はそれを生徒に丸投げしている。
下手くそな文章というのは、常に無責任がつきまとう。下手くそな文章というのは僕に言わせれば「伝えようという意志」がない文章のことだ。そういう文章は実際、伝わらないし、誤った伝わり方をしたりする。
ちなみに僕はあえて誤解を恐れない書き方をしてしまうことは多いが、それもだいたいは「誤解は織り込み済み」という態度でやっている。「誤解する人は誤解すればいい、伝えたい人にはちゃんと伝わるから」という信念によって。まあこれは余談。
学習指導要領には「伝えようという意志」がなく、ゆえに下手くそな文章だと僕は思う。だから伝わらない。すなわち無責任なものとなって、「丸投げ」という状態になる。まったく。
文章というのは、誰かに読まれた瞬間に責任が発生するもので、だからきっちり書かなくてはならない。きっちり書かないと、無責任ということになる。気をつけましょう。
2010/12/06 ふたりの証拠
あの姉妹のためなら別に僕はどうなってもいい
ふたりの証拠
それだけをたよりに
2010/12/05 後輩の車
第十一回文学フリマに参加。本をたくさん運ばなければならなかったので、後輩に頼んで車を出してもらった。
彼には一日中手伝ってもらって、本当に、こんなところに何かを書くだけでは足りないけれどもとにかく感謝。ありがとう。持つべきものは何とやらだ。
彼は2年ほど前から、せいぜい駅ひとつぶんくらいしか離れていないところに住んでいる。いつでも会おうと思えば会えるはずなのだが、あんまり会っていなかった。なんかまあ、そういう人って割といるよね。たぶん。
ところがここんところ立て続けに二度会った。それで何だか何かが変わり始めているのを僕は感じている。
などと当人である僕が書いてしまうと妙な緊張感があるのだが、まあいい。どうも先日と今日とで、彼の僕に対する接し方、話し方が断然変わってきているのだ。もう一歩でスーパーサイヤ人、みたいな感じ。変なたとえだけど。“精神と時の部屋”で悟空と悟飯が修行してるときに、悟飯がスーパーサイヤ人になろうと頑張るんだけど、やっと髪の毛がフワッと持ち上がるだけで変身はできない。その、「髪の毛がフワッとなってる」みたいな感じが、ある。わけがわからんようだが、なんかそういうのを思い出した。
思えば彼との初デートは高校生の時で、ドラえもんの映画を一緒に観に行ったのだ。その時は僕がなんか一方的に喋るような感じになってしまって、けっこう落ちこんだ覚えがある。そのあとで彼のHPを見たら、「あんまりうまく喋れなかった」みたいなことが書いてあって、「嫌われてるわけじゃないのだな」と安心し。それから何年も経って、少しずつ少しずつ距離が詰まってはきていたと思うのだが、まだまだ全然「髪の毛がフワッ」どころじゃなかった。もちろん彼だけの問題ではないのだが。
なんだかねえ。やっぱりタイミングっていうのは大いにあるなあ。
帰り道、彼の車の中で文章というものについて話していたのだが、彼なりに色々と考えていて、それがことごとく正解であるように思えたので、感心した。実際、彼の文章はこの何年かで目覚ましい進歩がある。余談だが歌の上手さも初めて聞いた頃に比べるとまるで赤ん坊と兵隊だ。
そこで僕は、ここ何年かで仲良くなった何人かの友達について考えた。彼らとの関係の在り方もいつか、クリッと音を立てて変わることがあるのかもわからん。髪の毛がフワッとなって、そのままスーパーサイヤ人になるようなこともあるのだろうな。いま本当に心の友だと言えるような人を思い浮かべると、みんな少しずつ少しずつうち解けて、心を許しあっていったのだった。それも、何年もかけて。
そういうわけなので、そういうわけです。
人間は成長するのだ。人格は変わるわけがないから。
2010/12/04 後輩の結婚式(二次会)
ちょうど五ヶ月前
に書いた、後輩の結婚式の二次会に行ってきた。あまりにも時間がなくて、なんとこの僕が新幹線に乗って名古屋まで行って、夜行バスで帰ってきた。着替える暇もなかったので、そのままカジュアルな格好をしていったのだが、これからも二次会ごときにスーツなんか着ていきたくないや。
後輩からは「人生を変えたお二人に来ていただけて、本当に嬉しいです」と言われた。お二人というのは、僕と、僕の同級生で彼にとっては同じく部活の先輩にあたる人間である。
「あー、やっぱり人生を変えられたという自覚はあったんだな!」と、なんだか嬉しくなってしまった。僕らがともに過ごした、あの二年間は無駄ではなかった。
ところが面白かったのは、式で使われたという「生い立ちビデオ」に、高校のころのことがほとんど触れられていなかったこと。彼が得意としていたヨーヨーのことも、演劇部のことも、トーチトワリングのことも出てこなかった。そのビデオだけでなく、二次会の最初から最後まで高校生活についてはまったく触れられなかった。ほとんど黒歴史になっているらしい。ちょっと笑えた。
でも、そんなことはネタにはなっても悪い気にはならない。新婦と知り合ったのは大学のころなんだから、高校のころのことなんてどうでもよいのだ。僕個人としては「人生を変えた」という言葉を聞けただけで十分である。僕が彼に対して抱いている愛情と、たぶん同質のものを彼も抱いているということだから。
本当に、なんというのか、いま彼のことを思うと無条件で涙が出てきてしまう。立派に育ってよかった。うんうん。僕は彼のことが好きだよ。このまま幸せでいてくれい。
というふうにラブコールしているのをきっと彼は知らないと思うので、誰か教えてあげてください。自分では言えん!
寝ないとまずい。明日の仕事とかたぶん辛いんだけど、書かないでおくのは勿体ないのである程度書く。
2010/12/03 Bの習性
Aは男
BはAを好きな女
CはAの友人
という構図の時にBがAの悪口を言いまくる心理。
あたいだけが知っているこの人のダメなところ的な。
「うちのヤドロクが……」的な。
のろけの裏返しなのか。
なんらかのプレッシャーなのか。
外堀を埋めようとしているのか。
アメリカの陰謀か。
ただの煙幕か。
2010/12/02 たんじょうびおめでとう
メロンパンケーキ作ったよ!
2010/12/01 お誕生日おめでとうございます。
F先生とW先輩が生まれてきたこの日を例年通り祝福します。
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