少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2010/09/30 Two is the beginning of the end

 2004年の日記を一部再UPしました。
 1話から164話まであります。
 
第一話~

2010/09/29 拒否と許可

 月光とマンションの明かりが照らす河川敷の小さなベンチで僕と彼女は二人座っていた。
「月がきれいだね」
「そうですね」
 いつものように、素っ気ない返事をする彼女。
 だけどいつもよりもどこか、甘ったるい雰囲気が言葉の端っこに絡みついていた気がした。
 ふと隣を見ると、彼女も僕のほうを見つめていたようだった。
 僕はもう、何かがそうなって、彼女のことを抱きしめた。
「好き! すきすきだいすき!」
 と心の中で叫びながら、むしゃむしゃと彼女の首筋あたりを掘り進んだ。
 右手も左手も、それなりにそのようなところへ触れようとしていた。
「だめ」
 彼女は僕のぐつぐつ煮え立った身体を引き離して、上目遣いに僕を見た。
「そういうことは、おうちでするの」
 おうちでなら、いいのか。
 体温が。
 血が一点に集まった。
 僕の萌え回路はあともうウィンク一つで破裂しそうであった。
 なんだかもう恋愛のすべての意味がわかった気がした。

2010/09/28 ネコミミベーコン

『謎の彼女X』の連載が始まった2006年5月号から捨てずに積み上げていた「アフタヌーンタワー」がついに天井に届いた。けっこう圧巻である。また四年半かけてもう一本積み上げ「アフタヌーンゲート」を築上する予定。それまでに『謎の彼女X』が終われば捨てるかもしれないが、「新連載が始まるかも」と思うと捨てるに捨てられないので、「ひとまず『友達100人できるかな』が終わるまで待とうかな」となり、そのうちに植芝先生がまた描き始め、永遠に捨てることができないという未来が容易に想像できる。それを許してくれる優しい女の人を広く募集します。
 許してくれるといえば、僕は「ネコミミベーコン」をやってくれる女性と付き合いたい。ネコミミベーコンとはアフタヌーン2010年11月号掲載の『謎の彼女X』で描かれた、「自分の彼女がネコミミつけて生のままベーコンを食べて“にゃあ”などと言う様を眺める」という斬新なプレイのことである。
 僕はそもそもネコミミに対してそれほどの思い入れはない。あればあったでもちろん好きだが、わざわざつけてもらおうと思うほどのものではない。基本的にはノーマルなのだ。が、ここに「ベーコン」という新要素が加わると途端に僕の変態心が刺激され、いてもたってもいられなくなる。「はやく! はやくネコミミベーコンを!」と叫び出しそうだ、今にも。もうだめだ。
 ネコミミだからといってネコ缶を食べるとか、猫じゃらしを持たせるとか、そういった単純な考え方では僕は燃えないのである。「ベーコン」というのが絶妙なのだ。「生肉っぽい」「通常は調理して食べるもの」「そのままでも食べられる」「どこにでも売っていて身近な」「ハムに比べると注目されることが少ない」ベーコンだからこそ、燃える。
 ネコミミをつけた女の子というのは、「人間とネコの中間」にいる存在である。しかしネコ缶や猫じゃらしというのは「ネコ」そのものだ。じつにアンバランスだ。同じように、ネコミミをつけた女の子がパンとかチャーハンとか食べているのもダメだ。それではただの「女の子」である。そうではなくて、女の子とネコの中間にあるものを食べなければならない。それがベーコン。それこそがベーコンだ。生肉でもなければ、調理されたものでもない。「ヒトとケモノの中間」に位置するもの、それがベーコンである。「人間とネコの中間」に存在するネコミミ少女は、ベーコンを食べなければいけない。ネコ缶やチャーハンではいけない。ベーコン、ベーコンでなければいけないのだ。ベーコン。
 そういうたわごとを許してくれる女の子と付き合いたいですね、実に。

2010/09/27 一時的に満たされている人たちへ

 僕はたとえば黒い服に化粧してヴィジュアル系ロックバンドのライブに足繁く通う女の子と付き合いたいとは思わない。
 ところが、ある「黒い服に化粧してヴィジュアル系ロックバンドのライブに足繁く通う女の子」が、僕のことを好きであるという。
 好きで、付き合いたいと思っているが、あいにく僕はそのような女の子と付き合うつもりはないというか、女性として心から愛せはしない。
 その女の子は、「彼と付き合うためには黒い服と化粧とヴィジュアル系ロックバンドのライブをやめなければいけない」ということをわかっている。だが実際には、黒い服も化粧もヴィジュアル系ロックバンドのライブもやめることができない。
 僕と付き合いたいという欲求と、黒い服に化粧してヴィジュアル系ロックバンドのライブに通いたいという欲求が同時に存在していて、それらが背反するという難しい状況に彼女は置かれているのだ。僕とも付き合いたいし、着飾ってライブにも行きたい。
 僕がその子のことを好きであれば「いいんだよ」と言ってヴィジュアル系ロックバンドのライブを許してあげることもできるが僕はヴィジュアル系ロックバンドのライブに足繁く通う女の子をハナから相手にしないのでそのような状況にもならない。
 彼女は僕のことを諦めるか、ヴィジュアル系ロックバンドのライブに行くことをやめなければならない。二者択一。
 彼女がヴィジュアル系ロックバンドのライブに通うのは満たされないからである。ところが彼女は僕と結ばれなければ満たされない。どちらを取っても満たされないのだ。そして、両方を同時に得ることはできない。
 彼女は「彼と付き合わなくても満たされる」と言えるようになる(すなわち僕のことを諦める)か、「ヴィジュアル系ロックバンドのライブに行かなくても我慢できる」という境地に達しなくてはならない。つまり、どちらかを「必要ない」ものとして切り捨てなければいけないのだ。
 それができるか、という話。
 どちらが「より欲しい」ものであるかということ。
 そして、ヴィジュアル系ロックバンドのライブで一時的に満たされることは簡単だが、好きな人と永続的に愛しあい、満たされることは非常に難しいということ。だから人は前者を選択しがちであるということ。
 何かを得ようとして、今現在自分を満たしてくれているものを捨ててしまうことへの恐怖。不安。
 それに打ち勝てなければ何かを得ることは難しい。

2010/09/26 日記で勉強

 僕の高校三年間の日記は、たぶん一日の間断もない。書けない日があれば翌日に補填していた。テスト中だろうが受験直前だろうがとにかく書いていた。大学に受かったのはそのおかげであると受かった僕は胸を張って言える。よく本も読んだし漫画も読んだ。友達や女の子ともちゃんと遊んだ。睡眠時間も削らずに、よく寝た。私大受験で三科目やればよかったのでそんな感じで十分だった。
「やんなくてもできた」ではなく、勉強はちゃんとやった。集中力があればどうにかなる。要は根性だ。あとは効率。しっかり自分の頭を使ってやること。あとは英語のRinQと、世界史のN、Y両先生の力だろう。

 これから受験生になる子たちは周囲のつくり出す「勉強しかしてはいけないような雰囲気」に呑まれていくことだろう。それに負けず自分のペースで、自分が正しいと思った方法でやっていくことをオススメする。
 日記を書くと勉強時間が削られると人に言われたら、日記に勉強のことを書けば良い。「これも勉強の一環」と主張できる。まともに勉強している人なら、いくらでも書くことがあるはずだ。単語帳や一問一答とにらめっこしているだけの人間には書くことは何もないだろうが、理屈で考えながら勉強していれば日記に書けそうなことはたくさん思いつく。
 理屈で勉強すれば勉強は楽しくなる。理屈を楽しめない人間が大学へ行ったって無駄なのだから、そこでつまずくならそもそも受験などやめてしまえばいい。

2010/09/25 納得と理解

 他人に何かを説明するために文章を書くのならば、誰がどう読んだって一通りの解釈しかできないような書き方をするべきだ。つまり、意味がわかるように書けということ。こういうことは正直に言ってしまったほうが美徳と思うので言うが、僕はあたまがいいので意味のわからない文章の意味はちゃんとわからない。意味のわからない文章の意味がわかってしまうような人は「わかったつもり」になっているだけ。わかんないもんは、わかんないと言ってしまえばいいんだ、間違ってるんだから。
 まったく、納得だけして理解しない人の多いことよ。僕は最近なんだかやたらと説教めいたことを他人にしていて、だいたいは納得してもらえるのだが、理解してもらえているかというと疑問だ。理解してないなら納得などするなと思うのだが。しかし本人は「理解している」と思い込んでいるものだから、納得だって疑わずにしてしまう。
 納得というのは、頭の中で何も作業しなくてもスイッチ一つでできる。だからみんなそっちのほうへ走るのだな。理解しなきゃ意味がない。「わかった」と思うことが理解ではないのである。それは納得でしかない。理解とは理屈を解るということだ。理屈が解れば説明もできる。説明できないなら、理屈が解っていないのだ。

2010/09/24 教育のことしか考えていない。

 中学校の国語の先生をやっていた僕は教育に興味があるらしい。別に学校教育ということばかりではない。むしろそれ以外のところで、人に何かを教えるということについて。直接でも、ネットや同人誌を通じてでも、様々な形で僕がしようとしているのはすべて教育なのだろうと思う。
 例えばこのサイトからリンクしている弟子とか弟子の後輩とかいうのは非常に上手く僕の教育が行き届いた例だ。弟子は今現在だいぶ不甲斐ないし、弟子の後輩はまだまだすべてがこれからなんだけど、「大切なことは何であるか」ということはたぶん、正しく理解しているであろう。そうでさえあれば、僕は安心してその上に教育を積み上げていける。
 正直言って僕は、彼女らが健やかに成長していってくれたらそれ以上の幸せはない。娘を持ったかのようだ。22歳くらいで自分の人生に満足してしまった僕は、もう他人の人生によってしか幸せになれない。

 親というのは例えば二種類いて、「自分の人生に満足してしまった親」と、「自分の人生を諦めてしまった親」。前者の場合は「子供の人生の満足」をこそ願うのだが、後者は基本的に「自分の人生を満足させるために子供の人生を蔑ろにする」をしてしまう。しかも「自分の人生の満足=子供の人生の満足」という巨大な勘違いをしでかしたりする。結果としてそうなるのならば美しいかもしれないが、そうするために子供の人生を必要以上に操作しようとするのは非常に醜い。
 図らずも二人の娘を持ってしまった僕はこのことをしっかり胸にとどめていなくてはならない。自分の人生を満足させようとして、彼女らの人生を犠牲にしてしまうようなことは、絶対に避けねばならぬ。だが幸い、僕には実の親のような強制力はない。なぜならば僕は彼女らを経済的に保護しているわけではないからだ。だから僕が彼女らに何かを押しつけることは本当は不可能である。彼女らの意図に沿わないことを僕が強いようとしたら、「嫌だ」と一言いえばいいだけだからだ。
 とはいえ、相手はガキである。まだ価値観の定まらない相手に対しては、「教育」を通り越した「洗脳」が容易である。僕の理想を彼女らに押しつけようとすれば、たぶんできてしまう。僕の言うことを疑えるだけの能力がまだ彼女らにはなく、彼女らを納得させるだけの説得力が僕の言葉にはあるから、簡単に洗脳できてしまうだろう。少なくとも、一時的には。
 そこで僕は「洗脳しないようにしよう」というところへ行かない。行かないで、「ちゃんと洗脳しなきゃな」というところへ行く。これは「洗脳をしなければ!」という単純な意気込みではない。たとえば「ちゃんと手を洗った?」という言葉には二つの意味があって、「手洗いを済ませましたか?」と、「手洗いをしたときに、汚れを綺麗に落としましたか?」であって、僕が言っているのは後者である。適確に洗脳しなくてはならん、ということ。
 洗脳はする。しなければならん。しかし僕は教育者だから、ちゃんと中途半端に洗脳する。すなわち、「疑う」ということを教える。完璧な洗脳とは「疑わせない」ことだから、「疑う」を教えると中途半端な洗脳になる。僕の洗脳は常に疑いの目に晒されるから、彼女らがいつ僕を見限って消えてしまうかわからない。それはそれでいい。僕を疑えるということは自分で判断することができるようになったということだ。もう洗脳の必要はない。その後もし僕と相容れない思想を持つようになるのだとしたら、淋しくはあるけど、教育ってのは中途半端な洗脳のことだから、教育のことしか考えていない僕はこれ以外の方法を採るつもりはない。
 教育の方針として、基本的に答えはあげない。しかしまともに考えたら僕と同じ答えに辿り着けるような途中式の書き方を教える。ああしろ、こうしろというのは可能な限り抽象的なレベルで行い、具体的には行わない。たとえば「自転車に乗れ」ということを言わずに、「自転車に乗ることとはどういうことか」を言う、といったようなことだ。じっさい僕は雨でも槍でも自転車に乗るが、彼女らは状況を見て電車にも乗る。重要なのは「自分で判断すること」だから、「いいか、どんな天気だろうが、体調が悪かろうがとにかく自転車に乗るのだ」などということは言わないし、それを望むわけでもない。美しい彼女らにはあまり紫外線を浴びすぎてほしくはないし、排気ガスを吸いすぎてほしくもないし、事故に遭ってほしくもないから、正直彼女らが自転車に乗ることについては複雑な気持ちなのである。乗ってほしくないのかといえばもちろんそうではない。僕は自転車の効用を誰よりも知っているし、雨の日に自転車に乗ることにしたって「危険を察知し回避する能力」がより育まれるわけだから、よくないとも言い切れないのだ。かわいい子には旅をさせよ、である。
 と、いった具合に僕は煮え切らない言葉を並べて、具体的に「こうしろ」を言わない。彼女らが適確だと思う判断をすればいい。

 絶対にしたくないのは、彼女らの人生を自分のために犠牲にしてしまうことである。目指すのは、「結果的に」僕の満足と彼女らの満足が重なることである。彼女らが「自分で見て聞いて考える」ということを身につけられるように僕は精力を注ぐ。そのあとのことは、わからん。美しければいいなとまあ、そういうことだけを強く深く祈る。

2010/09/23 インターネットを劇場だと思っている。

 昨晩は中秋の名月ということで、登戸の多摩川河川敷で月見をした。焚き火して酒飲んで、河原に寝転がって団子食いながら十五夜の空を見上げる風情。そういう心を忘れちゃなんめえ、と思う。夕方五時前から空を見ていたら、暮れる少し前の空に大きな雲の塊が浮かんでいて、その中でピカリピカリときれいな色をした雷が音も立てずに瞬いていた。「雷に打たれて死なないでね」と言われたので、「いや死ぬ。“ハリケーン!”って叫びながら雷に打たれて死ぬのが夢なんだ」と言ったら、「“あいつ、ハリケーンとか言ってたぜ”って永遠に語り継がれるよ」と大爆笑された。
 夜の九時ごろには風に流されてきた雲で月が隠れてしまった。仕方がないから僕がみんなの前に出て両手を広げ、「みんな、心配いらへんで! 空は曇ってもうたけど大丈夫や。今日は月見に来たんやないか。月を見な、あかんやろ。さあ、こっちを見るんや! わいを見るんや! わいが、わいが、……わいが月や! 今夜は、わいが月やで! どや! 輝いとるやろ! ピッカピカやろ! わいが月や! わいが月なんや!」
 とか叫んでたらまた大爆笑されたので、なんだか本当に自分が月のような気がしてきた。

 夜中になってある人に、「インターネットを劇場だと思ってるのって、本当にジャッキーだけだよね」と言われた。もちろん、たぶん、良い意味で。その表現は、なんとも言い得て妙である。たとえば僕は高校生の時から、教壇というのは舞台のようなものだとずっと思ってきたけど、そうか、僕はインターネットも舞台だと思っていたのだ。
 彼曰く、僕がツイッターを憎悪するのは、演劇では絶対にやってはいけないことをユーザが好んでするから、とのことだった。なるほど。舞台上は特別な空間であって、日常を持ち込んではいけない。舞台に立っている役者が、自分がお腹減ったからといって「あー腹減った」などと言ってはいけないのである。それが許されるのはかなり特殊で前衛的な芝居だ。お芝居においては、意味のないセリフや行動は一つでもあってはいけない。ツイッターは日常と無意味のオンパレードである。
 僕が……いや、僕は「ジャッキー」としては絶対にツイッターなどやりたくないから芝浦慶一先生名義でプロモーションとしてやっているつもりなのだが、彼が現実の友人たちとツイッター上で演じているのは「コント」である。あるいは寸劇で、決して日常ではない。ネタにならないやり取りならば、何も文字を使ってする必要なんてないのだ。恋人同士じゃないんだから。「おはよう」とか「おやすみ」とかの日常的な言葉は、作劇上の意図がない限りは使わない。
 インターネット上において「日常」をやることに意味なんてないと僕は思っている。むしろ人と人との現実の結びつきを弱めてしまいかねない。僕はネットと日常とを完全に切り分けていて、インターネット上で友達と接するのは「友達と一緒に舞台に立つ」というようなことでしかない。演劇を通じて分かり合ったり絆を深めることだってあると思うが、しかしあくまでもそこで話されている内容は「セリフ」なのである。
 知らない人と接する場合は、気が合いそうだったら意味のある言葉をたくさん交わして、つまりその人といっぱい演劇をして、実際に会えるようならば会ってみる。そのように舞台から降りて、生身の言葉で話し合うことを「オフ」と言うんだろう。実際に会って友達になる前から意味のない言葉ばかりを交わしていくというのはあまりに奇妙である。用事もないのにメールや電話するって、相当仲良くなければ無理じゃない? そうでもない人もいるんだろうかね。それとも本当に、ネット上だけの交遊関係で満足できちゃうんかね? そういうのはせめて十代で卒業してもらいたい。

 インターネットって劇場だから、意味のないことを言っちゃいけないし、つまんないよりは面白いほうが絶対に良い。馴れ合いでやってる芝居なんか最低だ。そういう意識を持ってるのって、確かに僕だけなのかもしれない。「僕」というのはつまり、ネットにおける「世代」全体を指すのかもしれないけど。少なくともmixi登場以降にネットを始めた人と、それ以前、それこそ90年代からやっている人とでは意識に完全に隔たりがあって、もちろん僕は後者だ。インターネットは劇場として利用していたほうが居心地が良いし、それが正しいのだと信じている。
 だから僕はツイッターが意味のない、つまらない言葉で溢れているのが嫌なのだろう。つまんない芝居を延々と見せ続けられているようだ。確かに席を立つ自由だってあるのだが、演劇を愛している僕は傲慢にも「どの演劇を見ても面白い」という状況を望んでいるのである。こっちは貴重な時間を払ってインターネットという劇場に足を運んでいるのだ。そう思うから僕はできるだけ面白い、意味のあるようなことを言おうとしている。今だってそうだ。
 そういうわけでこのサイトのタイトルには「Entertainment」という言葉がついているのです、たぶん15歳の僕はそういうことをすでに考えていたんだろうな。
 インターネットが非日常である、というふうに考えている人自体が、すでに少ない。おかしなことだ。インターネットが日常であれば、僕が日常だと思っているものはいったいなんなのだ。ネットと日常がそんなにも地続きであるという意識を、そんなにも簡単に無批判に受け入れてしまっていいのか。ネットがツールとして有用なのは当たり前のことだが、生活基盤として有用であるかどうかは検討が必要だろう。

 なんで劇場かって、みんなに見られているからね。
 そのことを意識したらとても日常なんてやってられないはずなんだけど。

2010/09/22 ぞうしは深くない

 造詣をぞうしと読み、かつ「~に造詣が深い」という定型ではなく「彼は造詣が深い」のように対象となる分野を示さない人に最近よく出会う。特別2ちゃんねるで流行っているのでもないようだ。あえて言ってしまうと教養のなさと言葉への愛のなさを感じる。編集者と名乗るような人でもこの間違いをするのだから困ったものだ。
 装丁をそうちょうと読む人も異常に多い。出版やデザインの分野で働いている人や、サブカル系のイベントの司会をしている人など、知っていなければいけないはずの人さえ間違えている。業界用語で「そうちょう」というのをあえて使うのかなと疑ってみるのだが、どうやらそういうわけじゃないらしい。
 可能な限り誤用というのはなくしていったほうがいい。誤用がいつの間にか正しい日本語として扱われている例もあるようだが、そういう「勝てば官軍」みたいな考え方は好きではない。言葉というのはちゃんと理由があってそのような意味になっているのだから、それをみだりに失わせてしまえば言葉に対する理解が余計に難しくなる。今さら昔の意味に戻して使えとまでは言わないが、これ以上複雑にすることもあるまい。

2010/09/21 ゴージャス師走ナイト

 という会に一晩中いました。
 これから数日忙しくなります。

 ゴージャス先生は素敵だった。
 ああいうのを人徳と言うのであろう。
 彼の作品には愛がある。
 誠実としか言いようがない。

2010/09/20 稲武十周年

 今日は僕が初めて自転車で遠出をした記念すべき日、からちょうど十年ですね。愛知県稲武町というところに行きました。今は豊田市になっていますが。
 その時の想い出を綴った文章は、たぶん年内には読めるようになると思いますのでどうぞ気長にお待ちください。

 それにしても自転車とともに過ごした10年であった。とはいえ、実際自転車に乗り始めてからは20年経つのだが。小学生に上がってからなどは、図書館や古本屋を巡るのは常に自転車であった。隣の隣の市にあるおじいちゃんの家には、父や兄とともによく自転車で行っていた。
「お金がかからない」ということに元来僕は敏感なのである。自転車によって、これまで百万単位でお金を浮かせているだろうと思う。
 計算してみよう。富士見台から高田馬場までの6ヶ月定期が87980円。かける8(4年間)で703840円。ちなみに早稲田駅まで乗って、定期を3ヶ月更新にしたら100万超える。まあ、夏休みや春休みを計算に入れたらもうちょっと安くなるんだろうけど、これは相当な額である。
 高校時代で計算すると、大曽根から桜山まで6ヶ月定期が74900円。かける6(3年間)で449400円である。高校、大学と合算して1153240円。相当なもんでしょう。
 うちから新宿に行くとしたら往復700円かかって、東京に来てからの7年半で500回(まあ、渋谷とか上野とか、ほかの場所も合わせたとして)行ってるとすれば、350000円である。うち4年間は高田馬場まで定期を効かせたとしても、260円はするのであるし、お台場や幕張や浦和なんかでも平気で自転車で行くので、そのぶんも合わせたらそんなもんじゃ済まないかもしれない。
 名古屋まで新幹線で帰ったら10000円以上するが、自転車で帰ればタダである。まあ、燃料費としてごはん食べたり水飲んだりってのはあるけど、それは除外しちゃえば、タダ。
 自転車にかけたお金は、前のママチャリに25000円(定価30000ちょいの二割引)、今のママチャリに35000円(定価40000円ちょいの二割引)、それに部品代や整備代。中古で買ったロードには10万プラス……んまあ色々あって50000くらいはかけてるだろう。それでも三台合わせて20万ちょいか。25万は行っても、30万にはたぶん行かない。
 高校時代に乗っていた自転車は16400円のと、29800円の。それらはまあ、高校の時に学校以外の場所へ移動していた金額で相殺される……いや、相殺されるどころか、何十万という単位で余るかもしれない。そのくらい高校時代もアクティブだったのだ。
 そうなるとまあ、高校一年生から今までの、この10年間で、少なくとも100万円は浮かせているということになる。たぶん100万じゃ済まないが、200万までは……どうだろう。ひょっとしたら行ってるかもしれない。いや、行ってるんじゃないかな。そのくらい僕は自転車しか使わないのだ。成城学園まで二年間通うのにも数十万浮かせていて、さらに交通費まで貰っていた(!)わけだから、それだけで相当なもんだ。往復1120円を、二年間、かける2だからね。神田で働いていた時も交通費貰いつつ自転車で行ってたな。往復30キロくらい。よし、200万ということにしよう。最低でもそのくらいは行ってるだろう。300万と言ったって問題ないくらいかもしれない。うん。言い過ぎかな。
 んまあ、300万なんてね、ちょっとちゃんと就職活動して、ちゃんと働けば、一瞬で貯まる額なんですよ。無駄遣いしなけりゃね。だからそれで威張る気なんかないし、お金のある人は電車なりバスなりタクシーに乗ったらいい。免許を取って新車を買って、それでもおつりが来るのだ。
 ただ、なんと言いましょうかね。僕みたいな博打な生き方をするのだったら、そのくらいはしないとすぐ「金欠」って事態に陥るのです。貧乏であるはずの僕が交際費や書籍代などをそれほどけちっているように見えないのは、そういうところでどうにかしてるからなんですね。服買わないとか。買わなくてもオシャレなお兄ちゃんが持ってきてくれたり、見かねた女子が貢いでくれたりするから。貢いでください。代わりにけっこう色んな事をしますから、どうか弁当のおかずを一品でも分け与えてくださいな。この日記を一日読む毎に読者からうまい棒一本もらえるとか、そういうシステムを皆さんどうぞ勝手に、作っていってくださいませ。

2010/09/19 ありきたりを蓄える

 若者よ、あらゆる事を知り、あらゆる事を考えよ。そして世の中では既にどのくらいの事が言われているのかをなんとなくでも把握したまえ。何がありきたりであるのかがわからなければ、ありきたりでない事は言えない。
 薄っぺらで、浅はかな事を堂々と言ってしまう人たちは、圧倒的に「ありきたりな事」の蓄積が足りない。結果、何一つ新しい事は言えないでいる。折角、希有な出来事に遭遇しても、口から出てくるのはありきたりな事ばかりなのだ。そういう人は、「話がつまらない」とか「退屈だ」とか言われる。面白いとか退屈でないというのは、普通、新鮮であるということを意味するのである。
 もちろん、相手も同様に「ありきたりな事」を一切蓄積していないような人だったら、それは「お似合い」ということにでもなるだろう。二人でRADWIMPSでも聴いていたらいい。きっと心に響く。

2010/09/18 定期的に、度胸によって自信を更新すること(若さの秘訣)

 僕は公園が好きだ。高校生のころ後輩の女の子に「先輩って公園が似合いますね」と言われ、一時はフルネームを「Jacky in the park」としていたほどだった。ちなみに「Jack in the box(びっくり箱)」という言葉のもじりである。公園で遊んでいるびっくり箱、みたいなイメージでいたかったのだろう。
 公園でとりわけ好きなのはブランコと鉄棒。あれは遊びがいがある。ブランコは立ち乗りと座り乗り、そして二人乗り、柵越え、スーパーマン(板の上におなかを乗せてゆれる)など、様々な乗り方で楽しめる。また、柵の上をよちよち歩いたり、ブランコの支柱(両側に二等辺三角形の形で立っている柱)を使って逆上がりしたり、前回りしたり。本体とは別のところでも遊ぶことができる。ブランコに捨てるところなし。
 鉄棒は、逆上がり、前回り、空中逆上がり、空中前回り、プロペラ、グライダー、地獄回り、こうもり、こうもり回り、こうもり降りなど。こうもり→こうもり回り→こうもり降り、というコンボが決まると非常に気持ちいい。要するに、「鉄棒に足をかけてぶら下がった状態から、そのまま勢いをつけて膝だけでぐるんぐるん回り、足を離して着地する」である。これができるとだいたいどこでも英雄だ。目が回る。
 あとは地面があれば体操の「ゆか」のようなこともできる。側転とかバク転とか、そういった類のもの。余りにも危ないのでオススメはしないが、小学校の時なんかは流行ったもんだった。僕はなんでか前方宙返りばっかりやっていた。
 それから先日、ちょっと高級な(700円くらい)縄跳びを購入したので、たまにやっている。三重跳びはだいたいできるようになったので、次は四重跳びを一回でもできたらいいなと思っている。

 僕は公園に行くとこれらのことをやる、もしくはやりたがるわけなのだが、本日久々にいろいろとやってみて思ったことには、やっぱり公園はすごい。身体を動かすということは、楽しい。

 弟子に縄跳びをやらせてみたのだが、あんまりうまくできないのである。なぜできないのか、ということを考えてみたら、幾つか思い当たる要素があった。それは「リズム感」と「バランス感覚」と「敏捷性」である。
 縄跳びは「リズムよく跳ぶこと」が大切。そのためには、着地してから一定の速さで、同じ姿勢で跳び上がらねばならないのだが、その際に要求されるのがバランス感覚だ。それも、もたもたやっていては二重跳び以上の種目に進めない。よって敏捷性が必要になる。
 これら三つが揃えば、筋力なんてものは最小限でいい。その証拠に、弟子よりもずっと筋力の弱い弟子の後輩は一重跳び118回、二重跳び17回(20回超えることもあるらしい)という記録を出した。女子としてはなかなかのもんである。弟子は筋力はそこそこあるものの、上に挙げたような三つの要素が鍛えられていないので、縄跳びができないのだ。
 どうすれば跳べるようになるかといえば、まずは慣れ。これが一番。何も考えなくったって、くり返しやっているうちにいつの間にか跳べるようになっているものだ。あとは理屈。腕ではなくて手首を回すんだとか、一定のリズムで跳んでみようとか、そういうのを考えながらやってみること。理屈をつければ、身体感覚は後からついてきたりもする。

 ところが面白いことに、弟子は逆上がりができるが、弟子の後輩は逆上がりができない。これは非常に興味深いことだった。確かに逆上がりには、腕の力や蹴り上げる足の力、そして腹筋などが必要で、それらについては弟子のほうがまさっている。そして失礼な話だが弟子のほうがやせ形なので、身体を持ち上げるための筋肉が少なくて済むのだ。
 縄跳びに必要な三要素、リズム感、バランス感覚、敏捷性、そのいずれもが、逆上がりにはあまり関係ない。逆上がりは敏捷性というより瞬発力なのだ。前者は反復横跳びに、後者は垂直跳びにより関係するもので、たぶん縄跳びは前者、逆上がりは後者のほうに近い運動なのだと思われる。
 それから、逆上がりは「リズム感」と言うよりは「タイミング」である。つまり、継続性のあるものではなくて、一回性の能力なのだ。これも反復横跳びと垂直跳びの違いにそのまま当てはまる。

 そういうわけで、弟子は縄跳びを、弟子の後輩は逆上がりをすることが(僕の中での勝手な)当面の課題である。こういう能力は、ないよりもあったほうがいい。リズム感、バランス感覚、敏捷性、瞬発力、タイミング、そしてそれらの裏付けとなる筋力と神経。こういったものたちを鍛えておくと、どんないいことがあるのか。「そんなもんできなくったって、日常生活には関係ない」と言って、縄跳びも逆上がりもできないまま大人になっている人が、とりわけ女子には多いことだろう。
 しかし、確実に意味はあるのだ。何かと言えば、それは「けがをしない」である。僕はたとえば車にはねられて吹っ飛んだことも、自転車で転んだことも何度となくあるが、大きな怪我をしたことは一度もない。骨折経験さえないのである。それは何故かと言えば、おそらく小学校高学年から中学生くらいにかけて公園で、あるいは高校の演劇活動において、さらに言えば自転車によって、身体能力を伸ばし、維持し続けてきたからであろう。浦沢直樹の『YAWARA!』で、車にはねられた(だっけ?)猪熊柔がとっさに受け身をとって無傷で助かるというシーンがあったのだが、ああいうようなイメージ。三年くらい前に自転車に乗っていて、真横からバイクが激突してきたことがあったが、けっこう吹っ飛んだのに、倒れもしなかった。相手は転んで怪我をしていたけど、僕は平然と突っ立っていた。もちろん無傷で。それはもう「バランス感覚」のたまものだろう。あそこでもし転んでいたら、足を折ったり、頭を打ったりしていたかもしれない。そしたら即死の可能性だってある。

 あるいは女子なら、事故のほかにもトラブルはさまざまあるだろう。そうした時に、ある程度の身体能力があるのとないのとでは、全然違うはずだ。僕は「女子は放っておいたら絶対に強姦される」と信じて疑わない人間なので、そうなるのが怖くてたまらない。だから仲の良い女の子にはできるだけ身体能力を、まあ可能な限り、磨いておいていただきたいのである。
 君のためにライオンと戦える男でいたい、というまでではないが、好きな女の子が河原で犯されそうになっていたらその男の頭を石で殴って、その子の手を引いて走って逃げるくらいのことができなければいかんとは思っている。だから女の子も、手を引かれたら走れるくらいの体力があってほしいなと思うわけだ。

 公園で遊ぶことによって、リズム感なりバランス感覚なりが養われる。それらは日常生活においてもけっこう大切なことである。金さえありゃ、今はそりゃ生活していくだけなら容易いのだろうが、例えば歌である。ラップとか早口の歌詞とか、リズム感がなきゃ歌えないのである。歌えたら楽しいのである。そういうわけで縄跳びができる子は歌がうまいのかもしれないのである。いや本当に、割と本気で言っていますが。
 バランス感覚だってねえ。自転車に乗ることでもそうだし、歩いてて何かにつまずいたときに、転ばないってこともあるだろうし、それこそ立ったまま靴下はくとか、お風呂で足の裏を洗うときによたよたしないとか。若いうちはなんとかなっても、年を取ったらそこらへんが今よりもっともっと、ずっとずっと重要になってくるのだ。若いうちにそういう力をつけ、維持し続けて行かなければ、老いたときに、老いるぜ。

 ところで僕は、今でこそなんか「体力がある」みたいなイメージが、たぶんあるところにはあるんだろうけれども、 小学生の頃なんかは運動音痴でしたよ。何もできなかった。スポーツテストでも最下層だった。リズム感とか筋力とか、上に挙げたような要素が何一つ備わっていなかった。
 でも小学校四年生くらいから性格を明るくさせて、公園や校庭で遊ぶことが頻繁になってきたりすると、徐々に身体能力が上がってきて、いつの間にか(球技以外は)だいたいのことが平均以上にできるようになっていた。球技はダメだ、球技ができるのは小さい頃に友達とボールを持っていた人だけである。僕は友達もボールも持っていなかったから、そういう素地が一切ないのだ。それでも練習すりゃできるんだろうが、してこなかった。公園にいつもボールがあるとは限らないから。
 でもあるいは、積極性というものがあったら違ったかもしれない。例えば、体育の授業で、進んでボールに触れたがるような積極性。そういうのがあったら、もうちょっと球技だってできたのかもしれないが、僕には協調性もなければ積極性もなかった。要するに、自信がなかったのである。
 積極性といえば、鉄棒やなんかをするのに大切な要素として、「思いきり」というのがある。「度胸」と言ってもいい。それは根底では「積極性」に関わってくるものだろうと思う。 例えば「鉄棒にこうもりのようにぶらさがったまま勢いをつけてぐるんぐるん回る」なんていうのは、これは能力というより、度胸の問題である。思いきってやってしまえば誰でもできるようなことでも、勇気がないからできないということが公園には多々ある。ブランコの「柵越え」だってそうだ。あんなもん誰にだってできる。ただ、するための度胸があるかどうかなのだ。いっぺん度胸を発揮してしまえば、それは「自信」に変わる。そうしたらもう、何度でも同じことができる。僕がいい年して公園で、小学生や中学生の時とまったく同じことが今も変わらずすべてできるのは、度胸を確認することによって「自信」を定期的に更新して、維持しているからである。何年もやっていないと鉄棒の「グライダー」なんかはやっぱり怖いが、一度やってしまえば二度目はサクサクできる。それからしばらくは、サクサクやれる。
「年を取ったから昔のようなことはできない」と言う人は、要するに度胸によって自信を更新することを怠っているのだ。それが「年を取る」ということの本当だろう。体力の衰えではなく、精神の衰えだ。そういえば今日は木登りもした。「昔は木登りやってたねえ(今はできないけど)」なんてことは死んでも言いたくない。たとえ気違いと呼ばれても、じじいになって木に登り、落ちて死ぬなら本望だ。

2010/09/17 片想いは無駄である

 恋ってのはつくづくうまくいかない。うまくいっているらしい人たちを見ると奇跡的な気分になる。奇跡的な気分ってのはなかなかいい。本当にそんな感じだ。

 僕は片想いなんかしないと心に決めている。

 むかし考えていたことには、愛というのは状況である。感情ではない。行為でもない。状況である。恋というのはある特定の感情だったり行為だったり状態だったりして、僕はなかなか恋が嫌いだ。愛という状況の中にいたい。

 一方通行の感情が奇跡的にクロスしているような一瞬は確かに美しいのかもしれないが、人間関係がそのような刹那的なものであって良いのかというとやや疑問で、僕はその一瞬をおびき出すために特定の感情を一方的に送り続けるようなことには別段魅力を感じない。
 恋愛に失敗する人はだいたいこれをやるのである。

 愛は状況である。局面である。場面である。
 そこへ行きたいとして、そのためにはどうすべきか、と考えたときに僕は、片想いというものが無駄であることを悟ったのだった。
 誰かに好意を持つことが無駄なのではない。
 その好意が状況を作っていくために働いていけばいい。
 が。「好きである」と思い、そのことを相手に伝えたいと考え、ああなりたい、こうしたいと願うとか、相手の顔や声をひたすらに頭に浮かべてみたり。片想いと言えばひとまずそんなイメージがある。それらにはだいたい意味がない。ただ辛く、楽しいだけだ。そういう独りよがりな場所に、状況を作っていく力は宿らない。

 愛という状況を導くにあたって「好き」なんて気持ちはどうでもいい。むしろ邪魔になる。
 重要なのは、単に状況である。
「好きだ」と思ってしまったら、一度その心を捨ててしまったほうがいいかもしれない。
 冷静に、その人の何に惹かれたのかを考えよう。
 その人のことと、その人を魅力的に思った自分のことを徹底的に分析すれば、きっと見えてくる。「我々二人の在るべき状況」が。
 そこからしか何も出発はしない。
 ゴールを最初に設定して、そこに向かって走り出そうとするのは近代人の悪い癖だと思う。
 状況とはそうやって作っていくものではない。
 過去も、現在も、すべて無視して、都合の良い未来だけ勝手に設定して、そんなことをしたら破綻するのは目に見えているじゃないか。
 状況を見つめるのである。
 現在、自分と相手とは、どのような状況に「在りうる」か。
 そこからしか話は始まらない。
 いきなりセックスに行くような状況もあれば、おはじきやメンコから始まる状況もある。さあ、我々二人はどんな状況に在りうるか。

 接点が将棋しかないのだったら、そしてもしもお互いが誰かと将棋を指したいと思っているのなら、とりあえず将棋を指すしかないだろう、と僕は思う。
 将棋を飛び越してセックスに行こうとするから破綻するのである。
 片想いが無駄であるとは、それが理由。
 片想いは状況を無視して感情を優先しがちだから。
 相手は「将棋を指したい」と思っているのに、こっちは「セックスしたい」と思っているわけだから、そりゃあうまくいくはずはないのだ。
 もちろん比喩だから、状況に合わせていろいろ当てはめてみてほしい。

 そもそも片想いなんかしなければしないにこしたことはないと僕は思うのだが、してしまったのなら仕方ない。せいぜい落ちついて状況を捉えることだ。片想いとは主に、「向こうはなんとも思っていないが、こっちは向こうのことが死ぬほど好き」という状況だから、そこには温度差がある。それは冷静に見つめるべき「状況の一要素」だろう。しかしその温度差を埋めようなどと思ってはいけない。そういう手前勝手な意志が関係をダメにしてしまう。
 いま現在の、この状況の中で、どういう関係が自然に、そして理想的に在りうるか、ということなのだ。出発点はどうしてもそこだ。
 そして緩やかに状況を続けていけばいい。


 名古屋から東京へ、ゆっくりと鈍行列車に乗っていく。
 長い長い静岡を通って。

2010/09/16 大麻と覚醒剤、それと恋愛

 大麻くらいなら好奇心で手を出したって、合法の地域でやるのなら別に良いし、バレなければ日本だって「結果的には」問題ない。煙草のほうが有害だとすら思えるほどだ。依存性が強いから、結果的に煙草のほうが金もかかるし身体にも悪い。
 ところが覚醒剤など、ケミカルなものとなると別だ。これだけは絶対にやってはならない。岡村(靖幸)ちゃんや清水健太郎、そしてマーシー(田代まさし)の姿を見ていると、人間の意志や決意など本当にちっぽけなものであるとわかる。
 恋愛は麻薬だと言うが、本当かもしれない。「絶対に私はこの人と一緒になる、永遠にこの人だけを愛する」なんて誓っても、そんな決意は「新たな恋愛」の前に一瞬にしてフイになる。「もう恋なんてしない」という誓いだって、すぐに粉々に砕け散る。
 本当に人間の意志なんて、決意なんてちっぽけで弱い。だからこそ人は憧れるのだろう。信じることで真実へ辿り着こうとするのだろう。そうしようとする姿勢だけが美しいのかもしれない。

2010/09/15 演劇ボックス

 新たなビジネスとして、カラオケボックスならぬ演劇ボックスというのを考えた。この発想はお金や企画力のある人がどんどんパクっていってほしい。でも「原案:ジャッキーさん」とできれば入れてくだちい。
 日ごろより演劇の力を信じる僕としては、演劇というものがもっと身近になってくれんかやと常々思っていたのだが、そうだカラオケみたいな形にすればいいんだと先日思いついたのである。
 基本的に部屋やシステムはカラオケと同じ。通信システムで演劇の台本が何千、何万という中から選べ、モニターに映った台本を見ながら演技する。その中には人気のあったドラマや映画、漫画などの再現ができるものや、有名な小説を戯曲に書き換えたものなどいろいろあって、もちろんオリジナルを持ち込んでも、その場で作ってもいい。衣裳・小道具・大道具なども貸し出され、効果音やBGMなども用意してあって、照明は部屋の大きさに応じて設置する。操作盤もある。要するに「演劇ごっこ」が簡単にできる部屋を作るのである。
 初心者のために、お手本ビデオなんてのがあるとわかりやすいだろう。それを見て学び、少しずつステップアップしながら芝居を作っていく。完成したら本番を演じるわけだが、「録画サービス」を使えばビデオを持ち帰ったり、その場でYoutubeなどにアップすることもできる。あるいは、十席くらいの観客席がついている部屋を用意することも難しくはないだろう。「台本印刷orダウンロードサービス」を使えば、気に入った台本を持ち帰って、家や学校や公園などで練習することもできる。
 演劇部や、演劇サークルの学生や、アマチュアやプロの劇団員など、専門の人にとっても重宝するだろうし、そういう人たちには割引システムがあってもいい。「演劇部に入ったらエンゲキ割引になるんだって!」ということになったら部活動としての演劇も盛んになるかもしれない。
 別に、バンド活動や、その他のパフォーマンス活動やその練習に使ってもらってもいい。用途は千差万別。何にでも使える。基本は演劇ということで。
 そういうのがあったら、僕はけっこう通うと思う。「土曜日何して遊ぶ?」「カラオケ?」「ボウリング?」「エンゲキにしない?」「いいねえ!」といったようなやり取りが普通になったら、そりゃあ素敵な世の中である。
 もちろん、理想としては「ボックス」のようにお金のかかる感じではなくて、おままごとのように、いつでもどこでも勝手にエチュード(練習劇)ができたり、「お前んちで台本書いて、公園で練習しようぜ!」なんてのが自然にできたり、っていうのがいいんだけどな。
 というわけで僕は、とりあえず2~3人でやれる短い台本を書いて、石神井公園あたりで練習して、出来上がったら5人から10人くらいの観客を呼び寄せて上演しようかな、なんてことを考えている。そのためには相手が必要なんだけど、誰かいないものかしらね。

2010/09/14 学生演劇ってクソつまんなかった

 演劇ってのはもっともっと趣味的にやるべきなんだよな、と思った。中高の部活のように強制力のあって、かつ教育の一環として行われるようなものならばいいが、サークルみたいな緩いところで適当に(本人たちは至って真剣に)集まって練習して、クズみたいな芝居作って友達から金取って、お世辞ばっかり受け取って、次もまた同じような質の低級な芝居を自己満足で作って……なんてことを繰り返している早稲田あたりの二~三流演劇サークルの芝居を見るにつけ、怒りを通り越した呆れが心の中に沸き上がってきていた、そんな大学時代。
 もっとね、「ねえねえ遊ぼう」「なにする?」「演劇!」「んじゃ、うちで台本書いて、公園行こう」なんてふうになってほしい。そのためにはまず、大人や若者のあいだでもっと演劇ってもんが流行ってくんないとしょうがない。ってわけで「演劇ボックス」構想に進む。

2010/09/13 ヒックとドラゴン

「奪われても与えることから」と、尾崎豊が晩年に歌っていた。『自由への扉』という曲だった。

 いきなりひっでーネタバレから入ると、『ヒックとドラゴン』は、あるバイキングの村が「ドラゴンから食糧を奪われる」という状態から、「ドラゴンに食糧を与える」という状態に変わっていく物語だった。
 本編では「ペット」という言葉で表現されている。
 家畜ではなく、ペット。愛玩動物。
 そして「友達」でもない。

 チラシやら、サイトやら予告編やら、おそらくあらゆる広告媒体で、「友達」やら「友情」という言葉が使われているんだと思う。でも、本編では一度もそういう言葉は出てこない。出てくるのは「ペット」という言葉だけ。
 ヒックとトゥース(メインのドラゴン)との間に友情があるかどうか、というのは、解釈の問題かもしれない。ペットを友達と言ったり家族だと言ったりする人だっているから。つまり『ヒックとドラゴン』について「友達」とか「友情」という言葉を使って語るのは、一つの解釈に過ぎない。しかも、僕に言わせればほとんど「曲解」だ。公式の宣伝で「ある一つの解釈」を押しつけるのはどうかと思うんだけど、まあそうやってわかりやすくしなければ映画が売れないってことだろう。

『ヒックとドラゴン』の、僕なりのあらすじを書こう。情報を恣意的に選びながらも筋としてはほぼ完璧に書くので、気になる人は読まないでください。

 ドラゴンと戦っている村があった。その村のヒック少年が、自分で作った機械(飛び道具)でドラゴンを攻撃したら、見事命中して墜落させることができた。後にヒックは山の中で身動きの取れなくなっていたドラゴンと出会う。それがトゥースだ。ヒックはトゥースに対して敵意がないことを示し、肌を触れあわせ、餌を与えるなどしてトゥースの警戒を解き、馴らしていく。トゥースは羽根(尾についているひれのような部分)を失って飛べなくなっていたので、ヒックは新しい羽根を作ってつけてやった。初めはうまくいかないが、改良に改良を重ね、うまく飛ぶことができるようになり、さらにちょっとした仕掛けを施すことによってトゥースを自由に「操縦」できるようにまでなった。思い通りの方向に飛ばせることさえできるというわけである。
 ヒックはトゥースと触れあっていく中で、ドラゴンの習性や性質を深く理解するようになった。何が苦手か、何が好きか、どこをどう撫でれば大人しくなるか、などなど。同年代の子供たちと参加している「ドラゴン訓練」ではその知識を活用して次々とドラゴンを手懐けて大活躍、村中で弱虫だと思われていたヒックは一躍英雄扱いとなる。
 ヒックの変化を怪しんだアスティ(女の子)はヒックをつけ回し、やがてトゥースとのことを知る。ドラゴンと仲良くするなど、村ではもちろんタブーである。アスティは村に告発しようとするが、トゥースの背中に乗って空を飛んでいるうちにトゥースのことが好きになり、ヒックにも恋心を抱く。もちろんアスティは秘密を守った。
 しかし、結局トゥースは村に捕まり、さらにヒックは、トゥースがドラゴンの巣の場所を知っているということをうっかり話してしまった。バイキングたちはトゥースに案内させてドラゴン討伐へ出かけていった。
 ドラゴンたちは、一匹の巨大な女王ドラゴンに村から奪った食糧を捧げていた(蜂の巣のような仕組みらしい)。そうしなければ自分が食べられてしまうのだ。ヒックはそのことを知っていた。だから、女王ドラゴンさえ倒せばこの仕組みはなくなり、村からいたずらに食糧が奪われるということもなくなるとわかっていた。討伐隊が出て行ったところで、大人たちが全滅するかドラゴンたちが全滅するかの二択で、ヒックはどちらも望まない。それに、どちらにしてもトゥースの命はないだろう。
 そこでヒックは、アスティや他の子供たちと一緒にドラゴンの巣に向かい、大人たちとドラゴンたちとトゥースとを救うことにした。船は動かせないので、ドラゴンに乗っていく。ヒックの指導で子供たちは捕虜にしていた訓練用のドラゴンを手懐け、それに乗って出発した。
 巣では女王ドラゴンに大人たちが完全に圧倒されていた。バイキングの長、ストイック(ヒックの父)も「自分が愚かだった」と認め、ゲップ教官(子供たちにドラゴン訓練を施していた人物)とともに、他の大人たちを逃がすための時間を、命を賭して稼ごうとしていた。
 そこへドラゴンに乗ったヒックたちが到着する。ヒックが適確に指示を出し、ドラゴンオタクの少年が膨大な知識を応用して女王ドラゴンの性質を分析、それをもとに子供たちが優れたコンビネーションによって女王を攪乱し、その間にヒックの手によって無事トゥースは助けられた。ヒックとトゥースは見事弱点を突き、女王を倒す。
 ヒックは戦いの中で傷つき、長い間気を失っていた。目が覚めた時には、バイキングの村全体がドラゴンをペットとして受け入れていた。「奪い・奪われる」関係から「与える・与えられる」関係へ変わったのである。
 ここでようやく「ヒックとドラゴン」というタイトルが初めて表示され、エンドロール。

 と、いうのが僕なりのあらすじ。もちろん、書いていないこともたくさんある。このくらい省略しなければとてもあらすじなどは書けやしない。具体的にいえば、「ヒックとストイックについて」「ゲップ教官について」「子供たちについて」などなど、非常に重要なところをあえて飛ばしている。それはこれから書こうと思っていることにさほど関係がないからで、それ以上の意味はない。完璧なあらすじなんてもんは存在しないのだ。粗いからこそあらすじなのであって。「物語」を知りたいのならば映画を見てください。とりあえず、今これを書いている僕にとって最も都合のよい形であらすじを作った。

 あらすじにも反映されているが、『ヒックとドラゴン』において子供たちとドラゴンの間に情緒的な繋がりはほとんどない。「仲がよい」ということを示すようなシーンも、全然ない。ただふとした瞬間のトゥースの表情などから「何か」を感じることはできて、そこがこの作品の肝でもあるのだが、基本的にはトゥースはじめドラゴンは動物であって、本能で行動し、「心を通わせる」とか「友情を育む」とかいう情緒的な存在ではないのだ。
 本編のナレーションでも「ペットといえばポニーやプードル」というような表現があったが、ここに描かれるドラゴンは犬や馬と同じである。人間に懐き、言うこともよく聞くが、「心を通わせる」や「友情を育む」は基本的にできない。できないが、「ひょっとしたら……」という瞬間はある。忠犬ハチ公が飼い主をずっと待っていたのは、駅の利用者から餌を貰うためであったかもしれないし、ただの習慣だったのかもしれない。が、「ひょっとしたら」そこに飼い主への想いがあったのかもしれない、といったような。そのくらいの、絶妙な関係なのだ。ヒックとドラゴンは。
 だから、単純に「友達」とか「友情」とかいう言葉を使ってしまうと、犬や馬に対して自然に感じる、あの素晴らしき「愛着」や「愛情」のようなものを見失ってしまう。あの、人間と動物との微妙で絶妙な、そして良好な関係を「人間とドラゴン」に置き換えて描いているのが、『ヒックとドラゴン』なのである。

 先日、猫好きの友人から「猫のおでこの辺りを鼻でなでてやるとよい」と教わった。赤ん坊を育てる時に母猫がそのあたりを舐めてやるらしいのである。猫好きは「どうしたら猫が喜ぶか」をよく知っている。誰かから教わったことなのかもしれないが、少なくとも初めてそれを発見した人間は「観察」と「実践」によってそれを知ったはずだ。ヒックがトゥースに対してしたことは、それと同じなのだ。
 例えば、ヒックはトゥースの前にいろんな種類の魚を置く。そして、トゥースが何を好んで食べ、何を嫌うのかを観察するのである。するとどうやらトゥースは黒と黄の縞模様の細長い魚(ウナギと呼ぶことにしよう)を怖がることがわかった。その知識を応用してヒックはドラゴン訓練にウナギを持っていき、見事成功を収める。
 ヒックは、「トゥースはウナギを嫌う」という観測事実から「ほかのドラゴンもウナギを嫌うのではないか」と類推し、実践によって調査した。そして「どうやらドラゴンはウナギが苦手らしい」ということを帰納的に学んだはずである。「学び」とは、このようなプロセスによって行われるべきものだ。
 トゥースのために羽根を作ってあげることでもそうだ。初めは「こんなもんでいいだろう」と感覚的に作り、実際にそれをつけて飛ばしてみることで改良すべき点を探る。羽根の大きさ、重さ、形、背に乗るためには手綱やあぶみが必要であるということなど。そのような試行錯誤を何度も繰り返して、正常に飛ばせるための羽根を完成させる。
 ヒックの素晴らしいのは、完成したところで終わらなかったところだ。さらに先へ進む。あぶみをギアのようにして、踏み方のパターンによって飛び方を操作できるようにしたのだ。
『ヒックとドラゴン』は、「学ぶ」とはどういうことかを教えてくれる。実験、観察、類推、調査、そして帰納法や演繹法などによる論理的思考、そしてその先にある発展……これらすべてを丁寧に、わかりやすく描いている。だから自然に、「学ぶことの楽しさ」が伝わってくる。

 実践や実感の伴わない知識に意味はない。ただ図鑑を眺めているだけではその知識は活かされないし、知識のない状態で思考や実践だけをしていても何もわかりはしない。論語で言うなら「学びて思はざれば則ち罔し。思ひて学ばざれば則ち殆し。」というのに近い。
 作中では、オタク少年のフィッシュや力自慢のスノットら他の少年少女たちによってそのことがちゃんと強調されている。特にわかりやすく、かつ素晴らしいのは、「ドラゴン図鑑を七回も読んだ」というフィッシュのオタク知識が、実戦の中で花開くシーンである。
 ドラゴン訓練においては、フィッシュはまったく活躍できない。「このドラゴンのスピードは8で……」という知識だけはすらすらと出てくるが、それを実戦で活かすことはできていなかった。しかし女王ドラゴンとの決戦では、「目が小さくて耳や鼻が大きい、視覚よりも音や匂いに頼ってる」と適確な分析をし、オタク知識を見事に応用できたのである。
 様々なドラゴンの具体的な性質を誰よりも知っていたフィッシュは、いつの間にかドラゴンの性質を抽象化して理解することができていたのである。つまり「あのドラゴンは耳が大きくて、音によって環境を把握している」という個別具体的な知識から、「耳の大きいドラゴンは、音によって環境を把握する」という抽象的な知識に変換させていたのだ。これが帰納と演繹というやつである。
 図鑑から得た膨大な知識に、ドラゴン訓練などを経て「実感」が伴い、いつしか初見のドラゴンの性質を分析して見抜くことさえできるようになっていた。『ヒックとドラゴン』をフィッシュの物語として捉えると、「学ぶ」ということがどのように完成されるべきであるかということを示唆する、優れた成長物語だと言えるだろう。
 僕はオタクだから、例えば映画『ギャラクシー・クエスト』のように、一見なんの役にも立たない膨大なオタク知識が何らかの形で実を結び、素敵な結果をもたらしてくれるというような話がとても好きなのである。だからフィッシュのシーンは本当にグッと来た。

 ずいぶん長くなってしまったが、ここまで書いたことは『ヒックとドラゴン』という映画の、ほんの一部の側面でしかない。僕が言いたいのは、この映画はこのように、すべてのシーンが大切な意味を持っている、本当に丁寧で優れた作品なのだということだ。テーマは至極正しく、しかも、偽善的にならない。
 たぶん『ヒックとドラゴン』について一般の人々が抱いているイメージは、「少年と魔物が仲良くなる話」だろうと思う。そういうふうに宣伝が打たれている。しかし、この作品において「トゥースは友達なんだ!」とか、「キミ……ボクの言ってることがわかるの……?」とか、そういうありきたりで優等生的な、もうさすがにウンザリしてしまうようなパターンは一切出てこない。トゥースがヒックの顔をなめて、「やめろよ、くすぐったいよお」みたいな、そういったベタベタなやり取りも出てこない。最初から最後までトゥースは獣である。人間的なところがない。だから「友達」ではなく「ペット」なのだ。「命あるものは、みんな人間と平等だ」みたいな偽善的なことではない。ただ人間とドラゴン(=ペット)にとって最も理想的だと思われる関係を示してみているだけである。

 今回は「ヒックとトゥースの関係」と、「学ぶとはどういうことか」という二つの側面からだけ書いてみたが、この作品について言うべきことはもちろんそれだけではない。同じくらい重要なことをたくさんたくさん描いている。ただそれをすべて書くための力と時間が僕にはないから、とりあえず今はこのくらいにしておこう。

 最後に一つ。『ヒックとドラゴン』は完璧な物語だが、ちょっとだけ引っかかったのは「結局女王ドラゴンは死んじゃうの?」というところ。最終的に女王という巨悪を殺すことですべてが円く収まるわけだが、そういう、「一人の悪者を設定して、すべてをそいつのせいにしてしまう」というやり方は本来僕は好きではない。
 しかしそれもちょっと考えると、正しい描き方だとわかった。「女王ドラゴンが何か抽象的なことを象徴しているのかもしれない」ということを考えると、ああ、なるほどと思えるのだ。
 何でもいいが、例えば女王ドラゴンが「お金」であるとしよう。そうすると、ドラゴンとバイキングとの間に起こっていたことが「戦争」だったことがわかる。ドラゴンはバイキングからモノを奪い、それをお金のところへ届ける。届けなければ自分が死ぬ。
 そういう「悪しき構造」を作っているのが、「女王ドラゴン」なのである。その正体は「お金」かもしれないし「欲望」かもしれないし、「ものを考えないこと」や「自分のことしか考えないこと」とか、そういったことなのかもしれない。が、僕が思うに、それは一言で表現できるような単純なものではない。だからこそ「女王ドラゴン」という象徴を使って表さなくてはならないのだ。一言で言えるなら、言ってしまえばいい。言えないからこそ、優れた物語が意味を持つ。
『ヒックとドラゴン』は正しいことばかりを言っているが、最もラディカルで正しいメッセージとは何かと言えば、ここなのである。ある「悪しき構造」を産み出している大きな原因が一つあって、それを壊すことによって「善き構造」へと転換させる。そう考えるなら、『ヒックとドラゴン』は腐った言葉でいえば文明批判である。社会批判、現代批判、などとも言えるだろう。
 女王ドラゴンとはいったい何であるのか。それを考えるのは、小沢健二さんの『うさぎ!』における「灰色」とは何なのかとか、岡田淳さんの『ようこそ、おまけの時間に』における「イバラ」とは何なのかとか、そういうことを考えるのとまったく同じで、単純なようでいて実は非常に難しい。そうであるから、何度も何度も、永遠に見続けられなければならないような作品である、のだ。本当にそう思う。

2010/09/12 ヒックとドラゴン

 っていう映画が本当に面白い。
 探せばまだやってる映画館があるところにはあるので、是非足を運んでいただきたいです。

 誰が観たって絶対に面白い! という確信のなかで
 どうせわかってもらえないんだろうな、という諦めも感じる。
 僕が本気で言うことに間違いはないと断言できるものの
 しかし間違っている人が多すぎるという現実が目の前にある。

2010/09/11 た日経エンターテインメント

 名曲『怪奇ラップ現象』を聴いてにやけながら哀悼。
 ロフトプラスワンの「うまい棒大感謝祭」に出てきました。去年に引き続きうまえもんの中の人をやりました。あと、映像のナレーション。くらいかな。あとは雑用を適当に。
 ビローン。

2010/09/10 むやみやたらにダイエット天国

 2005年に惜しまれながら解散したK-SAMA☆ロマンフィルムというバンドが好きだった。彼らの代表曲の一つに『
ダイエット天国』(歌詞)という曲があって、これが実に名曲である。
 PVを堪能した後、もういちど歌詞を見ながら聴いていただければ何も言い添えることはない。《女の脂肪は男を癒す海》すべてはこれに尽きるのである。世間は《むやみやたらにダイエット天国》であるが、女の魅力とは「痩せていること」にあるのではなく、まったく逆でむしろ「脂肪」のほうにある。
 蛇足だが言わずにおられないので記そう。

女を知らない愚かすぎる男たちほど
たやすくまわりに乗せられる“自信のなさ”で
生身のからだ慣れちゃいない男たちほど
女らしさ、はき違える“自信のなさ”ね

 なんと適確な。そうだ、「痩せている女」に魅力を感じるような男は《女を知らない》のである。《愚かすぎる》のである。彼らがなぜ「痩せている女」を魅力に思うのかといえば、ずばり《まわりに乗せられ》ているだけであり、その背景には彼らの《自信のなさ》があるのだ。
 世間が、メディアが、「痩せている女」を持ち上げる。それこそが《女らしさ》を計る至上の価値だと煽る。そこにまんまと乗せられているだけなのである。それは《自信のなさ》からだとK-SAMAは言う。「まわりとは違う意見を主張するための自信がない」ということでもあるし、「豊満な肉体を持つ女を相手にするための自信がない」ということでもある。
 痩せている女が好まれるのは、痩せている女が弱そうだからである。そしておそらく「母親というイメージ」から遠いからである。実際の母親が痩せているか太っているかはひとまずさておき、イメージの問題ということにしておこう。自信のない男は、弱そうな女しか相手にすることができない。母親をいつまでも「自分よりも強い存在」として捉え、そのイメージを想起させるような相手とは怖くて付き合えない。彼らは「強弱」ばかりを問題にして、「愛」ということを考えないのだ。
 男が最も愛すべきは母親であり、将来「母親というイメージ」を背負って立つであろう自分の嫁である。《女の脂肪は男を癒す海》というのが本当ならば、脂肪とは母性である。痩せている女を愛するのは、母性の否定である。拒絶である。痩せている女が好きだということは、自分の未来の嫁にさえ母性を認めないということであり、つまり子を産み家庭を作っていく気がさらさらないというわけである。そんな男はろくなものではない。
 と言ってもそう簡単に男は母性を捨てられない。世間やメディアが「痩せている女」をもてはやすので誰もがたやすく乗せられるけれど、「でもおっぱいとおしりはほしい」というのが本音なのだ。そこにせめて母性を見出そうとしている。それで「痩せているけれどもおっぱいやおしりはでかい」という女が理想とされるわけだが、そんなもんは非現実的である。少なくとも多数派ではない。天然でそのような肉体を持つ女(しかも美人)に育つ確率はべらぼうに低かろう。だが男はそれを求めるのだ。そこが歪んでいる。あほらしい。

 そういう人々をK-SAMAは《生身のからだ慣れちゃいない男たち》と切って捨てている。要するに「愛を知らない」とか「モテない」とかいうことである。僕の思い込みでは、ヤリチンや童貞ほど痩せている女が好きで、ごくごく普通に愛のあるセックスを日常的に営んでいるような健全な男子はわりあい脂肪が好きである。ヤリチンは原則的に愛のないセックスをするものであって、女を女とも人間とも思っておらず、まるで機械かTENGAのように捉えている。だから精神的には《生身のからだ》を知らない。彼らには穴があればよいだけなので、単細胞だから《たやすくまわりに乗せられ》て痩せている女を好きになってしまうのだ。童貞は言わずもがな、《生身のからだ》などに慣れようがない。
 このあたりはもしかしたら幼少期に母親からどのようにどのような愛情を受け取ったか、ということも関係があるかもしれない。母親から肉体的にも精神的にも健全な愛情を十全に注がれていたのならば、女の身体と愛情を自然に知れるはずで、ゆえに未来の嫁となる女性とも愛のあるセックスができるのではないか、と。このあたりは非常にデリケートな問題なので言葉は濁すが、全く関係のないわけがない。
 上で「イメージの問題」として保留にした「母親が痩せているか太っているか」という問題も、もしかしたらここで関わってくる。痩せている母親から愛情を存分に貰ったのだとしたら、痩せている女をだって健全に愛せるのかもしれない。たぶんそうだろう。痩せている女は、痩せている母親から愛情を存分に貰って育ったような男性と結ばれるとよいのである。ただ、大多数の母親は脂肪の塊である。人間の身体はそういうふうにできているのだと思う。おそらく。だから多くの男はやはり、本来的には脂肪を好きであるはずなのだ。だが、どこかで育まれてきた《自信のなさ》によってその本音が封殺され、「ボンキュッボン」というアンバランスな、歪んだ嗜好が是とされてきたのである。それは「おっぱいとおしり以外に肉がついていてはいけない」という脅迫である。これは「女たちよ、我々のために整形せよ」ということをしか意味しない。もちろんここで言う整形とは、「ダイエット」も含めて言う。

 じゃ、そもそもなんで世間は、メディアは「痩せている女」を良しと煽るのか。一番は「ダイエット産業は金になる」ということであろうか? もしも文化的な問題とするならば、これは歴史をひっくり返して考えなければならないことで、ここで論ずるにはちと足りない。よく言われるように西洋でもミロのヴィーナスなんかは割とふくよかである。いつから痩せている人が優れているかのような風潮が生まれたのであろうか。いったいどのような文化の価値観がいま日本を、いや世界を席巻しているのであろうか?

 何かを崩壊させたいんかね。
 僕にはこれも、人々をばらばらにさせようとしているとしか見えない。家族なんて要らない、個人があればいい、なんて思っている人たちが、ひょっとして世の中には多かったり、力を持っていたりするのかな。

2010/09/09 怒りの別件

 知識というものが情報の集積であるとしたら、各々の情報は必ず論理という楔によって適切に打ち付けられ、適切に繋がれていなくてはなりません。
 そうでなくては知識は正しく活きません。僕はそう思います。

 高校までの「勉強」とは僕は「論理を学ぶこと」だと思っているのですが、付属上がりだろうが一般入試だろうが、論理というものをちゃんと身につけている人はかなり少ないように思えます。学校教育や予備校教育は意外と論理を教えないようです。

 だから、せいぜいその引用文にあるように「一定期間に教科書や参考書の内容を記憶して、それを復元する」くらいしかできないのです。
 教科書や参考書の内容を論理をもってして「理解」し、それについて「思考」し、他の事柄へ「応用」させる、などという高級なことは、まあ、ほとんどの人ができません。


 この場では、「勉強」というのはどういうことなのでしょう。
 情報を頭の中に詰め込むことでしょうか。
「知識」とか「知っている・知らない」とか、そんなことばかりここでは問題にされているように見えます。「知」という漢字のなんと多いこと。 「知る」より、「考える」でしょう。
「知」という漢字と「考」という漢字を、両方ページ検索にかけてみると、見事な偏りが見えます。
 しかもここにある「知」はほぼすべてが「知識」の「知」であって、「知恵」の「知」ではなく、そして「思考」という言葉は一度も出てきません。

「人の知のレベルは文章に現れる」とあるのですが、この「知」というのはやはり、「どれだけの情報を知っているか」の「知」なんでしょうか。 「勉強法」とあるのですが、この「勉強」とはやはり「情報を覚える」ことなのでしょうか。

 むろん、例えば歴史を知ることは思考のための最高の材料になります。
 でもそれは、情報として歴史上の事実を知っているだけでは無意味なわけです。
 その「知っていること」を活かすために論理があり、だから「考える」ということが必要であり、そうして初めて「知る」の「知」が「知識」とか「知恵」といったものになるのです。
 歴史上の事実を構造的に、すなわち論理をもって把握し、理解し、普遍性を抽出し、あらゆる方面から考察し、他の何らかの問題へと応用する。そこまでやって、初めて「歴史を知る」ことに意味が出てくるのだと僕は思います。

「学ぶ」とか「勉強」とかいった言葉がたくさん出てきますが、皆さんはそれらの言葉をどのように捉えているのか、というのが気になったというわけです。


 おそらく、「そんなことわかってるよ! 考える前の第一段階として、まずは知ることが必要だと思ってるだけなんだよ! あとでちゃんと考えるよ!」という温度のことだとは思うのですが、気になったのでやや非礼な温度の文をしたためてみました。


 それにしても最近偉そうなことばかり言ってるからもっとおどけたい。


 僕は少なくとも三十過ぎるまでは燻っているだろう。その後は博打のようなものだ。嫁は馬券ならぬ僕券を握りしめて単行本一巻の両さんみたくラジオ実況の声にずっと興奮しながら耳を傾けていてほしい。

補足

 僕は本物の旅人に会ったことがあるが、その時に感じたのは、旅というのは「旅」そのものが目的になっているのだなということ。ジョージ秋山の『あんじんさん』にも、旅とは新宿駅で新宿行きの切符を買うようなものだというセリフが出てくるが、旅というのはそのくらいのものだ。
 そのくらいであってこそ「旅」なのである。
 そして僕は本当にあてのない旅に出られるほどの根無し草ではない。そのような金もないし、金なしでそれをする勇気もない。もちろん、そのようなことに憧れはするが。

 あてのある旅など旅ではない。
「これは旅だ」と思い込んでいる旅行者ほど滑稽なものはない。
 だから僕は目的のない旅行はしない。
 そんなどっちつかずの、意気地のない、中途半端なことにのめり込めやしないのだ。
 するなら旅だが、僕にその度胸はない。
 無自覚な者が羨ましいな、という話。

2010/09/08 移動手段

 僕は旅行が好きであるようでいて実は全然好きじゃないのかもしれない。「あてもなく」ということが好きなようでいて実は全然好きじゃないのかもしれない。
 海外に行ったことがないし、特別行きたいとも思わないし、国内でも用事がなければ旅行などしない。「観光」や「慰安」などは旅行の動機にならないし、自転車や電車が好きだとは言っても、ただ「乗るため」だけに旅行に出かけるようなこともない。
 何の目的もなく旅行したというと、高校生の時に友達と7人くらいで、「自転車で京都行こうぜ」とか言って走ったときくらいだと思う。あの時は走ることが、みんなで走ることが自己目的化していた。最近だと埼玉の行田までみんなで行ったのもそれに近い。ほかにみんなで行ったといえば「稲武」だが、あれは僕にとって稲武という土地が特別すぎるがゆえに、ほとんど巡礼のような意味がある。ほとんど用事だ。ゆえに、稲武は一人でも行くことがあるが、他の土地には一人で意味もなく行ったことはない。京都も行田も、一人なら絶対に行かなかっただろう。
 大学の先輩後輩を見ていると、「自転車でアイスランド一周」とか「アメリカで16日間バイクツーリング」とか「マラソンで日本縦断」とかやってる人たちがいる。もちろん一人で。羨ましいなと思う。僕は彼らほど、旅行というものそれ自体に意味を見出すことができない。もちろん旅行の楽しさは知っている。自転車で遠出をすれば必ず何か人との出会いや触れあいがあって、それこそが旅行の醍醐味であるし、知らない土地を走る喜びも、何もかも知っているつもりだ。が、旅行そのもののために旅行をする、というところにまでは踏み込めない。それがどんなに「ネタとして面白い」行程であったとしても。道楽で移動などしたくはない。
 僕は高校生の時に行って以来もうずっと北海道に行きたくてたまらないのだが、特別用事が発生しないので行けないでいる。高校生の頃はドラえもんきちがいだったので「ドラえもん列車に乗る」などの大義名分があって行ったのだが、今やもう僕にとってそれほどの引きとなるものが北海道には何もない。ただ「行きたい」というだけで行けるほど僕の腰は軽くないのだ。北海道の知人・友人がもっと増えれば、「彼らに会いに行く」という用事ができるから行く気にもなるだろう。北海道の人友達になってください。

 僕は自転車や電車、あるいはクルマを移動手段だと思っているので、あてもなく走るとか、特に用事もなくただそこに行ってみるとかいうことを好まない。そんな僕を「心が豊かでない」と思う人もいるかもしれないが、しかし僕はそのような信念を持っている。乗り物は移動する手段であって、目的ではない。そして「移動」ということも手段であって目的ではない。「知らない土地」だって、まったく知らないのなら目的にはなり得ないのではないかとさえ思う。
 とことん、自分は意味というものを求める人なんだなと思う。旅行や移動に目的がなければいけないなんて、豊かでないといえば豊かでないのかもしれない。が、無意味を意味と信じるような愚を犯すよりはマシではないかとも思う。
 目的のない移動なんて、本来的には無意味なのだ。ただの暇つぶしだ。そこに意味があると思い込んでしまうのは、僕は嫌だ。「これは無意味だ」ということを自覚した上であえてやるとか、無意味なりに自分で目的を作ってしまうというのならまだいいが、旅行をする人のキラキラした目を見ていると、「旅行」というもののイメージや雰囲気に酔い痴れているだけのような感じさえする。そういう人が「旅行」ではなく「旅」という言葉を使うと、本当に薄っぺらい感じがして嫌になる。
 移動には本来目的があったのだ。移動とはそういうものなのだ。無意味な移動に趣味として魅力を感じ、取り憑かれてしまうような人も多いが、それはそれで、「自分はなぜ移動を好むのか」ということをちゃんと考えないと、イメージや雰囲気に酔い痴れて意味を一切考えないという愚かさに包まれて、ドヤ感だけが後に残るようになる。嫌なものだ。

2010/09/07 バンドが嫌い

 バンドは一人ではできない。「メンバー」というものが存在し、メンバーは原則的に皆平等に扱われる。歌う人が偉いとか、曲作る人が偉いとかいうのは原則的には存在しない。
 バンドとして活動する際には「メンバーの意思疎通」というのが不可欠である。「こういうふうにしていきたい」というところで一致しなければバンドとしての活動などできない。だからこそ「音楽性の違いによって解散」などという事も起こる。
 バンド活動とは、音楽性なるものを一致させながらみんなで手を繋いで走っていくことである。そうでなければバンドはバンドとしてのまとまりを持てない。メンバーが意思疎通を図り、「音楽性」が一致したところで起きる奇跡が「良いバンド」というものだ。
 しかし、いかに良いバンドであろうと、「メンバーの意思疎通」というのには限界がある。あまり複雑なところで分かり合うことはできない。メンバー同士が分かり合うには、活動を極力わかりやすいものにしなくてはならない。だからバンドというのは非常にわかりやすいものになる。わかりにくいバンドというものは基本的には存在しない。
 バンドは、まずメンバー間で「わかる」ような活動をしなくてはならないので、もちろん大衆にも「わかる」。だからバンドというのはすべてポップミュージックである。パンクだろうがノイズだろうが、バンドである以上はある程度ポップであるはずだ、原則的には。だって少なくともメンバーの中で共有できるくらいにはわかりやすい。メンバー全員がキチガイで、意思疎通なんか一切しない、なんていうバンドがあったら話は別だが、そんなバンドは売れない。
 僕がバンドを嫌いなのかといったら別にそういうわけでもないし、好きなバンドと言ったら無数にあるのだが、僕が本当に好きな音楽は小沢健二とか中村一義とか岡林信康とか岡村靖幸とか山本正之とか細野晴臣とか、そういったものなのだ。好きな音楽と言ったときに、バンド名はまず上がってこない。
 中村一義は100sというバンドを組んだ途端、爆発的にポップになって、歌詞からも意味らしい意味が消え、記号のようになっていった。バンドを組んで音楽をやるということは「自分の中に抱えこんでいるものを発現させる」ということとはまったく違う。他のメンバーとの兼ね合いの中で、表現するものを選んでいくのだ。100sの歌詞は、基本的に意味がよくわからない。どうとでも解釈できそうなものになっている。中村一義といういちメンバーが「100s」というバンドを代表して「これはこういう意味です」を言うことはできないので、「解釈はみんなに委ねます」になるのだろうと僕は思っている。
 あんまり詳しくないのだが、椎名林檎と東京事変とを比べてみても似たようなことが言えそうな気はする。

 僕は割と、「解釈はみんなに委ねます」ではなくて、「これはこういう意味だ」と言える堂々たる作品が好きだから、そこがぼやけてしまいがちなバンドという形態は好きじゃないのである。
 単純に考えて、決める人が一人であるのと、四人や五人や六人であるのとでは、どっちがブレやすいかといったら、歴然でしょう。もちろん、歌詞だけの話じゃなくて。何にしても確固たる意志がバンドでは表現できない。
 みんなで決める、っていう民主主義的な形だからね、バンドって。ホームルームで、「うちのクラスは文化祭でお化け屋敷をやります」とかって決めて、役割振って、結果的にすばらしいお化け屋敷ができました、っていう。面白かったって来場者からも評判で、とか。そういうものだから、バンドなんて。
「僕はこういうことがやりたいです。手伝ってください」っていうほうを好むわけです、僕は。考えてみればなんだってそうだ。船頭多くして船山に上ると言う。そういうだけのことだろう。
 漫画家とアシスタント、みたいな感じでいいんじゃないかとね。漫画家が何人も集まっちゃ、『ミドロが沼』になるだけだもん。

2010/09/06 人間関係は戦略的に

 人間関係は複雑である。
 戦略的に行かなければならない。
 戦争は、自軍の力と敵軍の力を知るだけでは勝てない。
 周囲の国々がどちらを支援するか、地形はどのようであるか、天候はどうか、国民がどれだけ戦争に対して協力的であるか、などなど、考えるべきことは幾らでもある。そして何より、「戦争の目的は何か」「どのような状況を“勝つ”とするのか」などを明確にしておかなければならない。闇雲に闘うだけでは意味がないのだ。
 それらを踏まえて、作戦を立てる。
 恋愛でもそうだし、仕事でもそうだし、あらゆる人間関係においてそれは言える。必要なのは作戦と、それを立てるために情報を収集し、思慮を巡らせることである。

 先日ある女の子とその母親が口論しているのを聞いたが、非は明らかに娘にあった。娘は「全ての決定権は母親にある」という簡単な事実を踏まえていなかったのである。どれだけ「わたしの思う正論」を振りかざしたとて、母親には「口答え」としか聞こえない。
 異論を持つ相手を前にして正論を正論として通すためには必ず「前提と過程と結論」の全てを相手にわかるように示さなくてはならないのだが、娘は「結論」をしか言わなかった。「結論」だけを示されても母親はもちろん受け入れやしないし、「前提や過程」をすんなりと聞いてもらえるほど和やかな空気でもない。母親はその時点で怒っているのだ。怒っている母親に対して「わたしは違う意見だ」を言ったところで何の益もない。ひとまずは引くほうが吉である。「ごめんなさい。じゃあ、どうしたらいい?」が正解だったと僕は思った。
 母親は「こうしなさい」という結果しか示さないだろうから、とりあえずは従ったほうがいい。従っているうちにおかしなことが出てきたら、「でもさ、こうするとこういう問題が出てしまうから、こういうふうにしてもいい?」と、理屈で攻めながら少しずつ妥協点を探って行けばよいのではないか。さすがに母親もそこまで物わかりの悪い人でないだろうし、沸点を経たら怒りも収まり冷静にものを考えられるようになるだろう。何よりも「娘が自分に従った」という事実が彼女に安心感を与える。ここが戦略の要であり、福満しげゆき先生に言わせれば「政治」である。
 母親にとって最も気に入らないのは「娘が自分に従わないこと」だから、まずは従えばいい。だって家庭内では娘よりも母親のほうが何億倍も偉いのだ。初めから勝ち目などない。勝とうと思うならそもそも母親の言葉に耳を貸してはいけない。完全に無視するべきだ。もちろんそんなことをすれば家庭は崩壊する。させたくないから言うことを聞くのだろう。だったら無用な争いをして何になるのか。
 戦力では圧倒的に母親のほうが勝っている。それは明らかなので認めよう。家庭内では娘よりも母親のほうが常に正しいことになっているのだ。そりゃ、絶対に譲れないところに来たら闘わなくてはいけないのだが、しかし勝ち目のまったくない状態で勝負を挑んでも無意味である。一度は従いつつも、虎視眈々と勝機を、逆転の機会を狙っていくのが本道。いったん引いて作戦を練るのである。猪突猛進に向かっていって泣いたり叫んだりしながらなし崩し的に説得してしまうというのも一つの手だが、それは本当に大切な問題の時のために奥の手としてとっておくほうがいい。部屋の片づけ方だとかそういう下らないことで、母親による自分への評価を下げてしまうようなことをするのは愚かでしかない。

 恋愛に関しては詳しく書く必要もなかろうので簡潔に記すが、狙ってる女の子、振り向いてほしい男の人がいるような場合、自分の言動、行動には最大限に気を遣うべきだ。意中の人から「この人、いいな」と思われるような振る舞いをしていなければ、恋なんて成就のしようがない。少なくとも正攻法ではそうだ。
 僕に好きになってほしい人がいたとしたら、その人は定食屋で出てきた食べ物を残らず平らげなくてはならない。食べ物を残せば残しただけ僕がその人を好きになる可能性が減っていくのである。あるいは、集団でいるときに適切な行動が取れないで、知らず知らずのうちに他人を不快にさせていたり、場の雰囲気を乱してしまったりするような人も、僕から好かれることはない。
 好かれたいならそれなりの行動を取らなければ話にならんし、それが自然にできないようならば「合わない」ってことなんだから早々に諦めたほうがいいのかもしれない。ごはんを残して何も思わないような人とは価値観がまったく違うのだ。

 どうも、人間関係に対して戦略的になれないというか、適確な作戦を立てられないという人が多いと感じる。まずは目的を定め、情報を集め、いろいろ考えて、目的のために最も適しているであろう行動を取る。単純なことなんだから、やればいいと思うんだが。
 付き合いたいと思う異性がいるんなら、そのことだけを考えて、ひたすらに研究して、そのためだけに行動していれば、だいたいの想いはかなえられるような気がするのだが、それには「ルックスと賢さと経済力」というどうしようもない要素が潜んでいて、「戦力的に圧倒的に不利」という状況も生まれる。だからって突撃して轟沈、というのは勿体ない。「今闘っても無駄だ」という判断を下せるだけの最低限の賢さだけ持っていれば、「ルックスと賢さと経済力」などのどうしようもない要素をひっくり返すために、一歩引いて作戦を練りに練る。そのことに全精力を注げばいいのである。と、口で言うのは簡単だが、単細胞な人間はだいたいが短気だからそのような気の長いことはしていられない。

2010/09/05 静岡で会いましょう

 東京と名古屋で遠距離恋愛していたら一度くらいは「静岡で会おうか」なんていう話が出ていたとしてもおかしくはない。それを実際にやるカップルは多くないだろうとは思うが、男がいつも女の住む街へ行くとか、女がいつも男の住む街へ行くとかいうのでは、体力的にも経済的にも負担に偏りが出やすい。もちろん「交通費は割り勘にしよう」とか「ホテル代は私が」とか、そういうふうにしてバランスを取っている人たちもいるだろう。しかし移動というものはそれだけで疲れる。お金のように単純に偏りを是正できるようなもんでもない。疲れは蓄積していくばかりである。偏れば倒れるしかない。座るわけなく。

 僕が静岡を愛しているのはそういう事情もあるのかもしれない。名古屋で生まれ育ち、今は東京にいる。真ん中に静岡が広く大きく横たわっている。名古屋まで行くのに新幹線はお金がかかるし、鈍行で行こうと思えば半日仕事で乗りかえも多い。だが静岡駅あたりならそれほど大変ではない。静岡は静かで豊かでゆっくりで、疲れもとれそうな気がする。
 静岡は広い。浜松も熱海も同じ静岡だ。「静岡で会おうか」という言葉にはそのくらいの柔らかさがある。どこで会うか、具体的にはまだわからない。しかし静岡であることは確かだ。東京でも名古屋でもない。ましてや岐阜なんかではないのだ。
 ところが、世の中には東京の恋人に岐阜で会いたがる名古屋の男や、名古屋の恋人に埼玉で会いたがる東京の女がいるのである。なぜかは知らない、悪気はないのだ。女は岐阜になんか行きたくないし、男は埼玉になんて行きたくないかもしれないのに、である。
 僕には静岡があってよかった。名古屋の僕と東京の僕は、いつも静岡で会っている。尊重し合っているからこそ、静岡で会う。静岡でお互いを確かめ合っている。それで静岡が大好きになった。
 だから僕も、君と会うなら静岡で会いたい。
 誰も静岡でしか愛し合えないのだろうと思う。

2010/09/04 ご愛顧ありがとうございます。

 出かけねばならぬので日ごろの感謝だけ書き記しておきます、手短に。
 いつもメール、掲示板等で感想をくださる方々ありがとうございます。日記などでここについて言及してくださる方もありがとうございます。インターネットに何か文章を書いて、それに対して感想が頂けることほど嬉しいことはありません。このホームページはmixi、ブログ、Twitter等のように、「反応をもらうための優秀な仕組み」があらかじめ組み込まれている場所ではないので、このご時世では感想や意見のようなものはいただきにくくなっているはずなのですが、かように多くのご声援、非常に嬉しく思っております。
 掲示板は、10年前に作った(正確には作っていただいた)ものを、改良を続けながら外見上はまったく同じ形で稼働させ続けております。伝統的なものです。どうぞみなさまお気軽に書き込みを。交流しちゃってください。ゆくゆくは結婚してください。
 そんな度胸ないぜ、という方はメールフォームからでも、なんでも、どんどんなんか言ってください。恥ずかしければ初めは匿名でもいいのです。返信用のアドレスはもちろん、あると嬉しいですが。

 本当に、ホームページを作るというのは孤独な作業なのです。反応なんか誰からも貰えません。どれだけ渾身の、自分なりにはよく書けたと思えるような文章を載せても、誰にも何にも言ってはもらえません。たまにmixiでも「反応がない」ことを嘆く人がいますが、本来はそんなものです。mixiにはよくできたシステムが備わっているから、もの凄く反応がもらいやすくなっているのですが、こういう荒野の一軒家みたいなホームページでは、そうもいかないのです。
 反応するのってそもそも面倒くさいし、僕の文章って読むだけでぐっと疲れて、ある程度しっかり考えてみないと感想が言葉にならないような、そんなような種類のものなので、特にそう。でも僕はmixiやブログやTwitter、そして何より2ちゃんねるなどの軽佻浮薄、軽薄短小なサービスにあるような、脊髄反射のみで書かれる感想がよりたくさん欲しいとも思いません。大脳を経由した言葉が欲しいのです。
 それは「複雑な感想がほしい」とか「長い感想がほしい」ではありません、あえて言うならば「面倒くさいことをあえてした結果としての感想がもらえたら嬉しい」です。読む、掲示板やメールフォームを開く、名前とコメントを打ち込む、送信ボタンを押す……という一連の面倒くさい手続きを踏んでくださった方の言葉であれば、「面白い」とか「つまらない」とか、そういった単純な言葉でさえ大きな意味を持つのです。
 インターネットにおいては、たった一回の手続き(クリックや文字を打つこと)が増えるだけで、面倒くささは何倍にもなりますし、「文章」と「コメント欄」が別の場所に置かれているだけで、敷居はぐっと高くなります。そこで多くの人が二の足を踏みます。mixiやブログやTwitterや2ちゃんねるでは「読むページ」と「書くページ」が同じです。それだけでずっと書き込みやすくなります。うちのサイトはそれらが完全に分かれているので、かなり書き込みづらくなっているかと存じます。そういうものです。でも僕はそのほうが好きです。なぜならば、そうすることによって掲示板が「広場」になるから。記事と共に流れていくことがないから。「同じ場所で、人や話題が移り変わっていく」という、当たり前すぎるほどに当たり前なことが実現できるからです。だから僕はブログは嫌いなのです。
 僕は自分や自分の文章が、「一つの広場に集まる色んな人たちの共通の話題の一つ」になることを理想としています。「一つ」というのがポイントで、べつに話題なんてなんだっていいのです。脱線したっていいし、意味なんかなくたっていい。「いい天気ですね」でいい。人と人との関係というのはそこから始まり、そこで育まれていくものだと思うので。それはこのホームページだけでなく、木曜喫茶でも事情はほぼ同じです。
 これからもよろしくお願いいたします。

2010/09/03 友達ならドラえもんで良いが、弟子ならばドラミちゃんになれ

 マイナス102歳の誕生日おめでとう。
 そして入籍日おめでとうございます。


 今日は一日中弟子に説教していた。今もしている。あいつの頭は四次元ポケットのようなんだ。ドラえもんの。混沌としていて、いっさい整理されていない。だから必要なものが必要な時に出てこない。ゆえに役立たず。要するに考えにまとまりがないから、適切な言葉が出てこないのだ。だから対話ができない。独り言しか得意でない。混沌の中に腕を突っ込んで何か素敵なものを引っ張り出してくることに関しては天才的だし、さすが四次元ポケットといった風情で素敵なものばかりが詰め込まれてはいるのだが、ガラクタみたいなのも多くて、ときおりトンチンカンなことを言いだしたりする。
 僕はドラえもん大好きなんだけど、ドラえもんは「友達」だと思ってる。友達ならドラえもんで良い。でもあえて「弟子」と自称するのなら優秀なドラミちゃんになってもらえないと困るのだ。なれないのなら、速やかにこんなくだらない師弟ごっこなんかやめて「友達」か「知人」になっていただきたい。時間の無駄だ。

 弟子は圧倒的に理屈が弱い。ものを考えるということが一切できない。それでも以前よりは随分マシになっていて、だからこそ見棄てることもしないのだが、一日中説教し続けられるくらいにはダメダメだ。
 人の話を聞いて、把握して、理解して、咀嚼して、吸収して、自分なりの言葉でそれを説明し直す、という一連のプロセスは、「考える」ということの基礎訓練だと僕は思っている。こんな面倒くさい手続きを踏まなくても一発で本質に辿り着けるような天才もいるにはいるのだが、それだけで満足するのであれば何も僕の弟子である必要はないのだからやめてしまえばいい。
 僕は「弟子」と自称するような人にはそういうことを求める。一通り説教し終わって、「わかった?」と聞くと、弟子は「わかった」と言った。しかし「それじゃ、僕が今言ったことを要点かいつまんで説明して」と言うと、何も言えないのである。せいぜい小学二年生の読書感想文レベルの言葉しか出てこない。「自律しろってことですか」とか。確かに僕は「自律しろ」という言葉を発したが、それだけを言うのに何十分も語ることはないのである。しかも、僕が発した言葉をそのままコピペしただけで「要点をかいつまむ」ということになると思っているところが浅はかすぎて、さすがに呆れた。
 ちなみになぜ「自律しろ」なんていう恥ずかしいことを言ったのかというと、弟子が四時間ほど遅刻してきたからである。僕はそのことに関して一切怒りはしないし、気分を害してもいないのだが、ひたすらに弟子の今後の人生が心配になった。「お前さあ、俺のこと好きとか言ってるけど、好きな人と会うのに四時間も遅れないよね。本当は騙してんでしょ。好きでもないのに好きとか言って、反応を見て楽しんで、嘲笑ってんでしょう」とか、思わざるを得ない。とんだ道化者(ピエロ)だぜ。とんだ道化者(ピエロ)だぜ。「でなければ、あなたは自分を律する、すなわち自分で自分をコントロールすることができなさすぎます」ということなんだが、もちろんこれはエッセンスのさらにエッセンスにすぎず、もっともっと重要なことをたくさん、あれこれと優れた修辞や比喩を用いて説明したのだが、それを一言でぶった切られてはこちらとしては徒労感しかない。学校の先生のくだらない説教と同様に扱われたということであろうか。
 ドラえもん14巻の『ムードもりあげ楽団登場!』で、ママが心をこめて作ったケーキをのび太がテレビ観ながら「ほう。うん。うんうん。」とか言いながら表情一つ変えずに食べきり、その後に平然と「ふうん、ぼくはケーキを食べたの?」と言い放つのだが、これは数あるのび太の非道なセリフの中でも最も凶悪なものだと思う。もしあの言葉をママが聞いていたら怒りを通り越して号泣していただろう。はりあいがないというレベルではない。丹精こめて作ったケーキ。そこに込められたママの苦心と愛情の全てを、「なかったもの」としてすべて否定してしまったのだ。ひどすぎる。

 僕は別に、僕の言ったことをちゃんと実践してほしいから「説明して」と言ったわけではない。説教の内容などどうでもいいのだ。理解力と、説明力を試したのである。そうしたら案の定、そのどちらもまったくできていないようであることがわかった。自律うんぬんは割とどうでもいいが、理解力と説明力がないというのは僕の弟子として致命的である。これに関しての説教はずいぶんと長かった。
 ともかく圧倒的に「考える」ということが不足しているのだ。頭の中が整理されていないということは、すなわち「考えていない」ということでしかない。考えているような気になっているだけだ。何にも考えないで人の話を聞いているから、「納得はしているが理解できていない」というふうになって、結局どういう話をされていたのかということを説明することができない。
 そんな単細胞な弟子であるが、しかし天才である。そして僕はこいつが好きである。僕が言ったことや書いたことは、その場では響かなくとも、着実に弟子の中に染み込み、血肉となって、何らかの形で生きている。そして思いもかけない時に混沌の中から飛び出してきたりする。弟子なりの色に染め直されて。だから本当は僕は弟子に話したことを徒労だとは思っていない。頭でだけ理解して、何をしても「模倣」になってしまうような人間よりはずっと高級で素敵なことができているのだから、僕の一連の説教はすべて野暮なのかもしれない。しかし「弟子」を自称し、僕もそれを認めている以上は、僕の言うやり方もできていてほしいなとは思うのである。両方できれば完璧だから。ひょっとしたら僕のせいで折角の素敵な能力をダメにしてしまう可能性だってあるにはあるが、それはもう、その程度の人間だったということだ。心配はしていない。

 弟子はまだ、自分についても他人についても、まるでわからない。蓄積がないから。早めに何らかの方法を見つけ出し、手を打たないと、一生何もわかんないまんまで終わってしまうので、ちょっと無理して精進してみてほしい。
 それにしても半人前のくせに師匠づらして弟子とか言うのは恥ずかしい。だが多少は身が、引き締まる。

2010/09/02 見返りを求めない愛

「見返りを求めない思いは必ず自分にかえってくる。ドヤ!」と僕の教え子が言っていたのでそれについて少し考える。
 僕は『がくえんゆーとぴあ まなびストレート!』というアニメが気持ち悪いほどに大好きだが、まなび役の堀江由衣さんにお会いしたいとは別段思わない。もともとファンなので会えたら嬉しいし、許されるなら「まっすぐGO! やってください!」って言うと思う。でも、「堀江由衣さんに会いたいと思ってまなびを愛している」わけではないし、そもそも「まなび役の堀江由衣さんに会いたい」という思いすら、ほとんどないのである。つまりまなびを単純に「好き」だと思う気持ちにとって、「堀江由衣さん」という存在は別にどうだっていいのだ。それは「金月龍之介さん(ストーリーディレクター・脚本)」であっても「小笠原篤さん(ビジュアルディレクター・キャラデザ)」であっても同じこと。会えたら嬉しいが、別に会いたいわけでもない。ただ「まなびを作った」という点において、尊敬しているし、大ファンであるというだけだ。もうちょっと言うと、『まなび』を愛するために、それを作った人たちを愛したり求めたりする必要などないのだ。
『まなび』はすでに本当に大切なものをたくさん僕にくれてるから、それ以上に望むものなどない、ということもある。

 もちろん『まなび』はアニメなので、見返りをもらおうと思ってもらえるものではない。しかしまあ、『まなび』を好きであることによって結果的に誰か尊敬する人や大切な人と仲良くなったりすることはあるかもしれない。永遠の伴侶と解りあうための材料が一つ増えるということもあるかもしれない。それだって見返りといえば見返りだが、もちろんあらかじめそういったものを求めているわけではない。『まなび』との出会いによって僕の心が豊かになり、また考える幅も深みも広がった。正しいことが何だかわかった。それだけでいいのだ。

 じゃあこれが、アニメのような無生物ではなくて、見返りを能動的に与えることのできる「ひとりの人間」だったらどうか。つまり、片想い。
 片想いってのは「付き合いたい」と思ってすることが多いんだと思うんだけど、その想いが必ず自分に返ってくるかどうかってのは確かに微妙なんだね。具体的には、あまり早々に「付き合ってください」を言ってしまうと、運が良ければそのまま付き合えるかもしれないけど最終的には上手く行かなくなったりするしね。
 ただひたすらに好きであることは大切なのかもしれない。2010年8月30日の日記に書いたように、「好き」という気持ちは「考える」ということに繋がったりするから。

 僕の大好きなブログで「
毎日が抱き枕」というのがある。これはもう、本当にみんなに読んでほしい。すべて読むべしというのではなくて、幾つかの記事を読んで、そこから絶大なる「愛」を読みとってほしい。そして、「何かを好きになるというのはこういうことでもあるんだ」ということを知ってほしい。ちなみにここの管理人さんは 作家・芝浦慶一(僕のこと)のファン様であらせられる。正しさは正しさを呼ぶのだ。
「毎日が抱き枕」は、「好きなものについてとにかく深く多く考える」がひたすらに実践されているブログである。ここにある抱き枕論は、抱き枕について一切なにも考えたことのない人にとってはおそらくわけのわからないものであろう。しかし彼が本当に、心の底から、邪念なく、強く強く抱き枕を愛しているのだということは伝わるはずだ。
 ある人が、「○○さんが好きだ! 付き合いたい!」とだけひたすら言っていたとしても、そこに愛があるかどうかはよくわからない。少なくとも、どのような形の愛であるかは見えてこない。その人が○○さんについてどれだけのことをどのように考え、想っているかというのが重要なのである。「毎日が抱き枕」からは明瞭に愛が滲み出ている。「抱き枕が好きだ! かわいい! ほしい!」とだけ言っているブログだったら、僕はちっとも好きになんかならない。「気持ち悪いな」とか「いい年して」としか思わない。しかし「毎日が抱き枕」の愛の熱量の前には、ただ圧倒され、脱帽し、そして清々しく健やかな気分になれる。何かを本当に深く愛している人の姿を見るのは、幸福なことだ。

「好き」という気持ちと、「見返り」というのはたぶん、本来なんの関係もないことなんじゃないかと思う。だから実は「見返りを求めない思いは必ず自分にかえってくる」というのは言い方として微妙である。僕ならばこう言う。「愛とは見返りなど求めないものだ」。なんだ、当たり前じゃないか。よく聞くよ。ありきたりな言葉だ。そう思われるかもしれないが、ここに「実感」というものがあるかどうかが、重要なのですよ。2010年8月22日参照。ここまで考えてからこの言葉に出会うと、その意味がより深くわかるようになるというわけ。
 で、愛ってのは、ちゃんとどこかに届く。欲望はどこにも届かない。そういう違いがあるんだろうね。

2010/09/01 不謹慎な恋

 cali≠gariの『
オヤスミナサイ』(詞曲:桜井青)という曲は「ゲイの歌」という視点で聴くとどういう意味かわかってくる。歌詞
 この場合の「視点」というのは文学研究とか構造分析とかではたぶん「コード」とか呼ばれる。が、そんな小難しい用語は要らん、「視点」でいい。何かについて考えるとき、ある「視点」を導入することでグッと理解が深まることがある。数学で言えば「補助線」のようなものだ。「ゲイの歌」という補助線を引くことで、『オヤスミナサイ』の歌詞は俄然わかりやすくなる。
 わかりやすくなる、と言ってもそれは「僕にとって解釈がしやすくなった」というだけのことで、何も「これはこういう曲である!」と断言するものではない。

 冒頭にある、
“水面下 静かに語ろう”
“水面下 密かに遊ぼう”
 というフレーズが、曲の中盤でもう一度繰り返される。
 ゲイの歌というのであれば、これは「世間的には禁忌的な恋である」ということを歌っているのかなと思える。だから「水面下」で、「静かに」「密かに」「語」ったり「遊」んだりしているわけだ。

“無意味な視線の閉じ箱は何? つまらない空気は殺しましょう”
 ここは非常に難解で僕もうまく言葉にできないのだが、「つまらない空気」というのが「自分たちを禁忌的なものと見る世間」だと思えば、「無意味な視線の閉じ箱」もなんとなくわかってはくる。

“二人だから怖くはないよ 「暗い」「狭い」「遠い」道 肩並べ何処までも行ける”
 愛しあう二人だから、暗くて狭くて遠い、世間的には禁忌的とされるような道でも、歩いていくことができる。

“世界は眠る 僕らを忘れ 僕らは歩く 世界を捨てて”
「つまらない空気」が、再びここで「世界」という言葉で表される。二人だけの世界の中で愛しあっていると、つまらない空気や世界なんていうものが、まったく眠っているように感じられる。僕らはくだらない世界というものから忘れられて、自由になる。くだらない世界を捨てて、二人で愛しあい、歩いていく。

“良く出来た作り笑いを浮かべる友達へ 最後の言葉を告げよう 「オヤスミナサイ。」”
「僕は君たちのことを理解しているよ」なんていう、物わかりのよさそうなことを言う友達がいる。「良く出来た作り笑い」をして。そういう人たちにこそ、「オヤスミナサイ」を告げよう。世界は眠り、二人は愛しあう。

 情景を思い浮かべるといい。真夜中、愛しあう二人が、静かに密かに語り合い、「遊ぶ」。遊ぶというのはもちろん肉体を使ってということだ。真夜中、街も人も眠っている。まるで二人きりの世界にやってきたようだ。世界は眠っている。僕らのことをとやかく言う人たちはいない。愛しあおう。夜が明けるまでは。
『オヤスミナサイ』はそういう曲なんだと思う。祝福されない関係だけれど、二人だから信じ合える。「絶望的な世界は今も終わりそうで終わらないでいるよ 諦めかけた景色もきっと二人でなら薔薇色に見える」というのはPIERROTの『薔薇色の世界』という曲だが、根本的には同じ意味だろう。もちろん『薔薇色の世界』が「薔薇族」の薔薇であるということではなく、「絶望の中で、二人の愛が希望を創っていく」という意味。


 で、さて。ここで終われば単なる曲の解説なんで、もうちょっと先へ行く。『オヤスミナサイ』が素晴らしいのは、「ゲイの歌」という以外の読み方もできるというところである。桜井青さんがゲイだから、ついついそういう歌だと読んでしまいがちだが、別に曲の中でそのことが言われているわけでもない。この曲は、ゲイだけでなく、あらゆる「世間的には禁忌的と言われてしまう関係」に当てはまるのだ。いや、もっと広く「周囲に賛成、歓迎されていない関係」のすべてに。だから、普遍性があるのだ。
「懐かしい身体」というフレーズがあるが、これをゲイの歌だと思うと、「屈強な男が美少年を抱く」みたいなイメージが僕は思い浮かぶ。屈強な男が美少年の若々しく瑞々しい身体を「(昔の自分の身体のようで)懐かしい」と思うのである。あるいはその逆ならば、美少年が屈強な男の身体を「(父親の身体のようで)懐かしい」となる。男女の歌だと思うと、これは男視点の曲なので、「(母親の身体のようで)懐かしい」となる。どちらでもいけるのだ。良く出来ている。もちろん、「久々に会えた恋人」とか、「幼なじみと初めて恋仲になった」とか、他にいくらでも解釈は考えられるわけだが。

 例えば、僕はいま、とあるやんごとなき身分の方と恋をしている。許されぬ恋である。結ばれようなどと思えば宮内庁が黙ってはいない。このことが公になれば右翼の街宣車が日毎練馬に押し寄せてくることは必定だ。その方と二人でカラオケに行って、僕は『オヤスミナサイ』をいい声で熱唱した。するとこれまでよくわからなかったこの曲の歌詞が手に取るように完全に理解出来たのである。愛するやんごとなき御方の顔を見ながら歌うと、「水面下密かに遊ぼう」だの、「暗い狭い遠い道」だの、「世界は眠る僕らを忘れ」だの……とにかくすべてのフレーズの意味が実感として迫ってきた。「これは僕らのことを歌っているんだ!」とわかる。とかまあ、そういうこと。またはやんごとなき御方と真夜中にベッドでイチャイチャしながら『オヤスミナサイ』を二人で聴くとかでもいい。ゲイじゃなくてもこの曲に実感を持てる人たちは多いと思う。んで、それはちゃんと実感として迫ってくる。ゆえに名曲である。
 あるいは例えば、ホームレスの人とカラオケに行ってMOONRIDERSの『ニットキャップマン』なんかを歌うとまた見えてくる景色が違うだろう、とか?

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