少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2010/09/00 9月0日大冒険

 何らかの事情で充実した夏休みを過ごせなかった子供には9月0日というおまけの時間が与えられる。僕の残りの人生はすべて9月0日のようであればいいと思う。

2010/08/33 女の思考回路

 女は「脳内書き換え」(「脳内上書き」でもいい)なる怪しげな術を操る。この言葉自体はお友だちすんたんの発明である。こないだ一晩喋っただけなのにずいぶんと優秀な起爆剤だな彼は、僕にとって。まあそんなラブラブな話はどうでもいい。
「脳内書き換え」の発現の仕方には、僕がすぐに思いつく限りでは二種類ある。まずはもう、「自分ででっち上げた嘘を本当だと思い込む」だ。参考文献として芥川龍之介の『
藪の中』(大正11年)を強く推奨する。これに出てくる女は、恐らく嘘をついていて、その嘘を完全に真実だと思い込みながら喋っている。恐ろしいことだ。んで、女ってのは本当にこれをよくするんよね。芥川すげーよ。ちなみに僕の持論では森鴎外の『高瀬舟』(大正5年)に出てくる喜助って男も同じことをしてる。芥川の凄いのは、おそらくは『高瀬舟』を意識して、喜助のしたことをそのまま女にやらせたこと。それによってリアリティがぐんと増したと僕は思う。
 何か例を挙げよう。例えば女が浮気をしたとする。彼氏でない男と二人でバーにでも行って、酔っぱらって、その勢いでやっちまった。その時女は酩酊というわけではなく、多少いい気分であったというくらいなのだが、ひどく酔ったふりをして誘惑し、男は待ってましたとホテルに誘ったというわけだ。
 翌朝目ざめた女はこの事実をねじ曲げる。

 パターン1:酔わされて無理矢理ホテルに連れ込まれ、強姦同然にやられた。
 パターン2:男は実は自分にとって運命の相手であり、彼氏と付き合っていたのはそもそも間違いだった。だいたい彼氏のことなんて初めからそんなに好きではなかったのだが、告白されたからなんとなく付き合っていただけだったのだ。あんなつまらない男とは別れよう。
 パターン3:他の男と寝てしまったのは、彼氏が自分を大切にしてくれていないからヤケになったのだ。例えば彼氏は、先日の誕生日に二時間も遅刻してきた。あれはきっと直前に他の女と会っていたに違いない。

 パターン1は自分を正当化するための方便である。事実とは明らかに異なるが酔っていたので記憶の書き換えは容易。女はこれを真実と信じ込み、浮気がバレた際に彼氏に泣きついて許しを乞う。もちろんそれは嘘泣きではない。心から強姦されたと信じているのだ。
 パターン2も自分を正当化するための方便である。新たなラブロマンスを求めて男を乗りかえようとしているのだが、自分への言い訳として「彼氏は運命の人ではなく、この人が運命の人だったのだ」と言い聞かせ、そのために彼氏を貶める。昨日まで大好きだった彼氏は一夜にして「つまらない男」となったのである。もちろん心からそうだと信じている。
 パターン3も自分を正当化するための方便である。「彼氏が自分を大切にしてくれていない」というのはもちろん疑心暗鬼からくる妄想で、特に根拠などない。根拠としてあげられている「二時間の遅刻」というのも、実はたった五分の遅刻であった。五分の遅刻が二時間の遅刻に化けたのである。あり得ないと思われるかもしれないが、女の脳内ではよくあること。心から「あの人は二時間も遅れてきた」と信じているのだ。

 ポイントは「泣く」というのと「事実を捏造する」というところ。これが恐ろしいことに本当にあるのだ。合わせ技で、こんな状況もある。

「なんで二時間も遅刻してきたのよ!」
「えっ、あの日は五分くらいしか遅刻してないよ」
「それはその前のデートの時でしょ。誕生日は二時間は遅れてたわよ」
「そんなことないって。その前のデートのことは覚えてないけど」
「なんでそんな下手くそな嘘をつくの? やっぱり浮気してたんでしょ」
「いやいや、違うよ。遅刻は五分だけだったし、浮気もしてないよ」
「そんなこと、信じられるわけないじゃない。どうして本当のことを言ってくれないの? びえーん」
「いや、おれは本当のことを言って……」
「びえーん、びえーん」
「……悪かった。ごめん」
「こっちこそごめんね。もう嘘なんてつかないでね」
「……う、うん」

 こういうことが本当にある。男でも女でもあるのだろうが、たぶん圧倒的に女が多い。何かの本で「男は事実を記憶するが、女はその時の感情を記憶する」というようなことが書いてあって得心した。例えば遊園地に行ったあと、乗り物に乗った順序を答えるのは男性が得意だが、楽しかった順に上げていくのならば女性のほうが得意であるという。
 誕生日に五分待たされた女は、誕生日だということもあってその五分間を非常に長く感じたのでありましょう。その「すごく待った」という感情の記憶が、いつしか「二時間」という言葉に置き換わって、やがてすっかりそう信じ込んでしまった、と。ちょっと極端すぎるかもしれないけど、一時間が二時間になるくらいなら頻繁にあると思う。
 こういうような具合に、女はけっこう自分の嘘や勘違いをそのまま信じ込んでしまったりするのである。

 もう一つの「脳内書き換え」は、ずばり「ニュアンスを操作して他人に伝える」である。女のうわさ話に尾ひれはひれが幾らでもつくのはこれが理由。彼女らは正確にものごとを伝達することができない。
 例えば、Aくんが「Bちゃんってすごい良い笑顔するよね」と言ったとすると、女はそれを「Aくんが、Bちゃんのこと可愛いって言ってたよ」と言うのである。平気で言う。マジで言う。これは絶対言う。上の段落までを読んできて「ハァ?」と思っていた人でもぜひ納得していただきたいが、こればっかりは絶対言う。この傾向は男より女のほうが確実に顕著にある。
 Aくんは「可愛い」なんて言ってないのである。「良い笑顔をする」と言ったにすぎないのである。Aくんは「すげー笑い方が特徴的だ」という意味で言ったのかもしれないし、「マジ受けるあの笑い方」という意味だったのかもしれないのに、女にかかると「可愛いと言っていた」である。おっかねー。だから僕は伝聞なんかぜんぶ、話半分でしか聞かない。不用意に信じたりしない。あほくさい。女は特に、自分の解釈したいように解釈して、自分の伝えたいように伝える。信用できるわけがない。
 最近とりわけ、だいたい女の子に何か言うと、その友達の女の子にねじ曲がって伝わって、「こんなこと言ってたんだって?」なんてふうに後で言われたりする。聞くほうも話半分で聞けよと思う。
 実話として、先日ある女の子から「○○ちゃんが、あなたから淋しいって電話が来ると言っていた」というようなことを言われた。んまあ確かに電話で話したのは事実だったし、「淋しい」という単語も発した記憶はある。しかしそれは「いやあ一人で家にいるのは淋しいねえ」というくらいの温度だったような気がするのである。いや、僕のことだからもしかしたら「ううー、淋しいようー。うううー」くらいは言っているかもしれない。そういうノリの男だから。が、別にそれが本題ではないというか、別に淋しいから電話をかけたというわけではないはずだ。だいたいは向こうからかかってくることが主だし、こちらからかける時は折り返しか、あるいは具体的な用件がある。そういう関係の相手である。何の用もなく電話をかけた記憶なんか全然ない。一度くらいはあったような気がするが、それは実は「相手を喜ばせるため」という明確な意図があったのである! まあ、それを「何の用もなく」と言うのかもしれないが。でもその程度だ。
 この場合は、僕と電話をした女の子も、その話を聞いた女の子も、二人ともたぶん少しずつニュアンスを操作しているのだと思う。相乗効果でなんか僕が「淋しいから電話をかけた」みたいなニュアンスにすり替わっている。いまその電話していた女の子に「僕が君に淋しいから電話した、なんてことがあったっけ?」と確認してみたら、「たぶん、ない」という返答があった。だからたぶん聞いたほうの勘違いもあったのだろうし、言ったほうもその時はなんか妙な言い方をしていたのかもしれない。そんなことはもうわからないことだからどうでもいいが、現象としてそういうことはよく起きる。女の間ではとりわけ多い。
 中学校とかでよくある、「○○ちゃんが××ちゃんのこと、なんか嫌だって言ってた」といった原爆のような一言も、「××ちゃんって、ちょっとワガママなとこあるよね」程度のことだったりすると思うのだ。その後に「でも私は好きだよ」が隠されているかもしれないのに、女にかかると「嫌」とか「嫌い」という言葉にすり替わってしまう。で、女子にはそういうのを気にする子が多いから、○○ちゃんと××ちゃんが気まずくなったりしてしまう。んま、女の世界では「あたしあの子キライ」とかいう銃声のような言葉も多すぎるほど氾濫してるんで、誤解ばかりでもないんだけど。

 女子の世界って、なんであんなに常にもめてんのか? ってのは男子にとって永遠の謎であり、僕もよくわかんなかったりしたのだが、もしかしたら女の子が「脳内書き換え」の世界に生きているからかもしれない。わざわざもめるような言葉に書き換えて伝えるから、いざこざが起きんじゃないかと。「あの子って○○だよねー」や「あの子が○○とか言っててさー」という言い方の中の「○○」も、たぶん話者によって面白おかしく書き換えられてんだろう。言ってもいないことを言ったことにされて、叩かれて、嫌われて、というのがたぶんめっちゃくちゃあんだろうな。おっかねえな。男の間で似たようなことがあっても、たいていは冗談で終わる。しかし女子は本気である。
 男は意識的に嘘を吐く生き物だから、他人の言葉も「嘘かも知れない」と思えて、冗談として聞き流すこともできるのだが、女はけっこう冗談が通じなかったりする。それは女がわりかし無意識に嘘を吐いてしまう種族だからなのかもしれない。
 男は意識して嘘をつくが、女は嘘だなどと思っていない。もしも「男だって同じことするよ」とお思いの方がいたら、その点に最大の違いがあるということを踏まえていただきたい。

 と、かなり乱暴な書き方をしたが、現段階では本当にそうなんじゃないかと思っている。男は、とか女は、とかいう言い方で一括りにできるようなもんではないが、大まかな傾向としてはあるんじゃないか、少なくとも血液型による性向の違いよりは、男女の違いのほうが大きかろうと思うので。

2016/05/02 そう、この人の言うことはいつも乱暴である。「男は~」とか「女は~」とかいう話し方は、それだけで反発を受けるというのに。しかしそれをあえてやってしまっていたのが、二十代までの自分だし、今でもけっこうそういうところはある。「割り切れないことなんて当たり前なんだから、『割り切れないでしょ!』っていう批判はナンセンスですよね?」っていう前提を、心の中に持って、乱暴な割り切り方をするのである。それをしてみることに、なんか意味があると思っているのである。

2010/08/32 地味な××

 ××には派手なものと地味なものがある。凡人は派手な××にしか気づけない。僕の周りに今、とても派手な××が一つあって、多くの人がそれに気づきかけている。当たり前だ。一目見ればその××がわかるのだから。しかし、僕の周りにあるもう一つの××に気づいているのは、まだ僕の知る限り一人しかいない。僕はあえてその地味な××を宣伝はしないし、人に紹介もしない。わかる人だけがわかればいい。派手さに惑わされないで、本質的な××を見抜く力のある人間が、もっと多ければいいのに。そうすればあの××も報われると思うのだが。

2010/08/31 本当のことだけしりたいよ

 未来につづいたこの世界
 ごまかしだらけの日々が 心を傷つけようと
 自分をすてないで
 倒れるな 負けるなよ さぁ飛びだそう
 からだにエネルギーわいてくる
 正義のたましいを どこまでもつらぬこう
 鉄人28号
 僕らの夢まもるヒーローさ
 超伝導のこのちから みせてやれ無限大
 鉄人28号


 と、いうのは僕の好きだったアニメ『鉄人28号FX』のOPテーマ。
 92年放映。
 園田英樹さんが『絶対無敵ライジンオー』の直後に手がけたアニメで、それで僕が嫌いなわけがないですわね。ちなみにこの曲の作詞も園田さん。ううむ、いい曲。
『鉄人28号FX』はもちろんあの『鉄人28号』の続編で、かつて鉄人を操っていた金田正太郎くんの息子が主人公。鉄人28号FXという新型ロボットを操って敵を倒すわけなんだけど、ときおりFXがピンチになるとどこからか旧鉄人(おなじみのアレ)がやってきて助けてくれたりする。もちろん操縦は45歳になった正太郎くん。スペックは劣っているはずなのに、熟練の腕と経験によってこれがかなり強いわけ。もう、ときめきますね。本当に。いやはや。
 僕はこのような、「すでに引退した存在が返り咲いて活躍する」というモチーフを愛している。45歳の正太郎くんが旧鉄人を操って近未来的なデザインの敵ロボットに立ち向かっていくわけですよ。燃えるでしょう。燃えない人を信じないよ僕は。
 むかしジャンプでやってたこせきこうじ先生の『ペナントレース やまだたいちの奇蹟』という作品では、選手としては引退したはずの三原監督がこっそり選手登録していて、ここぞという時に代打で登場して最終的に打率10割を叩き出すんだけど、もう本当に、これは読むたびに全身が燃え上がる。そもそも主人公のやまだたいちと泰二の双子の兄弟は、三原監督の現役時代のプレイを見て憧れて野球バカになったという事情があって、それを考えるともう、泣ける。王や長嶋が監督やりながらこっそり選手登録していて、ここぞというところで代打で登場、鮮やかなヒットをかっ飛ばしたとしたらもう、マウンドにいる全員が泣くでしょう。敵味方関係なく。間違いなく。そういうシーン。
 ちょっと違う例では、『キテレツ大百科』で過去に行ったキテレツのもとへキテレツ斎さまが現れて壊れた発明品を直してくれるシーンとか。あれも似たような素敵さがある。
 レッドリボン軍がカメハウスにやってきた時に亀仙人が素手でマシンガンの弾を全て受けとめちゃうところとかもね。

 27日のところで老人について少し触れたけど、年寄りってのは基本的に「ご隠居」であって、何もしていなくても存在そのものが尊敬の対象になるような人たちだ。しかし尊敬されるにはもちろん理由があって、それは「何十年という過去を生き抜いてきたこと」そのものであり、その中で培った知恵や技術はそう簡単に失われるものではない。たとえば電気やガスが何らかの事情で止まってしまったとき、いちばん活躍するのはじーちゃんばーちゃんだったりするのだろうと思う。まあ、今のじーちゃんばーちゃんってのはけっこう戦後産まれだったりもするからわかんないけどさ。でも長い間年寄りの役目ってのはそうだったと思う。

 正太郎と旧鉄人には、息子と「FX」にはできないことができるのだ。性能は劣るのになぜか強いというのは、熟練とか経験とか、あるいはもっと得体の知れない時間の重みのようなものが彼らには宿っているから。だから強いのだ。『機動戦士ガンダム』でも旧ザクを操る老兵ガデムはけっこういいところまでガンダムを追い詰めるし、ベテランパイロットのランバ=ラルには「モビルスーツの性能の違いが戦力の決定的差ではない」という名言がある。
 僕が「すでに引退した存在が返り咲いて活躍する」というモチーフを愛するのは、だからつまり、そこには歴史や経験や熟練や老人への、すなわち過去というものに対する畏敬の念があるからだ。時間の重みというものへの尊重がある。

 オタクは過去も未来も見ようとしない、と僕は書いたが、それは別にオタクだけの話ではない。mixiを見てもTwitterを見ても、そこには「現在」しか存在しないではないか。mixiのトップページには「新着情報」だけが氾濫しており、過去の情報を閲覧するにはかなり面倒な手続きを踏まなければならない。mixiニュースはすぐに消える。Twitterは「なう」という言葉が表すとおり、本当に「現在」ということしか問題にしないサービスだ。過去は「タイムライン」としてどんどん「流れて」行き、見なければ見なかったものとしていっさい無視される。過去ログの閲覧はmixi以上に面倒くさく、画面自体も非常に見づらい。過去がなければ現在との間に線を引くことができず、ゆえにその延長線上にあるはずの未来というものもまったく見えない。現代とはそういう時代だ。

 なぜこんなにも時間というものが無視されるようになってしまったのだろうか。ただ現在だけを見つめ続ける白痴社会ができあがってしまっているのだろうか。その要因、問題については様々な言い方ができるだろうが、一つだけ僕なりに言う。原因は明らかに「誰も何も考えないから」で、誰もに何かを考えさせることは、およそ不可能である。

 夏休みはもう終わり。
 ほとんどの日本人が小中高と12回、四年制大学を出るとしたら16回もの「夏休みの終わり」を経験しているはずなのに。

2010/08/30 恋は嫌でも

 恋は嫌でも人に考えさせる。恋をするたびに人は変わる。様々のことを覚えていく。恋を知らない人間は薄っぺらになりがちだから、その分何かで補ったほうが無難だと思うのだが恋愛の代わりになるような経験はそうそうない。どれだけの恋愛小説を読んでもあれほどの深い「考える」や「葛藤する」は得られないだろう。ことに思春期の恋愛というのは、大人になってからの恋愛とは一線を画す巨大な経験となる。
 思春期というのは、恋愛以外に何も考えないということを許されるような時期だ。自分のことと、相手のことだけをひたすらに考えていても許される。頭の中もまだ狭いから、本当にそれだけで埋まってしまう。あらゆることを考えて、そうして徐々に思考の幅は広がっていく。
 恋愛ほどではないが、それに似たものとしてオタク的趣味というのがある。そういえばかまやつひろしさんの『
ゴロワーズを吸ったことがあるかい』というやったら格好いい曲にこんな歌詞がある。

君はたとえそれがすごく小さな事でも
何かにこったり狂ったりした事があるかい
たとえばそれがミック・ジャガーでも
アンティックの時計でも
どこかの安い バーボンのウィスキーでも
そうさなにかにこらなくてはダメだ
狂ったようにこればこるほど
君は一人の人間として
しあわせな道を歩いているだろう

 何かに凝ったり狂ったりするということは、何かについて深く考えるということでもある……はずなのだ。どうやらそれをしない人たちがいるんだということを、ちょうど半月前に書いたんだけど。
 入れ込む対象に、内面というか、表面的に見えている以上の「意味」を認めてこそ、「好きになる」ことと「考える」ことが繋がる。要するに「こだわり」のないマニアはダメだ。たくさん知識を詰めこむのもアイテムを集めるのもいいが、何よりも精神で理解し、愛さなければ。

 恋愛だって似たようなものだ。「入れ込む」という言葉が示しているように、相手の中に深く潜っていって、よりたくさんのことを知って、とても多くのことを考えて、自分だけにしかない相手についての想い、言ってしまえば「こだわり」のようなものを持つ。もちろん恋愛は一人でするものではないから、「こだわり」同士が絡み合って「関係」になるのだと思うけど。相手を知り、関係を知ることで、自分を知る。あるいは自分を知り相手を知ることで関係を知り、自分と関係がわかることで相手もわかる。xyzの方程式だ。

 恋愛によって、人は嫌でも「相手」と「自分」と「関係」のことについて考える。「関係」というのは、相手と自分との関係だけにとどまらず、相手や自分をめぐるあらゆる関係のことであったりする。そういうことをちゃんと考えなければ、その恋は「盲目」と呼ばれ、決して成功しない。何かに凝ったり狂ったりすることによっても似たようなことがわかるのかもしれないが、マニア的行為にはふつう恋愛のように相手の意志が係わってこないため、相手を恣意的に規定して、「関係」を勝手に構築することができる。だから基本的に恋愛ほど巨大な経験にはなりえない。
 僕にとってはたぶん、何かに凝ったり狂ったりすることというのは、恋愛をするための準備だったんではないかなと思う。例えば小学二年生の時に手塚治虫に狂ったのは、あれはほとんど恋愛のようなものだった。彼のことなら何でも知りたいと思っていた。

 二十歳すぎて初めてまともに恋愛を始めたような友達が僕には何人かいるのだが、みんな手こずっている。
 考えることにすでに慣れている人はそうでもないが。

2010/08/29 謙虚と自信

 不遜に始めます。

 藤子不二雄先生が大好きだ。しかし僕は知識とか情熱とかコレクションとかキャリアとかにおいては藤子ファンとしてかなり低レベルなほうの部類に入る。それなのに僕と同等に藤子不二雄の話ができる人などほとんどいない。大いなる謎である。
 物心ついた頃から藤子作品は水を飲むように読んできたし、殊に小学生から高校生にかけての僕の狂いようったらなかった。とりわけ高校の頃なんか、自由になるお金が増えて行動範囲も広がり、名古屋にまんだらけがオープンしてしまったものだから大変だった。延々と藤子作品を貪り続ける日々。無論、ほかの漫画や本も読んでいたんだけど、特に藤子作品に対する熱は他を完全に圧倒していた。
 僕は実にたくさんのことを藤子作品から学んだ。僕がそれなりに色々のことを色々の方法で考えたり語ったりすることができるようになったのは、藤子作品を読み、それについて様々に考えていたからであって、これよりも大きな要素などおそらくどこにもない。
 そうなると不思議なのは、僕が藤子作品から学んだようなことを、藤子作品に狂ったことがない人たちは、いったいどこから学んだのだろうかということだ。藤子作品を読まないで他の人たちはどうやって生き方を知ったのだ。どうやって考えることを知り、どうやって価値観を相対化することを知り、どうやって正しいことを探しだしたのだろう。わからないままで生きているのだろうか。
 僕の中では、藤子作品が常に道しるべとしてあった。

 そういうことだから、知識も情熱もコレクションもキャリアもないかわりに、藤子作品を愛し、またそれについて考えることだけは人一倍にしてきたつもりだ。たとえば『ドラえもん のび太と夢幻三剣士』についてなど、たぶんこれまで誰も言ってないような重大な説をもう十年も考え続けているのだが、「ドラえもん好き」と自称するような人々にそれを語り聞かせても、今日の今日まで誰一人として僕と同程度に感動してくれる人はいなかった。僕なんか、語ってるだけで自らゾッとしてくるというのに。……んまあ、十年考えていたとは言っても、昔は語り方がずっと下手くそだったし、正直言って今日で初めてちゃんとした言葉にできたような要素もあったので、仕方ないといえば仕方ないのかもしれない。
 が、誰も感動してくれなかった最大の理由というのは、僕の話を聞く人が僕のようには『夢幻三剣士』の映画と大長編(漫画)をしっかり観たり読んだりしていないということだろう。だから、物語に関する具体的な話をされてもいまいちピンとこないわけだ。少なくとも映画版と大長編の相違点をパッと複数頭に思い浮かべられるくらいの人でないと。それから、「考える」ということが得意でないと。

 何につけても、藤子作品について深く考えたり、そこから何かを学ぶことが重要なのだと僕は思う。知識がどれだけあるかとか、どれだけコレクションを持っているかとか、どれだけたくさんの藤子作品を読んでいるかということでさえ、さしたる問題ではない。僕にとっては、藤子作品をどれだけ「使える」かとか、ある藤子作品についてどれだけ「話せる」か、とかいったところにこそ意味があるのだ。僕に言わせれば藤子作品は実用品であってエンターテインメントではなく、ましてや置物なんかでは決してない。

 ……と、なぜ僕が今日に限って(でもないか)非常に自信マンマンあげだマンで、とっても偉そうであるかというと、藤子作品については本当に自負があるから。そんじょそこらの自称藤子ファンとやらなぞには引けを取らないくらい、僕は藤子作品を使い、語ることに関してはそれなりに自信はある。そりゃあ日本一とは言わないが、二十代男性の中ではかなりいいとこ行ってるんじゃないかな? なんてひっそり思ってる。「俺が一番だ」なんていう身の程知らずなことは言わないけど。ホントに、知識とか蔵書量とかじゃなくって、頭の働かせ方っていう話ならば。

 僕はけっこう昔から「謙虚の美徳」というものを認めていて、できる限りは謙遜していたほうがいいだろうと思っていた。でも最近はそうも思わない。ひたすらに謙虚であることは、時に間違いを産むのだ。謙虚であることが、厭味になったり、怠惰になったり、卑怯になったりする場合だってある。謙虚であるべき場合と、自負や自信を表明するべき場合というのがあって、その見極めをサボってしまうと、厭味や怠惰や卑怯になりうる。
 例えば僕が、「僕って頭悪いんですよ」なんて言ったら、明らかに厭味だ。それってもう謙虚さの使い方を完全に誤ってる。もちろん「日本一頭がいい」とも思わない。ただ「頭が悪いと言ったら厭味になるよな」という程度ではある、と思う。
 本当の謙虚さって、自分の「程度」を正確に把握しない限りは発揮できないものなんじゃないかと最近は考えている。闇雲に「僕なんか……」って言うのは別に謙虚でもなんでもない。単なる馬鹿の一つ覚えだもの。
「自分はどの程度の自負を持つべき人間か」ということをまず把握して、自負は自負としてしっかり持ちつつ、控えるべきところを見極める。東大に通ってる人が、亜細亜大学の学生に対して「僕なんて文3だから大したことないよ」なんて言ったら、厭味だもん。そこはちゃんと、自負を持とうよ、と思うね。東大入ったんだから。「すっごい勉強したからね」とでも言えばいいんだ、正直に。
 頭のいい人はある程度自分のことを頭いいと認めるべきだし、イケメンならイケメンと自覚して「僕なんか全然イケメンじゃないっすよ」とか言わないこと。モテるのに「モテないんですよ」とか言わないこと。謙虚さってのは必要なときにだけあればいい。「モテるんですよ」と言ってしまったら殴られたり嫌われたり傷つけたり女の子に警戒されたりしそうな時には、「モテないんですよ」とか言ったほうがいいのかもしれない。

 僕はこの二、三年くらいで自分が現状どの程度のもんなのかようやくわかってきて、その程度に合わせて自負や自信を表明したり時に謙虚になってみたりしている。できそうなことは「できるだろう」と言い、できないだろうことは「できないと思う」と言う。低く見積もられたら「僕はもっとできる子だ」と言いたいし、過度に褒められたら「そんなこともないよ」と言いたい。実際謙虚さというのは、「過度な評価を受けたときに自ら訂正する」ということでしかないんじゃないのかと思うわけだ。的確な評価だったらそのまんま受けたほうが失礼がなくていい。
 そういうわけで僕はある程度頭がいい、というふうにここに表明しておきます。その「ある程度」ってのがどの程度なのかってのが難しいんだけど、とりあえず「僕は頭が悪い」なんて口が裂けても言えない程度には頭いいと思う。本当に、素直に、心の底からそう思う。

2010/08/28 半人前が一丁前に

 浅野いにおについて、弟子が
優れた論考を出していたので紹介する。
 弟子はこういう文章苦手だと思っていたのだが、最近めきめきと力をつけてきたらしく、高校二年生の女の子とは思えないような鋭い書きぶりで感心した。僕もうかうかとはしていられない。
 あえて言うなら、いにお批判が「いにおは宗教である」で止まっているところ。それ自体は非常に正しく、鮮やかな指摘なのだが、しかしここまでならちゃんとものを考えられるまともな人間ならば辿り着ける。問題は、「なぜ宗教ではいけないのか」「なぜ浅野いにおの価値観が世の中に氾濫していてはいけないのか」だ。そこまで踏み込めるかどうかが、力量の分水嶺だと思う。
 つまり、「多くの人がいにおによってハッピーな気分になって、救われたと思っている状態」が、いけないのだとしたら、それはなぜかということ。別に読む人がハッピーならそれでいいじゃん、と言われたら、なんと返すのか。とりあえずそこへ進めるよう、期待している。

 自分自身半人前のくせに、何が弟子かと言われたら恥ずかしい限りなんだけど、向こうが「師匠」と呼んでくる以上は弟子だ、もう開き直っている。僕よりも立派になったら自然と離れていくでしょう。願わくは孫悟空と亀仙人のように、実力は超えられても永遠に師弟であるような関係であれば良い。
 彼女の成長を見ているのは楽しい。僕と仲良くなってから、具体的にはこのHPを教えて以降の彼女の成長は殊に著しく速く、すぐに詩のセンスが飛躍的に良くなった。最近は思考力も上がってきたようだ。彼女は僕の言っていることの「結論」をよく吸収するというよりも、僕が何かを考えるその「過程」にあるものをよりよく吸収していて、偉い。いにお論の前半を書いたのは一週間近く前だというから、僕がいにおと洗脳、啓発を結びつけて語るより以前である。つまり、時をほぼ同じくして僕と弟子が同じ結論にたどり着いたということで、これは凄まじいことだと思う。
 結論を鵜呑みにできる人など五万といる。それは「フォロワー」でしかないから、「弟子」などと自称されても認めたくない。しかし「過程」すなわち思考法そのものを盗まれてしまったら脱帽して認めるほかはない。詩もそうだ。あれは形だけ盗もうとしても上手く行くものではない。精神というか魂というか、そういうのを採り入れて自分のものと混ぜ合わせるようなことを彼女はしているから、うまく形になっている。決して「フォロワー」にはならない。
 大切なのは、自分の身体と頭に合わせて何かを吸収することで、鵜呑みにしたり形を盗もうとしたりすると、自分の身体や頭と噛み合わなくてズレてしまう。どうしても不格好になる。それでは「自分のものにする」とはいえない。彼女はちゃんと「自分のものにする」ができるから、期待してしまうのである。僕なんかにかき消されるほど、彼女はちっぽけな人間ではないということだ。そのくらいでなくては、いかん。

2010/08/27 宮崎駿だけが本物のロリコン/オタクは時間から逃げたがる

 宮崎駿さんは現実が好きなのです。
 ネットをぐるぐるしてたら、
「子供を描くには、実際の子供をありありと思い浮かべられるかどうかにかかっている。観察をしてないと描けない。自分の自我にしか関心のない、人間の観察を嫌いな人間が日本のアニメの大半を作っているから、アニメがオタクの巣になる」(要約)
 と宮崎駿さんが仰っている画像を見つけた。
 最近、彼がiPadに嫌悪感を示したとするネット記事も公開されていた。
 宮崎さんは現実が好きなのであって、二次元が、または二次元の女の子が好きなわけではない。三次元の女の子を、いかに二次元の板の上に乗っけるか、というのが彼のテーマなのだろうと思う。
 まともな人が二次元少女やオタクを好きであるわけがないのだ。宮崎さんはまともな人だから、まともに三次元少女が好きなのである。本当かどうか知らないが、宮崎さんが酔っぱらって「十二歳の少女と恋愛して何が悪い」と叫んでいたという草なぎくんもビックリのエピソードを記した本も見たことがある、ネットで。
 僕に言わせれば二次元少女に恋をするロリコンなんて二流のファッションロリコンである。するとおそらく日本のアニメ界において、宮崎駿さんだけが本物のロリコンである。
 二次元少女は、ぬいぐるみみたいなもんで、本物の女の子ではないのだ。そもそも人間ではない。人形劇の人形。宮崎駿さんはアニメ界のオリエント工業である。三次元をどれだけ忠実に二次元に移せるかという挑戦である。うむ。
 じゃあなんで宮崎さんは実写ではなくアニメをやるのかというと、そこはそれ、本人の事情というところだろうと思う。僕はそれは知らない。いろいろ想像はするけど。

 で、三次元の女の子が好きなんていうのは人間として非常に当たり前のことだ。男女問わず、子供は可愛いのである。ことさらに「子供って可愛いよね」などと言う人間を信用するべきではないが、「子供って可愛くない」と言っている人間はもっと信用してはいけない。口に出すまでもなく、当たり前に可愛いのが子供なのだ。子供を可愛いと思えないのは欠陥のある人間である。
 宮崎駿が大ヒットするのは、このことが根底にあるからだろうと思う。二次元の女の子は無条件に可愛いとは言えないが、三次元の女の子は無条件に可愛いのである。ナウシカやクラリス以降の(以外の、と言ってもいい)宮崎キャラにオタクが入れ込むことはほとんどないが、一般人は口に出す以前の感覚で「可愛い」と認識しているのである。だから宮崎駿作品は国民的作品と言われるのであります。きっとそうだ。
 子供と老人を物語に出すのは時に「卑怯」と言われる。だって無条件で可愛かったり、無条件で尊敬できてしまうのが子供と老人なのだ。宮崎駿はそのあたりを上手く、リアルに描いているから一般にも受け入れられるわけだ。そういえば『サマーウォーズ』も、最年少のカズマとおばあちゃんがキーパーソンだったしな。『ハウル』ならマルクルとソフィー、あえて言えば荒地の魔女かな。ジブリ作品ではだいたいどれも、子供と老人がうまく使われている。

 オタクって、子供も老人も出てこないような話を平気で好むもんね。ハルヒもらきすたもけいおん!も、思春期の若者しか出てこないもんね。そこが非現実的っていうか、あまりにも二次元的なところなんだよね。エヴァもそうだな、取り立てて若いのも取り立てて年取ってるのも出てこない。だから宮崎駿にはなれないのだ。「オタク層」を取り込みたくないのなら、子供と老人を出せばいいのだ。
 そうするとちっちゃい子供を主人公にしてオタクにも受けている『よつばと!』なんかは頑張ってるってことなのかな? いや、あれも老人は出てこないのと家族構成がなんだかおかしいのが、オタク受けする理由か。設定は詳らかではないが、大まかにいえば「結婚も面倒くさい子育てもせず、ある程度成長した幼女の姿をずっと見ているだけのお金に困っていない自由業の男」がよつばのお父さんだからな。理想的ですよな、オタクにとって。

 オタクに足りないのは子供と老人、つまり、過去と未来。現実から逃げようとすると、「現在だけを見つめる」になるんだよね。現実が大好きで、過去と未来にも目を向けようとする宮崎駿とは全然違うわけです。
 オタクは過去と未来、即ち時間というものを考えるのがイヤなんだ。

2010/08/26 うちのお父さん

 週に一度、木曜日に「無銘喫茶」というお店で店長をやっている。そうすると色んなことに遭遇する。昨夜(これを書いているのは27日の朝)は「名古屋のジャズバーで出会ったご年配の方から紹介されて来た」という方がいらっしゃった。その「ご年配の方」というのがどうやら僕の父らしい。それから偶然にもその方は僕と同じ高校の、二十期ほど先輩にあたる方だった。「博覧会」という専門単語が通じて嬉しかった。「エスポワール」とかの話もすればよかったな。

 しかし僕はお父さんに無銘喫茶の話をしたことなど一度もない。どっからそんな情報を仕入れてくるのだか……照れくさく、恥ずかしい。兄から聞いたのかしら。ひょっとしてこのサイトをこっそり見ているのかも知れない。それならそれで、ラブコールとして何か書いておこう。
 うちのお父さんはジャズが大好きなので、ジャズバーで出会った、という部分に意外性はない。だけど僕は「家にいるお父さん」以外をちっとも知らないので、なんだか変な感じはする。それだけお父さんとの関係が希薄であるといえばそうなのかもしれないが、仲はよいと思う。ただなんとなく照れくさくてあんまりちゃんとした「会話」ってのをしたことがないような。一緒に酒を飲んだこともほとんど、いや一切ないと言っていいくらいない。
 でも僕はお父さんのことがお母さんと同じくらい大好きなのであり、尊敬も感謝も死ぬくらいしている。既にして両親は僕の誇りである。
 孝行したい時に親はなし、という言葉があるけれども、お父さんももうすぐ定年だから、来るべき時が来たのかな。お母さんとだって、今のようにいろいろなことを話せるようになったのはここ数年だ。ずっと仲は良かったんだけど、照れくさいというかなんというか、あんまり話らしい話ってのは十代の時にはしたことがなかった。
 なぜといえばたぶん、僕は両親というより兄に育てられたという実感がある。長兄に甘やかされ、次兄に躾けられ、三番目の兄と一緒に遊び……といった具合に。僕は四番目だから、両親もいい加減慣れてきていただろうし、僕のことは兄たちに任せていたという部分もある程度はあるだろう。そうだったからこそ今の僕があるのだとさえ思う。
「勉強しろ」と言われたことなど一度もなく、怒られたことも、褒められたこともほとんどない。あったとしても覚えていない。大学に受かったときに珍しく褒められて、嬉しいながらも「やめてくれよ気持ち悪い」と思ったのを鮮烈に覚えている。
 最近、中学生や高校生の話を聞いていて、彼ら彼女らがどれだけ親から「勉強しろ」と言われているかというのを知って愕然としている。それを言わなかっただけでも僕は両親への感謝で胸がいっぱいになる。そんなことばかり日常的に、しかも子供にとっては理不尽としか思えないような理屈で言われていたら、親の価値観を疑ってしまうではないか。
 逆に言えばそれは「勉強しろ」というコミュニケーションさえ存在していなかったということで、「成績の話」という共通の話題を奪われた親子は、相当仲が良くなければろくに会話なんてなくなってしまうんじゃないかと思うんだけど、どうなんだろう。僕は「相当仲の良い親子」ってのを幾つも知っているけど、その多くはやっぱり成績の話をするみたいだ。わりとうるさく。
 まあまあ、それはそれとして。そろそろそういう時が来たのかなという感じがするということだ。昨晩はそのきっかけの一つなのかもしらん。例のお客さんから、お父さんとジャズバーでどんな話をしたかという話を断片的に聞いて、「そうだよなあ、お父さんってのは、そういう話ができる人なんだよなあ」と改めて思って、お父さんという人間に対し俄然興味を強くした。「彼は、ジャズを知識というよりマインドで深く理解している感じがありました。粋な方ですよね」という感じのことを言われて、やっぱりうちのとーちゃんはかっこいいなと思ったものです。
 あと、お父さんがとてもお茶目な人だということも見抜かれていた、というか知っていたみたいで、やっぱ親子だよなあというのも思った。あの性格で四十年近くも教員をやっていられるというのは、並大抵ではないな、というのは自分で先生やってみて心から思っていた折なので。

 まあいいや。
 といってやっぱ恥ずかしいからまた実家に帰るのに二の足を踏んでしまいそうだよ。

2010/08/25 ジブリとかが声優を使わない理由

 洗脳や啓発ってのは「落として、救い上げる」が基本で、XのTOSHIが「化け物アゴ男」とか言われたってのはそのわかりやすい例。
 僕はそういうのが嫌いなんだなって、昨日の記事書いてて思った。


 ジブリ、サマーウォーズ、カラフルなど、ある程度一般受けを狙ったアニメはもう声優使わないですね。みんな俳優、女優、タレントですね。マインドゲームとかもそうですね。だいたいがもう、そう。「声優もやったことのある舞台俳優」がせいぜいですね。
 声優使うと、アニメっぽくなって、オタクくさくなり、そうすると一般の人たちが警戒しますし、声優ファンの気持ち悪い人々も客として映画館に来ちゃったり、舞台挨拶がそれ的な方々で埋め尽くされたりしますから、やっぱ芸能人を使ったほうがいいんでしょうね。木村拓哉を起用した『ハウルの動く城』は、評判の割りには動員がよかったようですので、それ以降は特に味を占めたでしょう。子役でも充分やれる(売れる)っていうのは『千と千尋の神隠し』で証明されましたし。もう怖いもんなしです。

 しかし僕はアニメの声優に役者を使うってのは嫌いなんですよ。だって彼らは「自分の身体と顔で演技する」のが生業の人たちでしょう。つまり、彼らの「声の演技」ってのは、「彼らの身体と顔に合わせて演じられる」わけですよ。だから、アニメの中にいる人々の身体や顔と、てんでちぐはぐなのですよ。演技の素人なら、言うまでもなく。
 声優ってのは、実は「個性を殺す」のが仕事であったりするわけです。中には本人の個性が演技に強く出るタイプのアイドルっぽい人たちもいますが、基本的には声の職人なわけで、画面にいるキャラクターに合わせて、声や演技に個性をつけていくのが声優に求められる技術なのです。アニメキャラに声をあてて違和感のない演技をするためには、「自分」を殺さねばならんわけです。
 役者はそういう訓練をしていません。優れた役者はもちろん自分の個性を殺すことができますが、自分の「見た目」からは逃げられません。宍戸錠とかロバート・デニーロみたいな「見た目まで変えてしまう」タイプだっていますけれども、根本的には自分の身体を使うのだからあまり変わりません。しかも日本でテレビや映画に出ている人は、あんまり「役作り」ってもんをしません。木村拓哉が良い例です。舞台役者ならまだマシで、それでサマーウォーズは舞台役者が多かったんだと思うんですが、それでも上手くいったとは思えません。
 こないだ観た『カラフル』って映画でも、まともに「役作り」ができていたのは宮崎あおいだけで、あとはみんな下手くそでした。アニメ絵の向こうに役者の顔が透けて見えます。特に主人公の両親を演じた高橋克実と麻生久仁子はひどかった。
 それは別に僕が彼らの顔を知っているからというのではありません。僕はエンドロールで初めてキャストの名前を知ったので。僕は「佐野さん以外はほぼ全員ガキか役者かタレントだろうな」と思って観ていたのですが、まさかその「佐野さん」が宮崎あおいだったとはまったく気づかず、「やられた!」と思ったもんです。何者なんですか、彼女は。
 宮崎あおいだけは、どうやら「佐野唱子」という人物を演じていたように僕は思ったのですが、その他の方々は皆、「自分」をしか演じていなかったように思います。
 本職の声優さんでメイン周辺にいたのは藤原啓治さんだけで、これは声を聞いて「あ、藤原さんだ」とわかりました。あんまりセリフの多い役ではありませんでした。
 この映画は、若い男の子女の子をキャストとして多く使っていますが、その意図はわからんでもないです。若い子たちが主人公のアニメだから、若い声が欲しかったんでしょう。それが「合うか合わないか」「上手いか上手くないか」は二の次で、とにかく若くありさえすればよかったのでしょう、たぶんね。でないと「まいける」なんて起用しないでしょう。あれには終始いらいらしっぱなしだった。
 若い主人公だから、若い子に声をやらせる。そうすると「リアル」である。という勘違いがずっと画面を支配していた。ガキだったらどんなガキの演技でもできるかっつったら、そんなわけないんでね。

 この、顔と声が乖離しているという問題をどのように捉えているんでしょうか、制作者は。または世の中の人は。そんなに大きな問題でもないんでしょうね。なんせ今の映画は、セリフでなんでも表現してくれますから、細やかな演技など必要ないのでしょうな。それよりも、オタクっぽい、二次元的な、架空の臭いを消したほうが売れるということでしょう。想像力のない世の中になったもんですよ。観客は「棒読み」を「リアル」と感じるように躾けられてるみたいだし。ケータイ小説に「リアル」を感じるのと同じ仕組みなんじゃないかって僕は思っているんですが。

 そういえば、『カラフル』をアニメでやった理由はどこにあったんでしょうかね?

2010/08/24 意味と雰囲気

 君だけが分からぬ その場所で 変わるべき あなたはうずくまる
 意味を嫌うのは 眠りたい子供(むにゃ・・うじ・)
 今 泣き出すよ 目が覚め

 GUNIW TOOLSというバンドの『真心求める自己愛者』という曲の歌詞である。むかし友人が「世の中には意味をわからない人が多すぎる」という意味のことを言っていたのを思い出す。

 自分のいる場所、すなわち自分自身のことが自分でわからず、「変わるべき」ということがわかっていても「うずくまる」だけ。そして「意味」ということを考えることも受け入れることも嫌って、ただ眠る。ガキのように。何も考えず。
 それで目が覚めた時にはすべてがもう手遅れ。
 泣くしかない。

 意味をわかんないで、空気とか、雰囲気とかで呑まれちゃうのはガキそのものだよ。「中二病」とかいう言葉があるけど、あれはまさしく空気や雰囲気だけに呑まれちゃうってことだよね。「漆黒」とか「堕天使」とかに意味なんかないんだもの。ただ、雰囲気。


 森絵都原作の『カラフル』ってアニメ映画を観たんだが、あれはひどい。夜回り先生か、浅野いにおかってところだ。浅野いにおの漫画を面白くしたらああなるね。いや本当に、さすがは原恵一監督といったところで、話としては非常に面白い。演出もしっかりしていて、キャラクターにも愛着が持てる。声は宮崎あおい以外全員ダメだったけど。まあ一般向けにするためには声優使っちゃダメってのが本流だもんね。声については明日書こう。
 登場人物が全員キチガイで、その描き方も非常に「リアル」で、今の人が好きそうな感じだなってのはわかったんだけど、その後だね。
『カラフル』では、キチガイをすべて肯定するんですね。「いろんな色を持っていてもいいんだ」、って。

 お母さんはフラメンコの先生と不倫してました。「いいんだよ。」
 ヒロインのヒロカちゃんは援助交際をしています。「いいんだよ。」
 お兄ちゃんは勉強ばっかりしてて、自分のことしか考えていませんでした。「いいんだよ。」
 お父さんはお母さんが苦しんで睡眠薬に頼ってることも知りませんでした。そういう家族の中心にいて、あっけらかんとしていました。「いいんだよ。」
 主人公は自殺をしました。「いいんだよ。」

 一事が万事、「昨日までのことは全部、いいんだよ。」の一言で済まされるのが、この『カラフル』です。「最終的には円く収まるんだから、いいじゃないか」と。「今がいいんだから、いいんだよ。」と。
 浅野いにお作品も同じ構造です。
 浅野いにお作品も、いろいろと汚いことや嫌なことを描いて、それを「いいんだよ。」「仕方ないんだよ。」「そういうもんなんだよ。」「人間って、汚くてもいいんだよ。」と肯定する。それで、「その中にもささやかな幸せってもんがあったりするんだよ。」とか、「今は円く収まっているから、その幸せを噛みしめようよ」などと甘い言葉を吐くのが彼のやり口です。

『カラフル』には、自殺、不倫、精神病(お母さんが睡眠薬飲んでるので)、家庭の不和、気狂い、セックス依存症、援助交際、コミュニケーション不全、いじめ、などなど、けっこうどうしようもない要素がふんだんに盛り込まれております。そしてそれを「いいんだよ。」って肯定してくれるのです。素敵です。「カラフルでいいんです。」って。人間は一色じゃなくて、いろんな色を持っていてもいいんだ、って。それが『カラフル』というタイトルの意味、らしい。
 根本的な解決なんか要らないんだ、と。諦めて、達観して、たまたまうまくいったならそれで幸せだと思おうよと。そういうことです。
 そういう話や、そういう描き方が悪いとまでは僕には言えないし、これで救われる人もいるんだろうなと思うんだけど、僕は「嫌いだ」と言いますね。映画としては面白かったけど、意味としては嫌い。誰かが救われるからといって、それだけで「だから素敵だ」と言ってしまうのはイヤ。
 単細胞なやつは、すぐに「でも、それで救われている人もいるのよ」とか言うけど、救われてるからなんなんだ? それはその人の欲望が一つ達成されたっていうだけにすぎないからね。根本的な解決にはなってないじゃん。気休めでしょ。中途半端な優しさってやつでしょ。嘘でもいいから愛してるって言ってあげなよ、っていう。
 なんだってそうさ。

「工場論争」ってのがあってだね。
 日本の企業が、海外の人件費の安い国に工場を建てて製品を作って、それを運んできて日本で売ったりしてるでしょう。「それによって、現地の人々は救われているんです」と言う人がたくさんいるんですが、本当のところは、どうなんでしょうね?
「救われる」ってのがどういうことか、よく考えたんですかね。
「仕方ないじゃん、そういうもんじゃん」って賢そうな人は言うんだけど、本当にそういうふうにしかできないもんなんですかね。
 人の国に工場作って正義づらする、それを正当化するために知恵しぼんじゃなくて、もっと根本的に何か考えたらいいんだが。

 ま、『カラフル』にも同じ問題がありますよ。「あれでいい」と思える人は幸せですね。深くものを考えないで生きていられるんだから。
 浅野いにおだってそうだよ。あれでいいと思える人は、なんでそんなにすべてを諦めてしまうのかわかんないし、なんでそんなになんにも考えないでいられんのかもわかんない。単細胞っていいな。
 高校一年生の才気溢れる少年に会って、いろいろ話してたら「『カラフル』はよかったですよ、あれは中学生というよりは、大人にこそ見てほしいですね」と言っていて、その真意を測りかねた。

 キチガイを描いて、「キチガイでもいいんだよ。」って言ってあげて、世の中のキチガイ成分を含んだ普通の人々を安心させて金取って、なるほど、これはインチキなんですね。
 雰囲気だけに飲まれちゃってるから、適切な判断ができない。そういう単細胞な低脳につけ込んでる悪い人たちがたくさんいるわけだ。


 ああ、グニュウも中村一義と同じで、1stで正しいことを全て言ってしまっているんだな。そういうわけで『NIWLUN』は必聴の名盤。

2010/08/23 将棋と人生

 三日連続で同じ人の話をするのもなんだが、その人が言う言葉に「いろんなパターンを考えろ」みたいな意味のことがある。これは昨日書いた「そなえよつねに」という言葉の亜種だろう。僕の言葉では「あらゆるパターンを想定しろ」。これは彼の影響というのではなく、ずっと自分なりに想い続けてきたことだ。
 僕は小学校のときから将棋が好きだった。祖父にちっとも勝てなくて、そのために本を読んだりもう少し弱い相手と指したりして腕を磨いた。その時に読んでいたのが加藤一二三九段の本だったため、僕は未だに「棒銀」という戦法が大好きである。まあそれはどうでもいい。

 将棋は「三手先を読め」と言われる。「自分がこうすると、相手はこうするだろう。そうしたらこうしてやろう」と考えることが将棋の基本。天才シャア・アズナブルも「戦いとは常に二手、三手先を読んで行うものだ」と言っているが、それもまったく同じ話。自分の行動を受けた相手の行動を予測し、それに合わせた手を事前に用意しておくのが戦術の基本中の基本。
 一手目が自分の手。二手目が相手の手。三手目がまた自分の手。一手目で自分がどういう手を指すか、ということについてすでに無数のパターンがあるというのに、二手目は自分の意志で決められるものではないので思いつく限りたくさんのパターンを「予測」しなければいけない。その予測した無数のパターンに対して、これまた思いつく限りの手を考える。
 将棋の強さとは、「どれだけ多くのパターンを想定できるか」にかかっているのだ。僕はこの究極に論理的な遊びを通して、ものを考えるということを学んだのだと思う。

 恋愛にだって応用がきく。僕はよく、恋に悩む若者などにふざけて「フローチャートを作れ」と言うのだが、これはあながち冗談だけの言葉でもない。フローチャートとは「流れ図」などと訳せるのだが、例えば「待ちあわせする→映画を観る→ごはんを食べる→二軒目で本腰入れて飲む」みたいなデートの流れを図にしたものと考えるとわかりやすい。
 フローチャートにはたいてい「分岐」というものがある。上の例で行くと待ちあわせに相手が来なかった場合とか、どちらかが遅刻してきた場合とかによって行動が異なるわけだから、そのことも記述するのだ。「待ちあわせをする→相手が来ない→家に帰って泣く」みたいな。「待ちあわせをする→相手が1時間遅刻してきた→映画は今度にしてショッピングに行く」みたいなことである。んまあ、デートするときに初めから相手が来ないとか遅刻してくるということはまず考えにくいから、本来こういうフローチャートは事前に作るというよりも当日状況に合わせて即興で作っていくものなのだが、それがまだ瞬時に作れないうちは、訓練したほうがいいのである。その訓練の初歩として将棋ってのがあるという話。
 もうちょっと細かい話をしよう。自分が遅刻してしまったとして、普通なら「やあ、久しぶり」というせりふが「ごめん、待った?」に変わる。どのくらい遅れたかによってもちろん言葉や言い方も変わるし、相手の様子や反応などによってまた変わってくる。これが「分岐」というもの。分岐するあらゆるパターンを事前に想定し、それらすべてに対する「手」をあらかじめ考えておくことが、将棋の基本であり戦いの基本であり、おそらく人生の基本である。

 あらゆるパターンを想定するということができないと、ちょっとでも予定が狂ったり予測が外れたりしたときに対応できない。相当たくさんのパターンについて事前に考えを巡らせておかないと、そもそも「どう行動するべきかの最適解」を見つけることができない。パターンが一つしか思いつかなければ、それを「最適」と見なすしかないのだ。それでは「予定が狂う」とか「予測が外れる」ということが頻繁に起こって、結果として失敗を多く招く。つまり、正しい手順が踏めないのである。
 将棋は、最低でも十、できれば百くらいのパターンを考えて、その中から「最適解」を導き出す遊びだから、人生において正しい選択をし、正しい手順を踏むための非常によい訓練になる。そういうわけで僕は将棋が好きである。
 が、「頭がいい」人がみんな将棋が得意かといえば、そういうわけでもない。将棋の論理は一本だからだ。総合的な知ではない。麻雀や競馬のやたら強い、面白くて尊敬すべき友人が「将棋はてんでダメなんですよ」と言っていて、なるほどとと思った。麻雀も競馬も、一本の論理でどうにかなるものではない。総合的な判断力が必要になってくるのだ。競馬は「馬の速さ」だけを考えていれば勝てるというものではないのである。詳しくは知らないが、騎手とか、会場とか、直近の戦績とか、対戦相手とか、天候とか、当日の馬のコンディションとか、諸々、様々な要因を参考にして展開を読んでいくのが競馬というものだろう。
 男性よりも女性のほうが総合的にものを考えるというから、そうなると麻雀や競馬は女性のほうが向いているのかもしれないと思うのだが、そういうわけでもないのだろうか。このへんはもうちょっと複雑な事情があるのかもしれない。問題提起にとどめておこう。

2010/08/22 実感

 出会って9年ほどになる友達のことがほんの一夜にしてわかってしまった気がする。自分と彼とはどこが同じでどこが違うのかということを冷静に正確に把握することができたように思う。
 僕は彼のことが好きすぎたゆえにきっと「同じでいたい」と思っていたのだろう。「違う」ということからどこか目を背けていたから、逆に「同じ」ということも見えなくなっていたのだと今はわかる。
 僕は「真逆のキャラでも相通じてる」を信じているし、まなびストレート!第六話『シナモンシュガー・レイズド・ハピネス』でのみかんとむっちーの関係を理想的とも思える――すなわち、「違う」ということと「仲良しである」ということは両立するし、むしろそれぞれが違う人間である以上、多かれ少なかれそのような関係以外はありえないのだ。
 そんなこと頭ではずっとわかっていたのだが、実感を持ってそう考えることができるようになったのはうんと最近のことなのかもしれない。というか、彼のことが「わかった」と思った瞬間に、実感に変わった。
 折しも彼が「実感のない思想に意味はない」と語った直後だった。

 ずっと昔から彼の言葉は鉛の銃弾のように僕の胸に深く埋まって生き続け、実感の中で少しずつ大きくなってきている。例えば「すべては捉え方次第 何が重要かをとらえるんじゃなく 何を重要にするかを大切にしていきたいものだ」「想像力に勝る現実はない」このあたりの彼の言葉は、僕の中で実感という栄養を吸って今や巨大な思想となっている。

「すべては捉え方次第~」というのは、ともすればありきたりな言葉かもしれない。しかし、問題はこの言葉にどれだけオリジナリティがあるかではない。この言葉がどれだけ「使える」かだ。あまりにも「使える」からこそ、座右の銘にもなるし、実感だって持てる。僕は最初にこの言葉を知ったときには、「ふうん」と理解して納得したが、実感を持ったのはやはり少し後だった。しかし一度自分のものになってしまえばこれほど強い考え方もない。当たり前に見えるようなことでも、実感をもって吸収し自在に使いこなすのは容易いことではない。この言葉がどれだけ凄まじいものかというのは、実感がなければわからないだろう。
「想像力に勝る現実はない」というのも恐ろしい言葉で、ここにこそ彼の思想のすべてがある、と僕は思っている。
 これを僕なりに翻訳すれば、「どんな現実をも凌駕するような想像力を常に持っていれば、何も恐れることはない」である。
 乱暴に言うと、「想像していたよりも悪いことが起きる」なんていうのは二流以下の人間に降りかかる事態だ。一流の人間は卓越した想像力ですべてを「想定内」に収める。どんな最悪の事態をも事前に想像できてしまうのが一流であって、だからこそ優れた適応力や柔軟性を発揮できる。そなえていればこそ。そう、この言葉は「そなえよつねに」を彼なりに言い換えた言葉なのである。と、僕は思っている。
 知る人ぞ知る「そなえよつねに」は、ボーイスカウトのモットーである。僕が名古屋に帰るとまず会っている二人の友達はともにボーイスカウトをやっていて、どちらもこの言葉を非常に大切にしている。もちろんそのうちの一人は、件の彼だ。彼は言う。「そなえよつねにってのは、心構えだけの問題なんだよ」と。道具や技術ではなく、心の準備。これを彼なりに言えば「現実を凌駕するような想像力を常に持つこと」なのだろう。彼がそう言っていたわけではない。彼は説明などしない。本質を言うだけだ。ただの僕なりの解釈だから当人がどう言うのかは知らんが、「想像力に勝る現実はない」という言葉に籠もった僕の実感は、そういうことだと告げている。

 これらはすべて、頭で理解し納得したあとから実感として捉え直した結果である。そして僕は彼の言葉だけでなく、彼自身についても同じようなプロセスを辿って「わかった」のだろう。ようやく実感として捉えることができたのかもしれない。「違う」ということと「同じ」ということを。
 こないだ僕がとある女の子の恋愛相談のようなものに乗って、その翌日に彼が同じ女の子の同じ相談に乗ってあげていたのだが、その様子を隣で見ていた僕は本当にビックリした。彼はまったく違う思考法とまったく違うプロセスでもって、僕とほとんど同じ結論に辿り着いていたのである。もちろん違う表現の仕方で。「実感」はたぶんその瞬間に生まれた。東京から大阪に行くには幾つもの方法があるが、どのルートを辿っても結局は同じところに着いてしまうというようなものだ。僕は自転車で、彼は車で、だけど行くところは同じ。これが僕らの在り方なのだとようやく実感した。9年をかけて。
 正反対という言葉がこれほど相応しいことはないというくらい僕と彼とは違うのである。詳細はいちいち挙げないが、共通点があるとしたら高校の部活(学校は違う)と『うめぼしの謎』とかそういうのくらいのもんで、とりわけ高校卒業後の生き方は面白いほどに重ならない。そんなことは関係ないのだ。僕はロードレーサーに乗り、彼はロードスターに乗る。そいでなんか僕らしかわかんないようなこと言って笑う。ふとした瞬間に声を合わせる。なんだっていい。
 もうなんか無敵だ。適性がわかった。それを受け入れた。楽しむだけだ。正しければあとはどうでも同じだろう。

2010/08/21 歌と演技と文章

 例外はいくつもあることを前提として、


 歌がうまい人は好きだ。
 僕は昔から「歌がうまい人は演技だってうまい(はずである)」ということを言っている。その心は「はっきりと声を出して、喉で音程を操作する」という点で同じだと思うからである。むろんこれは「声の演技」だけの問題だが、本当に歌のうまい人は歌っている姿まで含めてカッコイイので、身体の演技も多少は含まれるのかもしれない。
 歌がうまいといえば麒麟さんという方が思い浮かぶ。歌う声も姿も死ぬほど、いや死なない程度に格好良い。最近は御無沙汰だが一緒にカラオケへ行くことがよくあって、するともう最強である。たとえそこに第三者がいようが関係なく我々は傍若無人。むしろ客がいたほうが燃える。BUCK-TICKの『
月世界』とかを二人で陶酔しながら歌い上げるのが定番の至福、たぶん僕たちは格好良い。
 彼は高校時代に演劇をやっていたのだがきっと魅力的な演技をしていたのだろう。僕は一度も彼の演技を見たことがないけどそれはわかる。
 しかし僕と麒麟さんの歌い方というのは実はちょっと違うのだ。

 演技がうまいというのはどういうことかというと、「頭の中に浮かべたイメージを、自分の身体と声を使って表現する」ということが上手にできるということである、おそらく。そしてこのことは「歌う」ということにも当てはめられる。それを踏まえて僕と麒麟さんの歌い方の違いを考えるに、僕が頭に描くイメージは「オリジナル(CDなど)の歌」なのだが、麒麟さんが頭に描いているのはたぶん「自分の歌」なのだ。簡単に言うと、僕はモノマネで、麒麟さんは「麒麟さん」なのだ。誰の曲を歌っても「麒麟さんによるカバー曲」になるのである。ゆえに彼は彼として格好良い。
 どっちのタイプも僕は大好きだ。結局は結果的に上手に聞こえるかどうかである。理想のイメージを浮かべて、それを忠実に表現することができているか。これができるということは、つまり自らを客観的に見ることができるかどうかにかかっている。

 独断と偏見で言ってしまうと、歌の下手なやつというのは自分を客観視することが苦手な人が多い。こんなことを言うと誰も一緒にカラオケに行ってくれなくなるのではないかと心配だが、例外はあるということで。自分を客観視するスペシャリストである福田元首相がすげー音痴だという可能性だってあるのだ。まあしかしここでは歌の上手下手と客観視の得手不得手には連関があるということにしておきたい。
 頭の中には「うまい歌のイメージ」があるのに実際にはそれを自分に反映できず下手くそであるという場合、頭の中の自分と実際の自分を重ならせることができていないということで、そういう人は周囲から「あの人はズレてる」と言われてしまったりする。
「現状カッコよくない男」が「すでにカッコいい男」と同じカッコのつけ方をしてももちろんカッコよくなどないのだが、自分を客観視するのが苦手なカッコよくない男は、どんなカッコのつけ方をすれば自分がカッコいいのかということがわからないので、ついついカッコいい男と同じカッコのつけ方をしてしまう。そういう男がカッコいいはずはない。自分なりのカッコのつけ方を知らなければ、カッコよくなどなれないのだ。モテないことには理由がある。客観視、大事。

「こうありたい自分」というのが頭の中にあったとしたらそれに近づけていきたいと誰もが思うのであろうが、それが簡単にできる人と容易にはできない人がいる。できる人は歌がうまく、また演技もうまいのではないかと僕は勝手に思っているわけだ。あるいは「今の自分は他人からどのように見えているか」を把握する能力に長けていれば、と言い換えてもいい。自分の姿が見えていれば、少しずつ変えていくことができる。見えないのに変わろうとするのは、暗闇で自分の髪を切るようなものだ。
 自分の現状を客観視できなければ理想に合わせることもできないし、行きたい方向へ動いていくことすらできない。つまり、変われないということ。残念ながら。

 別に、「自分を見つめろ」というわけでもない。「自分」ということにあまり拘泥していたら罠にはまる。自分のことばかりただ見つめていたって、何もわからず混乱するだけ。自分は周囲との関係の中でしか生きていないということをまず念頭に置かなければ、変わるも何もないのだ。自分より先に周囲を、例えば他人を客観的に見ることができてこそ、自分なるものも浮き彫りになってくる。自分の目からは自分は見えない。見えるのは他人の目に映った自分の姿だけだ。そのためには相手の目を見つめ続けていなければならない。「敵を知り己を知る」とは、実はそういうことでもある。敵を知ることで己を知るのだ。他人を知ることで自分を知る。自分を知れれば、あとは楽勝。歌だって演技だって上手くなる。そしてもちろんこのことは、文章にもあてはまるのである。文章がつまらないというのは客観視が足りないからで、それ以外に理由はない。客観視できてりゃ絶対に面白いというものではないけれども、つまらない文章には必ず客観的視点が欠けているのである。

2010/08/20 

 正しいことを書きまくるのもいいけども、昔みたいに狂気にあふれたわけのわからない文章もいいよな。本質さえ外してなければ。
 理性が強くなりすぎた。眠いときにも眠いと書かないようになってきた。眠たい。眠たい。
 友達の弔文に泣き、友達の過去の日記や詩を読んで痺れ酔い、自分の昔の文章を読み返して頭がおかしくなってきたので久々に漫画を描いた。17ページの長編(僕にしては)だが、ちょっとページを贅沢に使いすぎたかな。面白いんだかどうなんだかよくわからん。
 こんな気分になることは年に何度もないから、漫画は年に何作も描けない。僕の漫画のファンの方には申し訳ないのだけれどもそういうものなのだ。
 ところで最近、あんまり評判がよくないと思っていた『幸せの花びら』という作品を褒めてくださる方が複数人現れて、とても嬉しい。
 今回描いたのは『雪の力学』というので、なんかわけがわからないだけの変な話です。なんなんでしょうね。
 僕は漫画には、詩と同様に、その時の精神状態がそのまま出るので、こういうものができたということはそういう状態だったということで、その状態はこれまでに漫画を描いていたときの状態とは若干違ったりすると思われる。
 なんかこれを描いていたらまた気分がどん底に沈んできた。またというか、今度はというか。夢がちぎれそうだ。

 15日から伊東に行き、それから名古屋に帰って19日の夜、無銘喫茶の営業に合わせて帰ります。いっぱい書いているのでゆっくり何度か読んでください。この際過去ログでもどうぞ。

2010/08/15 『けいおん!』は女性に人格を認めていません

 今いちばん人気のあるアニメ『けいおん!』(アニメ二期は『けいおん!!』)には現在五人の女の子がメインとして登場するが、五人とも人生を、生活を、人格を、関係を剥奪されたお人形のような存在である。例えば、人に言われて気づいたのだが彼女たちの両親というのが絶対に登場しない。みんなで誰かの家に遊びに行く回があっても、だいたい両親は留守だ。
 両親が登場すると、キャラクターに人間味が出て来てしまう。人生が、生活が、人格が、関係が顕わになってしまう。お人形にそんなものは必要ない。『けいおん!』を観る男にとって、登場人物は肉体であればよく、キャラクターであればいいのだ。面倒くさいものはできるだけ排除した存在であってほしいのだ。
 五人の女の子が登場して、同じ部活にいるのに、彼女たちのつきあいは非常に表面的である。ムギと律がどういう関係であるのか、と問われてまともに答えられる者はまずいまい。いたとしても、だいたいは妄想だ。どの組み合わせを取っても、それほど深い関係が描かれてはいない。ただ上辺だけ仲良くして、いちゃいちゃして、楽しんでいるだけだ。
 彼女たちには、ただ「行動」だけがあって、「内面」が一切ないのである。男にとって女の「内面」など邪魔なだけのものだから、ないほうがいいのだ。たぶん人間が嫌いなんだろう、『けいおん!』のファンは。
『けいおん!』を観るときは、頭を働かせなくていい。事件らしい事件は何も起きないし、登場人物にはいっさい内面がないのだから、まるで猫を愛でるようにただその「かわいさ」だけを眺めていればいい。仕事(学校)で疲れて、私生活で疲れて、なぜアニメを観てまで疲れなければならないのか、というのはわかる。『けいおん!』を観るときは何も考えずに「かわいい」とだけ思っていればいい、まさに心のオアシスだと感じている人は、たぶん無数にいるだろう。

 別にそういう作品についてとやかく言うつもりもないのだが、それにしても『けいおん!』は売れすぎている。そんなにも疲弊した、人間嫌いが世の中には多いのだろうか。そして、なぜ僕の大好きな『がくえんゆーとぴあ まなびストレート!』は、あんなにも売れなかったのか。
『まなび』は、『けいおん!』と似て非なる、むしろ対極にある作品である。主要登場人物は五人。それぞれの性格はかなり『けいおん!』と重複している。女子校で、軽音部ではないが生徒会を中心とした仲間であり、彼女たちの学園生活が描かれる。ここまではよく似ている。
 が、決定的に違うのは『まなび』の登場人物には人生が、生活が、人格が、関係があるということである。『けいおん!』には「シーン=場面」しかないが、『まなび』には人間を基礎とした「物語」がある。
 だからもちろん、それぞれの内面も掘り下げられている(ただし内面が見えづらいキャラも存在する)し、家族も出てくるし、何よりも登場人物同士の関係が明白であるということが大きい。
 たったの13話でよくここまで描いたというほど、「関係」ということには気を遣っている。特に、四話のめぇとむっちー、五話のみかんとめぇ、六話のみかんとむっちーの関係を詳細に描いたあたりは圧巻で、もし26話もあったら全ての組み合わせについてこれをやっていただろう。もちろん「一対一の関係」だけでなく「五人の関係」というのも丁寧に描かれているのだが、「五人」の基礎にあるのは「一対一」だから、そこを描かずして「五人」を描くことはできないのである。
『まなび』は、五人の卒業後の進路を示唆し、卒業して一年後の関係をも描き、そして五人がまっすぐな道をそれぞれに歩きはじめるシーンで終わる。ぷつっと映像が切れる。それでも、高校生活と一年後という二つの点で結ばれているから、いくらでも未来へとまっすぐな線が引ける。だからこそ二年後、十年後、五十年後の彼女たちをぜんぶ信じることができるのである。『けいおん!』にもそのような美しいエンディングが訪れるのだろうか? まあまず、ないだろう。

 僕は別に『けいおん!』というアニメがあって、『まなび』というアニメがあって、両方あっても別にいいと思っているのだが、前者が売れて後者が売れないというこの世の中に絶望をする。『けいおん!』が嫌いなわけではなく、『まなび』を受け入れず『けいおん!』を褒めそやす世の中が大嫌いだ。そんなにもみんな、面倒くさがりなのだろうか。
『けいおん!』を観ている人は、その登場人物を人間だと見なしていないのである。なのに、おそらく何割かの視聴者は彼女たちを「理想的な人間」だと思い込んでいる。「オタクは現実を見ない」ということはよく言われるが、本当にそうなのである。『まなび』が凄いのは、オタク向けの絵でちゃんと「人間=現実」を描いたということで、それが売れなかったということは、やっぱりオタクは人間とか現実とかって嫌いなのだ。
 今はオタク文化っていうのはすっごい広がってきていて、小学校から大学まで、割とふつうっぽい子でもオタク向けアニメは観る(むろんまったく観ない子は観ない)。『けいおん!』は特に、かなり多くの人が観ていると思う。分別のついた、人間なるものをイヤというほど知っている立派な大人がフィクションとして楽しむぶんにはいいかもしれないが、若い人があれを観て「これぞ理想的な人間」と思い込んでしまうのだとしたら、非常に怖い。生身の人間が、どんどん面倒くさくなっていってしまう。だから『けいおん!』は、時に有毒である。
 人間なんか、女なんか、面倒くさいもんなのである。そりゃ女が内面を持っていなかったらどれほど楽か。そう男が思うから、自分から内面を捨ててしまう女すらいる。山ほどいる。そういう状況を『けいおん!』が加速させてしまうかもしれない。女の子は、怒ってもいい。君たちはバカにされている。「自分の意志」なんか持たなくていいと、千年も二千年も、あるいはもっとずっと昔から思われていて、だから「ガウェインの結婚」みたいな話が生まれるのだ。
『けいおん!』主人公の平沢唯が回を重ねるごとにどんどん白痴化しているというのは、女の内面が完全に抹消されていく過程である。

2010/08/14 ハウルの動く城

 ようやくハウルを観た。
ガウェインの結婚』という話を思い出した。
 邪悪な騎士から「すべての女性がもっとも望むものは何か」というなぞをかけられたアーサー王がその答えを探しまわっていると、とある醜い老婆が「立派な騎士をわしの嫁にくれたら答えを教えてやろう」と言う。背に腹は代えられないアーサー王はその取引に応じ、邪悪な騎士にその答えを告げて打ち勝つ。
 その答えとは「自分の意志を持つこと」だという。
 で、アーサー王はガウェインという部下を醜い老婆にあてがい、結婚させる。初夜、ガウェインが嘆いていると、老婆が美しい娘の姿になって「実は私は呪いによって老婆に変えられていたのです。あなたのような立派な騎士と結婚することによって呪いが半分だけ解けて、一日の半分だけ美しい姿でいられるようになりました。昼か夜、どちらを美しい姿で過ごしたらよいですか」と言う。それに対してガウェインが「おまえの好きにするがよい」と言うと、老婆の呪いがすべて解けて、一日中娘の姿でいられるようになりました。と。
 つまり、老婆の呪いを解くカギの一つは「立派な騎士と結ばれること」で、もう一つは「自分の意志を持つこと」だったわけだ。

『ハウルの動く城』も、ソフィーという若い娘が呪いによって老婆に変えられて、再び若い姿に戻るまでの話だ。
 ソフィーは親の帽子屋を継いで営んでいるのだが、その生活が実は本人にとって不本意なものであるということが物語の冒頭で示唆される。妹に「本当に帽子屋がやりたいの?」と言われ、「そりゃあ……」とソフィーが言葉を濁すと、「自分のことは自分で決めるの」と妹が諭す。
 妹はつまり、受け身で生きているソフィーに「自分の意志を持て」と言ったのだ。僕はここで「ああ、ガウェインの結婚か」と思った。ハウルの原作者はイギリスの人で、アーサー王もイギリスの話だから、実際に影響があったとしてもおかしくはない。
 そのセンで『ハウル』を観ると、だいたい納得できる。呪いをかけられたあとのソフィーはシーンによって、というか彼女の感情によって見た目が変化して、90歳の老婆であったり50歳の初老の女性であったり20歳前後の若い娘であったりするのだが、どうやら彼女が自分の意志で行動したり、あるいは彼女の(女としての)激しい感情が表に出たりした時に若くなるような傾向がある。
 呪いをかけられる前のソフィーは、死を待つだけの老婆と同じようなものだった。親がやっていたからというだけの理由で帽子屋を営み、そこに楽しみを見出すこともなく、ほかに生きがいもやりたいことも特になくて、ただなんとなく生きているだけだった。だから呪いをかけられて老婆になってしまうのだ。老婆のように生きていたから。ソフィーは若くしてそもそも老婆だったのだ。呪いは、ソフィーの内面に棲んでいた老婆を具現化させただけだったのだ。だからこそ、若々しく生きている瞬間には、姿が若返る。
 ソフィーの髪の色は、若返っても元に戻らない。物語のエンディングでも白髪のままだ。彼女の呪いは、おそらく解けてはいない。彼女は「若い心」を取り戻したから若い姿でいられるだけであって、もしも再び「老婆の心」になってしまったら、見た目も老婆に変わってしまうのではないだろうか。
 ここで言う「若い心」というのは、「ガウェインの結婚」にある「自分の意志を持つこと」と近しい。自分がこうしたい、こうありたいと思って、そのために積極的に行動していくことが、以前のソフィーに足りなかったことであって、物語の中でソフィーが獲得したものなのだから。

『ハウル』は、説明しようとすればたぶんそういう話だということになる。初見では僕はそのように感じた。ほかにもいろいろ書くべきことはあるのかもしれないが面倒なので割愛。
 この作品はどうやら賛否両論のようで、「わけがわからない」という認識を持つ人が多いようだ。『ポニョ』もそうだが、確かに物語としての完成度は低い。でも、この完成度の低さは非常に童話的である。童話において、「王子様がお姫様を好きな理由」はふつう示されない。童話はだいたい、恋愛物語としての完成度は低いものである。『ハウル』は恋愛物語として観れば最低の完成度である。恋愛という複雑なことをしているはずの二人の心の動きが全然見えないから。『ポニョ』も主人公たちが子供だからというのもあるが、それを差し引いても恋愛物語としては完成されていないし、説明不足、意味不明、そういう箇所はいくらでもある。でも、そもそも童話にはそんな突っ込みは不要なのだ。
『ハウル』のあとに『映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!栄光のヤキニクロード』も観たのだが、これは『オトナ帝国』や『戦国アッパレ』のような大人も楽しめる感動モノとは違って、常識や物理法則など完全に無視した荒唐無稽の純粋ギャグ作品であった。「こんなもん、絶対にありえねーよ」というシーンだけで構成されていると言ってもいい。ヒッチハイクで移動した道のりをしんちゃんが生身であっという間に息切れもせず走りきってしまうという無茶苦茶っぷりだが、子供向けなんだからそれでいいのである。(いちおう補足しておくと、それでいてある意味での感動もできるからまた凄いのであるが。)
 たぶん宮崎駿は、大人なんかのために物語を作ってないのだ。僕の尊敬する浦沢義雄という脚本家は「子供は感動なんかしない。感動とは、目の濁った大人がするものだ」と言っていて、だから彼は絶対にお涙頂戴の感動モノなんか書かない。『ハウル』も『ポニョ』もお伽噺であって、大人が感動するためのものではなく子供が楽しんだり憧れたりするものなのだ、おそらく。もちろん感動するのは勝手だけど。
 大人はみんな『さようなら、ドラえもん』が大好きだが、子供は別にそうでもないのかもしれない。僕が小学生の時に劇場で映画版(『帰ってきたドラえもん』)を観てだらだら涙を流している横で、五歳くらいの男の子は見事にゲラゲラ笑っていたのである。そういうもんである。
 子供には、複雑な恋愛模様とか、男女の心の動きとかどうでもいい。凝ったプロットも必要ない。それよりも「ハウルがソフィーを好きで、ソフィーがハウルを好き」という単純なことと、「かっこいい」「かわいい」があればいいのだ。それで結果的に楽しければ言うことがない。そしてもしかしたらその中から何か大切なことを学べるかもしれない。一つでもそれがあったのなら、その物語には大きな価値がある。

 ところで、戦争という観点から『ハウル』を観た場合の視点を一つだけ書いておこう。恋に溺れて盲目になり、美しいマイホームと守るべき家族を持ってしまったハウルは、何を勘違いしたのか闘いに出かけてしまう。しかしソフィーは闘うこととは全然違う、もっと根本的な手段によって家庭を守ろうとした。それがあの「引っ越し」である。
 ソフィーの欲しかったものは綺麗な部屋でも中庭でもお花畑でもない。ハウルにはそのことがわからなかったから、「守らなきゃ」と思って闘いに行った。バカな男である。ソフィーには愛する弱虫ハウルがいればそれでよかったのに。ハウルが闘う理由など本当は何もなかったかもしれないのに。
 結局、戦争を終わらせたのはソフィーのキスによって元に戻った隣の国の王子「カブ」と、ハウルに心が戻ってソフィーとラブラブになるハッピーエンドを見たサリマン先生の力であって、ハウルの闘いは戦争終結にほとんどなんの関与もしていない。
 ここから何を読みとるのかは僕は知らん。反戦と言いたい人は反戦と言うかもしれないし、こんなもんは反戦ではないというねじ曲がった言い方をする人もいるかもしれない。ただ、あんまりそういう二者択一的な思考に凝り固まっていると、本質が見えなくなってしまうよ、とは思う。人間にもし腕が三本あったなら、そんな単純な考え方にはならないと思うんだけど。
 世の中には反対と賛成しかなくて、そのどちらかを選ばなくてはならなくて、選ぶのならば「あるべき型」にはまっていなくてはならないという下らない考え方を「思想」とか言う。下らないから捨てたほうがいい。

2010/08/13 ネット上に君がいなきゃ困る

 高校の後輩がどうやらhtmlのサイトを復活させるらしい。先日のEz10周年オフの際に「mixiなんかに書いてないで帰ってきたら」というようなことを告げたのが効いた……のだといいな。
 彼との初デートは2003年の3月8日であったとおぼしい。

『ふしぎ風使い』が始まる寸前に放送部のかわゆ~い後輩(♂)がやってきたので
迎えにいってお小遣いをあげて切符を買わせて
100円は出させて
もちろん後で返させて(トイチの出世払い)
途中から見るのもなんだかなあなのでオープニングだけ見て…
あああ!
今年もでました
ガキどもの『ドラえもんのうた』大合唱!(おととしのドラ映画鑑賞日記参照)
やはり恒例行事(?)のようだ、いや自然発生してるんだけど、 誰かが歌いだすと他のガキどもも感化されて歌いだす、そして合唱が始まる…
ああ、
ああ、
ああああ!
いい…
これで暫くドラえもんは安泰だなあなどと訳のわからない充足感に浸りつつ外に出て上映が終わるのを待つ
後輩くんと様々の話を交わそうかと思ったがなんだかあんまり喋れなかった
慣れていないからだな
探りの段階
どこまでいいのか?
適切な処方箋は?
わからないね わからないね
太宰とかの話
『津軽』についてのススメ
意味がわからない
昨今のドラ映画について
ドラえもんはのび太のことをどう呼ぶかということについての考察
意味はない
くそう
もっとなんだか話をするというのは僕は宇宙をイメージします
宇宙をイメージできる会話というのは非常に宝物です
僕の中では生活の最高峰に位置します
あの時と
同じくらいのエクスタシー
ほんの少し宇宙を知った気になる
要するになんとなくでっかそうな「宇宙」という言葉を自分勝手な定義の枠に押し込めているわけですけれども
知ったかぶりにはちょうどいい言葉なんじゃないかと
宇宙。
会話は宇宙だ!というと
あやしくもあり
安っぽくもあり
ははは
さて上映が終わりに近づくとオビタダシイ数の親子連れ&小中学生
今回は年齢層が高め。
みんな並んでいる
僕らはバテレン、いやベテランなので並ばない
誰よりも後に入場する、このおちつきがしろうととくろうとのちがいだ

 高校三年生の時の文章なので恥ずかしい。
 この時の彼の日記も貼ってやろうと思ったら消えていた。くそう。
 たしか「うまくしゃべれなかった」みたいなことを書いていた気がする。
 そのうち復活したらいいな。
 僕もちょこちょこ復旧作業進めております。

 彼とは今や家も近い(徒歩圏)のになかなか会えない。
 会いに行けばいいんだけど、タイミングが合わないことが多い。
 あんまりしつこく「遊ぼうぜ!」とか言うと、どうも面倒くさい先輩みたいになってしまうので、つい控えめにしてしまう。
 たまには向こうから誘ってくれたっていいのに!(女か僕は)
 友達に「ひろりが遊んでくれない」とか言うと
「嫌われてるんだよ……」と可哀想な人を見るような目で言われるのですが
 そんなことはない! 会わなくてもいいくらい深い絆で結ばれているのだ。結ぼれているのだ。そういうことにしておけばこれから先もいい感じなのだ。
 ふう。まあよい。
 お互いにリズムがあるのだ。

 上に引用した文章で宇宙がどうたらとか言ってるけど、何が宇宙だか、っていうようなのもあるけど、まあ当時も「何が宇宙だか」ってのは本文に書きこんでいるのでいいんだけど、宇宙ね。そんな会話ができているでしょうかね、僕は。あるいは僕らは。
 彼は彼で違う視点から宇宙を切り開いたりしているんで、そろそろ遊泳したいもんです。

2010/08/12 スラムダンクと弱虫ペダル――「天才」と「適性」

 
スラムダンク有害論という文章を先日書いたが、「スラムダンクと似ていて、しかし対極にある漫画」を挙げることでこれへの補足を試みてみよう。

“体育いつも「D」なんだ”
“そんなんに関係なく速よなんのが自転車やで”
         (『弱虫ペダル』第2巻87P)

 渡辺航先生の『弱虫ペダル』は週刊少年チャンピオン連載の自転車レース漫画である。ヒョロヒョロメガネのオタク少年、小野田坂道くんが自転車部に入り、同級生や先輩、他校のライバルなどとの出会いによって能力を次々に開花させていくというのが大まかなお話(いまのところは)。現在最も面白くて勢いのある漫画の一つであって、自転車に興味がないという人も必読の超名作。
 これだけだと、「赤い髪のモテない不良少年、桜木花道がバスケ部に入り、同級生や先輩、他校のライバルなどとの出会いによって能力を次々に開花させていく」という『スラムダンク』のストーリーと非常に似ている。高校一年生になって初めて運動部に入るというところもまったく同じ。要するに「ずぶの素人がのし上がる」である。
 しかし花道と坂道(奇しくもどちらも「道」である)が決定的に違うのは、花道の能力には理由がなく、坂道の能力には理由があるのである。あえて「才能」と書かないのは、花道のは確かに「天賦の才能=天才」だが、坂道は「天賦」ではないのである。ちゃんと裏付けがあった上での才能(というか「能力」)なのだ。
 花道はもちろん努力もするけれども、あのように飛躍的に能力が伸びるのは天賦の才能があってのことだ。ずっと不良をやり続けていた花道なのに、なぜバスケがすぐに上達するのか、ということは全巻読んでもよくわからない。「天才ですから」という彼の決めぜりふは『スラムダンク』という作品の特徴を端的に表している。彼らの才能には、理由がない。

 坂道はスポーツができない。しかし自転車はできる。それがなぜかというと、まず坂道くんの家はもの凄い急な坂(自転車用語で「激坂」)の上にあって、幼いころからそこを上り下りしていた。また、小学三年生のころから毎週、千葉からアキバ(推定、往復90~100キロ)を自転車で行っていた。しかも高校一年生になっても小学四年生の時に買ってもらったママチャリに乗っていて、サドルは当時の高さのまま(サドルを適正な高さにしない場合、60%の力が削がれるという)。さらにあまりスピードを出しすぎないようにわざとギア比がいじられていたのだ。そのような悪条件で、ニコニコ笑いながら何の苦も感じず坂道は自転車を走らせていた。「アキバにタダで行けるから」と。浮いたお金でガシャポンが三回できるから、と。
 悪条件のもと、できるだけスピードを出そうとペダルを回しに回しているうちに、知らず知らず実力がついていたということだ。日常的な激坂の上り下りに加え、毎週往復100キロの積み重ねである。これはすごい。有無を言わさず納得させられてしまう。「確かに、それだけやったら自転車も速くなるかも知れない」と思わされる。
 しかしなぜ、他のスポーツはまったくできないのか? それについての説明もちゃんと作中でなされている。曰く「自転車はほかのスポーツとは根本的に違う… それは体を支えんでええいうことや」。
 地面の上でやるスポーツは自分の体を自分で支えなければならず、そのために相当な体力を使ってしまうが、自転車は車体が体を支えてくれる。だから必要とされる筋肉や神経がまったく違うというのである。それで坂道くんのように「自転車はできるけどほかのスポーツがだめ」という状況は生まれ、またその逆もある。中学時代テニス部で県ベスト8に入っていた一年生の川田くんは、地面の上でやるスポーツにおいてはエリートのはずなのに、練習についていけず上達もせず、すぐに自転車部を辞めてしまう。
 僕も自転車が大好きでいつも乗っているんだけど、確かに自転車は「回す足」と「ハンドルを切り、ブレーキを踏み、ギアを変える手先」しか使わない。もちろん背筋やお尻の筋肉なども使っているのだが、他のスポーツとは使う箇所が全然違うということは感覚としてわかる。ちなみに僕もスポーツ、ことに球技はまったくできない。が、大学で受講した「自転車」という授業(むろん実技)では運動部や自転車サークルの人たちを抜いて成績は一位だった。
 そういう理屈があって、冒頭に引用したやり取りが出てくるわけである。体育が「D」だろうがなんだろうが、速くなる人は速くなるし、ならない人はそれなりに。オタクの坂道くんと元テニス部の川田くんという対比は、そこのところをわかりやすく伝えているのだ。坂道は自転車以外の運動をおそらくほとんどしていないから、自転車に乗るための筋肉や神経だけが極端に鍛えられてしまっていたわけである。

 坂道の通う総北高校(花道の通う湘北高校と非常に似ている、渡辺先生はひょっとしたら意図的に「アンチスラムダンク」をやろうとしているのかもしれない!)には六人のメイン選手が登場する。三年生の金城、田所、巻島と、一年生の今泉、鳴子、そして主人公の小野田坂道。彼らはいずれも「天才」としては描かれない。各キャラクターごとに得意分野があり、弱点や欠点もある。
『スラムダンク』は「天才の物語」だが、『弱虫ペダル』は「適性の物語」なのである。巻島、坂道は坂登りが得意、田所、鳴子は平地のスピード勝負が得意、金城、今泉は「エース」として足を温存し、ここ一番の勝負に懸ける。そのようにチーム内の役割分担が、それぞれの適性によってはっきりと決められているである。
 鳴子くんは身体が小さく、小学三年生から自転車を始めて最初の五年間は一切勝てなかったが、努力に努力を重ねて速くなった。田所は巨漢ゆえに坂がまったく登れず、一時は退部も考えたが平地のスプリントに特化して猛練習することでその壁を打ち破った。巻島は平地に弱く、得意の坂登りに関しても自己流のフォームを先輩に直され続けていたが、隠れて練習を積んで自己流のまま速くなった。今泉くんはクールなキャラだが実はメンタル面が弱く、それを克服しようと頑張っている。部長の金城は今のところ弱点は描かれていないが、前年のインターハイでライバルに落車させられて負けてしまった過去を背負っている。
 平地の苦手な者を得意な者が引っぱり、坂の苦手なものを得意なものが引っぱる。これが自転車の基本だ。「引っぱる」というのは、前方について空気抵抗をすべて引き受けるということ。タイヤが接触しそうになるほど近くくっつくと、ぐんと走るのが楽になる。これはやってみるとすぐに体感できる。
 それぞれの弱点を、チームメイトが得意分野でサポートし合う。正の適性によって、負の適性を補い合う。それが『弱虫ペダル』という漫画の基本方針であり、自転車という競技の基礎中の基礎でもある。人間として人間とともに生きるというのはそういうことだし、余談ながら僕の好きな『まなびストレート!』も同じテーマだ。自転車というのは個人競技のように思われがちだが、実は集団競技としての側面もうんと強い。ことに『弱虫ペダル』で描かれるようなチーム戦においては、他のどんなスポーツと比べても遜色のないほど高度なチームプレイが要求されるのだ。それは本編を読めばよくわかる。

『スラムダンク』との比較をもう一点だけすると、一年生の鳴子くんと今泉くんは見た目も性格も二人の関係もモロに「花道と流川」である。鳴子くんは髪が赤くて喧嘩っ早くて冗談が多い、今泉くんは黒髪の切れ長な目にクールで皮肉が多い。そして案の定二人は仲が悪い(ように見えて実はすごく良い)。まんま、花道と流川だ。ではメガネをかけてヒョロヒョロで、ちょっと気の弱い坂道くんは何かというと、「木暮くん」である。
 そう、『弱虫ペダル』とは実は、「木暮くんの物語」なのである。花道や流川と並んで、木暮くんが同じくらい、いやそれ以上に活躍をするのが『弱虫ペダル』なのだ。僕は「スラムダンク有害論」で木暮くんが3ポイントシュートを決める話だけをやたらと賞讃し、ここがメインテーマであればよかったのにと書いたが、『弱虫ペダル』は見事にその「木暮くん」的な人物へスポットを当て、主人公にまでしてしまったのである。
 体育「D」の坂道が、練習(アキバに行くことなど。本人は練習などとはもちろん思っていなかったが)によって自転車だけは速くなり、自転車部で大活躍をして、友達もできる。「凡人」にスポットを当てるのなら、こうでなければならない。なぜなら、本当の「凡人」などというものは存在しないのだ。人間には「適性」というものがある、というだけのことで、そしてその適性は、「どのように育ったか」によって決まる。坂道は自転車にばかり乗っていたから、坂ばかり登っていたから、「自転車で坂を登る」という適性が伸びていったのである。ただひたすら「天才である」という理由だけで万事がうまくいってしまう桜木花道とは違うのだ。「花道にはバスケの適性があった」と言うことはできるが、バスケの適性とはあまりにも漠然としすぎているし、なぜそのような適性が生まれるに至ったかを説明するのにも「天才」という言葉しか出てこない。そんな不条理な作品に、なぜ誰もが熱狂してしまうのか――理由はわかってる。「面白いから」だ。麻薬にはまるのは気持ちがいいから、それと同じ。

 最後に、坂道に「天賦の才能」があったとしたら、それがどのようなものかということを説明しておこう。それはずばり、「自転車に乗ったり、坂を登ったりすることが楽しい」ということである。これはもう、さすがに才能としか言えない。少なくとも本編からは、天賦の才能であるとしか読み取れない。坂道は、「坂を登るときに笑う」のである。きつければきついほど、登るのが楽しい。僕にはそう見える。そして大切な試合でも大好きなアニメの主題歌を歌いながら走ったりもする。もう、楽しくて楽しくて仕方がないのだろう。これは才能としか言いようがない。僕も似たような才能を持っているかも知れないから、よくわかる。自転車に乗ること自体がどうしようもなく好きだというわけではないが、きつい坂を登るのがとにかく好きだ。高校生のときに友達と鈴鹿峠を越えていて、大声でアニメの主題歌を歌いながら笑顔で駆け上っていったらしく、あとから「あれはさすがにビックリした」と言われたことがある。今も、峠を越えるときはだいたいニヤニヤ笑っている。だから初めて『弱虫ペダル』を読んだとき、坂道が坂を登りながら笑っているシーンで思わず泣いてしまった。二十年以上生きてきて、初めて仲間に出会えた気がした。

 天才とは、才能とは、「それをすることが楽しい」とか「せずにはいられない」ということでしかないというのは、よく言われる。だけど『弱虫ペダル』ほどあからさまにそのことを言っている作品は実は多くはない気がする。だいたいは天才や才能とは「裏付けのないすごい能力」として登場して、その理由というのは描かれないものだが、『弱虫ペダル』は極力そのあたりを明解にしようと努力しているように感じる。そこが最も、素晴らしい点だと思う。

 僕は「天才」を信じない。ただ「適性」を信じる。そして「適性」の生まれる背後には、その人の人生とか、生活とか、人格とか、家族とか、友達とか、そういったものが必ず関わっているのだと思う。そこを描かずして、人間を描いているとは言えない。お人形で遊ぶのは、子供の時だけにしてもらいたい。

2010/08/11 VIPブリッジの死闘

 2005年くらい? 歴史的音源。
 
VIPブリッジの死闘

2010/08/10 蝉将棋

 蝉将棋というのをやってみたい。歩兵はアブラゼミ。王将はやはりミンミンゼミだろう。飛車がヒグラシ、角がツクツクボウシ。金がクマゼミ、銀が……このへんから苦しくなってくるのだが、まあエゾゼミにしておこう。桂馬がニイニイゼミ、香車がチッチゼミ。
 そういうわけでちょっとやってみます。
 ジジジジジ
 ジジジジ
 ボーシ、ツクツク、ボーシ、ツクツク
 ビイイイー
 カナカナカナカナ……
 しゃんしゃんしゃんしゃんしゃんしゃんしゃん
 ジジジジジ
 ここまでで▲7六アブラゼミ、△3四アブラゼミ、▲2二ツクツクボウシ成、△同エゾゼミ、▲7八ヒグラシ、△6二クマゼミ、▲7五アブラゼミ。明日早起きして山に行ってアブラゼミを18匹、クマゼミとエゾゼミとニイニイゼミを4匹ずつ、ミンミンゼミとツクツクボウシとヒグラシを2匹ずつ捕ってこなければ。チッチゼミはまだいないと思うのでアマガエルで代用します。

2010/08/09 今さらつまんねーこと言うなよ。

 僕は以前付き合っていた女の人を友達にかっさらわれていったことがあるのだが、その件について僕は割と何ヶ月かもの思いに耽った。当時の僕の様子については色々な人が色々なことを思ったのだろうが、今さらながら幾つか言いたいことがある。
 まず、その女の人への未練は一切ないし、なかった。あったとしても数秒で消えた。せいぜい「もう一度セックスできんかな」程度のことだろう。僕よりも他の男を取るような女を好きで居続けるような道理はないのである。僕よりも彼を取るような女性とは壊滅的に感性が合わない。それが決定的になったので晴れて完全に恋愛感情はなくなった。そういう流れだ。
 それと、「ほかに好きな人ができたからあなたと別れます」ということを僕は不誠実とは思わない。そんなことは仕方のないことだ。責めるつもりもないし、別にショックでもなく、「そういうこともあるだろう」くらいに思う。過去にもあったし免疫ができている。そのことによってその人を嫌いになることもない。過去に似たような(あれはきっと僕が悪かったんですけど)状況になったらしい相手とは現在もラブラブである。大好き。超愛してる。しかもお互いに。恋愛感情なんかコロコロと変わっていけばいい。関係から恋愛を引き算してなお何か大切なものが残るなら、いつまでもラブラブでいられる。そのことを僕はすでに証明しているのだから、恋愛ごときに未練など持たない。
 問題は、別れ際にどのくらい邪悪なことがあったか、である。自分が悪者にならず、相手も極力傷つけないように努めれば、嘘や誤魔化しがどうしても必要になる。よほど上手にやらなければやがてボロが出始めて、それを取り繕うためにどんどん邪悪へ向かっていく。
 僕はその邪悪についてずっと考えていたのである。失恋のショックなど数秒で消える。僕は昔からそういう性格で、初恋のときでさえそうだった。翌日まで引きずったことなど一度もない。少なくとも、寝れば終わり。
 けれども邪悪に対しては、そのショックは、消えることはない。「人間って邪悪なんだなあ」という悲しみがしばらく僕の心を支配していて、その邪悪が生まれたり成長したりするカラクリを延々と考えていた。格好良くいえば理論化していた。僕は心にモヤモヤがあったらちゃんと自分の頭で論理的に整理しないと次に進めないのだ。そのためにずっといろいろ考える。その様子を見て「未練」や「痛手」などと言う人がいて、未だにいるのだが、ちょっとニュアンスが違うように思うので非常に気分が悪い。やめてくれろ。
 邪悪と、それと、思慮の浅さ。頭の悪さというのがもう、本当にどうしようもなくって、その点に対して深い絶望状態に陥った。恋は盲目というのは本当だ、新しい恋に舞い上がった連中は想像力を一切失って、自分たちの見つめるただ一点へと猪突猛進に走らんとする。自分たちの行動の結果、どのようなことが起こるのか、どのようなことを思われるのか、ちっとも考えない。だから「別れ」に対しても最適解が出せず、陶酔したまま勝手な行動をして、自分たちの幸せの確保だけに夢中だ。そういう姿をとても不快に思って、落ちこんだといえば落ちこんだ。世の中には本当に低脳が溢れているのだなと。男のほうなんか、僕より四つも年上なのに。
 なんてことを書いていると、「まだ引きずってるのね……」とか思う低脳な女がいるかもしれない。そういう人に向けて書いているというのに。わからんやつには何を言ったって無駄か。祈る。

2010/08/08 ディスコミュニケーション

 意外とディスコミについて語っていなかった。
『ディスコミュニケーション』(通称ディスコミ)というのは、講談社の月刊アフタヌーンで連載されていた植芝理一先生の漫画で、最初の読み切りが掲載されたのは91年。それから17冊の単行本が刊行されている。
 僕がディスコミを読み始めたのは遅く、確か中学一年生の時で、単行本でいうともう11巻が出ていたかいないかというところだった。六つ離れた兄の机に無造作に山積みになっていた不思議な装幀のこの本を思わず手に取ってしまったのが運の尽き、それから十数年ずっと僕はディスコミの引力に魂を縛られ続けているのだ。
 初めてディスコミの表紙を目にした時の感覚というのは、おそらく七十年代末の中学生がYMOの1stアルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』のジャケット(海外版の、ヘンなメガネをかけて扇子持った着物姿の女の人の頭からたくさんの銅線が飛びだしている絵)を見たときの感じに似ているのではないかと勝手に思っている。……海外版だから、当時の中学生が見ていたのかどうかよくわからないのだけれども、ディスコミ一巻の表紙は間違いなくあれを意識して描かれている。
 一巻の表紙は、制服の上から着物柄の布をまとった松笛と戸川(主人公、恋人同士)が寄り添っている構図なのだが、松笛は扇子持ってヘンなメガネをかけて頭に不思議なかぶりものをしており、そのかぶりものから生えている木の枝が例の銅線にそっくりな広がり方をしているのだ。しかもメガネからは銅線が生えている。これは植芝先生がYMOの大ファンで、作品の中にもYMO的な雰囲気を採り入れているからだろうと思う。そのせいで僕はYMOの大ファンになってしまった。まったく影響されやすいものだ。
 ディスコミは、松笛という謎の高校生と、彼に恋をしてしまった戸川という女の子の恋愛物語である。松笛は町外れの小さなビルに、大量の気味の悪いガラクタに囲まれて一人で棲んでいる。二人はつきあい始めるのだが、そのつきあい方というのが不思議な様子で、松笛が戸川の涙を飲んだり襟足を剃ったり一日中監禁しておしっこを我慢させたり、歓喜天というインドの神像の前で血を交換し合って二人で異世界にトリップしたりと、はっきり意味不明である。
 僕は恐らく生まれながらに変態だったが、ディスコミによって開眼させられて今はこのような具合である。女の子を好きになったらなにはなくとも涙を飲みたいし、交合(ミトウナ)の儀式や歓喜天の儀式(前述)もできることなら行いたい。ビニールごっこ(互いに大きなビニールをかぶって身体をまさぐりあう)もしたいし、かばんなめ男となって夜の町に出没したい。スカートの中にもぐるのも大好きだし、許されるなら女の子の全身に絵を描いたり、または描かれたりしてみたいわけである。
 僕の大好きなディスコミという漫画はそのように変態的だから軽はずみに人に勧めはしない。でも信頼できる(あるいは、したい)相手には教えたり貸し出したりもする。(ただし男性にはあんまり紹介しない。女の子には「わかってくれ」と思いながら勧める。)そしたらある女の子から、「面白い。私にとって完全にど真ん中なのに、なぜこれまでこの漫画を知らなかったんだろう、クイックジャパンとかで紹介されたりもしてないよね?」と言われた。確かにあのような軟派サブカル雑誌には決して取り上げられない。黒田硫黄は表紙にまでなったけど。ディスコミは「流行り」とか「お洒落なイメージ」とはまったく無縁な孤高の作品で、浅野いにおとか羽海野チカとか、市川春子とかとは一切重なるところがないのである。一般性もなければ「通好み」でもなく、かといってマイナーでもなく、好きな人は猛烈に好きであるというこの立ち位置は一体なんなのだろう。
 僕はまたある友達から「私の周りには松笛男子がいっぱいいる」と言われたことがある。要するに「私の友達にはディスコミファンの(ことに松笛に自分を重ねたり憧れたりする)男の子が多い」ということなのだが、僕はこんなことを言われると腹が立ってしまう。
 ディスコミのテーマっていうのは何かというと、一つには「純愛は時に変態的な形で現れる」である。ディスコミは変態的な性愛しか出てこないけれども、そのすべてが純粋で美しい。どれだけ変態で禁忌的で冗談みたいな性癖が登場してきたとしても、その芯には必ず誰か大切な人への“想い”がある。「誰でもいいからやりたい」よりも、「あの人のぱんつを食べたい」と心の底から願うほうがずっとずっと健全なのである。
 変態であるということが「健全で純粋で美しい愛の形である」ということを示すこともあるのだ、ということをディスコミは僕に教えてくれて、それで僕は全てを許されたような気になる。僕は変態なのだが、「別にそれでもいいんだよ」と言われたように感じるのだ。「それは意外に純愛だ」と。
 現在連載中の植芝先生の『謎の彼女X』を読んで、僕は「植芝先生はどうして僕たちの好きなものをこんなにもわかっているんだろう」と思った。謎彼は、主人公の男の子が好きな女の子の唾液をなめる話なのだが、そういう奇抜で変態的なモチーフを選びながらも思春期なりの綺麗な愛と絆を真剣に描いていて、連載の最初の数年間は毎月身もだえしながら読んでいた。そういえばディスコミで「好きな人のだ液は甘いんだよ」と松笛が戸川に言うシーンがあって、経験のなかった僕は「そうなのか!」と思って、「でもきっとそうなんだろう」と思って、実際にそうだったのである。それによって僕の植芝先生への信頼は揺るぎないものになった。
 ディスコミというのは、人間の根源的な部分に訴えかける作品である。もはや僕にとっては聖書である。軽々しくジャンルとして括られたくなどないのである。たとえばあなたがキリスト教の信者で、「自分の周りにはクリスチャンが多いんだよねー」などと軽々しく言われたら、多少は気になってしまうはずだ。「僕は僕で真剣に神様やこの世界のことを考えているだけなのに、どうしてそういうふうにジャンルとして括られてしまうのだろうか。私たちや神様のことを特別知っているわけでもないのに」と。しかもそこに若干の呆れた、ないし侮蔑的なニュアンスが込められていたとしたら、きっと腹が立つ。「あたしの周りにはゲイが多くて~」みたいな告白にも、腹を立てたっていい。
「ディスコミ好きな人ってあれだよね、○○な男が多いよね」という言いぐさは、「クリスチャンって○○だよね」とか「ゲイって○○だよね」とか言ってるのと同じである。「ディスコミ好き」を一つのジャンルとして統括して、そこに何かしらの傾向を見出そうとするのなら、それは「偏見と差別」でしかないのだ! 僕は僕で真剣に、個人的にディスコミを信奉しているのであって、それはつまり自分や自分の性癖や好きな人や、あるいは自分の生きているこの世界というものを見つめ続けているということに他ならないのであって、同じくディスコミ好きでも、彼とは具体的な性癖も好きな人も、見えている世界も違うのであるから、一緒くたに語られることは全身で拒否したいのである。
 ……と言っても、同じものを信奉しているわけだからどこかしらに共通点はおそらくあって、その部分を指摘されて怒るというのは実にお門違いなので上に書いたようなことは常に黙っている。
 言いたいのは「僕は他のディスコミファンとは違うし、彼も他のディスコミファンとはまた違うのだ」ということ。そういう作品であればこそ、流行らなかったし、特に注目もされなかった。「こういう層に受ける」というのがまるでないので、売り込みようがないのだ。種々の変態が偶然のように見つけてきて、はまる。孤高の存在であるというのはそういうことで、ファンもまた孤高であって徒党を組まない。だから僕は、他にどんな人がディスコミを好きであるのかちっとも見当がつかない。時折どこかで出会っても、「どうしてこの人はディスコミを好きになったんだろう?」といつも思うのである。
 僕が男性にディスコミを絶対に勧めない理由というのはこれだろう。

2010/08/07 曲解

 今日は野比のび太と花輪くんと、僕のお兄ちゃんの誕生日です。
 おめでとう。

「嘘を嘘と見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい」
 というのは2ちゃんねる創設者ひろゆき氏の有名な言葉。
 僕は嘘を嘘と見抜くことは必ずしもできないけれども、嘘である可能性のあることは信じないように努めている。
 たとえばある人について、第三者が何か悪し様に言ったとする。
「○○さんって女の人を天井から吊して犯したりするんだって」
 そうしたら僕は「そうなのか。○○ってのはとんだクズ野郎だな。死んでしまえばいいのに」とかなんとか、たぶん言う。しかしだからといってその情報を信じたわけではない。常に「そうだとしたら」がカッコに入っていて、あらゆる前提になっている。「(そうだとしたら)○○はひどいやつだ」というように。
 大人はけっこう、「嘘かも知れないけど、とりあえずこの場はそういうことにして話を進めよう」と割り切ってしまう場合が多い。それが会話を円滑に行うためのテクニックであったりする。「それって本当なの? 僕はその現場を目にしたり、せめて当事者の口から聞かなければ信じられないなあ」というのは、必要があれば言うが、冗談になりそうなもんなら言うこともない。どのみち正確なニュアンスなどわかりっこないのだし。
 ○○さんはもしかしたらギャグのつもりで「こないだ彼女を天井から吊してさあ」とか言って、その場は「ドッ」と盛り上がったのかも知れないし、ひょっとしたら「彼女が吊してくれと言ったから渋々吊した」という文脈だったのかも知れないが、第三者の口から出るのは「○○さんは女の人を天井から吊して犯したりするんだって」という言い方になる。同じことを伝えているようでも、ニュアンスがまったく違う。ひとたび他人の主観を通したら、何だって一切信じることはできない。同じ事情について話しているのに、AさんとBさんで言っていることがまったく違うというのは、本当に幾らでもある。そうでないほうが珍しい。芥川龍之介の『藪の中』のように。
「○○さんは~」と言ってきた人物がそれを真剣に言っているにせよギャグで言っているにせよ、聞く側は「ああ、そうなんだ」と脳天気に鵜呑みにするべきではない。「そうだとしたらひどいね、そうだとしたらね」と心の中で思いながら、「ひどいやつだ。殺そう」とか「僕もやってみようかな」とか適当に言えばいい。僕はだいたいそのようにしている。冗談になる限りは。
 たとえば、ある友達の情報が第三者から入ったとする。「○○さんが××と言っていたんだって」と。僕はその情報をもとに、頭をフルに使ってその友達の悪いところを洗い出して最大限にこき下ろす。「あのクズ野郎が」とまで言う。でも、もともと「本当にそう言ったのか」というところから本当は僕は疑っているわけだから、もう全部冗談なのである。それは単なる思考のお遊びである。そういうのを聞いて、冗談の通じない人は不快に思うのかもしれないが、いちおう冷静に「これは冗談」とわきまえてはいるのだ、言っているほうは。
「○○さんが、△△さんに、誕生日プレゼントをあげたんだって」という話を聞いたら、僕は即座に「○○が△△に恋をしている」というストーリーをでっち上げ、「あいつらできてんじゃね?」というところから「セックスばっかりしやがって」まで行く。むろんくだらねー冗談である。でもまあ、酒の席なんかじゃ、けっこういい肴になるもので、飽きもせず何時間も○○と△△の関係をいじくり回し、あることないこと言いまくる。終いには○○は極悪人になっていたりして、「許すまじ。殺そう」くらいの話になるのだが、実際は誰も本気でそんなこと思っていたりはしない。思っていたとしたら問題なので、ここにこのような野暮ったいことを僕は書いているのだ。
 だから、僕が友達の悪口を言っていたら、それはいっさい信じてはならない。僕の言うことには必ず曲解がある。あるいは曲解された情報をもとに話している。すべて冗談である。が、しかし「嘘でなければ語れない真実もある」と言うように、その冗談の中にけっこう重要なことが紛れ込んでいるもんなので、冗談であるわりにはそれなりに聞くべきところがあったりもする、と自分では思っている。友達を冗談のネタにするなんて邪悪といえば邪悪だが、だって面白いし、時には「ネタ」という範囲をいい意味で越えてしまい、回り回って本人のためになっていたりもする。なんてことを言い訳として僕は今日も嘘と冗談と軽口を繰り返すのである。ドヤ。

2010/08/06 車内の通話

 電車内で通話してはいけないのは、「えたいがしれないから」でしょう。それが最大の理由。二人で会話しているのに、片方の人間の声しか聞こえないから、非常に気持ち悪い。その人と電話の相手とがどういう関係であるのかも、全然わからない。それに電話しているときっていうのは「会話の内容」と「表情などの身体的な振る舞い」があんまり一致しないものだから、「言葉」と「振る舞い」がちぐはぐになって、またもや気持ち悪い。
 携帯電話で一人で喋っていると、きちがいみたいに見える。僕は携帯電話が普及しはじめたときに小学生で、最初に携帯で喋っている人を見たときは度肝を抜かれた。頭が狂ってるんじゃないかと思った。実際、電話もしてないのに誰かと会話しているらしいおかしな人がたまにいるが、とっても怖い。当時は「携帯電話で会話する」という文化が定着してなかったから、今よりずっと異様に見えた。その時の感覚が未だに引きずられていて、今でも「車内で通話はしてはいけない」が常識のようになっているのかもしれない。
 固定電話だとコードがあるから「どこかと繋がっている感」があるし、固定電話を使った他人の会話を聞く機会があるのは主に家庭とかオフィスとかで、自分の知っている人間が友達や仕事相手と話しているわけだからなんとなく会話の内容も想像はついて、「えたいがしれない」という感じは薄れる。
 それに比べ、全然知らない人が、全然知らない人と、全然わけのわからないことを一人で喋っているという「えたいがしれない」感じは、恐怖さえ周囲に与える。

 電車の中で、隣り合った友達同士が二人で会話しているのを聞くとする。これだと二人ともの声が聞こえるから「会話の内容」は把握できるし、二人とも相手を意識して表情や身ぶりを作るので、そこにある「関係」が把握しやすい。「ああ、この二人は友達なんだな」と周囲の客は理解する。「関係」が見えればそれぞれの「人柄」も見えてきて、「二人ともいい人そうだ、害はあるまい」といった判断ができる。だから安心して電車に乗っていられる。
 ところが、電話で一人で喋っている人の場合は、「えたいがしれない」。断片的な情報(会話、表情、身ぶりなど)が半ば強制的に与えられて、しかしそれらの情報は統率されていない。会話と表情と身ぶりがそれぞれちぐはぐで、しかもどこへ向けられているのかちっともわからないから、見ているほうは混乱する。意志が見えない。えたいがしれない。電話している人は虚空を見つめながら、笑ったり怒ったり、謝ったりへつらったり、ラブラブしたりしている。それにしては、目が笑っていなかったり、ふんぞり返って謝っていたり、面倒くさそうな渋い顔をして「好きだよ」なんて甘い声を出していたりする。わけがわからない。気色が悪い。

 僕はこのえたいのしれなさが、電車内で通話を禁じられる理由だと思う。たくさんの人間が集う場にえたいのしれない人間がいれば不快になるのは当たり前だ。ずっと大声で独り言叫んでる人間が電車に乗ってきたらみんな不快だし、恐ろしいだろう。携帯電話で通話するというのはそれと同じようなものだ。車内という、ぎりぎりに調和のとれた空間を乱してしまう。その場にいない人とコミュニケーションを取って、その場にいる自分たちのことは完全に無視している。その場にいて、その場にいないような、そういう恐ろしさもある。
 90年前後か、それ以降に生まれた人にとっては、物心つくころかせいぜい小学生のうちには携帯電話が生活必需品として存在していた場合が多いと思うので、「電車の中で通話する人のえたいのしれなさ」というのをそれより上の世代に比べて感じづらいのかもしれない。とはいえ、まったく感じないことはないだろうけど。

 なぜ急にそんなことを言いだしたのかというと
鯨のびらびら8月2日の記事に「電車内で通話してはいけない理由は何か」という疑問が提示されていたから。「公的空間に作り出した私的空間が話し声などによって公的空間に漏れてしまっているから不快に感じるため」という結論に一応落ちついたらしいが、何を言いたいんだかちっともわからぬ一文である。なんとなくわからんでもないが、なんとなくしかわからない。「公的空間に私的空間を作り出す」とはどういうことなのか。「公的空間に私的空間が漏れる」とはどういうことなのか。なぜそうすると不快なのか。その辺がぜんぶフワフワしていて、正確な理解が難しい。
 自分が理解できることが他人にも同じように理解してもらえると思ったら大間違いである、というような話をそういえば先日弟子にしたな。他人に伝えようとしたらわかりやすくしなければならないのに、「自分にしかわからないような書き方」をしてしまうのは怠惰だ。伝わらなくても良いんなら別にそれでもよくて、僕なんかもたまにそうやってサボる。でも最近の僕の日記がいやに饒舌で長ったらしいのは、可能な限りわかるように書きたいなと思っているからでもあります。

 それから同記事においてペースメーカーの誤作動について「実は何の影響はないとのことです(「何の影響も」もしくは「何も影響は」の間違い?)」として、総務省のページが紹介されていた。確かにここには「HSUPA方式を用いた携帯電話端末の電波がこれらの心臓ペースメーカ等の植込み型医療機器の機能に影響を与えないことを確認しました。」と書いてあるんだが、よく見ると「携帯電話端末及びPHS端末の電波が植込み型医療機器へ及ぼす影響を防止するための指針:植込み型医療機器の装着者は、携帯電話端末の使用及び携行に当たっては、携帯電話端末を植込み型医療機器の装着部位から22cm程度以上離すこと。」ともある。
 要するに、「ペースメーカー的なものなどから携帯を22cm以上離した場合、影響はない」ということで、それ以上近づけたら影響する可能性があるわけだ。さらによく読んだら、第二世代携帯では15cm、第三世代携帯では8cmのところで影響が認められたということだ。安全のためにサバを読んで22cmとしているらしい。
 こういうことの書いてあるページにリンクを貼って「実は何の影響はない」とするのは若干違和感があったのでいちおう記しておく。22cmといったら、ある程度混んだ電車の中だったら普通に近づく距離だもんね。

 そういえば今日はけんじの誕生日。祝わない。

2010/08/05 すん誕祭

 すんたんじょうびおめでとう。
 一番乗り。

2010/08/04 生誕祭

 友達二人が同時に誕生日。おめでとうございます。
 猫かわいい。

2010/08/03 ドヤ!

 
ちょっと前に日記に書いた「ドヤ文学」が一部地域で流行っており、「いつも食べに行くフランス料理もいいけど、たまには定食もおいしいですよね。ドヤ! キャッキャ」みたいな感じで楽しんでいる。

 で、今またドヤ文学を書こうと思って何行か頑張ってみたんだけど、ちょっと難しい。うんざりする。僕にはやっぱり、ああいうのは向かないみたいです。(ドヤ!)

 散歩した。散歩って楽しいですよね(一見無意味なことに価値を見出す僕ってカッコイイ! ドヤ!)。特に宛てもなく、足の向くままだらだらと歩いた(目的を特に決めないのってワイルドでカッコイイ! ドヤ!)。今にも潰れそうな、もしかしたらもう潰れているのかもしれない、450円のラーメン屋の前を通りました。薄暗くって、媚びがなくて、一見の客を全身で拒否してる感じで。こういう店って好きなんですよ(渋いでしょ? ドヤ!)。これでもどうやら潰れていないというのは、それなりの理由があると思うんです(僕って論理的! ドヤ!)。

 もう疲れた。ダメだ。一時間以上ぶらぶら歩いて、石神井公園に行って、カブトムシとかセミとかを捕った。
 毎日たくさんのことがあって、その中で日記に書いちゃうようなことってほんの一部で、だから「書かれること」というのはなんか少なからず「これって特別」と書き手が思っていることで、だから本質的に日記というのは「特別だぞ」感、すなわちドヤ感が出てしまいがちになる。ノートにひっそりと書いているような場合は別だけど、ネットに公開するってことは「アピールしたい」が少なからずあるものだから。

 だって、毎日散歩する人は「散歩した」なんてあえて書かない。いや書くかもしれないけど、書くなら毎日書くんじゃないかね。「散歩した」なんてあえて書くのはだいたい、普段は散歩なんかしなくって、たまたま散歩して、散歩とかしている自分に酔って、「ああ、散歩とかする僕ってカッコイイ」とか思って、「このカッコよさをみんなに知ってほしい」つって日記に書くわけで。
 自意識の強い書き手に限られるかもしれないけど、日記に書いてあることというのは、ある意味ではあんまり信用しないほうがいい。日記に書いてあることは「日常を書いている」のではなく「非日常をドヤ顔で書いている」だったりする場合も多いのだ。「散歩した」と書いてあったら、その人は散歩をしないし、「お洒落な喫茶店に行った」と書いてあったら、普段はお洒落な喫茶店なんか行かない人なのだ。
「お花に水をあげて……」とか書いてあったら、ふだん自分でお花に水をやることはあんまりないんじゃないか、ということを疑っていい。

 というわけで「虫取りに行った」などと書く僕はもちろん頻繁に虫取りに行くわけでもないし、行ってもカブトムシなんかはなかなかとれない。たまにとれると気が大きくなってついついこうして書いてしまう。ドヤ! ドヤ!

 でも、「カブトムシが捕れた! やったー!」みたいなのは、素直な自慢というか、単なる喜びの発現で、いやらしい感じはあんまりしない。これをドヤ文学に変換すると、「捕ったカブトムシを見ていたら、あの日のことを思い出した。いや、なんてことないささいな話なんですけどね。大切な想い出なのでここには書きません。」とかになる。
 本題は「カブトムシを捕った」だけど、そこは抑え目にアピールして、もう一つ何かカッコイイ感じのことを付け加える。これがドヤ文学の真髄。
 やっぱり、「お洒落な喫茶店に行った」ということをストレートにアピールするとあんまりにもあからさまだから、そこは抑え目にしといて、「コーヒーをブラックで飲むというのは……」とかそういうふうに話題の焦点をずらしていくのがテクニックなのであろう。ドヤ感はそこに生まれるのである。

 もちろん「コーヒーをブラックで飲んで」と書く人はふだんコーヒーをブラックで飲んでいないか、最近飲めるようになったかである。そういうことを考えながら他人の日記を眺めるとちょっと面白い。自分の日記に関してはそういう視点で読み返しても「かわいいな、僕って。フフフ」とか思うだけなんで、僕はいい性格に生まれたものだ。ドヤドヤ。

2010/08/02 背後から蝉の声が!


2010/08/01 エステよ

「こら、みなお! どこへ行くんだ」
「エステよ……じゃなくって、遊びに行くの」
「だれとだ」
「だれとでもいいでしょ」
「よくない。だれだ」
「えー。吉田くん」
「吉田ってなんだ。だれだ」
「最近知り合った男の子」
「付き合っているのか」
「友達よ」
「好きなのか」
「全然」
「吉田はみなおに気があるのか」
「まさか。そんなわけないでしょ」
「ないことはないだろう」
「ないわよ、お父さんの子供なんだから。ありえないでしょ」
「ばっかもん! 死んだお母さんにあやまれ!」
「えっ」
「お母さんはな、そのお父さんと恋に落ちて、愛しあって、お前を生んで……。生んで、お母さんは……、ううう……」
「ごめん……。ごめんね、お父さん」
「お父さんのことはいい。お母さんに」
「ごめんなさい、お母さん」
「うむ。蓼食う虫も好き好きと言ってだな、こんなお父さんでも、好きになってくれる女の人はいたんだ。それがお母さんだった」
「はい」
「だから吉田だって、みなおのことを好きになるかもしれないんだ。その逆もある」
「ないってば」
「なぜ、ないと言えるんだ」
「ないもん。ありえないから」
「なぜだ」
「なぜもなにもないわよ、ありえないの」
「だから、どうして」
「友達だからよ」
「お父さんとお母さんも、はじめは友達だったんだぞ」
「そういうんじゃないもん、吉田くんとは」
「なにが違うんだ」
「違うったら、違うのよ」
「“だろう運転”と“かもしれない運転”というのを知っているか」
「知らない」
「車の運転をする時にだな、“だろう”ではなく“かもしれない”を心がけよという教えだ。“対向車は来ないだろう”ではなく、“対向車が来るかもしれない”と、危険に備える気持ちを常に持つことが大切であると」
「ふうん」
「“吉田くんとは恋仲にならないだろう”ではなく、“吉田くんと恋仲になるかもしれない”ということを念頭に置いたほうがいいんじゃないかと、お父さんは思うわけだ」
「なんなの? 吉田くんと付き合えってことなの?」
「そんなことは言っていない。みなおが誰と付き合おうが自由だ」
「だったら、自由にさせてよ」
「お父さんはな、正直、みなおの人生に介入したくてたまらない」
「うん、知ってる」
「だけどそれ以上に、自由にさせてやりたいという気持ちのほうが強い」
「だったら」
「だからこそ、だ。みなおが自分の意志をしっかり持って、自分の行動に自分で責任を負えるようになるまでは、目を離すことができないんだよ」
「自分のことは自分で責任持てます。もういい年なんだから」
「自分で責任を持つ、ということがどういうことかわかっているのか?」
「んー?」
「例えば、吉田くんに今日、お前がレイプされるかもしれない」
「そんなわけないでしょ」
「そうかもしれないのだ。しかも、“レイプなんかされるわけない”と脳天気に思い込んでいればいるほど、レイプされる確率は高まる。そして実際そうなった時、お前はその責任を自分で持つのか?」
「それは、レイプするほうが悪いでしょう」
「その通りだ。じゃあ、もしお前が“レイプされるかもしれない”と思って遊びに行って、実際にレイプされてしまった場合、その責任はどこにある?」
「それも相手が悪いでしょ」
「そこが甘い。確かに悪いのは常にレイプするほうなのかもしれないが、この場合お前は“レイプされるかもしれない”と予感していて、それでも“あえて”遊びに行ったのだから、その責任はお前自身が持つべきだ」
「はぁ? そんなわけないじゃん」
「自分の行動に自分で責任を持つとは、そういうことなのだ。“レイプされるかもしれないが、私は遊びに行く”という覚悟をして出かけて、それで実際にレイプされてしまったのだから、想定の範囲内だ。お前は出かけた時点で、“レイプされる”という未来を引き受けたのだ」
「えー……」
「“レイプされるかもしれない”と予感しながら、なぜお前は出かけたのか。“レイプされても別にいいや”と思っていたのかもしれないし、“レイプされるかもしれないという危険をあえて冒してでも、吉田くんと遊びに出かけたかった”かもしれない。または“吉田くんはそんな人じゃないという想いが、レイプされるかもしれないという予感に勝っていた”ということなのかもしれない。いずれにせよ、お前は自分の判断で“あえて”出かけたのだ。責任というものは、そこに発生するのだ」
「よくわかんないんだけど」
「つまりだ。あらゆる可能性を熟慮した上で、ある一つの判断を下したとき、“責任”なるものは生ずるというわけだ。逆に“無責任”というのは、“あらゆる可能性を熟慮しないで、ある一つの判断を下したとき”に、そういう言葉が使われる。今のお前は、ただの無責任だ」
「なるほど。つまり、吉田くんにレイプされるかもしれないとか、吉田くんに惚れられるかもしれないとか、惚れちゃうかもしれないとか、そういうことをちゃんと考えた上で、“あえて”吉田くんと遊びに行くという選択肢を選べってことなのね」
「そういうことだ」
「めんどくさい」
「みなお、お父さんはお前に、藤子・F・不二雄先生の『あのバカは荒野をめざす』を読ませたはずだ」
「ああ、あれ。読んだけど、よくわかんなかった」
「……そうだろう。若者には、わからんのだ。お前は荒野をめざそうとしているというのに」
「あのねー。たかだか男友達と遊びに行くだけのことじゃない。なんでそんな、大げさにものごとを考えるのよ、いちいち」
「大げさだと?」
「そんなね、百分の一とか千分の一とかって僅かな可能性を逐一考慮に入れてたら、頭がパンクしちゃうわよ。めんどくさいし。無駄よ、無駄」
「あのな、ものを考えるというのはな、その僅かな可能性を、最大限に尊重してみることから始まるんだぞ。研究だって創作だってなんだって、“絶対にありえそうもないこと”を“ありうるかもしれない”と想定することから始まるんだ。シュリーマンという人を知っているか。彼は“絶対にない”と思われていたトロヤ遺跡を“あるかもしれない”と信じて、実際に見つけてしまった」
「吉田くんとあたしが恋に落ちることは、絶対にありえない。あたしはそう思ってるんだけど、それをあえて、“恋に落ちるかもしれない”って思えってことなのね。そんなことして、何の意味があるの」
「そうすることによって、お前は初めて責任を持てるのだ。吉田くんと出かけることに対して。その“かもしれない”がなければ、実際に何かが起こった時に、お前はきっと、“何が起こったかわからない”ぞ」
「どういうこと?」
「例を出そう。たとえば吉田くんが今日のデートでお前に惚れたとする。だが、お前にその気はない。それどころか、お前は吉田くんが自分に惚れたことにさえ気づかない。“惚れるかもしれない”という発想がないからだ。だからお前は吉田くんに対してとてもひどい行動を取ってしまう。その気もないのに吉田くんとデートを繰り返したり、吉田くんの前でほかの男の話をしたり、ひどい時には恋愛相談までしてしまう。ざんこくだとは思わないか」
「そういう状況になったらさすがに気づくし、惚れた弱みってもんじゃない? それって。仕方ないことよ」
「吉田くんは深く傷つく。しかし何も知らないお前は、さっき言ったような理屈によって、責任を持てない。吉田くんはその悲しみを、憤りを、どこにぶつけたらいいかわからない。吉田くんの愛情は次第にひねくれ、ストーカーのようになったり、悪くすれば刺されるかもしれない。そうなったら、そんな他人事みたいなことは言ってられないだろう」
「だから、そんなわけないでしょ。吉田くんはそういう人じゃないわ」
「お前は吉田の何を知っているんだ? 最近知り合ったんだろう? そもそも、お前はどれだけの男を知っているというんだ? どれだけの人間を知っている? どれだけの経験がある? どれだけ頭を働かせられる?」
「それを言われると……」
「お前はまだバカだし、経験も浅い。浅知恵でテキトーなこと言ってると、いまに大失敗する。それをわかるから、こんなに口うるさくなってしまうんだ」
「うん。ありがと」
「わかったか」
「わかんない」
「ズコー」
「うそ。なんとなくわかったわよ。要するに、気をつけろってことでしょ。大丈夫。気をつけてるわよ」
「いや、そういうことでなく、その、考えろと……」
「考えてるわ」
「本当にわかってるのか」
「たぶん」
「そうか……」
「じゃ、行ってくるわね。お父さんのせいで遅刻しちゃう!」
「ああ、すまん。行ってらっしゃい」
「行ってきまーす」



「ただいま」
「誰ですあなたは」
「ミナオよ」
「そんな……声まで変わって……」

 
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