少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2010/11/30 俺たちを今も突き動かす夢

 夢と職業ってもんが一緒くたにされてしまっている現状は、もちろんあると思う。「お嫁さん」っていうのも職業だし。
 そうすると人間は「職業」というものを基準にしか生きられなくなりませんか。そのくらい夢っていうもんは素晴らしいもんだと思うよ。
 夢と職業が同じものならば、職業って素晴らしい、ってなる。
 夢って素晴らしいもんなんでね。
 僕は労働も職業も、それだけで美しいとは決して思わない。
 やはり内実が問題で、職業に貴賤はある。
 職業に貴賎がないのだったら、世の中には正しいとか正しくないとかってことがほとんど存在しないということにならんかと。

 夢という言葉をあんまり小さく見積もったり、刈り込んだりしてほしくないなあと思う。たとえば僕は詩を書いているとすぐに夢という言葉が浮かぶ。わりと好きな言葉なのだと思う。しかしちょっくら汚れすぎている。

 夢→職業→金
 みたいなのは、当然のようにあるわけです。
 夢っていうのは、金になる。
 わけですね。これは「ドラえもんは金になる」というのと、同じくらい悲しい言葉でありますことよ。でも残念ながらそうなんですねえ。
 今仕事で、教育に関する文章をたくさん読んでいるんだけれども、そこで頻出なのはやっぱり「夢」。笑えるくらいに。
 大学・短大や専門学校の広告には「あなたの夢を叶えます」的なのがごろごろしている。
 夢が職業と同じことだということにしておけば、たやすく夢が金になる。
 金は夢をくれないんですけどね。

 山本正之先生のお作りになった『どびびぃ~んセレナーデ』という、タイムボカンシリーズ イタダキマンの曲があるんですけど、そこでも「金のある奴ぁ夢がない 顔のいい奴ぁ根性がない」と歌われております。まさにその通りです。
 僕はホトトギスを鳴かし、ヤンバルクイナを飛ばせたい。
 それがまあ、金のない僕の夢です。

2010/11/29 コンパイル

 もう40時間近く、昨日の朝7時から一切の間断なく作業をしていた。やっと日記が書けるくらいには落ち着いた。
 新刊『ノンポリ少太陽』は、どうにか入稿にこぎ着けました。
 いろいろな方々に原稿を書いてもらったり、手伝ってもらったりしましたけれども、今回のMVPはもうなんと言っても10年の付き合いになるGさんですね。いやほんと、彼は仏ですね。イムですわ。そういえば昔は「半角カナは機種依存文字だから使うな」なんてことが言われていましたが、最近はどうなんでしょ。
 いや、後輩に作ってもらった原稿が手元のパソコンで開けなくて、どうしようこのままじゃ本が出せないと思っていたところで「こまったこまった、こまった時の、占いババ」的な感じで、「困った時には、友頼みでしょ?」(美墨なぎさ&雪城ほのか『ありったけの笑顔で』より)的な感じで、Gさんに電話して助けてもらったのですよ。仕事中、しかも昼飯前に、本当に有り難かったです。
 どうしようと電話→じゃあスカイプでファイルの受け渡しすっか→ID教えてー みたいな感じで、未来です。
 そういえば高校入って最初に仲良くなったのはGさんだったか。インターネットやりまくってるやつってのは当時そんなにいなかったから。HP作ってるやつとか。個人的G世界。
 まあそのへんの話をすると恥ずかしいからやめよう。

 それにしても『ノンポリ少太陽』は僕の全精力を結集させて作った本なのできっとおもしろいですよ。発売日は12月23日ですが、5日には第十一回文学フリマにて先行発売します。
 ノンポリ天皇ブログでも更新してこよう。

2010/11/26 ドンモ

 どうも、ドンモです。
 また一つ弾けて飛びました。
 僕の生きがいは毎月アフタヌーンで『友達100人できるかな』と『謎の彼女X』を読み、「アメゾ・ザ・スクランブル」というコーナーにある田川ミ先生のイラストを見ることでしたが、今月から別の方に変わっていました。
 稲見独楽氏のようにアメゾイラストから連載デビュー、というルートだったら非常に嬉しいのですが。
 田川先生はアフタヌーンで一度新人賞を獲って、それ以降、漫画作品はまだ出ていないので「デビュー前」ということになりますが、デビュー前の作家さんで僕がこれほど期待している人はいないし、これまでもおりませんでした。
 僕は『ドッヂ』『やとのさと』の二作品しか読んでおりませんが、今の時代にこれほど素敵なお話を、これほどしっかりとした技術力で書こうという人はなかなかいません。
 ので、アフタヌーンさんには是非とも、田川先生に連載のチャンスを与えていただきたいと思います。もちろん、田川先生の意思次第なんですけど。

 ところで僕の大好きな自転車漫画第一位は『並木橋通りアオバ自転車店』で、二番目は『弱虫ペダル』です。

2010/11/25 鉄の男ゴンスケ

 どうもゴンスケです。鉄の男なんで今日14時ごろ『女の子のちんちんって、やわらかいと思う』の初稿が書き上がりました。
 初稿なんでまだまだ読みづらいです。特に、漢字を開きすぎてむしろ読みにくくなっているのをどうしようか考え中です。

『おなちん』は、設定だけ考えて物語を書いているので主人公に特別な人格はありません。しかし僕は登場人物に人格のない物語は嫌いなので(『けいおん!』とか)、人格がないわけではありません。「特別な人格」がないのです。まあ、女の子のちんちんとか言ってる時点でまともな人格なわけはないのですが、それはそれで。まあつまりは、個性が薄いのです。
 個性は薄いですが、真剣にちんちんについて考えています。
 真剣にちんちんについて考えている女の子と、その女の子のことを好きな男の子、という設定だけ考えたら、あとは考えることは何もありませんでした。自然に物語ができていきました。よって、これがおもしろかろうがつまらなかろうが僕の知ったことではありません。この設定からはああいう物語しかできないのです(断言)。つまんなかったら、のぞみちゃんと結一くんのせいなのですが、彼らは彼らで幸せに生きていると思うので放っておいてあげましょう。

 9条ちゃんシリーズのようにダイナミックで縦横無尽な感じはなく、ちょっと違ったテイストになっているかもしれませんが、
 ともあれ新作よろしくです。

2010/11/24 亭主を捨てる女なんて

 サランラップがラップ現象でラックから落ちてシャラップ
 基本的に信じてねーもん
 京都 大原 三千院
 恋に疲れた女がひとり

 離れていくことはわかっているのだ
 それはそうだがまあ。うん。
 友達でね。
 来月4日に後輩の結婚式があって
 ちょっとした人に会えそうなので楽しみだ。

2010/11/23 ハッピーエンドとは

 いま、ノンポリ天皇から出す「ノンポリ少太陽」という雑誌の作業をしており、『女の子のちんちんって、やわらかいと思う』(略して『おなちん』)という小説の執筆中であります。
 設定に引っ張られて、どんどんえろえろになってきて困ります。
 それにしても僕が書くものはどんなに無茶苦茶な設定でも絶対に下品にはなりません(僕調べ)し、結局自分が正しいと信じるところに向かっていくので、だいたいがハッピーエンドです。
 僕はたぶんもうハッピーエンドしか書けません。というか、ハッピーエンドでない物語というものが考えられない。
 で、ハッピーエンドとは何か、という話。
 最終的に主人公が死ねばバッドエンドかといえばそういうわけでもなく、死体の脇から花の一本でも生えてくればそれでもうハッピーエンド然としてしまったりするし、「なぜ死んでしまったのか」ということを考えさせらて、その結果読者がハッピーへと向かっていけるような作品であれば、それはもうある種のハッピーエンドなのではないかという、とんでもないことだって思います。

 藤子・F・不二雄先生は『ある日・・・』とか『大予言』とか『間引き』とか『定年退食』とか『クレオパトラだぞ』とか『コロリ転げた木の根っこ』とか『自分会議』とか、夢も希望もないような恐ろしい作品をたくさん描いておられますが、これらはすべて「かくあるべし」として描かれたものではないわけです。
 べらぼうに無茶苦茶なことを言うと、これらはハッピーエンドみたいなもんですよ。僕はこれらの作品を読んで、ものを考えるということを覚え、そしてハッピーへと向かっていく力を蓄えてきたんだから。といっても、明らかに登場人物たちは幸福でないので、「グッドエンド」くらいの言葉にしておきます。

『間引き』という作品は、人口が増えすぎた近未来で、人間の数を調整するために「愛」という概念がなくなっていく、ということを描いた物語ですが、これは別に「人口が増えすぎているのだからガンガン人を殺さなければ」という主張のもとに描かれたものではないわけです、たぶん。
『間引き』を読んで僕は、ある真実を知りました。それは「根拠のない愛はたやすく滅びる」ということ。

 僕はずいぶんと乾いた人間で、親友と言って差し支えないであろう人間から「おまえは本当に心のない人間だな!」と言い放たれても「ああ、そうだよねえ」と思ってしまうくらいに乾いております。F先生もそれくらいに乾いておられたのではないか、と僕は思っています。

 F先生はそもそも、愛というものに対して冷淡です。鳥山明先生なみに冷淡だと思います。特に『間引き』の乾き具合は異常です。「愛」などというものは「人口調整」という名の下に一瞬にして消えてなくなってしまうようなものだというのです。「愛が絶対」ということが叫ばれ、それさえ言っておけば支持を得られるような世の中において、「愛は相対的なもの」と宣言してしまうのですから、乾ききっております。(『気楽に殺ろうよ』『ミノタウロスの皿』なども似たテーマだといえます。)
 僕はとにかく藤子不二雄作品を価値観の芯として生きてきて、二十年間ほとんどぶれていないという人間なので、同じような考えを実は持っています。

『間引き』では、「おなかがすいてしかたがなかった」と語る妻は自分の食べ物を確保するため、老いた夫を青酸カリで毒殺します。なぜこういうことが起きるのかというと、妻が夫に対して抱いていた「愛」というものに、根拠がなかったからです。つまり彼女の愛が思いこみによるものであったからです。
 無根拠な愛、というのはそこかしこにあります。恋愛はほとんどがそうです。片想いなどと言ったら、99.9%以上は思いこみと勘違いでできています。幻想です。恋人関係や夫婦関係、家族関係などは幻想で成り立っているようなものです。この幻想を取り払ってしまったらどうなるか、というのが、『間引き』だと思います。
 F先生はたぶん、こういった幻想を信じていません。「愛というからには、根拠がなくてはいけない」ということを、暗に言っているように僕は感じます。「根拠のない思いこみの愛は、たやすく空腹に負ける」と。
 もちろん、F先生は愛にあふれた素晴らしい人間であり、夫であり、父親だったと僕は思っています。しかしそれは、幻想や空想による思いこみと勘違いの愛でなく、「根拠」というものに立脚した愛であったと、そうあるべきと考えていたのだと、僕は想像します。
 ずいぶんと抽象的な話になってまいりましたが、「根拠」というのはつまり、ただ「好きだ」ではなくて、「○○だから好きだ」というように、ちゃんと理由があるということです。「だから」が重要なのです。「だから」はもちろん、一つや二つではなく、無限に無数にあるはずです。「愛」というのは、たくさんの「だから」を束ねた感情なんだと思います。「三本の矢」の例を待つまでもなく、「だから」が多ければ多いほど、愛は強固になります。
 夫婦の愛というのは二人で育んでいくものですから、お互いの「だから」を「だよね」という形で確認していくことが必要です。それを怠ると、すれ違いが多くなって、最終的には『間引き』のように、殺されたりもします。
『間引き』の悲劇は、愛というものを思いこみに頼っていたから起こったのだと僕は思います。「夫が存在している必要」が、「夫を殺す必要」に負けてしまったから、ああなってしまいました。「夫が存在している必要」が勝てば、「ねえあなた、あたしおなかがすいてしかたがないの」という形で相談だってできたでしょう。そうしたらまた、違った物語になっていたと思います。どのみち悲劇だったのかもしれませんが。
(そういえば、悲劇でもハッピーエンドになりうるというのはアニメ『フランダースの犬』や映画『汚れなき悪戯』とか、キリスト教圏の作品には割とあることなのかもしれません。)

 僕が「おまえは本当に心のない人間だな!」と言われるのは、たとえば僕が失恋から立ち直るのが異様に早いというのがあります。「別れましょう」と言われた瞬間から、情熱がすべて冷めてしまうのです。太宰治の『トカトントン』のようなものです。
 心のない、ただ合理的なだけの僕は、「思いこみ」というものが持続しません。「ああ、これは思いこみだったんだな」とわかったら、すぐにそれを捨てることができます。「別れましょう」と言われるということは、相手が「つきあっているための根拠」をもう何も持っていないということだから、そうなると僕のほうにも「相手とつきあっている根拠」というのがなくなってしまいます。だって、一人だけで「つきあう」ということはできないわけですから。「そうか、これはお互いに思いこみの愛であったか」と、まっさらな気持ちになります。喪失感がないといえば嘘になりますが、それは「ああ、“また”だめだった」というふうに、他の例と並列して語られるようなものでしかありません。
 つきあっているうちは、僕も異様なほど情熱的になりますが、相手が僕を「恋人としては」拒絶するようであれば、こっちだけ恋人としての情熱を注ぐのも無駄なもんですから、やめます。
 一方通行の気持ちだけ心の中に残していたって、何の意味もないのです。向こうにその気がないのなら、こっちもその気もなくして、友達としてつきあっていったほうがうまくいきます。友達としてつきあってたら、「もっぺんつきあってみようか」みたいな話にもなるかもしれませんが、そうしたらまた情熱を取り戻せばいいのです。なんという合理的な人でしょうか。心のかけらもありません。
 根拠のない愛、すなわち思いこみや勘違いというのは、人間的な感情だと僕は思います。ゆえに、僕はあまり人間的ではないような気がします。

 F先生の作品、ことに『間引き』には、「愛とは何か」ということが実は隠されていると思います。そしてF先生の考える愛というものが、僕は好きだし、正しいと思います。『間引き』は悲劇でしかありませんが、正しいメッセージを含んでいます。あのラストシーンは、「あるべきハッピーエンドの裏返し」です。あるいは「ハッピーエンドに至るためのヒント」であり、「反例」です。
 だからといってそれを「ハッピーエンドだ」と言い切るのはさすがに乱暴というか、変なので、「グッドエンド」とでも言うしかないのですが、僕はF先生の作品はすべて「本当のハッピー」につながっていると思いますので、カッコにカッコを重ねて「『“ハッピーエンド”』」くらいには表現させていただきたいものです。

 反対に、最終的にすべてがうまくいっているように見えればハッピーエンドなのかというと、それも違うような気がします。ちょっと前に見た『カラフル』という映画は、「人間にはダメな部分だってある。すべて受け入れよう」みたいなのがテーマのようで、最終的には「いろいろあったけど、とりあえず丸く収まったような気がする。うん、これでいいや。僕はハッピーだ」みたいな感じで終わります。僕にはバッドエンドにしか見えませんでした。
 根本的な解決が何もないからです。「とりあえず問題が見えなくなった」というだけの話です。
「人間のダメな部分を、ダメなまま受け入れる」というのは、一見すてきなことのように思えますが、売春をする中学生の女の子に「そのままでいいんだよ」と言うことはいけません。ダメなもんはダメなんです。しないならしないにこしたことはありません。
 主人公の家族関係は、物語のはじめでは崩壊しておりましたが、おわりのほうでは修復されています。しかしこれは「壊れていた幻想を破棄して、新たな幻想をつくりあげた」だけのことで、つまるところ幻想でしかありません。
 幻想が壊れたら、また新しい幻想を作ろうというのは、ある種現実的で、そのように生きている人だってとても多いと思います。バッドエンドを繰り返して、そのまま人生を終えていくという人が。
「カラフルでいいんです」というせりふが、映画のラストで強調されるわけですが、カラフルであればなんでもいいということではありません。こんなのは、売春や麻薬をやっている青少年に「いいんだよ」と言ってあげてるようなものです。それを言うのなら、「昨日までのことは、いいんだよ」という限定付きでなければいけません。今日からは美しい彩りでいられるように努めなくてはなりません。
『カラフル』は僕に言わせれば、その場しのぎで終わるバッドエンドでした。

 僕の思うハッピーエンドというのは、表面的なハッピーではなく、作品の意味がハッピーに向かっているかどうかというところを問題にします。F先生の作品はすべて「『“ハッピーエンド”』」です。
『女の子のちんちんって、やわらかいと思う』は、まだラストを書いていませんが、たぶんハッピーエンドになります。もしも悲劇に終わっても、ハッピーエンドです。んまあ、今のところ表面的にもハッピーになりそうな気はしますけど。

 今書いているものはとにかく、僕はどんなものでも、上に書いたような意味でのハッピーエンド以外を書くことはないでしょう。
 間違った主張を含んだ、邪悪な作品を、たとえわずかな読者であっても、読んでいただくわけにはいかないのです。小さなことからコツコツと。そういうふうに思いながらものを書いたり、作ったりする人が一万人くらいいたら、だんだんと変わってくるのではなかろうかなあ、と思って、小さく小さくやっております。一万分の一の希望になりたいです。

2016/06/15 『間引き』などの作品を「ハッピーエンド」とするのは流石に無理があるんじゃないか、と今の僕は思いますが、「どうしたらハッピーになるのかを考えるためのバッドエンド」という解釈なら理解できます。確かにF先生の作品にはどこかでそういう含みがあると思います。華倫変先生の作品がどこか優しい、というのと似ています。また、『カラフル』(原恵一監督によるアニメ映画版)についても、当時僕はすこぶる怒っていましたが、今はある程度わからないではありません。そういう程度の救われ方しかないような場合だって幾らでもあると、さらに成熟した僕には認めることができます。とりあえず「これはこれでいい」と認めることから始めるべし、というのは非常に現実的で良いです。主人公には最後、一人の友達ができたのだから、そこを第一歩として、それから各種の問題に立ち向かっていけばいい。そう思うこともできます。ともあれ機会を作ってもう一度観てみたいと思います。

2010/11/22 10年前の文章

 ここ最近、10歳とか9歳とか年下の人間が書く文章を読む機会が割と多い。あるいは、10歳とか9歳とか年下の人間の文章にケチをつけたりすることもある。ので、10年前の自分が書いた文章というのを見てみようと思って、探してみた。ちなみに一昨日(11月20日)の日記は、ちょうど9年前の11月22日の日記を切り貼りしたものである。今日は、10年前の11月21日の日記を貼り付けてみよう。

 以下は、僕が演劇部の講習会(ワークショップ)に行った際のレポート。刈馬カオス(懐かしい!)という人が脚本について語ったことをまとめてある。
 僕は最近、年下の人間に説教したあと、「今、何を言われたのか言ってみて」と言っていじめている。言われたことを、そのまま自分の言葉で再現してみろというわけだ。これが、なかなかできない。けっこうできない。みんなできない。その場で言うことができなければ、「帰ってからまとめて、メールで送れ」と言う。でも、やっぱりできない。やっと送られてきたと思ったら、ちんぷんかんぷんなことが書いてある。10年前(高校一年生)の僕は、少なくとも「言われたことを、そのまんま再現して書く」ということは得意だったようである。僕が求めているのはこういうことなのだ、ということを、最近僕に説教をされた9歳年下の人間は胸に記してもらえるといい。君よりも一つ下だ。


2000.11.21(火) イチローネタが尽きた・・・

演劇の講習会のレポートが完成しました。
こんなのを書かなきゃいけないなんて知らなかった・・・


 講習会のレポート~脚本創作~  JACKY(KOYO DORAMA CLUB)

 ―脚本を書くにあたって―
良い脚本を書くためには、「何が良いか」を考えるのではなく、「何が悪いのか」を考えた方がわかりやすくて良い。つまり、【批評】することである。たとえば劇を見て、あからさまに「コレはウソだ」と思えるものや、「ありがちだろソレは」と思えるものなどを見つけたらメモを取るか自分の頭の中で整理してしまっておくかすると良い。たとえば前者の例としては、劇中で医者が警察へ来るときに白衣を着たままだったりすることだ。これは常に心がけておこう。こういったことは意外と見逃してしまいがちだ。では後者の場合を考えてみよう。高校演劇においてよく見られるのは、①探偵、博士、スパイがやたら出てくる ②やたら死ぬ ③やたら狂うそして笑う などである。こういったありがちな設定をはなから避けるという手もあるが、やはり話の展開上どうしても必要になってくることもある。たとえば②の場合。「死」というのはその話を展開する上でのキーとなってくることが多い。それを削ることは物語の本質を殺してしまうことになりかねない。だからそこで考えるべきことは、“どのように死をもってくるのか”ということである。よく見られる傾向として、“唐突すぎる死”が多いことがある。たとえば、交通事故である。これほど都合のいい死に方はない。交通事故には理由が不要だからである。ただ道を歩かせてさえいれば、簡単に死んでくれる。どんな物語であろうが、どんな展開があろうが、好きなときに死んでくれるのだ。しかし、弱点がある。それはとっても「ありがち」な点である。場合によっては客は冷めてしまう。刈馬カオスさんは確実に冷めてしまうそうだ。同じ唐突な死に方でも、交通事故で死ぬのと空から植木鉢が降ってきて死ぬのとでは受ける印象がだいぶ違う。意外な死に方をすることで客の目を引きつけるという効果もあるのだ。これは客との駆け引きでもある。どんな良い劇でも40分を過ぎると時計を見てしまう。そんなときに面白い出来事が舞台上であれば、客の気持ちを時計からこちらへ戻すことが可能なのだ。そんな駆け引きも考えつつ脚本を創っていくと更に良い。次に③の場合。「やたら狂う」というのは、展開上仕方のないことかも知れない。だがその狂い方に問題があるのだ。高校演劇において狂人は10割が10割、笑うのだ。「ヒャハハハハ」と壊れた笑いをする。刈馬カオスさんはこれまた「またかよ・・・」と冷めてしまうのだそうだ。だからここであえて「笑わない狂人」を出し、客におやっ珍しい狂人だな、と思わせて引きつけるのが良い。他に脚本を書くうえで問題となってくることは、固定観念についてである。前述の医者の話の場合、「白衣を着たまま警察へ行った」というのは、医者=白衣という固定観念からである。魚屋=おじさん、プリン=皿に乗せられたプッチンプリンといったものと同じだ。脚本を書くときには、「これはありがちでないか、固定観念に縛られてはいないか」といったことは十分に留意しておくべきである。『レベルE』という漫画がある。刈馬カオスさんが「これは富樫義博の最高傑作である」と声を大にして主張している作品である。この漫画の中に「宇宙一頭の切れるバカ」と呼ばれるいたずら好きなバカ王子という男が出てくる。とにかく悪巧みなどに関しては右に出る者はいないのである。そのバカ王子がまた悪いことを目論んでいると知った彼の部下がバカ王子につい語ったこんな台詞がある。「ヤツについては常に最悪の事態を想定しよう。そしてヤツは必ず、我々の最悪の予想のちょっと斜め上をゆく!」脚本を書く時、客の予想から少し外れたところの、かつそれよりももっと面白いところで話をつくっていかなければならないのである。これが理想の形だ。

 ―脚本の構成―
CDアルバムを聴くと良い。あれはひとつの独立した作品なのだ。どんな曲に始まってどんな曲に終わるかとか、ヒット曲やバラードの配置などを考えて、盛り上がりをバイオグラフで示すと、どのような構成が人々の肌に合うのかがわかることだろう。最も理想的な構成とは、まず最初に事件が起きて、それについて物語が展開していくことである。恋愛の脚本で、最初に出逢いという事件が起きて、付き合って、喧嘩して・・・という展開を創っていくのである。忠臣蔵にしても、結局目玉は松の廊下であり、その処分に喧嘩両成敗の心得が無いとして怒った大石ら四十七士が討ち入りをするという展開である。脚本もお笑いと同じく、大切なのは一番初めのところ、即ち「つかみ」だ。しかしつかみだけが良ければいいということではなく、ここで客を引きつけておいて、そのままのクオリティを維持させ続けながら引っ張っていくのが大事である。グライダーのような曲線を描いて尻切れトンボになってはいけない。

 ―アイディア―
全てはちょっとした思いつきから始まる。ビー玉が安売りされているのを見て、こんなに安いのなら舞台に使えるな、するとビー玉が出てくる芝居って何かな・・・と場面から出てくることもあれば、公演時期が一月の末だから、バレンタインデーの話かな・・・と季節がらから出てきたり、化学に興味があって、原子とか分子とかを考えているうちに、ふと砂が降ってくるっていうの面白いかなと思って書き始めると、実はこの世を構成している原子とか分子とかってこの砂なんじゃないかな・・・となんでもない考えが発展して設定を創ることもあり、名古屋大谷演劇部って男ばっかだから野郎ばっか出てくる芝居しかできないなどうしようかな。大谷の男はバカだから隣の瑞陵高校の女の子にちょっかい出したりしてる、そうかじゃあ隣が女子部でブスばっかりの中で可愛い子がいてみんなで一目惚れしちゃうってのはどうだろう・・・とかキャストの都合や実際の状況などをモデルにして創ったり、と色々である。ちなみにこれらは全て刈馬カオス氏の様々な戯曲作品の誕生秘話にもなっております。さて、先のバレンタインデーのネタが浮かぶと、大きく小さくいじくりまわしていくのである。バレンタインデーの日、舞台は屋上で、2人の女の子が顔を合わせる。話をしているうちに、どちらも男の子を屋上に呼びだして告ろうとしてたらしい。しかも更に話しているうちに同じ男の子だということもわかってきた。そのうちにどういうわけか2人は屋上に閉じこめられてしまって、寒さに震える。もう耐えられない。そうだ、そういえば甘いものを食べるといいっておばあちゃんが言ってたわ。甘いもの・・・チョコ! チョコがあるじゃない!・・・でもダメよ! これは大好きな男の子にあげるんだから。じゃあ相手のを奪えばいいのよ! ってな風に話が進んでいく。このように上手く話を発展させると、ちょっとした思いつきから素晴らしい作品が生まれるのだ。ちなみにこれは『ガッコウの事情』という作品のメイキングである。

 ―舞台効果―
暗転は3回まで!
4回以上あるとちょっとやばい!
5回あったらその芝居はもうダメだ!
時間は長くて5秒!
高校演劇の場合は暗転といっても少なからず明かりは残っているので、舞台を移動させているのが見えてしまう。暗転は客の想像をかき立てるというが、高校演劇の場合逆効果である。場転をするなら、装置に工夫を凝らしてあっと言わせるような転換方法を考えるなり、ダンスをするなりしたほうが良い。


 ……というのが、10年前のレポート。
 全体の構成は甘い、というか不親切だし、改行がほとんどないから読みにくいのだが、文章自体はそれなりに様になっていると思う。まあ、今書いたら当然もっと上手く書けるんだけど、高校一年生の男の子なら、こんだけ書ければ上出来なんじゃないかと思う。ただ一箇所だけ、妙なところで句点(。)が入っているところがあった。「」を入れたらちゃんと文章になっていたはずなので、そこだけは残念だ。(それでも、一文が長いという欠点は残るが。)
 何よりも注目していただきたいのは、これが「人が話したことを再現したものである」ということ。この日、刈馬カオスさんの話した内容は今でもかなり詳しく覚えているのだが、使われている喩えとかはたぶん、ほぼそのまんま書いているはずだ。そこがすごい。それだけではなく、話の流れにしたって、恣意的にいじくったり入れかえたりしたところがたぶんほとんどない。しゃべった通り、忠実に書いているといったところだ。ただ一箇所、魚屋とプリンのくだり以外は。
 どんなメモの取り方をしていたかは覚えていないが、いくら綿密なメモを取っていたとしてもそれだけではここまで上手くは書けないだろう。レジュメも特に配られなかったように記憶している。相当がんばったんだと思う。


 最近は仕事でも私生活でも他人の文章を読んだり直したりすることがなんだか多い。圧倒的に、文章を書くってことは難しい。難しいから、文章のプロっていうのが存在しているのだなあと、今さらながらわかった。ライターという職業は文章がある限りはなくならないのだろう。ロボが書いてくれるようになったら別だが。

2010/11/21 Dry bones

 デューク・エイセス大好き。
 筑波山麓男声合唱団の動画を見ているとほんわかする。
 55周年記念盤を買おう。
 そしてコンサートにも行こう。

2010/11/20 高校二年生

 お昼休み演劇部部長(=後輩)のクラスに行って、
 本日二つ目のプリンを食べながら説教でも垂れようかと思い話していたが、やめだ。意味無い。


 携帯電話にインターネット。
 そしてアナログなダイアログ。
 僕らは無数のプラグで結ばれている。
 そして同じ情報を得る
 そして同じ音楽を聴く
 そして同じ映像を見る
 そして同じ宝石を手に取り
 おなじ星を美しいと思う。


 ……星が汚くたっていいじゃないか

 星は空を汚している?
 花火は空を汚すよ

 ……だって、星が汚ければ僕は美しいんだ

 憧れてるのね

 ……ああ 好きなんだ 許せない


 僕らは星を見て何を美しいと思うのか。
 信じている自分の心か。
 それとも美しいと思う何かと重ねてみて、
 やはり心への疑いを消すのか。
 全ては心のため、心のままに僕らは星を見る。

 心から言葉は出ない。
 関係ない、別々のものなんだ。
 だからどちらも届かせなければ意味がない。

 星はいつも何千億年前かの言葉で喋るから
 僕はいつも彼の言うことがわからない。
 神話を奏でても愛を魂の中に込められようとしても僕は気付くことなく平穏にただ歩く歩く歩く歩く歩く……
 太古の人が難しいことをひとり星見ながら考えてても
 現在瞬間にここで誰かが同じ星眺めて言葉を聞いても
 瞬きは何も伝えない見えない太古の人に青春があっても
 誰かを見ても自分眺めても現在瞬間に生きてる僕は
 誰かしか見えない自分しか見えない自分でも誰かでもないあの人を
 僕は求めても何処にも行けない行きたい場所も何も見つからないんだい。

 例えば僕が詠うとき詩を詠む時に
 僕が君を愛してると叫んでも僕が君を愛してる必要はあるのか
 例えば誰かが詩を詠む時に必ずや心の中にはあるのか
 君想う歌に君想う気持ち存在しなければ愛の歌なのか
 さぁ……?

2010/11/19 なんで精子がなんども出るか

 ついにわかったのである。
 みなさんご承知のとおり、精子というのは何度も出る。
 はじめにビクンと飛びだしたあとに、ビク、ビクンと続けざまに出る。
 最初に2ミリリットル出て、小休止をはさんで1ミリリットル出て、また小休止をはさんで0.5ミリリットル出て、……という具合に、小分けにして放出されるのが精子なのである。
 なぜ、そのようなしくみになっているのか。

 気づいたのは、コーラのペットボトル(1.5リットル)を、洗い場でゆすいでいた時である。
 まずフタをとり、水を入れる。
 注ぎ口を指でおさえ、シャカシャカと上下に振る。
 それから逆さにして、水を出す。
 このときなのです。
 やってみてごらんなさいな。
 水は一気には出ません。
 ガポ、ガポポと何度か「息つぎ」をするのだ。
 これは洗うときだけでなく、コップに注ぐときも同様。
 精子とは、コーラのようなものなのである。
 振ると破裂する、という点でも近しい。
 僕は『たたかえっ! 憲法9条ちゃん』という作品においてちんちんをコーラのボトルにたとえ、主人公のマモルくんがそれをにぎりながら先っぽを親指で刺激する運動のことを「膨張したコーラのキャップをはずすような」と表現したのだが、やっぱりちんちんというのはペットボトルであり、精子というのはコーラなのである。初代プリキュアのようなものである。白と黒、「真逆のキャラ(カラー)でも相通じてる」、なのである。

 それにしてもどうして、ちんちんとペットボトルがそんなにも近しいのか。これは形状の問題ではない。構造の問題なのだ。

 パック飲料をコップに注ぐとき、ふつうはコポコポしてしまう。しかし注ぎ口と反対のカドに空気の通る穴を作っておくと、コポコポさせずに注ぐことができる。
 パックから液体を出すと、パックは出て行った液体の体積と同じだけの空気を補充しなければならない。ところが「空気のとりこみ口」がほかにないと、唯一の穴である「注ぎ口」から空気を補充しなければならないため、コポコポ言うのである。同じ穴から「出る」と「入る」が同時にされるから、秩序が乱れる。満員電車で、降りる人と乗る人が同時に動いているようなものである。

 ペットボトルには「空気のとりこみ口」がない。ゆえに「息つぎ」が必要になる。同様に、ちんちんにも「空気のとりこみ口」がないのである! だからちんちんも「息つぎ」をせざるをえないのだ! ガハハハ!
 でもおしっこは息つぎしないからこの論は間違っている。

2010/11/18 邪悪なバカ

 10も20も年下の若者に面と向かって説教できないで、第三者に悪口を言うことしかできない大人が、何年か前にいたらしいよ、たくさん。
 僕は僕で、当時20歳そこそこだったけれども、「30過ぎてどうしようもない人間は、本当にどうしようもないな」ということばっかり考えてたけどね。
 真夜中に、もう5年以上の付き合いになる女の子から、「むかしはジャッキーさんの悪口をたくさん聞いた」という旨の、もう何度も何度も聞かされてきた内容を再び言われて、いろいろと思い出した。
 ちょっと傲慢に行かせてもらいますけども、僕ってのはだいたい正しいんですよ。だから、僕のことを好きな人はだいたい正しくて、僕のことを好きじゃない人はだいたい正しくない。邪悪なんです。そしてバカ。
 邪悪なバカからなんて言われたって僕は一向に傷つきませんけれども、「世の中にはこんなに邪悪なバカがたくさんいるのか」というふうに、落ち込みはしますね。あーあ、世の中。
 なんて言ってはいますが、まあ確かに、23歳より以前の僕ってのは、すなわち大学を出るまでの自分は、あんまりよくなかったかもしれない。
 今の僕は、「やっていること」はともかく、「言っていること」はだいたい正しいはずなんだけど、昔はもしかして両方とも間違ってたりしたのかもしれない。そこを批判されるのならば、むしろ「勉強になります。ありがとう」と僕だって言うんだけど、邪悪なバカってのはそれができない。根拠なく、ただ「不快感」のみを頼りに攻撃する。
「不快感」なんていう「そっちの都合」でいちいち罵倒されちゃ、たまったもんじゃないんですけども。

 うん、いいキーワードが出た。
「不快感」なんてのは、「そっちの都合」でしかないんだぞ。
「不快感」を手がかりとして、「なぜ自分はこの相手に対して不快感を持ったのか」をよーく考えなきゃ。で、「自分の都合」を「相手の問題」に変換しなきゃ。
「私は不快に感じた。それはあなたが○○という行動をしたからだ。○○という行動は××という点でよくない。今後は気をつけるべきだと思う」
 ということを、ちゃんと伝えなくてはいけないでしょう。
 じゃなきゃ単なる「悪口」にしかならん。
「死ね」とか、その類と同じ。
 僕はずいぶんといろんな人からそういう、「死ね」の類の言葉を浴びせられてきたらしい。まったく。

 面と向かって何か言ってきたら、僕だって面と向かって返します。でも、僕じゃなくて僕の友達に言われたんじゃ、僕は何も言いようがないもんね。知らなかったもん、当時はそんな。なんか言われてることなんて。
 そんな邪悪でバカな人間が存在するなんて、信じていなかったってくらいに、僕もある意味でピュアだったのかもしれない。

「よくあんなやつと仲良くできるな?」とか
 僕の友達は言われたらしいんだけど、
 邪悪だねえ。

 でもねえ、僕のことを好きな人ってのは、だいたいみんないい人たちばっかりで、邪悪でもなければバカでもないんで、僕の周りは平和です。いなくなるもん、邪悪とバカは。
 寂しいなあ。
 なんで仲良くできないんだろうな。
 誰もが僕と仲良くできる世界ってのは絶対に素敵だと思うんだけど。

 もっと、「自分の都合」ばかり考える人が減ってくれたらいいと切に願います。未来ってもんがあるんだぞ!

 年下の若者がダメに見えるなんて仕方ないじゃん、年下なんだもん。だから「説教」とか「注意」ってのが存在するんでしょ。なんでそれをしないの? それでも大人なの? だから何一つよくなっていかないんでしょ?
「生意気だ」なんて言うくせに、その生意気さをどうにかしようっていうつもりがないんだ。
 未来をつくっていくつもりが一切ない。
 年上の義務でしょうが! 未来をつくるために、年下に目を向けるっていうことは。
 そうやってやっていかないと、ろくな未来が生まれないじゃない?
 目を向けて、伸ばすべきところを伸ばし、摘むべきところはちゃんと摘む。放置して文句だけ言うなんて、最低じゃないか。
 僕、いいこと言ってるでしょう。どうしてこんないいこと言ってる人を、邪悪なバカは悪く言うのだ? 正しいからだと思うね。正しいから、正しくない自分が否定されてるみたいで、ついつい否定したくなっちゃうんじゃないかしら?

 クズみてーな大人が多いよ。20歳くらいのころから、圧倒的に年上の人とたくさん接するようになって、わかったことだけど。
 でもその中で、未だに僕と仲良くしてくださる年上の友達の方がたくさんいるから、本当に救われております。
 僕は彼らに育てられたっていう自覚がある。感謝しています。

 もう決めた。クズみてーな大人ってなんなのかっていうと、「年下」を育てようとしない大人のことだ。で、これは時に「実年齢」っていうのを無視したっていいと思う。僕なんかたまに、15くらい年上の人にでも説教しますもん。それ以上でも別に、すると思うし。
「教育」ってもんを自らに義務として課してない大人は、全員クズ!
 これは絶対に間違っていません!

 ま、「教育してやってるつもり」っていう、クズの中のクズもいらっしゃいますが。
 自分はそうではない、というくらいの自信がなければこんなこといえない。

2010/11/17 戦うセンパイ!

 すべてが一切間に合わないような気がするが
 すべてを一切間に合わせてしまうのがジャッキーさんだったりするので
 誰も何も心配は要らなかったりはする。
 もし駄目だったら史上初の敗北である。
 私は19年間連勝を続けてきた男ですよ。
 弥生と千種は小学生ですよ。

2010/11/16 

 少なくとも28日までは地獄のスケジュールなので色々とお許しください。

2010/11/15 夜回り先生

 夜回り先生は歴史上の偉人。
 将来は教科書に載るレベルの人かもしれない。
 長生きしていただきたいと切に願う。
 水谷先生の講演会を聴いての感想。

 これまでにやってきたこと、体験してきたことの大きさから
 やっぱり話の内容自体も面白いんだけど、
 何よりも話術、いや、
 最近僕がこれでもかと口に出している「演技」ということについて
 非常に深く考えさせられる。

 話術ってのは話の構成とか、言葉の表現力とか、
 そういうことだけじゃないのでね。
 語気の強弱、リズム、
 そして何よりも、気持ちというか。
「伝えるんだ」という意志。これが最も重要なんじゃないかと思った。
 毎日同じことばっかり言っていてすみません。
 そっちのほうへアンテナが向くと
 そのことばっかり考えてしまうです。

 水谷先生の言っていることはほとんど正しい。
 この正しさは、かなり原始的なものだ。
 僕たちはこの上に立って、積み上げていかなくてはならないのである。

2010/11/14 ノンポリ大学 第一回講義レポート

 弟子(?)と弟子(?)の後輩に対して実施したノンポリ大学第一回講義「ぼくたちの近代史II」のレポート締切日が13日だった。
 講義は半日にも及び、耳慣れない言葉や知らない事実が多かっただろうに、必死で食らいついてきてくれた二人の生徒たちに感謝と敬意を表する。
 中間テストと文化祭をはさみ、一ヶ月とちょっとの長いような短いような期間をおいて提出日を設定したのだが、課題が難しすぎたゆえか、両名とも13日中の提出はできなかった。
 弟子(?)の後輩は「すんませんあと一日だけ待ってください」と泣きついてきたので14日まで〆切を延ばし、見事その日のうちに提出することができた。
 その内容は、「わからないことはわからないので、わかるところだけは書ける範囲で精一杯書きました」という感じの、非常に誠実で背伸びのしていないものであった。
 質に関しても高校一年生としては充分にしっかりしたものであって安心した。
 完璧には程遠いけれども、よくできている。

 僕は別にレポートなんて戻ってこなくてもいいと思ってたのだが、やはり僕なりに一所懸命にやった講義だったので、ちゃんと反応があるとうれしい。「ああ、伝わってたんだな」というのがわかる。僕が話したことや、課題図書に記されていたことだけじゃなく、なにか少しでもオリジナルの観点や考え方が示されていると、「これを引き出せただけでもやった意味はあったな」と思える。
 何より、難しかったろうに無理して書いてくれたのだと思うと胸がいっぱいになる。
 文面からひしひしと、「伝わってるからね!」っていう声が聞こえてくる。
 冗談じゃなしに。

 大事なことってやっぱり、「受け止めたよ」ということの表明ですよね。
「わかってんだよ、自分は」っていう主張というか。
 テストに回答を書くときでも、「私はこれだけのことがちゃんとわかってるんです!」ということがちゃんとわかるように書かないと正しく評価されない。途中式をすっ飛ばして結論だけ書いて、それで答えが合っていたとしても、「わかってる」ということは伝わらない。「本当にわかってんのか?」「カンニングしたんじゃねえのか?」という疑念さえ湧くところには湧く。
 逆に、先生ってのは「答えは間違っているけれども途中式が合っている」ことのほうをむしろ評価する。まともな先生はそうだと思う。
 白紙で提出された答案には評価のしようがない。

 僕は、「知らない」というのは仕方ないと思っている。
 知識はそりゃ、あるにこしたことはないが、大切なのはそこじゃない。
「わからない」や「間違っている」も、大きな問題ではない。
 悪しきは「考えない」ということだが、
 どれだけ「考える」をしていても、そのことが誰にも伝わらないのでは意味がない。

 僕はずっと、一人で悶々と何かを考えていて、そのことを誰にも言わない人だったのだが、それは実際よくないことであった。
 結局、どこかに伝わらなくては意味がない。
 いつか伝わればいい、なんてのはこっちの都合であって、
 相手にとっては失礼な話でしかない。

 人は一人では生きていけない、ってのが僕の大好きなアニメの結論なんだから。
 一人で生きていきたいやつはそうすればいい。
 そういう人は黙っていたらいい。
 そんなことはどだい、無理なんだけど。
 そんな寂しい生き方をしたくてしてる人なんていやしないだろうけども。

 伝えていくことだよなあと思うわけでね。
 それがコミュニケーションの第一歩というか。
 ねえ。

2010/11/13 セクハラコミュニケーション

 セクハラしないとコミュニケーション取れないってのはあるわけです。
 どうもおっぱいとかすぐ触っちゃうんです。
 僕がってことじゃないですが。

 セクハラおやじがなんでセクハラをするのか?
 セクハラ以外にコミュニケーションのとり方がわからないからです。
 女子を性的なものとしか認識できなくて、
「おなじ人間」であることを忘れているのですよ、正味。
 人間として会話が、コミュニケーションが成立しないから
 性的な、動物的なやり取りでしか触れ合えないのだ。

 小学生が好きな子をいじめるってのも同じで、
 あれも「コミュニケーションの仕方がわからない」でしょ。
「おなじ人間」として接することができないもんだから、
 カメをいじめるみたいに異性をいじめてしまうのね。

 これは「セクハラやいじめがなぜ起こるか」という問題の
 きわめて本質的な部分だと思うんだけども
(もちろんこれが本質的なすべてというわけではない)
 これは加害者の問題だけじゃなくて
 被害者の問題もあるのですね。
 よく「いじめられるほうにも問題はある」なんて言いますが、
 確かにそうです。
 いじめるほうには罪もあるし、問題もある。
 いじめられるほうには罪はないが、問題はある。
 そういうようなもんだと思っております。
 あるいは「原因がある」といえばもっとしっくりくるだろう。
 いじめられるほう、セクハラされるほうにも「原因」はある。

 コミュニケーションの問題でいえば、
 セクハラするやつはコミュニケーション下手である、というか
 異性と人間としてコミュニケーションできないやつであるわけだが、
 セクハラされるやつもコミュニケーション下手である可能性はあって、
 異性から人間としてコミュニケーションしてもらえないやつである
 ということもあるかもしれないわけですよ。
「小動物」として扱われる、なんてのはわかりやすい。
 ハムスターみたいに可愛がられるのは、セクハラされてるということで、
 それは人間として扱ってもらえてないということだ。

 コミュニケーションの成立しない状況をディスコミュニケーションなどと言う。
 ディスコミュニケーションが生じるのは、誰かがコミュニケーションを拒否しているか、あるいは下手すぎて成り立たないときである。
 そうなると、どうしてもその人と関わっていたいという人は「セクハラ」や「いじめ」という形で無理やり関わろうとする。
 僕も、会うとついついいじめてしまうような相手が何人かいるが、それはたぶん「楽しくお話がしたいんだけど、それが難しいから、ついついからかったりいじめたりすることで強引にコミュニケーションをとろうとする」なんてことだろう。
 よいもんか、わるいもんかね。
 もっと自然な形で触れ合えるようになったほうが、いいに決まっているんだけどね。
 僕もそのように力を尽くさねばならんし、相手の意志もそこに重なってこなくてはならない。自分の気持ちだけではどうにもならず、応えてもらえなければいじめやセクハラによって触れ合い続けるしかないというのは、辛い。

 もちろんこれは最近ずっと僕がしてる話とつながっております。
 セクハラを受けている人たちごめんなさい。
 僕が、ってことじゃないですが。

2010/11/12 芋虫

 家の中にたくさんの芋虫。どっから入ってきたんだかわからん。
 今まさにシュミーズへ手をかけんとしていた僕は彼女の
 キャー
 なる声にひっくり返り起き上がった時にもう彼女はいなかった。
 仕方がないよなと思う。
 初めてだったんだから。

 ゴキブリよりは断然マシだなあ。
 動かないんだものなあ。
 刺すような類のものでもなさそうだし
 平和なもんだ。

 ちょっと調べてみたところ、
 ウスバシロチョウ
 という蝶の幼虫に似ていた。
 駆除せずに放っておけばこの部屋はいずれ
 このような美しい蝶々だらけになるだろうか。
 でもこの部屋には葉っぱがない。
 発見された芋虫の中には、ずいぶんと弱っていたのもあった。
 たぶん成虫になるより早く死んでしまうだろう。
 庭に放とうか。

 昔、キントキに刺されて手首が1.5倍ほどに膨らんだことがある。
 キントキというのはイラガという蛾の幼虫で、
 宇治金時のような鮮やかな黄緑色をしている。
 名古屋では、というか僕の育った地域ではそう呼ばれていた。
 生涯で何度、キントキや他の毛虫に刺されたか見当もつかない。
 それで僕は毛虫は苦手だ。

 たとえば垣根を乗りこえた後、気づいたら腕についている。
 瞬時に振り払っても、もう遅い。刺されている。
 あの痛み、痒み。

 イラガについて調べてみた。
 刺蛾と書くらしい。
 全身のトゲから毒液を出すというから、触れただけで腫れる。
 ネットにはたくさんのキントキの画像。
 イラガといえば幼虫、キントキらしい。
 キントキを素手で掴んでいる画像があった。
 刺されないのかとヒヤヒヤする。

 成虫は、あんまり可愛くない。
 まあそうだろう、基本的に、可愛くないものを蛾と呼ぶのだ。
 うちにいるのがウスバシロチョウ的なものでよかったよ。
 違うかもしれんのだけど、でもかわいい。
「はらぺこあおむし」が未だに売れてるってのは、
 やっぱり芋虫とかって可愛いんだよねえ。
 毛虫になるとこれがちょっと。
 キントキも刺さなきゃかわいいのかもしれんのだが、
 いやでもやっぱりサイケすぎていかん。

 ウスバシロチョウというのはアゲハのなかまで、
 ムラサキケマンというのを食べるらしい。
 今度ひっこぬいて部屋の畳に植えかえよう。
 そういうわけで春に我が家に来たらきっと高原です。
 さなぎは見つけても殺さないようにします。

 ところがよくよく調べてみると
 ウスバシロチョウにしては時期がおかしい。
 白紙に戻りました。
 検討し直します。

2010/11/11 まさに恋しや

 僕が部屋に入ってった時のあの満面の笑み。
 気を抜いててもうなんだろう。
 10年後でもスウェットだといい。

 お花の勝手がわからなくって。

 なんか今日はもう詩になる。
 眠たいし恐ろしい。

2010/11/10 足りない時間を寝て埋める

 あとは全部うまくいってたって一つでも駄目だったら崩壊するってことが実際ある。よく言うように、ほつれたところからするするとほどける。
 腐った蜜柑が他の蜜柑も腐らせるという話。

 ゆっくりと腐っていくよ。
 知らないうちに、少しずつ。
 そのくらい僕は懐疑的だ。
 けれども「信じたいために疑い続ける」というのは。

 もうなんでもいい。
 戦わなきゃ。
 意味不明の向こう側で
 感動されるなんてまっぴらだから。

2010/11/09 『扉のむこうの物語』

 小学校の三年生くらいで初めて読んだのだと思うが、それ以来これよりも大切な「本」には出会っていない気がする。
 好きな作品や影響を受けた作品はたくさんあるのだが、「今の自分を作った」という意味では単体でこれ以上大きな意味を持つものはない。
 他人が読んで「そこまで面白いか?」と思われたって別にかまわない。そもそもそんなに売れたものではないのだし、ネットのレビューも様々だ。

 僕の持っているこの本には三つのサインが入っている。すべて著者の岡田淳さんによるものだが、1996年と、2004年と、2008年の日付がイラストと宛名とともに記されている。
 六年生の時に、名古屋の「うりんこ」という劇団が岡田淳さんの『びりっかすの神様』を上演して、そのあとに講演会とかんたんなサイン会があった。僕は大好きな『扉のむこうの物語』と、デビュー作の『ムンジャクンジュは毛虫じゃない』にサインを頂いた。
 二度目は名古屋の丸善。三度目は東京の足立区で、教員の組合かなんかの集まりだった。
 四度目はいつだろう。
 一度目はお母さんと行った。二度目はたかゆきと行った。三度目は一人きりだった。
 四度目はどうなるのだろう。
 いつか子供を連れて行きたいものだけど。

『扉のむこうの物語』は長いし重くてかさばるから、あんまり他人には勧めてこなかった。そればかりが理由でもないと思うけど。
 このたび、僕のことをよく知る、というか、最近よく知ろうとしてくれる子に読ませてみたら、「ジャッキーさんそのものだ」というような意味のことを言われたので、うれしく、そして誇らしい。

 なんだか散漫極まりないがそんな気分である。

 岡田淳さんは僕が最も尊敬している作家(小説家)で、正直言ってほかに好きな作家なんて一人もいないのかもしれない。「全作品読みたいと思って、読めるだけ全作品読んだ」と言えそうなのはこの人くらいだ。
 藤子不二雄と同じレベルで偉大だと僕は思ってるんだけど。
 さすがにあそこまでは売れてない。
 金にならない。

 そうそう、僕はここんとこなんか、泣いてるんだよ。
 7日の日記に書いたことに関しても相当泣いたけど、6日がいちばんひどかったね。
 なんかもう絶望しちゃって。
 もう、どうにもなんないくらい泣きましたがね。

 たとえば、なんでドラえもんがあんなふうになっちゃったかってことを考えたのさ。
 答えは明解だったね。一瞬でわかった。
「ドラえもんが金になるから」だ。
 そう思った瞬間、もうだめだった。嗚咽、嗚咽。
 ドラえもんが金になるって、なんだよ、それ。
 友達が値札つけられてどっか売られていくような、そんなん思い浮かべて僕は死んだよ。

 金になるもんだから、みんな群がる。
 で、むちゃくちゃにされる。
 最近じゃ、あれだ。
 日本中の大人が思ってること。
「ワンピースは金になる」
「ポケモンは金になる」
 これですよ。

 岡田淳さんは金にされないでほしい。
 強く思う。
 好きな人は好きなんだからそれでいいんだ。
 児童書って本当に、最後の砦だと思うよ。
 わりと僕、絵本好きな大人とかって好きじゃないんだよね。
 たまにいるでしょ、女の子とかでさ。
 でも絵本とか児童書って子供が読むものだから。
 だからこそ聖域なんだよね。
 あまり声高く「児童書好き」「絵本好き」は言うべきでないだろう。
「金になる」と判断されて、困るのは本当に好きな人たちなんだ、だいたい。

 手塚だって藤子だって、「金になる」という判断にずいぶん殺されてきたように思う。
 やだなあ。
 そいで、『宇宙船サジタリウス』みたいにどう考えたって金にならない超名作は日ごろ無視されて、10年に一回くらいDVD再発して一儲けして、っていうね。金にならないなりの売り方をされるわけだね。
 僕の大好きな『まなびストレート!』はどうなるかねえー。
 完全に無視かもねえ。
 名作ならば、定期的にかえりみられていいと思うんだが
 10年とか20年とかになっちゃうんだよな。
 どのくらい稼げるかによって、長さは変わる。
『まなび』は稼げないだろうから、2035年まで待たないと。

 それにしても「ドラえもんが金になるから」は泣いたな。
 あんなに嗚咽して泣いたのは、前にサジタリウスを見返したときくらいだ。

『扉のむこうの物語』は金になんないけど、何年か前に新装版が出た。
 まだ買えると思うのでぜひどうぞ。
 僕はたぶんこの本そのものではないかと思う。
 もう何年も読んでいないが僕は小学生の頃の自分を信じている。
 中学生の頃の自分も高校生の頃の自分も、
 二十歳の自分も信じているので

2016/06/15 そりゃ近年のドラえもんにまつわる状況を素晴らしいとは思わないが、スタッフの方々はよくやっている。試行錯誤しながら。できるだけ良いものをと考えているはずだ。少なくともそう思ってかけずり回っている人を僕は知っている。そういう人と最近友達になって、自分の浅はかな考えを恥じた。今の消費者(あるいはスポンサー)に「お金」を出してもらわないことには、ドラえもんという存在自体が忘れられてしまう。それよりは今のほうがマシかなと、現在の自分は思っている。ドラえもんの単行本が絶版になって書店で買えなくなる未来なんて、来るべきではない。ただ、今の在り方が最適解だとも思わないから、少しずつでも、もっとずっとよくなっていくといいな。みんなでちょっとずつ変わって行けたら。

2010/11/08 肉体的なセクハラをされないためには

 隙をなくす。
 なんで隙があるのかっていうと、大抵は「可愛いと思われたいから」。なんで可愛いと思われたいのかっていうと、単純にちやほやされたいってのと、可愛がってもらったほうが楽だから。
 肉体的な接触を嫌がらない女ってのは、男に優しくしてもらえるからねえ。若い同士なら女からも。
 すんごい美人だってんでもないのなら、「触ってもいいよ」っていうオーラを出してりゃいい。とにかくちやほやしてもらえるよ。

 可愛いと思われたい女ってのは、隙がある。
 そういう女は、だいたい美人ではない。
 美人ではないから、隙を作らなければちやほやされないのだ。
 それは生きるための工夫。

 でも、「ちやほやされる必要のある時期」ってのはいつか過ぎるものだ。普通は。
 まともな人が「ちやほやされたい」と思うのって、「モテたい」じゃなくって、「いじめられたくない」とか「優しくされたい」とか「友達がほしい」だから、その目的が達成されたらもうちやほやされる必要はないんだよね。
 そうすると後に残るのはセクハラだけ。
 ここで言うセクハラってのは、「触ってもらいたくもない人から身体を触られる」ってこと。
 そこで困ってる女子ってのはたぶんいる。
 まあ、永遠にちやほやされたがるだめな女も多いんだが。

 確認するが「隙がある」というのは「可愛いがってもらえる」ということである。そういうことでしかない。
「可愛がってほしい」と思っていれば、隙は生まれる。
「可愛がってもらわなくてもいい」と思っている女に隙はない。
 もちろん、「そのような演技・振る舞い」をしていればこそ。

「あたしはもう、可愛がってもらわなくてもいいなあ」
 という瞬間が、女にはやってくるものだ。
 たとえば恋人ができたら。
「あの人以外には可愛がってもらわなくてもいいのになあ。別にいじめられてもいないし、もう友達だっているし……」
 そのときにどうやって「隙をなくす」かというのが彼女たちの課題で、割とそういうところで苦しんでいる人っていると思う。

 キャラを変えるにはどうしたらいいか、っていう話。
 昨日書いたこととそのまんまつながる。
 そりゃね、自分の意志で変えるしかないよ。
 周囲は変わってくれないんだから。
 どこまでも他力本願なやつは、そこがわかんないんだ。

 自分勝手と他力本願ってとっても似てる気がする。
 おんなじことだろう。
 自分と他人を切り離しちゃうって意味で。

 ある漫画家の先生の言葉が参考になる。
「大学で、友達からノートを貸してくれといつも言われて困っている」という相談を受けて、彼はこんなふうに答えた。

「あなたはひょっとして、高校でも同じようなことをよく頼まれていたんじゃないですか? それが嫌だったんなら、どうして大学に入ってそのキャラを変えようと思わなかったんですか? 自分が具体的に変わらなければ、どこに行ったって同じ扱いしか受けませんよ。断れない性格なのでしょうが、今は《生理的にイヤ》ということが割と許される時代なので、最初にきっぱり《イヤ》と言えばいいんです。そうしたら相手はあなたをそういうキャラだと思って、嫌な顔ひとつせずにほかをあたるでしょう」

 セクハラに関しても事情は同じで、最初に許してしまうと「あ、いいんだ」ってなるんですね。そっから際限なくセクハラが繰り返されていくんですね。借金もそうでしょう。一円でも貸しちゃったら最後、際限なく相手は借りに来ますから、一番最初に「ダメ!」と言ってあげればいいんです。すると、ほかをあたろうとどっか行きます。

『断る力』って本は内容は知らないが、タイトル見ただけで「あー。重要だよな、そりゃ売れるよな」って思った。
「断らない力」ってのも考え出すと面白いけど。

 セクハラがイヤだと思ったら「イヤ!」っていうのを言わなきゃいけないんだよね。口には出さなくても、そういう演技をしなくてはいけない。「嫌がってるんです」っていうのを伝えなければ。間違っても「可愛がってほしいなあ」なんて思っちゃいけない。「可愛がってほしいけど、触られるのはイヤだ」なんての、男は納得しないからね。そういうクズみたいな男が多いからね。
 それに「可愛がってほしそうにしてんのを可愛がって何が悪いの?」っていうのは正論だと思うもんな、僕も。可愛がる手段として、金も頭も会話技術もないやつは「頭をなでる」とか「手をさわる」とかしかできないわけだし。
 女が「可愛がられるけどセクハラはされない」という状況を作るためには、たぶんものすっごい努力をしなければならなくて、その努力に比べれば「可愛がられないけどセクハラはされない」ための努力は非常に簡単なのだから、可愛がられる必要のない女の子はその努力をすればいいだけのことだ。セクハラがイヤなら。

 さらに言うと、「可愛がる」っていうのは上から下に愛情を注ぐ行為だからね。バカにされてんだよ。「こいつは下」って。
 そりゃ計算ずくでバカを演じてる子だってものすごく多い。自らのプライドと肉体を犠牲にして「生きやすさ」を選んでいるわけね。「誰からでもいいからとにかくいっぱいさわられたい」っていう子だっているかもしれないけど。

 じゃあ、「可愛がられない=セクハラをされない」ためにはどうしたらいいか。さっきも言ったけど演技だね。
「イヤ」ってことを伝える演技。すなわち声、表情、身振り。
 人間、思ってることがすべて外に出るわけじゃない。「伝えよう」としなければそのことは伝わらない。「イヤだ」と思っても顔は笑っちゃう、そんなような人が多いはずだ。
 男からよく頭をなでられる女の子は、避ければいいじゃない。避けないのは、「相手に悪いから」って思ってるんだろうけれども、それじゃ意思表示になんないよ。最初にサッと避けちゃえば、「ああ、この子はこういうの嫌がるんだな」と思って、もうやんないよ。まともな神経してたら「避けられた」ってショック受けて、その後ほかの子にもしなくなると思うしさ。
 避けないから調子に乗って被害者がどんどん増えるんだよね。
「そんなこと言われても、男の人が怖いからそんなことできません」
 知るか、そんな事情。
「怖い」で逃げるのはいちばん簡単だからねえ。
 そこは、「相手の感情を逆なでしないようにうまく避ける技術をがんばって編み出す」です。
「怖い」理由は「何かされるかもしれない」なんだから、「何もされないようにうまくやる」方法を考えるんだよ。それができないならもうしょうがないよ、泣くか逃げるかするしかない。だったらもう何も言わない。その程度の人なんだから仕方ない。ひとりでは生きていけないのだから、優しい人を見つけましょう。
「なんだかよくわかんないけどとにかく怖い」っていう人は、それ以前の問題。もうちょっと人間を信頼することを覚えましょう。
 
「可愛がられたい」と思っている限りはセクハラなんか止まない。可愛がられながらセクハラを回避しようと思ったらけっこうな努力が必要。それだから化粧とかすんでありましょうなあというのが、この続き。長くなるからまた未来。

2016/06/15 ここに出てくる「漫画家の先生」ってのはおそらく武富健治先生のことで、早稲田大学で行われた「金八先生によろしく」で言ってたことだったんじゃないかな。違ったら申し訳ない。その後武富先生とは縁あって(というか縁を築いて)仲良くなることができて、本当に人生は楽しい。

2010/11/07 事実上の破門

※2016/06/15 以下の文章は、今読み返すとあまりにも激しくて、ちょっと言いすぎなのでは? って思うけど、当時の本音として、そのまま載せてしまう。ただ一つ。実は、僕もかつては、目上の、尊敬するような人と話をしていても、ろくに何も言えない若者だったのだ。本当に失礼極まりなかったと思う。その時についての反省を、ここで他人に、しかも自分より若い人に、ぶつけているのである。それはよくないことだったなと今は思う。自分がかつてそうだったから「こそ」、叱責するのではなくて、「あの頃の自分は、どうしてほしかったのか?」「どうすればあの時の自分はしゃべり出してくれるのか?」ということを、じっくり考えて、ゆっくり相手をすべきだった。そういうことがわからないくらいには、僕もまだ若かったということです。若い人は、思う以上に未熟であって、それで当たり前なのだ。



 弟子には僕と会話をする気がないようだ。
「師匠」などと呼ばれるが僕から何も教わる気はないようなので、僕も今の彼女に何かを教える気などない。今日を最後の説教にしたい。

 彼女に説教をすると、まるで「先生に当てられて何も言えないでいる生徒」のようになってしまうので、まったく張り合いがない。僕は石に向かって心のこもった言葉を投げ続けられるほど悟りきっているでもないから、辛くて仕方がない。淋しくて涙が出てくる。そんな想いまでして師弟ごっこに付き合ってあげられるほど暇でもなければお人好しでもない。他をあたってくれ。
 人から何かを言われていて、それに対してまともに反応できないということは、何も聞いていないのと同じことだ。喋っているほうにとっては。聞いているほうはまあ、何かを得ているのかもしれないが、喋っている側にしてみれば、徒労感しかない。何を喋っても石のように黙っているのだ。
 僕はもう、あほらしいなあって思うよ。
 こんなに必死になって語ってる自分がバカみたいだって。
 ほんの数日前にもまったく同じことがあった。

 反応がないってのは淋しいことだよ。
 打っても響かないっていうのは。
 僕がどれだけ話しても、相手が何も言わないとか、表情一つ動かさないとかだったら、話してる気分にならないんだもの。
 せいぜい「そうですね」みたいなことしか言わなくて、人間と喋ってる気がしないよ。なんか、自動販売機のボタン押したらジュースが出てくるみたいに、無機質なやり取り。

 なんでそんなふうになるかっていったら、そりゃその人が自分のことしか考えてないからね。
「聞いている自分」ってのがあるだけで、「話している相手」のことを一切頭に置いていないのね。
「この人は自分のために必死に話をしている。それは当たり前のことだ」っていうふうに思ってる。
 テレビ見てるような感じでね。切り離してるんだね。人を。
 その人がどんな気持ちで話しているか、ということを考えない。
 そこまでは考えたとしても、「自分はどんな態度でそれに応えたらいいのか」ということを考えない。
 考えたつもりになって、実践したつもりになってるってのが最もたちの悪いパターンで、プライドが高いやつほどここに陥る。

 自分本位な人って、本当に他人のこと考えないんだよね。
 最初っから自分のことしか頭にないから、「今、自分に話してくれている相手」のことすら考えない。「今、話を聞いている自分」っていうのしかない。
 これ本当だよ? この一週間で、二人もそういう人と話した僕が言うんだから、間違いないよ。
 相手が話している時に、自分がどんな態度をしていたら相手が嬉しいかとか、話しやすいかとか、そういうこと全然考えないんだもの。驚くよ。
 一方的に相手から尽くしてもらって当然、そういうふうに思ってる。
 母親に感謝できないタイプだね、勝手に決めつけるけど。
 僕が世界で一番感謝してるのって母親だから、もう信じられない。

 二人でする会話って二人で作っていくものだからね。
 だからそこにおいて「受け身」ってのはあり得ないんだよ。
 会話の仕方がわかんないやつって、多いんだねえ。
 話をするってのは、「お互いの一方的な伝達」じゃないんだよ。
「双方向的な伝達」っていう表現でも足りないんだよ。
 一緒に作っていくものだから。
 方向とか言ってる時点で間違ってるわけ。
 そこからして、わかんないんだ。
 砂の城を作ってる僕のことを、横でじーっと黙って見てんのね。
「ふうん、砂の城ってこうやって作るんだ」とか思いながら。
 楽しいわけないじゃん、それが。
 見てるほうは楽しいだろうけどさ。
 やってるほうの身にもなれよ。
「すごいねー! きれいなお城ができたねー!」
 くらいは、言えって。せめて。
 できることなら一緒に作りたいけど、まだ今はだめだ、変なふうに手を出したらせっかくのお城が崩れてしまう。
 そういうのはわかるよ。仕方ないさね。
 だったら、「すごーい」でもいいし、「塔をもう一本作ってよ」でもいいし、「そこ形へんじゃない?」でもいいよ。
 なんか言えって。声を出せ。日々。
 驚くほど声を出さないからね、あいつらは。自分勝手な奴らは。
 それでいいと思ってんだから泣きたくなるよ。

 この一週間でそういう人、二人と話したって言ったけど、どっちの場合もそこにはもう一人いたんだよね。僕のほかに。言ってたよ。残念だとか、驚いたとか。自分勝手じゃない人からしてみたら、信じられないんだよ。
 会話ができないっていうことが。
 甘やかされてきたのかね。
 会話の必要のないような生き方をしてきたんだな、どっちにしても。
 貧しい人生だ。
 可哀想で泣きそうになる。
 
 僕は楽しく会話したいだけなんだよ。
 張り合いのない弟子に何を教えたって楽しくないから、やだ。
 向上しないし。
 なんかそういうの上手になったらまた声かけてください。
 それまで師匠とか、甘えた言葉使うな。
 甘えてんだよ、何が師匠だよ。
 そういうせりふは、正しく弟子になってから言え。
「人にものを教わる」ための態度を覚えてから言え。

 弟子じゃないやつも同様。
 甘えてんだよ。僕が優しいから。みんなが優しいから。
 それで優しくないやつを悪く言うんだろ。
 勝手すぎるよ。感謝しろ。

2010/11/06 若い人に優しい

 最近の僕は若い人に優しい気がする。
 昔はもっと中途半端な優しさを向けていた。
 自分より年下の人間に自分より未熟な面があるのは当然だと思って、
 割と黙って見過ごしていたのだ。
 まあ、そのうち気がつくだろうと。
 でもそれって、他の多くの大人たちがしている手抜きと同じことなんだね。

2010/11/02 演劇

 結局、演劇をやれということになる。
 演劇から学べることはたくさんある。無数に、死ぬほどある。ただ、実際に身につけられるかどうかは本人次第、あるいは仲間次第というところがあって、別にやったから偉いということではない。演劇経験者がみんな、僕の思うような「演劇の効用」を得ているということでもない。ひどいことを言うと、何年練習しても演技が下手くそだったら「演技を身につけた」ということにはならないし、そもそも頭が悪かったら何一つ学ぶことができない。

「演劇をやってればもうちょっとマシだったのかも知れないんだけどなあ」と思うやつは友達にいる。けっこういる。「知人」という範囲を含めれば、無数に、死ぬほどいる。
 だって、僕が生きてきて重要だと思うことって、だいたい演劇に要素として含まれているのだもの。
 たとえば学校の先生に必要な資質はもう、完全に演劇でしょう。
 昔から、教壇というのは舞台だと思っているもので。

 僕は演劇の本質ってやっぱり演技だと思ってるからその話をすると、演技というのは主に「声と表情と動き」を操作することによってなされる。
 これが上手いと、モテますよ。本当に。
 ここで言うモテる・モテないってのは、異性に限らず同性に関しても言えると思うんだけど。
 棒読みみたいなしゃべり方で、無表情で、動きのない人間のことを、誰が魅力的だと思いますかね?
 見た目がよけりゃ、それでもモテるのかもしらんですけど、飽きられますよ、すぐに。
「話の内容には自信がある」という人もいるでしょうが、「演技」がまったくないと、せっかくの面白い話もつまんなく聞こえちゃうのですよ。
 勿体ない。

 ここでいう「演技」というのは、「嘘の振る舞いをする」っていうことではなくて、「声と表情と動きを効果的に使う」っていうこと。
 演技がないと、魅力的とか面白いとか思ってもらえることは、まずない。
 そういう人って多いよ。
 なんでそうなってるかっていうと、甘やかされてきたんだと思うんだよね。
 だいたいはね。
 いろいろ事情はあろうけれども、ほとんどの場合は、「演技の必要がなかった」わけですよ。至れり尽くせりだから、演技によって自分の感情を表現したりとか、自分の主張を通そうとしたりとか、あるいは隠蔽しようとかっていう努力を一切してないのね。他人が先取りしてくれるから。
 あとは、意志がないってことだね。
「こうしたい」「こうでありたい」みたいな意志がないもんだから、演技が不要なんだよね。
「こうしてほしい」もないんだよね。
 つまり孤独に生きてきたんだよ。
 だから演技のできない人ってのは可哀想なんだと勝手に思う。
 淋しい人だ。

 そういう人たちのために演劇ってあるんじゃないの、だから演技の下手なやつこそが演劇をやるべきなんじゃないの。他人に見せるための演劇ではなくて、自分のための演劇を。淋しく育ってきた人が人並みの演技力を持てるように。
 まずさ、「声を出す」ってことができないんだもの。ほとんどの人が。
 授業中、先生にあてられて、何か答えなくちゃいけないような時って、やたら声が小さくなったり、何も喋れなくなっちゃう人っているじゃん。あれはもう、演技ができない人の典型だよね。
 先生に叱られてる時とか、知らない人と話すときとかでも、同じようになっちゃう人がいるでしょう。相当いるでしょ。
 淋しく育って来たから、「演技の必要がないような親しい関係」っていうシチュエーションでないと、うまく喋ることができないんだよね。ちょっとでも「演技」が必要な場面になると、もうダメだ。
 自分の振るまい方のストックが「親しい」っていう1パターンしかなくって、それ以外の場面にまったく適応できないわけ。
 演技の練習っていうのは、そのパターンを増やしていく作業だからね。
 演技ができる人ってのは、場面への適応力が高い。
 演技ができない人は、適応できなくて、先生にあてられると声が小さくなって、表情も身体も固まっちゃうね。そうでない場合は、「親しい」を発動させて、「わかんないよおー」とか言っちゃうね。

 演技ができない人は、孤独な人で、下手なままだと一生孤独に生きていかなければならない。「孤独なお父さん」ってのはけっこう多いと思うんだけど、なんでそうなるかっていったら「成長していく子供に対応させて演技を変えていく」ができないからでしょうよ。
 子供から「お父さんはつまんない」って思われたら、もう孤独になるしかなくないですか?
 演技ができない人ってのはもう、そういう運命背負ってますよ。
 もちろん、子供を作る気もないような人は輪をかけて孤独なんだけど。
 だから練習はすべきだと思うんだ。
 別に舞台に立てと言うんではなくて、日常でいくらでも演技の練習はできる。

 演技ってのは常に「自分は他人からどう見えているか」を考えながら行われるんで、これをやってると自分ってもんがわかってきます。やんないと、自分なんて一生わかりません。で、演技によって自分というものは変えていくことができます。「どう演技すればどう伝わるか」ということがわかれば、「こう伝えたいからこう演技しよう」ができて、「こういうふうに見られたいのでこう演技しよう」を続けているうちに、それが自他共に認める「自分」になります。そういうもんです。
「自分ってもんがよくわからない」って言ってる人は、「他人から自分がどう見えているか」を意識してないのです。自分ばかり見ていて他人に目を向けないから、ちっともわかんないのです。
 演技をすることによって、人は「自分はどう見られているか」を知ります。だって、演技をしなかったら、1つのパターンの振る舞いしかしないということだから、「どう見られているか」はわかりませんよ。常に1種類の反応しか返って来ないんだもん。
 ある時は演技Aをし、またある時は演技Bをやってみる。そうするとそれぞれに違う反応が返ってくるから、「演技Aと演技Bでは相手に与える印象が違うんだ」ということを学ぶ。そのうちに「ううむ、どうやら演技Bのほうが僕はやってて気持ちがいいぞ」ということがわかり、「こういう時は、演技Bを採用しよう」と決める。これの積み重ねで、「その人らしさ」というものが決定されます。

 もうおわかりだと思いますが、演技ってのは人格そのものですよ。
 マジで。
「内面が見た目に出る」っていうのは、演技の結果だからね。
 自然に滲み出てくるわけじゃないんですよ。
 しつこいけど演技って、「虚偽の振る舞い」じゃないのよ。「声と表情と動き」のことだからね。これが人格そのものなのね。
 たとえば「こういう時は、演技Bを採用しよう」とか、「でも、こういう時だったら演技Aのほうがいいな」とか、そういった積み重ねが人格になる。
 何人かの人が同じ人に同じように怒られた場合、泣くやつもいれば、怒り返すやつもいて、笑うやつもいる。
 人格でしょ、これは?
 演技しないやつは自分の人格がわからないってのは、そういうことですよ。
 他人からももちろん「人格」がわかってもらえない(存在しないようなものだ)ので、「つまんない」とか「よくわからない」とか思われる。

 ここまで言っても、演技できない人ってのは、「どうしたらいいかわからない」ってなるんだと思う。「今さら声も表情も動きもつけられないよ。照れくさいし、難しい」ってなるだろう。
 そういう人に対して具体的なアドバイスはできない。「演劇でもやってみれば?」とは思うけど、基本的には「自分でなんとかしろ」と言って、せめて話し相手になるくらいかな。そして「何にもしなかったら、そのまま孤独に生きて死んでいくんだよ」とクギを刺すことは忘れないようにしよう。

 で、えー。演技をつけるってことを「演出」と言います。
 演出ってことが多少できると、ずいぶん生きやすくなりますよ。
 ちなみに文章の世界においても「演出」ってのがありまして、
 それは文体だったり構成だったりします。
 演技のない、あるいは下手くそな文章ってのは本当につまんない。
 できるだけ表情のあるものを書きたいなと思います。

 Amikaさんに関していえば
『揺れる光ない海の底』(1st)
『「会えない事になった日」』(2nd)
『自転車に乗って』(シングル)
『大きな月』(シングル、インディーズ)
 最低でもこの4枚は必須。

 1st、2ndと順に聴いて、最後に『大きな月』の5曲目(現在最後の音源)『日々を繋ぐ』を聴くと、どうしても涙が溢れる。
 みんながここまで辿り着けたらいいのに。
 悲しみも苦悩も、ここに至るまでの通過点だと考えられたら。



Amika/自転車に乗って

 あなたはあたしを後ろに乗せて
 あたしはいつも背中につかまって
 そよ風だけを受けながら
 あなたに向かって 話して笑う

 時々足をぶらぶらさせて
 「次の角を右」なんて言いながら
 でもあなたは「男なんだから
 しょうがないか」と漕いでいる
 こんな風に

 自転車に乗って どこまでも
 坂を越えてあたしを乗せて
 自転車に乗って どこまでも
 丘を越えて二人を乗せてどこまでも

 年上の女性が「後ろに乗って」と
 水を飲んで休むあなたに言った
 楽になったから 嬉しそうに
 今までの話をし始める

 時々足をぶらぶらさせて
 「次の角を右」なんて言いながら
 そんなあなたを初めて見たわ
 あたしはただ守られてただけ
 何時の間にか

 自転車に乗って どこまでも
 小さくなるあなたを乗せて見えなくなった

 川沿いの道を歩くあなたに
 声をかけた 「ねえ、後ろに乗って
 今度はあたしが漕いで行くわ」
 あなただけが疲れないように

 この足がくたくたになったら
 また代わってもらうだろうけれど
 時には後ろの景色も
 見せてあげるから もうひとりにしないで

 自転車に乗って どこまでも
 川も越えて二人を乗せて

 自転車に乗って どこまでも
 坂を越えて二人を乗せてどこまでも

2010/11/05 無銘喫茶(木曜喫茶)店名変更のお知らせ

 長らくご愛顧いただいております「無銘喫茶(木曜喫茶)」という店名を変更いたします。
 と申しますのも昨日、常連の方(70代・男性)から「名前が悪いからこの店は流行らないんだ」という助言を頂いたのでした。
「では、どんな名前なら流行るのでしょうか」と訊ねますと、
「実はこの一ヶ月そのことばかり考えていたんだ」と言います。
「何かよいアイディアがおありですか」と問いますと、
 おじさんはニヤリと笑って、

「アキバ系文学喫茶 ガンダム」

 と言い放ちました。

 僕は驚いて、
「もう一度言ってください」
 と申し上げますと、

「アキバ系文学喫茶 ガンダム」

 と、もう一度言います。

 狐につままれたような気持ちになって、再び
「もう一度お願いできますか」
 とお願いしましたら、

「アキバ系文学喫茶 ガンダム」

 と言うのです。

 なるほどこれなら流行る、と僕は確信し、店名変更を決意いたしました。
 そしてこみあげてくる強い感情をこらえながら、またも
「非常によいアイディアだと思います! その、えーと――なんでしたっけ」
 と、とぼけて見せましたら、

「だから、アキバ系文学喫茶 ガンダム」

 と。

 僕が感動に打ち震えておりますと、
「ところで」
 とおじさんは話題を転じて、

「インターネットをやれ!」

 と言います。

「インターネットですか」と僕が間抜けに返しますと
「インターネットをやれば、客は来る」と言います。
「ホームページを作れということでしょうか。しかし、実際はそんな単純なものでもないのです」
 と僕が苦虫を噛み潰したような顔をして言いますと、
「インターネットだ」
 と言いますので、もう一度
「ホームページということですか」
 と繰り返しましたが、
「インターネットだって」
 と言います。

「インターネットですか」
 と僕が若干折れますと、

「インターネットをやれば、絶対に客は来るんだ!」

 と言って譲りません。
 五回くらい同様のやりとりをしていたら、なんだかそんな気がしてまいりましたので、インターネットをやろうかと思います。

 速報。
 1日~2日、エア誕生日会を開いていただく。
 今日は来客があるので詳しく書けないが、明日あたり。
 3日、楽しんできます。

.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:
┏☆┓
┣╋┫      お誕生日おめでとうございます
┗┻┛    ~バースデーカード&プレゼントをお送りします~
                     From @niftyスタッフ一同
.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:



×× ×× 様

いつも@niftyをご利用いただきありがとうございます。
今日は ×× ×× 様 のお誕生日ですね! おめでとうございます。



★。・゜・.:・゜'★,。★。・゜・.:・゜'★,。★。・゜・.:・゜'★,。.

日ごろの感謝をこめて、スタッフ一同より ×× ×× 様 への
バースデーカード&今年のプレゼントをご用意しました。

以下のアドレスをクリックするとご覧いただけます。
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★。・゜・.:・゜'★,。★。・゜・.:・゜'★,。★。・゜・.:・゜'★,。.



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