少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2010/10/31 問題意識の共有

 社会の仕組みを根本的に考えるのは、思春期の子のほうが得意であったりする。大人になるとどうしても、政治とか経済とか、そういうわけのわかんないことのほうが気になってしまうようで、本質的なことが見えなくなる。
 だけど思春期の子っていうのは思考力も表現力もなくて、直観しかないもんだから、大人からは「青い」なんて一蹴されてしまう。
 けっこう鋭いことを言っていたりもするのだが、一蹴されてしまうものだから「こういうことじゃないのか、そうか」と思い直して、くだらない、理論とか知識とかいうもので武装しようとする。
 子供たちはそうやって潰されていくのだ。

 本当に大切なことは勘のいい子供たちには完全にわかっている。
 大人がそれを隠蔽しようとするから、「ああ違うんだ」で離れていく。
 僕は彼らと問題意識を共有していたいね。
 と言っても、まるで正しくないことをしてる若者たちを「彼らなりの体制への反抗心なのだ」的な物わかりの良さそうな言い方で肯定するつもりは一切ない。正しいことが最も大切なんだから。

 弟子の29日付けの日記と、僕の昨日の日記と、弟子の後輩の31日の日記がだいたい同じことを言っている。
 以前彼女らに講釈した「ぼくたちの近代史」(橋本治)の影響もあるのだろうと思われるが、問題意識の共有が深く美しく、なんだか感動的である。
 でも、こういう考え方を「正しい」と信じたまま大人になると、いろいろ不都合なことがあって、一歩間違えるといつの間にか学校をやめていたり、世間から浮き上がってしまっていたりする。
 なんだか僕は悪いことをしたような気もする。
 考えるってことを知ってしまったら、そのことを忘れるか、一生考え続けるかしかない。どちらを選ぶかは勝手にしたらいいが、忘れてしまうならきっと僕のことも忘れてしまうのだろう。

 何をやっても やることなすことが 見抜かれているのだ
 みんな裏目に出てしまう
 奴らを倒そうと 身をすり減らして
 やればやるほど 奴らを太らせてしまう

 もともと無理な話さ 勝てるわけがない
 俺たちの脳みそは 奴らに作られたんだから

 脳みそを入れかえるんだ 辛いことだけど
 頭にノミを突き立てて 自分の手で切り刻むんだ
 当たり前のことだと 疑いもしないで
 信じてきたことが みんなひっくり返ってしまうかもしれないけど
 脳みそを入れかえるんだ 奴らに作られた
 無茶苦茶なことをして 奴らの頭を破裂させてやるんだ
 (岡林信康『コペルニクス的転回のすすめ』)

2010/10/30 静岡で会いましょう2

 なんちゅうかねえ。
「静岡」を作れない人って本当に多いんですね。
「静岡」というのは、まあ、たとえなんですけれども。もちろん。
 僕は名古屋出身で、東京に住んでおりまして、静岡辺りが中間なわけです。
 名古屋の人と東京の人が会うんなら、別に東京で会ったって名古屋で会ったっていいんだけど、静岡で会うっていう選択肢があったっていいんじゃない? って思うんですね。
 静岡は広いし、のんびりしてるし。平和だし。
 日本の真ん中だしねえ。

 あのねえ、静岡を作るってのはホント重要なんですよ。
 作るっていうかね、「静岡で会おう」っていう感覚ね。
 中間ってもんを設定すんのね。
 静岡って言ったら東海道線で言うと浜松くらいから熱海まであるわけで。
 別にどこだっていいんですよ。静岡ならば。
「どこにしようか。静岡? 熱海? 掛川? 清水?」みたいなね。

 すれ違いが起きた。
 誤解が生じた。
 対立や軋轢がそこにある。
 そういうのってだいたいが静岡を無視した結果だよ。
 東京の価値観と名古屋の価値観がぶつかったら喧嘩になるに決まってるんだから。静岡に行かないと。
 静岡に行けば、東京のルールも名古屋のルールもないんだからさ。
 お互いにとって知らない地なわけだから、一から考えなきゃならなくなるじゃない。いっぺん前提を崩してさ、最初から作り直さないと、やっぱりどっか自分勝手になっちゃうんだよね。
「こうだろうか」「こうかもしれない」ってのを、積み上げていくんです。
「こうだ」ってのはねえ、絶対に、その結果としてしかないの。
 既存の「こうだ」はもう全部捨てちゃいな。

 要するに想像力。
 もうさ、わかんないことだらけなんだから。
 想像することだよ。あらゆる。
 そうしたら優しくなれるものなのですよ。

 でねえ、譲歩ってのは確かにイヤだね。
 嫌なものだね。
 一方的な譲歩っていうのはね。

 譲歩がさあ、なんかさあ、上下関係の証明でしかなくなってるでしょ?
 どっちかに「権威」があるってことだよね。
 力関係があるんだよね。
 たとえばさあ、ある人がうまい棒を買ったらさあ、すっごい不味かったとするじゃないですか。その人が不味く感じたと。
 そんでその人がクレームを入れるわけですよ。電話して。
「おたくのうまい棒、あれはなんでございましょう」
 そしたら、うまい棒の会社の人は「申し訳ございません」って言うわけさ。
 何にも申し訳なくないよ。
 誇りを持って作ってんだもん。
 多くの子供がうまいって言ってるわけだしさあ。
 だけどルールとして「申し訳ございません」が出るわけね。
 出さなきゃいけないわけね。
 大人の世界って、社会って、権威の存在する空間って、
 絶対にそうなんだよね。
「いえいえ何をおっしゃいますやら。不味いと感じるのはあなたの好みであって、美味しいと感じる方だっているのですから、そんな文句は筋違いですよ」
 ってね、うまい棒の会社の人が言ったっていいわけじゃんか。
 わかんないけど、もしかしたら実際は、「返金いたします」みたいなことになったりするかもしれないわけで。電話かけた人は10円返してもらえるけど、電話代で10円かかってるみたいなね。オチもついてね。非常にくだらないね。
 くだらないねえ。
 違うじゃん、あのさあ、「不味い」って言われたらさあ、「なんだとう」ってなるじゃん。でさ、そこで終わるのもよくないわけね。
「そんな文句は筋違いですよ」と言われたクレーマーもね、「不味い」と感じたのは確かだから、そこで引き下がんないほうがいいわけ。
 静岡、静岡。
「だけど私は不味いと思ったのだから、私にとって美味しいと感じるようなものを作ってください」
「あなたはうまい棒を全種類食べたのですか」
「はい食べました」
「そうですか。あなたの好きな食べものはなんですか」
「納豆です」
「そうですか。研究してみます。もしも完成したら送りますから住所を」
「どこどこです」
「では、そういうことで」
「うん」
 みたいな流れで、納豆味が誕生、ってなことになってもいいわけですぜ。
 クレーマーも涙流して「うまい、これだ」って。
 納豆味ってのが静岡なわけね、この場合ね。

「申し訳ございません」じゃねーだろって思うのね。
 これが「一方的な譲歩」ね。
 権威の存在する社会には必ずついて回るものですよ。
 殿さまが白っつったらカラスだって白くなるわけで。
 それと同じことが起こってるんです、この世の中では。
 親子関係だってそうだよ。
 理不尽なことで親が怒るでしょう。
 口答えしたらもっと怒られるでしょう。
 だから子供は「ハイ、わかりました」つってわかったふりをするのね。
 なんでさあ、親と子ってのはさあ、そうやって分断しちゃうんだよ。
 静岡に行けないんだよ。

 もうさ、静岡以外は全部、美しくないの。
 ある人が「名古屋はいい!」って言う。
 ある人は「東京のほうがいい!」って言う。
 これをね、名古屋にいる人と東京にいる人が言い合うか、二人とも名古屋にいて言い合うか、二人とも東京にいるか、あるいは静岡にいるか。っていうので、全然違う訳じゃない。そんで、静岡がいちばん素敵でしょ。
 でもさ、だいたいどうせ僕だけが静岡にいてさ、相手は東京だか名古屋だかにいるわけさ。
 それだからもう、いつも淋しいよね。
 仕方ないから東京に出向くでしょ。そしたら向こうのテリトリーでさあ、こっちはもうずっと「申し訳ございません」だよ。楽しくないよ、全然。
 あるいはさあ、逆に「申し訳ございません」とか言われちゃうわけ。
 あー、嫌だ。
 名古屋と東京で、お互いが自分の陣地離れなかったら、これまた喧嘩にしかなんないっていうのあるから、やっぱ静岡なんだよ。
 お茶でも飲んでさあ。
 んだって、そういう一方的な譲歩しかないんだったら、「正しいこと」ってのはなくなるじゃん、全部権威が決めることになるじゃない。
 どっちが強いか、ってことしか問題になんないんしょ。
 もっと言うと、「どっちがお金払うか」だよね。あほくせーな。
 そうやって回ってる世の中が、僕はもうホント大ッ嫌いで!
 そんだから一人淋しく静岡にいんの。
 たまーにどっか、東京とか行くと、もう辛いのね。
「申し訳ございません」しか存在しない世界だから。貧しいことに。

 二人の間にはテーブルが必要なんだよ。
 恋人同士もたまにはソファやめてテーブルに向かい合ってみたらいいよ。
 そこが静岡なわけですよ。
 テーブルの上がね。

 ソファで寄り添う恋人同士ってのは、「名古屋人二人が名古屋にいて名古屋最高! って叫んでる」みたいに独りよがりなんでね。
 そのうち瓦解すんのね。
 距離がゼロってのは固定されてしまってるからね。
 気持ちいいんだけど柔軟性がなくて、壊れる時は速いのですよ。
 考えてみりゃ、名古屋人二人が「名古屋最高!」つってたって、二人が生まれ育った場所は北区と千種区って具合に、若干離れてたりするわけで。
 その僅かな差異が、じわじわ大きくなってぶっ壊すんだよ。
「名古屋」ってのが幻想の産物だってことに気づくんだ、その後で。
「僕たちが信じていた名古屋というものは、いったいなんだったんだろう」

 静岡に行くことですな。
 幻想もクソもないんだから。知らない土地なんだから。
 二人にとってはなんにもない土地なんだから。
 ファミレスのテーブルの上みたいに綺麗なわけです。
 そこでは何をしてもいいんです。
 静岡の人にさえ怒られなきゃね。

 僕は怒っているのです。
「申し訳ございません」という、一方的な譲歩、「譲って歩み寄る」っていうのが支配しているこの世の中に。
 そういうこっちゃねえわけでさあ。
 お互いが一歩引いて、できた空間にテーブルガツンと置いてそこで話し合うっていうことでしょうよ。
 寄ったっていいことないんだよ。
 くっつきすぎたって壊れやすくなるだけなんだし?
 テーブルとか言ってるけど、なんなら「原っぱ」でいいんだよ。

「申し訳ございません」系の価値観に慣れちゃうとね、
 想像力はなくなるよお。
 どっちかの言い分が完全に通っちゃう世界なんだもんさ。
 考えるってことが必要ないのです。
「ああ、相手の機嫌を損ねないためにはどうしたら」とか、「相手の言い分を尊重しつつ、円滑にことを進めるには」とか「どうやって自分の言い分を通そうかねえ」とか、そういうふうにしか思考力を使えなくなってしまうよ。
 そこには「何が正しい」がない。
「AかBか」みたいな「どっちが正しい」しかない。
 あーあ、それだから単細胞になるんだよ。
「AでもBでもない、静岡を作る」っていう発想が抜けてんだもん。

「東京か?」「名古屋か?」で止まって、
「静岡じゃね?」がない。
「だとしたら、静岡のどのへんだ?」がない。
 大切なのはそこだろう!
 あほか!
 大人だろ、お前ら!

 仕事、恋愛、その他諸々。
 すべての問題は概ねここにあるよね。
「相手にも事情があったのかもしれない」という、たった一個ぶんの想像力で、見えない可能性が無限に広がります。
 さて。静岡はどこですか?
 
 ほんとに、なんでもかんでも、単純に捉えすぎだぜ。
 柔らかくやろうよ。

2010/10/29 10周年

 ある女の子との付き合いが今日で10年になる。その日の日記も残っているのですけれども、残念ながら現在非公開。
 十年、と一口にいつても、――胸が一ぱいになつた。
 ゲンジとか言ってた頃が懐かしいよ。僕は15歳。彼女は13歳であった。そう考えるとなんだかすごい。

 初めて会ったときに「この子は」と感じて、次か、その次に会ったときくらいにたぶんメールアドレスを聞いたのだと思う。当時は中学生がケータイを持っているような時代ではないから、もちろんパソコンのメールで、しかも家族共用のものだった。
 そっから何ヶ月か。いや、一年間だか二年間だかわからないが、ほとんど毎日のように文通をしていた。今にして思えば、13歳か14歳であれほど多くの「目上の人に向けた文章」を書いている子もそう多くはないのではないかな。後に本人から言われてとても嬉しかったことだが、この時期のメールのやり取りが彼女の内面を著しく成長させたらしい。僕もそう思う。
 そんなふうに言葉で僕と仲良くなるような子なのだから、きっと本とか漫画とか大好きな子なのだろうと思われるかもしれないが、事実はまったく逆である。音楽好きとか映画好きとかそういう類の人種でもない。だけど普通の子というわけでもない。
 とにかく、固有名詞で彼女と通じ合ったという想い出はほとんどない。

 思春期を越えると、ことに文科系の人間は、固有名詞で他人と通じ合おうとしてしまうことがけっこう多い。どのバンドが好きだとか、どんな映画が面白かったとか。
 そういうことはまあ、大概が間違いの元だから、気をつけたほうがいいですよね。
 つい昨日『まなび』についてあんなに熱く書いておいてなんだというのはあるんですけれども。そのくらい特別な作品ということです。

 僕の彼氏と噂されている教え子の14歳男子も、はじめはそういえば『おれは直角』という固有名詞によって「こいつ、できる!」と認識した。だけど仲良くなった今では、それほど彼と固有名詞を共有したりあるいは押し付けたりすることにこだわりはない。藤子・F・不二雄先生の短編はぜひ読んでほしいと思うけど。
 きっかけとしてはありだろうなと思うよ。すんたんだって、もしも彼のメモライズの壁紙がうめ謎じゃなかったら、あん時メール送ってないかもしんないんだし。というのは至極個人的な話。一部地域的な。

 件の彼女は本とかたくさん読んで教養つけるみたいなタイプじゃないけど、話していると非常に面白いし、気も合う。合うように育ってきたのかもしれないし、お互いに育てあったような面もあるかもしれない。
 固有名詞はあんまり重要ではない。
 断然、一般名詞のほうが大切なのだ。
 それに気づかずに死んでしまってはいけないのである。
 愛する人の名前でさえ要らない。
 実はそういうものなのであるよ。

 さていや、ほんと10年というのは長いもので、彼女について語ればまた長くなってしまう。このへんにしておこう。いつか「ぺ~こ」という人物について語らなければならないと思う(彼とはもう10年半だ)のだが、こちらも本当に意外に長くなる。困ったものだ。

 僕は10年という年月を過大に信用している。
 だって僕はなんだか10歳の時に僕になったような気がする。
 だから10年という年月を育めた人たちには非常に安心感を持つ。
 裏を返せば、9年までだと今ひとつ信用できないということでもある。
 早く10年が経てばいいと思うよ。
 まだ9年と2ヶ月だなんてな。


2010/10/28 よい女衒

 最近年下の子が可愛くて仕方ない。
 恋愛的な、性的な意味ではなしに。
 どうも大人になってきたものだな。

2010/10/27 冷たい街の風

 五千回くらい言ってるけど僕は『がくえんゆーとぴあ まなびストレート!』ってアニメが好きなのである。
「面白い」とか「かわいい」とか「萌える」とかそういう次元ではなく、「正しい」と思うのである。愛しているのである。
「人間って、生きるって、誰かと一緒に何かをすることって、こうじゃなきゃだめだよな」なんてことを見るたびに思うのです。

 だからここ数年の僕が最も「幸せだ」と思える瞬間っていうのは、誰か他の人から「まなびが好き」と言ってもらえた時だ。
 自分が正しいと信じているものを「うん、正しいよね」と言ってもらえるのがとても嬉しい。
「ほら見ろ、やっぱり僕は間違ってなんかいなかったじゃないか」と誰かに向かって言いたい。

 正しいものなんて何もないんだと嘯く人もおりますよ。
 そんな当たり前のことを言われたって僕はもう何とも思いません。
 正しいことってのは元来ないんですよ。
 当たり前だろ。
 だから作るんじゃないですか。
 考えるんじゃないですか。

 んでねえ、まなびって愛されてないねえ。
 いや、僕に愛されてたらそれで十分だろうってのもあるし、
 僕も相当たくさんの人にまなびを勧めてきて、好きになってくれた人も非常に多い。っていうか、見てくれた人で好きになんなかった人はたぶんほとんどいないんじゃないかなあ。僕ほど熱狂的な人はもちろんいなかろうが。
 でも僕はけいおん!の何億倍でも愛されるべきだと思ってるんで不服です。
 贅沢な話ですが僕は不幸せです。
 時おり幸せがやってきます。
 それをたのみに生きております。
 まなびを好きになってくれた方ありがとうございます。

2010/10/26 仕事は終わらない

 昨日書いたように早めに仕事していたらやることが何もない。
 ということもないのだよな。
 来週ぶんの仕事があるのでやろうと思えばできる。
 やろう。

 Webデザイナーをやっている友達が以前こんなことを言っていた。
「仕事が終わる、なんていうことはないんだよ」と。
 確かにそうだ。
 こういう、「納期」というものが存在するような仕事っていうのは、「ああ、仕事が終わった」という瞬間は厳密に言うと一切ない。まともに発注がある会社ならば。
 〆切が二週間先だったり三週間先だったりして、「今週はのんびりできるな」というようなことはあったとしても、その二週間先、三週間先の仕事というのは「ある」わけだから、「仕事が終わった」ではないのである。別にやろうと思えばできてしまうのである。
 で、二週間、三週間経つ間にまた別の発注が来て、その〆切が二週間、三週間先であると……このようなことの繰り返しで、仕事は永遠に終わらない。

 なんつうか今さら何を言ってるのかってところはあるけれども、真理は真理だよなあ。

 そういうわけで大切なのは「いかに早く終わらせて休むか」ではもちろんなく、「いかに休みたいときに休むか」なのだ。
「終わったら休もう」だと、永遠に休めない。

 せいぜい「〆切にまだ余裕のある仕事」をたくさん作って、その隙に休んだり遊んだりというのを一生懸命やろうと思う。
 とりあえず12月に向けて本を作るよ。

 というわけで仕事について書くのはもうやめたい。

2010/10/25 想像力

 想像力は大事である。
 最近僕はなんか知らんけどやたら仕事をしているのであるが、仕事というのは想像力が命なんであるなあと思った。僕にとっては。
 まあそのー、僕はあんまり働きたくない人なのですよ。
 それは別に労働が嫌いってわけじゃなくて、時間的に拘束されるのがいやなのですね。
 たとえばねえ、友達に「なわとびしようぜ」とか誘われて、「ごめん仕事でいけない」って返すのが、いやなんですよ。
 だからねええ、いつ「なわとびしようぜ」って言われてもいいような状態でいたいわけですよ。

 普通の人はたぶん、9時に会社行って5時に終わるんでしょう。いや実際そんな人はまずいないと思うけど、まあ6時とか7時とかに終わる人は多いでしょう。
 そういう人が、かりに友達から「8時からなわとびしようぜ」とか言われたとしますよ。
 んだけど、残業になったとしますよ。
 10時まで残業しなきゃいけなくなったら、もうなわとびはできませんよ。
 そんなのいやだー。
 なわとびしたいよー。

 というわけで、可能な限り、残業は避けたいのです。
 でも、9時から5時の間にすべてを終わらせるってことはほとんど不可能。
 そいだから、仕事はやれるだけ早めにやっちまうんです。
「今日はこのくらいにして、あとは明日やろう」ってのでなしに、「今日は予定がないから、明日のぶんも明後日のぶんもやっちまおう」ですよ。
 まあ、それが可能な職種であればですけれども。

 先週の金曜日は、今日を楽に、そして明日以降を楽にするために23時半くらいまで働いておりました。
 結果、今日のぶんの仕事が終わったのが22時半だったわけですが、金曜にやんなかったら朝になっておったわけですし、明日、明後日はたぶん夕方には帰れるでしょう。もしもいきなり「昼過ぎからなわとびしようぜ」と言われたとしても、じゅうぶん対応できるくらいには暇だと思われます。いつ来てもいつ帰ってもいいという自由な職場なので。が、何の予定も入らなかったらきっと来週のぶんの仕事とかやっていることでしょう。

 この話がどう想像力なるものに結びついてくるかというと、まあ、想像力ってのは未来を見通す力のことだから、〆切前にひーひー言ってるような人は想像力がないというわけです。早めにやれということです。ううむ、なんという正論。我ながら。うーん、だったら22時半までかかるようなのも本当はおかしいんだけれども、いやー、僕にはまだまだ想像力が足りないですね。本日になるまで動かすことのできなかった仕事が山のようにあったから仕方ないのだが。あとは効率化ですな。

 ちなみに本日朝まで働く人が我が社のメンバー4人中2人いらっしゃるのですね。
 想像力がないというわけではなく、たぶん彼らは「〆切の日に朝までやればいいや」というタイプのダメ人間なわけです。特に社長。
 社長が反面教師になってくれているおかげで僕は気を引き締めて仕事を早めに終わらせ、こうしてだらだら日記など書いていられるわけですよ。せっせと働いている社長を尻目に。

 僕はもう、とにかく休みたいときに休みたいので、休まなくてもいいときに働いておきたいわけです。
 そんなことをすると、余分に仕事を振られて困る、っていう職場もあるかと存じますが、僕は歩合制なのでそれも別に構いませんし、会社の業績が上がったり他の人が楽になるのならばよいことではありませんか。っていうのは、小規模な事務所ならではなんですけどもね。
 僕が今いるところは、なんかもう大学のサークルみたいなもんなんですよ。雰囲気はもう本当にそんなもん。

 うまく時間配分することですよ。
 想像力ってのは。
 たとえば僕は木曜の夜は20時から無銘喫茶というお店を営業しなければいけないので、必ずその時間までには仕事を終わらせていなければいけないのです。
 そうなると水曜日の段階でどこまで終わっているかというのが重要になってきます。
 ところが僕は水曜日の夕方から早稲田で授業を受けているのです。
 そうなると火曜日の段階でどこまで終わっているかというのが問題になってきますぞ。
 さらに言うとですな、木曜日に徹夜をするので金曜日はヘロヘロだからできれば早く帰りたいのです。
 そうすると「金曜にやればいいや」は通用しません、金曜にやれなかったら次は月曜だから、土日に出勤しなくてはならなくなります。そんなのはいやです。土日はデートとかしたいじゃないですか。一般的に。
 なので火曜日までにだいたいのことはやっておいたほうが吉となります。
 しかし、火曜日の夜に「なわとびしようぜ」がやってきたら大変なので、月曜日にできるだけやっておかねばならぬのです。
 そういうわけで月曜日である今日はなんかいっぱい働いてしまったのかもしれません。
 だって水木金はタイムリミットがあるから、残業三昧できるとしたら月火なのですよ。
 月火はめいっぱい働き、水木は夜の予定をこなし、金曜日は早く帰って寝る。
 あれ、そうなると僕はいつ遊びに行けばいいんだ?
 いつなわとびをしたらいいんだ?
 ウワー

2010/10/24 ポケモンに関する個人的な話

 ポケモンを一度もやったことがない。
 日本での、またはアメリカ等海外での異常なまでのポケモン人気は
 いったいどこから来ているのであろうか。
 ポケモンってそんなに面白いのか。
 個人的には僕はポケモンを憎んでいる。

 小学校5年生の春も近いころ、ポケモンの赤と緑が発売された。
 その日を境に世界は変わったのではないかと僕は思っている。
 何年も前から少しずつ、その準備は進められてきたのだろうが
 エヴァンゲリオンとポケットモンスターが登場した平成7年度というのが
 はっきりとした転換点だったと思う。
 もちろんエヴァやポケモンは最も代表的なものにすぎなくて
 それらがなければまた別のそういうものが出てきていたか
 出てきてなくとも同じ方向に世界は変わっていったのかもしれないが

 だから1996年の春に、僕が家の前の公園を歩いていて
 額を寄せ合ってゲームボーイ握りしめ、ポケモンに興じている3年生の子たちの集団を目にしたとき
 全部変わっちゃったんだと思ったね。

 僕はその瞬間から、「二つ以上年下の世代」というものをすっぱりと切り分けた。
 平成7年度に小学5年生だった僕は、ポケモンを一度もプレイしたことがないし、アニメも第一話しか見ていない。それでも話題について行けなくなるということはなかった。仲間はずれにされることも僕の場合はなかった。
 ドラクエやFFをやってなかったらまた別だったかもしれないが、少なくとも僕の世代はポケモンを知らなくてもまだ問題にならない世代だったはずだ。問題にしようとしたグループだって同世代にあったのかもしれないけど。
「二つ以上年下の世代」だったら、どうだったのだろうか。
 中学校に上がると、近所のガキどもと遊ぶ機会というのがぐっと減ったから、小学校高学年になった彼らがどのような生活をしていたのか僕はよく知らない。
 だけどやっぱり、僕より二つ以上下の世代になると、ポケモンに対する情熱が段違いに大きくなってくるという印象がある。
 一つ下でも似たようなものかもしれない。
「えっ、ポケモンやったことないんですか?」と言うのは、決まって年下だ。まあ、当たり前なんだけど。僕はたぶん本当に狭間の世代なのだろう。

 今の中学生、高校生でも、ポケモンに対しての情熱はでかい。
 この15年間を支配している価値観なのかもしれない。

 僕の嫌いな、この15年間の世界はエヴァとポケモン……によって代表されるような価値観で作られているような気がしてしまう。
 だから申し訳ないが僕はこの二つを憎んでいる。

2010/10/23 そんな日もある。

 久々に今なぜか何も書きたくない。
 ポエムくらいしか書く気が起きない。

2010/10/22 おいで

 僕などの家を訪ねてくれる人が近年何人かいて非常に嬉しい。
 ご近所さんはいいもんだなと思う。

2010/10/21 犬と豚

 真夜中、尊敬する年上の友達と話していた。
 犬と豚についての話を少しした。

 犬というのは思考停止の象徴だ。
 豚は怠惰の象徴である。

 僕がよく引用する漫画のせりふで、
「本から学ぼうなどと思っては犬にされてしまう
 本も読まないようでは豚になる」
 というのがある。(『二十面相の娘』より)

 本を読むことが手段ではなく
 目的になってしまっている人たちがいて
 彼らは進んで犬になりたがる。
 読んでいる間は思考停止状態になれるから
 楽なのだろう。

 答えを求めて本を読むなんて
 くだんない。
 あんなもんは筋トレだろう。

 友達はたぶん本で筋トレをして
 酒を飲みながら喋ることで練習をして
 生きることで実践している。

 また別の友達が嘆いていた。
 僕も思う。
 インターネットの一般化によって
 こういうお店ははやんなくなった。
 それで練習になるとでも思っているのだろうか。

 僕はこの6年間ほどゴールデン街に通っていて
 本当によかったと思っていますよ。

淋しいのは

 週末お互いの部屋で過ごしたり
 晴れた日は自転車に乗ったり
 何気ない瞬間が好きだった
 さよならの意味がやっとわかった
 淋しいのは
 これからなにがあっても
 ひとり

 喧嘩して顔も見たくなかったり
 疲れてて優しくできなかったり
 別々にいることも多かった
 さよならになってはじめてわかった
 淋しいのは
 ひとりでいることじゃなくて
 ひとりになることなんだね
 (篠原美也子『淋しいのは』)

2010/10/20 Hysteric Blue/Dear

 古本屋のワゴンで偶然見つけた『謎解き・坊っちゃん』という本が面白い。美男美女を描かせたら天下一品の挿絵画家、石原豪人先生が夏目漱石の『坊っちゃん』を「登場人物が全員ホモだとすればツジツマが合う!」という信念のもと読み解いた奇書。田舎の女中「清」が、実は「キヨ」という老婆ではなく「キヨシ」という老爺であるという指摘は青天の霹靂であった。確かに、そのように疑ってみたことはなかった(あるわけがない)。この発想力たるや!
 僕は高校生のとき(やや遅めである)に初めて『坊っちゃん』を読んで、「面白いけど、それ以上ではないな」と思って、後に大学で先人の研究を学び、「なるほどそういう意味で面白いのか」と一応は得心したものであるが、さすがに「漱石の中では『坊っちゃん』が白眉」と言う人(けっこういる)の気持ちがよくわからなかった。ただ10年間まともに読み返していないので、今読んだらたぶんもっと面白いのであろう(太宰治の『走れメロス』も、最初は面白さがよくわからなかった)。読んでみて「なるほど豪人先生の言うとおりだ」と思えたら、僕は『坊っちゃん』が大好きになると思うんで、ちょっと復習しよう。

 さて今日はタイトルにもある通り大切な日である。
 こういう偶然を運命と呼んでも差し支えはない。
 そうであればいい。

2010/10/19 めだかボックス

 週刊少年ジャンプ連載中の『めだかボックス』を5巻まで読んだ。
 内容は非常に面白い。
 こんなに中身の濃く、かつ読んでいて面白い作品は最近のジャンプでは珍しいのではないだろうか。
 能力系バトル漫画として一級品だと思うし、キャラクターの魅力も存分にある。テーマもしっかりとしており、何だか素晴らしい言葉ばかりが散りばめられている。そして最終的には平和であり、悪人らしい悪人がほぼいない。
 完璧に近い作品だと思うのだが、どうも今ひとつのめりこめないところがある。それはたぶん熱量である。
 この漫画には原作者がついている。おそらくその人がシナリオを書き、漫画家がそれを見ながらネームに起こして原稿を作っているのだろうと思われる。両者間でどの程度の打ち合わせが行われているかは知らないが、しかし同一人物でないのは確かである。
 そうなると、「意味の伝達」はできても「熱量の伝達」ってのは難しいのかもしれない。やっぱりどっかこう、熱の足りないところを感じる。
 そりゃー僕が大人になってしまったからかね?
 そうではないという前提でもうちょっと言うと、どうも作品から「愛」があんまり感じられない。職人が作ってますという匂いが若干する。
 漫画家がキャラクターなり作品そのものなりを深く愛しているかどうかというのは、原稿にダイレクトに反映してしまうものなのだ。たぶん。
 めだかボックスの作画の方が作品を愛していないかというのは知らない。でも僕にはあんまりそのことが伝わってこない。そこは力量かもしれないし、僕の好みなのかもしれない。
 僕の感覚としては、なんか記号だけで漫画描いてるような感じがある。
 小手先は上手いが魂がないというか。
 なんかねー、意味だけでやってるような感じがあるんだ。
 僕はふだんはうるさく意味が大事だと言ってるんだけども、やっぱりそれだけじゃだめだよなとも思う。
 意味を伝えるには、伝える側がそのことに関して深い理解を持っていなければいけない。原作者の伝えたい意味を正しく読者に届けるには、作画する人がその意味を正しく理解していなければならない。
 原作付き漫画は、ともすればそこのところに齟齬が生じてしまうのが弱点であろうと思う。もちろん、必ずそうなるということではないし、齟齬があったって奇跡は起こるんだけど。

 意味としては本当にすごい作品だと思うんだけどな。
 風紀委員会との対決なんかは、ものすごく重大な価値観についての問題提起がなされていると思うんだけど、作画の人はどこまでそのことを把握して書いているのだろうか。
 原作者の頭の中にだけある、というようなことだったら、やっぱり上手くは伝わらないんだと思うのだよな、読者には。
 こんだけスケールがでかく、複雑で、しかもとても大切なことを含んでいる作品を週刊というペースで作画していくには、「意味」なんてもんを考えている暇はないのかもしれない。だから原作に込められている多大なる「意味」が上滑りして、「とりあえず伝えましたよ」という程度の表現になってしまっているのかもしれない。
 完全なる邪推なんですけれどもね。失礼なことながら。
 でも実は作画のせいではなく、ひょっとしたら原作者の西尾維新があんまり深く考えていないというだけのことなのかもしれない。

2010/10/18 PIERROTと上から目線

 ヴィジュアル系ロックバンドPIERROTのヴォーカルだったキリトさんは「自分は絶対に正しい」ということを確信し、基本的に上から目線の詞を書いていた。活動のすべてが基本的に上から目線であった。「俺が正しい」ということが基盤としてあるから、キリトさんは常に自信満々であった。
 PIERROTには、「俺の歌を聴いて覚醒しろ」というメッセージの曲が多い。
「何にも考えないで生きていてはいけない。思考しろ」というのも多い。
「新しい世界を見せてやるぜ」的なのがとても多い。
 基本的に上から目線。

 灰色の毎日を人形のように操られ踊らされている現代人に、「自分の考えを持て」「考えろ」「自由になってもいいんだ」「可能性の翼はまだそこにある」などなどと訴えかけている。
「世の中はたくさんの絶望でひしめいているが、しかし希望だってあるところにはあるんだ」と言っている。
 インディーズで出した初のフルアルバムのタイトルは『パンドラの匣(はこ)』である。
 そのまんまである。

 キリトさんの出している唯一まともな(?)エッセイ集のタイトルは『思考回路』。名著である。
 先日、親PIERROT派の三島凛子嬢にこの書を貸し出したらば、「ジャッキーさんに似ている」と言われた。
「ジャッキーさんはそのうちキリトさんに会える」と、わけのわからないことをのたまう。んまあ、そうだといいな。

 前にも書いたが、最近気づいたことにどうやら僕は本質的にバンドというものが好きじゃないらしい。考えてみれば好きなミュージシャンというのはたいていが個人名義だ。フリッパーズ・ギターは初期を除けばバンドと言うにはちょっと微妙だし。

 そんな中であえて「一番好きなバンド」を考えたときに筆頭に上がるのが、たぶん実はPIERROTだったりする。ほかにろくなのがないからだ。
 むろん、PIERROTよりもカッコイイ音を出すバンドはいくらでもいるのだろう。たとえばゆらゆら帝国のほうが音としては断然いい、と(音楽業界の)世間ではされている。段違いなほどに。
 PIERROTよりも表現として優れた歌詞というのも、たくさんあるのかもしれない。これはひょっとすると音よりももっと主観的な判断になるような気がするからどちらとも言えないけれども。
 だけどなぜ僕がPIERROTという、有象無象のくだらないV系バンドと何が違うのだか全然わからない(と思われがちな)ものを愛するのかといえば、きっと上に書いたような要素からである。

 PIERROTには伝えたい理想がある。訴えかけたい思想がある。それを上から目線でストレートに投げかけるキリトさんの姿に僕は惚れるのである。

《もう手遅れなチョッと“足りない”奴等なんて見捨ててしまえばそれまでさ 勝手に殺し合って自滅してしまえ 時代の夜が明ける さあこれからが大切なのさ そう出番はそこまで来ている さあ覚悟はすでにできているか そう未来は僕と君たちのセンスで造りあげる》
《未来は僕と君たちのセンスに期待している》 (『DAYBREAK』)

 世の中には低脳が跋扈している。そんな奴らは切り捨ててしまえ。俺たちPIERROTやファンである愛すべきキチガイどもなど、「覚醒」した人々が未来を造っていけばいい。
 そういうようなことを言っているわけだ。
 なんだよこの自信は、ってなもんだが
 キリトさんにはそれだけの「自分が正しいという確信」があるわけだ。
 キリトさんの思想の「質」というのに関しては、僕にはまだよくわからない。しかし大切なことは、キリトさんが何かを「正しい」と確信していて、そのことを前提とした曲を聴いて僕は共感しているのである。共感なんて反吐の出る言葉ではあるが、それ以外に表現のしようがない。
 
 いったい何に共感しているのかというと、三島嬢が「似ている」と言ったとおり、やっぱり生きていく上での姿勢なんじゃないかな。
「自分は正しい」と確信しているという、そこに尽きるのではないかな。
「自分は正しい、世の中には間違っている人が多すぎる」という上から目線の前提があって、「俺がお前たちの価値観を揺るがし、新しい世界を見せてやる」と言い切る。
 僕はきっとそのようでありたいのだろうと思う。「だってぼくやだもん」って子供みたいに言いたいんだろう。
「だってぼくやだもん」を正当な言い分に変えたいから、いつも何かを考え続けているんだろう。たぶんキリトさんも僕も。

 なんてことを定期的に言っているんだけれども、未だにPIERROTを聴いている友達というのは三島嬢だけである。
 そんなに音楽として低質なもんかね?
 なんかやっぱりおしゃれな人たちはヴィジュアル系を聴きたがらないし
 ヴィジュアル系を聴くような人たちがキリトさんの言ってることをわかるかっていうと、そこはちょっぴり疑問なんだな。
 もっと意味を問題にする人たちが多ければ少しは違うもんなんだろうか。

 上から目線が嫌だから、って言われたら「なるほど!」って素直に思うけれども。

2010/10/16_17 ハートブレイクなごや

 名古屋に行ってきたよ。
 親に会って、すんたんとガスト行って、陽花とぺ~こと西間木くんに電話してカラオケに行った。観客がいたらもっと楽しいんだが。コンビニと川に降り立ち帰って寝て起きて大須へ行って金山まで歩いて電車に乗って東京に戻った。
 水瓶座の女というのはいかん。

 ひつまぶしとみそカツと、すがきやが食べたかったのだが、結局実家の飯が最も安くてうまいため、何も食べなかった。ガストでパフェ食ったくらいだ。あとはミリマのとりたまサンドか。
 それにしても名古屋は歩いているだけで涙が出てくる。
 こんなにまでもう故郷は遠い。
 空間的にも心理的にも、時間的にも遠くなってきた。
 だけどそれだけ愛している。
 泣けるほどに。

 大須とかね、大好きだね。
 偶然にも名古屋まつりの日で、信長隊とすれ違った。
 いつものお茶の店で葉を買った。
 ある和物の店を
 新しく好きになった。

 懐かしいだけでは嫌だからなあ。

 名古屋に行ってきますよ。

2010/10/15 基礎

 テストでいい点が取れても根っこから理解していなければすぐに忘れてしまうから、「前のテスト範囲に含まれていた内容」なんてのは次のテスト時にはもう何も覚えていない。
 知らないわけではなく、答えを言えば「あー、そういえばそんなのあった」となるのだが、どれだけ考えさせてもほんの単純な答えが出なかったりする。
 それは知識量の問題ではなく、知識が使える場所に入っていないということ。
 係り結びという法則は知っていて、ぞ、なむ、や、か、こそという係助詞を知っていて、文末が連体形ないしは已然形になることを知っていても、文末を指し示して「これは何形でしょう」というように少しひねった聞き方をするともうわからない。
「ぞ」とか「こそ」があるのに、「終止形?」とか「連用形!」とか言ってしまう。頭で考えていない証拠である。脊髄で考えている。
「係助詞がつくと文末が連体形ないしは已然形になる。この法則をなんと言うでしょう」という質問の仕方でなければ、「係り結び」が出てこない。それはやっぱり、脊髄で覚えているからだ。「こういう質問には、こういう答え」という、一対一対応でものを考えてしまう。自動販売機じゃないんだから。

2010/10/14 テレ玉は新時代のメディアの在り方を示している(といいな)

 先日一日中テレビ埼玉(テレ玉)を見る機会があった。
 朝から夕方までずっと見ていた。
 テレビとは、かくあるべしと思った。
 地元への密着っぷりが半端じゃない。
 東京や大阪や名古屋だともうちょっと大規模になるが、
 テレビ埼玉や三重テレビくらいだとこじんまりとしている。
 もう本当に手の届くというか、足の届く範囲の話しかしない。
 身近とはこういうことか。
 県内の飲食店を紹介する番組でも、カラオケ番組でも、とにかく主役は「地元の人間」だ。

 ふつうカラオケやクイズなど視聴者参加型の番組(のど自慢とか初期ミリオネアとか)では、主役はもちろん参加者本人で、それを応援するのは(せいぜい)家族や友人たちと相場が決まっている。NHKのど自慢では、本人の紹介はあっても応援者が出てくることはまずない。チャンピオン大会でも紹介映像で出てくるのは家族か友人が多い。
 つまり「個人」が単位として設定されている。
 ところがテレビ埼玉の「カラオケ1ばん」では、応援しているのは大体が「歌い手の通っているスナックの店主と常連」である。
 そもそも参加条件が「カラオケ1ばん参加店の推薦する人」。参加店ってのはなんなんだかよくわからないが、スナック的なところがほとんどのようだ。  テレ玉は「個人」ではなく「お店」、すなわちその人の属している「世間」が主役になっているのだ。
 そして番組の中には「歌い手を輩出したスナックが自分の店を宣伝するコーナー」がわざわざ設けられているのである。
 NHKののど自慢は全国放送で、収録も全国を巡って行われるため、どうしても「地元」というよりは「地方」という意識になる。だから「個人」が主となるのだ。

 テレ玉では、個人というものをあまり重視しない。
 飲食店紹介番組にはもちろんレポーターがいるのだが、彼ら彼女らが普段何をしている人間なのかというのがぜんぜんわからない。タレントにしては華がないし、アナウンサーにしては気が抜けすぎている。「こいつらはいったいなんなんだ? とにかくまったくの素人ではないようだが……」というレベルの出演者が、何の説明もなく登場する。ローカルタレントなのかもしれないが、特に面白いことを言うわけでもなく、ぜんぜん目立たない。やはり主役は「お店」なのである。紹介されるお店はとにかく多く、広範囲にわたる。「ラーメン特集」とか「新宿の隠れた名店」といった限定はなく、県内くまなくざっくばらんに、時には隣の群馬県にあるお店まで紹介する。そして「カラオケ1ばん」のお店紹介コーナーのように、従業員がお店を紹介する時間もちゃんとある。カメラ目線で何人かの従業員が「うちの店は○○で××で、とてもおいしいです。ぜひきてください」みたいなことを言う。

 そしてもうひとつの特徴は、欲望にまっすぐに正直であるところというか、視聴者のニーズをストレートに捉えているところというか。なんというか、割り切っているというか。
 通販番組(通販CMと言ったほうがいいのだろうか)がやたら多い。
 夕方は競輪を延々とやっている。
 通販とか競輪とか、ぜんぜん上品な感じがしないのだが、そんなことにかまってはいられないのである。
 たとえば今度の日曜日の番組表を見ると、東京の局はどこも放送しないのに、テレ玉は計3時間以上も競馬中継を流している。
 競輪・競馬というのは乱暴に言うと「レース実況とその結果」が見られればいいのだから、別に面白くする必要もないし、予算もかからないから製作が楽なのであろう。需要する人々が確実に一定数はいるので、視聴率もそれなりには取れる。面白い番組が見たい人は東京の番組を見ればいいのだ。

 僕はテレビってそれでいいような気がしている。
 ひたすらに地元に密着し、ひたすらに実用的であること。
 もう「面白い」なんてのは必要ないだろう。
 面白いものは街にもネットにも携帯にも、いくらだってある。
 テレビという受動的なメディアならではの在り方というのは、「面白い」ではなくって、「地元に立脚する」なのではないか。
 地元に立脚しているというだけで、人は親近感を覚える。
 僕は名古屋出身だから、名古屋のテレビ番組で面白そうな場所やお店が紹介されていると「お、行ってみようかな」にまずなる。東京のグルメ番組が彦麻呂のように大げさになってしまうのは、「行ってみようかな」よりも「おいしそおー」を重視するからである。テレビ埼玉はそこが完全に逆転しているので、レポーターにかかる比重は少なく、お店や従業員のほうがより強調される。
 もう「面白い」とか「おいしそおー」の時代は終わらせて、「親近感」とか「行ってみようかな」になるべきなんじゃないかなあと、僕は思う。
 遠くの情報なんてインターネットで手に入るのだから、もっとずっと臨場感のあるテレビというメディアは、もっとずっと身近な情報を取り扱うべきなんじゃないの? とか。

 テレ玉はだから、僕の中では新時代のメディアなのだ。たぶんほとんどの人は旧時代だと思っていて、実際に世の中はそのように進んでいくのかもしれないんだけど。
 僕の理想はテレ玉。

2010/10/13 やっててよかった? 公文式

 よくわからないが公文式は素晴らしい。
 あのすんすんが「公文はええよ。特に国語」と口癖のように言っていたのでずっと興味はあったのだが、それにしても公文式国語をまともにやっていたという人にはまともな人が多い気がする。
 そういうわけで5年くらい前に買った『公文式国語の「方法」』という本を読んでみた。
 なんだなんだ、1歳になるかならないかのうちに公文を始める人もいるのか。
 そいで中には幼児のうちに論語なんか読んじゃったりする子もいるのね。
 すごいじゃないですか。

 僕は公文はおろかそういうことは一切やったことがない。
 いわゆる習い事の類。
 だからか早期教育に関してはずっと懐疑的というか割と否定的だった。
 今でも英語の早期教育は狂気の沙汰だと思う。
 でも少なくとも国語に関してはそうでもない。だいたい早期教育が失敗するんだとしたら、親が必死すぎるか、あるいは反対に「早期教育のシステム」に頼りっきりで「これをやっていれば安心」という短絡思考に流れてしまったからじゃないかね。実際のところ、学ぶこと自体には早いも遅いもない。要はやり方の問題で、ちゃんとやんなきゃ失敗するのは当たり前だ。

 考えてみれば僕はずいぶんな早期教育を受けていた気がする。
 特に算数と、漫画を読むことにかけては相当早くからやっていたはずだ。
 兄が三人もいたせいだろう。
 詳しいことは全っ然覚えてないから、それが3歳だったのか5歳だったのか、7歳だったのかわかんないんだけどもね。1歳から公文式ってのとはレベルが違う話なんだけどもさ。でもねえ、僕が1歳っつったら兄たちは7歳と5歳と4歳なわけで、お母さんが兄弟みんなに絵本やら何やらを読み聞かせてたのを僕が隣で見聞きしていたっていう状況はたぶんあったんだろうね。そう考えると、これって十分早期教育なんじゃないの。ってことは、末っ子って「自然な早期教育」を受けやすいんだね。んま、意図的にそうしなかったらそうもならないような気はするけども。うちのお母さんが偉かったんだね、たぶん。

 一番上の兄と6つ離れているということは、0歳児の時に6歳児向けの教育を受けるようなもんなのだ。0歳児に6歳児の教育がそんなに効果的であるとは思えないが、僕には3つ上の兄と4つ上の兄もいるので、3歳児向けの教育と4歳児向けの教育も同時に受けていたわけである。公文式をやっている2歳児に5歳児程度の国語力があるってのがザラなんだとすると、2歳児だった僕が3つ上の兄が受けていた教育を何らかの糧にしていたとしても別におかしくはない。つっても、ここで言う「教育」ってのが具体的には「絵本の読み聞かせ」くらいしか思い浮かばないんだけど、まあ日常的な会話とかってのもそうですよな。重要。
 そーいえば僕は小学一年生の一学期に「勉強ができない」ってことで先生から呼び出されたのを覚えているよ。だってひらがなの書き取りとかやらされるんだもん。そんなくだらないこと、やる気になるかっていうんだよね。そこで「書き取り」全般をバカにしてしまった結果、国語の先生やってたくせにけっこう漢字に弱かったりしちゃうわけだ。書き順とか、教員になってから必死で覚えたよ。これって、典型的な早期教育の失敗例って感じしない?
 ま、その程度の失敗は本人の意志次第で取り返せちゃうんだけど。

 公文式の教材って、易しいところからだんだん難しくなってって、年齢に関係なくずんずん先へ進めちゃうもんらしいんだけど、僕の場合は教材が漫画だったのね。で、やってたことは実は公文式と同じだったかも知れないわけね。たぶん『ドラえもん』あたりから始まってだんだんステップアップしていって、小2で手塚治虫のどんな作品でも読めていたってのはやっぱり驚嘆すべきことだと思うよ。いや、さすがに『一輝まんだら』とかは読まなかったかもしれないけど。伝記は何冊か読んだ。『ガラスの地球を救え』はタイトルが怖すぎて読めなかった。『まんが道』とか『デビルマン』も図書館にあったから読んだ。あと長兄が中二、次兄が小六だったから、彼らの買ってくるものは片っ端から読んでたんじゃないかな。小2までは、なんだか公文式で「漫画」って教科やってたような感じ。設問も採点者もないけど。でも手塚まで行っちゃうとその上ってとりあえず思いつかなくなっちゃって、早期教育はそこで終わりを告げたんだな、たぶん。
 今思えば手塚のどんな作品よりも『ドラえもん』のほうが教育貢献度が高かったような気がするけどね。

 自分の小2の時を思うと、小2って存外賢いんだよなあ。でも表現する術を知らないから周囲からはバカにしか見えないっていうね。それで随分と憤りを覚えたもんだ。あのねえ、当たり前のこと言うけど大人はわかってくれないんだよ。でねえ、子供だってわかってあげてないのさ。だって誰も「わからせよう」ってのをしないで、「わかってよ」しかないからさ。まともな男ってのは割とどこかで「わかってよ」よりも「わからせよう」のほうを重視しようと思い至るもんなんだけど、女はいつまでたっても「わかってよ」なんだあね。「察してよ!」って女の子はよく言うね。言外に。
「なんでお母さんはわかってくれないの」って思ってる女の子は多いけど、「それは君がわからせようとしてないからさ」っていう答えしかないでしょう。「わからせようとしてるもん」って言うのなら、それは君にまだその能力がないんだよ。お母さんのせいにしちゃいけないよ。子供から見た大人が「物わかり悪い」ってのは仕方のないことなんだから。ひとまず勉強しましょうね。お母さんとは仲良くしながらね。
 んでお母さんのほうもね、「どうしてわからないの」って言っちゃうんだよね。「わからせよう」って努力もしないで、いきなりそこへ行くのね。
 そもそもお互いに「わかろう」がないんだよ。
 というよりは、「わからない」がないのかもな。
「親なんだからわかるわよ。子供なんだからわかりなさい」
「子供なんだけどわかるよ。親なんだからわかってよ」
 という応酬。
 んで、「あんたの言うことわかんない」「お母さんの言うことわかんない」ってのが単純な拒絶にしかならないから、やっぱり一方通行なんだな。
「わかんない」と「わかる」が表裏の関係にあるんだってことがどうして踏まえられないのかね?
 ひっくり返すだけでいいのに。

「わかんない」を「わかる」にするためには、ひっくり返せばいい。要するに「相手の身になって考える」だよね。あまりに単純なことだね。

 まあいいや。小2ってのが存外賢いもんなんだったらばさ、3歳児や1歳児が変に賢くったって別にいいような気はするんだよね。バランス崩しちゃうかもしんないけどもさ、それは別に「おっとっと」で済むようなもんでしょ、そのために力をつけるんでしょ。バランス崩した時に立ち上がる強さを教育が作るんだからさ。それがちゃんと「教育」になってんだったら、大丈夫なんじゃないの。
 早期教育って言葉はやっぱり妙で、教育なんて生まれた瞬間からしたっていいんだよ。ただ子供から目を離さないようにしてあげればいいんだよ。他人やシステムに丸投げしたらダメだし、自分一人が必死になったって意味がないのです。まあ、ほんとただそれだけのことだよな。
 公文式についても色々批判的なことが言われているが、僕の回りには「やっててよかった公文式」ってホントに言ってるような人がけっこういる。合ってたんだね、教材も、教室も。合ってないならそりゃ失敗する。「合っている」ってのは、主にタイミングと、指導者の技量の問題ね。
 僕は教育ってものが好きで、生まれた時から教える立場になる日まで、人はずっと教育を受け続けるもんなんだと思うよ。

 勉強ってなんのためにするんだっていう問いがあるけどさ、そりゃ教えるためだよ。「名詞」っていう言葉を覚えたって別に何の意味もないような気がするけどさ、でも「名詞」っていうものを知らないとものを教えるのは難しいよ。たとえ教える時に「名詞」という言葉をいっさい使わないとしても、その概念を知っているのと知らないのとでは全然違うでしょ。
 人間が学ぶのは教えるためなんじゃないかとしか思えないんだよね。だってそう考えないといろんなことが無駄に見えて来ちゃうじゃん。「学校で習う文法って何の役に立つの?」と言われたら「教えるのに役立つよ」としか言えないね。それは別に「文法を教えるのに役立つ」という意味ではなくてね。

2010/10/12 職業に貴賎あり

 最近わりと仕事をしている。
 仕事なんて麻薬みたいなもんでから(広島弁)、やりすぎるといろいろなことが麻痺してきて、あろうことか「働くのって楽しいなあ」「すばらしいなあ」となってくる。
 具体的に何をしているかということは問題ではなく、「働く」というずいぶんと抽象的なことに価値を置くようになっていく。
 しかし実際は、働くこと(=何かをしてお金をもらうこと)が美徳であるわけではない。そんなわけはない。「職業に貴賤なし」という、あれは嘘だ。具体的に何をしているかということが重要なのであって、それを忘れてはならない。

2010/10/11 キウイと医者

 小学校のころ、給食で出るキウイを食べるたびに著しく体調を壊していた。小4くらいのころに「どうやらアレルギーらしい」ということがわかり、「二度とキウイは口にしない」と固く心に誓ったのであった。

 ガキどもと食事をしていて、そやつらが食べ物の好き嫌いをする醜悪極まりない者どもだったので、
「ドヤ! わいはトマトが食えるんやで! ドヤ! わいはミツバも食えるんやで! ドヤ! わいは豆も食えるんやで! ドヤ! わいは嫌いなもんなんかないんや! ドヤ! ドヤドヤ! パヤパヤ! ドンドン!」
 とドヤドヤしくわめき散らしていた。
 するとどこからともなくケーキが運ばれてきたのである。
 誕生日ケーキ。
 等分して切られ、僕の目の前にやってきた。
 その上にはイチゴさんらと共にキウイさんも鎮座ましましておられ、さらに断面のスポンジさんのすき間からもごきげんようしていらっしゃったよ。
 誕生日ケーキを「食べられません」と断るのも嫌な男だし、キウイ部だけをほじくり出して残りを食べるのも美しくない。それに日ごろから「食べ物を残すやつは地獄の業火に焼かれるべき」とか「好き嫌いするやつの家族は老後になって殺し合う」とか真顔で言ってる立場上したくてもできないことであった。ケーキはあまりに美味しそうで、食べたくてたまらなかった。
 僕は男よりも男らしい男なので、「すいません、実はキウイはアレルギーが出るのです、代わりにどなたか召し上がってください」などと情けないことは言えない。
 それでどうしたのかというと。
 僕は非常に頭のいい人間だから、食べたのである。
 僕は非常に頭のいい人間だから、ポーカーフェイスで「アレルギーです」なんてことはおくびにも出さず、「うまい、うまい」と言って食べた。そして当然むちゃくちゃうまかった。キウイって美味しいよな。美味しいのに十五年間食べて来なかったんだよな。とか思いながら。
 僕は非常に頭のいい人間だから、別に体調を崩すこともなく、健康なまま会食を乗り切り、全力で子供らと戯れ、家に帰ってからも一切具合が悪くなるということはなかった。頭が良くて本当によかった。
 そういうわけで僕は晴れて「食べられないものは何もありません」と真のドヤ顔で言えるようになったのだ。これまでのドヤ顔は偽りのドヤ顔であった。これまでは「ドヤ……」だったのが「ドヤ!」になったくらいの変化である。いや、「ドヤ!」だったのが「ドヤ!!」になったというほうが近いか。ドヤ!!
 ヤッター。


 そんでそれとは別件で医者に行った。
 くすりをもらった。
 プラセボ効果を高めるためできるだけ医者には行かないようにしているのだが、その甲斐あってかやっぱり医者に行った瞬間から劇的に快復してきた。
 こっからはプラスに転ぜしめるために尽力する所存。

2010/10/10 10GA

 漁夫の利じゃないが、岡目八目ではあるかもしれない。
 みんなが欲しがっているものを持っていくには押しだけじゃだめで、引きの画で見せてからさらりとやらねばならぬ。
 そんなふうにして友達が増えた。


「絶対に欲しい!」というのではないからこそ見えるものもある。
 狙ってないからこそ、その女の子のことがよくわかる。
「こりゃ見込みないな」とか「行きたそうじゃないな」とか。
「そういう攻め方じゃダメだと思うけど」とか。
 だいたいガツガツしている人は単細胞だ。

 そもそも「絶対に欲しい!」というものなんかこの世にあるんだろうか。
 ないような気がする。
 気がついたら「絶対に離したくない」になっていることはあるだろう。
 失ってしまったらまた別だが。
 異性との関係でも、「絶対に欲しい!」と思ってしまうのはだいたいが勘違いだ。この場合の「欲しい」は欲望に根ざすもので必要には根ざさない。
 欲望には根拠がないから、容易に間違える。
「絶対に欲しい!」という目標を先に設定してしまうと、スタートとゴールとの間を埋めなければならなくなる。ゴール前は断崖絶壁かもしれないのに。
 最初にゴールさえ設定しなければもっと良い場所に行けたということはいくらでもある。例えば「将来の夢」なんてのに騙されて野球ばっかやって、実際その方面では何の芽も出せなくて、野球部時代の想い出を語ることしか生きがいがないような大人なんて捨てるほどいる。
 大切なのはゴールではなく現在地であって、そこから踏み込む一歩目の場所だろう。


「絶対に欲しい!」というものが存在して以後の世界はたぶんどんどん退廃して行っている。
 たとえば世の中がどんどん便利になっていくのは、みんながいろんなものを「絶対に欲しい!」と思い込み続けているからかもしれない。

2010/10/09 アメリカンホームコメディフルハウス

 なんか最近フルハウスみたいなことになっている。
 ステファニーが可愛くて仕方ない。
 まあミシェルはもっと可愛いんだが。
 DJは二人に比べれば落ちついているけどやっぱり可愛い。
 ドヤ!

「モーターで動くドラえもん組立キット」みたいなのがあったので買ってしまった。
 ステフに与えたら「嬉しいけどわたしには作れないどうしよう」みたいな顔をしていた。

 子供と遊んでいると自分は本当に子供だなあという気がしてくる。子供とほとんど同じテンションになってしまう。
 でも僕のおかーさんは50過ぎてなお子供と同じテンションで遊んでいる。ずっと保育園で働いていて孫もいるので、ときおり僕に対してさえ「子供テンション」で接してきて、そんなときは僕もちょっぴり退行する。

 フルハウスでも、ダニー、ジョーイ、ジェシーという三人の男たちは、やっぱり子供と同じテンションで、時には同じ視線に立って接している。そこがあの番組の面白く、かつ素敵なところだと思う。
 しかし三人はやはり大人なので、時には子供たちを叱ったり相談に乗ったり、ひたすら心配したり寂しがったりしている。
 三人は「子供であること」と「大人であること」を上手に使い分けているのだ。子供に合わせて。
 大切なのはやはりそこだろうな。
 子供でありすぎるとなめられてしまうし、大人でありすぎると楽しくない。そのバランスというものは非常に難しい。
 バランスを取るために必要なのは何かと言ったら、それはたぶん「信頼と絆」だろう。
 先生と生徒という関係ではどうしてもそのバランスを取ることが難しいというのは、「信頼と絆」がそもそも結びづらいからだと思われる。
 だから、厳しい先生はただ厳しく、なめられる先生はただなめられているということになりがちだ。
 家族という「信頼と絆」の塊のような関係のなかで、このバランスをうまく取っていけないというのは致命的で、そういう家庭はバラバラになってしまいやすい。
 フルハウスのタナー家はそこのバランスを何よりも重視していて、個人主義の国といわれるアメリカの番組なのに日本でこんなにも人気があるというのは、たぶんこのあたりに秘密があるのだろう。
 標準的なアメリカの家庭がどうであるか、というのとは別に関係なく。

 楽しさと厳しさのバランス。
 その均衡の先に幸福というものがあるのならば、僕のフルハウスもそのようにつくり上げていかなければならない。

2010/10/08 僕をもうちょっと現実に

 一昨日学校(元職場)の話を書いて、昨日は無銘の話を書いた。普段はあんまり書かないんだが、なんかそろそろちょろちょろと、私生活を切り売りするような真似もしてみようかなという気になってきている。
 やっぱり具体的なことのほうがわかりやすいからな。
 ここ数年、どうも抽象的にやりすぎた。
 それも好きなんだけど。
 もう少しくらい「僕」っていう人間像を現実に近づけていってもバチはあたらないかなあという程度に。

 今日から職場に通うことになった。
 刺身の上にタンポポを載せるというような関係のものではなくて、たとえるならば弁当の紹介文を書く仕事である。
 弁当の特徴と、それぞれのおかずについてなどを微に入り細に入り記述していく。そういう感じの仕事。
 からあげ弁当だったら、価格とかカロリーとか材料の産地とか工場とかいう具体的なデータを書いて、米について詳しく書いて、からあげについて詳しく書いて、たくあんについて詳しく書いて……みたいなことを延々とやっていく。これから半年くらいかけて、何十種類、何百種類の弁当に関してそれをやる予定である。(重ねて言うけど弁当というのはあくまでも「たとえ」。)
 弁当の紹介文を書くだけの簡単なお仕事(んまあ弁当会社の人や「紹介文集」を作っている会社の人とやり取りすることもあるが)だから、別にスーツを着るでもなくテキトーにやっている。今日なんか『三つ目がとおる』の写楽保介Tシャツで仕事していた。シャーラック・ホースケ。

 全然関係ないが久々に会った教え子に「失恋したでしょ?」みたいなことを言われた。このサイトを見てのことらしい。どうしてわかったんだろう。僕は意外とわかりやすいのかもしれない。

 とある山手線の駅で弁当を売っていた女の子と4年間付き合っていたのだが、彼女は大学を卒業すると同時にそのバイトをやめてしまったので、それきり会えなくなってしまったのだ。傷心のあまり自棄になって胡椒を丸呑みしたりなどもしたが、今は14歳のかわいい彼氏がいるので別に悲しくなんかない。
 彼氏は14歳のくせに僕の身長を越してしまったのでそろそろ僕もやおい穴を開通させるための手術を受けなければならない。やおい穴というのは、男同士が正常位で抱き合うために開発された人工的な穴のことである。と、僕は思いこんでいる。なんと言われようがそれ以外の定義は存在しない。
 男同士というのはやっぱりどうしても抱き合うことが難しい。というか、抱き合うのだとしたら抱き合うことしかできない。抱き合いながら性的な行為をするというのはけっこう難しいらしい。というのは僕が言っているのではなくて橋本治せんせいが『蓮と刀』で言っているのだ。なんとも説得力がある。
 たぶん女同士でも事情は同じだろう。だからこそ、同性同士のカップルの絆というのは時に限りなく深くなるのかもしれない。よく知らないけど、たぶんそうだ。

 それにしても同性愛者で「男同士はまともに抱き合うことができない」ということを言ってしまうのはすごいな。いかに名著かというのはそこにもあるな。『蓮と刀』。

 男と女というのは本質的に異質であるものだと思うんだけど、抱き合うことによって一つになってしまうと「同質なのかもしれない」という錯覚に陥ってしまったりするんではないか? とちょっと思った。
 男が女を異質であると判断するためにはやはり、同質である存在としての男を知らなければならないのだろうな。男はそのことをサボりすぎなきらいがずいぶんある。
 男は女が異質であるということを受け入れるのが意外と苦手なんだと思う。なんか同質だと思っちゃう。女は男に対してどうなんだろう? 僕はまだよくわからないけど、たぶんやっぱりそれなりに苦手なんだろう。
 どっかでお互い同質だと思っちゃってるから、価値観の押しつけっていうのが見えないところで起こっちゃうんだと思う。

 対等に異質で、対等に素敵であるような相手と付き合うのが理想ではあるのだが、対等ということと同質ということを人はしばしば取り違えるから、対等に異質ということがきっとよくわからない。
 自分の世界と誰かの世界の間には必ず隔てる何かがあって、その「何か」という場でしか同質であることも異質であることも確認することはできない。
 その「場」ということを意識することがたぶん最も大切だ。
 それは具体的な場ではなく抽象的な場である、と言ってしまっていいのだと思うが、別に具体的な場であってもいいのかもしれない。テーブルの上にメモ用紙を乗っけるっていうことだっていいのかもしれない。よくわからないのなら、とりあえず具体的なところから始めてみるしかないのだし。

2010/10/07 たまには無銘の話を

 無銘喫茶(毎週木曜日に僕が店長やっているバー的なところ)を一晩中営業していると様々な人が来て様々な話題が巡り巡って移り変わっていくので「昨日どんな話したっけなあ」というのが思い出しにくい。

 新宿ゴールデン街「無銘喫茶」の木曜日はそうとう言論の自由が保証されている場で、楽しければ何を言ってもいい。当たり前のことだが飲み屋に良識なんてもんはない。今夜もずいぶんとひどい話をしたものだ。
 今日は零時過ぎてからの盛り上がりが尋常でなく、僕も常連さんも一見さんもフルスロットルで走り抜けた。それでいて体育会系的なノリというのではなく、黙っている人は黙って笑って喋っている。矛盾しているようだが本当にそんな感じ。楽しいというのはこういう時間のことを言うのだと常々思う。
 いつもテンション高いのかというと全然そうではない。むしろ普段はすっぽりと気が抜けていて、ひたすらまったりするだけというのが深夜だったりもする。場にいる人と、その人たちの気分によって空気というのは流動的に変わっていくもので、だから「木曜はこんな雰囲気」みたいなのがあんまりない。せいぜい「常に僕がいる」ということくらいだ。僕しかいない時だってある。
 常連が多いというのはもちろんだが、木曜の常連は柔軟な人が多いので、その人の色で空間を染めあげてしまうというようなことがない。だから流動的になれる。初対面の人とでもしなやかに仲良くできる。それが本当にうまくいくと今夜のような楽しい状況になる。日によって全然違うので、飽きない。だから僕はもう5年以上もずっとここにいるのだ。

 本音を言うと客でもありたいので、後継者というか、たまに代わってくれる人がいたらと思う。はやく弟子が二十歳くらいになれば良いのだがな。

2010/10/06c 体育祭に行ってきたよ

 運動会だか体育祭だか体育大会だか知らんが、行ってきた。
 共通にしてくれりゃいいのに、なんでいちいち変えるんだろうね? 呼び名。全部運動会でいいじゃん。そのうちフィジカルフェスティバル(FF)とかになるぞ。イヤだイヤだ。

 夕方まで予定がなかったので昼まで寝太郎していたら十二時ごろ電話が鳴って、友人N氏から「今から体育祭に来ませんか」とのことだった。バカヤローふざけんな、13キロもあるんだぞと思ったが十分後には自転車にまたがっていた。

 そういうわけで3月まで勤めていた学校に赴いたわけである。僕が教えてたのは中学校だが、行ったのは高校の体育祭。一年生と二年生には僕の息のかかった子がたくさんいる。着くなり保護者参加の学年対抗玉入れを半ば強制的にやらされた。
「一年生チームに入るよね? ね!」
「二年生だよね、まさか裏切らないよね?」
 と、板挟みされたので日和って両方のチームに玉を入れた。
 そっから先はひたすらに暇だった。ゆったりと、仲の良い子たちと戯れた。
 なんかこう、高校の体育祭のことを書くんだからもっと面白おかしくやりたいんだが、そういう芸風がもうホントできなくなってしまったみたいだなあ。昔なら無理にでも面白く仕立て上げたんだけど、今の僕はどうやらもう「面白い」という判断基準が当時とはまったく変わってしまっているみたいだ。うーむ。

 一年ぶりとか、半年ぶりに会っても、だいたい名前がわかる。生徒たちは「自分が覚えられているか」ということにかなり敏感なので僕はいつも「名前を呼んであげよう」とか思うのだが、「やあ○○」なんてのはけっこう不自然なのであんまりできなかったりする。意外と覚えているんだぜー僕は。でも「あたしの名前覚えてる?」とかは聞かないでね。言われると自信なくなっちゃったりするし、万一忘れてしまっていたら土下座せねばならぬ。特に男子は、言葉より肉体で接していた場合が多いので「そもそも知らない」ということがけっこうある。「知ってるのにパッと出てこない!」というのも、100人に1人くらいはいる。それはもう歳だからってことで許してください。お慈悲を。
 僕に限らず名前に限らず、先生というのは意外と異様に色々なことを覚えているもんである。しかし生徒というのは意外と異様に「私のことなんて覚えてもらえてないよなあ」と思っている。
 例えばこんな会話が今日あった。

ジャッキー「いやー、今日は○○さんにも会えたし、来てよかった」
○○さん「えっ。あたしのこと知ってたんですか?」
ジャッキー「もちろんっすよ(下の名前まで知ってるよ)」
○○さん「いま、覚えられてないていで喋ってました。今日初めて会いましたみたいな」
ジャッキー「そんなわけないだろ」
○○さん「いや……だって授業受けたことないし」

 それを言ったら例の弟子なんか、教えたことがないどころか知り合ったのも卒業寸前だ。
 そんな具合でけっこうみんな「覚えられてない」と思ってるもんなんである。こんなやり取りが今日一日だけでも幾らかあった。

 やっぱ名前ってのは最重要だな。
 あと大切なのは、名前ってのは呼ばないと覚えない。
「名前を呼ぶ」ってことをしないと、覚えられないし、覚えたとしても「覚えられている」と思ってもらえない。
 僕はけっこう生徒と仲良かったから「名前を呼ぶ」ってのも割としていて、覚えているのはそのおかげだろう。
 つっても、たまに名簿を見ながら「うん全員わかる」なんてことはやってるんだけどもね。できれば全校生徒の名簿がほしいもんだが、自分の持ってたクラスのしかない。卒業アルバムがあれば一発なんだが、もらえなかった。くれよ! 金出すから!

 なんかこう、ね。僕みたいな立場の人間が今さら学校に顔を出すと、すっごいなんか「ドヤ!」って感じになるから嫌なんだけど、やっぱり子供たちの顔を見ると嬉しいね。もう全ッ然僕は部外者で、みんなも僕とは一切関係のないところで暮らしているんで、ホントになんかもう今さら出て行きたくないなってのは多少あるんだけれども、しかしね。今日久々に会った幾人かはおそらくこれからも何かしら関わっていくことはあるわけで。顔を合わせるってのは何にしても大切だよな。文化祭も行きます。
 もうホント学校に行くのは照れくさくって嫌なんだけど、「照れくさい」ってことで消えてなくなっちゃった関係ってのは過去に幾らもあったわけで、それに関して後悔していないってわけでもないんだから、そんな照れくささ、要らないってことだな。捨てよう。

 つうわけでそのあと早稲田行ってあさばせんせーの授業受けて富士見台のもりばこーひーで日本文明論の覚醒読んだ。おもしろい。

2010/10/06b 一般的な価値基準に興味がない

 僕は一般的に「面白い」と思われているものにとことん興味がないのだなあと思った。ディズニーランドも軍艦島も、海も温泉も旅行にさえも積極的に「行きたい」とは思わない。
 おいしいものを食べたいという気持ちもない。僕は北海道に行って食パンとカールとロッテリアしか食べないような人だ。写真もあんまり撮らない。
 僕はやっぱり本来的にはインドアである。自転車には乗るけれども、何度か書いたようにそれは「移動手段」である。基本的にはインドアから別のインドア的状況に移るまでの間を埋めるものでしかない。山とか川とか自然は大好きだが、自然を感じるためにわざわざ遠くまで行くというのも不自然極まりない。石神井公園と多摩川、実家のほうなら定光寺と矢田川で満足だ。ゆえに意外と登山やキャンプに対してもあんまり惹かれはしない。
 やるんなら「石神井公園キャンプ」とか「矢田川キャンプ」といった具合に、近所であえてやりたい。近所で十分だ。まあ、山奥に行けば水と空気が綺麗ってのはあって、そのために行くってのはありかなとは思うんだけども、どうしてか僕はそんなに積極的にはなれない。
 なんでかっていうとやっぱ「移動」ってことを考えるからかもしれない。僕は自転車で行くことしか頭にないので、「疲れるなあー」「どうやってテントを持っていこうかなあー」なんて考える。だから「キャンプ行こうよ、車出すよ」と言われたら嬉々として「行く! 行きたい!」となるに決まっている。それだけの話か。
 あとは「お金」の問題かな。「自転車で行かないとしたら、交通費がかかるなー」というので躊躇する。「ディズニーランド行こうよ」と言われたら「そうか二万は要るな」と即座に考える。それから「二万あったらマンガ二〇〇冊だぜ」と計算するのは大昔から変わっていない。切り詰めれば一万で行けるが、それでディズニーランドが楽しいのかというと、わからない。同行者次第。
 というわけで、わかった。僕はどうやら金のことしか考えていないわけである。といってケチ臭いのは大ッ嫌いだ。そうではなくて、僕の思想の根本には「お金を使うということは、何かをさぼるということでしかない」というのがあるからだ。
 お金を使うというのは、誰かにお金を渡して、何かを代わりにやってもらうことである。「自分でやれることは自分でする。やれないことは友達に相談する。それでもダメならお金を使う」という、三段構えで僕はものを考えるので、「お金は最終手段」なのだ。ゆえに「お金がかかるのか。じゃあやめよう」になる。

 だからつまり、タイトルにある「一般的な価値基準」というのは「お金を使って何かをすることが面白いとする価値基準」なのである。

2010/10/06a 読書信仰

 もうずっと読書ということが信仰になっている。
 すっごい当たり前のことを言うけれども、大切なのは「何を読むか」でも「どれだけ読むか」でもなく「どう読むか」でしかない。
 世の中には「よーし、読書するぞ」などと言って読書を始めようとする人が沢山いる。「もっと本を読まねば」なんて言い方をする人もいる。手段と目的をはき違えている。そういう人はたいてい、「本を読んでさえいれば自動的に自分は賢くなるものだ」と錯覚している。
 そこから出発してしまった人はたとえのちに「読むだけではいけない」と気づいたとしても、多くの場合「メモを取りながら読もう」とか「感想を日記につけよう」とかいう方向にしか頭が働かない。「読む」という行為の外側に価値らしきものをくっつけて、「自分の読書には意義がある」と思い込もうとする。
 読書とは「書を読む」という、ただそれだけの行為であって、意味を求めるのならその行為の中から見つけ出すしかない。メモが無意味というのではなく、メモと読書とは別の次元に存在しているということだ。誰だって取るときはメモくらい取る。

 たくさん本を読んで知識をつけられるだけつける、ということは僕にとって一種憧れのようではある。だけどそういうことは僕にはできない。知識や理論をいくら頭に詰め込んだって僕はすぐに忘れてしまうのだ。そういう頭をしている。たぶん相当特殊な人間以外はみんなそういう頭のつくりをしているのではないかと僕は思う。
 なので僕は「知識や理論を知るため」に読書をしているわけではない。量もそんなにたくさんは読まない。読むのも速くはない。「読みたい本がたくさんある」という嬉しい悲鳴は毎日のように発しているが、「読むべき本がたくさんある」という焦りは全然ない。「読むべき本」なんてのは読んだ後にしか決められないのだから、読む前から「読むべき本」が存在しているなんていうのは順序がおかしい。「読まなくてはいけない本」というのはあるかもしれないが、それは「書評を書くため」とかいう実際的な理由が必ず付随するのであって、本当は「読まなくてはいけない本」というのも読んだ後にしかわからなかったりする。読んで、数年経ってからわかることだってあるかもしれない。
 じゃあなんで僕は読書なるものをするのかというと、それは「手段」のためである。

2010/10/05 男は男と風呂に入るべきである

 橋本治の名著『蓮と刀』末尾の一部を僕なりにまとめる。

「男は男とセックスするべきである。男が女のことをわからないのは、男が自分自身のことをわかっていないからだ。自分のことがわかるためには、自分と本質的に同じであるはずの他の男と寝ることで自分というものを確認すればいい。然る後に女のところへ行くのである。つまり異性と抱き合うための順序として、まず同性と抱き合うことが必要なのだ。」

 逆に言うと、男がたやすく同性愛のほうへ行くのは「異性がわからなければ自分のこともわからず、かつ同性のこともわからない」からかもしれない。たやすくと言ったのは女と比べてのことである。女は男よりも同性愛に向かう率が低いように僕は思う。「ただ声が小さいだけだ」という意見もあろうけれども。ちなみにここで言う同性愛は「性交渉の伴うもの」をさしている。
 もし僕のその仮定が正しいとすれば、その理由は「女は同性との裸の付き合いを男よりも自然に行い、同性同士のスキンシップも男より好む」という一般的な傾向によるだろう。つまり女は女のことをわかりやすいのである。

 女の子が女の子の家に遊びに行くと、けっこうな割合で「一緒にお風呂に入る」という流れになるらしい。これは複数の女の子から言質を取っているので確かだろう。男は決してそうならない。男兄弟ですらある程度年齢を重ねれば一緒にお風呂に入ることはほぼなくなる。男同士が入浴するのは銭湯や温泉といった「公衆」と冠される場だけである。どこまでも男は「公」というところでしか同性との関係を育めないのだ。
 また、女の子は女の子の身体を「さわりたい」と思った時にほとんど自由にさわれるが、男の場合はそういう現象がまず起きない。不用意にそれをすると「ゲイなのか」と疑われてしまうし、多くの男はたぶん「さわりたい」と思うことさえないだろう。
 だから、女は「セックス」というところにいかなくても女のことをわかれる。「自分と本質的に同じだ」ということを知れる。しかし男が男のことをわかろうと思ったら「セックス」に行かなくてはならないのだ。

「自分は男友達と平気で家の風呂に二人で入れる」という男はほとんどいない。自分は気にしなくても相手が気にするのではないかと思うとそのような誘いは口にしづらい。「ゲイなのかな」とか思われそうだし、何より照れくささが半端でない。状況的に必然がなければ男同士が一緒に入浴するというのはあり得ない。
 と言って実は去年の夏、新潟のとある民家にて催されていたとある合宿に参加したおり、家主の女性から「ガス・水道の節約のため同性はできるだけ一緒にお風呂に入ってください」と言われて友達と二人でその民家のお風呂に入った。洗い場が広かったので銭湯の延長のようにして難なく入れたのだが、その時の感じを思い出してみると「確かにちょっぴり照れくさくはあったけど別に嫌でも何でもなかったな」である。「一緒に入ってください」と家主に言われたという必然性がなければ絶対に一緒には入らなかっただろうが、いざ入ってみると何の滞りもなかった。空間的に広かったからというのもあるが、もうちょっとくらい狭くてもあまり変わらないだろう。だったらもっと男同士の入浴ってのが市民権を得たっていいのになと思う。ちなみに「一緒に入ってください」と言った女の子は生粋の腐女子であり、その言葉のウラには節約以外の意図が確かにあったと我々は睨んでいる。

 橋本治は「男は男と寝るべきだ」と言ったが、さすがにそれはハードルが高すぎてなかなか実現が難しい。だったら「お風呂に入る」とか「スキンシップをする」というほうをやってみたらどうだろう。これなら別に問題なくできそうだ。
 そういえば高一の時の友達と何人かで雑魚寝なんかするとき、ここ数年の僕はたいていGという男の隣へ行ってなんだかいちゃいちゃやりながら恋愛やセックスの話をするのである。それを見て他の友達は「おまえら仲いーな」なんてことを言う。僕もGも異性愛者だということは当事者も傍観者も前提にしているし、そこにいる全員はもう十年来の付き合いになる信頼のおける者どもだから「ゲイなのか」という話にはならない。だから僕も安心して欲望の、いやその、本能の、でもない、ええと、気分に任せてGといちゃこけるわけだ。もちろん軽度のスキンシップもそこにはある。本当に軽度のかわいいもんだが、それすらも男同士ではしないもんなのである。
 そういうことがもっと普通になったら、つまり男が男とスキンシップを取ったり一緒にお風呂に入ることが当たり前になったとしたら、男は男のことがわかって、「自分と本質的に同じだ」が確認できて、自分自身のこともわかって、異性と抱き合うための準備も整うもんなんじゃないだろうか。少なくとも、それをしない場合よりは。
 僕らが女の子たちに学ぶべきことは、同性といちゃつくことである。男が自分自身のことをあまりにわからない理由はそこが欠落しているからだ。と言って女が自分自身のことをよくわかっているのかというと、男よりはわかっているだろう(生理があるとか感情をぶつけ合いがちだとかそういうことも含めて女は自分自身や同性と向き合う機会が多そうだ)が、女だって自分自身のことはやっぱりわからないだろう。だがその理由というのは男が抱えている理由とは別にあるか、やっぱり最終的には女と寝なくてはならないのか、わからないがもしも男として協力できることがあればしたいと僕は思う。

 そういうわけなので僕と仲の良い、あるいは良くなりたいと思っている男性諸君は、いっぺん僕と一緒にお風呂に入ってくれたら嬉しいのだ。なんて言うと「ウエー」なんて声が聞こえてきそうだけど、割と本気で言っている。
 僕が夏になると半ズボンを穿くのは「男にはそれが許されていないが、半ズボンを穿くことは実はとても意義のあることだから」だ。同じ理屈で、一緒にお風呂に入ることが「許されていないけれど意義のある行為」であるなら、僕はそこへ切り込んでいきたいわけである。
 我が家の風呂は狭いから二人で入るのは難しいが、先述した腐女子の方が「フンフン。うちの風呂を使いなよ」と鼻息荒く提案してくださったのでそちらで入れば良い。二人きりだと気恥ずかしくても「風呂場の外にいる腐女子を喜ばす」という大義名分があれば多少はやりやすいではないか――そうでもないかなあ。


 余談だが、僕の書いた漫画同人誌『芝浦慶一短編集1』は「お風呂」という作品から始まる。左記を踏まえるとあれは「男にとって風呂とは孤独なものでしかない」という前提をちゃんと踏まえている。
 男にとって風呂は孤独な場所だから、せめて楽しもうと主人公は一人遊びをする。それに失敗して死にかけるのだが、主人公は「独り暮らし」というもう一つの孤独の中にも生きている存在なので、そんな一大事を誰にも知られることがない。だから《だけど涙が出てくるのは 一体なぜなんだ きっと だれも このことを知らない からなんだ》という悲痛なモノローグが吐き出される。
 しかし孤独であることを前提として背負っている現代人は、孤独であるままに日々を過ごしていくしかない。《それでもぼくは生きているし あしたもお風呂に入るんだろう》というのは「終わらない孤独」の暗示である。孤独の中、主人公の男は鏡の中にいる自分へ語りかける。《ねえきいて さっきお風呂でさ》――近代的な密室の中で行き場所をなくした自我が語りかけられる相手とは、自分自身だけなのだ。孤独の中で男はあらゆることを自分自身の中だけに抱えこんでいく。そしてその作業は孤独の中にいる以上は終わることがない。
 そして、この作品の最後を締めくくる言葉は《心配ないよ お母さん おやすみなさい》だ。「独り暮らし」という孤独を選んだのは他ならぬ自分自身であり、それは「母親を実家に置き去りにしてくる」ということと引き換えに得た状況でもある。せめて心配はかけたくない。孤独であるということは「些細な問題は自分自身で処理しなくてはならない」ということで、自立ということでもある。親元を離れることは、「自立という孤独」を背負いながら生きていくことだ。孤独を引き受けることで、「ちゃんと自立してうまくやっているよ」ということを無言で親に示しているのである。
 そういった孤独を描くのに、題材として「お風呂」という男にとって特有に孤独な場所を選んだことは、慧眼と言うほかはない。なんて自作に対して言ってしまうのは恥ずかしいことなのかもしれないが、書いた時は何も考えてなかったんだから少しくらい褒められてもいいよなあーと思うのでありました。

2010/10/04 僕がなんで毎日こんなもん書いてんのか

 高校生の自分に対してやめられないっていうのが最大のところ。そのころ僕は「このHPをライフワークにしたい」みたいなことをすでに書いていて、その気持ちを裏切る理由はどこにもない。僕が今でもここにこうして何か文章を書き続けているのは主にそのような訳だ。

 それからもちろんこれは筋トレのようなもので、書き続けることで僕はものを考えたり、それをまとめたり説明したりするための力を蓄えようとしている。だから極論としては書く内容というのはどのようなものでもいい。ただある種の「質」が確保されてさえいればいい。
 ここでいう「質」を決めるのは読者ではない。むろん読者の皆様方がそれぞれに判断していただいた「質」というのも存在しているのだが、そのことは僕にとって二の次である。「Entertainment(娯楽)」という看板を出しておきながら、読者を「Entertain(楽しませる)」する意識が今の僕には欠落している。いや、全くないというわけではない。ただ「多くの人が楽しめるようなもの」を無理して書こうとはしない。物語を書くときなんかはもちろん「不特定多数のみんな」を意識するんだけど。
 では誰が「質」を判断するのかというと、現在の自分であり、過去の自分であり、未来の自分である。現在の自分がゴーサインを出したら、いちおう過去の自分に「これでいいよな?」と確認する。過去の自分は「うん、それでいい」と言ったり「なるほど、そういう考えもあったか」と言ったりする。「絶対にダメだ」と言われたら、考えを改める時もある。過去の自分の検閲に通ったら、あとは未来の自分に委ねる。というか、誓いを立てる。「永遠にあなたへ届かせます」と。若干格好良く言うとこのような感じ。
 その「質」の具体的な判断基準は、ちょっとややこしくなるので簡単にだけ言うと、「意味があるか」ということと、「自分の信念に照らして間違っていないか」というところ。あとは「ネットに書くのに相応しい内容であるか」というのもある。ただ、あまりガンジガラメに考えすぎると最後には何も言えなくなってしまうので、「妥協」というものが大活躍する。「バランス感覚」と言ってもいい。
 たとえば第三者について記述するとき、「どこまで書いていいのか」ということを判断するのは難しい。第三者に関することはWeb日記にとって最もデリケートな部分だから、「一切書かない」ということにしてしまえば最も楽だ。しかし何かを伝えるために第三者の発言やエピソードを引き合いに出したい時はどうしてもある。そういう時は、葛藤する。バランス感覚を研ぎ澄まし「ここだな」という妥協点を見つける。その点が最適かどうかはわからないが、せめて「ここだ」と確信して書く。それがバランス感覚というやつで、「このくらいなら大丈夫だろう」というふうにだいたい現れる。意味に関しても信念に関しても、けっこう柔軟に、適当にやっている。わりと神経をすり減らしながら。

 うっかり「意味」と書いてしまったけど、すると「意味ってなんだよ?」という疑問が当然出てくる。まあ単純に、書いたことが何らかの意味を持つということ。例えば前日の日記に僕は「昨日ホットケーキを食べました」と書いたが、この記述にはあまり意味がない。少なくとも書いた時点ではたぶん、誰にとってもほとんど意味を持たない。「へえ」で終わりである。せいぜい「ああ、自分も食べたいなあ」だ。それを「まったくの無意味」とは言わないが、ちょっと薄味すぎるだろう。だけどどうしてあえてそのような意味の限りなく薄いことを昨日書いたのかというと、今日こうして引き合いに出すため。引き合いに出したことで「昨日ホットケーキを食べました」という駄文は伏線として活かされ、もうちょっとだけマシな「意味」を持ちはじめる。
「すべては捉え方次第」というように、どんな文章だって言葉だって、「意味」を見出そうとすれば見出すことはできる。意味を見出すのはもちろん読み手だが、「重要な意味を見出しやすい」文章と、「ささいな意味さえ見出しづらい」文章がある。どちらかといえば前者のほうが、書く方としては書きたい。今は。
 または、文章がそれ自体独立して意味を持つ、つまり「だいたいどんな人が読んでも同じ意味を見出せるような文章」というのがあって、それは書き手の意志と技量によって実現できる。僕が現在このサイトにおいて目指しているのは一応はここである。
 ちなみに詩を書くときには「重要な意味を見出しやすい」を目指している。誰が読んでも同じ意味しか見出せないような詩は面白くないからだ。といっても僕の詩というのは解釈されることを全身で拒否しているようなものばかりなので、ほとんどは「誰からも何の意味も見出してもらえない」という状況にあると思うが。それはそれで別にいい。好きな人は好きなんだ、あれは。意外なところで意外と人気がある。読んでくださっている方々どうも本当にありがとうございます。

 なんでこんなことをだらだらと書き綴っているのかというと、先ほどある読者の方から「あなたがHPに書いていることは、あなたの中毒者かその予備軍ならば価値を見いだせるけれども、そうでない人にはまったく価値がない」(大意)ということを言われたからである。
 で、別に僕はそれでいい。中毒者と予備軍の方々が何らかの価値を感じてくださっているのならば、それほど幸せなことはない。というのは実に本心であるのだが但し、それは別に「身近な人だけが楽しんでくれればいい」という意味にはならない。何故ならばその「予備軍」というのは意外と至るところにいたりするからである。
 奇しくもこの文章を書いている途中に、「HP少年Aの散歩を励みに高校時代生きてきました」と語る21歳の女の子からメールが届いているのを見つけてしまった。嬉しくて返事を送ったらすぐにまた二通目が来て、「憧れのジャッキーさん」などとお世辞にしても大げさすぎる言葉がそこに含まれていたために、実は現在とんでもなく有頂天なのだ。僕が日記を書いている理由の一つはこういうところにもある。
 この21歳の女の子のことを僕は一切知らないのである。その子だって僕のことはたぶんほとんど知らないまま、ここの文章を読んでいたのだ。つまりそういうところにも「予備軍」というのはいる。どこにでもいるのだ。僕はそういう人たちに向けても書いている。結果的にそうなっているからには絶対にそうなのだ。
 最近よく言及する弟子とか、他にも僕の元生徒でここを見ている子は何人かいると思うんだけど、そういう人たちにとっても何か少しでも腹の足しに、よろしければ心や頭の足しにでもなっていたらなあと思う。別に他人のために書いているんでもないが、結果的に他人のためにもなっているのだったらそれにこしたことはない。一方でここを読んでやきもきしたり、いらいらしたりする人もいるだろう。それはまたバランス感覚というやつで調整していくしかない。最も均整の取れた状態を目指して日々試行している。
 最初にも書いたとおり、大原則として僕がここに何かを書き続けているのは自分のためだ。この10年間の自分と、今の自分と、これからの自分と。高校生のときに「ライフワークにしたい」と大口叩いた以上それを今さら嘘にしたくはないし、何度かやめようと思って書くのを中断するたびに後悔してきたし、「書くのをやめるな」と激励してくれる人もいるのだし。ほとんどただそれだけのためにやっている。
 僕はブログとかmixiとかツイッターとかをいっつも大声で批判しているけれども、インターネットが嫌いなわけじゃない。僕は10年以上前のインターネットを知っていて、その頃への郷愁も含めて相当にインターネットを愛している。でも素直に「好きだ!」と言えない理由も腐るほどあって、「じゃあどういう形なら好きって言えるの?」という自らの疑問に答えるためにこれを続けているというのもある。その一つの答えとして「htmlの個人サイト」ってのを今は信じようとしていて、「ではhtmlはどのような在り方をしていればいいのか」というのを最終的に導くための一つの材料としてこのHPが存在していればと思っている。材料は多ければ多いほどいいからできるだけ盛り上げていきたくて、このサイトのリンク集は僅かな例外を除いてhtmlサイトで占められている。

 ここの文章は僕の中毒者とその予備軍以外にとっては価値がないと言った彼女は、少し頭を柔らかくしてみてほしい。彼女は「読み手にとって価値がなければツイッターの呟きと同じだ」という意味のことを言っていたが、左記のように僕は考えている。……この「左記のように」という書き方についてはたしか2004年くらいに書いた。そういえば2004年ごろは日記も詩も絵も見事に狂っていた。いちばん絵を描いていたのってあの時期だった。十代の終わりごろはちょっとおかしかったのかもしれない。しかしそれも歴史であって、それすらも背負って、すなわち彼のためにも僕はこのHPをやめられない。

2010/103 おなかすいた

 昨日ホットケーキ食べました。

2010/10/02 無条件スペクトル

 タモリさんのことを悪く言う人間は無条件で軽蔑する。「ちくま」という筑摩書房のPR誌にタモリさんを悪し様に書いている文章があって、なんという醜悪な人間であろうかと非常に嫌な気分になった。いわゆる「消えた老人」の問題から「死ねない老人」というテーマを引き出し、そこから「老醜をさらし」ている芸能人の話に繋げるのだが、なんつうか、ね。
 タモリさんを悪く書くことでお金もらってるんだって思うとやっぱり、どうも。ただ悪口を書いているだけの記事で。

 とあるバーで映画について話していたのだが、まったく、作品を悪く言うのならそれなりの根拠を示していただきたいし、悪く言うのなら悪く言うなりの正当性というものが(話者の中に)なければいかんと思う。

2010/10/01 データ

 女のデータ捏造力は本当に半端ない。「昨日彼氏と五十通くらいメールした」って、本当は十五通くらいだったとしても言う。平気な顔で言う。それも嘘をついているのではなくて、本当にそうだと思い込んで言う。おっかねえ。
 男も見栄を張る生き物だから「経験人数? 両手に余るくらいかな」と言いながら実は三人くらいだったりするのだが、それはあくまでも「見栄」であって、意図的にやっていることである。嘘である。男は嘘吐きなのだ。しかし女は嘘吐きではない。本当だと信じているから。嘘と彼女らは思っていないのだ。
 これはどういうことなのかと思ってまたもや「男と女、ここが違います」的な新書を数冊買い込んできてしまった。自分の実感と照らし合わせてみよう。

 自分の昔の日記(過去ログ)を読み返してみている。2004年ごろに満ちあふれているあの狂気はいったい何なのであるか。あまりに支離滅裂で、本人が読み返してもいっさい意味不明であったりする。が、内容は全然わからないのに、なぜか読まされてしまう。この妙な魅力は僕だけが感じるものなのだろうか。エネルギーの絶対量がやっぱり半端ない感じがする。これが若さか。

 大人になって、もう支離滅裂な文章は書けないし、あまり冒険的なこともできない。の、で、あろうか。やってみてもいいかなとちょっと思った。故に29日はあのような内容である。
 ただ、最近だったらだいたいの日の意識は整然としているし、混沌とした気分の時は漫画を描くのにぶつけてしまうから、あまり日記で混沌とする必要はなかったりもするのだ。そういう時期なのだろう。
 それにしても2004年といえばすでに詩もずいぶんと書いていたわけで、詩にぶつけてもなお残る混沌エネルギーを日記にぶつけていたと考えると、あの頃の火の玉っぷりには目を見張らざるを得ない。19歳でした。僕も。
 そういうわけで2004年7月から数ヶ月分、こっそりと追加してあります。かなり恥ずかしいです。

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